Coolier - 新生・東方創想話

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2015/09/01 13:34:15
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※作者に都合のいい解釈、オリジナル設定、展開、どんとかむ


「……じゃっス。リリサでッス」


リリサは「ん? ……」と首をかしげた。
今なにか変なことを口にしたような気がしたのだ。
まあ気のせいか。もそもそと布団からはい出し手早く服をぬぐ。ハンガーにかけられたメイド服は今日もアイロン掛けがされ、数年来つかってきたいい感じのくたびれ感が出ていてリリサのお気に召した。(タグにある「夢子」と意味の為された文字は敬意を払って外していない。彼女の尊敬する人物の一人である魔界人の女性は、今ははなれて働いている)下着を替えて服を身につけ、ポフポフ髪をとかして直し、部屋を出た。


「……」


養母の部屋の前まで来ると、扉をノックする。「お義母様。お早うございます。朝ですよ。起きてくださいませ」と、声をかけるが、しばらく待っても反応はない。仕方なくもう一度ノックする。また反応はない。もう一度ノックする。ズバン!! と、視点がひっくり返り、轟音が鳴るのをリリサは何処かヘンなところから聞いた。しばし、と思えるあいだを置いて起き上がる。どうやらふっ飛ばされたようだ。頭を掻きながら倒れたドアを片づけようとしていると、「う~ん……」と、養母の寝ぼけた声が聞こえ、ふわ、と年相応(と言っても彼女の年齢はリリサが起動したときから不詳のままだ。母も夢子も知らないらしい)らしからぬうぬ~という幼い感じのうめき声を上げ、もうもうと舞う埃の中から、養母が姿を現す。幼い感じと言うのは比喩でなく、今の彼女の見た目からすればじゅうぶん幼い。

「お早うございますお義母様」
「はぁい、お早う。あら~、またやっちゃったか~。ん~、リリサちゃんは今日も可愛いわね~」

養母は言いつつ頭をなでてくる。どうやら例のごと夜更かししたまま寝たらしく、髪はぼさぼさとだらしない。見事な銀色の髪が台無しだがどうせ五分もすれば元に戻る。

「朝食の準備は出来ておりますので食堂に居らして下さい。あとドアも直して来て下さい」
「はいはい。ふぁ~」

部屋に戻る養母に頭を下げ、リリサは「二度寝しないで下さいね」と言い、食堂へ向った。


その後無事に起きて来た養母の朝食を済ませ、リリサは一日の仕事に取りかかった。魔界からこっちに引っ越してどのぐらい経つかリリサも忘れたが、養母が母の家(現在は不在である)の隣に建てた屋敷はそれなりでかく、正直リリサ一人では手に余るほどだ。住んでいるのが養母とリリ二人のみというのがマシだが。今日はどこどこに手をつける、どこをやらないといけないな、などと大体を考えながら玄関に向かう。
朝食の片づけをすませたところで配達物のチェックに向かうのはならわしだ。この幻想郷で魔法の森まで配達に来るのは奇特な者と決まっているが、養母は元の立場とこちらへ来た経緯の関係から、関係各所からの用向きの手紙が結構な頻度でくる。メール箱を開けて二、三通の中身を確かめてから、そのまま今度は母の家にむかう。一体何十年留守にしているかリリサも忘れたが、母の家は変わらずこじんまりとして、無人である。リリサが行くとちょうど母の人形の一体がふわふわと家から出てきてポストを調べているところで、リリサの姿を認めるとペコリとお辞儀をして、ポストの中身を差し出してきた。
「ありがとう」と、養母がいつも自分にするように頭をなでてやる。差出人を確かめてみると、母からだった。

「アリスより。神綺様へ」
(ママから?)

リリサは目線だけで読みあげると、再び屋敷の方へ戻った。


養母の部屋。

「はい」と、中から返事があったのでしずしずと入る。養母はいつも通りの服に着替えており、いくつも開いたえらくドでかく分厚い魔法書の数々とにらめっこしているところだ。書を立てかけたイーゼルとほったらかしにされた空のイーゼルとの間を抜けて、

「お手紙です」

と、リリサは盆に乗せた手紙の数通をそのまま差し出した。

「ありがと。そこにおいといていいわよ」

いつも通り言う養母に頭を下げ、リリサはメイド服のポケットに入れていた手紙を差し出した。

「それと、これが届いていました」
「うん? ――あら」

養母はけげんな顔で受け取り、ためつすがめつ、裏、表、と見てから気づいたようで「珍しいわねぇ」と、椅子から立ち上がるとペーパーナイフを持ってきた。

「アリスちゃんからなんて本当珍しいわね、あの子筆不精なのに。あら、リリサちゃん。見るでしょ? ちょっと待ってなさいな」
「はい」

言われれば待っているのが仕事なので、と呟きつつ、リリサは養母が何やら手紙を読み進めていくのを見守り、やがて、二枚ほどだったらしい手紙を読み終えた養母が、ちらりと二枚目の裏を見て、ちょっと、ほんのわずかに芳しくなさそうな顔をするのを盗み見た。

「……何か悪い事でも書いてあったんですか?」
「ん? んー。あ、ありがと。あとはリリサちゃん読んでいいわよ」

養母が丁寧に封筒にしまった手紙を渡して来る。「でもこれは」などとごねず、リリサは言われたとおり、その場で手紙を読んだ。

『魔界の偉大なる母君、貴女の娘を名乗る者 アリス・マーガトロイドより』

少しかたい調子(といっても母はいっつもこの文を養母の手紙につける、理由は分からない)の母の字をつらつらと読む。そこには滅多に手紙をよこさない母の簡潔ちょっと素っ気のない字体が連ねてあり、向うでの近況やこちらの状況を形式的に尋ねる旨が書いてある。

「ん?」

リリサは呟いて、今裏返した二枚目をもう一度見た。『偉大なる母君、あなたの力が必要です。どうか助けを』と書いてある。そしてその文字を読み終えた途端、いきなり手紙が燃えだした。リリサは炎の勢いに、驚いて手を離した。手紙は床に落ちることなく空中で燃えつき、パラパラと灰が散ってそれも宙に消えた。

「大丈夫?」

と、養母が近よってきてリリサの手をとって表裏を見る。「大丈夫です」とリリサは答えた。

「うん、ケガは無かったわね。ゴメンなさい、何かの魔法がかかっていたみたいね。今の私の目だと見ぬけなかったわ」
「魔法ですか?」
「うん……、手紙を目的の人物以外が目にすると、手紙そのものが燃えつきて消滅する仕組みね……。対象以外の目にふれるのを避けるようかけるものだと聞いたことがあるわ……」

リリサはまじまじと自分の手を見、それからふと養母を見た。

「お出かけですか?」
「えぇ。散歩。リリサちゃんも行きましょ」
「いえ、私は家の仕事が」
「ほらほら、いーから」

養母は外套をはおって三角帽子をかぶると、リリサの後ろ襟をつかんでずるずると強引に引きずって連れて行った。


人里。

陰気くさい魔法の森から人里へやって来ると、嫌が応にも深呼吸をしたくなる、とリリサは思った。何で養母が(勝手にストールまではおらせて。いつの間にリリサが気に入っている外出のときには大体掛けて出掛けるものをどうやって持ちだしたのか)自分を連れてきたか知らない。少なくともいい気分ではないが、それだけはいい気分だった。

「ん~娑婆の空気はいいわねぇ。今ごろの季節もいいカンジ。やっぱりたまには外に出てみるものね」

養母が言う。独り言のようだ、とリリサはわざとしずしず歩いたが、養母もさして気にしたようでもない。
養母がこの幻想郷にやって来て数百年ほど。
元々人外と人が鬩ぎ合いつつ共存を保つこのサラダボウルの中では些細な出来事であったが、いつからか誰か(誰かが誰なのか、今では知っている者はない)の手により封印された魔界の扉は養母の気まぐれと暇つぶしのついでに開かれた。尤も魔界を作ったと豪語している養母のやることに碌な事があった例はない。魔界の入口に据えられた頑丈な封印は、養母が「魔界の神」という自分の存在を貶め、人間としてやり直すという方法で発生する、代償の力で開かれた。人間としてやり直した養母はその後すぐにコロッと魔女に(魔法使いに、だ。細かくは)転生して今に至る。
元々養母にとって重要だったのはそうして母の家の隣に引っ越して来て、屋敷を立て、母が二百年ほど前に(だったと思う)養母の所に残していった半自律人形の一つの進化形であると(ただし本人にとっては満足ではなかったらしいが)言わしめた自分を呼び寄せて、一緒に暮らすことだったらしく、魔界の入口のことはそのついでらしかった。だがその影響で今では人里でも魔法使いや魔界人が歩くのは珍しくない。チラチラと近くの洒落た洋風店のウィンドーに映る、母にあまり似せてもらえなかった青みがかったヘンな黒髪のつるんこな少女の姿を本当何となしに見つつ、リリサは一昔前とは変化したらしい人里の中を、かっぽする養母について歩いた。しばらく行くと「あら」と養母が声を上げた。養母の後ろから前を覗き込むと、ちょうど養母の声に反応してこちらを向いたところの微妙な(養母のせいのようだが)顔をした妖怪が立っていた。長い緑がかった不可思議カラーのウェーブヘアーをたれ込めてこちらを見る顔はリリサも知っている顔だ。たしか幽香と言った。

「まぁ、凶暴な妖怪だわ。リリサちゃん目を合わせちゃ駄目よ。蹴られるからね」

はい、とリリサが頷いていると、妖怪、幽香は不愉快そうに言った。

「道で逢うなりご挨拶ね。またいつかみたいに泣かすわよ容赦なく」
「いつの話だか分からないけど幽香ちゃんたら相変わらず一匹狼ね」
「誰がちゃん――」
「幽香ちゃん? 何よーまぁた先行って。私のことわざと置いて行ってる? もしや」

後ろから追いついて来た金髪黒リボンに長いウェーブヘアーの妖怪(正確には毒人形だ)、たしかメディスン何たらだ、確か。そいつは「あ」とリリサに目を留めるなり「リリサちゃんひさしぶりー。元気してたー? よしよし」と、頭を撫でてくる。こいつも養母の顔見知りの妖怪だ。母やここらでは有名な竹やぶの薬売りの医者にも顔が知れているらしく、養母の屋敷にもよく顔を出し、リリサははじめて会った時からこいつに猫かわいがりされていた。
一昔前はリリサより小さいちんちくりんの成りだったと言うが、生まれたてだったために、時と共に力や見た目が成長したのだという。経緯は不明だが自身よりもちょっと低いくらいの(幽香も背は低くないが、メディスンが高いのだ)成りの幽香をちゃん付で呼びなぜかよく懐いている。あまり年齢に差がないためリリサはこいつに年下扱いされるのが好きではないが、撫でられるのは嫌ではないので好きにさせておこう、と適当に自分を言いくるめる。

「ほら、ぐずぐずしてないで行くわよ」
「あ、待ってよー幽香ちゃん」

じゃあね、と手を振りつつ(幽香は本当にさっさと行ってしまう)去ろうとするメディスンを「あ、そうだ、ねぇメディーちゃん」と養母が呼んだ。メディスンは「何?」と後ろ歩きで戻って来て止まる。

「今日お茶会しようと思うの。幽香ちゃんに言っておいて貰えるかしら」
「いいけど、神綺タンからそう言うの珍しいね」
「たまにはね。それと私のことはおばさまって呼んでくれるとうれしいわ」
「え~、似合わないって」

きゃははと笑うとメディスンはスタタタ、と、少し先で腰に手を当てている幽香に向かって駆けていった。何がしかけげんそうに話しこむのを横目にしつつ、リリサも、さっさと歩き出していた養母についていった。

「お茶会ですか?」
「えぇ。急だけどお願いね。ついでに何か買って行きましょう」

はぁ、と返事してリリサは養母の後に続いた。相変わらず何考えてるか今一不明だが、リリサが考えても混乱するだけなので、やがて考えるのをやめる。


神社。

人里でどっさり買い込んだあと、一旦屋敷に戻って、また養母は外出した。リリサも後ろについてこさせられた。午後から来客だというんならさっさと準備を進めさせて欲しいものだが、「いーじゃない、たまにはお母さんに付き合ってよ」などとのたまう養母に「嫌です」と正直に切って捨てるほどリリサも冷酷ではない。帰ったら養母を蹴ってでも掃除してやると思いつつ、黙って後について石段をのぼった。

「おや?」

鳥居の下をくぐる時に声が聞こえた。ぐりんと大きく上をみあげると、ぶらん、というよりぽわぽわとうごめく幽体の足と、青色っぽい衣装に緑がかったさらさらとした髪が見える。魅魔、と言う養母の知人だ。屋敷にも何度も顔を出しており、あまり子供好きそうでないながらも、リリサを可愛がっている。
そう思う間にもふわふわと蛇のようなゆったりした感じで養母とリリサの近くに降り立ち、ついでのようにリリサの頭に手を置いて、ぽふぽふと動かす(やや手が冷たい)。

「あら偶然」
「ん? あたしに用かい? あんたから来るなんて珍しいね」
「えぇ。あなたに招待状が出せないので直接伺ったのです」
「招待状ぉ?」

魅魔は露骨に嫌そうな顔をした。リリサの頭に手を乗っけて、そのまま養母に耳打ちするような仕草で顔を近づける。

「なにろくでもないこと企んでんの?」
「ただのお茶会よ。たまには知人同士友好を深めましょう」
「心にもないこと言うねぇ。そういうの人に信用されないよ?」
「うふふ。まぁそういう事だから今日の午後当家にいらして下さいな。うちの自慢のメイドのクッキーとおいしいケーキをたんまりごちそうしますわ」

養母が言う。限りなく犯罪に近い。養母はああ言うが、実は養母は菓子づくり(だけではなく料理もだ。結婚していたなどと言う話は聞いたこともないが、人に食べさせることを想定した実にあったかい味の料理を作ってみせる。レシピも豊富で東西を問わない。長く生きるときっとそれだけヒマなのだろう)の腕はリリサより上である。

「まぁいただけると言うなら頂くのがあたしの信条だから行くよ。ヘンなことしないでよ? じゃあ楽しみにしてるからね」

よしよしとリリサの頭を撫でながら、悪戯ぽい笑いを向けると、すぐにどこかへと消える。


養母の屋敷。

台所。

クッキーをオーブンから取り出して、棚から取り出した皿とカップを丁寧に拭く。養母は接客の準備を言いつけると、どうやら自室に戻ったようだ。何の物音も聞こえてこない(リリサの耳は人間より良く作られている。だけでなく色々な感覚の度合いが人より上に設定されている)屋敷の様子を見やり、ふとさっきの養母との会話を思い返す。

『リリサちゃん、ママの事気になるでしょ?』
『いいえ。特には』
『でもちょっと気になってるでしょ?』
『はい』

うんうん、と養母は心中の察しづらい顔をしていた。魅魔ではないが、リリサも養母が何か考えているらしいことは分かった。しばししてこつこつとノックの音がした。玄関からだ。明らかに一人でない物音と会話の気配を察しつつ、リリサは玄関に出た。

「はい」
「やっほ」

メディスンだ。その横からお邪魔するわよ、と言って、日傘をたたんだ幽香が入ってくる。お持ち致します、と言って側に寄ると、ちょっと見下ろす感じで腰に手を当てた後、「いいわよ。ありがとう」と、幽香は、見かけによらず、ちょっと遠慮がちにこちらの頭をぽふぽふ撫でて、屋敷の奥へと入っていった。それから例のごと、「ご案内します」と後ろについて歩き出したリリサの横にとっとっと追いついて、メディスンが今度はリリサの頭を撫でてくる。「へへー」
そうして客室に二人を案内すると、玄関でしばししてノックの音が鳴った。リリサは失礼致します、と、歓談だか何だか分からない会話をしている養母と二名の客を置いて、玄関に出た。カチャリ、と扉を開けようとした瞬間に「やぁ」と魅魔のヒヤッとした手がドアをすり抜けてきて死ぬほどビビったが、「いらっしゃいませ」と取り繕った。魅魔はそれを見て何だか分からないが「よしよし」と頭を撫でた。
性質と素行の悪い悪霊を心の中で罵りつつ、客間に案内してやる。「リリサちゃん。お世話はいいからたまには一緒に座りましょうよ」と、お茶を持って戻ってくると、養母が言った。「お断りです」とはっきり言うほどリリサは積極性が無かったので仕方なく失礼しますとメイド服のままちょこんとソファーに座ってやる。

「そうそう、それでね。実は珍しくアリスちゃんから手紙が来てね」

突然養母が言い出した。何の気なしに自分の前にあったカップに手をかざすと、カップが紐のようにゆるゆると解けて、一通の封筒になる。それはリリサの手で燃えて消えたはずのあの手紙だった。

「ちなみにここにあるのはあらかじめ複製しておいたものね。本物はちょっと魔法の仕掛けで燃えちゃったけどね」

カサカサと複製した手紙を開き、養母は読む時にちょっと気にしていた二枚目に目をやり、その表面をスッと手のひらで撫でるような手つきをした。すると養母の前の空間に、突如手紙のままの筆致で文脈が浮かび上がる。

「ほわーすごーい」
「『偉大なる母君、貴女の力が必要です。どうか助けを。信頼できる者に私の居場所を込めました。時間が足りないのでまた拠点を移しているかもしれませんが、その時も対策は講じておきます。兎に角魔界へご足労下さい。アリス。(日付は伏せる)』」

そこまで言うと、珍しそうに見ているメディスンの視線を感じつつだろうが、養母は文脈を消した。リリサとしては(文)の中に書かれた追伸、の文字が気になったが読めなかった。

「ふぅん。あいつ魔界になんか行ってたの。道理で最近見ないはずね」
「あれ? 幽香ちゃん知らなかったっけ? ちょっと前になんかそんな話したじゃん」
「あんたみたいなひよっこと違って私はお脳が若くないのよ。60年もしたわ忘れてしまうわよ」
「ふぅーむ長く肉体を持ってるってのも、なかなか難儀なこったね。そういやうちの不出来な弟子も一時期は長生きしてやるって躍起になってたけど、いつのまにか言い出さなくなって結局フツーに子供作って死んじまったっけねぇ」
「あんたそんな昔の事よく覚えてるわね。私は今言われてなんとなく思い出したわ」
「あたしは化け物だが霊がベースだから記憶も人間寄りなのよ。つってもさすがに断片的にしか残ってないが」
「業の深い存在ですこと。だから人間ってキライなのよね」
「ねー神綺たん。それでアリスがどうしたの?」
「んー」

言いつつ養母はちらりとリリサを見て、無感動な有機物質の眼(だと自分で気付くほどにはリリサはそんな目を向けた)になにかもの思いしたようにしつつ、

「つまりアリスちゃんが困ってるからみんなでちょっと見に行かない? ってことなんだけど」
「へぇー」
「面白そうね」
「そうだね、最近退屈だし」

養母とテーブルを囲った面々はリリサ以外おおむねリラックスしてそのように答えを返してきた。

「そうだ。ついでにリリサちゃんも行きましょうか。久しぶりにママに会いたいでしょ?」
「……」
「会いたくない?」
「いいえ」
「じゃあ決まりで」
「……」

リリサが黙っていると、近くに座っていた魅魔がぽふぽふと手を乗っけてきた。どうでもいいが彼女の手は冷たいのでリリサはあまり好きではない。そういえば、と思い出すと、昔ほんの二度ほどつないだ母の指先はやはりひんやりとしていたことを思い出す。

「あれぇー? どったの、リリサちゃん」

「別に」と、もの思いにふけっていたことを悟りつつ、目の前で手をひらひらさせてくるメディスンの顔に答える。「邪魔」と手で退けたくなる見事なウェーブヘアーを垂らした(めいたというよりまんまなのだが、こいつの場合、ちゃんと血の気がさしている)人形めいた唇と細いあごを迂回しつつ、まだ何やら話している養母を見やる。が、よく聞こえないうちに魅魔が言った。

「しかしどうしてこの面子なのか気になるねぇ。言っちまいなよ、変な含みなんかあるとあたしも途中で帰りたくなるかも」
「え? 何って言われても頼りどころを選んで声をかけたって言うだけよ? ほら今の私って昔と違ってだいぶか弱いじゃない?」
「うさん臭いわね」
「うさん臭いな」
「うさんくさーい」
「犯罪に近い
「ま、このウソつきババアが何考えてるかはさておいて、私はそういうことならいったん屋敷に戻るわ。お邪魔しました」

幽香が日傘をもって席を立つ。リリサも続いて席を立った。

「ん? あんたはついてかないのかい?」
「うん。だって幽香ちゃんあそこに戻るって言う時は私が屋敷のある空間に入ろうとすると蹴ったり日傘で刺したりして追い出すんだもん。待ってるわ」

ドアを閉める前にそんな会話が聞こえた。


一時間ほど。

リリサは客間のドアを開けて、やってきた客人たちに「どうぞ」と言って、「ぶぇんぇんぇぇん!」だの「うわ~ん!!」だのおの喚いている二人(二匹だもしくは。一人は少女の姿こそしていた、金髪にリボンを飾った愛くるしそうな娘だが背に翼が一対有り、見た感じ小悪魔か吸血鬼だ)を呆れた、あるいはあきらめと諦観の入り混じった目で見ている一人と、三人を先導している(不機嫌そうな)幽香を客間へと案内した。
幽香他三人の人外ぽい娘たちは客間に入ると一層うるさくなった。

「うぇぇん!! 幽香ちゃんが殴った~! 精神的に傷を負うほど容赦なくぶった~!!」
「そうよひどいじゃないいきなり! 私ちょっと休憩入れてただけなのに! だいたい門番さぼってたエリーがなんで一番殴られてないわけ!? 差別じゃん!」
「煩いわよ。人様の家では静かにしなさいよ」

幽香が言った。とりあえず泣き喚いている二人と呆れているもう一人、そのぎゃあぎゃあという会話を聞くに羽根の生えた娘がくるみ、よくわからないチアガールのような服を着たのがオレンジ、残りの派手なカールの金髪に死神めいた日よけ帽を被っているのがエリーというらしいが、彼女らを見やって養母がふむと曖昧な笑みで見た。

「この子たちは?」
「うちの不出来な身内よ。盾くらいにはなるから」
「うぅ~、何という非道な女主人と私たち召し使い……」
「幽香ちゃんの鬼畜生の大年増~」

それぞれ口にしたオレンジという方とくるみという方がそれぞれ「痛っ!」「いてっ」と情けなく声を上げる。幽香の指先で鼻をこづかれたのだ。

「で、幽香様。何? これは。いや反論しても無駄だろうから聞きたいだけだけど」

頭にコブを作ったまま、わりかし平気そうな顔でエリーが言う(あきらめが混じっていたが)。
ちょっと考えるような目をした幽香はのんびりと紅茶をすする間を置くと、コト、とカップを置いた。
「あ~、説明、めんど臭いなぁ」と、何様気味に言って、指で、カップのふちをなぞる。エリーがため息をついて腰に手を当てた。幽香が言う。

「とにかくこれから魔界に行くんですってよ。人手が必要だって言うからあなたたちボンクラーズでも何かの足しにはなるかな~と思ってさ」
「ボン、まあいいけど魔界ぃ? かんべんしてよ、あっち側寄りのくるみやデタラメ勢の幽香様と違ってこっちはあんな空気悪いところに行ったら病気しちゃうわよ」

エリーが言う。だが幽香は無言だ。どうやら無視したようだ。

「えぇ? 何魔界? やーよ、やめましょうよ~。私吸血鬼だけど魔界の方が居心地いいって言う人はちょっと。空気のきれいなこの里で心地よく生活するのが人外として正しい老後だと思うの」
「そうよ幽香さま! 私のような一般妖怪があんな汚くて「死んでくれるー?」とか言いだしそうな常識のイッた子供がうろついてそうなところとか絶対に拒否」

抗議? する二体を横目に幽香は持っていたクッキーの一枚を適当な大きさに割り、それを指で弾いた。「ぐっ!?」「うっ!?」と、不平を述べていた二体、オレンジとくるみの口にスパッ、スパッと綺麗に入る。二人の人外はひとしきりむせた後、エリーからさしのべられた茶をとって、ごくごくと飲んだ。

「うぅっ何て非道でD4Cな行為を……」
「幽香ちゃんのオニッアクマッ、でもそこに痺れるんだよなぁ……」
「うっ! 出たわねこのバイ女! 今すぐ2m以上距離を開けなさいこのサッカー! ファックユー!」
「ちょっと誰がバイなのよ! 私の幽香ちゃんに対する気持ちは純粋な尊敬と強者への憧れだっての! むしろあんた達妖怪はそういう強者へのカリスマ性という概念がないから下等なのよこの雑草! 私をゲスいとかくさそうとか罵る前にもっと踏まれたいとかこの人に殺されてもいいとか足の裏を差し出されてそのもっとも汚らしいところをなめたいとかきゅんっ! ヴァンパイア! とか感性を持ちなさい、感性を!」
「他所でやれよ、レズッ!」
「何ですってこのメス豚! ぶち殺すわよ!」

