その日退屈な本を読んだ。
眠りの中から身をもたげて尚も静寂に満ちていた。息は熱く、まどろみに満ちた霞んだ視界が書の暗闇をゆっくりと提示する。菌界の饐えた粒子が止まった時間を流れていき、魔女はコホ、コホンと乾いた咳を漏らした。居眠りによって温まった呼気が銀色の湯気となって幽かに生じる。
無限に広がるのは図書館の晦冥であった。無数に点在するダークオークの彫り机は魔女が知識を捕食するために置いた唯一の光源であり、今ひとつの燭台が光に揺れていた。顔を上げて、魔女は閉じようとする目蓋をこすった。
(少し眠っていたみたい)
机に伏していた。かの魔女の名前はパチュリー・ノーレッジ。吸血鬼の住まう紅魔館の地下にて永遠の知を貪る、人ならざるものであった。大図書館と呼ばれるその魔導書の住処はいくつかの空間拡張を経て、今や自由無碍に広がる迷宮と化している。
胸元にある本には、ちょうど1/3あたりに金細工の栞が差し込まれていた。どうやら途中で閉じてしまったようだ。
(疲れていたのかしら……)
魔女に約束の時間は来ない。生まれながらにして捨虫捨食であり、肉を喰わず睡夢にも囚われず、来たる春愁に句を詠む賢人たちを溜め息で迎える。躰は白花綟摺(シロバナモジズリ)のよう冥海に一輪だけ浮かび上がり、それは醜く老いさらばる人間を魅了しかつ恐れさせた。魔女は、俗世に隠りして、季節なき暗佞を、曜日だけを数えながら黙して過ごすのだった。
もし彼女が眠りを選んだとするなら、それは身を蝕む“asthma”(人で云う喘息に似る)の状態から来る疲労と不調和が原因であった。性の赴くままに無尽の書蔵をひたすらに読み続けて稀に、本来なら必要でない嗜好品――紅茶を啜る。
随分前に淹れられたアールグレイは冷めてしまっていた。意識に昇ってこない隠れた疲労のためか、何故だかパチュリーは続きを読む気にはなれなかった。
(頭痛がする……)
表紙を手放し、空いた手で頭を抑えながらフラフラと立ち上がった。幾百年と蓄積した叡智は、“その理由”を見つけ出すには未だ浅すぎた。大図書館の塵埃を踏み締めるのは何日振りだろうか。魔術の蘊奥には及び遠く、彼女は地下に隣接した寝室に爪先を向けた。
机の周囲には大量の魔女の“喰い殻”が積み散らばっていた。本来ならばその読み終わりの本共は、司書である使い魔が片付けているはずなのだが、今回は遅れているようだった。煩わしそうに足をあげ、パチュリーは休息に急いだ。踵が地に落ちるたび、頭蓋骨の中に針が転がっているような痛みが走る。呼吸発作とは比べ物にならないほど軽微だが、集中力は失われていた。だからこそ、その一声に気付きはしなかった。
「パチュリー様!」
意識は歩みの感触に呑まれ、自らの名を呼ぶ使い魔の言葉にようやく顔をあげたのは、呼び掛けが4度も行われたのちであった。見知った顔。名もない司書の小悪魔が、パチュリーの前で、本では無い何物かを配膳していた。
「……こあ。頭痛に響くから大声を張り上げないで」
魔女にとっては司書の手にあるものなどどうでも良かった。今は身体を横たえ、頭中を掻き回す不純物が胎内の魔に駆逐されるまで、更なる静寂の深奥でじっとしていたかった。その肩を退けるよう押し返し、暗い道をよろよろと進んでいく。
「パチュリー様。いいんですか?」
問い掛けの意味が解らなかった。聞き返す。
「……私が何かを求めているように見える?」
「いえ。それではご寝室まで運びましょう」
小悪魔はかの書中悪魔(メフィストフェレス)よろしく心を読む事に長けている。顔色ひとつでその目的地を察してみせ、パチュリーの左片側に随伴した。
「ありがと。ところで何故離れていたの?」
