ここに訳出された『ひかりについて』は二十一世紀の生んだ翻訳集団であるYが発表して全世界へ広く知られることになった、中間言語「スミレコ」による作品である。一世紀近くもの間を結界と我々との中間言語である「スミレコ」の研究と解明に携わり、散発的ではあるが重要な示唆を行ってきたYが発見したこの物語は当時まったく信用されず、ジョーク説や暗号説などが小さく取り沙汰されたのみであった。しかしやがて少なくない学者がこの発表を正しいものだとして世界中に散布されている「スミレコ」から生成された証明を提出すると、『ひかりについて』は注目を集め結界関連の識者以外にも少なからぬ啓発を促した。そして韻文や散文の訳が数多く試みられ今日までに英語・フランス語・ドイツ語・ロシア語・イタリア語など多くの翻訳書が出たこの作品は、一般の人々においても広く読まれるに至っている。
博麗神社の居間から陽に照らされた庭先を宇佐見菫子は見ていました。
立ち並ぶ塔と山林へ注がれる黎明を宇佐見菫子は見ていました。
光景が断絶しています。まばたきすら必要とされなかった視界の変化へ彼女の頭が付いていかない間にも、ずいぶんりっぱな寺院や掃き清められた石畳が暁の金色をこっそりと呼吸していました。どこまでも続いている日本風の古い建物の連続に見覚えがあるとすれば菫子の知る限り京都か奈良あたりなのですが、それにしてはビルがひとつも見当たらないのが気になって仕方がありません。意識が切り替わる前と同じ夏だとしても気温が過ごし易すぎるようでしたし、そういえば風の匂いもまるで空の上にいる時のようです。そして何よりもどうしてここへ自分がいるのか不思議でたまらなくなったころ、あたりへ大きな陰が降りてきたのに菫子は気づきました。何か大きなものが頭上に浮かんだのだと考えた菫子は体ごと空へ振り向いたのですが、おどろいたことに彼女の目に写ったのは満天の星空だったのです。陰だと思ったのは夜で、あたりだけではなく世界をその暗い
自分の細い指先や眼鏡に光る月の色をしげしげと見ている菫子はもうすっかり慌てていたのですが、心の片隅では「どこかの妖怪にやられているのだろう」と静かに分析をして告げる声もありました。その声も次の変化を目の当たりにしてどこか遠くへ吹き飛んでしまいましたが。
最初は炎だと思ったものです。先ほど朝から夜に移った時のようにゆっくりと茜色よりも琥珀に近い色が世界を染めていくと、それがあまりにも濃い色になったものだから菫子はいっぺんに不安になってしまいました。気温がずっと変わらずに快適なままでなければ何かしらの超能力を使っていたかもしれません。
やがて以前とは違う色の中に自分がいるのを菫子は発見し、不安がくすんで溶け去ると驚くべき不可解な色彩の全てをその瞳は見ていました。磨きぬかれたその色。この上なく完璧な色を作りだす二つの色。何という綺麗でしょう。高い天には星と月と日が天の宝石となり輝きの粉を燃え立たせていましたし、それを受ける地上では黒翡翠や黒水晶や黒瑪瑙に
幼児が空を見上げる時の瞳をして菫子はじっと立っていました。その横で風が道端の花を揺らしたかもしれません。
博麗神社の居間から陽に照らされた庭先を宇佐見菫子は見ていました。ずいぶんと透きとおった顔をした彼女の対面で博麗霊夢は怪訝な顔をしています。いつものようにウロウロしていた菫子を神社へ
「ねえ。わたし予知夢を見られるようになったみたい」
「あー?」
唸り声に近い声で返事をしながら、霊夢はその言葉が正しいことを予感しました。
菫子は幻想郷の向こう側からやって来るようになった少女です。おたがいの世界間には強い結界があるのですが、彼女は夢を使ってこの世界へ入ってくることができるのです。今も霊夢と一緒にいる菫子は夢の中であり、それが別の夢を見たという入れ子構造は少しばかり複雑すぎるようで思わず霊夢は眉をひそめたのでした。
「不吉な夢じゃないでしょうね」
「ううん。素晴らしい景色。昼と夜が同時に存在してた」
「私からすればものすごい凶夢なんだけど。天変地異のまっただ中じゃないの」
「そういうのじゃないから。私の国や幻想郷にある古いお寺によく似た、というかあれは寺ね。それがずらりと並んでた。目の前で太陽が昇り始めて朝方になっていくと思えばアッという間に夜になって、しばらくすると混ざったの」
「夢の中で時間が狂うなんてよくあることだけど。にしても太陽と月が混ざるのはありえない」
「時間の流れも普通だったように思う。早送りみたいに朝から夜へ進んではいたけど、空気の流れとか音とか、そういう気配はすごく静かで普通だったもの。そこがおかしいと言えばおかしいんだけど。どこかで体験した気がするのよねえ。あっち側で。」
記憶を掘り出そうとして最後の方は聞き取れないほど小さな声になっていく菫子は言葉を失っていくようでもあり、ついでに唇を塞ぐつもりだったのか霊夢のお茶請けをつまもうと指先を伸ばします。その寸前で小皿に積んでいた金平糖を全て摘み取った巫女はコロコロと掌の中で転がしました。
「外の世界が天順の操作をできるようになったなんて聞いたことないわ」
「できないからね。でも何処だったかなあ」
首を横に振ってから菫子は昼夜の混在した時の色彩について熱っぽく説明を続けましたが、さっぱり通じない霊夢は無関心に聞いてからぶっきらぼうな声を出しました。
「予知夢っていうのは感覚か。それとも根拠があるの」
「感覚」
「あんたの神通力――超能力だっけ。色々とゴチャゴチャしてるから効き目があるかわからないけど、お祓いしてやってもいいわよ。後払いで。気配は感じないけど、見た夢がやたら芝居じみてるから憑かれてるかもしれない」
あれほどの物を作り出せる妖怪なんているわけもないと霊夢の言葉に反論すべく口を開けた菫子の動きが止まると、眼を見はりながらゆっくりといつもの偉そうな笑顔になって胸を張りました。
「わかった。やっぱり予知夢だった」
「あー?」
再び唸り声を上げた霊夢を見で菫子は得意満面です。
「芝居だったのよ。私が見たあれは。ショーよ。幻想郷にはプラネタリウムってないの?」
「プ……? ああ。星空を動かすやつね。良かったわアレ」
「あるじゃない。それよ。それの亜種。いいえ進化系ね。なんたって露天でやってんだもの」
疑わしげな霊夢をよそに、次第に熱いものが菫子の顔へ湧き上がってきました。
