「嫦娥よ、見ているか!」
純狐の叫びは竹林の間をさっと駆け抜けると、やがて湿った土の上に落ちていきました。
その黒い土をぺっぺと吐き出しながら、鈴仙は落とし穴から這いあがります。穴をよじ登る所作は堂に入ったものがあり、彼女と落とし穴の密接な関係がうかがえます。
「あの、純狐さん」
「不倶戴天の敵、嫦娥よ! 見るがいい! 鈴仙の理由なく困らせたくなる受身の顔つきを! あの子によく似た輝きを! そして、私の恨みの在り処を思い知れ!」
「純狐さん」
鈴仙が重ねて呼びかけると、純狐はようやくその声に気付きます。歳のせいで耳が遠いのです。
歳、いったい幾つなんだろうな、とでも考えるような素振りを見せる鈴仙ですが、決して口に出すことはありません。おそらく、かつて八意相手に同じことを考えてたずねた経験が、彼女の頭蓋に鋭いラッパ音を響かせているのでしょう。
過去の忌まわしい恐怖の想起に、鈴仙の首周りはじっとりと冷たく濡れ、長い耳はくしゃんと垂れ、まるく可愛らしい膝は滅びのときを迎えた人類のように震えました。
その怯える姿を見るや、純狐は両腕をゆるりと開けて、熱っぽい眼差しを鈴仙に向けます。ですが、なかなか気づいてもらえず、抱きしめるために差し出された両腕が寂しさを感じ始めたころ、純狐は突然、体をほぐすような大きな伸びをして、行き場のない両腕の戸惑いを大胆に誤魔化しました。
鈴仙はそのような極めて高度な心理的防衛戦があったことなどまったく知らずに、どうにか気を落ち着かせ、自分の耳がさらにくしゃしゃんと垂れるのを無視して、採取した薬草の詰まった籠を背負い直しました。
純狐はそんな鈴仙をあらためて見つめます。
「おや。どうしました、鈴仙。泥であちこちが汚れていますよ」
「あなたが急に声をあげるものですから、気がそれて穴に落ちてしまったんですよ。この竹林では落とし穴が生き物みたいにうごめいてますから」
「ほう、この地の落とし穴はずいぶんと賢いものね。気をつけておきましょう」
純狐はもっともらしい顔つきで頷きました。それが、単なる皮肉なのか、それとも素直に受け止めたものなのか、さっぱり分からない。鈴仙はそんなぼんやりした面持ちでスカートについた泥を払いました。
しかし、二人が再び歩き出したとき、穴に落ちるまではすぐ横にいた純狐が今になって背後にぴたりとくっついてきたのを見て、鈴仙の瞳はきらりと赤く輝きました。
「ところで、その、突然叫ぶ……癖? 癖でいいんですよね。どうにかなりません?」
「驚かせてしまいましたね。ですが、この身の血肉である憎しみは抑えられぬものなのです。純化された恨みは留まることを嫌い、大きく膨らんで、膨らみ過ぎて、胸を突き破るの。時々ね」
純狐の言葉に、鈴仙の口元は少しだけ強ばりました。きっと、時々という言葉の意味と、今朝永遠亭の門前で会ってから今までで、すでに七度目となる純狐の発作的な感情の発露について考えているのでしょう。
そのようにむうんむんと思い悩む鈴仙でしたが、突然自分の肩にそっと手がかかったので、引き結ばれた唇が花咲くようにまるく開きました。
「鈴仙、こちらへ」
純狐は鈴仙を振り返らせると、ぐっと身体を引き寄せます。二人の距離は、唇のやわらかさが、吐息の熱さが、桃色の濡れた舌のきらめきが、瞳の向こう側が、自身の感覚と結ばれるところにありました。
純狐は明らかに息を呑む様子を見せている鈴仙を気にも留めず、彼女の頬についていた泥の欠片を親指の先で丁寧に拭いました。
「まだ、ついていたわ」
純狐は満足げに腕の中にいる鈴仙を見下ろしました。ですが、その指は役目を終えてなお、鈴仙の頬から離れようとはしません。かといって探るような様子も見せず、ただあるべくしてそこにあるように、純狐の指先は悠然と構えています。