疑問は、その勤勉な司書が身に適わぬ放蕩に出ていた事だった。隠し事か? 眠りの間、一冊たりとも書を運ばずに居た彼女にパチュリーは興味を持った。不満や征服欲から来る人間的な嫌味でない、未知への欲求。契約者への従属という悪魔の基本原則を覆す理由に、魔女は期待している――――
「ご存知ないのですか?」
問い返しを感情の宿らない半眼で、
「ええ」 とだけ頷いてみせた。
「パチュリー様自身の要望でこれを取りに行っていたのです」
よもやこれが大図書館の魔女に当惑を与える代物だとは夢にも思うまい。小悪魔の配膳していたものとは、
何の変哲もない、きゅうりの酢の物だった。
かくしてパチュリーは『身に覚えのない自分』との闘いに巻き込まれるのであった。――そして、まるで予言か、もしくは魅了の魔法でも掛けられているかのように、魔女はその出し抜けな食物を突如ペロリと平らげるのだ。この異様な欲求と身の回りの異変に気付くのに、実にそれから一週間の月日を要した。
――稀に何もかもがくだらなくなる瞬間がある。
頭痛に苛まれ、自室で柔らかい羽毛のベッドに身体を横たえた途端、まず重力に耐えうるほどのリアリティを失った。開かれたままの目に映る洋室は昏睡前の瞼の裏と変わらず、パチュリーは植物のようにそこに置かれた。小悪魔が退出する足音を耳で送り、続く長い沈黙に意識を委ねた。
その『瞬間』は、幻想郷に訪れる前は頻繁に襲いかかってくる、あくびや溜め息のようなものであった。自らを魔女たらしめん尊大なる知恵や、空白だらけの脳味噌を埋めるように蒐集された魔導書、そういった『不完全である象徴』が堪えられない程に煩わしく感じるようになる。そしてここぞとばかりに滲出した“asthma”が気道を閉塞させた。まるで知の毒のようだ。
数百年の時を生きていても慣れる事はない。苛立ちを咳と共に吐き出し、発作が収まるのを待った。パチュリー自身、その異常の原因がついぞ解らなかった。だが、紅魔館が幻想郷に移住してからというものの、発作の頻度は目に見えるように減っていた。環境を包む空気が綺麗になったからか、それとも魔に由来する気脈の流れが変化したからか、はたまた来客によって紅魔館が賑やかになりつつあるからか…………いかなる理由が浮上しようとも、それらを認めるほどパチュリーは正直ではない。
何故ならば、彼女は七曜の魔女であり、動かない大図書館であり、人ではないからだ。“書に依存する明確なる根拠”が見つからない限り、凡百の理に信仰なぞ寄せるはずがない。
いつの間にかパチュリーは眠っていた。夢もなく醒めた時には、頭痛も呼吸器異常も消え去って、冷水のような意志がただ気孔内に満ちていた。
埃を被っていた体躯を清めるために、風呂のある館の地上階へ向かった時の事であった。広大な敷地を束ねる白髪のメイド長、十六夜咲夜に廊下ですれ違いざまに声を掛けられた。
「パチュリー様。少しよろしいですか?」
足を止め態度で返答する。他愛無い話が始まるはずであった。
「氷とグラスは用意できましたが、いつお持ちしましょう?」
咲夜より滑り出た言葉に、パチュリーは目を白黒させた。記憶にない。小悪魔ともそうだが、全く身に覚えのない命令であった。不可解さに眉を歪め一言、牽制を行う。
「私が、言ったのか」
答えは単純明快。知らないのは当事者、パチュリーだけだ。
「はい。ちょうど半日前くらいに」
何者かの意図が暗躍しているのは感じ取れた。同じ姿をした、あるいは幻覚上にそれはあるのだと思われた。実害はない。だが不気味である。
「……咲夜。もし次に私に会ったらこう伝えておいて」
何を求めているのか。酢の物とグラス、氷……――風呂の後は確かに一杯の冷たい水を飲みたいものだ。その時々の欲望に合った食物を、まるで未来予知でもされているかのように寄越されている。紅魔館の主である吸血鬼レミリアは“運命を操る能力”を持つが、館ぐるみで悪戯でもされているのだろうか?