「見渡すかぎりの景色をいっぺんに変えていたし、どれだけの技術があんな真似を可能にさせていたのかしら。そもそも昼夜の合成色なんてどうやって見つけたの? 光量の単純な合計だと昼に夜が塗りつぶされるだけだし」
「長くなるなら帰ってからにしなさいよ」
「だめ。世界史なんてどうでもいいわ。あのね。私にできると思わない?」
発想が本人の頭の中だけで
「多少の未来がなによ。私には私のやり方ができるもの。私にだってあの色を再現することができるはずよ。天を動かすなんて無理なことをせずとも、未来に埋まった秘密を暴きだしてみせるわ! 世界の誰よりも私が先にあの色を作り出してみせる!」
興奮した菫子のきらきらとした瞳が、まるで矢をつがえて震える弦のように輝いているのを霊夢は見つめています。やがて鼻息も荒いまま座り直した菫子が霊夢へずるそうな目をして言いました。
「頼みがあるんだけど。アドバイスとかしてもらえない?」
「何の」
「結界で空間を区切るの得意じゃない。あれが応用できると思うの。他は私がやるし、すごく綺麗なんだから。一緒に見ようよ」
「帰れ」
「お披露目は神社でやるからさ。人も集まるよ」
「えっ」
体を伸ばして霊夢の掌から金平糖を一粒さらって噛み砕く菫子は満面の笑顔です。外では陽が静かにたゆたい、か細い何かの鳴き声が陽炎のようにふわふわと通って行きました。ちょうど太陽がその日の下り坂を行くころ。葉の端をわずかに枯らした花が浮き立って見えたように思われます。
それからよく二人は並んで外へ出かけるようになりました。菫子の夢だけが知る色を作りだすために幻想郷を渡ってみることにしたのです。最初に彼女たちが探したのはプラネタリウムを作り出した河童たち。空中から見つけたある沢の中で何匹か固まっている中に知り合いの河童がいるのを二人は見つけました。
「動くな」
降り立った岸辺から霊夢が一声投げると、流れる水に跳ね返ってきらきらと瞬く日光のゆらぎを服や
「聞きたいことがあるからちょっと来なさい」
「へいへい」
おぼつかない足どりの河童を連れて岸辺から少しばかり陸へ入ったところで菫子は立ち止まり、にとりへプラネタリウムをどのようにして作ったのか聞きました。
――商売道具のことが話せるものか。頭の皿が干からびたって言わないぞ。
霊夢の顔色をうかがいながらも河童は首を横に振ったのですが、昼夜の混ざった光景の話を菫子が話して聞かせると少なからぬ興味を示しました。菫子がプラネタリウム自体の原理はすでに知っていたこともあり、機材の動力や構成を軽く話すのと引き換えにその色について大変しつこく質問してしまうと仲間を置いたままで河童はそそくさと住処へ飛んでいくのでした。
「なんで話したのよ」
不満そうな霊夢の視線が菫子に刺さります。会話の途中で何度も河童を黙らせようとした彼女をずっと菫子は止めていたのです。
「別に減るもんじゃないし。目的通りにこっちの聞きたいことが聞けたじゃない」
「今ごろあの河童はアンタから聞いた景色を再現する機械を作り始めてるわ。小癪だけど、ああなるとあいつら見事なものよ」
「大丈夫。絶対に作れやしない。だってあの色を見たことがあるのは私だけ。太陽と月の光を混ぜればいいってものじゃない。いくら詳細に教えてあげたところで、言葉にできない美しさをどうやって作りだすやら。そのうち自分の目で確かめるために未来へ行こうとタイムマシンを作りはじめるかしら。どっちにしろ脇道へ逸れてサヨナラよ」
「相変わらず調子にのるんだから」
それでも霊夢は笑ったのです。ざわめく夏が
ひとりの時もありました。烈々と燃えさかる
菫子の来なかった日の霊夢は外へ出たりせずのんびりと過ごしているようでしたが、それでも神社へ顔を出した秦こころから独自の感情同在論を聞き出していたりと、まあそれなりに協力はしていたようです。
身体に染み入るような鈍い熱気をはらんだ夕刻に博麗神社の参道で菫子と顔を合わせた魔理沙は、手段や方法を問わずに不思議なプラネタリウムについて聞きまわる彼女を見て「信じられんほど素直だな」と言いました。何しろ知り合ったばかりの時の菫子ときたら。自分のことばかりを考えて幻想郷へやって来ていたのですから。
「答えを知るのに素直もなにも無いと思うんだけど」
空へうそぶくように菫子は言いました。
「そりゃあそうなんだが。お前はもっとこう、自分の知識や経験ばかりアテにするタイプだと思ってたよ。特に他人の意見はお断りっていうやつだ」
「お断りよ。いらない意見はね。あっちじゃ今でもそんなに変わってないけど、こっちじゃ別。できる事とできない事が同じくらいにあるのは幻想郷に来てわかったから、今回はできる人に知識を借りることにしたの」
「いい心がけだ。発想外はどんどん吸収していくといい」
「貴方が言うと説得力があるわねえ」
ふいに魔理沙の言葉へ割り込むようにして声が伝ってきました。
菫子が振り向いた先にいたのは見慣れぬ格好の女性です。鳥居をくぐりながら日傘をさして微笑みを向けるその姿は花のよう。女を――風見幽香を見た魔理沙はそうだろうと笑います。しらじらと燃える皮肉げな瞳が交わる理由を菫子は知りませんでしたが。ちょうどそこへ神社から霊夢もやってきて、無表情に近い顔で歩いてくると三人より少し離れた場所で立ち止まりました。
「珍しいというより用があって来たって感じだけど」
霊夢が
「名前の花が聞こえたものだから。呼べば
妖怪の形容しがたい視線の先にいた菫子は思わず頭をのけぞらしました。彼女にとって幻想郷はきれいな物で溢れすぎていたのです。強くも細くもない
「注意しに来てあげたの。夢で遊ぶのはやめておきなさい」
「いやよ」
「そうよ」
反発する菫子と霊夢でしたが、言ったあとで霊夢の方はきょとんとした顔をしました。駆けるように進み出た自分の言葉が本人にも早すぎたとでもいうようなその顔に、菫子も魔理沙もあたりを
「残念。でも花のお嬢さん。見たい夢を見ることができると信じているのならやめておきなさい。こっちは警告よ」
夕日に影を落として黒ずむ幽香を魅入られたように黙って見る菫子の瞳をながめて霊夢が口を開きました。
「覚えがあるって顔してるわね」
隠すつもりもなかったんだけど、と断りをいれてから菫子が話すところによると、彩色を探しはじめてから今まで幻想郷へ辿りつけぬ眠りが三度ほどあったのです。何も見ぬ夢。眠りのための眠りに開かれた洞戸へ落ちこんでいった日が。
「そろそろ偶然ではないと思っていたのだけれど、もしかして原因がわかったりする?」
