「――ふぁーふ」
古明地さとりはベッドの上でとろける様なあくびを一つして、読んでいた本をぱたりと閉じた。
地底の気温は温暖で一定ではあるが、この季節になると地上の温度に引きずられて肌寒くなってくる。
なので最近の就寝前の日課である読書は、毛布をかぶってベッドサイドの小さなランプでしていた。
そして心地よい気怠さに支配されたさとりは、そのままランプを消し、毛布にもぐって目をつむる。
自分の体温で温まっていた毛布の中は桃源郷の様にさとりを優しく包み込み、意識を無限の彼方へ誘う。
思考がふわふわと浮かび、さとりがもっとも無防備な姿へと変貌していく。
眠い、という感情さえ闇に溶け合い、さとりはついに眠りに就く。
ぷ~~~~~ん
眠りに就くはずだったが、耳元の不快な音に一瞬で意識が覚醒した。
さとりは暗闇の中で目を開ける。
半分朦朧としていた所の急な目覚めに、さとりはぼーっと考える。
蚊が飛んでいる。
先ほどの極小なプロペラ機が耳元で離陸した様な音は、間違いなく蚊の羽音だった。
10人に聞いたら10人とも不快だと表現するであろう音に、さとりは起こされてしまったのだ。
しかし、今は何も音はしない。
静かに横向きのまま耳を澄ましてみても、何も音はしない。
気のせいか、どこかに飛び去ってしまったのだろう。
そううつらうつらと判断して、さとりは目を閉じる。
ああ、ここは暖かで暗くて静かだ。さとりは再び眠りの世界へ出発する。
ぷ~~~~~ん
気のせいではなかった。耳元を通過した。
さとりは目を開けて、眉間に皺を寄せる。
眠るペースを乱され、さとりは若干不ムスっとする。
しょうがない。さとりは寝返りをして、右手を毛布から出す。そして、しばし耳元に神経を持って行く。
すると、その時がやって来た。
ぷ~~~~~ん
ぱしん! とさとりは頃合いを見計らって、自分の横っ面を引っ叩いた。
相変わらず耳元にやって来た命知らずの蚊を、少々の自傷行為と引き換えに仕留めにかかったのだ。
手ごたえは分からないが、果たして羽音は止んだ。
しばらく警戒するも、羽音は聞こえない。
さとりはほっと一息ついて、右手を引っ込め眠る姿勢に戻る。
これで何の憂いもなく眠ることができる。さとりはゆっくりと脱力した。
ぷ~~~~~ん
さとりは普段のおっとりした挙動からは想像もつかない様な俊敏さで、再び自分の耳元をばしんと叩いた。
若干耳に空気が入って、うっと鼻をつまんで耳抜きをする。
そしてこう思う。
ちゃんと殺れたかしら?
ぷ~~~~~ん
OK、殺ってない。
さとりは久方ぶりにイライラする、という感情を思い出していた。
そういえば秋口の蚊はしつこいと何かで聞いたことがある。実に忌々しい。
そしてこのしつこい虫を何とかしないと、今夜は眠れないぞとさとりは確信した。
ついにさとりは起き出して、蚊と戦う決断をした。
ふぅ、とため息を吐いて上体を起こす。
手探りでマッチを探し当てると、一本擦って火をつけた。
マッチ一本とはいえ予想外の明るさに、暗闇に慣れた目を細めた。
ランプを再点灯させると、寝間着の上にガウンを羽織ってベッドから降りる。
蚊一匹に布団から追い出されてさとりは不機嫌だったが、このモヤモヤはまだ見ぬ相手を始末して晴らすことにする。
とりあえず寝室内で唯一の物入れであるタンスに近づき、引き出しの中をごそごそ漁る。
たしか、蚊取り線香が余っていたはず。
薄暗がりの中、爪切りやら切手やらをどかしながら目当てのものを探る。
その時、再び耳元で微かなモスキート音。
さとりは顔面をかなぐり捨てる様な動作で、音源を払いのける。
しかし、これまた手ごたえは無い。それが不気味で、怒りさえ覚える。
早く、蚊取り線香を見つけないと。
その思いが通じたのか、さとりは渦巻型の蚊取り線香をつかみ出した。
ベッドサイドの机に蚊取り線香をセットし、マッチで火をつけた。
