乱雑に置かれた本の山がうず高く積み上げられた資料と皺の寄った紙と共に、締め切られた部屋を隙間なく埋め込む。そこでは机に置かれた花瓶に咲く、鬼灯の黄色い花だけが僅かにこの世界を現実に繋ぎ止める。そんな世間から乖離した部屋の中で一人、稗田は何物にも心とらわれず、目の前にある紙に筆を走らせていた。
かれこれ半日以上は机に向かい合っていただろうか、それが如何に大切な物なのだろうと、筆を走らせる者の体力には限界がある。作業が辛くなり、目を瞬かせた稗田は筆を動かすのを止めて、時折廊下から漏れてくる女中の足音を聞き一人笑みを浮かべた。稗田はいつも作業に詰まると、廊下から聞こえる女中の足音を聞いて、今何を行っているのかを想像して気分転換をするのが日課となっていた。
部屋と屋敷を区切る襖から漏れてくる足音。今日も女中はせわしなく動いているようだと稗田は笑みを見せる。何せ、たった一人でこの屋敷の雑務を全てこなしているのだから無理もない。
「少しくらいは楽をしても良いのに。こんな広い家にたった一人で働いている所を見ていると、なんだかこっちが申し訳なくなっちゃう」
墨を吸い穂先が黒く染まった筆を文机に置き、肩を回して大きく伸びをした稗田は、女中の生真面目さに感嘆しながら独り言ちる。思えば稗田が小さな頃から世話になっていた女中は、昔から彼女を辟易させるほどの生真面目さがあった。いつも決められた時間に食事の準備をし、決まった時間に消灯をする。日々の動きに多少の違いこそはあるが、それがずれた事は稗田が覚えている中では一度も無い。稗田にとって、その姿は時間通りに終わらせなければ、という強迫観念に苛まれているようにも見えた。
そんな完璧主義を超えて、本当は潔癖主義者なのではないかと疑いそうになる女中の姿を見て、かつて罪悪感を覚えていた稗田は、以前もう一人女中を雇おうと勧めた事があった。しかし女中は稗田の提案に強く反対し、一人でこの屋敷の世話をする、と頑なな意思表示を稗田に示した。その意志の強さに押されて以来、稗田は新しい女中を雇おうとするのは止めていた。
しかし最近は女中の反対を押し切って、新しい女中を雇おうかと本気で考えるようにもなっている。
執筆ばかりで滅多に外出が出来ない稗田は、この屋敷に二人きりで居ることに何処か虚しさを覚えていた。女中が聞くと憤慨するかもしれないが、もっと別の話相手を彼女は欲しがっていた。もちろん友人はいるが、最近は屋敷にも訪れる事もなく、時折届く便りだけが唯一その友人との繋がりとなっている。面と向かい合って会話するなんて事は、最近になってからは屋敷にいる女中としかない。
そんな自分の孤独な現状にため息をつきながら、つまらなそうに鬼灯の差された花瓶を人差し指で突くと、染みの付いた天井を見上げる。磁器で出来た花瓶の燐と響く音共に見上げた天井の染みは、それがまるで自分の内で不気味に広がっていく孤独にも見える。
しばらくの間、呆けたまま梁の染みに心を奪われていると、襖の向こうから微かに女中の足音が、床のきしむ音と共に稗田の居る作業部屋まで近づいてくる。それを聞き、慌てて稗田は筆を手にして、作業を行っている体を取り繕った。
「失礼します。稗田様、お食事の準備が出来ました」
襖が開くと、生真面目な表情の女中が仰々しく座ったまま、食事の準備が出来た事を彼女に伝える。
「あら、もうそんな時間なの?もう少しで一区切りになるから少し待って頂戴」
先程の慌てた姿はどこへ行ったのか、稗田は襖の前で座る女中を一瞥すると、すぐに視線を紙に目を落として、いつの間にか手にしていた筆を動かしながら、作業で手いっぱいである事をそっけない態度で伝える。
「承知しました。しかしあまり無茶はしないでくださいね」
