頭がぼ~っ、とする。
まどろむ意識の中で「お母さん」と呟いてから、そういえばお母さんは仕事で忙しいんだったと思い返す。
風邪引きの私は布団の中で一人ぼっち。
水が飲みたかったけど、起き上がる体力もない。
布団の脇に水差しでも用意してあるんじゃないか、と手さぐりで探すけど、そんなものはもちろんなかった。代わりにおでこに乗せていた濡れタオルがべしょっ、と落ちた。
まさに踏んだり蹴ったりだ。
そう思いながら、落ちた濡れタオルを探すため手を彷徨わせる。
関節が痛くて上手く動かせない。すぐ近くにあるはずの濡れタオルを探すだけなのに……。
「誰か……」
呼んでも無駄な事は分かっているのに、つい呼んでしまう。
誰も来ない事は分かりきっているのに。
「……あ」
ふと。
おでこに濡れタオルが乗せられる。
ちょっぴり冷たい、でもそれが気持ちいい。
誰が乗せたの?
そう思って、うっすらと目を開ける。
「ご機嫌はいかがかしら?」
透き通る天使のような声。
いや、これは誇張表現でも何でもない。今の私には、その人は天使のように見えた。絶望の最中、私に希望の手を差し伸べてくれた天使さま。
大げさかしれないけど、その時の私にはそう感じられた。
「お姉ちゃん……」
姉でも何でもないその人を――そもそも私は一人っ子だ――、私はできる限りの笑みを携えて呼ぶ。
お姉ちゃんは柔らかい笑みを浮かべたままで、「なぁに、早苗ちゃん?」と聞き返してくれた。
あぁ、よかった。
私は一人じゃなかったんだ。
私のそばにはお姉ちゃんがいる。
☆ ☆ ☆
「……――え! 早苗!」
突然呼ばれた自分の名前に、びっくりして目が覚める。
「霊夢……さん?」
あぁ、私は酔い潰れて寝てしまっていたんだ、と思い出した。
ぼんやりとしながらも次第にここが博麗神社で、宴会がいつの間にか終わって周りには自分たち以外しかいない事が分かってくる。
痛む頭を押さえながら、差し出してくれた水を飲むと意識が覚醒してくる。
幻想郷に来た当時の私だったら、酔い潰れたら明日の朝まで起きれないというのが普通だったのに、今はなんとか行動できるまでに回復できている。
いつの間にか私も幻想郷の住人になったんだなぁ、と思わず苦笑してしまう。
幻想郷の住人の資格がお酒に強い事なのは、なんともここらしい環境だと思う。
「大丈夫? つらいようだったら泊まっていく? なんなら、毛布を持ってきてもいいけど」
慣れた様子で霊夢さんが聞いてくる。
酔い潰れた人の介抱が慣れた様子だなんて、巫女とはなんとも面倒な職業だと思う。
自分も同業者なんだからなんとも言えないけど。
「大丈夫です、もう動けます。
私も後片付けの手伝いをしてもいいですか?」
「おっけ~。それじゃあ、ここら辺の片づけは私と魔理沙でやるから、早苗は台所に行って咲夜の洗い物の手伝いをしてくれる?
あいつらったら、飲むだけ飲んで何の片づけもしないで帰って行くんだもの。毎回とはいえ嫌になってくるわ。今度からは場所代を取ろうかしら」
愚痴る霊夢さんに対して、私はくすりと笑みを漏らした。
「なんで笑うのよ?」
「いえ、だって、霊夢さん優しいなぁって思いまして……」
「はぁ!? 私が優しい!? 何を言ってるのよ?」
霊夢さんは心底信じられないといった表情。
何この娘、お酒の飲みすぎでおかしくなっちゃったの? それともアレかしら? この娘の杯に萃香から拝借した鬼のお酒を飲んだのがバレてその仕返しかしらね。早苗って結構陰湿なところがあるからな~。この前だってお酒の間違えた話を吹き込まれたし……。
――というのは、もちろん私の妄想。きっと、霊夢さんはそこまで考えもしないだろう。
裏表がないのが霊夢さんのいいところだと思っている。それが魅力で皆こうして博麗神社に集まって宴会を開き、そして霊夢さん自身もそれを嬉しがっている節がある事も、私は分かっていた。
でも、そんな事を直接口に出したりしない。
この人は素直じゃないから。
「それじゃあ、私は台所に行ってきますね」
即座に退散。転身、転身。逃亡にあらず。
背後から「何なのよ、もうっ!」と霊夢さんの声が聞こえてきたが、ここはひとまず無視しておく事にしよう。
てくてくきゅっきゅっ、と鶯張りの廊下を歩いて台所へ向かう。
他人の家だというのに我ながら勝手知ったる様子だと思う。それほどまでにお世話になっているという証拠かもしれないが。
そうして、台所に到着した私が目にしたものは、鼻唄を歌いながら洗い物に精を出す咲夜さんの後ろ姿だった。
私は悪戯心が芽生えて、咲夜さんの鼻唄に勝手に歌詞をつけて歌う事にした。
「つらくても~♪ 幼女吸血鬼に罵倒されても~♪ 私は頑張るわ~♪ だって、それが~♪
私のドM道~♪」
ひゅんっ!
