人間の里の一角に、ごく普通の民家がある。
以前はある鍛冶師とその女房の家で、二人で住むにはちょうど良いが一人で住むにはちと広い、そんな感じの家だ。
今は藤原妹紅が一人で住んでいる。
二人なら丁度いい家に、妹紅は一人だけで住んでいる。
不便な事は何も無い、広いと言っても所詮が一人分、それに関して物臭をするような妹紅ではない。
ただそれでも、妹紅にとっては広すぎた。
たった一人分だが、それでも広すぎたのだ。
つい先日まで、夫と共に過ごしていた家である故に、今の妹紅にその家は広すぎた。
夕食を済ませて特に何もする事も無い妹紅はぼんやりと神棚を見上げて昔を思い出す。
何故自分が、今ここにいるのか、それを辿る記憶である。
* * *
「なあ、藤原、俺の女房にならんか」
事の始まりは、とある男の単刀直入な言葉だった。
勿論、これが男との最初の出会いだった訳では無い。
鍛冶師の弟子兼助手として、修行を積んでいたその男を妹紅は以前から見知っていたしまず間違いなく、そして極めて珍しく友人と呼べる間柄だった。
図体の大きい、そしてその図体のようにおおらかな男で、妹紅は密かに満腹時の虎のような奴だと評している。
人付き合いが良いとは言えない、むしろ悪い方である妹紅の存在をさほど気にせず、ごく普通に話せる、そんな奴である。
語り合って時間をつぶし、酒を飲んで大いに騒ぎ、時には睨み合う事だってある。
何をしても後には持ちこさない奴であったが、いつの頃からか妹紅を口説くようになっていた。
「前にも言ったろう。私は誰の女房になる気も無いよ」
ちょうど今割った薪の様に、妹紅はそれを一刀両断に叩き斬る。
妹紅とて伊達に永く生きていない。
男に口説かれるのなど、両の手を合わせても足りない経験がある。
だから、こういう時は後腐れが無いようにすっぱりと断る事にしている、面倒事になったらぶっ飛ばしてしまえばいい。
「そうか」
すでに幾度となく繰り返される問答で、男は特に表情も変えずにそう呟く。
男の事は嫌いでは無い、むしろ憎からず思っているが、それとこれとは話が別だ。
「どうしてもか」
「どうしても」
「ふぅん……どうにもならんか」
「ならないね」
「困ったなぁ」
「珍しい」
「うん?」
「アンタが、そこまでしつこいの、初めて見た」
「そりゃそうよ、惚れておるのだ、そう簡単に諦められるかよ」
はたと、薪を割る手が止まる。
これはなんとも困った事になった。
こうもつっけんどんにしてるのに、気分も害さず尚口説くとは。
「なんで私なんだ?」
「俺がお前の事を好きだからだ」
「……里にはもっと他にもいい女がいるだろう」
「他の女がどうであるかは、俺には関係ない」
普段は何事にもさっぱりしているこの男が、どうにも諦めるような気配を見せない。
やるといったらやる男でもある。恐らくは、諦めさせるのに骨が折れるだろう。
ぶっ飛ばせばいいとは言ったが、面倒事になっている訳では無い。
いや、面倒事ではあるのだが、ぶっ飛ばしては後味の悪い類の代物だ。
「もう一度言うが、私は誰の女房にもならん」
「うむ、それは聞いた。が、俺はお前を女房にしたい。お前がならんと言っても、はいそうですかとはいかん」
「むぅ……」
妹紅は一つ唸って思案する。
何度も言うが、妹紅はこの男が嫌いな訳では無い好いている。それは間違いない。
だが、男女としての好意かと問われれば少し違う気もするし、それがあったとしても妹紅は結婚など御免である。
「お前、鍛冶師だったな」
「応」
妹紅も男と男の師が鍛えた鉈や鍬を愛用している。
今、まき割りに使っているのもそう言った類の代物で、中々に具合が良い。
これの修復が縁で男と出会ったようなものだ。
「なら、刀を打ってみろ」
「刀?」
「そうだ、私は随分長く生きてきた。刀も結構見てきてる。だから、私を唸らせる刀を造ってみろ」
嘘である。
刀を観てきたと言っても、鑑定の業を磨いてきた訳では無い。
妹紅に刀の良し悪しなど判らない。
男も刀鍛冶ではない。
だがそれでも良いのだ、むしろそれだから良いのだ。
男が何を打とうと、妹紅は失格の一言を言えばよい。
要は時間稼ぎだ。
時間が経てば、男も気持ちが冷めるだろう。
時間を経たせれば、酷い女だと気持ちも冷めるだろう。
条件を出すなど、輝夜のようで気分が悪いが、お互いが不幸にならない為の方便である。
「ふぅん、つまり、お前と俺で根競べをしようという訳か」
「何?」
「うん、判った。その勝負受けよう」
男は得心したように自分の頭を一つ叩く。
確かに根競べである。
はっきり言って男に勝ち目は薄い、いや、無いと言っても過言では無い勝負である。
しかも先に言った通り、審判は勝負相手である妹紅なのだ、そもそも勝負の体を成してすらいない。
根競べと言ったからには、男もそこは判っているはずだ。
そういう意地の悪い狙いをあっさり看過された妹紅はどうにもバツが悪い。
「では、さっそくな」
「始めるのか」
「うむ、勝負の始まりだ」
男は「ではまたな」と笑って妹紅の仕事場を後にする。
妹紅はどうにもまいったと言わんばかりであったが、どうやら予想よりも悪い結末にならない様なので、左程に気にしないようにする事にした。
* * *
さて、それから10年程たった。
勝負の始まりと言ったにも関わらず、男は刀を打つ気配は無い。
ただ、以前よりも更に熱心に鍛冶に打ち込んでいる。
師匠からも一人前の太鼓判を貰い、師の引退を機に仕事を引き継ぐらしい。
そんな話を聞いて、妹紅も祝いの品でも持って行くか、と割と高い酒を片手に男の仕事場を訪ねる。
10年の間、男から求婚の話は一度も出ていない。
時折会っては会話を交わし、酒を飲み、ある時には喧嘩をする。
まぁ、ごく普通に良き友人をやっていた。
流石に気になって最初の2・3年はあの話はどうなったのかと問うてみたこともあったが、「まだまだだな」という返事が来るばかりである。
さもありなん。刀を打つのだ、そう簡単に出来るはずがない。
そんなこんなで10年である、流石に諦めたか忘れただろう。
蓬莱人や妖怪ならば兎も角、ただの人間の10年は長い。心折れても不思議では無い。
心折れてもあの様に変わらぬ態度なのは、男の意地かそれも後腐れが無いようにとの心遣いか。
どちらにしろ、蒸し返してグダグダ言うような事でもあるまい。
妹紅は、そんな風に簡単に考えていた。
「ごめんよ」
鍛冶場の入り口で、妹紅は声をかける。
鉄を打つ場に、女はご法度。金山様の勘に触ってしまう。
そういう気遣いであったのだが、妹紅は鍛冶場に女の姿を見かけた。
あの蒼い後姿とやたらと鮮やかな紫の傘には見覚えがある。
たしか、多々良小傘とかいう唐傘お化けだ。
「おう、藤原かどうした」
丁度作業が一区切りしていたのだろう、男が何時もの虎のような笑顔を見せる。
「あぁ、今度、店を継ぐんだろう」
「うむ、師が譲ってくれるそうだ」
「ほら、祝いにと思ってな」
「おお、これはすまんな」
土産を男に渡すと、妹紅はその向こうに視線を移す。
「うむむむむむむむむ……」
なにやら手に取って、唐傘お化けが唸っている。
「なぁ」
「おう」
「アレはどうした」
「多々良か? 何か知らんが、俺の仕事を見せてくれと言うんだ」
「女を鍛冶場に入れていいのか?」
「良くは無いのだが……自分も鍛冶仕事もやってるから問題ないと、どうにも頑固で押し切られてしまった」
「あぁ、なるほど」
そういえば、アレも確か鍛冶が出来たか。
何気に、幻想郷の妖怪の中でも一番訳のわからない存在である。
まぁ、それはそれとしてあんな堂々と女が鍛冶場に居ては、遠慮した自分が馬鹿みたいではないか。
「入っていいか?」
「いや、流石にお前は勘弁してくれ」
「だよなぁ」
「で? 何か多々良に用なのか?」
「何をしてるのか興味があるだけ」
「ふむ……おい、多々良!」
笑った顔が虎のようならば、張り上げた声も虎の様である。
まさに一喝ともいうべきその衝撃に、多々良小傘はびくりと大きく震えた。
「うひゃあ!?」
何とも言えない間の抜けた声を上げて、手に取っていた何かを床に落としかけて、必死で落とすまいとあたふたしている。
やれ、どこぞで見た漫画の様だと半ば呆れながら眺めていると、ようやく落ち着いた唐傘お化けがこちらに振り向いた。
「い、い、いきなりビックリするじゃない!」
「いや、すまん。少し声が大きすぎたか」
張りのある、良く通る声だ。
本人が意図せずとも、声を大きくするとやたらと迫力が出る。
妹紅も慣れたものだが、最初は驚いたものだ。
「あ、あれ? えぇっと……誰?」
「妹紅、藤原妹紅。覚えなくていい」
「は、はぁ」
「んで、何をやってるんだ?」
「何って、鉄を観てるのよ」
「鉄?」
「ほら」
小傘が、手にした鉄を別の鉄で打つ。
カァーンと、いかにも金属という音が鍛冶場に鳴り響いた。
「ね?」
「……さっぱりわからない」
「な、なんでよ! こんなに良く鍛えられた鉄の音、そうそうあるもんじゃないわよ!」
小傘の言葉を受けて、男がにやりと自慢げに笑う。
「ほぅ、判るのか」
「そりゃあ、わかるわよ。これでも天目一個神の末裔なんだから」
「自称だろそれ」
妹紅は思わずツッこみを入れる。
確かに苗字が多々良で鍛冶が出来るが、それで天目一個神の末裔を名乗るのは盛りすぎではなかろうか。
「んで、要するにコイツが鍛えた鉄が気になってきたわけか」
「そう、たまたまこの人が作った鍬を見てね、すっごい出来だから気になってきたの」
「へえ」
小傘の鍛冶の腕前はかなりのものだったはずだ。
さきほどの天目一個神の末裔は嘘くさい事この上無いが、一本踏鞴に近しい力を持つのも確かである。
それがここまで褒めるとは。
「俺の腕も師が認めてくれるに足る物だという事か」
「店を継ぐには頼もしいじゃないか」
「いや、まだまだだな」
「うぅ……私のあいでんててーが、あいでんててーがまた一つ……」
鍛冶師としての技量の証明が成された事で明るい二人に対して、男の鍛えた鉄がよほど出来が良かったのだろう、小傘は落ち込むだけである。
そのしょげた後ろ姿が、夏の日の霧雨のように鬱陶しい。
「そこまで落ち込む事ないだろ」
「だって、だってぇ……」
「ふむ」
男が一つ、何かを考え込む。
「多々良、お前、鍛冶をすると言ったな」
「え、あ、うん」
「刀の打ち方は判るか」
「…………何?」
その一言に、妹紅は思わず絶句する。
刀? 刀と言ったか?
「う、うーん、知ってると言えば知ってるけど」
「そうか、それは良い。教えてもらえんか」
「えぇー?」
「只でとは言わん、俺もこの鉄の鍛え方をお前に教えよう」
「いいの?」
「業を教えてもらうのだ、対価が業なのは当然だ」
「……うぅーん……判った! それで手を打ちましょ!」
「おお、教えてもらえるか」
「いやまて」
トントン拍子に進む話に置き去りにされかけて、ようやく妹紅は再起動する。
まさか、この男はまだあの話を覚えているのか。
まだ、勝負を続けているのか。
10年も? 10年も経っているのに?