普段と変わらない稗田の言葉に、変わらない反応を見せる女中。女中の反応をほかの者が見たら、それはどこか事務的で無機質であると思うだろう。しかし、稗田は普段見慣れている所為でそれに違和感も、不快感を覚える事はない。むしろ普段ならこの後直ぐに襖を閉めて出ていくはずなのだが、今回は違った事に稗田は内心驚く。
「どうかしたの?」
女中は部屋から出ていかず、ただ稗田の作業を楽しそうに見つめていた。
その見慣れない行動を目にして、流石に気になったのか黙々と作業をしていた稗田も、筆を止めてこちらをじっと見ている女中が何を思っているのかを聞く。
「いえ、随分と楽しそうに作業を行うのですね。外に出ることが出来ないとはいえ、流石にいつも同じ事ばかりでは飽きてしまうのでは無いのでしょうか?」
女中は黙々と作業をしていた稗田を見て、微笑みながら作業が辛くないかを聞く。長い付き合いである稗田も、女中がこちらの作業に興味を持つなど記憶の中に一切無かった。その上で、そもそも外に出る事が出来ないのは、自分を外出させる事を止めているからではないのか、と彼女は心の中で少しだけ女中に毒づいた。
毒づきながらもそれをおくびにも出さずに、上機嫌になりながら、稗田は女中の笑みに合わせて微笑み、愛おしそうに墨を走らせた紙を掌で優しく撫でる。白い紙に記された墨はすでに乾いており、掌に墨が付く事は無い。
「ええ、確かに飽きてしまうわよ。今も外へ出たいと思っている。でも、今書いているこれは私にとって大切な物だから止めるわけには行かないわ。これは私の生きがい、宿命と言っても良いものなの」
嬉々として手のひらで撫でた紙に記されているものは、この世界にとって極めて必要な情報であった。そんな大切な物をこの世に残す役割に、稗田が関わっている事はもちろん女中も理解しているだろう。だが、今までそんな使命に女中は無関心であるとも稗田は考えていた。しかし、自分の作業に興味を示した事は、やはり稗田にとっては嬉しい事である。だからこそ今書いている物の大切さと、その使命感と強い意志を彼女に伝える。
「そうですか。では私も稗田様が作業をしやすいように精一杯お手伝いをさせていただきますね」
「ええ、頼りにしているわ」
そんな稗田の強い意志を見て感化されたのか、女中もまた、稗田の生活を支える強い決意を稗田に示す。その姿を見た稗田は、新しい女中を雇うと彼女に伝えるのが難しくなったと感じた。
「さて、もうこんな時間だし長話もここまでにして、食事にしましょうか。今日中には仕上げたいけれど、丁度一区切りも付いたし、何よりもお腹がすいたら出来るものも出来ないわ。」
「はい、腕によりをかけましたから、お腹一杯食べて作業に励んでくださいね」
満足げな表情を見せながら。再度大きく伸びをして立ち上がると、女中の後に続いて稗田は部屋へと出ていく。
女中の背中を見て、今、久しく自らの心の内を明かしていなかった稗田は、女中が自分の作業に興味を持っていたことを知り、胸の中にある多少の孤独が消え去ったことに気付く。彼女は今、外へ出る事が出来ないこの生活に何も疑問を持つ事も無く、多少の不満だけを抱えながらこの生活をずっと繰り返している。
ふと、足を止めて女中の背中からガラス戸に外の景色に稗田は視線を移す。いつの間にか日が落ち、星がちらつく夜の景色は、まるで今の稗田の心境を映し出したかのような暗闇と、欠けた三日月の月光が顔を覗かせ、辺りを心細く照らしていた。
「ねえ、どうして外へ出る事が出来ないんだっけ?」
食事を終えて、稗田は湯呑みから昇る白い湯気を見つめながら、食器を片づけている女中に何故外出できないのか、その理由を聞く。稗田は外出を止められている訳を何故か覚えてはいなかった。
