「たっぷりかけて、しかる後混ぜろとの厳命であった」
「それでどうなりました」
「どうなったって、そりゃたっぷりかけて混ぜたさ」
「塩梅はどうです」
「良かった」
「それでおしまいですか」
「や、混ぜた所で真ん中にくぼみを作って」
「くぼみ」
「そう。それでそこに生卵を落とす」
「生卵!」
「そう」
「それでどうするんです」
「どうするって、それで仕舞さ」
「完成と」
「全部混ぜて食う」
「べたべた、ぐちゃぐちゃとですか」
「混ぜると余熱で卵が程よく固まり」
「ご飯と汁に絡むと」
「物足りなければウスタァ・ソースをかける」
「へえー! へえー!」
いいなー、いいなー、と犬走椛が尾っぽをふりふり、身を乗り出して目を輝かしている。周囲に集まっていた白狼天狗たちも銘々に生唾を飲んだり恍惚とした表情になったり。
つい昨日に、天魔を中心とした天狗の上層部が何やら旨いものを食うというので、天狗たち――特に白狼天狗たちは気が気でなかった。
天狗は旨いものが好きである。自らが呼ばれずとも、それがどんなものかはもちろん気になる。あわよくば自分で再現して是非食ってみたい。そんな風に思ったので、下っ端白狼天狗の中では唯一その会に首を並べた料理番の天狗を囲んで、あれこれと話をせがんでいた最中である。普段は閑散としている白狼天狗の詰め所も、今日に限っては大勢が詰まっており、人いきれならぬ天狗いきれが頭上からかぶさって来るようであった。
やがてまとめ役の烏天狗が来て、「コラ、仕事の時間だろうが、散れ散れ」と、集まっていた白狼天狗たちを山のあちこちに散らかしてしまった。
椛は木の枝に腰かけて、腕組みをしながら考えた。
どうやら天魔たちの食べた御馳走というのはカレーの事らしい。しかし、単なるカレーとは違って、初めに飯と汁とを混ぜ合わせて、そこに生卵を落とす。
聞くに、外来の変人から教わった食い方だそうだが、想像すると椛の口内には生唾が溢れた。カレーは旨い。卵だって旨い。旨いものと旨いものを合わせればきっと旨くなるだろう。
椛に限らず、白狼天狗はカレーが好きである。鼻高天狗もカレーが好きである。大天狗はもちろん、烏天狗もカレーが好きなので、つまり天狗は皆カレーが好きである。
発端は少し前の妖怪の山大南蛮パーティと称した怪しげなイベントであったが、そこで大鍋でなみなみと作られたカレーに天狗どもは舌鼓を打ち、以来カレーの虜となった。怪しげな南蛮の魅力味力にあっさり屈服した天狗たちは、「インド恐るべし」と銀色にピカピカ光る匙を振り回した。
「でも、カレー粉が手に入らないなあ……」
椛は唸った。カレー粉は外界の、しかも舶来の材料でしか作れないので、そう安々とは手に入らなかった。カレー粉さえあれば、後の材料は何でもいい。山の幸海の幸を漠然と投じ、くつくつ煮ればいいだけである。
カレー粉は人里には売っているのだが、誇り高き天狗様がカレーの為にのこのこと里にカレー粉を買いに行くなどという間抜けな事が出来る筈もない。
しかし、天狗らしさを発揮して店からカレー粉をかっさらえば、人里襲撃という扱いになり、下手をすれば妖怪賢者が出張って来て、ちょっと色々危ない事になる。カレーが原因の幻想郷大戦なぞ、締りがなさすぎて後世に伝えられぬ。第一、天狗の沽券に関わる。
二進も三進もいかないので、結局、想像して楽しむくらいかしらと椛が諦めかけて居たところ、その千里眼に侵入者が映った。椛は立ち上がった。
風を切るように駆けて行くと、里者だろう、3人連れ立った女の子たちが籠を持って山菜やキノコを採っていた。少女たちは戦利品で一杯になった籠にご満悦だったが、突如として目の前に現れた椛を見て真っ青になった。
「コラ! 人間風情が畏れ多くも妖怪の山に踏み入るとは何事だ!」