「な、なぁ、もしかしてお前。まだ続けてるのか?」
「おう」
当たり前だと言わんばかりに。
何をいまさらと言わんばかりに。
「だ、だっていままで刀なんて全然打って」
「そりゃあ、そうよ。俺は師匠の弟子で師匠の仕事を手伝う半人前なのだ。勝手に刀を打つわけにはいかんし、鍛冶も満足に出来んのに刀を打てるわけが無い」
「いや、確かにそれは理屈だけど」
10年を、まずは独立する為に費やしたというのか。
確かにそれは道理である。理である。
己の身一つで生きている訳では無いのだ、己の都合だけで刀に手を伸ばす訳にはいくまい。
何故だ、何故そこまでするのだ。
ここまでくれば、里一番の鍛冶師として何の問題も無い生活を送れるはずだ。
女房になる女だっていない訳ではないだろう。
「決まっている、お前に惚れているからよ」
いつの間にか、疑問が口から洩れていたのだろう。
茫然とする妹紅に、10年まえとさほど変わらぬ笑みを浮かべ、男は言い切る。
それだけで、10年を耐えたのか。
ただの、人間が。
妹紅はもう、何も言えなくなってしまった。
「え、何々? なーんの話? 気になる気になる!」
とりあえず、唐傘お化けは鬱陶しいので軽く小突いておいた。
* * *
更にそれから10年が経った。
10年で、男は刀を造った。
一心不乱に、何本もの刀を打った。
無論、最初は鈍しか作れなかったが、徐々に徐々に、その出来は研ぎ澄まされていった。
それを見て、妹紅は空恐ろしくなった。
最初の約束から、既に20年である。
蓬莱人とて20年の歳月は短くない。
その歳月を、情念によって貫けるのか。
自分とて蓬莱山輝夜を恨んで蓬莱人となった。
しかし、それは一種の衝動のような代物である。
輝夜への恨みも、今となっては当初のものとはすっかり変質してしまった。
重ねた年月が違う、と言えば確かにそうである。
しかし、思い返してみて「恨み」である事に違いはないが、それが10年20年常に同じものであったであろうか。
恨みの形にしても、何かの不純物が混ざって変化してしまったり薄くなってしまった事など、珍しくもなかったように思う。
だからこそ、20年も変わらぬソレが、妹紅にはなにかとても異質で恐ろしいものに見えてしまったのだ。
もしかしたら、自分はとんでもない事を口にしてしまったのではないだろうか。
もしかしたら、自分は既にあの虎の口の中に囚われ、じわりじわりと噛み殺される途中なのではないだろうか。
不死となって、恐ろしい物など無いと思っていた。
永い年月を経て、恐怖の心などとっくに枯れ果ててしまったと思っていた。
接しているからこそ判る。本当に、自分を愛しているのだ、だからこそ自分が出した試練を乗り越えようとしている。
だが、そもそもにおいて試練と呼べるようなものでは無い。妹紅の嘘である、方便である。
そんなあやふやで、どうしようもないものを、本気でどうにかしようとしている。
そんな感情を、妹紅は知らない。
だからこそ、恐ろしくて恐ろしくてたまらなかった。
まともに顔が見られなかった。
虎の様だなどと呑気に評したその顔が、まるで本物の虎のように思えて。
いつの頃からか、妹紅は彼から逃げるようになってしまった。
そんな日々がどれほど続いただろう。
その日、妹紅は上白沢慧音の使いで、命蓮寺を訪れていた。
どうやら寺子屋で説法をするというので、その段取りをせねばならぬだが、生憎と慧音は手が離せない。
そこで、手紙を渡してきてはもらえないだろうかと言うのである。
その程度ならばお安い御用だと、気安く受けて、そして固まってしまった。
なぜならば、命蓮寺に虎が一匹いたからだ。
ご本尊のような、人のよさそうな虎では無い。藤原妹紅にとって、今一番恐ろしい虎である。
「おお、藤原か」
虎が向こうから近づいてくる
だいぶ彫りの深くなったその顔で、だがしかし20年前を思い起こさせる顔で。
「あ、ああ」
たったそれだけの事で、声が出なくなってしまう。
絞り出すようなその一言が、精一杯である。
「藤原」
「な、なんだ?」
「勝負をやめるか」
「……何?」
「今のままで続けても、俺の本意ではないのでな」
「本意じゃないって……」
「まぁ、今すぐ返事をしろとは言わん。落ち着いてから、返事をくれ」
それだけを言うと、虎は何事も無いようにその場を立ち去る。
茫然と後ろ姿を見送る妹紅。
今更、辞めると言うのか?
何故唐突に。
訳のわからない事である。
「どうしたのです、そんな処で」
再び声がかけられる。
しかし、今度は虎のそれではない、いかにも人のよさそうな穏やかで良い声だ。
振り返ると、住職の聖白蓮がそこに佇んでいた。
「いや、なんでもない」
頭を振り、自分が何故、命蓮寺にやってきたのかを思い出す。
「これ、慧音から」
「まぁ、わざわざどうも」
手紙を渡し、用事も済んだ。
後はとっと帰ってしまおう、寺というのはあまり好きじゃない。
そう考えたが、そこに白蓮が待ったをかける。
「何か、お悩み事でもあるのでは?」
「別に」
「……先ほどの鍛冶師さんの事で?」
見られていたのか。
自分の弱みを観られたようでなんとも嫌な気分である。
このような問題に宗教家が絡むと余計な事にしかならない。
「お話を聞かせていただきましょう」
「おい」
腕を掴まれる。
振りほどこうと持ったが、振りほどけない。
お得意の身体強化術であろう、そうまでして説教をしたいのか。
いよいよ面倒になって、妹紅は自爆をしてしまおうとする。
この距離でも、こいつなら死にはすまい。
しかして、聖の穏やかでありながら奥底に鋭利な光を伴った瞳がそれを許さない。
「逃げたりはいたしませんよね?」
一歩、踏み込まれる。
物理的に、ではない。その言葉が、妹紅の中に踏み込むのだ。
逃げるのは容易い。
しかし、既に白蓮の間合いである。
今逃げても、再び白蓮は自分の前に現れるだろう。
心の間合いはそういうものだ。物理的に逃げればよいのに、逃げる事が出来なくなってしまう。
「……わかったよ」
妹紅は、観念して白蓮の説教に付き合う事を決めた。
そうして引き込まれたのは、まぁ当然の事ながら命蓮寺の中である。
堂々としたつくりの、いかにもな処で、並の者からすればこれが法力で船になるなど俄かには信じられないだろう。
尤も、俄かに信じられぬからこそ、これが船になるあるいは船が寺になる、というのが見世物になるのだ。
とは言え、そこは妹紅には関係ない。騒々しいと空を見上げると、船が飛んでいる、その程度の認識である。
そもそも、妹紅は坊主はあまり好かない。
その好かない坊主を前にしても、座する姿に礼節が見えるのは、やはりやんごとなき生まれの為だろうか。
「それで、何の話をしてくれるんだ」
どうせ、小難しい話で煙に撒こうと言うのだろう。
坊主と言うのは大抵がそんなものだと妹紅は認識している。
「あの鍛冶屋さん、刀鍛冶ではなかったのですね」
「ああ」
白蓮が勘違いするのも無理はない。
これが幻想郷に来たのはつい最近で、既にあれが刀を打っていた頃である。
飯の種に農具を造る事もあるが、そうでない時は四六時中、刀を打っている。
「彼が刀を造り始めたのは、妹紅さんが関係してるとか」
妹紅は眉をひそめる。
どこからその話を聞いたのか。
20年前のあの話を知っている者は少ない。
一度、慧音に話た事があるので、自分とあの男と、慧音の三人ぐらいしか知らないはずだ。
人の口に戸は立てられぬと言うが、さてはてどこから漏れたのやら。
「妹紅さんは捨身飼虎のお話はご存知ですか?」
「…………それは知ってる」
釈迦の前世である王子が飢えて身動きすら取れなくなった虎の親子を見つけ、我が身を虎に差し出すという話だ。
身を差し出しても虎は飢えから喰う力すらなく、王子は己の喉を竹で貫き山の上から身を投げて虎を救ったという。
今の妹紅にとっては、虎というだけであいつを思い出す、あまり気分の良く無い話である。
「ご存じならば話は早いですね」
「それで? 王子に倣ってあいつの女房になれと?」
他者の為にその身をささげる。
捨身飼虎とはそういう話だ、ならば、言いたい事もおのずと判る。
20年も飢えたあの虎に、この身を捧げよとでも言いたいのだろう。
「……妹紅さんは、一つ思い違いをしています」
「うん?」
「ここにおける虎とは、あの方ではなく妹紅さんなのです」
「はぁ?」
何を言っているのだこの破戒僧は。
自分が虎?
ありえない。虎は、あの男だ、あいつこそが虎なのだ。
「妹紅さんは、あの方を恐ろしいと感じていらっしゃる」
妹紅は、はっと息をのむ。
何故、白蓮が自分とアイツの今を知っているのか。
「一つ問いましょう、虎は何故王子を喰わなかったのでしょう」
「虎が、空腹すぎて身動きが取れなかったからだろう?」
「それは王子の主観にしかすぎません」
そこまで言われ、妹紅は捨身虎飼の話をもう少し思い出す。
そう、たしか虎は、飢えて動けないだけではなかった。
「そう言えば、虎は王子の大慈悲力によって喰うのを躊躇ったと聞いた」
「その通り、虎は王子の慈悲を知り、慈悲故に虎は王子を喰わなかったのです」
「……哀れだな」
そう憐れな話だ。
王子は虎を救おうと思い、虎はそんな王子を尊いと思った。
お互いにお互いを救おうを願ったのだ。
しかし、その願いの一方は通じず、王子は命を絶った。
そして、王子が命の絶たなければ虎の親子は死んでいた。
「ですが、本当に虎は王子の尊さ故に喰わなかったのでしょうか」
「え、いや、話の中ではそう書いて」
「えぇ、確かに大慈悲力によって、とあります。しかし、その大慈悲力を虎が本当に尊いと感じたのでしょうか」
「慈悲は尊いものだろう?」
「いいえ、慈悲と尊さは違います。極めて近しい物ですが、慈悲とは尊さの一面に触れているだけであり、逆もまた然りなのです」
「一面……」
「慈悲とは、相手に通じて初めて尊い行いとなります。慈悲があるからと言って、その結果が良き事であるとは限りません。時には慈悲が誰かを苦しめる事だってあります。もし慈悲のみを尊いとすれば、人に苦を与える事も尊いとなってしまいます」
「つまり、慈悲は慈悲だけで尊いものじゃないって事か」
「その通りです、慈悲を行うにしても、私たちは常にその慈悲の在り方を問わねばなりません」
それは、妹紅も数多く観てきた。
始まりは確かに善意であったはずなのに、終わりが悲劇であるという事は全く珍しくも何ともない。
それを考えれば、慈悲そのものが尊い訳では無いというのも理解できる。
一方で、その善意が誰かの為になったという事も確かに観てきたし、自分も助けられた事だってある。
だからこそ、妹紅は慈悲を否定はしない。
「王子の大慈悲力は、結果として虎の親子を救いました確かに尊いものです」
「けど、虎がそれを理解したとは限らない」
「えぇ、己の命を捨てる。並大抵ではありません。なぜならば生きようとするのは誰もが当たり前に持つ意志です、そこを超えて何かを成そう等、虎の想像を超えていたのではないでしょうか」
「虎は、王子の慈悲が理解できなかった。だから、気味が悪くて食えなかった」
「もっと単純に、本当に訳が判らなくて、どうしていいのか困っていたのかもしれませんね」
「……だから、私が虎か」
虎は恐ろしい。
虎は人を喰う。人ののみを喰う訳では無いが、空腹でそこに人がいれば人を喰う。
故に恐ろしい。
では、あいつの恐ろしさはどうであろうか。
20年もの歳月を、ただ一人の女の為に。
それは妹紅の想像の範疇を超えている。
余りの執念に、妹紅は恐怖を覚えたが、しかしてその執念の真意はなんであろうか。
あの男は言った「惚れているのだ、諦められぬ」と。
なら、それは、その心は……
「妹紅さん」
白蓮の声が響く。
静かに妹紅を見据えて。
「もう一度、あの方と会ってみてください」
「……」
「虎は、王子の死を以て王子の心が慈悲である事を知りました。妹紅さんも、あの方の20年の歳月が決して悪しきものでは無いと知っているはずです」
「判ってる、判ってるさ……」
もし男の心が悪しきものなら、妹紅は男を殺していただろう。
既に罪を重ねた身、他者を殺める恐れはない。
しかし、男の心が、あまりにも強く自分を想うもの故に、妹紅はどうしていいのか判らないのだ。
「実はですね、お二人の事、鍛冶師さんから聞いたのです」
「あいつが?」
妹紅は目を見開いて驚く。
他の誰かに、自分たちの事を語るような男ではないはずだ。
「妹紅さんのお名前こそ出しませんでしたが、己が間違っているのならば正せねばならないと」
「そんな事は無い! そんな事は!」
思わず、白蓮に掴みかかりそうになる。
本当に、あいつがそんな事を言ったのだろか。
20年もの歳月を、ひたすらに貫いたあいつが。
「信じられませんか?」
「信じろ、というのが難しい」
「なれば、余計に会わなければなりません」
再び姿勢をただし、深く目を閉じて想う。
先ほどに聞いた、「勝負をやめるか」という言葉、「本意ではない」という言葉。
あの男の事を、妹紅は良く知っている。付き合いは白蓮よりもずっと長い。
だが、今、妹紅の知らぬ一面を白蓮から聞かされた。
思っていたよりも、妹紅はあいつの事を知らないのかもしれない。
なら、会わなくてはならない。
20年の歳月を、本当に無に帰してしまうつもりならば。
始まりは、紛れもなく藤原妹紅なのだ。決着に、藤原妹紅がいなくてはならない。
再び目を見開いた時、藤原妹紅に恐怖の揺らぎは薄れていた。
「判った。会おう、あいつに」
聖白蓮は静かに頷く。
今ここに、聖白蓮の役目は終わったのだ、後は、藤原妹紅の役目である。
「それにしても、結局言ってる事はちゃんと話をしろなんて普通の事だなんてね」
「あら、意外でした?」
「もっと執着を捨てろとかなんとか言うと思った。しかも釈迦の話まで王子の主観とか言いきちゃっうし」
「言うではありませんか、嘘も方便だと」
「嘘なのかい?」
「いいえ、方便ですよ」
「……さくじれた坊主だね!」