鈴仙の瞳はそろそろと浮き上がり、それから力尽きたように落ちることを繰り返しました。触れる純狐の指に不快さはなく、むしろ熱っぽい肌に別の温かみがある心地よさに身をゆだねているかのように、鈴仙の顔はぽぽぽっと朱色に灯りました。
無数の青い竹の間を縫って、風がそよよと泳ぎます。薄紫の髪は踊るように広がり、そこへ黄金色の波が鮮やかに交わりました。
「綺麗になりましたね」
「あ、あ、あの」
「なにか?」
「えと、そのう、ど、どうも」
鈴仙は口を開きましたが、出てきた言葉はなんともぎこちないものでした。
その白く細い喉に、礼儀のための言葉とは別に、心の奥深いところより湧き出すとろりとした液体がせり上がり、どうしようもない息苦しさを覚えたからでしょうか。それとも、目まいに似た不思議な感覚が、瞳の奥で白い火花を散らしたからでしょうか。
竹の群れから逃れた細い陽射しはそうした幻想を照らしだし、鈴仙の顔にかすかな陰りをつくりました。
鈴仙は自分の頬にある手を払うこともせず、唇を舌で湿らせながら純狐をそろそろと見上げます。すると、それまでぴくりとも動かなかった純狐の手は、息を吹き返したようにふわりと浮かび、それから鈴仙の唇に寄り添いました。
ふくりとした血色のいい唇に、純狐は親指を押し当てます。途端に鈴仙の垂れた耳はぴんと立ちましたが、純狐は気にも留めません。少し肉厚な二枚の花弁を割り開き、奥に覗く白い歯が蜜のようなきらめきを見せたとき、純狐の目はすっと細くなりました。
鈴仙は胸元で手を組んだり離したりしましたが、やがて口をもごもごと動かしました。
「あ、え、あの、なにをされて」
「月の兎(せんし)のくせに、とてもやわらかそうだなと思いまして」
鈴仙の唇が持つ魅力的な弾力の作用は、純狐の口元に働きかけ、おだやかな笑みを浮かばせます。そして、純狐の指は腹を満たした蝶のように、鈴仙のもとからするりと飛び立ちました。
その動きをぼんやりと見届けた鈴仙は、たちまち目を見開き、一歩後ずさりました。真っ赤な瞳は、一段と輝きを増し、ひと回り大きくなっています。引っかかっていたことがようやく飲み込めたような、たとえば、どうして自分は先ほどまで純狐の束縛に一切の抵抗を示さなかったのか、そうした疑問の答えを得たかのように、彼女の目には理性の光が宿っていました。
どうして抵抗しなかったのか、それはおそらく、ただ触れたいものが届くところにあるのだから触れたという、純狐の純粋な動機からなる自然的な動作の前に、心あるものは無防備だからなのでしょう。
純な願いに対して、それが苦痛にならないのであれば助けてやりたい、そう思うのが善良のもたらすところです。純化の力はささやかな善意の助力を引き出し、純狐に余すところなく与えます。そのために、鈴仙もまた動こうとしなかったのでしょう。
そのような解釈を頭上で浮かべているように、鈴仙は小さくうなずきました。
そうしている間にも、純狐は話を続けます。
「それとも、やわらかいのはあなただけですか? 奴らの選んだ奇策だもの」
純狐はそこで一度言葉を切り、上品にため息をつきました。薄らと開かれた目は妖しい色を帯びて、鈴仙の遥か後方を眺めているようでした。
「ほかの兎とは違うのでしょうね」
「あ、いえ、私が地上に堕ちたのは、その、命じられたからではなくて……」
言い淀む鈴仙に、純狐は愉快そうに眉を動かしました。
「ふうん? だけど、私にはそれで十分だった。あなたは私を打ち倒すために送り込まれた。地上に堕ちて、月へ戻り、私の殺意にこたえたわ」
真っ直ぐに、純狐の視線は最短の距離で、不安げな鈴仙を貫きます。