「ひぃっ!」
零コンマでナイフが飛んできた。
私は悲鳴を上げながらも首をひっこめる事に成功する。
「あら、早苗じゃない。酔いはもう冷めたの?」
そして、この何事もなかったような表情。
咲夜さんはいい意味でも悪い意味でも少女らしい女の子だ。
時には私よりもずっとしっかりしていてお姉ちゃんに見える事もあるけど、今のように年相応の少女らしい可愛さを見せたりもする。
「スローイングには何のコメントも無しなんですね」
「何か言った?」
「いえ、洗い物の手伝いをさせて頂きます」
「そう、助かるわ」
私は咲夜さんの無言の圧力に完膚なきまでの敗北を見せて、おずおずと咲夜さんの隣に立った。
咲夜さんがお皿を洗って、私が水で洗い流す役。これをすると、なんだか新婚夫婦を想像してしまうのは私だけなのだろうか。きっと、ドラマの見過ぎなのだろうと思う。
「咲夜さん、相変わらず手際がいいですね~」
「そうかしら?」
私も家事手伝いに関しては同年代の女の子の中ではできる方だと思っていたが、咲夜さんは格が違う。なんていうのか、私は一般女子レベルに対して、咲夜さんはプロ級なのだ。プロ級と言うと少し大げさに聞こえるかもしれないが、汚れ一つない――むしろ、使う前よりも綺麗になっているように見えるお皿を見てしまうと、ついこう感じてしまう。
逆に私の手垢でお皿が汚れるんじゃないか、と心配する程である。
「これぐらい誰でもできるでしょ?」
「それはできる人間の言う事だと思います……」
しゃべっている間でも咲夜さんの手は止まらない。
「お皿を割った事とかあります?」
私としては、当然この答えはNOを期待していた。
咲夜さんはこれほどの完璧な女性である。お皿を割った事がないなんて朝飯前、聞く事すら失礼だとさえ思われるのかもしれない。
だが、咲夜さんの返答は私の予想に反して、意外なものだった。
「あら、お皿なんてしょっちゅう割っているわよ。私も人間だもの」
「そうなんですか? なんだか意外ですね」
「今だって、えっと……3枚はすでに割っているわね」
「3枚も!? それって多すぎじゃないですか!?」
私がつっこむと、咲夜さんは切れ長の瞳をさらに細めた。
氷のような冷たい瞳に見つめられて、私は背筋がぞくぞくするのと同時に、なんだか誘惑されているような胸の高鳴りを感じるという、相反する二つの感情に襲われた。
「早苗? 犯罪というのはね、気づかれた時点で罪になるのよ」
「つまり?」
「お皿を割っても、時間を止めて隠しておけばおっけー」
「どう考えても 能力の無駄遣い過ぎますっ!!」
「あら、そうかしら?」なんて、咲夜さんは惚けた表情で言いながらも、やっぱり洗い物をする手は止まらない。
騙されたのかな、とか私は思い始めていた。
「でも、やっぱり咲夜さんはすごいです」
「そんなに煽てても何も出ないわよ?」
「……デザートのケーキがちょっぴり多くなるのを期待していたんですが」
「考えなくもないわね」
「やった♪」
取り分け皿等の小皿を洗い終わり、次は大皿や鍋に取りかかる。
こちらは量は少ないものの、汚れがこびり付いていたりするので少し時間がいる。
「……冗談はともかく。
実は私って幻想郷に来る前まではできる女の子だったんですよ」
「さらっと自慢話を混ぜてくるのね」
「スポーツ万能、成績優秀、その上裁縫、料理に掃除洗濯まで何でもござれ。オマケにスタイル抜群と、それは非の付けどころのない完璧少女だったんです」
「自慢話もそこまで行くと呆れてくるわね」
「それが幻想郷に入ったら、巫女として霊夢さんに負けるし、弾幕勝負をスポーツと捉えたら魔理沙さんには勝てないし、家事手伝いに関しては咲夜さんの足元にも及ばず。
私に残ったのはこのスタイルしかないんですよね」
「落ち込むのか自慢するのかどちらかにして欲しいものね」
私は自分の胸をゆさゆさと揺らしてみせます。
幻想郷に来て唯一自慢できるこの胸。
はぁ~っ、自慢できるものがこれだけなんて自信なくすなぁ~。
「まぁ、人間はスタイルが全てじゃないからこの際置いておくわ。スタイルに関してはどうしようもできないからね。ダイエットはできても、一部を大きくする事はできないしね。大きく見せる事はできるのかもしれないけど、実際は大きくなっていないのだから我に返った時の空しさといったら言葉にできないものがあるし」
今までの咲夜さんとは打って変わって、急に愚痴りだします。
私の言った何かが琴線に触れたんでしょうか。
「それでもまぁ……スタイルだけでも――いえ、スタイルが全てじゃない事は私も重々承知なのだけれど、一点だけでも誇れる事があったのなら、それはそれでいいんじゃないのかしらね。
中にはどれだけ努力しても、どれだけ願ってもたどり着けないものもあるのだし」
「そういうものなんですかね……」
「じゃあ一つ聞くけど、私はお嬢様に一生仕えたいと思っているんだけど、これはどう考えても無理な問題よね」
「そりゃあ、咲夜さんは人間でレミリアさんが吸血鬼である限りは無理ですよね。
寿命はどうしようもできない問題の一つですし」
人間はせいぜい100年生きれば十分といったところ。主に仕えるという要因が加わるならば、年数はもっと縮まるだろう。
対して、吸血鬼は何年生きるのだろうか? レミリアさんは500年生きているという話だから、もっともっと生きるのだろう。
1000年くらい? それとも永遠?
どちらにしても私たち人間からしてみればたどり着けない境地である事は間違いない。
「どうせ一生仕える事はできないんだから、今の完璧な私で、今のお嬢様を満足させられる事が今できる精一杯だと思うのよね」
「だからこその『すごい』ですか?」
「そういう事ね」
咲夜さんが少しだけ唇を吊り上げる。
この行為を笑っていると分かった私は、咲夜さんとの付き合いも長くなった事を実感する。
だからこそ、咲夜さんの一連の話は私を慰めてくれた事もすぐに分かった。
「ありがとうございます、咲夜さん」
「あら、私は自分の価値観を話しただけに過ぎないんだけどね」
あくまでも謙遜する咲夜さん。
やっぱりこの女性には敵わない。
「咲夜さんがお姉ちゃんだったらよかったのにな」
つい、ぽつり、と。
その一言を洩らす。
「お姉ちゃん?」
そこで、初めて咲夜さんの手が止まった。
声のトーンが若干高めになり、咲夜さんが私の言葉に疑問を抱いている事は明白だった。
私はあわてて弁解する。
「あ、いや違うです。
私、ずっと一人っ子で、親も神社の仕事で忙しくてそばにいてくれる人がいなかったから。
咲夜さんみたいなお姉ちゃんがいてくれたら楽しかったんだろうなぁ、って思っただけで……。深い意味はないんです。深い意味なんてないんです。
誤解させてしまったのなら謝ります。ごめんなさい」
「それは年齢的な意味でのお姉ちゃんなのかしらね?
私と早苗はそれほど離れているわけではないのに?」
「怖っ!」
再び咲夜さんが目を細める。
この表情は悪魔に教えてもらった狂気の瞳だ。
今の咲夜さんは確実に怒っている。
そうした一連の動作の中で、私は震えと冷や汗と、言いわけを考えていたせいでパンクしそうな頭――結局は、注意散漫になってしまい。
蛇口の水を盛大にぶちまけてしまった。
しかも、私に向けて。
「ひゃああ~~~っ!!!!!!」
気づいた時にはもう遅かった。
私の全身はずぶぬれ。日中は暖かいものの、深夜に冷水を浴びるとかなり寒い。
咲夜さんはかからなかった事が不幸中の幸いと言えるか。
いや、もしかしたら咲夜さんは水がぶちまけれらた時点で、時を止めて避難していたのかもしれない。
――そんな事を考えながらも、私はやっぱり咲夜さんには届かないと思うのだった。
☆ ☆ ☆
「38.0℃……。
これじゃあ今日は神社の仕事はお休みだねぇ」
「ごめんなさい、神奈子さま……」
案の定というべきか、自業自得というべきか。
昨日の一件により私は風邪を引いてしまったのである。
幻想郷に来て私もずいぶんと強くなったと息巻いていたのにこの始末である。あの程度の出来事で風邪を引いてしまうだなんて、我ながら情けない事だと思う。
私の叫び声に驚いて現場に駆け付けた霊夢さんは腹を抱えて笑っていた。あの紅白め、いつか同じ目に合わせてやるっ。
同じく現場に駆け付けた魔理沙さんは酒の肴ができたと喜んでいた。白黒め、アリスさんとのある事ない事を文さんにしゃべりまくってやるっ。
そして、咲夜さんは――何事もなかったようにタオルをもってきて、澄ました顔で拭いてくれた。
その彼女の行動は、私の理想のお姉さんには到底見えなくて。
……他人だった。これ以上ないくらいの赤の他人に見えた。
「それじゃあ、私と諏訪子は山の会合に行ってくるからおとなしく寝てるんだよ」
「はい……」
「夕食は私が作るとして、他に何か欲しいものとかある?