妹紅の面白げな憎まれ口である。
それを受けて白蓮はくすりと笑う。
だから、妹紅もやはりくすりと笑った。
「ありがとう、御坊の心添え、決して無駄にしないよ」
深く頭を下げ、妹紅は立ち上がる。
思い立ったが吉日だ、否、決めたのならば今行動せねばならない。
その後ろ姿は藤原妹紅を知る者が思い描く藤原妹紅の姿であった。
* * *
そして妹紅は男の前に立つ。
時は夕暮れで、夕餉の支度に使うのだろうか、薪を割る男の姿があった。
奇しくも、20年前と真逆である。
「おう、藤原」
男が何時もの様に、妹紅に語りかける。
20年の歳月を重ねた姿で、しかし何も変わらぬように。
「勝負をやめると言ったね」
「ああ」
「何故?」
「続けても意味が無いからな」
男が鉈を振りおろして、薪を叩き割る。
20年前のそれよりも、格段に威力を増した鉈だ。
おそらく、妖怪の鍛冶師に勝るとも劣らぬ実力を備えている。
「なぁ、藤原」
「なんだ」
「お前は蓬莱人だ」
「ああ」
「俺らとは違う、永い時を生きている。1300年だ、尋常では無い」
そうだ、蓬莱人は人間とは違う。
永い永い時を移ろわなくてはならない。
神とも妖怪とも違う。
彼らは移ろう事を知らない。
蓬莱人は永久を生きれど、永遠なるものでは無い。
「尋常では無いお前の連れ合いになるというなら、俺もまた尋常ではいられん」
「お前も、蓬莱人になるというのか?」
「まさか」
男が珂珂と笑う。
「俺はな、俺が真にお前に相応しい者である為に成すべきことをしようと思っただけだ」
「それで、私の難題を受けたのか?」
「そうだ、普通に考えれば無理な話だろう。だがな、その無理をどうにか出来ずに、何故お前と共にある事ができる。俺の在り方を、お前の1300年に少しでも釣り合うものにせずして、何故お前を愛せるのだ」
「ならばなおさら、何故やめるんだ」
「そりゃあ決まっている。お前の連れ合いになろうと言うのに、お前の気持ちを置き去りしてどうするのだ」
「私の?」
「もし仮に、俺がお前の1300年に見合う何かであったとして、お前が俺の方を向かないのに、何故お前を連れ合いにできるのだ」
妹紅は、そんな答えに目を白黒させる。
つまり、なんだ、この男は、要するに恋愛結婚を望んでいるのか。
確かに、お互いの気持ちが通じた上での結婚ならば、それは幸せな事かもしれない。
「なら余計にだ、何故その為に費やした20年を無にするような真似をするんだ」
「20年を積み重ねたからだ」
いつの間にか、男は妹紅と向き合っていた。
心なしか、20年前よりも大きく貫禄の増した姿で。
「20年を、俺はお前に釣り合う男になろうと積み重ねてきた。だが、その20年が間違っていると言うのなら、正さなければならない」
「何故だ、20年も貫いたのだ、最後まで貫こうとしないのか」
「それで、お前が俺の方を向くのか?」
妹紅は言葉に詰まる。
なぜならば、男の20年に戦慄し、避けるようになったのはまさに藤原妹紅だからだ。
「なぁ、藤原」
男は更に語る。
そこに妹紅を責めるような様子は微塵もない。
「俺は、お前に惚れている。だからこそ、お前に幸せであってほしい。すくなくとも、不幸にはしたくない」
「……」
「お前は尋常な者ではない。もしかしたら、俺の一生を賭しても届かぬのかもしれぬ、ならば20年が何だと言うのだ。20年の俺の姿が、お前にとって恐ろしいものだというのならば、俺が間違っているのだ。その間違いがお前を苦しめるのならば、俺にとってそれは本意では無い」
誰かに幸福であってほしい、それはまさに慈悲の心だ。
聖白蓮が語った捨身虎飼の王子の様に、男は藤原妹紅に己を捧げる決意をしている。
王子が竹で己の喉を貫いたように、この男は、藤原妹紅の為に今世を捧げようというのだ。
そして藤原妹紅は思う、かつて蓬莱山輝夜に求婚した父の事を。
父は、蓬莱山輝夜をどう捉えていたのだろうか。
美しい姫を、己のものに出来るという、そんな気持ちではなかったのではないか。
それが悪いという事では無い、あの時代は、女を数多く口説ける男は風情を解する雅男として持てはやされていた。
それが、男の価値だったのだ。
されど、父も、他の皇子達も、輝姫を愛すれど、蓬莱人の業を背負える程の存在であっただろうか。
彼らの価値が、輝夜の永久を一時でも留めるものであっただろうか。
妹紅は男をじっと見つめる。
20年前よりも、老いたその男を。
人は死を以って蓬莱人を置き去りにする。
だが、蓬莱人もまた人を置き去りにする。
永遠に変わらぬ蓬莱人に対して、人は老いる。
人間はそれに耐えられない。見知ったものがいつまでも若いのに、自分が老いてゆくと言う現実に。
年月とは、老いとは、そういうものだ、それだけ重いのだ。
目の前の男は、今が男盛りだ。
力も技量も脂が載って、最も充実する時だろう。
刀鍛冶として重ねた歳月で、更に見事な刀だって打てるだろう。
それを、私の為に捨てるというのか。
嗚呼、お前は私の為に、そこまでを成せるのか。
「……アンタの刀を、愉しみにしてるよ」
なんと言えば良いのか解らなかった。
きっとこれは、最後まで受け止めなければならないと思った。
だから、そんな一言を言うのが精いっぱいだった。
「応」
いつもの様に、男が応える。
ごく短いそれだけを言って、男はまたまき割りを始めた。
「それじゃ、邪魔したね」
妹紅も何時もの様に、立ち去ろうとする。
ただ、次の瞬間、彼女の足を止める事が起きた。
「妹紅」
名前を呼ばれて、藤原妹紅は振り返る。
20年以上の付き合いの中で、男が始めて妹紅の名を呼んだ。
「ありがとう」
妹紅は、何かを言おうとした。
礼を言われるような事じゃない、とか、いいさ、とか。
けど、結局やめてしまった。
それは否定も肯定もできる「ありがとう」ではなかった。
後は、男が薪を割る音以外なにも無い、静寂が全てであった。
* * *
そして、更に10年が過ぎた。
妹紅と男は嘗ての通りに戻った。
すなわち、顔を合わせては言葉を交わし、酒を飲んでは盛り上がり、時にはぶつかっていがみ合う事だってある。
本当は、以前と同じでは無い。
男は妹紅を名前で呼ぶようになったし、妹紅も少しだが男と過ごす時間が増えた。
後は、男の生活も変わった。
以前は飯の種に農具も作っていたが、いつの頃からか刀自体が売れるようになった。
なんでも、持っていると妖怪や妖精が寄ってこないそうだ。
剣術の心得のない者でも、守り刀として欲しがり、里ではすっかり刀鍛冶として定着してしまっている。
ただ、飯の種に農具を作る必要がなくなった為、その時間を更に刀につぎ込んだ。
正直な話、売り物としての刀を造っているのでは無く、出来た刀をどうせ潰してしまうのだからと売っているようなものである。
商売っ気も何も無く、半ば投げ売りであった。
妹紅は、その話を酒の席で誰かから聞いたが、特になにか反応する訳でもなく、「ふぅん」とだけ返した。
今更気にするような事では無い、妹紅は男が刀を造るのを待つと決めたのだ。
なれば、後は待つだけである。
そんなこんなの内に、10年が経っているが、だからなんだというのだ。
男がやり遂げようというのだ、女がまってやらずにどうするのさ。
誰にも言わない、そんな決意である。
そんな月日がどれほど過ぎたであろうか。
ある日、男が妹紅の庵を訪ねてきた。
大分白髪の混じった頭に、少し見ぬ間にげっそりとやつれた顔をして。
しかして、その目には変わらぬ炎が揺らめいている。
「出来たのかい」
「ああ」
男が、一振りの刀を差し出す。
白鞘に収められた刀である。
男の30年の、否、妹紅への30年の全てを打ち込めた刀だ。
妹紅はそれを受け取り、鞘から引き抜く。
刹那、妹紅はまるで光の塊が現れたのだと思ってしまった。
それほどに、美しい刀身であった。
長さは二尺三寸。ただの鋼の刀であり、輝くのは日の光を反射しているからにしかすぎない。
だが、そんな常識を忘れさせてしまうほど、この刃そのものが輝いているのだと見紛うばかりである。
これが、鋼なのか。
妹紅の1300年の記憶の中にも、これほどの輝きは覚えが無い。
一振りすれば、空を裂く音がする。
それはまるで謳っているようで、その唄に誘われるように妹紅はそれが白鞘であるのも忘れて、思わず手近な竹に向けて振るってしまう。
しまった、と思う暇もなく、竹がすらりと滑る様に落ちてゆく。
なんたる切れ味か、白鞘であるにも関わらず、斬った手ごたえも無く竹をここまであっさりと両断できるとは。。
持つものが持てば雨どころか本当に空すら斬れるのではなかろうか。
「凄いな」
妹紅はそう漏らす。
それ以外に、感嘆の言葉が無かった。
これは、妹紅の1300年に斬り込む刃だ。
刀を鞘に戻し、妹紅は男に向き合う。
今更ながらに、男がやつれているのが、この刀を打っていたからなのだと気が付く。
「お前の心、確かに受け取った」
男が頷く。
いつもよりも晴れ晴れとした顔で。
きっと、この男にも会心の一振りであったに違いない。
いや、そうでなければ自分の元に、この刀を持ってくるものか。
「えぇっと……なんて言えば良いのかな、こういう時」
何か、気の利いた事を言おうと思ったが、どうにも思い浮かばない。
散々になやんで、結局口にしたのは、こんな言葉であった。
「……不束者ですが、どうぞ宜しく」
「こちらこそ」
男が珂珂と笑う。
老いてもも尚、虎の様な笑い方である。
だから、妹紅も思わず笑って応えた。
数日後、里でささやかな婚礼が行われた。
妹紅と男の婚礼である。
博麗の巫女が神事を執り行い、二人の友人や知り合いが参列した。
二人はそこまで人付き合いが良い方では無いので、規模としては左程に大きく無い。
とは言え、それで良かったのかもしれない。
兎に角、似合わぬ夫婦である。
男は白髪が混じった壮年で、妹紅は髪こそ銀だが10代半ばの見かけである。
女房が若いほどうらやましいというのが、実際に目にすればやはり不釣合いだと言わざるを得ない。
見かけは父と娘、下手をすれば孫と祖父にもなりかねない組み合わせなのだ。
彼らと付き合いの長い者も、戸惑わずには居られなかった。
素直に二人の婚礼を受け入れたのは、上白沢慧音と……意外な事に、蓬莱山輝夜であった。
妹紅は、何を思ったのか永遠亭の姫君を自分の婚礼に呼んだ。
藤原妹紅と蓬莱山輝夜は、仇敵同士である。揉め事になるのは目に見えている。
実際、二人が向き合った時は、酒宴の場に緊張が奔った。
周囲が固唾を飲んで見守る中、動いたのは輝夜である。
「綺麗じゃない」
確かに妹紅は美しかった。
滅多にせぬ化粧を施し、唇に紅を引いて。
普段見る妹紅も美しいが、飾りたてた妹紅は見知ったものですら言葉を失う程である。
銀の髪も、白無垢に埋没する事無く、むしろその輝きが白の中で良く映える。
「そうか?」
「えぇ、やっぱり女の子だもの、白無垢が似合うわよね」
輝夜がからからと笑って、妹紅が照れたように頬を染める。
普段の殺し合いの情景など、まるで感じさせない。まるで仲の良い友人のようであった。
そして輝夜が男に向き直る。
値踏みするようなまなざしで。
「ふぅん……」
男は動じず、ただそこに座している。
妹紅も、少し自慢げに胸を張る。
「貴方、凄いわよ。妹紅を射止めるなんて」
「は、その為に精進いたしました」
輝夜は、深く、そして何度も頷く。
それで、輝姫は得心したのだろう。
おそらく、周囲がなんと言おうと二人は似合いの夫婦なのだと。
それは彼女の次の言葉に如実に顕されていた。
「妹紅」
「ん」
「結婚、おめでとう」
「ああ、ありがとう」
後は、折角の目出度い席なのだからと、永遠亭から特別な酒が振る舞われた。
輝夜が言うには鬼から騙し取った珍しい酒なのだという。
確かに豊かで旨い酒であったが、妹紅はこれが八意永琳が妖精達から騙し取った酒であると知っている。
正確には、妖精が鬼から盗んだ酒を八意永琳が騙し取った代物だ。
宴を盛り上げる、洒落た嘘だ。
嘘と酒で、皆良い気分になり、大きな笑い声がそこかしこから上がる。
宴もたけなわになった頃、ふと隣から声がかかる。
「なぁ」
「なんだい」
「儂はお前を幸せにするぞ。きっとな」
「……やれやれ、年甲斐もない事を言っちゃって」
「ははっ、お前に言われたくはないな」
「違いない」
二人は酒を煽った。
盃を空にして、心と体を温める。
心地よい気分ではあるが、一時だ。
この結婚も、結局はこの酒と同じだろう。
男は老いる。
妹紅は老いない。
男は死ぬ。
妹紅は死なない。
人の一生は、蓬莱人の一時にしか過ぎない、それは蓬莱人と人の理である。
なれど、妹紅はその一時を共に生きる事を決めた。
おそらく、妹紅の心はあの20年目の語らいの時に決まっていたのだろう。
それでも尚、10年の年月を待ったのは、男自身が妹紅と釣り合う者になろうとするその一念を汲み取ったからだ。
そして今、その時がやってきた。
男が藤原妹紅の1300年に挑んだように、藤原妹紅が男のこれからを共に背負うのだ。
酒の酔いが醒めるように、いつか必ず分かたれたる日が来る。
その日、その時まで。
仕方ないの無い事なのだが、こんな席で、そんな事を考えてしまう自分が、妹紅にはどうにも寂しく感じられて。
誰かに注がれた酒をもう一度煽って、どうにもならない事を、その熱い露と一緒に呑み込んでしまった。
* * *
そして、それから30年程が経った。
結婚、というのは人の生き方を変える。藤原妹紅も例外では無い。
何分、いままで一人で暮らす事の方が圧倒的に多かった為、誰かと寝食を共にするというのが最初はどうにも馴れずにいた。
特に不眠だったり自分を追い込むような生活を当たり前にしていた妹紅にとって、普通の人間と同じ生活というのは恐ろしく久しぶりなのも無関係ではないだろう。
朝ともに起き、朝餉をつくって向かい合って食事を取る。
二人分の洗濯をして、掃除をする。
昼餉を作り、また二人で向かいあって食事をして。