きいきいと見苦しい言い合いを続ける二匹を横目に、幽香と魅魔を相手に養母が話しはじめていた。

「ま、何にせよ、人手が多いのはいいことだわ。アリスちゃんはこちらの二人の顔を見たら十中八九嫌がるだろうけど私の界隈では御褒美なので」

嫌がってるのにあえてやるのかとリリサは思った。

「まぁ嫌だ馬鹿止めても好きの内ってね」
「あいつの嫌がる顔と露骨にいじってほしげなポーカーフェイスと自分では分かっていないゆえの絶妙な反応は嫌いじゃないわ」
「怖いです……マジで震えてきやがりました」
「それじゃさっそく行きましょうか」

養母が言った。リリサはひとり蒼白になっていた面をもとに戻しながら、隣の魅魔が立ち上がるのを横目に見た。

「あぁ。魔界の扉だね。昔行ったような記憶はあるんだけど覚えてないねぇ、そもそも何で行ったんだかも覚えてないけど」
「そういえば私も忘れたわね。この頃自分の年もよく思い出せないし、ボケたかしら」

ほほに手を当てて幽香が言う。魅魔も腕組みしてう~んと唸っている。いつもなら幽香にからかいのひとつも言いそうだが、何か同意するところでもあるようだ。

「大丈夫よ。ここから行くから。部屋から出ないでね」

養母が言った。「ん?」と魅魔と幽香が怪訝な目をした。その時何を考えていたのかリリサは記憶していなかった。何か、ただパチリと目をまたたいた瞬間に視界が入れ替わったのは感じた。

(え)

思わず目を見開いて、きょろきょろとしてしまう。空気が違う。のどにからむような濃い香水の匂い。しかし見覚えはあるような景色だった。目の前の養母は変わらずスス、と紅茶を飲んでいる。隣の魅魔は落ちついているのか、一言も発さずに周りを見ている。幽香も表面上ちょっと驚いた風はしていたが本心ではないようだった。メディスンとその他三匹の妖怪は声も無くしてあたりを見回している。

「あら。紅茶冷めちゃったわね。ま、いいか。代わりを持ってきて貰いましょ」

養母はそこに計ったかのように備えてあった呼び鈴を手に取った。(まるでそこにあるのが「分かっているのが当然という」仕草だ)呼び鈴が鳴らされる前に、部屋のドアが勢いよく開かれ、「ぎゃっ!!」と近くに立っていたくるみが扉に弾かれた。

「何者!!」

凛とした美声が響く。が部屋の中を見ると、その人物は何やらうん? とした顔になり、不審者たちの中にあるリリサの顔を見、それから養母の顔を見た。

「リリサ? それに、神綺様……」

呟いた赤い衣の人物――、在りし日の養母を思わせる装束に身を包み、飾りのない金色の髪を流した夢子は、これは何? という表情で養母を見た。手に持っていた、というより指の間に挟んでいた数本の剣を下ろして、どこかに消す。

「えぇ~と? 何? これは」


再び、――魔界、の、旧養母の宮殿。

「全く……」
「うふふ」

養母は笑った。笑って誤魔化すなとリリサは思った。

「笑って誤魔化さないで下さい」

夢子が言う。リリサはちらりとその優美な横顔を見た。相変わらず綺麗な人だ。カチャリとティーポットをいじる指先を見ているリリサの目を感じたのか、ちらりとこちらを見ながら、夢子は養母に目を向けた。

「一体何事です?」
「何事ってほど何事でもないわ。ちょっと大所帯にはなっちゃったけど、ま、今の私の力で一人で出来る事など何も無いので」

養母は言った。それから片目を閉じるようにして、ちょっと夢子を見る。

「まだあんなヤボったい道具使っているの? 向こうに引き籠る時、少し余分な力を引き継ぎしたじゃない? あなたなら使えるでしょう?」
「あれは神綺様からお預かりしただけだと思っています。私が行使するのは筋違いだと思いますわ。――もちろん代理としての義務は果たしますから、危急の時は特例として執行するけど」
「カタいわねぇ」
「神綺様がゆるいのよ!」

ダン、と夢子は平手で卓を叩いた。今ここにはリリサと養母しかいないので、あまり口調に考慮がない。
他の面子は夢子が内密の話なのでと余所に追い払った。宮殿の何処にうろついているか分からないがどっちみち、ここは他から隔絶されたように静かで、時計の音が聞こえてくる。リリサは遠慮がちに紅茶をすすった。

「リリサ。……菓子、口に合わなかった?」

夢子が言う。目を上げると養母と揃ってリリサを見ている。「いいえ」とリリサは言った。「そう?」と夢子は視線を戻したが養母は紅茶のカップから口を離して笑った。

「これあなたの作ったのじゃないしね。紅茶も美味しいけど夢子さんのには劣っちゃう感じよね」
「いくら神綺様相手って言っても私が手ずから紅茶と茶菓子作る訳には行かないでしょう」
「あら、私があそこに座っていた時は結構やっていたわよ? はっきり言って暇でしょう?」
「神綺様がゆるいのよ!」
「別に手作りじゃなくても買い置きのでいいでしょうに」
「御客にそんなもの出せるわけないでしょう」
「まじめねえ」
「だから神綺様が」
「はいはい」

養母ははいはいと手を振った。紅茶に口をつけて、やがてちょっと飽きたように紅茶の中身を見て口を離す。カップを置く。

「別にこちらに帰ってきていただければ毎日手ずから紅茶を淹れて差し上げますわ。お茶菓子もご用意しますし」
「まぁまぁ。あっちに行くって言うのはもう散々ゴネて夢子さんも渋々納得してくれたのにゴネちゃうの?」
「何でゴネないと思うのよ……」
「う~ん。夢子さんの愚痴は聞いてあげたいんだけど、一応私もこっちに用があって来てるので、そっちを先に片付けていいかしら? 夢子さん、アリスちゃんが今住んでいる所知っている?」
「……。アリス? まぁ知ってはいるけれど……」

夢子はちょっと眉間にしわを寄せた。

「あいつ何かやったの?」
「さぁ。危急の手紙が届いたからこれから行ってみるつもりだけど――あぁ、よかったらこれ、はい」
「何? アリスの手紙? 別に読みたくないわよ」

夢子は言いつつも手紙を取り出し、途中で何かに気付いて、紙面をかるく指で弾く仕草をした。リリサにはよく分からないが、何かの術式めいた文字がピシ、と紙から弾かれてばらばらに散る。
「全く狡い真似するわね、回りくどい……」とぶつぶつ言い、夢子は文面に目を通した。そしてちょっと例の助けを求めているらしい文面に目を通し、「ちょっと待っていて」と言うと、いったん応接間から出ていき、ほどなく戻って来た。例の母の手紙とは別にもう一通封筒を持っている。それを養母に差し出した。

「一ヶ月前に届いたの。よく分からない術式がかかっていたんだけれど……」

養母は手紙を受け取ると、ちょっと片目で眇めるようにした。裏表を確かめ、ぱっ、ぱっ、と表面を払う。すると、何かキラキラした粉が落ちた。それからスッと封筒の表面に指を滑らせ、そこに付着したものを見る。

「蝶のりん粉ね」

養母は細いあごに指を当てた。神妙な顔になる。

「これ……時を遡ってるわね。出されたのは今から十日前ってところかしら」
「ええ。差出人はアリスになっているわ」

夢子はそれだけ言った。「十日前……?」と、リリサは呟くように言った。夢子はこちらを見た。「え~っ……と」と、考えるように頬をかく。その肩をぽんぽんと叩いて、養母は無言で首を振ってみせた。夢子がそれを見ている内に口を開く。

「この手紙は魔法で過去に向かって差し出されたものよ」
「そういうことって出来るんですか?」
「普通の方法じゃ無理だけど、親しい者同士の縁を依り合わせれば不可能ではないわ。魔法の力は縁の力というのが大きな起因要素のひとつだからね……」

養母はつらつらと目を通しながら、「なるほど……」と言った。

「アリスちゃんは居所を移したみたいね。ここに使用されているのはインクではなく蝶のりん粉を触媒とした生体素材だわ。魔法をかけた者が無事である限り続く魔法で、文面に化けた生体素材が勝手に動いて受信した文面を伝えるのよ」

養母は言った。そして手紙を封筒に仕舞うと、リリサに差し出す。

「持ってて頂戴。アリスちゃんからまた連絡があるかもしれないし」
「……? ちょっと待って、神綺様。まさかアリスの所にリリサを連れて行くつもりなの?」
「そうだけど?」

夢子は養母を見て黙りこんだ。養母は無言でクッキーを齧っている。夢子はやがてため息をついた。


しばし。

追い出していた面々を集め、リリサらはアリスの居場所へ向うことが決まった。「入口を開くから皆私から離れないでね」と言う養母の周りではーい、と言う一同の後ろでリリサは夢子を見上げていた。養母が怪しげな呪文を唱えている間に、という感じで「リリサ」と夢子が自分を呼んだからだ。

「ひさしぶりね。元気にしてた?」
「はい」

リリサははきはきと答えた。「そう」と夢子はちょっと笑い、そして何かしようと手を上げかけて、ちょっと迷ったように止まった。

「……」

夢子がこちらを見下ろす。リリサは黙って見上げていた。

「……」

やがて、夢子は何かを言いかけてやめたようにして、リリサの頭を優しく撫でた。母に似た、先の冷たい手だ。
目を糸のように細くして笑うと、夢子はリリサから「またね、今度ゆっくり会いましょう」と、頭からそっと手をどけて、こつこつと少し離れて距離を取った。養母の呪文が完成し、今度は辺りが眩い光に包まれた。
夢子が何を言いかけたのか、気になった。


ズドーン、

「いたたた!」
「何これふざけてるの?」
「魔法少女はドジっこと相場が決まっているものよ。やーっちゃった!」
「うわぁ……」
「うわぁ……」
「犯罪ですね……ぶん殴りたいほどムカつきました」

とりあえず聞こえないように呟いて、ぱっぱっと、リリサはスカートをはたいた。全員なんとか起き上がってはいたが、飛ばされた先は狭い部屋だ。リリサの主観だから確かかは分からないが、ふっと足場が消えて投げ出されたと思ったらテーブルに思い切り顔をぶつけていた。赤くなった鼻をさすりつつ(人形なので血は流れない。ただそれっぽい表面反応は起こる。そこそこ痛みも感じる)、埃がついたか服を気にする。そういえばメイド服のまま来てしまった。仕事以外の事では成るべく汚したくないのだが。思っていると、急に足音がして、「何!?」と、がちゃりと(その音がする前に何となくリリサには誰か分かった)部屋にひとつきりのドアを開けて、姿を現したのは少し慌てた風に見える母アリスだった。

「……」

母は一瞬あっけにとられたような顔をしてぎゅうぎゅうと狭い部屋に(リリサ含めて、養母、幽香、魅魔、メディスン、その他三名だ。多すぎだ)詰まっている面々を見渡し、「……」と、沈黙し、ちらり、と、一瞬だけこちらを見て「え~、……と」と、微妙な声を漏らした。こちらを見る母の目の中にちらりと色づいた様子が見えた気がしたが気のせいかもしれない、と思いつつ、リリサは表面上には無感動に久しぶりの母の顔をじっと見つめた。


閑話休題。


「え~、と。リリサ。久しぶりね」

何十年かぶりかどうでもいいくらいに母が自分に掛けた声はそのようなものだった。その前にもチラチラとこちらを気にするような素振りはあった(養母や幽香、魅魔、メディスンらにぎやかし勢をどうにか落ちつかせ散らしながらだが)が、掛けた声はそれが初めてだった。

「うん」

リリサは言った。「うん」とアリスも頷くと、わざとらしく咳払いをしてから「それで」と、養母に向き直った。それを見てひそひそとソファに座った幽香と魅魔が囁きあう。聞こえたが。

「ちょっと今の聞いた? 久しぶりに会った親子の第一声がアレだよ」
「そうね、私はそういうのにうといけどまるで子供をほったらかしにして好き三昧している母親のような口ぶりだったわ。なかなか可愛い」
「うるさいわね。だいたい母子ってわけじゃ――まぁ、ないわよ。……」

母はもごもごと口にした。リリサもリリサで紅茶をすすった。確かに自分もママと呼んで(母だ、と言い直す)――呼んではいるが、実の母子と言うのは違う気がする。だから気にしていないのだが母は微妙な表情をしつつも、紅茶に口をつけた。眉が微妙にしかめ面になっているので、不味そうに見えるが、そういうわけではない。
カップを置くと母はそれなり平静になった。

「兎に角神綺様。私は神綺様にお力添えをお願いしたのよ。これはなんなの?」
「おいおい聞いたかい、自分から助力を願っておいてあのセリフだよ」
「とんだヒステリーね。結婚とかしたら絶対不仲の原因になりそう」
「アリスちゃん。折角手伝いに来てくれた方達にそんなこと言ったらめっでしょ。私の顔が丸つぶれになってもいいの?」
「神綺様。私が絶対こういう反応するってこと分かってて声かけたでしょう」
「あら分かる?」
「どうしてそういう子供みたいな――あー。全く。いいわよもう」

アリスはどうでも良さげに言った。話が落ち着いた所で養母が改まった顔をした。

「何があったの? そういえばアリスちゃん。霧の湖の何某って魔女と一緒だったわね。彼女は?」
「パチュリーは捕まったわ。目下一番の問題がそれなんだけど……」
「捕まった?」
「魔晶石の密造と白薬水の売買容疑で」
「ふむ……大罪ね」
「白薬水?」

話に飽きているのか後ろで固まってひそひそ話をしていたメディスンとくるみ、オレンジ、エリー――は、一人だけ輪から外れて養母の隣に座っている――の、鬱陶しいらしい面々をかるく叩いて黙らせつつ、幽香が聞いた。養母が下唇に指を当てて伏し目がちになる。

「禁止薬物ってやつ。効果はちょっとここでは言えないけど。私の時にも禁令は出していたけど今も続いてるのねぇ。あぁ、魔晶石は特定の地域で産出される鉱物を加工したものでね。お上の方で製造を管理制限しているのよ。ただその分高値で取引されるみたいだけれど」
「へぇ~、そっちはどんな効果があるんだい?」
「あなたみたいな輩に渡すと危険な効果ね。ま~色々な事が出来る石よ。しかも長持ちで頑丈。地上に流したら魔法の体系をひと時代変えるでしょうね。流さないけど」

養母は言った。指を下ろすついでに母を見る。

「アリスちゃん、念の為聞くけど心当たりは?」
「心当たりって言うと私? パチュリー?」
「パチュリーって人」
「さあ。私はどうやらいつのまにか私も手配されてるから逃げてきただけよ。そっちは全く身に覚えが無かったの。それにヘンなのよ、どうも使い魔に探らせたところだと、パチュリーは魔界の司法処に掛けられていないようなの。有り体に言うと、何故か行方不明なのよ」
「アリスちゃんにかけられている罪状って?」
「パチュリーの殺害容疑」
「ふん」

母が言うと、養母は紅茶をすすった。
そして少し考える風にして、

「夢子さんも何も知らないみたいだったわね。するとそのパチュリーって子を捕まえた連中が何者かって事か」
「そうなんだけれど、動きが取れなくてね。私も調べようがなかったんだけれど……、そうか、夢子がなにも知らないって言っているのね」

母は髪をいじるようにして、――金糸のような綺麗な髪だ――それから何かの結論を得たようにちょっと引っかけるようにあごに指を当てた。そのまま目をしばし閉じて、しかめた眉のまま開く。

「すると私に掛かってる容疑も出任せって事かしら。でも――」
「そもそも何処からその話を聞いたんだい」
「何処からというか、其処ら中手配が出回ってたわよ。これが手配書」

母が言って一枚の書状を差し出すと、魅魔、幽香、養母の三人が額を寄せ合って見た。リリサは黙って三人の様子を見た(ちょっと可笑しいと思ったことは勿論内緒にした)。ちょっとして養母が顔を少し上げた。

「うーん。偽造っぽいと言えばそうかもね……」
「どこで見分けてるのよ」

幽香が聞くと、養母はとんとんと書状の一番下のサインを指さした。

「サイン?」
「詳しくはその筋の人に聞かないと分からないけど、これ誰かが真似して書いたっぽいの。この手配書は魔界の、私の元の支配下における、大分広範囲の手配を許すもので、ここには夢子さんのサインが必要だわ。これがよく似てる様に見せて真似っぽいの」
「あの夢子ってのがウソついてるってことは無いのかい」
「理由は?」

魅魔は肩をちょっと竦めた。無言で返す。

「どっちかと言うとアリスが嘘をついてるって可能性のほうが高くない? そう考えたほうがつじつまが合うわ。ママンを呼んだのは嘘を補強して更に手伝いを強要するためで」
「もうこいつ突き出して謝礼貰って帰るってことでいいんじゃないかい」
「あら。それじゃわざわざ魔界まで来た甲斐がないわよ」

養母が言う。その後もおふざけと紙一重の議論が重ねられ、その間母はやや頭痛のしていそうな顔をしながら苦そうに紅茶をすすっていた。ふと(見ていたことには、目があってから気付いた)こちらと目が合うが、特に反応なく目を逸らす。

(変わってないな)

リリサは思いつつ、紅茶をすする視界のはしで母を見た。やがて養母らと(いつのまにか向こうで雑談していたおまけ勢も話に加わって、息の合った(ような。あくまでもそれなりに見える)様子で雑談を繰り広げたり母の取り出した書状を回し読みしたりしている)話し合いを続けていた面々の結論のように、養母が言った。

「よし、夢子さんに直接訊けばいいのよ。今から行こう。アリスちゃんは来ないわよね?」
「行かないけど……神綺様、その前にちょっと来て」

母は言うと、養母の後ろ襟をぐっと掴んで引っ張った。養母も大人しくそちらに行き、二人は部屋を出て行った。養母がいなくなると行動の指針も無くなったリリサ達は各々勝手にひそひそ話したりがやがやしたりし出した。聞くかぎり内容は愚にもつかない話ばかりで、時間をつぶす以外の役に立ちそうにない。(もっとも養母に言わせると「時間のつぶし方がわかる人は生きるのが無理にならない」と言うことなのだが、おそらくこの世で五指に入るほど遠大な時間潰しをしている養母が言うと説得力に欠ける)リリサは空の食器類を持って立ちあがった。台所は何処だろう。


一応用向きを伝えてはいたが、戻ってくると養母と母は戻って来ていて、母が自分を見て何か、と言っても、おそらくそれは自分自身にであって他の誰かではないのだ、と思わせるそぶりで、リリサにも母の心は読み取れなかった。結局無言で座ったままの母を横目に、養母が集合をかけた。転移する直前(感覚で「直前」と思っただけだが)に見えた母の目の色は若干神経質そうに尖っていた。


ZUUUUNNN!!

客間。

失敗しやがったな、と養母自身が何か言う前に分かった(今度は位相がズレちゃったらしく(位相がなんだか知らないが、夢子の頭頂部にぶつけた鼻が痛い)夢子の執務室に飛んだ)が、特に誰も何も言わなかったのが、自分も被害を受けてなんだが怖かった。
夢子も特になにも言わず、リリサとメディスンとオレンジとくるみの四人分ごちゃっと降ってきたのをくらってもみくちゃになった名残りをちょっと乱れた髪に残しつつも、養母の持ってきた例の手配状を見て表情を引き締めている。

「神綺さま、念の為に聞きますけど」
「えぇ」
「私の話を聞いて信じられる?」

暗に自分よりもアリスのほうを信じるか、と養母に聞いている。それはリリサにも分かった。ちょっと出された紅茶(夢子手ずからのものだ、今度は。他の面子をとっとと待合室へ追い出しておいても、それは変わっている)を含みつつ、話に耳だけかたむけた。

「私の話を聞いてもまだ私を信じられる? 最初にあなたやリリサが来た時にすべて知っている私が嘘をついて、こうして戻ってくるのを手ぐすね引いて待っていたと思ってはいない?」

かなり怖い会話の内容だ。リリサはぼんやり養母たちの座っているテーブルの上に目を落としつつ、つとめて二人を見るのは避けた。

「さっき追い出した面子はすでにここではないこのパンデモニウムの中で死体になっているか、運河の水に浮かんでいるか、それとも私がわざわざ手ずから準備をするなんて言いだしたのは、あなたたちの心理に付け込んで、そう言った全ての事が終わるまでの時間稼ぎをしていただなんてこと、思ってはいない? 考えてはいない?」

夢子は静かに言った。養母は黙っている。紅茶に口をつける。

「その紅茶も遅く効くようにうすく毒が塗り込まれたガラスの砕片が入っていて、あなたは急にコップを取り落とすかもしれない。リリサも」

夢子が言った。養母は黙っている。リリサはコクン、と紅茶を飲み込んだ。やがて、養母がカップから口を離す。ことりとカップを置く。口を開くまでちょっと間があった。

「うん。ほどよい熱さだわ。急に持ってもこれならびっくりして取り落としたりはしないわね」
「ありがとう」
「夢子さん。私はあなたも信じているしアリスも信じているわよ。どっちがどうとかじゃないの。そして小狡い頭で考える事は、いつでも愛情やら信頼を含みきれず、賢しく、合理的よ」
「そう」

夢子は言った。肩がかすかにふるえたのを見てリリサは意外に思った。今の養母の力なんて、魔法使いにちょっとおまけがついたようなものだ。仮にも魔界神代理をつとめていて、自身も強力な魔界人である夢子が養母を「恐れる」なんてことあるはずない。「賢しく、って言うのはちょっと違うと思うわ。それは追い詰められている方がおびえて言う言葉だもの。今の神綺さまのは追い詰められても怯えていないでしょ」と、夢子が言った。養母は何も言わずにカップを少しゆらして、口をつけて、口を開いた。

「夢子さんがあんまり真面目にいじめてくるんですもの」
「ごめんなさい。ちょっと動揺していました。やっぱり器じゃないわよ、私には。力がどうのこうのじゃないわ、こういうのは」
「そうねぇ。夢子さんは不真面目さがちょっと足りない感じだものね」
「別なもので誤魔化しますわ。それでこれなんだけど、……真赤な偽物ね。私がサインしていないもの。でもこのサイン自体は精巧だわ。私が気づかないあいだにこんな真似までできるほど跳梁を許していたなんて、もう」
「心当たりは? 総領長のサイン偽造なんて大事どころじゃないけれど。責身の上で死刑がおまけでついてくるわね」
「ええ、重罪よ。アリスのいる地方は、――~★△◎■☆、と。うん、……心当たりというほどでもないけれど……」

夢子は眉をひそめた。手にしたペンの尻で唇に触れる(肉感のありながらぎりぎり薄めでたもたれた花びらのような唇が少しへこんでいる)。

「二、三週間前に小規模な暴動が起きていて。地元の右派団体がまとまった数の党員と煽動した住民を使って、治安団と衝突したのよ。結局三人が死亡、重軽傷者合わせて十余名とちょっとした騒ぎになったんだけど、その時取調べに応じた団体の幹部が「神の耳たぶ」と言う、通称のようなものを出していてね。どうやら違法な薬物や暴動に使った装備、武器類を買うのに仲介を買って出ていた組織の名前のようなんだけれど……」

夢子は紅茶を含んで喉を湿しながら、「これが」と言って、スゥッと、空中に文字列が浮かんだかと思うと、それが紙束になって夢子の手に収まった。

「これがその時の報告書。その後の調査で「神の耳たぶ」と言う組織については下部の構成員と末端の取締まりを強化することで勢いを衰えさせたわ。中心にまでは手が届かなかったから組織の解体にまでは及ばなかったのだけれど最近は鳴りを潜めているみたい――」

養母は言う夢子から目を離しながら、優雅にカップを片手にして報告書を読んでいる。心なしかいつも(ここ最近でリリサが知る範囲では、だが)よりか背筋がシャキッとして見える。リリサは両手で頬づえをつきそうになる誘惑(眠かったのだ)と戦いながら、負けじと背筋を伸ばしている自分に気付いて、バツが悪くなり、紅茶を含んだ。
くすくす、と笑みをもらす気配に気づくと、養母がいつの間にかこっちを盗み見て、目を細めている。リリサはむっとしながらも無言ですました顔をしてふいと養母から目を逸らした。コッと紅茶のカップが置かれる。養母はそのまま夢子に何事か質問している。「――あら、ここの司裁長サリエルがやっているのね。折角だから会いに行ってみようかしら」「止めときなさいましな。また喧嘩になるわよ。あの子、魔界神位禅譲の時に一番怒っていたじゃない。あれ神綺様に怒っていたのよ、ほら、あの子堅いから――」。


廊下。


「……どちらに行かれるのですか?」

リリサは言った。夢子との話が終わった後、養母はそのまま執務室の扉に向かった。「あら、魔法は?」と夢子も不思議そうに聞いたが、「久しぶりだからちょっと中を見ていくわ。用事もあるから」と言って、はぐらかしていた。