「確か……見たことも聞いたことも無い流行り病のせいですよ。そのおかげで『里』は閑古鳥です。みんなそんな病気に罹りたくないって外に出ていませんからね。もちろん、私も稗田様がそんな病に罹るなど考えたくもありません」
「流行病……そうだったわね。うん、気遣ってくれてありがとう」
稗田は理由を聞いて一人納得するように頷くと、自分の身を心配する女中に感謝しながら再び湯のみに目を落とす。
確かに外へ出られなくなったのは、もう何週間も前に『里』で奇妙な流行病があったからだ。聞いた話では、呼吸が荒くなり、高温を出して急速な呼吸困難を起こす病気だという。『里』の医者ですから打つ手がなく、ただ防ぐ方法は個人の予防と消毒で身を防ぐ、もしくは人と会う事を避けるしか予防方法が存在しない為、皆恐れて里の外へと出る事が無くなったのである。それなら外に出ることが出来ないのも確かである。確かにそのはずなのだが。
「でも本当に流行病なんてあったかしら?」
たった数週間も前の出来事だが、曖昧になり始めている記憶の中で、稗田は外に出る理由が本当にそれだけだったのか、湯呑みから際限なく上がる小さな湯気の如く、彼女の中で疑問が浮かび上がっていた。
「そうそう、人間の里と言えば稗田様。御友人からお手紙が届きましたよ」
「本当に!」
湯のみを見つめ、ふと浮かび上がった疑問に鎌首をもたげていると、居間から台所へと食器を運ぼうとした女中が申し訳なさそうな顔をして、どこからか手紙を差しだしてきた。
その茶色の包みを見て、稗田は流行病の事など最早頭の隅に追いやり、嬉々として女中から包みを受け取り、茶色の封筒を破り中から手紙を取り出して目を通す。
手紙には見慣れた筆跡と癖を持った友人の字で様々な事が書かれていた。友人が元気である事、元気だが里は流行病のせいで活気が無く、いつかまた誰かが病にかかってしまうのではないかと言う恐怖と、稗田の体を心配している事。最後には流行病が収まり、稗田が今やっている作業を終えたら何処かへ遊びに行こうと書かれていた。
読み終わり、手紙を閉じた稗田はそのまま机の上に手紙を置くと、微笑みながら安堵の一息を付いて今後の事を考える。
何処かへ遊びに行きましょう。その一文を見て、稗田は友人と交わしたその約束が、近いうちに果たせる事に胸を躍らせていた。そして何処へ行くのか、まだ原稿が完成していない上に外では流行病が跋扈しているにも関わらず、友人と会うその日の事をとめどなく考えていた。
「ご苦労様。私、作業部屋へ戻るわ」
手紙を片手に持ち居間から出ると、いつの間にか台所にいる女中に声をかけて稗田は再び作業部屋を目指して歩き出した。
台所からは食器を洗う音と共に「あまり夜遅くまで根詰めないでくださいよ」と心配する女中の声が聞こえてきた。その声を耳にしながら稗田は月明かりに照らされた廊下を歩いていく。
ふと、稗田は独りで廊下の軋む音を耳にしていると、急に立ち止まって廊下の窓から見える夜空に向かって顔を上げた。
「もう少し、か」
友人からの手紙を見たことで、再び自分の中にしまいこんでいた孤独を思い出した稗田は、鬼灯の花の色をした三日月の明かり見て一人呟く。その胸の内には、友人と再会したら何をしようか、どんな話をしようかで一杯であり、それを想う程に稗田の中で友人の存在が大きく膨らんでいく。稗田にとって、友人は自分を孤独から解放してくれる存在だと思っていた。
「約束は守らないと」
そして、現実に戻り一人だけの孤独をかき消す為に、再会の友人との約束を守る決心をして作業部屋へと向かって言った。
次の朝、朝食を終えた稗田は自分の体に違和感を覚えていた。目が覚めた時から体がだるく、しっかりと睡眠をとったはずなのに何処か体が重い。本来なら作業を中断して医者に具合を見せている筈である。