買い物に出かけたり、たまに来る客の対応をする。
夕餉を作り、酒を飲みながら一日の事を話して食事にする。
男は、一日中、鍛冶場に籠りっぱなしだ。
炎に向き合い、鋼を鍛え、刃を形作る。
只ひたむきに、変わらず刀を造っていた。
その技巧は益々冴えて、刃の煌めきを見るだけでどんな妖怪でも怯んで腰が引けてしまうようになった。
無論、刀が妖怪にとって邪魔なだけだった訳では無い。むしろ妖怪の強者には、男の刀を欲しがって、わざわざ自分用に鍛えてくれと依頼する者も多かった。
男は、そんな事に頓着などしない。
人の為ならば人の為に刀を打ち、妖怪の為ならば妖怪の為に刀を打ち、神ならば神の為に刀を打つ。
それは人を護り、妖怪を感嘆させ、神を喜ばせたが、優れた刀である故に諍いが起きる事もままあった。
お蔭で一時期は、男の刀の扱いをどうするべきかという事で、幻想郷の実力者たちが顔を突き合わせて、真剣になやんでしまった程である。
結局の処、刀をできうる限り里の外に出さないという事で決着がついた。
元より里での諍いはご法度である。里から出ないのであれば問題は無い。
男の刀を手にして人にしろ妖怪にしろ調子にのった者もいるが、そんな輩は身も心も技も未熟な者、数日後には屍をさらす事になった。
妹紅はそんな男を夫にしてしまった為に、大分苦労させられたのは事実である。
並の男ではないのだ、並の夫婦ではいられまいと思ったが、さてここまで煩わしい事があるとはさすがに考えていなかった。
だが、それは妹紅が結婚を後悔したという事では無い。
相も変らぬ夫の姿に、苦笑する事もあったが、夫を誇らしく思う事の方がずっと多かった。
彼は、世間に無関心だった訳では無い。
むしろ、己の打った刀に関する事には積極的に関わっていった。
刀で血流れる事があっても、それでも刀を打ち、刀と向き合う事をやめようとしない。
それが良き結果である事もあれば、悪い結果になった事もある。
いかなる事があっても、刀を打ち続ける。だが、男の歩みは常に妹紅と共にあった。
妹紅を置き去りにするわけでも、置き去りにされる訳でもない。
時にはいがみあう事だってあった。
だがそれも、歩調が合っていたからこそである。
きっと男にとって、それが一番大事だったのだろう。
昔の誓いのそのままに、ずっと過ごしてきたのだ。
だからこの30年は、妹紅にとって途轍もなく豊かな30年であった。
その時がやってきたのは、妹紅が夕餉の支度を始めた頃である。
良い蜆が手に入ったので、これで「ぬた」でも造ろうかと、味噌と葱を合わせている最中であった。
「妹紅」
「ん? なんだい」
「すまんが、巫女殿を呼んでもらえんか」
はて、巫女とは博麗の巫女であろうか。
なぜこんな時間に、博麗の巫女などを、と思って妹紅は振り返る。
思わず、息をのんでしまった。
そこに居たのは、いつも通りの夫である。
頭がすっかり白くなり、顔には皺が刻まれて、同年代よりは若く見えるが間違いなく老人といえる夫の姿。
妹紅にとっては見慣れた姿である。
ただ一つ、全身からすっかり力が消え失せているという点を除いては。
背筋を伸ばし、両の足でしっかりと立っている。
だが、つい昼間見たのとは全く違っていた。
体の芯にある何かが、ふっと消えてしまっているような、今にも崩れてしまいそうな印象を受ける。
今まで、妹紅は何人もこれを観てきた。
だから、理解してしまった。
「…………あぁ、判った。すぐに、呼んでくるよ」
お前は、もう死んでしまうのだなと。
男はその翌日に死んだ。
俗に言うピンコロという奴で、葬儀の準備がなにかものすごく慌ただしく感じられた。
きっと、周囲の者が男が死ぬと想像していなかった為だろう。
人は死ぬのだ、と頭では解かっていても、それが来る日というのは中々に想像できない。
だからこそ、余計に慌ただしく感じたのだ。
そんな中、妹紅は極めて冷静に喪主を務めた。
巫女と共に神葬祭の段取りを決めて、手伝ってくれる者たちに的確に指示を出す。
知ったものは、流石は蓬莱人、慣れたものだと感心するような働きぶりであった。
枕直しから、納棺、通夜を行う。
遷霊祭において、霊璽、すなわち御霊を移す依代には男が妹紅の為に打った刀が用いられた。
数ある男の作の中で最高傑作である、少なくとも妹紅はそう信じているその刀こそ、霊璽には相応しいだろうと考えたのである。
そして、葬場祭にて別れを告げ、火葬祭にて躯を火葬し、埋葬祭にて地に返す。
帰家祭にて身を清め、直会で巫女や集まってくれた人々を労う。
当初は戸惑っていた人々も、直会にまでいけば現実を受け止めて、葬儀ではあるが宴でそれなりに盛り上がった。
男の死に様が穏やかであった事と、妹紅が平然としていたのがそれを助けたのであろう。
なにはともあれ、神葬祭はこれでお終いである。
尤も、弔いが全て終わったわけでは無い、仏教で四九日があるように、神道にも五十日祭がある。
そこまで終わって、ようやく忌が明けるのだ。
だから妹紅はそれまで、ずっと気を張って立派に遺族としての務めを果たすのであった。
そうして、五十日祭も終わって、ようやく忌が明ける。
ここから、普通の生活に戻る。
そう、いつも通りの生活である。
朝餉を作り、一人で食し。
一人分の洗濯をして、広くなった家を掃除する。
昼食を作って一人で食し。
買い物に出かけて、友人と話をし。
夕餉を作って、一人で酒を飲みながら肴をつつく。
いつも通りの生活だ。
ただ、今までいたものがいなくなっただけの。
だから、夕餉を済ませるともう何もすることが無くて、ぼんやりと時間を過ごしてしまう。
飾ってある神棚と、神棚に奉じられている刀を見上げて、何をする訳でも無い。
妹紅には子はいない。
あえて子はつくらなかった。もし生まれた子供も蓬莱人であったらという不安がそうさせた。
八意永琳に相談もしたが、蓬莱人の本質は魂であり、遺伝はしないはずだが、断言はできぬと言われ、やはり断念した。
生まれながらに不死等と、忌まわしい呪いを背負わせるのは嫌だったのだ。
夫にそれを伝えた時、夫はただ一言、「そうか」と言うだけだった。
妹紅にとっても寂しい事だが、こればかりは譲れない。
そこでふと、妹紅は今更ながらに子を創れぬことを寂しいと感じたのを思い出した。
そして、夫と自分の間に子がいないのを寂しいと感じるほどに、夫を愛している事もまた思い出した。
嗚呼、そういうものなのか。
覚悟していたはずの事が、何か無性に妹紅を苛む。
人が死ぬなど当たり前の事なのだ。
それを承知で、尚、男の心に応えたはずなのに。
妹紅の心は今、想像を絶するほどに荒れ狂っていた。
男が、夫がいない事を、もう二度と会えぬ事を自覚してしまったのだ。
神仏なれば、永い時の果て、転生の果てにまた会えるというかもしれぬ。
だが、それは妹紅にとって何の慰めにもならない。
神仏の理と、人の理は違う。
妹紅にとって、あの男との生こそ何物にも代えがたい時間だったのだ。
1300年に対する、30年、結婚前から数えれば60年、取るに足りぬと言えるかもしれない。
人との別れなど、幾度となく経験したのだ。
だがそれでも、妹紅は嘆かずにはいられなかった。
それだけ、男と過ごした時は幸せだったのだ。
1300年の積み重ねと価値観を徹する60年である。
あの刀と同じように、男が自ら鍛え上げた年月が、今の妹紅を確実に貫いてしまっていた。
お前は嘘つきだ、私を幸せにすると言ったじゃないか
不幸にはしないと、言ったじゃないか
妹紅は、まるで虎の様に咆える。
咆えた処でどうにもならぬ事を。
嘆きは、時が癒してくれるだろう。
蓬莱人にとって、その時は無限にある。
それは同時に、大切なものが色あせてしまうという無情でもあるのだ。
だから、今この時、この時だけは、夫への気持ちをただ只管に燃え上がらせたかった。
「やはり、お前の泣き顔を見るのは嫌だなぁ」
唐突にかけられた声。
おそらくは幻聴の類であろう。そうでなければ、何故あの男の声が聞こえるのか。
だが、妹紅は伏していた顔をゆっくりと上げる。
そして、信じられぬものを観た。
男である。
死んだはずの夫が、見知った姿よりもずっと若い姿でそこにいた。
「あ……」
「すまん、妹紅。一時と言えど、お前を悲しませてしまったな」
男が、本当に申し訳なさそうな顔で頭を下げる。
何故、と妹紅は完全に混乱していた。
男は死んだのだ、火葬までした、ここにいるはずがない。
もし、いるとしたらそれは……
「まさか、お前、幽霊になって」
そうだ、それしか考えられぬ。
成仏できずに、この世に留まっているのだ。
「おいおい、幽霊では無いぞ。似たようなものかもしれんが」
「だって、お前は、死んだじゃないか」
「ああ、死んだ。死んで弔ってもらった。だからここにいるのだ」
男は自分が幽霊では無いという。
だが、死んだ者が現世に留まるなど、幽霊に以外に何だと言うのだ。
幻想郷には幽霊以外に妖怪も神もいるが、人が死んでまだ現世に留まるなど……
「わからんか? 何故儂が博麗の巫女殿に葬儀を頼んだか」
「……?…………あ……あ、あ…ああああああああああぁぁああああああああああああああぁぁぁあああああああああぁぁぁ!!」
夜中だというのに、思わず妹紅は大声を上げてしまう。
思い出したのだ。
神道の葬儀は、仏教のそれとは違う。
仏教の葬儀が浄土へと魂を送り出す儀式ならば、神道は死者を神として奉る儀式なのだ。
「じゃ、じゃあ、まさか、お前、神に?」
「うむ」
事も無げに男は頷く。
人が神になる、難しいが日本ではそう珍しくも無い。
祀られるものが神なのだ。人は時に忘れてしまうが、己の血筋、もっと小さく言ってしまえば家族を護る権能をしめすのだって立派な神である。
八百万の神とは、そういうものなのだ。
だが神は人の目には見えぬ、感じられぬ。
だから、人は神の守護を忘れてしまう。
守矢や秋姉妹の様な、人々の前に姿現す形を持った神の方が珍しい。
そして、男はその珍しい神の側になっている。
「まぁ、ここまではっきり形を保てるとは思っておらんかった。精々が、お前がさっき言ったように幽霊ぐらいの自分を保てればよいとそう考えていたのだがな」
どうにも、霊璽にした刀の力が強すぎたらしいと男は苦笑する。
さもありなん、男が全てを賭けて鍛え上げた刀である。
幻想郷のいかなる名刀にも劣らぬ刀である。
そして、それを作りだせるだけの一念を見せた男なのだ、形ある神となっても不思議では無い。
「なんで、お前……」
「きまっている。お前をおいてあの世になど行けるか」
「まさか、私の為に神になったのか」
「そうだ」
昔と変わらぬ、男の情念。
死して尚、それを徹しようというのか。
「行ったであろう、俺はお前を不幸にはせぬと」
何よりも深い一言である。
如何なる者でも覆せぬ、全てを詰めた一言である。
「神、なんて言っても、信徒もいないんじゃ大した力は出せないぞ」
「そんな事は興味が無いな」
「忘れ去られたら、消えてしまう。神も不滅じゃないんだぞ」
「どうでもよいな」
珂珂と男は笑う。
「お前が儂を忘れるというなら、お前の心が儂から離れたという事。なれば、消えるのが筋ではないか」
神となったのならば、信徒を集めれば大きな力を出せる。
信徒が信仰し続ける限り、神は滅びぬ。永遠に近い時を得られるのだ。
なのに、この男はどちらも要らぬと言う。
男は、人の在り様を極めて神になったのだ
藤原妹紅を、不幸にせぬ、幸せにするための神に。
藤原妹紅を、愛する為だけの神に。
なんという、男なのか。
「………馬鹿だね。馬鹿だよ、人をやめて、それでも……!」
顔を伏せて、それ以上は言葉にならなかった。
先ほどとは違う、全く真逆の嵐が妹紅の中に吹き荒れていたからだ。
神に至るほどに、男は妹紅を愛している。
妹紅の永劫に、この男はこれからも挑むつもりなのだ。
それだけの心を、言葉にする術を妹紅は知らない。
嗚呼、なればこそ、なればこそ、その心が何よりも愛おしい。
人が人ならざる者になるのは禁忌である。
だが博麗が何と言おうと、八雲がどういう顔をしようと知った事では無い。
この神は、博麗が祀ったのだ、文句など言わせるものか。
もし、幻想郷が私たちを否定するのなら、私はどこまでも戦おう。
暖かい手が、妹紅に触れる。
その手に導かれるままに顔を上げて、そして今度は唇が触れる。
瞳を閉じて、妹紅はその熱に身を任せる。
それはいかなる鋼をも溶かす炎のようで
妹紅の操るどんな術よりも熱い
だから、藤原妹紅は、すっかりその熱に焼き尽くされてしまうのであった
以前はある鍛冶師とその女房の家で、二人で住むにはちょうど良いが一人で住むにはちと広い、そんな感じの家だ。
今は藤原妹紅が一人で住んでいる。
二人なら丁度いい家に、妹紅は一人だけで住んでいる。
不便な事は何も無い、広いと言っても所詮が一人分、それに関して物臭をするような妹紅ではない。
ただそれでも、妹紅にとっては広すぎた。
たった一人分だが、それでも広すぎたのだ。
つい先日まで、夫と共に過ごしていた家である故に、今の妹紅にその家は広すぎた。
夕食を済ませて特に何もする事も無い妹紅はぼんやりと神棚を見上げて昔を思い出す。
何故自分が、今ここにいるのか、それを辿る記憶である。
* * *
「なあ、藤原、俺の女房にならんか」
事の始まりは、とある男の単刀直入な言葉だった。
勿論、これが男との最初の出会いだった訳では無い。
鍛冶師の弟子兼助手として、修行を積んでいたその男を妹紅は以前から見知っていたしまず間違いなく、そして極めて珍しく友人と呼べる間柄だった。
図体の大きい、そしてその図体のようにおおらかな男で、妹紅は密かに満腹時の虎のような奴だと評している。
人付き合いが良いとは言えない、むしろ悪い方である妹紅の存在をさほど気にせず、ごく普通に話せる、そんな奴である。
語り合って時間をつぶし、酒を飲んで大いに騒ぎ、時には睨み合う事だってある。