椛が剣を振り回して怒鳴ると、女の子たちは慌ててひれ伏して、わたわたと言い訳した。
「すみません、つい沢山採れるものですから、気付かないうちに」
「そんな言い訳が通用すると思うてか!」
「ごめんなさい、許してください」
女の子たちは涙目になって何度もぺこぺこ頭を下げた。
椛は別に嗜虐趣味はないし、山菜採りくらいで厳罰を与える程天狗の法は厳しくはない。警告して、説教して、それで仕舞の筈だったのだが、ふと椛の頭に意地の悪い妙案が浮かんだので、彼女は憤然とした態度を崩さぬまま、わざとらしくふんぞり返った。
「いいい、いいや、許さん! 妖怪の山の産物は、すべて天狗の財産である。それを断りもなく収奪するなど許し難い……その、あれだ! 悪行だ! 許し難い悪行だ!」
虚勢を張るけれど、こんな事はした事がないので、思わず声が震えてどもった。だが、女の子たちは怖がっているのでそれには気付かない、慌てて山菜で満載した籠を椛に差し出した。
「あっ、あっ、それなら、これはお返ししますので、どうか……」
「にっ、人間が採ったものなど要りゅっ――要るかっ」
「ひええ」
女の子たちが本気でおびえているので、椛は何だか心が痛かったが、同時に妙な快感も覚えていた。それに気づいて、ハッとして頭を振り、邪念を跳ね飛ばした。
「とっ、ともかく、お前たちは厳罰だ」
「そ、そんな」
「お願いします、許してください」
「わたしたちに出来る事なら何でもします」
女の子たちはひれ伏して、手を合わせて、地面に触れる程頭を下げた。望み通りの反応が返って来たので、椛は満足した。横っ腹をちくちく刺す良心を必死に押さえながら、椛は努めて偉そうな態度を崩さなかった。
「何でもするって言ったな? よし、それならみちゅっ――貢物を持って来いっ」
「み、貢物?」
女の子たちは困惑したように互いに顔を見合わせた。天狗が満足する献上品なぞ、少女たちには見当もつかなかった。
もじもじとして、何を持って来ればいいものか悩んでいる少女たちを見て、椛はイライラしたように言った。無論、演技である。
「ええい、気の利かない連中だな。中々手に入らないものがあるだりゃ――あるだろう。舶来の品で、ええと、何て言ったっけ。辛くてスパイシーで、素敵に良い匂いのする粉が」
わざとらしい椛の誘導に、少女たちは目をぱちぱちさせて、ひそひそ言い合った。そうして椛の方を見た。
「あの、もしかしてカレー粉ですか」
「そう、それ!」
「……カレー、お好きなんですか?」
「うっ」
知らぬうちに高揚していたらしい、顔をほころばしていた椛はハッとして、誤魔化すように大きな声を出した。
「や、やかましい! いいからさっさとカレー粉を持って来い! 里に戻ったからって安心するなよ! 人に言ったり、逃げたりしたら天狗つぶてを降らせるぞ!」
椛にそんな事は出来ないのだが、この脅しは少女たちには効果てきめんだったらしい、慌てて立ち上がって、追い立てられるように山道をかけ下りて行った。
女の子たちの後ろ姿が見えなくなると、何だか今まで押さえていた良心がむくむくと膨れて来て、とても悪い事をしたように気分になる。しかし、これでカレー粉が手に入ると思うと、その良心もたちまち息をひそめ、脳内は見た事もないインドの風が吹いた。天狗は割と即物的な所がある。
その時、頭上の木ががさがさ揺れた。
「見ーちゃった、見ーちゃった」
椛がギョッとして目を上げると、烏天狗の射命丸文が枝に腰かけてけらけら笑っていた。
「いやあ、随分噛み噛みの演技だったわねえ」
「い、いつからそこに」
「それは秘密です」
文はひょいと木から降りて来て、椛の肩をつついた。
