上章 玉藻前
季節は秋。
葉々は黄や赤へと衣がえをし、食読遊を人々は楽しみ人里は活気にあふれる。
黄金色に染まる出来秋の畑に通りゆく者は笑みうかべ、秋の神様は心はずませる。
ーありとあらゆる生類も魑魅魍魎も神も人も愛するこの秋というものは実に不思議だ。
豊作ということもありにぎわいをみせる幻想郷の里。そこを二人の少女が歩いていた。
「むぅ、なんかここんとこやたら人間に感謝されている気がするな……私をお稲荷様とでも勘違いしているのかしら。」
ため息をつきながら肩をすくめる少女。藍色の着物を身にまとい、きつね色の髪に金色の瞳をもつ彼女はスキマ妖怪の式でいてまた、九尾の狐、八雲藍である。今は人の姿をとっているが。
「お稲荷様、それ私しってます!お米とかお野菜の神様って聞きました!」
そのとなりでそう声をあげるのは、赤のワンピースを着た年端も無い少女。足をはずませるたびに揺れる、二つのしっぽの持ち主はもちろん藍の式、化け猫、橙ちぇんである。
「ああ、まあその通り、農耕の神様だよ。まあそれにはそれで適任がいるとおもうのだか……ま、勘違いしてもらえたおかげで油揚げまけてもらったしな。お門違いも役に立ったな」
そう言って手元の油揚げに視線を移す。きつね色に輝く油揚げを見て思わず口元がゆるんでしまう。
ふとまわりの店々を見る。幾段にも積まれた米俵、道ゆく人々のにぎわしい声そのほかもろもろをながめていると、おいしそうな匂いが鼻を通り過ぎた。
ー石焼き芋である。
「ほわぁ、おいしそうなお芋、……藍しゃま、私あれ食べたいです!」
どうやら橙も気になるようだ。まぶしいほどに目を輝かしている。
藍は橙の手をとると匂いの元へと引き返した。やさしそうなおばあさんの営むその店はどうやら野菜なども売っているらしい。二人の手のなかをあたためる紫色のそれをにぎりながら、ふと橙が口をひらいた。
「そういえば、藍しゃまって九尾の狐なんですよね!」
はずんだ口調で続けて橙が言う。
「藍しゃまって、むかしはどんな妖怪だったんですか?」
その言葉に藍は歩みをとめた。
紅葉したカエデの葉が風にふかれてひらひらと宙をまう。
その風が道沿いのイチョウの葉をまきあげ、散らす。
むじゃきな顔で自分を見上げるこのかわいらしい猫には、自分の過去なんて知らなくてよいことだ。
しかし、その顔にあふれる自分への尊敬、そしてなにより九尾の狐という自分の過去へのあこがれ、その活躍への期待がゆれる思いを定めた。
(そういえば………あのころは私も純粋に妖怪だったなぁ、時のながれは早いものだ………)
そう思うと唐突に過去がしのばれた。
ふう、と呼吸をし気持ちを静める。
「そうだな………そのことは家で話そうか」
「はい!楽しみです!」
紅葉の里を再度ながめてから二つの妖怪は家路へと歩み出した。
一方は心おどらせて。
もう一方は静かにひそかに昔話を思い出しながら。
時は平安。
おおよそ四百年という長いこの刻では、都には貴族が絢爛極まる暮らしに酔い浸り、和歌を詠み、美を楽しみ、酒を飲み、桜を眺める。
そんな、華と楽と美の時代。
しかし、そんな華やかさの影には闇もあった。
人々が忌み嫌い、恐れるもの。それが妖怪。
人を欺き、騙し惑わし、ときには喰らい、その命をうばう。
そんな彼らから人間を守るためにうまれたものが陰陽師、といった呪術者だ。
その見事な策略と勇猛さによって人々の恐怖はやすらぎ、物の怪どもは地に堕ちた。
そうといった怪異のなかでも、群を抜いて強大な力を持つ妖怪に九尾の狐というものがいた。
その九尾がどこにいるかはわからない。もしかしたら幻想の世界で暮らしているのかもしれない。
―その妖怪のとある昔のはなし
むかしむかし、その昔。漢の地に狐がいた。
勿怪のことに、その狐は妖怪を喰らった。
やがて狐は千古を生き、そのしっぽはやがて九つへとなった。
―白面金毛九尾の狐
のちに、そう呼ばれるようになったそうな。
はるかの隔世をさかのぼり、時は奈良の時代。