「“シフォンクッキーを焼いて図書館にお持ちします”って」
自分に当てた言伝を残し、また日常の輪に連なって次の、次の予定に身を浸していく。あっという間に時間は過ぎる。やや熱めの湯で肌を流したのも過去、禊ぎ終えた長い髪はバスタオルに包まれて後頭部に丸く畳まれ、新しい寝間着に袖を通していた。息は軽い。
もし自分の複製が存在するのなら、魔書の縄張りに誘き寄せて語らい合いたいものだ。同一の性質を持つ“主体性”同士が、テーブルを二分するよう面と向かって“客観的に”観察しあうとは、なんと奇矯で胸が踊る出来事だろう。
レミリアを訪ねると、どうやら件のコピーは彼女にも目を通していたらしい。曰く――
「楽しみにしているわよパチェ。日付が決まったら教えて頂戴」
そう遠くない未来にそれは行動を起こすようだ。愚直に集まった参加者をひとり残らず捕食するためのハニートラップ……否、妖精メイドならまだしも、吸血鬼レミリアが膝を折る展開なぞありえない。よくて首謀者が血液タンクとして雇用されれば関の山。大抵は消し炭だ。
何を企むのだろうか? 大図書館に引き篭もり、読みかけの書物を放置して新しい魔導書のページをひとつ、またひとつと捲っていく。あまりにも矮小で取るに足らない。たった26種の記号の組み合わせだけで織りなす天地四方に較べ、規模も、悦楽も畏怖も不足している。嗚呼、やはり魔女は静寂が似合っている。暗躍する自身の姿見なぞ忘却の彼方へ追い込み、そして、ようやく約束となる、ある一週間の月日を費やしたのだ。エコーは折り畳まれた紙の合わさるページ面のよう、時空間を超越してパチュリーにある言葉を贈ってきた。
「パチュリー様。シフォンクッキーを焼いて図書館にお持ちします」
約束は自分に還元された。なんと、その一週間中、驚くべき事に、“何もなかった”のだ。
――――が、
ふと気が付くと、まるで時がループでもしているかのように、頭痛に苛まれる魔女の灰被りの四肢と、直前の記憶の飛んだ“喰い殼”の海が両の眼に飛び込んでくるのであった。7日後の、夜の出来事であった。
レミリア曰く、
「2週間後には準備が終わりそうだって? もう待ちくたびれたわ。何をするかだけでも教えてよパチェ」
「変わった事? そうねぇ、日本茶の真髄を極めた事かしら? パチェだけに特別に教えてあげるわ。抹茶にはお砂糖と蜂蜜に生クリーム」
咲夜曰く、
「湯桶と桜の枝を用意しました。いつお持ちしましょう?」
「ワインセラーの銘酒が数本盗まれていました。パチュリー様が警戒しているように、何者かが潜んでいるかもしれません」
小悪魔曰く、
「冷えたタオルをお持ちしました。熱冷ましは如何します?」
「そういえば大量の空き瓶が本の下敷きになってました。……あ! あと本棚にごっそりと空いた場所があって、そこにワインが詰め込まれていました」
「もうこのワインはダメかしら?」
大図書館のテーブル上で、パチュリーは手渡された銘酒を眺めながら呟いた。とあるつまらない本に挟まれた金細工の栞はページ中程まで進み、時は確かに刻まれているようだ。期間を隔ててぶり返した痛みは未だに頭蓋を強く叩いていたが、それが眠りの扉をノックする音に変わる事はなかった。魔女は、今、ある思念に取り憑かれている。
ワインのラベルには数百年前の文字が描かれていた。地下に埋葬された書蔵はアルコールにとっては適温なのかもしれないが、たった数日隠されただけで薄い埃が表面を覆ってしまう悪環境は無知のなせる業だ。どうして魔導書にするように、後生大事に大図書館の棚に詰め込んだのだろうか? パチュリーは年数の浅いひとつを選び、そのコルクを抜き取った。
