「ほら、だから早く食べなさいと言ったでしょ」
最初に思い出したのは、ことば。次に、情景。
台所にすえてあるテーブルの上の一皿のショートケーキ。そこに、黒くて小さいアリが長い列をなして群がっていた。
私より先に彼らが舌鼓を打った悲しさより、地霊殿にこんなにもたくさんのアリがひそんでいたという驚愕のほうが大きかった。
私はショートケーキに近づく。白い地面の上を一列で進む黒。うようよと蠕動している。
後ろから小さいため息のあと、からかようような声色が聞こえた。
「きっとアリたちは喜んで、泣いていることでしょう」
私は後ろを振り返った――
大通りが眼前に広がっているだけであった。地平線まで続いているのではないかと錯覚してしまうほど、長い。両脇の民家と道はまっ白い雪をかぶっていた。
そして、葬列がはるか後方から伸びている。
前をむく。黒がなお、遠い向こうまで、白い地面を一列で進んでいた。
人々はまっ黒な喪服に身を包み、しずしずと歩んでいる。聞こえるのは、さくさくという雪を踏みしめる音と、小さく洟をすする音。
目はぼんやりと虚空をながめたり下を見ていたり。口は一文字に結ばれたり、薄く開いていたり。
ただ、総じて大人たちの顔には色がなかった。雪のように、白いばかり。
十数人ほどの子供たちのかたまりがあった。しかし彼らも、夢を見ているかのようなうつろな顔であった。
この老若男女でつくられた長いながい葬列がどこに行きつくのか、想像できなかった。ただ目的地が甘いショートケーキではないのはわかった。
もしかしたら行きつく場所を探す列なのか。
私はみんなとは逆方向に歩きながら子供たちの頭を撫でていった。撫でられると、立ち止まってきょろきょろとあたりを見回した。
行き先が気になり一度ふり返ったが、私はまた歩き出した。
◆ ◆ ◆
葬列の始まりをたどっていたら、竹林にたどりついた。たくさんの竹がしなりながら天に頭をこすっている。
時間は何時だろうか。お昼はとうに過ぎているだろう。はあ、お姉ちゃんの懐中時計を持ってくればよかった。
「あなたはどうしてすぐに人のものを使うのですか」
ああん、記憶のなかででも説教をしないで。
それにしてもつまらない。列の始まりはないし、風景も変わらないし。よし、なんだか暇だから、開けた場所で雪だるまをつくろう。
と思い立つと、神様の気づかいか、少し開けた場所についた。まんなかには大きな岩。
その上には、人が片ひざを立てて座っていた。
まず目に入ったのは長い白銀の髪の毛。さらさらと頭から下に流れている。次に気になったのは、赤いもんぺ。こんなものをはいている人は地底でもめずらしい。
ひとしきり眺めたものの、彼女の目には私が写っていなかった。ずっと青空を見あげているのだ。
「――やあや、もんぺのおねえさん」
私はぼうしをさっと持ちあげてあいさつをした。
返事はない。それどころか、なおも空を見あげている。マフラーと手袋が、オレンジと黄緑のストライプであることに気がついた。
「そんなに仰いじゃってどうしたの? あんまり見つめると、青空も赤く照れて夕方になっちゃうよ」
彼女はゆっくりとこちらを向いてきた。あの葬列よりも緩慢な動き。
雪でつくられたかのように白くて、きれいな顔。触れればそこからはらはらとくずれそうなもろさ。
「……覚り妖怪、か」
「そうでありんす」
片手でぼうしを回した。しかし、おねえさんはこちらの顔をじっと見たあと、
「どこかで会ったか?」
と訊いた。私は頭を横にかしげる。
「そうだっけか。最近まったく人里に来なかったから会ってないと思うよぉ」
「いや、昔々だ」
「あれま!」
まゆを小さくななめにして見つめてきたが、すぐにあきらめたのかまた無表情にもどった。
「まあいいや」
「ごめんね」
そういえば、地上に来たのはほんとに久しぶりだ。何年ぶりだろうか。その年数をかぞえるのに両手指だけで足りるっけ。
地底はずっとずっと忙しかった。というより、私だけが。ばたばたといろんな手続きをしたり、私がひきこもったり、泣きわめいたり。
いやはや、地底のみなさん、その節はお世話になりました。
「あなたは人に迷惑をかけすぎなのです」
そんなつもりはないよ。
「もう、心配で心配で、ほんとは四六時中いっしょにいて監視したいぐらいなんです」
なんて言って、本心は私が恋しいだけでしょ。
じつは私はそうだよ。でも照れくさいじゃないか。
「――それで、なにか用か」
おねえさんが訊ねる。
「用かあ。ここで雪だるまつくりたいんだけど、いいですか」
「勝手にどうぞ」
「あ! あと質問!」
「なに?」
「あなたは泣かないの?」
「えっ」
目を丸くしてことばがつまっている様子。まったくの想定外のことばだったらしい。
「人里でたくさんの人が泣いてたよ。あなたには泣くいわれはないの?」
しばらく黙りこみ、そして口の端をつりあげて奇妙な笑い顔をつくった。
「泣けないんだよ」
「へえ!」
私は驚き入った。と同時に、もう一つあった質問は訊かないことにした。
――どうして、一輪の菊を持っているの?
