1.
物部布都は急いでいた。千四百年にわたる長い眠りから目覚め、寝ぼけ眼の内に紅白の巫女と交戦し、あっさりと敗北したところであった布都は神子に廟への敵の侵入を伝えるために駆けていた。
「……お前、……か」
そんな布都の耳に風に紛れて断片的に声が流れ込んできた。布都は立ち止り、声の発生源である頭上に目を向け、問う。
「誰ぞ」
霊廟の天井に人影が蠢いていた。人影には脚がなく、そこにはぼんやりと煙のように漂うエクトプラズムがあるのみだった。
「ふむ、亡霊の類か。大方復活した太子様に憑りつこうとでもしておったのだろうが、残念だったな。亡霊などこの我が物部の秘術をもってして調伏……って、ひゃあ!?」
喋っている途中で亡霊は布都に組み付いてきた。
「奇襲とは卑怯だぞ、この亡霊風情が」
「布都!」
「む?」
亡霊の声に聞き覚えがあることに気付く。よくよく見ればその人影はかつて布都と共に豊聡耳神子に仕えていた蘇我屠自古であった。組み付かれたように思ったのは単に抱きつかれただけだったらしい。
「なんだ屠自古か」
「なんだじゃない馬鹿。お前自分が何年眠っていたと思ってる。千四百年だぞ、千四百年。太子様もお前ももう起きないんじゃないかって、私は、ずっと、一人で、不安で……」
痛みを感じる程に強く布都の身体が締め付けられる。布都は微かに震えている屠自古の肩をポンポンと叩く。
「情けないぞ、屠自古よ。我はともかく太子様が失敗されるはずが無かろう。仏教徒共に封印されていた所為で少し復活が遅れただけだ」
「ずっと待ってた私からしたら少しじゃないんだよ。それに実際私は失敗して怨霊になったんだ。不安になるのも仕方ないじゃないか」
「屠自古、無駄話はこれ位にして太子様の下へ向かうぞ。太子様も我と同様復活したてで力を十全には発揮できない状態であろう、敵より早く到着して加勢せねば」
布都は屠自古から身体を離し、再び駆け出した。太子様の下に集まる低俗霊たちの軌跡を頼りに進んで行く。その後ろをふよふよと屠自古が浮遊しながら追従した。
「おい、布都」
やけに不愛想でつっけんどんな調子で屠自古が喋りかけてきた。見れば屠自古の顔がほんのりと紅潮している。先程柄でもなく布都に抱きついたのが今になって恥ずかしくなったらしい。不愛想すぎるくらいの方が屠自古らしいと布都は思った。
「お前と太子の尸解は成功したんだよな」
「無論だ」
「じゃあなぜ私の尸解が失敗したか、お前は何か知っているか? 私はどうやら誰かに謀られたらしい。私の壺が何か脆い物にすり替えられていてそれが失敗の原因となったようなんだが」
「青娥殿からは何も聞いておらぬのか」
布都は屠自古の瞳の奥を覗き込みながら訊ねた。
「いや、私が意識を取り戻して以来、青娥の奴は一度も私の前に現れてない。待て、ここで奴の話が出て来るってことはやっぱりあいつが何かしでかしたんだな」
屠自古の目がみるみる怒りの色に沈んでいく。敵襲が無ければ今にも青娥をぶちのめしに行きそうな勢いだった。屠自古は昔から布都と神子の道教修行の師匠にあたる仙人、霍青娥を毛嫌いしてる節があった。まあ常時全身から匂い立つ程の胡散臭さを発散させているような御方だから無理もないが、そう布都は思った。
「お主の尸解の失敗にはやむを得ない事情があったのだ。青娥殿を責めるでない」
「事情?」
「お主の尸解の数日前、お主が尸解の依り代として選んだ壺、あのだっさい壺を我が廟へと運んでいる時にそれは起こった」
「あれは蘇我の一族に代々伝わる家宝だぞ、それをださいなどと……」
「思えばその日は朝から不吉であった。我が身だしなみを整えておる時に自室の鏡が割れたのだ。知っておるか、鏡が割れるのは数ある不幸の前兆の中でも指折りのものなのだ。それだけでは無い。我が廟へと壺を運んでいる最中に、一羽の鴉が通路の欄干に留まり狂ったように鳴きおった。これもまた不吉の象徴であった。我は嫌な予感がして足早に霊廟へと向かった。そして……」
布都は一拍置き、続ける。
「壺を落としてしまったのだ」
「は?」
「いや、その、鴉が急に飛び立ったから驚いてな」
屠自古の髪が逆立ち、バチバチと雷光が辺りに飛び交い始めた所で布都は自らの命の危険を覚え、立ち止る。先程まで青娥に向けられていた怒りを数倍に増幅させた激情が今、真っ直ぐに布都に向けられている。その生前以上の気迫にさすがは怨霊、と布都は感心したが、今はこの状況を打開することに全神経を使うべきであることに気付き、話を続ける。
「待て待て、話はまだ終わっておらぬぞ」
「取り敢えず、最後まで話は聞いてやる」
「壺は見事に割れておった。尸解に使う依り代には相応の格が必要である故、代わりのものを用意するのは容易ではない。そこで我はこう考えた。屠自古の壺を我が作ろうと。お主も知っているであろう? 我が一流の陶芸の腕を持っておることを。我は自分の尸解に用いる皿を作るのを中断しお主の為に新しい壺を作り始めた」
布都は“お主の為に”という部分をこれでもかという位強調した。
「我の類稀なる芸術的感性によりあのださい壺よりもはるかに素晴らしい造形が出来上がった。その繊細かつ大胆な意匠は大陸の名工達の逸品と比較しても遜色ない出来であった。しかし、そこで問題が一つ浮上した。つまり尸解の直前になっても造形までしか終わっていなかったのだ」
屠自古の指から一筋の雷が地面に落ち、轟音が霊廟に響き渡った。布都は震えあがる。
「焼成には乾燥させた壺をそのまま焼く素焼きと釉薬を塗って焼く本焼きがあるが、どちらも半日はかかる手順で、尸解の儀の開始時刻を考えると素焼きの途中までしか終わらん。悪化していた太子様の体調を慮れば尸解の儀を遅らせる訳にもいかぬ。致し方なく我は生焼けの壺をお主の割れた壺と取り換え尸解の儀に臨んだのだ」
「何か、言い残すことはあるか」
屠自古の操る無数の雷の矢が一斉に布都に向く。
「待て、そんなもの喰らったら死んでしまうではないか。力及ばず壺を完成させられなかったことは謝ろう。しかし我は手を打ち、全力を尽くした。それに生焼けとはいえ強度は十分にあったし、大丈夫だと思ったのだ」
「一遍死んどけえ!!」
布都の意識は飛来する稲光に包まれ消え去った。
布都が目を覚ますと屠自古の背におぶさって霊廟をふわふわと飛んでいた。布都は屠自古に問う。
「我はどの位気絶していた」
「ほんの数分だよ」
「太子様は?」
「もう直ぐだ。恥ずかしいから太子様の前では自分で立てよ」
「うん」
布都は淡く発光しながら霊廟を漂う低俗霊達をぼんやりと眺めながら考える。こやつ等は太子様に聞き入れて貰おうと集まる欲望達。さながら光に引き寄せられた羽虫といった所だが、我もその内の一匹に過ぎないのだろうか、と。
「屠自古」
「何だよ」
「すまなんだ」
屠自古は何も言わなかった。言葉とはどうしてこうも空っぽなのだろう、布都は思った。それは布都様がいつも言葉を裏切っているからではなくて? ニヤニヤと笑いながらそう言う青娥殿の姿がふと脳裏をよぎる。太子様なら、太子様相手ならこんなものに頼らなくてもいいのに。でも、屠自古は太子様じゃないから、ちゃんと伝えなくちゃ。
布都は二の句を紡げずにいた。
2.
時を遡ること千四百年、聖徳太子こと豊聡耳神子が生前、蘇我馬子と共にその政治手腕を振るっていた飛鳥の時代のことである。
当時、豊聡耳神子は戦に出れば常勝無敗、政治的に対立においても立ちはだかるあらゆる勢力を懐柔、あるいは滅ぼし、民衆からもその名の通り神の子ではないのかと噂される程の支持を受けており、まさに全盛期といっても過言では無かった。元来、生まれた時より彼女の才は常軌を逸したものであり、為政者となるべく女の身でありながら男として育てられ、しかるべき教育を施された。厩での出生をはじめとしたいくつもの逸話が用意され、彼女の神性を高めることに貢献していたが、その逸話の中には真も含まれていた。いわゆる豊聡耳の伝説である。彼女の耳は騒ぐ群衆の中から知己の声を見つけ出し、同時に十人の話を聞き分け、人が言葉に込める微かな感情を聞き取った。実際その力により何人もの背信者が捕えられていた。そんな豊聡耳神子を擁する蘇我氏は見る間にその勢力を伸ばし、蘇我氏に対抗しうる勢力は朝廷で最も大きな勢力を誇る軍事豪族、物部氏を残すのみとなっていた。
「布都、布都はいますか」
神子、屠自古、布都の三人が普段過ごしている屋敷に戦より戻ってきた神子は一番に布都を呼んだ。
「は、ここにおります」
隣室にて控えていた布都は返事をし、襖戸を開けて神子の居室に入り平伏した。
「ただいま。楽にしていいですよ」
布都が面を上げると、視界の端に神子の顔が映り込む。完璧に均整のとれた中性的な顔立ち、頭から飛び出る二房の立派な動物の耳のような奇抜な髪、紛れもなく神子であったが布都はどこかに違和感を覚えた。そう、耳当てである。神子は見慣れぬ紫色の耳当てを付けていた。布都の視線に気付いた神子が耳当てに軽く手を当て説明する。
「これは、屠自古が私にくれたものです。どうです? 中々お洒落でしょう」
「……ええ、とても良く似合っていますぞ」
神子はただ優しい表情で微笑み布都を見つめていたが、布都はそれだけで全てを見透かされ断罪されているかのような感覚に陥った。布都は神子が人の心を読む特別な力を持っていると信じていた。神子は自分の力を、声に含まれる微妙な調子や震えから感情を類推するという、人が誰しも持っている洞察力の延長線上にあるものであると説明していたが、布都は神子の説明を一種の謙遜と見なしていて、その能力の神性を疑っていなかった。
「怪我が無いようで何よりでございます。此度の戦勝、伝令より聞き及んでおります。物部の軍勢を壊滅状態に追い込んだとか」
豊聡耳神子の提案により民衆の支配のために都合の良い仏教を広めようとする蘇我氏と、神道をかかげ仏教を排斥せんとする物部氏の対立は日に日に深まっていたが、今回遂に次の天皇の擁立を巡って直接的な争いが起きたのだった。
「ああ、こちらにも甚大な被害が出たが物部氏の長、守屋殿は矢で射抜かれて討ち取られた。遺体は回収してあり、影武者の類でないことの確認も取れました。概ねこちらにとって理想的な結果と言えるでしょう」
「物部氏には守屋に匹敵する才覚をもった後継者はおりません。これで物部氏の凋落は時間の問題でしょう」
「随分と冷静ですね」
神子の視線が鋭く布都を射抜く。神子の浮かべていた微笑は消えていた。
「守屋殿は君の兄でしょう? とても仲睦まじかったと聞いていますが」
「物部氏は太子様の敵でございます。敵の死に動揺する者などおりません」
「そうではなくて、私が聞きたいのはあなた個人の事です。蘇我と物部両氏の対立だって元はといえば……。いえ、失言でした。もう下がって構いません」
神子の部屋を退出すると屠自古と鉢合わせした。布都が会釈をして通り過ぎようとすると神子の部屋に向かうだろうという布都の予想に反して屠自古は布都についてきた。
「お前大丈夫か?」
「何が?」
「お前の兄が死んだことだよ」
「何を今更。そもそもこの争いに火を付けたのは我だ。物部の連中を煽って廃仏の動きを激化させたのだからな。これでようやく太子様の時代が訪れるのだ、喜ばしいことではないか」
屠自古は何か言おうとして口を開いた。が、その言葉は虚空へ消え、行き場を失った吐息だけが場を漂った。
「そんなことより、あの耳当ては何だ?」
「太子様の耳は鋭敏すぎる。普通の人間の何十倍もの情報が太子様の耳に入ってくる、四六時中そんな状態では太子様の心も休まる暇がない。最近体調も優れないようだし私が献上したんだよ」
「そうか」
あんなもの必要ないのに。布都はそう言おうとしたが屠自古が激昂するのが目に見えたため自重した。布都は嘆息して空を見上げた、のだが途端に床の段差に躓いて転んでしまった。
「痛い」
「何してんだ。お前はしょっちゅう転ぶんだからいつも足元見て歩けって言ってるだろう」
「屠自古、痛いからおんぶしてくれ」
布都は屠自古に両手を広げてみせた。
「自分で歩け、馬鹿野郎。私は太子様の所へ行く用事があるんだ」
屠自古は来た道を戻っていった。行ったり来たり、最初から神子様に用事だったのなら、あやつは一体何のためにこちらに来たのか、と布都は首を傾げた。
その夜、床に就いた布都は夢を見た。夢の中で布都は物部の屋敷にいた。夢の舞台が蘇我氏と物部氏の対立がまだ決定的なものになる前、物部氏が年に一度開催する祭礼に布都が招待された時のことであると布都は理解していた。
酒宴の後、一族の者達が寝静まった頃に布都は床を抜け出して散歩していた。木の棒きれで地面に模様を描きながら、お気に入りの和歌なんかを口ずさんでぐるぐると屋敷の周りを一周している。途中宴の肴として催された余興の残骸が転がっているのが目に入った。十人ほどの死体である。彼らは物部氏に反抗的な態度を示したと判断された民衆の一部である。ここに連れて来られて、酒を飲む物部の一族に囃し立てられながら斬り刻まれていった者達。物部氏は獣の集まりだった。彼らが欲するのはいつも血と肉と憎悪で、彼らが戦に強かったのは彼らが戦を愛してやまなかったからという至極単純なものだった。
やがて模様を描き始めた地点に戻り円状の模様は閉じられた。布都は屋敷から持ち出した弓を背から外すと模様から離れた。姿勢を真っ直ぐに伸ばしてから脚を開き、身体の力を抜き深呼吸。矢筒から取り出した矢を番え、弓を握る腕を引きながらゆっくりと狙いを定める。数秒の後矢が弓を離れ、地に描かれた模様の窪みに突き刺さった。矢の先から模様が発光しだして次第に全体に広がっていき、模様から火柱が上がった。火柱は直ぐに模様の内部の物部氏の屋敷を火の海へと変えた。
「うむ、中々良い出来であるな」
布都は更に屋敷から距離をとり、燃え盛る火を眺めた。屋敷のあちこちから獣じみた悲鳴が上がるのが聞こえた。
「火は穢れを祓うというが、成程良く燃えるではないか。余程油が乗っていると見える」
火柱の中から転がり出る人影があった。火柱に物怖じせずに飛び出してきたらしい。火の燃え移った衣服を脱ごうと暴れている。火が人影の動きに合わせてゆらゆらと踊る。布都はその火めがけて弓を放った。一射目で人影は倒れる。まだ動いていたため二射目を放つと人影は完全に動かなくなった。
「布都」
背後から声がした。現実にはそこにいなかったはずの人。夢だから現れた人。布都は振り返らずに屋敷を見張ったまま口を開いた。
「兄上」
「どうしてこんな惨いことをするんだい? あそこには父上も母上もいるのに」
二人目の脱出者。今度は一射で急所を貫いた。
「奴らは太子様の敵です」
「布都はいい子だね」
布都より少し体温の低いひんやりとした手が布都の頭を撫でた。それはまだ子供だった布都を撫でてくれた物部守屋の手の感触だった。物部守屋は獣だらけの物部氏の中で唯一布都が心を許せる存在だった。
「布都は優しい子だね」
守屋の手が、物部の一族の蛮行を目前にした子供の頃の布都の目を遮り、犠牲者の悲鳴を聞かんとする布都の耳を塞いでくれた。
「布都は私達のようになってはいけないよ」
布都はそんな兄の手で撫でられるのが、まるで、守られてるみたいで、大好きだった。
「……それなのに、どうして」
突然その手が布都の髪を乱暴に掴み、引っ張った。痛みを堪えつつ布都が守屋の方に顔を向けると、心の臓を矢で射抜かれた骸が光の失われた瞳でこちらを凝視していた。その骸は上半身が燃えており、火が骸の腕を伝って布都に近付いていき、そして……。
夢から覚め、瞳を開いた布都の視界一杯に人の顔が映り込んだ。反射的に布都が上体を起こすと、当然の如く布都と邪仙の頭が勢い良く正面衝突した。
「おや、青娥殿か」
青娥は額を抑えて悶絶していたが、目尻に涙を浮かべながらも何とかいつもの作り笑いを浮かべた。
「随分と石頭ですね、布都様は」
「青娥殿の鍛え方が足りぬのではないか?」
「頭蓋骨の鍛え方があるのなら是非ともご教授願いたいものですわ」
「いつも言っておるが人の寝床に侵入するのはご遠慮願いたいのだが。自分の寝顔を見られるのはあまり気分の良いものではない」
「あら、あんな可愛らしい寝顔なのに」
青娥は意地の悪い表情で言った。彼女は霍青娥、邪仙だ。大陸から渡来し、いつの間にか豊聡耳神子の周りに頻繁に出没するようになり、布都と神子の道教の師匠、ということになっていた。最も彼女は極度の放任主義で、布都自身は彼女から何かを教わった覚えは無かったのだが。
「いくら可愛らしかろうが我はその顔を拝めぬしな」
「まあ、今日はちゃんとお知らせがあって参ったのですし勘弁してくださいな」
「お知らせ?」
「豊聡耳様が病に倒れました、このままではそう長くはないでしょう」
3.
