すぐに来て、とメッセを送った。
二人だけの秘封倶楽部だ。相方の履修状況なんてスケジュール帳を見るまでもなく覚えている。今日は火曜日。蓮子は二限に岡崎教授のゼミに顔を出して、三限にはギリシャ哲学、そして四限に統一物理学実習がある。火曜日の蓮子は忙しい。だから、四限が終わるまで、ジッと待ったのだ。今日見た夢は、とても休み時間に語り尽くせるような内容じゃない。そう思った。
場所はいつもの喫茶店。紅茶とケーキが美味しくて、お客さんもあまりいないから、じっくりと話ができる場所。四限がなかった私は、三限が終わってすぐにここへ来た。少し気持ちとか話す内容とか、そういうことを整理しなくちゃいけないと思ったから。
蓮子から、判った、と返事がくる。デバイスの画面をオフにすると、ふふ、と笑い声が唇から零れた。
蓮子はなんて言うだろう。
私が見た夢の内容を聞いて。
夢の中で出会った人のことを聞いて。
きっと、驚いて目を真ん丸にするに違いない。そう思った。ちょっとした悪戯を準備しているみたいな気分。彼女の驚き顔は、とてもチャーミングだ。日本人は表情を表に出さない、なんて母国では聞いてたけど、蓮子は例外みたい。コロコロ変わる彼女の表情は、見ていて飽きない。それを見るのが楽しくて、不良サークルの活動に精を出している節すらある。
秘封倶楽部。私たちの愛する不良サークル。活動内容は結界の境目を暴くこと。
パラレルワールドがSFの専売特許じゃなくなったのは、ここ最近のことだと記憶してた。二重スリット実験に端を発して、分岐した可能性が同時存在するという世界観が生まれたのは何百年も前のことだけど、それでも人々が単一の世界という概念に固執した時代は短い物じゃなかった。
私たちの存在する世界と違う世界を目指す。
その考え方が狂人のそれだと認識される時代。
いまとなっては、ハイハイ、って感じだけど、驚くことにそれが一般常識だった時代と、この世界は地続きだ。まあ、日々を生きるために費やす人々が、それまでの世界観を改革するのに長い時間が必要なのは、歴史が証明している。じゃなきゃガリレオ・ガリレイが異端審問に掛けられることもなかったはず。
だからこそ、結界の存在や並行世界の実在が公に証明されるまで、違う世界という考え方は夢見る少年少女の妄想と片付けられていたと思ってたのだけど……どんな時代でも、似たような考えの人は居るってことだろう。本気で別世界を求める人。ここじゃない世界へ旅立とうと思う人。奇しくも私たちの活動理念と同じ志を持つ人。
――それがまさか、百年以上前の人だなんて、それこそ夢みたいだとも思うけれど。
カラン、と喫茶店の入口に付けられたベルが鳴る。そちらへ目を向ければ、特徴的な黒い帽子のシルエットが窺える。我が相方、宇佐見蓮子さんの登場だ。
今まで聞いてなかったけれど、今日はたっぷりと秘封倶楽部について問い質さねばなるまい。サークルの歴史。私たち二人が意気投合することで誕生したと思っていた会合。その原点と、宇佐見家の数奇な血筋について。
「待った?」
蓮子が私の対面に座って、帽子を脱ぐ。そうそう、帽子についても聞いてみよう。アナタのトレードマーク。それを被るようになった理由は、どこにあるのって。
「別に待ってないわ。遅刻だとも思わない。私が呼びだしたんだしね」
「メリーはまたそんなイジワルを言う……。私をあんまり遅刻キャラにしないでよね」
「事実じゃない」
「ある一点の事実を切り出して使いまわせば、それはいつしか虚構になるわ。ゴッホは自分の耳を切り落とした人じゃなくて、貧乏な画家だったのよ」
「どちらも真に思えるけれど?」
「真実のパーセンテージの話よ。ゴッホだって、耳を切った話ばかり取り沙汰されるんじゃなくて、絵について語って欲しいと願うと思わない?」
ぶぅ、と唇を尖らせた蓮子は、注文を聞きに来た店員さんにアイスティーを頼む。店員さんが居なくなってから、さて、と居住まいを正した私は、
「蓮子。今日は秘封倶楽部について喋って貰うわよ。洗いざらい」
「へ? どういうこと? まさか政府の諜報官にでも鞍替えしたの?」
「そうじゃないわ。私の夢の話。面白い子に逢ったの。夢の中の不思議な世界でね」
私はそこでもったいぶるみたいに、氷の半分とけたミルクティーを飲み、また夢の話か、と少しうんざりしたような蓮子に微笑みかける。
身体を前傾させ、両肘をテーブルに着け、組んだ手の上に顎を乗せて、
「――こんな夢を、見たんだけど……」
◆
目を覚ませば、私は竹林の中。
いや、目を覚ましたという表現は正しくない。きっと私は眠ってる。夢の中で、結界を越えてしまうという私の奇妙な体質。それが今日も適応されてしまったらしい。
夢の中の世界は危険だ。
その世界では、現実の常識なんて通用してくれない。恐ろしい化け物がいたり、奇妙な生物がいたり。電灯なんてものもないし、警官がパトロールしてることもない。傷を負わされたら、現実の私の身体も怪我をする。それでサナトリウムに幽閉されたのは、苦い思い出だ。
けれど私が直面している事態が、秘封倶楽部の活動に合致するのも事実。
だから私は、怖いとか帰りたいとか思うんじゃなくて、できる限り楽しむようにしている。私が生きている現実と、全く異なるルールで動く世界。それに触れる経験は得難いものだって、前向きに。
竹林。以前もここに来た記憶がある。その時は、紅い眼の怪物や火の鳥なんかを見たんだっけ。天然もののタケノコを持って帰ったのも、記憶に新しい。タケノコの調理があんなに面倒臭いものだとは、古いレシピ本のアーカイヴを見るまで知る由もなかったけど。
私は歩き出す。聳える竹の先に見える月は、ゾッとするくらいに輝いてる。風は心地いいのだけど、ゆらゆら揺れる竹たちは、ちょっぴり不気味。まるでこの場に居ない誰かを呼ぼうと、大きく手を振っているみたいで。
確かこの竹林を抜けるためには、道案内が必須だったはず。けれど、前の時みたいに誰かが近くに居る気配はなかった。まあ、目が覚めるまで竹林を歩き続けるのも悪くはないかな、なんて考えて、枯れた竹の葉のカーペットの上を進んでいく。
ふかふかとした地面。転んで怪我をする人を減らすという名目で、都市部では地面の素材を前時代的なアスファルトから、スポンジか天使の羽の枕みたいに柔らかな素材へと変える試みがなされてるけど、そんなことをしなくても竹の葉っぱを使えばいいのに、と思った。
「――あらら」
聞こえた。何かの声。
私は周囲を見回す。けれど、何の姿も見えない。暗がりの中に、瑞々しい竹が並んでいるばかり。私はどうするべきだろう。走って逃げようか、それともこの場に立ち尽くして、親切な誰かの到来を信じるか。
そう迷い始めた途端、
「ちょっとそこのアナタ――って、うわわわわ! ちょっと退いて退いて! 危ないわよ!」
声は私の頭上から聞こえた。見上げれば、月を隠すみたいに頭上から接近してくる何かの影。どうも女の子みたい。親方、空から女の子が。
「きゃ!」
私は咄嗟に身をかがめて、頭を庇う。空から落ちてくる女の子は、悲鳴を上げて私の頭をかすり、地面に激突する。そんな音がした。映画みたいに両手で受け止めるのは、私の力じゃ絶対無理。
恐る恐る、音のした方を見る。グロテスクな結果を想像してたのだけど、予想に反してそこには「痛ててて……」なんて瞳に涙を溜める女の子の姿があった。頭が下、足は上。そんな感じで逆さまになってて、スカートの中身がモロ見えになっている。白。
「だ、大丈夫……?」
頭上から降ってきた天地無用ガールに、私はおずおずと声を掛ける。見る限りでは普通の女の子だ。いや、普通の女の子は空から落ちてくれば無事じゃ済まないし、裏地にルーン文字がプリントされた、どこで買ったの? って感じのマントも羽織らないけど、それでもまあ、一般的に少女と呼んでいいカテゴリーには入ってた。
「え、えぇ……ありがとう……日本人には見えないけど、日本語上手ね……」
涙目の少女が、逆さまの状態から元に戻る。落下の衝撃で落としたらしい、どこかで見たような黒いハットを拾い上げ、額を抑えながら立ち上がった。
「えっと……私は誰だっけ……ここに居る私は本当に私……? ああ、いや、大丈夫。私は大変健康です……。ところでアナタ、どうしてこんなところに? 夜中に竹林を歩くなんて、って思ったから、声を掛けようとしたんだけど……」
赤眼鏡の向こうから、少女が興味深そうに私の身体を検分してくる。初対面にしては、ちょっぴり失礼だと思ってしまうくらい。良からぬことを企む人ですか? ってくらいに見られてるけど、私は大丈夫なのかしら?
「ん、ちょっと訳ありでね……。なんて説明すべきかしら……私は、夢を見ると他の世界に行っちゃう体質で、たぶんここじゃない世界から――」
「え!? それって、本当!?」
説明も半ばだというのに、不思議な少女は興奮したみたいに喰い付いてくる。何が彼女の琴線に触れたのだろう。なかなか人に伝えるのは難しい現象だと思ってたのだけど。
「うわー、まさか私以外にもそんな人が居ただなんて……! 凄いわ! アナタ、お名前は? どこに住んでるの? ね、ね、私たち、きっと仲良くなれると思わない!?」
「っ」
既視感。それも頭をガツン、と殴られるみたいに、強く。
忘れもしない。それは私が初めて蓮子と出会って、自分の眼について説明した時の彼女の反応と、そっくりそのまま同じだった。いっそ気味が悪いくらいに。
私は改めて目の前の少女を見る。好奇心で爛々と輝く、クリクリとした瞳。幅広の黒いハット。自分には何でもできる、とでも言いたげな唇。
……似てる。
髪の色も違うし、声も違う。眼鏡もしているし、年齢だって、きっと私たちより少し年下なくらい。
けれどこの不思議な少女は、私の相方、宇佐見蓮子とそっくりじゃないか。
「……あ、ごめんなさい。私、つい舞い上がっちゃって。てへへ……自己紹介がまだだったわね」
これもだ。このリアクションも、かつての蓮子とそっくり。私の記憶でも読んでるの? って聞いてみたいくらい。けれどここまで来ると、もう他人の空似とは思えない。
奇妙な確信があった。
この子が蓮子と無関係だなんて、到底思えないって。
絶句する私に構わず、少女がググッと平らな胸を張った。似ていると言えばその辺りも似てるけど、それはまあ、言及はやめておこう。無二の親友のコンプレックスをイタズラに刺激するのは、私の趣味じゃない。
そして、少女が私を見る。
かつての蓮子と同じような眼差しで、私の中の追憶を、そのままなぞるみたいに、
「――私、宇佐見菫子。秘封倶楽部の会長なのよ」
そう、自信満々に告げて――。
◆
「宇佐見菫子、ねぇ……」
思った通り、蓮子は目を真ん丸にして驚く。そんな彼女のびっくり顔が見れた時点で、当初の目的は達成されたと言ってしまっていい。私は半ば満足して、クスクスと笑いながら、
「さ、言い逃れはできないわよ? 蓮子? 私はてっきり、秘封倶楽部はアナタが創設したとばっかり思ってたけど、元ネタがあったのでしょう? それも、アナタのご先祖さまに。著作権の侵害だわ」
「むぅ……別に説明しなくてもいっか、って思ってたんだけどね……。でも、メリー。著作権は作者の死後五十年でなくなるのよ? 時効よ時効」
蓮子は観念したみたいに両手を上げて、特に悪びれる風でもなく肩を竦めると、
「そ。秘封倶楽部ってのは、私の造語じゃないわ。実家の蔵の中に仕舞ってあった、古いノートの中に書いてあったの。中身は、子供の可愛らしい落書きだったけどね。『この世の不思議を暴き、新たな世界を目指すのだ!』ってな感じでね。それにあやかったのよ」
「菫子ちゃんも、黒いハットを被ってたわ。それも、あやかったってわけ?」
「先人に対するリスペクトよ。さすがにマントまでは、恥ずかしくて着られないけどね」
それにしても、と蓮子は何やら考え込むようにして、アイスティーに口を着ける。店内を流れるボサノヴァのメロディが、こうして蓮子と顔を合わせる時間をゆったりと長引かせてくれている。そんなことを思った。
「……私が見たノート。相当古かったわよ? 昔の話だからよく覚えてないんだけど、菫子って名前に聞き覚えもない。その菫子ちゃんは、かなり昔の子よね? どうしてメリーの夢の中に出て来れたのかしら……?」
「夢の中だからこそ、結構何でもありなのかもしれないわね。空間を飛び越えてるのだから、それと密接に関係する時間だって飛び越えててもおかしくないわ。それは物理学の十八番でしょ?」
「相変わらず、変な夢ばっか見るのね。メリーの夢を論文にできれば、きっと統一物理学の研究に大きな波紋を呼ぶことになるわね」
「それで、岡崎教授みたいに学会から追放されるって?」
「もしくは逮捕ね。不可抗力とは言え、結界暴きには変わりないし、秘封倶楽部の活動についても触れないわけにはいかないし。あーあ、いつの時代も、先進的な考え方というのは狭量な社会のルールに駆逐される運命なのね」
「ガリレオが異端審問されたみたいに?」
「ガリレオが異端審問されたみたいに」
言って、蓮子はメニューに手を伸ばし、デザートのページを眺め始める。私も何か頼もう。ミルフィーユかチョコレートムースか。意表を突いてフルーツパフェという手もある。
「それで?」
メニューを閉じた蓮子が、私にメニューを手渡しながら尋ねてくる。それでって? と問い直すと、そのあとの話よ、と急かすみたいな口調で蓮子が返して来た。
「その菫子ちゃんの自己紹介を聞いて、そこで目が覚めたわけじゃないでしょ? どんな話をしたの? 今の秘封倶楽部と秘封倶楽部のオリジン。その活動の差異とか、興味があるわ」
「ああ……」
私はメニューに並ぶデザートの中から、結局ミルフィーユに決めると、店員さんを呼んで注文を済ませる。蓮子もミルフィーユが食べたかったらしいけど、どうせ分けっこするなら別のが良いわよね、とフルーツパフェを頼んだ。さすが宇佐見蓮子。私が食べたいと思った物を悉く当てに来る。
注文を取った店員さんが厨房へ戻るのを見送って、私は蓮子に向き直ると、
「……天国の話よ」
◆
「へぇー! アナタも秘封倶楽部なんですか!? びっくりしました! というかそんなに未来まで宇佐見家が途絶えてなくて、秘封倶楽部という概念が残ってることにさらにびっくりです!」
菫子ちゃんが、蓮子そっくりに目を真ん丸にして驚く。私が生きている時代のこと。私が所属してるサークルのこと。それらを説明した彼女のはしゃぎっぷりと来たら、見ててこっちまでウキウキしてくるくらいだった。
「秘封倶楽部は受け継がれた物だったってことに、私もびっくりだわ。目が覚めたら蓮子を問い質さなくっちゃ」
ほぅ、とため息を吐く。夜中だと言うのに肌寒さを感じない程度の気候だったのはありがたい限り。もう少し秋が深まってたら、話すどころではなかっただろうから。
竹林の真ん中に座って、私は菫子ちゃんと話していた。聞くところによると、彼女は二十一世紀が始まったばかりの頃の日本に住んでいて、眠る度に幻想郷へと旅立ってしまう体質の持ち主なんだとか。私が大学生だと言ったら急に敬語を使うようになったけど、彼女は私たちの生きる時代よりもずっと前の人なわけで、なんだか頭が混乱する。
そして驚くことに、彼女は超能力者なんだと言う。およそ超能力らしいことなら、ほとんどのことはできる、と自慢げに語った。なるほど、空を飛んでたのもそれが理由らしい。蓮子も変な目を持っているけど、宇佐見家の血筋というのは、なかなか数奇だ。見せて、と懇願してみたのだけど、菫子ちゃんは悪戯っぽく笑って、
「もう少し経ったら、そのうちお見せしますね」
そう、意味ありげに言う。意外とケチだった。まあ、何か思うところあってのことなんだろうな、と大人の対応に留めることにする。彼女は高校生だそうだし、あまり大人気なく喰いついても、大学生のイメージに傷をつけてしまうだろう。メリーさんは大人のレディなのだ。我慢。
「しかし、夢というのは不思議なものね。まさか百年以上前の人と、こうしてお話できるだなんて」
「えぇ。夢とはきっとそういうものなんだと思います。夢の中なら、人はどこにだって行けるし、何者にだってなれる。時間を越えるなんて、不思議じゃありませんよぉ」
菫子ちゃんがにっこりと微笑んだ。夢については、一家言あるご様子。聞けば彼女は、眠る度に必ず幻想郷に旅立ってしまうらしい。そう考えれば、夢の中で結界を越える頻度は私の方が少ない。なら彼女が何かしらの哲学を持っていても、無理はないだろう。
「アナタの夢も、とっても素敵ですよねぇ。結界を越えてしまう夢。私の夢とは、ちょっと違う気がします。私は、夢を見るという機能そのものが変質しちゃった結果だと思うんですけど、アナタの夢は、アナタ固有の能力に付随してる感じです」
「へぇ……そんなことまで判るのね。夢診断っていうか……。もしかして、超能力で私の心を読んでるとか?」
「あはっ。私、心を読むことはできないんですよぉ。想像です。あくまで想像。でも、あれですね。ハーンさんの眼の能力……境界の裂け目が見えたり、境界を飛び越えたりの能力ですか。それが夢を媒介にして発動してるとなると、困っちゃいません? どこに飛べばいいのか、座標を指定してらっしゃるわけじゃないんでしょうから」
「起きてる時は、私の眼で見える結界の裂け目に飛び込むだけだから良いんだけどね。確かに、寝てる時はランダムかも。アナタと私が出逢えたのも、ちょっとした奇跡みたいなものってことね」
「えぇ、えぇ、そうですねぇ。確かに奇跡ですよぉ。能力と複合した変則的な夢となると、まず同じ夢の世界に至ること自体が困難ですしねぇ」
そう言って、菫子ちゃんが立ち上がる。私に背を向け、月を仰ぎ見るようにしてグッと身体を伸ばした彼女は、何かを思い出したみたいに振り返ると、
「時にハーンさん。アナタは天国の場所を知っていますか?」
「天国?」
随分と唐突に話題を変えるなぁ、と思う。私自身には主だった信仰はないけれど、漠然とした天国観ならば持ち合わせている。生前、善行を積んだ人が死んだ後に行く場所。最後の審判の後、選ばれた人たちが旅立つ場所。総じて理想郷。ここではないどこか。そんな感じの答えを告げると、菫子ちゃんは首を横に振って、
「天国はここです」
言って、自分の頭を指差した。なかなかに哲学的な答えだ。それに次ぐ答えを待っていると、彼女は天使の物まねみたいな表情で笑って、
「集合意識ですよ。特定のコミュニティに属する人々に共有された世界観知識。それこそが天国になるんです。特定の場所ではなく、特定の認識を持っているか否か。誰かと世界観を共有できたかどうか。つまり、気の持ちようってことですねぇ」
「なるほどね。なかなか興味深い意見だわ」
言いつつ、私は菫子ちゃんの言葉の裏側を測っていた。どうして突然、天国の話なんか始めたんだろう。なにも自分の見識を自慢したかったわけじゃあるまい。そんなことを思っていると、彼女は赤眼鏡の向こうでスッと目を細め、
「こうしてアナタと逢えた奇跡を、ただ喜ぶだけで終わらせたくないんです。私はこれからも、アナタと世界を共有してみたい。夢の中で、アナタとお話をしたいんです。それによって、私は新たな知見や知識を得られるかもしれない。だからこそ、これからも夢の中でアナタに逢いたいな……って、そう思うわけなんですねぇ」
ははぁ、と私は思う。ずいぶんと回りくどいアプローチだったけど、つまりはそういうことが言いたかったわけか、と。こういう、背伸びをして誰かの気を引こうとするところは女子高生らしいな、と苦笑する。
けれどそうは言ったところで、私の夢というやつは私の思い通りになってくれるわけじゃない。境界を越えて別の世界に旅立ってしまうこともあれば、普通にくだらない夢を見ることだってある。こうして菫子ちゃんのいる幻想郷に来れたこと自体が、天文学的な確率だ。境界は無数にある。平行世界は宇宙の全生物が何かを選択するたびに増えていく。普通に考えれば彼女と再会できる可能性は、ゼロの隣にコンマをおいて、どれほどゼロを並べればいいのかも判らない。遥か遠い数字だ。
アナタがこれからも私に逢いたいと言っても……なんて、オブラートに包んでその困難さを語る私に、菫子ちゃんはまたも微笑んで、
「私のいる世界の座標が判らないなら、私を座標にすればいいんです。寝る前に、私のことを考える。それが座標の代わりをしてくれると思いません? 重要なのは、アナタの夢の立ち位置を確定させてしまうこと。そうすれば、きっとまた逢えますよ」
「ロマンチックな話ねぇ」
「夢の通ひ路なんとやら、ですよ。夢の通路さえ整備してしまえば、同じ世界に来ることも難しくありません。ハーンさんが見る夢と私が存在する夢。それをリンクさせてしまえば、こっちのもんです」
眩しいばかりの月光が逆光になって、菫子ちゃんの顔がふと見えなくなる。クスクスと彼女は笑った。ミステリアスか、もしくはルナティックに。オカルトを専門とするだけあって、なかなか雰囲気がある。年齢相応には見えないくらい。
「私とアナタは、きっと同じ道を辿る運命にあるんです。ハーンさん。私を構成するモノ。アナタを構成するモノ。私たちは、きっと同じ素材でできてる……そんなのって、素敵じゃありません?」
「あら、口説き文句? それにしては、ちょっぴりロマンが足りないわよ?」
「そうですか? 夢があると思うんですけどねぇ。文字通り、夢みたいな話です。私はそう思いますよ、ふふふ」