会ったときから、おねえさんのとなりには菊がおいてあった。ほんとは亡くなった人への手向けかと思っていたのだが、ちがうのかと考え直し、質問はよした。
なんのためなのか訊きたい気持ちはあったが、好奇心はしぼんでしまった。
「他に質問は?」
「もういいかなあ。じゃあ私は雪だるまをつくってるね」
私はしゃがみこみ、さっそく雪玉をつくり始めた。ころころと転がして、大きくさせるのだ。
おねえさんはぼんやりと前を見ているばかりだった。
「花が好きなのです」
いいよね、花って。なにもしゃべらないし。
「しゃべらなくても、すべての生きものが、ことばを持っているのですよ」
おもしろい考えだね。人や妖怪が持っていることは理解できるよ。
「では、花にもことばがあるのは道理でしょう」
花ことばだ!
「そんなものは人間のエゴイズムです」
でもさあ、花たちは私たちに話しかけないよ。
「ふつうはね。だけどふっとしたときに語りかけてくるのです。そして私たちは、見てそのことばを理解する。
泣きじゃくって土手でしゃがみこむ人がひっそりと咲く小さな花で、笑うように。地上で、春に咲く大きな桜を前にどんちゃん騒ぎの宴をするように」
それこそエゴだ。私たちが勝手に意味を解釈しているだけじゃないか。
「いいえ。じつは、心のなかで、花がただそこにあるという現実を理解しているのです。そして、意味を理解している。生まれて死ぬだけの循環なのに、地中に深くふかく根を張る意味。はらりとあざやかな花弁で世界を眺める意味」
お姉ちゃんの感覚の話だね。
「ええそうです。でも理解してほしいから話しました」
ん? てことは手折られた花は死んだのだから、意味はないってこと? じゃあ、プロポーズのバラに意味はないってこと?
「ちがいます。簡単な道理ですよ」
なにさ?
「手折った花にことばをこめるのは、人なのです」
「――おねえさん」
雪玉はいつのまにか私のひざぐらいまで大きくなっていた。これに頭を乗っければ完成である。
「なに」
「その菊は、なんのためにあるの?」
彼女が視線を一度菊におとし、そのあと私を見た。顔にはあいかわらず色がない。
「なんでだろう」
「なにそれ」
「気がついたら持ってた。でもわからない。知らない」
ああ。そうかそうか。
この人は、死んでいるのだ。
私はいまさら理解した。彼女は、呼吸が止まっているのだ。いや、止めているのかもしれない。
こうして残りの人生をたんたんと殺すつもりなのだろうか。ここで手折られてしまっていいのだろうか。
まあ、私には関係のないことだけど。
「そっか。じゃあずっと、夜までそこに座っているといいよ」
「……今日は」
「おっ」
彼女が自分から話を切り出して驚いた。
「今日の夜は、満月だな」
でも、それだけだった。
「だからなにさ。まさか満月恐怖症?」
「かもな」
小さく笑った。今日見たなかで一番きれいな顔だった。長い銀髪もかすかに揺れた。
おねえさんがもんぺのポケットに手を入れた。
「あ、もしかして、満月を見たら狼男になるの?」
しかし、その質問を訊いた瞬間、彼女は苦しそうな顔をしてから口をつぐんでしまった。
もうことばを吐くつもりはないと言わんばかりに、下を向いてしまった。
へんてこだなあ、と私はあきれた。
そして雪だるまの頭をつくるために、新しい雪玉を転がし始めた。
頭はあっというまに完成した。私が転がし続けているあいだ、もんぺのおねえさんはほんとに一言もしゃべらなかった。
なにもしゃべらないし、なにも見ていないし、色もない。それじゃあ、なにも飾りつけしていないこの雪だるまの顔と同じじゃないか。
とりあえず、それを体に乗っけて、完成とあいなった。
「どうよ、おねえさん」
「なにが」
「雪だるま。なかなかの力作よ」
私のおへそぐらいまで高さがある。やはり雪が積もったら、彼がいてくれなきゃ情緒がないというものである。
ふうと一息つき、彼の肩にお尻を乗っけた。冷たさがお尻から首もとまで走った。
「それで、完成なのか」
「そう。さまにはなってるでしょ」