紅魔館のメイド長、十六夜咲夜は“時空間の緩急を操る能力”を持つ。彼女の存在はビンテージワインの価値を著しく変動させた。なにしろ、新旧銘酒の飲み比べが容易にできるのだ。入手難度が落ちるほどに味は複雑さを失い、むしろ入れ物の方にプレミアを感じるようになる――中身が入れ換わっても、施術次第では誰も気には止めなくなる。すなわち、パチュリーが酒を空ける行為とは、ジャムをひと掬いすることと同意義なのだ。
テーブル上に幾重も挿してある銀板の栞をつまみ、瓶の口に寄せる。変色はない――表立った毒物の混入はないようだ。匂いを嗅ぎ、大図書館を照らす三叉燭台の炎に一滴垂らす。考えこむよう鳩尾から空気を抜き、目配せをして、グラスに一口注いで小悪魔にそっと差し出した。毒味は、上気した酔いの声で返ってきた。
苛立ちを感じた。もうひとりの自分の姿の意図が見えず、まるで子供の描いたミミズ文字の日記を読まされているようで腑に落ちない。何を起こそうとしているのか。ワインを咲夜に問い合わせてみたところ、盗まれたものと同一であるそうだ。悩み、対策を練る内に夜は明けてしまっていた。頭痛は治まらない。
「と、云うわけできたぜ」
すると、間の悪い来客が訪れた。人間の活動する時間帯だ。地上では窓の少ない紅魔館を太陽の輪郭が照らしているのだろう。眩しい限りの笑顔を見せたのは霧雨魔理沙だ。意気揚々と人前で大図書館の魔導書を盗もうとする輩は、幻想郷を捜しても彼女ただひとりだろう。パチュリーは人間の耳にも聴こえるように大きく溜め息を吐いた。
「どういう訳よ。……『約束は今日じゃない』はずよ」
ひょっとしたら、魔理沙にも同じ怪異の手が伸びているかもしれない。カマをかけるよう言葉を選ぶが――
「何の話? んー…………ああ、『入館者100人目記念で魔導書をランダムで100冊くれる』っていう話だったな」
欲望にかまけて喋る彼女は、今回の騒動とは無関係に思えた。魔女という想起から現れるような、長い金色の髪、黒いとんがり帽子に空飛ぶ箒で武装したその人塊は、実に魔法使いであり、幻想郷に住まう価値の低い生物のひとつである。“スペルカードルール”に生かされる哀れな村娘だ。
「あなたに構っている暇はないの。これ以上、面倒事を増やさないで頂戴」
「大丈夫だぜ。本を私の家に持っていく手間は私が負担する」
知恵を持ち、爆発的に増えた人間共はまるで自然に用意された災害のようだ。幸い、大図書館で狼藉を働こうとするものは眼の前の愚図な少女だけで、紅魔館の秩序は今以上に乱れる事はない。相手をするだけ無駄だが、
「残念ながら当図書館は持ち出し禁止、そのうえ貸出禁止期間中よ。こあ、そいつを摘み出して」
大図書館の魔女は、躰に満ちた“魔”に反した親切心をここぞとばかりに発揮して、子供をあやすような感情を向けて鼻であしらってみせた。白紙。霧雨魔理沙ではなく、自分を騙る侵入者への撃退計画は白紙のままテーブルの上下に転がっており、パチュリーの語尾はどこか熱を帯びていた。
「待つんだぜ。この図書館には私の書いた魔導書があるかもしれない。というか前来た時にそれを忘れてて……」
「あなただけでは見つけるの大変でしょう? 大図書館の事を隅々まで知っている私達に任せなさい。魔理沙は家でおとなしく待っててね」 にこり、と笑んで返してやった。
「ひー」
小悪魔に追い返されていく魔理沙を遠目で送り、手を組んで机に凭れ掛かった。何が起きているか。いや小波のようなものか。他愛のない出来事に振り回されている。しかし、月の引力のよう、それは確実に困惑の海の満引きを司っている。
――――来週は、どうだろう。
頭を支配していた鈍痛が僅かに和らいだことに、彼女は気付いていない。不可思議の起こるタイミングを曜日に照らし合わせると、『月』である事が知れた。だが常に蠢き続ける天球からすれば魔術的に同一の暦であるとは言い難い。単に韻を押したのか、――七曜を基板とした生活様式を持つものならば、容易にそこに儀式性を見い出せるだろう。