ききんや争い、伝染病といった世が混乱するなか仏がもっとも表舞台にたった時代なのかもしれない。
そして、そのころ日本ともっともつながりの深い国、隣国の王朝、唐でそれは起きた。
中国登州の沿岸、そこにひろがる大海原には大きな船がいすわっていた。
今日、日本へと帰る遣唐使船が出航するのだ。
「ふう、これで唐の国ともお別れであるか……祖国日本の空気をすうのが楽しみだ」
その船を眺めながら遣唐留学生である政治家、吉備真備きびのまきびはそうつぶやいた。
やはり、大陸の国の唐には日本まだまだは劣っている。だが、こうよその地で日々を過ごすとむしょうに故郷が懐かしく思えてしまうものだ。
(そういえば……いつか前にこの国には九つの尾を持つ、恐ろしい狐がいるという話を聞いたな……)
奴が故郷は来なければいいのだが、と思う真備。
噂によればその狐は絶世の美女に化け、人をだますのだという。
いよいよ出航のするといい各々準備にあたるなか、ふと彼はそんな物思いにふけていた。
そのとき、どこからともなく鈴を転がすような声がした。
「すみません、この船が日本行きでございましょうか……私ものせていただくことはできませんでしょうか……どうかお願いですから」
いきなりのことにふりむいた真備はさぞおどろいた。
生糸をよりあわせたような金色の髪、おなじく金にひかる美しい瞳、その麗姿をさらに際立たせる胸元のはだけた唐独特のきらびやかな服。
十六才程度のそれはもうまったく美しい少女がそこにはいたのだ。
年端も無い少女がかもしだす妖花のような彼女に彼はしばらく見とれてしまった。
「うむ……無断で船に乗ることはできないのだがなあ……だが、その格好をみるかぎりあなたは貴族や王家の方ですかな?」
すると、少女は顔をぱっと明るくし大きくうなずいた。
「では、よろしい。どうぞ船にお乗りくだされ」
真備に深く頭をさげる少女の後ろ姿を見届けたあと、彼も船に乗った。
そして、日本に着いたころにはその少女はなぜか船にはいなかったのだった。
そして時は流れ再び平安へ。
藤原氏の力をおさえるため、うわべだけの傀儡になりかけていた「天皇」というものは「上皇」として力を取り戻しつつあった。
ちょうどそのときそれにあたっていたのが鳥羽上皇であった。
「……………ええ、どうも今夜新しく宮中に仕える女がくるそうよ」
「それも、家も出た地もあやふやだそうよ。」
「はたして、どういう女なのかしらねえ………」
はなやかな宮中で女たちのひそひそ声が聞こえてきた。
女たちの言う通り今夜あたらしく女官がくることになったのだ。
「おーい、新しく入ってきた者がそろそろ来られるぞ。」
案内役と思わしき男がそう叫んだ。
そのとき、澄んだ声が聞こえてきた。
「……今宵より上皇様の元、この宮中で仕えることになりました、玉藻前と申します。」
その姿を見て、その場にいた者すべてが息をのんだ。
そこにあがってきたのは美しい女だった。
十二単の鮮やかな着物、金色の瞳、なめらかで雪のような白い肌、そして絹糸のように艶めく金色の長い髪。
異様であるはずの金の髪はなぜか恐ろしいほどにその姿に似合っており、妖美がただよっている。
まさに絶世の美女。
そんな玉藻に誰よりも釘付けとなった男がいた。
すだれをへだて沈黙する鳥羽上皇だった。
それからというもの、彼女は鳥羽上皇に寵愛され、ついには契りを結ぶことになった。玉藻はその美貌にくわえ、とても博識だった。
彼女自身は他人に恋慕をいだくなどと鼻で笑っているようだったため上皇をどうとは思っていなっかたが、この国この屋敷でのくらしがたいそう気に入った。
―誰も彼女の本当の姿を知らず、人々は玉藻に。玉藻も人々に馴染んでいった。
春、あたたかな風に都は明るく染まり、花の香りがいたるところにたちこめる。
桜の舞う平安京の通りを女性が歩いていた。
唐傘によってその顔は見えないが、彼女のうしろ姿からは美しさが漂っている。
「桜がとてもきれいね……やはりここにきて良かったわ」