線香の端部がオレンジ色に輝き、一筋の紫煙がランプに照らされ壁に影を描く。
そして遅れて蚊取り線香独特の臭いと煙たさを感じる。
完璧だ。さとりは満足げに頷く。
再びベッドに戻り、明りを消して毛布を被る。
視界の端っこにぼうと小さな火が燃えているのを見て、さとりは頼もしく思った。
そしてゆっくりと目を閉じ、気を落ち着ける。
静かな夜だ。
旧都の喧騒もこの寝室までは届かない。ペット達もぐっすり眠っている頃だし、妹のこいしも最近は気まぐれにベッドに潜り込むことが無い。
誰もさとりの睡眠を邪魔しない。今夜も……
ぷ~~~~~ん
こいつ以外は邪魔をしない。
さとりは耳を塞ぐ。落ち着け、これは最後のあがきだ。いずれ大人しくなる。それまで我慢だ。
そう信じて耳を塞ぎ続ける。
どれくらいそうしていただろうか。
音が全く聞こえないので、眠気がぶり返してきた。
そして耳を塞ぐ両手を支えきれなくなり、徐々に耳から手が離れる。
こんどこそ幸せな眠りに
ぷ~~~~~ん
「なんなのよもう!」
さとりは乱暴に起き上がりながら、知り合いが見れば目を丸くするような大声を出す。
ランプを点け、蚊取り線香を睨む。
だが煙はきちんと発生し続けている。つまり、蚊取り線香のせいではない。
まれに蚊取り線香が効きにくい蚊いるのだ。
つまりこの耳元の憎いあんちくしょうめは、そういう耐性を持った個体なのだろう。
ならば手段を変えるしかない。
さとりはとうとう部屋の明かりを点けた。昼間の様に明るい室内で、さとりは寝間着にスリッパ履きで戦闘態勢フェーズ2に移る。
タンスの大きな引き出しから取り出したのは、団扇の様な金属メッシュが鈍い光沢を放つハエ叩き。
ただし、その手元の柄にはスイッチがある。実は、このスイッチを押すとメッシュ部に電気が流れるのだ。
電圧は大したことないが、蚊やハエは当たっただけでコロリの凶悪な代物だ。
さとりはその得物を部屋の真ん中で、バッターの様に両手で構える。
そしてじろじろと周囲を凝視する。
蚊は小さいとはいえ、目の前を通過すれば発見できる。それにさっきから聞こえてくるあの音。
それらを索敵の情報として用いれば、敵の排除は可能だ。
静かに集中する。
ゆっくり部屋を見回し、ハエ叩きを構えるその様は、荒野で敵に囲まれた武士の様だった。
しばらく沈黙の均衡が続いたが、ついに敵に動きがあった。
ぷ~~~ん
「ツっ!」
右耳からやや短いモスキート音。さとりは乱暴に右を振り向いた。
素早く目を皿の様にしてその方向を注視する。
そして、悠々と空を斬る黒い点。見つけた。
「えいっ!」
気合の掛け声と共に、さとりの一閃が振り抜かれる。
サイドスローが如く蚊の正面を捕えたハエ叩きのメッシュ部から、パンという小さく短い破裂音が聞こえた。
殺った! さとりは勝利を確信した。
さとりはすぐハエ叩きを確認する。
だが、メッシュ部には、焼け焦げた蚊の死骸は付着していなかった。
小首をかしげて不思議がるも、ちゃんと音はしたし、もしかしたら床に落ちたか木っ端微塵になったのかもしれない。
さとりはそう結論して、一息つくと元の引き出しにハエ叩きを仕舞い始めた。
ハエ叩きを持った両手を前に出したその時、左手の親指の根元に蚊がとまっていることに気付いた。
「え?」
さとりは思考が追いつかなかった。そんな、どうして奴がここに。
だが現実は非情だった。
蚊は、自らの針をさとりの白い柔肌にぷつりと突き刺し、血を多分うまそうに啜っていた。
瞬間、さとりは右手を振り上げ、左手を殴打した。
だが、左右の手のどこにも蚊はいない。逃がしたのだ。
多分さっきのハエ叩きは違う虫かゴミを叩いたのだろう。
そして蚊はそれをおとりに、安心しているさとりの体に近づき、血を吸った。
あまつさえ血を吸ってそのまま逃亡。散々人とハエ叩きを振り回しておいて、ヤリ逃げしたのだ。