何をしても後には持ちこさない奴であったが、いつの頃からか妹紅を口説くようになっていた。
「前にも言ったろう。私は誰の女房になる気も無いよ」
ちょうど今割った薪の様に、妹紅はそれを一刀両断に叩き斬る。
妹紅とて伊達に永く生きていない。
男に口説かれるのなど、両の手を合わせても足りない経験がある。
だから、こういう時は後腐れが無いようにすっぱりと断る事にしている、面倒事になったらぶっ飛ばしてしまえばいい。
「そうか」
すでに幾度となく繰り返される問答で、男は特に表情も変えずにそう呟く。
男の事は嫌いでは無い、むしろ憎からず思っているが、それとこれとは話が別だ。
「どうしてもか」
「どうしても」
「ふぅん……どうにもならんか」
「ならないね」
「困ったなぁ」
「珍しい」
「うん?」
「アンタが、そこまでしつこいの、初めて見た」
「そりゃそうよ、惚れておるのだ、そう簡単に諦められるかよ」
はたと、薪を割る手が止まる。
これはなんとも困った事になった。
こうもつっけんどんにしてるのに、気分も害さず尚口説くとは。
「なんで私なんだ?」
「俺がお前の事を好きだからだ」
「……里にはもっと他にもいい女がいるだろう」
「他の女がどうであるかは、俺には関係ない」
普段は何事にもさっぱりしているこの男が、どうにも諦めるような気配を見せない。
やるといったらやる男でもある。恐らくは、諦めさせるのに骨が折れるだろう。
ぶっ飛ばせばいいとは言ったが、面倒事になっている訳では無い。
いや、面倒事ではあるのだが、ぶっ飛ばしては後味の悪い類の代物だ。
「もう一度言うが、私は誰の女房にもならん」
「うむ、それは聞いた。が、俺はお前を女房にしたい。お前がならんと言っても、はいそうですかとはいかん」
「むぅ……」
妹紅は一つ唸って思案する。
何度も言うが、妹紅はこの男が嫌いな訳では無い好いている。それは間違いない。
だが、男女としての好意かと問われれば少し違う気もするし、それがあったとしても妹紅は結婚など御免である。
「お前、鍛冶師だったな」
「応」
妹紅も男と男の師が鍛えた鉈や鍬を愛用している。
今、まき割りに使っているのもそう言った類の代物で、中々に具合が良い。
これの修復が縁で男と出会ったようなものだ。
「なら、刀を打ってみろ」
「刀?」
「そうだ、私は随分長く生きてきた。刀も結構見てきてる。だから、私を唸らせる刀を造ってみろ」
嘘である。
刀を観てきたと言っても、鑑定の業を磨いてきた訳では無い。
妹紅に刀の良し悪しなど判らない。
男も刀鍛冶ではない。
だがそれでも良いのだ、むしろそれだから良いのだ。
男が何を打とうと、妹紅は失格の一言を言えばよい。
要は時間稼ぎだ。
時間が経てば、男も気持ちが冷めるだろう。
時間を経たせれば、酷い女だと気持ちも冷めるだろう。
条件を出すなど、輝夜のようで気分が悪いが、お互いが不幸にならない為の方便である。
「ふぅん、つまり、お前と俺で根競べをしようという訳か」
「何?」
「うん、判った。その勝負受けよう」
男は得心したように自分の頭を一つ叩く。
確かに根競べである。
はっきり言って男に勝ち目は薄い、いや、無いと言っても過言では無い勝負である。
しかも先に言った通り、審判は勝負相手である妹紅なのだ、そもそも勝負の体を成してすらいない。
根競べと言ったからには、男もそこは判っているはずだ。
そういう意地の悪い狙いをあっさり看過された妹紅はどうにもバツが悪い。
「では、さっそくな」
「始めるのか」
「うむ、勝負の始まりだ」
男は「ではまたな」と笑って妹紅の仕事場を後にする。
妹紅はどうにもまいったと言わんばかりであったが、どうやら予想よりも悪い結末にならない様なので、左程に気にしないようにする事にした。
* * *
さて、それから10年程たった。
勝負の始まりと言ったにも関わらず、男は刀を打つ気配は無い。
ただ、以前よりも更に熱心に鍛冶に打ち込んでいる。
師匠からも一人前の太鼓判を貰い、師の引退を機に仕事を引き継ぐらしい。
そんな話を聞いて、妹紅も祝いの品でも持って行くか、と割と高い酒を片手に男の仕事場を訪ねる。
10年の間、男から求婚の話は一度も出ていない。
時折会っては会話を交わし、酒を飲み、ある時には喧嘩をする。
まぁ、ごく普通に良き友人をやっていた。
流石に気になって最初の2・3年はあの話はどうなったのかと問うてみたこともあったが、「まだまだだな」という返事が来るばかりである。
さもありなん。刀を打つのだ、そう簡単に出来るはずがない。
そんなこんなで10年である、流石に諦めたか忘れただろう。
蓬莱人や妖怪ならば兎も角、ただの人間の10年は長い。心折れても不思議では無い。
心折れてもあの様に変わらぬ態度なのは、男の意地かそれも後腐れが無いようにとの心遣いか。
どちらにしろ、蒸し返してグダグダ言うような事でもあるまい。
妹紅は、そんな風に簡単に考えていた。
「ごめんよ」
鍛冶場の入り口で、妹紅は声をかける。
鉄を打つ場に、女はご法度。金山様の勘に触ってしまう。
そういう気遣いであったのだが、妹紅は鍛冶場に女の姿を見かけた。
あの蒼い後姿とやたらと鮮やかな紫の傘には見覚えがある。
たしか、多々良小傘とかいう唐傘お化けだ。
「おう、藤原かどうした」
丁度作業が一区切りしていたのだろう、男が何時もの虎のような笑顔を見せる。
「あぁ、今度、店を継ぐんだろう」
「うむ、師が譲ってくれるそうだ」
「ほら、祝いにと思ってな」
「おお、これはすまんな」
土産を男に渡すと、妹紅はその向こうに視線を移す。
「うむむむむむむむむ……」
なにやら手に取って、唐傘お化けが唸っている。
「なぁ」
「おう」
「アレはどうした」
「多々良か? 何か知らんが、俺の仕事を見せてくれと言うんだ」
「女を鍛冶場に入れていいのか?」
「良くは無いのだが……自分も鍛冶仕事もやってるから問題ないと、どうにも頑固で押し切られてしまった」
「あぁ、なるほど」
そういえば、アレも確か鍛冶が出来たか。
何気に、幻想郷の妖怪の中でも一番訳のわからない存在である。
まぁ、それはそれとしてあんな堂々と女が鍛冶場に居ては、遠慮した自分が馬鹿みたいではないか。
「入っていいか?」
「いや、流石にお前は勘弁してくれ」
「だよなぁ」
「で? 何か多々良に用なのか?」
「何をしてるのか興味があるだけ」
「ふむ……おい、多々良!」
笑った顔が虎のようならば、張り上げた声も虎の様である。
まさに一喝ともいうべきその衝撃に、多々良小傘はびくりと大きく震えた。
「うひゃあ!?」
何とも言えない間の抜けた声を上げて、手に取っていた何かを床に落としかけて、必死で落とすまいとあたふたしている。
やれ、どこぞで見た漫画の様だと半ば呆れながら眺めていると、ようやく落ち着いた唐傘お化けがこちらに振り向いた。
「い、い、いきなりビックリするじゃない!」
「いや、すまん。少し声が大きすぎたか」
張りのある、良く通る声だ。
本人が意図せずとも、声を大きくするとやたらと迫力が出る。
妹紅も慣れたものだが、最初は驚いたものだ。
「あ、あれ? えぇっと……誰?」
「妹紅、藤原妹紅。覚えなくていい」
「は、はぁ」
「んで、何をやってるんだ?」
「何って、鉄を観てるのよ」
「鉄?」
「ほら」
小傘が、手にした鉄を別の鉄で打つ。
カァーンと、いかにも金属という音が鍛冶場に鳴り響いた。
「ね?」
「……さっぱりわからない」
「な、なんでよ! こんなに良く鍛えられた鉄の音、そうそうあるもんじゃないわよ!」
小傘の言葉を受けて、男がにやりと自慢げに笑う。
「ほぅ、判るのか」
「そりゃあ、わかるわよ。これでも天目一個神の末裔なんだから」
「自称だろそれ」
妹紅は思わずツッこみを入れる。
確かに苗字が多々良で鍛冶が出来るが、それで天目一個神の末裔を名乗るのは盛りすぎではなかろうか。
「んで、要するにコイツが鍛えた鉄が気になってきたわけか」
「そう、たまたまこの人が作った鍬を見てね、すっごい出来だから気になってきたの」
「へえ」
小傘の鍛冶の腕前はかなりのものだったはずだ。
さきほどの天目一個神の末裔は嘘くさい事この上無いが、一本踏鞴に近しい力を持つのも確かである。
それがここまで褒めるとは。
「俺の腕も師が認めてくれるに足る物だという事か」
「店を継ぐには頼もしいじゃないか」
「いや、まだまだだな」
「うぅ……私のあいでんててーが、あいでんててーがまた一つ……」
鍛冶師としての技量の証明が成された事で明るい二人に対して、男の鍛えた鉄がよほど出来が良かったのだろう、小傘は落ち込むだけである。
そのしょげた後ろ姿が、夏の日の霧雨のように鬱陶しい。
「そこまで落ち込む事ないだろ」
「だって、だってぇ……」
「ふむ」
男が一つ、何かを考え込む。
「多々良、お前、鍛冶をすると言ったな」
「え、あ、うん」
「刀の打ち方は判るか」
「…………何?」
その一言に、妹紅は思わず絶句する。
刀? 刀と言ったか?
「う、うーん、知ってると言えば知ってるけど」
「そうか、それは良い。教えてもらえんか」
「えぇー?」
「只でとは言わん、俺もこの鉄の鍛え方をお前に教えよう」
「いいの?」
「業を教えてもらうのだ、対価が業なのは当然だ」
「……うぅーん……判った! それで手を打ちましょ!」
「おお、教えてもらえるか」
「いやまて」
トントン拍子に進む話に置き去りにされかけて、ようやく妹紅は再起動する。
まさか、この男はまだあの話を覚えているのか。
まだ、勝負を続けているのか。
10年も? 10年も経っているのに?
「な、なぁ、もしかしてお前。まだ続けてるのか?」
「おう」
当たり前だと言わんばかりに。
何をいまさらと言わんばかりに。
「だ、だっていままで刀なんて全然打って」
「そりゃあ、そうよ。俺は師匠の弟子で師匠の仕事を手伝う半人前なのだ。勝手に刀を打つわけにはいかんし、鍛冶も満足に出来んのに刀を打てるわけが無い」
「いや、確かにそれは理屈だけど」
10年を、まずは独立する為に費やしたというのか。
確かにそれは道理である。理である。
己の身一つで生きている訳では無いのだ、己の都合だけで刀に手を伸ばす訳にはいくまい。
何故だ、何故そこまでするのだ。
ここまでくれば、里一番の鍛冶師として何の問題も無い生活を送れるはずだ。
女房になる女だっていない訳ではないだろう。
「決まっている、お前に惚れているからよ」
いつの間にか、疑問が口から洩れていたのだろう。
茫然とする妹紅に、10年まえとさほど変わらぬ笑みを浮かべ、男は言い切る。
それだけで、10年を耐えたのか。
ただの、人間が。
妹紅はもう、何も言えなくなってしまった。
「え、何々? なーんの話? 気になる気になる!」
とりあえず、唐傘お化けは鬱陶しいので軽く小突いておいた。
* * *
更にそれから10年が経った。
10年で、男は刀を造った。
一心不乱に、何本もの刀を打った。
無論、最初は鈍しか作れなかったが、徐々に徐々に、その出来は研ぎ澄まされていった。
それを見て、妹紅は空恐ろしくなった。
最初の約束から、既に20年である。
蓬莱人とて20年の歳月は短くない。
その歳月を、情念によって貫けるのか。
自分とて蓬莱山輝夜を恨んで蓬莱人となった。
しかし、それは一種の衝動のような代物である。
輝夜への恨みも、今となっては当初のものとはすっかり変質してしまった。
重ねた年月が違う、と言えば確かにそうである。
しかし、思い返してみて「恨み」である事に違いはないが、それが10年20年常に同じものであったであろうか。
恨みの形にしても、何かの不純物が混ざって変化してしまったり薄くなってしまった事など、珍しくもなかったように思う。
だからこそ、20年も変わらぬソレが、妹紅にはなにかとても異質で恐ろしいものに見えてしまったのだ。
もしかしたら、自分はとんでもない事を口にしてしまったのではないだろうか。
もしかしたら、自分は既にあの虎の口の中に囚われ、じわりじわりと噛み殺される途中なのではないだろうか。
不死となって、恐ろしい物など無いと思っていた。
永い年月を経て、恐怖の心などとっくに枯れ果ててしまったと思っていた。
接しているからこそ判る。本当に、自分を愛しているのだ、だからこそ自分が出した試練を乗り越えようとしている。
だが、そもそもにおいて試練と呼べるようなものでは無い。妹紅の嘘である、方便である。
そんなあやふやで、どうしようもないものを、本気でどうにかしようとしている。
そんな感情を、妹紅は知らない。
だからこそ、恐ろしくて恐ろしくてたまらなかった。
まともに顔が見られなかった。
虎の様だなどと呑気に評したその顔が、まるで本物の虎のように思えて。
いつの頃からか、妹紅は彼から逃げるようになってしまった。
そんな日々がどれほど続いただろう。
その日、妹紅は上白沢慧音の使いで、命蓮寺を訪れていた。
どうやら寺子屋で説法をするというので、その段取りをせねばならぬだが、生憎と慧音は手が離せない。
そこで、手紙を渡してきてはもらえないだろうかと言うのである。
その程度ならばお安い御用だと、気安く受けて、そして固まってしまった。
なぜならば、命蓮寺に虎が一匹いたからだ。
ご本尊のような、人のよさそうな虎では無い。藤原妹紅にとって、今一番恐ろしい虎である。
「おお、藤原か」
虎が向こうから近づいてくる
だいぶ彫りの深くなったその顔で、だがしかし20年前を思い起こさせる顔で。
「あ、ああ」
たったそれだけの事で、声が出なくなってしまう。
絞り出すようなその一言が、精一杯である。
「藤原」
「な、なんだ?」
「勝負をやめるか」
「……何?」
「今のままで続けても、俺の本意ではないのでな」
「本意じゃないって……」
「まぁ、今すぐ返事をしろとは言わん。落ち着いてから、返事をくれ」
それだけを言うと、虎は何事も無いようにその場を立ち去る。
茫然と後ろ姿を見送る妹紅。
今更、辞めると言うのか?
