ぼーっとベッドに座っていたら、部屋の扉が硬質な音を立てた。あまり間をおかず、均等に3回。
メイド妖精が部屋の掃除にでも来たのだろうか? 頼んでも無いのに。面倒くさい。
放っておいたら、ドアノブが回って、扉が勝手に開けられた。そういえば、鍵を閉めていなかった。いや、本当に閉めていなかっただろうか? 閉めていたような気もするけれど。
そんな、どうでもいい葛藤を微動だにせずにしていると、何故か親友のパチュリー・ノーレッジが部屋に入って来た。視界に、紫が追加される。私の部屋には無い色だ。というか、パチェが私の部屋に来るなんて珍しい。いや、それ以前に、パチェが大図書館から出てくること自体が珍しい。パチェが大図書館を出るのは、会食やパーティ、あとはせいぜい季節の行事の時くらいだ。もしくは、私が呼びつけたか。それも、だいたいは私の方からパチェを訪ねるのだから、パチェが大図書館から出てくることは珍しい。たぶん、1年のうち350日くらいは大図書館に引き籠ってるはずだ。……数えたことは無いけれど。
どうしたのかなと眺めていると、カツカツとパチェにしては機敏な動きで私の方に近寄って来て、顔に手を伸ばされた。目の下の皮を引っ張られて、あっかんべーみたいな感じにされる。何か面白いのだろうか? というか、「紅魔館の主」にして「夜の王」たる私に無礼だと思う。パチェじゃなかった殺してた。ような気もする。面倒だから、殺さないかもしれないけど。まあ、どちでもいい。メイド妖精とか、1人くらい1回休みになっても、あんまり変わらないし。あいつら働かないし。とりあえず、ぼーっとされるがままにしておいたら、満足したのかパチェは手を離した。
「レミィ。今日、ご飯は何食べた?」
「んーと、何んだろう? あ、食べてないかもしれない」
「昨日は?」
「ホットチョコレートを食べた気がするわね」
「ホットチョコレートは食べるじゃなくて、飲むよ」
「些細な違いじゃない。それに、私達吸血鬼は血を食べるっていう時もあるわよ」
「そう。役に立たない知識をどうもありがとう」
それだけ言って、パチェは帰ってしまった。
お邪魔しましたとか、そんな言葉も無かった。
今更、どうでもよいけれど。
* * *
話をしようと思う。
私の、レミリア・スカーレットの大好きだった、そして後悔に塗れた、十六夜咲夜という女性の話を。
紅魔館の瀟洒なメイド。掃除が得意で、料理は更に得意。肉料理に関しては、右に出る者はいなかった。ソースと付け合わせの野菜が絶妙だった。
珍しいものが大好きだった。珍しい食材があれば、何はともあれ料理する。そのくせ、味見はしない。食材じゃないかもしれないものまで、とりあえず料理してみる。お蔭で何度か吐きかけた。
紅茶を淹れるのが趣味だった。葉から、茶器や湯の温度や質までこだわり抜いて、最高の紅茶を淹れてくれる。紅茶好きの私と話が合った。でも、咲夜は猫舌のせいで、冷まさないと飲めなかった。
お金にはシビアだった。投げナイフすら、戦闘中に拾いながら戦うような性格だった。トリュフが食べたいと言ったら、マッシュルームが出てきた。未だに許していない。
なにより、十六夜咲夜は、人間だった。
一から十まで人間だった。
けれど、人間らしくない人間だった。
それこそ、誰もが人間だということを忘れてしまうくらいに。
嬉々として人間を捌いて調理して、私に食べさすような人間だった。
その思考はどこか妖怪じみていて、そのくせ、どんな妖怪でも畏れる吸血鬼たる私の事を、これっぽちも畏れたりはしなかった。
今更、十六夜咲夜の話をしようと思う。
私の大好きだった、十六夜咲夜の話をしようと思う。
* * *
遠くの窓の外には、9割方沈んだ夕陽。
消えかけて薄まった僅かな陽光が、今日最後の主張とばかりに空を紫色に染め上げている。
当然、その光は儚すぎて、カーテンを開けていても部屋の中までは入ってこない。
代わりに部屋を照らすのは、豪勢なシャンデリアの光だ。
一見無秩序なように見えて、職人によって計算され尽くしたガラス片たちが、美しくも調和を持って光を落とす。
目の前には、紅茶。
ソーサーの上に、ちょこんと可愛らしいティーカップが置いてある。
淹れたての湯気を纏うそれは、澄んだ琥珀の水面に、この私、レミリア・スカーレットの銀色の髪と紅い瞳を映してキラキラと輝いている。