しかし体の痛みと苦しさを感じていながらも、休んではならないと自分に言い聞かせ、稗田は執筆をつづけていた。なぜなら友人へ渡す返事にはあと少しで終わると書いていたからである。体調を崩して間に合わなかったのでは、恰好がつかないと考えていたからだ。
「早く終わらせないと」
無理をしてでも約束を一日でも早く守り、自分の中にある孤独から解放されたい。それほどまで一人でいることに限界を感じていた稗田は休むことなく筆を進ませる。
女中は今、屋敷の中にはいない。用事のために流行病のある人間の里へとわざわざ足を運んでいったからである。体調の悪さを隠していた稗田は外に出る前に、女中が流行病に罹るのではないかと心配をした。しかしどれだけ心配をしても、女中は大丈夫だと言い結局外へ出て行ってしまった。
女中の行動を不審に思いながらも、稗田はその時に体の調子が悪い事を隠さず、伝えておけば女中を屋敷の中へと引き留めておけたのではないか。と次第に重くなっていく体を動かしながら後悔をしていた。
「あっ……」
体に走る悪寒と朦朧とした意識の中で女中の事を心配していると、稗田は左手の甲にこそばゆい感覚が広がる。見てみると、そこには墨を吸った筆が置かれていた。億劫になりながらも穂先の黒い筆を放すと、左手の甲に墨で作られた黒い一筋の線が生まれた。
左手から垂れる墨が、原稿に黒く小さな染みを生み出すが、稗田の意識が朦朧としているせいか、今の彼女には手についた墨の汚れを拭う気にもなれない。
むしろ墨などを気にせずに手を動かす為、手の甲に出来た黒い線が白い紙に擦られるたびに、黒い染みが白い紙に次々と染めていく。
稗田は筆を止めて、墨が白い紙に染まっていく様子を見る。筆を走らせていたはずの稗田の頁には、文字と呼べるものは書かれてはいなかった。蛇が這い擦りまわったような、もはや文字とは呼ぶことのできない模様。それは稗田がどれほどまでに衰弱しているのかを表していた。
やがて稗田の視界は霞み、体のありとあらゆる部分から力が抜けていくのを感じる。
突然の事に恐怖を感じながらも薄れ行く意識の中、屋敷の誰かに助けを求めるように稗田は墨で汚れた手を伸ばす。しかし襖は開く事は無く、女中の足音も聞こえてはこない。
手を伸ばした瞬間。花瓶に触れたのか、横倒しになった花瓶の水が墨と混じりあい紙を濡らしていく。
そして筆の墨と花瓶の水が白い紙を染める様を、目じりに涙をにじませた稗田はただ見つめながら目を閉じて、やがて彼女の世界は闇に包まれる。彼女の景色が消える瞬間見た物は、鬼灯の花を握りしめたままの墨で汚れた自分の手であった。
気がつくと、稗田は布団の上で作業部屋の天井を見つめていた。そして目の前には心配そうな表情をした女中が一人、涙ぐみながら稗田を見下ろしている。
「稗田様!」
稗田が目覚めたことで安心したのか、とうとう安堵の涙を流した女中が稗田に話しかける。
女中の様子を見て、意識を失う寸前の事を思い出した稗田は、蒲団から起き上がろうとするが、女中はそれを手で制して蒲団へ横にさせると、稗田が意識を失った後、何があったのか状況を説明し始める。
「驚きましたよ。帰ってみると高熱を出して倒れていたのですから。慌ててお医者様をお呼びして見て頂いた所、どうやらただの過労だったそうです。本当に何も無くて安心しました……。あまり無茶はしないで下さいと言ったじゃないですか」
「そうなの……心配させてごめんなさい」
目じりに涙を浮かべながら、作業で根を詰めすぎていた稗田を咎める女中に対して、稗田は心配をかけさせた事への罪悪感からか、申し訳なさそうな表情を布団の下で見せる。