「ご無事ですか、太子様!」
布都が神子の居室に駆けつけると、神子は寝具に横になり、その傍で屠自古が看病していた。屠自古が睨みつけてくる。静かにしろ、ということだろうと判断して布都は口をつぐんだ。神子の口や衣服に血の痕が残っており、吐血していたことが窺えた。
「ええ、今はもうだいぶ落ち着きました」
布都は屠自古の反対側に座ると、両手で神子の手を握った。
「随分と無理をされたようですね、豊聡耳様」
青娥が布都の背後から神子に話しかける。
「不老不死となるための研究で毒を呷るとは。一体何をそんなに焦っていらしたのかしら」
「すみません」
「不老不死?」
布都はつい大声を挙げてしまった。屠自古に視線を向けるとどうやら彼女も何も知らなかったらしく呆然とした顔をしていた。神子の代わりに青娥が答える。
「ええ、豊聡耳様は数年前から不老不死の法の研究をされていたのよ。どうやらその研究の過程で有毒な薬品に手を付けてしまったようですね」
「なぜ不老不死の法など……」
「その問いには私から直接答えましょう」
神子はそう言うと上体を起こした。
「私は常々、真に優れた王となるにはどうすればいいかを考えてきました。優れた為政者と呼ばれるようなどんな者達も、絶対的な治世を確立することはできなかった。どんなな仕組みや制度を取り入れても、彼らのもたらす秩序はもって精々数百年で新しいものへと取り換えられていった。彼らには何が足りなかったのかという疑問に対して私が導き出した答えは時間です。彼らの制度は彼ら自身が地を治めることを前提に作り上げられた制度で、時が過ぎ為政者が代替わりした時にその支柱たる存在が失われ制度は完全性を失う。だから崩れていく。私は、不老不死の法により絶対の王となるための資格を得ようと考えたのです。まあ結果はこの様ですがね。二人とも、私を愚か者と笑ってくれて構いませんよ」
自嘲するようにそう言った神子に屠自古がすかさず言葉を返す。
「そこまでの深いお考えからの行動を笑うことなど私にはできません」
「わ、我もですぞ」
布都は屠自古の言葉に慌てて追従した。
「さて青娥。二人に説明も済んだ所で今後の対応について我が師である貴女にお伺いしたい」
「そうですねえ。一番単純なのはその病を治す薬を作ることです。難しくは無いでしょうが時間は掛かりますし、薬を作っても所詮は対症療法に過ぎません。ここは一つ、肉体を捨ててみてはいかがかしら。肉体を捨てれば寿命なんて煩わしいものに縛られることも無くなりますし」
「具体的には?」
「私が知っている限りでは二つ方法があります。一つは、一度死した後、亡霊としてこの世に留まり続ける方法。道教の秘術を持ってすれば朽ち果てる前の死体さえあれば自在に亡霊を呼び出し、この世に定着させることができます。ある意味では不老不死に近い状態と言えるかもしれません。何せ既に死んでいるのですから老いも死も関係ありません。何でしたら、今夜にでも布都様のお兄様で実演して見せましょうか? 死に別れた兄妹の感動の再会も見れて一石二鳥ですよ」
屠自古が怒りを露わにし、雷の矢を出現させ青娥に向けた。
「貴様のその腐りきった性根、死なねば治らんようだな」
「あら怖い」
青娥は心底愉快そうな表情で髪に差していた壁抜けの鑿を手に取った。
「些細な冗談程度でいちいち噛みつくでない。今は話を聞く方が先決だ」
屠自古は布都の言葉に渋々矛先を収めた。それを見た神子が青娥に告げる。
「私の知識に誤りが無ければ亡霊は自らの死体に縛られ、それが弱点になるはずです。明確な弱点を作るのは望ましくありませんね」
「確かにその通りですね。では尸解の法はいかがかしら。一度死した後、魂を依り代となるモノに移し、そのモノを自らの新たな肉体へと変化させるという秘術。これならば復活までに百年程の時間が掛かりますが、亡霊のように肉体に囚われることなく、不老の肉体を手に入れることが出来ます。加えて仙人となることで豊聡耳様の力も一層強まるでしょう」
「……青娥、少し二人と相談したいので席を外して頂けますか」
「ええ、どうぞごゆっくり」
青娥は手に持っていた壁抜けの鑿を壁にかざし、円を描く。すると壁がねじれる様にして小さな円形の穴ができ、それが広がって人が通れる程の穴に成長した。青娥はその穴をくぐって部屋から出ていった。直ぐに今度は壁のねじれが解消していくかの様に穴が塞がっていく。完全に穴が閉じたのを確認し神子が口を開いた。
「二人は尸解についてどう思いますか」
神子の問いに最初に答えたのは屠自古だった。
「太子様の崇高な理念はしかと理解しました。そのために不老不死を目指すことに異論はございません。ただ私は、尸解の術とやらを用いることには賛同しかねます。一度死ぬということは太子様の御命を一時あの邪仙に預けるということ、あまりにも危険すぎます。邪仙が最初言ったように薬を作るのが先決かと」
「彼女に信用ならない所があるのは事実です。しかしこの件に限って言えば私は青娥を信用しても構わないと思っています。彼女の持つ一番の欲は強い力を自分の手で生み出すこと。私を尸解仙とすることは彼女の望みと一致しているはずです。布都はどう思いますか?」
「太子様が仰るのでしたら間違いありません。青娥殿は欲望に忠実な御方です、そういう意味では彼女の欲さえ理解しておけば手酷く裏切られはしないかと」
「尸解そのものについてはどうですか」
「分かりません」
「分からない?」
「不老不死など今日まで考えたこともありませんでした。しかし、太子様が必要と考えていらっしゃるのでしたら、それはきっと正しいのでしょうな」
「そうですか」
神子はしばしの間黙り込んで思案した。そして何度か躊躇うような素振りを見せた後に二人にこう尋ねた。
「布都、屠自古。もしも私があなた達二人に共に尸解仙となって欲しいと言ったら、あなた達はわたしについて来てくれますか?」
「無論です」
布都と屠自古は声を揃えて言った。
その夜、日付が変わろうかという頃、布都は神子の部屋を訪れた。屠自古から聞いた話によると傍にいることを許されず、追い出されたらしい。布都は神子の様子を確認するために屠自古から送り込まれたのであった。
「夜分遅くに申し訳ありません。少々お話したいことがあって参りました」
神子の部屋の扉の前で声を上げた布都だったが、それに対する返事は無かった。それどころか、布都が耳を澄ましても寝息一つ聞こえない。
「入りますぞ」
部屋の中には誰もいなかった。神子の寝かされていた布団に手を触れるとまだはっきりと体温が残っており、抜け出してまだそう時間が経っていないことが窺えた。
布都は部屋を出て辺りを探しに出た。布都は神子が最近屋敷の一角に庭園を造り、植物を育てる園芸とかいう趣味に耽っていたことを思い出し、その小さな庭園へと足を運んだ。
「太子様」
果たして神子はそこにいた。真っ白な寝具を身に纏ったまま庭園の地面にへたり込み、鉢に植えられた鮮やかな紫色の花を眺めていた。確か、桔梗という花だったか。水やりの名残なのだろうか、地面は濡れており、土は泥状になって神子の白い寝具を汚していた。足元には屠自古から送られた耳当てが放り投げられている。
「太子様」
返事は無かった。まるで布都の言葉など聞こえていないかのように無反応だった。布都が神子と出会って以来、このようなことは一度たりとも無かった。
「声が聞こえないんだ」
その言葉は一見すると花に語りかけているようで、神子が布都の存在を認識しているのかどうかは判然としなかった。神子は感情の欠落した声で続ける。
「病の影響か、私の耳はまともじゃなく、いや違うな、まともになってしまった。いつも耳の片隅に届く屋敷の中の人々の声や物音も、近くを飛ぶ鳥の鳴き声も、もう何も聞こえない。青娥や布都、屠自古の声を聴いても分からない、彼女らが何を望んでいるのか、何を考えているのか。もしかしたら布都も屠自古も表面は取り繕っていても、心の内では不老不死に手を出そうとして失敗した憐れな凡人と私のことを蔑んでいるのかもしれない」
布都は神子の言葉を遮らなかった。屠自古なら直ぐにそうしただろうが、布都にはできなかった。
「世界はこんなにも静かだったろうか、世界はこんなにも冷たかったろうか。怖い。私は青娥が怖い、布都が怖い、屠自古が怖い」
神子の身体からまるで呪詛のように言葉が流れ出ていく。
「いつも私は何かを恐れている。不老不死を望んだのだって本当はただ怖かったから。私は死ぬのが怖い。死んで私の為したこと、私の生きた証、私の存在が無かったことになるのが怖い。私は、私は……」
神子が布都の方へと振り返る。目と目が合う。神子の瞳はゆらゆらと揺らめいていた。
「……伝説になりたいのです」
それからしばらく、二人の間には沈黙のみが流れていた。神子はただ花を見つめ、布都はその神子の姿を見守っていた。布都は神子の背中はこんなにも華奢で小さかっただろうかと疑問に思った。その背中が不意に真っ直ぐ伸びたかと思うと神子はゆっくりと立ち上がった。
「見苦しい所をお見せしました」
「お召し物が汚れてしまいましたな。代わりのものを用意して参りますので神子様は部屋にお戻りください」
「ええ、お願いします」
「太子様、たとえ声が聞こえなくても自明なこともありましょう。太子様は王になるべき御方ですし、我も屠自古も太子様と同じ道を歩きたいと思っております、我には人を見極める才などありませんが、それ位は分かっているつもりです」
「すまない」
神子は地面に落ちていた耳当てを拾い自室へと戻って行った。その手からグシャグシャに潰れた花弁が零れ落ちていくのが見えた。
4.