外の世界のものはさすがに無理だけど、それ以外のものだったら天狗たちに言って取ってこさせるけど?」
「じゃあ、温もりをください……」
私の一言に、神奈子さまは一瞬きょとんとした顔を見せた。
何、この娘。風邪で頭がおかしくなっちゃったのかしら? とか考えているのなら、それは心外な話である。
私は至極真面目である。真面目にずれて生きているのである。
「それだけ冗談を言える元気があればすぐに治るでしょ。
早苗、留守番は頼んだわよ」
「はい、いってらっしゃいませ」
神奈子さまと諏訪子さまが行ってしまうと、当然の事ながら私は一人きりとなった。
今日のようにお二人が同時に出かけて私一人がお留守番というケースはたまにあるのだけれど、それでもやっぱり一人は寂しかった。
いつもは境内の掃除とかしてその寂しさを紛らわせたりするけど、今日はそれができない。
目を閉じたら眠れるのかもしれないけど、いろいろな考えが頭をよぎって眠れる気がしない。
「あ~あ、私ったら何をやってるんだろ……」
成長したと思ってたのに全然成長をしていない。
誰かに迷惑をかけてばっかりだ。
人は誰かに迷惑をかけなければ生きてはいけない――とは誰の言葉だったか……。
たしかにその通りだとは思う。誰にも迷惑をかけずに生きていけるなんて人がいたら間違いなく世間知らずか傲慢である。
だけども。
もう少し、せめてもう少しだけしっかり生きていきたいなぁ、とは常々考えている。
「ふぁ……っ」
目がうつらうつらしてくる。
眠れないとは思っていたものの、身体は睡眠を欲しがっているようである。
このまま目を瞑ったらすぐに眠れる。明日起きた時には私はきっと元気になっている事だろう。
元気になったらやりたい事がいろいろある。
今日できなかった家事をこなして、神奈子さまと諏訪子さまにお返しに何か美味しいものを作ろう。霊夢さんと魔理沙さんには宴会のお礼をしないといけない。
そして、咲夜さんには――。
「……あの人は何をあげたら喜ぶんだろ……?」
考えて。考えて。考え始めて。
そしたら、いつの間にか眠っていた。
…………
…………
……冷たい。
なんだろ、気持ちいいな。火照った身体にこの冷たいタオルは心地がいい。
身体中の熱が濡れたタオルに吸収されていくような気がする。
……って、あれ? タオル?
「あっ――!」
そこで目覚めて身体を起こそうとする――ところで、真っ白で細くて長い手に遮られた。
鼻づまりしていたはずなのに、ほのかな香水の香りだけはなぜか分かった。
「病人は寝てなくてはダメでしょ?」
その人は優しい声で言うと、私の頭を枕に乗せて、乱れた布団をかけ直してくれた。ついでにずれたタオルももう一度頭に乗せられる。
私が風邪で寝込んでいる時にそばにいてくれて、そうして、冷たいタオルを頭に乗せてくれる。
そんな優しい人を、私は一人しか知らなくて、ぼ~っとする頭で特に考えもせずにいつのもの呼び方をしてしまった。
「……お姉ちゃん」
私の言葉に対するその人の返答は、なぜかため息だった。
「……あなたはどうやっても私の事を年上扱いしたいみたいね。
たしかに私は年上だけれど、そう露骨な言い方をされると私もどう対処したらいいのか分かりかねるわ。
早苗ちゃん、とでも呼べばあなたは満足なのかしらね?」
「……咲夜さん」
大げさにため息をつく咲夜さんだったが、顔には笑みが浮かんでいた。
この前の別れ際に見せた他人の表情ではなくて、それは私のためを想ってしてくれた表情だった。
それを見ただけで、私は心の中が暖かくなるのを感じていた。
「え……でも、なんで……?
私が風邪を引いたのは神奈子さまと諏訪子さま、それに後は天狗さん達ぐらいしか知らないはずなのに」
「天狗に伝わったら、それは幻想郷中に伝わると思っていた方がいいわ」
「……文さんが?」
「えぇ、その通りよ。「他人の不幸まで記事にする程私は落ちぶれていませんから」って口頭で伝えてきたわ」
そこで、私は唐突に理解する。
私が神奈子さまに温もりが欲しいと言ったのを神奈子さまは叶えてくれたのだという事を。
神奈子さまと諏訪子さまは会合があるから私のそばにいる事はできない。かといって、誰かを呼びに行こうにも時間が足りない。
だったら会合の場で天狗を捕まえて、私が風邪である事を広めてもらえばいいのだ。
結果として、その噂は紅魔館にまで伝わり咲夜さんが来てくれたという事になる。
「お粥作ったのだけど食べられるかしら?
それとも、お姉ちゃんが食べさせてあげようか?」
「……ごめんなさい、一人で食べられます」
私が言うと、「えぇ、分かったわ」と咲夜さんが台所へと向かって行った。
私はその後ろ姿を見ながら、咲夜さんが来てくれた事を実感していた。
ここから紅魔館まではかなりの距離がある。人里に来たついでに寄った程度で来れる場所ではない。
おまけに咲夜さんはメイド長としての仕事をいろいろ抱えているはずなのに、わざわざ私を看病する時間を作ってくれたのだ。
それが私は嬉しかった。
「はい、どうぞ召し上がれ。
お粥に合う食材なんて紅魔館には置いてないから、結局はあなたのところにあった梅干ししか使ってないのだけれど」
「酸っぱいです。
……でも、美味しいです」
口を梅干しの酸っぱさで窄めながら言う。
……そういえば、お姉ちゃんは料理が全然駄目だったっけ?