「だから、気に入ったの」
「そ、そうですか」
「そうです。ねえ、鈴仙、なにをそんなに怯えているのです。もう月の兎でないあなたをいたぶろうという気はありませんよ」
純狐は穏やかに微笑みます。それと同時に、気負いなく自然な足取りで、鈴仙との間にあった一歩の空白を瞬く間に埋めました。
「聞いてあげましょうか。あなたの不安を言ってみなさい」
「いえ、いえ、そんな。私はなにも」
「鈴仙」
名を呼ばれた鈴仙の肩に、純狐の手が根を張るように絡みつきます。
鈴仙の戸惑いは目に見えて明らかでした。当然、純狐にもそれは見るまでもなく、肌を通じてわかっていたことでしょう。
「言いなさい」
強い命令的な純狐の口調は、彼女の慈しむような視線を含めれば、その意味するところも容易に察することができるものでした。
鈴仙は居心地悪そうに顔を伏せ、上目を純狐に向けました。彼女はそのまましばらく黙っていましたが、そのうちぽつぽつと言葉をこぼします。
「純狐さんの、あの、距離がつかめなくて、波長の揺れが見えなくて、だから、そのう」
「波長?」
「感情の変動を、この耳は受け止めるんです。どんなひとにも胸のうちには水面があって、そこに心がある限り、波を残さずにはいられません」
「ああ、兎は器用な耳を持ってましたね。見た目が愉快なだけでなく」
「今までずっと、いろんな波を見てきて、距離を決めて、だけど、あなたのはずっとずっと澄んでいて、気が遠くなるほど長くって、さっきのときも、叫んでるときも、笑ってるときも、ぜんぜん変わらなくて、ええと、だから、だから」
鈴仙はなおも口を動かしましたが、どうにも上手く声に出せていないようでした。
その沈黙にしばらく純狐は耳を傾けていたようでしたが、やがて鈴仙の手を取ると、誘うように歩き出しました。鈴仙の視線は、引っ張られる自分の手と純狐の背の間を何度か行き来し、やがて握られた手だけに注がれました。
振り返らずに、純狐は言います。
「よくわかりました。あなたはそうしたやり方しか知らないのね」
返事はありません。
た、たたん、たん、たたん、と足音のくっついたり離れたりする響きだけが、二人の間にありました。
「ところで鈴仙、あなたは問題がいかに平易であるかも知らないようね。わからなければ人に聞くということすら奴らは教えてくれなかったの?」
「……だって、こんな、情けないじゃないですか」
「格好のよいところを見せたくて仕方ないなんて、まるで坊やね。ですが、安心なさい。どのような醜態であれ、私にならいくらでも見せていいのですよ。あなたがちっぽけで哀れだってわかってるもの。私の前で失敗して、皆に成功を披露なさい」
鈴仙はぱっと顔をあげました。長く垂れた耳は再びむくむくと背を伸ばし始め、やわらかな光を浴びて種から吹き出す芽を思わせました。
前を行く純狐は、鈴仙の芽吹きを見ることなく、それに、と言葉を続けます。
「無様な姿に込められたひたむきさは、私も見ていて楽しいものですから」
うふう、と鈴仙の口から笑みがこぼれました。
「純狐さんって口が悪いですね」
「ほう、言いますね。その悪い口に突っついてもらわないと踏み出すこともできない兎が」
純狐の言葉はそこで途切れ、湿った土の流れる音が取って代わりました。
ぽっかりと空いた落とし穴の底で、純狐と鈴仙は仲良く泥まみれになっています。衣服や髪についた土を払わず、二人はぼんやりと、お互いの汚れた顔を眺めます。
二人は何度か目をぱちぱちさせ、やがてどちらからともなく、くすくすと楽しげな声を弾ませました。
永遠亭へと戻り、一日の務めを済ませ、自室へと戻った鈴仙は、部屋の中に敷かれた二組の布団の片方に鎮座する純狐に迎えられました。