私はそれをそっと手に持って、優雅に口を付けた。
……ねとり。
口に含んだ液体は、見た目に反したねっとりとした食感で口内を蹂躙し、強烈な、500年生きていても一度も経験したことの無い程のえぐみを舌と喉に塗りつけた。
嚥下しようにも、あまりの粘度にゆっくりとしか喉を落ちて行かず、しかも口中に張り付いて消えやしない。僅かに、辛さと酸味すら感じる。最大限控えめに表現して、死ぬほどまずい。自慢の羽が、私の意思と関係なく痙攣する。
瞬間的にカップを取り落さなかった私を、誰か褒めて欲しい。切実に。
「……ねえ、咲夜?」
震える体と、今にも反逆を起こさんとする胃袋を圧倒的な精神力でねじ伏せて、私は横に侍る従者に問うた。
「これは、何かしら?」
従者の答えは、気軽なものだ。
「庭で採れた、マンドラゴラを煎じて入れてみました。絞首刑で死んだ女性の経血から生えるそうですので、人間の血液にも近いと思いまして」
「あいかわらず、滅多なものを混ぜるのね……」
マンドラゴラ入りの紅茶には、砂糖を入れてみた。1杯2杯3杯4杯5杯6杯……。とりあえず、スプーンでかき混ぜても溶けなくなるまで。
勇気を出して、もう一度口を付けてみる。
強烈なえぐみと辛さと酸味に素敵な甘さが加わって、最強になった。過去最強の破壊力。たぶん死人に飲ませても、あまりの衝撃に目覚めると思う。ポトフの横にマスタード・ガスが添えてあったとしても、これよりは幾ばくかは有情だろう。涙が出てきた。羽がガクガクと痙攣して、もげそうだ。砂糖のせいで余計粘度が上がって、本気で飲み下せない。お花畑が見えてきた。
ああ……いつか飲んだ福寿草の紅茶。これと比べたら、ずっとおいしかったなぁ……
* * *
かつて、一度だけ永遠の夜を創った。
私、レミリア・スカーレットと、十六夜咲夜で。決して明けない夜を。
その日はちょうど満月で、けれども、空に浮く月は張りぼてだった。レジンキャスト未満の、微塵の魔力さえない、粗末で劣悪で塵屑のような紛い物。
空に月を眺めて暮らす私には、それがどうしても許せなかった。
だから、時を止めて、永遠の夜を創った。
そして、私と咲夜は飛んだのだ。永遠の夜を二人で。紛い物の月の下で。
蛍狩りをして。
フライドチキンの話題で盛り上がって。
妹の家庭教師を探して。
博麗の巫女を退けて。
沢山のうさぎたちと戯れて。
遊んで。遊んで。散々遊びつくしてから、やっと私達は月の民達と戦った。
今なら解る。
偽物の月が許せないなんて言いながら、本当は私は、咲夜と遊びたかっただけだったのだ。
だから、博麗の巫女を退けた。
だって、博麗の巫女が動けば、異変は解決してしまう。
遊びの時間は終わってしまう。
だから……
きっと、あの時、本当はまだ異変の元凶なんかには会いたくなかったのだ。
けれど、出会ってしまって。
叩き潰した。
圧倒的に。容赦なく。
だって、咲夜は言ったのだ。
「どんな場面でも、私は力になりますよ。頼りにしてください」と。
人間を狂わす真実の満月を前にして、なお。
そんなことを言われたら、負けるわけになんていかなかった。
怪我一つだって、するわけにはいかなかった。
咲夜の想いと覚悟。咲夜の好意。たとえ砂粒一粒ほどだって、無駄にはしたくなかったから。
そうして、宴は終わった。
終わってしまった。
私が、私達が終わらせた。
楽しかった。
嬉しかった。
……残念で、寂しかった。
きっとだからだろう。
肝試しなんていう、下らない、下心見え見えの二次会に参加したのは。
そして、私は咲夜に言ったのだ。
肝試しの最中、倒れた蓬莱人を前にして。
蓬莱人の肝を食べて、不老不死にならないかと。
ほんのちょっぴり期待を込めて。
一緒に、終わらない二次会をしてみない? と。
「咲夜も不老不死になってみない? そうすればずっと一緒に居られるよ」
そんな、冗談交じりの私の言葉に、咲夜は思いがけず真剣な表情で言葉を返した。
咲夜が初めて私を刺した時と同じくらいに、熱を持った視線で。
私が咲夜を初めて抱いた時と同じくらいに、優しい声で。
とっても、静かに。優しく言ったのだ。
「私は一生死ぬ人間ですよ」
「大丈夫、生きている間は一緒にいますから」
「残念ね」と頷くことしかできなかった。