「今は絶対安定だそうです。動く事も控えてください。もちろん、作業などもってのほかです」
「でも」
稗田は何かを言いかけたが、女中の睨みを見て、自分は目の前の彼女には決して叶わないのだということを思い出した。そして睨みを利かせてしまうほど、女中は自分を大切にしているのだと、そう理解をした稗田は静かに言うことに頷くと、そのまま蒲団の中で目を瞑る。
「無理はしないでください、あなたに身に何かあったら、私は自分を許せなくなってしまいます」
稗田の額を優しく撫でながらそう呟くと、女中は部屋を後にする。稗田が耳にしたその呟きには、何処か女中は自らに対して何か罪悪感を抱いているような、懺悔にも近しい何かを感じていた。
「ねえ」
その自分を責めている姿を見て稗田は何かを感じたのだろう。襖を開け、部屋から出ようとする女中を呼び止めた。
「いつもありがとう。貴女のおかげで私はここまで続けられたの。だから自分を責めないで」
そして、普段あまり言う事の出来なかった女中への感謝と、心配させたことへの謝罪を伝える。
「どういたしまして、私は大丈夫ですよ。だから気にしないでください」
襖が閉まる直前、その言葉を聞いた女中は何処か照れくさそうな声を出して襖を閉めた。その時の表情を稗田は見ていなかったが、嬉しそうな声を聞き、襖が閉まる音と遠ざかっていく足音を耳にして満足する。そしてまとまった休みを取れたのが、まさか自分が倒れた時だと言う事を心の中で嘲ると、女中が自分の事を心配するのは無理もないと考え、眠りについた。
その夜、稗田は夢を見た。それは友人を自分の家に招く夢。資料が山積みになった書庫の中、机に置かれた鬼灯の真っ赤な実が差された花瓶の横で、本を友人と共に読みながら談笑している風景は、まるで稗田本人がそう望んでいるかの様な風景であった。
しかしその夢のような書庫の隅で、二人に迫る人影が現れる。その人影は埃の積もる本棚から縋るように這い出て、古ぼけた床のきしみと共に二人の傍へ近づいてくる。
夢の中でその人影に稗田は気づく事はない。ゆっくりと少しずつ近づいていくその影は、やがて二人の足元まで近づくと、墨で汚れた左手で稗田の足を掴む。
足を掴まれ、初めて稗田は足元に何かがいることに気付き、慌てて床に目を向けてその体温を感じることの無い、不気味な感触の正体を確かめる。そして夢の中の稗田は驚きのあまり目を見開いた。
そこには青白く墨で汚れた左手と共に、もう一人の稗田がひどくやつれた顔と共に、虚ろな目で縋る様な視線を自分に向けていた。
悪夢を見て、思わず稗田は飛び起きて部屋の明かりを付けた。辺りには何もおらず、暗闇に吸い込まれそうな、頼りない明かりが部屋を照らすばかりである。稗田は作業部屋の中でただの夢であった事に安堵すると、額ににじみ出た汗を拭う。
そしてふと左手で額の汗を拭った稗田は考える。
夢で見た場所が資料をしまう書庫であるなら、あそこには何かあるのではないかと。
そう考えた稗田が汗を拭った左手に、墨の汚れは一切無かった。
倒れてから三日が経った。しかし稗田は作業を行う事も、動く事も出来ず布団の中で横になっていた。
女中に絶対安静と釘を刺されたまま、三日間も横になる生活を続けている事に飽きが来ていた稗田は、新しく花瓶に差し直された鬼灯の花を尻目に目を閉じて、作業部屋の窓から見える外の世界に想いを馳せる。
瞼の裏に浮かび上がる景色は、木漏れ日と共に雲一つない青空との染み入る程の青。その美しくも眩しい情景が瞼の裏に焼き付いている。恐らく外も瞼の中にある景色の様に、暖かな陽気で包まれている事だろう。空気は新鮮であり、心地よい風を体に受けて見る外の景色は、きっといつも見慣れている風景だとしても、三日間も外に出てない今の自分にとって色鮮やかな物に映るかも知れない。目を開くと、そんな憧れに似た気持ちを稗田は胸に抱く。