「いや、顔がないじゃないか」
「おねえさんと同じだね」
「ん?」
「あいや、これは失敬」
しかしおねえさんの言うとおり、全身ただの白というのはつまらぬものだ。彼も不平の一つも言いたいところだろう。
どうしようかと考えた結果、妙案が浮かんだ。
「そうだ!」
私は彼女を見た。「その菊をちょうだい」
「えっ」とおねえさんは困惑を顔全体に浮かべた。その意味はよくわからなかった。
「いいでしょ。あなたには使い道がないのだから。それならこの子に飾りの一つにでもして、文字どおり花を持たせてあげようよ」
なにもまちがえていることは言っていないつもりだった。
なのに相手は、一輪の菊をぎゅっとにぎりしめたまま、固まってしまった。なぜそんなにも苦しそうな顔をしているのだろうか。
「だめなの? えーいいじゃんー」
私が近づくと、いよいよにぎりしめた菊を後ろに隠してしまった。へんてこりんな挙動だ。
矛盾が多すぎる。
「こ、これは、私もわからないけど、その……」
おろおろと目をさまよわせて、ことばがつまっている。でも、なんとかしてことばをつくろうとしていた。
寒さにあてられておねえさんの鼻が赤くなっていることに気づいた。
そこで、私はたまらなくおかしくなって大きく笑った。笑いが自分のなかからわき出してきた。
なーんだ。
相手は驚いて目を白黒させていた。
「な、なんだよ」
「これは失敬。とりあえず、菊はあきらめるね」
私は自分の目もとの涙をぬぐった。
そして、自分がずいぶんと久しぶりに大笑いしたことに気づいた。
「ありがとう、おねえさん」
「なんでお礼を言われるんだ」
「まあまあ、謝辞は受け取ってよ」
ふうと息をつく。場の空気がおちついたところで、
「それで、このあとはなにをするつもりなの?」
「このあと? わかんない」
「えーじゃあ、夜までここにいて満月を見て狼男になるのを待つの? そんなのつまんないよ。あっというまに人は死ぬんでしょ?」
彼女はもんぺのポケットから手を出して、ほっぺたをかいだ。苦い顔だった。
「私は一生死なない人間だから」
だからもう――とことばを続けようとするものだから、私は口をはさんでしまった。
「なにを驕ってるの?」
「驕ってる?」
「うん。一生死なない人間なんているわけないじゃないか。ばかだなあ」
おねえさんはむっと気色ばんだ。
「じゃあ証拠を見せてやろうか」
「証拠もなにも、さっきまでおねえさんは死んでたじゃないか」
「はあっ?」
今やっとゆるやかに呼吸をし始めたところだね――私は顔を見ながら言った。
「へんてこりんなやつだなあ」
「おねえさんには言われたくないよ」
「死んでたと言ったって、私はずっとここに座っていたじゃないか」
「座ってたけど死んでた」
いよいよわかんなくなったのか、彼女は不審そうに私を見た。
「意味がわからない」
「簡単だよ。生きるっていうことは、呼吸をすることじゃないでしょ。誰にも見られなかったら、気づかれなかったら、そんなのは生じゃない」
だから私たちは――
――だから私たちは、自分のことばを持つのです。そして自分のことばを外に出すのです。
死人は自分のなかからことばが消えるのです。ゆえになにもしゃべらない、骸となりさがる。
あなたが生者なら、常にことばを生み出し続けなさい。そして誰かに主張しなさい。
私はここにいる。苦しんでいる。喜んでいる。願っている。耐え忍んでいる。誰かを、愛している。誰かと、別れている、と。
「――これは私のお姉ちゃんのことばだよ。そのときはなにを言っているのかよくわからなかった。でも、お姉ちゃんが死んだとき、心から理解したよ」
棺のなか、大好きな花に囲まれて眠っている。深いふかい眠りだとはいっとう信じられなくて、ほほに手を触れた瞬間にひょいと還ってくるような気すらした。
でも、もちろんそんなことはなくて、いくらほほを撫でてもなにも言わなかった。ほっぺたを触られるのがくすぐったくて嫌いだったくせに、文句一つ言わないんだ。
