「うう…寒い…」
身を切るような寒さの中、八雲藍は足早に歩いていた。
「…前に来た時にもっと買いこんでおけばよかったのに」
幾ら頭が良くとも未来の自分の事は分からない。それが分かっていても、過去の自分にぼやきたくなるのだ。
空を見ると、重い灰色の雲が太陽を遮っており、その下を細く鋭い風が吹いている。今にも雪が降りそうな天気だった。
食材が切れたから、買い物に里に出て行く。いつもならばその一言で済ませられるのだが、こうも寒いと外に出る事すら難しく思える。
「今度襟巻きか何か作るか…」
九尾の狐はそんな事を考えながら、人里へ急いだ。
食材が足りない、とは言えども丸っきり足りない訳ではない。
ならば、何故彼女が買い出しに出ているかと言えば、彼女の主人の為である。主人、八雲紫は冬眠するのだ。理由はよく分からない。
ただ、冬眠する前には普段よりもよく食べる。食べるのが大変に見える程に食べるのだ。藍はその理由を聞いた事もあったが、
「お腹が空いたら眼が覚めるでしょう」
とだけ言われた事を記憶している。
まあ、一冬の食事分という訳でもなし。いつもの四倍か五倍程の量で済むし。
そうして、大量に食料を買いこんで、料理を作る。
これが、藍の一年の最後の大仕事である。
そうこうして、藍は里に着いた。里では誰も彼も足早に歩いていく。寒々しい空気から逃げるような速さだ。もっとも、そんな事をしても寒いものは変わらない。
「…」
ふう、と吐いた息が白く流れる。外の空気と混ざり合って消えた。
どの店の者もいつものような活気が無く、あっという間に買い物が終わった。
買い物を終えて帰ってくると、丁度雪が降り始める頃だった。
「運が良かったな」
藍は降り始めた雪を少し見て、ぴしゃりと引き戸を閉めた。
家の中は薄暗く、ひっそりと静まり返っている。熱も無く、時間が止まったかのような感覚を覚えた。
「さて、夕飯の準備だな」
藍は、冷たさを紛らわせるように少し大きな声で言った。
紫の冬眠が近付くと、藍は鍋をよく作るようになる。量の調節が楽で、寒い時期に温まる物がいいのだ。
「…」
いつもより口数も少なく、淡々と用意を進める藍。
ただでさえ明るくない台所は、どんよりとした雲のおかげでいつにも増して暗く、雪のおかげで殆ど何の音もしない。
薄ら寒い思いをしながら、藍は小さなお椀に少しだけ完成した鍋をよそって味見をした。
「…うむ」
藍は満足げに頷き、鍋の蓋を閉じた。
夕餉まではまだ時間がある。藍は居間に行き、炬燵に潜り込んだ。
「ふー…」
炬燵に入るや否や、藍はふにゃりと溶けたように背中を丸めた。
「この時だけは冬でもよかったと思えるな…」
顎を机に乗せ、もぞもぞとなるべく目一杯炬燵に潜り込む。
そうしてまた、幸せそうな顔で息を吐く。その度に九本の尻尾から力が抜け、自身の背中に覆い被さるように広がった。
外では、雪がふらふらと漂うように降ってきており、それを見ていると時間の流れが遅くなったように思える。少しずつ、気付かない程度に、しかし確実に雪が積もっていく。
ぬくぬくしながらぼんやりと雪が降るのを見て、藍は次第に眠気を覚えてきた。ぽわぽわとした、ふわふわした幸福感が頭の中に広がる。まだ夕飯までは時間がある。
藍は睡魔に誘われ、ふっと目を閉じた。
藍が次に目を覚ましたのは、玄関の戸のガラスがかたかたと音を立てた時である。
「んむ…」
ぱちりと目を開き、のそのそと玄関に向かう。
「お帰り、橙」
藍はそう言って、三和土で震えている自身の式、橙にタオルを手渡した。
「ただいま帰りました…。ありがとうございます」
傘を持って出なかった橙は、頭のてっぺんから雪まみれだ。
「外ではたいておいで」
「…はい」
寒い所にまた出なければいけない、という事に橙は顔をしかめた。
「うー…寒い寒い…」
雪を払い、びしょびしょの服を着替えてきた橙は、のそのそと炬燵の中に入った。
うつ伏せになり、首から下を全部炬燵の中に入れてしまうと、橙はふにゃっと顔を崩した。
「はぁ…しあわせ〜…」
猫は炬燵で丸くなる、とはよく言ったものである。橙の小さい体は、炬燵の中にぴったりと収まっている。藍には、それが少しだけ羨ましく思えた。