「けど、あんな下手な演技しなくたって、わたしに頼んでくれればカレー粉くらい手に入れてあげるのに」
「何を馬鹿な、あなたに貸しを作るなんて冗談じゃありません」
さりげなく肩を抱こうとする文の手を払って、椛は二歩三歩後ろに下がった。文はわざとらしく口を尖らした。この烏天狗は椛の事が大好きなのだが、椛はこの烏天狗の事が嫌いであった。椛はしっしと手を振った。
「用がないならどっか行って下さい」
「……あのー、仮にも上司に対してその物言いはないんじゃないかしら?」
「それなら少しは上司らしくする努力をしてくださいよ」
椛はぷいとそっぽを向いた。つれない態度を取られながらも、文は妙に嬉しそうである。
「ふふん、そんな態度を取っていいのかな? 私的な用事で天狗の法を騙り、里人から物品を巻き上げようなんてのは、下手したら責任問題に」
「わーわー」
椛はわたわたと手を振って、文の言葉を遮った。文は何故だか興奮したような表情でむふむふと笑った。椛は上目づかいで悔しそうに文を睨んだ。
「何が望みです」
「なぁに、わたしもカレーのご相伴に預かれればなー、とね」
「く、そういう姑息な所が嫌いなんですよ」
「さっきのあなたの演技も姑息だったけどね」
「ぐぬぬ」
それを言われては返す言葉もない。
何にせよ、カレーは一度にたくさん作った方が旨い。高々文一人に座を供するだけである。なんの恐れやある事か。
「わかりました、カレーが出来たらご招待します」
「約束よ?」
文はにひひといたずら気に笑い、椛は深く嘆息した。
○
一方、里ではひと騒動起こっていた。
普段は品行方正な少女たちが、勝手に家の棚から財布を持ち出した所を見咎められたのである。それだけならば各々の家庭の問題なのだが、どうしてそんな事をしたのかと問い詰めると、少女たちは途端にわんわん泣き出して収拾がつかなくなった。
挙句、ようやく事情を聴き出せば天狗が絡んでいる。これは厄介な事になったぞと里人たちは寺子屋の上白沢慧音先生を囲んで、色々に相談をした。
「うーむ、山菜採りをそこまで見咎められるとはなあ」
「しかし天狗を無視すると後が怖いですよ」
「天狗つぶては厄介だからな」
「そうさ、何樫さんの家はそれで潰れたじゃないか」
「あれは単なる老朽化の気もする」
「そういや、うちも最近立てつけが悪くなった」
「白蟻でも入ってるんじゃないか、見た方がいい」
「こらこら、関係のない話を始めるんじゃない」
「そうだった」
「何の話だったか」
「天狗の話だろう」
「カレー粉を欲しがっているらしいが」
「そんなら、それを渡せば落着って事だな」
「ですよね、慧音先生」
そう言って皆が慧音の方を見た。黙っていた慧音はこくりと頷いた。
「けどな、流石に山菜を採るなというのは暴論だ」
「そりゃ確かに」
「あそこの山菜は旨いですからなあ」
「そんなら、誰かがカレー粉を持って話をつけに行ったらどうです」
「そいつは名案だ。ここらで天狗とも関係をきっちりしとかにゃならん」
「で、誰が行くんだ」
しんかんとしてしまった。
「なんだ、誰も行かんのか」
「仕方がないな、俺が行くよ」
「待て、お前には任せておけん、俺が行く」
「いや、ここ儂が行こう」
「拙者を忘れてもらっては困る」
「それがしこそが天狗と話をつける」
「なにくそ、引っ込んでいろ」
「お前こそ遠慮しろ」
「俺が行く」
「いや、俺が行く」
「お前らが天狗と話をつけられるもんか、僕に任せろ」
「うるさい、出しゃばりめ」
「何を言うか」
互いに喧々囂々と言い合うばかりで段々と場に締りがなくなって来た。慧音は嘆息して手を上げた。
「わたしが行くよ」
「どうぞどうぞ」
そういうわけで慧音先生、カレー粉を片手に妖怪の山に赴く運びとなる。
○