そのことを……私は、酷く後悔している。
* * *
結論から言うと、十六夜咲夜は死ぬ人間だった。
要するに、死んだ。
あっけなく。あっさりと。あっという間に。たった百年の月日も生きず、瞬きする間に消えてしまった。
紅魔館と、この私、レミリア・スカーレットに、彼女が生きたという痕跡だけを残して。
* * *
咲夜は、死ぬ瞬間まで、体の時を止めていたらしい。らしいというか、止めていた。
だから、見た目だけはずっと若かったし、その日が来る結構直前まで、色々と働きすらしていた。
だから、忘れていた。
咲夜が、人間なのだということを。人間は、寿命で死ぬのだということを。折に触れて、咲夜は私は人間だと言っていたのに。都合よく。ご都合主義に。自分勝手に。忘れていた。
その日は、突然に、必然的にやって来た。
本当はちっとも突然じゃなかったんだけど、私は目を瞑っていたのだ。いつの日か、咲夜は足を引きずって歩くようになっていたのに、体調が悪くなるときもあるだろうとか、身勝手に目を背けていた。
だから、当然の結末として、咲夜は倒れた。
メイド妖精の話では、掃除の途中に突然倒れたらしい。それっきり、起き上がることも出来なかった。
咲夜を部屋に運び込んで、パチェに診て貰って……愚かな私は、初めて咲夜が止めていることが出来ていたのは、上っ面の年齢だけだったのだと知った。内臓は、加齢でどこもかしこもボロボロだった。「そろそろ寿命ね」と呟いたパチェの声が、私の鼓膜を虚しく滑っていった。聞けば、目も半分くらい見えてなかったらしい。白内障に、網膜剥離。咲夜が、物にぶつかる姿も、何度となく見ていたのに、私は気にしもしなかった。瀟洒なメイドの名折れねと、笑いすらした。まったく、咲夜はどこか抜けているんだから、と。
その時は、幸い咲夜は目を覚ました。
両足は、まったく動かなくなっていたけれど。
そして、私は、その段になって初めて、慌てたのだ。
その日以降、私は咲夜につきっきりになった。
竹林の医者にも見て貰った。
河童の機械の力も借りた。
金に糸目はつけなかった。
紅魔館の財政を、惜しげもなく使い込んだ。
咲夜のことが第一で、他の事は二の次になった。
数日間自分が何も食べなくても、特に気にしなかった。
食費の分、咲夜に使うお金が増えたかなとか、そのくらいにしか思わなかった。
そう、咲夜の延命に、全力を尽くした。
全力を尽くしたのだ。
あまりにも、手遅れだったけれど。
結局私に出来たことは、咲夜の苦しみを、ほんの数か月引き延ばすことだけだった。
あっという間に咲夜は物を食べられなくなって、喋ることも出来なくなって、栄養剤の入った点滴と薬の入った点滴と呼吸器によって生き延びるだけの身体になって。
パチェからも、美鈴からも、小悪魔からも、フランからすらも……これ以上生かすのは可哀想だという声が上がって、私もそう思って、それでも決断が出来なくて、一週間泣きはらしてから、くちづけをして首を絞めた。
美鈴は、「点滴と呼吸器を外せば、それだけでいいんです。お嬢様が手を汚さなくても、運命がやってくれます」と言ってくれたけど、それだけは譲ってはいけないと思ったのだ。
だって、咲夜の運命は私だ。私が咲夜に名を与えたのだ。どこの誰とも判らないような運命に、咲夜を引き渡すことは許せなかった。
そう、最後の最後まで、咲夜は私の我儘に振り回されてこの世を去ったのだ。いい気味だった。
* * *
部屋の扉が硬質な音を立てた。あまり間をおかない、均等に3回のノック。
どうぞと声をかける間もなく入って来たのは、やはりパチェだった。相変わらずパチェは、カツカツと私に歩み寄って、私の目の下の皮を引っ張る。ちょっとだけ目がシパシパした。されるがままになっていたら、しばらく眺められた後に、今度は口の中を覗かれた。舌を引っ張られる。いったい何が面白いのだろう? 100年付き合っても、魔女とは不思議な生き物だと思う。
「レミィ。あの後、何食べた?」
パチェが最低限の単語で、特に意味のなさそうな問いを発する。
「んー。ワインは飲んだわ」
面倒だけれど、親友のよしみで答えてやった。
「今度は、食べたとは言わないのね」
「お酒は、"飲む"か"呑む"の二択だと決まってるからねぇ」