さとりの親指の根元が腫れ始めてきた。さとりは元来蚊のアレルギー反応が出やすく、可哀想なくらい赤くぷっくりと腫れあがる。
そんな様を見せつけられ、かゆみを知覚し始めた頃、さとりは低く呻く。
「……アッタマきた」
さとりは激怒した。かの傍若無人な蚊を除かねばならぬと決意した。
再びさとりは例のハエ叩きを引っつかんだ。
それをまた構えるのかと思えば、なぜかだらりと腕をおろし、両目をスッと閉じる。
すると、さとりの胸元のサードアイが見開かれる。
普段は半開きのサードアイが、血走る血管さえ見えそうな勢いで全開となった。
さとりのサードアイは言うまでも無く、他者の心を読むための胆だ。
そのサードアイには、実は応用的な使い方がある。
他者の心を読むことは、その場所に心を持った何かが居る、と認識できることと同義だ。
例えば人間が背後から声をかけられた時に、大まかだが声のした方向に振り返れる様に、さとりは黙って近づく相手に振り返ることができる。
戸口の影に声を殺して潜む悪漢だって察知できるし、目の前の蠢く群衆が何人いるかも大体分かる。
そして、さとりは本気を出してその能力を駆使し始めた。
知覚が鋭敏になるため集中力を要し、知覚範囲は部屋の中が精いっぱい。
しかしそのエリア内なら、飛行する蚊の様な小さな生き物をピンポイントで、まるでレーダーの様に特定し追跡できる。
そんな弾幕勝負でも使ったことが無いさとりのサードアイレーダーが、全力で蚊を索敵する。
そして、ついに蚊を捕えた。
部屋の隅の方で、血を吸った影響かやや低速でフラフラと飛んでいる。
蚊の位置、移動速度、予想進路、全てが手のひらを返す様に分かった。
勝負は一瞬だった。
さとりは部屋を肉食動物の様に疾走し、虫を殺す様な目で蚊に肉薄した。
そして予想進路の目前に、見越し叩きをお見舞いする。
蚊はその攻撃をかわすことができず、ついにハエ叩きが直撃した。
刹那、小さな心がひとつ消えた。
さとりは油断せず、なおも索敵に努める。しかし、レーダーには何もかからない。
勝った。勝ったのだ。
ついに仕留めた。さとりはサードアイをいつもの半開き状態に戻す。
すこし体力を消費し肩で息を整えていたさとりは、ベッドの上に蚊の亡骸を発見した。
慌てずさとりはちり紙を一枚被せると、そっとくるんでゴミ箱に入れた。
名実ともに完全勝利だ。これで枕を高くして眠ることができる。
さとりはそう確信すると、だんだん嬉しさがこみ上げてきた。ぞくぞくと気分が高揚してきた。
そんな時は全身で喜びを表現するしかない。
まずは3段ガッツポーズ。次に小躍りしながら小ジャンプ。
体を丸めて部屋中をゴロゴロし、最後に見得を切る。
部屋の真ん中に立ち上がり、体の向きを反転した勢いでがに股になった片足をしたーんと踏みしめ、片手を突きだす。
口はへの字で眉が釣り上がり、首をぐらぐらさせてから一言。
「あぁ、いよぉ~お!」
この時初めて、寝室のドアから覗くお燐やお空と目が合った。
固まるさとりとペット二匹。
同時にさとりは心を読んで状況を把握する。
夜中に主の寝室からどたばたと争う様な音が聞こえたため、お燐とお空は心配になって駆け付けた。
ノックをしても返事が無いのでたまらずドアを開けた所、主がガッツポーズしている辺りからの一部始終を目撃した様だった。
あの超感覚は部屋の中しか分からないから、ドアの外の気配に気づかなかったなー、何て反省も一瞬で通り過ぎた。
お空が「さとり様……どうしちゃったの?」と涙目で問うのを、お燐が「……そっとしておいてあげよう」などと慰め、さとりに気まずそうに一礼して帰って行った。
ややあって、さとりは見得のポーズを止め、ベッドに戻った。
明りを消して、なるべく先程の事象を考えない様に早く眠りに就こうと目を閉じた。
あぁ、いよぉ~お!