その夜も布都は夢を見た。夢の中の布都は物部の屋敷で弓を手に的の前に立っていた。
「布都の動きは少し忙しなさ過ぎる。全ての所作の間に一呼吸置くことを意識してもう一度狙って御覧」
「兄上」
若かりし日の守屋が布都を見守っていた。布都は左足を前に出し、背筋を伸ばして重心の位置を固定する。守屋に言われた通りに深く息を一つ吸い込む。弦に矢を番え、弓を持つ左手に矢を軽く乗せる。右手に力を込めて弦を引きながら弓を持ち上げ布都の目線の位置まで矢を持ってきて狙いを定める。ゆっくりと息を吸い、吐き、一度瞳を閉じて弓の軌道を頭の中で予測する。瞳を開いて弓を放とうとする正にその直前に人の大声が布都の意識を邪魔した。弓は的を大きく外れ地面に突き刺さった。
「助けて!!」
聞き覚えの無い女の声だった。大方、物部の誰かが町から攫ってきたのだろう。
「布都は何も悪くないのだから、気に病んではいけないよ」
守屋が悲しそうな顔をして近づいてきて、布都の頭を軽く撫でた。懐かしい手の感触。その向こうで女性の叫びが響いている。
「さあ、もう一度。今度はきっと命中する」
布都はもう一度、今度は先程よりも更に時間を掛けて矢を放った。今度こそとばかりに矢は真っ直ぐに的に向かって飛んでいき、的を正確に射貫いた。見知らぬ女の叫び声は止み、代わりに見学に集まっていた観客たちの声が耳に入ってくる。
「いいかい、これは儀式なんだ。布都は物部の神事を取り仕切るという自分の役目を果たしただけ。だから布都は何も悪くない」
守屋の悲痛そうな声が布都にそう言い聞かせる。数人の男が心臓を矢で射抜かれた見知らぬ女を担ぎ上げて屋敷の外へと歩いていくのが見えた。守屋は再び布都の頭を撫でた。
布都は知っていた。守屋がその気になれば血を望む物部氏の蛮行を抑え込むことだってできることを。何せ守屋は物部氏の当主なのだから。それをしないのは、守屋が物部氏への恐怖が、民衆の効率的な支配に有効であると判断しているからだ。守屋は優しい人間だったが、一人の人間である前に支配者だった。物部氏とその傘下にある勢力及び彼らの支配する民衆を統率する義務があった。
獣ばかりの物部氏の中にあって、守屋の手は他のどの者の手よりもたくさんの血を浴びている。布都はそんな守屋の少し体温の低いひんやりとした手で撫でられるのが大好きだった。
そう、まるで、守られてるみたいで、大好きだった。
「おい起きろ」
布都は目を開いた。屠自古が布都の身体を揺すっていた。
「今度は屠自古か。二晩連続で寝床に侵入されるとは、我の貞操が危険に晒されておるな」
「何を馬鹿なこと言ってる。私に報告もせず爆睡しやがって。太子様の様子はどうだった?」
「特に何とも無いようでぐっすりと眠っておったよ」
「そうか、良かった」
屠自古の声から緊張が抜けていく。屠自古は深々と息を吐いた。
「なあ屠自古よ。尸解の儀について、お主に聞いておきたいことがあるのだが」
布都は身体を起こした。
「何だよ」
「お主は尸解の儀が怖ろしくはないのか? 衰えぬ肉体を手に入れるためとはいえ、一度死ぬのだぞ」
「怖いに決まってるだろう。でも、太子様がその道を進むと決めたのならば私もそれに従うまでだ」
「それが忠義か」
「太子様はああ見えて意外と寂しがり屋だからな。尸解仙として目覚めた時にせめて私だけでもついていてやらないと」
屠自古は微笑んだ。それは神子の話をしている時以外に彼女が布都に見せることの無い柔らかな笑みだった。
「何を言う、この我もおるではないか」
「お前なんかおまけだ、おまけ」
「我だって役に立てるもん」
「お前は太子様の料理を作れるのか?」
「う」
「太子様の事務仕事を手伝えるか?」
「うう」
「太子様の髪型を整えることができるか?」
「ううう」
屠自古は勝ち誇った表情で布都を見下ろした。
「我は邪魔なのか? 我は太子様に必要とされておらんのか」
布都の語調の余りの切実さに今度は屠自古はたじろいた。
「冗談だよ。太子様は私もお前も同じ位大事に思っているさ」
「さっきと言ってることが違うぞ」
「だからさっきのは冗談だって」
「屠自古はどうだ。我を必要としてくれておるか?」
屠自古は絶句し、布都から視線を逸らした。もじもじしている屠自古の顔を覗き込もうとすると屠自古は踵を返してドタドタと部屋から出ていった。
「いないよりはましだ馬鹿野郎」
それが屠自古の捨て台詞だった。
布都は身支度を整えると部屋を出て、青娥にあてがわれた部屋に出向いた。もっとも青娥はあちこちふらふらとしていることが多いのでその部屋に行けば会えるという保証は無かったのだが。
「青娥殿、おりますかな」
「入ってきて構いませんよ」
戸を開いた布都を待っていたのは、強烈な腐臭だった。思わず咳き込んでしまう。どうせ部屋に入るのなら鼻を慣らしてしまった方が良いと布都は敢えて息を吸い、意を決して中に踏み込む。部屋の中は毒々しい色をした薬品、何かの動物の頭骸骨、等身大の人体の解剖図など怪しげかつ雑多な物で溢れ返っていた。
「この匂いは何だ」
「うふふ、どうですこの子、腐っていて可愛いでしょう」
青娥は地面に転がっている物体を指差した。それは、死体だった。何十本もの箸くらいの大きさの針が頭に突き刺さっており、その先には顔がほぼ見えなくなるほどの密度で札が張られている。札の奥から呻き声みたいなものがかすかに聞こえる。じっくりと観察すると死体の腐った手が微かに地面から浮いている。死体の指が曲げたり伸ばしたりを繰り返し、その度に関節付近の傷口がパクパクと開閉した。傷口が開く度に中から蛆虫が湧き出ている。
「この死体はどこから?」
「先の戦で回収されたものを頂いたものですよ。あ、守屋様の死体ではありませんからご安心を。屠自古様の雷が怖いのでやめておきました」
「死体を動かす術か」
「ええ、まだまだ開発中ですがね。頭に取り付けた御札に命令を書き込んでおいてそれが必要に応じてこの針を通して脳に刺激を送り込み身体を動かすという仕組みです」
布都が人差し指を死体の手に近付けると死体が反応して布都の指を掴んだ。腐ったもの特有のぐにゃりとした感触が手を包む。
「これまた面妖な術を作ったものだ」
「珍しいですわね、布都様が私に会いに来て下さるなんて」
「太子様は尸解の儀をお受けになるそうだ」
「それは朗報ですわね。早速準備を始めておきますわ」
布都は青娥の様子を観察する。心から喜んでいる様子に見えた。しかしそれが本当だからといってそれが神子を裏切らないとする根拠にはなり得ない、と布都は理解していた。
「それと尸解の儀とやら、我と屠自古も受けたいのだが、それは可能か」
「ええもちろん。私の方は最初からそのつもりでしたし」
「ではよろしく頼む。それと太子様の体調が優れない故、我の方から尸解の細かい条件などについていくつか伺っておきたいのだが。まず我々はその尸解の儀までに何を準備すればよい?」
「尸解の儀には死後に自身の魂の器となる依り代が必要となります。三人には依り代となる物を用意して頂きます。依り代となる物には肉体の代わりとして長期にわたって朽ちない物、それと相応の格が必要になります。そこらの工芸品などではなくその道を極めた者の一作でなければなりません」
「朽ちぬものか。もしその物がどこか欠けていて不完全だったり、十分な強度や耐久性が無い場合はどうなるのだ」
「何も起こりません。尸解の儀は魂を依り代に移す儀式なのですから適切な器が無ければ術自体発動せず空振りに終わります」
「ふむ」
「後は二重底の棺を三人分用意してください。尸解の儀は二重底の一段目に人を入れ、二段目に依り代を入れた状態で行うのが一般的な方法ですので」
「用意させよう。次の質問だが、尸解の儀を我が覚えて執り行うことは可能か?」
「私が信用できないから豊聡耳様の尸解の儀を布都様がその手で行いたい、そういう事ですね?」
疑いを露わにされても青娥はまるで気に留めていないようだった。
「残念ながら、尸解の術は仙術の中でも深淵に位置する秘術です。まだ道教の修業を行い始めて日の浅い布都様では豊聡耳様の身体が限界を迎えるまでに扱えるようになるのは難しいかと」
「仕方あるまいな。しかしせめて知識だけでも身につけておきたい」
「分かりました。尸解の術について書かれた巻物がございますのであなたにお渡ししておきますよ。そこに凡そのことは書かれています」
青娥は懐から古びた巻物を取り出すと布都に渡した。
「最後に一つ、我は自分の分の依り代は自分の手で作りたいのだが構わんだろうか」
「私の話聞いていましたか? それなりの逸品が必要だと……」
「それは問題無い。我はこう見えても陶芸については一流の腕を持っておるのだ。陶芸の道こそ我が太子様に勝る唯一の部分と言える。太子様も美的感覚だけは人並み以下……もとい凡人の先を行き過ぎて中々理解されないからな。とにかく、今度完成品を青娥殿に見せることにしよう。それで使えそうかどうか判断してくれ」
「まあ見るだけなら。しかし、何故そんな面倒臭いことを」
「後々自分の肉体になるものだからな、我にはそれを他人の手に任せる気にはならん。一世一代の作品を作り上げてみせる故、青娥殿は楽しみに待っておれ」
「はあ」
嬉々として走り去っていく布都の後ろ姿を見つめながら青娥は呆れたような表情で首を傾げた。
5.
神子達三人の協議の結果、屠自古、布都、神子の順に尸解の儀を行うことになった。屠自古と布都は実験台となり尸解が無事に進むかを確認し、成功が確認でき次第神子が後に続く。屠自古が自分の番を神子より後にして、青娥が神子に何かしないか見張ろうと提案したが、結局最終的には三人とも眠りに就き青娥に対して無防備な状態になるので疑うだけ無駄という結論に達した。
時は過ぎ、屠自古の尸解の予定まで残り数日となった。布都は自室に籠って尸解の依り代とするための陶芸品を作っていたのだが、そこに青娥が様子を見に訪れた。
「調子はどうですか」
布都はろくろを使って成型を行っている所だった。一本の支柱に二つの円盤がついており、下の方の円盤を足で蹴ると連動して上の円盤が回る。上の円盤に乗せた粘土を回転させながら手で形を整えていくことによって皿の綺麗な円形が形作られていく。
「わざわざ壁抜けの術を使って入って来ずとも扉から入れば良かろうに」
「音を立てて入って集中を乱してしまうのも悪いかと思いまして」
「音も無く忍び寄られるのもかなり集中を乱されるのだが。完成品はまだだが、既に近くの工房の竈を借りて試作品を焼いておるのでそれを見せよう。そこの棚に大きな木箱があるであろう、それの中身を見てくれ」
青娥は指示通りに木箱を取り出して蓋を開き、皿を取り出して眺めた。
「綺麗……」
青娥は思わず呟いた。それは平皿で、白を基調としたごく単純なものだったが、縁から墨を垂らしたかのような黒が流線型の模様を描いている。その黒は完全な黒ではなく濃淡があり、縁に近付くほどに濃くなっていた。青娥は正直の所、布都の言葉は過剰な自信から来たものだと考えていたので、予想外に素人離れしたものが出てきて不意をつかれた形になった。
「ふふん、中々良い出来であろう? 久し振りで腕が鈍っていないかと不安だったが無用な心配だったわ。で、どうだ。使えそうか?」
布都は作業を中断して自慢気な表情で問い掛けた。
「布都様は確か石上神宮の斎宮をされていたとか」
「ああ、昔の話だがな」
「かつて神に仕えていた者の手による作品、それにこの出来栄え、尸解の依り代としての格は十分でしょうね」
「当然の結果だな」
言葉とは裏腹に布都は今にも小躍りしそうな勢いで喜んでいた。
「でも折角ならもっと鮮やかな色にすれば良かったのに」
「青娥殿は確かに極彩色という感じがするな」
「何の話ですか?」
「む、手が汚れておるな」
布都は粘土で汚れた自分の手を見つめ、服の袖で拭おうとした。青娥が慌ててそれを制する。
「布都様、お召し物に泥を付けちゃ駄目です」
青娥に止められて布都は床に落ちていた手拭いを拾い上げると手を拭いた。
「しばし待っておれ」
布都は青娥を待たせて奥の部屋に消えていった。しばらくして戻って来た布都の手には瑠璃色の小皿が握られていた。
「何ですかそれは」
「青娥殿にあげようと思ってな」
「いりません」
「遠慮するでない、どうせ失敗作だしな」
布都は無理矢理青娥の手に小皿を持たせた。
「失敗作を押し付けないでくれます?」
「そういえば、屠自古が依り代に選んだ壺を見たか? あのださい壺。そんなださい壺を使うなら我がもっといい壺を焼いてやろうと言ったのだが屠自古の奴が急に怒り出してのう。全く、人の親切心が分からぬ奴だ」
布都には他人の話を聞かずに自分の言いたいことだけを喋る癖があった。布都との会話に疲労感を覚えた青娥は話を早々に切り上げ、部屋から出ていった。
布都は作業用に身に着けていた服を脱ぎいつもの正装に着替えた。化粧台の前に座り鏡を見ながら髪を結ったり、衣装に付いている紐を締めたりしながら独り呟いた。
「我は、間違っているのかな」
聞くまでもない。我はいつも、最初から間違っているのだから。布都は目を閉じて自嘲する。
――布都は何も悪くないのだから、気に病んではいけないよ――
布都の耳に囁く声がする。
「死者が喋りかけるでない」
――布都は優しい子だね――
「うるさい」
――布都は私達のようになってはいけないよ――
「うるさい!」
布都が目を開くと、一瞬そこに死者の顔が浮かんでいるような気がして、布都は拳を目の前の鏡に叩き付けた。鏡を伝って手から流れ出た血が垂れる。疼くような鈍い痛みを感じてからそれが鏡に映る自分の顔であったことに気付いた。
木箱を抱えて部屋を出た布都は屠自古と鉢合わせした。
「おう布都。その箱は何だ?」
「これは我の尸解に用いる皿だ。青娥殿のお墨付きを貰ったので今から運び込んでおこうと思ってな」
尸解の儀は近年、神子が戦死した蘇我の縁者を祀るために建立した廟で行うことになっており布都はそこに向かっていた。
「お前その手、怪我してるのか」
屠自古の視線の先には応急処置として布を巻いた布都の右手があった。見ると血が滲んでいる。
「皮膚が少々裂けただけだ」
「また転んだのか」
「転んどらんわ」
布都は屠自古のお説教が始まりそうな気配を感じて歩き出す。屠自古の姿が消えたのを確認して再び前を向くと、通路の欄干に一羽の鴉が留まっていた。鴉は真っ黒な瞳で布都を眺めながら、ギャアギャアと大きな声で鳴く。布都は足早に鴉の横を通り過ぎる。不思議なことに、その鴉は布都が手の届きそうな距離まで近づいても逃げ出さず、鳴くのを止めなかった。布都は不吉な思いに捉われつつ廟へと急ぐ。鴉一匹で揺らぎそうになる自分の決心が何よりも疎ましかった。
6.