人の世は、365.24219日を7で割って過ごしているという。
パチュリーは次の時に決しようと企んでいた。考えうる限りの奸計を練り、想像の稜線上の自分の姿を無数に縛りあげた。知の網の目を紅魔館に張り巡らせ、妖精メイドの一匹に至るまでに個別の情報を教え込み、どこから反響が戻ってきても謀反者が判るよう努力を怠らなかった。大図書館内にも、最近新しく開き始めた魔導書自体にマジックトラップを仕組み――……
準備4日目。未だ月に至らぬその日に、彼女は罠に掛かった。
ごく自然に生じる新芽のようにあったそれを身に受けたのは、他でもない、パチュリー・ノーレッジ自身であった。
……頭痛…………直前の記憶の混乱………………ドッペルゲンガーの闊歩………………司書の手にある目的不明のアイテム………………………
そして魔女は理解した。元凶となるべく置かれた、あるもののゆっくりとした変化を。
息は熱かった。レミリアの薦めた通りの甘い抹茶を口にして、大図書館の空隙を眺めた。薄緑色のカップ水面に、生クリームの白が風巻く雲海のよう溶けて馴染んでいく。“喰い殼”の山に埋もれた彫り細工のテーブルに、一冊の本が置かれている。正対する魔女は黙して、幻想郷の日常を回想した。
丁度、霧雨魔理沙は吸血鬼レミリアを訪ねて来館したようだ。都合が良い。――人間と魔女との闘争は、つまらない空想である。歴史に見られるほど大仰な対立はなく、実際は人類同士の内戦に過ぎない。“魔女の条件”は創作されて偽政者のエゴを満たす一方、本物の魔法使いは、あるものは人外魔境に旅立ち、あるものは村社会を治め、またあるものは首都にて人間と同じく生きた。知による自己のコントロールは、自由なる彼女達の特権だ。縦横無尽なる知の恵みが、その種族を秘匿し、また分け隔てていたのだ。
――――――いやしかし、肥大化した見識は“主体性”の境界を曖昧にする。魔女が知を駆使するのか、知が魔女を操っているのか…………魔書のよう整然と仕舞い込まれた知をいとも簡単に取り出せる事が“七曜の魔女”(パチュリー・ノーレッジ)なのか、無限大の組み合わせからなる書文より発揮される知の意に呑まれてしまう事が“動かない大図書館”(パチュリー・ノーレッジ)なのか。
手掛かりを掴むと、芋蔓式に情報は連なっていく。パチュリーは、その退屈な本を手に取った。金細工の栞が、2/3ほどの位置に突き刺さっており、あと一回の挑戦ですべてを読み切れるだろう。内容は――――……
白紙だ。
何も憶えていない。確かに歩んだはずの書上の道程が、丁寧に一句も残らないよう細工されている。開いたものの姿は、『本当の持ち主』に反映されたうえ、当の読者は眠りに襲われ動けなくなってしまう。記憶消去の術式によって掛かる脳への負担から頭痛は生まれ、また精神的作用がある魔法の特性として、掛けられたものの魔力は不安定になってしまう。
これは、“成り済ましの魔導書”だ。
では、“誰が行ったか”である。パチュリーの想起した人物は、こう話していた。
『この図書館には私の書いた魔導書があるかもしれない。というか前来た時にそれを忘れてて……』
冷えきった大図書館に白銀の息を漏らして、魔女は結論を出した。『これは悪戯である』 そうでなければ、司書やメイド長の用意した食物の説明がつかない。10日後にある謎の紅魔館の会合など、子供が嘯いたような出鱈目に過ぎない。つまらない本だ。だが、自己完結で終わるほど魔女は馬鹿ではない。こんな便利な魔書をかの魔法使いが作れるものだろうか……大図書館から本を盗むような輩が肝心の蔵書に手を付けずに悪戯だけで済ますだろうか……児戯にしては内容がお粗末過ぎるのではないか……そもそも姿を変えただけで吸血鬼レミリアを欺けるのか………………?