ふと、咲夜さんとお姉ちゃんとの違いを思い出した。
天使のようなお姉ちゃんだったけど一つだけ欠点があり、それは料理が全然ダメという事である。
お姉ちゃんが看病してくれた時にはいつもレトルトのお粥だった。それでも、お姉ちゃんが来てくれた事に私はいつも感謝していた。
いろいろな事を思い出していくと、このお粥の美味しさがさらに倍増するような気がした。
この微妙な塩加減や、我が神社特製の梅干しの味はレトルトでは絶対に出せない味である。くたくたに焚いたお米の香りがぐずついた鼻を刺激して、一口食べると雪解けに咲いた花のように身体中をほっこりと暖かい気持ちにさせる。
これが手作りの味で、これが咲夜さんの味なんだ……。
……でも、なんでだろ。
ちょっと、しょっぱくなってきたかも。
「しょうがない妹ね」
咲夜さんはそう言いながら持っていたハンカチで私の頬を拭ってくれた。
私はいつの間にか涙を零していたのである。
「そんなに美味しかったのかしら? そこまで露骨な反応をされると、こちらとしてもどう答えたらいいのか分からなくなるわね」
「あ、いえ違うんです。――いや、お粥の味が美味しいのが違うっていう意味じゃなくて……。
なんでだろ……、なんで私は泣いてるんだろ……」
自分でも分からなかった。
でも、胸の中がほんわかと暖かいのを感じた。暖かいお粥を食べたからではなく、もっと別の根本から来る暖かさ。
「まぁ、それだけ食欲があったら明日にでも治っているでしょ。
薬はここに置いておくわね。紅魔館から持ってきたものだから人間のあなたに効くのかどうかは保証できないわ」
「あ、あはは……」
ジョークか本気か分からないその言葉に私は苦笑い。
確かに考えてみると、紅魔館には咲夜さん以外に人間はいないのだから、人間用の薬というのは必要ないのかもしれない。
お粥を食べ終わってから薬を水と一緒に飲む。
……苦い。薬の苦さは幻想郷に来ても変わらないものらしい。
月の頭脳とまで言われている竹林の医者が作ったものだから多少の味は期待していたのに。
「そういえば、昨日から一つ貴方に尋ねたい事があったのだけれど……」
「なんですか? 私に答えられる事なら答えますよ?」
「じゃあ、聞くわね。
お姉ちゃんっていうのはどういう人だったのかしら? そんなに私に似ている人?」
突然の質問に私はどう答えようか一瞬迷った。
持っていた水を最後まで飲み干して、少しだけ思惟の間をつくってから答える。
「似ているところもいっぱいありますし、違っているところもいっぱいありました。
それでも、私が病弱で臥せている時に私のそばにいてくれるのは二人とも同じでした。
私の家はご存じの通り神社ですから、両親と遊んだ経験はあまり残っていません。両親の代わりに私の面倒を見てくれたのがお姉ちゃんだったんです。
綺麗な女性でした。料理もできないし、ちょっとそそっかしいところもあったけど、でもそばにいるだけで楽しい気分にさせてくれる人でした。私は子供ながらにお姉ちゃんみたいな人になりたいと思っていたものです。
私が幻想郷に行くのを打ち明けたのもお姉ちゃんただ一人だけです。お姉ちゃんったら、別れの日に「日本国内とは言っても、北海道よりも遠いところなのかな?」なんて言って最後まで私を楽しませてくれました。
私にとってお姉ちゃんは憧れの人だったり目標の人だったりするわけですけど、やっぱり一番しっくり来る言葉はお姉ちゃんかな、って思うんですよ」
「幻想郷において憧れが私っていうのは昨日も言ってたわね。
でも、貴方にとっての目標は霊夢の方でしょう? 先輩という意味では、霊夢が貴方のお姉さん代わりになるんじゃないの?」
「なんでしょうね……。霊夢さんは私にとって目標ではあるけどお姉さんではないんですよね」
あえて言うならば、霊夢さんは先輩という呼び方になるのかもしれない。
尊敬する人は? と聞かれたら霊夢さんと答えるかもしれないが、私にとってのお姉ちゃんはまた別の意味になる。
考えていくと、私はどういう基準でお姉ちゃんと呼んでいるのか分からなくなる。
霊夢さんだって、お姉ちゃんや咲夜さんのように酔い潰れた私を介抱してくれた経緯があるわけだし……。
「なんとなく、言葉にはしづらいけど分かるような気がするわね。
……自分がその憧れの対象であるのは、ひどく恥かしいような気もするけどね」
そう言って、咲夜さんは微笑した。
この笑顔の意味は簡単に分かった。咲夜さんは照れているのだろう。
いつもは表情を見せないのに、こんなにも露骨な照れ方をされると異性の私でも意識させられてしまう。
「あぁ、そっか。それがきっと私の求めるお姉ちゃんなんでしょうね」
「どういう事かしら?」
言おうか、言うまいか悩む。
咲夜さんの少女らしさが、私の理想――なんて言葉を紡ぐには少し恥ずかしい気がする。
理想は理想であって目標ではないのだ。
だから、きっと私にはいくら頑張っても咲夜さんにもお姉ちゃんにもなれないのだろう。
それが、いい。
「私、きっと明日には元気になってます。
咲夜さんが看病してくれているんだから、それは絶対に絶対です」
「元気になってくれるに越した事はないわね。
紅魔館からここまで毎日来るには少し骨が折れるから」
「毎日来てくれるんですか!?」
私の突然の大きな声に、咲夜さんはびくっと身体を震わせた。
そして気まずそうな顔をする。
思えば、咲夜さんはいろいろな顔を見せる。無表情もそんな顔の一つと考えれば嬉しいものがある。
「なら、私、明日も明後日も風邪で寝込んじゃう自信がありますっ」
「絶対に絶対治ると言ったそばから、寝込む自信って……
私にはあなたのお姉ちゃんが完全に理解できたわけではないけど、一つだけ確かに分かる事があるわ」
「……なんですか?」
咲夜さんは私に背を向けた。
きっと私に笑顔を見せないためだろう。そんなところもお姉ちゃんらしい。
「きっと、出来の悪い妹を持って苦労したでしょうね」
「そうかもしれないですね。
私はお姉ちゃんの前だとダメな妹ですから」
「……自分で言ってたら訳ないわね」
そして二人で笑った。
今度は隠さず。声を上げて。
☆ ☆ ☆
翌日。
私は絶対に絶対の公言通りに元気になった。
その代わりと言っては何だが、咲夜さんが風邪を引いたという噂を天狗から聞いた。
全く、不出来なお姉ちゃんだ。この完璧な妹が看病してあげないといけないらしい。
神社から紅魔館までは距離があるから、毎日行くのはしんどいけど、咲夜さんのためなら頑張ろうと思う。
「さて、何を作ってあげようかな。
咲夜さんは何を持って行ったら喜ぶかな」
ようやく私が咲夜さんに恩返しができる番だ。
風邪で寝込んだお姉ちゃんを私が看病する。
――この今まで体験した事のない出来事に、私は自然と顔がにやけて、足取り軽く紅魔館へと向かうのだった。
了。
まどろむ意識の中で「お母さん」と呟いてから、そういえばお母さんは仕事で忙しいんだったと思い返す。
風邪引きの私は布団の中で一人ぼっち。
水が飲みたかったけど、起き上がる体力もない。
布団の脇に水差しでも用意してあるんじゃないか、と手さぐりで探すけど、そんなものはもちろんなかった。代わりにおでこに乗せていた濡れタオルがべしょっ、と落ちた。
まさに踏んだり蹴ったりだ。
そう思いながら、落ちた濡れタオルを探すため手を彷徨わせる。
関節が痛くて上手く動かせない。すぐ近くにあるはずの濡れタオルを探すだけなのに……。
「誰か……」
呼んでも無駄な事は分かっているのに、つい呼んでしまう。
誰も来ない事は分かりきっているのに。
「……あ」
ふと。
おでこに濡れタオルが乗せられる。
ちょっぴり冷たい、でもそれが気持ちいい。
誰が乗せたの?
