わたしが人型になった日、お婆さんは死んだ。お婆さんの名は古明地こいしといって、廃墟同然の洋館にたった一人で暮らしている覚り妖怪だった。
あそこは地霊殿と呼ばれている、仲間の妖怪犬がそう教えてくれた。わたし達が住処にしている旧都は廃棄されて久しく、怨霊が至るところを徘徊しているため、真っ当な妖怪ならまず近付かない文字通りのゴーストタウンなのだが、わたし達のような野良犬ですら気味悪がって避けているのがその地霊殿だった。あの館には魔女がいる、という噂をよく耳にしたものだ。
「魔女? 捕まったら煮て食べられちゃうわけ?」
「違う、あいつが食うのは心だ、身体なんか幾ら食われても構わないけど心を食われたら終わりだよ、昔、怨霊に取り憑かれた奴を見たことがあるんだけどね、そいつはずっと花を食ってた、花だよ、切り傷みたいに綺麗な赤い花を一枚一枚むしって一日かけて丁寧に食うんだ、何故だと思う? 怨霊ってのは普通暗くて湿った場所にいるからどいつも暗くて湿った性格になる、それで妖怪に取り憑いて物を食ったり出来るようになった怨霊は、花とかペンキとか自分が持ってない明るい色を本能的に求めるんだろうな、心を食われるってのはそういうことだよ、自分は花なんて食いたくないのに妖怪自身はそのことを忘れてる、怨霊にどっぷり支配されてるもんだから、自分が本当は一日中花を食ってるような妖怪じゃない、ってことをもう覚えてないんだ、ああいう風になりたくなかったら地霊殿に忍び込んでやろうとか考えるんじゃないよ」
お婆さんはわたしの心から、そんな根も葉もない花の噂話を読み取って静かに笑った。
「いえ、何だか懐かしくてね、子供の頃の私は恐がられたり嫌われたりするのに耐えられなくて、一度この目を閉じてしまったこともあるのよ、でも今、こうやって皆の恐怖や嫌悪を眺めていても悲しくはないわ、あるべき物があるべき場所に収まっている、とても自然なことだと思えるの、私も歳を取ったのね、長く生きていると何もかもが変わってしまったような気がするのだけど、恐れや憎しみはいつの時代も変わらずにある、それが、古いお婆ちゃんの私を安心させてくれるのよ」
この世がまだ賑やかだった頃、覚り妖怪がどれほど虐げられていたのか、わたしに想像出来るのはほんの一端に過ぎない。彼らは涙を流す器官を人より多く持っているせいで、人一倍痛みを授かってしまうのだろうか。
お婆さんの部屋には頑丈な暖炉が設えてあり、いつも火が焚かれていた。館中の壁が罅割れたり崩れたりしていて絶えず隙間風が吹き込んでくるし、何より怨霊が生み出す冷気のせいで酷く寒いのだ。お婆さんは揺り椅子に座りわたしを膝に乗せて様々な昔話を聞かせてくれた。かつてこの館の主だったお姉さんのこと、彼女が飼っていた動物達のこと、彼女のために人の形を得た猫と鴉のこと。二匹はわたしでさえ名を知っている幻想郷の英雄達と闘ったこともあるのだという。
わたしは暖炉で爆ぜる火の粉を眺めながら、彼女達が交わした幾千の弾幕に思いを馳せた。それらは地底の無限の夜に束の間、莫大な光を齎したことだろう。地底に夜明けが訪れた、最初で最後の一日だったかもしれない。猫耳と翼を生やした二つの人型の姿はわたしの胸に遠く映った。思い出というより歴史を聞いているようだった。
深夜、お婆さんが寝入る頃に決まって怨霊が現れる。暖炉の埋み火に幽かに照らされた彼らは、風に靡く無数の青白いカーテンに見えた。わたしは毛布の中で小さく震えていたが、どの影も危害を加えようとする気配はなく、わたし達を遠巻きに見つめているだけだった。お婆さんの力に怯えているのだ。だから彼女が目を覚ますと、幕が降りるようにひっそりと消えてしまうのが常だった。
起きている間、お婆さんは館の掃除にかなりの時間を費やした。地霊殿はお城のように広いから、彼女一人で全ての部屋を回るには何ヵ月もかかる。一巡りする頃には大半の部屋が以前より厚い埃に覆われている。埃の重みでピアノが鳴ることもある。鍵盤を叩くのは今や灰色の時の指先だけなのだ。大抵はでたらめな単音で終わるが、稀に一つの曲のようなものになったりもする。それが聴こえてくると、お婆さんは作業の手を止めて懐かしそうに耳を傾けるのだった。
あのピアノ、誰が使っていたの?