よく笑う子だ。私は菫子ちゃんのことを、そんな風に定義づける。彼女はきっと、自分と同じような体質の持ち主に逢えて、嬉しくて仕方がないらしい。それはそうだろうな、とも思う。眠ったら夢を見るわけじゃなく、別の世界へと旅立ってしまう人なんて、そうそう居るもんじゃない。もしもそんな人が大勢いれば、心理学者が過労で倒れてしまう。
そんな他愛もないことを考えていると、不意に目眩にも似た症状に見舞われる。視界がグラリと歪んで、私は身体の先端から自分の存在が希薄になっていく気配を感じた。目覚めの予兆。異世界旅行も終わりの時間だ。
「ん、私はそろそろ目が覚めるみたい。暫しのお別れね」
「そうですか。それは残念です。もっともっと、アナタとたくさんお話をしたかったんですけどねぇ。こうして、同じ夢の世界に居られる間に」
「まあ、また夢で逢いましょう。今度は寝るときに、アナタのことを考えてみるわ」
「えぇ、お願いします。アナタの思いを座標にして、私はきっとアナタを探してみせます。きっと。それでは御機嫌よう、ハーンさん。それでは、また近い内に逢いましょうね――」
――夢を、現に変えてしまうために。
そんな言葉を別れの挨拶にして。
私は手を振る菫子ちゃんにさよならを告げ、現実世界への帰還を果たしたのだった。
◆
「それで、私が見た夢はお終い。まったく、宇佐見家というのは数奇な家系よね。百年以上前から今の蓮子と同じようなことをしようとして、超能力まで持ってる女の子を排出したりしたのだから……」
話の途中で運ばれて来たミルフィーユを突きながら、蓮子に微笑みかける。けれど彼女は、リアクションもせずに何やら考え込んでいる様子だった。せっかくのフルーツパフェもスプーンで掬われることなく、ソフトクリームの先っぽが融け始めている。
「……おーい、蓮子さーん?」
彼女の目の前で、ヒラヒラと手を振ってみる。彼女はそれでハッとしたようで、あぁ、なんてそれこそ夢から覚めたみたいな声を出して、こちらに視線を向けた。
「考え事? それとも、嫉妬かしら? 百年以上のご先祖様に嫉妬するような真似をさせちゃうなんて、私も罪な女だわ」
「違う違う。残念だけど、嫉妬じゃないわよ。メリーを悪女にするわけにはいかないわ。ただ……」
「ただ?」
蓮子は自分の考えを口にするべきかどうか、思案しているように見えた。どういうことだろう。蓮子らしくもない。普段なら、面倒臭そうに私の夢の話に付き合ってくれながらも、自分の考えを忌憚なく話してくれるというのに。
彼女がスプーンを握る。パフェに乗っていた合成メロンを口に運び、もぐもぐとやってから、やがてため息を吐くと、
「……なんか、変だなって。どこがどう変なのかって聞かれても、困っちゃうんだけど」
「変? 私が菫子ちゃんに逢ったこと? それとも、アナタのご先祖様が超能力者だったこと? アナタだって、気持ち悪い眼を持ってるじゃない」
「メリーは人のこと言えないでしょ。って、そうじゃなくてね……」
蓮子は首を横に振ると、やっと始めたフルーツパフェの攻略を中断して、スプーンを紙ナプキンの上に置いてしまう。そして腕を組んで、また難しい顔を作り上げるのだ。
「どうして菫子ちゃんは、そんなにメリーに逢いたがったのかしら。夢の中で」
「自分の創ったサークルの後輩だもの。夢で他の世界に旅立つっていう、同じ境遇の共有者でもある。私は不思議だと思わなかったけど?」
「そう。そうなのよね……そこに違和感はないの。けれど……彼女はずいぶんと夢に詳しいのね。思いを座標にするとか、夢の中でアナタをきっと見つける、とか……。それも、超能力者だから?」
「夢に対しては一家言ある様子だったわ。きっと、夢の中で活動する頻度が私よりも多かったのだから、ある程度は適応したんじゃないかしら」
「うーん、そんなものなのかしらねぇ……」
蓮子はどこか納得がいってないみたいに首をひねる。ひとつひとつの疑問点は潰せても、まだ何か引っかかる物を感じるらしい。私はと言えば、どうして蓮子がそんなにも納得がいかないのか、よく判らない。実際に菫子ちゃんに逢って話をしたかどうかの差なのだろうか。
「……ま、何か不明な点でもあるなら、今夜にでも聞いておくわよ? 私がまた境界を抜けて、あの子に逢えたら、の話だけど」
「え? 逢うつもりなの?」
「えぇ。約束したし、一応ね……。何か、マズイことでも?」
「いや、特にはない、と思うんだけど……」
「歯切れが悪いわねぇ。何か変な物でも食べた? 秘封倶楽部の後継者とは思えないわよ?」
「うぅ……確かに、何なのかしらね、この感じ。自分でもよく判らないわ……。ハァ、もしかしたらメリーの言う通り、菫子ちゃんに嫉妬してるのかも。メリーを取られるなんてヤダって感じで」
蓮子がため息をひとつ吐く。ダブル宇佐見から取り合いをされる私、という構図が即座に頭に浮かんだ。あらあら、喧嘩しないで。私はひとりしかいないのよ。引っ張る手を途中で離した方の宇佐見さんが、本当に私を愛する宇佐見さんです。何考えてるんだ私は。
「いいじゃない。新旧秘封倶楽部が夢の中で繋がるなんて、素敵だと思うわ。その気になれば、トリフネの時みたいに蓮子を連れて行けるかもだし……ふわ」
込み上げたあくびを、右手で隠す。何だか眠気が強い。疲れてるのかも。昨日もきちんと十二時にはベッドに入ったのだけど、今日はどこか身体がダルい気もする。そんな私の体調を悟ったか、蓮子が心配げな表情で、
「眠いの? まだ五時よ?」
「うん……たっぷり眠ったはずなんだけどね……蓮子に菫子ちゃんの話ができて、気が緩んだのかしら?」
「ま、仕方ない気もするわね。夢の中でも意識があって、起きてる時と同じように動いてたってことでしょ? 脳が休息できてないのかも」
「そう考えると、菫子ちゃんは災難よね。眠る度に別の世界に旅立っちゃうってことは、かなり脳に負担もありそうだわ。夢も現実も、綯交ぜになっちゃいそう」
「まさしく、夢を現に変えちゃってるわけね。メリーの夢、ちょっとうらやましいなって思ったこともあるんだけど、私の場合は実生活に支障が出るわ」
「遅刻とか寝坊とかね。アナタ、今年の単位は大丈夫なの?」
「もちろん平気よ。ギリギリ平気」
「それは平気とはあまり言わないんじゃなくて?」
「進級できればいいのよ……宇佐見菫子、か……」
蓮子は肩を竦めて、フルーツパフェに取り掛かる。うん。いつもの蓮子だ。私は何だかホッとしてしまう。私の夢の話で彼女の調子が狂ってしまうのは、本意じゃないから。そんなことを思いつつ、彼女のフルーツパフェから合成イチゴを失敬する。コラ、と蓮子は笑った。
笑顔。ふと気付いたことがあった。それは、蓮子と菫子ちゃんの笑い方の違い。
蓮子は屈託なく、感情をそのまま出すみたいにして笑うけれど、菫子ちゃんの笑いは少しだけ違うような気がした。それは感情を表に出すというよりは、裏の感情を隠すみたいな、そんな感じの笑み。最初は似ていると思ったのだけど、やはり何代も違うだけあって、笑みの種類にも差が出てくるらしい。
一口分のミルフィーユを蓮子にあげて、私はそんなことを思った。
◆
目を覚ませば、私は竹林の中。
どうやら菫子ちゃんの言った方法論は、正解だったらしい。昨晩と変わらない光景を目の当たりにして、小さく息を吐く。寝る前に、彼女のことを考えてみること。それが夢の中で境界を飛び越える座標の役割をしてくれたみたい、と。
「――お待ちしてましたよ、ハーンさん」
背後から、菫子ちゃんの声がする。振り向けば、昨日と同じ格好をした蓮子のご先祖様が、嬉しそうに微笑んで佇んでいた。この笑みは本物の笑み。私と再び出会えたことを、心から喜んでる。そう率直に思えた。
「来てくれたんですね。いやぁ、とっても嬉しいです。血眼でアナタを探すつもりでいたんですけど、ハーンさんの想いを辿ることで楽に見つけられましたよぉ。これでアナタの夢の世界、私たちの逢瀬の場所を固定化できました」
「うん。私も逢えて嬉しいわ」
頭でも撫でてあげようか、と菫子ちゃんの帽子に手を伸ばしたところで、彼女はクルリと踵を返して私から離れる。なんと間の悪い。まるで彼女から避けられたみたいで、ちょっぴりへこんだ。
「さて、今夜はどんなお話をしましょうか。私は何でも良いですよ。どんな話題でもウェルカムです」
「そう? そう言えば、蓮子にアナタの話をしたわ。やっぱり私が思った通り、彼女が提唱した秘封倶楽部は、菫子ちゃんの考えたものにあやかったんですって」
「へぇ……なんだか、感無量ですね。私が残した物が、こうして私たちを繋ぎ合わせてくれたって思うと」
そう言って、菫子ちゃんが竹の根元に腰を落ち着けた。私も彼女に倣って、手近な竹に背を預けるように座る。ひんやりとした竹の固い質感が、服を通過して私の背中に伝わった。
「それだけじゃないわ。アナタの血脈もあるでしょ。そうじゃなきゃ、蓮子は誕生もしてなかったことになるもの」
「私の血脈? あはははぁ、想像もできませんね。私が結婚して、子どもを産むだなんて。有り得ないって言っちゃっていいくらいですよぉ」
「でも、そうじゃないと蓮子も宇佐見家も残らないじゃない。いま、アナタは女子高生なんでしょうけど、そのうち好きな人ができて、結婚して、温かい家庭を作り上げるんだわ」
「ないない。有り得ないです。うさ……私が、結婚するだなんて。誰かと付き合うなんて」
からからと笑って、菫子ちゃんが首を横に振る。女子高生くらいなら、お付き合いや結婚について現実的に考えられないのも無理はないな、なんて思う。私だって、まったく考えられないのだし。告白された経験はなくはないけど、特に理由もなく断ってしまったくらいだ。そういう意味では、私だって菫子ちゃんと似たようなもの。
「そう言えば……」
と、私は話題を転換させる。ハーンさんはどうなんですか? なんて彼女から切り返されたところで、それらしいコイバナなんて提供できないと思ったから。
「私は時間も空間も超えて、ここにいる。そしてアナタと話してる。アナタの時代でも、今は夜なの? 百年以上なんて時間を超越してるのに、時間帯だけは同じってのもなんだか釈然としないのだけど」
「えぇ、夜ですよ。ま、昼も夜もあまり関係ないんですけどね。私は昼間も寝てばっかりですし」
「そうなの? 勉学に支障が出そうね」
「そうでもないですよ。寝てる間も、意識として覚醒してるようなもんですから。勉強だってお茶の子さいさいです。そう考えてみると、この体質ってけっこう便利だなって思うんですよぉ」
菫子ちゃんはうんうん、ともっともらしく頷いて見せると、不意にスゥと目線を細めて、
「ハーンさんもそうなったら、きっと色々と捗りますよ。眠りは脳の休息。生物にとっては意識の途絶。その時間も自由に有効活用できるとなれば、それはある意味、人類の進化とさえ言って良い気がしますからねぇ。生物としての領分をも超えた意識……なんだかロマンがあると思いませんか?」
「聞こえは良いし、便利だなとも思うけれど……」
そう言って、私ははぐらかすみたいに笑う。眠る時間もなく行動し続けるというのは、何だか疲れてしまいそうだ。現に今日、眠る前だって、何だか体のダルさを感じていたのだし。
「毎日、眠る度にこの世界に来るというのは、ちょっと疲れちゃいそうね。私は、時々で良いかな。何の変哲もない就寝も、私は嫌いじゃないし」
「そうですか」
菫子ちゃんがにっこりと微笑む。また、あの笑みだ。蓮子とは全然違う、何かの感情や想いを覆い隠してしまうみたいな表情。影があるというわけでも、私の返答を残念だと思ってるわけでもなさそうな微笑み。けれどそれは間違いなく、本心からの顔というよりは、作られた表情のように思えてならない。
「……でも、きっとその内、ご理解いただけると思いますよ。二度目の試行。夢の通路の整備。私とハーンさんとのリンク。その成功の結果が、私とアナタの逢瀬です」
「……? どういう意味かしら? ちょっと、よく判らないかも……」
「いずれ判ります。いずれ。私はアナタを見つけた。見つける方法を確立した。つまりそういうことですよ、ふふふふ……」
菫子ちゃんが地面に両手を突き、ズイ、と顔を近づけてくる。視線は揺るがず、瞬きもせず、まるで私の眼を通して私の脳髄までも見透かそうとするみたいに。
……なんだろう。
今日の彼女は、何だか昨日とは違うみたい。何かが込み上げる。私の背筋を、その何かがそっと撫でていく。それは寒気とか怖気とか、そんなカテゴリーに収まってしまう感情。どうして私は、菫子ちゃんにそんな感情を抱かなくちゃいけないのだろう。彼女は初代秘封倶楽部の会長で、つまり私たちの先輩で、そして蓮子の先祖でもあるというのに……?
正体不明の感覚に苛まれていると、蠱惑的に微笑んでいた菫子ちゃんが、急に眉をひそめて立ち上がる。眉間に皺を寄せた彼女は、何かの影を追うみたいにキョロキョロと周囲を窺いだした。
「菫子、ちゃん?」
「シッ! 静かにしてください。いい子だから」
鋭い声で要求した彼女は、尚も竹林の狭間に視線を向け続ける。彼女の態度の急変の理由が判らず、私は口をつぐみながらも彼女の視線を追おうとする。青白い月光に照らされた竹。数メートル先に、暗がりが広がる場所。私は今更のように、この場所が危険であるということを思い出す。
やがて、十時の方向から朽ち葉を踏みしめる様な音が聞こえる。竹が窮屈そうに身体を揺さぶって。吐息。それも、お世辞にも可愛らしいとは形容のできないもの。菫子ちゃんが、その音の根源と私の間に割り込むように立つ。
そして。
濃密なヴェールのような暗闇の中から、金色に光る一対の眼が浮かび上がる。ひっ、と。私の喉から掠れたような悲鳴が漏れた。動かないでください、と菫子ちゃんが前を見つめたままに言う。先ほど聞こえた吐息は、いまや唸り声へと転じていた。
トリフネの記憶が鮮烈に脳裏を過る。見たこともない化け物に追われた時の感情。その情の名を、私は痛いくらいに知っている。
――恐怖。
「……猿の妖怪みたいですね。下級妖怪です。言葉も通じないでしょう」
「ど、どうしよう、菫子ちゃん……。逃げた方が……」
「安心してください。ハーンさん」
菫子ちゃんが、私の方を振り向く。けれどその表情は、昨日みたく月光に埋もれて判らない。彼女の紅い眼鏡だけが、微かな明かりを反射して浮かび上がっている。
「私が守って差し上げます。絶対に、ね」
一番私たちに近かった竹が、根元から倒れそうなくらいにグラリと軋む。その幹を掴んでいるのは、生皮を剥がしたみたいに真っ赤な手。私の頭なんて簡単に握り潰せそうなくらいに、その手は巨大だった。
金色の眼が近付き、月光の下に怪物が躍り出る。それは途方に暮れてしまいそうなくらいに大きな猿の姿。二メートル半は優に超え、まるで建築物が意志を持って歩いてるみたいな錯覚をする。白銀の毛並。取り出したばかりの心臓のような赤い顔。口元からだらしなくベトベトの涎を零しながら、巨大な猿が私たち二人を見下ろす。
身体が震える。呼吸もロクに出来ない。座ったままだと言うのに、崩れ落ちて気を失ってしまいそう。どう考えても勝てる生物なんかじゃない。逃げないと。今すぐ立ち上がって、菫子ちゃんの手を引いて、走らないと。そう思うのに、私の身体は生きる気力でもそぎ落とされたみたいに動いてくれなくて。
「す、菫子、ちゃん……」
彼女の背中に呼びかける。けれど菫子ちゃんは、ただ大猿を見上げたまま動こうとしない。こんな怪物に立ち向かうなんて、正気の沙汰とは言えない。
なのに彼女は――笑う。嗤う。
ダラダラと涎を垂らし、明らかに私たち二人を餌としか見ていない怪物を前にして、心の底から馬鹿にするみたいに、嘲笑う。
「クク、クックック……あぁ、私も舐められたもんですねぇ? こんな畜生如きが、この私に立ち向かおうとするなんてねぇ?
……調子に乗るなよ。下級妖怪の分際で」
ゾッとするくらいに冷酷な声。私は思わず身震いする。怪物を見たときとは異質の恐怖から、心臓を鷲掴みにされたみたい。
本当は頼もしく思うべき。怪物を前に、臆することなく啖呵を切った彼女を。私を守ると言ってくれた菫子ちゃんを。なのに、私の心を支配するのは純粋な恐れの感情だった。彼女が漏らした冷たい怒気。漆黒の殺意。その切れ端に触れただけで、私は全身の筋肉が凍りつくのを感じた。
怪物が、耳をつんざくみたいな咆哮をあげる。お腹の底から身体の芯までを震わせるような、不協和音の叫び。キーン、と高音の耳鳴りがする。鼓膜が破れてしまいそう。私は両耳を塞いで、蹲ってしまう。その間も、菫子ちゃんはまるで同じた様子もなく立ち尽くしていた。
「……眠りとは意識の断絶。一夜の夢は短い死であり、死とは永遠の眠りと言えます。
私の邪魔をするのなら、眠りなさい?
死の果てに槐安があるかどうかは、保障しかねますがね」
イカレた聴覚の中、菫子ちゃんの嘲笑うような声が届く。それを合図とばかりに大猿が右腕を振るって、彼女を握り潰そうとする。トン、と跳躍した菫子ちゃんが軽々と大猿の背後を取った。獲物を見失った怪物が振り向こうとするや否や、悲鳴らしき苦悶の声を上げる。
菫子ちゃんが何をしたのかは、大猿の身体に阻まれて判らない。けれど彼女の姿を求めて私に背を向けた怪物の背中からは、赤黒い血が滴っていた。白く枯れた竹の葉のカーペットが、ポタリポタリと垂れる血に汚される。
「はは、遅い遅い。どこ見てるんです? それで戦ってるつもりですかぁ?」
菫子ちゃんが、さも愉快そうに大猿を馬鹿にした声を出す。その声の出所は怪物の頭上。彼女は煌々と照る月を足場にでもしてるみたいに、中空で逆さまになったまま両手を掲げる。
その途端、怪物の足元がどす黒く変色し、ゴボゴボと泡を立てる液体へと転じた。それはコールタールでできた沼か何かのよう。粘つく黒の液体が大猿の身体を飲みこんでいく。怪物は慌てて這いあがろうとするけれど、もがけばもがくほどに液体が身体にまとわりついていく。
腰の辺りまで黒い沼に飲まれた大猿が、困惑の悲鳴を上げながらバタバタと両手を振り回す。地面を引っ掻いたり、竹に手を伸ばそうとしたりするのだけど、彼の触る物は全て、悪意を感じさせる挙動で彼から遠ざかる。地面は片端から液状化し、竹はその身をくねらせて回避する。まるで悪夢だ。それもとびきり性質の悪い狂夢。滑稽な踊りにも似た大猿の足掻きを見て、中空の菫子ちゃんはゲラゲラと笑いこけていた。
「あはは、あっはははは! 何ですかその無様な姿! まるでピエロですよ! 私を笑わせるために来たんですかぁ? 猿回しの猿でも目指してるんですかぁ? まったく下品な生き物ですねぇ! 汚らしい! みっともなく慌てふためいて、恥ずかしくないんですかぁ? あははははははは!!」
ひとしきり指を差して笑った菫子ちゃんが、クルリ、と回転して怪物の目の前に着地する。激昂したらしい大猿は必死に手を伸ばして彼女を掴もうとするのだけど、武骨な指先は彼女の顔まであと数センチのところで、虚しく空を掻くばかり。
「ほら、ほぉら頑張って! あともうちょっとで届きますよ! がんばれ❤ がんばれ❤ あっはははは! だらしのないオスですねぇ! こーんな可憐な女の子ひとりに良いように扱われる気分はどうです? 屈辱ですかぁ? 悔しいですかぁ? 雑魚の分際で調子に乗るからこんなことになるんですよぉ?」
彼女は怪物が届かないギリギリの距離を見極めて、盛大に大猿をおちょくり続ける。赤子をあやすみたいに手を叩いたり、顔を近づけたかと思うと振り回される彼の手を避けたり、あっかんべぇをしてみたり。怪物は大声で喚いて菫子ちゃんへと手を伸ばすのだけど、それが功を奏す様子はない。
「あぁ、おっかしい。笑った笑った。でも――もう飽きました。アナタの下品な声を聞くのも、うんざりです。反応もワンパターンですし、つまらないことこの上ない。私を五分も楽しませられないなんて、本当に下らない生き物ですね。何のために生きてきたんですかぁ?」
私は戦慄する。怪物とはいえ、他者をこうまで見下すことのできる彼女に。降りかかった火の粉を払うなんてものじゃない。それは底知れない悪意を感じさせた。自分以外の全てを、玩具くらいにしか思ってないかのような。
怖いと思った。怪物に出くわした時よりも、ずっとずっと大きい恐怖が私を襲う。いまにも逃げ出したいと思うのに、腰が抜けてしまって、身体が震えてしまって、私は立ち上がることもできずにいる。
「さて、あと十秒で殺します。判りますか? アナタは十秒で死ぬんです。その下らない命が十秒で終わります。それまで足掻いてみてください。見ててあげますから」
大猿が悲鳴をあげる。それまでの咆哮とは違う、怖れを感じさせる悲痛な叫び。言葉の通じない生き物でも、彼女の宣言が伝わったみたいに思えた。
怪物が暴れ出す。身体を無茶苦茶に動かしたり、自分を捉えて離さない黒い沼を掻き分けようとしたり。彼の両目から涙が零れるのが見えた。自分が殺されると判った生き物の、死にたくないという哀願。それをケラケラと嘲笑いながら、菫子ちゃんは両手をパーに広げてカウントダウンを始める。
「はい、じゅーう、きゅーう、はーち、なーな……」
「す、菫子ちゃん……? 何も、そこまで……」
震える声で、彼女の背中に声を掛ける。身体をのけぞらせるみたいな不自然極まりない格好で私を見た彼女が、ニヤリと唇を歪ませて、
「はぁ? なに甘いこと言ってるんですか? この妖怪は私たちを食べようとしたんですよ? アナタに危害を加えようとしたんです。そんなの、見てたら判りますよね? ハーンさんも、せっかくだからこの無様な生き物を見て笑いましょうよぉ。
……えっと、どこまで数えましたっけ? まぁ、いいや。面倒臭い。三、二、一、ゼロ。ハイおしまい」