そう思って、うっすらと目を開ける。
「ご機嫌はいかがかしら?」
透き通る天使のような声。
いや、これは誇張表現でも何でもない。今の私には、その人は天使のように見えた。絶望の最中、私に希望の手を差し伸べてくれた天使さま。
大げさかしれないけど、その時の私にはそう感じられた。
「お姉ちゃん……」
姉でも何でもないその人を――そもそも私は一人っ子だ――、私はできる限りの笑みを携えて呼ぶ。
お姉ちゃんは柔らかい笑みを浮かべたままで、「なぁに、早苗ちゃん?」と聞き返してくれた。
あぁ、よかった。
私は一人じゃなかったんだ。
私のそばにはお姉ちゃんがいる。
☆ ☆ ☆
「……――え! 早苗!」
突然呼ばれた自分の名前に、びっくりして目が覚める。
「霊夢……さん?」
あぁ、私は酔い潰れて寝てしまっていたんだ、と思い出した。
ぼんやりとしながらも次第にここが博麗神社で、宴会がいつの間にか終わって周りには自分たち以外しかいない事が分かってくる。
痛む頭を押さえながら、差し出してくれた水を飲むと意識が覚醒してくる。
幻想郷に来た当時の私だったら、酔い潰れたら明日の朝まで起きれないというのが普通だったのに、今はなんとか行動できるまでに回復できている。
いつの間にか私も幻想郷の住人になったんだなぁ、と思わず苦笑してしまう。
幻想郷の住人の資格がお酒に強い事なのは、なんともここらしい環境だと思う。
「大丈夫? つらいようだったら泊まっていく? なんなら、毛布を持ってきてもいいけど」
慣れた様子で霊夢さんが聞いてくる。
酔い潰れた人の介抱が慣れた様子だなんて、巫女とはなんとも面倒な職業だと思う。
自分も同業者なんだからなんとも言えないけど。
「大丈夫です、もう動けます。
私も後片付けの手伝いをしてもいいですか?」
「おっけ~。それじゃあ、ここら辺の片づけは私と魔理沙でやるから、早苗は台所に行って咲夜の洗い物の手伝いをしてくれる?
あいつらったら、飲むだけ飲んで何の片づけもしないで帰って行くんだもの。毎回とはいえ嫌になってくるわ。今度からは場所代を取ろうかしら」
愚痴る霊夢さんに対して、私はくすりと笑みを漏らした。
「なんで笑うのよ?」
「いえ、だって、霊夢さん優しいなぁって思いまして……」
「はぁ!? 私が優しい!? 何を言ってるのよ?」
霊夢さんは心底信じられないといった表情。
何この娘、お酒の飲みすぎでおかしくなっちゃったの? それともアレかしら? この娘の杯に萃香から拝借した鬼のお酒を飲んだのがバレてその仕返しかしらね。早苗って結構陰湿なところがあるからな~。この前だってお酒の間違えた話を吹き込まれたし……。
――というのは、もちろん私の妄想。きっと、霊夢さんはそこまで考えもしないだろう。
裏表がないのが霊夢さんのいいところだと思っている。それが魅力で皆こうして博麗神社に集まって宴会を開き、そして霊夢さん自身もそれを嬉しがっている節がある事も、私は分かっていた。
でも、そんな事を直接口に出したりしない。
この人は素直じゃないから。
「それじゃあ、私は台所に行ってきますね」
即座に退散。転身、転身。逃亡にあらず。
背後から「何なのよ、もうっ!」と霊夢さんの声が聞こえてきたが、ここはひとまず無視しておく事にしよう。
てくてくきゅっきゅっ、と鶯張りの廊下を歩いて台所へ向かう。
他人の家だというのに我ながら勝手知ったる様子だと思う。それほどまでにお世話になっているという証拠かもしれないが。
そうして、台所に到着した私が目にしたものは、鼻唄を歌いながら洗い物に精を出す咲夜さんの後ろ姿だった。
私は悪戯心が芽生えて、咲夜さんの鼻唄に勝手に歌詞をつけて歌う事にした。
「つらくても~♪ 幼女吸血鬼に罵倒されても~♪ 私は頑張るわ~♪ だって、それが~♪
私のドM道~♪」
ひゅんっ!
