なにを馬鹿な事を
ある街の夕暮れ時に、一人の女がそう呟いた。
何の変哲もない十字路である。近くに女子高がある為、この時間帯は年頃の女の子が良く通る。
女は、そんな十字路に佇んでいた。
誰も女には気が付かない。
だから彼女達は何気の無い会話をして通る。
流行りのお店だったり、お気に入りの化粧品だったり、ミュージシャンの話題だったり。
「きっと貴女は恋をしている」
誰の、どんな会話だったのか
漫画の話だったのだろうか、歌のタイトルやフレーズだったのだろうか、ただ単純に友達をからかっただけなのか。
兎にも角にも、誰かが「きっと貴女は恋をしている」等と言ったのだ。
何を馬鹿な事を
女は、八雲紫はピシャリと扇子を鳴らして
一度ではない、二度三度と、彼女に気付ける者がいたのなら、明らかに彼女が不機嫌なのが判るだろう。
「きっと貴女は恋をしている」というそんな言葉を振り払うように。
ふん、と鼻を鳴らし、実に面白くなさそうに紫はその場から立ち去っていった。
* * *
事の起こりは、そう特別な事ではない。
普段、幻想郷の管理を博麗霊夢と八雲藍に放り投げているとは言え、彼女自身が何もしないという訳でもない。
たしかに寝てばかりいるが、時折、幻想郷の様子を見て回ったりするぐらいの事はするのだ。
冥界で友人と茶を愉しみ、神社で霊夢をからかって、ふらっと人里に立ち寄ったりもする。
それがいけなかったのだ。
具体的には、人里の芝居小屋を覗いたのがいけなかった。
丁度その時の出し物が様々な演奏会であった。人間共の笛や太鼓が響き渡っていて、妖怪の音色には及ばぬが、暇つぶしには良いかと、芝居小屋に入ってしまった。
事実、悪くは無いが所詮は人間のやる事と言う程度であった。
しかし、それすら愉しむのが妖怪であると心の中で嘯いて
嗚呼、何故あの時、面白くないからと小屋を出なかったのだろう。
幾つかの演目が終わった後、出てきたのは若い男であった、手には琵琶を持ち平家物語を語ろうする。
定番である、紫はもう数え切れぬほどに聞いたことがある、慣れ親しんだ演目であった。
慣れ親しんで、何度も聞いているのに、男が語り始めると紫は思わず目を見開いてしまう。
深い深い琵琶の音色は、まさに諸行無常の響きを伴い、男の語りは栄える平家の誇りと傲慢、滅びゆく一族の狼狽と悲哀を切々と
正に名調子であった。
いつの間にか、紫は男の平曲にすっかり聞き入っていた。
他の人間達と同じように、男の語りに胸を躍らせ、興奮し、嘆いて、語り終えた時、何の疑問もなく惜しみない拍手を送った。
こんなにも素晴らしい名人がいたのか。
紫は素直にそう感嘆し、居てもたってもいられずに楽屋に引っ込んだ男を訪ねた。
無論、不躾だとかそんな考えは無い。妖怪の賢者たる彼女に、そのような感性は人間に向けられるものでは無いのだ。
いつも通り、スキマを通って、何の前触れもなく男の前に現れた。
「今晩は」
物腰だけは優雅に、しかして物言いは不遜に。
「あぁ、今晩は」
男は突如として現れた紫に、特に驚きもせず自然に挨拶を返した。
それが、紫の自尊心をほんの少し傷つけた。
馴染みの霊夢とて、この様な現れ方をすれば眉根を潜めるのだ、だというのに、男は何の反応も無い。
「驚かないのかしら?」
紫は挑発するように
「幻想郷ですから」
男は何でもないように
それが紫にとってはますます面白くない。
「妖怪を前にして、ずいぶんと余裕ね」
「妖怪だから何だというのです?」
「貴方をとって喰うかもしれないわ」
「取って喰うのですか?」
余りにも大真面目に返されて、面くらって紫は少し考えてしまった。
別にこの男を喰いに来た訳では無い、売り言葉に買い言葉という調子で言ってしまっただけだ。
「いいえ」
すこし、頭を冷やして否定する。
「では、どうという事はありません」
男は呵呵と笑う。
本当に、どうという事もなさそうであった。
紫は手にしていた扇子をピシャリと鳴らし、苛立つ内面を覆い隠して、またなにやら胡散臭い笑みを浮かべる。
「さっきの平曲、聞かせてもらったわ」
「それは、有難うございます」
「ずいぶんと修行を積んだのね、若いのに」
「祖父より仕込まれました」
「貴方ほどの名人を育てるなら、その祖父も名手だったのでしょうね」
「それはもう、私など及びもつきません」
「ふぅん」
琵琶の手入れをする男と、扇子をピシャリと鳴らす紫。
奇妙な間の取り合いである。
「幻想郷にこんな琵琶の名人がいるなど知らなかったわ」
「祖父は琵琶の腕を磨く事だけに腐心して、人前で語る事はありませんでしたから」
「へぇ……でも、貴方はこんな処で語るのね」
人との交わりを絶って己を高める。まごう事無き哲人である。
哲人の弟子、しかも血を受け継ぐものが、哲人の在り方から転げ落ちるのか。
そんな皮肉を混ぜている。
「えぇ、どうにもこうにも、自分がどこまで通用するのか試してみたくなりまして」
通用しない。
「お爺様は怒らないのかしら?」
「祖父は一昨年無くなりました。喪も明けましたし、我慢の限界と言うやつです」
男は琵琶を一鳴きさせる。
たったそれだけなのに、思わず目を瞑って余韻に浸りたくなるような、そんな時間が生まれた。
琵琶を手にした男は、幸せそうであった。
紫はそれが自分の事をあまり気にかけていないように見えて仕方がない。
彼女は、八雲紫は妖怪の賢者であり、幻想郷の実質的な最高責任者である。
紫を見知ったものは、友人を除いて恐れか畏れを抱くものだ、それが妖怪の本分と言うもの。
「自己紹介がまだだったかしら、私の名は八雲紫よ」
「八雲様……あの、八雲様で?」
「えぇ、その八雲」
「おお、これは、こちらも名乗らず失礼を」
「いえ、先ほどの語りで名乗ったでしょう?」
「あ、そういえばそうでしたな」
動揺もしない。
恐怖も、畏怖もなく、ただ単純に八雲紫を客としてのみ観ている。
「……まぁ、いいわ。兎に角、先ほどの語りは見事だった。私が言いたいのはそれだけよ」
こういう時こそ、優雅に振る舞わなくてはならぬ。
実際にはどうにも巧くいっていないが、少なくとも、自分を恐れぬ不遜な男への苛立ちは抑えこめていた。
すると、男は実に嬉しそうに笑い。
「こちらも礼を申しましょう」
と返すばかりである。
もうなにか相手にするのもバカバカしくなって、紫はさっさとスキマの中に身を潜めてしまった。
スキマが閉じる直前、男が笑顔で頭を下げる、その光景を目にしながら。
* * *
それから、しばらくという程でもない時間が経った。
普段は寝ている紫であったが、男に妖怪としての自尊心を傷つけられてからというもの、人と同じ程度にしか眠らず
気を紛らわせる為に幻想郷をフラフラしている。
どこに行っても左程に歓迎される訳では無い。
胡散臭い、得体の知れない、油断のならない妖怪婆、それが幻想郷に住まう人妖の八雲紫の評価であり、どんなものでも紫に畏怖と恐怖を持つのだ。
紫はそういう視線や言葉を受ける度、心が満たされるのだ、なぜならばそれこそ妖怪である八雲紫に対する敬意の払い方というものである。
恐れもしなければ敬いもしない等、妖怪に対して取ってよい態度ではない。
面白くもなんともない人里を避けて、今日もさて何処にちょっかいを出してやろうかと思案していた時、彼女はなんとも言えない心地よい嫌な音を聞いた。
琵琶の音である。
はて、人里から離れた霧の湖に近いここで琵琶の音とは。
新入りのあの付喪神達が演奏でもしているのだろうか。
いいわ、今日の獲物は付喪神にしましょう
新人にルールを教えてやるのも先達の勤めである。
琵琶にあまり良い感情の無い紫の、ある種八つ当たりようなものだが、それを当たり前として彼女は行動する。
さて、どの様に遊んでやろうか、無駄に高い知能を無駄な方向に働かせてほくそ笑むが、いざそれを見て、たちまちの内に不機嫌になった。
何故なら、そこには見知った男の顔があった。
何時ぞやに聞いた時と同じような見事な腕前で琵琶を奏でている。
なんでこんな処にいるのよ
人里から離れた場所で、妖物を前に語っている。
面白くない。
扇子をピシャリと鳴らして、紫はふと思いつく。
幻想郷の妖怪は人を襲う怪物共である、人里にいるならまだしも、こんな場所で呑気に琵琶などやっていれば直ぐに誰かが喰ってしまうだろう。
喰われずとも、妖精かなにかのいたずらで痛い目をみるかもしれない。