今度は自分の声が耳元に残響し、さとりはひどく赤面した。
「んああぁぁぁ~」などと意味不明なうめき声をあげて、ベッドの上でのた打ち回る。
蚊は始末したが、安眠するという最終目的を達成することはついぞ叶わなかった。
そして今なお変わらず燃える蚊取り線香の名残香と共に、秋の夜長はゆっくり更けていくのだった。
【終】
古明地さとりはベッドの上でとろける様なあくびを一つして、読んでいた本をぱたりと閉じた。
地底の気温は温暖で一定ではあるが、この季節になると地上の温度に引きずられて肌寒くなってくる。
なので最近の就寝前の日課である読書は、毛布をかぶってベッドサイドの小さなランプでしていた。
そして心地よい気怠さに支配されたさとりは、そのままランプを消し、毛布にもぐって目をつむる。
自分の体温で温まっていた毛布の中は桃源郷の様にさとりを優しく包み込み、意識を無限の彼方へ誘う。
思考がふわふわと浮かび、さとりがもっとも無防備な姿へと変貌していく。
眠い、という感情さえ闇に溶け合い、さとりはついに眠りに就く。
ぷ~~~~~ん
眠りに就くはずだったが、耳元の不快な音に一瞬で意識が覚醒した。
さとりは暗闇の中で目を開ける。
半分朦朧としていた所の急な目覚めに、さとりはぼーっと考える。
蚊が飛んでいる。
先ほどの極小なプロペラ機が耳元で離陸した様な音は、間違いなく蚊の羽音だった。
10人に聞いたら10人とも不快だと表現するであろう音に、さとりは起こされてしまったのだ。
しかし、今は何も音はしない。
静かに横向きのまま耳を澄ましてみても、何も音はしない。
気のせいか、どこかに飛び去ってしまったのだろう。
そううつらうつらと判断して、さとりは目を閉じる。
ああ、ここは暖かで暗くて静かだ。さとりは再び眠りの世界へ出発する。
ぷ~~~~~ん
気のせいではなかった。耳元を通過した。
さとりは目を開けて、眉間に皺を寄せる。
眠るペースを乱され、さとりは若干不ムスっとする。
しょうがない。さとりは寝返りをして、右手を毛布から出す。そして、しばし耳元に神経を持って行く。
すると、その時がやって来た。
ぷ~~~~~ん
ぱしん! とさとりは頃合いを見計らって、自分の横っ面を引っ叩いた。
相変わらず耳元にやって来た命知らずの蚊を、少々の自傷行為と引き換えに仕留めにかかったのだ。
手ごたえは分からないが、果たして羽音は止んだ。
しばらく警戒するも、羽音は聞こえない。
さとりはほっと一息ついて、右手を引っ込め眠る姿勢に戻る。
これで何の憂いもなく眠ることができる。さとりはゆっくりと脱力した。
ぷ~~~~~ん
さとりは普段のおっとりした挙動からは想像もつかない様な俊敏さで、再び自分の耳元をばしんと叩いた。
若干耳に空気が入って、うっと鼻をつまんで耳抜きをする。
そしてこう思う。
ちゃんと殺れたかしら?