屠自古の尸解の日、青娥、神子、布都、屠自古の四人は廟に集まった。
「さ、屠自古様。こちらの薬をお飲みください」
青娥が屠自古に薬の入った茶器を差し出した。屠自古はそれを手に取って、くんくんと匂いを嗅ぐ。訝しげな表情で青娥を睨みつけつつ訊ねた。
「これは?」
「ただの眠り薬ですよ。それを飲んだら半刻程で深い眠りに落ちます。そして屠自古様が眠っていらっしゃる間に尸解の儀を行います」
屠自古が尚も不安気な表情で神子に視線を送ると、神子は微笑んで大丈夫と言わんばかりに強く頷く。屠自古は意を決して一気に薬を飲み干した。
「さて、これから屠自古様にはこの棺に入って眠って頂きます。これにてしばしのお別れになりますので、別れの挨拶は済ませておいてくださいね」
「太子様」
屠自古が神子を呼ぶ。
「辛い役目を押し付けてしまってすみません。私はあなたが一番手として名乗り出てくれたこと、主として誇りに思っています」
「ありがたいお言葉。ですが太子様、この後に物部との会談があるのでしょう。物部との決着は尸解の前に着けておかねばなりません。私などに構わず早くそちらに向かってください。それが聖徳王としての生前の最後の仕事になるのですから、ビシッと決めてきてください」
神子は少しだけ寂しそうな表情を浮かべたが、気丈に言葉を返した。
「ええ、任せてください」
「行ってらっしゃい、太子様」
「行ってきます、屠自古」
そう言い残して神子は踵を返し振り返らずに廟を出ていった。それきり黙り込んでしまった屠自古に青娥がニヤニヤと笑いながら声を掛ける。
「屠自古様、私には何かありませんの?」
「妙な真似したら承知しねえぞ、この邪仙が。例えお前の所為で蘇られなかろうと化けてお前をぶち殺してやるからな」
「ふふ、相も変わらず手厳しいこと」
屠自古が布都の方に顔を向けた。布都は屠自古に笑いかけた。
「成功を祈っておるぞ」
「布都、お前にずっと言いたかったことがある」
「愛の告白か? 残念ながら我には太子様という心に決めた御方が……」
「私はずっとお前が嫌いだった」
「ええ!?」
「見当違いの当て推量で自信満々に指摘してくるところが嫌いだ。腹に一物抱えてそうな顔して何も言わないところが嫌いだ。後先考えずに行動するところが嫌いだ。人の話をてんで聞かないところが嫌いだ。時々突拍子も無いことを言い出すところが嫌いだ。太子様に迷惑かけてばかりいるところが嫌いだ。その癖太子様にえらく気に入られてるところも嫌いだ。行き先を告げずに外出するところが嫌いだ。直ぐに転ぶところが嫌いだ。人の料理を黙々とかきこむように食べるところが嫌いだ。服を泥やら何やらで汚してくるところが嫌いだ。朝起こしても中々起きないところが嫌いだ。その癖毎日のように昼寝しているところも嫌いだ。でもな、一番嫌いなのは……」
屠自古はそこまで一息に言ってから息を吸い、続ける。
「太子様を神様みたいに崇めているところだ」
屠自古の手が布都の肩を掴む。薬の所為かその力は弱々しかった。
「太子様は人間だよ。太子様がどれだけ優れていようと、超人的な耳を持っていようと太子様だって人の腹から生まれた一人の人間なんだ。民衆が神の子と太子様をもてはやしても、他の豪族たちが太子様を畏れ敬っても、私と布都だけはそれを分かっていなきゃいけない。分かった上で傍にいなきゃいけないんだ」
「分かっておる。随分と時間が掛かってしまったが、ようやく少しだけ、我にも分かってきたのだ」
「そうか、なら良い。これから少しの間だが太子様の傍にいるのはお前だけになる。太子様のことを頼んだぞ」
「ああ」
屠自古の手が布都から離れる。屠自古はふらふらとした足取りで棺に近付き、その中に身体を沈めた。
「眠くなってきたからもう棺を閉じていいぞ」
「布都様、屠自古様の壺を持ってきてください」
青娥は布都に指示すると二重底の棺の二段目の底となる板を持ち上げ、屠自古の鼻先くらいにある木枠に嵌めこんだ。布都が壺を持ってきてその上に乗せる。青娥は棺の蓋を閉めた。
「始めましょうか、屠自古様少し揺れますが暴れたりしないでくださいね」
青娥と布都は棺から離れる。青娥が呪文のような文言を口にするとゆっくりと棺が持ち上がっていく。棺は布都の腰の位置位まで持ち上がったところで静止し、天井、壁、床のあちこちに張られた御札が次々に棺めがけて飛来していく。最終的に棺の木材が覆い尽くされて見えなくなる程に御札が張り付き、棺はゆっくりと地面に下降した。
棺に張られた札が無秩序に光ったり、消えたりを繰り返している。その札の一つ一つに複雑な術式が編み込まれているらしい。
「これで後は待つだけです。準備は凄く面倒くさいのに本番はあっという間ね」
青娥はそう言うと身を翻して何処かへ去っていった。
「すまなんだ、屠自古」
布都も青娥の後を追って廟から出た。
儀式の頃は高くにあった日が沈み、夜が訪れた。布都は屋敷の人間に目撃されないよう注意しつつ廟へと忍び込んだ。屠自古の入った棺が昼と変わらぬ様子でそこにある。相変わらず張り付いた御札が蛍のような淡い光を発していた。
「おかしい、どういうことだ」
布都は光に浮き上がる御札に書かれた文字を目で追い、確かにそれが尸解の術の一部であることを確認した。
「あら布都様。どうかされましたか」
背後から青娥の声が聞こえた。
「……屠自古の様子を見に来たのだ」
布都は動揺を声に滲ませぬよう押し殺し、振り向いて青娥に問い掛ける。
「屠自古の尸解は上手くいっておるかな」
「それはもう。私の術は完璧ですもの」
「それは良かった」
「布都様、何をそんなに驚いていらっしゃるの?」
青娥がいたずらっぽい微笑を浮かべ聞いてくる。
「我は……」
「もしかして、どうして屠自古様の尸解が止まっていないのかと思ってらして?」
青娥は相変わらず笑っていたが、その眼だけは冷たく布都を見下ろしていた。二人の間に緊張が走る。
「実はこの前布都様に尸解について教えた時、一つ覚え間違いで誤りを教えてしまいましたの。尸解の依り代が不適切なものであった場合どうなるか。尸解の術を扱うのは久し振りだったし、布都様に渡した巻物にも失敗の場合については書かれていなかったでしょ。だからつい、ね」
わざとらしい嘘。青娥は布都の横を素通りし屠自古の棺の前に立ち、続ける。
「尸解の依り代が不適切なものであった場合何も起きないと言いましたが、実際は尸解する人間の魂が肉体を抜け出た後、器を見つけられずにそのまま死んでしまうんです」
青娥の腕が屠自古の棺に触れた。すると、青娥の手の位置にある御札がぼろぼろと崩れて床に落ちていき、そこから波及するかのように周囲の御札も崩れ落ちていき、紙吹雪の積雪に埋もれた剥きだしの棺が現われた。青娥はその蓋に手を掛けて、棺を開いた。
棺にあったのは朽ちた壺だった。壺といっても、辛うじて原形を留めている程度で、触れれば直ぐにでもただの土くれに戻りそうな有様だった。
「可哀想な屠自古様。布都様ったら自分の尸解の依り代を作ると言っておきながら屠自古様の壺を作っていらしたのね。異物でも混ぜたか、ちゃんと焼成しなかったか、とにかく屠自古様の壺に似せた強度が不十分な紛い物の壺を作って本物とすり替えた。そして屠自古様の尸解を失敗させ、その咎を口実に豊聡耳様の留守中に布都様の独断で私を処分、といった感じでしょうか。目的は、私の排除、いえ豊聡耳様の尸解の阻止ですか」
「ああ、その通りだ」
「どうしてですか? 尸解仙になれば寿命を気にする必要は無くなりますし、それこそあなたが太子様に求めていた超人的な力だって手に入るのに」
「青娥殿が信用できぬからだ」
「嘘ばっかり。布都様はいつもそうなのですね。たまには本音を曝け出してみては? 豊聡耳様も仰っていましたよ、布都様は本当のことを言ってくれないと」
布都は服の裾に隠し持っていた短剣を握りしめる。
「太子様の力を信じる者は大体二種類に分けられます。一つは太子様の力を怖れ、太子様から離れていく者、もう一つは太子様に心を全てさらけだし、太子様に忠誠を誓うもの。でもあなたは違う、太子様の神性を信じながら平気で嘘をつく。物部氏と蘇我氏の争いの火種となった放火事件を独断で起こしながら太子様の前ではそれを黙して語らない」
「言葉などという空虚なものに頼らずとも、太子様なら全て承知してくださる」
布都は優しい子だね、布都は何も悪くない、そう何度も布都に言い聞かせた男にぽっかりと空いた虚を布都は知っていた。
「言葉が虚ろなのは布都様がいつも言葉を裏切っているからではなくて?」
布都は反論することができなかった。
「なぜ青娥殿は私の企みに気付いていながらそれを阻止しなかった。結果的には屠自古の尸解は失敗している以上、太子様の尸解も中止されるはず。青娥殿の目的は太子様を尸解仙とすることではなかったのか」
青娥は満面の笑みを浮かべた。その笑顔はいつもの胡散臭い作り笑いではなく心の底からの笑みであるように布都には思われた。
「私は即物的な女ですから、目の前に美味しそうな餌を垂らされて我慢できずに飛びついてしまったんですよ。私は見たかった。最も親しくしていた人を自らの手で殺める、布都様の表情を。素晴らしかったですよ、思わずゾクゾクしてしまいました」
布都は自分が青娥のことを見誤っていたのだと悟った。
「青娥殿はこれからどうするつもりだ?」
「もうここにいる理由もありませんし、またふらふらと面白いものを探す旅にでも出ますよ。豊聡耳様のことは少し残念でしたけれども、世界には他にもいくらでも楽しいことがありますからね。そういう訳でもう豊聡耳様に干渉するつもりはありませんから、その隠し持っている短剣で私の刺すのはご勘弁を。それではさよなら、布都様」
青娥は軽やかな足取りで布都から離れていく。自由奔放な彼女の後姿を布都は一瞬だけ眩しく思った。布都は自分の望みが既に絶たれたことを痛感し、次にどうするべきか思考を巡らす。
「待たれよ」
振り向いた青娥の顔には何の感情も浮かんでいない。その無関心さを見て布都は青娥の中で自分が既に“終わった人間”であることを理解した。
「何ですか?」
「我と取引をせぬか」
7.
数日後、屠自古の眠る廟にて布都は青娥から受け取った眠り薬を飲み、棺に横になっていた。
「布都様、気分は如何ですか?」
青娥が顔を覗かせる。
「最悪と言っておこう」
布都は仏頂面で返事をした。
「眠ってしまえばあっという間ですよ」
屠自古の尸解が失敗に終わったあの日。布都は青娥に取引を持ちかけ、青娥はその条件を飲んだ。手始めに二人は崩れ落ちた偽の壺を片付け、本物の屠自古の壺を棺に入れ直して御札を新しく貼った。次に神子が物部氏との会談より帰還したところで布都は神子に屠自古の尸解が成功したと告げた。布都の報告を聞いて神子は胸を撫で下ろしていた。そうして従来の予定通り、屠自古に続き布都が尸解を行う運びとなったのだ。
「結局、我のしたことは何の意味も無かったということか」
神子の尸解を中断させない代わりに布都が青娥に提示した条件は、青娥が最初に尸解の儀式を提案したときに話していた、死者を亡霊としてこの世に留める秘術とやらを用いて屠自古を亡霊にすることだった。
「屠自古が尸解仙ではなく亡霊となり、我には屠自古を殺したという罪が一つ増えただけとは。本当に情けない大馬鹿者だな、我は」
「罪なんて人の頭の中にしか存在しないただの概念ですし、そんなの気にするだけ無駄だと私は思いますけどねえ。同じ頭の中にあるものなら、喜怒哀楽に身を任せた方がずっと健全ですよ」
「青娥殿は強いな」
「そろそろ尸解の準備をしてきますわ」
「待って」
青娥は首を傾げる。
「我が眠りにつくまで、傍にいてくれんか?」
きょとんとした青娥の顔を見て布都は笑った。
「お主が動揺しているのを初めて見た気がするな」
「なぜそんなことを……」
「不安だからだ。今も手が震えそうになっているのを必死で堪えている。だが青娥殿が傍にいてくれたら心強い」
「そういうのは信頼している相手に頼むものではなくて?」
「信じているに決まっておる。そうでなければこうして青娥殿に自分の命を預けるはずが無かろう」
「布都様は歪んでいます」
「青娥殿程ではないさ」
「死ぬことが不安なのですか、それとも蘇ることが不安なのですか?」
「両方だ。我は死ぬのが怖いし、死なないのも怖い」
布都は棺の中から外へと右手を伸ばした。
「どうかしました?」
「お主、意外に鈍いな。この状況だったら一つしか無いであろう。手を握ってくれ」
沈黙。青娥の顔が引っ込んで棺の中から見えなくなった。
「……布都様はやっぱり歪んでいます」
「青娥殿程ではないさ」
棺の縁から手が伸びてきて、おずおずと布都の手を握った。掴み方はぞんざいで、まるで人の手の握り方が分からないかのようだった。その手が今にも逃げ出していきそうだったので布都の方から力を込めて手を握り返し、自分の腹の辺りに手を置いた。
「青娥殿の手はひんやりしていて気持ちいいな」
布都は瞳を閉じて自分の心臓の鼓動に耳を澄ませた。少しずつ鼓動の間隔が長くなっているような気がした。
「そう言えば、布都様は寝顔を見られるのが嫌だったのでは」
「そうだったな。では、寝顔は見ないようにしてくれ」
「寝るまで傍にいろ、寝顔は見るなと言われましても無茶な話です」
青娥の声が段々と遠のいていく。布都は自分の意識が無意識に呑み込まれる瞬間をただ待っていた。
申し訳ありません、太子様。済まない、屠自古。
薄れていく意識の中で布都は二人に懺悔した。自分の我が儘で二人の大事な人の意思を曲げようとしたことを、結果的に屠自古の命を奪ってしまったことを。布都は死ぬことを怖れていた。仏教徒の信じるところの仏があの忌々しいニヤケ面で自分のことを待ち構えていると考えただけでも震えが止まらなかった。布都は死なないことを怖れていた。永遠に生き続けるには自分の身体にこびりついた罪という名の汚泥は些か重過ぎた。清めても洗い流せない程に穢れは布都の身体の芯まで染み込んでいた。
そんな布都が望んだのは、布都と屠自古と神子の三人が普通に生きて普通に死ぬことだった。神子がごく普通の為政者として、屠自古がごく普通の為政者の妻として、布都がごく普通の為政者の側近として生き、死ぬ、そういう当たり前みたいな未来だった。
青娥の話によれば別に尸解などしなくても神子の身体を治す薬は作れるのだからそれで良いではないか、そんな考えから尸解の儀式を妨害して止めさせようとしたのだが、結果的に屠自古を死なせてしまった。望みを絶たれた布都は三人で普通に生きて普通に死ぬことが叶わぬならば、せめて三人で永らえようと思い青娥に取引を持ちかけたのだ。
青娥の姿を見ている内に泥に身を包んで生き続ける、彼女のような生き方も悪くないかもしれないと思えた。青娥と自分は全然違う人間であると分かってはいたが、それでも彼女と自分は同じ穴の貉であるという親しみが感じられた。神子の前に現れたのがもし邪仙青娥でなく普通の仙人だったなら、自分は尸解仙になる気にはならなかっただろう。青娥に礼を言っておこうと口を開こうとしたが、もはや言葉を発せられる状態ではないことに気付く。
太子様、心の中で布都は呼び掛ける。尸解仙として蘇り、真の王として君臨する。神子の選んだ道には多くの困難が付き纏うだろう。時には膝を屈しそうになることもあるかもしれない。彼女の力であまねく全ての民の声を聞き届けようとするならば、その余りの重さに押し潰されそうになることもあるかもしれない。屠自古に、あるいは神子自身に教えられたように、聖徳王とて一人の人間なのだから。その時には屠自古と共に神子の身体を支えよう。いつかの夜のように彼女がその手に握る紫色の花が潰れてしまわないように。今までのようにただ突っ走るのではなく傍に立つのだ、そう布都は決意した。それが太子様の道を阻もうとした自分にできる唯一の贖罪なのだから。
だから、いつかまた逢う日には、その時にはどうか、われにおまかせを。
物部布都は急いでいた。千四百年にわたる長い眠りから目覚め、寝ぼけ眼の内に紅白の巫女と交戦し、あっさりと敗北したところであった布都は神子に廟への敵の侵入を伝えるために駆けていた。
「……お前、……か」
そんな布都の耳に風に紛れて断片的に声が流れ込んできた。布都は立ち止り、声の発生源である頭上に目を向け、問う。
「誰ぞ」