滝の裏に河童の溜まり場があって、椛はそこによく将棋を指しに行く。河童は身分としては天狗の下のあるのだが、白狼天狗とはさして立場が変わらないらしかった。だから椛も、河城にとりという気の置けない河童の友人がある。
表の方でどうどう滝の音がするけれど、話すのに支障があるほどではない。白熱灯の明かりの下に畳が何枚も敷かれていて、そこで河童たちが車座になったり向かい合ったり、あるいは一人で居たり、銘々に過ごしていた。
そんな中に混じって、椛はにとりと盤を挟んで向かい合っていた。そうしてぱちんぱちん、駒を縦横に動かす。
椛の動かした王将の前に、にとりの飛車がすっ飛んで来た。
「王手」
「待った」
「はい」
「じゃあ、こっち」
と、椛が別の方に逃がした王将に、にとりの桂馬が飛びかかった。
「わたしの勝ち」
「待った」
「はい」
「やっぱりこっち」
と、これまた別の方に王将を逃がすと、今度はと金が立ちはだかった。
「王手」
「待った」
「もう駄目」
「むう」
椛はぱたんと耳を平らにして口を尖らした。にとりは傍らに置いた糠漬けの胡瓜を丸のままぽりぽりかじった。
「弱すぎだよ」
「うるさいなあ」
そう言いながら盤上の駒をひとつひとつ丁寧に片づけた。
既に二局打った。第三局をするつもりはないらしい。にとりは二つ目の胡瓜に取り掛かりながら、片手に持ったもう一本を椛に差し出した。
「食べる?」
「いい」
「美味しいのに」
別に胡瓜が嫌いなわけではないのだが、椛の頭の中はカレーの事で一杯であった。だからそわそわして、気晴らしに将棋を打ったのだが、集中できないので、いつもに増して弱くなった。
にとりは怪訝な顔をして椛をじろじろ見た。
「何をそわそわしてんの」
「いえね、ふふふ」
「なにさ」
「実はですねえ、えへへ。近いうちにカレー粉が手に入るんですよ」
「へえ、カレーか。いいねえ」
にとりはもぐもぐと胡瓜をかじりながら言った。妖怪の山大南蛮パーティには河童も参加している。そうしてカレーの旨さに天狗と同じく籠絡された。だからにとりも記憶にあるカレーの味を思い起こして、思わず頬が緩んだ。河童もカレーが好きである。
椛は時間を気にしているか、しきりに入り口の方を見たり、手を擦り合わせたりと落ち着かない。
「そろそろだと思うんだけど」
「なにが」
「いえね、文さまがカレー粉を受け取って持って来てくれる手筈で」
「上司をこき使ってるわけか」
「人聞きの悪い。文さまが自分で言い出したの。わたしに任せておきなさいとか何とか言っちゃって」
「あの人、椛の事大好きだもんね」
にとりがいたずら気に笑うと、椛はぷうと頬を膨らました。椛は文の事を嫌っているが、考えてみれば別段そこまで嫌う理由が思い当たらない。軽薄な所だとか、変に自分をからかって来る所は頭に来るが、蛇蝎の如く嫌うほどではないように思われる。
結局のところ、文に対する態度があんまり長い間同じだったから、今更態度を改めるのが憚られるらしい。嫌いで居る事に引っ込みがつかなくなったのである。
そう考えると、根が真面目な椛などは、文に対して何だか悪いような気がするのであった。
にとりは面白そうな顔をして、また胡瓜をかじった。
「意地にならなくてもいいんじゃない?」
「別に意地になんて」
「ふーん。まあいいけど」
と、口では興味のないように言いながらも、にとりはにやにやしながら椛の方を見ていた。どうにも居心地が悪くなって来た。早く文が来ないものか、と椛は前に増してそわそわと入り口の方を気にした。
○
一方その頃こちらは妖怪の山の麓、すなわち登山道の入り口である。分厚い雲が垂れ下がって一雨来そうな曇り空の下、むっつりと顔をしかめた慧音先生が射命丸天狗と向き合っていた。