「ええ、摂津からの長いたびでした。お疲れ様です、安倍様」
引き連れの男の一人に安倍、と呼ばれた女性は「こんなんで疲れるわけないでしょう」と言う。
安倍清明あべのせいめい。この時代もっとも名の高い陰陽師、明治にいたってまで陰陽道の中心となった土御門けの祖。
と、されている人物だ。
人物、という表しかたはおかしいのかもしれない。いずれにしろ「安倍清明」という名はあくまでも呼び方、偽の名にすぎない。
八雲紫。それが「大妖怪」としての本当の名であった。
連れそいの男らももちろん人ではない、陰陽師が使役する鬼神、式神らである。
そもそも陰陽師、というものは人としての職業であり、すべて妖怪故の力であるのだが。
「安倍様、安倍様、べっつに人間社会からういてしまおうが、私はかまわないのだけれど………」
その口調には独特さがあった。大妖怪である彼女ははるか先の世界すらも見えているのかもしれない。
「まあ、所詮あなたたちは小間使いだしねえ、私の名なんておしえることもないかし…………」
そう言いかけたときだった。
紫の耳には何かが倒れこむ音がした。
赤いリボンで結んだ金髪を揺らし、ばっとふりむく。
見るとそこには顔を真っ青にし、地に転がる幼い子供がいた。
となりではその母親らしき女性が、涙目で道ゆく助けを求めている。
人々は横を向いているが人為らざるもの、紫にはその状況をすぐさま理解した。
(………あの幼子、怨霊……が憑いてしまっているみたいね……)
思うと同時に、紫の足はその親子の方へと進んでいた。
「道をあけてください。お母様、落ち着いて。その子は私に任せてください」
言いながら、紫はその手を上にかかげる。
薄く艶やかなくちびるでつむぐ。
「………魍魎『二重黒死蝶』」
その刹那、紫の背に雪の結晶のような紋様が現れ、青の赤の蝶たちがひろがっていた。
そして突如現れた、眼球のうごめく不気味なスキマが蝶の大半を飲み込んでいった。
わずか数匹程度になった死の蝶が、幼子にとり憑き揺らめく怨霊に襲いかかる。
ふっと、崩れるようにしてそれは空気と一体化し、この世界から消滅した。
「これでもう大丈夫でしょう。息子さんについた悪霊は消え去りましたよ」
何度も深々と頭をさげると、いつのまにか気持ちよく眠っているわが子を抱いて足早に去ってしまった。
後ろから付きそいに声をかけられた。
「さすが安倍様です。しかし、人間ごときを救ったってなんの得にもなりませんよ」
そう言って男に化けた式は紫を頌徳する。あきらかな人間に対する侮蔑をこめながら。
「万事に通じる崇高にて強いものほど、情けを惜しまないもの。それがないモノを俗に傲慢、無能と言うのよ」
そういい捨てたが、やはりその言葉を理解することはできなかったようだ。
掻い撫での言の葉を並べ、お世辞で主君に媚びようとし、大物に仕えているからって自分が優れているなどと思い、現実を見れずに他を見下すことしかできない愚かな道具にはそんなことの理解は難しいのかもしれない。
(ま、夜な夜な私の屋敷に人が連れ込まれ、いつのまにか人間がいなくなってます。なんてこと、ばれたらめんどくさいもの。こうして善行重ねていおけばうたがわれることはないと思うし……お腹がすいて他の生き物を食べることのなにが悪いとおもうけど)
そろそろ雑用じゃなくて本当に事を任せられる式がほしいわ、とあきれる紫。
「じゃ、そろそろ私は別行動ってことで」
そういって紫は一人で歩みだす。
網の道を歩むこと少し、紫の目の前にはたいそう立派な豪邸が建っていた。
鳥羽上皇、帝のすむ屋敷。
紫が目をつけたのはそのようなものではない。
屋敷からあふれ漂う尋常でない妖気。
人為らざるもの、それゆえの災いの予感。
「………………やはりか」
ぼそりと呟きしっかりと、その目で前のそれを見構える。
「………………………どうやら、ひと仕事、なりそうね」
―桜の花びらが風に吹かれ、いくつか散った。
季節は秋。
葉々は黄や赤へと衣がえをし、食読遊を人々は楽しみ人里は活気にあふれる。