菫子ちゃんは投げやりに言うと、パチン、と指を鳴らした。途端、紺色の玉みたいなものが無数に姿を現し、中空に浮かんだそれらが磁石に殺到する砂鉄のように怪物へと押し寄せる。紺色の玉が大猿に触れた途端、ガリガリガリ、とミキサーに石ころを投げ入れたみたいな耳障りな音が響いた。
――削ってるんだ。生きたまま、皮も肉も骨も一緒くたに。
断末魔。紺色の球に埋め尽くされた怪物の身体から、握り潰されたトマトのように勢いよく赤黒い血が噴き出してくる。怪物がうつぶせに倒れると、紺色の玉が消えた。後には凄惨な死体が残される。
胸郭からは、折れた肋骨が幾本も突き出ていた。割れた頭蓋から血液を零す脳組織がはみ出ている。腹膜が破られたのか、湯気をたてる腸らしき臓物が散乱する。白と赤の悪趣味なコントラスト。およそめでたさとは程遠いその色彩が、私の食道をすっぱい液体で焼いた。
「……うっ……」
……ひどい。
確かに、あの怪物は私たちを狙った。危害を加えられそうになった。話しても判らない相手とは戦うしかない。それを忘失するほど平和ボケてるつもりはない。
でも、いくらなんでもやり過ぎだ。オーバーキルもいいところ。あれほど一方的に嬲り殺せるなら、脅して追い返すこともできた筈だ。必死の抵抗を小馬鹿にするんじゃなくて。死への恐怖を嘲笑うんじゃなくて。
「ははぁ。びっくりしました」
鼻を鳴らした菫子ちゃんが、死骸に歩み寄る。そして頭蓋のかち割られた頭部のなれの果てを見下ろすと、露出した大脳をぶちゅりと踏み潰す。
「脳みそ、あったんですねぇ。相手との力量の差すら判らないお馬鹿さんだから、てっきり脳なんてないと思ってました。でも、あったところで意味ないですね。まともに使えないんですし? まともな夢を見る機能も備わってない脳なんか、ただのカスです。一銭の価値もない生ごみですねぇ。あーあ、靴が汚れちゃった。死んでからも私に迷惑をかけるとか、なんて不愉快な生物でしょう。死んで当然ですね」
言葉とは裏腹に、目の前の少女は嬉々とした様子で怪物の脳を踏み躙る。踵で頭蓋骨を踏み砕き、右足を奥へ奥へと突っ込んでは、執拗に脳細胞をミックスしていく。
……限界。
もう、限界だった。
彼女が怖い。一秒だって、彼女と顔を合わせることを耐えられそうにない。こんな残虐な一面を見せられて、仲良くお話ができるわけもない。彼女が私と同じ人間だなんて、私にはどうしても思えなかった。
深呼吸をして、胃の中をブチ撒けようと収縮する食道をなだめる。生まれたばかりの小鹿みたいに震える足を拳で叩いて、逃走の準備をする。他にも怪物が居るかもしれない。けれど、あの娘と一緒にいるよりは何倍もマシ。そう思って、私は黙ったまま立ち上がり、ケラケラ笑いながら死体を嬲る彼女に背を向ける――
「――どこへ行くんです?」
その言葉と共に、私の首に何かがシュルリと巻きつく。気道が締め付けられて、踏み潰された蛙みたいな声が喉から零れた。
私の首に巻き付いた何か。それは生暖かくて白い、得体の知れないモノ。その先端を飾るフサフサとした黒い毛が、私の目の前でゆらゆらと揺れていた。
私は理解する。これは尻尾だ。ウシ科の動物が持つ尻尾。締め付けを緩めようと後退し、背後へと振り向けば、私の首を拘束する尻尾は、菫子ちゃんのスカートの中から伸びているのが目に映った。
「かはっ……ア、ナタは……」
「んー、やっぱり夢ってのはひとりひとり違うんですねぇ。宇佐見さんの見た夢と、ハーンさんの見てる夢。宇佐見さんは意識だけがひとり歩きしてましたが……ハーンさんは、身体も一緒に夢の中に来てるみたいですね。生身で夢の中……変な薬でも飲みました? でもま、だから私はアナタに触れるし、アナタは私の制御下に堕ちてはくれない、と」
返り血で頬を汚した菫子ちゃんが、ニヤ、と不気味に唇を歪めて笑う。菫子ちゃんの正体――いや、違う。奇妙な確信。コイツは菫子ちゃんじゃない。こんな顔で笑う人が、蓮子の祖先である筈がない。
「御名答……やっぱりハーンさんって、頭の良い方なんですねぇ。でも残念。気付くのがちょっと遅かったですね。
私はアナタの夢の座標を認識しました。アナタの意識へと至る夢の通路の整備は終わりました。もうアナタは、私が存在する夢から逃れることはできないんです。
あとは熟すのを待つだけ……うふふ。アナタの現実は夢と混じっていきます。アナタの夢は現実と綯交ぜになっていきます。そこに転がってる生ごみの、空っぽな頭の中みたいにね。アナタの肉体もアナタの意識も、全部が夢へと転じれば、久方ぶりの御馳走の時間です。宇佐見さんを食べた時の恍惚、思い出しちゃいますよぉ、あはははははぁ」
菫子ちゃんを騙った少女が、口元からだらしなく涎を垂らす。逃げないと。何とかして、この場から逃げ出さないと。コイツは私を食べる気だ。首に巻きつく尻尾を掴み、爪を立て、拘束から逃れようと足掻く。
「あはっ。乱暴にしちゃ嫌ですよぉハーンさん。敏感なところなんですから、もっと優しくしてくださいよぉ。そんなに必死こいて逃げようとしなくたって、まだ食べやしませんからぁ。ほら、あの下劣な妖怪から守ってもあげたじゃないですかぁ。もっと仲良くしましょ。いっぱいお話しましょ。どうせアナタが夢を見る度、私が現れるんです。それなら、少しでも絆を深めておくべきだと思いません?」
彼女が首に巻き付けた尻尾を緩める。それを振り払うと、私は踵を返して全力で走り出す。クスクス、と私を弄ぶみたいな笑い声が、どれだけ走っても私の頭にこびりついていた。
あぁ、遊ばれているんだ。
あの菫子ちゃんを騙った少女は、私が逃げる様を見て楽しんでいるんだ。
ギリリ、と歯を食いしばる。怒りで恐怖を上書きしてしまおうとする。前を向いて、並び立つ竹を避けて、私はどこへとも知らずに走り続ける。
『逃げるのは構いませんよ。それは生物の本能です』
ザラザラとノイズの掛かった声が、まるで耳元で囁かれてるみたいに私の頭の中で反響する。振り返っても、彼女が追い掛けてくる様子はない。どれほど逃げても無駄だよ、と宣言されているみたいで、ゾッとする。
『けれど、逃げ場など無いのです。夢を見ない生物はいない。眠らない人間なんていない。私は夢に巣食う者。夢の世界を渡り歩くラプラスの魔。アナタがアナタの夢を見る限り、私はいつだって隣にいます。アナタの夢が現実になるまで。アナタの現実が夢になるまで。ずっとずぅぅぅぅぅぅっとアナタの肩に手を乗せ続けましょう。永久の狂夢が、“ピリオド”を打つまで、ね?』
私は耳を塞ぐ。きっとこれも無意味なのだと悟りながらも、そうする以外に足掻く方法なんて思いつかなかった。景色が変わらない。どれほど走っても、この竹藪から抜ける兆しがない。それこそ、永遠に続く狂った悪夢のように。
ここに居ちゃいけない。
はやく、目を覚まさなくちゃいけない。
そう思うのに、どうすれば良いか判らない。走るだけじゃ駄目、逃げてもきっとどうにもならない。そんなことは百も承知なのに、根本的な解決策が見えない。
と、
――ピピピピピピ……。
「っ!」
聞き慣れた音が、不意に私の耳元で聞こえてくる。忘れるはずもない、それは端末の着信音。蓮子が連絡をしてくる時の音。きっと現実世界で、彼女が端末を鳴らしているのだ。
「蓮子……!」
相方を抱きしめてキスをしたい思いを抱く。彼女が連絡をしてきた理由は判らないけれど、これで私は目を覚ませる。そう思うと、安堵がどっと私の胸に押し寄せた。
『……おやおや。目が覚めてしまうみたいですね』
少女の声がする。少しばかり残念がるような、それでもまだまだ余裕のある声。私は走るのをやめて立ち止まる。視界がグラリと歪んで、身体の先端から私の存在が希薄になっていって。
『んー、もう少しでアナタの現実にお邪魔できるところまで行けたんですがねぇ……。ま、楽しみは後に取っておくものです。どうせ明日の夢で、もう取り返しのつかない地点まで押し上げられるんですから、良しとしましょう。
アナタが夢の世界に入る度、アナタは夢へと近づく。現実世界の住民から、夢の構成物へと変化していく。私がアナタの前に現れた時点で、もう手遅れなのです。それをお忘れなきよう。
それじゃ、近い内にまた逢いましょうね』
そんな声を最後に、私の視界が暗転する。立っていた感覚の消失。平衡感覚が歪み、私は自分が横たわっていることに気が付く。
「……ッ!」
ガバ、と身体を起こす。
そこは見慣れた私の部屋。ベッドの中。寝巻がぐっしょりと汗で濡れていて、夢の中で走り続けていた私は、その疲労をそのまま持ち帰ったみたいに息を弾ませていた。
ベッド脇のチェストに置いていた端末が、蓮子からの着信を喚き立てている。荒く呼吸を繰り返しながら、汗でべっとりと張り付く前髪を掻き分けて、私は端末を手にする。受話口から、慌てたみたいな蓮子の声が聞こえてきた。
「も、もしもしメリー!? ごめん、夜中に連絡して……! でも、すぐにでも伝えなくちゃいけないことがあって――」
「っ、れん、こぉ……!」
ジワリと両目が熱を持つのが判った。安堵、感謝。そうした温かな感情が、私の鼻をツン、と刺激する。ポロポロと涙が零れる。まるで、クローゼットからお化けが出てくると思い込んでる子供みたいに。
「……メリー? どう、したの……?」
「……怖かった……私、すっごく、怖かった……」
事情を説明することもできずに泣きだす。蓮子は何かを察したみたいに、これから行くとだけ伝えて通話を切った。
蓮子が私のマンションに来てくれて、玄関のチャイムが鳴るまで、私はライナスみたいに毛布を抱きしめたまま、ベッドの上で震えていた。
◆
「――宇佐見菫子の存在は事実だったわ。私の家系に居たのも事実。けれど、私と直接血が繋がってるわけじゃなかった。彼女は、高校生のときに行方不明になってたの」
眠気覚ましに、と蓮子に渡してもらった珈琲を啜りながら、彼女の説明を聞いていた。本当は彼女が来る前にシャワーを浴びて着替えたかったのだけど、どうしても恐ろしくてそれができなかった。時刻は深夜の三時を回っている。
「そもそも女の子の落書きノートが、後生大事に仕舞われてたことが引っ掛かってたのよ。そういうのって、あとあと恥ずかしくなって処分しちゃうものでしょ?
でも、それが保管されてた。何故なら、ノートの所有者が居なくなってしまったから。残された人は、消えてしまった家族の痕跡を処分することなんてできなかったのね」
いつも通りの服を着ている蓮子は、自分の端末を操作して、とあるアーカイヴを表示する。それは主要な情報媒体を紙に頼っていた頃の写真。新聞紙というもはや考古学的な代物が、蓮子の端末に写っていた。
「……“女子高生行方不明”……」
記事の見出しには、黒地に白抜きのされた文字でそう書かれている。次いで細々とした文字を読もうとしたのだけど、蓮子は端末をチェストの上に置いて、
「行方不明になったのは、宇佐見菫子。教室で点呼を取ってた時に、突然教室から出て行って、それきりだったらしいわ。現代の神隠しとか何とか言われて、かなり話題になったみたい。行方不明になる前の彼女は、暇さえあれば眠ってしまうのび太くんみたいな子だったらしいって書かれてる。
……宇佐見菫子は、頻繁に夢の世界へと旅立った結果、神隠しに逢った。
それで、メリーが見たっていう夢。つまり菫子が存在してる夢ってのは、もしかしたら危ないものだったのかもって思ったんだけど……」
蓮子が雨に打たれる子犬を見る人みたいな目をして、私の様子を窺ってくる。夢の世界で見た光景。豹変した菫子ちゃん。そういったモノがフラッシュバックして、また自分の身体が震え出すのが判った。
「……菫子ちゃんは、きっと食べられてしまったのよ……夢の中を統べる怪物に……」
私は懸命に吐き気を堪えて、ついさっきまで見ていた夢の内容を蓮子に話した。菫子ちゃんだと思っていた少女が口走った内容、彼女の行動。その全てを、私はありありと覚えている。あんな悍ましい体験、忘れたくても簡単には忘れられない。
自分の家系に連なる人の不幸についての話だというのに、蓮子は取り乱すことなく聞いてくれた。理性的な彼女のリアクションを見て、私も少しずつ落ち着きを取り戻す。両手で包むように持っていた珈琲はいつの間にか温くなっていたけれど、全てを話し終える頃には私の震えも止まっていた。
「――眠ったら、相手の思うつぼ……まるでフレディ・クルーガーね。知ってる? 一世紀以上前の古典ホラーだけど」
「子供の頃に見たわ。それからしばらくは、寝るのが怖かった。まさか大学生になって、あの頃の恐怖が実際に襲ってくるとは思ってもみなかったけれど……」
「なんにせよ、何の対策も打たずに眠ったらアウトと考えるべきよね。どうする? 珈琲にお砂糖入れる? ブドウ糖が必要でしょ?」
「大匙四杯は欲しいわ」
「五杯にしましょ。四って数字は不吉だわ」
キッチンに向かった蓮子が、砂糖壺を取って来てくれる。冷めた珈琲にきっちりと五杯の砂糖を入れてかき回し、砂漠で脱水症状に見舞われた人みたいにコップを煽った。溶けきらなかった砂糖のせいで、口の中がじゃりじゃりする。
「情報を整理しましょう」
入れ過ぎた砂糖のおかげでさっきよりも意識が覚醒したことを自覚していると、蓮子が腕を組んでから言う。
「相手は夢の中の存在。メリーの夢の世界にいる。つまり、アナタが眠ると同時に飛び越える結界の向こう側ね。結界を飛び越えないように眠ることは?」
「……恐らく、無理ね。彼女は私の夢と自分をリンクさせた。夢の通路を整備した。アナタの夢の座標を認識した。と言っていたわ。私が眠ったら、自動的に彼女の居る世界へと飛ばされてしまうのだと思う」
「夢の中で、相手をやっつけることは?」
「それも無理。二メートルは超える怪物を遊び殺すことができるくらいの力を持ってる。まっとうに戦って勝てる相手じゃないわ」
「二度と眠らないこと……は絶対無理ね。考慮の余地なしだわ。うーん……」
蓮子が眉間に皺を寄せて、ため息のように唸る。考えれば考えるほどに打つ手がないような、そんな絶望的な気分になった。生物は眠りから逃げられない。これから一生眠らずに過ごすことなんて、現実的じゃない。それを理解してるからこそ、菫子ちゃんを騙ったあの少女はベラベラと饒舌に語ったに違いない。どうせ逃げられない、と知ってたから。
「……蓮子」
「駄目。その先は言わせない」
蓮子が、弱音を吐こうとした私の唇をプニ、と人差し指で塞いでしまう。心地のいい冷たさが、私から諦めるという選択肢を削いだ。
「これまで何度も危ない目になんて逢って来たでしょ? その度に、力を合わせて切り抜けてきたじゃない。膝を折るメリーなんて見たくないわ。私たちは秘封倶楽部よ。謎が牙を剥くなら、知恵を絞って立ち向かえばいい。そうでしょう?」
人差し指を離した蓮子が、にっこりと微笑む。その自信に、精神論に、根拠なんてないのかもしれない。けれど、不思議と萎えかけた気力が蘇ってくる。蓮子が居てくれるから。私の危機に、本気で取り組んでくれるから。
だからこそ、私は前を向ける。
「……ありがとう、蓮子」
「うん。その調子。弱音を吐きそうになった罰は、チョコレートムースで良いわよ。絶対に乗り越えて、またあの喫茶店でお喋りするんだから。ね?」
陽だまりで跳ねる仔猫みたいに人懐こく笑った蓮子が、空になった珈琲カップを持ってキッチンへと向かう。
その途中で、不意に蓮子の動きがピタリ、と止まった。
「……? 蓮子?」
まるで時間が止まってしまったかのよう。有り得ないとは思いつつも、壁際の時計を確認する。三時ニ十二分。秒針はないから、時間が停止してても判らないと遅まきながら気付く。
ベッドから立ち上がって、蓮子へと歩み寄る。いったいどうしたというのだろう。カップをシンクに置くなり、もう一杯珈琲を淹れてくれるなり、そうした行動の途中だと思ったのに、彼女はキッチンとベッドの間、何もないところで立ち止まったまま。
「どうしたの……? ねぇ……?」
蓮子の細い肩に手を乗せる。けれど、彼女は何も言わない。不意に私は不安になった。どうして蓮子は何の反応も示してくれないのだろう。何か私たちの思いも寄らないことが起きてるんじゃないか。
夢が現実になる。現実が夢になる。夢の世界の少女は、訳知り顔でそう語った。
――私がこうしているこの世界が、夢じゃないという保証は?
「ねぇ……! 蓮子ってば!」
強めに蓮子の肩を揺さぶる。すると彼女はようやくこちらを向いた。どこかぼんやりとした彼女の表情が、私を見つめてくる。
「れ、んこ……?」
「――座標、と。菫子を模した子は、言ったのよね?」
カチリ、と音がする。それは壁際の時計が時間を刻んだ音。三時二十三分。止まっていたみたいだと錯覚した時間は、当然のような顔で未来を生産し続けていた。
そして、蓮子が我が意を得たりとばかりに笑う。自分のことをプランク並みの頭脳だと称した彼女が、簡単な方程式を解説するみたいな口調で、
「座標が割れているのなら、その座標をずらせばいい。夢の世界の座標を測定して、新しい座標へと逃れてしまえばいい。私の眼の能力を忘れたなんて言わせないわよ?
――私が、メリーのコンパスになる。そうすれば、きっと逃げ切れるわ」
◆
もしかしたら人生で最期のお風呂かも知れない。寝汗をシャワーで流し、湯船に浸かりながらそんなことを思う。
蓮子が語った解決策。彼女と一緒に夢の世界へと赴き、夢の境界を探して逃げ続けること。
その手法は、推論に推論を重ねた代物だ。それが上手くいくかどうかは、神のみぞ知るといったところ。けれど、他に方法がないのは確か。
私が眠れば、尻尾の生えた少女は目的を果たすだろう。私は夢へと変換されて、かつて夢に近づき過ぎた少女と同じ運命を辿る他にない。だから、取り得る手段に賭けるしかないのだ。食べられたくないのならば。
「……本当に、上手くいくのかしら」
「大丈夫よ」
私の独り言に、蓮子が身体を洗いながら答える。平均的な成人女性よりも少しスレンダーな彼女の肢体は、真っ白な泡で覆われている。ボディーソープの使いすぎ。生きて帰れたら代金を請求してやろうかと思った。
「向こうの言い分から判断するに、彼女は夢の世界を渡り歩く存在なのでしょう? 夢を見ない生物はいない。つまり夢の世界は、数え切れないくらいに存在すると考えていい。メリーを見つけた彼女は、もう一度メリーに逢うために、メリーからのアプローチを要求した。それはつまり、アプローチがなければ見つけられなかった、と考えられるわ。天文学的な数が存在する夢の世界の中から、アナタを探せなかった……ってね」
立ち込める湯気の向こうで、蓮子が自信ありげに笑う気配が伝わる。彼女は菫子ちゃんについて調べていた結果、深夜までお風呂に入る機を逸していたらしい。ひとりになるのが怖いと思っていた私にとって、一緒に入りましょうという蓮子の申し出はありがたかった。
これから私たちがやろうとしていること。いつもの結界探索の延長線。いつもと違うのは、私の命が掛かっていること。失敗すれば私のみならず、蓮子まで夢を操る存在の手中に堕ちてしまう。私たちの掛け金は、私たち二人の命だ。
蓮子を巻き込んでしまうことは、気が進まない。
彼女の夢はまっとうな物。私に付き合わなければ、蓮子が狙われることはないはず。もし失敗しても、何とか蓮子だけは見逃してほしい。私が自分の身を捧げれば、それで彼女は助かるだろうか。
「また眉間に皺を寄せてる」
シャワーで身体を流しながら、蓮子がやれやれとばかりに肩を竦める。流れ落ちた泡が排水溝に向けて、ゆっくりと渦を描いて流れていく。泡を落とした蓮子が、私と向かい合う体勢で湯船に入って来た。ザバ、とお湯が零れて流れ切ってない泡が浮かび、お風呂場の床は雲海にでもなってしまったみたいに見える。
「メリーのことだわ。蓮子だけは見逃して貰おう、なんてこと考えてたんでしょ。そんなナーバスになってちゃ、上手く行くものも行かなくなっちゃうわよ?」
「う……」
「図星みたいね。本当に、友達甲斐があるんだかないんだか。ここは大船に乗った気で、蓮子さんの作戦の成功を祈って欲しいものだわ」
「だって……蓮子が私のせいで危ない目に遭うなんて、嫌だもの……」
言い訳みたいに呟いて、私は口元まで湯船に浸かる。腿の内側に蓮子の足が触れている感触。彼女の柔らかさ、生命の息吹。それが不安に覆われそうな心を引き上げてくれている気がした。
「メリーのせいだなんて、私が思うとでも?」
湯船の縁に身体を預けて、蓮子が悪戯っぽく笑う。そこには恐怖の色なんて微塵もない。もしかしたらこれから死ぬかもしれないなんて、蓮子はそんな怯えを感じさせない。
「でも、事実だわ」
「いいえ? 私がしたいから、そうするだけ。もう大学生よ? 自分の行動くらい、自分で責任を取るわよ。少なくとも私は、自分の命恋しさに、親友を見捨てるなんて真似はしない」
蓮子が揺らぐことなく私の眼を見据える。不意に、身体を触られるのが判った。お湯を掻き分ける蓮子の手は、幾つかの場所を経由した後に私の手に触れると、ぎゅっと指を絡めてくる。
「メリーは死なないわ。私と一緒なら、大丈夫」
蓮子の両目に、私の顔が映っている。それは自身なさげな顔をした、情けない女の子の顔。蓮子はこんなにも自信があるのに、何度も何度も大丈夫だと言ってくれるのに、それでもウジウジと悩む私の顔。
馬鹿みたいだと思った。
失敗した時のことばかり考えて、諦めてしまうことばかりを前提にして、それはつまり、蓮子を信用してないのと同じじゃないか。
どうしてこんなにも情けない女になってしまったの? マエリベリー・ハーン。
逃げられないと言われたから? 力の差を見せつけられたから?