「私のお姉さんよ、私も教わったんだけど、覚えが悪くてよしてしまったの」
後悔してる?
「そうね、ちょっとしてるかも、でも後悔なら、していないことの方が少ないわ」
旧都には放置されたままの野菜畑や果樹園が幾つもあり、怨霊の影響か作物はどれも異常に肥大化している。代わりに物凄く不味いのだが、お婆さんの手にかかると不思議にまともな料理が出来上がる。
お婆さんの名前みたいに美味しいよ。
「名前? 私の?」
こぉいしぃ。
「こ、が無ければきっともっと美味しく作れたのね」
お婆さんは得意気に胸を張った。催眠術で味覚を操作されていることにわたしが気付いたのは、随分後になってからだ。実は彼女は料理が苦手だった。なのに、腕と第三の目を振るって朝昼晩食事を作ってくれたのだ。三食の他にいわゆるおやつも食べきれないくらい振る舞われた。
「掃除、手伝って貰ってるからね」
手伝いと言えるようなことは全然出来ていない。もっと身体が大きければな、と思った。切実に考えたわけではない。わたしが本格的に人型になるための修行を始めたのは、お婆さんが病に伏してからだった。
それは秋のある日のことで、お婆さんは花瓶の水を換えに外の井戸まで行って、戻ってくる途中だった。花瓶には薔薇が活けてあった。お婆さんがまだ子供だった頃、彼女のお姉さんが中庭一面を薔薇園にしていたから、特別に愛着があるのだという。現在の中庭は、折れた列柱や剥がれた漆喰や倒壊した四阿の残骸と共に藪枯らしが蔓延っていて、薔薇は一本も残っていない。花瓶の薔薇は外から摘んできたものだった。
「水にアスピリンを入れると長保ちするのよ、花も痛みを感じるのかしら」
お婆さんは、廊下の冷たい床に座り込むようにして気を失っていた。花瓶はやや離れた場所にあって、水一滴零れていない。自分が数秒後にどうなるか理解していて、落としたり蹴倒したりして割ってしまうことのないように、あらかじめ配慮してそこに置いたようだった。わたしはお婆さんが死んじゃったのだと勘違いしてしばらく泣いていた。息があることが分かって、安堵の余り花瓶の上にへたり込みそうになった。
どうにか彼女を部屋まで引きずっていき、ベッドへ寝かせたときにはもう、疲れきって一歩も歩けなかった。それからようやく、お医者さんを呼ばなければいけないということに思い至った。でも妖怪を診てくれる医者なんているのだろうか。いたとして、どうやって意思を伝えればいいのだろう。わたしの言葉が通じる人型はお婆さんだけだ。
迷っているうちに、いつの間にか眠っていたらしい。急激に部屋の温度が下がり、暖炉の火が消えた。その音で飛び起きた。怨霊達だ。わたしは瞬く間に精神的にも体温的にも凍り付いた。怨霊達はいつもと様子が違う。壁から素早く室内に浸透し、ゆらゆらと身を波打たせながらまっすぐこちらへ向かってくる。お婆さんが弱っているから自由に動き回れるのだ。とは言え彼女のような大妖怪の体内に入り込んで取り憑けるほどの力はない。彼らの標的は、わたしだ。
「止めなさい」
お婆さんの声がした。いささか眠そうな、落ち着いた穏やかな口調だった。
「寝ない子にはおばけが来ると言うけれど、寝ていても来るのはマナー違反だわ」