そして友人。手紙の返事を出して、まだ然程の時間が経っていないにも関わらず、頭の中では外の風景と友人の事ばかりを稗田は考えていた。
恐らく稗田は自分が体調を崩したせいで、友人も同じ状態なのではないか、不安になっているのだろう。体調を崩し、自由を奪われてしまっては、感傷的になるのは無理もない。
「稗田様、お薬の時間ですよ」
そんな感傷など知るはずも無く、やはり決まった時間に女中は襖を開いて稗田の元を訪れる。
薬という言葉を聞いた瞬間、稗田は今までの感傷など全て打ち捨て、かつて無いほどの苦い表情を見せた。
彼女はこの薬が嫌いだったのである。甘味など感じる事も無く、舌に張り付いてしまいそうな程の強い青臭い苦み、そして鼻だけではなく、顔全体が歪んでしまいそうな程の異臭を放つそれを飲む事だけはしたくなかった。倒れる寸前まで体の不調を女中に訴えなかった原因の中に、この薬が入っている程である。
「もうそんな時間なのね。勘弁してほしいわ」
「そう言わないでください。今日で最後ですから」
体を起こして、女中の手にした薬を一瞥すると、その見た目と匂いに嫌悪感を露わにする稗田。その姿に同情をおぼえたのか、申し訳なさそうな苦笑いを女中は見せる。しかし同情を見せながらも、手には水の入ったコップと、濃い緑色の顆粒が入った紙がしっかりと握られていた。
その様子を見て、やはり観念した稗田は女中からそれらを受け取ると、早くその苦しみから逃れたいのか、覚悟を決めて薬を一気に飲み干し、コップの中に満たされた透明な水で流しこむ。
その瞬間、口内は薬の苦みで満たされ、苦みと嫌悪感は流し込んだ水と一緒に体の隅々まで余すことなく広がり、それらはやがて悪寒となって、体の末端へと隙間なく広がっていくのを稗田は感じた。
「ねえ、まだ動いちゃいけないの?そろそろ外にも出たいし作業を再開したいわ」
口内の苦みが一段落した稗田は、目じりに涙を浮かべて女中に寝たままの生活の文句を言う。言葉の中に、僅かではあるがこのような苦い薬を手渡してくる、女中に対しての不平不満が入っているようにも聞こえる。
「我慢してください。薬を全部飲み終わった次の日からは動いても良いと、お医者様が言っておりましたから」
稗田が一度も顔を合わせた事の無い医者からの言葉だと言われて、呆れてため息をつく。この時稗田は、いつの日か友人から聞いた囚われた姫の話を思い出し、自由がない今の自分と重ね合わせていた。
「もう無理だけはしないでください。私にとって稗田様はとても大切な方。万が一の事があったら申し訳が立ちません」
不満そうに顔を膨らませた稗田を見て、女中は稗田の手を両手で優しく包み込む。確かに女中は自分の事を大切にしている。倒れてから目を覚ました時、女中の目には涙が溢れていた。だがそれ程までに心配をさせてしまった罪悪感抱きながらも、稗田は納得をいかない表情を女中に見せる。
いつからだか稗田は覚えてはいないが、最近になって女中は情で自分を責めてくるよう感じていた。それに弱い稗田は涙を見せられるとなすが儘である。恐らく分かってしているのだろう。
「さあ、もう休みましょう。明日からはまた作業が始めるのでしたら、体調をしっかりと整えないとまた倒れてしまいますよ」
「……うん」
稗田は一言だけ頷くと、会話は終わり布団の中へ横になる。三日間も作業部屋で作業も出来ず、横になっていればどれだけ不満が溜まる物だろうか。
不満を何処かにぶつける事も出来ず、それらを持て余したまま横になった稗田は襖から出ていこうとする女中を見送る。すると女中は襖から出ていく直前、何かを思い出したのか、廊下へと進もうとする足を止めて、不満な表情を悟られない様に布団から目だけを出している稗田の方に向かって、笑顔で伝えた。