「わかるわよ。そいつは。昔とった杵柄ってやつでね」
菫子の声に答えたのは幽香ではなく霊夢でした。夕焼けの沈んだ透明を梳くようにふわりと傘をまわして揺らす幽香はまるで自動的です。
「昔のことはともかく。花の貴方に免じて教えてあげましょう。原因は貴方が目覚めた予知夢のせいよ。幻想郷に訪れるための夢と未来へ訪れるための夢は別の色をしている。片方を見ようと努めた貴方がそちらの色へ染まり、もう片方を忘れていくのは当然のこと。今はまだ両方が混ざっている状態だけど続けていけば幻想郷の色が薄まっていくでしょう」
「予知夢を見るのをやめろってこと?」
「夢で遊ぶなと言ったでしょう」
警告を繰り返した幽香を見る菫子の目の色はそれでも変わりません。刻々と日中の熱が乾いていく地面の上で、風に撫でられた大輪の動きを真似るようにして幽香は首を傾げます。
「このままだと夢を経ずに再び非正式な方法で幻想郷へ渡ってくることになるのかしら。そうなるとまた紅白と白黒がてんやわんや」
「今でもネズミのようなものだけど、それは勘弁こうむりたいわね」
霊夢にじろりと見られた菫子は軽く舌を出しました。
「方法がないではない。夢見の周波を他人へ移すの」
指をクルクル回しながら幽香は説明しました。方法としては深い場所へ。己ではなく人間という種としての夢を見て、生まれ死に生まれ見る夢のさらに奥から他人の夢の衣を借りて幻想郷に来ればよいと言うのです。皮を被る狼のように。山姥のように。
「そんなことできるわけ」
「菫子」
言い返そうとした菫子の声をさえぎって止めると霊夢は腕を組んで頬を掻きました。
「そっちはなんとかしてあげる」
珍しい物を見たと言わんばかりに驚く菫子と魔理沙の顔が向き合う横で
「ギフトはここまで。見返りは夢見るような景色を私にも見せてもらおうかしら。桃源郷より素敵な場所を期待しておくわ」
眼に止める暇もあればこそ。来た時と同じように傘を揺らして帰っていく妖怪を見送ったあと、居座ろうとする魔理沙を出し物のお披露目当日まで秘密だと弾幕ごっこで追い払ってから再び霊夢と菫子は飛び出していきました。
今度は別々に。幻想郷の一角から一角へ、もしくは現実世界の一点から一点へ。西へ東へ。片時から片時へ。
ひどい秋霧が湧き立った日に霊夢は目の前をかきわけるようにして空へ浮かび命蓮寺へ乗り込むと、雲居一輪をダシに使って聖白蓮から無意識に関する説教を引き出しましたし、他日では無為を制御するための理論として枯れた緑蔭のなかをフラフラしていた物部布都に得意の風水術を見せびらかすよう仕向けました。根城を強襲して逃走する少名針妙丸を追い詰めると小人が以前に出向いた目的の場所を聞き出し、準備を整えてからこっそり地底へ出向いてようやく霊夢は探していた妖怪を見つけ出しました。
「あれ。わたし何もしてないのに」
柱廊群が立ち並ぶ陽の届かない伽藍の底で霊夢に真正面から見据えられた古明地こいしは不思議そうです。
「アンタを見つけるのに色々やったのよ」
「遊ぶの? いいよ」
ひらりひらりと揺れる無色の影をもつれそうになる瞳で追いながら霊夢は最後の賭けを口にしました。博麗の巫女が賭けを行えばどうなるのかを知っている者にとっては退屈な一瞬だったでしょう。しかし霊夢にとっては大切な一瞬だったのです。
「今日は負けた方が勝った方のワガママをひとつ聞くことにするのはどうかしら」
「いいよ」
こいしの姿がハッキリと霊夢の目に映ります。もう迷うことはありません。地底で色彩と線形が咲き誇ります。こいし狩りが始められたのです。
幻想郷へゆくための眠りに身を委ねづらくなった菫子は起きている時間を増やして、その間に本を読むようになりました。ひとつ気がかりなことを見つけたからです。幻想郷にいる知り合いの藤原妹紅はとても長生きだったので、昼と夜を混ぜるようなまじないや現象を知らないか聞きにいったところ『何かあったような気もするが覚えてないなあ』と返答されたのがきっかけでした。
最初は長い年月の中で飽和して曖昧になったり混ざりきってしまった記憶を覗いてみた妹紅がそう答えたのだろうと菫子は思い、彼女の歩んできた歴史にヒントがあるかもしれないと手当たり次第に古い記録を模索していきました。そしてその作業が無意味な結実に終わろうとしているのに感づきはじめたころ、菫子は別の切り口を見出していたのです。
そもそも妹紅は昼と夜の重複した光景など見たことがないのです。ならばどうしてあのようなことを言ったのでしょう。
長い年月に呑みこまれて溶け合った人の記憶や心から浮かぶ蜃気楼の一欠に存在したことのない昼夜の融合があるとするならば、それは長期間に見続けてきた同じ光景の思い出を夢想の中で勝手に溶かして作り上げたものではないでしょうか。
ひとつの風景を重ねて。重ねて。溶け去るまで重ねてから一枚を抜き出せば、あの光景が成し遂げられるのではないか。昼と夜を混ぜあわせるのが不可能であっても一週間を合わせた光量の平均は取り出せないのか。一ヶ月で増減する月の光と太陽の煌めきを交錯させた先に答えはないのか。一年で変わる空の高さが光を伸ばしたり潰したりするのだろうか。
人気のない図書館で定点観測に関する本を読みながらいつの間にか舟をこいでいた菫子は、ふとした拍子に自分が博麗神社の裏側に立っているのを見つけるのです。そして向こうからなにやら成し遂げたのか、満足そうに歩いてくる霊夢へ向かってこう言うのでしょう。
「ねえ! この神社に百葉箱とか置いてないの!」
季節がひとつ歌うころ。もしくはふたつ振りかえる程度の日々が過ぎたころ。幻想郷と外界を菫子が行き来する回数はすっかりもとに戻り、錦紗織りから特定の綾目を探しだすようにして予知夢を見るタイミングも多少の選別ができるようになっていました。両方の夢に対する支配が強くなっていく菫子は以前に何とかすると言った霊夢へ処方に何を行ったのかを興味から質問しましたが、こいしが少しだけ菫子に細工をしたからだという以上の説明を彼女はしようとしません。
その日はよく晴れた透明な冬の空が広がっていました。点々とした
温かげな物が見えぬはずの景色において、博麗神社の境内だけが別だったのです。神社の広場に立てられた櫓の上で箱をいじる菫子の顔からは白い息がもうもうと吐き出されていて、その下に群がって見上げるたくさんの人垣のあいだを賽銭箱を持った霊夢が右往左往しています。完成した光を見せる準備をしているのです。