だがどちらでも良い、幻想郷の法より外れたあの男には良い薬であろう。
不遜な男だが、琵琶の腕だけは本物である、それを聞くこれが最後になるかもしれない。
そう考えれば、余裕が生まれるというものである。
紫は男に気付かれない処から、スキマに腰を下ろし、じっくりと男の無様な姿を眺めてやるつもりであった。
ただ、世の中、巧くいかない時はとことん巧くいかない。
最初は、紫のにらんだ通り妖怪や妖精等がぞろぞろと集まってきたのだ。
さて、誰が一番最初にちょっかいを出すのかと期待を込めて待ってみても、誰も手を出そうとしない。
否、そればかりか男の語りに感嘆の息を漏らす者までいる始末。
なれば妖精はどうかと観てみるが、感性の幼い彼女たちは男の語りをあまり理解出来なかったのだろう、早々に興味を失って立ち去る者が大半である。
残った連中も、妖怪にアレはいったい何なのかと問うたり、静かに聞き惚れるものばかり。
以前から腑抜けていると思っていたが、まさかここまでとは。
男以上に呑気な妖共に頭を痛くしながら、気が付いてみればもう日が沈もうとしている。
辺りには妖怪と妖精の拍手が響き、男がキョトンとした顔をしながら周囲に頭をさげていた。
よもや妖怪達がここまで集まっている事に気が付かなかったのだろうか、何かに夢中になると周囲が見えなくなるのはままある事であるが。
ひょっとしたら、この男は馬鹿なのでは無いだろうか。
幻想郷に住まう者なら、逢魔が時がどれほど恐ろしいか知っている。
故に大抵の者は、里からは出ないし、時間を忘れるなどという事は滅多にない。
男はいつの間にやら帰路に就くか、ここから里までの間で日は暮れてしまうだろう。
さて、どうしたものかと紫は思案する。
少し、脅かしてみましょうか。
丁度良い、この間の、自分を恐れなかったという態度への意趣返しも出来る。
紫はほくそ笑むと、大分濃くなった闇の中にその身を溶かす。
紫にとって、闇と一つになるなど容易いことだ。夜の帳が全てを覆う時刻ともなれば、紫は夜そのものと同義と言っていい。
男の手には、足元を照らす提灯一つ。
勿論、そんなものは何の意味も無い。
さっと提灯の火を呑み込んでやる。
男がはて、と首を傾げ足を止めるのを見計らって、紫は男を小馬鹿にするような高い笑い声を上げた。
まずは定番のシチュエーションで小手試しである。
紫は妖怪であるからに、古き良き古典というものをこの上なく気に入っている。
人間を脅かすにはこれがなかなかどうして効果覿面なのだ。
覿面なのではあるが……
「八雲様でございますか?」
極めて、あっさりと正体を看過されてしまう。
実に、バツが悪い。
悪戯のばれた小娘のような心持であった。
「えぇ、そうよ」
憮然とした表情で闇の中から抜け出す。
男の方は相も変わらぬ間の抜けた感じで
「これはこれは、お久しぶりでございます」
と言う始末。
「良くわかったわね」
「聞き覚えのある声でしたので」
簡単に言うが、実際の処簡単ではない。
話をしたと言っても大したものではないし、普通の人間ならば突然あんな状況になれば気が動転してまともな判断などつかない。
「貴方は、妖怪が恐ろしくないのかしら」
「そうですね、やはり死ぬのは恐ろしいものです」
「その割には、あの妖怪達を恐れている様子も無かったわ」
「彼らはまぁ、私を殺そうとはしていませんでしたので」
「あら、では私が貴方を殺そうとすれば、恐怖するのかしら?」
「するでしょう」
……どうにも男の真意が掴めない。
虚勢を張っているにしては落ち着いている。
紫は、何の前触れもなく男の首に手を伸ばした。
人の首を圧し折るなど容易い手である。
男の口から、か細い呼吸音が漏れる。
紫は手に力を込めて、男を更に締め上げた。
呼吸音だけではない、苦痛の音が漏れる。
男は紫の腕を掴む。
もがく、その姿、苦痛にゆがむその顔。
人が妖怪を前にして、あるべき姿。
暖かい体を、無造作に冷たく出来る、怪物の本分。
さぁ、どうかしら?
紫は、男の瞳を覗き込む。
そこに浮かぶ、恐怖の色。
あぁ、所詮が人間なのだと、判りきった事を再確認できる。
恐怖を持たぬ人間等いない、故に妖怪は人を超えた存在なのだ。
紫はその事に満足して、男を突き放す。
這いつくばって、咳き込む男。
なんて、みっともない。
「夜の妖怪を前に、何も起きないと思っていたのかしら?」
何時もの調子を取り戻して、紫はほくそ笑む。
男は何か言おうとしているが、首を絞められたせいか上手く声が出せずにいる。
その姿がまた滑稽で、紫はしばらく眺めていたくなった。
男の恨み言も聞いてみたい、絶対的な力の差の前にはどんな言葉も所詮が負け犬の遠吠えである。
ただ、紫は一つ失念というか、思い違いをしていた。
この状況、ただ単純に紫が一方的に絡んで、一方的に力比べに持ち込んでいるというだけだ。
無論、普通の人間ならば、そんな理不尽に反抗しようとするだろう。
そう、普通の人間ならば。
「……あ、ァ、あー、あーあー……あぁ、良かった、声が出る」
うん? と紫は首をかしげる。
はて、何かおかしくは無いか。
この場合、もっとこう、自分に向けてなにかしらの感情が向けられるべきでは無いだろうか。
恨みの視線だとか、恐怖で足が動かなくなるだとか。
だというのに、この男は声の心配をしている。
「……声が出るのがそんなに大事?」
「それは、もう、声が出なければ語りができませんから」
「…………………………はぁ?」
こんな、素っ頓狂な声を出すのは何年振りか。
「まさかと思うけど、自分の命の心配じゃなくて、自分の芸の心配をしているの?」
「えぇ」
紫は、本気で頭を抱えたくなった。
もしかしてさっきの恐怖の色も、八雲紫への恐怖とか、死への恐怖とかじゃなくて、語りが出来なくなる事への恐怖なのだろうか。
「貴方、もしかして馬鹿?」
「……何故です?」
「普通は、命の心配をする場面だわ」
「……あぁ、そうかもしれません」
「……訂正するわ、もしかしてではなくて、貴方は正真正銘の馬鹿ね」
そうだ、この男は馬鹿なのだ。
自分の芸や趣味しか目に入らず、他の事など全て些事としてしか映らぬ人間というのは時折出てくる。
馬鹿だから、妖怪が恐ろしいとかどうとか、こいつはどうでもいいのだ。
八雲紫という妖怪も知ってはいるが、どうでもいいのだろう。
妖怪の賢者だとか、幻想郷の管理者だとか、この男の前では意味のない肩書なのだ。
そんな馬鹿な男に、自分は勝手に力んで突っかかって。
ああもう、なんて馬鹿馬鹿しい。
指を鳴らして、消えていた提灯の火を戻してやる。
もうこの男にちょっかいを出しても意味が無い。
琵琶を砕き、指を引きちぎって、舌を切り取ってやれば苦悶にのたうち回るだろうが、結局は琵琶が出来なくなるという絶望が残るだけだ。
死ぬのが恐ろしいというのも、死ねば琵琶が弾けないという恐ろしさだろう。
自分への恨みも、恐怖も在りはすまい。
「早く家に帰りなさい、道中にはまだまだ私の様に恐ろしい妖怪がいるものよ」
「はぁ、ご忠告、有難うございます」
この調子だ。
なにかもう、色々と疲れた感じがして、紫はさっさとスキマの中に入って行ってしまった。
* * *
それから、幻想郷に琵琶の名手がいるという話は瞬く間に広がっていった。
元より狭い世界である、更には語り演じるに場所を選ばぬ馬鹿であるとすれば、話が広がらぬのがおかしいというもの。
ある時は人里で、ある時は紅魔館で、ある時は命蓮寺で、ある時は神霊廟で、ある時は守矢神社で。
果ては天狗の前で披露して、本当にどこにでも行った。
紫も、それに釣られて彼方此方に出向いた。
相手が馬鹿なのだと判れば、もはや紫にとっても男はどうでもよかった。
ただ、その琵琶の腕前だけは紫も価値を認める処である。
立ち寄った先で男が演じていれば、足を止めて耳を傾けて、男の琵琶を愉しむ。
そうなれば、言葉を交わす機会もそれなりにある。
不信感も、疎む事も、恐怖も、敵対心も何も無い、ただの八雲紫としての言葉を交わせるのは西行寺幽々子以外にこの男ぐらいである。
しかし、男は幽々子程に賢くも無ければ、超然としていない、故に、たかが人間風情が、八雲紫と無色の会話を交わせるなど、前代未聞であるとも言える。
「今日は何処で演奏かしら」なんてバカみたいな意味のない話から、男の馬鹿さ加減をからかう事もあった。