霊廟の天井に人影が蠢いていた。人影には脚がなく、そこにはぼんやりと煙のように漂うエクトプラズムがあるのみだった。
「ふむ、亡霊の類か。大方復活した太子様に憑りつこうとでもしておったのだろうが、残念だったな。亡霊などこの我が物部の秘術をもってして調伏……って、ひゃあ!?」
喋っている途中で亡霊は布都に組み付いてきた。
「奇襲とは卑怯だぞ、この亡霊風情が」
「布都!」
「む?」
亡霊の声に聞き覚えがあることに気付く。よくよく見ればその人影はかつて布都と共に豊聡耳神子に仕えていた蘇我屠自古であった。組み付かれたように思ったのは単に抱きつかれただけだったらしい。
「なんだ屠自古か」
「なんだじゃない馬鹿。お前自分が何年眠っていたと思ってる。千四百年だぞ、千四百年。太子様もお前ももう起きないんじゃないかって、私は、ずっと、一人で、不安で……」
痛みを感じる程に強く布都の身体が締め付けられる。布都は微かに震えている屠自古の肩をポンポンと叩く。
「情けないぞ、屠自古よ。我はともかく太子様が失敗されるはずが無かろう。仏教徒共に封印されていた所為で少し復活が遅れただけだ」
「ずっと待ってた私からしたら少しじゃないんだよ。それに実際私は失敗して怨霊になったんだ。不安になるのも仕方ないじゃないか」
「屠自古、無駄話はこれ位にして太子様の下へ向かうぞ。太子様も我と同様復活したてで力を十全には発揮できない状態であろう、敵より早く到着して加勢せねば」
布都は屠自古から身体を離し、再び駆け出した。太子様の下に集まる低俗霊たちの軌跡を頼りに進んで行く。その後ろをふよふよと屠自古が浮遊しながら追従した。
「おい、布都」
やけに不愛想でつっけんどんな調子で屠自古が喋りかけてきた。見れば屠自古の顔がほんのりと紅潮している。先程柄でもなく布都に抱きついたのが今になって恥ずかしくなったらしい。不愛想すぎるくらいの方が屠自古らしいと布都は思った。
「お前と太子の尸解は成功したんだよな」
「無論だ」
「じゃあなぜ私の尸解が失敗したか、お前は何か知っているか? 私はどうやら誰かに謀られたらしい。私の壺が何か脆い物にすり替えられていてそれが失敗の原因となったようなんだが」
「青娥殿からは何も聞いておらぬのか」
布都は屠自古の瞳の奥を覗き込みながら訊ねた。
「いや、私が意識を取り戻して以来、青娥の奴は一度も私の前に現れてない。待て、ここで奴の話が出て来るってことはやっぱりあいつが何かしでかしたんだな」
屠自古の目がみるみる怒りの色に沈んでいく。敵襲が無ければ今にも青娥をぶちのめしに行きそうな勢いだった。屠自古は昔から布都と神子の道教修行の師匠にあたる仙人、霍青娥を毛嫌いしてる節があった。まあ常時全身から匂い立つ程の胡散臭さを発散させているような御方だから無理もないが、そう布都は思った。
「お主の尸解の失敗にはやむを得ない事情があったのだ。青娥殿を責めるでない」
「事情?」
「お主の尸解の数日前、お主が尸解の依り代として選んだ壺、あのだっさい壺を我が廟へと運んでいる時にそれは起こった」
「あれは蘇我の一族に代々伝わる家宝だぞ、それをださいなどと……」
「思えばその日は朝から不吉であった。我が身だしなみを整えておる時に自室の鏡が割れたのだ。知っておるか、鏡が割れるのは数ある不幸の前兆の中でも指折りのものなのだ。それだけでは無い。我が廟へと壺を運んでいる最中に、一羽の鴉が通路の欄干に留まり狂ったように鳴きおった。これもまた不吉の象徴であった。我は嫌な予感がして足早に霊廟へと向かった。そして……」
布都は一拍置き、続ける。
「壺を落としてしまったのだ」
「は?」
「いや、その、鴉が急に飛び立ったから驚いてな」
屠自古の髪が逆立ち、バチバチと雷光が辺りに飛び交い始めた所で布都は自らの命の危険を覚え、立ち止る。先程まで青娥に向けられていた怒りを数倍に増幅させた激情が今、真っ直ぐに布都に向けられている。その生前以上の気迫にさすがは怨霊、と布都は感心したが、今はこの状況を打開することに全神経を使うべきであることに気付き、話を続ける。
「待て待て、話はまだ終わっておらぬぞ」
「取り敢えず、最後まで話は聞いてやる」
「壺は見事に割れておった。尸解に使う依り代には相応の格が必要である故、代わりのものを用意するのは容易ではない。そこで我はこう考えた。屠自古の壺を我が作ろうと。お主も知っているであろう? 我が一流の陶芸の腕を持っておることを。我は自分の尸解に用いる皿を作るのを中断しお主の為に新しい壺を作り始めた」
布都は“お主の為に”という部分をこれでもかという位強調した。
「我の類稀なる芸術的感性によりあのださい壺よりもはるかに素晴らしい造形が出来上がった。その繊細かつ大胆な意匠は大陸の名工達の逸品と比較しても遜色ない出来であった。しかし、そこで問題が一つ浮上した。つまり尸解の直前になっても造形までしか終わっていなかったのだ」
屠自古の指から一筋の雷が地面に落ち、轟音が霊廟に響き渡った。布都は震えあがる。
「焼成には乾燥させた壺をそのまま焼く素焼きと釉薬を塗って焼く本焼きがあるが、どちらも半日はかかる手順で、尸解の儀の開始時刻を考えると素焼きの途中までしか終わらん。悪化していた太子様の体調を慮れば尸解の儀を遅らせる訳にもいかぬ。致し方なく我は生焼けの壺をお主の割れた壺と取り換え尸解の儀に臨んだのだ」
「何か、言い残すことはあるか」
屠自古の操る無数の雷の矢が一斉に布都に向く。
「待て、そんなもの喰らったら死んでしまうではないか。力及ばず壺を完成させられなかったことは謝ろう。しかし我は手を打ち、全力を尽くした。それに生焼けとはいえ強度は十分にあったし、大丈夫だと思ったのだ」
「一遍死んどけえ!!」
布都の意識は飛来する稲光に包まれ消え去った。
布都が目を覚ますと屠自古の背におぶさって霊廟をふわふわと飛んでいた。布都は屠自古に問う。
「我はどの位気絶していた」
「ほんの数分だよ」
「太子様は?」
「もう直ぐだ。恥ずかしいから太子様の前では自分で立てよ」
「うん」
布都は淡く発光しながら霊廟を漂う低俗霊達をぼんやりと眺めながら考える。こやつ等は太子様に聞き入れて貰おうと集まる欲望達。さながら光に引き寄せられた羽虫といった所だが、我もその内の一匹に過ぎないのだろうか、と。
「屠自古」
「何だよ」
「すまなんだ」
屠自古は何も言わなかった。言葉とはどうしてこうも空っぽなのだろう、布都は思った。それは布都様がいつも言葉を裏切っているからではなくて? ニヤニヤと笑いながらそう言う青娥殿の姿がふと脳裏をよぎる。太子様なら、太子様相手ならこんなものに頼らなくてもいいのに。でも、屠自古は太子様じゃないから、ちゃんと伝えなくちゃ。
布都は二の句を紡げずにいた。
2.
時を遡ること千四百年、聖徳太子こと豊聡耳神子が生前、蘇我馬子と共にその政治手腕を振るっていた飛鳥の時代のことである。
当時、豊聡耳神子は戦に出れば常勝無敗、政治的に対立においても立ちはだかるあらゆる勢力を懐柔、あるいは滅ぼし、民衆からもその名の通り神の子ではないのかと噂される程の支持を受けており、まさに全盛期といっても過言では無かった。元来、生まれた時より彼女の才は常軌を逸したものであり、為政者となるべく女の身でありながら男として育てられ、しかるべき教育を施された。厩での出生をはじめとしたいくつもの逸話が用意され、彼女の神性を高めることに貢献していたが、その逸話の中には真も含まれていた。いわゆる豊聡耳の伝説である。彼女の耳は騒ぐ群衆の中から知己の声を見つけ出し、同時に十人の話を聞き分け、人が言葉に込める微かな感情を聞き取った。実際その力により何人もの背信者が捕えられていた。そんな豊聡耳神子を擁する蘇我氏は見る間にその勢力を伸ばし、蘇我氏に対抗しうる勢力は朝廷で最も大きな勢力を誇る軍事豪族、物部氏を残すのみとなっていた。
「布都、布都はいますか」
神子、屠自古、布都の三人が普段過ごしている屋敷に戦より戻ってきた神子は一番に布都を呼んだ。
「は、ここにおります」
隣室にて控えていた布都は返事をし、襖戸を開けて神子の居室に入り平伏した。
「ただいま。楽にしていいですよ」
布都が面を上げると、視界の端に神子の顔が映り込む。完璧に均整のとれた中性的な顔立ち、頭から飛び出る二房の立派な動物の耳のような奇抜な髪、紛れもなく神子であったが布都はどこかに違和感を覚えた。そう、耳当てである。神子は見慣れぬ紫色の耳当てを付けていた。布都の視線に気付いた神子が耳当てに軽く手を当て説明する。
「これは、屠自古が私にくれたものです。どうです? 中々お洒落でしょう」
「……ええ、とても良く似合っていますぞ」
神子はただ優しい表情で微笑み布都を見つめていたが、布都はそれだけで全てを見透かされ断罪されているかのような感覚に陥った。布都は神子が人の心を読む特別な力を持っていると信じていた。神子は自分の力を、声に含まれる微妙な調子や震えから感情を類推するという、人が誰しも持っている洞察力の延長線上にあるものであると説明していたが、布都は神子の説明を一種の謙遜と見なしていて、その能力の神性を疑っていなかった。
「怪我が無いようで何よりでございます。此度の戦勝、伝令より聞き及んでおります。物部の軍勢を壊滅状態に追い込んだとか」
豊聡耳神子の提案により民衆の支配のために都合の良い仏教を広めようとする蘇我氏と、神道をかかげ仏教を排斥せんとする物部氏の対立は日に日に深まっていたが、今回遂に次の天皇の擁立を巡って直接的な争いが起きたのだった。
「ああ、こちらにも甚大な被害が出たが物部氏の長、守屋殿は矢で射抜かれて討ち取られた。遺体は回収してあり、影武者の類でないことの確認も取れました。概ねこちらにとって理想的な結果と言えるでしょう」
「物部氏には守屋に匹敵する才覚をもった後継者はおりません。これで物部氏の凋落は時間の問題でしょう」
「随分と冷静ですね」
神子の視線が鋭く布都を射抜く。神子の浮かべていた微笑は消えていた。
「守屋殿は君の兄でしょう? とても仲睦まじかったと聞いていますが」
「物部氏は太子様の敵でございます。敵の死に動揺する者などおりません」
「そうではなくて、私が聞きたいのはあなた個人の事です。蘇我と物部両氏の対立だって元はといえば……。いえ、失言でした。もう下がって構いません」
神子の部屋を退出すると屠自古と鉢合わせした。布都が会釈をして通り過ぎようとすると神子の部屋に向かうだろうという布都の予想に反して屠自古は布都についてきた。
「お前大丈夫か?」
「何が?」
「お前の兄が死んだことだよ」
「何を今更。そもそもこの争いに火を付けたのは我だ。物部の連中を煽って廃仏の動きを激化させたのだからな。これでようやく太子様の時代が訪れるのだ、喜ばしいことではないか」
屠自古は何か言おうとして口を開いた。が、その言葉は虚空へ消え、行き場を失った吐息だけが場を漂った。
「そんなことより、あの耳当ては何だ?」
「太子様の耳は鋭敏すぎる。普通の人間の何十倍もの情報が太子様の耳に入ってくる、四六時中そんな状態では太子様の心も休まる暇がない。最近体調も優れないようだし私が献上したんだよ」
「そうか」
あんなもの必要ないのに。布都はそう言おうとしたが屠自古が激昂するのが目に見えたため自重した。布都は嘆息して空を見上げた、のだが途端に床の段差に躓いて転んでしまった。
「痛い」
「何してんだ。お前はしょっちゅう転ぶんだからいつも足元見て歩けって言ってるだろう」
「屠自古、痛いからおんぶしてくれ」
布都は屠自古に両手を広げてみせた。
「自分で歩け、馬鹿野郎。私は太子様の所へ行く用事があるんだ」
屠自古は来た道を戻っていった。行ったり来たり、最初から神子様に用事だったのなら、あやつは一体何のためにこちらに来たのか、と布都は首を傾げた。
その夜、床に就いた布都は夢を見た。夢の中で布都は物部の屋敷にいた。夢の舞台が蘇我氏と物部氏の対立がまだ決定的なものになる前、物部氏が年に一度開催する祭礼に布都が招待された時のことであると布都は理解していた。
酒宴の後、一族の者達が寝静まった頃に布都は床を抜け出して散歩していた。木の棒きれで地面に模様を描きながら、お気に入りの和歌なんかを口ずさんでぐるぐると屋敷の周りを一周している。途中宴の肴として催された余興の残骸が転がっているのが目に入った。十人ほどの死体である。彼らは物部氏に反抗的な態度を示したと判断された民衆の一部である。ここに連れて来られて、酒を飲む物部の一族に囃し立てられながら斬り刻まれていった者達。物部氏は獣の集まりだった。彼らが欲するのはいつも血と肉と憎悪で、彼らが戦に強かったのは彼らが戦を愛してやまなかったからという至極単純なものだった。
やがて模様を描き始めた地点に戻り円状の模様は閉じられた。布都は屋敷から持ち出した弓を背から外すと模様から離れた。姿勢を真っ直ぐに伸ばしてから脚を開き、身体の力を抜き深呼吸。矢筒から取り出した矢を番え、弓を握る腕を引きながらゆっくりと狙いを定める。数秒の後矢が弓を離れ、地に描かれた模様の窪みに突き刺さった。矢の先から模様が発光しだして次第に全体に広がっていき、模様から火柱が上がった。火柱は直ぐに模様の内部の物部氏の屋敷を火の海へと変えた。
「うむ、中々良い出来であるな」
布都は更に屋敷から距離をとり、燃え盛る火を眺めた。屋敷のあちこちから獣じみた悲鳴が上がるのが聞こえた。
「火は穢れを祓うというが、成程良く燃えるではないか。余程油が乗っていると見える」
火柱の中から転がり出る人影があった。火柱に物怖じせずに飛び出してきたらしい。火の燃え移った衣服を脱ごうと暴れている。火が人影の動きに合わせてゆらゆらと踊る。布都はその火めがけて弓を放った。一射目で人影は倒れる。まだ動いていたため二射目を放つと人影は完全に動かなくなった。
「布都」
背後から声がした。現実にはそこにいなかったはずの人。夢だから現れた人。布都は振り返らずに屋敷を見張ったまま口を開いた。
「兄上」
「どうしてこんな惨いことをするんだい? あそこには父上も母上もいるのに」
二人目の脱出者。今度は一射で急所を貫いた。
「奴らは太子様の敵です」
「布都はいい子だね」
布都より少し体温の低いひんやりとした手が布都の頭を撫でた。それはまだ子供だった布都を撫でてくれた物部守屋の手の感触だった。物部守屋は獣だらけの物部氏の中で唯一布都が心を許せる存在だった。
「布都は優しい子だね」
守屋の手が、物部の一族の蛮行を目前にした子供の頃の布都の目を遮り、犠牲者の悲鳴を聞かんとする布都の耳を塞いでくれた。
「布都は私達のようになってはいけないよ」
布都はそんな兄の手で撫でられるのが、まるで、守られてるみたいで、大好きだった。
「……それなのに、どうして」
突然その手が布都の髪を乱暴に掴み、引っ張った。痛みを堪えつつ布都が守屋の方に顔を向けると、心の臓を矢で射抜かれた骸が光の失われた瞳でこちらを凝視していた。その骸は上半身が燃えており、火が骸の腕を伝って布都に近付いていき、そして……。
夢から覚め、瞳を開いた布都の視界一杯に人の顔が映り込んだ。反射的に布都が上体を起こすと、当然の如く布都と邪仙の頭が勢い良く正面衝突した。
「おや、青娥殿か」
青娥は額を抑えて悶絶していたが、目尻に涙を浮かべながらも何とかいつもの作り笑いを浮かべた。
「随分と石頭ですね、布都様は」
「青娥殿の鍛え方が足りぬのではないか?」
「頭蓋骨の鍛え方があるのなら是非ともご教授願いたいものですわ」
「いつも言っておるが人の寝床に侵入するのはご遠慮願いたいのだが。自分の寝顔を見られるのはあまり気分の良いものではない」
「あら、あんな可愛らしい寝顔なのに」
青娥は意地の悪い表情で言った。彼女は霍青娥、邪仙だ。大陸から渡来し、いつの間にか豊聡耳神子の周りに頻繁に出没するようになり、布都と神子の道教の師匠、ということになっていた。最も彼女は極度の放任主義で、布都自身は彼女から何かを教わった覚えは無かったのだが。
「いくら可愛らしかろうが我はその顔を拝めぬしな」
「まあ、今日はちゃんとお知らせがあって参ったのですし勘弁してくださいな」
「お知らせ?」
「豊聡耳様が病に倒れました、このままではそう長くはないでしょう」
3.