わたしは胸が詰まってまた泣き出しそうになりながら、振り返ってお婆さんを見上げた。そして、息を呑んだ。お婆さんの表情が声とは真逆だったからだ。辛そうなわけではない。怒っているわけでもない。これまで一度もわたしに見せたことのない、酷薄な無表情だった。
わたしは内臓に鳥肌が立つような異物感に襲われた。同時にあることを思い出した。地霊殿に住み着く前、街で最年長の犬のお爺さんから聞いた話だ。彼は途方もない昔、旧都が繁華街だった時代に、古明地さとりという当時最も恐れられた覚り妖怪を遠目に見かけたことがあると言っていた。お婆さんのお姉さんだ。
「向こうもこっちを見た、その瞬間のことは一生忘れないよ、減った、そう思った、彼女の視線に接した途端、自分が減少していくような気がしたんだ、肩とか前脚とか脇腹とか、彼女に見つめられた部分は見つめられたっていうよりごっそり削り取られたような感じになる、自分の一部が具体的に奪われて、彼女に属する別の一部へと変化した、そんな感覚だった」
怨霊達に据えられているお婆さんの目に、わたしは似たような印象を抱いた。自分が減る、元々肉体と精神の大半を喪失している怨霊が更に自分を失くしたら、それはゼロになるということだ。彼らが怯むのも分かる。お婆さんはすぐに平時の軽やかな物腰に戻ったが、怨霊達はすっかり萎縮して、お詫びのつもりなのか、廊下に置きっぱなしになっていた花瓶を担いできてエンドテーブルに飾った。
「あら、ありがとう、あなた達も飾ったら花や死体みたいに可愛いだろうけど、部屋が冷えてしまうからね、代わりに家事でも手伝って貰おうかしら」
わたしは今、中庭に穴を掘っている。お婆さんの亡骸を埋める穴だ。朝方から雪が降り出して、もう大分積もった。百万人の天使が毟り落とした羽のような、柔らかくてしなやかな雪だ。白く霞んだ景色の中で、わたしが掘り進めている人一人分の穴と、雪の上に横たわっているお婆さんの亡骸だけが鮮明だった。
これがわたしの、人型になって初めての仕事だ。結局、この手でお婆さんに料理を作ってあげることも出来なかった。昨夜、胸騒ぎがして、修行を早めに切り上げてお婆さんの部屋へ帰ろうとしたとき、身体が突然重くなった。ふらつく足で立ち上がり、洗面台の鏡を覗き込んで、見慣れない自分の顔を確かめたわたしは、大慌てで部屋へ走った。ドアを開けた瞬間、煙たいような、焦げたような匂いが鼻を突いた。死の匂いだ。お婆さんは僅かに頭をもたげてわたしを見て、ゆっくりと大きく瞬きをした。
お婆さん、御免なさい、こんなに遅くなって、恩返しとか、したかったんだけど、何もしてあげられなくて。
「いいえ、あなたは十分、してくれたわ」
お婆さんは、痩せた指で、わたしの短い紫色の髪を撫でて、目尻に涙を浮かべた。お婆さんが泣くなんて信じられなくて、どこか痛いの、と聞いたら、ええ、目が痛いの、久し振りに泣いたんですもの、全く、何て運命かしら、そう言って不意に少女のように笑い、そっと息を引き取った。
人型は悲しみや痛み以外の理由でも涙を流すことがあるそうだ。泣きながら笑うというのは一体どういう感情なのだろう? お婆さんは最期に何を泣き、何を笑ったのだろう?