「また腕を上げた?」なんて言った日には、男は本当に嬉しそうに、「有難うございます」なんて、まるで親に褒められた子供の様で。
男は馬鹿だから、馬鹿なりの反応というのもそれなりに面白くもある。
判ってしまえば良い暇つぶしになるものだ。
いつの頃からか、紫は立ち寄った先で琵琶を聴く、のではなく男の琵琶が鳴る場所に向かうようになっていた。
そんな事が続いていたある日、博麗大結界の管理を終えて主の住まいに戻ってきた八雲藍は「おや?」と首を傾げた。
笛の音である。
豊かな、そしてなんとも典雅な笛の音は、藍にとってかなり久しぶりに聴くものであった。
屋敷にあがると、やはり主が笛を奏でている。
何処で手に入れたのかは忘れてしまったが、何処かの時代のどこかの名人が造った龍笛である。
そしてその名物にふさわしいだけの技量が八雲紫にはあった。
「あら、お帰りなさい藍」
「は、ただいま戻りました」
唐突に声をかけられ、藍は慌てて頭を下げる。
「どうしたのですか、紫様」
「ん? あぁ、笛の事?」
「はい、紫様の笛など、ここ数年とんと聴いておりませんでしたので」
大抵の事はやろうと思えば何でもできる主であるが、それ故に大抵の事はやろうとしない。
楽器にしても笛以外の様々なものを奏でられるが、そのどれも滅多に聴く機会など無いものだ。
突然笛などと、しかも妙に楽しそうになんぞ切欠でもあったのだろうか。
と考え込む藍であったが……別段、特別な理由など何もない。
ただ、今日も男にちょっかいを出してきた時に、「紫様は楽器を嗜まれないのですか?」と問われただけである。
それで、家に笛を仕舞い込んでいたのをたまたま思い出し、折角だからと吹いてみたにしかすぎない。
実に単純な話だ。
まぁ、単純であろうと複雑であろうと、藍が知る由は無いので不思議に思うのは仕方のない事だ。
主の方は、そんな自分の式に対して、いつも通りの意味がある様でまるで意味のない、胡乱な笑みを浮かべたまま、再び笛を奏でる。
それにしても、やはり見事なものだ。
主の笛に耳を傾け、藍は深く感嘆する。
人間や並の妖怪であれば、何年も離れた芸をもう一度やるというのはかなり難しい。
ブランクを感じさせないその腕前は、やはり八雲紫だと言わざるを得ないだろう。
「あの琵琶の名人にも負けていないな」
ぽつり、と漏らしたその一言で、再び笛の音が止まる。
「本当に?」
「は?」
「彼の琵琶に、負けてないかしら」
「え、えぇ、もちろんですとも」
世辞では無い。
藍も最近話題になっている琵琶を聴いた事がある。
人間がここまでやるものか、と確かに驚いたが、紫の笛とてそれに負けるものでは無い。
たったそれだけの事なのに、
「そう、負けてないのね」
などと実に楽しそうに。
一体何があったのだろう、と藍は益々判らなくなるのであった。
彼の琵琶に負けていない。
自らの従者にそう言われた翌日、実に八雲紫は上機嫌であった。
永らく仕舞い込んでいた笛を引っ張ってきた甲斐があるというもの。
自分でも吹くのが実に久しぶりだったので、どれほどかと試してみたが、これならば何の問題もあるまい。
今日は、彼の前で自分の笛を披露するのだ。
琵琶にしか頭にない馬鹿な男だが、それ故に音楽に関する感性は大したものだ。
自分の笛を聴かせてやれば、大いに驚くにちがいない。
それで、琵琶と笛を交えて演じるのも、面白いのではないだろうか。
その姿が目に浮かぶようで、紫は鼻歌なんぞを交えながら、幻想郷を気ままに流れる。
彼を探す必要など無い、どこからか琵琶の音が聞こえてくれば。
その中で最も美しい音を辿るだけでよいのだ。
博麗霊夢を探すのに、神社に行くのと同じようなものである。
紫自身が気が付く前に、紫はその音を捕まえて、晴れた春の日のような、実に清々しい気分でするりするりと音鳴る方へ。
ただ問題は、朝晴れていても、昼や夕に晴れているとは限らない事であった。
「すごい……本当にすごいわ貴方!」
女の声である。普通ならば、響きのよい声だというべきかもしれない。
紫にとっては、遠雷のような嫌な予感を感じさせる響きであったが。
スキマから顔を出して、様子をうかがう。
其処には、琵琶を手にした彼の姿。
そしてその前に妖怪が三匹。
割とよく見る光景である。
ただ、その妖怪が問題であった。
「まさか、こんな人間がいるだなんて、想像もしていなかったわ」
捲し立てるあの付喪神、そう、確か九十九弁々と言ったか。
彼に詰め寄り、ひたすらにその技巧に興奮している。
たったそれだけの事なのに、紫はカチンときてしまう。
「もう、姉さんったら……」
「まあ、仕方ないんじゃない?」
後ろで苦笑しているのは、九十九八橋と、堀川雷鼓。
たしか三人一組で行動している連中であるが、今日は何をしているのか。
いや、何をしているのかは判る。
あれほどの琵琶の名手、楽器の付喪神である彼女たちの興味を惹かないはずがない。
大方、話を聞いてやってきて、実際に聴いてみたと言った処だろう。
「それにしても、人間があれだけやるなんて」
「あら、そう驚く事でもないわ。外の人間には、想像もつかないぐらい高い技量をもった人間が時折現れるもの」
「えぇ~? そんなの一握りじゃないの?」
「一握りでも居るのは事実、多くの人間を魅了して、伝説を創る。生きている内も死した後も、人間を惹き付ける、まさに神のような人間がね」
外の世界の奏者等と、彼を比べるというのか。
外の世界の奏者等、音楽で喰っているような人間ではないか。
愚かな夢を描いて、夢に破れて落ちぶれるもの、折角の技量を己の欲で台無しにしてしまうもの。
そんな連中と一緒にするのか。
バカバカしい、彼はそんな下らない存在ではない。
ただ純粋に、琵琶の事だけに己を打ち込む、そう……
「その子を弾いている時の貴方、まるで琵琶の化身みたい」
そう、琵琶の化身だ。
無心に、無情に、肉の一筋、骨の髄に至るまで、ただ、琵琶を奏でる為の存在に。
故に、美しいのだ。
心を持った道具だけは、たどり着けないような、そんな領域。
「ねぇねぇ、今度、私たちと一緒に演奏しない?」
「琵琶の付喪神として、貴方のような名人と一緒にできるなんて、すっごく名誉な事だわ」
思わずピシャリと扇子を鳴らし、4人の視線が紫に集まる。
いつの間にか、紫は彼らの前に堂々と姿を現していた。
「ゆ……」
「ごきげんよう」
彼が口を開く前に、紫がそれを遮り
口元を扇子で覆い、自分自身の表情を遮る。
「あら八雲紫じゃない、どうしたのかしら?」
なにやら不穏な空気を生み出す状況に、九十九姉妹を護る様に雷鼓が前に出る。
「どうという事でもないわ、ただ、貴方達が人間と一緒にいるのが珍しくてつい」
「珍しい?」
「珍しくないかしら? 特にそこの姉妹は、あんなに下剋上だと息巻いていたのに」
過ぎた過去を掘り出されて(掘りだすほどの昔ではないが)九十九姉妹もむっとする。
「なにかいけない事?」
「いけなくはないけど、ねぇ……道具の世界、道具が楽しめる世界、それはもういいのかしら?」
「それとこれとは別の話よ」
「どう別の話?」
「私たちは道具だもの、道具ならば善き使い手に出会うのも一つの幸せよ」
ドンと雷鼓は自分の太鼓を叩いて紫の挑発を受け流す。
そう、挑発だった。誰の目から見ても、判るぐらいの。
「そ、そうよ! 私たちは妖怪だけど、付喪神だもの、よりよい音の為に誰かと演奏するのがいけない事なの?」
「あの時の事を、否定するわけじゃないけど、名人に出会えば心躍る、道具の本分のようなものよ」
姉妹も負けじと反論する。
全くの正論である、紫がとやかく言うような事では無い。
「でもねぇ、貴方達は自立した道具、妖怪よ」
「だから何よ」
「妖怪なれば、妖怪としての求道を行うべきじゃないかしら、付喪神として、付喪神なりの音を求めるのが良き事ではなくて?」
「……それは違います」
なにやら泥仕合になりかけた場を、男の声が切り裂く。
紫は驚いて、そちらに目を向けた。
「求道に、人も妖怪もありません」
「……人間と妖怪は違うわ」
「何が違うというのですか」
「何もかも違うわ」
「何もかも違うのならば、紫様と私は言葉を交わしておりません」
「言葉が通じれば同じなのかしら?」
「少なくとも、同じように心を交わせます」
心をかわせる?