――そんなこと、関係ない。
私は蓮子を信じよう。親友の策がうまくいくことを、祈ろう。
私たちは秘封倶楽部だ。私たちが力を合わせれば、怖いモノなんて何もない。全てを打ち砕け。あらゆる謎を解き明かせ。行く手に危険が迫っているのなら、そんなものは乗り越えてしまえばいい。
ようやく、私は蓮子の手を握り返す。お風呂の中で掴んだその手は、私に勇気をくれる気がした。蓮子の自信、絶対に何とかしてみせるという気概。それを、私も共有する。
「――うん、ありがとう。蓮子」
「よし、それでこそ私の相方だわ」
蓮子が満面の笑みを浮かべて、絡めた指を解く。お風呂から上がり、洗面台に置いていたバスタオルを手にした。
「さ、行きましょうメリー。私を、アナタの狂夢の中へと誘って。大丈夫。万が一失敗したら、一緒に死んであげるから」
◆
目を覚ませば、私は竹林の中。
もうこれで三度目だ。前回までと違うのは、隣に蓮子がいること。眠りに落ちる前にしっかりと繋いだ手。夢の世界へと辿り着いても繋がったままだったことに、安堵する。
「……北緯35度56分18秒。東経138度17分21秒。時刻は午前4時2分……驚いた。眠る前と日付が変わらないわ」
星空を眺めた蓮子が、呪文のように呟く。慌てるでもなく狼狽えるでもなく、彼女は淡々と自分の役割を果たしている。
次は私の番。夢の世界の境界をこの眼で探し当て、そこを飛び越える。それが私たちの編み出した作戦。ちゃんと境界を飛び越えられたかどうかは、蓮子が教えてくれる。何度も、何度だって、あの少女が私たちを見失うまで、同じことを続けるのだ。
「蓮子、気を付けて。前回と同じなら、あの子はもうすぐ近くに来てるはずよ」
「うん。その前に、この世界の境界を探しましょう。夢の世界が通路で行き来できるなら、必ずどこかに境界の裂け目があるはずよ」
蓮子が周囲の様子を警戒しながら言う。私は目を凝らして、サラサラと音を立てながら揺れる竹の合間を探る。そこに境界の裂け目か、それとも菫子ちゃんを模した少女の姿がないかと。
周囲に気配はない。生き物の唸り声も、こちらを探るような視線も、何も感じない。それがかえって不気味だった。あの少女は、私が夢の世界に来たことなんて、お見通しだろうに。
『とにかく進みましょう、メリー』
「えぇ……でも、気を抜かないで。いつ、どこから襲って来るか判らないわ」
『そう? そんなことはないんじゃない? もうちょっと落ち着きましょう? 案外、何もなく平和に終わるかも知れないし』
「そんな筈ないでしょ……? あの子が私を見逃すなんて思えな――」
「――メリー……? アナタ、誰と喋ってるの?」
蓮子が呆気にとられたような顔で私を見ている。何を言ってるんだ、と文句を言い掛けたところで、ハッと何が起きているかを悟る。
「蓮子……もう、あの子は来てる。いま、話しかけられたわ。アナタの声で」
「え? ど、どこに……?」
「――お友達ですか、ハーンさん? ははぁ、その子が蓮子さんですか。あんまり宇佐見菫子さんとは似てないですね」
背後から菫子ちゃんの声がする。振り向けば、そこには人懐こそうな笑みを浮かべた少女の姿。小首を傾げ、手を後ろで組んで、ジロジロと蓮子のことを見つめている。
「あぁ、なるほど。そういうことですか。友達を差し出すから、私のことは見逃してくれって奴ですか。ははぁ、首尾よくやりましたねハーンさん。選択肢としては大正解です。私、見ての通り小食なんですよぉ。さすがにふたりも食べたらお腹が破裂しちゃいます。良いですよ。アナタの申し出、お受けしましょう。蓮子さんをくれたら、私はアナタから手を引きます」
「……この子が、菫子……?」
自分勝手な言い分をベラベラ並べ立てる少女を見て、蓮子の顔が険しくなる。私は彼女の手をギュッと掴んだまま、何とか少女から逃げる算段を考えていた。
「正確には、宇佐見菫子さんの身体を再生してお借りしてるだけです。彼女は夢の粒子となり、私のお腹に収まりました。もう私の一部です。だから、こうして変身できるんですよぉ。ハーンさんの夢の欠片から、秘封倶楽部っていうワードを読み取ったんでね、面白いかなって、あはは」
自分のほっぺたをギュウとつねって、少女が笑う。まるでピエロか何かのように、口が耳まで裂けるんじゃないかというくらいに、大きく口を開けて。
「さて、ハーンさん何しに来たんです? さきほど、あとちょっとのところで逃げられちゃったもんですから、早くても二日は掛かるかな、と思ってたんですけどね。何か策があるんですか? 身代わり云々ってのは冗談としても、こちらの蓮子さんは助っ人です? 妖怪退治のエキスパートか何か? あははははぁ、私に勝てると良いですねぇ」
「――蓮子! 早く! 走るわよ!」
効果的な方法を思い付くことができず、結局私は単純な手段に訴えることにした。蓮子の手を引いて、一目散に走り出す。うわ、と転びそうにはなりながらも、蓮子はしっかり私に着いて来てくれた。
「メリー! 当てはあるの!?」
「ない! でも、あの子から離れないとダメ!」
並び立つ竹の隙間を縫うように走る。やってることは、さっきと変わらない。けれど、今回は違う。私は懸命に目を凝らしながら、どこかに境界の裂け目がないかと探す。ここは夢の世界。現実以上に、容易く揺らいでしまう世界。なら、必ず境界は見つかる。相棒の策を信じて、私は周囲に鋭く視線をやり続ける。
『何です? さっきと同じじゃないですか……いや、アナタはそんな馬鹿じゃないですよね? この世界にどんな希望を見出したんですかぁ? ここがアナタの夢である以上、アナタ以外の世界の構成物は全部、私の支配下にあるのは変わりませんのにねぇ』
少女がクスクス笑いと同時に言うや否や、目の前にあった二本の竹が急に交差して私たちの行く手を遮る。足を止めず、迂回して竹の通せんぼをやり過ごす。その次、更に次、何度も何度も竹の交差によって道を阻まれながらも、私は蓮子の手を引いて走り続ける。
「――あった!」
前方、およそ三百メートル先から、気配を感じた。広がる暗がりに針を突き刺した様な違和感。常人の視力では捉えきれないだろうけれど、私には判る。あそこに、この世界の出口がある。あの境界へと飛び込めば、この狂夢から逃げられる――!
「メリー! どこなの!?」
「あっち! 三百メートルくらい離れてる! このまま走れば――」
『……へぇ。夢の通路が判るんですか』
ゾッとするくらいに冷たい声が、頭の中に響いてくる。気付かれた。私たちの計画。でも、あの子はまだ追って来てはいない。あともう少し、たったの三百メートル走れば、それで私たちの勝ちだ。
『すみませんね。ハーンさん。アナタの能力、舐めてました。ちょっと余計なことを喋りすぎましたかね? まあ、いいでしょう』
ふぅ、とため息を吐いたような声がしたかと思うと、私たちの目の前に、パッと少女が出現する。私たちの居る場所と、境界の裂け目がある場所。その経路を遮るみたいに。
「っ!」
「お察しの通り、あれが夢の通路のひとつです。せっかくアナタの夢をこの世界に固定できたってのに、逃げられちゃ堪ったもんじゃありませんよ、あはは」
まだ少女の姿は五メートルほど離れてるというのに、彼女の声は明瞭に私の耳に届いた。行く手を塞がれたことでまっすぐ進むのを諦め、迂回しようとする。すると突然、地面から物凄い勢いで竹がせり上がり、何百本も隙間なく生えたそれらが、垣根のように細い一本道を形成する。
「さ、どうします? また別の通路を探します? 結果は同じですよ。頼みますから大人しくしててください。アナタに触れるとはいえ、まだアナタは夢の構成物として熟してない。私の制御も効かないんですから、あんまりカロリーを消費させないでください。これ以上痩せたら、おっぱいの存続危機です」
「ど、どうしよう蓮子!」
振り返る。後方には、まだ竹の生け垣が造られてはいない。いまから引き返して、別の裂け目を探すべきだろうか。けれど、また先回りされたら――
「――メリー。走るわよ」
「……へ? ひゃ!」
グイ、と蓮子が私の手を引いて走り出す。それは先ほど私が境界を見つけた方向。つまり、あの少女が待ち構えている方向だ。
「ちょ! 蓮子!」
「いいから! 走って!」
蓮子が前を見据えたままに叫ぶ。彼女の肩越しに見える少女のニヤニヤ笑いが、怪訝な面持ちに取って代わった。
「何です? 私の脇を上手くすり抜けるつもりですか? ボールを確保したアメフト選手みたいに? ははん、やれるものならやってみなさ――」
「おりゃあ!!」
全速力で走ったままの蓮子が不意に私の手を放すと、いきなり少女の腹部に飛び蹴りを喰らわす。私と同様に蓮子の行動が想定外だったらしい少女は、蓮子に蹴飛ばされて地面に倒れた。呆気にとられて立ち止まり掛ける私に、早く、と蓮子が叫んでくる。
「……こ、の……! ゲホ、エッホ……!」
お腹を押さえて悶絶する少女が、激しく咳き込んだ。少女の耐久力は、そんなに高くないのだろうか。そう言えばさっきも、大猿の攻撃はしっかりと避けていたことを思い出す。例え夢の支配者であれ、恐るべき力を振るう人外であれ、その身体は人間だった宇佐見菫子の物。全力で蹴られれば無事じゃ済まないのかも。そんな風に説明付けつつ、私はうずくまる少女の横をすり抜けた。
「――逃がす、か……!」
怨嗟に満ちた少女の声がして、境界まで繋がる竹の生け垣が、徐々に狭まり出す。私たちを押し潰そうとしてるみたいに。
「走って! メリー! 全力で走るの!」
迫りくる竹の壁をものともせず、蓮子はまったく速度を落とさないまま走る。彼女に境界は見えない。私が先に辿り着かなくちゃ。そう思って、私は死に物狂いで走る。蓮子の脇をすり抜ける。徐々に狭くなっていく視界に戦慄しながらも、確かに目前に見える境界を見据えて、私は走った。
竹の壁はもう、身体を横に向けないと通れないくらいに狭まってる。けれど、私たちが押し潰されるより、境界の裂け目に辿り着く方が早い!
「蓮子! ここよ! 飛び込むわ!」
「うん!」
背後に手を伸ばし、蓮子の手をしっかりと握る。早鐘みたいな彼女の脈動が、手の平から仄かな熱と共に伝わる。指を絡めて、絶対に離さないように。そうして私は、境界の裂け目へと水泳選手のように飛び込む!
「――ッ!」
浮遊感。地面の感覚が無くなり、頭からどこかへと落下していくのが判る。赤黒い、格子状の世界。まるで3DCGのモデリング画面のよう。どこが天でどこが地なのかも判らない空間を、私たちは落ちていく。ギュッと目をつぶる。現実感のない光景が、私の正気を蝕んでいく気がして。今の私には、蓮子の手の感触だけが真実だった。
風すら感じない落下の時間が続いたかと思うと、不意に、足の裏に固い地面の感触を感じる。相当な距離を落ちただろうに、激突の衝撃はほとんどなかった。
恐る恐る目を開く。飛び込んで来たのは、いやに現実的な光景。整然と机といすが並び、黒板が掛かった、レトロな学校施設のような内装。左手側にある窓からは、いやに大きい月が見えた。電気が点いていないのに妙に明るいのは、あの月のせいだろうか。
「……ここ、また別の夢の世界……?」
「待って……北緯35度39分40秒、東経136度53分11秒。時刻午前9時47分……? おかしいわ。朝じゃないの。しかも、日付は21世紀当初になってる……」
手を離し、窓際に寄って夜空を見上げた蓮子が呆然と呟く。百年も時間を遡ってしまった、と。夢の世界とはいえ、科学的に不可能と結論付けられた時間旅行。その達成に抱く気持ちは、何よりも不安だった。目が覚めた私たちは、元の世界に戻れているの? って。
「とはいえ……無事に別の世界に来れたみたいね」
振り向いた蓮子が、額の汗をぬぐいながら大きく安堵の息を吐く。
「固定されたっていう、夢の世界の座標。それをずらすことができた。とりあえず、一安心ってところかしら?」
どうだ、とばかりに蓮子が慎ましい胸を張る。危ない賭けだったとはいえ、彼女の策は成功したということだろう。得意げな彼女を見て、私はクスリと笑う。
「それにしても、蓮子があんなに武闘派だったなんて思わなかったわ。躊躇なく女の子のお腹を蹴るだなんて」
「緊急避難よ。他に方法はなかったわ。相手は夢の世界に迷い込んだ人間を食べようとする怪物だもの。実力行使以外に方法があるとでも――」
――ザザザザザ!
「なっ!? 何よこれ!?」
突然、教室の上部に付けられたスピーカーから、脳を直接引っ掻くみたいなノイズが響く。慌てて耳を塞ぐと、物悲しいようなピアノの旋律が大音量で聞こえてくる。
それは、ドビュッシーの月の光。
音割れとノイズのせいで、美しい旋律は台なしになっていた。蓮子も耳を塞いで、いったい何が起きたのかと周囲を見回している。
ゾッとする。
夢の中での不可解な現象。夢そのものが悪意を持って私たちを苛もうとしているみたいな感覚。まさか、と思う。私たちはあの少女が統べる夢の世界を抜け出して、また別の世界へと逃げ出したはずなのに。
けれど、この現象に思い当たる節なんて、ひとつしか――
『……あぁ、ヒヤヒヤしました』
「っ……!」
月の光の旋律を掻き分けるみたいに、またあの少女の声がスピーカーから聞こえてくる。音そのものが質量を持って、私の心臓をじかに掴んでくるみたいな、戦慄。
「め、メリー……!」
驚愕と困惑に彩られた表情で、蓮子が私のもとへと歩み寄る。ふたりで身を寄せ合い、周囲にあのニヤケ顔がないかと見回す。
ガラリ、と教室のドアが引かれる。
授業を控えた教師のような足取りで、ひとりの少女が教卓の前で立ち止まる。勝ち誇ったような顔。けれど両眼だけは冷たく、鋭く、怒気と殺意を湛えていた。
「夢の世界は広大です」
菫子ちゃんの顔のまま、少女が私たち二人を睨み付ける。私は教室の中に都合よく境界の裂け目がないかと探るのだけど、それらしきものはない。その気配すらも、感じられない。
「私だって、全ての夢に通じるわけじゃない。夢の迷い子を探すことは、海に落ちた指輪を探すようなものです……まあ、流石に通路をひとつ越えただけの隣り合った夢なら、追いかけることもできますがねぇ……あははははぁ」
「……メリー」
「おっと。もう逃がしませんよ」
蓮子が呟いた途端、少女がパチンと指を鳴らす。黒板を釘でひっかくような耳障りな高音が耳をつんざき、教室のドアと窓に有刺鉄線が絡み付く。
逃げ場を、完全に塞がれてしまった。
「ここに夢の通路への入口はありません。ゲームオーバーです」
少女はクスクスと笑って、教卓を蹴り倒す。ガン、という音に身を竦めると、倒れた教卓の下から無数のゴキブリが這い出して来る。
「ひっ……!」
「――さて」
スピーカーから出ていた音が止む。少女が教卓を迂回して、無限に湧き出るゴキブリをぶちゅ、ぶちゅ、と踏み潰しながらこちらに歩み寄る。彼女の通った後には、薄く黄色い虫の体液が足跡を描き出した。
「……よくもまあ、女の子のお腹を景気よく蹴ってくれたもんですね。宇佐見蓮子さん。子宮が破裂して子どもが産めなくなったらどうしてくれるんですか?」
私たちの手前で立ち止まった少女が、蓮子を見据えながら淡々と述べる。その声の裏側に、隠し切れないほどの憎悪を内包しながら。
「喰い殺してやりたいところですが……さっきも言った通り、二人一緒には食べられません。そうだ。手足切り落として、アナタの目の前でハーンさんを食べてあげます。それが終わったら、服ひん剥いて、汚いおっさんの淫夢の中へ放り込んであげましょう。おっさんが死ぬまで、夢の中で慰み者です。素敵だと思いませんか? その頃には、私もまたお腹が空き始めてるでしょうし」
少女がケラケラと笑う。嗤う。床を埋め尽くすほどに増えるゴキブリが、その身体に這い上がることを意にも介さず。
……もう、逃げられない。
少女は二度と、私たちに隙を見せてはくれないだろう。さきほど蓮子の飛び蹴りを喰らったのは、彼女が油断していたからだ。いくら耐久力が常人並みでも、まともに戦えば勝ち目なんかないのは、私がこの目で見て知っている。
これで終わりなの?
私たちはこの少女に殺されて、終わってしまうの?
もう二度と、秘封倶楽部の活動を楽しんだり、喫茶店でお喋りをすることもできなくなってしまうの?
「そうと決まれば、善は急げです」
少女が指を鳴らすと、それまで整然と並んでいた机といすがポルターガイスト現象のように浮かび上がり、天井付近で寄り集まる。グニャグニャとゲシュタルトを喪失して形を変えていくそれらが、巨大な電ノコへと生まれ変わる。人体なんて容易に寸断できるだろう電ノコが、空中に浮かんだまま甲高い音を立てて高速回転を始める。
蓮子が、強く私の右手を握る。その手が震えているのが、痛いくらいに判った。もう打つ手がない。私たちはこの少女の手中に墜ちるしかない。それに、彼女は気付いてしまっているのだと。
「まずは右足ですかね。私のお腹を蹴った悪い足ですから。その次はどうしましょう。左足にするか、健気にハーンさんと繋いでるその右手にするか……選んでいいですよ。右足切り落とされて、まだ喋れたらの話ですけど――ね!」
少女が手を振り降ろす。待機状態だった電ノコが、空を滑るようにして蓮子へと押し寄せる!
蓮子が私を突きとばす。私が巻き添えにならないように、だろうか。床に倒れる私に、彼女が弱々しげな笑みを向けて来た。
「イヤ……」
嫌だ。こんなの、絶対に嫌。
「……イヤよ、ヤだ……やめて……!」
認めない。こんな結末、絶対に認めない……。
なら、どうするの? 私にどんな手段が残されてるの? 子供みたいに泣き喚く? 今からでも立ち上がって、蓮子の前に躍り出る? それともあの少女に、命乞いを?
「――ふざけるな……っ!」
ふざけるな、ふざけるな! 冗談じゃない! 私は倒れたまま蓮子へ向けて手を伸ばす。こんなこと、許して堪るか。あんな化け物に蓮子を傷つけさせて堪るか。許さない。そんなことは絶対に許さない!
何もできないまま、電ノコが蓮子の太ももに触れる――その刹那。
私の指先が、奇妙な異物感を認識する。
それは柔らかくて冷たい感触。プリンの中に指を突っ込んだみたいな、そんな感覚。人差し指が触れている場所から、私は微かな気配を感じる。それは、これまで何度もこの眼で見てきた、境界の裂け目の、気配。
無我夢中で、人差し指を横薙ぎに振るう。パンケーキにナイフを入れるみたいに空間が裂け、境界が広がるのが判った。それにリンクするように蓮子の前にバックリと、境界が開く。
蓮子の足を切り裂かんとした電ノコが、その境界に飲みこまれて、消える。
「――は?」
全ては一瞬だった。勝ち誇った少女がポカンと口を開け、目を閉じて痛みに備えていた蓮子が、恐る恐る目を開く。彼女の足は薄皮一枚さえ切られることなく、無事なまま。気が緩んだのか、蓮子はそのままフラリ、とその場に倒れてしまう。気を失ったらしい。
「……なん、です、か? 何が、起きました……? え? どうし、て……」
少女が唇を震わせて、有り得ないとばかりに目を見開く。何が起きたかなんて、私にだって判らない。蓮子が無事だったということが、判るだけ。
けれど。
――けれど!
この機を逃さない。私は蓮子に伸ばしていた手を少女の方へ向ける。また、さっきと同じ感覚。空間そのものに指で穴をあけるみたいな、そんな奇妙な違和感。私は迷わない。何が起きていたとしても構わない。
ただ今は、与えられたチャンスを、逃がさない――!
「消えて。私の夢から。私の意識から――永遠に」
思い切り、指を振り降ろす。柔らかな感覚が再臨し、少女の背後に境界の裂け目がバックリと大きな口を開ける。
私は見た。その裂け目の中から、赤黒い目がこちらを凝視するのを。獲物を探す怪物のようにギョロギョロと動き、呆然と立ち尽くす少女に視線を固定させるのを。
「……あ」
振り向いた少女が、その眼と視線を合わせて凍りつく。境界の裂け目そのものが、まるで巨大な怪物の口のように動き、彼女の身体を頭から飲み込む。
「あ、が、何、このっ! うぐっ……がぁ!」
お腹の辺りまで境界に飲みこまれた少女が、こちらの世界に残された腕や足をばたつかせる。けれどそれが、何かに触れることはなかった。ゆっくり、ゆっくりと少女の身体が消えていく。手品か、それこそ魔法か何かのように。
「逃げ、られ、ると……思うな! いつか! いつか私、は! 必ず! お前を見つけ、てや、る! ハハ、あはははぁ! せいぜい、震えて眠るん、ですね! 私はどこにでも居て! どこにも居ない! ははっ! あはははははぁ!