文句どころじゃない。ひさびさに私が化粧をしているのに、可愛いとも言ってくれない。さんざん呼びかけているのに、返事すらしてくれない。ぼろぼろに泣いているのに、慰めてもくれない。
そのとき、理解したよ。ああ、死ぬとはこういうことなのかって。
「ことばが、分かつんだってこと」
私が言い切ると、彼女は下を向いた。自分が持っている一輪の菊を見つめていた。
そして菊を見たまま、ふわりと立ちあがった。ゆっくりゆっくりと歩き出す。口はきっと結ばれていた。
私のとなりまで来たとき、言った。
「花、気に入ってくれるといいね」
その瞬間、おねえさんは雪の上にひざをつき、菊を胸に抱きしめた。
うわんうわんと、顔をまっ赤にして、頑是ない幼子のような泣き声を竹林に響かせていた。
風が吹く。竹が揺れる。銀色の髪が空をたゆたった。
「悲しいなあ、悲しいなあ」
涙が雪に落ちると、またたくまにその雪が溶けていった。
しばらく見とれてから、私はきびすを返して、もう顧みることなく歩き出した。
ここは葬列の始まりじゃない。ここは、行きつく先なのだ。
さくさくと雪を踏み続ける。気がつくと、彼女の泣き声が聞こえなくなっていた。
私は空をぼんやり眺めた。
さっきの涙を思い出した。
「大好きだったよ」
自分に言われたと思った青空は、西のほっぺたをかすかに赤らめていた。
決定的なさよならのことばこそ、生者の特権なのですよ、こいし。
最初に思い出したのは、ことば。次に、情景。
台所にすえてあるテーブルの上の一皿のショートケーキ。そこに、黒くて小さいアリが長い列をなして群がっていた。
私より先に彼らが舌鼓を打った悲しさより、地霊殿にこんなにもたくさんのアリがひそんでいたという驚愕のほうが大きかった。
私はショートケーキに近づく。白い地面の上を一列で進む黒。うようよと蠕動している。
後ろから小さいため息のあと、からかようような声色が聞こえた。
「きっとアリたちは喜んで、泣いていることでしょう」
私は後ろを振り返った――
大通りが眼前に広がっているだけであった。地平線まで続いているのではないかと錯覚してしまうほど、長い。両脇の民家と道はまっ白い雪をかぶっていた。
そして、葬列がはるか後方から伸びている。
前をむく。黒がなお、遠い向こうまで、白い地面を一列で進んでいた。
人々はまっ黒な喪服に身を包み、しずしずと歩んでいる。聞こえるのは、さくさくという雪を踏みしめる音と、小さく洟をすする音。
目はぼんやりと虚空をながめたり下を見ていたり。口は一文字に結ばれたり、薄く開いていたり。
ただ、総じて大人たちの顔には色がなかった。雪のように、白いばかり。
十数人ほどの子供たちのかたまりがあった。しかし彼らも、夢を見ているかのようなうつろな顔であった。
この老若男女でつくられた長いながい葬列がどこに行きつくのか、想像できなかった。ただ目的地が甘いショートケーキではないのはわかった。
もしかしたら行きつく場所を探す列なのか。
私はみんなとは逆方向に歩きながら子供たちの頭を撫でていった。撫でられると、立ち止まってきょろきょろとあたりを見回した。
行き先が気になり一度ふり返ったが、私はまた歩き出した。
◆ ◆ ◆
葬列の始まりをたどっていたら、竹林にたどりついた。たくさんの竹がしなりながら天に頭をこすっている。
時間は何時だろうか。お昼はとうに過ぎているだろう。はあ、お姉ちゃんの懐中時計を持ってくればよかった。
「あなたはどうしてすぐに人のものを使うのですか」
ああん、記憶のなかででも説教をしないで。
それにしてもつまらない。列の始まりはないし、風景も変わらないし。よし、なんだか暇だから、開けた場所で雪だるまをつくろう。
と思い立つと、神様の気づかいか、少し開けた場所についた。まんなかには大きな岩。
その上には、人が片ひざを立てて座っていた。
まず目に入ったのは長い白銀の髪の毛。さらさらと頭から下に流れている。次に気になったのは、赤いもんぺ。こんなものをはいている人は地底でもめずらしい。
ひとしきり眺めたものの、彼女の目には私が写っていなかった。ずっと青空を見あげているのだ。