「ひぃっ!」
零コンマでナイフが飛んできた。
私は悲鳴を上げながらも首をひっこめる事に成功する。
「あら、早苗じゃない。酔いはもう冷めたの?」
そして、この何事もなかったような表情。
咲夜さんはいい意味でも悪い意味でも少女らしい女の子だ。
時には私よりもずっとしっかりしていてお姉ちゃんに見える事もあるけど、今のように年相応の少女らしい可愛さを見せたりもする。
「スローイングには何のコメントも無しなんですね」
「何か言った?」
「いえ、洗い物の手伝いをさせて頂きます」
「そう、助かるわ」
私は咲夜さんの無言の圧力に完膚なきまでの敗北を見せて、おずおずと咲夜さんの隣に立った。
咲夜さんがお皿を洗って、私が水で洗い流す役。これをすると、なんだか新婚夫婦を想像してしまうのは私だけなのだろうか。きっと、ドラマの見過ぎなのだろうと思う。
「咲夜さん、相変わらず手際がいいですね~」
「そうかしら?」
私も家事手伝いに関しては同年代の女の子の中ではできる方だと思っていたが、咲夜さんは格が違う。なんていうのか、私は一般女子レベルに対して、咲夜さんはプロ級なのだ。プロ級と言うと少し大げさに聞こえるかもしれないが、汚れ一つない――むしろ、使う前よりも綺麗になっているように見えるお皿を見てしまうと、ついこう感じてしまう。
逆に私の手垢でお皿が汚れるんじゃないか、と心配する程である。
「これぐらい誰でもできるでしょ?」
「それはできる人間の言う事だと思います……」
しゃべっている間でも咲夜さんの手は止まらない。
「お皿を割った事とかあります?」
私としては、当然この答えはNOを期待していた。
咲夜さんはこれほどの完璧な女性である。お皿を割った事がないなんて朝飯前、聞く事すら失礼だとさえ思われるのかもしれない。
だが、咲夜さんの返答は私の予想に反して、意外なものだった。
「あら、お皿なんてしょっちゅう割っているわよ。私も人間だもの」
「そうなんですか? なんだか意外ですね」
「今だって、えっと……3枚はすでに割っているわね」
「3枚も!? それって多すぎじゃないですか!?」
私がつっこむと、咲夜さんは切れ長の瞳をさらに細めた。
氷のような冷たい瞳に見つめられて、私は背筋がぞくぞくするのと同時に、なんだか誘惑されているような胸の高鳴りを感じるという、相反する二つの感情に襲われた。
「早苗? 犯罪というのはね、気づかれた時点で罪になるのよ」
「つまり?」
「お皿を割っても、時間を止めて隠しておけばおっけー」
「どう考えても 能力の無駄遣い過ぎますっ!!」
「あら、そうかしら?」なんて、咲夜さんは惚けた表情で言いながらも、やっぱり洗い物をする手は止まらない。
騙されたのかな、とか私は思い始めていた。
「でも、やっぱり咲夜さんはすごいです」
「そんなに煽てても何も出ないわよ?」
「……デザートのケーキがちょっぴり多くなるのを期待していたんですが」
「考えなくもないわね」
「やった♪」
取り分け皿等の小皿を洗い終わり、次は大皿や鍋に取りかかる。
こちらは量は少ないものの、汚れがこびり付いていたりするので少し時間がいる。
「……冗談はともかく。
実は私って幻想郷に来る前まではできる女の子だったんですよ」
「さらっと自慢話を混ぜてくるのね」
「スポーツ万能、成績優秀、その上裁縫、料理に掃除洗濯まで何でもござれ。オマケにスタイル抜群と、それは非の付けどころのない完璧少女だったんです」
「自慢話もそこまで行くと呆れてくるわね」
「それが幻想郷に入ったら、巫女として霊夢さんに負けるし、弾幕勝負をスポーツと捉えたら魔理沙さんには勝てないし、家事手伝いに関しては咲夜さんの足元にも及ばず。
私に残ったのはこのスタイルしかないんですよね」
「落ち込むのか自慢するのかどちらかにして欲しいものね」
私は自分の胸をゆさゆさと揺らしてみせます。
幻想郷に来て唯一自慢できるこの胸。
はぁ~っ、自慢できるものがこれだけなんて自信なくすなぁ~。
「まぁ、人間はスタイルが全てじゃないからこの際置いておくわ。スタイルに関してはどうしようもできないからね。ダイエットはできても、一部を大きくする事はできないしね。大きく見せる事はできるのかもしれないけど、実際は大きくなっていないのだから我に返った時の空しさといったら言葉にできないものがあるし」
今までの咲夜さんとは打って変わって、急に愚痴りだします。
私の言った何かが琴線に触れたんでしょうか。
「それでもまぁ……スタイルだけでも――いえ、スタイルが全てじゃない事は私も重々承知なのだけれど、一点だけでも誇れる事があったのなら、それはそれでいいんじゃないのかしらね。
中にはどれだけ努力しても、どれだけ願ってもたどり着けないものもあるのだし」
「そういうものなんですかね……」
「じゃあ一つ聞くけど、私はお嬢様に一生仕えたいと思っているんだけど、これはどう考えても無理な問題よね」
「そりゃあ、咲夜さんは人間でレミリアさんが吸血鬼である限りは無理ですよね。
寿命はどうしようもできない問題の一つですし」
人間はせいぜい100年生きれば十分といったところ。主に仕えるという要因が加わるならば、年数はもっと縮まるだろう。
対して、吸血鬼は何年生きるのだろうか? レミリアさんは500年生きているという話だから、もっともっと生きるのだろう。
1000年くらい? それとも永遠?
どちらにしても私たち人間からしてみればたどり着けない境地である事は間違いない。
「どうせ一生仕える事はできないんだから、今の完璧な私で、今のお嬢様を満足させられる事が今できる精一杯だと思うのよね」
「だからこその『すごい』ですか?」
「そういう事ね」
咲夜さんが少しだけ唇を吊り上げる。
この行為を笑っていると分かった私は、咲夜さんとの付き合いも長くなった事を実感する。
だからこそ、咲夜さんの一連の話は私を慰めてくれた事もすぐに分かった。
「ありがとうございます、咲夜さん」
「あら、私は自分の価値観を話しただけに過ぎないんだけどね」
あくまでも謙遜する咲夜さん。
やっぱりこの女性には敵わない。
「咲夜さんがお姉ちゃんだったらよかったのにな」
つい、ぽつり、と。
その一言を洩らす。
「お姉ちゃん?」
そこで、初めて咲夜さんの手が止まった。
声のトーンが若干高めになり、咲夜さんが私の言葉に疑問を抱いている事は明白だった。
私はあわてて弁解する。
「あ、いや違うです。
私、ずっと一人っ子で、親も神社の仕事で忙しくてそばにいてくれる人がいなかったから。
咲夜さんみたいなお姉ちゃんがいてくれたら楽しかったんだろうなぁ、って思っただけで……。深い意味はないんです。深い意味なんてないんです。
誤解させてしまったのなら謝ります。ごめんなさい」
「それは年齢的な意味でのお姉ちゃんなのかしらね?
私と早苗はそれほど離れているわけではないのに?」
「怖っ!」
再び咲夜さんが目を細める。
この表情は悪魔に教えてもらった狂気の瞳だ。
今の咲夜さんは確実に怒っている。
そうした一連の動作の中で、私は震えと冷や汗と、言いわけを考えていたせいでパンクしそうな頭――結局は、注意散漫になってしまい。
蛇口の水を盛大にぶちまけてしまった。
しかも、私に向けて。
「ひゃああ~~~っ!!!!!!」
気づいた時にはもう遅かった。
私の全身はずぶぬれ。日中は暖かいものの、深夜に冷水を浴びるとかなり寒い。
咲夜さんはかからなかった事が不幸中の幸いと言えるか。
いや、もしかしたら咲夜さんは水がぶちまけれらた時点で、時を止めて避難していたのかもしれない。
――そんな事を考えながらも、私はやっぱり咲夜さんには届かないと思うのだった。
☆ ☆ ☆
「38.0℃……。
これじゃあ今日は神社の仕事はお休みだねぇ」
「ごめんなさい、神奈子さま……」
案の定というべきか、自業自得というべきか。
昨日の一件により私は風邪を引いてしまったのである。
幻想郷に来て私もずいぶんと強くなったと息巻いていたのにこの始末である。あの程度の出来事で風邪を引いてしまうだなんて、我ながら情けない事だと思う。
私の叫び声に驚いて現場に駆け付けた霊夢さんは腹を抱えて笑っていた。あの紅白め、いつか同じ目に合わせてやるっ。
同じく現場に駆け付けた魔理沙さんは酒の肴ができたと喜んでいた。白黒め、アリスさんとのある事ない事を文さんにしゃべりまくってやるっ。
そして、咲夜さんは――何事もなかったようにタオルをもってきて、澄ました顔で拭いてくれた。
その彼女の行動は、私の理想のお姉さんには到底見えなくて。
……他人だった。これ以上ないくらいの赤の他人に見えた。
「それじゃあ、私と諏訪子は山の会合に行ってくるからおとなしく寝てるんだよ」
「はい……」
「夕食は私が作るとして、他に何か欲しいものとかある?