「そう。日本語に誠実で嬉しいわ。他には?」
今日のパチェは、やたらとしつこい。
「別に何も」
「レミィ。あなた、死ぬわよ」
「3日やそこら、飲み物飲んでたら死ぬわけないじゃない。人間じゃあるまいし」
「もっとでしょ」
「この前パチェに会った何日か前には食べたわよ」
「この前っていつよ」
やっぱり、魔女は変だ。
「一昨日話したじゃない。同じように、目の下の皮引っ張ってさ。というか、それ面白いわけ?」
「レミィ……私がこの前に来たのは10日前よ」
「そうだっけ?」
そんなことは、ないと思うけれど。
「その間、レミィは何をしてたの?」
「寝てた」
そう。寝てた。寝て、起きて、咲夜の事を思いだして。寝て、起きて、咲夜の事を考えて。2回寝たのだから、2日だ。
「そう」
なのに、なぜかパチェは、ため息とともに首を振った。
「ねぇ、レミィ。たまには咲夜の部屋を掃除して来たら? メイド妖精も入れてないんでしょ。誰も入らない部屋は、無人の家と同じ。ほっとけば朽ちていくだけよ」
そんなこと、望んでないでしょ。そう、パチェは呟いた。まるで、念押しをするように。
それもそうねと、私は頷いた。
* * *
咲夜の部屋には、うっすらと埃が積もっていた。
そんなに長いこと、放っておいたつもりは無いのだけれど。
電源の切られた、きっともう二度と使われることの無いであろう機械たちが、所狭しとベッドの傍にひしめき合い、その隙間を点滴のチューブやら、薬やカルテを置くためのサイドテーブルやらが埋めている。
僅かばかりの本が詰められた本棚は、機械を入れるために取っ払われた。せめてちょっとだけでも殺風景じゃないようにと窓際に置かれていたサボテンは、とうに萎れて捨てられ、今は鉢だけが窓枠に飾られている。
この部屋は、あの日のままだ。咲夜が、死んだ日の。
私が、そうしている。
せめて、時よ止まれと。
なんとなく手を置いた機械に、鈍色の手形が付いたのを見て改めて時間の重みを感じた。
そう言えば、空気も想像以上に埃っぽい。
時よ止まれなんて祈っても、結局私には止めることなど出来やしない。
私はメフィストフェレスでもなければ、十六夜咲夜でもないのだ。
せめて、パチェの言うように掃除でもしておこう。
そう思って、掃除道具を手に取った。
咲夜が元気だったころから部屋の隅に置かれていた、咲夜の掃除道具だ。
* * *
掃除の途中で、一枚の封筒を見つけた。
表には何も書いていない。
手に取った薄さから、その中身はほとんど入っていないことが判る。
きっと、中には便箋が1枚か2枚だけ。
けれどもそれは、咲夜の部屋の、ベットの傍の機械の隙間に挟んであって。
要するに、きっとそれは咲夜が用意したもので。
私は、手紙を引っ掴んで自分の部屋に駆け戻った。
破いて開いても良かったけれど、万が一中身を破いてしまったらと思うと、それも出来なかった。
焦りながら、それでも丁寧に、永遠の時間でも掛けているかのような気分でペーパーナイフを走らす。
中から出てきたのは、やはり1枚の便箋だった。
弱々しい、線のぶれた、それでも間違えようのない咲夜の字で、たった一文、こう書いてあった。
『先に行きます。永遠に待っていません。
十六夜咲夜』
短い一文を、たった一言の遺言を、私は何十回も、何百回も読み返した。
時にしっかりと噛みしめて、時に舐めるようにじっくりと。
時計の針が何度も回り、嫌味な程に明るかった窓の外が、紫色になるまで読み返し続けた。
そして、骨で出来たペーパーナイフを、自分の胸に向けてそっと構えた。上から、左手を重ねる。
ほんの一瞬だけためらった後、思いっきり突き立てた。
柄のすぐ手前まで、深々と刺さった。
血が、どくどくと溢れてきた。
ちゃんと、心臓に刺さってくれたらしい。
私の胸を、私の血が真っ赤に穢す。「スカーレットデビル」の蔑称に相応しく。
ささやかな、嫌がらせだった。
最後の最後に、あんな従者の……私を置いていくような従者の言うことなんて、素直に聞いてやるものか。
溢れる血は、じんわりと暖かかった。
ふと、思い立って一滴だけ舐めてみた。
自分の物なのに、やっぱり血は甘かった。
なのに、不思議な事に、とてもとても苦かった。
本当に、苦かった。
なぜか、いつか飲んだマンドラゴラの紅茶を思い出した。