「町。折角だからご飯にしましょう。だいたいそんな時間でしょう? ――あー、やっぱり久しぶりにこっちに来ると時差ボケがきついわね」

養母は言ったが、逸物ありそうな言いかただ。パンデモニウムの内部には全く明かりが無い。外も永遠の闇が覆っていて、朝もかすかに明るくなるだけで、ぽつぽつとした装飾の安価石(本当に値が張らないわけではないが、建物のアクセントにはめこまれるだけで、本当に光る「だけ」の石なので、このように呼ばれる。くず石とも。魔界では光は無価値なものとされているのだ)が放つほの白い光がもうし訳程度に壁と床の境界を表している。


歓楽街近くのごちゃごちゃした通り。


「ふぅーん、魔界ってもっとあったかいのかと思ったけど、寒いのね~」
「そうね。何か魔界って世界は聞くところに寄ればこの今居る地面の遥か下に何層も世界を持っているらしいのよ。で、その中に凍結地獄ってのがあってね。そこから上がってくる冷気が地上からの日光も届かないほどここを冷やすのよ」
「へ~。あんたよく知ってるのね」
「いや魔族とか悪魔だから、吸血鬼は」

後ろでくるみとオレンジが話しているのを聞きながら、(すぐ前にはエリーとメディスンが幽香を挟んで何事か話をしており、幽香は居心地よく無さげにすまし顔で歩いている)リリサは幽香らの肩ごしに、養母と魅魔の背中を見た。幻想郷から連れてきた面子に飯を食べさせに行く前に、養母は何事か、パンデモニウムの回線を使って電話をかけていた。リリサも会話の内容をいちいち聞いていたわけではないが、養母があまり仲良さげでなさそうな雰囲気――相手が、だ。あくまで――の中でじゃあね、と軽めに
受話器を置いてから、聞いてみた。

「サリエルという方ですか?」
「ん? うん、そうよ」
「どんな人なのですか?」
「ん~? まぁ、魔界の偉い人、かしら……実は私もよく覚えていないのよ」

「……」と、リリサが胡乱な目を返すと、「本当」と、養母は手をふった。

「顔色は悪いけれど美人よ。髪が長くてね。ちょっと堅い感じ。――私が一番初めに覚えている記憶だと、たしか魔界の神をやっていたという話だったわね。理由は忘れたけど、とにかく今の魔界を創るよう私に命じたのがサリエルだって事は確かよ」

養母は言った。リリサが怪訝な目をすると、つけ足して言う。

「くわしくは知らないけれど私がどこからかここにやって来たときにはサリエルはもう居て、なぜか彼女が「魔界の神」をしていた「魔界」はどこにも無かったのよ。だから私がまた新しく作ってサリエルに代わって魔界の神になったの。それ以外の事は分からないわ。覚えがないけれどそういうことになっているって記憶だけはあるというか」

養母が要領の得ないことを言ったせいで、リリサは若干目を白黒させたが、養母は頭をなでて適当にごまかしてきた。なのでそれ以上は聞かなかった。

「ミステリアスさを装って威厳を捏造している。これが年の功ってやつでしょうか……」
「ん? リリちゃんどったん? ひとりでブツブツ言って」

「なんでもない」と、リリサは無碍に近寄ってきたメディスンの顔を邪魔っけに退けた。メディスンは乱雑に扱われて「おょよ」とちょっと目を回したが、絡む事なく離れていった。

(私のほうが年上なんだからため口利かないでよ)

と心の中で思いながら、ごやごやした魔界の人混みを、あまり違和感なくまじる一行に混ざって歩きつつ、リリサは何が何で如何とは言わないが、何かが何かである気分を覚えつつ、普段よりさらに愛想の無い顔になっているのを自覚した。さっきの母の様子が思い浮かぶ、変わってないな、と思った。その変わっていないことが、きっと如何やら自分は気に食わないらしかったが、何でそんなに気に食わないと思うのかは分からなかった。おあいこではないか。それとも自分は変わって見えたのだろうか。母の目に自分は、とそこまで考えてから、ふとこみあげる馬鹿馬鹿しさを覚え、リリサは思考をつぐんだ。




待合所。

どうやらサリエルのところに行く、らしいのだが、養母は何故か今度は転移を使わない気らしく、一行はぞろぞろとバス(といっても乗合馬車だ。馬車が一般的に言われる馬車に見えないのは幻想郷の外の世界で走り回っている大型乗用車のように車内が何十人と乗れるほど広く、引く馬は四本足ではなく八本足でひとつひとつの蹄は妖精一匹ぶんくらいはあった)乗り場に連れてこられ、チラホラと列を為すくらいにはいる乗客たちと共に並んで車両に乗り込んだ。養母は魅魔、幽香、人数合わせ(想像だ)のエリーとともに、簡素に向かい合わせのボックス型になっている席に座った。くるみとオレンジは乗車時のどさくさで何処か見えない所に座ったらしく、「あ、ここ座ろ」と手を引かれたリリサはそこは遠慮しろよと思いつつ、ボックス席にメディスンと二人で向かい合わせに空席を埋めた(幸い立っている乗客は居なかった)。ぶぉぉぉぉんんん……と角笛の音が鳴ったと思ったが錯覚でそれは先頭を切るおそろしく巨大な八本足の馬、のようなもの、が嘶いたのだった。ドカラッドカンッ! ドゴンッ! バキバキバキ、と納屋が潰れるような音がして、ゆっくりと馬っぽい生き物の巨体が動き出すのを窓からかえり見て、メディスンが「ほわーぁ」と、口を開けた。

「でっかい馬ねぇ。なんていうのかしら、あれ」

リリサは知っていたが答えずにメディスンと同じ方を見ていた。魔馬ナイトメア。北欧の伝承に伝わるスレイプニルという神馬が十字を崇める人々の信仰に貶められたものが魔界で種族化した。今は繁殖を重ねて家畜化し、一部の地方には名産品として食肉されることもある。リリサも馬車を引いている姿を見たのは多分三度目くらいだ。

「ねぇリリサっち」
「何その名前」
「思いつきで」
「何?」

リリサは愛想なく答えた。メディスンはちょっと笑っている。小首を傾げてリリサに言う。

「あのね――。あ、怒らないで聞いてほしいんだけど。いやどっちみち聞くんだけど」
「だから何」
「ひょっとして不機嫌でしょう。何ちゅかアリスに会ってからむっすりしているよね」

リリサは窓の外を眺めた。しかし応答が無くても――彼女にしては――ということだが――遠慮がちに「こほん」とか咳払いをしている。

「何よ気味悪いわね」
「いやぁ。怒ったら悪い悪いだけどねぇ。ひょっとしたらその――さ? なんて思ったり、その、ね」
「別に怒っていないけれど……」

言う、と、メディスンはにししぃ、と、何となくリリサの頭を撫でるときに見せる笑み(実を言うとあまりいい気はしない)を見せながらしかし頭は撫でず、細めていた目をちょっと元に戻した。開けた窓から入る風が、頭のリボンと、彼女が自慢したことは一度もないが、傍から見たらうらやましいウェーブがかった金髪を揺らし、笑みを遮った。自然に髪を押さえ(口惜しいがさまになっている)メディスンは言った。

「もっと劇的な再会とか、そういうの? ……ちょっと期待してた? ひょっとして」
(してない)

とすぐに思うがそれがなぜか舌に絡まったように止まり、リリサはぶ然とした顔で口を結んだ。

「してた?」

と、今度は遠慮をややなくした声で言ってくる。リリサは無視しようと思ったがなぜか出来ず、窓枠に持たせかけた手にあごを乗せて「……」と、ぼそぼそと呟いた。

「……してた、の、かも」

メディスンに届くようにくり返す。メディスンは「ふーん。そっかぁ」とかるく言ったまま、天井を見あげた。正確には背もたれによっかかった。そのまま何か言うかと思うが何も言わない。じりじりとして沈黙を無意味に広げる内に、何の前触れもなくメディスンが言った。指を立てて。

「あのさ。私リリちゃんの頭よく撫でるじゃん」
「……」
「今はこんなんで毒素の制御もうまくなったんで人に触れるようになったんだけど昔なんか私に触るだけでみんな悲鳴上げて逃げてっちゃってさぁ。妖怪も妖精もね。だから私人に触るっていうことにかなり興味があったし、あー、この人今触ろうとしてうずうずしてるなーとか、人より分かるみたいなのよね。街なんか歩いててもそういう視線感じちゃうって言うとアレだけど、私自分で言うのも何だけど見た目はいいじゃない、だからだと思うんだけどってのもあれだけど、だから親子とか人間のつがい同士とかそういうの見てると、あ、この人今触られたがってるな、触りたいんだな。もしくはチョメチョメしたいんだなっていうのが分かって、それでそういうのを見るときその人たちの間にある心、っていうのか、多分そういうのが見えて、そうするとここん所、胸の真ん中あたりがたまーに、すごく温かくなってくるんだ。――八意の先生ならそれは魂とか心とかが反応しているからよ、なんて言うんだろうけれど」

言いつつ、メディスンはいつもよりうっとりとしつつ、自然、胸の辺りを両手で包んでいた。心なしか途中から口調もいつもの軽さが抜けて温かみを帯びており、同じ体をした別人に見える。

(温かい……)

リリサは呟いた。そのメディスンが語る人と人のあいだにある温もりとやらが宿ったような表情だ。見る者誰もが見惚れるだろう。実際自分も見とれていたことを認め、リリサはちらっと見ていた目を窓の外の稲光が遠くに見えるどす黒い森に向けた。

(だから何よ)
「リリちゃんとアリスの間にはなんかそういうの、無いよね」

リリサはぴくりと眉を苛つくように動かさせた。が、表面上は黙って繕う。

「リリちゃんと神綺たんの間にもないよね。あのね、リリちゃん。みんながどうしてよくリリちゃんの頭撫でてるのか知ってる? 私じゃないほかの誰かから見ても、魅魔さんとか幽香ちゃんとか、多分あっちのなんかみかんとか牛乳とかエリとか言う人たちから見ても、それはたぶんリリちゃんがいっつも触られたがって……」

ガン!! と反射的に窓枠を叩いて、「うっさいわね!! だから何よ!!」と、
大声を上げてからリリサは「……」と、しずしずと座りなおした。頭にカッカとしたぼこぼこ煮えたぎるような熱さがある。多分自分は今すごいしかめっ面をしてこの毒人形娘に向き直って怒鳴っていたはずだ。一瞬何事かと静まり返った車内に、一応もう一度立ち上がって礼をする。『すみませんでした』と、それで暗に告げると、思い出したように車内はざわつきを取り戻した。養母にも醜態を見られた苦さで、この上なく顔はムカついている。目の前のメディスンがきょとんともしないで答えを待っているらしい(物の妖怪、付喪神の類は人間を食す習慣を持たない者も少なくない。そういった者はそこにある時間の概念が時に人間に似て否なり、歪いが人と同じ細やかさを共有するのだという。相対的には『人形』としての過ごした時間が上な自分よりも『妖怪』としてはまだまだ赤ん坊なはずの『年下』のメディスンの方が時に積み重ねたものが上にあるように感じる事がある。本当しゃくなのだが)人形の惚けた邪気ない表情を見つつ、(横目にだ)リリサはやがて口を開いた。

「分かっているわよ。自覚してます。私が愛想ないってことも、それって周囲の同情誘っているって事も、要は私は寂しい子ですってアピールよね。甘ったれてんのよ、みんなに。周りに。全部。そうしていても私は可愛がられるって分かっている、こんな見た目だもの、ちょっと愛想が目に見えるくらいかけてても、ちやほやされるって分かっているのよ。いや私はそんなの求めてないから、触らないでいいから。そんなことしなくても自分は可愛いって分かってるからって、そんな」

言いつつ「だーもう」、と、ぱん、と手の平で自分のほほをかるく叩く。メディスンはそれを口を挟まず聞いていたが、やがてよしよし、と「にしし」と笑うと頭を撫でてきた。「触んな」と言いながら、目がにじみ、母がつけていった昔からある機能、心が揺れた時に出る水がガラス玉の瞳を濡らした。零れこそしなかったが。


六時間後。

乗り場を降りて地方都市の街中。「どぉこだったっけな~」と頼りない声を上げる養母の後ろを歩き、リリサは少しくさっていた。誰もさっきのことを突っ込んでこない。意味有りげな目線はメディスンと他二人がちょっと離れて歩く後ろから、半分錯覚じみて感じたが見ない。養母と自分の間には幽香とエリーが並んで歩いて話をしており、一人分くらいおいて横を歩く魅魔は一人街並みを眺めている。(会話の内容を横耳に聞いているとどうやらエリーという妖怪はにぎやかしや数合わせでなく幽香と話をする参謀、というかそんな立場にあるようだった。もちろん数合わせと思ったことを心の中でも謝ったりしないが)本当に道と合っているのかどうか魅魔が聞き、養母のくくった髪が揺れているのを見つつ、「そういうのないよね」というさっきの言葉を無感動に反芻する。

(分かっているわよ)

苛々と無意識に目を閉じると、その一瞬でどでんという衝撃で暗闇が揺れる。養母の肩にぶつかったようだった。鼻を赤くしてからそう悟ったリリサに「あら、ご免。大丈夫だった?」と言ってくる養母にいえ、と返して、意識しそうになったメディスンの視線を払い除け、ケガがなかったかのぞきこむ養母に黙ってされるがままになる。それから、改めて養母が見あげた視線を追って(不快で奇妙と言うには大げさな、ずれを感じていたことには知らない顔をして)見上げると、周りより大きな、しかしかなり目立たない外見の建物が見えた。魔界の文字で『法務審庁』と書かれてある彫りの文字盤が掲げてある。

(雑居ビルみたい)
「何だかしけた建物だねぇ」
「お役所みたいな名前だけど、さっきの家とえらく違うわね」
「パンデモニウムは魔界の象徴的建造物として建てたから周りに威厳を与える意味で豪奢な細工やら施していたのよ。確か。ここを作った人はもう少し違う考えで作ったみたい」

養母は手にしていた紙切れを仕舞うと、(地図だったようだが、だとしたら魔界のことは全て把握しているはずの彼女が何故……という疑問はあるが、リリサは何となく察した。これも『不思議なことに覚えていない』ことなのだ)気軽な足どりで建物の中へ進んだ。その背中を見ていたリリサは養母の姿がいきなり、建物の入り口を踏んだ瞬間フッと消えたように――いや、実際消えたのだ!――見えて足を止めそうになったが、「あ、ゴメン」という後ろのメディスンからの声でどんと押されて中に入ってしまったのを感じた。「アホ!」と心中でののしろうとした自分を感じながら、ふと周りを見回すと真っ暗だった。物音も聞こえない。いや、かすかには聞こえた。話し声だ。事務的な響きがあったり――声の主は一人ではないし至る所にいた――単なるひそめた声での雑談や、笑いを押し殺すような、つまりはそこは待合室のようだった。ただし明かりはなく、その一切がのったりとした重い闇につつまれている。「うわ、何これ? 停電?」「いや、さっきのお屋敷と同じでしょ。こっちは完全に真っ暗だけれど」という、自分の連れたちの声がさっきいた辺りからしてくる。リリサは目を瞬いて、夜目にした。室内の様子がそれで知れる。目が利くようになればそこはありがちな近代的、と魔界の基準で言う、俗に幻想郷の外の世界のオフィスビルの待合室があった。

「お待たせ。通してくれるって。暫く待ちましょう」
「なに? あなたの知り合いなんでしょう? 元神さまなら何処でも顔だけで入れるんじゃないの?」
「今の私は神さまじゃないしね。それにあまり仲良くないのよ」
「こんな所にぞろぞろ集まっているのも不毛だね。私らは見物にでも行ってくるかね」
「構わないけれどここらの名産って言ったらカーニバルと食べ物くらいよ? あぁ。カーニバルは今の時期かしら。でもあなたやリリサは行かないほうがいいと思うけれど。あれ血生臭いし……」

養母が不穏な事を言っている間に、「お待たせいたしました。こちらへどうぞ」と、係らしい男が近づいてきて言った。

「じゃあちょっと行ってくるわ。見物なら行っても構わないけれど、受付の人やなんかに伝言は残していってね」

養母は言った。どうやらリリサを連れていく気はないようだ。リリも特に言われないので、察したままじっとしていると、養母が腰を屈めて、リリサの目を見つめてきた。

(?)
「……。じゃあ行ってくるわ」

養母は言うと、珍しくリリサの頭をなでずに、行ってしまった。

(なでられたがっている)

リリサは不景気げに瞳を曇らせるのを自覚すると、ふと横から差し出された腕に頭を小脇に抱えられるのを感じ、絡めた本人の魅魔を見た。

「さて、それじゃ見物に行こうかね」
「行くんですか」
「ああ。許しが出たし、さっきがめた財布も有るし」

魅魔が手にしている財布を見ると、何故か養母のものだった。すり取ったのか。魔法の罠でもかかっていないといいが。魅魔がリリサの頭をかるくポンポン触る。

「お祭りとやらに連れて行ってあげるよ。あの大将人混みあんまり好きじゃないからそういうところ行ったこと、あんまりないだろう?」
(そうなんだ)

はい、と頷きながら、リリサはなんとなく胸のうずきを感じた。実のところ人里の祭りにはちょくちょく同行しているのだが、そんな素振りは見たことがないし、察したこともない。
花火に照らされた養母の笑顔がうかぶ。不意に、「なんのために地上に住んだんだろう」という疑問が頭をかすめた。ふとビルが揺れたように感じたが、一度だけだった。


街中、再び。

魅魔と自分以外はくるみとオレンジ、メディスンが着いて来た。幽香とエリーは外出したが、一緒には来なかった。メディスンも幽香が一緒に来ないと知ってゴネたので来ないのかと思ったが、結局来ている。なんとなくこいつも何でここにいるのだろうと思いつつ、「にしても」と、魅魔が口を開くのを聞く。

「大将なにか不穏なこと言ってたな」
「血生ぐさいって言ってたね」
「魔界でカーニバルで血生ぐさいから見ないほうがいいって言うと外から攫って来た人間でも柱にくくりつけてちょっとずつ肉を削いで人肉しゃぶしゃぶ」
「やだ魅魔さん悪趣味! 私血ィ見るの苦手ー。毒殺の方が綺麗だよねーリリちゃん」
「知らん」
「そっちのくるみって子は何か知らないの? ああもしかして私より年上かい?」
「私都会っ子だから地方のお祭りとかよく知らない。あと年のことは私に聞かれても知らない」
「だよねー。確かにくるみも私もエリーも夢幻館に住んでいるけど自分の年齢とか知らないものね」
「忘れるくらい生きたってことでいいか。私も何時から悪霊やっているのかそもそも自分がなんで悪霊なのか、そもそも今悪霊なのかも知らないし、たまに何処だかの神社の神さまにされている気もするな」

要領のない会話だ。そのうちリリサはムンとしたものを嗅ぎつけて顔をしかめた。血と糞尿が混ざったような、屠殺した豚に言うなれば似ている、何とも言えない濃い臭いだ。気付くと辺りはずいぶんと人が増えて、気付かなかったのはこの一帯だけ異様に闇が濃く、仮面や飾りつけをした魔界の住人達がそれが見えない程黒く薄ぼんやりとした影となって辺りを蠢いているからだ。蠢いていると言ったが見るかぎり祭りの縁日と変わりない様子で人々ががやがやと、誰もかれも楽しそうに歩いているだけだ。夜目もろくに利かず、(と言っても構造上闇が不便になるのはリリサくらいのものだ)魅魔を始めとする夜の住人のはずの面子でさえ、「何だいやたら暗いねぇ」「見えねー」としきりにぼやいている。どうもただの暗闇ではないらしい。どうでもいいがこの臭いは何とかならないものかと思っていると、近くに立っている男が手にしている長い棒の先にちょうどリリサが両手で抱えて持てるくらいの塊がぼんやりと見え、なんとなく見てから、びくりとしてリリサは(内心だが)目を見開いた。

(人の頭!)

そろそろと目を離す。どうやらあまり周りに目を配らないほうがいいようだ。
魅魔も先に気付いたようで、ちょっとげんなりした風になっている。

「うーん。妖怪どもが小躍りしそうなお祭りのようだね。人肉しゃぶしゃぶは合ってたかも」
「こんなの野蛮だよー。魔界人て都会派気取っているけど結構蛮族なのねー」
「いまどきこんなの幻想郷でも流行らないわよ」
「吸血鬼もこれには苦笑いね」
「でかいナイフで乾杯した相手を殺して切り分けて食ったり肉屋の使うでっかい包丁でメッタ刺しにして生きたまま皮剥いで肉下げる鎖で下げて切り落とした生首をオーブンでロールしてポテトとパセリでソースかけて付け合わせにしたりしてそう。ちゃんと調理して食えよって感じで」
「してるじゃん」

くるみに突っ込みを入れてやるオレンジは言いながらも余裕がありそうだ。血は苦手とか言ってる毒人形はしかし割と気がかりなさげにもの珍しそうに辺りを見ているし、魅魔も大して意に介していない。しかしリリサは言うほど余裕なく、内心では青白い血相(そのようになる機能はついている)で、魅魔の後ろについていた。正直さっさと帰りたい。あまり下を向くのも悪目立ちするので前を見ているが、視界の端でだははは、と、にこやかに笑っている男らの一人が何の冗談か女物の着物を着て人の頭から頭皮ごと剥いだ髪の毛を鬘として身につけ、首には女物の帯をかけ、まるで首吊りの後で一杯やりに来た様子で香水に混じって酒の匂いをさせている(腕に結んだ古いお守りからは血と体液が染み出しており、丸いものが二個入っているらしい膨らみがはっきりと見てとれた。そのすべてが偽物やつくり物であることをリリサは無意識に願った)。

「おい、大丈夫?」

魅魔の声が聞こえ、何となくリリサは昔、自分に人酔いするヘンな癖があったことを思い出した。「大丈夫?」と言っていたのは養母だったし母だった。それぞれに同じことを言われたし、全く珍しい事に二人揃っていた事が有ったがその時にも母に言われた。母も養母も魔界の人だったが、リリサを気遣ったのか、(リリサは何となくそれは合っていて違うのだと思っていた。養母も、母は養母とは違う何か、或いは誰かをだが母も)それとも他の何かがあったのか、だが自分に二人が別々な何かを重ねていた、たとえそれがリリサが代わりになれはしないようなものでも、自分でなくても他のそこにいる何かでもいい、そんな事を思っていたのはリリサにも分かったが、(それは自分が子供だったから分かったのだ、自分は昔から人形で今も人形だ、生まれたときから姿形は変わらないし髪も伸びない、肌も荒れたりしない)確かに自分はそれを嫌がっていた。それも自分が子供だったからやはり分かったのだとリリサは思った。姿形は変わりようがなくても生まれたばかりの自分は確かに子供で今は違い、そして子供だったから自分だけを見ない、そんな二人の態度が嫌だった。傍に居たくなかった。だが言われればついて行った。必ず。嫌だとごねれば良かった? 馬鹿な考えだった、自分はあの人たちの子供ではなく母の作った人形だ。親子どころか血も流れていない。文字通り。

(そうやってずっとなにかを誤魔化してきたつもりだったの? ごまかす程のものも何もないって後で気づいたのに)

気づいてからは空虚があった。どうすれば良かったのだろうか? ずっと子供でいればよかったのか? だがなにも知らないではいられない。そんな事は不可能だ。出来ない。

(どうすればいいの)

「ありゃ、不味いな。へーきそうだったから連れてきてみたけど真っ青じゃない。倒れられでもしたら大将に怒られちまうよ」と魅魔が気楽げに言う。「リリちゃん吐きそう? 別にガマンしなくてもこの中じゃ誰も気づかないと思うよ」「うわ、アワビにそっくりだと思ったらこれって切り取られたアレじゃない! 何これ売ってるってことは食べんの? ちょっとオレンジ食ってみてよ」「生でんなもん食えるか。というよりか気分的にイヤじゃん」「じゃぁこっちの干したなめくじみたいなのを」
自分が口元を押さえているのに気づいて、リリサはようやくかなり自分が危ない状態にいるのを感じた。魅魔に違う、見たものに酔ったのではないと強がりを言いたかったが、それも面倒だった。

「よし、ほらこっちだ。毒人形ちゃん、休めそうな場所探してきな。一旦こいつを離れさせよう」
「はーい」
(どうしろっていうのよ、まったく)

リリサは毒づいて、魅魔に抱えられるようにして歩いた。吐き気がした。


祭り。

強がりではない。

「大丈夫?」

覗き込んできたのは母でもあり、また養母でもあった。この時は母だった。覚えている、二人で初めてあの里の祭りへ行った。人混みは強烈で世界に出たばかりのリリサの意識を狂わせた。正確には覚えていない、二度目だったかも分からない、そんな不確かな中に母と自分はいた。もうどのくらい前かなど覚えていない、前述の通り、あの頃自分は母や養母が何かを重ねてくるのが嫌いで、人混みが嫌いで、それでも平気な顔をして、強がった挙句気分を悪くして母に連れ添われて祭りの外へ出た。自分は人形だから命じられたことに嫌だなどとは言わないと、存在もしない何かを無理やり押し込めて母について行く自分のみじめさ、みっともなさを誤魔化した。正当化した。母が寝込んだ自分の額を撫でる。冷たい手が気持ちいいと思った。この人は自分の親なんかじゃないと言う声が警鐘のつもりで鳴り響く中を、母は困った眼差しで自分を見つめていた。頭を撫でていた。何かを聞きたそうにしていた。何を?