外の世界のものはさすがに無理だけど、それ以外のものだったら天狗たちに言って取ってこさせるけど?」
「じゃあ、温もりをください……」
私の一言に、神奈子さまは一瞬きょとんとした顔を見せた。
何、この娘。風邪で頭がおかしくなっちゃったのかしら? とか考えているのなら、それは心外な話である。
私は至極真面目である。真面目にずれて生きているのである。
「それだけ冗談を言える元気があればすぐに治るでしょ。
早苗、留守番は頼んだわよ」
「はい、いってらっしゃいませ」
神奈子さまと諏訪子さまが行ってしまうと、当然の事ながら私は一人きりとなった。
今日のようにお二人が同時に出かけて私一人がお留守番というケースはたまにあるのだけれど、それでもやっぱり一人は寂しかった。
いつもは境内の掃除とかしてその寂しさを紛らわせたりするけど、今日はそれができない。
目を閉じたら眠れるのかもしれないけど、いろいろな考えが頭をよぎって眠れる気がしない。
「あ~あ、私ったら何をやってるんだろ……」
成長したと思ってたのに全然成長をしていない。
誰かに迷惑をかけてばっかりだ。
人は誰かに迷惑をかけなければ生きてはいけない――とは誰の言葉だったか……。
たしかにその通りだとは思う。誰にも迷惑をかけずに生きていけるなんて人がいたら間違いなく世間知らずか傲慢である。
だけども。
もう少し、せめてもう少しだけしっかり生きていきたいなぁ、とは常々考えている。
「ふぁ……っ」
目がうつらうつらしてくる。
眠れないとは思っていたものの、身体は睡眠を欲しがっているようである。
このまま目を瞑ったらすぐに眠れる。明日起きた時には私はきっと元気になっている事だろう。
元気になったらやりたい事がいろいろある。
今日できなかった家事をこなして、神奈子さまと諏訪子さまにお返しに何か美味しいものを作ろう。霊夢さんと魔理沙さんには宴会のお礼をしないといけない。
そして、咲夜さんには――。
「……あの人は何をあげたら喜ぶんだろ……?」
考えて。考えて。考え始めて。
そしたら、いつの間にか眠っていた。
…………
…………
……冷たい。
なんだろ、気持ちいいな。火照った身体にこの冷たいタオルは心地がいい。
身体中の熱が濡れたタオルに吸収されていくような気がする。
……って、あれ? タオル?
「あっ――!」
そこで目覚めて身体を起こそうとする――ところで、真っ白で細くて長い手に遮られた。
鼻づまりしていたはずなのに、ほのかな香水の香りだけはなぜか分かった。
「病人は寝てなくてはダメでしょ?」
その人は優しい声で言うと、私の頭を枕に乗せて、乱れた布団をかけ直してくれた。ついでにずれたタオルももう一度頭に乗せられる。
私が風邪で寝込んでいる時にそばにいてくれて、そうして、冷たいタオルを頭に乗せてくれる。
そんな優しい人を、私は一人しか知らなくて、ぼ~っとする頭で特に考えもせずにいつのもの呼び方をしてしまった。
「……お姉ちゃん」
私の言葉に対するその人の返答は、なぜかため息だった。
「……あなたはどうやっても私の事を年上扱いしたいみたいね。
たしかに私は年上だけれど、そう露骨な言い方をされると私もどう対処したらいいのか分かりかねるわ。
早苗ちゃん、とでも呼べばあなたは満足なのかしらね?」
「……咲夜さん」
大げさにため息をつく咲夜さんだったが、顔には笑みが浮かんでいた。
この前の別れ際に見せた他人の表情ではなくて、それは私のためを想ってしてくれた表情だった。
それを見ただけで、私は心の中が暖かくなるのを感じていた。
「え……でも、なんで……?
私が風邪を引いたのは神奈子さまと諏訪子さま、それに後は天狗さん達ぐらいしか知らないはずなのに」
「天狗に伝わったら、それは幻想郷中に伝わると思っていた方がいいわ」
「……文さんが?」
「えぇ、その通りよ。「他人の不幸まで記事にする程私は落ちぶれていませんから」って口頭で伝えてきたわ」
そこで、私は唐突に理解する。
私が神奈子さまに温もりが欲しいと言ったのを神奈子さまは叶えてくれたのだという事を。
神奈子さまと諏訪子さまは会合があるから私のそばにいる事はできない。かといって、誰かを呼びに行こうにも時間が足りない。
だったら会合の場で天狗を捕まえて、私が風邪である事を広めてもらえばいいのだ。
結果として、その噂は紅魔館にまで伝わり咲夜さんが来てくれたという事になる。
「お粥作ったのだけど食べられるかしら?
それとも、お姉ちゃんが食べさせてあげようか?」
「……ごめんなさい、一人で食べられます」
私が言うと、「えぇ、分かったわ」と咲夜さんが台所へと向かって行った。
私はその後ろ姿を見ながら、咲夜さんが来てくれた事を実感していた。
ここから紅魔館まではかなりの距離がある。人里に来たついでに寄った程度で来れる場所ではない。
おまけに咲夜さんはメイド長としての仕事をいろいろ抱えているはずなのに、わざわざ私を看病する時間を作ってくれたのだ。
それが私は嬉しかった。
「はい、どうぞ召し上がれ。
お粥に合う食材なんて紅魔館には置いてないから、結局はあなたのところにあった梅干ししか使ってないのだけれど」
「酸っぱいです。
……でも、美味しいです」
口を梅干しの酸っぱさで窄めながら言う。
……そういえば、お姉ちゃんは料理が全然駄目だったっけ?