「そうだ、言い忘れていた事がありました。お医者様がもうお風呂には入っても良いとおっしゃっておりましたよ。夕食の後、お風呂の準備をさせていただきますね」
それだけを伝えると。女中は襖の外へと出て行ってしまう。あまりに突然の事を聞いて、稗田は寝ていてばかりだったが、その一言だけで多少の解放感を覚えてしまった事に呆れてため息を付いた。
「あら、資料が足りないわね」
そんなわざとらしい独り言を呟きながら、稗田は窓からの木漏れ日を浴びて、作業部屋の真ん中にしかれた座布団の上に腰かけている。
体の調子が戻り、ようやく稗田は原稿の作成を再開した。しかしいつもの様に墨を走らせ、自分のするべき事をしているつもりだが、時折稗田の頭の隅で、依然夢で見たあの出来事がちらつき集中することが出来ない。そもそも何故、夢の中の自分が書庫などという馴染みの無い場所に友人と二人でいたのか、彼女にはわからなかった。
元々十分すぎる程の資料が稗田のいる作業部屋には置かれている。だからわざわざ書庫に置いてある物を持ってくる必要は無い。そのおかげで稗田は一度も書庫の中へと入った事が無いなかったのだった。そして作業部屋に積み上げられた資料は、全てあの女中が書庫から運んできた物である。
過去に一度だけ、稗田は書庫の中に興味を持ち、中を見ようと女中に頼んだことがあった。しかし女中は「稗田様が以前お作りになられた原稿と、それの時に使用された資料しか入っておりませんよ。それにあの書庫は碌に掃除をしていないので、埃まみれで何がいてもおかしくはありません」と言ったきり書庫の中には入れさせてくれなかった。その時はそれで終ってしまい、その後は稗田も書庫の中に入る必要は無いだろうと感じていた。
しかしあんな夢を見た所為で再び書庫が気になり始めてしまう稗田は、同時に不審な点を覚えた。それは何故、あの几帳面な女中が書庫の整備をしていないのか。今まで書いてきた大切な原稿を置いてある場所を、女中なら掃除をしない訳がない。
もしかしたら、女中はあの中に何かを隠しており、夢の中に出てきたもう一人の自分は、書庫に何かが隠されていることを自分に伝えたかったのではないか。
寝ている暇を持て余してそんな結論に至った稗田は、ある決意と共に立ち上がると、机の上で綺麗に整頓された資料と、鬼灯の花が差された花瓶を一瞥して部屋の襖を開ける。
廊下には誰もおらず、足音一つ聞こえない。聞こえるのは廊下の軋む音だけである。その静寂に包まれた廊下を一人歩く稗田は、耳障りな軋む床の音を耳にして、どこか寂しさを覚えた。確かに外の景色も、部屋の花瓶に差された鬼灯の花も、どれもが鮮やかな色をしていた。しかし今の稗田には、それがまるでこの屋敷には元々存在していなかったような、まるで現実ではなく夢の中だけにしか存在していない様に感じていた。
倒れて以来、時折襲い掛かってくるその違和感を押しのけながらも、稗田は玄関の方へ向かうと、玄関から微かに人の声が聞こえてくる事に気づく。
立ち止まって耳を澄ましてみると、その声は稗田にとって聞き覚えのない人物の声であった。
元々この屋敷を訪れる者は滅多にいない。少なくとも稗田の記憶の中で覚えている屋敷への来訪者は、初めに女中が此処へ押しかけて来た事と、時折訪れる稗田の友人のみである。それ以外は記憶には無く、自分が倒れた時に女中が医者を呼んだと言っていたが、稗田はその時意識を失っていた為、面識は無い。
ではあの玄関先で女中は一体誰と会話をしているのだろうか。
女中が他の事に気を取られている内に書庫の中へと忍び込みたかった稗田だが、なんとなく女中の話している相手が気になり、忍び足で居間まで近づくと畳の上にしゃがみ込み、玄関の方にある障子に向けて聞き耳を立てた。