雪が止んだら、お婆さんが好きだった薔薇をここに植えようと思う。怨霊達は人型のわたしを何故だかやけに恐がっている。少し脅してやれば手伝ってくれる筈だ。お婆さんのお姉さんが育てたという薔薇園は、きっと英雄達の弾幕のように美しかったのだろう。わたしでもそれに匹敵するものを作れるだろうか。ともかく、やれるだけのことはやってみよう。この新しい手と足を、お婆さんのために使う機会は永遠に失われてしまったが、お婆さんの思い出のために使うことは今からだって出来るのだから。
あそこは地霊殿と呼ばれている、仲間の妖怪犬がそう教えてくれた。わたし達が住処にしている旧都は廃棄されて久しく、怨霊が至るところを徘徊しているため、真っ当な妖怪ならまず近付かない文字通りのゴーストタウンなのだが、わたし達のような野良犬ですら気味悪がって避けているのがその地霊殿だった。あの館には魔女がいる、という噂をよく耳にしたものだ。
「魔女? 捕まったら煮て食べられちゃうわけ?」
「違う、あいつが食うのは心だ、身体なんか幾ら食われても構わないけど心を食われたら終わりだよ、昔、怨霊に取り憑かれた奴を見たことがあるんだけどね、そいつはずっと花を食ってた、花だよ、切り傷みたいに綺麗な赤い花を一枚一枚むしって一日かけて丁寧に食うんだ、何故だと思う? 怨霊ってのは普通暗くて湿った場所にいるからどいつも暗くて湿った性格になる、それで妖怪に取り憑いて物を食ったり出来るようになった怨霊は、花とかペンキとか自分が持ってない明るい色を本能的に求めるんだろうな、心を食われるってのはそういうことだよ、自分は花なんて食いたくないのに妖怪自身はそのことを忘れてる、怨霊にどっぷり支配されてるもんだから、自分が本当は一日中花を食ってるような妖怪じゃない、ってことをもう覚えてないんだ、ああいう風になりたくなかったら地霊殿に忍び込んでやろうとか考えるんじゃないよ」
お婆さんはわたしの心から、そんな根も葉もない花の噂話を読み取って静かに笑った。
「いえ、何だか懐かしくてね、子供の頃の私は恐がられたり嫌われたりするのに耐えられなくて、一度この目を閉じてしまったこともあるのよ、でも今、こうやって皆の恐怖や嫌悪を眺めていても悲しくはないわ、あるべき物があるべき場所に収まっている、とても自然なことだと思えるの、私も歳を取ったのね、長く生きていると何もかもが変わってしまったような気がするのだけど、恐れや憎しみはいつの時代も変わらずにある、それが、古いお婆ちゃんの私を安心させてくれるのよ」
この世がまだ賑やかだった頃、覚り妖怪がどれほど虐げられていたのか、わたしに想像出来るのはほんの一端に過ぎない。彼らは涙を流す器官を人より多く持っているせいで、人一倍痛みを授かってしまうのだろうか。
お婆さんの部屋には頑丈な暖炉が設えてあり、いつも火が焚かれていた。館中の壁が罅割れたり崩れたりしていて絶えず隙間風が吹き込んでくるし、何より怨霊が生み出す冷気のせいで酷く寒いのだ。お婆さんは揺り椅子に座りわたしを膝に乗せて様々な昔話を聞かせてくれた。かつてこの館の主だったお姉さんのこと、彼女が飼っていた動物達のこと、彼女のために人の形を得た猫と鴉のこと。二匹はわたしでさえ名を知っている幻想郷の英雄達と闘ったこともあるのだという。
わたしは暖炉で爆ぜる火の粉を眺めながら、彼女達が交わした幾千の弾幕に思いを馳せた。それらは地底の無限の夜に束の間、莫大な光を齎したことだろう。地底に夜明けが訪れた、最初で最後の一日だったかもしれない。猫耳と翼を生やした二つの人型の姿はわたしの胸に遠く映った。思い出というより歴史を聞いているようだった。
深夜、お婆さんが寝入る頃に決まって怨霊が現れる。暖炉の埋み火に幽かに照らされた彼らは、風に靡く無数の青白いカーテンに見えた。わたしは毛布の中で小さく震えていたが、どの影も危害を加えようとする気配はなく、わたし達を遠巻きに見つめているだけだった。お婆さんの力に怯えているのだ。だから彼女が目を覚ますと、幕が降りるようにひっそりと消えてしまうのが常だった。
起きている間、お婆さんは館の掃除にかなりの時間を費やした。地霊殿はお城のように広いから、彼女一人で全ての部屋を回るには何ヵ月もかかる。一巡りする頃には大半の部屋が以前より厚い埃に覆われている。埃の重みでピアノが鳴ることもある。鍵盤を叩くのは今や灰色の時の指先だけなのだ。大抵はでたらめな単音で終わるが、稀に一つの曲のようなものになったりもする。それが聴こえてくると、お婆さんは作業の手を止めて懐かしそうに耳を傾けるのだった。
あのピアノ、誰が使っていたの?