やがてすっかり最後まで整えてしまった菫子は箱を置いたまま立ち上がると目をつむって、自分の内側にある回廊を歩き始めるイメージを描きました。箱のなかにはいくつかの力ある石が――先日に大騒ぎを起こした石が入っています。まわりのざわめきが大きくなり、だんだんとそれが萎んでいってちりちりとした音になったころ、すでに菫子の意識は外界から切り離されていたのです。
菫子が探り当てた結論は数百年の昼夜を全て重ねあわせ、そこから求める光を取り出すというものでした。長い時間を経ながら妖怪になることなく力を含み続けてきた物質がすでに自分の手の中にあったのは彼女にとって幸いであり、あとは理論と実行を繰り返すのみでした。己の全力が歯も立たない事態は幻想郷での一騒動を筆頭にこれまでもありましたが、思索そのものが通用しない日々は新しい風を菫子の中に誘い、理論は空論であることや実験から答えを得ることを菫子に教えていったのです。
――机の上で全てを設計できればどんなにか良かっただろう。
あらゆる春夏秋冬があたりを流れていく意識の回廊を巡り歩きながら菫子は思います。そうすればこれまでの失敗や努力は経験せずに済んだものであり、完成が遅いと霊夢に小言を言われなくてもよかったのですから。
少女の心が回廊を曲がっていきます。右へ。左へ。細やかな足で歩きながらイメージするのは方陣です。形式です。音韻です。霊夢から教わった結界に必要なエッセンスと、二人で一緒になって考えた結界図をイメージして歩きます。遠くのものが近くなり、明け方と夕闇で携えた菫子の思考がふたつながらにかき立てられていきます。結界について霊夢は言いました。
机上の空論で完成させるということは神に近づく努力であろうかと菫子は思うのです。そして自分は永久に神にはなれないとも知っていたのです。
あたりに一年が薫ってきました。磨くようにして頬を撫でていく風は鋭く冷たいものですが、額に投げかけられた陽光は暑く押し付けるようです。川床にきらめく紫水晶と翡翠の光が視界の横をよぎっていき、芙蓉の香りと土の感触が菫子の足裏で形を変えました。
回廊の綴れ路を少女は歩いていきます。ピラミッドの熱砂を。ナスカの高い空気を。ストーンヘンジの建造式を。黄泉比良坂にくべられた臭いを。地獄谷の眠りを。バベルの頂上を歩きながら菫子は己を剥がしていきました。空論においても組み立てられることのなかった瀆神の塔。幻想郷を歩きまわり、霊夢が歩きまわってくれた言葉を積んで結論にたどり着いたことに菫子は初めて感謝を覚えました。そして笑ったのです。ひとつとして同じ
彼女の道程はひとつの箱を描いていました。細い線の立ちこめるその箱を自分のイメージが完成させると、菫子はそこから自分をすべて取り除きました。残されたのは石に含まれている数百年の光景を内包した箱であり、相対するように立っている自分を投影した菫子は手を伸ばしてそれを掌へ収めてから、織り込まれたひとつの模様を指で引き抜きます。この動作は結界の概念を用いた空間の切り取りだと霊夢から彼女は聞いていました。
無言のイメージが指を走らせるのと同時に櫓の上へ立った菫子は目を開き、あたりの空間へ指を使って自分の中で強烈に焼き付けた模様と線をなぞりました。それを見ていた霊夢は賽銭箱から手を離すと、観客がすっぽり収まるくらいの広い結界を張ったのです。
そして光が満ち溢れだしました。最初は炎だと皆が思ったものです。茜色よりも琥珀に近い色が世界を染め、ついには見たことのない色彩の全てを見ているのでした。何という綺麗でしょう。
観客のざわめきが歓声に変わって菫子に群がると、美しい汗をにじませながら誇らかな昂ぶりをひそめた笑みで少女は応え、顔の中に霊夢を見つけるとお互いだけに通じる悪戯っぽい表情を浮かべました。
観客に混じっていた少数の妖怪の中の一人が言うことには、海の向こうに浮かぶ蓬莱で咲く桜花がこんな色だったかもしれないということです。
「結界はすごい技術だけど、未来はきっと別のものを使って制御しているのね。これから私はそれを見ていくんだから」
月陽圏のプラネタリウムを成功させた夜、博麗神社の参道で菫子がそう言ったのを聞いていたのは霊夢だけでした。光景を楽しみながらの祭りは再現時間の都合で実現せず、そもそも成功するかどうか定かではなかった二人は準備すらしていなかったのです。宴についてもおなじことでしたし、事後に菫子のまわりへ集まって質問ぜめをあびせる好奇心旺盛な人間はやんわりと返され、妖怪は全て霊夢に蹴散らされ、その中へ魔理沙もいたために今夜の神社には二人がいるだけだったのです。
菫子がそろそろ現実へと帰る時間となり、なんとなく建てられたままの櫓を見ながら二人は別れることになりました。
「あっち側で再現するつもりはないの」
霊夢の問いに菫子は肩をすくめます。
「どうやって? 手助けが必要なのに超能力なんて私しか持ってないんだよ。いえ。他にいたとしても見つけるまでが大変だし、仲良くできるかどうか分かんないし」
「仲が良くなくてもなんとかなるんじゃない。私とアンタみたいに」
「そこは訂正する。でも無理。皆が使えるようになる物じゃないと普及なんてしないんだから。あっちは」
しばらく黙って菫子は辺りを見ていました。昼の光景を思い出しているのでしょう。その視線は結界の張られていた場所から上空に
「楽しかった。霊夢は?」
「そうね」
そっけない返事に呆れたような笑みを浮かべて菫子は目をつむりました。霊夢がまばたきを一つする間に彼女は消え、そこには古びた夜の暗がりが広がっています。天心に上りつめた月と、冷たい軌道を回る星光群。厚着を通り抜けてくるようなそれ以外の何かを霊夢の膚は感じ取りましたが、辺りに散乱する昼間の秘術の残り香が微風に運ばれていたのでしょう。襟巻の隙間を塞ぐように動かしてから、身を縮めて霊夢は神社の中へ帰って行きました。
そしてたぶん、ここがぎりぎりの境目だったのです。菫子の予知夢へゆるやかに黄昏の光景が混ざりはじめたのは。
昼間に意識して見る予知夢ではなく、何かの拍子に入り込むようにして彼女を奪っていく予知夢はいつも不安になるものを少女に見せました。
例えば地平線いっぱいに赤錆びた夕日が潰れ落ちているとします。緩やかなうねりと風紋が目の錯覚のように延々と広がる砂漠がどこにあるのか菫子には見当もつきません。不安な足元にも風のなかにも答えはありません。さらさらと砂の