黄金色に染まる出来秋の畑に通りゆく者は笑みうかべ、秋の神様は心はずませる。
ーありとあらゆる生類も魑魅魍魎も神も人も愛するこの秋というものは実に不思議だ。
豊作ということもありにぎわいをみせる幻想郷の里。そこを二人の少女が歩いていた。
「むぅ、なんかここんとこやたら人間に感謝されている気がするな……私をお稲荷様とでも勘違いしているのかしら。」
ため息をつきながら肩をすくめる少女。藍色の着物を身にまとい、きつね色の髪に金色の瞳をもつ彼女はスキマ妖怪の式でいてまた、九尾の狐、八雲藍である。今は人の姿をとっているが。
「お稲荷様、それ私しってます!お米とかお野菜の神様って聞きました!」
そのとなりでそう声をあげるのは、赤のワンピースを着た年端も無い少女。足をはずませるたびに揺れる、二つのしっぽの持ち主はもちろん藍の式、化け猫、橙ちぇんである。
「ああ、まあその通り、農耕の神様だよ。まあそれにはそれで適任がいるとおもうのだか……ま、勘違いしてもらえたおかげで油揚げまけてもらったしな。お門違いも役に立ったな」
そう言って手元の油揚げに視線を移す。きつね色に輝く油揚げを見て思わず口元がゆるんでしまう。
ふとまわりの店々を見る。幾段にも積まれた米俵、道ゆく人々のにぎわしい声そのほかもろもろをながめていると、おいしそうな匂いが鼻を通り過ぎた。
ー石焼き芋である。
「ほわぁ、おいしそうなお芋、……藍しゃま、私あれ食べたいです!」
どうやら橙も気になるようだ。まぶしいほどに目を輝かしている。
藍は橙の手をとると匂いの元へと引き返した。やさしそうなおばあさんの営むその店はどうやら野菜なども売っているらしい。二人の手のなかをあたためる紫色のそれをにぎりながら、ふと橙が口をひらいた。
「そういえば、藍しゃまって九尾の狐なんですよね!」
はずんだ口調で続けて橙が言う。
「藍しゃまって、むかしはどんな妖怪だったんですか?」
その言葉に藍は歩みをとめた。
紅葉したカエデの葉が風にふかれてひらひらと宙をまう。
その風が道沿いのイチョウの葉をまきあげ、散らす。
むじゃきな顔で自分を見上げるこのかわいらしい猫には、自分の過去なんて知らなくてよいことだ。
しかし、その顔にあふれる自分への尊敬、そしてなにより九尾の狐という自分の過去へのあこがれ、その活躍への期待がゆれる思いを定めた。
(そういえば………あのころは私も純粋に妖怪だったなぁ、時のながれは早いものだ………)
そう思うと唐突に過去がしのばれた。
ふう、と呼吸をし気持ちを静める。
「そうだな………そのことは家で話そうか」
「はい!楽しみです!」
紅葉の里を再度ながめてから二つの妖怪は家路へと歩み出した。
一方は心おどらせて。
もう一方は静かにひそかに昔話を思い出しながら。
時は平安。
おおよそ四百年という長いこの刻では、都には貴族が絢爛極まる暮らしに酔い浸り、和歌を詠み、美を楽しみ、酒を飲み、桜を眺める。
そんな、華と楽と美の時代。
しかし、そんな華やかさの影には闇もあった。
人々が忌み嫌い、恐れるもの。それが妖怪。
人を欺き、騙し惑わし、ときには喰らい、その命をうばう。
そんな彼らから人間を守るためにうまれたものが陰陽師、といった呪術者だ。
その見事な策略と勇猛さによって人々の恐怖はやすらぎ、物の怪どもは地に堕ちた。
そうといった怪異のなかでも、群を抜いて強大な力を持つ妖怪に九尾の狐というものがいた。
その九尾がどこにいるかはわからない。もしかしたら幻想の世界で暮らしているのかもしれない。
―その妖怪のとある昔のはなし
むかしむかし、その昔。漢の地に狐がいた。
勿怪のことに、その狐は妖怪を喰らった。
やがて狐は千古を生き、そのしっぽはやがて九つへとなった。
―白面金毛九尾の狐
のちに、そう呼ばれるようになったそうな。
はるかの隔世をさかのぼり、時は奈良の時代。
ききんや争い、伝染病といった世が混乱するなか仏がもっとも表舞台にたった時代なのかもしれない。