「遅いですよ、鈴仙」
鈴仙は開けていた襖を即座に閉め、その場で一呼吸し、自分の長い耳の垂れ具合を確かめ、部屋の前をいくらか行ったり来たりした後、再び襖を慎重な手つきで動かしました。
そこには、布団に入り込み、隣の布団をぽんぽんと叩く純狐の姿がありました。
「さあ、鈴仙」
鈴仙は襖を凄まじい速さで閉め、その場で呼吸による精神統一を行い、自分の長い耳の垂れ具合を丹念に確かめ、部屋の前を審判のときを待つ人類のように行ったり来たりした後、再び襖を祈るような手つきで動かしました。
そこには、綺麗に敷かれた二組の布団が、部屋の灯りに照らされ、清潔な白さを見せつけていました。
不思議なことに片方の布団には謎の膨らみがあり、鈴仙はそのまるく盛り上がった布団を黙って眺めました。そのうち、彼女はぷいと顔を背けると、何事もなかったかのように服を脱ぎ、肌着の上に薄い長衣を羽織ります。
鈴仙の目は次第にとろけていきました。小さな欠伸をもらしながら灯りを消し、室内には濃い暗がりが満たされます。
鈴仙は布団に入り、それから隣の膨らみに呼びかけました。
「泊まりたいと言うからちゃんと客人用の部屋を用意したはずですけど」
「許可はいただきましたよ。あの賢者から」
くぐもった声がした後、純狐の顔が膨らみからぬっと現れました。
「私の許可は?」
「それは必要ありません」
「なんでそんなに自信満々なんです? 私だって一人で眠りたいときがありますよ」
「そう? それであなた、今日は一人でいたいの?」
「……いえ、まあ、別に一緒でもいいんですけどね、今日は」
鈴仙の声はみるみるしぼんでいき、布団を深めにかぶります。返事とばかりに純狐が慎ましいため息をすると、鈴仙は低くうめきました。
純狐は顔をまるくさせ、満悦のていで言います。
「一緒でなければいけないのよ。だって、寂しくなるでしょう、あなた」
「まさか。そんなことないですよ」
「そうですか。けれど、私は一緒に眠りたいので、どうか付き合ってくださいね」
鈴仙は再びうめきましたが、今度はくすぐったそうな調子がこもっていました。
やがて、室内に静寂が漂い始めると、屋敷の外から聞こえる獣の遠吠えが、かすかながら響くようになりました。
あおお、おおおん、あおお、おおうん、と夜の空気を裂く音が聞こえます。
「嫦娥よ! 嫦娥よ!」
「張り合わなくていいですから」
永遠亭で眠る他の住民の存在を省みない純狐の叫びを、鈴仙は驚きながらもたしなめます。出会ってから幾度となく相対した純狐という情念の奔流に、鈴仙はすっかり順応していました。
ですが、静まった純狐を横目で覗く鈴仙の瞳は、波が立ったように揺れ出しました。
鈴仙の胸のうちには、いったいどのような不安が蹲っているのでしょう。それは、近くにいながら触れることのできない、そういった寂しさなのかもしれません。
純狐という、恨みの幹からなる花咲かぬ枝を、鈴仙は遠くから眺めるしかありません。枝がみとめる幻の大輪を、触れることも、摘み取ることも、叶わないのです。ただ、純狐の望みの花がそこにあるかのように振舞い、共に愛でることだけが、彼女の隣にいるということなのでしょう。
鈴仙は波立つ瞳をおさえるように、目蓋をそっと閉ざします。
か細い寝息が二つとなり、二人はすっかり眠りにつきました。その意識もこの場を離れ、もう夢の中に溶けているのでしょう。
室内の暗がりは次第に重くなり、些細な音も消え失せ、なにも見えなくなり、聞こえなくなり、感じられなくなりました。
私も眠ろうと思います。
純狐の叫びは竹林の間をさっと駆け抜けると、やがて湿った土の上に落ちていきました。