例えば断続的な幾何学の熱夢じみた円形舞台と直方体が林立する植物群の中にいるとします。遥か遠くまで蛇行する大木の大河を睥睨しながら歩きまわる菫子の目は珍しげにキョロキョロとしているのですが、よくみると植物を支える石柱は崩壊した人造物であることが見て取れましたし、地面を覆う根や羊歯の間から覗くのは舗装された路のように滑らかであったのです。色濃い緑は執拗な
極端な夢だったのです。彼女が新しく見るようになったものは。変わらずに見ることのできた科学未来とはかけ離れている崩れた世界の予知夢では、体系の大きく狂った混沌もしくは秩序が映っていました。
そしてこの頃からひとつの噂が現実世界で広まりつつあったのを菫子は知りました。都市伝説のひとつとして麦の新穂のように国中で満ち溢れながら人々の舌から舌へ踊っていく噂の瓶のなかへ見知った言葉があるのを見つけたとき、心や魂と言われがちな何処かを引き裂かれたような気が菫子はしました。
――結界。
形式で組まれた空間の中に特別な力が働くと噂は言っていました。さして新しくないこの中古の都市伝説はどうしたわけかいつまでも消え去ることなく、それどころか加速的に信じられていくようになりました。科学的に解明できないにも関わらず多くの人が信じていく状況を、自らの不安定な予知夢を相談するときの茶請け話として幻想郷を訪れた菫子は霊夢へ話したものです。
好みに合った新しい予知夢の内容や星へ旅立った人類を夢で探しだす抱負だのを語り合うその会話を、じっと息を潜めて見つめる耳がいくつもあることに彼女たちは気づいていませんでした。
耳の持ち主たちはそれがどういう事だかすぐさま理解しました。つまり宇佐見菫子が結界の知識と応用を持って人間の集合知を行き来したことで、結界の実在が伝染したのだと。彼らの群れは貪欲です。利用できそうなものが知れるとすぐにそれを共有して人々の脳や魂に流し込んでいくのですから。
古来に妖怪や神々が恐れられ信じられていた時は大いに役立ったものでしたが、今回に限って言えば逆でした。広がった結界への興味は解明と体系化を促さずにはいられず、やがて普遍化して様々な部分へ応用されていくことでしょう。その途上で幻想郷という結界によって分け隔てられた場所が見つかってしまえばどうなるのか分からない者がいるでしょうか? そして菫子が見るようになった予知夢も頭の痛い問題でした。
彼女たちが話し合い解決策を練りあげて決定されたことはやがて博麗の巫女へと伝えられ、菫子へのメッセンジャーとして霊夢自身が願っておもむいたのは
「私に与えられた時間は一度だけだからアンタに警告しておくわね。二度と私たちの前に姿を現すな」
豊かな絶滅は喋りつづけます。菫子の夢が人類に広まり彼らが結界を手にしつつあることを。そのために幻想郷の未来が危険に陥るかも知れぬことを。突然言い渡された言葉が菫子の中にある傾斜を転げ落ちるまでには時間が必要でした。そしてそれを受け入れて対応するまでの時間が用意されていない不条理に菫子は
「そんなことはない!」
「これから百年後のことであってもそう言い切れるの。その頃にはアンタも私も生きちゃいないだろうけれど、妖怪たちと外の人間たちの研究は別」
「私に関係あるもんか! 自分が死ぬほど先のことなんてどうして考えなきゃいけないの!」
「アンタが先に踏み込んだからよ」
あ、と自分の声が鳴るのを菫子は聞きました。納得でも了解の声でもありませんでしたが、何かおびただしい物を見たように思ったからです。彼女は賢かったのですから。心に広がる言いようのない虚ろを振り払おうと菫子はスペルカードを取り出しました。半ば無意識ではありましたが、どうにか霊夢に自分を知ってもらおうとしてのことでした。それが意志を通すために作られた一方的な遊戯だったと菫子が思い出したのは、ずいぶん後になってからのことです。
応えるために霊夢も同じ数のカードを取り出しました。そして瞬きをした菫子に見えたのは、霊夢の横へ出現していた多尾を持つ人型のシルエット。驚きもう一つまばたきをした彼女の目に写ったのは別の人型です。それぞれが菫子の取り出したのと同じ数のスペルカードを彼女に見せています。土が踏みにじられる音で背後を振り向くとさらに別の少女がスペルカードをもっています。
何かが煮える音。風が終わる音。音が糸をひく音。陰に陰を接木する音。その全てが何かしら人の形をしたシルエットを生み、その全てがスペルカードを菫子へ向けて見せびらかしてくるのでした。蒼白になった菫子の視線があちこちへ泳いでいると足先へ再び針の突き立つ高い音がしました。
ついに身をひるがえした菫子は影たちの群れから抜け出そうとして宙を走りだし、接触と置き去りにした音への恐怖で顔を歪ませながら木立の中へと飛び去ると行き先も思いつかないまま、ただ逃げるためだけに進み続けました。擦過音をたてて唸る木々のあちこちに冷や汗を吹き出しながら、やがて追ってくる気配がないことに気づいたとき彼女が浮かんでいたのは枝葉の隙間から大きな月光が降り積もる場所でした。光枠の外側でなま暖かい闇は墨のようによどんでいます(季節は冬だったはずでは?)。
燃えるようになっている肉体と精神を落ち着かせようとした菫子へ声がかかったのは、光の底へ降りて土を踏みしめた瞬間だったでしょうか。
「まだ話は終わっておらん」
木々の暗がりから投げかけられた声はひとつの羽根に触れられたほどの軽さだったために菫子は逃げ出さず身構えるだけの余裕が生まれ、暗闇の
「聞け。儂らは結界の知識を外へ流すことにした」
煙管を離した化け狸の口から白煙がゆらゆらと揺れ、そこに月の光が白い矢となって二本突き立ちました。
「このまま結界を制御する手段も知らずに滅んだとあっては幻想郷も無事ではすまんからの。まあ火口から火が灯されるまでの間に多少は朽ちる部分も出てくるじゃろうが、おそらくお前さんの社会は滅んだりせんじゃろう」
再びマミゾウの口から吐かれた煙が広がり、光の矢が四本に増えました。菫子のかすれた声が問います。
「朽ちる? そんなに危険な境界を
「いいや。じゃが手妻が未熟とあれば手指を傷つけるのが道理よ。儂らはその傷が心の臓に達するのを防ぐために少しばかりコツを教えるだけのこと。お前さん方が決して幻想郷に達することのない理のみを選んでな」
煙管の口から葉の焼ける音が立ちます。昇る紫煙の向こう側で狸の目が