ぷ~~~~~ん
OK、殺ってない。
さとりは久方ぶりにイライラする、という感情を思い出していた。
そういえば秋口の蚊はしつこいと何かで聞いたことがある。実に忌々しい。
そしてこのしつこい虫を何とかしないと、今夜は眠れないぞとさとりは確信した。
ついにさとりは起き出して、蚊と戦う決断をした。
ふぅ、とため息を吐いて上体を起こす。
手探りでマッチを探し当てると、一本擦って火をつけた。
マッチ一本とはいえ予想外の明るさに、暗闇に慣れた目を細めた。
ランプを再点灯させると、寝間着の上にガウンを羽織ってベッドから降りる。
蚊一匹に布団から追い出されてさとりは不機嫌だったが、このモヤモヤはまだ見ぬ相手を始末して晴らすことにする。
とりあえず寝室内で唯一の物入れであるタンスに近づき、引き出しの中をごそごそ漁る。
たしか、蚊取り線香が余っていたはず。
薄暗がりの中、爪切りやら切手やらをどかしながら目当てのものを探る。
その時、再び耳元で微かなモスキート音。
さとりは顔面をかなぐり捨てる様な動作で、音源を払いのける。
しかし、これまた手ごたえは無い。それが不気味で、怒りさえ覚える。
早く、蚊取り線香を見つけないと。
その思いが通じたのか、さとりは渦巻型の蚊取り線香をつかみ出した。
ベッドサイドの机に蚊取り線香をセットし、マッチで火をつけた。
線香の端部がオレンジ色に輝き、一筋の紫煙がランプに照らされ壁に影を描く。
そして遅れて蚊取り線香独特の臭いと煙たさを感じる。
完璧だ。さとりは満足げに頷く。
再びベッドに戻り、明りを消して毛布を被る。
視界の端っこにぼうと小さな火が燃えているのを見て、さとりは頼もしく思った。
そしてゆっくりと目を閉じ、気を落ち着ける。
静かな夜だ。
旧都の喧騒もこの寝室までは届かない。ペット達もぐっすり眠っている頃だし、妹のこいしも最近は気まぐれにベッドに潜り込むことが無い。
誰もさとりの睡眠を邪魔しない。今夜も……
ぷ~~~~~ん
こいつ以外は邪魔をしない。
さとりは耳を塞ぐ。落ち着け、これは最後のあがきだ。いずれ大人しくなる。それまで我慢だ。
そう信じて耳を塞ぎ続ける。
どれくらいそうしていただろうか。
音が全く聞こえないので、眠気がぶり返してきた。
そして耳を塞ぐ両手を支えきれなくなり、徐々に耳から手が離れる。
こんどこそ幸せな眠りに
ぷ~~~~~ん
「なんなのよもう!」
さとりは乱暴に起き上がりながら、知り合いが見れば目を丸くするような大声を出す。
ランプを点け、蚊取り線香を睨む。
だが煙はきちんと発生し続けている。つまり、蚊取り線香のせいではない。
まれに蚊取り線香が効きにくい蚊いるのだ。
つまりこの耳元の憎いあんちくしょうめは、そういう耐性を持った個体なのだろう。
ならば手段を変えるしかない。
さとりはとうとう部屋の明かりを点けた。昼間の様に明るい室内で、さとりは寝間着にスリッパ履きで戦闘態勢フェーズ2に移る。
タンスの大きな引き出しから取り出したのは、団扇の様な金属メッシュが鈍い光沢を放つハエ叩き。
ただし、その手元の柄にはスイッチがある。実は、このスイッチを押すとメッシュ部に電気が流れるのだ。
電圧は大したことないが、蚊やハエは当たっただけでコロリの凶悪な代物だ。
さとりはその得物を部屋の真ん中で、バッターの様に両手で構える。
そしてじろじろと周囲を凝視する。
蚊は小さいとはいえ、目の前を通過すれば発見できる。それにさっきから聞こえてくるあの音。
それらを索敵の情報として用いれば、敵の排除は可能だ。