なに、ばかな事を言っているのか。
馬鹿な男だとわかっていたが、ここまで馬鹿であったとは。
心のざわめきで体が熱くなるのを感じて、何かを言い返そうとするが、巧く言葉にできない。
「紫様は、私の琵琶を見事だと仰られた」
「それが、何?」
「貴女は私の琵琶を解する心をお持ちです」
「……」
「私も、彼女たちの演奏を理解できます。お互いに理解できるのであれば、そこに人と妖怪などという差は、少なくとも大きな障害になり得ないと私は考えます」
「……つまり、貴方は自分の琵琶の為に、彼女たちとも手を取るというのね」
「無論です、共に奏でたいというのならば、私はそれが私の規範の許す限り誰とでも奏でましょう」
誰とでも、奏でましょう
その一言が、なぜだか紫には苦しかった。
当たり前の事を言っているはずなのに。
彼に自分の笛を披露しようと思って、ここに来たのを、まるで無碍にされたようで。
琵琶の事しか頭にない馬鹿な男だから、彼にとって特別なのは自分の琵琶の技量だけなのだと
その他は、ほとんど関心を払わないのだとわかっていたのに。
それが悲しかった。
「そう、そうね……邪魔をして、悪かったわ」
まっすぐに自分を見つめる男の視線に耐えられなくて。
紫はその場を立ち去る。
わざわざ、懐にいれて持ってきた笛が、嫌に重く感じられた。
* * *
それからというもの、八雲紫の日々は暗鬱なものに様変わりしてしまった。
何日もふて寝しても
博麗霊夢をからかっても
小生意気な天人を小突いても
西行寺幽々子との一時すら面白くない。
いや、幽々子はなにか嫌な笑い方をしていたのが癪に障ったのが面白く無いのだが。
愚痴を言うのは自覚していたから、口だけでもいい思いが出来るように折角上物の清酒を持って行ったのに、幽々子は紫が何か言う度にニヤニヤと笑うのだ。
お蔭でいくら酒を煽っても酔う事すらできない。
幽々子だけが旨そうに飲むのが更にいやらしかった。
今だって、お気に入りの煙管で煙草をふかしているが、ちっとも気が晴れない。
吸い口と雁首に牡丹の刻まれた、見事な煙管である。
対となる煙管盆にも装飾として獅子の蒔絵が描かれていて、なんとも力強い。
獅子と牡丹。
それを見て紫は思いついた。
そうだ、この処、妖怪らしいことをしていないではないか。
強き獅子とて、体の中に忌々しい虫がいれば、その虫の為に命を落とす事だってある。
所謂「獅子身中の虫」であるが、獅子はその虫を殺すために牡丹の夜露を飲むのだ。
それ故に、獅子に牡丹は必要な存在であり、よく組み合わされて描かれる。
いや、そんな事はどうでもいい、問題は夜露である。
獅子にとっての薬が牡丹の夜露ならば、妖怪たる紫にとっての薬とは人間の生血だ。
恐怖と混乱に歪む人間の命を食らう。
そう、自分は妖怪なのだ、人間のような気の晴らし方では足りない。
幻想郷の管理者として幻想郷の人間は喰わぬ、故に目指すのは外の世界である。
うん、若い娘が良い。
好奇心の塊のような若い娘ならば、演出を考えて襲えばその恐怖は正体不明の噂となって駆け巡るだろう。
その噂を弄って、しばらく楽しめるかもしれない。
思い立ったが吉日である。
煙管の灰を灰皿に落とすと、煙管の始末もそのままに、スキマの中に身を潜めた。
ただ人を襲えばいいというモノでは無い。
恐怖の伝播には演出が必要だ。
そう、確かなのか不確かなのか、曖昧な情報こそ恐怖の最高のスパイス。
人が消えたのは確かな事、しかし、どのように消えたのかが判らない。
消えるにはルールがあるのか、条件があるのか。
それとも無差別に消えてしまうのか。
最初さえ巧くいけば、後は勝手に人間が脚色してくれる。
ふふん、馬鹿な人間共。
上機嫌に嘲笑いながら、十字路で逢魔が時を待つ。
朝はいけない。
日が昇る時間に人間は本能的に恐怖を抱かない。
日中はいけない。
人間が沢山いすぎて、仕掛けを施す事が出来ない。
夜も良くない。
単なる不用意な人間がいなくなるだけである。
だから夕刻が良い。
夜への不安があり、日中ほど人が集まらず、夜ほどに警戒もしていない。
人間の心の隙間が生まれる時間だ。
後は獲物が来るのを待つだけ。
2、3人ぐらいで、この十字路でバラけるのが丁度いい。
さっきまで一緒だった誰かが、振り返るともういない、それがベストだ。
出来れば可愛い子なら尚良いのだけれど。
久しぶりの狩りで、気分も高揚していた。
扇子の下で舌なめずりなどをして。
だからこそ、その一言がどうしようもなく不意打ちで、とてつもなく鋭く突き刺さってしまった。
「貴女はきっと恋をしている」
あまりの言葉に、紫は固まってしまった。
紫に向けられた言葉では無い。
言葉を交わしているわけでも、姿も現していない。
それでも、何故だか紫の深い場所を抉られるような気持であった。
何を、馬鹿な事を
そう呟いて、ピシャリと扇子を鳴らす。
どうでもいいことだ、早く獲物を探してしまおう。
紫は改めて夕暮れ時の十字路で網を張ろうとする。
夕暮れ? 十字路?
人間共に恐怖を与える為に選んだシチュエーション。
でも、これではまるで……
まるで、辻占いじゃない
なら、あの「貴女はきっと恋をしている」が、宣託だとでも言うのか。
何を、馬鹿な。自分が恋をしている? 誰に? 彼に?
ピシャリ、ピシャリと扇子が鳴る。
もう何もどうでもよくて、不愉快すぎて結局、狩りをやめる羽目になってしまった。
* * *
人食いの愉しみまで潰れてしまって、またも紫は悶々とした日々が待っていた。
家にこもって寝るか煙草を呑むかのどちらかで、何をする気にもなれない。
かといって、こうしているとあの「恋をしている」という言葉がリフレインしてやはり落ち着かない。
八方塞がりである。
そうなるとますますイライラしてくる。
全く、あんな馬鹿な男のせいで
琵琶の事しか頭にない、馬鹿な、人間の男。
そんなやつのせいで、どうして自分がこうも悩まなくてはいけないのか。
ピシャリと今までにないくらい大きく扇子を叩いて、紫はもうなんでもいいから文句を言う事にした。
原因は判っているのだ、原因をなんとかすればいいだけの話なのだ。
直接会って、文句を言ってやろう、何もかもお前のせいだとおもいっきり詰ってやる。
八雲紫らしくない? 妖怪の大賢者としての品格?
知った事では無い。
人間にここまで悩まされるなど、そっちの方が妖怪の沽券に係わる。
そうだ、悩む必要なんてない。
会おう、彼に会うのだ。
紫は手もとにあったものを掴むと、スキマを開く事も忘れて、幻想郷へと飛び出していった。
幻想郷の空に上がれば、そこはもう紫の庭である。
ここは自分が造った世界だ。
どこに彼がいようと、紫はすぐに探し出せる。
今なら、彼が琵琶を奏でていなくたって見つけられる。
だから、紫はまっすぐに飛んでゆく。
男の元へ、彼の元へ。
何日も会っていない、その鬱憤をそのまま速度に変えるように。
そして彼の姿を捉えると、思わず名前を呼んでしまった。
彼が、振り返る。
相も変わらず琵琶を抱えて、いつもと何も変わらぬ姿で。
自分を捉え、自分とは全く違う落ち着いた声で当たり前の挨拶をしてくる。
「これは、紫様、お久しぶりでございます」
たった、それだけで、八雲紫は何を言おうとしたのか忘れてしまった。
と言うよりも、何を言おうとしていたのか考えていなかったのを思い出してしまった。
自分は、いったい何の文句を言おうとしていたのだろうか。
馴れ馴れしく、名前を呼ぶことだろうか。
いや、それはもう随分と前からそうだった気がする。
彼にあっていない数日が嘘の様に、紫の中の暗い雲が晴れてゆくようだった。
「紫様?」
「え? え、えぇそう、お久しぶりね」
「はい、この処、姿がお見えにならないので心配しておりました」
「あら、人間に心配される程に落ちぶれてはいないわ」
「ははは、巫女殿も同じような事を申していましたよ」
巫女? 霊夢の事だろうか。
「霊夢に会ったの?」
「はい、紫様の事を知っていそうなのを他に思い至りませんでしたので」
自分の事を訪ねる為に霊夢に問うのは、そう不思議な事では無い。
博麗の巫女が幻想郷の抑止力であるというのは誰でも知っているのだから。
問題は、彼が霊夢を訪ねた理由だ。
もしかして、本当に自分の事を心配していたのだろうか。
「……そういえば、あの付喪神達と共演するという話はどうなったのかしら」
「はい、今度、守矢の方々がなんぞ行事を行うというので、その場で演じさせていただく事に」
「ふぅん」
守矢か、今度はなにをやるつもりなのやら。
まぁ、そんな事はどうでもいい。
「それで、彼女たちとの感想は?」
「いや、流石は楽器の付喪神の方々ですな。素晴らしい音を出される」
貴方の方がずっと素晴らしい。
紫は素直にそう思った。
そして、あの付喪神達に負けたくないという気持ちも、同時に湧きあがった。
「それじゃあ、今度は私とご一緒してくれるかしら」
「紫様と?」
「えぇ、これでも笛には自信があるのよ」
懐から、一本の龍笛を取り出す。
あの日、結局使ってあげられなかった笛だ。
「無論、喜んで」
無邪気な、満面の笑顔を浮かべて、男は琵琶を構える。
紫は笛に唇を当てる。
観客など誰もいない、純粋な協演が始まった。
紫の笛が旋律を奏でて、男の琵琶がそれに応える。
打ち合わせなど何もしていないが、名人同士の呼吸というものなのだろうか。
本当に、馬鹿な男ね。
そうだ、この男は馬鹿なのだから、自分が悩む事など何も無いのだ。
馬鹿だからまっすぐで、それ以外に何も無い。
誰かを傷つけるような意志なんて持たないだろう。
貶めるような事だって考えない。
だというのに、なんで自分は勝手に沈んでしまったのか。
琵琶だけに関心を払い、琵琶だけを突き詰めようとする男を横目で見て、紫は嗤う。
その時だった。彼と視線が合ったのは。
視線と彼の笑顔が、紫に向けられたのは。
紫は、あ! と思わず調子を狂わせそうになる。
琵琶の化身たるこの男が、琵琶を奏でている最中に、自分を見た。
たったそれだけの事なのに、紫は恐ろしく熱くなる自分を抑えられなかった。
自分自身から湧き出る熱が、笛に活力を与え、それが男の琵琶をますます冴えさせる。
あまりにも幸福な一時。