ふと、咲夜さんとお姉ちゃんとの違いを思い出した。
天使のようなお姉ちゃんだったけど一つだけ欠点があり、それは料理が全然ダメという事である。
お姉ちゃんが看病してくれた時にはいつもレトルトのお粥だった。それでも、お姉ちゃんが来てくれた事に私はいつも感謝していた。
いろいろな事を思い出していくと、このお粥の美味しさがさらに倍増するような気がした。
この微妙な塩加減や、我が神社特製の梅干しの味はレトルトでは絶対に出せない味である。くたくたに焚いたお米の香りがぐずついた鼻を刺激して、一口食べると雪解けに咲いた花のように身体中をほっこりと暖かい気持ちにさせる。
これが手作りの味で、これが咲夜さんの味なんだ……。
……でも、なんでだろ。
ちょっと、しょっぱくなってきたかも。
「しょうがない妹ね」
咲夜さんはそう言いながら持っていたハンカチで私の頬を拭ってくれた。
私はいつの間にか涙を零していたのである。
「そんなに美味しかったのかしら? そこまで露骨な反応をされると、こちらとしてもどう答えたらいいのか分からなくなるわね」
「あ、いえ違うんです。――いや、お粥の味が美味しいのが違うっていう意味じゃなくて……。
なんでだろ……、なんで私は泣いてるんだろ……」
自分でも分からなかった。
でも、胸の中がほんわかと暖かいのを感じた。暖かいお粥を食べたからではなく、もっと別の根本から来る暖かさ。
「まぁ、それだけ食欲があったら明日にでも治っているでしょ。
薬はここに置いておくわね。紅魔館から持ってきたものだから人間のあなたに効くのかどうかは保証できないわ」
「あ、あはは……」
ジョークか本気か分からないその言葉に私は苦笑い。
確かに考えてみると、紅魔館には咲夜さん以外に人間はいないのだから、人間用の薬というのは必要ないのかもしれない。
お粥を食べ終わってから薬を水と一緒に飲む。
……苦い。薬の苦さは幻想郷に来ても変わらないものらしい。
月の頭脳とまで言われている竹林の医者が作ったものだから多少の味は期待していたのに。
「そういえば、昨日から一つ貴方に尋ねたい事があったのだけれど……」
「なんですか? 私に答えられる事なら答えますよ?」
「じゃあ、聞くわね。
お姉ちゃんっていうのはどういう人だったのかしら? そんなに私に似ている人?」
突然の質問に私はどう答えようか一瞬迷った。
持っていた水を最後まで飲み干して、少しだけ思惟の間をつくってから答える。
「似ているところもいっぱいありますし、違っているところもいっぱいありました。
それでも、私が病弱で臥せている時に私のそばにいてくれるのは二人とも同じでした。
私の家はご存じの通り神社ですから、両親と遊んだ経験はあまり残っていません。両親の代わりに私の面倒を見てくれたのがお姉ちゃんだったんです。
綺麗な女性でした。料理もできないし、ちょっとそそっかしいところもあったけど、でもそばにいるだけで楽しい気分にさせてくれる人でした。私は子供ながらにお姉ちゃんみたいな人になりたいと思っていたものです。
私が幻想郷に行くのを打ち明けたのもお姉ちゃんただ一人だけです。お姉ちゃんったら、別れの日に「日本国内とは言っても、北海道よりも遠いところなのかな?」なんて言って最後まで私を楽しませてくれました。
私にとってお姉ちゃんは憧れの人だったり目標の人だったりするわけですけど、やっぱり一番しっくり来る言葉はお姉ちゃんかな、って思うんですよ」
「幻想郷において憧れが私っていうのは昨日も言ってたわね。
でも、貴方にとっての目標は霊夢の方でしょう? 先輩という意味では、霊夢が貴方のお姉さん代わりになるんじゃないの?」
「なんでしょうね……。霊夢さんは私にとって目標ではあるけどお姉さんではないんですよね」
あえて言うならば、霊夢さんは先輩という呼び方になるのかもしれない。
尊敬する人は? と聞かれたら霊夢さんと答えるかもしれないが、私にとってのお姉ちゃんはまた別の意味になる。
考えていくと、私はどういう基準でお姉ちゃんと呼んでいるのか分からなくなる。
霊夢さんだって、お姉ちゃんや咲夜さんのように酔い潰れた私を介抱してくれた経緯があるわけだし……。
「なんとなく、言葉にはしづらいけど分かるような気がするわね。
……自分がその憧れの対象であるのは、ひどく恥かしいような気もするけどね」
そう言って、咲夜さんは微笑した。
この笑顔の意味は簡単に分かった。咲夜さんは照れているのだろう。
いつもは表情を見せないのに、こんなにも露骨な照れ方をされると異性の私でも意識させられてしまう。
「あぁ、そっか。それがきっと私の求めるお姉ちゃんなんでしょうね」
「どういう事かしら?」
言おうか、言うまいか悩む。
咲夜さんの少女らしさが、私の理想――なんて言葉を紡ぐには少し恥ずかしい気がする。
理想は理想であって目標ではないのだ。
だから、きっと私にはいくら頑張っても咲夜さんにもお姉ちゃんにもなれないのだろう。
それが、いい。
「私、きっと明日には元気になってます。
咲夜さんが看病してくれているんだから、それは絶対に絶対です」
「元気になってくれるに越した事はないわね。
紅魔館からここまで毎日来るには少し骨が折れるから」
「毎日来てくれるんですか!?」
私の突然の大きな声に、咲夜さんはびくっと身体を震わせた。
そして気まずそうな顔をする。
思えば、咲夜さんはいろいろな顔を見せる。無表情もそんな顔の一つと考えれば嬉しいものがある。
「なら、私、明日も明後日も風邪で寝込んじゃう自信がありますっ」
「絶対に絶対治ると言ったそばから、寝込む自信って……
私にはあなたのお姉ちゃんが完全に理解できたわけではないけど、一つだけ確かに分かる事があるわ」
「……なんですか?」
咲夜さんは私に背を向けた。
きっと私に笑顔を見せないためだろう。そんなところもお姉ちゃんらしい。
「きっと、出来の悪い妹を持って苦労したでしょうね」
「そうかもしれないですね。
私はお姉ちゃんの前だとダメな妹ですから」
「……自分で言ってたら訳ないわね」
そして二人で笑った。
今度は隠さず。声を上げて。
☆ ☆ ☆
翌日。
私は絶対に絶対の公言通りに元気になった。
その代わりと言っては何だが、咲夜さんが風邪を引いたという噂を天狗から聞いた。
全く、不出来なお姉ちゃんだ。この完璧な妹が看病してあげないといけないらしい。
神社から紅魔館までは距離があるから、毎日行くのはしんどいけど、咲夜さんのためなら頑張ろうと思う。
「さて、何を作ってあげようかな。
咲夜さんは何を持って行ったら喜ぶかな」
ようやく私が咲夜さんに恩返しができる番だ。
風邪で寝込んだお姉ちゃんを私が看病する。
――この今まで体験した事のない出来事に、私は自然と顔がにやけて、足取り軽く紅魔館へと向かうのだった。
了。