「結界を知識として受け渡しができるようにしたあと、塔を組み立てるようにして結界の学問を人間は発展させていくじゃろう。常のごとく。見果てぬ天を指し示してやれば、知識の土台のさらに地下へ妖怪が潜んでいることなぞ気づきもせん。伸びきってしまえば土台のことなど忘れてしまう。雛鳥へ飛ぶことを教えてしまえば水の中で生きようとはせんようにな。こうやって事の次第を話すのは別れの駄賃だと思うてくれ」
一服するあいだに返事がなかったので、マミゾウは続けて言います。
「知識の渡し方は夢を通すことにした。お前さんにならったそうだ。宇佐見菫子」
今までと違う声で名前を呼ばれた菫子の顔が青くなります。煙を貫く光は八つ。
「貴方を恐れるのです。宇佐見菫子」
煙管に彫られた波のような煙を吹く貝の絵が月光を反射して菫子の目を刺すように煌めき、少女は立ったまますっかり動けなくなっていました。
「今のは伝言じゃ」
マミゾウは背を向けて遠ざかり始めました。
「さらば。生きたまま壁に閉じ込められるお主に同情はせんよ。以後はふたつの庭を眺めて生きよ。どちらにも声はかけぬことじゃ」
足跡もつくらずに夜陰へ滑りこむように消えていったマミゾウの背中をぼんやりと見つめながら菫子は現実へと覚醒していきました。そういえば闇の中でこちらを見つめるように燻り続けた煙管の火はいつまでも消えなかったようです。
菫子の夢は変わりませんでした。憧れた未来都市の光。地を覆う砂という名の墓。もつれた羊歯と茨と祈り。幻想郷。
その全てが彼女にとって遠い哀しみのように受け取られましたし、最後のものに至ってはまず最初に身を隠すことから始めねばなりませんでした。今まで顔を出していた何処にも行くことはできません。その日も博麗神社からさほど遠くない山のなかにある少し開けた場所に菫子は座っていました。自然か妖怪のせいで少し崩れた尾根にできたその場所で、ちょうどいい形に突き出た岩へよりかかって膝を抱えた少女の目に空は青く、風も陽もふんだんに降りかかってひしめいています。夢から覚めようとせず、かといって何かやるわけでもなく菫子はその場所へじっと座っていました。
「自分の花を咲かせる事の出来る人は少ないわ」
いつの間にか背後へ立っていた幽香が声をかけると、風に揺れた茎のように少しだけ背中を震わせて菫子は自分の指を見ながら言いました。
「私をどうするの」
「手折られるとでも? 私には関係のないことよ。前と同じ理由で私はここにいる」
風が止みました。日が雲に陰りました。
「花は自ら咲こうなどと考えはしない。欲望を満たしたから咲くのです。花鳥風月。嘯風弄月。月に叢雲。花に風。貴方は自らを満ち溢れさせようとしている。それは未熟でこそあれ傲慢ではない。貴方に合う花は菫子よ。
土に還るために咲こうとする花が私を呼んだ。理由としてはそれだけです。咲きなさい。貴方」
空が裂けて彼女たちを巨大な目玉が覗いたように思われます。超能力で愛用の外套を呼び出すと震える身体へ巻きつけながら菫子は立ち上がり、幽香へ振り向いて対峙しました。
「願いを」
幽香が微笑みながら問いました。
「外の世界が今すぐに結界を……いいえ。私が夢見た未来へ繋がるための結界制御法を、外の世界へ与えるために知恵を貸して」
「もちろんよ。私は花を咲かせる者」
幽香は菫子の顔を覗き込みます。感情も思考もなしに広がる無慈悲な樹木の枝葉にも似た妖怪の瞳がゆらめき、菫子は吸い込まれそうな気がしました。
「結界と人間が分かり合うことはありません。なぜならばお互いのための言葉を持ち得ぬからです。ですが双方を理解する者がいるのであれば別。では現在、外の世界に棲む人間で一番結界を知っているのは誰でしょう?」
「わたし」
「そうです」
「でも私は他の人たちに結界を説明できない。感覚として理解しているかもしれないけれど、伝えるための技術も言葉を持ってないわ。それを」
「それを私が与えることはできません。なぜならば私も幻想郷に住む身であることに変わりはないからです。この場所から結界に関する知識は持ち出せません」
幽香の手が菫子の首筋に近い肩へ置かれた。土をつかむ根さながらに。
「答えはもう手にしているのよ。菫子。伝える言葉を持っていない。ではそのための言葉を作ればいい」
菫子の目に幽香とは別の樹が移り始めました。幽香の背後から天を貫くように伸びていく黒い幹。
「人間と結界をつなぐ言葉。双方の疎通を可能にする言葉。外の世界で中間言語と名付けられた、人間のための身勝手な言葉」
その樹の葉は肉厚で重そうに垂れ下がっていました。長く伸びた刃状の葉でした。針のように細くびっしり固まった葉でした。ひとつとして同じ葉、同じ枝はありません。いのちがみなぎって揺れやまない、高くはりのべられた黒色のゆたかな枝葉が天網のようになっています。
「それにお成りなさい。菫子。貴方はもう一度なったのですよ。この地で昼と夜を混ぜあわせた時に」
その木の名を菫子は知っていました。
バベル。
「開花の仕方を教えましょう。それからは貴方の思うがままになさい」
こうしてまた、幻想郷に新しい花が咲くのでしょう。
うっそりと立ち上がった霊夢が庭を通って神社の裏手まで歩いて行ったのは名のない昼のことでした。広くなった場所まで出てきた彼女は、そこで待っていた菫子の前で立ち止まるとしばらく黙って相手を睨みつけていました。
「自分勝手にも程があるじゃない。次に幻想郷に来たらどうなるか分からないほど馬鹿な子じゃなかったはずよ。茶番はもう終わってる。前に言ったわ。私はどうあってもここの結界を守る。そして人間を軽々しく死なせはしない」
「覚えてる」
「あんたは死なせない。死なせないから遊びで白黒を付けたげる。けどこれ以上は二度とこっちに来られないように処置をさせてもらうわ。まるで死んでしまうような。空も飛べなくなるし夢だって見られなくなる。そんな事を」
霊夢は五指の間から光る針を覗かせました。目が密やかな恐ろしい色で爛々と輝きます。
「私がやらなきゃいけない」
こうして放たれた針と符を皮切りにして命名決闘が開始されました。鮮やかな遊戯にひるがえる紅と黄金の匂い。普段と変わらぬルールです。しかしどちらが人間でどちらが異変なのでしょう。何に対して二人の表情によぎる凄惨は捧げられているのでしょうか。
死のために遊戯を用いてしまった霊夢と菫子は、この期に及んでそれでも相手のことを人間として見ていたのでしょう。