アリスの隠れ家。


「やれやれ」

と、サリエルとの会合を終えて、神綺はぱすぱすと服の埃を払った。予想通りのものでもあり、予想以上の反応ではなかった。とりあえず前魔界神を自称(神綺の認識の中ではそれは事実でもあるが)する堅物の旧友である彼女との会話で得た情報を類推する。

(嘘をついている?)

頭はそのように結論づけたが突き付けるには事実が足りない。ここにきた時間が浅くろくな事ができていないのも原因だが。
端的に言うとサリエル、彼女はあからさまな偽証を示した。見え見えの嘘をついた。知らない、と抜け抜けと言い、貴方の可愛い娘に落ち度が、つまりは疾しいことが有り、嘘をついているのだろう、そうするとそのパチュリーという魔女とやらもすでに死んでいるのではないか、と、こちらの心証を逆撫でするような言葉まで発してみせた。明らかに何かを隠しているがあなたに教える気は無い、と言った所か。そういう態度を「わざと」とってみせていた。

(まだ私が隠遁したこと怒っているのかしらね)

厄体もないことを思っていると、カチリと応接間の扉が開いて、アリスが姿を見せた。「来てたのね」と、既に悪びれもしない神綺の態度にはかまわない様子で、黙々とお茶菓子の用意をはじめる。

「サリエルと話してきたわ」

とは言わずに神綺も黙ってどれくらいの付き合いになるか、そもそもどんな関係だったか、それも忘れ果てた、水よりは濃いはずの血を持つ、自分の多くの子代わりの一人である娘を見やりつつ紅茶のカップ(サリエルの所から拝借してきた、勿論)を啜った。

(子供ね)

神綺はうすら笑うような心地で微笑んだ。意味の上ではそうなのだろう、自覚しない小芝居をさせられるのは存外だが。誰もが演じている、というのなら誰もかれも、上下もない。立体ですらない。
で、自分の「子供」たるところのその人形ぽい娘は、つまる所アリスは、見たとこ不機嫌のようだった。彼女は隠すべきことは隠すが、隠すべきことを隠さない。面倒くさがりであり意地張りでありツンなんとかであると言われることもある。次に彼女が言う言葉を待っていると、また空々しい笑いが頭に浮かんできた。

(それも小芝居)

果たして隠されたとして自分に分からない事などあるだろうか? いや、ない、と言う人もいるし、無いからこそ有ると言う人もいる。
それもまた小芝居だ。故に神綺、彼女は自分で言う所の小芝居を続ける面持ちでアリスを見ていた。

「それで、ちょっと話があるんだけど?」

彼女――アリスは不機嫌さを滲ませつつ言ってきた。あら、と神綺は応じつつ紅茶を啜った。正直温くなっている。

「その前にお茶のおかわりがほしいな」
「ご自分で淹れてください」
「何怒っているの?」
「何で連れてきたの?」
「何でって?」

神綺がはぐらかすように言うと、アリスはじろと機嫌悪そうに眼差しを向けてきた。

「何でリリサを連れてきたのって事よ」
「あぁ。だってほら、アリスちゃんに会うんだし折角じゃない?」

何が折角なんだ、という顔でアリスは目をつぶってため息をついた。

「まぁ、こっちの状況をくわしく伝えられなかった私に落ち度があるって一応は言っておきますけれど、どうせどんな窮状だって言っても連れてきたんだと思うけれど、なんてことは一応言いませんけれど」
「あんまりけれどけれどばっかり使うと文法に間違いがありそうって正当性を盾にして他人を卑下する人に煩く言われたりするわよ」
「とにかく危険なのは分かったでしょう、あの子を帰しておいてよ」
「うーん」
「何」
「アリスちゃんもしかすると」
「もしかすると?」
「常々思っていたんだけれど、アリスちゃんはリリサが生きているのが面倒臭いの?」
「……」

アリスは黙り込んだ。神綺は彼女のその表情が何を言われたか悟り、やがてカッと煮えたぎったものが噴き上がるように徐々に怒気で血の気を失っていくまでを、結構余裕をもって見やった。音を立ててテーブルが鳴る。

「どういう――」
「おーい」
「ぎゃあ!!?」

と、アリスが下品な悲鳴を上げた。見やるとテーブルの下から人間の半身が突き出し、普通にそこにいる。魅魔だった。テーブルの上には首だけを出している。

「何悪趣味なことしているのよ」
「悪いね、ちょっと急な、あ、サイフ借りたよ。どうもね」
「勝手に借りるのは盗むって言うのよ? めっ」
「一体何の用よ。というかここで目立つような出入りは止めてよ!」
「いやぁ、面目ない。大将、あんたのとこの孫娘、攫われちゃったわよ」
「……」

黙り込んだのはアリスだ。神綺は存外きょとんとした顔で魅魔を見た。

(……、サリエル?)

呟く。


暗闇?

いや、暗闇ではない。人がいる。ただ奇妙な心地がリリサにはあった。灯りだ。なんで灯りなど点けているのだろう。薄く開いた瞼の向こうから灯明に照らされて見えるのは白みがかった病的な色を保つ青い髪、それよりは少しだけ濃度のある青い肌、暗闇にふちを穿つような端正な衣、ビロードのような滑らかな足の衣と少し押し上げるような起伏、その人影は女性のようだった。どこか彫像のような趣きがあるがそうではない。

(背中の……白い……)

いつか見た翼を生やした虚仮脅しのような女の人の像のようだった。人間ではない。人形だろうか。
衣の裾が動き、こちらへと向かってきた。目を覚ましたことに気づいたのだろうと思う。ぼんやりと霞がかったような頭は鍵がかかったように動かず身体にねじが巻き忘れられた発条時計のような重さがあった。

「おや気がついたか」

口元が笑っていた。多分に邪気を含みながら消せない無邪気さと、狡猾さとも言えない小狡さを隠せないわざとらしさが見える。妙に人間くさい笑みだ。

(人形みたいな人なのに)
「安心しなよ、気が済んだら向こうに戻してあげるから。私は嘘をついた事がない」
(それは嘘だ)

嘘をついた事がないというのも嘘だ。向こうに戻してあげるというのも嘘だ。
そしてそれが嘘だというのも嘘だ。

(嘘つきの……ドロボウよ)

どこかで聞いたことがある。誰にだろう。そうだ、母が言っていたと思う。勿論いつのことだかは忘れてしまったが。最後に自分を罵ってリリサは床一面にばらまかれた紫がかったガラス玉に、幾つも映った鏡像を残して意識を途切らせた。月のブローチを差したドアノブカバーみたいな帽子。


で。


「ああそう」

話を聞いて幽香が言ったのは予想以上でも以下でもない、この人ならこう言うだろうなくらいのものだった。どこから持ち込んでいたのか昔、魔界から盗んだ技術を元に河童に作らせていた妙な形の電信(何百年来と夢幻館に籠もって暮らしているエリーには見に珍しいが、幻想郷の外の世界では人間たちが大勢これを持って一人お喋りをしているのだという)を閉じる。肩に担いだ逆刃鎌をちょっと直らせて、エリーは疲れた目を地面にやった。先ほど見つけた曲者は予想以上に素早く小賢しく、くるみとオレンジ、あと何とかという毒人形が追い、幽香が加わっていたにも関わらず逃げおおせてしまった。後にぐったりと(のされたのだ)したくるみといましがた目を覚ましたオレンジは、起き上がって頭をさすっていたが、彼女らの雇用主は何を言うともなく表情を見せずに歩き出した。仕方なくエリーも立ち上がって続く。

(どこ行くのっつっても殴られるだけぽいわよね)

そして殴られるだけだ。それ以上のことはない。日傘を(あの日傘が古びたり破損したりするということはない。強力な魔法使いが持つような強力な魔法の道具を、ただの妖怪でしかない彼女は平気な顔をしていつも差している。変わらない姿こそ強者のしるしだと言うなら彼女は疑う余地もなく自然と強者で、そうあるのが当然という顔をしている)揺らして歩く細い後ろ姿の雇用主は手ひどく頭が良く遊びや冗談を知らない。

(それだけ妖怪なんだろうけどね)

妖気というものの本来の意味を考えつつ彼女こそは千年に一人くらいで生まれる純粋な妖怪の一人なのだろうとエリーは憶測した。遊びや冗談を知らないということは、妖怪にとって濃密な悪意の塊であるということではないか。

「まったく……」

その雇用主は予想通り不機嫌そうに呟く。あの人形を攫った曲者のことを主に言っているのだろう。いや、あの人形娘――リリサと言ったか、人形らしく無愛想な――のことを案じていなかったわけではない。ただ今彼女の頭の中にあるのはさっきの蝙蝠の羽根を生やした短い金色の髪の娘のことだけであるというだけだ。妖怪が妖怪であるならば基本目先のことしか眼中に無いのは当然のことだ。

(悪魔ぽかったわね)

なんとなく思う。洋風の出で立ち、執事を思わせる少女めいていながら簡素でシックな色合いの服、何かのまじないか左のほほに大きな星のペイントがしてあった。肌に直接。顔にしてあるなら刺青かもしれないが、割とどうでもいい。強力な力を感じた。幽香に並ぶほどかは知れないが自分程度ではかるくあしらわれるだろうし実際にそうなった。引き際も鮮やかだったが、妖怪ならあそこで逃げを打つような真似が思いつかない。

(ま、いいか)

外で幽香の周りにちょろちょろくっついているという(幽香本人ではなく、くっついているという本人から聞いた)メディスンという小娘がふらふらと近づいていって幽香に邪険に押しのけられているのが見えた。相変わらず来る者こばめない様子も彼女らしい。


街中。

『法務審庁』という彫りの入った板が見え、深く被っていたフードの奥から、アリスは建物の周囲がえらくざわついているのに気がついた。無視できなかったと言ってもいい。神綺が自分にも言わず何かやらかした可能性を思わず考えるが、「あら?」と、その当人はすぐ横で不思議そうな声を上げており、その声音はたしかに心底不思議そうにしているようだった。

(これじゃ近づけないわね)

物騒な身内の心証をどうにかかんぐりつつ、アリスは眉をひそめた。「何かあったのかね」と気楽な顔で呟いた魅魔が状況を察して建物の玄関前に一際目立って出来た人混みへと歩み寄っていく。見ながら待っていると後ろから「すみません、」と声を掛けられた。アリスは振り返ろうとしたが、その前に神綺が被っていた三角帽子(アリスの家を出たあたりから被っている。何のことはなくアリスが用心の為被らせたのだが)を少し上げて、寄ってきた警官(何でこんなところにいるのか)に「はい」と、素直に歩み寄った。異変はその時起きた。

「――動くな!」

と、年嵩の男と思しき外見の警官は、神綺の顔を見るなり表情をみるみる強張らせ、距離を取った。すでに拳銃を抜いてぴたりと狙いを定めている。「え?」と間の抜けた声を上げかけたのはアリスで、それを代弁して実際に言ったのは、神綺だった。

「動くな! 両手を杖からはなせ! 妙な事を考えるなよ、足をふっ飛ばすぞ!」

警官は非常に緊張した面持ちで言った。神綺は分けのわからないまま、両手を上げた(撃たれるのが単純に嫌だったのだろう)。警官が制服のポケットに付けた携帯型送受信機に叫ぶ。

「手配書の人物を発見、旧魔界神、神綺だ! 総員現場に急行させろ。油断するな。転生したとは言え何をしでかすか分からん」
(はあ!?)

アリスは胸中で悲鳴を上げたが『了解』とするどく応える受信の声が、脳に警鐘と不理解を同時に鳴らす。

「――そこの奴、お前も顔を見せろ! 情報によると手配犯のアリスという魔法使いが行動を共にしているはずだ。直ちに」

警官が言い終えるのを待たずに、いきなり足もとに現れた穴に落とされ、一拍おいて「ぎゃああああ!!」と何か得体は知れないが確かにそこにある何か恐怖に肺腑の底から男が悲鳴を上げ、そのままぱたりと何も聞こえなくなるのを聞きつつ、「何してんのよ!?」と、魔法を放った神綺にアリスは思わず詰め寄った。

「え? ちゃんと止め刺せって? アリスちゃん過激。めっ」
「違うわよ!」
「何だ何だ」

と、その後ろからこちらに戻ってきた魅魔に呑気な声を上げられつつ、アリスは思わずそちらを見やってから、口をぱくぱくさせるように、ええい、と目をぱちくりさせて帽子を直している神綺に向き直った。

「あらお帰り。それで何の騒ぎだって?」
「いや、よく分かんないね。ここの頭の法務審庁任官とやらが殺されたとか。あんたの用のあった奴だよな、サリエルって。そいつが」

魅魔は言って手の平を振った。

「今逃走した犯人を追って警察が動いているらしいけど? 魔界にはちゃんとしたのがあるんだね、警察ってのは」

がく然として神綺に対する言葉を呑みこんだアリスが立ち直るのを待たず、ばたばたと言うには少々規律正しい足音が聞こえ、革靴に制服姿の警官が何人と集まって来た。

「居たぞ! 逃がすな!」
「くそっ! 犯人には抵抗の形跡有り! 見つけ次第発砲を許可する! ああ、そうだ魔法だ! 封殺隊と結界の使用を要請しろ! 転移術の用意を何処かに仕込んであるかもしれん!」
「そんなものがあったらのこのここんなところうろついている必要がないと思うんだけど……」

兎に角。
全力で神綺がぼやくのを手を引いて促すと、アリスは警官隊に火炎の塊を投げ込んだ。狭い路地を逃げ場なく炎が包む。悲鳴と怒号。





「何? これ」


路地。

いや何かもうと言いたげな心地で、とりあえずエリーは一瞬で人形のようにのされた警官(らしい。本で読んだ知識に過ぎないが、いつかどこかの記憶にすら怪しいこびりカスのように、頭の隅で主張する意見もある。何処かで本物を見たことがあるのだろう。多分)らの姿を眺めつつ、とりあえずエリーは呆れを引っこめ、代わりにいまいち呑気にほほを掻いた。

「何か言っていたみたいだけど。逃亡とか容疑者とか共犯の疑いとか」
「呪文?」
「違うんじゃないかなぁ」

エリーとしてはそれを確認しようかと思ったのだが、その前に全てを焼き尽くす暴力のような拳打を腹に埋めたのは幽香だ。確認すべき事は(自分にとってだが、あくまで)確認したから用無しと見て凶行に及んだ可能性も無くはなかったが、今のは明らかにそうではない。恐らく先の追跡劇で気が立っているときに刺激されたのが気に食わなかったのだろう(たぶん制止を掛けられた時に向けられた妙に剣呑な穴ぼこは拳銃、つまりは銃の類だが、人造の力に無関心な幽香は知らないと判断していい)。

「ね、ねえ、とりあえず逃げた方がいいぽくない?」
「そうよ、なんか仲間呼んでるぽくなかった? 幽香さまが使ってるアレに似てる感じで」

それぞれ言ってくるくるみとオレンジ(くるみは何となく自分たちの立場が察せられたのか、かるく青ざめている。この中では彼女の反応を信じるのが一番良さそうだ)に手のひらを裏返して無言の同意を示し幽香を見やるが、彼女はすでに歩き出している。「ダメよ」と言われるだけで、そして恐らくは言われるだけであろう予感を横面から感じ取り、エリーは手を下ろして歩き出した。他人の意見ほど彼女にとって無価値であり、また事実無価値であるものもない。ついていくしかない。一人気楽げな毒人形がなにごとか無駄なことを聞いて無駄な(邪険にあしらわれるだけであり、邪険にあしらわれるだけであるやり取り、ということだ)時間を費やすのを見やって、エリーは今回もどうせ生きては帰れるんだろうなと思っていた。幽香の持っているケータイが鳴り出すのをどこか遠くに聞きながら。


郊外。


「……。何? これ」

神綺が電話を切ると、暫く横でぼんやり(いや、考え込んではいたのだろうが、彼女は結構神経がほそく、ふさぎ込みがちである。一日中家の中で人形をいじって過ごす日を何日も過ごしても平気そうな顔をしているくせに、雨で流れ込んだ雨水が川に慢性的な堆積を作っているようなものだ)していたアリスが言った。神綺は電話をしまい込みつつ、気軽に表の道を覗いた。カーニバルが開催されている時である、警察もあまり過激な行動には出ないだろう。騒ぎになられて困るのは、こうして一ヶ所に群れる民衆の類だ。一度騒ぎ出せば混乱を収めるのは容易でない。

「とはいえ封印はされちゃったみたいね。これじゃあ転移術は無理ね」
「一応聞いておくけど」

アリスは言った。神綺は何の気ない様子で見た。

「サリエルと会ったとか言っていたけれど」
「ええ」
「なにをやったの?」
「なんにも」
「そういえばどうしてサリエルの所に行こうなんて言い出したのか聞いてなかったけれど。いや、言ってもはぐらかしたのは神綺さまだけどね」

神綺は小さく首をすくめた。

「どうにもアリスちゃんは私に含むものがある様子を止められないみたいね」
「別に。ただ何でリリサなのか気にはなっているわ」
「人質かしら?」
「そう言い切れるってことはサリエルに最初から疑いをつけていたっていうこと?」
「いいえ」

神綺は首をふって、ちょっと唇の下を指で触れた。

(そうじゃあない)

これは全てあからさまな挑発だろう。問題はそうまでしてなにがしたいのかまるで見当がつかない事だった。だが、見当はつかなくてもすでにサリエルが死を偽装して(殺害されたなど最初から信じていない。尤もサリエルの言葉を考慮しなければ全てタイミングよく起こった偶然という可能性も、まぁ有り得なくはないが、整理して考える時間はない)何処へ行ったのかを探すしかない処へ追い詰められている。追いやられたと言った方が正しいか。

『知りませんね』

サリエルは不愉快そうに言った。机に持たせかけた腕であごを支えながら。

『それは?』
『貴方の不出来な身内が起こしたごたごたなど知らないとそういう意味で言ったのよ。ご自分と貴方のパンデモニウムを牛耳っている出来の大変良い娘でも頼ったら如何かと言う意味でもある。確かに魔界神代理の筆跡偽造は大変重篤な罪状ではあるが、そんな物は執行権の段階であり、何より私は法務審庁任官としてこの件に指一本の労力も使いたくない。お帰りを』

神綺は瞼を落としがちに出された紅茶を啜った。一息ついて言った。

『サリエル。あなたの意図する所がよく分からないのだけど。そんな言葉を述べる真意は、一体わたしの憶測する所で良いのかしら』
『勿体つけた話は必要ない、元魔界神・神綺。私の言う処は一つですよ。其れとも更なる見解を聞きたいのかな? 私はこの話を聞いてこう類推する。詰まる所これは貴方の処の夢子という娘とアリスが共謀したか、或いは小競り合いだ。貴方が一体幻想郷などという僻地でお人形遊びをしている間に、貴方という抑えが無くなった為に元より不仲の癖の有る二者は確執を深め、この様な歪な事件に及んだ。パチュリー・ノーレッジなる魔女は悪しく其れに巻き込まれたのでしょう。死体探しは執行権の段階がやってくれる。で有るなら貴方のやる事は一つで私のやる事は皆無、保護者を気取る二者の首根っこ掴んで警察にでもお行きなさい。魔界神代理の弾劾の希求くらいなら此方で命じておきましょう』
(ふむ)

先に切れたのは神綺であるし、憂さ晴らしをしておきながら逃げたのも神綺である。まあそれには目を瞑るとして(自分事であれば問題ない。自分で自分を断じることほど楽なこともない)、何やらあれがサリエルの狙いのままだったような気もしないが、過ぎ去った事は仕方がない。あんなものはサリエルの髪一本揺らしていないのは予想済みだったし、結果もそれ以上ではあり得なかった。ならばサリエルが姿を消したのは(いや、ならばはいらない)なぜか。事態は憶測などではなく、確信の段階だった。事態は仕組まれていた、起こる前から。今この時も神綺は――少なくとも神綺は、――禍のただ中にいるのだろう。落とし穴にあってひとつだけ得られるものは安心感とか安定感と言ったものだ。

(だから私がここから抜け出してサリエルの元へ行く方法も用意されている。リリサが消えた以上、追い立てるのは私を引き立てるためだから。用意されている)

取りあえず思いつく常識的な選択肢として、自分は自分の考える考えをアリスに伝えなければならないだろう。何もかもサリエルの前でまだ生かされているであろう彼女の大事な生き人形に見えるまでは、茶番でしかない。分かっている。


街中。路地の陰。

とりあえず逃走経路は確保できたものの、いつまでもこんな路地裏にいられるわけでもない。警官とやらのやり口など縁のないメディスンにしてみれば文章で得た知識くらいしかないが、なかなか頭が良いものらしく、非常識の中の常識で生きている自分等は、実に常識に照らし合わせた連中の合理的なやり口――たとえば街中の特定範囲ずつを受け持つ人海戦術のようなやり口であっても――実に手際よく退路を断たれるもんだなーというのが正直なところだった。

(おまけに魔法にも慣れがあるんだもんね。郊外あたりで毒ばら撒いて弾幕ごっこやっても平然とした顔してる幻想郷民みたいなのはここにはいないのか。いや向こうがアレなんだろうーけど)

入り口あたりの見張りを続けながら、奥で話し合いをしているエリー(幽香の無軌道に暴走するところがたまにあるのをよく知っているのだか、自分や、みかんだの牛乳だの――名前がもう少し違っていた気がするが覚えられない――に相談して逃走経路の探索を行わせたのが彼女だ)と幽香の声が聞こえてくるが、幽香の不機嫌は直っていないようだ。もっとも直ったからどうこういうことでもない、幽香は常に本能と意思で行動し、自分よりえらい奴などいないと思っている――だからこそメディスンも彼女を敬っている(つもりだ)――。彼女の行動様式を真似るところがないかと彼女の周りをうろちょろしたり、いじって反応を見たりしている。
彼女に任せればどんな囲みを突破することも可能だろう。
それは神綺についても同じ事が言えた。
確かにあの吸血鬼の言った通りだ、とメディスンは思っ。確かに自分たち妖怪というのには強い者や賢い者に対する尊敬とか崇敬とかそういうものはない。ただそういう者を見ると真似たいと思う習性のようなものはあるようだ。尤も妖怪と言っても自分ら付喪神と言うのは人間という似た形のものについて食料という見方はしない(恐れは買いたがっているはずだ、とは幽香やあといつだかに何か人間? だったかに教えられたことだ。それならそういうもんなんだろうとメディスンも思っていた。難しい理屈は自分には分からない)、特に精神面でも人を襲う発想のない類の自分等は、存外に当たるところが結構あるのかもしれないが。
本当に本能と意思、好奇心で生きるところの妖怪はものごとを客観視するという発想はない。
少なくともその癖があるらしい自分はどうにもああいう手のつけられないものには敏感なあんてなが向くようだ。その目によれb少なくともあの神綺は飛び抜けて頭がいいのだなと感ずるところがある、特にこれといって明確な証拠はなくても直感と目が敏感にそれを感じている。

(でも変よね?)