何故唐突に。
訳のわからない事である。
「どうしたのです、そんな処で」
再び声がかけられる。
しかし、今度は虎のそれではない、いかにも人のよさそうな穏やかで良い声だ。
振り返ると、住職の聖白蓮がそこに佇んでいた。
「いや、なんでもない」
頭を振り、自分が何故、命蓮寺にやってきたのかを思い出す。
「これ、慧音から」
「まぁ、わざわざどうも」
手紙を渡し、用事も済んだ。
後はとっと帰ってしまおう、寺というのはあまり好きじゃない。
そう考えたが、そこに白蓮が待ったをかける。
「何か、お悩み事でもあるのでは?」
「別に」
「……先ほどの鍛冶師さんの事で?」
見られていたのか。
自分の弱みを観られたようでなんとも嫌な気分である。
このような問題に宗教家が絡むと余計な事にしかならない。
「お話を聞かせていただきましょう」
「おい」
腕を掴まれる。
振りほどこうと持ったが、振りほどけない。
お得意の身体強化術であろう、そうまでして説教をしたいのか。
いよいよ面倒になって、妹紅は自爆をしてしまおうとする。
この距離でも、こいつなら死にはすまい。
しかして、聖の穏やかでありながら奥底に鋭利な光を伴った瞳がそれを許さない。
「逃げたりはいたしませんよね?」
一歩、踏み込まれる。
物理的に、ではない。その言葉が、妹紅の中に踏み込むのだ。
逃げるのは容易い。
しかし、既に白蓮の間合いである。
今逃げても、再び白蓮は自分の前に現れるだろう。
心の間合いはそういうものだ。物理的に逃げればよいのに、逃げる事が出来なくなってしまう。
「……わかったよ」
妹紅は、観念して白蓮の説教に付き合う事を決めた。
そうして引き込まれたのは、まぁ当然の事ながら命蓮寺の中である。
堂々としたつくりの、いかにもな処で、並の者からすればこれが法力で船になるなど俄かには信じられないだろう。
尤も、俄かに信じられぬからこそ、これが船になるあるいは船が寺になる、というのが見世物になるのだ。
とは言え、そこは妹紅には関係ない。騒々しいと空を見上げると、船が飛んでいる、その程度の認識である。
そもそも、妹紅は坊主はあまり好かない。
その好かない坊主を前にしても、座する姿に礼節が見えるのは、やはりやんごとなき生まれの為だろうか。
「それで、何の話をしてくれるんだ」
どうせ、小難しい話で煙に撒こうと言うのだろう。
坊主と言うのは大抵がそんなものだと妹紅は認識している。
「あの鍛冶屋さん、刀鍛冶ではなかったのですね」
「ああ」
白蓮が勘違いするのも無理はない。
これが幻想郷に来たのはつい最近で、既にあれが刀を打っていた頃である。
飯の種に農具を造る事もあるが、そうでない時は四六時中、刀を打っている。
「彼が刀を造り始めたのは、妹紅さんが関係してるとか」
妹紅は眉をひそめる。
どこからその話を聞いたのか。
20年前のあの話を知っている者は少ない。
一度、慧音に話た事があるので、自分とあの男と、慧音の三人ぐらいしか知らないはずだ。
人の口に戸は立てられぬと言うが、さてはてどこから漏れたのやら。
「妹紅さんは捨身飼虎のお話はご存知ですか?」
「…………それは知ってる」
釈迦の前世である王子が飢えて身動きすら取れなくなった虎の親子を見つけ、我が身を虎に差し出すという話だ。
身を差し出しても虎は飢えから喰う力すらなく、王子は己の喉を竹で貫き山の上から身を投げて虎を救ったという。
今の妹紅にとっては、虎というだけであいつを思い出す、あまり気分の良く無い話である。
「ご存じならば話は早いですね」
「それで? 王子に倣ってあいつの女房になれと?」
他者の為にその身をささげる。
捨身飼虎とはそういう話だ、ならば、言いたい事もおのずと判る。
20年も飢えたあの虎に、この身を捧げよとでも言いたいのだろう。
「……妹紅さんは、一つ思い違いをしています」
「うん?」
「ここにおける虎とは、あの方ではなく妹紅さんなのです」
「はぁ?」
何を言っているのだこの破戒僧は。
自分が虎?
ありえない。虎は、あの男だ、あいつこそが虎なのだ。
「妹紅さんは、あの方を恐ろしいと感じていらっしゃる」
妹紅は、はっと息をのむ。
何故、白蓮が自分とアイツの今を知っているのか。
「一つ問いましょう、虎は何故王子を喰わなかったのでしょう」
「虎が、空腹すぎて身動きが取れなかったからだろう?」
「それは王子の主観にしかすぎません」
そこまで言われ、妹紅は捨身虎飼の話をもう少し思い出す。
そう、たしか虎は、飢えて動けないだけではなかった。
「そう言えば、虎は王子の大慈悲力によって喰うのを躊躇ったと聞いた」
「その通り、虎は王子の慈悲を知り、慈悲故に虎は王子を喰わなかったのです」
「……哀れだな」
そう憐れな話だ。
王子は虎を救おうと思い、虎はそんな王子を尊いと思った。
お互いにお互いを救おうを願ったのだ。
しかし、その願いの一方は通じず、王子は命を絶った。
そして、王子が命の絶たなければ虎の親子は死んでいた。
「ですが、本当に虎は王子の尊さ故に喰わなかったのでしょうか」
「え、いや、話の中ではそう書いて」
「えぇ、確かに大慈悲力によって、とあります。しかし、その大慈悲力を虎が本当に尊いと感じたのでしょうか」
「慈悲は尊いものだろう?」
「いいえ、慈悲と尊さは違います。極めて近しい物ですが、慈悲とは尊さの一面に触れているだけであり、逆もまた然りなのです」
「一面……」
「慈悲とは、相手に通じて初めて尊い行いとなります。慈悲があるからと言って、その結果が良き事であるとは限りません。時には慈悲が誰かを苦しめる事だってあります。もし慈悲のみを尊いとすれば、人に苦を与える事も尊いとなってしまいます」
「つまり、慈悲は慈悲だけで尊いものじゃないって事か」
「その通りです、慈悲を行うにしても、私たちは常にその慈悲の在り方を問わねばなりません」
それは、妹紅も数多く観てきた。
始まりは確かに善意であったはずなのに、終わりが悲劇であるという事は全く珍しくも何ともない。
それを考えれば、慈悲そのものが尊い訳では無いというのも理解できる。
一方で、その善意が誰かの為になったという事も確かに観てきたし、自分も助けられた事だってある。
だからこそ、妹紅は慈悲を否定はしない。
「王子の大慈悲力は、結果として虎の親子を救いました確かに尊いものです」
「けど、虎がそれを理解したとは限らない」
「えぇ、己の命を捨てる。並大抵ではありません。なぜならば生きようとするのは誰もが当たり前に持つ意志です、そこを超えて何かを成そう等、虎の想像を超えていたのではないでしょうか」
「虎は、王子の慈悲が理解できなかった。だから、気味が悪くて食えなかった」
「もっと単純に、本当に訳が判らなくて、どうしていいのか困っていたのかもしれませんね」
「……だから、私が虎か」
虎は恐ろしい。
虎は人を喰う。人ののみを喰う訳では無いが、空腹でそこに人がいれば人を喰う。
故に恐ろしい。
では、あいつの恐ろしさはどうであろうか。
20年もの歳月を、ただ一人の女の為に。
それは妹紅の想像の範疇を超えている。
余りの執念に、妹紅は恐怖を覚えたが、しかしてその執念の真意はなんであろうか。
あの男は言った「惚れているのだ、諦められぬ」と。
なら、それは、その心は……
「妹紅さん」
白蓮の声が響く。
静かに妹紅を見据えて。
「もう一度、あの方と会ってみてください」
「……」
「虎は、王子の死を以て王子の心が慈悲である事を知りました。妹紅さんも、あの方の20年の歳月が決して悪しきものでは無いと知っているはずです」
「判ってる、判ってるさ……」
もし男の心が悪しきものなら、妹紅は男を殺していただろう。
既に罪を重ねた身、他者を殺める恐れはない。
しかし、男の心が、あまりにも強く自分を想うもの故に、妹紅はどうしていいのか判らないのだ。
「実はですね、お二人の事、鍛冶師さんから聞いたのです」
「あいつが?」
妹紅は目を見開いて驚く。
他の誰かに、自分たちの事を語るような男ではないはずだ。
「妹紅さんのお名前こそ出しませんでしたが、己が間違っているのならば正せねばならないと」
「そんな事は無い! そんな事は!」
思わず、白蓮に掴みかかりそうになる。
本当に、あいつがそんな事を言ったのだろか。
20年もの歳月を、ひたすらに貫いたあいつが。
「信じられませんか?」
「信じろ、というのが難しい」
「なれば、余計に会わなければなりません」
再び姿勢をただし、深く目を閉じて想う。
先ほどに聞いた、「勝負をやめるか」という言葉、「本意ではない」という言葉。
あの男の事を、妹紅は良く知っている。付き合いは白蓮よりもずっと長い。
だが、今、妹紅の知らぬ一面を白蓮から聞かされた。
思っていたよりも、妹紅はあいつの事を知らないのかもしれない。
なら、会わなくてはならない。
20年の歳月を、本当に無に帰してしまうつもりならば。
始まりは、紛れもなく藤原妹紅なのだ。決着に、藤原妹紅がいなくてはならない。
再び目を見開いた時、藤原妹紅に恐怖の揺らぎは薄れていた。
「判った。会おう、あいつに」
聖白蓮は静かに頷く。
今ここに、聖白蓮の役目は終わったのだ、後は、藤原妹紅の役目である。
「それにしても、結局言ってる事はちゃんと話をしろなんて普通の事だなんてね」
「あら、意外でした?」
「もっと執着を捨てろとかなんとか言うと思った。しかも釈迦の話まで王子の主観とか言いきちゃっうし」
「言うではありませんか、嘘も方便だと」
「嘘なのかい?」
「いいえ、方便ですよ」
「……さくじれた坊主だね!」
妹紅の面白げな憎まれ口である。
それを受けて白蓮はくすりと笑う。
だから、妹紅もやはりくすりと笑った。
「ありがとう、御坊の心添え、決して無駄にしないよ」
深く頭を下げ、妹紅は立ち上がる。
思い立ったが吉日だ、否、決めたのならば今行動せねばならない。
その後ろ姿は藤原妹紅を知る者が思い描く藤原妹紅の姿であった。
* * *
そして妹紅は男の前に立つ。
時は夕暮れで、夕餉の支度に使うのだろうか、薪を割る男の姿があった。
奇しくも、20年前と真逆である。
「おう、藤原」
男が何時もの様に、妹紅に語りかける。
20年の歳月を重ねた姿で、しかし何も変わらぬように。
「勝負をやめると言ったね」
「ああ」
「何故?」
「続けても意味が無いからな」
男が鉈を振りおろして、薪を叩き割る。
20年前のそれよりも、格段に威力を増した鉈だ。
おそらく、妖怪の鍛冶師に勝るとも劣らぬ実力を備えている。
「なぁ、藤原」
「なんだ」
「お前は蓬莱人だ」
「ああ」
「俺らとは違う、永い時を生きている。1300年だ、尋常では無い」
そうだ、蓬莱人は人間とは違う。
永い永い時を移ろわなくてはならない。
神とも妖怪とも違う。
彼らは移ろう事を知らない。
蓬莱人は永久を生きれど、永遠なるものでは無い。
「尋常では無いお前の連れ合いになるというなら、俺もまた尋常ではいられん」
「お前も、蓬莱人になるというのか?」
「まさか」
男が珂珂と笑う。
「俺はな、俺が真にお前に相応しい者である為に成すべきことをしようと思っただけだ」
「それで、私の難題を受けたのか?」
「そうだ、普通に考えれば無理な話だろう。だがな、その無理をどうにか出来ずに、何故お前と共にある事ができる。俺の在り方を、お前の1300年に少しでも釣り合うものにせずして、何故お前を愛せるのだ」
「ならばなおさら、何故やめるんだ」
「そりゃあ決まっている。お前の連れ合いになろうと言うのに、お前の気持ちを置き去りしてどうするのだ」
「私の?」
「もし仮に、俺がお前の1300年に見合う何かであったとして、お前が俺の方を向かないのに、何故お前を連れ合いにできるのだ」
妹紅は、そんな答えに目を白黒させる。
つまり、なんだ、この男は、要するに恋愛結婚を望んでいるのか。
確かに、お互いの気持ちが通じた上での結婚ならば、それは幸せな事かもしれない。
「なら余計にだ、何故その為に費やした20年を無にするような真似をするんだ」
「20年を積み重ねたからだ」
いつの間にか、男は妹紅と向き合っていた。
心なしか、20年前よりも大きく貫禄の増した姿で。
「20年を、俺はお前に釣り合う男になろうと積み重ねてきた。だが、その20年が間違っていると言うのなら、正さなければならない」
「何故だ、20年も貫いたのだ、最後まで貫こうとしないのか」
「それで、お前が俺の方を向くのか?」
妹紅は言葉に詰まる。