――夢の中で、また逢いましょうねぇ!」
「……その時は、何度でも同じことをしてやるわ」
私が呟くと、少女は足まで境界に飲みこまれて、消えた。
夢の支配者が別の世界へ飛ばされ、夢の世界が秩序を取り戻していく。床を這っていたゴキブリも、蹴倒された教卓も、電ノコへと姿を変えた机やイスも、全てが元通りになっていく。
私は蓮子に歩み寄る。気を失って倒れた彼女の存在が、徐々に希薄になっていくのが判った。目覚めの時間。それに気付くと同時に、窓の外が明るくなっていく。歪な夜は終わり、新しい朝が訪れる。良かった、と安堵で胸をなでおろした。
蓮子の姿が、この世界から消えていく。私も、目を覚ます時間だ。狂夢から、引き摺りこまれそうになった槐安から。窓から日の光が差し込んで、眩しさに目を細める。
さあ、目を覚まそう。
訪れないかもしれないと思った明日が、これから始まる――。
……………………。
…………。
……。
◆
「しばらくは大人しくしてようかしらね。課題とか授業とか、そっちの方に精を出すのもいいかもね」
蓮子が生あくびを噛み殺しながら肩を竦めた。目が覚めた私たちが居るのは、私の部屋。ベッドの上で目を開けた時、蓮子が私を抱き枕にしていて暑苦しかったけど、まあ一緒のベッドで眠ればそんなこともあるだろう。
私のパジャマを着た蓮子が、キッチンで珈琲を淹れてくれる。パジャマを貸した時には胸が緩いとか文句を言っていたけど、水色の寝巻は彼女に似合っている。サイズの合うものを買ってプレゼントするのもいいかもしれない。
「……結局、どうなったの? メリーは覚えてる?」
珈琲をブラックのまま啜りながら、蓮子が首を傾げる。彼女は電ノコで足を切られそうになった記憶までしかなかったみたい。私が自分の意志で境界をこじ開けたことも、気付いている様子はない。
あの感覚。これまでは元々存在する境界を視認して、そこに飛び込むことしかできなかったのに、私は何もない空間に線を引いて、無理矢理に境界の裂け目を作りだした。秘封倶楽部の活動を進めるにつれて、徐々に変化した私の能力。夢の中だったとはいえ、その変化がまた、進行してしまったということなのだろうか。
「――なんにせよ、もう大丈夫だと思うわ」
蓮子が気を失ってしまった後のことを話そうかと思ったけど、少し考えてやめておいた。不思議な力に目覚めましたなんて言って、また蓮子を心配させてしまうのは嫌だし。私だって、その能力があまりに人の域を超えすぎていて、少し気味が悪い。
「んー……本当に?」
「本当に。もう朝ですもの。夢を見る時間は終わったのよ」
「むぅ……メリーが大丈夫って言うなら大丈夫なんだろうけど……うーん……」
釈然としない様子で、蓮子が腕を組んで唸る。私は珈琲にミルクと砂糖を入れて、一口含んだ。やっぱり、私は紅茶の方が好きかも。
「それより蓮子、学業に精を出すのなら、あまりゆっくりしてる時間はないんじゃなくて? 今日は一限から統計学じゃなかったかしら」
壁際の時計を見やる。午前八時半過ぎ。これから準備をして、ギリギリ間に合うかどうかといった時間だ。時計を見た蓮子は、うげ、と言って立ち上がって、
「大変! あぁ、よりによって出席にうるさい教授の授業なんて! もう、私の馬鹿! どうしてあんな面倒な授業取っちゃったのかしら!」
「アナタ、お洋服持って来てないでしょ。私のを貸してあげる。クローゼットはそっちの部屋」
「うぅ……メリーの服は胸が緩いのよぅ……でもありがと! 私、着替えたら行くね!」
「朝ご飯は?」
「途中で済ませる!」
慌ただしくクローゼットのある部屋へと向かう蓮子を見て、私は笑ってしまう。ああ、愛しき平凡な生活が戻ってきた。そう思うと、私は改めて生きていること、現実の世界に確かに存在できていることに喜びを感じた。
「…………」
ふと思い立って、私は自分の右手を見つめる。夢の中で、蓮子に向けて伸ばした手。空間に爪を立て、強引にこじ開けた人差し指の先端。
カーテンを開けて、穏やかな秋の空を見上げる。夏の忘れものみたいな積乱雲が、太陽を飲みこもうとしているみたいに聳えていた。
そっと手を伸ばして、入道雲を指差す。それを真横にスゥ、と引いてみた。
雲を寸断するみたいに引かれた横線の向こうから、青空が顔を覗かせた。
Fin
二人だけの秘封倶楽部だ。相方の履修状況なんてスケジュール帳を見るまでもなく覚えている。今日は火曜日。蓮子は二限に岡崎教授のゼミに顔を出して、三限にはギリシャ哲学、そして四限に統一物理学実習がある。火曜日の蓮子は忙しい。だから、四限が終わるまで、ジッと待ったのだ。今日見た夢は、とても休み時間に語り尽くせるような内容じゃない。そう思った。
場所はいつもの喫茶店。紅茶とケーキが美味しくて、お客さんもあまりいないから、じっくりと話ができる場所。四限がなかった私は、三限が終わってすぐにここへ来た。少し気持ちとか話す内容とか、そういうことを整理しなくちゃいけないと思ったから。
蓮子から、判った、と返事がくる。デバイスの画面をオフにすると、ふふ、と笑い声が唇から零れた。
蓮子はなんて言うだろう。
私が見た夢の内容を聞いて。
夢の中で出会った人のことを聞いて。
きっと、驚いて目を真ん丸にするに違いない。そう思った。ちょっとした悪戯を準備しているみたいな気分。彼女の驚き顔は、とてもチャーミングだ。日本人は表情を表に出さない、なんて母国では聞いてたけど、蓮子は例外みたい。コロコロ変わる彼女の表情は、見ていて飽きない。それを見るのが楽しくて、不良サークルの活動に精を出している節すらある。
秘封倶楽部。私たちの愛する不良サークル。活動内容は結界の境目を暴くこと。
パラレルワールドがSFの専売特許じゃなくなったのは、ここ最近のことだと記憶してた。二重スリット実験に端を発して、分岐した可能性が同時存在するという世界観が生まれたのは何百年も前のことだけど、それでも人々が単一の世界という概念に固執した時代は短い物じゃなかった。
私たちの存在する世界と違う世界を目指す。
その考え方が狂人のそれだと認識される時代。
いまとなっては、ハイハイ、って感じだけど、驚くことにそれが一般常識だった時代と、この世界は地続きだ。まあ、日々を生きるために費やす人々が、それまでの世界観を改革するのに長い時間が必要なのは、歴史が証明している。じゃなきゃガリレオ・ガリレイが異端審問に掛けられることもなかったはず。
だからこそ、結界の存在や並行世界の実在が公に証明されるまで、違う世界という考え方は夢見る少年少女の妄想と片付けられていたと思ってたのだけど……どんな時代でも、似たような考えの人は居るってことだろう。本気で別世界を求める人。ここじゃない世界へ旅立とうと思う人。奇しくも私たちの活動理念と同じ志を持つ人。
――それがまさか、百年以上前の人だなんて、それこそ夢みたいだとも思うけれど。
カラン、と喫茶店の入口に付けられたベルが鳴る。そちらへ目を向ければ、特徴的な黒い帽子のシルエットが窺える。我が相方、宇佐見蓮子さんの登場だ。
今まで聞いてなかったけれど、今日はたっぷりと秘封倶楽部について問い質さねばなるまい。サークルの歴史。私たち二人が意気投合することで誕生したと思っていた会合。その原点と、宇佐見家の数奇な血筋について。
「待った?」
蓮子が私の対面に座って、帽子を脱ぐ。そうそう、帽子についても聞いてみよう。アナタのトレードマーク。それを被るようになった理由は、どこにあるのって。
「別に待ってないわ。遅刻だとも思わない。私が呼びだしたんだしね」
「メリーはまたそんなイジワルを言う……。私をあんまり遅刻キャラにしないでよね」
「事実じゃない」
「ある一点の事実を切り出して使いまわせば、それはいつしか虚構になるわ。ゴッホは自分の耳を切り落とした人じゃなくて、貧乏な画家だったのよ」
「どちらも真に思えるけれど?」
「真実のパーセンテージの話よ。ゴッホだって、耳を切った話ばかり取り沙汰されるんじゃなくて、絵について語って欲しいと願うと思わない?」
ぶぅ、と唇を尖らせた蓮子は、注文を聞きに来た店員さんにアイスティーを頼む。店員さんが居なくなってから、さて、と居住まいを正した私は、
「蓮子。今日は秘封倶楽部について喋って貰うわよ。洗いざらい」
「へ? どういうこと? まさか政府の諜報官にでも鞍替えしたの?」
「そうじゃないわ。私の夢の話。面白い子に逢ったの。夢の中の不思議な世界でね」
私はそこでもったいぶるみたいに、氷の半分とけたミルクティーを飲み、また夢の話か、と少しうんざりしたような蓮子に微笑みかける。
身体を前傾させ、両肘をテーブルに着け、組んだ手の上に顎を乗せて、
「――こんな夢を、見たんだけど……」
◆
目を覚ませば、私は竹林の中。
いや、目を覚ましたという表現は正しくない。きっと私は眠ってる。夢の中で、結界を越えてしまうという私の奇妙な体質。それが今日も適応されてしまったらしい。
夢の中の世界は危険だ。
その世界では、現実の常識なんて通用してくれない。恐ろしい化け物がいたり、奇妙な生物がいたり。電灯なんてものもないし、警官がパトロールしてることもない。傷を負わされたら、現実の私の身体も怪我をする。それでサナトリウムに幽閉されたのは、苦い思い出だ。
けれど私が直面している事態が、秘封倶楽部の活動に合致するのも事実。
だから私は、怖いとか帰りたいとか思うんじゃなくて、できる限り楽しむようにしている。私が生きている現実と、全く異なるルールで動く世界。それに触れる経験は得難いものだって、前向きに。
竹林。以前もここに来た記憶がある。その時は、紅い眼の怪物や火の鳥なんかを見たんだっけ。天然もののタケノコを持って帰ったのも、記憶に新しい。タケノコの調理があんなに面倒臭いものだとは、古いレシピ本のアーカイヴを見るまで知る由もなかったけど。
私は歩き出す。聳える竹の先に見える月は、ゾッとするくらいに輝いてる。風は心地いいのだけど、ゆらゆら揺れる竹たちは、ちょっぴり不気味。まるでこの場に居ない誰かを呼ぼうと、大きく手を振っているみたいで。
確かこの竹林を抜けるためには、道案内が必須だったはず。けれど、前の時みたいに誰かが近くに居る気配はなかった。まあ、目が覚めるまで竹林を歩き続けるのも悪くはないかな、なんて考えて、枯れた竹の葉のカーペットの上を進んでいく。
ふかふかとした地面。転んで怪我をする人を減らすという名目で、都市部では地面の素材を前時代的なアスファルトから、スポンジか天使の羽の枕みたいに柔らかな素材へと変える試みがなされてるけど、そんなことをしなくても竹の葉っぱを使えばいいのに、と思った。
「――あらら」
聞こえた。何かの声。
私は周囲を見回す。けれど、何の姿も見えない。暗がりの中に、瑞々しい竹が並んでいるばかり。私はどうするべきだろう。走って逃げようか、それともこの場に立ち尽くして、親切な誰かの到来を信じるか。
そう迷い始めた途端、
「ちょっとそこのアナタ――って、うわわわわ! ちょっと退いて退いて! 危ないわよ!」
声は私の頭上から聞こえた。見上げれば、月を隠すみたいに頭上から接近してくる何かの影。どうも女の子みたい。親方、空から女の子が。
「きゃ!」
私は咄嗟に身をかがめて、頭を庇う。空から落ちてくる女の子は、悲鳴を上げて私の頭をかすり、地面に激突する。そんな音がした。映画みたいに両手で受け止めるのは、私の力じゃ絶対無理。
恐る恐る、音のした方を見る。グロテスクな結果を想像してたのだけど、予想に反してそこには「痛ててて……」なんて瞳に涙を溜める女の子の姿があった。頭が下、足は上。そんな感じで逆さまになってて、スカートの中身がモロ見えになっている。白。
「だ、大丈夫……?」
頭上から降ってきた天地無用ガールに、私はおずおずと声を掛ける。見る限りでは普通の女の子だ。いや、普通の女の子は空から落ちてくれば無事じゃ済まないし、裏地にルーン文字がプリントされた、どこで買ったの? って感じのマントも羽織らないけど、それでもまあ、一般的に少女と呼んでいいカテゴリーには入ってた。
「え、えぇ……ありがとう……日本人には見えないけど、日本語上手ね……」
涙目の少女が、逆さまの状態から元に戻る。落下の衝撃で落としたらしい、どこかで見たような黒いハットを拾い上げ、額を抑えながら立ち上がった。
「えっと……私は誰だっけ……ここに居る私は本当に私……? ああ、いや、大丈夫。私は大変健康です……。ところでアナタ、どうしてこんなところに? 夜中に竹林を歩くなんて、って思ったから、声を掛けようとしたんだけど……」
赤眼鏡の向こうから、少女が興味深そうに私の身体を検分してくる。初対面にしては、ちょっぴり失礼だと思ってしまうくらい。良からぬことを企む人ですか? ってくらいに見られてるけど、私は大丈夫なのかしら?
「ん、ちょっと訳ありでね……。なんて説明すべきかしら……私は、夢を見ると他の世界に行っちゃう体質で、たぶんここじゃない世界から――」
「え!? それって、本当!?」
説明も半ばだというのに、不思議な少女は興奮したみたいに喰い付いてくる。何が彼女の琴線に触れたのだろう。なかなか人に伝えるのは難しい現象だと思ってたのだけど。
「うわー、まさか私以外にもそんな人が居ただなんて……! 凄いわ! アナタ、お名前は? どこに住んでるの? ね、ね、私たち、きっと仲良くなれると思わない!?」
「っ」
既視感。それも頭をガツン、と殴られるみたいに、強く。
忘れもしない。それは私が初めて蓮子と出会って、自分の眼について説明した時の彼女の反応と、そっくりそのまま同じだった。いっそ気味が悪いくらいに。
私は改めて目の前の少女を見る。好奇心で爛々と輝く、クリクリとした瞳。幅広の黒いハット。自分には何でもできる、とでも言いたげな唇。
……似てる。
髪の色も違うし、声も違う。眼鏡もしているし、年齢だって、きっと私たちより少し年下なくらい。
けれどこの不思議な少女は、私の相方、宇佐見蓮子とそっくりじゃないか。
「……あ、ごめんなさい。私、つい舞い上がっちゃって。てへへ……自己紹介がまだだったわね」
これもだ。このリアクションも、かつての蓮子とそっくり。私の記憶でも読んでるの? って聞いてみたいくらい。けれどここまで来ると、もう他人の空似とは思えない。
奇妙な確信があった。
この子が蓮子と無関係だなんて、到底思えないって。
絶句する私に構わず、少女がググッと平らな胸を張った。似ていると言えばその辺りも似てるけど、それはまあ、言及はやめておこう。無二の親友のコンプレックスをイタズラに刺激するのは、私の趣味じゃない。
そして、少女が私を見る。
かつての蓮子と同じような眼差しで、私の中の追憶を、そのままなぞるみたいに、
「――私、宇佐見菫子。秘封倶楽部の会長なのよ」
そう、自信満々に告げて――。
◆
「宇佐見菫子、ねぇ……」
思った通り、蓮子は目を真ん丸にして驚く。そんな彼女のびっくり顔が見れた時点で、当初の目的は達成されたと言ってしまっていい。私は半ば満足して、クスクスと笑いながら、
「さ、言い逃れはできないわよ? 蓮子? 私はてっきり、秘封倶楽部はアナタが創設したとばっかり思ってたけど、元ネタがあったのでしょう? それも、アナタのご先祖さまに。著作権の侵害だわ」
「むぅ……別に説明しなくてもいっか、って思ってたんだけどね……。でも、メリー。著作権は作者の死後五十年でなくなるのよ? 時効よ時効」
蓮子は観念したみたいに両手を上げて、特に悪びれる風でもなく肩を竦めると、
「そ。秘封倶楽部ってのは、私の造語じゃないわ。実家の蔵の中に仕舞ってあった、古いノートの中に書いてあったの。中身は、子供の可愛らしい落書きだったけどね。『この世の不思議を暴き、新たな世界を目指すのだ!』ってな感じでね。それにあやかったのよ」
「菫子ちゃんも、黒いハットを被ってたわ。それも、あやかったってわけ?」
「先人に対するリスペクトよ。さすがにマントまでは、恥ずかしくて着られないけどね」
それにしても、と蓮子は何やら考え込むようにして、アイスティーに口を着ける。店内を流れるボサノヴァのメロディが、こうして蓮子と顔を合わせる時間をゆったりと長引かせてくれている。そんなことを思った。
「……私が見たノート。相当古かったわよ? 昔の話だからよく覚えてないんだけど、菫子って名前に聞き覚えもない。その菫子ちゃんは、かなり昔の子よね? どうしてメリーの夢の中に出て来れたのかしら……?」
「夢の中だからこそ、結構何でもありなのかもしれないわね。空間を飛び越えてるのだから、それと密接に関係する時間だって飛び越えててもおかしくないわ。それは物理学の十八番でしょ?」
「相変わらず、変な夢ばっか見るのね。メリーの夢を論文にできれば、きっと統一物理学の研究に大きな波紋を呼ぶことになるわね」
「それで、岡崎教授みたいに学会から追放されるって?」
「もしくは逮捕ね。不可抗力とは言え、結界暴きには変わりないし、秘封倶楽部の活動についても触れないわけにはいかないし。あーあ、いつの時代も、先進的な考え方というのは狭量な社会のルールに駆逐される運命なのね」
「ガリレオが異端審問されたみたいに?」
「ガリレオが異端審問されたみたいに」
言って、蓮子はメニューに手を伸ばし、デザートのページを眺め始める。私も何か頼もう。ミルフィーユかチョコレートムースか。意表を突いてフルーツパフェという手もある。
「それで?」
メニューを閉じた蓮子が、私にメニューを手渡しながら尋ねてくる。それでって? と問い直すと、そのあとの話よ、と急かすみたいな口調で蓮子が返して来た。
「その菫子ちゃんの自己紹介を聞いて、そこで目が覚めたわけじゃないでしょ? どんな話をしたの? 今の秘封倶楽部と秘封倶楽部のオリジン。その活動の差異とか、興味があるわ」
「ああ……」
私はメニューに並ぶデザートの中から、結局ミルフィーユに決めると、店員さんを呼んで注文を済ませる。蓮子もミルフィーユが食べたかったらしいけど、どうせ分けっこするなら別のが良いわよね、とフルーツパフェを頼んだ。さすが宇佐見蓮子。私が食べたいと思った物を悉く当てに来る。
注文を取った店員さんが厨房へ戻るのを見送って、私は蓮子に向き直ると、
「……天国の話よ」
◆
「へぇー! アナタも秘封倶楽部なんですか!? びっくりしました! というかそんなに未来まで宇佐見家が途絶えてなくて、秘封倶楽部という概念が残ってることにさらにびっくりです!」
菫子ちゃんが、蓮子そっくりに目を真ん丸にして驚く。私が生きている時代のこと。私が所属してるサークルのこと。それらを説明した彼女のはしゃぎっぷりと来たら、見ててこっちまでウキウキしてくるくらいだった。
「秘封倶楽部は受け継がれた物だったってことに、私もびっくりだわ。目が覚めたら蓮子を問い質さなくっちゃ」
ほぅ、とため息を吐く。夜中だと言うのに肌寒さを感じない程度の気候だったのはありがたい限り。もう少し秋が深まってたら、話すどころではなかっただろうから。
竹林の真ん中に座って、私は菫子ちゃんと話していた。聞くところによると、彼女は二十一世紀が始まったばかりの頃の日本に住んでいて、眠る度に幻想郷へと旅立ってしまう体質の持ち主なんだとか。私が大学生だと言ったら急に敬語を使うようになったけど、彼女は私たちの生きる時代よりもずっと前の人なわけで、なんだか頭が混乱する。
そして驚くことに、彼女は超能力者なんだと言う。およそ超能力らしいことなら、ほとんどのことはできる、と自慢げに語った。なるほど、空を飛んでたのもそれが理由らしい。蓮子も変な目を持っているけど、宇佐見家の血筋というのは、なかなか数奇だ。見せて、と懇願してみたのだけど、菫子ちゃんは悪戯っぽく笑って、
「もう少し経ったら、そのうちお見せしますね」
そう、意味ありげに言う。意外とケチだった。まあ、何か思うところあってのことなんだろうな、と大人の対応に留めることにする。彼女は高校生だそうだし、あまり大人気なく喰いついても、大学生のイメージに傷をつけてしまうだろう。メリーさんは大人のレディなのだ。我慢。
「しかし、夢というのは不思議なものね。まさか百年以上前の人と、こうしてお話できるだなんて」
「えぇ。夢とはきっとそういうものなんだと思います。夢の中なら、人はどこにだって行けるし、何者にだってなれる。時間を越えるなんて、不思議じゃありませんよぉ」
菫子ちゃんがにっこりと微笑んだ。夢については、一家言あるご様子。聞けば彼女は、眠る度に必ず幻想郷に旅立ってしまうらしい。そう考えれば、夢の中で結界を越える頻度は私の方が少ない。なら彼女が何かしらの哲学を持っていても、無理はないだろう。
「アナタの夢も、とっても素敵ですよねぇ。結界を越えてしまう夢。私の夢とは、ちょっと違う気がします。私は、夢を見るという機能そのものが変質しちゃった結果だと思うんですけど、アナタの夢は、アナタ固有の能力に付随してる感じです」
「へぇ……そんなことまで判るのね。夢診断っていうか……。もしかして、超能力で私の心を読んでるとか?」
「あはっ。私、心を読むことはできないんですよぉ。想像です。あくまで想像。でも、あれですね。ハーンさんの眼の能力……境界の裂け目が見えたり、境界を飛び越えたりの能力ですか。それが夢を媒介にして発動してるとなると、困っちゃいません? どこに飛べばいいのか、座標を指定してらっしゃるわけじゃないんでしょうから」
「起きてる時は、私の眼で見える結界の裂け目に飛び込むだけだから良いんだけどね。確かに、寝てる時はランダムかも。アナタと私が出逢えたのも、ちょっとした奇跡みたいなものってことね」
「えぇ、えぇ、そうですねぇ。確かに奇跡ですよぉ。能力と複合した変則的な夢となると、まず同じ夢の世界に至ること自体が困難ですしねぇ」
そう言って、菫子ちゃんが立ち上がる。私に背を向け、月を仰ぎ見るようにしてグッと身体を伸ばした彼女は、何かを思い出したみたいに振り返ると、
「時にハーンさん。アナタは天国の場所を知っていますか?」
「天国?」
随分と唐突に話題を変えるなぁ、と思う。私自身には主だった信仰はないけれど、漠然とした天国観ならば持ち合わせている。生前、善行を積んだ人が死んだ後に行く場所。最後の審判の後、選ばれた人たちが旅立つ場所。総じて理想郷。ここではないどこか。そんな感じの答えを告げると、菫子ちゃんは首を横に振って、
「天国はここです」
言って、自分の頭を指差した。なかなかに哲学的な答えだ。それに次ぐ答えを待っていると、彼女は天使の物まねみたいな表情で笑って、
「集合意識ですよ。特定のコミュニティに属する人々に共有された世界観知識。それこそが天国になるんです。特定の場所ではなく、特定の認識を持っているか否か。誰かと世界観を共有できたかどうか。つまり、気の持ちようってことですねぇ」
「なるほどね。なかなか興味深い意見だわ」