目と意識は完全に外に向けながら、メディスンは一人ごちた。今の状況というのは明らかに罠だ。何者かが神綺が来るのを知っていて事前に練っていた計画だ。予定と言ってもいいかもしれない。その中に自分たちの予定まであるかは知ったこっちゃないが。
予定を立てたその誰かはこんなもので神綺をどうにかできると思っているのだろうか。何となくそれはあり得ない気がした。

(まだ何か……あるんだろうなぁ。無事に地上に戻れるんだろうか)

取りあえず自分の身は守ろうとメディスンは思い、さきほど見かけた警官の影を報告するため奥にとことこと戻っていった。


所変わって。

現代の街中。マエリベリー・ハーンはひとりごちた。彼女との付きあいはどのくらいになるだろうか。今日も蓮子は待ち合わせに遅れている。いや、正確には遅れていた。コーヒーという近代史が生み出した最高の発明のひとつを啜りながら、ふとどこかで目にしたことのある現代の代表的な(今はどうだか知らないが)ジャンクフードと言えるコーラとハンバーガーを手にした男の言葉が浮かんだ。なるほど確かに一番売れているものだから世界一美味い食べ物だ。その理屈はわかるが、彼らはそれゆえに未熟な現代の合成食技術によるしわ寄せを一番に喰らった。科学的根拠など元にしなくても人間は身体をボロボロにし怒りっぽくなり忍耐や我慢を知らないわがままな人間になる。それを食生活のせいにするなど愚行中の愚行ではないのか。
あくびをかみ殺して外を見やる。友人はようやくやってきたようだ。
ヘンな趣味の帽子(ただしこれは心外だが本人によると自分こそその帽子がヘンだと言われる人だそうだ。目のことと同様、これについては意見の一致を見ることはない)とシックな服装は遠目にも目立つ。悪い意味で。吐息をついて見やりながらスカートのポケットに入れていた写真を出す。写真にはとくに何も写っておらず光が写っている。
背景は暗闇だった。どこともしれない暗闇の中に、人型をした(光は強いがうっすらそうわかる)何かが写っている。両脇に自身よりいくらか小さい、これも人影のようなものを纏って。小さな人影は纏っているというよりは、背の高い人型が従えているようだった。世紀の証明ねえ。メリーは特に気にかけていなかった。
神様とコーラとハンバーガー。
今の世の中に何の違いがあるのか。捧げる価値でさえも平等だとしたら、人は自由になったのだろうか。


失礼致します、と言ってエリスが下がるのをサリエルは何とはない目で見ていた。

足もとに転がったガラス玉を見やると、偉そうに椅子に座った顔色の悪い死人のような肌色をした天使が静かに羽根を伸ばしている。天使。頬杖をついて瞼を落とす。火傷しないていどに温くなった紅茶。コーヒーなどは論外だった。神が苦さに顔をしかめながら飲むなどあってはならない。神。
目を開くと聞こえたほど偉そうな姿をしているわけではなく、暗い洞窟のような場所のほど狭い一室で、粗末な寝台、粗末な机、粗末な椅子に腰かけた貧相で滑稽な女人像のような姿が見える。女人像。正しく、そうであろう。神や天使が女人の姿を取る必要はない、きめ細かな肌をしている必要はない、艶めく髪もいらない。本来神とは天使とは、誰にも触れられず、誰にも見えず、誰にも聞こえないものを言う。だが人は違った、彼らに名前をつけて呼び、姿形を与えた。それは人の教えが広がるほど拡大し、時が経つほど鮮明になった。
神は死んだのではなく殺されたのだ。サリエルは笑った。

(神はどんな姿をしていたっていいのだよ。なぜなら神には姿はなく、人の想像力は無限だからだ。自由だからだ)

どんな姿をしていても誰も何も気にしやしない。


というわけで、どうにか街を脱出した一行であるが。

いや、如何にかと言うのは語弊が有る。誰にともなくアリスはごちた。最初虚仮脅しで感覚にのみ訴える幻覚の炎をアリスに浴びせられた警官たちは神綺や幽香らに物理的に蹴散らされた一同よりは遥かに幸運だったろう。多分。魔法も何も無くとも馬車を強奪する手際は賊徒のように鮮やかだった。今はその馬車は囮として走らされ、一行は幻影を残して、今は隠れ身をして歩いている。と言って自分たちの周りにのみ、こちらを見られないようにする(見ることができない、向くことができない)暗示をかけて、普通に魔界の夜を歩いているだけだったが。

(まぁ犯罪者よね)

自分達の行動に正当な回避を主張するに足る要素があるとも思えない。あと養母を含めて行動に当たった連中に元々種族的な身の潔白があるとも思えない。自分にはあるだろうか? と問うて、あるだろうとアリスは答えた。幻想郷で魔法使いに市民権など認められていない(今は状況も少しは改善と言うか、変化させられたが、それでも元々魔法は忌むべきものという考えがあの郷には根強いはずだ)。だが魔界では寧ろ正当な人種だ。その代わり余計な力を持つ者は他者のやっかみや疑いを買う点では相違ないし、うさん臭いと言われればアリスも渋々同意しただろう。
まあ犯罪者となれば法整備の為された世界では白昼を歩き回れない身に変わりはない。

(折角絶好の住み家を見つけたと思ったのに。うまくいかないものだわ)

パチュリーのコネで互いに研究成果を分かち合うという条件の元、取引して手に入れた拠点だったが、その魔女本人もいざこざがアリス絡みであるとすれば手を引かざるを得ないだろう。

(無事だといいんだけど)

隣を歩く神綺を見やると、いつのまにか闇夜に溶ける赤い灯を灯して、ぱらり、とどこからか出現させたらしい書類の束をめくっている。

「それは?」

アリスが言う、と神綺は書類から目を上げて、ん? と答えてきた。

「夢子さんの報告書。パンデモニウムに行ったとき一応複製を頼んでもらってきたんだけどね」

神綺は言った。フム、とほほに手を当てる。

「やっぱりねぇ。几帳面な夢子さんのことだから結構な所までちゃんと調べてあると思ったんだけど。件の組織の発生段階と首魁の名前までちゃんと挙げられているわね。後援者の名前も既にリストアップしているみたい」
「犯罪組織、神の耳たぶ? カルトみたいな名前ね」
「特に意味は無いんじゃない? サリエルが今回の件に際して臨時に作り上げたものみたいだし。でも耳たぶって言われるとなんとなく背すじがむず痒くなるわね」
「サリエルが?」

アリスが言うと、うーんとほほに指を当て、神綺は若干まじめそうに言った。

「勘かしら。後援者の一人が三百年か前ぐらいに法務審庁にいたはずなのよ。それに元警察関係の人間がニ、三人。いや、私が調べたわけじゃないけれど、夢子さんの指示で調べられたものだからたぶん間違いないんじゃないかしら。今向かっているのは組織が仮の拠点として持っている所のひとつ。これも勘だから外れたら御免なさいね」
「別に神綺さまのすることにどうこう言わないけれど、探すほどの猶予が有るのかしら」

アリスは疑わしげに言った。確かに擬装はして来ているが、あんなまやかしがいつまでも通用してくれる程残念ながら警察は愚かでは無い。ちょっとした術者を捜索に投入すれば魔法の隠れ身も一発で看破されるだろうし、大勢の術者を依頼して広々とした荒野の中に違和感を見つけ出すことも考えられる。そのどちらもが彼らの組織力を以てすれば可能ではあった。

「夢子さんにお願いして捜査のかく乱を頼んできたからあともう少しは大丈夫だと思うけど、それに……まぁ兎に角先を急ぎましょう」

急ぐと言っても徒歩以外の移動手段は無いが。空など飛んだら見つかることは言うべくもない。人間が面子にいないし、魔界の森でも進行に支障をきたすことはないだろうが。アリスはこっそりため息をついた。もうどうしようもなく騒ぎに巻き込まれる因縁。静かに暮すなど自分らには無理なのかも知れない。


後方。数歩ほどはなれて。

何やら話している先頭を行く魔法使いと元魔界の神さまだかなんだかをながめつつ、オレンジはふーと目を半眼にした。自分の隣にはくるみ、前に魔法使いと神さまに遅れてメディスンとエリー、一番殿に自称悪霊の魅魔と雇い主の幽香がいる。

「くるみ。これってどこに向かってるわけ?」

こそこそと問う。大声を出して後ろの幽香の気に障っても面倒だ。生まれながらの暴れん坊である彼女らの雇い主は接するのにこつがある。こちらが空気を読むこと。こちらがへりくだって(へりくだりすぎるのもいけない)口をきくこと。殴られるのはこちらに非があることになっているのを認めること。もちろん非がない者であろうとある者であろうと(それが幽香の準拠であっても)殴るものは殴るのが幽香だが。 

(意思のある災害とか魔女とか。そんなのよねきっと)

声に出さずに思っても勘取るところがそんな感じだ。幽香の方を気配だけで探って、オレンジは頭の後ろにやっていた手を身じろがせた。魔女などというものに妖怪らは縁遠いが、確か言葉の由来は幽香のような存在を指して言ったはずだ。自然の秘儀とともに生き、禁忌に通じ、支配を疎む。

「さぁねー。こんな田舎の森の中なんて分かんないし、あっちの三角帽子のお母さんが何考えてるかなんてもっと分かんない」
「だよねぇ」

オレンジは言った。頭の上に組んでいた手を下ろしながら神さまを名乗る三角帽子(何が気に入ったのか街を出てからずっと被っている)の人影を見やる。神さま。神さまって何。俗に言う神さまとやらなら幻想郷にはそこら中にいた。人型をとっている者でも結構な数いるが元々神々とは自然そのものでそこらの木や草や石ころにすら宿る。ピンからキリまでいる。有象無象で魑魅魍魎ほどいる。だいたい神々はおとしめられて妖怪や妖精に、あるいは悪魔や魔女に、英雄や魔法使いに、(むろん、オレンジ自身は木の根や股や石っころから生まれた類――だったと思う――で、神さまであった覚えなどない。覚えなどなくても神さまであることもあるからややっこしい)さまざま変化、凋落をとげたと言われ、世界中みな神さまと言われても別に的外れとはいえない。
その中でもとりわけあの得体の知れない白髪を伸ばした稀有な見た目の麗人は、元は魔界の神さまであったという、今は人間だが。魔法使いだから一応は妖怪か。魔界の神。こんな暗くて狭くて危なげなところ(狭くはないのだろう、くるみの話によれば)でわけのわからない原始的な宗教観をもつような連中の親玉なら魔人とか大悪魔とか暗黒番長ではないのかと思うがそうでもないのか。少なくともあの元神さまからはそういう邪悪でおどろおどろしい気配はみじんも感じとれない。つまり悪魔とかではないのだろう。妖怪でもなく人間でもなく妖精でもないのなら地上に足をつけて生きている者ではあと神しかいない。
神。神は存在する。自分ら人外の者にとってはそれがいることがありがた迷惑のようなものだということであって。


しばらくして。

真っ黒な森を抜けて黒々と尖った低木と茂みが生え、あいかわらず万年集っていそうな太陽の光を覆い隠す(いかにも空らしく偽装したような、あのおどろおどろした地底とも異次元とも違う、ぶ厚い暗雲が煮えたぎるような天井を太陽が横切っていればの話だが)雲を頭上にして進むと、ようやく神綺は目的の場所を見つけたらしく、身の隠せる場所に皆を集めた。不快な空だ。幽香は彼女にしやれば何ということもない目を空に向けた(もっともはた目から見たら機嫌悪げに見えたかもしれない。だが妖怪である彼女が不機嫌そうに振る舞ったところで誰に気兼ねする必要もない)。別に曇り空が嫌いというわけでも原始的でしみったれた魔界の瘴気とやらが気になったというわけでもない。いや、はっきり言ってここの空気は不快だった。魔法の森によく見られるような変質した瘴気を浴びた魔法植物どもに情緒のひと欠片も感じるようならまた話は違っただろうが。同じ理由で幽香は曇り空よりも晴れ空が好きだった。それもこのどんよりした空よりはマシであるという単純な理由からだったが。冥界(地獄か。幻想郷の基準で言うならば。どうでもいい話だ。死人は死人だろう)の住人であるあの小うるさいなんちゃって閻魔の言によれば、幽香は長く生きすぎて狂っているのだそうだが、いかにも死人が言いそうな話ではある、閻魔を名乗るあの緑髪した小娘は人間ではないらしいが。狂っている狂っていないは人間の価値判断であるし幽香を毛嫌いしている天狗共や妖怪の山の住人のように生意気に社会然としたものを形成している馬鹿連中(馬鹿と言って差し支えないだろう。天狗共はともかく元々そうでない妖怪どもまで連中の真似をして社会という枠に自分を当てはめているようでは)にすれば問題だろうが幽香には問題ではない。幽香の思考はおそろしいほど単調で簡単なもので、だからこそ彼女がおかしい、狂っているのではないかと思う者たちには実際それがおかしいのではないか、狂っていると思うところではある。まあそう断じるのでも何もズレているところではない。実際彼女は少し狂ってはいる。彼女は体面や世間体といったものを理解できる。普通妖怪は逆立ちしてもそんな言葉は言い出さない。彼女は自分を偽って人を虚仮にすることができる。それは妖怪のやることではない。彼女は自分が恐れられていようがいまいがどうでもいい。普通妖怪は隠れたりはしないし、自分を隠すこともはなから頭にない。彼女は弱い者が嫌いである。妖怪は弱者を見つけたら喜んで嬲りつくすものだ。だが興味がない。同じようにして自分の興味のないものは自分の視界にはないものと思っている。それで何かを感ずるものだろうか? あるいは何かを感ずるべきだろうか? 馬鹿馬鹿しい、そういった類の義務感は最も妖怪から縁遠いものだ、人間や神さまやあるいはもっとそれ以上の存在やら何やらがやればいいのだ。こうも言える、そういった妖怪以外の存在は(妖怪以上の存在は、と幽香は言いなおした)むしろ義務感そのものだ、存在している、あるいは生きているあいだ、義務感に生きつづけ、存在しつづけ、そうしていることに意味がある。解放されるのは死んだときだけだがどのみち、死ねば義務も何もあるまい。霊魂は人間ではないし亡霊だろうが幽霊だろうがどうでも人間ではない。神も同じだろう、それ以上のものはそもそも生きてすらいない。
こうも言われる。彼女は恐れない。妖怪とは龍を恐れ神を恐れ、人間を恐れ、霊や妖怪はあざけり倒すものだ。
ふと幽香は一番前で何事か、自分も顔見知りである魔法使い(あるいはその彼女自身も、か)に話している綺麗でまっすぐな背すじと同じようにして垂らした精巧な美術品のようなさらさらとした白い髪の元魔界神を、気配だけで見やった。恐れか。何だか知らないが巻きこまれて攫われた青みがかった髪の人形を思いつつ、幽香は応答など期待せずに勝手にごちた。案の定、どこからも応答は返ってこない。さほど意味をなす思索ではなかったのだろう。花を見るとき、季節を見るとき、男を見るとき、折に触れて浮かぶようなものではある。

(あなたは少し長く生きすぎた)

賢しい閻魔にいつだか、もちろんそれがいつだか覚えてなどいないが、それは覚えている。その時も同じ事を浮かべていた。恐れか。
それもまた妖怪以上の連中には必要なことなのだろう。解放されるのは死んだときだけだが、どの道死ねば恐れも何もあるまい。魂もない。
神も同じだろう。

(生きているといいけど)

幽香は面白みを感じたように口元を柔らかく微笑ませつつ、呑気にあの人形の安否を想った。



(生きているといいんだけれど)

もぞもぞと身じろぎをしつつ、魅魔は彼女ら有象無象の魑魅魍魎(と言うには数がちと足りない)が御大将として担ぐ元魔界神――自称して悪霊をやっている身であるから魅魔も人に担がれたりするのは好きではない。そもそも担がれるのはいかにも縁起が悪い。チャラけたような外面に比べ、魅魔は古風な中身だったので、そこのところは古い――の状況を説明するその広そうな額を見つつ、でこっぱちは賢いことの表れだな、と、何の気無しに唸りつつ、ほほを掻く。これも何の気のない魔界神さまさまの視線がちらと一瞬だけこっちに移るのを見つつ、悟られたかなと悪びれもなく思う。向こうはそのことに満足を覚えたようで、といって説明は途切らせていないのだが、横の娘っこのほうに言葉を向けている。娘か。
その光景は魅魔にも覚えがあるのだが、なにぶん記憶があいまいで、どうでもいいことにいり混じり、取りこぼしたかのようであった。だがまあ覚えてはいる。小生意気で強欲で強かで嘘っこきの娘の顔を。老境に至って一度見に行ったこともあるが、どうやら年老いた彼女の弟子の顔は悪霊の年を経ない眼差しには視界に入らないものであったらしく、そのため魅魔が今になって思い出すのは小憎たらしく自分の実力を信じて疑わない(と当人は思っていたはずだ。出来る出来ないは別として)、しかしそのために怯えていただろう鮮やかな金色じみた髪の利発な可愛らしい少女の顔だ。

(ふぅむ)

あごを撫でる心地で魅魔は思った。何で今頃あんなもん思い出したのか? 彼女にとって少女との別れは確かに辛く胸の奥を刺すに足る感傷のあるものだったが、魅魔を支配しているのは感傷ではなくもっと別のものだ。人の身を宿しかといって人では決してありえない、悪霊とはそういうもので、だからこそ彼女は人間ではない。だから業が深い。存在することは人に害を及ぼすことであり、人を呪いへ導くことでもある。

(あたしの存在というのがあの娘に呪いをかけたとでもいうのかね)

それは分からない。判然としない。人を導くのは運命ではない。もっと具体的でもう少し酷薄ではない。魂だ。運命は結末ありきで語られるもの、誰も自身でさえ、死という結末、世界の終焉を迎えるまで知ることはない。世界の終焉とは塵に還り、無になることだ。

(するってと、やっぱり私らは運命てものを知ることはない)

ほほを掻きながら厄体もない考えにふける。神綺は娘への説明を終えて、それ以外の面々を見渡した。

「じゃあ、行きましょうか」
「殴りこむのかい?」
「あらやっと暴れていいのね。すっかり退屈しちゃったわ」
「まあ! 久しぶりに幽香さまの殴り合うお姿が見れるの! 私超楽しみ。血飛沫だぁいすき!」
「ひくわー」
「あんた、幽香様の近くにあんまり寄るんじゃないわよ? いくら人形たって焼き払われたら嫌でしょう?」
「たしかに火の気は苦手ねー。やっぱり毒殺の方が耽美よね、アリスっち」
「誰がアリスっちよ」

各々の反応を頭痛げな目で見るアリスを背に、神綺がさっさと歩き出した。


暗闇。


「神綺様方が動いたようです。各地の支部から小競り合いの声が届いています。彼女らが暴れている他にも神綺様方が合談したと見られる治安維持部隊が魔界神代理の指示にて待機。警保司庁とのねじ伏せあいに片がつけばすぐにも動き出す模様です。各支部からは指示要請が寄せられています」

エリスが言うのに、「臨機に」と、サリエルは述べた。

「予定通り各地の支部には放棄の指示を。ここの者たちも引き払わせなさい。ごねるようなら放り出して構いません」
「はい」



暗闇。

誰かが泣いている。泣いている? 泣くのは愚かなことだ。
泣くという行為は何かを欲しがり、欲しがっても手に入らない者がすることだ。何かを欲しがるのは人間くらいなものだ。

(でも泣いている)

リリサは思った。目を開いていても閉じていても一向に変わらない(或いは開くことなどできていないのかもしれない、瞼の裏側を見ている? だからこんなに暗いのか)暗闇の中、誰かが泣いている、自分ではない誰かが。誰?


アジト、と思しき所。

そこは最初に神綺たちが好き勝手やった何某という(思い出すと首のあたりがムズムズする、あの名前だ)組織の隠れ家から数えて四番目くらいの場所だった。今度も取り立てて今までと変わりない、いかにも犯罪者達の持つ巣窟といった(煙草やら何やらの臭いじみたものが澱になって凝っているような独特の気配がある。生意気にも小洒落たバーのような場所やちょっとした遊戯室などもあったが)ところではあった。今までと違うのは、ここには一切人が居ないことだった。入口に見張りすらいない。コン、と靴先が何かを蹴飛ばした。神綺はコロコロ、と転がっていく軽いものを目で追うと、杖(魔界の底から召喚した氷漬けの魔人が姿を変えたものだ。一介の魔法使いや魔女に従う輩ではないが、神綺との間に縁があるため義理で従ってもらっている)を持ち替えて、空いたほうの手で屈みこんで拾ってみる。それは見てみての通りただのガラス玉、ビー玉だった(勿論見ての通りはビー玉だが、そうではないかもしれない。どちらにしろ、それは神綺の目では見ぬけないものであることは疑いない)。何でこんなところにあるのかしら、と呑気な思考は思った。

「きゃあっ!?」

と、その内悲鳴が聞こえた。後ろからだが、例の幽香が連れてきたボンクラーズの一人、オレンジの声であったため、神綺はたいして危機感を覚えなかった。見やればそのオレンジは鼻面をおさえて尻もちをついており、(スカートが短いため下着が見えそうだ。最近の子はずいぶん「ぱつぱつ」としたのを穿くのねぇと呑気に思っていると、)どうやら正面にある何かに激突して転んだ様子だった。

「何だい、こりゃ?」

オレンジが立ち上がる前に出て、魅魔がその目の前の空間を手で触れている。魅魔の細く白い手が触れた部分は波紋を広げ、その透明な壁の全身を映し出した。

「あ、あれ? 何で? 三角帽子のお母さんフツーに通ったじゃない?」

狼狽するくるみ――とか言う名前か、たしか――の横から出てきた幽香が無言で日傘を開いて先をかざす。次の瞬間「うわっちょっ」というエリーの声が聞こえ、光が膨れ上がり、辺り一帯に響くほどの爆音と太陽のような輝きをせま苦しい通路一杯に響き渡らせ、破壊音と崩壊音を連れて呑みこんだ。それらが見て取れたのは遮られた光がまったく神綺には届かなかったからだった。一応耳を塞いで屈んでいると、やがて騒音が収まった。見やると、何もない廊下の向こうで、退避しそこねた二人ほど(くるみというのとオレンジというのだ。ちょっと焦げていて判別しにくいが)がぐったりしており、先ほどの位置からまったく動かずに、幽香が服のあちこちからしゅうしゅう煙を上げて立っていた(爆発をあびたものらしいが、本人には傷一つなかった。服さえ汚れておらず、煙は耐熱した装甲板が上げるようなもののようだ)。後ろで、どうにか毒人形を連れて伏せこんだらしいエリーが、驚嘆とも諦観ともつかない眼差しで、幽香を見やっている。いや正確には例の壁がある辺りをだが。
やがて、その横に、柳の下の幽霊のような風体で、すーっと無傷の魅魔の姿が浮かび上がる。「ふーむ」と、壁、のようなものに手をやり、また波紋が広がるのを見る。

「何だこりゃ」
(結界)
「不愉快ね。あなた幽霊なんだから通り抜けくらいできるでしょ?」
「いや」

魅魔は簡潔に首をふった。

(論理結界。条件に当てはまる相手は絶対に通ることが出来ない……)
「論理結界? 条件に当てはまる相手は絶対に通ることができない」

アリスが言う(服をぱらぱらとはたきながらだが。無傷ではすまなかったようだが、幽香に非難の目を向けつつ、近寄ってくる)。「あら、無事だったの?」と、幽香がわざと言うのに、眉をひそめて「おかげさまで。転移が遅れたんでちょっと焦げたけど」と言いつつ、半眼にした目を戻す。

「ふぅん。つまりここからは行けないってことかい。何処か他の道を……」
「他の通路はございません。今しがたあなたがたの立つ一帯は次元封鎖を行わせていただきました。幽体の方は壁をすり抜けても結構ですが、なるべくおやめになったほうがいいでしょう、何処ともしれない異界に迷いたくなければ」

突如声が聞こえ、足音がしたので、見やると暗い廊下を、表情を消したような顔の娘が歩いてきていた。神綺の少し手前で止まると、丁重な所作で頭を下げる。

「お初にお目にかかります、魔界の偉大なる母君。エリスと申します」
「これは御丁寧に。あなたは? サリエルの所の子かしら?」
「はい」
「そう。リリサは無事かしら?」
「はい。ご案内いたしますのでこちらへどうぞ」
「それはかまわないのだけど、あれは?」

神綺は「あっ! あいつ誘拐犯!」だのと騒いでいる他の面々に目をやった。

「大変申し訳有りませんが、サリエル様は神綺様ひとりをお連れしろと仰せでございます。あちらの方々に関しては招かれざる客として対処致さねばなりませんし、そうサリエル様から言いつかっております」
「私のとこの友人と身内たちなのよ。容赦してはいただけませんの?」
「失礼ながら、今の神綺様とあの者たちに選択の余地はないものと思われます。ここで私を消しても結構ですが、あの次元封鎖の術そのものは私の力によるものではございませんので、どうなるか保証はいたしかねます」
「なるほど。黙ってついて来いと言うわけね」
「その通りでございます」

エリスは頭を下げた。秀麗な顔の線に引き締まった眉、結ばれた唇。一糸の乱れもない羽の生えた黒いシックな服は少女のものながら執事めいて見える。神綺はかるくため息をついた。こちらの怒りは感じとっている(壁の向こうで日傘を肩にかけている妖怪の剣呑な気配もだ)らしいが、小憎らしく表情ひとつ変えないでいる。この娘を始末しようと思えばできないことはない、次元封鎖の術も中の者たちが圧死させられる前に解くくらいなら可能だろう。ここで素直に一人で奥へ進むよりはよっぽど堅実な提案だ、彼女の大事な生き人形もサリエルをどうかすることで助け出すにはこの面子ならばやぶさかではないと思われる……面白みを感じたように神綺は笑った。それはさきほど空を見て微笑んだ幽香の表情に似ていた。

(私がここで奥に行けばあの子たちは殺される)

まず間違いない。その必要がそれほどないとしても、真相の一端を握っている者が生きているのは、それほどでないとしても、都合が悪い。なら殺すだろう。
「分かったわ」と神綺は言い、娘の案内に従った。あの子たちの、彼女の大事な生き人形の、それが自分にとってどれほどだというのだ。


行ってしまった。

蝙蝠羽と言ってもくるみも他者」の事は言えないが、その娘に連れられて三角帽子の女性は廊下の向こうの暗闇へと消えていった。後に残されたくるみは似たような境遇の歴々と雁首そろえてそれを見やっていたが、やがてはっとなった。

「あれ、なにこれ、やばくない?」

くるみはきょろきょろと見回した。といって何かあったわけでもない。

「見捨てられた? ひょっとして」
「でも神綺たんに対する人質みたいなもんじゃないのー? これって」

毒人形とやらが呑気に言う。魅魔が首をふってあごに手をやった。

「あの悪魔っ子の口ぶりだとこのまま始末するような感じだね。大将に対する人質ならあの孫娘ちゃんだけでいいし」
「てことはやっぱり見捨てられたってわけね」
「んだぁね」