「で、山菜採りを咎められる事なんて今までなかったぞ。せいぜい注意を受けるくらいだ」
「はあ」
「それがカレー粉とはどういう風の吹き回しだ。天狗の法も随分勝手になったものじゃないか」
「ええとですね、これはその……うー……」
文は顔こそ笑顔を張り付けつつも、内心は汗をかいていた。女の子たちがカレー粉を持って来るだけだと思っていたのが、仏頂面で現れた慧音から詰問される羽目になっているのである。楽な仕事だと高を括って椛から安請け合いした矢先にこれである。
別に素直に事実を露呈したところで文には何の不都合もないのだけれど、困るのが椛であるという一点が、文に事実を口にさせるのをためらわせていた。天狗からも人里からもちくちく苛められる椛を想像するといたたまれない。椛を苛めていいのは自分だけである。
こうなっては適当にお説教を聞き流して、カレー粉を受け取る他はあるまいと文は決心した。決心したのだが、その矢先にぽっぽっと雨粒が落ち出した。
カレー粉は慧音の片手にある。粉であるから、水に濡れてはいけない。
お説教はまだ終わりそうにない。慧音は目を閉じて、片手の指を立ててずっと何か喋っている。雨が降り出したのにも気づいていない様子である。文が何か言っても耳に入っていないらしい。
「もーっ」
いよいよ業を煮やした文は、慧音に飛びかかった。
「うわ、何をする」
「話が長いんですよっ」
文はカレー粉の袋を奪い取ろうと慧音を押し倒した。慧音だってただで取られるほど軟ではない、抵抗して押し合いへし合いになり、二人はもちゃもちゃと揉み合った。次第に強くなる雨で、地面はどろどろとぬかるんでいるから、どちらも泥まみれである。
「離せっ」
「カレー粉くださいっ」
散々暴れた挙句、軍配は文に上がった。慧音は泥にまみれて、帽子も落ちて、服も乱れた上に地面に突っ伏して息も絶え絶えである。
「勝利!」
文はカレー粉が無事なのを確認すると、そそくさと飛び立った。もはや頭の中には椛が喜ぶ顔しか想像されていない。
残された慧音は、ごろりと仰向けになって、しばらくは落ちて来る雨粒を顔で受け止めた。泥が少しずつ流されるのが気持ち良い気がした。しかし矢張り腹が立つ。天狗は横暴である。こうなっては泣き寝入りなぞ出来ぬ。
慧音は立ち上がると、里に帰るでなく、山のさらに上の方へ向かった。
○
「お待たせー」
「うわっ」
泥まみれで現れた文に、椛は思わず声を上げた。
「何があったんですか!」
「いや別に、それよりほらー、ちゃんと手に入れて来たよ」
と言って射命丸天狗、自慢げにカレー粉の袋を差し出す。
「当たり前でしょう、受け取るだけなんだから」
「いやまあ、それはその、まあいいけど」
「?」
言葉が切れ切れな文に椛は首を傾げた。少女たちからカレー粉を受け取るだけでどうして泥まみれになる必要があるのか。やっぱりこの上司は尊敬できないと思う。
椛は怪訝な顔をして受け取った、少し泥汚れが付いているものの、中身は大丈夫そうである。ふんふんと匂いを嗅いで恍惚と頬を緩めた。
「ああ、いい匂い」
椛はぱたぱたと尾っぽを振って、幾度も匂いを嗅いで、その度にだらしなく表情を緩ませる。それが文にはたまらない愉悦であるらしく、こちらもにへにへと表情を崩していた。椛が喜ぶならば、泥まみれになって慧音と格闘した甲斐もあるらしい。
「はー……やっぱり最高ですね、カレーの匂いは」
「わたしにも嗅がしてー。あ、文さんタオルどうぞ」
「あ、どーも」
引っ込んでいたらしいにとりが戻って来て、文にタオルを押し付けた。そうしてカレー粉の匂いを嗅いで嘆声を漏らしている。
さて、こうやってカレー粉が手に入った上は、何としても調理に取り掛からねばならぬ。カレー粉の量からしても大勢に振る舞えるほどは作れない。となれば天狗の共同調理場は使えぬ。匂いに釣られた天狗どもが押し寄せて、自分の口に入る処の話ではない。