森を食らう魚のように霊夢は菫子へ近づいていこうとします。触れ合うほどの距離になってしまえば霊夢の勝利をもって遊戯の雌雄が決することを、お互いが承知していました。こうして彼女たちが遊ぶのは初めてではなかったのですから。
空色をした鉄の旗と術性を感じられない奇妙な紋様のカードを菫子は舞い踊らせ、伐り倒される大木さながらの石柱で霊夢を薙ぎ払います。風に吹かれた枯れ葉のように軽々と空中を転がっていく霊夢へ噛みつくように紅蓮の炎が後を追いますが、ひと回しされた大幣にぶつかると細かい紅鋼玉の粉のようにして熱塊は砕け散りました。その塵を貫くようにして放たれた霊夢の針が菫子の外套の端を縫い止めますが、体に当たるはずの針は浮かび上がった葉状の岩板に受け止められました。
そして霊夢は陰陽玉を取り出します。誰かの笑みを頭の後ろの方で菫子は感じました。ことによればそれは自分だったのかもしれません。
投げ放たれた陰陽玉は霊夢にとっては真っ直ぐに、実際には曲がっていく雨のような軌道を描いて岩の葉をかわし菫子に肉薄します。そして涙へ入っていく言葉のようにして、菫子の左目あたりを撃ち抜きました。
小さな吐息が萌芽する音を菫子の喉は鳴らし、同時に驚愕の叫びを霊夢はあげたのです。繰り出した陰陽玉が霊夢に伝える手応えは考えていたものよりも強すぎて、それこそ頭蓋を砕くほどだったのですから。しかし菫子の撒き散らしたものを見て博麗の巫女は言葉を失いました。
少女の壊れた左顔の下から覗くのは血肉ではなく細い無数の糸でした。それはただの糸ではなく結界線とでも言うべきもので、より合わされた境界をほぐしていったならばそうなるのであろう物質でした。糸はあとからあとから音を立てるようにして菫子の痕から吹き出し、繭を作るように菫子の未成熟な曲線に沿ってゆらゆらと広がっていきます。
手元近くへに戻ってきて浮遊している陰陽玉を収めるのも忘れて相手の様子を見ていた霊夢は、いきなり陰陽玉をその場で猛然と回転させて嵐の種じみた渦にすると、袖下から取り出した分厚い札の束を投げつけました。風の轟音と共に螺旋を巻いて吹雪のように吹き散る札がすべて霊夢の後方へ乱れ飛ぶと、乱れる白は空間の一角を削りながら共に消滅してゆき、そこへ広げられた傘を――その下に佇む者の微笑みを
仰け反ったままの菫子から視線を外さず霊夢が幽香へ声を投げつけました。
「アイツに何を吹き込んだ?」
「あのスミレが咲くための方法を。そして失う物を。失い方を」
「宇佐見菫子は見つけしだい動けなくしろって話だったはずよ。その後は私へ引き渡せとも」
「あの子は動いていなかった。引き渡しは、今まさに」
自らの勘が近づくなと告げるために菫子のそばへ近づけず、霊夢はその場で躊躇しています。彼女の背中を見ながら幽香は続けました。
「我々が人型をとるのと大して変わらぬ理由で、夢のなかの人間は人の形をしている。そこへ神の手先が、巫女が壊すための神祕を投げつけるのであれば花の種にとって幸いよ。種を止めろと宣告してくれているのだから。身を投げ出した犠牲獣へ向けて。もしくは殻を破れぬ雛鳥」
幽香が笑います。
「親鳥がそれを助けたならば、雛は水を得るのでしょう」
「ベラベラうるさい!」
霊夢はあらゆる得物を陰陽玉の乱気流に乗せ幽香へぶち撒けると、もはや迷わず感情の疾さで菫子へ飛んで行きました。危険を告げる自らの本能をねじ伏せながら。全てを思うがままにする博麗の巫女として宣託を無意識に行っていたかもしれません。
溢れ出る結界糸に比例して希薄となっていく菫子の身体へ霊夢が触れる直前、二人の少女の視線が絡み合います。片方は貴獣の。片方は老人さながらの。尋常でない高さから落下していく衝撃に襲われた霊夢は、やがて菫子の瞳を見ながら為すすべなく意識を失ってしまいました。
全天の夜が見えたのです。そこに地はなく踏みしめている何かが透明なために夜空の黒と星々が続いていて、遥か下方に僅かな物体の欠片が見えるのみでした。記憶の断絶の後に霊夢が立っていたのはまったく未知の世界で、見覚えがあるとすれば月へ向かうまでを過ごした宇宙に近いようです。辺りを囲っているのであろう透明な物質は仄かな光を放っており、それが暗黒から浮かび上がった霊夢自身のかたちを認識させていました。
手さぐりで壁の感触を確かめていた霊夢は深みからひとつの影がやってくるのを見ていました。星の光をよぎってくる黒い点は大きさを増していき、ひとつの見慣れたシルエットになると螺旋階段を登るような動きをしながら霊夢と同じ高さまでやってきたのです。壁を挟んだ向こう側まで来た影――菫子はそこで初めて霊夢に気づきました。
「来てたんだ」
壁を通しているにも関わらず菫子の静かな声は流星のように真っすぐ霊夢へ届きました。
「永く待たせた?」
「いま来たばかりよ。たぶんね」
「それは良かった。私は一万年ほどかかったから」
時の無いここで数えたとするならば。
菫子はそう付け加えます。ここから見下ろした虚空の先あたりへ太古には星があり、そこには人間以外の動物と被造物のすべてがあったのです。幻想郷で糸を吐き出し尽くした菫子は霊夢と同じように星へ現れると、存在する全てを基にして透明な塔を造っていきました。太陽が高度を上げるようにゆっくりと、しかし確実に。
この星は菫子の中にある広大な部屋でしかないのは本人が一番良く知っていたので、やるべきこともすぐに理解できたのです。えぐった大地と海に暴風雨を差し込み塔としました。雌に流れる命の飲料と雄の生み出す命の飲料で模様を描き塔としました。黒瑪瑙の塔を砕いて
はじめから目指すべき場所はわかっていましたが、それでもなお膨大な工程が必要とされ、ついに目指すべき場所へ菫子はあと一歩の所まで来たのが先ほどだったのです。
「これで人間は結界を学ぶための術を手に入れる。火を移す木の棒。水を運ぶための素焼き壷。オベリスクを造る天啓をもたらす酒を」
見えない段を一つ菫子は昇りました。
「他人のためにアンタが身を捨ててまでやる事ない」
挑むような霊夢の声に菫子はいつもの笑顔で咲きました。
「そうね。他人なんて大体どうでもいい。でもこれは私が見た未来のため。私の未来! あの美しい光景を作り出せる人たちなら、宇宙にすら届いてみせるでしょう。私も連れて行ってもらえるかな」
「子供は夢を見ていなさい。夢にくべられる木になるな!」