メイド妖精が部屋の掃除にでも来たのだろうか? 頼んでも無いのに。面倒くさい。
放っておいたら、ドアノブが回って、扉が勝手に開けられた。そういえば、鍵を閉めていなかった。いや、本当に閉めていなかっただろうか? 閉めていたような気もするけれど。
そんな、どうでもいい葛藤を微動だにせずにしていると、何故か親友のパチュリー・ノーレッジが部屋に入って来た。視界に、紫が追加される。私の部屋には無い色だ。というか、パチェが私の部屋に来るなんて珍しい。いや、それ以前に、パチェが大図書館から出てくること自体が珍しい。パチェが大図書館を出るのは、会食やパーティ、あとはせいぜい季節の行事の時くらいだ。もしくは、私が呼びつけたか。それも、だいたいは私の方からパチェを訪ねるのだから、パチェが大図書館から出てくることは珍しい。たぶん、1年のうち350日くらいは大図書館に引き籠ってるはずだ。……数えたことは無いけれど。
どうしたのかなと眺めていると、カツカツとパチェにしては機敏な動きで私の方に近寄って来て、顔に手を伸ばされた。目の下の皮を引っ張られて、あっかんべーみたいな感じにされる。何か面白いのだろうか? というか、「紅魔館の主」にして「夜の王」たる私に無礼だと思う。パチェじゃなかった殺してた。ような気もする。面倒だから、殺さないかもしれないけど。まあ、どちでもいい。メイド妖精とか、1人くらい1回休みになっても、あんまり変わらないし。あいつら働かないし。とりあえず、ぼーっとされるがままにしておいたら、満足したのかパチェは手を離した。
「レミィ。今日、ご飯は何食べた?」
「んーと、何んだろう? あ、食べてないかもしれない」
「昨日は?」
「ホットチョコレートを食べた気がするわね」
「ホットチョコレートは食べるじゃなくて、飲むよ」
「些細な違いじゃない。それに、私達吸血鬼は血を食べるっていう時もあるわよ」
「そう。役に立たない知識をどうもありがとう」
それだけ言って、パチェは帰ってしまった。
お邪魔しましたとか、そんな言葉も無かった。
今更、どうでもよいけれど。
* * *
話をしようと思う。
私の、レミリア・スカーレットの大好きだった、そして後悔に塗れた、十六夜咲夜という女性の話を。
紅魔館の瀟洒なメイド。掃除が得意で、料理は更に得意。肉料理に関しては、右に出る者はいなかった。ソースと付け合わせの野菜が絶妙だった。
珍しいものが大好きだった。珍しい食材があれば、何はともあれ料理する。そのくせ、味見はしない。食材じゃないかもしれないものまで、とりあえず料理してみる。お蔭で何度か吐きかけた。
紅茶を淹れるのが趣味だった。葉から、茶器や湯の温度や質までこだわり抜いて、最高の紅茶を淹れてくれる。紅茶好きの私と話が合った。でも、咲夜は猫舌のせいで、冷まさないと飲めなかった。
お金にはシビアだった。投げナイフすら、戦闘中に拾いながら戦うような性格だった。トリュフが食べたいと言ったら、マッシュルームが出てきた。未だに許していない。
なにより、十六夜咲夜は、人間だった。
一から十まで人間だった。
けれど、人間らしくない人間だった。
それこそ、誰もが人間だということを忘れてしまうくらいに。
嬉々として人間を捌いて調理して、私に食べさすような人間だった。
その思考はどこか妖怪じみていて、そのくせ、どんな妖怪でも畏れる吸血鬼たる私の事を、これっぽちも畏れたりはしなかった。
今更、十六夜咲夜の話をしようと思う。
私の大好きだった、十六夜咲夜の話をしようと思う。
* * *
遠くの窓の外には、9割方沈んだ夕陽。
消えかけて薄まった僅かな陽光が、今日最後の主張とばかりに空を紫色に染め上げている。
当然、その光は儚すぎて、カーテンを開けていても部屋の中までは入ってこない。
代わりに部屋を照らすのは、豪勢なシャンデリアの光だ。
一見無秩序なように見えて、職人によって計算され尽くしたガラス片たちが、美しくも調和を持って光を落とす。
目の前には、紅茶。
ソーサーの上に、ちょこんと可愛らしいティーカップが置いてある。
淹れたての湯気を纏うそれは、澄んだ琥珀の水面に、この私、レミリア・スカーレットの銀色の髪と紅い瞳を映してキラキラと輝いている。
私はそれをそっと手に持って、優雅に口を付けた。