「ご無事ですか、太子様!」
布都が神子の居室に駆けつけると、神子は寝具に横になり、その傍で屠自古が看病していた。屠自古が睨みつけてくる。静かにしろ、ということだろうと判断して布都は口をつぐんだ。神子の口や衣服に血の痕が残っており、吐血していたことが窺えた。
「ええ、今はもうだいぶ落ち着きました」
布都は屠自古の反対側に座ると、両手で神子の手を握った。
「随分と無理をされたようですね、豊聡耳様」
青娥が布都の背後から神子に話しかける。
「不老不死となるための研究で毒を呷るとは。一体何をそんなに焦っていらしたのかしら」
「すみません」
「不老不死?」
布都はつい大声を挙げてしまった。屠自古に視線を向けるとどうやら彼女も何も知らなかったらしく呆然とした顔をしていた。神子の代わりに青娥が答える。
「ええ、豊聡耳様は数年前から不老不死の法の研究をされていたのよ。どうやらその研究の過程で有毒な薬品に手を付けてしまったようですね」
「なぜ不老不死の法など……」
「その問いには私から直接答えましょう」
神子はそう言うと上体を起こした。
「私は常々、真に優れた王となるにはどうすればいいかを考えてきました。優れた為政者と呼ばれるようなどんな者達も、絶対的な治世を確立することはできなかった。どんなな仕組みや制度を取り入れても、彼らのもたらす秩序はもって精々数百年で新しいものへと取り換えられていった。彼らには何が足りなかったのかという疑問に対して私が導き出した答えは時間です。彼らの制度は彼ら自身が地を治めることを前提に作り上げられた制度で、時が過ぎ為政者が代替わりした時にその支柱たる存在が失われ制度は完全性を失う。だから崩れていく。私は、不老不死の法により絶対の王となるための資格を得ようと考えたのです。まあ結果はこの様ですがね。二人とも、私を愚か者と笑ってくれて構いませんよ」
自嘲するようにそう言った神子に屠自古がすかさず言葉を返す。
「そこまでの深いお考えからの行動を笑うことなど私にはできません」
「わ、我もですぞ」
布都は屠自古の言葉に慌てて追従した。
「さて青娥。二人に説明も済んだ所で今後の対応について我が師である貴女にお伺いしたい」
「そうですねえ。一番単純なのはその病を治す薬を作ることです。難しくは無いでしょうが時間は掛かりますし、薬を作っても所詮は対症療法に過ぎません。ここは一つ、肉体を捨ててみてはいかがかしら。肉体を捨てれば寿命なんて煩わしいものに縛られることも無くなりますし」
「具体的には?」
「私が知っている限りでは二つ方法があります。一つは、一度死した後、亡霊としてこの世に留まり続ける方法。道教の秘術を持ってすれば朽ち果てる前の死体さえあれば自在に亡霊を呼び出し、この世に定着させることができます。ある意味では不老不死に近い状態と言えるかもしれません。何せ既に死んでいるのですから老いも死も関係ありません。何でしたら、今夜にでも布都様のお兄様で実演して見せましょうか? 死に別れた兄妹の感動の再会も見れて一石二鳥ですよ」
屠自古が怒りを露わにし、雷の矢を出現させ青娥に向けた。
「貴様のその腐りきった性根、死なねば治らんようだな」
「あら怖い」
青娥は心底愉快そうな表情で髪に差していた壁抜けの鑿を手に取った。
「些細な冗談程度でいちいち噛みつくでない。今は話を聞く方が先決だ」
屠自古は布都の言葉に渋々矛先を収めた。それを見た神子が青娥に告げる。
「私の知識に誤りが無ければ亡霊は自らの死体に縛られ、それが弱点になるはずです。明確な弱点を作るのは望ましくありませんね」
「確かにその通りですね。では尸解の法はいかがかしら。一度死した後、魂を依り代となるモノに移し、そのモノを自らの新たな肉体へと変化させるという秘術。これならば復活までに百年程の時間が掛かりますが、亡霊のように肉体に囚われることなく、不老の肉体を手に入れることが出来ます。加えて仙人となることで豊聡耳様の力も一層強まるでしょう」
「……青娥、少し二人と相談したいので席を外して頂けますか」
「ええ、どうぞごゆっくり」
青娥は手に持っていた壁抜けの鑿を壁にかざし、円を描く。すると壁がねじれる様にして小さな円形の穴ができ、それが広がって人が通れる程の穴に成長した。青娥はその穴をくぐって部屋から出ていった。直ぐに今度は壁のねじれが解消していくかの様に穴が塞がっていく。完全に穴が閉じたのを確認し神子が口を開いた。
「二人は尸解についてどう思いますか」
神子の問いに最初に答えたのは屠自古だった。
「太子様の崇高な理念はしかと理解しました。そのために不老不死を目指すことに異論はございません。ただ私は、尸解の術とやらを用いることには賛同しかねます。一度死ぬということは太子様の御命を一時あの邪仙に預けるということ、あまりにも危険すぎます。邪仙が最初言ったように薬を作るのが先決かと」
「彼女に信用ならない所があるのは事実です。しかしこの件に限って言えば私は青娥を信用しても構わないと思っています。彼女の持つ一番の欲は強い力を自分の手で生み出すこと。私を尸解仙とすることは彼女の望みと一致しているはずです。布都はどう思いますか?」
「太子様が仰るのでしたら間違いありません。青娥殿は欲望に忠実な御方です、そういう意味では彼女の欲さえ理解しておけば手酷く裏切られはしないかと」
「尸解そのものについてはどうですか」
「分かりません」
「分からない?」
「不老不死など今日まで考えたこともありませんでした。しかし、太子様が必要と考えていらっしゃるのでしたら、それはきっと正しいのでしょうな」
「そうですか」
神子はしばしの間黙り込んで思案した。そして何度か躊躇うような素振りを見せた後に二人にこう尋ねた。
「布都、屠自古。もしも私があなた達二人に共に尸解仙となって欲しいと言ったら、あなた達はわたしについて来てくれますか?」
「無論です」
布都と屠自古は声を揃えて言った。
その夜、日付が変わろうかという頃、布都は神子の部屋を訪れた。屠自古から聞いた話によると傍にいることを許されず、追い出されたらしい。布都は神子の様子を確認するために屠自古から送り込まれたのであった。
「夜分遅くに申し訳ありません。少々お話したいことがあって参りました」
神子の部屋の扉の前で声を上げた布都だったが、それに対する返事は無かった。それどころか、布都が耳を澄ましても寝息一つ聞こえない。
「入りますぞ」
部屋の中には誰もいなかった。神子の寝かされていた布団に手を触れるとまだはっきりと体温が残っており、抜け出してまだそう時間が経っていないことが窺えた。
布都は部屋を出て辺りを探しに出た。布都は神子が最近屋敷の一角に庭園を造り、植物を育てる園芸とかいう趣味に耽っていたことを思い出し、その小さな庭園へと足を運んだ。
「太子様」
果たして神子はそこにいた。真っ白な寝具を身に纏ったまま庭園の地面にへたり込み、鉢に植えられた鮮やかな紫色の花を眺めていた。確か、桔梗という花だったか。水やりの名残なのだろうか、地面は濡れており、土は泥状になって神子の白い寝具を汚していた。足元には屠自古から送られた耳当てが放り投げられている。
「太子様」
返事は無かった。まるで布都の言葉など聞こえていないかのように無反応だった。布都が神子と出会って以来、このようなことは一度たりとも無かった。
「声が聞こえないんだ」
その言葉は一見すると花に語りかけているようで、神子が布都の存在を認識しているのかどうかは判然としなかった。神子は感情の欠落した声で続ける。
「病の影響か、私の耳はまともじゃなく、いや違うな、まともになってしまった。いつも耳の片隅に届く屋敷の中の人々の声や物音も、近くを飛ぶ鳥の鳴き声も、もう何も聞こえない。青娥や布都、屠自古の声を聴いても分からない、彼女らが何を望んでいるのか、何を考えているのか。もしかしたら布都も屠自古も表面は取り繕っていても、心の内では不老不死に手を出そうとして失敗した憐れな凡人と私のことを蔑んでいるのかもしれない」
布都は神子の言葉を遮らなかった。屠自古なら直ぐにそうしただろうが、布都にはできなかった。
「世界はこんなにも静かだったろうか、世界はこんなにも冷たかったろうか。怖い。私は青娥が怖い、布都が怖い、屠自古が怖い」
神子の身体からまるで呪詛のように言葉が流れ出ていく。
「いつも私は何かを恐れている。不老不死を望んだのだって本当はただ怖かったから。私は死ぬのが怖い。死んで私の為したこと、私の生きた証、私の存在が無かったことになるのが怖い。私は、私は……」
神子が布都の方へと振り返る。目と目が合う。神子の瞳はゆらゆらと揺らめいていた。
「……伝説になりたいのです」
それからしばらく、二人の間には沈黙のみが流れていた。神子はただ花を見つめ、布都はその神子の姿を見守っていた。布都は神子の背中はこんなにも華奢で小さかっただろうかと疑問に思った。その背中が不意に真っ直ぐ伸びたかと思うと神子はゆっくりと立ち上がった。
「見苦しい所をお見せしました」
「お召し物が汚れてしまいましたな。代わりのものを用意して参りますので神子様は部屋にお戻りください」
「ええ、お願いします」
「太子様、たとえ声が聞こえなくても自明なこともありましょう。太子様は王になるべき御方ですし、我も屠自古も太子様と同じ道を歩きたいと思っております、我には人を見極める才などありませんが、それ位は分かっているつもりです」
「すまない」
神子は地面に落ちていた耳当てを拾い自室へと戻って行った。その手からグシャグシャに潰れた花弁が零れ落ちていくのが見えた。
4.