「じゃあ、うちの台所使う?」
と、にとりが申し出た。
成る程、にとりの家は河童が固まって暮らしている所とは違う所にある。河童の居住区は天狗の居住区とは離れているから、つまり誰かに気付かれる可能性がない。
「よし、そうしましょう」
それで天狗二匹と河童一匹はにとりの家に向かった。
にとりの家は小さな滝の裏にあった。椛は戸をしっかり閉めると、ごちゃごちゃとした機械やら工具やらの間を縫って台所に入った。そうして窓もカーテンも閉めてしまう。にとりが呆れた声を出した。
「そこまでしなくてもいいんじゃない?」
「カレーは素敵に良い匂いがしますから、用心に越したことはありません」
「凄い執念だこと」
呆れ気味ながらも、別に追及するつもりもないらしい、にとりは壁にかけてあったエプロンを椛に放って寄越した。椛はそれを身に付けながら、きょろきょろと辺りを見回す。
「ええと、材料は」
「胡瓜があるよ」
「カレーにそんなもの入れるわけないでしょ。馬鈴薯とか人参とか玉葱とかないの?」
「あるよ」
「最初からそっちを出しなさい」
「あのう」
手持無沙汰でもじもじしていた文が口を出した。
「わたしは何をしたらいいかな」
「文さまは汚いからどっか行って下さい」
「え、ええー……」
にべもなく突っぱねられた文は、少し消沈した様子である。椛は意に介さない。にとりの方が気を使って、努めておどけるように、言った。
「でも確かに泥汚れがひどいですよぉ。カレーは作っておきますから、文さんは体を綺麗にしてきたらいかが? 折角の美人が台無しですし、天狗様に料理なんて詰まらない仕事はさせられませんし」
見え透いたお世辞だったが、悪い気はしない、文は「そうですねえ」と素直に頷いた。
「一緒にお料理したかったですけど、仕様がないですね」
「出来たらお招きする約束は守りますよ。綺麗にしたら帰って来てください」
つんと尖ったように言った椛の言葉も、文には照れ隠しに聞こえたらしい、にひひと笑って椛の肩をつついた。
「楽しみにしてますよ」
「早く行って下さい」
文が出て行って、椛はふうと息を付いた。そうして壁にかかっていた割烹着を着、頭に手ぬぐいを巻く。
「さあ、れっつくっきん!」
「それ意味分かって言ってんの?」
二人は並んで立ち、各々に材料を刻み出した。玉葱、馬鈴薯、人参、大蒜、鶏肉。旬の茸も何でも叩き込む算段らしい。
鍋で玉葱を炒め、人参や茸を加える。大蒜は別のフライパンで香りを出し、そこで鶏肉に焦げ目が付くまで焼き、鍋に加えて水と馬鈴薯を足して煮込む。くつくつ。
「トマトはないかなあ」
「季節が違うからね。まあ、仕方ない」
まだカレーの匂いはしないが、大蒜の香りだけですっかりその気になって、椛の尾っぽはばたばたと忙しなく振られた。
「そういえばさ」にとりが言った。「犬って玉葱駄目なんじゃなかったっけ」
「わたしは犬ではなく天狗だと何度言ったら!」
「んー? 別に椛の事とは一言も言ってないけどぉ?」
「こ、このぉ……」
にとりはからから笑いながら鍋をかき回す。椛はその脇に立ってそれを見ている。別にかき混ぜる他にする事もないのだが、つまりする事がないから鍋の前に立っている。
やがて馬鈴薯が柔らかくなったところで、二人は顔を見合わせた。
「いよいよ……」
「だね……」
椛は脇に置かれたカレー粉の袋を捧げるように恭しく持った。そうしてそっと口を開ける。
「……美味しくなーれ!」
さらさらと、鍋の中に粉を振り込んだ。細かな粉はたちまちとろとろと汁と一体になり、鍋の中で渦を巻く。そうして立ち込める良い匂い。椛は鼻をひくつかせ、恍惚とした表情になった。