……ねとり。
口に含んだ液体は、見た目に反したねっとりとした食感で口内を蹂躙し、強烈な、500年生きていても一度も経験したことの無い程のえぐみを舌と喉に塗りつけた。
嚥下しようにも、あまりの粘度にゆっくりとしか喉を落ちて行かず、しかも口中に張り付いて消えやしない。僅かに、辛さと酸味すら感じる。最大限控えめに表現して、死ぬほどまずい。自慢の羽が、私の意思と関係なく痙攣する。
瞬間的にカップを取り落さなかった私を、誰か褒めて欲しい。切実に。
「……ねえ、咲夜?」
震える体と、今にも反逆を起こさんとする胃袋を圧倒的な精神力でねじ伏せて、私は横に侍る従者に問うた。
「これは、何かしら?」
従者の答えは、気軽なものだ。
「庭で採れた、マンドラゴラを煎じて入れてみました。絞首刑で死んだ女性の経血から生えるそうですので、人間の血液にも近いと思いまして」
「あいかわらず、滅多なものを混ぜるのね……」
マンドラゴラ入りの紅茶には、砂糖を入れてみた。1杯2杯3杯4杯5杯6杯……。とりあえず、スプーンでかき混ぜても溶けなくなるまで。
勇気を出して、もう一度口を付けてみる。
強烈なえぐみと辛さと酸味に素敵な甘さが加わって、最強になった。過去最強の破壊力。たぶん死人に飲ませても、あまりの衝撃に目覚めると思う。ポトフの横にマスタード・ガスが添えてあったとしても、これよりは幾ばくかは有情だろう。涙が出てきた。羽がガクガクと痙攣して、もげそうだ。砂糖のせいで余計粘度が上がって、本気で飲み下せない。お花畑が見えてきた。
ああ……いつか飲んだ福寿草の紅茶。これと比べたら、ずっとおいしかったなぁ……
* * *
かつて、一度だけ永遠の夜を創った。
私、レミリア・スカーレットと、十六夜咲夜で。決して明けない夜を。
その日はちょうど満月で、けれども、空に浮く月は張りぼてだった。レジンキャスト未満の、微塵の魔力さえない、粗末で劣悪で塵屑のような紛い物。
空に月を眺めて暮らす私には、それがどうしても許せなかった。
だから、時を止めて、永遠の夜を創った。
そして、私と咲夜は飛んだのだ。永遠の夜を二人で。紛い物の月の下で。
蛍狩りをして。
フライドチキンの話題で盛り上がって。
妹の家庭教師を探して。
博麗の巫女を退けて。
沢山のうさぎたちと戯れて。
遊んで。遊んで。散々遊びつくしてから、やっと私達は月の民達と戦った。
今なら解る。
偽物の月が許せないなんて言いながら、本当は私は、咲夜と遊びたかっただけだったのだ。
だから、博麗の巫女を退けた。
だって、博麗の巫女が動けば、異変は解決してしまう。
遊びの時間は終わってしまう。
だから……
きっと、あの時、本当はまだ異変の元凶なんかには会いたくなかったのだ。
けれど、出会ってしまって。
叩き潰した。
圧倒的に。容赦なく。
だって、咲夜は言ったのだ。
「どんな場面でも、私は力になりますよ。頼りにしてください」と。
人間を狂わす真実の満月を前にして、なお。
そんなことを言われたら、負けるわけになんていかなかった。
怪我一つだって、するわけにはいかなかった。
咲夜の想いと覚悟。咲夜の好意。たとえ砂粒一粒ほどだって、無駄にはしたくなかったから。
そうして、宴は終わった。
終わってしまった。
私が、私達が終わらせた。
楽しかった。
嬉しかった。
……残念で、寂しかった。
きっとだからだろう。
肝試しなんていう、下らない、下心見え見えの二次会に参加したのは。
そして、私は咲夜に言ったのだ。
肝試しの最中、倒れた蓬莱人を前にして。
蓬莱人の肝を食べて、不老不死にならないかと。
ほんのちょっぴり期待を込めて。
一緒に、終わらない二次会をしてみない? と。
「咲夜も不老不死になってみない? そうすればずっと一緒に居られるよ」
そんな、冗談交じりの私の言葉に、咲夜は思いがけず真剣な表情で言葉を返した。
咲夜が初めて私を刺した時と同じくらいに、熱を持った視線で。
私が咲夜を初めて抱いた時と同じくらいに、優しい声で。
とっても、静かに。優しく言ったのだ。
「私は一生死ぬ人間ですよ」
「大丈夫、生きている間は一緒にいますから」
「残念ね」と頷くことしかできなかった。
そのことを……私は、酷く後悔している。
* * *
結論から言うと、十六夜咲夜は死ぬ人間だった。