「――やあや、もんぺのおねえさん」
私はぼうしをさっと持ちあげてあいさつをした。
返事はない。それどころか、なおも空を見あげている。マフラーと手袋が、オレンジと黄緑のストライプであることに気がついた。
「そんなに仰いじゃってどうしたの? あんまり見つめると、青空も赤く照れて夕方になっちゃうよ」
彼女はゆっくりとこちらを向いてきた。あの葬列よりも緩慢な動き。
雪でつくられたかのように白くて、きれいな顔。触れればそこからはらはらとくずれそうなもろさ。
「……覚り妖怪、か」
「そうでありんす」
片手でぼうしを回した。しかし、おねえさんはこちらの顔をじっと見たあと、
「どこかで会ったか?」
と訊いた。私は頭を横にかしげる。
「そうだっけか。最近まったく人里に来なかったから会ってないと思うよぉ」
「いや、昔々だ」
「あれま!」
まゆを小さくななめにして見つめてきたが、すぐにあきらめたのかまた無表情にもどった。
「まあいいや」
「ごめんね」
そういえば、地上に来たのはほんとに久しぶりだ。何年ぶりだろうか。その年数をかぞえるのに両手指だけで足りるっけ。
地底はずっとずっと忙しかった。というより、私だけが。ばたばたといろんな手続きをしたり、私がひきこもったり、泣きわめいたり。
いやはや、地底のみなさん、その節はお世話になりました。
「あなたは人に迷惑をかけすぎなのです」
そんなつもりはないよ。
「もう、心配で心配で、ほんとは四六時中いっしょにいて監視したいぐらいなんです」
なんて言って、本心は私が恋しいだけでしょ。
じつは私はそうだよ。でも照れくさいじゃないか。
「――それで、なにか用か」
おねえさんが訊ねる。
「用かあ。ここで雪だるまつくりたいんだけど、いいですか」
「勝手にどうぞ」
「あ! あと質問!」
「なに?」
「あなたは泣かないの?」
「えっ」
目を丸くしてことばがつまっている様子。まったくの想定外のことばだったらしい。
「人里でたくさんの人が泣いてたよ。あなたには泣くいわれはないの?」
しばらく黙りこみ、そして口の端をつりあげて奇妙な笑い顔をつくった。
「泣けないんだよ」
「へえ!」
私は驚き入った。と同時に、もう一つあった質問は訊かないことにした。
――どうして、一輪の菊を持っているの?
会ったときから、おねえさんのとなりには菊がおいてあった。ほんとは亡くなった人への手向けかと思っていたのだが、ちがうのかと考え直し、質問はよした。
なんのためなのか訊きたい気持ちはあったが、好奇心はしぼんでしまった。
「他に質問は?」
「もういいかなあ。じゃあ私は雪だるまをつくってるね」
私はしゃがみこみ、さっそく雪玉をつくり始めた。ころころと転がして、大きくさせるのだ。
おねえさんはぼんやりと前を見ているばかりだった。
「花が好きなのです」
いいよね、花って。なにもしゃべらないし。
「しゃべらなくても、すべての生きものが、ことばを持っているのですよ」
おもしろい考えだね。人や妖怪が持っていることは理解できるよ。
「では、花にもことばがあるのは道理でしょう」
花ことばだ!
「そんなものは人間のエゴイズムです」
でもさあ、花たちは私たちに話しかけないよ。
「ふつうはね。だけどふっとしたときに語りかけてくるのです。そして私たちは、見てそのことばを理解する。
泣きじゃくって土手でしゃがみこむ人がひっそりと咲く小さな花で、笑うように。地上で、春に咲く大きな桜を前にどんちゃん騒ぎの宴をするように」
それこそエゴだ。私たちが勝手に意味を解釈しているだけじゃないか。
「いいえ。じつは、心のなかで、花がただそこにあるという現実を理解しているのです。そして、意味を理解している。生まれて死ぬだけの循環なのに、地中に深くふかく根を張る意味。はらりとあざやかな花弁で世界を眺める意味」
お姉ちゃんの感覚の話だね。
「ええそうです。でも理解してほしいから話しました」
ん? てことは手折られた花は死んだのだから、意味はないってこと? じゃあ、プロポーズのバラに意味はないってこと?