「生きててよかった……」
「大げさだなあ」
○
「たいへん迷惑している」
「何があったのかね」
「天狗がそんなに勝手だとは思わなかった」
「何の話」
「山に入るのが厳罰だという話だ」
「そんな話はないよ、現に貴女だってここに居るでしょうが」
「そう、だから話が食い違って困るんだ」
「何だかよく分からないが、お茶でも飲んで落ち着いたらどうだい。まあひとつあがりたまえ」
「ではお邪魔する。ああ、椅子を汚して済まない」
「そうそう、どうしてそんなに汚れているんだい」
「それは貴女の所の部下にやられたんだよ」
「哨戒任務の白狼天狗にかい? 彼らもそれは仕事なのだよ、大目に見てやってくれないか」
「違う、烏天狗だ」
「なに、烏天狗」
「射命丸文という記者の天狗がいるじゃないか」
「ああ、あのお騒がせ者か。あいつがどうかしたのかい」
「それよりも、天狗は最近法改正をしたのか」
「いや……? していないが」
「里人が山菜採りで山に迷い込んだら貢物を要求された」
「おいおい、言いがかりはよしてくれよ。わたしらは誇り高き天狗だぞ? そんな小悪党みたいな真似するもんか」
「しかし現にそう言われてわたしはカレー粉を持って来たんだ」
「カレー粉?」
「そう、カレー粉。天狗はカレーが好物だったな?」
「こらこら、ハクタクともあろう知恵者がそんな浅はかな連想で天狗を悪者にするもんじゃないよ……まあ、カレーは大好きだけれども」
「もちろんそれだけじゃない。そこで例の射命丸文だが」
「あいつは馬鹿ではない筈なんだがなあ……おい、お茶まだか?」
「カレー粉を持って来たと言うと、嬉しげにじゃあ下さいと」
「誰がほうじ茶を淹れろと言った、来客には緑茶を出すもんだろう」
「しかしわたしだって納得が入っていない。話の筋を通そうと色々の事を言っていたら飛びかかって来てな」
「切らしてる? ええい、なら紅茶でも構わないから」
「おかげでこの有様さ。簡単に負けはしないんだが、しばらく家籠りでの仕事をしていたのが仇になったかな」
「なんでダージリンなんだよ、アールグレイの方が好きなんだよ、わたしは」
「ともかく、そういう顛末があってだな。納得できないから貴女の所に来たというわけだ。分かったかい?」
「え? ああ、分かってる、今持って来させるから」
「は? 何を?」
「え、紅茶……」
「誰が紅茶の話をしたんだ、カレー粉の話だ」
「なに? カレーが食いたいのか?」
「なんでそうなる」
「だってカレー粉って」
「それはそっちが要求したんじゃないか」
「だから私は知らないってば。あ、お茶来た。どうぞどうぞ」
「大丈夫なのか、天狗の組織は……」
「まあ、しかしそういう勝手は示しがつかないな。よし任せたまえ、ひとまず射命丸を問いただしてみようではないか」
「それは任せる。とにかく、山に入れば厳罰というのはあり得ないわけだな?」
「山は我々の縄張りだから、立ち入った際に警告はさせてもらうがね。必要以上に人里と対立する意思などないよ」
「それを聞いて安心した。しかし、射命丸は捕まるのか? 彼女はかなり速いと聞いたが」
「心配は要らない、司令部の特別警務隊を使うから」
「大仰な名前だな」
「そういうのも組織の威厳を保つには必要なのだよ。さあ、冷めないうちにお茶でもあがりたまえ」
「いただこう……うむ、旨いほうじ茶だな」
「なんだと」
○
弱火でじっくり煮込んだカレーは素敵に良い匂いを漂わせ、椛は鰻屋の前の貧乏人の如く、匂いで飯が食えるような気分であったが、実物を前にして何故そんな事が出来ようか。炊けた飯にたっぷりかけて、しかる後混ぜる他道はない。
「混ぜて、それでどうすんのよ」とにとりが言った。