その日、日がすっかり沈むまで、二人はその時間を共有し続けたのであった。
* * *
数日後、守矢の神事が執り行われ、神事にて彼と付喪神達の演奏が捧げられた。
神も人も、妖怪も感嘆するほどの見事な場であり、紫も賛辞をおしまない舞台であったが、その中で紫は些細な違いを見つけた。
それはいつも通りの彼の姿だ。
ただ、琵琶を奏でる事だけに集中し、そこに全てを捧げる彼の姿。
演じる中で、決して他に意識を向けたりはしない。
それだけの事だが、紫はとても上機嫌で、鼻歌交じりにその場を後にする。
だからこそ、その後ろ姿は、どうしようもなく恋をしていた。
ある街の夕暮れ時に、一人の女がそう呟いた。
何の変哲もない十字路である。近くに女子高がある為、この時間帯は年頃の女の子が良く通る。
女は、そんな十字路に佇んでいた。
誰も女には気が付かない。
だから彼女達は何気の無い会話をして通る。
流行りのお店だったり、お気に入りの化粧品だったり、ミュージシャンの話題だったり。
「きっと貴女は恋をしている」
誰の、どんな会話だったのか
漫画の話だったのだろうか、歌のタイトルやフレーズだったのだろうか、ただ単純に友達をからかっただけなのか。
兎にも角にも、誰かが「きっと貴女は恋をしている」等と言ったのだ。
何を馬鹿な事を
女は、八雲紫はピシャリと扇子を鳴らして
一度ではない、二度三度と、彼女に気付ける者がいたのなら、明らかに彼女が不機嫌なのが判るだろう。
「きっと貴女は恋をしている」というそんな言葉を振り払うように。
ふん、と鼻を鳴らし、実に面白くなさそうに紫はその場から立ち去っていった。
* * *
事の起こりは、そう特別な事ではない。
普段、幻想郷の管理を博麗霊夢と八雲藍に放り投げているとは言え、彼女自身が何もしないという訳でもない。
たしかに寝てばかりいるが、時折、幻想郷の様子を見て回ったりするぐらいの事はするのだ。
冥界で友人と茶を愉しみ、神社で霊夢をからかって、ふらっと人里に立ち寄ったりもする。
それがいけなかったのだ。
具体的には、人里の芝居小屋を覗いたのがいけなかった。
丁度その時の出し物が様々な演奏会であった。人間共の笛や太鼓が響き渡っていて、妖怪の音色には及ばぬが、暇つぶしには良いかと、芝居小屋に入ってしまった。
事実、悪くは無いが所詮は人間のやる事と言う程度であった。
しかし、それすら愉しむのが妖怪であると心の中で嘯いて
嗚呼、何故あの時、面白くないからと小屋を出なかったのだろう。
幾つかの演目が終わった後、出てきたのは若い男であった、手には琵琶を持ち平家物語を語ろうする。
定番である、紫はもう数え切れぬほどに聞いたことがある、慣れ親しんだ演目であった。
慣れ親しんで、何度も聞いているのに、男が語り始めると紫は思わず目を見開いてしまう。
深い深い琵琶の音色は、まさに諸行無常の響きを伴い、男の語りは栄える平家の誇りと傲慢、滅びゆく一族の狼狽と悲哀を切々と
正に名調子であった。
いつの間にか、紫は男の平曲にすっかり聞き入っていた。
他の人間達と同じように、男の語りに胸を躍らせ、興奮し、嘆いて、語り終えた時、何の疑問もなく惜しみない拍手を送った。
こんなにも素晴らしい名人がいたのか。
紫は素直にそう感嘆し、居てもたってもいられずに楽屋に引っ込んだ男を訪ねた。
無論、不躾だとかそんな考えは無い。妖怪の賢者たる彼女に、そのような感性は人間に向けられるものでは無いのだ。
いつも通り、スキマを通って、何の前触れもなく男の前に現れた。
「今晩は」
物腰だけは優雅に、しかして物言いは不遜に。
「あぁ、今晩は」
男は突如として現れた紫に、特に驚きもせず自然に挨拶を返した。
それが、紫の自尊心をほんの少し傷つけた。
馴染みの霊夢とて、この様な現れ方をすれば眉根を潜めるのだ、だというのに、男は何の反応も無い。
「驚かないのかしら?」
紫は挑発するように
「幻想郷ですから」
男は何でもないように
それが紫にとってはますます面白くない。
「妖怪を前にして、ずいぶんと余裕ね」
「妖怪だから何だというのです?」
「貴方をとって喰うかもしれないわ」
「取って喰うのですか?」
余りにも大真面目に返されて、面くらって紫は少し考えてしまった。
別にこの男を喰いに来た訳では無い、売り言葉に買い言葉という調子で言ってしまっただけだ。
「いいえ」
すこし、頭を冷やして否定する。
「では、どうという事はありません」
男は呵呵と笑う。
本当に、どうという事もなさそうであった。
紫は手にしていた扇子をピシャリと鳴らし、苛立つ内面を覆い隠して、またなにやら胡散臭い笑みを浮かべる。
「さっきの平曲、聞かせてもらったわ」
「それは、有難うございます」
「ずいぶんと修行を積んだのね、若いのに」
「祖父より仕込まれました」
「貴方ほどの名人を育てるなら、その祖父も名手だったのでしょうね」
「それはもう、私など及びもつきません」
「ふぅん」
琵琶の手入れをする男と、扇子をピシャリと鳴らす紫。
奇妙な間の取り合いである。
「幻想郷にこんな琵琶の名人がいるなど知らなかったわ」
「祖父は琵琶の腕を磨く事だけに腐心して、人前で語る事はありませんでしたから」
「へぇ……でも、貴方はこんな処で語るのね」
人との交わりを絶って己を高める。まごう事無き哲人である。
哲人の弟子、しかも血を受け継ぐものが、哲人の在り方から転げ落ちるのか。
そんな皮肉を混ぜている。
「えぇ、どうにもこうにも、自分がどこまで通用するのか試してみたくなりまして」
通用しない。
「お爺様は怒らないのかしら?」
「祖父は一昨年無くなりました。喪も明けましたし、我慢の限界と言うやつです」
男は琵琶を一鳴きさせる。
たったそれだけなのに、思わず目を瞑って余韻に浸りたくなるような、そんな時間が生まれた。
琵琶を手にした男は、幸せそうであった。
紫はそれが自分の事をあまり気にかけていないように見えて仕方がない。
彼女は、八雲紫は妖怪の賢者であり、幻想郷の実質的な最高責任者である。
紫を見知ったものは、友人を除いて恐れか畏れを抱くものだ、それが妖怪の本分と言うもの。
「自己紹介がまだだったかしら、私の名は八雲紫よ」
「八雲様……あの、八雲様で?」
「えぇ、その八雲」
「おお、これは、こちらも名乗らず失礼を」
「いえ、先ほどの語りで名乗ったでしょう?」
「あ、そういえばそうでしたな」
動揺もしない。
恐怖も、畏怖もなく、ただ単純に八雲紫を客としてのみ観ている。
「……まぁ、いいわ。兎に角、先ほどの語りは見事だった。私が言いたいのはそれだけよ」
こういう時こそ、優雅に振る舞わなくてはならぬ。
実際にはどうにも巧くいっていないが、少なくとも、自分を恐れぬ不遜な男への苛立ちは抑えこめていた。
すると、男は実に嬉しそうに笑い。
「こちらも礼を申しましょう」
と返すばかりである。
もうなにか相手にするのもバカバカしくなって、紫はさっさとスキマの中に身を潜めてしまった。
スキマが閉じる直前、男が笑顔で頭を下げる、その光景を目にしながら。
* * *
それから、しばらくという程でもない時間が経った。
普段は寝ている紫であったが、男に妖怪としての自尊心を傷つけられてからというもの、人と同じ程度にしか眠らず
気を紛らわせる為に幻想郷をフラフラしている。
どこに行っても左程に歓迎される訳では無い。
胡散臭い、得体の知れない、油断のならない妖怪婆、それが幻想郷に住まう人妖の八雲紫の評価であり、どんなものでも紫に畏怖と恐怖を持つのだ。
紫はそういう視線や言葉を受ける度、心が満たされるのだ、なぜならばそれこそ妖怪である八雲紫に対する敬意の払い方というものである。
恐れもしなければ敬いもしない等、妖怪に対して取ってよい態度ではない。
面白くもなんともない人里を避けて、今日もさて何処にちょっかいを出してやろうかと思案していた時、彼女はなんとも言えない心地よい嫌な音を聞いた。
琵琶の音である。
はて、人里から離れた霧の湖に近いここで琵琶の音とは。
新入りのあの付喪神達が演奏でもしているのだろうか。
いいわ、今日の獲物は付喪神にしましょう
新人にルールを教えてやるのも先達の勤めである。
琵琶にあまり良い感情の無い紫の、ある種八つ当たりようなものだが、それを当たり前として彼女は行動する。
さて、どの様に遊んでやろうか、無駄に高い知能を無駄な方向に働かせてほくそ笑むが、いざそれを見て、たちまちの内に不機嫌になった。
何故なら、そこには見知った男の顔があった。
何時ぞやに聞いた時と同じような見事な腕前で琵琶を奏でている。
なんでこんな処にいるのよ
人里から離れた場所で、妖物を前に語っている。
面白くない。
扇子をピシャリと鳴らして、紫はふと思いつく。
幻想郷の妖怪は人を襲う怪物共である、人里にいるならまだしも、こんな場所で呑気に琵琶などやっていれば直ぐに誰かが喰ってしまうだろう。
喰われずとも、妖精かなにかのいたずらで痛い目をみるかもしれない。
だがどちらでも良い、幻想郷の法より外れたあの男には良い薬であろう。
不遜な男だが、琵琶の腕だけは本物である、それを聞くこれが最後になるかもしれない。
そう考えれば、余裕が生まれるというものである。
紫は男に気付かれない処から、スキマに腰を下ろし、じっくりと男の無様な姿を眺めてやるつもりであった。
ただ、世の中、巧くいかない時はとことん巧くいかない。
最初は、紫のにらんだ通り妖怪や妖精等がぞろぞろと集まってきたのだ。
さて、誰が一番最初にちょっかいを出すのかと期待を込めて待ってみても、誰も手を出そうとしない。
否、そればかりか男の語りに感嘆の息を漏らす者までいる始末。
なれば妖精はどうかと観てみるが、感性の幼い彼女たちは男の語りをあまり理解出来なかったのだろう、早々に興味を失って立ち去る者が大半である。
残った連中も、妖怪にアレはいったい何なのかと問うたり、静かに聞き惚れるものばかり。
以前から腑抜けていると思っていたが、まさかここまでとは。
男以上に呑気な妖共に頭を痛くしながら、気が付いてみればもう日が沈もうとしている。
辺りには妖怪と妖精の拍手が響き、男がキョトンとした顔をしながら周囲に頭をさげていた。