要するに、死んだ。
あっけなく。あっさりと。あっという間に。たった百年の月日も生きず、瞬きする間に消えてしまった。
紅魔館と、この私、レミリア・スカーレットに、彼女が生きたという痕跡だけを残して。
* * *
咲夜は、死ぬ瞬間まで、体の時を止めていたらしい。らしいというか、止めていた。
だから、見た目だけはずっと若かったし、その日が来る結構直前まで、色々と働きすらしていた。
だから、忘れていた。
咲夜が、人間なのだということを。人間は、寿命で死ぬのだということを。折に触れて、咲夜は私は人間だと言っていたのに。都合よく。ご都合主義に。自分勝手に。忘れていた。
その日は、突然に、必然的にやって来た。
本当はちっとも突然じゃなかったんだけど、私は目を瞑っていたのだ。いつの日か、咲夜は足を引きずって歩くようになっていたのに、体調が悪くなるときもあるだろうとか、身勝手に目を背けていた。
だから、当然の結末として、咲夜は倒れた。
メイド妖精の話では、掃除の途中に突然倒れたらしい。それっきり、起き上がることも出来なかった。
咲夜を部屋に運び込んで、パチェに診て貰って……愚かな私は、初めて咲夜が止めていることが出来ていたのは、上っ面の年齢だけだったのだと知った。内臓は、加齢でどこもかしこもボロボロだった。「そろそろ寿命ね」と呟いたパチェの声が、私の鼓膜を虚しく滑っていった。聞けば、目も半分くらい見えてなかったらしい。白内障に、網膜剥離。咲夜が、物にぶつかる姿も、何度となく見ていたのに、私は気にしもしなかった。瀟洒なメイドの名折れねと、笑いすらした。まったく、咲夜はどこか抜けているんだから、と。
その時は、幸い咲夜は目を覚ました。
両足は、まったく動かなくなっていたけれど。
そして、私は、その段になって初めて、慌てたのだ。
その日以降、私は咲夜につきっきりになった。
竹林の医者にも見て貰った。
河童の機械の力も借りた。
金に糸目はつけなかった。
紅魔館の財政を、惜しげもなく使い込んだ。
咲夜のことが第一で、他の事は二の次になった。
数日間自分が何も食べなくても、特に気にしなかった。
食費の分、咲夜に使うお金が増えたかなとか、そのくらいにしか思わなかった。
そう、咲夜の延命に、全力を尽くした。
全力を尽くしたのだ。
あまりにも、手遅れだったけれど。
結局私に出来たことは、咲夜の苦しみを、ほんの数か月引き延ばすことだけだった。
あっという間に咲夜は物を食べられなくなって、喋ることも出来なくなって、栄養剤の入った点滴と薬の入った点滴と呼吸器によって生き延びるだけの身体になって。
パチェからも、美鈴からも、小悪魔からも、フランからすらも……これ以上生かすのは可哀想だという声が上がって、私もそう思って、それでも決断が出来なくて、一週間泣きはらしてから、くちづけをして首を絞めた。
美鈴は、「点滴と呼吸器を外せば、それだけでいいんです。お嬢様が手を汚さなくても、運命がやってくれます」と言ってくれたけど、それだけは譲ってはいけないと思ったのだ。
だって、咲夜の運命は私だ。私が咲夜に名を与えたのだ。どこの誰とも判らないような運命に、咲夜を引き渡すことは許せなかった。
そう、最後の最後まで、咲夜は私の我儘に振り回されてこの世を去ったのだ。いい気味だった。
* * *
部屋の扉が硬質な音を立てた。あまり間をおかない、均等に3回のノック。
どうぞと声をかける間もなく入って来たのは、やはりパチェだった。相変わらずパチェは、カツカツと私に歩み寄って、私の目の下の皮を引っ張る。ちょっとだけ目がシパシパした。されるがままになっていたら、しばらく眺められた後に、今度は口の中を覗かれた。舌を引っ張られる。いったい何が面白いのだろう? 100年付き合っても、魔女とは不思議な生き物だと思う。
「レミィ。あの後、何食べた?」
パチェが最低限の単語で、特に意味のなさそうな問いを発する。
「んー。ワインは飲んだわ」
面倒だけれど、親友のよしみで答えてやった。
「今度は、食べたとは言わないのね」
「お酒は、"飲む"か"呑む"の二択だと決まってるからねぇ」
「そう。日本語に誠実で嬉しいわ。他には?」
今日のパチェは、やたらとしつこい。
「別に何も」
「レミィ。あなた、死ぬわよ」