真実はきっとあの人間にある。
パチュリーは対峙した。場所は紅魔館エントランスに変わり、取るに足らない会話をしていた様子の三人の前にゆっくりと現れる。レミリア・スカーレット、霧雨魔理沙、十六夜咲夜の目が、訪れた魔女に集まり、その舞台の幕が開かれた。
「お、パチュリー。丁度良い所に来た。いまさっき話してたんだぜ。10日後の場所はこのエントランスでいいんだな――――」
「魔理沙。話があるの。魔導書を置いたのはあなたでしょう?」
「何を云っているか判らないぜ。さては1冊プレゼントしてくれる気だな?」
「とぼけないで。一枚だけ選びなさい」
演目はスペルカード勝負だった。脆弱な人間と頑強な妖怪が共存する幻想郷で、唯一“対等”に闘うことの出来る手段だ。互いに規則性を持った弾幕を魔術符に込め、まるでゲームのように術理の破り合いをする。これによって勝利すれば、妖怪にとっては死活問題である“精神的優位性”が確約される。ひねた魔法使いである魔理沙を圧服し吐かせるには最適だろう。
「待つんだぜ。私はまだ心の準備が、」
「問答無用! 『月&木符 サテライトヒマワリ』!」
有無を云わせず宣言し、プログラムされた“月”と“木”の《奴隷》を放出する。瞬く間に光を纏ったそれは、金糸雀(カナリア)と翡翠(カワセミ)の色と成って時計の文字盤を回るように前後、パチュリーの周囲を刻んで閉ざしていく。軌跡には一重と三重に分かれた二種類の線が引かれやがて真円を形作り、今にも魔弾として狂える時を待つようになる。それは魔女のテリトリーであった。後れを取った哀れ魔理沙は一歩踏み込めず、撃ち込む隙間を完全に失ってしまった。
「ねぇ咲夜」 「はい。お嬢様」 文字通り蚊帳の外である吸血鬼とメイド長はエントランスの端まで移動すると、まるでお膳立てでもするかのように 「咲夜はどっちに賭ける? 私はパチェ」 「では私もパチュリー様に」 「同じなんて面白くないわよ」 「お嬢様こそ人間に望みを賭けるのは如何です?」 「あーんな騙し討ちが得意な魔法使いの何処を信用するのよ」 などと傍観を決め込んだ上、きっちりと“時空間の緩急を操り”広大な魔法のバトルフィールドを作り出していた。これで紅魔館が破壊に穢れる事はない。
「さあ、時間はないわ。正直に悪巧みを白状なさい」
「時間をくれれば一緒にそれを考えてあげるんだぜ」
ああ残念。表情には見せず、喉奥でパチュリーは呟く。周遊する弾幕は、ついにその時を迎えた。咲いた光の向日葵は、対極にある光の端から順に内側に巻いて飛び跳ねていく。半円を切り裂くその線密度、実に猫一匹の隙間も空いていない。魔理沙は魔法の箒に飛び乗り、魔女を閉鎖する丸壁となった光弾を、罠に掛かり生け垣を伝う野生動物のようぐるぐると回転しつつ避けてゆくしかない。
「早くスペルカードを宣言したらどう? もう間に合わないでしょうけれど」
「いつからそんな性悪になったんだ? もっと人間味を持とうぜ」
「……くだらない」
被弾して負けを認めてしまえば、減らず口も叩けなくなるだろう。パチュリーは“知”っていた。魔理沙のスペルカードのほとんどが、八卦炉を媒介にした威力重視の“マスタースパーク”を起点としている事に。ひとたび発動してしまえば、その範囲速度は並大抵の妖怪に避けられる代物ではない。だが、遅い。魔女は“知”っていた。眼前の魔法使いは、“奴隷”の扱いが他の種族に較べ劣っており、技術が回転制御レベルで停滞している事に。彼女がどれだけ頭を捻ってパズルを組み立てようが、それを打ち砕く自信があった。そしてそれらもまた、遅い。今にも、向日葵は魔理沙の首元に喰い付こうとしている。