よもや妖怪達がここまで集まっている事に気が付かなかったのだろうか、何かに夢中になると周囲が見えなくなるのはままある事であるが。
ひょっとしたら、この男は馬鹿なのでは無いだろうか。
幻想郷に住まう者なら、逢魔が時がどれほど恐ろしいか知っている。
故に大抵の者は、里からは出ないし、時間を忘れるなどという事は滅多にない。
男はいつの間にやら帰路に就くか、ここから里までの間で日は暮れてしまうだろう。
さて、どうしたものかと紫は思案する。
少し、脅かしてみましょうか。
丁度良い、この間の、自分を恐れなかったという態度への意趣返しも出来る。
紫はほくそ笑むと、大分濃くなった闇の中にその身を溶かす。
紫にとって、闇と一つになるなど容易いことだ。夜の帳が全てを覆う時刻ともなれば、紫は夜そのものと同義と言っていい。
男の手には、足元を照らす提灯一つ。
勿論、そんなものは何の意味も無い。
さっと提灯の火を呑み込んでやる。
男がはて、と首を傾げ足を止めるのを見計らって、紫は男を小馬鹿にするような高い笑い声を上げた。
まずは定番のシチュエーションで小手試しである。
紫は妖怪であるからに、古き良き古典というものをこの上なく気に入っている。
人間を脅かすにはこれがなかなかどうして効果覿面なのだ。
覿面なのではあるが……
「八雲様でございますか?」
極めて、あっさりと正体を看過されてしまう。
実に、バツが悪い。
悪戯のばれた小娘のような心持であった。
「えぇ、そうよ」
憮然とした表情で闇の中から抜け出す。
男の方は相も変わらぬ間の抜けた感じで
「これはこれは、お久しぶりでございます」
と言う始末。
「良くわかったわね」
「聞き覚えのある声でしたので」
簡単に言うが、実際の処簡単ではない。
話をしたと言っても大したものではないし、普通の人間ならば突然あんな状況になれば気が動転してまともな判断などつかない。
「貴方は、妖怪が恐ろしくないのかしら」
「そうですね、やはり死ぬのは恐ろしいものです」
「その割には、あの妖怪達を恐れている様子も無かったわ」
「彼らはまぁ、私を殺そうとはしていませんでしたので」
「あら、では私が貴方を殺そうとすれば、恐怖するのかしら?」
「するでしょう」
……どうにも男の真意が掴めない。
虚勢を張っているにしては落ち着いている。
紫は、何の前触れもなく男の首に手を伸ばした。
人の首を圧し折るなど容易い手である。
男の口から、か細い呼吸音が漏れる。
紫は手に力を込めて、男を更に締め上げた。
呼吸音だけではない、苦痛の音が漏れる。
男は紫の腕を掴む。
もがく、その姿、苦痛にゆがむその顔。
人が妖怪を前にして、あるべき姿。
暖かい体を、無造作に冷たく出来る、怪物の本分。
さぁ、どうかしら?
紫は、男の瞳を覗き込む。
そこに浮かぶ、恐怖の色。
あぁ、所詮が人間なのだと、判りきった事を再確認できる。
恐怖を持たぬ人間等いない、故に妖怪は人を超えた存在なのだ。
紫はその事に満足して、男を突き放す。
這いつくばって、咳き込む男。
なんて、みっともない。
「夜の妖怪を前に、何も起きないと思っていたのかしら?」
何時もの調子を取り戻して、紫はほくそ笑む。
男は何か言おうとしているが、首を絞められたせいか上手く声が出せずにいる。
その姿がまた滑稽で、紫はしばらく眺めていたくなった。
男の恨み言も聞いてみたい、絶対的な力の差の前にはどんな言葉も所詮が負け犬の遠吠えである。
ただ、紫は一つ失念というか、思い違いをしていた。
この状況、ただ単純に紫が一方的に絡んで、一方的に力比べに持ち込んでいるというだけだ。
無論、普通の人間ならば、そんな理不尽に反抗しようとするだろう。
そう、普通の人間ならば。
「……あ、ァ、あー、あーあー……あぁ、良かった、声が出る」
うん? と紫は首をかしげる。
はて、何かおかしくは無いか。
この場合、もっとこう、自分に向けてなにかしらの感情が向けられるべきでは無いだろうか。
恨みの視線だとか、恐怖で足が動かなくなるだとか。
だというのに、この男は声の心配をしている。
「……声が出るのがそんなに大事?」
「それは、もう、声が出なければ語りができませんから」
「…………………………はぁ?」
こんな、素っ頓狂な声を出すのは何年振りか。
「まさかと思うけど、自分の命の心配じゃなくて、自分の芸の心配をしているの?」
「えぇ」
紫は、本気で頭を抱えたくなった。
もしかしてさっきの恐怖の色も、八雲紫への恐怖とか、死への恐怖とかじゃなくて、語りが出来なくなる事への恐怖なのだろうか。
「貴方、もしかして馬鹿?」
「……何故です?」
「普通は、命の心配をする場面だわ」
「……あぁ、そうかもしれません」
「……訂正するわ、もしかしてではなくて、貴方は正真正銘の馬鹿ね」
そうだ、この男は馬鹿なのだ。
自分の芸や趣味しか目に入らず、他の事など全て些事としてしか映らぬ人間というのは時折出てくる。
馬鹿だから、妖怪が恐ろしいとかどうとか、こいつはどうでもいいのだ。
八雲紫という妖怪も知ってはいるが、どうでもいいのだろう。
妖怪の賢者だとか、幻想郷の管理者だとか、この男の前では意味のない肩書なのだ。
そんな馬鹿な男に、自分は勝手に力んで突っかかって。
ああもう、なんて馬鹿馬鹿しい。
指を鳴らして、消えていた提灯の火を戻してやる。
もうこの男にちょっかいを出しても意味が無い。
琵琶を砕き、指を引きちぎって、舌を切り取ってやれば苦悶にのたうち回るだろうが、結局は琵琶が出来なくなるという絶望が残るだけだ。
死ぬのが恐ろしいというのも、死ねば琵琶が弾けないという恐ろしさだろう。
自分への恨みも、恐怖も在りはすまい。
「早く家に帰りなさい、道中にはまだまだ私の様に恐ろしい妖怪がいるものよ」
「はぁ、ご忠告、有難うございます」
この調子だ。
なにかもう、色々と疲れた感じがして、紫はさっさとスキマの中に入って行ってしまった。
* * *
それから、幻想郷に琵琶の名手がいるという話は瞬く間に広がっていった。
元より狭い世界である、更には語り演じるに場所を選ばぬ馬鹿であるとすれば、話が広がらぬのがおかしいというもの。
ある時は人里で、ある時は紅魔館で、ある時は命蓮寺で、ある時は神霊廟で、ある時は守矢神社で。
果ては天狗の前で披露して、本当にどこにでも行った。
紫も、それに釣られて彼方此方に出向いた。
相手が馬鹿なのだと判れば、もはや紫にとっても男はどうでもよかった。
ただ、その琵琶の腕前だけは紫も価値を認める処である。
立ち寄った先で男が演じていれば、足を止めて耳を傾けて、男の琵琶を愉しむ。
そうなれば、言葉を交わす機会もそれなりにある。
不信感も、疎む事も、恐怖も、敵対心も何も無い、ただの八雲紫としての言葉を交わせるのは西行寺幽々子以外にこの男ぐらいである。
しかし、男は幽々子程に賢くも無ければ、超然としていない、故に、たかが人間風情が、八雲紫と無色の会話を交わせるなど、前代未聞であるとも言える。
「今日は何処で演奏かしら」なんてバカみたいな意味のない話から、男の馬鹿さ加減をからかう事もあった。
「また腕を上げた?」なんて言った日には、男は本当に嬉しそうに、「有難うございます」なんて、まるで親に褒められた子供の様で。
男は馬鹿だから、馬鹿なりの反応というのもそれなりに面白くもある。
判ってしまえば良い暇つぶしになるものだ。
いつの頃からか、紫は立ち寄った先で琵琶を聴く、のではなく男の琵琶が鳴る場所に向かうようになっていた。
そんな事が続いていたある日、博麗大結界の管理を終えて主の住まいに戻ってきた八雲藍は「おや?」と首を傾げた。
笛の音である。
豊かな、そしてなんとも典雅な笛の音は、藍にとってかなり久しぶりに聴くものであった。
屋敷にあがると、やはり主が笛を奏でている。
何処で手に入れたのかは忘れてしまったが、何処かの時代のどこかの名人が造った龍笛である。
そしてその名物にふさわしいだけの技量が八雲紫にはあった。
「あら、お帰りなさい藍」
「は、ただいま戻りました」
唐突に声をかけられ、藍は慌てて頭を下げる。
「どうしたのですか、紫様」
「ん? あぁ、笛の事?」
「はい、紫様の笛など、ここ数年とんと聴いておりませんでしたので」
大抵の事はやろうと思えば何でもできる主であるが、それ故に大抵の事はやろうとしない。
楽器にしても笛以外の様々なものを奏でられるが、そのどれも滅多に聴く機会など無いものだ。
突然笛などと、しかも妙に楽しそうになんぞ切欠でもあったのだろうか。
と考え込む藍であったが……別段、特別な理由など何もない。
ただ、今日も男にちょっかいを出してきた時に、「紫様は楽器を嗜まれないのですか?」と問われただけである。
それで、家に笛を仕舞い込んでいたのをたまたま思い出し、折角だからと吹いてみたにしかすぎない。
実に単純な話だ。
まぁ、単純であろうと複雑であろうと、藍が知る由は無いので不思議に思うのは仕方のない事だ。
主の方は、そんな自分の式に対して、いつも通りの意味がある様でまるで意味のない、胡乱な笑みを浮かべたまま、再び笛を奏でる。
それにしても、やはり見事なものだ。
主の笛に耳を傾け、藍は深く感嘆する。
人間や並の妖怪であれば、何年も離れた芸をもう一度やるというのはかなり難しい。
ブランクを感じさせないその腕前は、やはり八雲紫だと言わざるを得ないだろう。
「あの琵琶の名人にも負けていないな」
ぽつり、と漏らしたその一言で、再び笛の音が止まる。
「本当に?」
「は?」
「彼の琵琶に、負けてないかしら」
「え、えぇ、もちろんですとも」
世辞では無い。
藍も最近話題になっている琵琶を聴いた事がある。
人間がここまでやるものか、と確かに驚いたが、紫の笛とてそれに負けるものでは無い。
たったそれだけの事なのに、
「そう、負けてないのね」
などと実に楽しそうに。
一体何があったのだろう、と藍は益々判らなくなるのであった。
彼の琵琶に負けていない。
自らの従者にそう言われた翌日、実に八雲紫は上機嫌であった。
永らく仕舞い込んでいた笛を引っ張ってきた甲斐があるというもの。
自分でも吹くのが実に久しぶりだったので、どれほどかと試してみたが、これならば何の問題もあるまい。