静かに集中する。
ゆっくり部屋を見回し、ハエ叩きを構えるその様は、荒野で敵に囲まれた武士の様だった。
しばらく沈黙の均衡が続いたが、ついに敵に動きがあった。
ぷ~~~ん
「ツっ!」
右耳からやや短いモスキート音。さとりは乱暴に右を振り向いた。
素早く目を皿の様にしてその方向を注視する。
そして、悠々と空を斬る黒い点。見つけた。
「えいっ!」
気合の掛け声と共に、さとりの一閃が振り抜かれる。
サイドスローが如く蚊の正面を捕えたハエ叩きのメッシュ部から、パンという小さく短い破裂音が聞こえた。
殺った! さとりは勝利を確信した。
さとりはすぐハエ叩きを確認する。
だが、メッシュ部には、焼け焦げた蚊の死骸は付着していなかった。
小首をかしげて不思議がるも、ちゃんと音はしたし、もしかしたら床に落ちたか木っ端微塵になったのかもしれない。
さとりはそう結論して、一息つくと元の引き出しにハエ叩きを仕舞い始めた。
ハエ叩きを持った両手を前に出したその時、左手の親指の根元に蚊がとまっていることに気付いた。
「え?」
さとりは思考が追いつかなかった。そんな、どうして奴がここに。
だが現実は非情だった。
蚊は、自らの針をさとりの白い柔肌にぷつりと突き刺し、血を多分うまそうに啜っていた。
瞬間、さとりは右手を振り上げ、左手を殴打した。
だが、左右の手のどこにも蚊はいない。逃がしたのだ。
多分さっきのハエ叩きは違う虫かゴミを叩いたのだろう。
そして蚊はそれをおとりに、安心しているさとりの体に近づき、血を吸った。
あまつさえ血を吸ってそのまま逃亡。散々人とハエ叩きを振り回しておいて、ヤリ逃げしたのだ。
さとりの親指の根元が腫れ始めてきた。さとりは元来蚊のアレルギー反応が出やすく、可哀想なくらい赤くぷっくりと腫れあがる。
そんな様を見せつけられ、かゆみを知覚し始めた頃、さとりは低く呻く。
「……アッタマきた」
さとりは激怒した。かの傍若無人な蚊を除かねばならぬと決意した。
再びさとりは例のハエ叩きを引っつかんだ。
それをまた構えるのかと思えば、なぜかだらりと腕をおろし、両目をスッと閉じる。
すると、さとりの胸元のサードアイが見開かれる。
普段は半開きのサードアイが、血走る血管さえ見えそうな勢いで全開となった。
さとりのサードアイは言うまでも無く、他者の心を読むための胆だ。
そのサードアイには、実は応用的な使い方がある。
他者の心を読むことは、その場所に心を持った何かが居る、と認識できることと同義だ。
例えば人間が背後から声をかけられた時に、大まかだが声のした方向に振り返れる様に、さとりは黙って近づく相手に振り返ることができる。
戸口の影に声を殺して潜む悪漢だって察知できるし、目の前の蠢く群衆が何人いるかも大体分かる。
そして、さとりは本気を出してその能力を駆使し始めた。
知覚が鋭敏になるため集中力を要し、知覚範囲は部屋の中が精いっぱい。
しかしそのエリア内なら、飛行する蚊の様な小さな生き物をピンポイントで、まるでレーダーの様に特定し追跡できる。
そんな弾幕勝負でも使ったことが無いさとりのサードアイレーダーが、全力で蚊を索敵する。
そして、ついに蚊を捕えた。
部屋の隅の方で、血を吸った影響かやや低速でフラフラと飛んでいる。
蚊の位置、移動速度、予想進路、全てが手のひらを返す様に分かった。
勝負は一瞬だった。
さとりは部屋を肉食動物の様に疾走し、虫を殺す様な目で蚊に肉薄した。
そして予想進路の目前に、見越し叩きをお見舞いする。