その夜も布都は夢を見た。夢の中の布都は物部の屋敷で弓を手に的の前に立っていた。
「布都の動きは少し忙しなさ過ぎる。全ての所作の間に一呼吸置くことを意識してもう一度狙って御覧」
「兄上」
若かりし日の守屋が布都を見守っていた。布都は左足を前に出し、背筋を伸ばして重心の位置を固定する。守屋に言われた通りに深く息を一つ吸い込む。弦に矢を番え、弓を持つ左手に矢を軽く乗せる。右手に力を込めて弦を引きながら弓を持ち上げ布都の目線の位置まで矢を持ってきて狙いを定める。ゆっくりと息を吸い、吐き、一度瞳を閉じて弓の軌道を頭の中で予測する。瞳を開いて弓を放とうとする正にその直前に人の大声が布都の意識を邪魔した。弓は的を大きく外れ地面に突き刺さった。
「助けて!!」
聞き覚えの無い女の声だった。大方、物部の誰かが町から攫ってきたのだろう。
「布都は何も悪くないのだから、気に病んではいけないよ」
守屋が悲しそうな顔をして近づいてきて、布都の頭を軽く撫でた。懐かしい手の感触。その向こうで女性の叫びが響いている。
「さあ、もう一度。今度はきっと命中する」
布都はもう一度、今度は先程よりも更に時間を掛けて矢を放った。今度こそとばかりに矢は真っ直ぐに的に向かって飛んでいき、的を正確に射貫いた。見知らぬ女の叫び声は止み、代わりに見学に集まっていた観客たちの声が耳に入ってくる。
「いいかい、これは儀式なんだ。布都は物部の神事を取り仕切るという自分の役目を果たしただけ。だから布都は何も悪くない」
守屋の悲痛そうな声が布都にそう言い聞かせる。数人の男が心臓を矢で射抜かれた見知らぬ女を担ぎ上げて屋敷の外へと歩いていくのが見えた。守屋は再び布都の頭を撫でた。
布都は知っていた。守屋がその気になれば血を望む物部氏の蛮行を抑え込むことだってできることを。何せ守屋は物部氏の当主なのだから。それをしないのは、守屋が物部氏への恐怖が、民衆の効率的な支配に有効であると判断しているからだ。守屋は優しい人間だったが、一人の人間である前に支配者だった。物部氏とその傘下にある勢力及び彼らの支配する民衆を統率する義務があった。
獣ばかりの物部氏の中にあって、守屋の手は他のどの者の手よりもたくさんの血を浴びている。布都はそんな守屋の少し体温の低いひんやりとした手で撫でられるのが大好きだった。
そう、まるで、守られてるみたいで、大好きだった。
「おい起きろ」
布都は目を開いた。屠自古が布都の身体を揺すっていた。
「今度は屠自古か。二晩連続で寝床に侵入されるとは、我の貞操が危険に晒されておるな」
「何を馬鹿なこと言ってる。私に報告もせず爆睡しやがって。太子様の様子はどうだった?」
「特に何とも無いようでぐっすりと眠っておったよ」
「そうか、良かった」
屠自古の声から緊張が抜けていく。屠自古は深々と息を吐いた。
「なあ屠自古よ。尸解の儀について、お主に聞いておきたいことがあるのだが」
布都は身体を起こした。
「何だよ」
「お主は尸解の儀が怖ろしくはないのか? 衰えぬ肉体を手に入れるためとはいえ、一度死ぬのだぞ」
「怖いに決まってるだろう。でも、太子様がその道を進むと決めたのならば私もそれに従うまでだ」
「それが忠義か」
「太子様はああ見えて意外と寂しがり屋だからな。尸解仙として目覚めた時にせめて私だけでもついていてやらないと」
屠自古は微笑んだ。それは神子の話をしている時以外に彼女が布都に見せることの無い柔らかな笑みだった。
「何を言う、この我もおるではないか」
「お前なんかおまけだ、おまけ」
「我だって役に立てるもん」
「お前は太子様の料理を作れるのか?」
「う」
「太子様の事務仕事を手伝えるか?」
「うう」
「太子様の髪型を整えることができるか?」
「ううう」
屠自古は勝ち誇った表情で布都を見下ろした。
「我は邪魔なのか? 我は太子様に必要とされておらんのか」
布都の語調の余りの切実さに今度は屠自古はたじろいた。
「冗談だよ。太子様は私もお前も同じ位大事に思っているさ」
「さっきと言ってることが違うぞ」
「だからさっきのは冗談だって」
「屠自古はどうだ。我を必要としてくれておるか?」
屠自古は絶句し、布都から視線を逸らした。もじもじしている屠自古の顔を覗き込もうとすると屠自古は踵を返してドタドタと部屋から出ていった。
「いないよりはましだ馬鹿野郎」
それが屠自古の捨て台詞だった。
布都は身支度を整えると部屋を出て、青娥にあてがわれた部屋に出向いた。もっとも青娥はあちこちふらふらとしていることが多いのでその部屋に行けば会えるという保証は無かったのだが。
「青娥殿、おりますかな」
「入ってきて構いませんよ」
戸を開いた布都を待っていたのは、強烈な腐臭だった。思わず咳き込んでしまう。どうせ部屋に入るのなら鼻を慣らしてしまった方が良いと布都は敢えて息を吸い、意を決して中に踏み込む。部屋の中は毒々しい色をした薬品、何かの動物の頭骸骨、等身大の人体の解剖図など怪しげかつ雑多な物で溢れ返っていた。
「この匂いは何だ」
「うふふ、どうですこの子、腐っていて可愛いでしょう」
青娥は地面に転がっている物体を指差した。それは、死体だった。何十本もの箸くらいの大きさの針が頭に突き刺さっており、その先には顔がほぼ見えなくなるほどの密度で札が張られている。札の奥から呻き声みたいなものがかすかに聞こえる。じっくりと観察すると死体の腐った手が微かに地面から浮いている。死体の指が曲げたり伸ばしたりを繰り返し、その度に関節付近の傷口がパクパクと開閉した。傷口が開く度に中から蛆虫が湧き出ている。
「この死体はどこから?」
「先の戦で回収されたものを頂いたものですよ。あ、守屋様の死体ではありませんからご安心を。屠自古様の雷が怖いのでやめておきました」
「死体を動かす術か」
「ええ、まだまだ開発中ですがね。頭に取り付けた御札に命令を書き込んでおいてそれが必要に応じてこの針を通して脳に刺激を送り込み身体を動かすという仕組みです」
布都が人差し指を死体の手に近付けると死体が反応して布都の指を掴んだ。腐ったもの特有のぐにゃりとした感触が手を包む。
「これまた面妖な術を作ったものだ」
「珍しいですわね、布都様が私に会いに来て下さるなんて」
「太子様は尸解の儀をお受けになるそうだ」
「それは朗報ですわね。早速準備を始めておきますわ」
布都は青娥の様子を観察する。心から喜んでいる様子に見えた。しかしそれが本当だからといってそれが神子を裏切らないとする根拠にはなり得ない、と布都は理解していた。
「それと尸解の儀とやら、我と屠自古も受けたいのだが、それは可能か」
「ええもちろん。私の方は最初からそのつもりでしたし」
「ではよろしく頼む。それと太子様の体調が優れない故、我の方から尸解の細かい条件などについていくつか伺っておきたいのだが。まず我々はその尸解の儀までに何を準備すればよい?」
「尸解の儀には死後に自身の魂の器となる依り代が必要となります。三人には依り代となる物を用意して頂きます。依り代となる物には肉体の代わりとして長期にわたって朽ちない物、それと相応の格が必要になります。そこらの工芸品などではなくその道を極めた者の一作でなければなりません」
「朽ちぬものか。もしその物がどこか欠けていて不完全だったり、十分な強度や耐久性が無い場合はどうなるのだ」
「何も起こりません。尸解の儀は魂を依り代に移す儀式なのですから適切な器が無ければ術自体発動せず空振りに終わります」
「ふむ」
「後は二重底の棺を三人分用意してください。尸解の儀は二重底の一段目に人を入れ、二段目に依り代を入れた状態で行うのが一般的な方法ですので」
「用意させよう。次の質問だが、尸解の儀を我が覚えて執り行うことは可能か?」
「私が信用できないから豊聡耳様の尸解の儀を布都様がその手で行いたい、そういう事ですね?」
疑いを露わにされても青娥はまるで気に留めていないようだった。
「残念ながら、尸解の術は仙術の中でも深淵に位置する秘術です。まだ道教の修業を行い始めて日の浅い布都様では豊聡耳様の身体が限界を迎えるまでに扱えるようになるのは難しいかと」
「仕方あるまいな。しかしせめて知識だけでも身につけておきたい」
「分かりました。尸解の術について書かれた巻物がございますのであなたにお渡ししておきますよ。そこに凡そのことは書かれています」
青娥は懐から古びた巻物を取り出すと布都に渡した。
「最後に一つ、我は自分の分の依り代は自分の手で作りたいのだが構わんだろうか」
「私の話聞いていましたか? それなりの逸品が必要だと……」
「それは問題無い。我はこう見えても陶芸については一流の腕を持っておるのだ。陶芸の道こそ我が太子様に勝る唯一の部分と言える。太子様も美的感覚だけは人並み以下……もとい凡人の先を行き過ぎて中々理解されないからな。とにかく、今度完成品を青娥殿に見せることにしよう。それで使えそうかどうか判断してくれ」
「まあ見るだけなら。しかし、何故そんな面倒臭いことを」
「後々自分の肉体になるものだからな、我にはそれを他人の手に任せる気にはならん。一世一代の作品を作り上げてみせる故、青娥殿は楽しみに待っておれ」
「はあ」
嬉々として走り去っていく布都の後ろ姿を見つめながら青娥は呆れたような表情で首を傾げた。
5.
神子達三人の協議の結果、屠自古、布都、神子の順に尸解の儀を行うことになった。屠自古と布都は実験台となり尸解が無事に進むかを確認し、成功が確認でき次第神子が後に続く。屠自古が自分の番を神子より後にして、青娥が神子に何かしないか見張ろうと提案したが、結局最終的には三人とも眠りに就き青娥に対して無防備な状態になるので疑うだけ無駄という結論に達した。
時は過ぎ、屠自古の尸解の予定まで残り数日となった。布都は自室に籠って尸解の依り代とするための陶芸品を作っていたのだが、そこに青娥が様子を見に訪れた。
「調子はどうですか」
布都はろくろを使って成型を行っている所だった。一本の支柱に二つの円盤がついており、下の方の円盤を足で蹴ると連動して上の円盤が回る。上の円盤に乗せた粘土を回転させながら手で形を整えていくことによって皿の綺麗な円形が形作られていく。
「わざわざ壁抜けの術を使って入って来ずとも扉から入れば良かろうに」
「音を立てて入って集中を乱してしまうのも悪いかと思いまして」
「音も無く忍び寄られるのもかなり集中を乱されるのだが。完成品はまだだが、既に近くの工房の竈を借りて試作品を焼いておるのでそれを見せよう。そこの棚に大きな木箱があるであろう、それの中身を見てくれ」
青娥は指示通りに木箱を取り出して蓋を開き、皿を取り出して眺めた。
「綺麗……」
青娥は思わず呟いた。それは平皿で、白を基調としたごく単純なものだったが、縁から墨を垂らしたかのような黒が流線型の模様を描いている。その黒は完全な黒ではなく濃淡があり、縁に近付くほどに濃くなっていた。青娥は正直の所、布都の言葉は過剰な自信から来たものだと考えていたので、予想外に素人離れしたものが出てきて不意をつかれた形になった。
「ふふん、中々良い出来であろう? 久し振りで腕が鈍っていないかと不安だったが無用な心配だったわ。で、どうだ。使えそうか?」
布都は作業を中断して自慢気な表情で問い掛けた。
「布都様は確か石上神宮の斎宮をされていたとか」
「ああ、昔の話だがな」
「かつて神に仕えていた者の手による作品、それにこの出来栄え、尸解の依り代としての格は十分でしょうね」
「当然の結果だな」
言葉とは裏腹に布都は今にも小躍りしそうな勢いで喜んでいた。
「でも折角ならもっと鮮やかな色にすれば良かったのに」
「青娥殿は確かに極彩色という感じがするな」
「何の話ですか?」
「む、手が汚れておるな」
布都は粘土で汚れた自分の手を見つめ、服の袖で拭おうとした。青娥が慌ててそれを制する。
「布都様、お召し物に泥を付けちゃ駄目です」
青娥に止められて布都は床に落ちていた手拭いを拾い上げると手を拭いた。
「しばし待っておれ」
布都は青娥を待たせて奥の部屋に消えていった。しばらくして戻って来た布都の手には瑠璃色の小皿が握られていた。
「何ですかそれは」
「青娥殿にあげようと思ってな」
「いりません」
「遠慮するでない、どうせ失敗作だしな」
布都は無理矢理青娥の手に小皿を持たせた。
「失敗作を押し付けないでくれます?」
「そういえば、屠自古が依り代に選んだ壺を見たか? あのださい壺。そんなださい壺を使うなら我がもっといい壺を焼いてやろうと言ったのだが屠自古の奴が急に怒り出してのう。全く、人の親切心が分からぬ奴だ」
布都には他人の話を聞かずに自分の言いたいことだけを喋る癖があった。布都との会話に疲労感を覚えた青娥は話を早々に切り上げ、部屋から出ていった。
布都は作業用に身に着けていた服を脱ぎいつもの正装に着替えた。化粧台の前に座り鏡を見ながら髪を結ったり、衣装に付いている紐を締めたりしながら独り呟いた。
「我は、間違っているのかな」
聞くまでもない。我はいつも、最初から間違っているのだから。布都は目を閉じて自嘲する。
――布都は何も悪くないのだから、気に病んではいけないよ――
布都の耳に囁く声がする。
「死者が喋りかけるでない」
――布都は優しい子だね――
「うるさい」
――布都は私達のようになってはいけないよ――
「うるさい!」
布都が目を開くと、一瞬そこに死者の顔が浮かんでいるような気がして、布都は拳を目の前の鏡に叩き付けた。鏡を伝って手から流れ出た血が垂れる。疼くような鈍い痛みを感じてからそれが鏡に映る自分の顔であったことに気付いた。
木箱を抱えて部屋を出た布都は屠自古と鉢合わせした。
「おう布都。その箱は何だ?」
「これは我の尸解に用いる皿だ。青娥殿のお墨付きを貰ったので今から運び込んでおこうと思ってな」
尸解の儀は近年、神子が戦死した蘇我の縁者を祀るために建立した廟で行うことになっており布都はそこに向かっていた。
「お前その手、怪我してるのか」
屠自古の視線の先には応急処置として布を巻いた布都の右手があった。見ると血が滲んでいる。
「皮膚が少々裂けただけだ」
「また転んだのか」
「転んどらんわ」
布都は屠自古のお説教が始まりそうな気配を感じて歩き出す。屠自古の姿が消えたのを確認して再び前を向くと、通路の欄干に一羽の鴉が留まっていた。鴉は真っ黒な瞳で布都を眺めながら、ギャアギャアと大きな声で鳴く。布都は足早に鴉の横を通り過ぎる。不思議なことに、その鴉は布都が手の届きそうな距離まで近づいても逃げ出さず、鳴くのを止めなかった。布都は不吉な思いに捉われつつ廟へと急ぐ。鴉一匹で揺らぎそうになる自分の決心が何よりも疎ましかった。
6.