そして、そのころ日本ともっともつながりの深い国、隣国の王朝、唐でそれは起きた。
中国登州の沿岸、そこにひろがる大海原には大きな船がいすわっていた。
今日、日本へと帰る遣唐使船が出航するのだ。
「ふう、これで唐の国ともお別れであるか……祖国日本の空気をすうのが楽しみだ」
その船を眺めながら遣唐留学生である政治家、吉備真備きびのまきびはそうつぶやいた。
やはり、大陸の国の唐には日本まだまだは劣っている。だが、こうよその地で日々を過ごすとむしょうに故郷が懐かしく思えてしまうものだ。
(そういえば……いつか前にこの国には九つの尾を持つ、恐ろしい狐がいるという話を聞いたな……)
奴が故郷は来なければいいのだが、と思う真備。
噂によればその狐は絶世の美女に化け、人をだますのだという。
いよいよ出航のするといい各々準備にあたるなか、ふと彼はそんな物思いにふけていた。
そのとき、どこからともなく鈴を転がすような声がした。
「すみません、この船が日本行きでございましょうか……私ものせていただくことはできませんでしょうか……どうかお願いですから」
いきなりのことにふりむいた真備はさぞおどろいた。
生糸をよりあわせたような金色の髪、おなじく金にひかる美しい瞳、その麗姿をさらに際立たせる胸元のはだけた唐独特のきらびやかな服。
十六才程度のそれはもうまったく美しい少女がそこにはいたのだ。
年端も無い少女がかもしだす妖花のような彼女に彼はしばらく見とれてしまった。
「うむ……無断で船に乗ることはできないのだがなあ……だが、その格好をみるかぎりあなたは貴族や王家の方ですかな?」
すると、少女は顔をぱっと明るくし大きくうなずいた。
「では、よろしい。どうぞ船にお乗りくだされ」
真備に深く頭をさげる少女の後ろ姿を見届けたあと、彼も船に乗った。
そして、日本に着いたころにはその少女はなぜか船にはいなかったのだった。
そして時は流れ再び平安へ。
藤原氏の力をおさえるため、うわべだけの傀儡になりかけていた「天皇」というものは「上皇」として力を取り戻しつつあった。
ちょうどそのときそれにあたっていたのが鳥羽上皇であった。
「……………ええ、どうも今夜新しく宮中に仕える女がくるそうよ」
「それも、家も出た地もあやふやだそうよ。」
「はたして、どういう女なのかしらねえ………」
はなやかな宮中で女たちのひそひそ声が聞こえてきた。
女たちの言う通り今夜あたらしく女官がくることになったのだ。
「おーい、新しく入ってきた者がそろそろ来られるぞ。」
案内役と思わしき男がそう叫んだ。
そのとき、澄んだ声が聞こえてきた。
「……今宵より上皇様の元、この宮中で仕えることになりました、玉藻前と申します。」
その姿を見て、その場にいた者すべてが息をのんだ。
そこにあがってきたのは美しい女だった。
十二単の鮮やかな着物、金色の瞳、なめらかで雪のような白い肌、そして絹糸のように艶めく金色の長い髪。
異様であるはずの金の髪はなぜか恐ろしいほどにその姿に似合っており、妖美がただよっている。
まさに絶世の美女。
そんな玉藻に誰よりも釘付けとなった男がいた。
すだれをへだて沈黙する鳥羽上皇だった。
それからというもの、彼女は鳥羽上皇に寵愛され、ついには契りを結ぶことになった。玉藻はその美貌にくわえ、とても博識だった。
彼女自身は他人に恋慕をいだくなどと鼻で笑っているようだったため上皇をどうとは思っていなっかたが、この国この屋敷でのくらしがたいそう気に入った。
―誰も彼女の本当の姿を知らず、人々は玉藻に。玉藻も人々に馴染んでいった。
春、あたたかな風に都は明るく染まり、花の香りがいたるところにたちこめる。
桜の舞う平安京の通りを女性が歩いていた。
唐傘によってその顔は見えないが、彼女のうしろ姿からは美しさが漂っている。
「桜がとてもきれいね……やはりここにきて良かったわ」
「ええ、摂津からの長いたびでした。お疲れ様です、安倍様」