その黒い土をぺっぺと吐き出しながら、鈴仙は落とし穴から這いあがります。穴をよじ登る所作は堂に入ったものがあり、彼女と落とし穴の密接な関係がうかがえます。
「あの、純狐さん」
「不倶戴天の敵、嫦娥よ! 見るがいい! 鈴仙の理由なく困らせたくなる受身の顔つきを! あの子によく似た輝きを! そして、私の恨みの在り処を思い知れ!」
「純狐さん」
鈴仙が重ねて呼びかけると、純狐はようやくその声に気付きます。歳のせいで耳が遠いのです。
歳、いったい幾つなんだろうな、とでも考えるような素振りを見せる鈴仙ですが、決して口に出すことはありません。おそらく、かつて八意相手に同じことを考えてたずねた経験が、彼女の頭蓋に鋭いラッパ音を響かせているのでしょう。
過去の忌まわしい恐怖の想起に、鈴仙の首周りはじっとりと冷たく濡れ、長い耳はくしゃんと垂れ、まるく可愛らしい膝は滅びのときを迎えた人類のように震えました。
その怯える姿を見るや、純狐は両腕をゆるりと開けて、熱っぽい眼差しを鈴仙に向けます。ですが、なかなか気づいてもらえず、抱きしめるために差し出された両腕が寂しさを感じ始めたころ、純狐は突然、体をほぐすような大きな伸びをして、行き場のない両腕の戸惑いを大胆に誤魔化しました。
鈴仙はそのような極めて高度な心理的防衛戦があったことなどまったく知らずに、どうにか気を落ち着かせ、自分の耳がさらにくしゃしゃんと垂れるのを無視して、採取した薬草の詰まった籠を背負い直しました。
純狐はそんな鈴仙をあらためて見つめます。
「おや。どうしました、鈴仙。泥であちこちが汚れていますよ」
「あなたが急に声をあげるものですから、気がそれて穴に落ちてしまったんですよ。この竹林では落とし穴が生き物みたいにうごめいてますから」
「ほう、この地の落とし穴はずいぶんと賢いものね。気をつけておきましょう」
純狐はもっともらしい顔つきで頷きました。それが、単なる皮肉なのか、それとも素直に受け止めたものなのか、さっぱり分からない。鈴仙はそんなぼんやりした面持ちでスカートについた泥を払いました。
しかし、二人が再び歩き出したとき、穴に落ちるまではすぐ横にいた純狐が今になって背後にぴたりとくっついてきたのを見て、鈴仙の瞳はきらりと赤く輝きました。
「ところで、その、突然叫ぶ……癖? 癖でいいんですよね。どうにかなりません?」
「驚かせてしまいましたね。ですが、この身の血肉である憎しみは抑えられぬものなのです。純化された恨みは留まることを嫌い、大きく膨らんで、膨らみ過ぎて、胸を突き破るの。時々ね」
純狐の言葉に、鈴仙の口元は少しだけ強ばりました。きっと、時々という言葉の意味と、今朝永遠亭の門前で会ってから今までで、すでに七度目となる純狐の発作的な感情の発露について考えているのでしょう。
そのようにむうんむんと思い悩む鈴仙でしたが、突然自分の肩にそっと手がかかったので、引き結ばれた唇が花咲くようにまるく開きました。
「鈴仙、こちらへ」
純狐は鈴仙を振り返らせると、ぐっと身体を引き寄せます。二人の距離は、唇のやわらかさが、吐息の熱さが、桃色の濡れた舌のきらめきが、瞳の向こう側が、自身の感覚と結ばれるところにありました。
純狐は明らかに息を呑む様子を見せている鈴仙を気にも留めず、彼女の頬についていた泥の欠片を親指の先で丁寧に拭いました。
「まだ、ついていたわ」
純狐は満足げに腕の中にいる鈴仙を見下ろしました。ですが、その指は役目を終えてなお、鈴仙の頬から離れようとはしません。かといって探るような様子も見せず、ただあるべくしてそこにあるように、純狐の指先は悠然と構えています。