言いつつ、私は菫子ちゃんの言葉の裏側を測っていた。どうして突然、天国の話なんか始めたんだろう。なにも自分の見識を自慢したかったわけじゃあるまい。そんなことを思っていると、彼女は赤眼鏡の向こうでスッと目を細め、
「こうしてアナタと逢えた奇跡を、ただ喜ぶだけで終わらせたくないんです。私はこれからも、アナタと世界を共有してみたい。夢の中で、アナタとお話をしたいんです。それによって、私は新たな知見や知識を得られるかもしれない。だからこそ、これからも夢の中でアナタに逢いたいな……って、そう思うわけなんですねぇ」
ははぁ、と私は思う。ずいぶんと回りくどいアプローチだったけど、つまりはそういうことが言いたかったわけか、と。こういう、背伸びをして誰かの気を引こうとするところは女子高生らしいな、と苦笑する。
けれどそうは言ったところで、私の夢というやつは私の思い通りになってくれるわけじゃない。境界を越えて別の世界に旅立ってしまうこともあれば、普通にくだらない夢を見ることだってある。こうして菫子ちゃんのいる幻想郷に来れたこと自体が、天文学的な確率だ。境界は無数にある。平行世界は宇宙の全生物が何かを選択するたびに増えていく。普通に考えれば彼女と再会できる可能性は、ゼロの隣にコンマをおいて、どれほどゼロを並べればいいのかも判らない。遥か遠い数字だ。
アナタがこれからも私に逢いたいと言っても……なんて、オブラートに包んでその困難さを語る私に、菫子ちゃんはまたも微笑んで、
「私のいる世界の座標が判らないなら、私を座標にすればいいんです。寝る前に、私のことを考える。それが座標の代わりをしてくれると思いません? 重要なのは、アナタの夢の立ち位置を確定させてしまうこと。そうすれば、きっとまた逢えますよ」
「ロマンチックな話ねぇ」
「夢の通ひ路なんとやら、ですよ。夢の通路さえ整備してしまえば、同じ世界に来ることも難しくありません。ハーンさんが見る夢と私が存在する夢。それをリンクさせてしまえば、こっちのもんです」
眩しいばかりの月光が逆光になって、菫子ちゃんの顔がふと見えなくなる。クスクスと彼女は笑った。ミステリアスか、もしくはルナティックに。オカルトを専門とするだけあって、なかなか雰囲気がある。年齢相応には見えないくらい。
「私とアナタは、きっと同じ道を辿る運命にあるんです。ハーンさん。私を構成するモノ。アナタを構成するモノ。私たちは、きっと同じ素材でできてる……そんなのって、素敵じゃありません?」
「あら、口説き文句? それにしては、ちょっぴりロマンが足りないわよ?」
「そうですか? 夢があると思うんですけどねぇ。文字通り、夢みたいな話です。私はそう思いますよ、ふふふ」
よく笑う子だ。私は菫子ちゃんのことを、そんな風に定義づける。彼女はきっと、自分と同じような体質の持ち主に逢えて、嬉しくて仕方がないらしい。それはそうだろうな、とも思う。眠ったら夢を見るわけじゃなく、別の世界へと旅立ってしまう人なんて、そうそう居るもんじゃない。もしもそんな人が大勢いれば、心理学者が過労で倒れてしまう。
そんな他愛もないことを考えていると、不意に目眩にも似た症状に見舞われる。視界がグラリと歪んで、私は身体の先端から自分の存在が希薄になっていく気配を感じた。目覚めの予兆。異世界旅行も終わりの時間だ。
「ん、私はそろそろ目が覚めるみたい。暫しのお別れね」
「そうですか。それは残念です。もっともっと、アナタとたくさんお話をしたかったんですけどねぇ。こうして、同じ夢の世界に居られる間に」
「まあ、また夢で逢いましょう。今度は寝るときに、アナタのことを考えてみるわ」
「えぇ、お願いします。アナタの思いを座標にして、私はきっとアナタを探してみせます。きっと。それでは御機嫌よう、ハーンさん。それでは、また近い内に逢いましょうね――」
――夢を、現に変えてしまうために。
そんな言葉を別れの挨拶にして。
私は手を振る菫子ちゃんにさよならを告げ、現実世界への帰還を果たしたのだった。
◆
「それで、私が見た夢はお終い。まったく、宇佐見家というのは数奇な家系よね。百年以上前から今の蓮子と同じようなことをしようとして、超能力まで持ってる女の子を排出したりしたのだから……」
話の途中で運ばれて来たミルフィーユを突きながら、蓮子に微笑みかける。けれど彼女は、リアクションもせずに何やら考え込んでいる様子だった。せっかくのフルーツパフェもスプーンで掬われることなく、ソフトクリームの先っぽが融け始めている。
「……おーい、蓮子さーん?」
彼女の目の前で、ヒラヒラと手を振ってみる。彼女はそれでハッとしたようで、あぁ、なんてそれこそ夢から覚めたみたいな声を出して、こちらに視線を向けた。
「考え事? それとも、嫉妬かしら? 百年以上のご先祖様に嫉妬するような真似をさせちゃうなんて、私も罪な女だわ」
「違う違う。残念だけど、嫉妬じゃないわよ。メリーを悪女にするわけにはいかないわ。ただ……」
「ただ?」
蓮子は自分の考えを口にするべきかどうか、思案しているように見えた。どういうことだろう。蓮子らしくもない。普段なら、面倒臭そうに私の夢の話に付き合ってくれながらも、自分の考えを忌憚なく話してくれるというのに。
彼女がスプーンを握る。パフェに乗っていた合成メロンを口に運び、もぐもぐとやってから、やがてため息を吐くと、
「……なんか、変だなって。どこがどう変なのかって聞かれても、困っちゃうんだけど」
「変? 私が菫子ちゃんに逢ったこと? それとも、アナタのご先祖様が超能力者だったこと? アナタだって、気持ち悪い眼を持ってるじゃない」
「メリーは人のこと言えないでしょ。って、そうじゃなくてね……」
蓮子は首を横に振ると、やっと始めたフルーツパフェの攻略を中断して、スプーンを紙ナプキンの上に置いてしまう。そして腕を組んで、また難しい顔を作り上げるのだ。
「どうして菫子ちゃんは、そんなにメリーに逢いたがったのかしら。夢の中で」
「自分の創ったサークルの後輩だもの。夢で他の世界に旅立つっていう、同じ境遇の共有者でもある。私は不思議だと思わなかったけど?」
「そう。そうなのよね……そこに違和感はないの。けれど……彼女はずいぶんと夢に詳しいのね。思いを座標にするとか、夢の中でアナタをきっと見つける、とか……。それも、超能力者だから?」
「夢に対しては一家言ある様子だったわ。きっと、夢の中で活動する頻度が私よりも多かったのだから、ある程度は適応したんじゃないかしら」
「うーん、そんなものなのかしらねぇ……」
蓮子はどこか納得がいってないみたいに首をひねる。ひとつひとつの疑問点は潰せても、まだ何か引っかかる物を感じるらしい。私はと言えば、どうして蓮子がそんなにも納得がいかないのか、よく判らない。実際に菫子ちゃんに逢って話をしたかどうかの差なのだろうか。
「……ま、何か不明な点でもあるなら、今夜にでも聞いておくわよ? 私がまた境界を抜けて、あの子に逢えたら、の話だけど」
「え? 逢うつもりなの?」
「えぇ。約束したし、一応ね……。何か、マズイことでも?」
「いや、特にはない、と思うんだけど……」
「歯切れが悪いわねぇ。何か変な物でも食べた? 秘封倶楽部の後継者とは思えないわよ?」
「うぅ……確かに、何なのかしらね、この感じ。自分でもよく判らないわ……。ハァ、もしかしたらメリーの言う通り、菫子ちゃんに嫉妬してるのかも。メリーを取られるなんてヤダって感じで」
蓮子がため息をひとつ吐く。ダブル宇佐見から取り合いをされる私、という構図が即座に頭に浮かんだ。あらあら、喧嘩しないで。私はひとりしかいないのよ。引っ張る手を途中で離した方の宇佐見さんが、本当に私を愛する宇佐見さんです。何考えてるんだ私は。
「いいじゃない。新旧秘封倶楽部が夢の中で繋がるなんて、素敵だと思うわ。その気になれば、トリフネの時みたいに蓮子を連れて行けるかもだし……ふわ」
込み上げたあくびを、右手で隠す。何だか眠気が強い。疲れてるのかも。昨日もきちんと十二時にはベッドに入ったのだけど、今日はどこか身体がダルい気もする。そんな私の体調を悟ったか、蓮子が心配げな表情で、
「眠いの? まだ五時よ?」
「うん……たっぷり眠ったはずなんだけどね……蓮子に菫子ちゃんの話ができて、気が緩んだのかしら?」
「ま、仕方ない気もするわね。夢の中でも意識があって、起きてる時と同じように動いてたってことでしょ? 脳が休息できてないのかも」
「そう考えると、菫子ちゃんは災難よね。眠る度に別の世界に旅立っちゃうってことは、かなり脳に負担もありそうだわ。夢も現実も、綯交ぜになっちゃいそう」
「まさしく、夢を現に変えちゃってるわけね。メリーの夢、ちょっとうらやましいなって思ったこともあるんだけど、私の場合は実生活に支障が出るわ」
「遅刻とか寝坊とかね。アナタ、今年の単位は大丈夫なの?」
「もちろん平気よ。ギリギリ平気」
「それは平気とはあまり言わないんじゃなくて?」
「進級できればいいのよ……宇佐見菫子、か……」
蓮子は肩を竦めて、フルーツパフェに取り掛かる。うん。いつもの蓮子だ。私は何だかホッとしてしまう。私の夢の話で彼女の調子が狂ってしまうのは、本意じゃないから。そんなことを思いつつ、彼女のフルーツパフェから合成イチゴを失敬する。コラ、と蓮子は笑った。
笑顔。ふと気付いたことがあった。それは、蓮子と菫子ちゃんの笑い方の違い。
蓮子は屈託なく、感情をそのまま出すみたいにして笑うけれど、菫子ちゃんの笑いは少しだけ違うような気がした。それは感情を表に出すというよりは、裏の感情を隠すみたいな、そんな感じの笑み。最初は似ていると思ったのだけど、やはり何代も違うだけあって、笑みの種類にも差が出てくるらしい。
一口分のミルフィーユを蓮子にあげて、私はそんなことを思った。
◆
目を覚ませば、私は竹林の中。
どうやら菫子ちゃんの言った方法論は、正解だったらしい。昨晩と変わらない光景を目の当たりにして、小さく息を吐く。寝る前に、彼女のことを考えてみること。それが夢の中で境界を飛び越える座標の役割をしてくれたみたい、と。
「――お待ちしてましたよ、ハーンさん」
背後から、菫子ちゃんの声がする。振り向けば、昨日と同じ格好をした蓮子のご先祖様が、嬉しそうに微笑んで佇んでいた。この笑みは本物の笑み。私と再び出会えたことを、心から喜んでる。そう率直に思えた。
「来てくれたんですね。いやぁ、とっても嬉しいです。血眼でアナタを探すつもりでいたんですけど、ハーンさんの想いを辿ることで楽に見つけられましたよぉ。これでアナタの夢の世界、私たちの逢瀬の場所を固定化できました」
「うん。私も逢えて嬉しいわ」
頭でも撫でてあげようか、と菫子ちゃんの帽子に手を伸ばしたところで、彼女はクルリと踵を返して私から離れる。なんと間の悪い。まるで彼女から避けられたみたいで、ちょっぴりへこんだ。
「さて、今夜はどんなお話をしましょうか。私は何でも良いですよ。どんな話題でもウェルカムです」
「そう? そう言えば、蓮子にアナタの話をしたわ。やっぱり私が思った通り、彼女が提唱した秘封倶楽部は、菫子ちゃんの考えたものにあやかったんですって」
「へぇ……なんだか、感無量ですね。私が残した物が、こうして私たちを繋ぎ合わせてくれたって思うと」
そう言って、菫子ちゃんが竹の根元に腰を落ち着けた。私も彼女に倣って、手近な竹に背を預けるように座る。ひんやりとした竹の固い質感が、服を通過して私の背中に伝わった。
「それだけじゃないわ。アナタの血脈もあるでしょ。そうじゃなきゃ、蓮子は誕生もしてなかったことになるもの」
「私の血脈? あはははぁ、想像もできませんね。私が結婚して、子どもを産むだなんて。有り得ないって言っちゃっていいくらいですよぉ」
「でも、そうじゃないと蓮子も宇佐見家も残らないじゃない。いま、アナタは女子高生なんでしょうけど、そのうち好きな人ができて、結婚して、温かい家庭を作り上げるんだわ」
「ないない。有り得ないです。うさ……私が、結婚するだなんて。誰かと付き合うなんて」
からからと笑って、菫子ちゃんが首を横に振る。女子高生くらいなら、お付き合いや結婚について現実的に考えられないのも無理はないな、なんて思う。私だって、まったく考えられないのだし。告白された経験はなくはないけど、特に理由もなく断ってしまったくらいだ。そういう意味では、私だって菫子ちゃんと似たようなもの。
「そう言えば……」
と、私は話題を転換させる。ハーンさんはどうなんですか? なんて彼女から切り返されたところで、それらしいコイバナなんて提供できないと思ったから。
「私は時間も空間も超えて、ここにいる。そしてアナタと話してる。アナタの時代でも、今は夜なの? 百年以上なんて時間を超越してるのに、時間帯だけは同じってのもなんだか釈然としないのだけど」
「えぇ、夜ですよ。ま、昼も夜もあまり関係ないんですけどね。私は昼間も寝てばっかりですし」
「そうなの? 勉学に支障が出そうね」
「そうでもないですよ。寝てる間も、意識として覚醒してるようなもんですから。勉強だってお茶の子さいさいです。そう考えてみると、この体質ってけっこう便利だなって思うんですよぉ」
菫子ちゃんはうんうん、ともっともらしく頷いて見せると、不意にスゥと目線を細めて、
「ハーンさんもそうなったら、きっと色々と捗りますよ。眠りは脳の休息。生物にとっては意識の途絶。その時間も自由に有効活用できるとなれば、それはある意味、人類の進化とさえ言って良い気がしますからねぇ。生物としての領分をも超えた意識……なんだかロマンがあると思いませんか?」
「聞こえは良いし、便利だなとも思うけれど……」
そう言って、私ははぐらかすみたいに笑う。眠る時間もなく行動し続けるというのは、何だか疲れてしまいそうだ。現に今日、眠る前だって、何だか体のダルさを感じていたのだし。
「毎日、眠る度にこの世界に来るというのは、ちょっと疲れちゃいそうね。私は、時々で良いかな。何の変哲もない就寝も、私は嫌いじゃないし」
「そうですか」
菫子ちゃんがにっこりと微笑む。また、あの笑みだ。蓮子とは全然違う、何かの感情や想いを覆い隠してしまうみたいな表情。影があるというわけでも、私の返答を残念だと思ってるわけでもなさそうな微笑み。けれどそれは間違いなく、本心からの顔というよりは、作られた表情のように思えてならない。
「……でも、きっとその内、ご理解いただけると思いますよ。二度目の試行。夢の通路の整備。私とハーンさんとのリンク。その成功の結果が、私とアナタの逢瀬です」
「……? どういう意味かしら? ちょっと、よく判らないかも……」
「いずれ判ります。いずれ。私はアナタを見つけた。見つける方法を確立した。つまりそういうことですよ、ふふふふ……」
菫子ちゃんが地面に両手を突き、ズイ、と顔を近づけてくる。視線は揺るがず、瞬きもせず、まるで私の眼を通して私の脳髄までも見透かそうとするみたいに。
……なんだろう。
今日の彼女は、何だか昨日とは違うみたい。何かが込み上げる。私の背筋を、その何かがそっと撫でていく。それは寒気とか怖気とか、そんなカテゴリーに収まってしまう感情。どうして私は、菫子ちゃんにそんな感情を抱かなくちゃいけないのだろう。彼女は初代秘封倶楽部の会長で、つまり私たちの先輩で、そして蓮子の先祖でもあるというのに……?
正体不明の感覚に苛まれていると、蠱惑的に微笑んでいた菫子ちゃんが、急に眉をひそめて立ち上がる。眉間に皺を寄せた彼女は、何かの影を追うみたいにキョロキョロと周囲を窺いだした。
「菫子、ちゃん?」
「シッ! 静かにしてください。いい子だから」
鋭い声で要求した彼女は、尚も竹林の狭間に視線を向け続ける。彼女の態度の急変の理由が判らず、私は口をつぐみながらも彼女の視線を追おうとする。青白い月光に照らされた竹。数メートル先に、暗がりが広がる場所。私は今更のように、この場所が危険であるということを思い出す。
やがて、十時の方向から朽ち葉を踏みしめる様な音が聞こえる。竹が窮屈そうに身体を揺さぶって。吐息。それも、お世辞にも可愛らしいとは形容のできないもの。菫子ちゃんが、その音の根源と私の間に割り込むように立つ。
そして。
濃密なヴェールのような暗闇の中から、金色に光る一対の眼が浮かび上がる。ひっ、と。私の喉から掠れたような悲鳴が漏れた。動かないでください、と菫子ちゃんが前を見つめたままに言う。先ほど聞こえた吐息は、いまや唸り声へと転じていた。
トリフネの記憶が鮮烈に脳裏を過る。見たこともない化け物に追われた時の感情。その情の名を、私は痛いくらいに知っている。
――恐怖。
「……猿の妖怪みたいですね。下級妖怪です。言葉も通じないでしょう」
「ど、どうしよう、菫子ちゃん……。逃げた方が……」
「安心してください。ハーンさん」
菫子ちゃんが、私の方を振り向く。けれどその表情は、昨日みたく月光に埋もれて判らない。彼女の紅い眼鏡だけが、微かな明かりを反射して浮かび上がっている。
「私が守って差し上げます。絶対に、ね」
一番私たちに近かった竹が、根元から倒れそうなくらいにグラリと軋む。その幹を掴んでいるのは、生皮を剥がしたみたいに真っ赤な手。私の頭なんて簡単に握り潰せそうなくらいに、その手は巨大だった。
金色の眼が近付き、月光の下に怪物が躍り出る。それは途方に暮れてしまいそうなくらいに大きな猿の姿。二メートル半は優に超え、まるで建築物が意志を持って歩いてるみたいな錯覚をする。白銀の毛並。取り出したばかりの心臓のような赤い顔。口元からだらしなくベトベトの涎を零しながら、巨大な猿が私たち二人を見下ろす。
身体が震える。呼吸もロクに出来ない。座ったままだと言うのに、崩れ落ちて気を失ってしまいそう。どう考えても勝てる生物なんかじゃない。逃げないと。今すぐ立ち上がって、菫子ちゃんの手を引いて、走らないと。そう思うのに、私の身体は生きる気力でもそぎ落とされたみたいに動いてくれなくて。
「す、菫子、ちゃん……」
彼女の背中に呼びかける。けれど菫子ちゃんは、ただ大猿を見上げたまま動こうとしない。こんな怪物に立ち向かうなんて、正気の沙汰とは言えない。
なのに彼女は――笑う。嗤う。
ダラダラと涎を垂らし、明らかに私たち二人を餌としか見ていない怪物を前にして、心の底から馬鹿にするみたいに、嘲笑う。
「クク、クックック……あぁ、私も舐められたもんですねぇ? こんな畜生如きが、この私に立ち向かおうとするなんてねぇ?
……調子に乗るなよ。下級妖怪の分際で」
ゾッとするくらいに冷酷な声。私は思わず身震いする。怪物を見たときとは異質の恐怖から、心臓を鷲掴みにされたみたい。
本当は頼もしく思うべき。怪物を前に、臆することなく啖呵を切った彼女を。私を守ると言ってくれた菫子ちゃんを。なのに、私の心を支配するのは純粋な恐れの感情だった。彼女が漏らした冷たい怒気。漆黒の殺意。その切れ端に触れただけで、私は全身の筋肉が凍りつくのを感じた。
怪物が、耳をつんざくみたいな咆哮をあげる。お腹の底から身体の芯までを震わせるような、不協和音の叫び。キーン、と高音の耳鳴りがする。鼓膜が破れてしまいそう。私は両耳を塞いで、蹲ってしまう。その間も、菫子ちゃんはまるで同じた様子もなく立ち尽くしていた。
「……眠りとは意識の断絶。一夜の夢は短い死であり、死とは永遠の眠りと言えます。
私の邪魔をするのなら、眠りなさい?
死の果てに槐安があるかどうかは、保障しかねますがね」
イカレた聴覚の中、菫子ちゃんの嘲笑うような声が届く。それを合図とばかりに大猿が右腕を振るって、彼女を握り潰そうとする。トン、と跳躍した菫子ちゃんが軽々と大猿の背後を取った。獲物を見失った怪物が振り向こうとするや否や、悲鳴らしき苦悶の声を上げる。
菫子ちゃんが何をしたのかは、大猿の身体に阻まれて判らない。けれど彼女の姿を求めて私に背を向けた怪物の背中からは、赤黒い血が滴っていた。白く枯れた竹の葉のカーペットが、ポタリポタリと垂れる血に汚される。
「はは、遅い遅い。どこ見てるんです? それで戦ってるつもりですかぁ?」
菫子ちゃんが、さも愉快そうに大猿を馬鹿にした声を出す。その声の出所は怪物の頭上。彼女は煌々と照る月を足場にでもしてるみたいに、中空で逆さまになったまま両手を掲げる。
その途端、怪物の足元がどす黒く変色し、ゴボゴボと泡を立てる液体へと転じた。それはコールタールでできた沼か何かのよう。粘つく黒の液体が大猿の身体を飲みこんでいく。怪物は慌てて這いあがろうとするけれど、もがけばもがくほどに液体が身体にまとわりついていく。
腰の辺りまで黒い沼に飲まれた大猿が、困惑の悲鳴を上げながらバタバタと両手を振り回す。地面を引っ掻いたり、竹に手を伸ばそうとしたりするのだけど、彼の触る物は全て、悪意を感じさせる挙動で彼から遠ざかる。地面は片端から液状化し、竹はその身をくねらせて回避する。まるで悪夢だ。それもとびきり性質の悪い狂夢。滑稽な踊りにも似た大猿の足掻きを見て、中空の菫子ちゃんはゲラゲラと笑いこけていた。
「あはは、あっはははは! 何ですかその無様な姿! まるでピエロですよ! 私を笑わせるために来たんですかぁ? 猿回しの猿でも目指してるんですかぁ? まったく下品な生き物ですねぇ! 汚らしい! みっともなく慌てふためいて、恥ずかしくないんですかぁ? あははははははは!!」
ひとしきり指を差して笑った菫子ちゃんが、クルリ、と回転して怪物の目の前に着地する。激昂したらしい大猿は必死に手を伸ばして彼女を掴もうとするのだけど、武骨な指先は彼女の顔まであと数センチのところで、虚しく空を掻くばかり。
「ほら、ほぉら頑張って! あともうちょっとで届きますよ! がんばれ❤ がんばれ❤ あっはははは! だらしのないオスですねぇ! こーんな可憐な女の子ひとりに良いように扱われる気分はどうです? 屈辱ですかぁ? 悔しいですかぁ? 雑魚の分際で調子に乗るからこんなことになるんですよぉ?」
彼女は怪物が届かないギリギリの距離を見極めて、盛大に大猿をおちょくり続ける。赤子をあやすみたいに手を叩いたり、顔を近づけたかと思うと振り回される彼の手を避けたり、あっかんべぇをしてみたり。怪物は大声で喚いて菫子ちゃんへと手を伸ばすのだけど、それが功を奏す様子はない。
「あぁ、おっかしい。笑った笑った。でも――もう飽きました。アナタの下品な声を聞くのも、うんざりです。反応もワンパターンですし、つまらないことこの上ない。私を五分も楽しませられないなんて、本当に下らない生き物ですね。何のために生きてきたんですかぁ?」
私は戦慄する。怪物とはいえ、他者をこうまで見下すことのできる彼女に。降りかかった火の粉を払うなんてものじゃない。それは底知れない悪意を感じさせた。自分以外の全てを、玩具くらいにしか思ってないかのような。
怖いと思った。怪物に出くわした時よりも、ずっとずっと大きい恐怖が私を襲う。いまにも逃げ出したいと思うのに、腰が抜けてしまって、身体が震えてしまって、私は立ち上がることもできずにいる。