「私のお姉さんよ、私も教わったんだけど、覚えが悪くてよしてしまったの」
後悔してる?
「そうね、ちょっとしてるかも、でも後悔なら、していないことの方が少ないわ」
旧都には放置されたままの野菜畑や果樹園が幾つもあり、怨霊の影響か作物はどれも異常に肥大化している。代わりに物凄く不味いのだが、お婆さんの手にかかると不思議にまともな料理が出来上がる。
お婆さんの名前みたいに美味しいよ。
「名前? 私の?」
こぉいしぃ。
「こ、が無ければきっともっと美味しく作れたのね」
お婆さんは得意気に胸を張った。催眠術で味覚を操作されていることにわたしが気付いたのは、随分後になってからだ。実は彼女は料理が苦手だった。なのに、腕と第三の目を振るって朝昼晩食事を作ってくれたのだ。三食の他にいわゆるおやつも食べきれないくらい振る舞われた。
「掃除、手伝って貰ってるからね」
手伝いと言えるようなことは全然出来ていない。もっと身体が大きければな、と思った。切実に考えたわけではない。わたしが本格的に人型になるための修行を始めたのは、お婆さんが病に伏してからだった。
それは秋のある日のことで、お婆さんは花瓶の水を換えに外の井戸まで行って、戻ってくる途中だった。花瓶には薔薇が活けてあった。お婆さんがまだ子供だった頃、彼女のお姉さんが中庭一面を薔薇園にしていたから、特別に愛着があるのだという。現在の中庭は、折れた列柱や剥がれた漆喰や倒壊した四阿の残骸と共に藪枯らしが蔓延っていて、薔薇は一本も残っていない。花瓶の薔薇は外から摘んできたものだった。
「水にアスピリンを入れると長保ちするのよ、花も痛みを感じるのかしら」
お婆さんは、廊下の冷たい床に座り込むようにして気を失っていた。花瓶はやや離れた場所にあって、水一滴零れていない。自分が数秒後にどうなるか理解していて、落としたり蹴倒したりして割ってしまうことのないように、あらかじめ配慮してそこに置いたようだった。わたしはお婆さんが死んじゃったのだと勘違いしてしばらく泣いていた。息があることが分かって、安堵の余り花瓶の上にへたり込みそうになった。
どうにか彼女を部屋まで引きずっていき、ベッドへ寝かせたときにはもう、疲れきって一歩も歩けなかった。それからようやく、お医者さんを呼ばなければいけないということに思い至った。でも妖怪を診てくれる医者なんているのだろうか。いたとして、どうやって意思を伝えればいいのだろう。わたしの言葉が通じる人型はお婆さんだけだ。
迷っているうちに、いつの間にか眠っていたらしい。急激に部屋の温度が下がり、暖炉の火が消えた。その音で飛び起きた。怨霊達だ。わたしは瞬く間に精神的にも体温的にも凍り付いた。怨霊達はいつもと様子が違う。壁から素早く室内に浸透し、ゆらゆらと身を波打たせながらまっすぐこちらへ向かってくる。お婆さんが弱っているから自由に動き回れるのだ。とは言え彼女のような大妖怪の体内に入り込んで取り憑けるほどの力はない。彼らの標的は、わたしだ。
「止めなさい」
お婆さんの声がした。いささか眠そうな、落ち着いた穏やかな口調だった。
「寝ない子にはおばけが来ると言うけれど、寝ていても来るのはマナー違反だわ」
わたしは胸が詰まってまた泣き出しそうになりながら、振り返ってお婆さんを見上げた。そして、息を呑んだ。お婆さんの表情が声とは真逆だったからだ。辛そうなわけではない。怒っているわけでもない。これまで一度もわたしに見せたことのない、酷薄な無表情だった。
わたしは内臓に鳥肌が立つような異物感に襲われた。同時にあることを思い出した。地霊殿に住み着く前、街で最年長の犬のお爺さんから聞いた話だ。彼は途方もない昔、旧都が繁華街だった時代に、古明地さとりという当時最も恐れられた覚り妖怪を遠目に見かけたことがあると言っていた。お婆さんのお姉さんだ。