なぜならば、男の20年に戦慄し、避けるようになったのはまさに藤原妹紅だからだ。
「なぁ、藤原」
男は更に語る。
そこに妹紅を責めるような様子は微塵もない。
「俺は、お前に惚れている。だからこそ、お前に幸せであってほしい。すくなくとも、不幸にはしたくない」
「……」
「お前は尋常な者ではない。もしかしたら、俺の一生を賭しても届かぬのかもしれぬ、ならば20年が何だと言うのだ。20年の俺の姿が、お前にとって恐ろしいものだというのならば、俺が間違っているのだ。その間違いがお前を苦しめるのならば、俺にとってそれは本意では無い」
誰かに幸福であってほしい、それはまさに慈悲の心だ。
聖白蓮が語った捨身虎飼の王子の様に、男は藤原妹紅に己を捧げる決意をしている。
王子が竹で己の喉を貫いたように、この男は、藤原妹紅の為に今世を捧げようというのだ。
そして藤原妹紅は思う、かつて蓬莱山輝夜に求婚した父の事を。
父は、蓬莱山輝夜をどう捉えていたのだろうか。
美しい姫を、己のものに出来るという、そんな気持ちではなかったのではないか。
それが悪いという事では無い、あの時代は、女を数多く口説ける男は風情を解する雅男として持てはやされていた。
それが、男の価値だったのだ。
されど、父も、他の皇子達も、輝姫を愛すれど、蓬莱人の業を背負える程の存在であっただろうか。
彼らの価値が、輝夜の永久を一時でも留めるものであっただろうか。
妹紅は男をじっと見つめる。
20年前よりも、老いたその男を。
人は死を以って蓬莱人を置き去りにする。
だが、蓬莱人もまた人を置き去りにする。
永遠に変わらぬ蓬莱人に対して、人は老いる。
人間はそれに耐えられない。見知ったものがいつまでも若いのに、自分が老いてゆくと言う現実に。
年月とは、老いとは、そういうものだ、それだけ重いのだ。
目の前の男は、今が男盛りだ。
力も技量も脂が載って、最も充実する時だろう。
刀鍛冶として重ねた歳月で、更に見事な刀だって打てるだろう。
それを、私の為に捨てるというのか。
嗚呼、お前は私の為に、そこまでを成せるのか。
「……アンタの刀を、愉しみにしてるよ」
なんと言えば良いのか解らなかった。
きっとこれは、最後まで受け止めなければならないと思った。
だから、そんな一言を言うのが精いっぱいだった。
「応」
いつもの様に、男が応える。
ごく短いそれだけを言って、男はまたまき割りを始めた。
「それじゃ、邪魔したね」
妹紅も何時もの様に、立ち去ろうとする。
ただ、次の瞬間、彼女の足を止める事が起きた。
「妹紅」
名前を呼ばれて、藤原妹紅は振り返る。
20年以上の付き合いの中で、男が始めて妹紅の名を呼んだ。
「ありがとう」
妹紅は、何かを言おうとした。
礼を言われるような事じゃない、とか、いいさ、とか。
けど、結局やめてしまった。
それは否定も肯定もできる「ありがとう」ではなかった。
後は、男が薪を割る音以外なにも無い、静寂が全てであった。
* * *
そして、更に10年が過ぎた。
妹紅と男は嘗ての通りに戻った。
すなわち、顔を合わせては言葉を交わし、酒を飲んでは盛り上がり、時にはぶつかっていがみ合う事だってある。
本当は、以前と同じでは無い。
男は妹紅を名前で呼ぶようになったし、妹紅も少しだが男と過ごす時間が増えた。
後は、男の生活も変わった。
以前は飯の種に農具も作っていたが、いつの頃からか刀自体が売れるようになった。
なんでも、持っていると妖怪や妖精が寄ってこないそうだ。
剣術の心得のない者でも、守り刀として欲しがり、里ではすっかり刀鍛冶として定着してしまっている。
ただ、飯の種に農具を作る必要がなくなった為、その時間を更に刀につぎ込んだ。
正直な話、売り物としての刀を造っているのでは無く、出来た刀をどうせ潰してしまうのだからと売っているようなものである。
商売っ気も何も無く、半ば投げ売りであった。
妹紅は、その話を酒の席で誰かから聞いたが、特になにか反応する訳でもなく、「ふぅん」とだけ返した。
今更気にするような事では無い、妹紅は男が刀を造るのを待つと決めたのだ。
なれば、後は待つだけである。
そんなこんなの内に、10年が経っているが、だからなんだというのだ。
男がやり遂げようというのだ、女がまってやらずにどうするのさ。
誰にも言わない、そんな決意である。
そんな月日がどれほど過ぎたであろうか。
ある日、男が妹紅の庵を訪ねてきた。
大分白髪の混じった頭に、少し見ぬ間にげっそりとやつれた顔をして。
しかして、その目には変わらぬ炎が揺らめいている。
「出来たのかい」
「ああ」
男が、一振りの刀を差し出す。
白鞘に収められた刀である。
男の30年の、否、妹紅への30年の全てを打ち込めた刀だ。
妹紅はそれを受け取り、鞘から引き抜く。
刹那、妹紅はまるで光の塊が現れたのだと思ってしまった。
それほどに、美しい刀身であった。
長さは二尺三寸。ただの鋼の刀であり、輝くのは日の光を反射しているからにしかすぎない。
だが、そんな常識を忘れさせてしまうほど、この刃そのものが輝いているのだと見紛うばかりである。
これが、鋼なのか。
妹紅の1300年の記憶の中にも、これほどの輝きは覚えが無い。
一振りすれば、空を裂く音がする。
それはまるで謳っているようで、その唄に誘われるように妹紅はそれが白鞘であるのも忘れて、思わず手近な竹に向けて振るってしまう。
しまった、と思う暇もなく、竹がすらりと滑る様に落ちてゆく。
なんたる切れ味か、白鞘であるにも関わらず、斬った手ごたえも無く竹をここまであっさりと両断できるとは。。
持つものが持てば雨どころか本当に空すら斬れるのではなかろうか。
「凄いな」
妹紅はそう漏らす。
それ以外に、感嘆の言葉が無かった。
これは、妹紅の1300年に斬り込む刃だ。
刀を鞘に戻し、妹紅は男に向き合う。
今更ながらに、男がやつれているのが、この刀を打っていたからなのだと気が付く。
「お前の心、確かに受け取った」
男が頷く。
いつもよりも晴れ晴れとした顔で。
きっと、この男にも会心の一振りであったに違いない。
いや、そうでなければ自分の元に、この刀を持ってくるものか。
「えぇっと……なんて言えば良いのかな、こういう時」
何か、気の利いた事を言おうと思ったが、どうにも思い浮かばない。
散々になやんで、結局口にしたのは、こんな言葉であった。
「……不束者ですが、どうぞ宜しく」
「こちらこそ」
男が珂珂と笑う。
老いてもも尚、虎の様な笑い方である。
だから、妹紅も思わず笑って応えた。
数日後、里でささやかな婚礼が行われた。
妹紅と男の婚礼である。
博麗の巫女が神事を執り行い、二人の友人や知り合いが参列した。
二人はそこまで人付き合いが良い方では無いので、規模としては左程に大きく無い。
とは言え、それで良かったのかもしれない。
兎に角、似合わぬ夫婦である。
男は白髪が混じった壮年で、妹紅は髪こそ銀だが10代半ばの見かけである。
女房が若いほどうらやましいというのが、実際に目にすればやはり不釣合いだと言わざるを得ない。
見かけは父と娘、下手をすれば孫と祖父にもなりかねない組み合わせなのだ。
彼らと付き合いの長い者も、戸惑わずには居られなかった。
素直に二人の婚礼を受け入れたのは、上白沢慧音と……意外な事に、蓬莱山輝夜であった。
妹紅は、何を思ったのか永遠亭の姫君を自分の婚礼に呼んだ。
藤原妹紅と蓬莱山輝夜は、仇敵同士である。揉め事になるのは目に見えている。
実際、二人が向き合った時は、酒宴の場に緊張が奔った。
周囲が固唾を飲んで見守る中、動いたのは輝夜である。
「綺麗じゃない」
確かに妹紅は美しかった。
滅多にせぬ化粧を施し、唇に紅を引いて。
普段見る妹紅も美しいが、飾りたてた妹紅は見知ったものですら言葉を失う程である。
銀の髪も、白無垢に埋没する事無く、むしろその輝きが白の中で良く映える。
「そうか?」
「えぇ、やっぱり女の子だもの、白無垢が似合うわよね」
輝夜がからからと笑って、妹紅が照れたように頬を染める。
普段の殺し合いの情景など、まるで感じさせない。まるで仲の良い友人のようであった。
そして輝夜が男に向き直る。
値踏みするようなまなざしで。
「ふぅん……」
男は動じず、ただそこに座している。
妹紅も、少し自慢げに胸を張る。
「貴方、凄いわよ。妹紅を射止めるなんて」
「は、その為に精進いたしました」
輝夜は、深く、そして何度も頷く。
それで、輝姫は得心したのだろう。
おそらく、周囲がなんと言おうと二人は似合いの夫婦なのだと。
それは彼女の次の言葉に如実に顕されていた。
「妹紅」
「ん」
「結婚、おめでとう」
「ああ、ありがとう」
後は、折角の目出度い席なのだからと、永遠亭から特別な酒が振る舞われた。
輝夜が言うには鬼から騙し取った珍しい酒なのだという。
確かに豊かで旨い酒であったが、妹紅はこれが八意永琳が妖精達から騙し取った酒であると知っている。
正確には、妖精が鬼から盗んだ酒を八意永琳が騙し取った代物だ。
宴を盛り上げる、洒落た嘘だ。
嘘と酒で、皆良い気分になり、大きな笑い声がそこかしこから上がる。
宴もたけなわになった頃、ふと隣から声がかかる。
「なぁ」
「なんだい」
「儂はお前を幸せにするぞ。きっとな」
「……やれやれ、年甲斐もない事を言っちゃって」
「ははっ、お前に言われたくはないな」
「違いない」
二人は酒を煽った。
盃を空にして、心と体を温める。
心地よい気分ではあるが、一時だ。
この結婚も、結局はこの酒と同じだろう。
男は老いる。
妹紅は老いない。
男は死ぬ。
妹紅は死なない。
人の一生は、蓬莱人の一時にしか過ぎない、それは蓬莱人と人の理である。
なれど、妹紅はその一時を共に生きる事を決めた。
おそらく、妹紅の心はあの20年目の語らいの時に決まっていたのだろう。
それでも尚、10年の年月を待ったのは、男自身が妹紅と釣り合う者になろうとするその一念を汲み取ったからだ。
そして今、その時がやってきた。
男が藤原妹紅の1300年に挑んだように、藤原妹紅が男のこれからを共に背負うのだ。
酒の酔いが醒めるように、いつか必ず分かたれたる日が来る。
その日、その時まで。
仕方ないの無い事なのだが、こんな席で、そんな事を考えてしまう自分が、妹紅にはどうにも寂しく感じられて。
誰かに注がれた酒をもう一度煽って、どうにもならない事を、その熱い露と一緒に呑み込んでしまった。
* * *
そして、それから30年程が経った。
結婚、というのは人の生き方を変える。藤原妹紅も例外では無い。
何分、いままで一人で暮らす事の方が圧倒的に多かった為、誰かと寝食を共にするというのが最初はどうにも馴れずにいた。
特に不眠だったり自分を追い込むような生活を当たり前にしていた妹紅にとって、普通の人間と同じ生活というのは恐ろしく久しぶりなのも無関係ではないだろう。
朝ともに起き、朝餉をつくって向かい合って食事を取る。
二人分の洗濯をして、掃除をする。
昼餉を作り、また二人で向かいあって食事をして。
買い物に出かけたり、たまに来る客の対応をする。
夕餉を作り、酒を飲みながら一日の事を話して食事にする。
男は、一日中、鍛冶場に籠りっぱなしだ。
炎に向き合い、鋼を鍛え、刃を形作る。
只ひたむきに、変わらず刀を造っていた。
その技巧は益々冴えて、刃の煌めきを見るだけでどんな妖怪でも怯んで腰が引けてしまうようになった。
無論、刀が妖怪にとって邪魔なだけだった訳では無い。むしろ妖怪の強者には、男の刀を欲しがって、わざわざ自分用に鍛えてくれと依頼する者も多かった。
男は、そんな事に頓着などしない。
人の為ならば人の為に刀を打ち、妖怪の為ならば妖怪の為に刀を打ち、神ならば神の為に刀を打つ。
それは人を護り、妖怪を感嘆させ、神を喜ばせたが、優れた刀である故に諍いが起きる事もままあった。
お蔭で一時期は、男の刀の扱いをどうするべきかという事で、幻想郷の実力者たちが顔を突き合わせて、真剣になやんでしまった程である。
結局の処、刀をできうる限り里の外に出さないという事で決着がついた。
元より里での諍いはご法度である。里から出ないのであれば問題は無い。
男の刀を手にして人にしろ妖怪にしろ調子にのった者もいるが、そんな輩は身も心も技も未熟な者、数日後には屍をさらす事になった。
妹紅はそんな男を夫にしてしまった為に、大分苦労させられたのは事実である。
並の男ではないのだ、並の夫婦ではいられまいと思ったが、さてここまで煩わしい事があるとはさすがに考えていなかった。