傘を握って言う幽香に、ヘンな口調で魅魔が同意する。人形遣いの金髪娘はというと、書を胸に抱くようにして黙りこんでいる。

「いや、でも、いやフツーこういうのってアレじゃない、私達の実力を信頼してあえて置いていったとかそういう」
「うーん。どうかしらね、アリスちゃん、あんた抜け方とかわかる?」
「だれがちゃんよ。無理ね。論理結界は神の創造物だし、もっと高等な魔法使いならともかく私の力じゃ次元干渉に手を出すような知識は次元知性体間の約定で閲覧が許されていないわ。方法論を知る以前に知識が無いのよね」
「ふむふむ、なるほど、よくわからないけど、幽香ちゃんあんたはどうなんだい」
「ちゃん付けで呼ぶな。魔法のこととかよく知らないもの。もっと知っている誰かに聞けば?」
「よく知らないのに使ってんの?」
「そうよ」
「そこのくるみって子、あんたはどうなんだい?」
「は? 私? いや、私? 何で私?」
「ですよねぇ」
「ねぇ」

と、それまで黙っていたエリーが口を開いた。

「さっきから思ってたんだけど、何か変じゃない? 身体が重苦しいっていうか、なんか圧迫されてるっていうか」
「そういやそうだね。私もなんか足の辺りがピリピリしてきてるね。それになんかこう、だんだん周りが狭まってきてない?」
「空間が縮退してる?」



暗闇。

「ここからはお一人でお進みください」

と、言い残して、悪魔――エリスと名乗ったか、サリエルの直従にしては見たことのない顔だったが、そもそも神綺は自分とサリエルの間にそれほどの親しさがあるとも思っていなかった――の娘が言って、神綺をひとり残して元来た方へふっと姿を消した。幽香、アリスら残った面々を始末しに行ったのだろう。まあそれはどうでもいいとして、さてと、と、神綺は呟いた。

(一人で行きなさいって言われてもねえ)

三角帽子の下で白髪をこりこりやりながら(痒かったのだ)先の暗闇を見すえる。通路は広い。どうも先に通って来た所と趣きの違う感じが全体にあり、無骨で装飾のない古城といった体にここから先はなっている(とはいえ雰囲気自体は牢獄を思わせた)。さほど親しくないと先には言ったが、人物評という点から言えばサリエルらしい、と神綺に思わせる様な質素な佇まいだ。死の天使を冠し魔界に身を置きながら故き人々が想像したような白い翼のある女人の姿は良く言えば清廉にて楚々であり悪く言えば質実共に剛健で頭は鉄のように固そうだ。
面白みを感じたことを詫びつつ、よっといった風で神綺は魔人の杖を投げ捨てた。その指が宙をなで、音にならない言語を呟く。無音軌語。
次元と言う名の目に見える境界を定めた観点から見れば、自分より高度な段階にいる彼ら次元知性体が発する特殊な言語。第六感という想像でしか確認できない器官を含めたどこでもない場所から発するこの言葉は、次元知性体自身によって自動的に知識に錠がしてあるが、神綺は神であった頃の権利を濫用することで、彼らに苦い顔をされながらも(一介の魔法使いでしかない彼女がずるをしていることは承知している。だが融通の利かなさ故にこれを知りながら見逃すことしかできないのだ)知識を解き使用することを許可できる幾つもの無機質な軌道予測が神綺の目に見えた時には、同時に電球が目の前の暗がりに潜んでいた奇形の影を炸裂させ打ち砕いていた。
ぎょえぇぇえぇぇっ!!! と、およそこの世の者には不可能な悲鳴を上げて、隠れ身をしていた、巨大な腐った身体の蜥蜴がずだん!! すだん!! と、地団駄を踏んだ。死牢の番犬をしている屍の竜だ。すでに肉体としての死を与えられ天からも堕されているため竜族としての力は無い。ただこの程度ではさすがに死なず、通路(というより回廊だ。高い天井は竜の巨体をもってしても余りある)一杯に立ち塞がって、ぎろんと神綺をねめつけ、腐った猛毒の霧を吐き出してくる。神綺はすでに空間を断絶して後方に下がっていたが。

(剣と魔法(ダンジョン&ドラゴン)ね。低俗な趣味よね)



一方。

おや、とエリスは眉を上げた。とっくに存命していないと思った空間封鎖された一行が、何と全員まだ生きている。縮退する空間の中に、各々結界を張っているようだ。とはいえそろそろ酸素もないから(もっとも人外はそれくらいでは何てことはあるまい)しんどそうではあったが。
「あっあの誘拐犯!」「出しなさいよ! くっそ寒いのよ、ここ!」などとにぎやかし勢が騒いでくる。相手にする義務もないのだが、一応エリスは首をすくめて答えた。

「死んでいただきますと言ったでしょ。どの道大人しくしていれば素粒子レベルまで楽に分解できるのに」

言って片手に光球をつくる。赤ん坊の頭ほどの小さなものだが、空間を越えた場合反作用を生じさせて星一個を大きく削るほどの反応を生む。

「どの道長く生きてちゃうるさいだけだし、あなた達にはさっさと消えてもらうわ。さようなら」
「神綺様は?」

アリスという娘がぽつりという具合で問うてくる。エリスは表情を変えずに、しかし一礼はした。

「サリエル様の所へ。尤も下手を打つと途中に置いた下僕共に斃されるやもしれませんが、サリエル様はそれならそれで不都合はないと仰いました」
「何で私には態度が丁寧なの?」
「サリエル様がそう接せよと仰られたからです」
「若しかして私が命令をすればそれを聞く? お願いとか」
「お聞きします。でずがどちらの場合でも優先されるのはサリエル様のお言葉になるかと」
「さっき言っていたように始末しろって? それ私も含まれているの?」
「その通りでございます」

言うと、エリスは無造作に片手をぶんと振った。それだけで手の上にあった光球は急ぐ事もなく空間の壁あたりへ突き進み、そして全てを光に包んだ。あとは待つだけだ。反応が収まるのを待って封鎖を解けばよい。空間を弄りっぱなしにしておく事は、サリエルであってもそれを管理するものに睨まれてしまう。
反応が収まり、廊下だった所に虚無と幾つかの星が生まれていることを確認し、ちょっと待ってからエリスは封鎖を解いた。目の前に元通りの廊下が現れる。そこに立つ面々も。誰ひとり欠けずに。

(……、空間移乗?)

元通りの廊下がある次元に、別の次元を渡って飛び移る。そんな芸当が出来るのは魔界の神か、
エリスは心の中で笑った。おののきに目を見開き、狼狽した姿を見せながらも。全ては予定通り。この後に待ち受ける結末も。



「……そんな」

呆然と言いながら後退する娘をひるませ、アリスはしかしひどく億劫げに前に踏み出した。何をしようと思ったわけでは無い。いや、はっきりと言えば今、この時に、この身体では何もしたくなかった。人に言いようのない理由で、しかし秘密を持ち物事を一人俯瞰する事は快感を伴うことだ。だがアリスにとってはそのことは不愉快でしかないし、その裏にあり感情の元になる秘密、力、そう呼べるもの、それら自体がそもそも不快だった。

「どうして――」
「それで」

アリスは言った。口を開くのも気重そうに、沈鬱として。

「あなたは?」
「……」

娘、エリスは混乱した目を当惑の色に変えてアリスを見た。ガラス玉のような目だ。

「どうするの、サリエルの所に私達を連れていくのか、忠義を通してかかってくるのか、それとも恐れを為して賢明な判断をするのか。どうするの?」

アリスはため息混じりに言い、肩をすくめた。手の平を裏返すが、とくに意味のある動作でもない。他の面子より前に出ているのは、いまだに目を回して床に座りこんでいるのや、呆然として「え? え?」と声を上げているのや、なんだ一体という目で自分を見てくる悪霊や、なんなんだ一体といいう分けのわからない目をしているだろう妖怪の反応がうっとおしく、見ずにすませたいからだった。

「早く決めて欲しいんだけど」

アリスは続けて言った。娘はどれも選ばなかった。ただ突然両腕を下ろして微笑んだかと思うと、片手をこめかみに当てて(ピストルのように人差し指と親指を立てて見立てて)ドン、とそのまま右のこめかみを撃ち、ごとりと倒れこんだ。

(……)

しばし。
沈黙。


再び。

大きな力の出現を感じつつも無視しつつ(気にしたわけではない。戦闘の間鋭敏になった感覚に引っかかった。それだけだ)、何十体めかの下僕の葬られた巨体がズブズブと、こちらで喚び出した食獣人どものいる結界に沈んでいくのを横目に見つつ、神綺は歪んでしまった杖をちらと見て、同じ使い魔の領域につながる床のあたりに放り投げた。変化していた魔人は肉体が歪むまで酷使したことをぼやきつつ先程還って行ったところだ。もっとも彼らには肉体だの何だのという次元で話をすれば鼻で笑われるような認識だが。何処かに多数の肉体を保存して用途に応じて使い分けるばかりか何度倒しても蘇って来るように見えたり、少しありきたりな手であれば先程まで使役していた者はこちらに映し込んだ幻像を、強力なひとつの欺瞞によって実在するものとして支えている。魔人や神と呼ばれる者などそんなものだ。常識はない。

(まぁ、いくら忌んでいると言っても生きるか死ぬかになっちゃ、使うか。いや、彼女にとってあの彼女が死ぬことは、概ねの場合死ぬことは意味していない。固執する理由はない。力を忌む理由を押し潰してでもそうする理由は……ないかな? あるかな? 結果としてこうなっているのだから、たぶんあるのでしょうね。私にはどっちみち分からないことか)

さてと、と、一旦区切りを入れて、神綺は三角帽子を直して進み始めた。丸腰だが気にしない。どうせ何をどれだけ用意しようとサリエルには勝つことはできない。殺されるだろう。サリエルにもそれは分かっているはずだ。
ここまで手を込ませてわざわざ喚ぶ必要はない。いや、手を込ませる必要があるのは神綺にはすでに分かっていた。挑発しているのだ。

(問題は挑発しているからどうなのということね)

神綺は半分まぶたを落とした。視線を見上げる形にすると、目の前に現れた巨大な両開きの扉が目に入る。装飾も何もない黒い鋼鉄の扉。押し開ける。手で触れると簡単に開いていく。

(確かに腹に据えかねてはいる。でも、それが何? 私を怒らせるのが目的なら、……この先に待っていることは分かるけど)

神綺はごちて、目の前に広がる光景がその予想通りのものであることを確かめながら、だが、怪訝に首をかしげた。

「サリエル。何を考えているの?」
「何を、とは?」

サリエルは問い返してきた。神綺は――先にアリスが驚くエリスにしてみせたのとよく似た――ちょっと手の平を返して首をすくめた。

「質問に質問で返すなんて私はずいぶん嫌われたのね」
「元からですよ、神綺」
「そう。私にはどうもあなたが何を考えているのかわからないのよ。怒らせたいのかしら?」

神綺は言った。サリエルの左手の側を見ると、少し離れた形で――ここだけ部屋は広大だった。闇の深さで天井や向かいの壁もろくに見えないほどだ――立っている、若しくは立たされている(そんな不自然さが感じられた)リリサの半分閉じた夢見の双眸を見やり、きっかり三秒ほど見つめて、また視線をサリエルに戻した。

「怒らせる?」

サリエルは苛立たしく手を振った。仰々しいいつもの青い宝玉の杖を持っていない方の手で。

「怒るだと? あなたにそんな筋合いはないでしょう神綺。訳のわからない戯言で魔界を見限り転生までして野に下りるなど」
「魔界神の地位を捨てたわけではないわよ。というよりかその事はあなたにはもう言った事じゃないの? 私はいずれ戻ると」
「何が? それで何になるというのだ。魔界の事をオモチャや自分の持ち物としていることを、あなたのオチャらかしを私に許容しろと言うのかね」
「……?」

神綺は眉をひそめた。「サリエル?」と目で問う。だが彼女は聞いていないようだ。

(何を?)
「度し難い不貞だよ元魔界神・神綺。貴女がとんだ尻軽だった。これで魔界は永きにわたる歴史に幕を閉じかねないことになるだろう。だがそれももう大丈夫だ。魔界神となる者は存在が始まって以来そもそも「そう」である者でなくてはならない。貴女はそれを手放したい余り代替の生成をくり返していたようだがね、出来ないと悟った。だから捨てるのだ。だが私は拾う。それを拾う。汚れを落としてもう一度始めからやり直す。まずは清めの第一歩があなたの失格だ」
「サリエル……」
「なるべく穏便に済ませるよう手を少々こらして用意させてもらった。そこの生き人形が示す意味が分かるかね、神綺。理解したなら従って貰いたい」

サリエルは言った。神綺はなお疑問の色を瞳に混ぜていたが、やがてそれをふっと消し、閉じてまた開いた目を、その場に力で固定されているらしいリリサに向けた。そしてため息をつくように失笑をついた。

「何かな?」
「あら、言ってもいいの? 馬鹿馬鹿しいわね、サリエル。あなたの言っていることは分かったわ。勿論意味とやらも。……まぁ不可解な点はあるけれど。それはあなたに聞いてもきっと答えてはくれないでしょう」

神綺は唇に指を当てて、呑気に言った。

「だから今のあなたが求めている答えだけを言うわね。従えないわ。私にとって魔界は何にも代えないもの、そこにいるのが私の大事な人だろうとモノだろうと、世界だろうと、それが一体どれほどのことだと言うの? 私には茶番は必要ない。組織も同志も同属も必要ない。望めばいつでも手に入るものをどうして手に入れる必要があるの? それが神であるということ。八百万や一族に分散したおちぶれものなどとはそこが違う。私はわたしであり、唯一であり無二であるからこその私よ。私につながるものは私一つだけでいい」

神綺は言い終えて片目を閉じてみせた。
さようなら。

「そうか。ならば仕方ない」

サリエルはぐっと開いていた手を握った。リリサの身体が四散し、部品や組織片がいっしょくたになって落ちた。後には血のような赤い水たまりとガラクタが残った。サリエルは言った。

「今の貴方を屠る事なら」
「今のは失敗だったわね、サリエル。私は怒らないとは一言も言っていない」
「造作も無い事だ。人質などなくてもすぐに終わる」

サリエルは指を上げた。その爪の先が光り、パンと神綺の側頭からが大きく揺れた。ビチャリ、と、赤黒い液体を飛ばすと、神綺は残った方の目を驚きと絶望に染め、力を失った。どちゃ、と身体が泥人形のように倒れ投げ出された。
これでいい。
と、サリエルは見慣れないものを目にして手を止めた。いつのまにか、神綺の陰(倒れた死体の、ということだが)になるように、人が立っていた。老境に至った男のような細い人影で、フードとローブで隠れた口元から蒼白い髭が覗いて見える。そのひげがもごもごと動き、男が喋った。

「全く人使いの荒い娘だの……我等冥界の住人どもは掃除屋ではないぞ。そういうのは生きている人間の仕事だからして……」

サリエルは素早く呪文を紡ぎ、(勿論相手にはサリエルが腕を向けたことすら感知できていない。時を遡行して一瞬前からすでに動作を終えている)男に手のひらを向けた。「おっ」と案の定男はうろたえ、じゃら、と鎖に包まれた細い腕を身体の前にした。サリエルの力が弾かれる。勿論男の仕業ではない。

「ご足労感謝致しますわ冥獄の番殿」

口が言った。
それは口であった。何処の誰というわけではない、ただ空間にぽっかりと浮きあがっている。まるで手の込んだだまし絵でも見ているように、サリエルの力を弾いた細い、白い、桜色の爪をもった指先もまた同じように、空間に再生していく。

「おっかない女子よ。冥界にケンカ売る事もためらっておらんのか。正気とは思えんな」

汗をぬぐうようにして男が言う。そのあいだにも再生は進み――

「Eun ket Miersurhen!!」

サリエルは迷う事なく口走った。彼女自身を異次元に逃がし、その入れ替わりに何もかも光にする。エリスの事など頭になかった。そんな場合ではないのだ。灼熱する世界の残響を耳に引きつつ、彼女自身は異界で八ツの足を持ち頭部から白い翼を広げた血を滴らせる百足に変化している。八ツの足は元々そうであるのではなくすべて折り取られ、それしか残されていないのだが、ろくに動く事も出来ない足ですすり泣きながら動こうとしている。

(……)

何も考えずに待ち、念じる。やがて視界が巨大な鳥籠から真上に空が見える宙釣りの穴倉を引き裂き、裂いた所から元の、何一つとして変わらない光景が映し出された。いや、変わってはいる。おぼろげだった「彼女」の身体はその稜線が腰のくびれ、乳房、足先、白い太股、局部(内臓はもやがかかったようにだが見え、そしてすぐに白い眩い皮膚の色に覆い隠される)、全身を包む血脈の流れは心臓と共にすでに身体の形を完全に象っていた。

(……流された、か!)

魔界と地上を冥府ごと巻き込んで吹き飛ばす「起爆装置」だ。千年かけて空間全体に編み込み浸透させてきた。全てを零からやり直す、その手段の一つとして。そう、こうなることは分かっていた。分かっていたのだ。分かっていてなお戦く。

「……馬鹿な」



馬鹿な?

その言葉に違和感を持ちつつも神綺は再生を――顕現を遂げた神の目で自らの前に立つ慄いた娘の姿をした女人像の友人を見やった。滑稽を覚えた。それと同時に疑問も。こうなることはわかっていたはずなのだ。
横にいた冥卒が、さらさらと書き上げた洋皮紙を、インクが乾くのを待ってこちらに示した。

「これでお前さんは二億年ほどこちらに来る機会を失った。とは言え数々の次元と契約していることだから不便はないだろうがまあ万が一死んだ場合、死ぬ予定がある時は、そうじゃの。ちょうどあんたが居候しとったところにも地獄はあったか。其方に行っても良いがその場合神としての特権、縁は通用せんので心得られよ」

冥卒は言った。そして複数の次元に渡り有効な書式で示された書類を破り、二枚に破り取られたそれは、すぐに四散して一枚の半券となった。それも神綺が受け取るとすぐに消えていく。参照されるときの為に魂の一つに縫いこまれたのだ。
冥卒が姿をかすみのように消していく頃には、神綺はもうサリエルを見ていた。彼女は何もしていない。無防備に表情を強張らせている。

「……そんな馬鹿な」

サリエルは言った。神綺はちょっと肩をすくめた。すでに顕現した裸体は服を現し、馴染みのある赤い衣になっている。着心地に満足したように目を少し細めつつ、神綺は言った。片目を閉じる。呆れたときの癖だ。

「つまり説明するとね。私は今まで冥界に居て終の責め苦に囚われていたのよ。冥府との取り引きって物わかりがいいんだか、そうじゃないんだか分からなくって不便なのよね。とにかく役目を破るという最悪の罪の代償に私は自身の身体も魂も冥府に落とした。いずれ戻るという契約を結ぶ代替にね。尤も余りの責め苦に耐えかねて百年ほどで精神が堕ちちゃったみたいだけど。勿論こっちで何食わぬ顔して暮らす私には何の影響も無かったけど自分の軽々しい選択と後悔を怨みに変えて、夢を通じて送ってくることはあったわね。おかげでそういう日は寝覚めが悪かったけど」

まあ寝坊助気味なのは元からだが。サリエルの少し横の方で横たわる人形だったもののガラクタを見てくすりと微笑む。

「おかげでしばらくはバカンスも出来なくなってしまったわ。さて、お嬢さん。一体この落とし前をどうつけてもらおうかしら? お祈りは済ませた? がたがた震えて命乞いをする準備はOK? 傅くがいい、死の天使、死の天使。其の名を騙り仮初にも死を与え弄んだ罪は冥府には赦されない」

神綺は腕を上げけしかけるように手の平をかかげた。かかげただけだ。指先がまっすぐに彫刻のような青白い頬を照らし訴求する。

「こんな――」
「魔界の神を気取り矮小なる堕天使風情の名をいただく小悪魔が。逆鉤の創造主たるはこの私、私とは即ち神、神とは魔の反義にして対等たる者と知れ、六枚羽の故き神よ、其の名は聖霊の裏返しである。生きたまま剥がされた御遣いの皮を逆さに身につけ産声を上げた、天使とは御遣いでありまた聖霊である。主は作りたもうた、人と言う泥人形を、聖霊と云う光を、そして主を創造主とするならばこの身もまた造りたもたれた身に他ならず、」

神綺の背後に今しがた口にしたばかりの六枚の漆黒の羽根が音を立てて翻り、風を起こす。闇からぬるりと抜けだしたような色をして、羽根の欠片がばさりばさりと舞い立てる風などなくてももはや神綺は完全に世界を威圧していた。その存在そのもので。

「――破壊と殺戮は神と魔の間に生まれるものであり、魔そのものにはあらじ、汝に光あれ! そして汝に禍いよあれ。私が口にするは決して神を超えるものでなきことを知れ、光ありて闇もまたあり、闇敗れる時この世は光に還る、即ちそれは滅亡である、滅びである、全ての嘆きと絶望の唄は、歓喜と希望の唄に無理やりすり替えられ意味をなくすであろう、光在れ! 幸いよ在れ! 此を口にするは決して神のみにあらじ。汝もまた同じようにして滅ぶべし、貴方は私を怒らせたのだから、その怒りに見合う代償を差し出す羽目になった。怒りとは? 怒りとは、是即ち唄である。滅びである!」
「こんな――こんな!」

サリエルは砕けんばかりに杖を握りしめ、顔を白くしてわなないていた。その手が震えながら動き、両手でもう一方の手に握っていた杖を握りしめる。ぎしぃ、と杖が軋んだ。

「こんな、こんな、こんな、こんな、馬鹿なことがぁぁッ! あるはずなァァーーーーーいぃぃイ!!」

正に狂ったとしか言い様がない様を見せ、

(……何?)

神綺は訝った。それはサリエルの様子に何かあったわけでもない。思った瞬間から彼女の知覚で時はコマ送りのようになり、望むなら知覚する中で時を遡らせることさえ可能だった。
サリエルは両手に杖を握りしめ、渾身の光となって、宝玉を光らせて殴りかかってきた。
何の言いようもない。ただ殴りかかってきた。それはあり得ない事だった、彼女が本当に狂ったというのでなければ。

(何故……)

とはいえただ待っていられるわけでもなく、そう呟いたときには、神綺は手にした豪奢な杖を先にし、不可視の力を撓ませていた。この一撃でサリエルを塵に変える。でなければ神綺の身体とて小枝のように折られることだろう。虚勢の欺瞞によって強化された肉体はそれこそ魔界の神のように傷つかず、どんな呪呪法もこれをそよ風のように吹き抜けるが、サリエルほどの存在質量が虚言も欺瞞も捨ててかけられた重量はそれを覆して宇宙の一点に虚無さえ作るだろう。

「――」

滅びの言葉を口にした。はずだったが、次に神綺を通り抜けたのはずしりとした透明な何かだった。存在を圧縮して握りつぶされるような感覚を最後に感じて神綺は意識を途切らせた。ご苦労さん。そんな声が笑みを含んで聞こえた。


何が起こったのかは分からない。


とにかく神綺が蹴散らかした様の巨大な獣のようなものや、無数の鱗のある(魔界の凝灰岩ほども硬そうなそれは何の力によってか横断した大きな傷跡が大ざっぱに砕き剥がしている)恐竜のようなもの、それより小さな者らが死屍累々と道を作る大回廊を抜けた先、如何にもそれらしい擬飾を凝らした扉を踏み入ると、ちょうど神綺とサリエルが激突し、いずれかが果てんとする(と分かったのは激突「した」と思われる一瞬後だったが)その瞬間だった。何が起こったのかはよく分からない。気がつくと神綺とサリエルそのどちらともが倒れていた。「うわーー!! ぎゃーー!!」悲鳴が後方から聞こえ、(ずっと聞こえていたのだが)やがてズズゥン!! という耳慣れたすさまじい光と轟音に静められると、一拍おいて隣に追いついてきた幽香が並んで室内の様子を見た。とはいえ、アリスと違い、――いや、実はアリスも一瞬そちらに目を引かれたが、見なかったのだ――二つの人影から少し離れてぐしゃりとなった赤い液体のかたまりと、精巧な人間の手足を真似た部品とメイドの血でぐっしょりと濡れたヘッドドレスを見やって、すん、と鼻息のような溜息をひとつついた。それはアリスの神経を苛立たせる結果にしかならなかったが。

「おや? 大将まさか相討ちかい?」

やれやれという風でスゥ、と横に姿を現した魅魔に、アリスは沈黙を返した。

(違う)

直感はそう言っていたが、何が違う、ということは分からない。言いようのない違和感に、じっと室内を見やっていると、不意に胸にもぞりとした感触が沸いた。「ん?」と見下ろすと、どうやら胸に抱いていた魔道書が身じろぎしたようだった。そうしている内に、びくり、と何かに喚起されるように本が跳ね、「っ!!」と、あっと言う間にアリスの腕を撥ねつけて、ビュン、と飛んだ。飛んだ方向を見やると、神綺が身じろいで起き上がろうとしているのが見えた。魔道書はその神綺のそばに浮かび、彼女が起き上がるのを待って、その手にしっかりと収められた。

(何?)