鈴仙の瞳はそろそろと浮き上がり、それから力尽きたように落ちることを繰り返しました。触れる純狐の指に不快さはなく、むしろ熱っぽい肌に別の温かみがある心地よさに身をゆだねているかのように、鈴仙の顔はぽぽぽっと朱色に灯りました。
無数の青い竹の間を縫って、風がそよよと泳ぎます。薄紫の髪は踊るように広がり、そこへ黄金色の波が鮮やかに交わりました。
「綺麗になりましたね」
「あ、あ、あの」
「なにか?」
「えと、そのう、ど、どうも」
鈴仙は口を開きましたが、出てきた言葉はなんともぎこちないものでした。
その白く細い喉に、礼儀のための言葉とは別に、心の奥深いところより湧き出すとろりとした液体がせり上がり、どうしようもない息苦しさを覚えたからでしょうか。それとも、目まいに似た不思議な感覚が、瞳の奥で白い火花を散らしたからでしょうか。
竹の群れから逃れた細い陽射しはそうした幻想を照らしだし、鈴仙の顔にかすかな陰りをつくりました。
鈴仙は自分の頬にある手を払うこともせず、唇を舌で湿らせながら純狐をそろそろと見上げます。すると、それまでぴくりとも動かなかった純狐の手は、息を吹き返したようにふわりと浮かび、それから鈴仙の唇に寄り添いました。
ふくりとした血色のいい唇に、純狐は親指を押し当てます。途端に鈴仙の垂れた耳はぴんと立ちましたが、純狐は気にも留めません。少し肉厚な二枚の花弁を割り開き、奥に覗く白い歯が蜜のようなきらめきを見せたとき、純狐の目はすっと細くなりました。
鈴仙は胸元で手を組んだり離したりしましたが、やがて口をもごもごと動かしました。
「あ、え、あの、なにをされて」
「月の兎(せんし)のくせに、とてもやわらかそうだなと思いまして」
鈴仙の唇が持つ魅力的な弾力の作用は、純狐の口元に働きかけ、おだやかな笑みを浮かばせます。そして、純狐の指は腹を満たした蝶のように、鈴仙のもとからするりと飛び立ちました。
その動きをぼんやりと見届けた鈴仙は、たちまち目を見開き、一歩後ずさりました。真っ赤な瞳は、一段と輝きを増し、ひと回り大きくなっています。引っかかっていたことがようやく飲み込めたような、たとえば、どうして自分は先ほどまで純狐の束縛に一切の抵抗を示さなかったのか、そうした疑問の答えを得たかのように、彼女の目には理性の光が宿っていました。
どうして抵抗しなかったのか、それはおそらく、ただ触れたいものが届くところにあるのだから触れたという、純狐の純粋な動機からなる自然的な動作の前に、心あるものは無防備だからなのでしょう。
純な願いに対して、それが苦痛にならないのであれば助けてやりたい、そう思うのが善良のもたらすところです。純化の力はささやかな善意の助力を引き出し、純狐に余すところなく与えます。そのために、鈴仙もまた動こうとしなかったのでしょう。
そのような解釈を頭上で浮かべているように、鈴仙は小さくうなずきました。
そうしている間にも、純狐は話を続けます。
「それとも、やわらかいのはあなただけですか? 奴らの選んだ奇策だもの」
純狐はそこで一度言葉を切り、上品にため息をつきました。薄らと開かれた目は妖しい色を帯びて、鈴仙の遥か後方を眺めているようでした。
「ほかの兎とは違うのでしょうね」
「あ、いえ、私が地上に堕ちたのは、その、命じられたからではなくて……」
言い淀む鈴仙に、純狐は愉快そうに眉を動かしました。
「ふうん? だけど、私にはそれで十分だった。あなたは私を打ち倒すために送り込まれた。地上に堕ちて、月へ戻り、私の殺意にこたえたわ」
真っ直ぐに、純狐の視線は最短の距離で、不安げな鈴仙を貫きます。
「だから、気に入ったの」
「そ、そうですか」
「そうです。ねえ、鈴仙、なにをそんなに怯えているのです。もう月の兎でないあなたをいたぶろうという気はありませんよ」