「チェックメイトよ……答えなさい」 肺に満ちていた平静が、ずくずくと感情に冒されていく。魔理沙に課した制限時間が、まるで自分に伸し掛かっているような錯覚に囚われた。
「何をだぜ?」 と惚ける彼女を、
「あなたの目的よ!」 魔女らしからぬ激昂で突き返した。
金糸雀と翡翠がしなって翻り、徐々に魔理沙を戦場端に追い込んでいく。魔女は安全圏で答えを待つ。手が震えていた。同じように“奴隷”の光が不安定に揺れるのを感じる。
思えばままならぬ謎に苛立っていた。自らのロジックでは納得のいく奇麗な真実を紡ぐ事ができない……酢の物に、グラス、氷、湯桶、桜の枝、転がった瓶、盗まれたワイン、冷えたタオル、約束の日、見覚えのない自分。意味さえない悪戯ならば、“意味さえなければ”知に苦しめられることなど――――――
「パチュリーこそ、自分の目的をはっきりと言えるか?」
ほんの一瞬、まるであの魔導書を開いた時のような、真っ白な忘我が訪れた。目的、意味のない、読書を続ける、くだらない瞬間、つまらない本……ヒュ、と息が詰まった音がした。気道が狭窄し、スペルカードを握る指が弛緩する。急激に衰える意志を繋ぎ止め、止まりかけた弾幕を再始動する。
――――――嗚呼、欲に意味など無いのだ。パチュリー・ノーレッジにとって、魔導書とは、生き得るための手段なのだ。だが、どうだ。魔女は、……満足していない。それも、“asthma”に苦しみ始めた遥か過去からずっと、
あの宣言に、気付くのに遅れてしまった。遅れてしまう。
「『光撃 シュート・ザ・リトルムーン』!」
すでに布石は敷かれていたのだ。無用な心配にかまけて籠っていた自分だけが見落としていた。動揺によって乱れた月の間を縫うように星弾がふわりと振り注ぎ、それは地(知)に取り付くと、極小の光の柱となって魔女の空白を貫いた。
動かない大図書館は膝を折り、魔女らしく、こう、ひねくれて、呟いた。
「……お願い。ひとりにして………………」
――――だが、同じく性根の曲がった魔法使いがそれを許すわけもなく。「負けちゃった」 そう正直に喋ったのは、賭けをしていた吸血鬼達だった。
ある期間からインターバルを置いて、妖怪も、人間も時の流れの中途にあった。屈辱のスペルカード勝負から一拍、新しい紅茶を入れ終わる程の短い休憩を挟み、大図書館では魔女と魔法使いがテーブル越しに対峙していた。間には、魔導書でなくレミリア謹製の甘いティーカップ。スプーンをぐるぐる回して、魔理沙は謂う。
「それは、パチュリーだぜ」
落ち着いて考えると、簡単な事だ。対話に闘争は必要ない。霧雨魔理沙の言葉を鵜呑みにすると、こういう事だ。“成り済ましの魔導書”は彼女のものでなく、約束はパチュリーから直接受け取った。ワインも瓶も知らない。小悪魔も、咲夜も、レミリアも、同じように――――
変わってしまったな、とパチュリー・ノーレッジは自嘲した。
想起すると、幻想郷に訪れて以来、“asthma”は鳴りを潜めた。正確には、紅霧異変より後のことだ。
「色んな考えが思い浮かぶぜ。どういう意味か、判った?」 幼稚な魔法使いは説明した異変の全容を聴いて、魔女に尋ねた。
“色々な考え”、客観性。
(そうか私は、私に囚われすぎていた)