引き連れの男の一人に安倍、と呼ばれた女性は「こんなんで疲れるわけないでしょう」と言う。
安倍清明あべのせいめい。この時代もっとも名の高い陰陽師、明治にいたってまで陰陽道の中心となった土御門けの祖。
と、されている人物だ。
人物、という表しかたはおかしいのかもしれない。いずれにしろ「安倍清明」という名はあくまでも呼び方、偽の名にすぎない。
八雲紫。それが「大妖怪」としての本当の名であった。
連れそいの男らももちろん人ではない、陰陽師が使役する鬼神、式神らである。
そもそも陰陽師、というものは人としての職業であり、すべて妖怪故の力であるのだが。
「安倍様、安倍様、べっつに人間社会からういてしまおうが、私はかまわないのだけれど………」
その口調には独特さがあった。大妖怪である彼女ははるか先の世界すらも見えているのかもしれない。
「まあ、所詮あなたたちは小間使いだしねえ、私の名なんておしえることもないかし…………」
そう言いかけたときだった。
紫の耳には何かが倒れこむ音がした。
赤いリボンで結んだ金髪を揺らし、ばっとふりむく。
見るとそこには顔を真っ青にし、地に転がる幼い子供がいた。
となりではその母親らしき女性が、涙目で道ゆく助けを求めている。
人々は横を向いているが人為らざるもの、紫にはその状況をすぐさま理解した。
(………あの幼子、怨霊……が憑いてしまっているみたいね……)
思うと同時に、紫の足はその親子の方へと進んでいた。
「道をあけてください。お母様、落ち着いて。その子は私に任せてください」
言いながら、紫はその手を上にかかげる。
薄く艶やかなくちびるでつむぐ。
「………魍魎『二重黒死蝶』」
その刹那、紫の背に雪の結晶のような紋様が現れ、青の赤の蝶たちがひろがっていた。
そして突如現れた、眼球のうごめく不気味なスキマが蝶の大半を飲み込んでいった。
わずか数匹程度になった死の蝶が、幼子にとり憑き揺らめく怨霊に襲いかかる。
ふっと、崩れるようにしてそれは空気と一体化し、この世界から消滅した。
「これでもう大丈夫でしょう。息子さんについた悪霊は消え去りましたよ」
何度も深々と頭をさげると、いつのまにか気持ちよく眠っているわが子を抱いて足早に去ってしまった。
後ろから付きそいに声をかけられた。
「さすが安倍様です。しかし、人間ごときを救ったってなんの得にもなりませんよ」
そう言って男に化けた式は紫を頌徳する。あきらかな人間に対する侮蔑をこめながら。
「万事に通じる崇高にて強いものほど、情けを惜しまないもの。それがないモノを俗に傲慢、無能と言うのよ」
そういい捨てたが、やはりその言葉を理解することはできなかったようだ。
掻い撫での言の葉を並べ、お世辞で主君に媚びようとし、大物に仕えているからって自分が優れているなどと思い、現実を見れずに他を見下すことしかできない愚かな道具にはそんなことの理解は難しいのかもしれない。
(ま、夜な夜な私の屋敷に人が連れ込まれ、いつのまにか人間がいなくなってます。なんてこと、ばれたらめんどくさいもの。こうして善行重ねていおけばうたがわれることはないと思うし……お腹がすいて他の生き物を食べることのなにが悪いとおもうけど)
そろそろ雑用じゃなくて本当に事を任せられる式がほしいわ、とあきれる紫。
「じゃ、そろそろ私は別行動ってことで」
そういって紫は一人で歩みだす。
網の道を歩むこと少し、紫の目の前にはたいそう立派な豪邸が建っていた。
鳥羽上皇、帝のすむ屋敷。
紫が目をつけたのはそのようなものではない。
屋敷からあふれ漂う尋常でない妖気。
人為らざるもの、それゆえの災いの予感。
「………………やはりか」
ぼそりと呟きしっかりと、その目で前のそれを見構える。
「………………………どうやら、ひと仕事、なりそうね」
―桜の花びらが風に吹かれ、いくつか散った。
独自設定を前面に出すのなら、もっとそれに説得力を持たせるための書き込み、あるいは読み手を引き込むための工夫ができんものでしょうか。