純狐は穏やかに微笑みます。それと同時に、気負いなく自然な足取りで、鈴仙との間にあった一歩の空白を瞬く間に埋めました。
「聞いてあげましょうか。あなたの不安を言ってみなさい」
「いえ、いえ、そんな。私はなにも」
「鈴仙」
名を呼ばれた鈴仙の肩に、純狐の手が根を張るように絡みつきます。
鈴仙の戸惑いは目に見えて明らかでした。当然、純狐にもそれは見るまでもなく、肌を通じてわかっていたことでしょう。
「言いなさい」
強い命令的な純狐の口調は、彼女の慈しむような視線を含めれば、その意味するところも容易に察することができるものでした。
鈴仙は居心地悪そうに顔を伏せ、上目を純狐に向けました。彼女はそのまましばらく黙っていましたが、そのうちぽつぽつと言葉をこぼします。
「純狐さんの、あの、距離がつかめなくて、波長の揺れが見えなくて、だから、そのう」
「波長?」
「感情の変動を、この耳は受け止めるんです。どんなひとにも胸のうちには水面があって、そこに心がある限り、波を残さずにはいられません」
「ああ、兎は器用な耳を持ってましたね。見た目が愉快なだけでなく」
「今までずっと、いろんな波を見てきて、距離を決めて、だけど、あなたのはずっとずっと澄んでいて、気が遠くなるほど長くって、さっきのときも、叫んでるときも、笑ってるときも、ぜんぜん変わらなくて、ええと、だから、だから」
鈴仙はなおも口を動かしましたが、どうにも上手く声に出せていないようでした。
その沈黙にしばらく純狐は耳を傾けていたようでしたが、やがて鈴仙の手を取ると、誘うように歩き出しました。鈴仙の視線は、引っ張られる自分の手と純狐の背の間を何度か行き来し、やがて握られた手だけに注がれました。
振り返らずに、純狐は言います。
「よくわかりました。あなたはそうしたやり方しか知らないのね」
返事はありません。
た、たたん、たん、たたん、と足音のくっついたり離れたりする響きだけが、二人の間にありました。
「ところで鈴仙、あなたは問題がいかに平易であるかも知らないようね。わからなければ人に聞くということすら奴らは教えてくれなかったの?」
「……だって、こんな、情けないじゃないですか」
「格好のよいところを見せたくて仕方ないなんて、まるで坊やね。ですが、安心なさい。どのような醜態であれ、私にならいくらでも見せていいのですよ。あなたがちっぽけで哀れだってわかってるもの。私の前で失敗して、皆に成功を披露なさい」
鈴仙はぱっと顔をあげました。長く垂れた耳は再びむくむくと背を伸ばし始め、やわらかな光を浴びて種から吹き出す芽を思わせました。
前を行く純狐は、鈴仙の芽吹きを見ることなく、それに、と言葉を続けます。
「無様な姿に込められたひたむきさは、私も見ていて楽しいものですから」
うふう、と鈴仙の口から笑みがこぼれました。
「純狐さんって口が悪いですね」
「ほう、言いますね。その悪い口に突っついてもらわないと踏み出すこともできない兎が」
純狐の言葉はそこで途切れ、湿った土の流れる音が取って代わりました。
ぽっかりと空いた落とし穴の底で、純狐と鈴仙は仲良く泥まみれになっています。衣服や髪についた土を払わず、二人はぼんやりと、お互いの汚れた顔を眺めます。
二人は何度か目をぱちぱちさせ、やがてどちらからともなく、くすくすと楽しげな声を弾ませました。
永遠亭へと戻り、一日の務めを済ませ、自室へと戻った鈴仙は、部屋の中に敷かれた二組の布団の片方に鎮座する純狐に迎えられました。
「遅いですよ、鈴仙」
鈴仙は開けていた襖を即座に閉め、その場で一呼吸し、自分の長い耳の垂れ具合を確かめ、部屋の前をいくらか行ったり来たりした後、再び襖を慎重な手つきで動かしました。