「ちがいます。簡単な道理ですよ」
なにさ?
「手折った花にことばをこめるのは、人なのです」
「――おねえさん」
雪玉はいつのまにか私のひざぐらいまで大きくなっていた。これに頭を乗っければ完成である。
「なに」
「その菊は、なんのためにあるの?」
彼女が視線を一度菊におとし、そのあと私を見た。顔にはあいかわらず色がない。
「なんでだろう」
「なにそれ」
「気がついたら持ってた。でもわからない。知らない」
ああ。そうかそうか。
この人は、死んでいるのだ。
私はいまさら理解した。彼女は、呼吸が止まっているのだ。いや、止めているのかもしれない。
こうして残りの人生をたんたんと殺すつもりなのだろうか。ここで手折られてしまっていいのだろうか。
まあ、私には関係のないことだけど。
「そっか。じゃあずっと、夜までそこに座っているといいよ」
「……今日は」
「おっ」
彼女が自分から話を切り出して驚いた。
「今日の夜は、満月だな」
でも、それだけだった。
「だからなにさ。まさか満月恐怖症?」
「かもな」
小さく笑った。今日見たなかで一番きれいな顔だった。長い銀髪もかすかに揺れた。
おねえさんがもんぺのポケットに手を入れた。
「あ、もしかして、満月を見たら狼男になるの?」
しかし、その質問を訊いた瞬間、彼女は苦しそうな顔をしてから口をつぐんでしまった。
もうことばを吐くつもりはないと言わんばかりに、下を向いてしまった。
へんてこだなあ、と私はあきれた。
そして雪だるまの頭をつくるために、新しい雪玉を転がし始めた。
頭はあっというまに完成した。私が転がし続けているあいだ、もんぺのおねえさんはほんとに一言もしゃべらなかった。
なにもしゃべらないし、なにも見ていないし、色もない。それじゃあ、なにも飾りつけしていないこの雪だるまの顔と同じじゃないか。
とりあえず、それを体に乗っけて、完成とあいなった。
「どうよ、おねえさん」
「なにが」
「雪だるま。なかなかの力作よ」
私のおへそぐらいまで高さがある。やはり雪が積もったら、彼がいてくれなきゃ情緒がないというものである。
ふうと一息つき、彼の肩にお尻を乗っけた。冷たさがお尻から首もとまで走った。
「それで、完成なのか」
「そう。さまにはなってるでしょ」
「いや、顔がないじゃないか」
「おねえさんと同じだね」
「ん?」
「あいや、これは失敬」
しかしおねえさんの言うとおり、全身ただの白というのはつまらぬものだ。彼も不平の一つも言いたいところだろう。
どうしようかと考えた結果、妙案が浮かんだ。
「そうだ!」
私は彼女を見た。「その菊をちょうだい」
「えっ」とおねえさんは困惑を顔全体に浮かべた。その意味はよくわからなかった。
「いいでしょ。あなたには使い道がないのだから。それならこの子に飾りの一つにでもして、文字どおり花を持たせてあげようよ」
なにもまちがえていることは言っていないつもりだった。
なのに相手は、一輪の菊をぎゅっとにぎりしめたまま、固まってしまった。なぜそんなにも苦しそうな顔をしているのだろうか。
「だめなの? えーいいじゃんー」
私が近づくと、いよいよにぎりしめた菊を後ろに隠してしまった。へんてこりんな挙動だ。
矛盾が多すぎる。
「こ、これは、私もわからないけど、その……」
おろおろと目をさまよわせて、ことばがつまっている。でも、なんとかしてことばをつくろうとしていた。
寒さにあてられておねえさんの鼻が赤くなっていることに気づいた。
そこで、私はたまらなくおかしくなって大きく笑った。笑いが自分のなかからわき出してきた。
なーんだ。
相手は驚いて目を白黒させていた。
「な、なんだよ」
「これは失敬。とりあえず、菊はあきらめるね」
私は自分の目もとの涙をぬぐった。
そして、自分がずいぶんと久しぶりに大笑いしたことに気づいた。
「ありがとう、おねえさん」
「なんでお礼を言われるんだ」
「まあまあ、謝辞は受け取ってよ」
ふうと息をつく。場の空気がおちついたところで、
「それで、このあとはなにをするつもりなの?」