「真ん中にくぼみをつくってね」
「くぼみ」
「そう、くぼみ。それでそこに生卵を落とす」
「生卵!」
「そう、それで全部混ぜて食べるの」
「なんだそれ、めっちゃ美味しそうじゃん」
「ふふん」
椛は自慢げに胸を張った。
早い所カレーにありつきたい所ではあるが、まだ文が来ていない。座を供すると約束した手前、先に始めるのは気持ちが悪い。
それにしたって、無理矢理に割り込んだ癖に待たせるなんて、たいへん迷惑だと椛は眉をひそめた。やっぱり上司として尊敬するにはまだまだ遠い。在りし日の威厳溢るる射命丸の姿はいずこ也や。
いよいよ椛の気が高ぶり始めた時、射命丸が慌てた様子で入って来た。
「あ、無事でしたか!」
「遅いですよ文さま。もう先に始めようかと思っていたところです」
「暢気な事を言ってる場合じゃないですよ」
珍しく焦った様子の文を見て、椛は怪訝に顔をしかめた。
「何があったんです?」
「いえね、部屋に戻ってお湯を浴びて、服を着替えていた時に妙な気配がしたもので部屋を出て隠れたのよ」
「はあ」
「そしたら、司令部の特別警務隊の出臼、柄楠、魔雛が現れたじゃありませんか」
「特別警務隊の三天狗が?」
「それでこんな話をしてるからビックリ」
射命丸は居るか。
居ない。
しかしさっきまで居た気配だ。
違いない。
まったく、カレーがどうのこうのと。
はた迷惑な奴だ。
わたしらも食いたいね。
そうだね。
まあ、ともかく奴を捕まえてからだ。
しかし何処に居るのだろう。
部下の所じゃないか。
ああ、椛とかいう。
そっちに行ってみるか。
そうだな。
「どうもカレー粉の一件がばれちゃったみたいですね」
「な! そ、それじゃあ」
「そのうちここに出臼、柄楠、魔雛が押し込んで来ますよ。優秀ですから」
「ちょ、ちょっと、天狗様に押し込まれちゃわたしは困るよ!」
にとりが悲痛な声を出した。
椛は少し考えていたが、やがてキッと決意したように顔を上げた。
「逃げましょう」
「おお」
「ここまで来てカレーが食べられず仕舞いなんてまっぴら御免です」
「そう来なくっちゃ! さあ椛、愛の逃避行と洒落込みましょう!」
「何が愛ですが、何が。さあ文さま、おひつを持ってください。にとりは卵と食器!」
「ちょ、わたしも?」
「当たり前でしょ! こうなったら一蓮托生だよ!」
椛は蓋を固定したカレーの鍋を風呂敷に包んで家の外に飛び出した。文と、渋々ながらのにとりも続く。
外は雨も上がって、しかし日は落ちかけて辺りは暗くなっている。だが空には残光がぎらぎらして、そっちばかりが変に明るい気がした。
「さあ、何処に行きますか?」
「ひとまず山から離れて……」
と言いかけた所でばさばさ、羽音がしたので三人は大慌てで木陰に身を潜めた。
出臼、柄楠、魔雛の三天狗が降りて来た。そうして滝の裏に入って行く。三人は顔を見合わせて、急いでそこを離れた。
しかし、カレーの匂いは後につらつら連なった。匂いを辿って出臼、柄楠、魔雛は元より、妖怪妖精その他諸々が列を成すように三人の後を追い始め、夜空にぞろぞろ、南蛮の香りの百鬼夜行。
さて、ここより話は続くと思われども、すでに夜のどん帳は降りにけり、下手な落ちなぞ付けるに能わず、椛らの顛末が喜劇か悲劇か、読者諸賢の頭の数だけある事に致して、ただカレーの匂いのみぞ後に残さん。
これにて終幕、終幕、終幕。
そして何樫さん家ェ……。
やっぱ落語とかそう言うの?
確かにロクな結末が想像できませんがw
皆しょうもなくて可愛い
>何が愛ですが、何が。
何が愛です「か」、何が。
の誤字かな?
何樫さん家ついに壊れたんかい
もうそれでオチてますな
軽快なテンポが素敵でした
これでは締まりませんねぇ 面白い内容だったのに、惜しい