今日は、彼の前で自分の笛を披露するのだ。
琵琶にしか頭にない馬鹿な男だが、それ故に音楽に関する感性は大したものだ。
自分の笛を聴かせてやれば、大いに驚くにちがいない。
それで、琵琶と笛を交えて演じるのも、面白いのではないだろうか。
その姿が目に浮かぶようで、紫は鼻歌なんぞを交えながら、幻想郷を気ままに流れる。
彼を探す必要など無い、どこからか琵琶の音が聞こえてくれば。
その中で最も美しい音を辿るだけでよいのだ。
博麗霊夢を探すのに、神社に行くのと同じようなものである。
紫自身が気が付く前に、紫はその音を捕まえて、晴れた春の日のような、実に清々しい気分でするりするりと音鳴る方へ。
ただ問題は、朝晴れていても、昼や夕に晴れているとは限らない事であった。
「すごい……本当にすごいわ貴方!」
女の声である。普通ならば、響きのよい声だというべきかもしれない。
紫にとっては、遠雷のような嫌な予感を感じさせる響きであったが。
スキマから顔を出して、様子をうかがう。
其処には、琵琶を手にした彼の姿。
そしてその前に妖怪が三匹。
割とよく見る光景である。
ただ、その妖怪が問題であった。
「まさか、こんな人間がいるだなんて、想像もしていなかったわ」
捲し立てるあの付喪神、そう、確か九十九弁々と言ったか。
彼に詰め寄り、ひたすらにその技巧に興奮している。
たったそれだけの事なのに、紫はカチンときてしまう。
「もう、姉さんったら……」
「まあ、仕方ないんじゃない?」
後ろで苦笑しているのは、九十九八橋と、堀川雷鼓。
たしか三人一組で行動している連中であるが、今日は何をしているのか。
いや、何をしているのかは判る。
あれほどの琵琶の名手、楽器の付喪神である彼女たちの興味を惹かないはずがない。
大方、話を聞いてやってきて、実際に聴いてみたと言った処だろう。
「それにしても、人間があれだけやるなんて」
「あら、そう驚く事でもないわ。外の人間には、想像もつかないぐらい高い技量をもった人間が時折現れるもの」
「えぇ~? そんなの一握りじゃないの?」
「一握りでも居るのは事実、多くの人間を魅了して、伝説を創る。生きている内も死した後も、人間を惹き付ける、まさに神のような人間がね」
外の世界の奏者等と、彼を比べるというのか。
外の世界の奏者等、音楽で喰っているような人間ではないか。
愚かな夢を描いて、夢に破れて落ちぶれるもの、折角の技量を己の欲で台無しにしてしまうもの。
そんな連中と一緒にするのか。
バカバカしい、彼はそんな下らない存在ではない。
ただ純粋に、琵琶の事だけに己を打ち込む、そう……
「その子を弾いている時の貴方、まるで琵琶の化身みたい」
そう、琵琶の化身だ。
無心に、無情に、肉の一筋、骨の髄に至るまで、ただ、琵琶を奏でる為の存在に。
故に、美しいのだ。
心を持った道具だけは、たどり着けないような、そんな領域。
「ねぇねぇ、今度、私たちと一緒に演奏しない?」
「琵琶の付喪神として、貴方のような名人と一緒にできるなんて、すっごく名誉な事だわ」
思わずピシャリと扇子を鳴らし、4人の視線が紫に集まる。
いつの間にか、紫は彼らの前に堂々と姿を現していた。
「ゆ……」
「ごきげんよう」
彼が口を開く前に、紫がそれを遮り
口元を扇子で覆い、自分自身の表情を遮る。
「あら八雲紫じゃない、どうしたのかしら?」
なにやら不穏な空気を生み出す状況に、九十九姉妹を護る様に雷鼓が前に出る。
「どうという事でもないわ、ただ、貴方達が人間と一緒にいるのが珍しくてつい」
「珍しい?」
「珍しくないかしら? 特にそこの姉妹は、あんなに下剋上だと息巻いていたのに」
過ぎた過去を掘り出されて(掘りだすほどの昔ではないが)九十九姉妹もむっとする。
「なにかいけない事?」
「いけなくはないけど、ねぇ……道具の世界、道具が楽しめる世界、それはもういいのかしら?」
「それとこれとは別の話よ」
「どう別の話?」
「私たちは道具だもの、道具ならば善き使い手に出会うのも一つの幸せよ」
ドンと雷鼓は自分の太鼓を叩いて紫の挑発を受け流す。
そう、挑発だった。誰の目から見ても、判るぐらいの。
「そ、そうよ! 私たちは妖怪だけど、付喪神だもの、よりよい音の為に誰かと演奏するのがいけない事なの?」
「あの時の事を、否定するわけじゃないけど、名人に出会えば心躍る、道具の本分のようなものよ」
姉妹も負けじと反論する。
全くの正論である、紫がとやかく言うような事では無い。
「でもねぇ、貴方達は自立した道具、妖怪よ」
「だから何よ」
「妖怪なれば、妖怪としての求道を行うべきじゃないかしら、付喪神として、付喪神なりの音を求めるのが良き事ではなくて?」
「……それは違います」
なにやら泥仕合になりかけた場を、男の声が切り裂く。
紫は驚いて、そちらに目を向けた。
「求道に、人も妖怪もありません」
「……人間と妖怪は違うわ」
「何が違うというのですか」
「何もかも違うわ」
「何もかも違うのならば、紫様と私は言葉を交わしておりません」
「言葉が通じれば同じなのかしら?」
「少なくとも、同じように心を交わせます」
心をかわせる?
なに、ばかな事を言っているのか。
馬鹿な男だとわかっていたが、ここまで馬鹿であったとは。
心のざわめきで体が熱くなるのを感じて、何かを言い返そうとするが、巧く言葉にできない。
「紫様は、私の琵琶を見事だと仰られた」
「それが、何?」
「貴女は私の琵琶を解する心をお持ちです」
「……」
「私も、彼女たちの演奏を理解できます。お互いに理解できるのであれば、そこに人と妖怪などという差は、少なくとも大きな障害になり得ないと私は考えます」
「……つまり、貴方は自分の琵琶の為に、彼女たちとも手を取るというのね」
「無論です、共に奏でたいというのならば、私はそれが私の規範の許す限り誰とでも奏でましょう」
誰とでも、奏でましょう
その一言が、なぜだか紫には苦しかった。
当たり前の事を言っているはずなのに。
彼に自分の笛を披露しようと思って、ここに来たのを、まるで無碍にされたようで。
琵琶の事しか頭にない馬鹿な男だから、彼にとって特別なのは自分の琵琶の技量だけなのだと
その他は、ほとんど関心を払わないのだとわかっていたのに。
それが悲しかった。
「そう、そうね……邪魔をして、悪かったわ」
まっすぐに自分を見つめる男の視線に耐えられなくて。
紫はその場を立ち去る。
わざわざ、懐にいれて持ってきた笛が、嫌に重く感じられた。
* * *
それからというもの、八雲紫の日々は暗鬱なものに様変わりしてしまった。
何日もふて寝しても
博麗霊夢をからかっても
小生意気な天人を小突いても
西行寺幽々子との一時すら面白くない。
いや、幽々子はなにか嫌な笑い方をしていたのが癪に障ったのが面白く無いのだが。
愚痴を言うのは自覚していたから、口だけでもいい思いが出来るように折角上物の清酒を持って行ったのに、幽々子は紫が何か言う度にニヤニヤと笑うのだ。
お蔭でいくら酒を煽っても酔う事すらできない。
幽々子だけが旨そうに飲むのが更にいやらしかった。
今だって、お気に入りの煙管で煙草をふかしているが、ちっとも気が晴れない。
吸い口と雁首に牡丹の刻まれた、見事な煙管である。
対となる煙管盆にも装飾として獅子の蒔絵が描かれていて、なんとも力強い。
獅子と牡丹。
それを見て紫は思いついた。
そうだ、この処、妖怪らしいことをしていないではないか。
強き獅子とて、体の中に忌々しい虫がいれば、その虫の為に命を落とす事だってある。
所謂「獅子身中の虫」であるが、獅子はその虫を殺すために牡丹の夜露を飲むのだ。
それ故に、獅子に牡丹は必要な存在であり、よく組み合わされて描かれる。
いや、そんな事はどうでもいい、問題は夜露である。
獅子にとっての薬が牡丹の夜露ならば、妖怪たる紫にとっての薬とは人間の生血だ。
恐怖と混乱に歪む人間の命を食らう。
そう、自分は妖怪なのだ、人間のような気の晴らし方では足りない。
幻想郷の管理者として幻想郷の人間は喰わぬ、故に目指すのは外の世界である。
うん、若い娘が良い。
好奇心の塊のような若い娘ならば、演出を考えて襲えばその恐怖は正体不明の噂となって駆け巡るだろう。
その噂を弄って、しばらく楽しめるかもしれない。
思い立ったが吉日である。
煙管の灰を灰皿に落とすと、煙管の始末もそのままに、スキマの中に身を潜めた。
ただ人を襲えばいいというモノでは無い。
恐怖の伝播には演出が必要だ。
そう、確かなのか不確かなのか、曖昧な情報こそ恐怖の最高のスパイス。
人が消えたのは確かな事、しかし、どのように消えたのかが判らない。
消えるにはルールがあるのか、条件があるのか。
それとも無差別に消えてしまうのか。
最初さえ巧くいけば、後は勝手に人間が脚色してくれる。
ふふん、馬鹿な人間共。
上機嫌に嘲笑いながら、十字路で逢魔が時を待つ。
朝はいけない。
日が昇る時間に人間は本能的に恐怖を抱かない。
日中はいけない。
人間が沢山いすぎて、仕掛けを施す事が出来ない。
夜も良くない。
単なる不用意な人間がいなくなるだけである。
だから夕刻が良い。
夜への不安があり、日中ほど人が集まらず、夜ほどに警戒もしていない。
人間の心の隙間が生まれる時間だ。
後は獲物が来るのを待つだけ。
2、3人ぐらいで、この十字路でバラけるのが丁度いい。
さっきまで一緒だった誰かが、振り返るともういない、それがベストだ。
出来れば可愛い子なら尚良いのだけれど。
久しぶりの狩りで、気分も高揚していた。
扇子の下で舌なめずりなどをして。
だからこそ、その一言がどうしようもなく不意打ちで、とてつもなく鋭く突き刺さってしまった。
「貴女はきっと恋をしている」
あまりの言葉に、紫は固まってしまった。
紫に向けられた言葉では無い。
言葉を交わしているわけでも、姿も現していない。
それでも、何故だか紫の深い場所を抉られるような気持であった。
何を、馬鹿な事を
そう呟いて、ピシャリと扇子を鳴らす。
どうでもいいことだ、早く獲物を探してしまおう。
紫は改めて夕暮れ時の十字路で網を張ろうとする。
夕暮れ? 十字路?