「さて、あと十秒で殺します。判りますか? アナタは十秒で死ぬんです。その下らない命が十秒で終わります。それまで足掻いてみてください。見ててあげますから」
大猿が悲鳴をあげる。それまでの咆哮とは違う、怖れを感じさせる悲痛な叫び。言葉の通じない生き物でも、彼女の宣言が伝わったみたいに思えた。
怪物が暴れ出す。身体を無茶苦茶に動かしたり、自分を捉えて離さない黒い沼を掻き分けようとしたり。彼の両目から涙が零れるのが見えた。自分が殺されると判った生き物の、死にたくないという哀願。それをケラケラと嘲笑いながら、菫子ちゃんは両手をパーに広げてカウントダウンを始める。
「はい、じゅーう、きゅーう、はーち、なーな……」
「す、菫子ちゃん……? 何も、そこまで……」
震える声で、彼女の背中に声を掛ける。身体をのけぞらせるみたいな不自然極まりない格好で私を見た彼女が、ニヤリと唇を歪ませて、
「はぁ? なに甘いこと言ってるんですか? この妖怪は私たちを食べようとしたんですよ? アナタに危害を加えようとしたんです。そんなの、見てたら判りますよね? ハーンさんも、せっかくだからこの無様な生き物を見て笑いましょうよぉ。
……えっと、どこまで数えましたっけ? まぁ、いいや。面倒臭い。三、二、一、ゼロ。ハイおしまい」
菫子ちゃんは投げやりに言うと、パチン、と指を鳴らした。途端、紺色の玉みたいなものが無数に姿を現し、中空に浮かんだそれらが磁石に殺到する砂鉄のように怪物へと押し寄せる。紺色の玉が大猿に触れた途端、ガリガリガリ、とミキサーに石ころを投げ入れたみたいな耳障りな音が響いた。
――削ってるんだ。生きたまま、皮も肉も骨も一緒くたに。
断末魔。紺色の球に埋め尽くされた怪物の身体から、握り潰されたトマトのように勢いよく赤黒い血が噴き出してくる。怪物がうつぶせに倒れると、紺色の玉が消えた。後には凄惨な死体が残される。
胸郭からは、折れた肋骨が幾本も突き出ていた。割れた頭蓋から血液を零す脳組織がはみ出ている。腹膜が破られたのか、湯気をたてる腸らしき臓物が散乱する。白と赤の悪趣味なコントラスト。およそめでたさとは程遠いその色彩が、私の食道をすっぱい液体で焼いた。
「……うっ……」
……ひどい。
確かに、あの怪物は私たちを狙った。危害を加えられそうになった。話しても判らない相手とは戦うしかない。それを忘失するほど平和ボケてるつもりはない。
でも、いくらなんでもやり過ぎだ。オーバーキルもいいところ。あれほど一方的に嬲り殺せるなら、脅して追い返すこともできた筈だ。必死の抵抗を小馬鹿にするんじゃなくて。死への恐怖を嘲笑うんじゃなくて。
「ははぁ。びっくりしました」
鼻を鳴らした菫子ちゃんが、死骸に歩み寄る。そして頭蓋のかち割られた頭部のなれの果てを見下ろすと、露出した大脳をぶちゅりと踏み潰す。
「脳みそ、あったんですねぇ。相手との力量の差すら判らないお馬鹿さんだから、てっきり脳なんてないと思ってました。でも、あったところで意味ないですね。まともに使えないんですし? まともな夢を見る機能も備わってない脳なんか、ただのカスです。一銭の価値もない生ごみですねぇ。あーあ、靴が汚れちゃった。死んでからも私に迷惑をかけるとか、なんて不愉快な生物でしょう。死んで当然ですね」
言葉とは裏腹に、目の前の少女は嬉々とした様子で怪物の脳を踏み躙る。踵で頭蓋骨を踏み砕き、右足を奥へ奥へと突っ込んでは、執拗に脳細胞をミックスしていく。
……限界。
もう、限界だった。
彼女が怖い。一秒だって、彼女と顔を合わせることを耐えられそうにない。こんな残虐な一面を見せられて、仲良くお話ができるわけもない。彼女が私と同じ人間だなんて、私にはどうしても思えなかった。
深呼吸をして、胃の中をブチ撒けようと収縮する食道をなだめる。生まれたばかりの小鹿みたいに震える足を拳で叩いて、逃走の準備をする。他にも怪物が居るかもしれない。けれど、あの娘と一緒にいるよりは何倍もマシ。そう思って、私は黙ったまま立ち上がり、ケラケラ笑いながら死体を嬲る彼女に背を向ける――
「――どこへ行くんです?」
その言葉と共に、私の首に何かがシュルリと巻きつく。気道が締め付けられて、踏み潰された蛙みたいな声が喉から零れた。
私の首に巻き付いた何か。それは生暖かくて白い、得体の知れないモノ。その先端を飾るフサフサとした黒い毛が、私の目の前でゆらゆらと揺れていた。
私は理解する。これは尻尾だ。ウシ科の動物が持つ尻尾。締め付けを緩めようと後退し、背後へと振り向けば、私の首を拘束する尻尾は、菫子ちゃんのスカートの中から伸びているのが目に映った。
「かはっ……ア、ナタは……」
「んー、やっぱり夢ってのはひとりひとり違うんですねぇ。宇佐見さんの見た夢と、ハーンさんの見てる夢。宇佐見さんは意識だけがひとり歩きしてましたが……ハーンさんは、身体も一緒に夢の中に来てるみたいですね。生身で夢の中……変な薬でも飲みました? でもま、だから私はアナタに触れるし、アナタは私の制御下に堕ちてはくれない、と」
返り血で頬を汚した菫子ちゃんが、ニヤ、と不気味に唇を歪めて笑う。菫子ちゃんの正体――いや、違う。奇妙な確信。コイツは菫子ちゃんじゃない。こんな顔で笑う人が、蓮子の祖先である筈がない。
「御名答……やっぱりハーンさんって、頭の良い方なんですねぇ。でも残念。気付くのがちょっと遅かったですね。
私はアナタの夢の座標を認識しました。アナタの意識へと至る夢の通路の整備は終わりました。もうアナタは、私が存在する夢から逃れることはできないんです。
あとは熟すのを待つだけ……うふふ。アナタの現実は夢と混じっていきます。アナタの夢は現実と綯交ぜになっていきます。そこに転がってる生ごみの、空っぽな頭の中みたいにね。アナタの肉体もアナタの意識も、全部が夢へと転じれば、久方ぶりの御馳走の時間です。宇佐見さんを食べた時の恍惚、思い出しちゃいますよぉ、あはははははぁ」
菫子ちゃんを騙った少女が、口元からだらしなく涎を垂らす。逃げないと。何とかして、この場から逃げ出さないと。コイツは私を食べる気だ。首に巻きつく尻尾を掴み、爪を立て、拘束から逃れようと足掻く。
「あはっ。乱暴にしちゃ嫌ですよぉハーンさん。敏感なところなんですから、もっと優しくしてくださいよぉ。そんなに必死こいて逃げようとしなくたって、まだ食べやしませんからぁ。ほら、あの下劣な妖怪から守ってもあげたじゃないですかぁ。もっと仲良くしましょ。いっぱいお話しましょ。どうせアナタが夢を見る度、私が現れるんです。それなら、少しでも絆を深めておくべきだと思いません?」
彼女が首に巻き付けた尻尾を緩める。それを振り払うと、私は踵を返して全力で走り出す。クスクス、と私を弄ぶみたいな笑い声が、どれだけ走っても私の頭にこびりついていた。
あぁ、遊ばれているんだ。
あの菫子ちゃんを騙った少女は、私が逃げる様を見て楽しんでいるんだ。
ギリリ、と歯を食いしばる。怒りで恐怖を上書きしてしまおうとする。前を向いて、並び立つ竹を避けて、私はどこへとも知らずに走り続ける。
『逃げるのは構いませんよ。それは生物の本能です』
ザラザラとノイズの掛かった声が、まるで耳元で囁かれてるみたいに私の頭の中で反響する。振り返っても、彼女が追い掛けてくる様子はない。どれほど逃げても無駄だよ、と宣言されているみたいで、ゾッとする。
『けれど、逃げ場など無いのです。夢を見ない生物はいない。眠らない人間なんていない。私は夢に巣食う者。夢の世界を渡り歩くラプラスの魔。アナタがアナタの夢を見る限り、私はいつだって隣にいます。アナタの夢が現実になるまで。アナタの現実が夢になるまで。ずっとずぅぅぅぅぅぅっとアナタの肩に手を乗せ続けましょう。永久の狂夢が、“ピリオド”を打つまで、ね?』
私は耳を塞ぐ。きっとこれも無意味なのだと悟りながらも、そうする以外に足掻く方法なんて思いつかなかった。景色が変わらない。どれほど走っても、この竹藪から抜ける兆しがない。それこそ、永遠に続く狂った悪夢のように。
ここに居ちゃいけない。
はやく、目を覚まさなくちゃいけない。
そう思うのに、どうすれば良いか判らない。走るだけじゃ駄目、逃げてもきっとどうにもならない。そんなことは百も承知なのに、根本的な解決策が見えない。
と、
――ピピピピピピ……。
「っ!」
聞き慣れた音が、不意に私の耳元で聞こえてくる。忘れるはずもない、それは端末の着信音。蓮子が連絡をしてくる時の音。きっと現実世界で、彼女が端末を鳴らしているのだ。
「蓮子……!」
相方を抱きしめてキスをしたい思いを抱く。彼女が連絡をしてきた理由は判らないけれど、これで私は目を覚ませる。そう思うと、安堵がどっと私の胸に押し寄せた。
『……おやおや。目が覚めてしまうみたいですね』
少女の声がする。少しばかり残念がるような、それでもまだまだ余裕のある声。私は走るのをやめて立ち止まる。視界がグラリと歪んで、身体の先端から私の存在が希薄になっていって。
『んー、もう少しでアナタの現実にお邪魔できるところまで行けたんですがねぇ……。ま、楽しみは後に取っておくものです。どうせ明日の夢で、もう取り返しのつかない地点まで押し上げられるんですから、良しとしましょう。
アナタが夢の世界に入る度、アナタは夢へと近づく。現実世界の住民から、夢の構成物へと変化していく。私がアナタの前に現れた時点で、もう手遅れなのです。それをお忘れなきよう。
それじゃ、近い内にまた逢いましょうね』
そんな声を最後に、私の視界が暗転する。立っていた感覚の消失。平衡感覚が歪み、私は自分が横たわっていることに気が付く。
「……ッ!」
ガバ、と身体を起こす。
そこは見慣れた私の部屋。ベッドの中。寝巻がぐっしょりと汗で濡れていて、夢の中で走り続けていた私は、その疲労をそのまま持ち帰ったみたいに息を弾ませていた。
ベッド脇のチェストに置いていた端末が、蓮子からの着信を喚き立てている。荒く呼吸を繰り返しながら、汗でべっとりと張り付く前髪を掻き分けて、私は端末を手にする。受話口から、慌てたみたいな蓮子の声が聞こえてきた。
「も、もしもしメリー!? ごめん、夜中に連絡して……! でも、すぐにでも伝えなくちゃいけないことがあって――」
「っ、れん、こぉ……!」
ジワリと両目が熱を持つのが判った。安堵、感謝。そうした温かな感情が、私の鼻をツン、と刺激する。ポロポロと涙が零れる。まるで、クローゼットからお化けが出てくると思い込んでる子供みたいに。
「……メリー? どう、したの……?」
「……怖かった……私、すっごく、怖かった……」
事情を説明することもできずに泣きだす。蓮子は何かを察したみたいに、これから行くとだけ伝えて通話を切った。
蓮子が私のマンションに来てくれて、玄関のチャイムが鳴るまで、私はライナスみたいに毛布を抱きしめたまま、ベッドの上で震えていた。
◆
「――宇佐見菫子の存在は事実だったわ。私の家系に居たのも事実。けれど、私と直接血が繋がってるわけじゃなかった。彼女は、高校生のときに行方不明になってたの」
眠気覚ましに、と蓮子に渡してもらった珈琲を啜りながら、彼女の説明を聞いていた。本当は彼女が来る前にシャワーを浴びて着替えたかったのだけど、どうしても恐ろしくてそれができなかった。時刻は深夜の三時を回っている。
「そもそも女の子の落書きノートが、後生大事に仕舞われてたことが引っ掛かってたのよ。そういうのって、あとあと恥ずかしくなって処分しちゃうものでしょ?
でも、それが保管されてた。何故なら、ノートの所有者が居なくなってしまったから。残された人は、消えてしまった家族の痕跡を処分することなんてできなかったのね」
いつも通りの服を着ている蓮子は、自分の端末を操作して、とあるアーカイヴを表示する。それは主要な情報媒体を紙に頼っていた頃の写真。新聞紙というもはや考古学的な代物が、蓮子の端末に写っていた。
「……“女子高生行方不明”……」
記事の見出しには、黒地に白抜きのされた文字でそう書かれている。次いで細々とした文字を読もうとしたのだけど、蓮子は端末をチェストの上に置いて、
「行方不明になったのは、宇佐見菫子。教室で点呼を取ってた時に、突然教室から出て行って、それきりだったらしいわ。現代の神隠しとか何とか言われて、かなり話題になったみたい。行方不明になる前の彼女は、暇さえあれば眠ってしまうのび太くんみたいな子だったらしいって書かれてる。
……宇佐見菫子は、頻繁に夢の世界へと旅立った結果、神隠しに逢った。
それで、メリーが見たっていう夢。つまり菫子が存在してる夢ってのは、もしかしたら危ないものだったのかもって思ったんだけど……」
蓮子が雨に打たれる子犬を見る人みたいな目をして、私の様子を窺ってくる。夢の世界で見た光景。豹変した菫子ちゃん。そういったモノがフラッシュバックして、また自分の身体が震え出すのが判った。
「……菫子ちゃんは、きっと食べられてしまったのよ……夢の中を統べる怪物に……」
私は懸命に吐き気を堪えて、ついさっきまで見ていた夢の内容を蓮子に話した。菫子ちゃんだと思っていた少女が口走った内容、彼女の行動。その全てを、私はありありと覚えている。あんな悍ましい体験、忘れたくても簡単には忘れられない。
自分の家系に連なる人の不幸についての話だというのに、蓮子は取り乱すことなく聞いてくれた。理性的な彼女のリアクションを見て、私も少しずつ落ち着きを取り戻す。両手で包むように持っていた珈琲はいつの間にか温くなっていたけれど、全てを話し終える頃には私の震えも止まっていた。
「――眠ったら、相手の思うつぼ……まるでフレディ・クルーガーね。知ってる? 一世紀以上前の古典ホラーだけど」
「子供の頃に見たわ。それからしばらくは、寝るのが怖かった。まさか大学生になって、あの頃の恐怖が実際に襲ってくるとは思ってもみなかったけれど……」
「なんにせよ、何の対策も打たずに眠ったらアウトと考えるべきよね。どうする? 珈琲にお砂糖入れる? ブドウ糖が必要でしょ?」
「大匙四杯は欲しいわ」
「五杯にしましょ。四って数字は不吉だわ」
キッチンに向かった蓮子が、砂糖壺を取って来てくれる。冷めた珈琲にきっちりと五杯の砂糖を入れてかき回し、砂漠で脱水症状に見舞われた人みたいにコップを煽った。溶けきらなかった砂糖のせいで、口の中がじゃりじゃりする。
「情報を整理しましょう」
入れ過ぎた砂糖のおかげでさっきよりも意識が覚醒したことを自覚していると、蓮子が腕を組んでから言う。
「相手は夢の中の存在。メリーの夢の世界にいる。つまり、アナタが眠ると同時に飛び越える結界の向こう側ね。結界を飛び越えないように眠ることは?」
「……恐らく、無理ね。彼女は私の夢と自分をリンクさせた。夢の通路を整備した。アナタの夢の座標を認識した。と言っていたわ。私が眠ったら、自動的に彼女の居る世界へと飛ばされてしまうのだと思う」
「夢の中で、相手をやっつけることは?」
「それも無理。二メートルは超える怪物を遊び殺すことができるくらいの力を持ってる。まっとうに戦って勝てる相手じゃないわ」
「二度と眠らないこと……は絶対無理ね。考慮の余地なしだわ。うーん……」
蓮子が眉間に皺を寄せて、ため息のように唸る。考えれば考えるほどに打つ手がないような、そんな絶望的な気分になった。生物は眠りから逃げられない。これから一生眠らずに過ごすことなんて、現実的じゃない。それを理解してるからこそ、菫子ちゃんを騙ったあの少女はベラベラと饒舌に語ったに違いない。どうせ逃げられない、と知ってたから。
「……蓮子」
「駄目。その先は言わせない」
蓮子が、弱音を吐こうとした私の唇をプニ、と人差し指で塞いでしまう。心地のいい冷たさが、私から諦めるという選択肢を削いだ。
「これまで何度も危ない目になんて逢って来たでしょ? その度に、力を合わせて切り抜けてきたじゃない。膝を折るメリーなんて見たくないわ。私たちは秘封倶楽部よ。謎が牙を剥くなら、知恵を絞って立ち向かえばいい。そうでしょう?」
人差し指を離した蓮子が、にっこりと微笑む。その自信に、精神論に、根拠なんてないのかもしれない。けれど、不思議と萎えかけた気力が蘇ってくる。蓮子が居てくれるから。私の危機に、本気で取り組んでくれるから。
だからこそ、私は前を向ける。
「……ありがとう、蓮子」
「うん。その調子。弱音を吐きそうになった罰は、チョコレートムースで良いわよ。絶対に乗り越えて、またあの喫茶店でお喋りするんだから。ね?」
陽だまりで跳ねる仔猫みたいに人懐こく笑った蓮子が、空になった珈琲カップを持ってキッチンへと向かう。
その途中で、不意に蓮子の動きがピタリ、と止まった。
「……? 蓮子?」
まるで時間が止まってしまったかのよう。有り得ないとは思いつつも、壁際の時計を確認する。三時ニ十二分。秒針はないから、時間が停止してても判らないと遅まきながら気付く。
ベッドから立ち上がって、蓮子へと歩み寄る。いったいどうしたというのだろう。カップをシンクに置くなり、もう一杯珈琲を淹れてくれるなり、そうした行動の途中だと思ったのに、彼女はキッチンとベッドの間、何もないところで立ち止まったまま。
「どうしたの……? ねぇ……?」
蓮子の細い肩に手を乗せる。けれど、彼女は何も言わない。不意に私は不安になった。どうして蓮子は何の反応も示してくれないのだろう。何か私たちの思いも寄らないことが起きてるんじゃないか。
夢が現実になる。現実が夢になる。夢の世界の少女は、訳知り顔でそう語った。
――私がこうしているこの世界が、夢じゃないという保証は?
「ねぇ……! 蓮子ってば!」
強めに蓮子の肩を揺さぶる。すると彼女はようやくこちらを向いた。どこかぼんやりとした彼女の表情が、私を見つめてくる。
「れ、んこ……?」
「――座標、と。菫子を模した子は、言ったのよね?」
カチリ、と音がする。それは壁際の時計が時間を刻んだ音。三時二十三分。止まっていたみたいだと錯覚した時間は、当然のような顔で未来を生産し続けていた。
そして、蓮子が我が意を得たりとばかりに笑う。自分のことをプランク並みの頭脳だと称した彼女が、簡単な方程式を解説するみたいな口調で、
「座標が割れているのなら、その座標をずらせばいい。夢の世界の座標を測定して、新しい座標へと逃れてしまえばいい。私の眼の能力を忘れたなんて言わせないわよ?
――私が、メリーのコンパスになる。そうすれば、きっと逃げ切れるわ」
◆
もしかしたら人生で最期のお風呂かも知れない。寝汗をシャワーで流し、湯船に浸かりながらそんなことを思う。
蓮子が語った解決策。彼女と一緒に夢の世界へと赴き、夢の境界を探して逃げ続けること。
その手法は、推論に推論を重ねた代物だ。それが上手くいくかどうかは、神のみぞ知るといったところ。けれど、他に方法がないのは確か。
私が眠れば、尻尾の生えた少女は目的を果たすだろう。私は夢へと変換されて、かつて夢に近づき過ぎた少女と同じ運命を辿る他にない。だから、取り得る手段に賭けるしかないのだ。食べられたくないのならば。
「……本当に、上手くいくのかしら」
「大丈夫よ」
私の独り言に、蓮子が身体を洗いながら答える。平均的な成人女性よりも少しスレンダーな彼女の肢体は、真っ白な泡で覆われている。ボディーソープの使いすぎ。生きて帰れたら代金を請求してやろうかと思った。
「向こうの言い分から判断するに、彼女は夢の世界を渡り歩く存在なのでしょう? 夢を見ない生物はいない。つまり夢の世界は、数え切れないくらいに存在すると考えていい。メリーを見つけた彼女は、もう一度メリーに逢うために、メリーからのアプローチを要求した。それはつまり、アプローチがなければ見つけられなかった、と考えられるわ。天文学的な数が存在する夢の世界の中から、アナタを探せなかった……ってね」
立ち込める湯気の向こうで、蓮子が自信ありげに笑う気配が伝わる。彼女は菫子ちゃんについて調べていた結果、深夜までお風呂に入る機を逸していたらしい。ひとりになるのが怖いと思っていた私にとって、一緒に入りましょうという蓮子の申し出はありがたかった。
これから私たちがやろうとしていること。いつもの結界探索の延長線。いつもと違うのは、私の命が掛かっていること。失敗すれば私のみならず、蓮子まで夢を操る存在の手中に堕ちてしまう。私たちの掛け金は、私たち二人の命だ。
蓮子を巻き込んでしまうことは、気が進まない。
彼女の夢はまっとうな物。私に付き合わなければ、蓮子が狙われることはないはず。もし失敗しても、何とか蓮子だけは見逃してほしい。私が自分の身を捧げれば、それで彼女は助かるだろうか。
「また眉間に皺を寄せてる」
シャワーで身体を流しながら、蓮子がやれやれとばかりに肩を竦める。流れ落ちた泡が排水溝に向けて、ゆっくりと渦を描いて流れていく。泡を落とした蓮子が、私と向かい合う体勢で湯船に入って来た。ザバ、とお湯が零れて流れ切ってない泡が浮かび、お風呂場の床は雲海にでもなってしまったみたいに見える。
「メリーのことだわ。蓮子だけは見逃して貰おう、なんてこと考えてたんでしょ。そんなナーバスになってちゃ、上手く行くものも行かなくなっちゃうわよ?」
「う……」
「図星みたいね。本当に、友達甲斐があるんだかないんだか。ここは大船に乗った気で、蓮子さんの作戦の成功を祈って欲しいものだわ」
「だって……蓮子が私のせいで危ない目に遭うなんて、嫌だもの……」
言い訳みたいに呟いて、私は口元まで湯船に浸かる。腿の内側に蓮子の足が触れている感触。彼女の柔らかさ、生命の息吹。それが不安に覆われそうな心を引き上げてくれている気がした。
「メリーのせいだなんて、私が思うとでも?」
湯船の縁に身体を預けて、蓮子が悪戯っぽく笑う。そこには恐怖の色なんて微塵もない。もしかしたらこれから死ぬかもしれないなんて、蓮子はそんな怯えを感じさせない。
「でも、事実だわ」
「いいえ? 私がしたいから、そうするだけ。もう大学生よ? 自分の行動くらい、自分で責任を取るわよ。少なくとも私は、自分の命恋しさに、親友を見捨てるなんて真似はしない」
蓮子が揺らぐことなく私の眼を見据える。不意に、身体を触られるのが判った。お湯を掻き分ける蓮子の手は、幾つかの場所を経由した後に私の手に触れると、ぎゅっと指を絡めてくる。
「メリーは死なないわ。私と一緒なら、大丈夫」
蓮子の両目に、私の顔が映っている。それは自身なさげな顔をした、情けない女の子の顔。蓮子はこんなにも自信があるのに、何度も何度も大丈夫だと言ってくれるのに、それでもウジウジと悩む私の顔。
馬鹿みたいだと思った。
失敗した時のことばかり考えて、諦めてしまうことばかりを前提にして、それはつまり、蓮子を信用してないのと同じじゃないか。
どうしてこんなにも情けない女になってしまったの? マエリベリー・ハーン。
逃げられないと言われたから? 力の差を見せつけられたから?