「向こうもこっちを見た、その瞬間のことは一生忘れないよ、減った、そう思った、彼女の視線に接した途端、自分が減少していくような気がしたんだ、肩とか前脚とか脇腹とか、彼女に見つめられた部分は見つめられたっていうよりごっそり削り取られたような感じになる、自分の一部が具体的に奪われて、彼女に属する別の一部へと変化した、そんな感覚だった」
怨霊達に据えられているお婆さんの目に、わたしは似たような印象を抱いた。自分が減る、元々肉体と精神の大半を喪失している怨霊が更に自分を失くしたら、それはゼロになるということだ。彼らが怯むのも分かる。お婆さんはすぐに平時の軽やかな物腰に戻ったが、怨霊達はすっかり萎縮して、お詫びのつもりなのか、廊下に置きっぱなしになっていた花瓶を担いできてエンドテーブルに飾った。
「あら、ありがとう、あなた達も飾ったら花や死体みたいに可愛いだろうけど、部屋が冷えてしまうからね、代わりに家事でも手伝って貰おうかしら」
わたしは今、中庭に穴を掘っている。お婆さんの亡骸を埋める穴だ。朝方から雪が降り出して、もう大分積もった。百万人の天使が毟り落とした羽のような、柔らかくてしなやかな雪だ。白く霞んだ景色の中で、わたしが掘り進めている人一人分の穴と、雪の上に横たわっているお婆さんの亡骸だけが鮮明だった。
これがわたしの、人型になって初めての仕事だ。結局、この手でお婆さんに料理を作ってあげることも出来なかった。昨夜、胸騒ぎがして、修行を早めに切り上げてお婆さんの部屋へ帰ろうとしたとき、身体が突然重くなった。ふらつく足で立ち上がり、洗面台の鏡を覗き込んで、見慣れない自分の顔を確かめたわたしは、大慌てで部屋へ走った。ドアを開けた瞬間、煙たいような、焦げたような匂いが鼻を突いた。死の匂いだ。お婆さんは僅かに頭をもたげてわたしを見て、ゆっくりと大きく瞬きをした。
お婆さん、御免なさい、こんなに遅くなって、恩返しとか、したかったんだけど、何もしてあげられなくて。
「いいえ、あなたは十分、してくれたわ」
お婆さんは、痩せた指で、わたしの短い紫色の髪を撫でて、目尻に涙を浮かべた。お婆さんが泣くなんて信じられなくて、どこか痛いの、と聞いたら、ええ、目が痛いの、久し振りに泣いたんですもの、全く、何て運命かしら、そう言って不意に少女のように笑い、そっと息を引き取った。
人型は悲しみや痛み以外の理由でも涙を流すことがあるそうだ。泣きながら笑うというのは一体どういう感情なのだろう? お婆さんは最期に何を泣き、何を笑ったのだろう?
雪が止んだら、お婆さんが好きだった薔薇をここに植えようと思う。怨霊達は人型のわたしを何故だかやけに恐がっている。少し脅してやれば手伝ってくれる筈だ。お婆さんのお姉さんが育てたという薔薇園は、きっと英雄達の弾幕のように美しかったのだろう。わたしでもそれに匹敵するものを作れるだろうか。ともかく、やれるだけのことはやってみよう。この新しい手と足を、お婆さんのために使う機会は永遠に失われてしまったが、お婆さんの思い出のために使うことは今からだって出来るのだから。
どうしてだか一番印象的なのが「覚えが悪くてよしてしまったの」という彼女の口調でした。
密度が濃く、空気感のある良い作品で、出会えたことを嬉しく思います。
何とも言えない切なさが良かったです
さて、子犬はどんな人型になったのでしょうね
あぁ、たまらない
他の妖怪はみんな死んじゃったのかなぁ
魅力的な雰囲気に文章、素敵です
この物語のこいしはお婆ちゃん。
よって可愛いお婆ちゃんという図式が頭の中に浮かびました。
面白かったです。