人間共に恐怖を与える為に選んだシチュエーション。
でも、これではまるで……
まるで、辻占いじゃない
なら、あの「貴女はきっと恋をしている」が、宣託だとでも言うのか。
何を、馬鹿な。自分が恋をしている? 誰に? 彼に?
ピシャリ、ピシャリと扇子が鳴る。
もう何もどうでもよくて、不愉快すぎて結局、狩りをやめる羽目になってしまった。
* * *
人食いの愉しみまで潰れてしまって、またも紫は悶々とした日々が待っていた。
家にこもって寝るか煙草を呑むかのどちらかで、何をする気にもなれない。
かといって、こうしているとあの「恋をしている」という言葉がリフレインしてやはり落ち着かない。
八方塞がりである。
そうなるとますますイライラしてくる。
全く、あんな馬鹿な男のせいで
琵琶の事しか頭にない、馬鹿な、人間の男。
そんなやつのせいで、どうして自分がこうも悩まなくてはいけないのか。
ピシャリと今までにないくらい大きく扇子を叩いて、紫はもうなんでもいいから文句を言う事にした。
原因は判っているのだ、原因をなんとかすればいいだけの話なのだ。
直接会って、文句を言ってやろう、何もかもお前のせいだとおもいっきり詰ってやる。
八雲紫らしくない? 妖怪の大賢者としての品格?
知った事では無い。
人間にここまで悩まされるなど、そっちの方が妖怪の沽券に係わる。
そうだ、悩む必要なんてない。
会おう、彼に会うのだ。
紫は手もとにあったものを掴むと、スキマを開く事も忘れて、幻想郷へと飛び出していった。
幻想郷の空に上がれば、そこはもう紫の庭である。
ここは自分が造った世界だ。
どこに彼がいようと、紫はすぐに探し出せる。
今なら、彼が琵琶を奏でていなくたって見つけられる。
だから、紫はまっすぐに飛んでゆく。
男の元へ、彼の元へ。
何日も会っていない、その鬱憤をそのまま速度に変えるように。
そして彼の姿を捉えると、思わず名前を呼んでしまった。
彼が、振り返る。
相も変わらず琵琶を抱えて、いつもと何も変わらぬ姿で。
自分を捉え、自分とは全く違う落ち着いた声で当たり前の挨拶をしてくる。
「これは、紫様、お久しぶりでございます」
たった、それだけで、八雲紫は何を言おうとしたのか忘れてしまった。
と言うよりも、何を言おうとしていたのか考えていなかったのを思い出してしまった。
自分は、いったい何の文句を言おうとしていたのだろうか。
馴れ馴れしく、名前を呼ぶことだろうか。
いや、それはもう随分と前からそうだった気がする。
彼にあっていない数日が嘘の様に、紫の中の暗い雲が晴れてゆくようだった。
「紫様?」
「え? え、えぇそう、お久しぶりね」
「はい、この処、姿がお見えにならないので心配しておりました」
「あら、人間に心配される程に落ちぶれてはいないわ」
「ははは、巫女殿も同じような事を申していましたよ」
巫女? 霊夢の事だろうか。
「霊夢に会ったの?」
「はい、紫様の事を知っていそうなのを他に思い至りませんでしたので」
自分の事を訪ねる為に霊夢に問うのは、そう不思議な事では無い。
博麗の巫女が幻想郷の抑止力であるというのは誰でも知っているのだから。
問題は、彼が霊夢を訪ねた理由だ。
もしかして、本当に自分の事を心配していたのだろうか。
「……そういえば、あの付喪神達と共演するという話はどうなったのかしら」
「はい、今度、守矢の方々がなんぞ行事を行うというので、その場で演じさせていただく事に」
「ふぅん」
守矢か、今度はなにをやるつもりなのやら。
まぁ、そんな事はどうでもいい。
「それで、彼女たちとの感想は?」
「いや、流石は楽器の付喪神の方々ですな。素晴らしい音を出される」
貴方の方がずっと素晴らしい。
紫は素直にそう思った。
そして、あの付喪神達に負けたくないという気持ちも、同時に湧きあがった。
「それじゃあ、今度は私とご一緒してくれるかしら」
「紫様と?」
「えぇ、これでも笛には自信があるのよ」
懐から、一本の龍笛を取り出す。
あの日、結局使ってあげられなかった笛だ。
「無論、喜んで」
無邪気な、満面の笑顔を浮かべて、男は琵琶を構える。
紫は笛に唇を当てる。
観客など誰もいない、純粋な協演が始まった。
紫の笛が旋律を奏でて、男の琵琶がそれに応える。
打ち合わせなど何もしていないが、名人同士の呼吸というものなのだろうか。
本当に、馬鹿な男ね。
そうだ、この男は馬鹿なのだから、自分が悩む事など何も無いのだ。
馬鹿だからまっすぐで、それ以外に何も無い。
誰かを傷つけるような意志なんて持たないだろう。
貶めるような事だって考えない。
だというのに、なんで自分は勝手に沈んでしまったのか。
琵琶だけに関心を払い、琵琶だけを突き詰めようとする男を横目で見て、紫は嗤う。
その時だった。彼と視線が合ったのは。
視線と彼の笑顔が、紫に向けられたのは。
紫は、あ! と思わず調子を狂わせそうになる。
琵琶の化身たるこの男が、琵琶を奏でている最中に、自分を見た。
たったそれだけの事なのに、紫は恐ろしく熱くなる自分を抑えられなかった。
自分自身から湧き出る熱が、笛に活力を与え、それが男の琵琶をますます冴えさせる。
あまりにも幸福な一時。
その日、日がすっかり沈むまで、二人はその時間を共有し続けたのであった。
* * *
数日後、守矢の神事が執り行われ、神事にて彼と付喪神達の演奏が捧げられた。
神も人も、妖怪も感嘆するほどの見事な場であり、紫も賛辞をおしまない舞台であったが、その中で紫は些細な違いを見つけた。
それはいつも通りの彼の姿だ。
ただ、琵琶を奏でる事だけに集中し、そこに全てを捧げる彼の姿。
演じる中で、決して他に意識を向けたりはしない。
それだけの事だが、紫はとても上機嫌で、鼻歌交じりにその場を後にする。
だからこそ、その後ろ姿は、どうしようもなく恋をしていた。
想い人と肩を並べ奏り合えるって素敵だな
コンパクトな噺ながら「彼」の人物も十分伝わって来た。贅沢言うなら平家物語の件など琵琶と「彼」の唄をも少し言葉尽し装飾するパートにしても良かったかも?(私感) 何れにしろ男女の恋バナって少ないのでGJ!
誤字?
>幽々子はなにか幽々子が嫌な笑い方をしていたのが癪に障ったのが面白く無いのだが
>神事にて彼と付喪神達の演奏が捧げれた
紫は超越者なのにこうちょっとおバカさんな姿が似合うのがイイですよね
キャラの内情描写から、こうも直接的でなく読み手に情動を引き出す術を得ている文章は尊敬に値します。満点!
琵琶弾きのキャラクターが定形というか、人外に好かれる記号(人並み外れた一芸、種族を意識しない等)の粋を出ていないように感じました
結果登場人物が惹かれているキャラにこちらはもうひとつ惹かれないという温度差が生じ、もう一つ乗りきれませんでした