――そんなこと、関係ない。
私は蓮子を信じよう。親友の策がうまくいくことを、祈ろう。
私たちは秘封倶楽部だ。私たちが力を合わせれば、怖いモノなんて何もない。全てを打ち砕け。あらゆる謎を解き明かせ。行く手に危険が迫っているのなら、そんなものは乗り越えてしまえばいい。
ようやく、私は蓮子の手を握り返す。お風呂の中で掴んだその手は、私に勇気をくれる気がした。蓮子の自信、絶対に何とかしてみせるという気概。それを、私も共有する。
「――うん、ありがとう。蓮子」
「よし、それでこそ私の相方だわ」
蓮子が満面の笑みを浮かべて、絡めた指を解く。お風呂から上がり、洗面台に置いていたバスタオルを手にした。
「さ、行きましょうメリー。私を、アナタの狂夢の中へと誘って。大丈夫。万が一失敗したら、一緒に死んであげるから」
◆
目を覚ませば、私は竹林の中。
もうこれで三度目だ。前回までと違うのは、隣に蓮子がいること。眠りに落ちる前にしっかりと繋いだ手。夢の世界へと辿り着いても繋がったままだったことに、安堵する。
「……北緯35度56分18秒。東経138度17分21秒。時刻は午前4時2分……驚いた。眠る前と日付が変わらないわ」
星空を眺めた蓮子が、呪文のように呟く。慌てるでもなく狼狽えるでもなく、彼女は淡々と自分の役割を果たしている。
次は私の番。夢の世界の境界をこの眼で探し当て、そこを飛び越える。それが私たちの編み出した作戦。ちゃんと境界を飛び越えられたかどうかは、蓮子が教えてくれる。何度も、何度だって、あの少女が私たちを見失うまで、同じことを続けるのだ。
「蓮子、気を付けて。前回と同じなら、あの子はもうすぐ近くに来てるはずよ」
「うん。その前に、この世界の境界を探しましょう。夢の世界が通路で行き来できるなら、必ずどこかに境界の裂け目があるはずよ」
蓮子が周囲の様子を警戒しながら言う。私は目を凝らして、サラサラと音を立てながら揺れる竹の合間を探る。そこに境界の裂け目か、それとも菫子ちゃんを模した少女の姿がないかと。
周囲に気配はない。生き物の唸り声も、こちらを探るような視線も、何も感じない。それがかえって不気味だった。あの少女は、私が夢の世界に来たことなんて、お見通しだろうに。
『とにかく進みましょう、メリー』
「えぇ……でも、気を抜かないで。いつ、どこから襲って来るか判らないわ」
『そう? そんなことはないんじゃない? もうちょっと落ち着きましょう? 案外、何もなく平和に終わるかも知れないし』
「そんな筈ないでしょ……? あの子が私を見逃すなんて思えな――」
「――メリー……? アナタ、誰と喋ってるの?」
蓮子が呆気にとられたような顔で私を見ている。何を言ってるんだ、と文句を言い掛けたところで、ハッと何が起きているかを悟る。
「蓮子……もう、あの子は来てる。いま、話しかけられたわ。アナタの声で」
「え? ど、どこに……?」
「――お友達ですか、ハーンさん? ははぁ、その子が蓮子さんですか。あんまり宇佐見菫子さんとは似てないですね」
背後から菫子ちゃんの声がする。振り向けば、そこには人懐こそうな笑みを浮かべた少女の姿。小首を傾げ、手を後ろで組んで、ジロジロと蓮子のことを見つめている。
「あぁ、なるほど。そういうことですか。友達を差し出すから、私のことは見逃してくれって奴ですか。ははぁ、首尾よくやりましたねハーンさん。選択肢としては大正解です。私、見ての通り小食なんですよぉ。さすがにふたりも食べたらお腹が破裂しちゃいます。良いですよ。アナタの申し出、お受けしましょう。蓮子さんをくれたら、私はアナタから手を引きます」
「……この子が、菫子……?」
自分勝手な言い分をベラベラ並べ立てる少女を見て、蓮子の顔が険しくなる。私は彼女の手をギュッと掴んだまま、何とか少女から逃げる算段を考えていた。
「正確には、宇佐見菫子さんの身体を再生してお借りしてるだけです。彼女は夢の粒子となり、私のお腹に収まりました。もう私の一部です。だから、こうして変身できるんですよぉ。ハーンさんの夢の欠片から、秘封倶楽部っていうワードを読み取ったんでね、面白いかなって、あはは」
自分のほっぺたをギュウとつねって、少女が笑う。まるでピエロか何かのように、口が耳まで裂けるんじゃないかというくらいに、大きく口を開けて。
「さて、ハーンさん何しに来たんです? さきほど、あとちょっとのところで逃げられちゃったもんですから、早くても二日は掛かるかな、と思ってたんですけどね。何か策があるんですか? 身代わり云々ってのは冗談としても、こちらの蓮子さんは助っ人です? 妖怪退治のエキスパートか何か? あははははぁ、私に勝てると良いですねぇ」
「――蓮子! 早く! 走るわよ!」
効果的な方法を思い付くことができず、結局私は単純な手段に訴えることにした。蓮子の手を引いて、一目散に走り出す。うわ、と転びそうにはなりながらも、蓮子はしっかり私に着いて来てくれた。
「メリー! 当てはあるの!?」
「ない! でも、あの子から離れないとダメ!」
並び立つ竹の隙間を縫うように走る。やってることは、さっきと変わらない。けれど、今回は違う。私は懸命に目を凝らしながら、どこかに境界の裂け目がないかと探す。ここは夢の世界。現実以上に、容易く揺らいでしまう世界。なら、必ず境界は見つかる。相棒の策を信じて、私は周囲に鋭く視線をやり続ける。
『何です? さっきと同じじゃないですか……いや、アナタはそんな馬鹿じゃないですよね? この世界にどんな希望を見出したんですかぁ? ここがアナタの夢である以上、アナタ以外の世界の構成物は全部、私の支配下にあるのは変わりませんのにねぇ』
少女がクスクス笑いと同時に言うや否や、目の前にあった二本の竹が急に交差して私たちの行く手を遮る。足を止めず、迂回して竹の通せんぼをやり過ごす。その次、更に次、何度も何度も竹の交差によって道を阻まれながらも、私は蓮子の手を引いて走り続ける。
「――あった!」
前方、およそ三百メートル先から、気配を感じた。広がる暗がりに針を突き刺した様な違和感。常人の視力では捉えきれないだろうけれど、私には判る。あそこに、この世界の出口がある。あの境界へと飛び込めば、この狂夢から逃げられる――!
「メリー! どこなの!?」
「あっち! 三百メートルくらい離れてる! このまま走れば――」
『……へぇ。夢の通路が判るんですか』
ゾッとするくらいに冷たい声が、頭の中に響いてくる。気付かれた。私たちの計画。でも、あの子はまだ追って来てはいない。あともう少し、たったの三百メートル走れば、それで私たちの勝ちだ。
『すみませんね。ハーンさん。アナタの能力、舐めてました。ちょっと余計なことを喋りすぎましたかね? まあ、いいでしょう』
ふぅ、とため息を吐いたような声がしたかと思うと、私たちの目の前に、パッと少女が出現する。私たちの居る場所と、境界の裂け目がある場所。その経路を遮るみたいに。
「っ!」
「お察しの通り、あれが夢の通路のひとつです。せっかくアナタの夢をこの世界に固定できたってのに、逃げられちゃ堪ったもんじゃありませんよ、あはは」
まだ少女の姿は五メートルほど離れてるというのに、彼女の声は明瞭に私の耳に届いた。行く手を塞がれたことでまっすぐ進むのを諦め、迂回しようとする。すると突然、地面から物凄い勢いで竹がせり上がり、何百本も隙間なく生えたそれらが、垣根のように細い一本道を形成する。
「さ、どうします? また別の通路を探します? 結果は同じですよ。頼みますから大人しくしててください。アナタに触れるとはいえ、まだアナタは夢の構成物として熟してない。私の制御も効かないんですから、あんまりカロリーを消費させないでください。これ以上痩せたら、おっぱいの存続危機です」
「ど、どうしよう蓮子!」
振り返る。後方には、まだ竹の生け垣が造られてはいない。いまから引き返して、別の裂け目を探すべきだろうか。けれど、また先回りされたら――
「――メリー。走るわよ」
「……へ? ひゃ!」
グイ、と蓮子が私の手を引いて走り出す。それは先ほど私が境界を見つけた方向。つまり、あの少女が待ち構えている方向だ。
「ちょ! 蓮子!」
「いいから! 走って!」
蓮子が前を見据えたままに叫ぶ。彼女の肩越しに見える少女のニヤニヤ笑いが、怪訝な面持ちに取って代わった。
「何です? 私の脇を上手くすり抜けるつもりですか? ボールを確保したアメフト選手みたいに? ははん、やれるものならやってみなさ――」
「おりゃあ!!」
全速力で走ったままの蓮子が不意に私の手を放すと、いきなり少女の腹部に飛び蹴りを喰らわす。私と同様に蓮子の行動が想定外だったらしい少女は、蓮子に蹴飛ばされて地面に倒れた。呆気にとられて立ち止まり掛ける私に、早く、と蓮子が叫んでくる。
「……こ、の……! ゲホ、エッホ……!」
お腹を押さえて悶絶する少女が、激しく咳き込んだ。少女の耐久力は、そんなに高くないのだろうか。そう言えばさっきも、大猿の攻撃はしっかりと避けていたことを思い出す。例え夢の支配者であれ、恐るべき力を振るう人外であれ、その身体は人間だった宇佐見菫子の物。全力で蹴られれば無事じゃ済まないのかも。そんな風に説明付けつつ、私はうずくまる少女の横をすり抜けた。
「――逃がす、か……!」
怨嗟に満ちた少女の声がして、境界まで繋がる竹の生け垣が、徐々に狭まり出す。私たちを押し潰そうとしてるみたいに。
「走って! メリー! 全力で走るの!」
迫りくる竹の壁をものともせず、蓮子はまったく速度を落とさないまま走る。彼女に境界は見えない。私が先に辿り着かなくちゃ。そう思って、私は死に物狂いで走る。蓮子の脇をすり抜ける。徐々に狭くなっていく視界に戦慄しながらも、確かに目前に見える境界を見据えて、私は走った。
竹の壁はもう、身体を横に向けないと通れないくらいに狭まってる。けれど、私たちが押し潰されるより、境界の裂け目に辿り着く方が早い!
「蓮子! ここよ! 飛び込むわ!」
「うん!」
背後に手を伸ばし、蓮子の手をしっかりと握る。早鐘みたいな彼女の脈動が、手の平から仄かな熱と共に伝わる。指を絡めて、絶対に離さないように。そうして私は、境界の裂け目へと水泳選手のように飛び込む!
「――ッ!」
浮遊感。地面の感覚が無くなり、頭からどこかへと落下していくのが判る。赤黒い、格子状の世界。まるで3DCGのモデリング画面のよう。どこが天でどこが地なのかも判らない空間を、私たちは落ちていく。ギュッと目をつぶる。現実感のない光景が、私の正気を蝕んでいく気がして。今の私には、蓮子の手の感触だけが真実だった。
風すら感じない落下の時間が続いたかと思うと、不意に、足の裏に固い地面の感触を感じる。相当な距離を落ちただろうに、激突の衝撃はほとんどなかった。
恐る恐る目を開く。飛び込んで来たのは、いやに現実的な光景。整然と机といすが並び、黒板が掛かった、レトロな学校施設のような内装。左手側にある窓からは、いやに大きい月が見えた。電気が点いていないのに妙に明るいのは、あの月のせいだろうか。
「……ここ、また別の夢の世界……?」
「待って……北緯35度39分40秒、東経136度53分11秒。時刻午前9時47分……? おかしいわ。朝じゃないの。しかも、日付は21世紀当初になってる……」
手を離し、窓際に寄って夜空を見上げた蓮子が呆然と呟く。百年も時間を遡ってしまった、と。夢の世界とはいえ、科学的に不可能と結論付けられた時間旅行。その達成に抱く気持ちは、何よりも不安だった。目が覚めた私たちは、元の世界に戻れているの? って。
「とはいえ……無事に別の世界に来れたみたいね」
振り向いた蓮子が、額の汗をぬぐいながら大きく安堵の息を吐く。
「固定されたっていう、夢の世界の座標。それをずらすことができた。とりあえず、一安心ってところかしら?」
どうだ、とばかりに蓮子が慎ましい胸を張る。危ない賭けだったとはいえ、彼女の策は成功したということだろう。得意げな彼女を見て、私はクスリと笑う。
「それにしても、蓮子があんなに武闘派だったなんて思わなかったわ。躊躇なく女の子のお腹を蹴るだなんて」
「緊急避難よ。他に方法はなかったわ。相手は夢の世界に迷い込んだ人間を食べようとする怪物だもの。実力行使以外に方法があるとでも――」
――ザザザザザ!
「なっ!? 何よこれ!?」
突然、教室の上部に付けられたスピーカーから、脳を直接引っ掻くみたいなノイズが響く。慌てて耳を塞ぐと、物悲しいようなピアノの旋律が大音量で聞こえてくる。
それは、ドビュッシーの月の光。
音割れとノイズのせいで、美しい旋律は台なしになっていた。蓮子も耳を塞いで、いったい何が起きたのかと周囲を見回している。
ゾッとする。
夢の中での不可解な現象。夢そのものが悪意を持って私たちを苛もうとしているみたいな感覚。まさか、と思う。私たちはあの少女が統べる夢の世界を抜け出して、また別の世界へと逃げ出したはずなのに。
けれど、この現象に思い当たる節なんて、ひとつしか――
『……あぁ、ヒヤヒヤしました』
「っ……!」
月の光の旋律を掻き分けるみたいに、またあの少女の声がスピーカーから聞こえてくる。音そのものが質量を持って、私の心臓をじかに掴んでくるみたいな、戦慄。
「め、メリー……!」
驚愕と困惑に彩られた表情で、蓮子が私のもとへと歩み寄る。ふたりで身を寄せ合い、周囲にあのニヤケ顔がないかと見回す。
ガラリ、と教室のドアが引かれる。
授業を控えた教師のような足取りで、ひとりの少女が教卓の前で立ち止まる。勝ち誇ったような顔。けれど両眼だけは冷たく、鋭く、怒気と殺意を湛えていた。
「夢の世界は広大です」
菫子ちゃんの顔のまま、少女が私たち二人を睨み付ける。私は教室の中に都合よく境界の裂け目がないかと探るのだけど、それらしきものはない。その気配すらも、感じられない。
「私だって、全ての夢に通じるわけじゃない。夢の迷い子を探すことは、海に落ちた指輪を探すようなものです……まあ、流石に通路をひとつ越えただけの隣り合った夢なら、追いかけることもできますがねぇ……あははははぁ」
「……メリー」
「おっと。もう逃がしませんよ」
蓮子が呟いた途端、少女がパチンと指を鳴らす。黒板を釘でひっかくような耳障りな高音が耳をつんざき、教室のドアと窓に有刺鉄線が絡み付く。
逃げ場を、完全に塞がれてしまった。
「ここに夢の通路への入口はありません。ゲームオーバーです」
少女はクスクスと笑って、教卓を蹴り倒す。ガン、という音に身を竦めると、倒れた教卓の下から無数のゴキブリが這い出して来る。
「ひっ……!」
「――さて」
スピーカーから出ていた音が止む。少女が教卓を迂回して、無限に湧き出るゴキブリをぶちゅ、ぶちゅ、と踏み潰しながらこちらに歩み寄る。彼女の通った後には、薄く黄色い虫の体液が足跡を描き出した。
「……よくもまあ、女の子のお腹を景気よく蹴ってくれたもんですね。宇佐見蓮子さん。子宮が破裂して子どもが産めなくなったらどうしてくれるんですか?」
私たちの手前で立ち止まった少女が、蓮子を見据えながら淡々と述べる。その声の裏側に、隠し切れないほどの憎悪を内包しながら。
「喰い殺してやりたいところですが……さっきも言った通り、二人一緒には食べられません。そうだ。手足切り落として、アナタの目の前でハーンさんを食べてあげます。それが終わったら、服ひん剥いて、汚いおっさんの淫夢の中へ放り込んであげましょう。おっさんが死ぬまで、夢の中で慰み者です。素敵だと思いませんか? その頃には、私もまたお腹が空き始めてるでしょうし」
少女がケラケラと笑う。嗤う。床を埋め尽くすほどに増えるゴキブリが、その身体に這い上がることを意にも介さず。
……もう、逃げられない。
少女は二度と、私たちに隙を見せてはくれないだろう。さきほど蓮子の飛び蹴りを喰らったのは、彼女が油断していたからだ。いくら耐久力が常人並みでも、まともに戦えば勝ち目なんかないのは、私がこの目で見て知っている。
これで終わりなの?
私たちはこの少女に殺されて、終わってしまうの?
もう二度と、秘封倶楽部の活動を楽しんだり、喫茶店でお喋りをすることもできなくなってしまうの?
「そうと決まれば、善は急げです」
少女が指を鳴らすと、それまで整然と並んでいた机といすがポルターガイスト現象のように浮かび上がり、天井付近で寄り集まる。グニャグニャとゲシュタルトを喪失して形を変えていくそれらが、巨大な電ノコへと生まれ変わる。人体なんて容易に寸断できるだろう電ノコが、空中に浮かんだまま甲高い音を立てて高速回転を始める。
蓮子が、強く私の右手を握る。その手が震えているのが、痛いくらいに判った。もう打つ手がない。私たちはこの少女の手中に墜ちるしかない。それに、彼女は気付いてしまっているのだと。
「まずは右足ですかね。私のお腹を蹴った悪い足ですから。その次はどうしましょう。左足にするか、健気にハーンさんと繋いでるその右手にするか……選んでいいですよ。右足切り落とされて、まだ喋れたらの話ですけど――ね!」
少女が手を振り降ろす。待機状態だった電ノコが、空を滑るようにして蓮子へと押し寄せる!
蓮子が私を突きとばす。私が巻き添えにならないように、だろうか。床に倒れる私に、彼女が弱々しげな笑みを向けて来た。
「イヤ……」
嫌だ。こんなの、絶対に嫌。
「……イヤよ、ヤだ……やめて……!」
認めない。こんな結末、絶対に認めない……。
なら、どうするの? 私にどんな手段が残されてるの? 子供みたいに泣き喚く? 今からでも立ち上がって、蓮子の前に躍り出る? それともあの少女に、命乞いを?
「――ふざけるな……っ!」
ふざけるな、ふざけるな! 冗談じゃない! 私は倒れたまま蓮子へ向けて手を伸ばす。こんなこと、許して堪るか。あんな化け物に蓮子を傷つけさせて堪るか。許さない。そんなことは絶対に許さない!
何もできないまま、電ノコが蓮子の太ももに触れる――その刹那。
私の指先が、奇妙な異物感を認識する。
それは柔らかくて冷たい感触。プリンの中に指を突っ込んだみたいな、そんな感覚。人差し指が触れている場所から、私は微かな気配を感じる。それは、これまで何度もこの眼で見てきた、境界の裂け目の、気配。
無我夢中で、人差し指を横薙ぎに振るう。パンケーキにナイフを入れるみたいに空間が裂け、境界が広がるのが判った。それにリンクするように蓮子の前にバックリと、境界が開く。
蓮子の足を切り裂かんとした電ノコが、その境界に飲みこまれて、消える。
「――は?」
全ては一瞬だった。勝ち誇った少女がポカンと口を開け、目を閉じて痛みに備えていた蓮子が、恐る恐る目を開く。彼女の足は薄皮一枚さえ切られることなく、無事なまま。気が緩んだのか、蓮子はそのままフラリ、とその場に倒れてしまう。気を失ったらしい。
「……なん、です、か? 何が、起きました……? え? どうし、て……」
少女が唇を震わせて、有り得ないとばかりに目を見開く。何が起きたかなんて、私にだって判らない。蓮子が無事だったということが、判るだけ。
けれど。
――けれど!
この機を逃さない。私は蓮子に伸ばしていた手を少女の方へ向ける。また、さっきと同じ感覚。空間そのものに指で穴をあけるみたいな、そんな奇妙な違和感。私は迷わない。何が起きていたとしても構わない。
ただ今は、与えられたチャンスを、逃がさない――!
「消えて。私の夢から。私の意識から――永遠に」
思い切り、指を振り降ろす。柔らかな感覚が再臨し、少女の背後に境界の裂け目がバックリと大きな口を開ける。
私は見た。その裂け目の中から、赤黒い目がこちらを凝視するのを。獲物を探す怪物のようにギョロギョロと動き、呆然と立ち尽くす少女に視線を固定させるのを。
「……あ」
振り向いた少女が、その眼と視線を合わせて凍りつく。境界の裂け目そのものが、まるで巨大な怪物の口のように動き、彼女の身体を頭から飲み込む。
「あ、が、何、このっ! うぐっ……がぁ!」
お腹の辺りまで境界に飲みこまれた少女が、こちらの世界に残された腕や足をばたつかせる。けれどそれが、何かに触れることはなかった。ゆっくり、ゆっくりと少女の身体が消えていく。手品か、それこそ魔法か何かのように。
「逃げ、られ、ると……思うな! いつか! いつか私、は! 必ず! お前を見つけ、てや、る! ハハ、あはははぁ! せいぜい、震えて眠るん、ですね! 私はどこにでも居て! どこにも居ない! ははっ! あはははははぁ!
――夢の中で、また逢いましょうねぇ!」
「……その時は、何度でも同じことをしてやるわ」
私が呟くと、少女は足まで境界に飲みこまれて、消えた。
夢の支配者が別の世界へ飛ばされ、夢の世界が秩序を取り戻していく。床を這っていたゴキブリも、蹴倒された教卓も、電ノコへと姿を変えた机やイスも、全てが元通りになっていく。
私は蓮子に歩み寄る。気を失って倒れた彼女の存在が、徐々に希薄になっていくのが判った。目覚めの時間。それに気付くと同時に、窓の外が明るくなっていく。歪な夜は終わり、新しい朝が訪れる。良かった、と安堵で胸をなでおろした。
蓮子の姿が、この世界から消えていく。私も、目を覚ます時間だ。狂夢から、引き摺りこまれそうになった槐安から。窓から日の光が差し込んで、眩しさに目を細める。
さあ、目を覚まそう。
訪れないかもしれないと思った明日が、これから始まる――。
……………………。
…………。
……。
◆
「しばらくは大人しくしてようかしらね。課題とか授業とか、そっちの方に精を出すのもいいかもね」
蓮子が生あくびを噛み殺しながら肩を竦めた。目が覚めた私たちが居るのは、私の部屋。ベッドの上で目を開けた時、蓮子が私を抱き枕にしていて暑苦しかったけど、まあ一緒のベッドで眠ればそんなこともあるだろう。
私のパジャマを着た蓮子が、キッチンで珈琲を淹れてくれる。パジャマを貸した時には胸が緩いとか文句を言っていたけど、水色の寝巻は彼女に似合っている。サイズの合うものを買ってプレゼントするのもいいかもしれない。
「……結局、どうなったの? メリーは覚えてる?」
珈琲をブラックのまま啜りながら、蓮子が首を傾げる。彼女は電ノコで足を切られそうになった記憶までしかなかったみたい。私が自分の意志で境界をこじ開けたことも、気付いている様子はない。
あの感覚。これまでは元々存在する境界を視認して、そこに飛び込むことしかできなかったのに、私は何もない空間に線を引いて、無理矢理に境界の裂け目を作りだした。秘封倶楽部の活動を進めるにつれて、徐々に変化した私の能力。夢の中だったとはいえ、その変化がまた、進行してしまったということなのだろうか。
「――なんにせよ、もう大丈夫だと思うわ」
蓮子が気を失ってしまった後のことを話そうかと思ったけど、少し考えてやめておいた。不思議な力に目覚めましたなんて言って、また蓮子を心配させてしまうのは嫌だし。私だって、その能力があまりに人の域を超えすぎていて、少し気味が悪い。
「んー……本当に?」
「本当に。もう朝ですもの。夢を見る時間は終わったのよ」
「むぅ……メリーが大丈夫って言うなら大丈夫なんだろうけど……うーん……」
釈然としない様子で、蓮子が腕を組んで唸る。私は珈琲にミルクと砂糖を入れて、一口含んだ。やっぱり、私は紅茶の方が好きかも。
「それより蓮子、学業に精を出すのなら、あまりゆっくりしてる時間はないんじゃなくて? 今日は一限から統計学じゃなかったかしら」
壁際の時計を見やる。午前八時半過ぎ。これから準備をして、ギリギリ間に合うかどうかといった時間だ。時計を見た蓮子は、うげ、と言って立ち上がって、
「大変! あぁ、よりによって出席にうるさい教授の授業なんて! もう、私の馬鹿! どうしてあんな面倒な授業取っちゃったのかしら!」
「アナタ、お洋服持って来てないでしょ。私のを貸してあげる。クローゼットはそっちの部屋」
「うぅ……メリーの服は胸が緩いのよぅ……でもありがと! 私、着替えたら行くね!」
「朝ご飯は?」
「途中で済ませる!」
慌ただしくクローゼットのある部屋へと向かう蓮子を見て、私は笑ってしまう。ああ、愛しき平凡な生活が戻ってきた。そう思うと、私は改めて生きていること、現実の世界に確かに存在できていることに喜びを感じた。
「…………」
ふと思い立って、私は自分の右手を見つめる。夢の中で、蓮子に向けて伸ばした手。空間に爪を立て、強引にこじ開けた人差し指の先端。
カーテンを開けて、穏やかな秋の空を見上げる。夏の忘れものみたいな積乱雲が、太陽を飲みこもうとしているみたいに聳えていた。
そっと手を伸ばして、入道雲を指差す。それを真横にスゥ、と引いてみた。
雲を寸断するみたいに引かれた横線の向こうから、青空が顔を覗かせた。
Fin
今作のドレミーがちょっと怖すぎでしたが……オソロシヤ
面白かったです。
何があっても怯えずに立ち向かう蓮子が実に蓮子っぽくて良かったです
ただタイトルは無理があったような
緊張感がうまく描けているのが良かったです。