神綺がこちらを向いて、髪をふわりと梳いて直しながら笑みを浮かべるのを、アリスは一歩下が――ろうとして、後ろにいた誰か、「いった」という声からメディスンだとわかった――にぶつかりながら、見やった。
警戒したわけではない。

「やぁ。ようこそ」

神綺が言った。神綺ではない誰かの声で。

「お師匠様。アリス。風見幽香。それと、まぁ後ろのはおまけみたいなものか」
「……。魔理沙?」
「魔理沙?」

魅魔が聞き返す声を聞きながら。
アリスは何を言ったのかもどうでもいい心地で何百年と昔に聞いていた名前を何故か口にしているのに、しばらく経ってから気が付いた。





「やぁ。お久」


「魔理沙?」
「まりさ?」

きょとんとしたようにメディスンら他の、おまけ、と言い放たれた面々が口にし、顔を見合わせる気配がした。なるほど、幽香や魅魔はともかくメディスンなどは覚えていないかもしれない。

「そ。魔理沙さんだよ。と言っても厳密に言うと私はお前たちの言う「魔理沙」じゃないけれどな」
「並行世界……」
「いや。違うね。でも惜しいな」
「じゃあ幽霊? そんなわけないか。本人の霊魂はとうにこの世に無くなっているもの」
「よく知っているな」
「あんたが……いえ、魔理沙が死んだと聞いた後に少しばかり聞いて回っただけよ。だってあなた死んでも悪さしそうだもの」
「ごもっともで」

神綺は――神綺の顔と姿をした魔理沙は悪戯っぽく片目を閉じた。

「その結果あなたの霊はとうに次の輪廻に放り込まれたってさ。魔法に手を出した罪もその他の功績が認められてチャラになったらしい。まぁとにかくあなたの霊がここにいるってことはあり得ないわね」
「そう。では問題だ。私はだーれ?」
「時空を越してきた多重存在……」
「外れだ」
「……」

アリスは半眼になった。久々に見る魔理沙、いや――。

「私達が知らず並行存在でも多重存在でもない。ならあなたはそういう魔理沙ね。なら逆に聞くけど、あなたは魔理沙という名の誰なの? 今自分の年齢が分かる?」
「ま、正解だな」

当てずっぽうで言った言葉が正解を言い渡された事で、アリスはすっと息をついた。どうでもい言葉遊びだ。軽く感じる両手を手持ち無沙汰にかるく肘を抱きしめるようにして持つ。

「そういう魔理沙さんは一体どこから来たの?」
「今からずっと過去だよ。年齢は忘れてしまったが。まぁ、ここでは私はサリエルという魔界の神としてずっと認識をされてきた。普通の人間が成り上がった結果がアレだから、必然存在。自然現象に近いな」
「循環理論?」
「当たり」
「ちょっと話が見えないんだけれどね」

「はい。何ですか? お師匠様。」と、魔理沙に言われ、お師匠ねぇ、という様に、魅魔が頬をかいた。

「あんたは魔理沙なのかい」
「そうですよ」
「あたしの知っている魔理沙?」
「それは違いますね」
「推測だけど」

アリスは言った。

「こいつは過去から今までずっと生き続けたままここにいるのよ。時間を越えたわけでもなく、時間の流れを一切逆らわず、流されるままここにいる。そしてどうやってだか知らないけれど、私らの中にはこいつとは別の魔理沙の記憶がある。でも、魔理沙はこいつよ。魔梨沙だか魔里沙だか魔理沙だか、霧雨魔理沙なんだか知らないけれど」
「何だいそりゃ」
「循環理論て言ってこの世界は何度も全く同じ過程、同じ進化をたどって一本の長い長い線の上を回っているボビンであるという話が思考の段階であるのよ。そのサイクルの中には宇宙の消滅から誕生なんてのも含まれていて、その上でやはり全く同じそっくりな過程を同じ時間をかけてくり返している。細かい名前や性別は変わるけれど全く同じ数値、全く同じ波形の上には私達がログのように刻まれ生きて死んでいる。その派生として生まれたのが並行世界の考え方だとも言われているわ」
「よく分からなかったけれどつまり今あたしらが見ているのは何なんだい」
「さぁ? 後は本人に聞けば答えるんじゃないのかしら」
「ふむ?」

魅魔が見た。
魔理沙はとくに得意がる様子もなく言ってきた。

「ま、おおむね正解だよ。ただし私はずっと循環の中を生きたわけじゃないけれど。時間を飛び越えたわけでもない。それだとお前たちが私とは別の魔理沙の記憶を持っている証明にはならないだろう。時間を加速させたのさ。そうすれば世界の循環の実証になる。その方が色々と都合がよかったし。だたしデメリットもあって、循環理論に沿うとどうでもいい規模でずれみたいなものが出る。その分は何度も同じ方法で、私の望む場面を握るまでくり返したがね。年齢も分からなくなるだろう?」
「まぁ理屈は分かった」
「分かったのかい、すごい頭いいね、あんた」
「正しくは分かる必要もないってところかしらね。誰がどういう理屈で何を実証しようと結局はそれによって思いついた理論通りにコトが運んでこうなったってだけで、ただの結果よ。この世界の真実……人間や私達魔法使いやあなたやそこのもの好き妖怪月のお姫様史上稀に見る存在であるちょっと変人の医者、薬師。そういう輩が夢に見たのは他人という意識とつながれないという壁を壊せない、夢想に生きる独裁者の描いた夢にすぎない。何をどれだけ実証したところで、どんな結果を生みだしたところで、そんな連中が頭の中でそう描いた妄想に過ぎないでしょう? だから何でもいいの。分かる必要もない。分かりたいという欲は存在してもね。そして今求められているのもそんな大げさな話じゃない。夢想に生きる独裁者の一人がもたらした世界の解よ」
「分かるんだか何なんだか」

魅魔が言った。アリスは置き去りにして魔理沙と名乗る神綺に水を向けた。魔理沙は手にしたアリスの本を開くでもなく持ったまま、ちょっと腕を開いた。

「私はある時のあるところで力を得る方法を手に入れた。種明かしすれば、それはかつて古道具屋とか霧雨魔法店と呼ばれていたところで、私はたかだか十数年生きたかそこらのがきんちょだった。ただ力を手に入れるのにはどん欲でそのためにはあらゆる努力を惜しまなかった。先に言った、力を得るある方法を知るまでは、だが。とにかくその方法を得たことによって私は私の考え得るあらゆる力を実現することが出来るようになった。時を止めたり空間を操ったりする方法を覚えたのもその頃だった。そして力を手に入れる方法とその実証を得た私はその帰結として当然望むものを持った。結果として今の時間を加速させるという方法をとって、何度も循環を透る中で、いつしかその死の天使と呼ばれるさっきまでの姿になった。そしてあるとき――今の循環のことだな。神綺と出会い、魔界を創造させるに至った。どうしても必要だったから」
「何が?」
「この本。そしてお前さ。今のお前と言うべきかな。知っているか? 元々お前と神綺のあいだには接点なんてなかったんだぜ。世界は一度作り直されて、あらゆるものが消えてまた生まれたが、それが今のお前のいる世界で、あらゆるものが消えた中にいたのが神綺やお師匠様だ。それもいつしか循環を繰り返し、混沌がよどむ中で、段々と結びついていったがね。薄々ヘンだと気付いてたんじゃないかな。神綺の記憶を持っていることや魔界の記憶を持っていることが」
「さぁ」
「お前には熱心なファンがいたっていうことだよ」
「ますますどうでもいい」

アリスは言った。

「それよりそろそろ本を返してくれないかしら?」
「駄目だよ。言っただろう、私にはこれが必要なんだって。それとお前がね。私がこの力を得るそもそものはじまりを言ってなかったな。私は他人から力を奪い取って自分のものにすることで自分を強く大きくさせる魔法を得たんだよ。お前を手始めとしてレイム、サクヤ、チルノ、ユウカ、カグヤ、エイリン、フランドール・スカーレット、パチュリー・ノーレッジ、ヤクモユカリ、シャメイマルアヤ、トヨサトミミノミコ、ヒジリビャクレン、モリヤスワコ、ヤサカカナコ、コチヤサナエ、コメイジコイシ、ホウジュウヌエ、レミリア・スカーレット、イブキスイカ――その数を上げてもきりが無いくらいの人や人妖や神や鬼、龍から力を奪い取った。殺したわけじゃないが、力を獲られた奴らはみんなガラス玉みたいなものになっちまったよ。ま、それはどうでもいいか。おっとついでに言っておくとパチュリーのやつも死んじゃいないぜ。今となっちゃあってもなくてもだが、結構力をつけていたんで獲らせてもらった。返そうか?」
「本を返しなさいよ」
「本は全部読んでからだが、ちゃんと返しておいたんだがね。元はと言えば私がこの方法を編み出し、見つけ出すきっかけとなったのはあいつの――私の知っているあいつの豊富な本のおかげに依るところが大きい。ちっとも感謝していないように見えても感謝していたのさ。全て奪い取ったあとで重大な過ちを感づかせてくれたのもあいつの本がきっかけだったからな。そこそこの力を得た代わりにちょっと暇な時間――なんせ一人だったからな。話し相手もいない。その間になんとはなしに私はパチュリーの残した書物を長い時間かけて読み漁りヒマつぶししていたわけだが、そこで一節の学術書とともに、ある世界を握る大いなる力の存在を見いだした。それさえ握ればその時の、今の、私の人間としての枠の、遥か幾星霜、幾次元、京、垓、穣、溝、正の時空の果ての那由他、阿僧祇の扉の幾筋もくぐった向こうにある世界の深淵を覗き、自身も深淵となれる。即ち創造の主。神。受肉する以前に存在し、世界の律そのものを作り、唯一律からはずれる不死。そして光。秘法すら沈黙する言葉でさえない光。○○○○○。『    』。究極の魔法。グリモワール」
「わけが分からない」
「これから分かるさ」

魔理沙は言った。ちょっと指を動かすと、本が形を変えるのが見えた。アリスは眉根を寄せた。一本の角笛がある。

「これが何だか分かるかい? 角笛だよ。七人の御遣いが七つの羊の雄叫びに応え、七つの裁きを齎す。こいつをひと吹きすればそれが齎される。私は今神になった。それがこの証だよ」


魔理沙は弄ぶように角笛を手に取った。

「前の私はお前がこれを持っている意味を知らずにガラス玉にしちまったからなぁ。思えば軽率だったが、まぁ若気の至りだな。後になってこの本こそ究極の魔法。転じて光を手にする法を記した道しるべ、鍵そのものにして、求められるものそのものであるとわかった。こいつはお前の存在が存在しつづける限り在り続ける仕組みで、お前にしか扱えない。お前がお前で無くなれば意味を失くす。しかも出現するのは気まぐれと狂気の確率の産物で、一度消えた後は何度やり直してもなかなか現れてくれなかった」
「一つ聞きたいのだけど、あんたが姿形を変形させるほど力を得るのは一つの世界全てを吸い尽くしても無理ね。あんたの理論だと全ては律の中にあって律を超えはしないもの。それを越えるのにあんたは一体やり直す間にどれだけ力を吸い尽くしたの」
「さ、ね。忘れちまった。今までに食べたパンの数は覚えているんだけれど」
『取りあえず本は返しなさいね』

魔理沙が一瞬たりと、ギョッとするのが見えたのが何とも心地よかった。その手から角笛がパッと抜きとられ、小走りに走ってくる背の小さな人影に持っていかれる。アリスは――いや。アリスとなっていたそれに本を手渡し、アリスは幾分も小さくなった姿を魔理沙に向けた。
二人のアリス。大きい方と小さい方――子供っぽい服に顔立ちと緋色のリボンだけが完ぺきで、金色の髪を少し短く垂らした少女――の。魔理沙が後ろで仰天した(それほど顔には露わにしていなかったが)魅魔とおやおやという意味深な目で見る幽香。分かっていない様子のこの子誰だろう、というメディスンの視線。後ろにいるその他大勢の目を承知しながら、アリスは大きい方の口で喋った。

「返せって何度も言ったでしょう」
「これは私のものよ」

アリスは自分の口でも言った。魔理沙は漸く何が起きているか悟ったようだ。

「エリスを倒してきたのはそう言う事か。参ったな。お前本当に人間じゃないんじゃないか」
「はじめから人間だと言った覚えは一度もない」



「で、どうするの」


幽香が言った。

「観念するの? 小芝居は終わったみたいだし、色々話を聞くに如何やらあなたは痛い目見せる必要が有りそうだし。個人的に」
「ん?」

魔理沙はきょとんとして言った。続けて幽香が言う。

「この世界がうまいこと行かなかったらまーた私たちをそのガラス玉に変えるやら何やらして次に行くつもりだったんでしょ? そう言う序でのようにって扱い私嫌いなのよねこのマヌケ」
「間抜け?」

魔理沙はちょっと眉根を寄せた。訝しんで言う。

「何言ってんだ。間抜けは私じゃなくて、お前たちだろう?」
「う~ん?」
「まったく私としたことが教え方が間違っていたね。いや、待てよ。たかが人間の小娘がここまで成り上がったのは師としては誇るべきか。良くやったわね魔理沙」
「あんた退いてなさいよ」
「幽香ちゃんたち魔理沙とやり合うの? がんばってね。それじゃあ私はこれで」
「毒人形ちゃん帰るの?」
「いや、私は幽香ちゃんみたいにケンカ早くないもの。平和が一番。平和イコール毒殺。毒殺に勝る平穏で植物の様に静かなものは無いってね」
「本当に植物の様に静かになるって意味じゃないでしょう、それ……まぁ平穏ではあるんだろうけれど」
「はいはい。戦わない人は下がって下がって。焼け焦げても知らないわよ」

エリーが言う。手を叩くと慌てて下がるオレンジとのったりちらちら幽香を見ているくるみと一緒に引き下がる。帰ると言ったメディスンはそれらのさらに後ろに下がって様子を見ている。やっぱり観覧して行く事にしたのだろう。頭の後ろで手など組んでぶらぶら立っている。魔理沙がそれらを見て首を傾げた。

「何をするつもりだよ?」
「さぁ? そこのアリス……どっちがどっちだか知らないけど。に聞いてみたら?」
「リリサを早いとこ直してあげないと。それと神綺さまにも戻って貰わないとね。まっ本人は嫌がるだろうけれど、どうしようもないのは分かっているはずだから」
「何だよ、戦うつもりか? 私と」
「どっからその台詞が出てくるのよ。何で神綺さまの身体を乗っ取ったか知らないけれど――」
「だからさ。お前達は間抜けだって言ったんだよ。私の策に嵌まって此処まで来ておいて、薄々勘付いているのは、この魔界のママさん一人くらいだ。ま~あ? 其処が幻想郷の特徴ではあるのかな~。呑気なんだよな。私は事此処に来る迄、ほとんど何もしていない。確かにアリスの非人間ぶりは予想していなかったけど、これも混沌の仕様によるイレギュラーってやつだな。思えば私がこうなったのもこうして居るのもイレギュラーの一つなんだろう。私の力はたかだか魔界神をかるく上回ったくらいで、律の外に出れるなんて器は全然無い。これもこうなる事も律の一つ。背反的肯定展開ってやつだな」

アリスは訝しんだ。次に吹っ飛ばされた。何が起こった、と聞くあいだ、衝撃で一瞬意識が奪われたのに気付く。魔理沙の――いや神綺のにやけ面にムッとしながら腕を起こそうとすると、鉛筆が圧し折れるように、軽い反動と共に腕が拉げた。ぐぁっ、と、声のない呻きとともに口を開く。アリス・マーガトロイドの自分に目を向けるのが、目を向けた自分自身から伝わり、そのアリスの目から見た大きな身体の惨状と、同時に全身から走り、逆に身体の何処が痛いのかも分からない苦痛に、思わず唯一無事に付いている右腕の、ぐしゃぐしゃにひしゃげて指もこぼれ落ちかけた手でべたべたと胸に血の跡をつくる。切れた口から目茶目茶に血が吹き出し内腑から思わず目を覆わんばかりにごぼりと沸いた血流がそれと混ざり、ぶちゃっ! と圧迫された眼球の半分をつぶし、血を吹き出させた。そこで初めてアリス・マーガトロイドは肘だけで身体を起こしたままボシャッと吐血し、バケツをぶちまけたような血溜まりを零し広げた。これは? 馬鹿な。そんな? 違う。違わない。
天井に貼りついていた何かがどちゃりと落下する。死んだように両目をかっと見開き、肘から先のない右腕を広げた幽香だ。生きてはいるが死んでいる。

「済まないなお師匠様、あんた達」

近くに落ちていた千切れた誰かの肢を蹴っ飛ばして(血まみれで大きさから幽香かアリスのものか)かるく退かし、魔理沙が言う。

「魔理沙、強くなっちゃったのよ」

キャァァァッ!! と、後ろからホールを飛び回るような悲鳴が上がる。ごちゃっ、ぶしゃっ!!! パァァァッ……と、血飛沫の舞う音と何かが齧られる音。……骨や部品のくだかれるゴリッとした音。血まみれのアリスの目で漸く見やると(また蹂躙の力が吹き、「アリス」の身体が仰向けになって魔理沙を視界から外す位置に頭がきたため、見えた。鼻からその穴から破れた胃から、ちぎれ飛んだ手足に反応してポンプのように漏れ出る鉄の味と胃液の味が最悪の不味みを醸し出している)突如背後に現れた、回廊を完全にぎゅうぎゅう詰めにする牙と目と口の化物が、その人間めいた口で咥えたものをべっしゃりと壁に叩きつけている。エリーのようだ。化物の体は本当に巨大で夢想じみており、その体の足? のような部分の下に血溜まりが広がり、捻じれたメディスンの頭が、此方に目だけを向けている。

(幻覚……) 

とも思えるほど迅速な殺りくに歩いてきた歩音に「邪魔だよ、ほら」と、ぽん、と軽く蹴飛ばされて(実際は骨が粉々になる程度に、だが魔理沙には感覚としてはそんなものだっただろう)、アリスの身体は遠くへ転がされ床に叩きつけられ、また血を撒き散らした。もう死を待つような暇しかない。何だろうこれはと問うて漸く気付く。魔理沙のことを少しかん違いしていた事を。少なくともけたが違う。離れて倒れる形となったアリス・マーガトロイドの身体の下から、魔理沙が書を拾い上げ、それにわずかながら彼女が抵抗の姿勢を見せるのを、掴んだ指を圧し折ってもぎ取り引き離すのを見ながら呟く。少なくともこの場で魔理沙を如何こう出来る者は居ないのだ。魅魔の姿は向こうの暗がりに倒れており、此方は幽体の下半身がちぎれて消えさり、仰向いた魅魔は血を零しつづけるままぴくりとも動かない。間に転がった三角帽子が何かの冗談のようだった。あれは。言葉が反すうする。さっき聞こえた最初の悲鳴は一瞬で殺されたエリーのものではなく、くるみというのとオレンジというの、そのどちらかのものだ。或いはそのどちらもか。あれは、
私のものだ。
鋼のように。
魔理沙が本を抱え、その封を破ろうとするのが見える。否だ。見えたのではない。自分が望んだと同時に全ての現象が時を遅くする。巻き紐でも引っ張るように、風船がしぼみながら空へ飛ぶように。何も見えない。噴出するのだ。空気の様に。螺子を巻き切った人形のように。身体が、頭が。全ては動き出す。闇につぶされるようにぶちぶちと視界が潰れて。そして時は動き出す。痛みすら伴わない血管の取り返しのつかない千切れが連なって。目も見えなくなって。開いているのに見えなくなって。
止まった。音も立てずに。懐中時計が息を吹き返すように。


あれは。

私の物だ。
私の物だ。
アリス・マーガトロイドは思った。その絆は焼いた鋼に鎚を突き立てるが如く、硬かった。ガキン。
私のものだ。
ガキン。鋼を打つ。
ふいごが音を立てて新鮮な息を送り込み。
炎の中で息をする。燃え盛り、全てを喰っていく炎の中で、息をする。そこでは末期の息さえ溶かされる。そんな感覚の中産声を上げる。立ち上がる。意識はいまだ身体を炎の中に放らせ、燃えさかる高熱の演舞と共に吹き上げる炭石の塊どもとともに、鉄でも燃料でもない身体を燃え燻らせる。焦い。ガァン。ガァン。鋼が打たれる度、ふいごが吹かれて一層強く燃えさかるたび。この意思も形づくられる。
あれは。

「私の……も、の、……ぁ」

ぐじゃぐじゃと口を鉛のようにする感覚が好ましい。炎だ。自分は炎の中、燃えさかり息もつけないかまどにいる魔女だ。でなければアリス・マーガトロイドという人形遣いだ。バチンと火花が爆ぜるように意識が眩む。私は、微笑った。

「く、お、ぅ……」

どしゃどしゃと注がれる火で出来た泥流に雪がれ、口にする言葉が一斉四散にばらけ散る。アリス・マーガトロイド。
アリスは立ち上がっていた。骨だけになった足首のない足を突き、指が何本が吹っ飛んだ足を支え。

(こう、なる、と、まるで、人形、の、よ、う、じゃ、な、い……、?)

皮肉に微笑む。気配を察したのか、神綺が、魔理沙が此方を見た。

(い、や、違、う……)

アリスは思った。あれはやはり神綺だ。魔理沙などではない。

(私の、たったひとりの、……)

小憎らしくて、賢しくて、強情で、薄情で、手のつけられないほど愛しい、

(おともだち……)

アリスは目覚めた。音を立てて。



「……何だい? まだやるのかよ」
「魔理沙」
「ん?」

魔理沙が言う。だが、アリスはそこで一旦言う事を変えた。

「どうして、後ろに居た子達迄殺したのかしら?」
「とくに理由は無いけど。まぁ、そうだな。言っちゃなんだがものの序でだよ。お前だったら分かると思うんだけど。自分の力を実感しつつ誇示したいってこの微妙な感覚をさ」
「その本は私のよ。返してくれる?」
「またそれか? まぁさっき迄はお前のものだったけど今は私のだ。安心しろ、ちょっと借りるだけだよ」
「死ねば返すって?」
「あぁ。私は約束は守るからな。守ったろう?」
「じゃあ」

ガツン!! と身体が跳ねた。後ろに飛ばされ――たのは分からなかった。知覚が拒否した。だが望む一瞬だけは見えた。彼女の本来の力がまだ残っていた為だ。神綺が手をさしのべるような動作でこちらに手首を見せた瞬間、その動脈のあたりが緻密な構成を描いたと思ったら灯の速さで、針の様な神越とした力の塊が放たれぷっと突き刺さったかと思うと、全身の毛細に至るまで管という管を力が跳ね回りながら伝い、知覚出来ない迅さでランダムな出口から突き抜けたのを。生じた内圧だけで身体が血を撒きながら飛んだのを。ダン!! と床に打たれた背中の重みがまた意識と身体をかまどの中に鉄棒で押し戻すのを。今度こそ如何やっても立てなくなったのを。

「せいぜい死なないようにそこで」
「死ねばいいんじゃないの?」

少なからず魔理沙の意識が(横目でチラリと。身体自体はそれ以外いささかも向いていない)向くのを悦に思いつつ、アリスははっきり口にした。もう声も出ない唇ではっきりと。淡白に。ばぐっ!! と、身体が割れる。魔理沙の力。神綺の力。皆此れにやられたか、似たものだろう。だが今度のは無意味だった。無効だった。割れたのは、ちょうどアリスの背後でまた屍肉を喰っていたあの巨大な怪獣だ。怪獣と呼ぶのもおこがましいあの醜肉の塊、夢現のスープの奥から汁を垂らして抜け出た怪物だ。アリスは笑った。空の体を貫通した力。大穴の空いた腹がじゅるじゅると沸きあがり、捻じれた唇を、半分剥げた顔を、金色の髪を掃き戻す。頃合は満ちた。誓いはもう私を縛らない。言っただろう、それは私の本だと。

(最初から、大人しく差し出しておけば)

ぱきゅっと今度は大きめの力が通過し、再生した頭を三分の二くらいは吹き飛ばした。だがもう治まらない。ぽこりと沸いた剥き出しの眼球を魔理沙に向け、今の光を防いだ指を下ろす。

「此れまでね、魔理沙」
(此れまでね、神綺)

わたしのたったひとりのおともだち。
わたしのたったひとりのおともだち。
魔理沙は少なからず身構えたようだった。勘を取り戻した鋭い目で、今度は幾らかの言葉を必要とする巨大な構成を一瞬で広大な大回廊、見上げる天井、怪物の(まだ生きているようだが)倒れる先にまでびっしりと書き込まれた血文字と黒インク、白墨の書き殴りで引き起こす。ばっと、それが発動する瞬間を狙って、アリスは掌を上に掲げた。