陽が完全に落ちてしまった後、不意に、襖がすっと軽い音を立てて開いた。
「おはようございます、紫様」
「…ん、おはよう」
藍の主、八雲紫がいかにも眠そうな顔をして現れた。昼寝が長くなってきているのは、冬眠の前にはよくある事だ。
「今日のごはんは…?」
あくび交じりに、紫が聞く。
「ただいまお持ちします。ほら、橙も起きなさい」
藍は名残惜しみつつ、炬燵から這い出た。
「今夜は鍋です」
藍は鍋敷きの上に土鍋を置き、蓋をぱかりと開いた。同時にふわっと湯気が上り、美味しそうな匂いが広がった。
「…美味しそうね」
穏やかな微笑を湛えた紫が言う。
ぱちん、と手を打ってから三人は食べ始めた。
「うん、美味しいわ」
もくもくと食べ続けながら、紫は言う。
「ありがとうございます」
藍と橙が食べ終えてから、既に二十分程経っている。余りにも沢山紫が食べているのを見てそれだけでお腹がいっぱいになってしまったというのを差し引いても、異常と呼べる程に食べている。
結局、紫が箸を置いたのは六人分程の鍋の中身を八割方食べてからである。
「ご馳走様。私はもう寝るわ」
眠気にふらつきながら、紫は立ち上がった。
「また来年の春に起こしなさい」
藍はその言葉を聞く度に、一抹の寂しさを感じる。妖怪にとって、季節が変わるまでの三ヶ月はほんの少しの間である。それでも、誰も動いた形跡の無い所で過ごす三ヶ月には、いつまで経っても慣れないのだ。
まるで捨てられてしまったように思うからだろうか。
「…かしこまりました。お休みなさいませ、紫様」
「お休みなさいませ」
藍は寂しさを滲ませながら、つっと頭を下げた。
「うん、おやすみ」
紫はゆっくりと姿を消した。木枯らしが吹き、かたかたと窓を揺らした。
「…片付けるか。橙、手伝ってくれ」
「はい!」
居間に残された藍と橙は、二人で手分けして鍋と食器を下げた。それが終わると、お茶の入った急須と湯飲みを持って、また炬燵に入る。
少し待ち、お茶を注ぐ。緑の、青い香りが広がった。その香りは、待ち遠しい春のように感じられた。
「橙。今日は一緒に寝ようか」
藍は湯飲みを片手に言った。
「いいですよ」
橙は熱いお茶に出しかけた舌を引っ込めながら頷いた。
湯浴みを済ませ、寝室へ入る二人。
藍は布団に入ると、柔らかに橙を抱きしめた。
これも毎年のことだ。橙は知らないが、藍が自らの寂しさを紛らわす為にこうしているのだ。
「おやすみ、橙」
「おやすみなさい、藍様」
そのまま眠る。冬の間、紫が起きるまでは毎晩こうする。
腕の中で穏やかな寝息を立て始めた橙を眺めながら、藍はぼんやりと春の陽射しを思い起こしていた。
そして、早く春が来ますように、と願って眠る。藍の腕の中の温もりが、それを約束してくれている気がした。
普段は妖怪の山で普通に野良妖怪やってるだけですから(東方求聞口授62ページ)。
>>1 二次創作に厳密な原作設定を求める必要はないでしょう
でも、作品の見所みたいなところが感じられず、普通に始まって普通に終わったような印象で、ちょっと味気なくも感じました。
5コメさん ありがとうございます。ほのぼのがテーマなので、そう言って頂けると幸いです。
6コメさん ありがとうございます。確かに特別盛り上がる事は無いですねえ。ただ、何でもないような日常を書こうと思っていたので、あまり派手な事件は起こしたくなかったのです。すみません。
7コメさん ありがとうございます。耳が痛いです。もっと魅力的に見えるような日常風景を書けるように努力します。
皆様、読んでくださってありがとうございました。
紫が冬眠してしまう寂しさと冬の冷たさの空気が良いと言うか
暖かい服来て街中歩いてても、皆寒いから縮こまって歩くんで、寂しい風景に見えるみたいな
13コメさん ありがとうございます。妖怪にも普通の人間みたいな一面があるんじゃないか、と思って書きました。
読んでくださり、ありがとうございます。
17コメさん ありがとうございます。雰囲気を感じとれるように頑張って書いたので、そう言ってもらえると書いた甲斐があります。
読んでくださり、ありがとうございます!
この静かな文章が内容と相まって良かったです。