そこには、布団に入り込み、隣の布団をぽんぽんと叩く純狐の姿がありました。
「さあ、鈴仙」
鈴仙は襖を凄まじい速さで閉め、その場で呼吸による精神統一を行い、自分の長い耳の垂れ具合を丹念に確かめ、部屋の前を審判のときを待つ人類のように行ったり来たりした後、再び襖を祈るような手つきで動かしました。
そこには、綺麗に敷かれた二組の布団が、部屋の灯りに照らされ、清潔な白さを見せつけていました。
不思議なことに片方の布団には謎の膨らみがあり、鈴仙はそのまるく盛り上がった布団を黙って眺めました。そのうち、彼女はぷいと顔を背けると、何事もなかったかのように服を脱ぎ、肌着の上に薄い長衣を羽織ります。
鈴仙の目は次第にとろけていきました。小さな欠伸をもらしながら灯りを消し、室内には濃い暗がりが満たされます。
鈴仙は布団に入り、それから隣の膨らみに呼びかけました。
「泊まりたいと言うからちゃんと客人用の部屋を用意したはずですけど」
「許可はいただきましたよ。あの賢者から」
くぐもった声がした後、純狐の顔が膨らみからぬっと現れました。
「私の許可は?」
「それは必要ありません」
「なんでそんなに自信満々なんです? 私だって一人で眠りたいときがありますよ」
「そう? それであなた、今日は一人でいたいの?」
「……いえ、まあ、別に一緒でもいいんですけどね、今日は」
鈴仙の声はみるみるしぼんでいき、布団を深めにかぶります。返事とばかりに純狐が慎ましいため息をすると、鈴仙は低くうめきました。
純狐は顔をまるくさせ、満悦のていで言います。
「一緒でなければいけないのよ。だって、寂しくなるでしょう、あなた」
「まさか。そんなことないですよ」
「そうですか。けれど、私は一緒に眠りたいので、どうか付き合ってくださいね」
鈴仙は再びうめきましたが、今度はくすぐったそうな調子がこもっていました。
やがて、室内に静寂が漂い始めると、屋敷の外から聞こえる獣の遠吠えが、かすかながら響くようになりました。
あおお、おおおん、あおお、おおうん、と夜の空気を裂く音が聞こえます。
「嫦娥よ! 嫦娥よ!」
「張り合わなくていいですから」
永遠亭で眠る他の住民の存在を省みない純狐の叫びを、鈴仙は驚きながらもたしなめます。出会ってから幾度となく相対した純狐という情念の奔流に、鈴仙はすっかり順応していました。
ですが、静まった純狐を横目で覗く鈴仙の瞳は、波が立ったように揺れ出しました。
鈴仙の胸のうちには、いったいどのような不安が蹲っているのでしょう。それは、近くにいながら触れることのできない、そういった寂しさなのかもしれません。
純狐という、恨みの幹からなる花咲かぬ枝を、鈴仙は遠くから眺めるしかありません。枝がみとめる幻の大輪を、触れることも、摘み取ることも、叶わないのです。ただ、純狐の望みの花がそこにあるかのように振舞い、共に愛でることだけが、彼女の隣にいるということなのでしょう。
鈴仙は波立つ瞳をおさえるように、目蓋をそっと閉ざします。
か細い寝息が二つとなり、二人はすっかり眠りにつきました。その意識もこの場を離れ、もう夢の中に溶けているのでしょう。
室内の暗がりは次第に重くなり、些細な音も消え失せ、なにも見えなくなり、聞こえなくなり、感じられなくなりました。
私も眠ろうと思います。
うど純の魅力も広まると良いですね。あと嫦娥様、見てらしたとは……!
もっかいよみます
文章が素敵で楽しめました
最後、思わずぞくっとしました。
執拗なまでに二人の内面描写を避けるなあ、と思っていたらなるほど、そういう絡繰りか。
うど純にはまりそう、やばい。
顔の泥を拭うあたりですっかり引き込まれました