蚊はその攻撃をかわすことができず、ついにハエ叩きが直撃した。
刹那、小さな心がひとつ消えた。
さとりは油断せず、なおも索敵に努める。しかし、レーダーには何もかからない。
勝った。勝ったのだ。
ついに仕留めた。さとりはサードアイをいつもの半開き状態に戻す。
すこし体力を消費し肩で息を整えていたさとりは、ベッドの上に蚊の亡骸を発見した。
慌てずさとりはちり紙を一枚被せると、そっとくるんでゴミ箱に入れた。
名実ともに完全勝利だ。これで枕を高くして眠ることができる。
さとりはそう確信すると、だんだん嬉しさがこみ上げてきた。ぞくぞくと気分が高揚してきた。
そんな時は全身で喜びを表現するしかない。
まずは3段ガッツポーズ。次に小躍りしながら小ジャンプ。
体を丸めて部屋中をゴロゴロし、最後に見得を切る。
部屋の真ん中に立ち上がり、体の向きを反転した勢いでがに股になった片足をしたーんと踏みしめ、片手を突きだす。
口はへの字で眉が釣り上がり、首をぐらぐらさせてから一言。
「あぁ、いよぉ~お!」
この時初めて、寝室のドアから覗くお燐やお空と目が合った。
固まるさとりとペット二匹。
同時にさとりは心を読んで状況を把握する。
夜中に主の寝室からどたばたと争う様な音が聞こえたため、お燐とお空は心配になって駆け付けた。
ノックをしても返事が無いのでたまらずドアを開けた所、主がガッツポーズしている辺りからの一部始終を目撃した様だった。
あの超感覚は部屋の中しか分からないから、ドアの外の気配に気づかなかったなー、何て反省も一瞬で通り過ぎた。
お空が「さとり様……どうしちゃったの?」と涙目で問うのを、お燐が「……そっとしておいてあげよう」などと慰め、さとりに気まずそうに一礼して帰って行った。
ややあって、さとりは見得のポーズを止め、ベッドに戻った。
明りを消して、なるべく先程の事象を考えない様に早く眠りに就こうと目を閉じた。
あぁ、いよぉ~お!
今度は自分の声が耳元に残響し、さとりはひどく赤面した。
「んああぁぁぁ~」などと意味不明なうめき声をあげて、ベッドの上でのた打ち回る。
蚊は始末したが、安眠するという最終目的を達成することはついぞ叶わなかった。
そして今なお変わらず燃える蚊取り線香の名残香と共に、秋の夜長はゆっくり更けていくのだった。
【終】
でもさとり様の血を吸いたいですねえ 蚊が羨ましいです
なんで奴らは顔の周りを飛びたがるのか、なぜ人間を不快にさせるような羽音を出す方向で進化してしまったのか。
しかも、奴ら電気つけるとどっかいなくなるんですよね……。
ご感想ありがとうございます。
一人だと止める人が居ないので、こうなります。
そしてさとり様の血の件については、まったく同意であります。
奇声を発する程度の能力様
いつもありがとうございます。
7番様
概ねこころさんをベースに、ちょっと調査兵団の分隊長さんも入っています(笑)
8番様
お嬢様には申し訳ない。しかし、このネタはどーしても書きたかった!
ペンギン様
チスイコウモリの方が眷属に近いし、昆虫よりかマシですかね……
とーなす様
まさに蚊のイライラが全て凝縮されたコメント、誠にありがとうございます。
さらに仕留めたら、たまに死骸から血がタラッと垂れてちょっとブルーになるという罠。強敵です(汗)
実は蚊帳ってすごい効果的で、マラリアの蔓延をも防ぐと聞いてビックリ。がま口でした。
…歴史は変わっていたであろうなぁ…
その歴史軸ではきっと、蚊が神の如く崇められているに違いありません。……何と言うか、業の深い世界だ(笑)