「このあと? わかんない」
「えーじゃあ、夜までここにいて満月を見て狼男になるのを待つの? そんなのつまんないよ。あっというまに人は死ぬんでしょ?」
彼女はもんぺのポケットから手を出して、ほっぺたをかいだ。苦い顔だった。
「私は一生死なない人間だから」
だからもう――とことばを続けようとするものだから、私は口をはさんでしまった。
「なにを驕ってるの?」
「驕ってる?」
「うん。一生死なない人間なんているわけないじゃないか。ばかだなあ」
おねえさんはむっと気色ばんだ。
「じゃあ証拠を見せてやろうか」
「証拠もなにも、さっきまでおねえさんは死んでたじゃないか」
「はあっ?」
今やっとゆるやかに呼吸をし始めたところだね――私は顔を見ながら言った。
「へんてこりんなやつだなあ」
「おねえさんには言われたくないよ」
「死んでたと言ったって、私はずっとここに座っていたじゃないか」
「座ってたけど死んでた」
いよいよわかんなくなったのか、彼女は不審そうに私を見た。
「意味がわからない」
「簡単だよ。生きるっていうことは、呼吸をすることじゃないでしょ。誰にも見られなかったら、気づかれなかったら、そんなのは生じゃない」
だから私たちは――
――だから私たちは、自分のことばを持つのです。そして自分のことばを外に出すのです。
死人は自分のなかからことばが消えるのです。ゆえになにもしゃべらない、骸となりさがる。
あなたが生者なら、常にことばを生み出し続けなさい。そして誰かに主張しなさい。
私はここにいる。苦しんでいる。喜んでいる。願っている。耐え忍んでいる。誰かを、愛している。誰かと、別れている、と。
「――これは私のお姉ちゃんのことばだよ。そのときはなにを言っているのかよくわからなかった。でも、お姉ちゃんが死んだとき、心から理解したよ」
棺のなか、大好きな花に囲まれて眠っている。深いふかい眠りだとはいっとう信じられなくて、ほほに手を触れた瞬間にひょいと還ってくるような気すらした。
でも、もちろんそんなことはなくて、いくらほほを撫でてもなにも言わなかった。ほっぺたを触られるのがくすぐったくて嫌いだったくせに、文句一つ言わないんだ。
文句どころじゃない。ひさびさに私が化粧をしているのに、可愛いとも言ってくれない。さんざん呼びかけているのに、返事すらしてくれない。ぼろぼろに泣いているのに、慰めてもくれない。
そのとき、理解したよ。ああ、死ぬとはこういうことなのかって。
「ことばが、分かつんだってこと」
私が言い切ると、彼女は下を向いた。自分が持っている一輪の菊を見つめていた。
そして菊を見たまま、ふわりと立ちあがった。ゆっくりゆっくりと歩き出す。口はきっと結ばれていた。
私のとなりまで来たとき、言った。
「花、気に入ってくれるといいね」
その瞬間、おねえさんは雪の上にひざをつき、菊を胸に抱きしめた。
うわんうわんと、顔をまっ赤にして、頑是ない幼子のような泣き声を竹林に響かせていた。
風が吹く。竹が揺れる。銀色の髪が空をたゆたった。
「悲しいなあ、悲しいなあ」
涙が雪に落ちると、またたくまにその雪が溶けていった。
しばらく見とれてから、私はきびすを返して、もう顧みることなく歩き出した。
ここは葬列の始まりじゃない。ここは、行きつく先なのだ。
さくさくと雪を踏み続ける。気がつくと、彼女の泣き声が聞こえなくなっていた。
私は空をぼんやり眺めた。
さっきの涙を思い出した。
「大好きだったよ」
自分に言われたと思った青空は、西のほっぺたをかすかに赤らめていた。
決定的なさよならのことばこそ、生者の特権なのですよ、こいし。
最初こそ、こいし目線の独特な感性の文章や台詞に読みにくさを覚えたものの、最後まで読むとその妙がよく判る。
> 死人は自分のなかからことばが消えるのです。
>あなたが生者なら、常にことばを生み出し続けなさい。そして誰かに主張しなさい。
さとりのかつての言葉がこいしの口を借りて妹紅に届くのならば、ある意味でさとりは生き続けている、のでしょうかね。