だが、それは妹紅が結婚を後悔したという事では無い。
相も変らぬ夫の姿に、苦笑する事もあったが、夫を誇らしく思う事の方がずっと多かった。
彼は、世間に無関心だった訳では無い。
むしろ、己の打った刀に関する事には積極的に関わっていった。
刀で血流れる事があっても、それでも刀を打ち、刀と向き合う事をやめようとしない。
それが良き結果である事もあれば、悪い結果になった事もある。
いかなる事があっても、刀を打ち続ける。だが、男の歩みは常に妹紅と共にあった。
妹紅を置き去りにするわけでも、置き去りにされる訳でもない。
時にはいがみあう事だってあった。
だがそれも、歩調が合っていたからこそである。
きっと男にとって、それが一番大事だったのだろう。
昔の誓いのそのままに、ずっと過ごしてきたのだ。
だからこの30年は、妹紅にとって途轍もなく豊かな30年であった。
その時がやってきたのは、妹紅が夕餉の支度を始めた頃である。
良い蜆が手に入ったので、これで「ぬた」でも造ろうかと、味噌と葱を合わせている最中であった。
「妹紅」
「ん? なんだい」
「すまんが、巫女殿を呼んでもらえんか」
はて、巫女とは博麗の巫女であろうか。
なぜこんな時間に、博麗の巫女などを、と思って妹紅は振り返る。
思わず、息をのんでしまった。
そこに居たのは、いつも通りの夫である。
頭がすっかり白くなり、顔には皺が刻まれて、同年代よりは若く見えるが間違いなく老人といえる夫の姿。
妹紅にとっては見慣れた姿である。
ただ一つ、全身からすっかり力が消え失せているという点を除いては。
背筋を伸ばし、両の足でしっかりと立っている。
だが、つい昼間見たのとは全く違っていた。
体の芯にある何かが、ふっと消えてしまっているような、今にも崩れてしまいそうな印象を受ける。
今まで、妹紅は何人もこれを観てきた。
だから、理解してしまった。
「…………あぁ、判った。すぐに、呼んでくるよ」
お前は、もう死んでしまうのだなと。
男はその翌日に死んだ。
俗に言うピンコロという奴で、葬儀の準備がなにかものすごく慌ただしく感じられた。
きっと、周囲の者が男が死ぬと想像していなかった為だろう。
人は死ぬのだ、と頭では解かっていても、それが来る日というのは中々に想像できない。
だからこそ、余計に慌ただしく感じたのだ。
そんな中、妹紅は極めて冷静に喪主を務めた。
巫女と共に神葬祭の段取りを決めて、手伝ってくれる者たちに的確に指示を出す。
知ったものは、流石は蓬莱人、慣れたものだと感心するような働きぶりであった。
枕直しから、納棺、通夜を行う。
遷霊祭において、霊璽、すなわち御霊を移す依代には男が妹紅の為に打った刀が用いられた。
数ある男の作の中で最高傑作である、少なくとも妹紅はそう信じているその刀こそ、霊璽には相応しいだろうと考えたのである。
そして、葬場祭にて別れを告げ、火葬祭にて躯を火葬し、埋葬祭にて地に返す。
帰家祭にて身を清め、直会で巫女や集まってくれた人々を労う。
当初は戸惑っていた人々も、直会にまでいけば現実を受け止めて、葬儀ではあるが宴でそれなりに盛り上がった。
男の死に様が穏やかであった事と、妹紅が平然としていたのがそれを助けたのであろう。
なにはともあれ、神葬祭はこれでお終いである。
尤も、弔いが全て終わったわけでは無い、仏教で四九日があるように、神道にも五十日祭がある。
そこまで終わって、ようやく忌が明けるのだ。
だから妹紅はそれまで、ずっと気を張って立派に遺族としての務めを果たすのであった。
そうして、五十日祭も終わって、ようやく忌が明ける。
ここから、普通の生活に戻る。
そう、いつも通りの生活である。
朝餉を作り、一人で食し。
一人分の洗濯をして、広くなった家を掃除する。
昼食を作って一人で食し。
買い物に出かけて、友人と話をし。
夕餉を作って、一人で酒を飲みながら肴をつつく。
いつも通りの生活だ。
ただ、今までいたものがいなくなっただけの。
だから、夕餉を済ませるともう何もすることが無くて、ぼんやりと時間を過ごしてしまう。
飾ってある神棚と、神棚に奉じられている刀を見上げて、何をする訳でも無い。
妹紅には子はいない。
あえて子はつくらなかった。もし生まれた子供も蓬莱人であったらという不安がそうさせた。
八意永琳に相談もしたが、蓬莱人の本質は魂であり、遺伝はしないはずだが、断言はできぬと言われ、やはり断念した。
生まれながらに不死等と、忌まわしい呪いを背負わせるのは嫌だったのだ。
夫にそれを伝えた時、夫はただ一言、「そうか」と言うだけだった。
妹紅にとっても寂しい事だが、こればかりは譲れない。
そこでふと、妹紅は今更ながらに子を創れぬことを寂しいと感じたのを思い出した。
そして、夫と自分の間に子がいないのを寂しいと感じるほどに、夫を愛している事もまた思い出した。
嗚呼、そういうものなのか。
覚悟していたはずの事が、何か無性に妹紅を苛む。
人が死ぬなど当たり前の事なのだ。
それを承知で、尚、男の心に応えたはずなのに。
妹紅の心は今、想像を絶するほどに荒れ狂っていた。
男が、夫がいない事を、もう二度と会えぬ事を自覚してしまったのだ。
神仏なれば、永い時の果て、転生の果てにまた会えるというかもしれぬ。
だが、それは妹紅にとって何の慰めにもならない。
神仏の理と、人の理は違う。
妹紅にとって、あの男との生こそ何物にも代えがたい時間だったのだ。
1300年に対する、30年、結婚前から数えれば60年、取るに足りぬと言えるかもしれない。
人との別れなど、幾度となく経験したのだ。
だがそれでも、妹紅は嘆かずにはいられなかった。
それだけ、男と過ごした時は幸せだったのだ。
1300年の積み重ねと価値観を徹する60年である。
あの刀と同じように、男が自ら鍛え上げた年月が、今の妹紅を確実に貫いてしまっていた。
お前は嘘つきだ、私を幸せにすると言ったじゃないか
不幸にはしないと、言ったじゃないか
妹紅は、まるで虎の様に咆える。
咆えた処でどうにもならぬ事を。
嘆きは、時が癒してくれるだろう。
蓬莱人にとって、その時は無限にある。
それは同時に、大切なものが色あせてしまうという無情でもあるのだ。
だから、今この時、この時だけは、夫への気持ちをただ只管に燃え上がらせたかった。
「やはり、お前の泣き顔を見るのは嫌だなぁ」
唐突にかけられた声。
おそらくは幻聴の類であろう。そうでなければ、何故あの男の声が聞こえるのか。
だが、妹紅は伏していた顔をゆっくりと上げる。
そして、信じられぬものを観た。
男である。
死んだはずの夫が、見知った姿よりもずっと若い姿でそこにいた。
「あ……」
「すまん、妹紅。一時と言えど、お前を悲しませてしまったな」
男が、本当に申し訳なさそうな顔で頭を下げる。
何故、と妹紅は完全に混乱していた。
男は死んだのだ、火葬までした、ここにいるはずがない。
もし、いるとしたらそれは……
「まさか、お前、幽霊になって」
そうだ、それしか考えられぬ。
成仏できずに、この世に留まっているのだ。
「おいおい、幽霊では無いぞ。似たようなものかもしれんが」
「だって、お前は、死んだじゃないか」
「ああ、死んだ。死んで弔ってもらった。だからここにいるのだ」
男は自分が幽霊では無いという。
だが、死んだ者が現世に留まるなど、幽霊に以外に何だと言うのだ。
幻想郷には幽霊以外に妖怪も神もいるが、人が死んでまだ現世に留まるなど……
「わからんか? 何故儂が博麗の巫女殿に葬儀を頼んだか」
「……?…………あ……あ、あ…ああああああああああぁぁああああああああああああああぁぁぁあああああああああぁぁぁ!!」
夜中だというのに、思わず妹紅は大声を上げてしまう。
思い出したのだ。
神道の葬儀は、仏教のそれとは違う。
仏教の葬儀が浄土へと魂を送り出す儀式ならば、神道は死者を神として奉る儀式なのだ。
「じゃ、じゃあ、まさか、お前、神に?」
「うむ」
事も無げに男は頷く。
人が神になる、難しいが日本ではそう珍しくも無い。
祀られるものが神なのだ。人は時に忘れてしまうが、己の血筋、もっと小さく言ってしまえば家族を護る権能をしめすのだって立派な神である。
八百万の神とは、そういうものなのだ。
だが神は人の目には見えぬ、感じられぬ。
だから、人は神の守護を忘れてしまう。
守矢や秋姉妹の様な、人々の前に姿現す形を持った神の方が珍しい。
そして、男はその珍しい神の側になっている。
「まぁ、ここまではっきり形を保てるとは思っておらんかった。精々が、お前がさっき言ったように幽霊ぐらいの自分を保てればよいとそう考えていたのだがな」
どうにも、霊璽にした刀の力が強すぎたらしいと男は苦笑する。
さもありなん、男が全てを賭けて鍛え上げた刀である。
幻想郷のいかなる名刀にも劣らぬ刀である。
そして、それを作りだせるだけの一念を見せた男なのだ、形ある神となっても不思議では無い。
「なんで、お前……」
「きまっている。お前をおいてあの世になど行けるか」
「まさか、私の為に神になったのか」
「そうだ」
昔と変わらぬ、男の情念。
死して尚、それを徹しようというのか。
「行ったであろう、俺はお前を不幸にはせぬと」
何よりも深い一言である。
如何なる者でも覆せぬ、全てを詰めた一言である。
「神、なんて言っても、信徒もいないんじゃ大した力は出せないぞ」
「そんな事は興味が無いな」
「忘れ去られたら、消えてしまう。神も不滅じゃないんだぞ」
「どうでもよいな」
珂珂と男は笑う。
「お前が儂を忘れるというなら、お前の心が儂から離れたという事。なれば、消えるのが筋ではないか」
神となったのならば、信徒を集めれば大きな力を出せる。
信徒が信仰し続ける限り、神は滅びぬ。永遠に近い時を得られるのだ。
なのに、この男はどちらも要らぬと言う。
男は、人の在り様を極めて神になったのだ
藤原妹紅を、不幸にせぬ、幸せにするための神に。
藤原妹紅を、愛する為だけの神に。
なんという、男なのか。
「………馬鹿だね。馬鹿だよ、人をやめて、それでも……!」
顔を伏せて、それ以上は言葉にならなかった。
先ほどとは違う、全く真逆の嵐が妹紅の中に吹き荒れていたからだ。
神に至るほどに、男は妹紅を愛している。
妹紅の永劫に、この男はこれからも挑むつもりなのだ。
それだけの心を、言葉にする術を妹紅は知らない。
嗚呼、なればこそ、なればこそ、その心が何よりも愛おしい。
人が人ならざる者になるのは禁忌である。
だが博麗が何と言おうと、八雲がどういう顔をしようと知った事では無い。
この神は、博麗が祀ったのだ、文句など言わせるものか。
もし、幻想郷が私たちを否定するのなら、私はどこまでも戦おう。
暖かい手が、妹紅に触れる。
その手に導かれるままに顔を上げて、そして今度は唇が触れる。
瞳を閉じて、妹紅はその熱に身を任せる。
それはいかなる鋼をも溶かす炎のようで
妹紅の操るどんな術よりも熱い
だから、藤原妹紅は、すっかりその熱に焼き尽くされてしまうのであった
最初1000年以上生きている妹紅が数十年を長い時間と認識しているのに違和感を感じましたが、長く生きているからこそ人の心の移ろいやすさが身に染みていて男の一貫した姿勢に惹かれたのかもしれないと勝手に納得してしまいました。
一つ気になったのは物語の核である刀作りに刀である必然性が感じられなかったところです。妹紅と特に縁の深い訳でもない刀を持ち出す以上、物語のどこかで刀であることの意味をはっきりとした形で持たせてやった方がきれいにまとまったのではと思いました。
刀の話は、妹紅が妖怪退治をしていた頃に縁があったかもしれないと、私はそういう風に想像してましたね。明確な描写が無いため、その辺の捉え方は様々だろうとは思います。
堂々と胸を張っても良い作品だと思います。
大変面白かったです。
個人的には男が言った
哀愁漂う『ありがとう』のセリフが
落ちによって少し台無しになったような気がしました。
ですがこれはこれで一興だと思い
満点を付けました。
愛に生きる男の生き様、しかと受け取った。
個人的には、ありがちですが、そのまま生き返らない方が物語のオチとしては綺麗かな(酷い)とも思いましたが、元々の出発点がここにあったというのならば野暮な意見かもしれませぬ。
ただ、ちょっと誤字脱字が目立つような気もしました。
特に
×蓬莱山輝姫
○蓬莱山輝夜
は、もったいない。いいシーンであるがゆえに、余計に。