透明な壁に向けられて霊夢から鋭く放たれた札は、指を離れるとひらひらと真下へ落ちました。まるでただの札のように。菫子は顔を上げて霊夢を見ます。
「ここは私の夢であり貴方はただの人。博霊の巫女じゃないよ」
踊るような足どりで後ろへ傾いた霊夢は風の速さで菫子と自分を仕切る壁を蹴りつけてよろけました。おどろいた菫子は残されていた数段を素早く昇り、目に見えぬなにかを手中におさめて霊夢へ振り向きます。
「男子みたいなことしてないで聞いて。霊夢」
何度も目の前を蹴りつけ荒い呼吸で胸を波立たせる霊夢が目だけを菫子に合わせました。
「一人でここまで来る時によく考えていたんだけど。友達と遊ぶの、楽しかったねえ」
菫子の自然な笑顔を見て息につまった霊夢がまばたきをひとつ。それで終わったのです。
博麗神社の居間から陽に照らされた庭先を博麗霊夢は見ていました。
居間へ横たわって掌ひとつ分だけ開いた障子のあいだから、見慣れた軒先とそこから広がる白い庭を霊夢は見ていたのです。流れ込んでくる冬の冷たい外気に朦朧を破かれながら、繋がらない記憶と現状を整理する間に訳も分からず少女は呼吸を止めていました。しかしついに限界を迎えて大きく息を吸い込むと同時に、自分が現実に戻ってきたことをどうしようもなく押し付けられて悟ってしまいました。菫子は行ってしまったのです。
悠然と半身を起こして座り込むと、手櫛で髪を梳くような気軽さで庭先へ一枚の札を霊夢は飛ばしました。障子の細い隙間を抜けて鳥よりも速く庭の雪上を横切って行く札影をぼんやりと見送り、天から降ってくる陽へ視線を向けたままじっとしていました。やがてそばに落ちていた大幣を使って障子を開け放し、どっと流れ込んでくる冷気にも眉ひとつ動かすことなく外を見回した霊夢は、ひとつの花が風に揺れるのを見つけました。
途端に顔を紅潮させて床を蹴り立てると、靴も履かぬまま空へ翔び立ち、その日は戻ってこなかったということです。
先述のようにこの本文は近代結界の黎明期から存在する中間言語『スミレコ』の内部で作成された『ひかりについて』の全文である。『スミレコ』の知性や意思の有無についての議論は今でも研究の最先端に位置しており、ここで言及するものではない。作中に出てくる固有名詞は現在では全てフィクションであると証明されているものの、物語として不完全な点や背後関係の説明が一切ない点などからギルガメス叙事詩のように欠けた部分があるとみられ、以後の研究が待たれるところだ。なおこの発表以後、五十年近くをYは完全な沈黙を保っている。
幻想郷の桜の蕾が色を刷きはじめた頃のことです。宴を開かなくなって久しい博麗神社を訪れた魔理沙は、軒先へ座っていた霊夢を見つけると声もかけないまま隣へ並んで座りました。
「どうする」
開口一番にそう言った魔理沙は帽子を脱がないままです。
「どうもこうも。私ができることはもうない。人とそれ以外を繋ぐ言語なったアイツにまた会えるようになったとしても、私が生きてる内には無理でしょうね」
盆へ置かれた急須から霊夢の手ずから緑茶を落とされる湯呑みの側へもうひとつ湯呑みが置かれました。魔理沙が懐から差し出したその新しい湯呑みにも霊夢はお茶を満たしていきます。
「どーも。するとワガママ娘に文句を言ってやるお鉢が回ってくるとすれば私か?」
「する気もないのに適当なことを言わない。まあ、人間止めたいなら私が死んでからにしてくれる。アンタ絶対に厄介事起こすだろうし」
「お前しぶとそうだしなあ。こりゃあ私は三途を渡ることになるぜ」
鼻で笑う霊夢と可愛らしい笑顔を返した魔理沙は同時に茶を飲みました。
「アイツ。酒で酔ったこともなかったんじゃないかしら」
湯呑みの内側を見つめる霊夢から魔理沙は視線を外しません。
「そうだろうな。で、菫子をどうしたんだ。お前がこのまま引き下がる訳がない。冬に幽香をコテンパンにした後からつるんで何してるんだ」
「教えない」
「私も混ぜろと言ってるわけじゃない」
「なら盗む?」
「一人消えた。もう一人は宴会から逃げるようになった」
魔女の声音に驚いた霊夢が顔を上げました。うつむいた魔理沙の表情は帽子の陰に隠れてよく見えませんが、すぐ隣に座る霊夢は別だったでしょう。鼻から深いため息を吐くと、手にした湯呑みを指先で数度叩いて霊夢はゆっくり微笑みを作りました。
「
霊夢の言葉の中にある何かが柔らかく変わり、したたるようなそれを受け止めながら魔理沙は頷きました
「菫子は結界と
「古典的なギフトだな。悪魔がよくやる類の」
霊夢は微笑みます。相手から聞きたかった答えと声が届けられたからです。
「幽香が言うには人間の寿命より少し長い程度の年月をかければ、外の人間もそこそこ結界を操れるようになるんだって。その時までは折を見てちょっとずつ式を作っては送るの」
「すると?」
魔理沙は問います。その声音から察すると、すでに答えをうっすらと察しはじめているようではありましたが。
「するとね。ある日いきなり手を貸した分だけ溜まったお代を悪魔がいただきに参上するわけ。支払いをするのはもちろん菫子。ところがアイツはあの始末でしょう。どうも魂は難しそうだったから記憶にしておくんですって」
うつむいたままでいる魔理沙の帽子が作る陰より下から覗き込んだ霊夢は、いたずらっぽい目で質問者を見上げます。
「長い間ひとりだった奴が再び人や妖怪と話せるようになったとするわね。その時に初対面の相手が自分を知ってたらびっくりすると思わない?」
話の意味を理解するまで瞬きを繰り返した魔理沙の唇が急に釣り上がりました。
「なるほどな! あいつの自伝でも世間へばら撒くつもりか」
「まさか。そんなつまらなそうな物よりマシよ。物語のヒロインにしてやるわ」
ついに腹を抱えて笑いはじめた魔理沙を見て勝ち誇った顔の霊夢が湯呑みを空にしました。陽光の角度が少しばかり深くなったころ、いたずらっぽい顔の少女二人が顔を見合わせます。
「いつ頃やるんだ」
「そうねえ」
庭先にあるひとつの蕾を見ながら霊夢は頭をひねり始めたのです。
(終)
それ以上語ろうとすればコメント欄では短すぎます。
でも皆よかった
素晴らしかった
作者さんの味がよく見える作品だと思いました。
最後まで読んでも理由は分かりませんでしたが、それでも最後まで読んで良かったです。
レトリックが実に面白かったです。
しかしこれが良いお話であったのは、最初に読んだときから分かったことでした。それは非常に幸運なことだった様に思います。