「月の銀嶺よ闇き泉の淵に蒔かれた血色の種子!!」

ブワッと何かが広がりおあきん、と収束して放たれた。反呪決唱。一斉にガラスの割れる音で砕けた文字列、故い空間が微細な雨をなってたちまちに突き刺さり視界を埋める。別に呪文が決まっているわけではないが、強力な位の言葉で放たれた呪法は幻術を確定す。己に関わる言葉。属性や力を象った象形機語。言葉の先幻の硝子の雨が降り注いだ先、その中を二次元に逃げ込みながら、一瞬で魔理沙が後ろに回り、何か大型の刃物――鎌か何かだ――を構え、振り下ろしている。次元三層ほどかるく両断出来る刃を前に革のベルトを手から飛び出させ、アリスはその刃をがっちりと受けた――幻像。
ばばばば、と、無尽の洋皮紙を幾重にも手から溢れさせ、ばっとアリスは指先を、魔理沙が――本当の魔理沙が振り下ろした刃に向けた。本当はアリスの死角、頭頂を狙ったものだ。鎌の刃はアリスに触れるより寸断遅く、びっちりと文字の書き込まれた洋皮紙に包まれ、さらにそれは膨らんで膨らんで――
ついにばさばさと洋皮紙が舞い落ちる頃にはそこに何も残していなかった。宛ら手品のように。魔理沙は次の手を打たずに一旦引いた。
余裕が揺らがないのは間違いない。だがアリスの得体の知れなさに一旦引いたのだろう。

「……お前、何者だい?」
「あんたこそ何者? と、自分自身に問うてみなさい」

アリスは言った。いつの間にか自分の手に戻った本を手にして(それを見ても魔理沙はもう微塵も動揺していなかったが)。そして不意に表情を皮肉に和らげる。

「ねぇ、魔理沙」
「何だね?」
「三下」

アリスは言った。魔理沙は反応しない。アリスは続けた。背中にばさり、ばさり、と幻聴の羽音がするのを、またそれを魔理沙が聴きつけているのを確かめて、言う。

「この三下女。あんたには何も分かっていないのね。借りものの力でいい気になって、無垢な時間を無用に過ごして無駄な犠牲を出しても、やっぱり何も分からなかったのね」

バサッと、赤い翼と黒い翼が大きく舞う。この天井を覆うほど巨大な。
そしてアリスの両翼となっていたそれはずるんと剥がれ落ちて嵐のように風を巻き、二つの巨大な人影となった。
一人は赤い帽子に赤いコサージュ、赤いドレスに赤い手袋。口紅も目に刺さるほどの真紅で目から上は帽子から下がる布に覆われて見えない白い肌の貴婦人。その姿は見上げるほど巨大で、背中にドレスと同じ色の翼をはためかせ、長い長いスカートをはしを持って上げ、嵐の中を立っている。もう一人現れたのは黒い山高帽に黒いタキシード、黒いネクタイ、黒い口髭。黒い手袋をはめた手に盛装用の黒い木のように見えるステッキを持ち、浅黒い肌によく手入れされた顎の形を反らしながら、背中にその体躯よりさらに巨大な黒い両翼をはためかせ、風に立っている。二人に守られるようにして少女は立っていた。赤い悪魔、黒い悪魔に。

「何が分からなかったって?」
「いいからお聞き。力とはね。努力で手に入れるものではない。確定し、保証され、未来に向かい、時を繋げる者達が持つ。ある日突然発現するのでもない、他人から奪うのでもない。そこに起こる事が決まっている自然の現象、其れこそが力。其処には努力さえ必要は無い。鍛練も思索も努力ではなく、鍛練も思索も力の前には確定する。力!! 其れは、生まれ持つもの。培養槽で育てられた赤子に知識と経験と努力を注ぎ込み育てる事は力では無く、胎内から生まれた赤子が或る日自らの力で何かに縋って立ち上がるのは力であり、自らの限界は最初から無く。力有る者は最初から限界を知る。為れば無限は力ではなく。為れば力とは流れである!!!」
「才能のない奴は天才には勝てないって?」
「馬鹿ね。私はあなたに何か言いたいわけではない。あなたは限界を知らなかった。あなたは勝ち負けを知っていた。あなたは自分の力で何かに縋って立ち上がる赤ん坊を弱き者として見ていた。あなたは弱き者を排除し殺せる事を知っていた。あなたは強者が強いことを知っていた。彼らが見せる涙が脆い事を知っていた。慰めることを知っていた。凡人だった。ただの人間だった。そしてその事にだけ、ただその事にだけ気付かなかった。いいかしら魔理沙。天才とは誰にも勝てず、誰にも負けない。誰にも慰めず、誰にも脆さを見ない。誰を殺せる事も知らない。自分より弱き者が居るとは思わない。あなたは間違ったのではない。頂点に立つのは常に一人。其れが分からなかった為に今は三下に成り下がった。其れはあなたが凡人ではなく努力家でもなく、ただの三下であった事を表している。如実に。だから三下って言ったのよ。お分かり」
「お前が嫌なやつだっていうのは十分に分かったよ」
「あんたなんかもう友達じゃない。さようなら私のたった一人のお友達。いいえ、貴方の事じゃないわ。哀れすぎて笑えないわね? 私にはもう何も必要ない。あなたを消し去る時はきっと、……。別の処で暴れなさい。それこそが私の希望。あなたなんかもう知らないわ――」

言霊に乗せて魔法陣を展開していく。平凡な歌の歌詞に乗せられたそれに魔理沙はひとつ気付くのを遅らせたらしい。だが構成するものは鋭く、抑えるものなく解き放たれれば世界を終わらす事くらいはできるだろう。

「今はただ消えてくれればいい。今はただ消えてくれればいい。今はただ――くれれば――」

「――い」と、最後の言葉を口にすると同時、床はめくれ上がり、壁は浸透されてガリガリガリと直接文字が彫られ、空間をつつむ巨大な構成と構成が真正面からぶつかり合い噛み合う。歯車をぎりぎりと止めるように。長いスカートが閃き、赤と赤の瞳が同時に互いの破滅を見た。そう思う。
次に。


外界。

現代。ようやく来た蓮子にニ、三言言って言われて、メリーはようやく事の本題である写真を見せた。写真は封筒に入っていた。これでメリーが男と仲むつまじく写っている姿を見たら蓮子もその場で飲み物をひっくり返して(ついでに用意されたパフェもメリーのお気に入りの帽子にジャストミートさせるつもりだ)ずっこけただろうが、「開いていいの?」と、了解を得てからブラックフィルムを剥がすと、表れたのは変てこな空間だった。
とりあえず聞く。

「何? これ」
「何に見える? とりあえず」

蓮子はしばし考え込んだ。やがて言う。

「人類は十進法を採用しました」
「わからないから」
「聖者は十字架に」
「もー」
「御免。わからないわ。これは?」
「んー……」

メリーはしばし考えた。そして言う。

「人間が本気で観測しようとしたことのないものって世の中にどのくらいあると思う?」
「そんな漠然としたこと聞かれてもねぇ」
「結果としてどういうことになったにせよ、そんなものないって思わない?」
「かもねー。生きている人間の頭を開けば大体の事はかたがつきそうではあるけれど」
「幽霊も怪奇も祟りも突き詰めればみんな医学と心理学の分野だもんねぇ」
「まぁそこを証明しておばけや妖怪が生物学的に観測できるものだってことをつきとめるのが私達の活動ってことだったと思うけれど、どうしたの? 何か悩みでもあるの? 熱とか。頭?」
「はい減点。ここおごり」
「そんな手の平なんて差し出されてもねぇ。はいターッチ!」

手の平を高々と上げたのだが、メリーは自然な仕草で手を下げ代わりに無言でこっちの爪先を踏んできた。痛くない程度だが。

「ちょっとやめなさいよ。これお気に入り」
「三日前に買い替えたって言ったじゃない」
「とまれ。だからこれは何なの?」
「今世界中で最も人気のある故人の幽霊だって」
「マイケ○・J?」
「そこはスティーヴ○ー・Wでしょ?」
「色々敵に回しそうな会話は止めましょ。それで、はい! 正解は?」
「加○雄三」
「なぁるほど~。確かにこのネックの持ち方は――いや、そういうのはいいから、正解は?」
「正解は言ってもいいけど、その前にちょっとその写真を見て。とくにその中央に立っているっていうか……人影に見えるものをよ」
「は~? ん?」
「いーから」
「もう見たわよ」
「それで? どうだった?」
「何よ急に食いついて……。さてはあなた私に隠れて重大なことをしようとしているわね。あ~っ。あ~っ。どっしよっかな~。何か言う気がな~っ」
「あ。すみません、注文お願いします。えぇ。この当店自慢のチーズケーキ白玉ミックス桜スペシャル。こちらにひとつ」

かしこまりました、と言ってボブショート気味の結構めずらしい銀髪地毛の小柄な少女が下がっていく。メリーは何気ない様子ですーと持ち上げた紅茶を啜った。

「えーとですね。この写真に写っているものの座標は――」



全てが消滅した。

そう思ったときには、アリスは何処かの草原に降り立っていた。
何が起こったのだろう。そう思うだけの心のゆとりが、いや、ゆとりという意味で言うならば、何を考えないでいるゆとりこそが無かった。何が起こったのだろう、何が起こったのだろう、何が起こったのだろう、何が。向こうを見ると神綺の尾っぽがちょんと飛び出たような頭が見えた。何も何もない。指先を下げて、ざくざくと背の短い草原を(虫の潜んでいそうな、それも日当たりの悪くじめじめとした地面の草原だ)掻きわけて神綺の方へ進む。如何やら山陰らしい。無縁塚の一つかとも思ったが辺りには獣道さえ無くただただ蚊と飛蝗とコバエと、あと正体も不確定な羽虫の群雲煙が立っているような所で、近くには老いた低木が一本あるきりで妖怪の気配すらない。夕暮れ気味の匂い風が虫の音を回遊させざわざわと、逢魔が刻を告げかけている。
漸く神綺の元へ行って彼女がその間ぴくりとも動かない理由を、アリスは見て知った。神綺は立ったまま何かをやりかけた(構成を編もうとしたまま、という事だろうが、まあ)体勢でこっくりこっくり舟を漕いでいた。寝ている。アリスがべしんと頭を叩くと、はっと、神綺はあっさり起きた。

「んごん?」

神綺は叩かれた頭を摩りつつ、辺りを見回した。次第に目の光がはっきりするが、状況を把握したようにはとても見えなかった。

「し、――うほん。お早う。神綺さま?」

アリスは言いかけた言葉を呑み込み、神綺がのろのろ立ち上がるのを(叩いたら器用に両膝をついて尻もちをついたのだ。それで何となくアリスは神綺だなこれと察したが)見た。

「気分は? 具合悪かったりはしない?」
「ああ。アリスちゃんお早う。さっき私の頭叩かなかった? 平手で」
「私が神綺さまにそんなことするはずないでしょう」
「それもそうねぇ。あら、ここどこ? 本当」
「私も……」

アリスは眉根を寄せて否定した。その時視界の端にかさこそと草むらを這って行く金色の頭が見えた。逃げているようだ。取りあえず捕まえてみる。

「おっと」

魔理沙は言った。何故か幽体だったが。俗に言う亡霊と言うやつだ。悪霊かもしれないが。

「何よこれは?」
「いや。さあ?」

魔理沙は首を傾げた。彼女はあのトレードマークのような馬鹿でかい帽子こそないが、確かに生前アリスが見知っていた、それも老境や大人ではなくあのちっこい魔理沙そのままの姿だった。服まで同じだ。尤も亡霊は服を着ているわけではない。

(まったくそのまんまか)

知らない魔理沙である事を忘れがちになっていると、草むらがガサッと動いて、いきなり起き上がったのはくるみとかいう吸血鬼だった。五体無事で血もついていないが、亡霊というわけでもないらしかった。再生したのか? 見ているとくるみがん? と下を見て、「ちょっと。オレンジ」と誰かをゆすって起こしている。続いてガサリと起き上がったのは言うとおり、あのオレンジとかいう妖怪だった。こちらも五体無事で、寝ぼけた様子でいる。「あれ、ここどこ?」「知らない。ていうか何であんた私の下で寝てるのよ。私の下で寝ていいのはいつか私にデレてSMもアリねってなった幽香さまだけよ」と会話を交わす化物どもに気を取られている内に、そこらの草原から次々と起き上がった。メディスン、幽香、エリー、……魅魔。
そして見慣れた青い肌の人物も起き上がった。サリエル。ちょっと見ただけの自殺娘の姿も見えた。確か、エリス。

「うぅん?」

だが最も驚いたのは続いて夢子が起き上がった事だ。最後に見たまま、今は神綺とお揃いになった赤い衣を着ている。更によく見渡せばあちこちから起き上がる者たちがあった。警官。事務員。露天商。会社員。ツナギ姿の工員らしい人物。まるでタイミングを計っていたかのように皆目覚めた様子で起き上がる。その様子は十や二十、三十や四十、いや五十や百……。
どんどん増えていく、終わりの見えない人の姿に、アリスは軽く目眩を感じつつ、今目の前に鏡が無いことを取りあえずは感謝した。少なくとも隣にいる神綺には見せられない顔をしているに違いないからだった。
人波はざっと見渡して三百は越えようかという数にはなっていた。ゆっくりと日が沈んでいく。黄昏に途方に暮れた夜の住人達の長い影を引いて。


翌朝。


「考えられることは」

神綺が言った。魔界の主立った面々やアリス、それに野次馬の魅魔(幽香は使用人の娘たちを連れてさっさと館へ引き上げてしまった。疲れたから暫く寝るとの事だ。この事態に何ら興味を示していないのはらしいと言えばらしいが)とメディスンもついでにだ。それに複雑な顔のサリエルと、毒気のちょっと抜けた様子のエリスという娘(彼女はサリエルの氏素性いざ知らず側近としてつき従っていたこともあって危険人物呼ばわりされた)、それから夢子(今最も深刻な立場にいる人物と言えたが)が難しい顔で下を見て黙ったまま神綺の話を聞いていた。(アリスが居るためだろう。アリスも似たような様子で夢子が視界に入らないようにはしている)

「魔界が、消えたって所かしら」
「消えた?」
「どういうことよ?」

夢子とサリエルが言う。神綺は片手をふって素っ気なさげに応じた。

「分かっている中で確実なのはそれだけって事よ。他に重要な事は有るけれど、まずそれって事でもある。魔界は消えたのよ。この世界の何処にも、というか――探知できる範囲での世界中にはどこにもないわ。失くなっちゃったの。如何しても納得できない人やいや、若しかしたらって人は行けるかどうか――帰れるか如何か試してみてもいいわよ。若しかすると空間の隙間とかに挟まっちゃったりするかもだけれど……」
「いえ、あなたが言うなら疑っても仕方がないでしょう。それにしても……消えたとは、また」
「現在判明している事実を上げますと此処は私たちが暮らす幻想郷という、広大な敷地を持つ結界の中の世界です。私たちが居るのはその端っこ。名付けたものが博麗大結界と呼ばわっている、現世とこの地を隔て、覆い隠す結界の北北西のぎりぎりの辺り。丁度名付けも何も無い山地の陰の草原ですね。転移……と仮に呼びますが、此処に姿を現した者達は現在約二千名。道具が無かったため四方に簡易的な結界を設けましたが、このままでは管理者たちが何らかの動きを見せるでしょう。私の友人で同じくこの地に長く根を下ろしたパチュリー・ノーレッジという魔法使いがいますが、彼女に伝手を頼んで心当たりへ交渉に行ってもらいました。間もなく仲介が得られると思いますが」

あの後ちゃっかりパチュリーの無事も確認され、アリスは先に述べたようなことを頼み、彼女に任せた。知識優先の傾向のある彼女だが実務的な事は寧ろ押しが強く、寡黙で簡潔に事実を伝え、仲立ちをすることには向いている。……向いているかは兎も角として他にどう頼りようもないというのはあった。幽香はさっさと帰ってしまい、魅魔は自由人すぎて逆に役に立たない。(メディスンについてはみなは言わない)

「お二方の力で何とかならないのですか?」

魔界の代表者として選ばれた何十人かのうちの一人が質問した。サリエルは何も言わず視線を神綺に投げた。神綺は夢子に視線を投げようとしたが表情ではね返された。仕方なく「んん、」とひとつ咳払いをする。

「実はですね」

はい、と魔界民代表達から返事が返る。

「出来ないのです。えー。その、実はですね。魔界神としての力が私には現在何故か失くなってしまいまして、要はその――」

神綺はほほを掻いた。

「私の今の力はこの里で言うちょっと長く生きた妖怪くらい――まぁとても何かを創造したり、生み出したりする力は無いのです。此れはサリエルや夢子も同様でね……」

神綺は割と呑気げに言った。原稿を読むお役所の係官のような気楽さで言う。

「はっきり言ってあなた達をまとめ上げるような力もないのです。食も維持できませんし衣食や仕事も提供できません。詰まる所、その、支配層としては完全に終わっちゃったわけです」

ドヨッ、ザワ……ザワ……「そんな」「何だってこんな事に!」「責任の所在を明確にして下さい!」「急にそんな!」「んんwww
断固として訴追以外あり得ませんぞwww」「論者は黙れよ」「私たちの生活は? 子供や家族の事はどうなるんですか?」「国は補償すべきだ!」などと、数十名ながら、話の収拾のつかない混乱が場に満ちようとしていた。とはいえ当然ではあった。右も左も分からぬ里で、着の身着のまま投げ出される。それも魔界の瘴気無き土地柄である。魔法の森への移住者を募れば少しは場も収まるだろうが、それにしたってアリスの気になるのは何故に魔界が消えるに至ったか? であった。

「面倒そうだし私らも退散しようかね」

魅魔が無責任……とも言い切れないか。とアリスは思い、どうぞどうぞと促しつつ、「魔理沙の事だけど」と、魅魔に問うた。
「あ~」と魅魔は言った。魔理沙を預かると言い出したのは彼女である。アリスとしても別に訴追する気は無かった。可笑しな話だが彼女にとってはあの娘はいつまでも仕方のない人間の小娘であった。報いは然るべきだと思うが、魅魔が引き受けて色々やってくれると言うならもうそれでいいと言う気も有る。面倒というのか憎しみが沸かないというのか。自分も長生きして随分変わったとも思うし変わっていないとも思う。
そこでふと思いつく。が、その時丁度電話が震えた。

「御免。ちょっと出てくるわ」

アリスは通話をオンにしながら、もしもし、と向こうのパチュリーに言い、「あ、ちょっと待って」と、手持ちぶさたに手を頭の後ろで組んでいる魅魔に口を寄せた。

「魔理沙は悪霊になったの?」
「ああ。まあろくな力も使えないようになったのは同なじらしい。まぁ暫くは結界に閉じ込めて反省を促しとくよ。五百年ぱかしすれば地獄に行くなりそのまんま悪霊になるなり亡霊になって冥界に行くなりするだろ」

魅魔の言葉に結界で覆われた仮の庵にばつの悪そうな顔で座り込んで胡坐をかいた金髪少女の情けなげな顔が浮かんだ。まあたまに見舞いにでも行ってやろうと思う。「お願いね」と戻ってきた時には消えているだろう魅魔に言い残して、アリスは喧々囂々の中を抜け出した。


話し声。


(……、……)
『えぇ。それじゃ、白蓮が協力を申し出てくれたのね……。……で。ええ。ええ……――』
(テント?)

ぼんやりした眼で仰向けの天井を仰ぐ。黄色い布が空をさえぎる様はそんな感じだ。開けた部分からのぞく空。朝だ。館の準備を。

(……。……)

何かが違う気がする。その内に話し声は途切れ、ファサッ、とかるい音を立て、天幕をまたいで誰かが入ってきた。

(……。……)

心なしか香る、匂い。いい匂いではないが、決して嫌な匂いではない。そんな匂い。近寄ってきて、座る。額にかかる手。乱れた前髪をそっとよける手。「目、覚めた?」

(……。……)

うなずこうとして、妙に身体がだるいことに気付く。自分は魔界に行って……どうしたんだっけ。ここ数日分の記憶が抜けている。
漠然とだがそう感じる。リリサは目を閉じ――瞼が痙れんしたのだ。指先を動かそうとして、そのまま止まる。

(まぁ、いいか)

ママがここにいる。
リリサはふと思いついて、唇を開いた。
影が陰る。

「よ」

聞いたことのない声だった。知らない人の前、ということがぼんやりした身体をちょっと身じろがせる。「何しにきたのよ」と、ため息混じりに母が言うのが聞こえる。

「――いや、これでも一応心配しているのさ。色々関係ないのに迷惑かけちまったしな。調整手伝った手前もあるし」

軽い調子で言う。どこかで聞いたことのある声だった。

「なぁ」
「何?」
「こいつってさ。――。――」

眠気で一瞬意識が遠退く。まだ身体に馴染んでいない、いつか何処かで味わった感覚。「――よ」母の声。

「そうか」

知らない人は言って、ちょっとこっちを一べつしたあと、「封印されるんだって? 魅魔に聞いたけど」と、母の淡々とした声が聞こえる。

「あぁ。精神修行だってさ。私としては御の字かなという感じだけど」
「そう。たまには見に行くわ。そういえばあなたに吸収された他の人ってどうなったの?」
「分からん。でも、元あった所に帰ったんじゃないかな。パチュリーが元に戻ったし」
「ふぅん。ま、あんまり迷惑なことしないでね」
「あぁ。それじゃあ。またな」
「えぇ。また」



再び。

現代。

「もう戻っちゃうの?」

蓮子は結局何だったんだ一体という体でメリーを見たが、友人は「ふふっ。うん」と楽しげに笑うだけである。今、帰国した友人とは、年を挟んで会うだけである。

「たまには長泊まりしていきなよ。お婆ちゃんもメリーに会いたいってさ」
「私には私のお婆ちゃんがいるしねぇ。でもまた会いたいわね。蓮子の実家にも行きたいな」

「うん」と蓮子は言って、メリーの隣を手持ちぶさたに歩いていたが、ふと思いついて、「ねぇ、メリー……」
と、聞きかけたが、

「何? あ」

と、今度はメリーに遮られた。釣られてメリーが見やる方向を見て、ギョッとする。それはまさしくギョッとだった。空港のロビー付近に、こちらに歩んでくる大柄な男の姿があった。目肩いかつく、といってもでかいレイバンのサングラスをかけているが、身長はアントニオ○木ばりにあり、まぁ男は黒髪のオールバックだが外国人のようだからそれは珍しくもないのだろうが問題はそれより熊かと見まがう男のごつい体格にある。その男がこちらを見て、明らかにこちらを見てつかつかつかと急に早足になって駆けよってくる。ビビる蓮子が対応をためらって(逃げるかどうかという算段だ)いる内に、男は――なんとメリーの傍まで来ると、「オー、ハニー、マエリベリー!」と、厳つい口ひげに似合いの声でそう言った。プロレスラーばりの(リングスタイルが露骨にお洒落なスーツの上から想像できる体つきだ)太腕でメリーの身体を抱き上げ、かるくぶん回した。見やるとメリーも「あははっ」と笑って、首に抱きついているではないか。
ひとしきり喜びの抱よう――でなかったら何なのか――を終えたあと、メリーが男の隣に並んで、

「こちらカリフォルニアで会社を経営なさっているコンピュータエンジニアのマーク・K(クランシー)さん。K。こちら、蓮子よ。いつも話しているでしょ」

メリーが言うと、いや待て。オー、とKは特有の表現を見せ、「ドモ、ハジメマシテ。アエテウレシイデス。ワタシミス・ハニー・マエリベリーのフィアンセで、マーク・Kいいマス。レンコサンでオーケイね? いつもハニーから聞いていマース」



知らない人が行ってしまうと、母は静かになった。ときどき立ち上がって「のど、かわいた?」と言って水を呑ませてくれた。
何だろう。何か色んな事があったような気がするけれど。どうでもいいような。

(あー)

メディスンの顔が思い浮かぶ。

「……ママ」
「ん?」
「お義母さまは?」
「ん。んん。ええ。大丈夫。皆無事よ」

母は言って、天幕の外を見ている。

「ママ?」
「うん」

母は言った。ちょっとこちらを向いて、ほほに指を滑らせ、髪を梳く。

「……。ちょっと痛んでいるわね。荒仕事なのは分かるけれど、身だしなみは気を遣いなさいね」
「うん」
「リリサ」
「うん」
「……。あー。今度、あなた、ママと一緒に住むことになったから。神綺さまがそうしなさいって」
「お義母さまが?」

母は「うん」とうなずいた。それから、今度から養母は色々忙しい身になるらしい。対して自分は暫くはやることがない、余暇が出来たのだそうだ。養母はあの館に住み、何人かの支持者を住まわせ、行政的な整備や補償を進めるという。これを機に夢子も養母のメイドに戻るそうだ。

(私はいらないってこと?)

それはそれで、と思ったが、悪くはないとも思った。
母と暮らせるならば。

「ねぇ、ママ」
「ん?」
「頭を撫でていい?」
「え?」

アリスは何かものの挟まったような、困ったともいいがたい微妙な顔をした。
やっぱりママは可愛いな。
リリサは思った。
赤いおじさんは女装しています

9・8 加筆修正しました
不備があることに気がつかずあげっぱなしにしてしまい大変申し訳ありませんでした。再度お詫び申し上げます
やあ (´・ω・`) 
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コメント



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6.100名前が無い程度の能力削除
素晴らしい
とてもよかったです
またこういうのを気がむいたらお願いします

こういうファンタジー好きですね
魔界組好きです