「3日やそこら、飲み物飲んでたら死ぬわけないじゃない。人間じゃあるまいし」
「もっとでしょ」
「この前パチェに会った何日か前には食べたわよ」
「この前っていつよ」
やっぱり、魔女は変だ。
「一昨日話したじゃない。同じように、目の下の皮引っ張ってさ。というか、それ面白いわけ?」
「レミィ……私がこの前に来たのは10日前よ」
「そうだっけ?」
そんなことは、ないと思うけれど。
「その間、レミィは何をしてたの?」
「寝てた」
そう。寝てた。寝て、起きて、咲夜の事を思いだして。寝て、起きて、咲夜の事を考えて。2回寝たのだから、2日だ。
「そう」
なのに、なぜかパチェは、ため息とともに首を振った。
「ねぇ、レミィ。たまには咲夜の部屋を掃除して来たら? メイド妖精も入れてないんでしょ。誰も入らない部屋は、無人の家と同じ。ほっとけば朽ちていくだけよ」
そんなこと、望んでないでしょ。そう、パチェは呟いた。まるで、念押しをするように。
それもそうねと、私は頷いた。
* * *
咲夜の部屋には、うっすらと埃が積もっていた。
そんなに長いこと、放っておいたつもりは無いのだけれど。
電源の切られた、きっともう二度と使われることの無いであろう機械たちが、所狭しとベッドの傍にひしめき合い、その隙間を点滴のチューブやら、薬やカルテを置くためのサイドテーブルやらが埋めている。
僅かばかりの本が詰められた本棚は、機械を入れるために取っ払われた。せめてちょっとだけでも殺風景じゃないようにと窓際に置かれていたサボテンは、とうに萎れて捨てられ、今は鉢だけが窓枠に飾られている。
この部屋は、あの日のままだ。咲夜が、死んだ日の。
私が、そうしている。
せめて、時よ止まれと。
なんとなく手を置いた機械に、鈍色の手形が付いたのを見て改めて時間の重みを感じた。
そう言えば、空気も想像以上に埃っぽい。
時よ止まれなんて祈っても、結局私には止めることなど出来やしない。
私はメフィストフェレスでもなければ、十六夜咲夜でもないのだ。
せめて、パチェの言うように掃除でもしておこう。
そう思って、掃除道具を手に取った。
咲夜が元気だったころから部屋の隅に置かれていた、咲夜の掃除道具だ。
* * *
掃除の途中で、一枚の封筒を見つけた。
表には何も書いていない。
手に取った薄さから、その中身はほとんど入っていないことが判る。
きっと、中には便箋が1枚か2枚だけ。
けれどもそれは、咲夜の部屋の、ベットの傍の機械の隙間に挟んであって。
要するに、きっとそれは咲夜が用意したもので。
私は、手紙を引っ掴んで自分の部屋に駆け戻った。
破いて開いても良かったけれど、万が一中身を破いてしまったらと思うと、それも出来なかった。
焦りながら、それでも丁寧に、永遠の時間でも掛けているかのような気分でペーパーナイフを走らす。
中から出てきたのは、やはり1枚の便箋だった。
弱々しい、線のぶれた、それでも間違えようのない咲夜の字で、たった一文、こう書いてあった。
『先に行きます。永遠に待っていません。
十六夜咲夜』
短い一文を、たった一言の遺言を、私は何十回も、何百回も読み返した。
時にしっかりと噛みしめて、時に舐めるようにじっくりと。
時計の針が何度も回り、嫌味な程に明るかった窓の外が、紫色になるまで読み返し続けた。
そして、骨で出来たペーパーナイフを、自分の胸に向けてそっと構えた。上から、左手を重ねる。
ほんの一瞬だけためらった後、思いっきり突き立てた。
柄のすぐ手前まで、深々と刺さった。
血が、どくどくと溢れてきた。
ちゃんと、心臓に刺さってくれたらしい。
私の胸を、私の血が真っ赤に穢す。「スカーレットデビル」の蔑称に相応しく。
ささやかな、嫌がらせだった。
最後の最後に、あんな従者の……私を置いていくような従者の言うことなんて、素直に聞いてやるものか。
溢れる血は、じんわりと暖かかった。
ふと、思い立って一滴だけ舐めてみた。
自分の物なのに、やっぱり血は甘かった。
なのに、不思議な事に、とてもとても苦かった。
本当に、苦かった。
なぜか、いつか飲んだマンドラゴラの紅茶を思い出した。
しかしこれだとパチェが可哀想だな……
(あと欲を言えば誤字脱字チェックをして欲しかった所)
面白かったです。