何もかもを自分の、魔女の尺度で考えていた。彼女の弾幕に脳髄を揺らされたせいか、あの白黒の魔法使いの目線の先が気になってしょうがない。他愛ない会話、愛想ない自分の顔。魔導書を作ったものの気になって推測すると、真相はとんでもなく簡単に綻んでいった。成り済ましもコピーも存在しない。『身に覚えのない自分』は、パチュリーが創り出した幻想だったのだ。約束を結んだのは、自分自身……
魔導書の真の能力は、開いたものに“ある目的”を植え付ける。それは亡霊が憑依するようなものだ。きっと元の持ち主はその“ある目的”に執着していたのだろう。謎を解く鍵は、やはり小悪魔や咲夜に言いつけた嗜好品、そして頭痛にあった。
結論を先走ってしまうと、要は酔っ払いなのだ。グラスに氷は酒を注ぐもの、湯桶は温めるもの、桜の枝は賑やかしだ。冷えたタオルは酔い覚まし、酢の物はアルコールによって阻害された血中糖分を補うための酢酸だ。転がった瓶は飲み干した酒、本の“喰い殼”の下敷きであったのは照れ隠し、隠されたワインはとっておき、肝心の頭痛は二日酔いだ。
つまり、“飲んだくれの魔導書”だったのだ。
意図はなく、本はただそこにあった。
「意味は見つけたわ。問題は10日後よ」
10日後の約束はおそらく宴会でも企んでいたのだろう。酒は多くの連れと囲んだほうが楽しめるはず――なんて、人間みたいな考えだ。
「で、どうするんだぜ?」
当の人間に問われ、魔女は甘い、紅茶の息を吐いた。
約束の日に魔導書を開いてしまえば、おそらく黄金の栞は最後のページまで辿り着き、この“知”の迷宮より抜け出せるだろう。だが、魔女は、本ごときにその愉しみを譲るのは勿体無いと感じていた。もう一度、パチュリーは自嘲の笑みを浮かべた。
「……くだらない」
その魔導書を読み終えることはないだろう。
もし再び金細工の栞が抜かれる時があるとするなら、それは退屈な本を必要とするほど飢えた時であろう。“喰い殻”は増え続ける。七曜の魔女は、7の数字をカレンダーから取り除き、人間の扱う10進法を採用した。一歩踏み出し、引き篭もった暗い地下から遠出する必要に迫られた。
より楽しくその日を迎えるために。
Ah si, godiamo, la tazza, la tazza e il cantico,
la notte abbella e il riso;
in questo, in questo paradiso ne scopra il nuovo dì.
難しくてわからないところが多々ありましたけど
酒飲みの魔道書とは思いませんでしたね
面白かったです
文章はあくまで誰かの脳内思考というのが僕の持論ですがこの難しいいい回しこそがパチェリーなんでしょう
こういうのは逆に表現力がない、って思うよ
それにしても、パチュリーの“asthuma”の存在はすっかり忘れてましたな。最近その設定をあまり見なくなったからかもしれません
私にとっては、今作は非常に面白い内容で御座いました(拝)
追記
東方創想話は初出の作品のみ投稿可能との規約があった筈です
詳しくは、サイトトップの規約をお読みになるのがよろしいかと思います
出来ることなら、また味わってみたいものです。
ところで『シュート・ザ・リトルムーン』ってチルノ相手に思い切り手加減した懐中電灯のスペカでは。
不思議な趣のあるパチュリーが可愛らしくて、なかなかに楽しめました
余所で発表した作品については、大幅な書き直しがあれば大丈夫みたいです