屠自古の尸解の日、青娥、神子、布都、屠自古の四人は廟に集まった。
「さ、屠自古様。こちらの薬をお飲みください」
青娥が屠自古に薬の入った茶器を差し出した。屠自古はそれを手に取って、くんくんと匂いを嗅ぐ。訝しげな表情で青娥を睨みつけつつ訊ねた。
「これは?」
「ただの眠り薬ですよ。それを飲んだら半刻程で深い眠りに落ちます。そして屠自古様が眠っていらっしゃる間に尸解の儀を行います」
屠自古が尚も不安気な表情で神子に視線を送ると、神子は微笑んで大丈夫と言わんばかりに強く頷く。屠自古は意を決して一気に薬を飲み干した。
「さて、これから屠自古様にはこの棺に入って眠って頂きます。これにてしばしのお別れになりますので、別れの挨拶は済ませておいてくださいね」
「太子様」
屠自古が神子を呼ぶ。
「辛い役目を押し付けてしまってすみません。私はあなたが一番手として名乗り出てくれたこと、主として誇りに思っています」
「ありがたいお言葉。ですが太子様、この後に物部との会談があるのでしょう。物部との決着は尸解の前に着けておかねばなりません。私などに構わず早くそちらに向かってください。それが聖徳王としての生前の最後の仕事になるのですから、ビシッと決めてきてください」
神子は少しだけ寂しそうな表情を浮かべたが、気丈に言葉を返した。
「ええ、任せてください」
「行ってらっしゃい、太子様」
「行ってきます、屠自古」
そう言い残して神子は踵を返し振り返らずに廟を出ていった。それきり黙り込んでしまった屠自古に青娥がニヤニヤと笑いながら声を掛ける。
「屠自古様、私には何かありませんの?」
「妙な真似したら承知しねえぞ、この邪仙が。例えお前の所為で蘇られなかろうと化けてお前をぶち殺してやるからな」
「ふふ、相も変わらず手厳しいこと」
屠自古が布都の方に顔を向けた。布都は屠自古に笑いかけた。
「成功を祈っておるぞ」
「布都、お前にずっと言いたかったことがある」
「愛の告白か? 残念ながら我には太子様という心に決めた御方が……」
「私はずっとお前が嫌いだった」
「ええ!?」
「見当違いの当て推量で自信満々に指摘してくるところが嫌いだ。腹に一物抱えてそうな顔して何も言わないところが嫌いだ。後先考えずに行動するところが嫌いだ。人の話をてんで聞かないところが嫌いだ。時々突拍子も無いことを言い出すところが嫌いだ。太子様に迷惑かけてばかりいるところが嫌いだ。その癖太子様にえらく気に入られてるところも嫌いだ。行き先を告げずに外出するところが嫌いだ。直ぐに転ぶところが嫌いだ。人の料理を黙々とかきこむように食べるところが嫌いだ。服を泥やら何やらで汚してくるところが嫌いだ。朝起こしても中々起きないところが嫌いだ。その癖毎日のように昼寝しているところも嫌いだ。でもな、一番嫌いなのは……」
屠自古はそこまで一息に言ってから息を吸い、続ける。
「太子様を神様みたいに崇めているところだ」
屠自古の手が布都の肩を掴む。薬の所為かその力は弱々しかった。
「太子様は人間だよ。太子様がどれだけ優れていようと、超人的な耳を持っていようと太子様だって人の腹から生まれた一人の人間なんだ。民衆が神の子と太子様をもてはやしても、他の豪族たちが太子様を畏れ敬っても、私と布都だけはそれを分かっていなきゃいけない。分かった上で傍にいなきゃいけないんだ」
「分かっておる。随分と時間が掛かってしまったが、ようやく少しだけ、我にも分かってきたのだ」
「そうか、なら良い。これから少しの間だが太子様の傍にいるのはお前だけになる。太子様のことを頼んだぞ」
「ああ」
屠自古の手が布都から離れる。屠自古はふらふらとした足取りで棺に近付き、その中に身体を沈めた。
「眠くなってきたからもう棺を閉じていいぞ」
「布都様、屠自古様の壺を持ってきてください」
青娥は布都に指示すると二重底の棺の二段目の底となる板を持ち上げ、屠自古の鼻先くらいにある木枠に嵌めこんだ。布都が壺を持ってきてその上に乗せる。青娥は棺の蓋を閉めた。
「始めましょうか、屠自古様少し揺れますが暴れたりしないでくださいね」
青娥と布都は棺から離れる。青娥が呪文のような文言を口にするとゆっくりと棺が持ち上がっていく。棺は布都の腰の位置位まで持ち上がったところで静止し、天井、壁、床のあちこちに張られた御札が次々に棺めがけて飛来していく。最終的に棺の木材が覆い尽くされて見えなくなる程に御札が張り付き、棺はゆっくりと地面に下降した。
棺に張られた札が無秩序に光ったり、消えたりを繰り返している。その札の一つ一つに複雑な術式が編み込まれているらしい。
「これで後は待つだけです。準備は凄く面倒くさいのに本番はあっという間ね」
青娥はそう言うと身を翻して何処かへ去っていった。
「すまなんだ、屠自古」
布都も青娥の後を追って廟から出た。
儀式の頃は高くにあった日が沈み、夜が訪れた。布都は屋敷の人間に目撃されないよう注意しつつ廟へと忍び込んだ。屠自古の入った棺が昼と変わらぬ様子でそこにある。相変わらず張り付いた御札が蛍のような淡い光を発していた。
「おかしい、どういうことだ」
布都は光に浮き上がる御札に書かれた文字を目で追い、確かにそれが尸解の術の一部であることを確認した。
「あら布都様。どうかされましたか」
背後から青娥の声が聞こえた。
「……屠自古の様子を見に来たのだ」
布都は動揺を声に滲ませぬよう押し殺し、振り向いて青娥に問い掛ける。
「屠自古の尸解は上手くいっておるかな」
「それはもう。私の術は完璧ですもの」
「それは良かった」
「布都様、何をそんなに驚いていらっしゃるの?」
青娥がいたずらっぽい微笑を浮かべ聞いてくる。
「我は……」
「もしかして、どうして屠自古様の尸解が止まっていないのかと思ってらして?」
青娥は相変わらず笑っていたが、その眼だけは冷たく布都を見下ろしていた。二人の間に緊張が走る。
「実はこの前布都様に尸解について教えた時、一つ覚え間違いで誤りを教えてしまいましたの。尸解の依り代が不適切なものであった場合どうなるか。尸解の術を扱うのは久し振りだったし、布都様に渡した巻物にも失敗の場合については書かれていなかったでしょ。だからつい、ね」
わざとらしい嘘。青娥は布都の横を素通りし屠自古の棺の前に立ち、続ける。
「尸解の依り代が不適切なものであった場合何も起きないと言いましたが、実際は尸解する人間の魂が肉体を抜け出た後、器を見つけられずにそのまま死んでしまうんです」
青娥の腕が屠自古の棺に触れた。すると、青娥の手の位置にある御札がぼろぼろと崩れて床に落ちていき、そこから波及するかのように周囲の御札も崩れ落ちていき、紙吹雪の積雪に埋もれた剥きだしの棺が現われた。青娥はその蓋に手を掛けて、棺を開いた。
棺にあったのは朽ちた壺だった。壺といっても、辛うじて原形を留めている程度で、触れれば直ぐにでもただの土くれに戻りそうな有様だった。
「可哀想な屠自古様。布都様ったら自分の尸解の依り代を作ると言っておきながら屠自古様の壺を作っていらしたのね。異物でも混ぜたか、ちゃんと焼成しなかったか、とにかく屠自古様の壺に似せた強度が不十分な紛い物の壺を作って本物とすり替えた。そして屠自古様の尸解を失敗させ、その咎を口実に豊聡耳様の留守中に布都様の独断で私を処分、といった感じでしょうか。目的は、私の排除、いえ豊聡耳様の尸解の阻止ですか」
「ああ、その通りだ」
「どうしてですか? 尸解仙になれば寿命を気にする必要は無くなりますし、それこそあなたが太子様に求めていた超人的な力だって手に入るのに」
「青娥殿が信用できぬからだ」
「嘘ばっかり。布都様はいつもそうなのですね。たまには本音を曝け出してみては? 豊聡耳様も仰っていましたよ、布都様は本当のことを言ってくれないと」
布都は服の裾に隠し持っていた短剣を握りしめる。
「太子様の力を信じる者は大体二種類に分けられます。一つは太子様の力を怖れ、太子様から離れていく者、もう一つは太子様に心を全てさらけだし、太子様に忠誠を誓うもの。でもあなたは違う、太子様の神性を信じながら平気で嘘をつく。物部氏と蘇我氏の争いの火種となった放火事件を独断で起こしながら太子様の前ではそれを黙して語らない」
「言葉などという空虚なものに頼らずとも、太子様なら全て承知してくださる」
布都は優しい子だね、布都は何も悪くない、そう何度も布都に言い聞かせた男にぽっかりと空いた虚を布都は知っていた。
「言葉が虚ろなのは布都様がいつも言葉を裏切っているからではなくて?」
布都は反論することができなかった。
「なぜ青娥殿は私の企みに気付いていながらそれを阻止しなかった。結果的には屠自古の尸解は失敗している以上、太子様の尸解も中止されるはず。青娥殿の目的は太子様を尸解仙とすることではなかったのか」
青娥は満面の笑みを浮かべた。その笑顔はいつもの胡散臭い作り笑いではなく心の底からの笑みであるように布都には思われた。
「私は即物的な女ですから、目の前に美味しそうな餌を垂らされて我慢できずに飛びついてしまったんですよ。私は見たかった。最も親しくしていた人を自らの手で殺める、布都様の表情を。素晴らしかったですよ、思わずゾクゾクしてしまいました」
布都は自分が青娥のことを見誤っていたのだと悟った。
「青娥殿はこれからどうするつもりだ?」
「もうここにいる理由もありませんし、またふらふらと面白いものを探す旅にでも出ますよ。豊聡耳様のことは少し残念でしたけれども、世界には他にもいくらでも楽しいことがありますからね。そういう訳でもう豊聡耳様に干渉するつもりはありませんから、その隠し持っている短剣で私の刺すのはご勘弁を。それではさよなら、布都様」
青娥は軽やかな足取りで布都から離れていく。自由奔放な彼女の後姿を布都は一瞬だけ眩しく思った。布都は自分の望みが既に絶たれたことを痛感し、次にどうするべきか思考を巡らす。
「待たれよ」
振り向いた青娥の顔には何の感情も浮かんでいない。その無関心さを見て布都は青娥の中で自分が既に“終わった人間”であることを理解した。
「何ですか?」
「我と取引をせぬか」
7.
数日後、屠自古の眠る廟にて布都は青娥から受け取った眠り薬を飲み、棺に横になっていた。
「布都様、気分は如何ですか?」
青娥が顔を覗かせる。
「最悪と言っておこう」
布都は仏頂面で返事をした。
「眠ってしまえばあっという間ですよ」
屠自古の尸解が失敗に終わったあの日。布都は青娥に取引を持ちかけ、青娥はその条件を飲んだ。手始めに二人は崩れ落ちた偽の壺を片付け、本物の屠自古の壺を棺に入れ直して御札を新しく貼った。次に神子が物部氏との会談より帰還したところで布都は神子に屠自古の尸解が成功したと告げた。布都の報告を聞いて神子は胸を撫で下ろしていた。そうして従来の予定通り、屠自古に続き布都が尸解を行う運びとなったのだ。
「結局、我のしたことは何の意味も無かったということか」
神子の尸解を中断させない代わりに布都が青娥に提示した条件は、青娥が最初に尸解の儀式を提案したときに話していた、死者を亡霊としてこの世に留める秘術とやらを用いて屠自古を亡霊にすることだった。
「屠自古が尸解仙ではなく亡霊となり、我には屠自古を殺したという罪が一つ増えただけとは。本当に情けない大馬鹿者だな、我は」
「罪なんて人の頭の中にしか存在しないただの概念ですし、そんなの気にするだけ無駄だと私は思いますけどねえ。同じ頭の中にあるものなら、喜怒哀楽に身を任せた方がずっと健全ですよ」
「青娥殿は強いな」
「そろそろ尸解の準備をしてきますわ」
「待って」
青娥は首を傾げる。
「我が眠りにつくまで、傍にいてくれんか?」
きょとんとした青娥の顔を見て布都は笑った。
「お主が動揺しているのを初めて見た気がするな」
「なぜそんなことを……」
「不安だからだ。今も手が震えそうになっているのを必死で堪えている。だが青娥殿が傍にいてくれたら心強い」
「そういうのは信頼している相手に頼むものではなくて?」
「信じているに決まっておる。そうでなければこうして青娥殿に自分の命を預けるはずが無かろう」
「布都様は歪んでいます」
「青娥殿程ではないさ」
「死ぬことが不安なのですか、それとも蘇ることが不安なのですか?」
「両方だ。我は死ぬのが怖いし、死なないのも怖い」
布都は棺の中から外へと右手を伸ばした。
「どうかしました?」
「お主、意外に鈍いな。この状況だったら一つしか無いであろう。手を握ってくれ」
沈黙。青娥の顔が引っ込んで棺の中から見えなくなった。
「……布都様はやっぱり歪んでいます」
「青娥殿程ではないさ」
棺の縁から手が伸びてきて、おずおずと布都の手を握った。掴み方はぞんざいで、まるで人の手の握り方が分からないかのようだった。その手が今にも逃げ出していきそうだったので布都の方から力を込めて手を握り返し、自分の腹の辺りに手を置いた。
「青娥殿の手はひんやりしていて気持ちいいな」
布都は瞳を閉じて自分の心臓の鼓動に耳を澄ませた。少しずつ鼓動の間隔が長くなっているような気がした。
「そう言えば、布都様は寝顔を見られるのが嫌だったのでは」
「そうだったな。では、寝顔は見ないようにしてくれ」
「寝るまで傍にいろ、寝顔は見るなと言われましても無茶な話です」
青娥の声が段々と遠のいていく。布都は自分の意識が無意識に呑み込まれる瞬間をただ待っていた。
申し訳ありません、太子様。済まない、屠自古。
薄れていく意識の中で布都は二人に懺悔した。自分の我が儘で二人の大事な人の意思を曲げようとしたことを、結果的に屠自古の命を奪ってしまったことを。布都は死ぬことを怖れていた。仏教徒の信じるところの仏があの忌々しいニヤケ面で自分のことを待ち構えていると考えただけでも震えが止まらなかった。布都は死なないことを怖れていた。永遠に生き続けるには自分の身体にこびりついた罪という名の汚泥は些か重過ぎた。清めても洗い流せない程に穢れは布都の身体の芯まで染み込んでいた。
そんな布都が望んだのは、布都と屠自古と神子の三人が普通に生きて普通に死ぬことだった。神子がごく普通の為政者として、屠自古がごく普通の為政者の妻として、布都がごく普通の為政者の側近として生き、死ぬ、そういう当たり前みたいな未来だった。
青娥の話によれば別に尸解などしなくても神子の身体を治す薬は作れるのだからそれで良いではないか、そんな考えから尸解の儀式を妨害して止めさせようとしたのだが、結果的に屠自古を死なせてしまった。望みを絶たれた布都は三人で普通に生きて普通に死ぬことが叶わぬならば、せめて三人で永らえようと思い青娥に取引を持ちかけたのだ。
青娥の姿を見ている内に泥に身を包んで生き続ける、彼女のような生き方も悪くないかもしれないと思えた。青娥と自分は全然違う人間であると分かってはいたが、それでも彼女と自分は同じ穴の貉であるという親しみが感じられた。神子の前に現れたのがもし邪仙青娥でなく普通の仙人だったなら、自分は尸解仙になる気にはならなかっただろう。青娥に礼を言っておこうと口を開こうとしたが、もはや言葉を発せられる状態ではないことに気付く。
太子様、心の中で布都は呼び掛ける。尸解仙として蘇り、真の王として君臨する。神子の選んだ道には多くの困難が付き纏うだろう。時には膝を屈しそうになることもあるかもしれない。彼女の力であまねく全ての民の声を聞き届けようとするならば、その余りの重さに押し潰されそうになることもあるかもしれない。屠自古に、あるいは神子自身に教えられたように、聖徳王とて一人の人間なのだから。その時には屠自古と共に神子の身体を支えよう。いつかの夜のように彼女がその手に握る紫色の花が潰れてしまわないように。今までのようにただ突っ走るのではなく傍に立つのだ、そう布都は決意した。それが太子様の道を阻もうとした自分にできる唯一の贖罪なのだから。
だから、いつかまた逢う日には、その時にはどうか、われにおまかせを。
それを見られることの驚きと感動が、読み終えた後の心に満ちている。これは素晴らしい作品です。
今作を真っ先に読めた喜びを、感想として残しておきます。満点!
娘娘と布都が手を繋ぐくだりで娘娘の少女の様な純粋さが垣間見えた気がしました。
こんくらい理知的な方が布都っぽい気がする
ちょっと慌てん坊で、はやとちりで、人の話を聞こうとしないだけなんだ(致命的)
公式でいいなこれは
ふとじこもせいふとも素晴らしい
淡々とした語り口にも関わらず、密度の高い文章だと思いました。キャラクターのらしさや、原作設定の絡め方も良かったと思います。結末がしっくり来なかったとのことですが、個人的には素晴らしい締め方ではないかと思います。
読んで良かったと思えました。
どのキャラの掘り下げ方も上手くて、設定もしっかり練られてる。ここから原作に繋がっていくんだな、予感をひしひしと感じました。
この仄かな関係が好きです。