「申し訳ありません。まさか今回はあんなに期間が短いとは思ってもいませんでした」
「大丈夫よ。それよりもペースを急がせて、もう追いつかれ始めているわ」
申し訳なさそうに心の底から謝罪をする女中の声と、稗田が一度も聞いたことの無い女性の声。初めは面識のない例の医者だと思っていたが、会話の内容が無関係の話題ばかりであり、すぐにその人物が医者ではないと稗田は感じた。
女性は手に何かを持っているのか、玄関の地面しきりに何かで突く音が聞こえてくる。声には感情こそ感じられない物の、代わりに地面を突く音からは苛立ちのがあるようにも聞き取れる。
「その件に関してはもう手を打ってあります。今頃再開していることでしょう。以前の物はまだ保管が出来てはいませんが、今日中には目処を」
「そう、ならあなたを信用するわ。いつも通り、全部任せるわよ」
「ありがとうございます。次は……」
二人が何を言っているのかを理解できない稗田は、とりあえず女中が誰かと会話をしており、そしてそれは当分終わる事は無いだろうと考えると、居間から書庫へと忍び足で移動していく。
物音を押さえて玄関まで聞こえない様にゆっくりと移動していき、やがて扉に南京錠が掛けられた書庫の前へとたどり着く。
稗田は書庫の扉を閉めている南京錠を手にして見つめる。眩いばかりの輝きを放っている筈の真鍮製だったが、ここで長い間書庫を閉める役割を果たしていたのか、かつての輝きは褪せ、それは青い錆に覆われていた。
そんな古ぼけた南京錠を手にしていると、稗田はある異変に気付く。それは書庫の扉を閉める役割を持つ筈の南京錠が既に外れており、本来の役割を果たしてはいなかったのだ。
それを見た稗田は、きっと女中が南京錠の外れた扉を開き、整理をしようとして来客が来たのだと考え、尚更女中が戻る前に中を調べなければならないと思い、慌てて締め切られていた書庫の入り口を開ける。入り口を開けた瞬間、長年使われていなかったのか、軋んだ木の音が聞こえてきた。
扉を開け切ると、稗田は一度も踏み入れた事の無かった書庫に中へと入っていく。書庫には窓が一つも無く、明かりも無い。ただ扉から日光の光が差し込むことで、書庫の中を多少は窺い知ることが出来た。
薄暗い書庫の中。そこには夢で友人と一緒にいた場所と同じ景色が広がっていた。ただ夢と違う部分は埃が溜まっており、いつ掃除を行われたのかも分からない程あちこちに蜘蛛の巣が張っているばかりである。その周りに積み上げられた原稿の束。稗田が長年書き続けたそれらの中には、原稿を書いた稗田の身長を優に超えるほど積みあげられた物さえあった。
稗田が長年生み出し、積み重ねた物の中、試しに手元にある埃まみれの原稿に手を伸ばして頁を捲る。そこには自分と同じ癖を持った文字が書かれていた。だが、彼女はこれほどまでの資料を書いた記憶が無い。
原稿を閉じて、元のあった場所に置くと、稗田は薄気味悪く、淀んだ空気が溜まった書庫の中を進んでいく。扉から漏れる明かりを頼りに進んでいくと、ふとつま先に何かが辺り、稗田は驚きのあまり息を飲む。
目を凝らしてつま先に当った物を見てみるが、まだ暗闇に目が慣れないせいか、それの正体が分からない。仕方がなく稗田は四つん這いになって、つま先に当たった物を自らの手で確かめる。
それは柔らかく、滑る様な肌の感触は自らの体を触る様であった。更に握ったそれから、自分の手へと感じる、今にも消えてしまいそうな程のか細い温もり。
触れ続けていた稗田は正体に気付くと、息も止まりそうな表情を更に凍り付かせ、慌てて否定するように、手探りでその部分をゆっくりと手でなぞる。良く触り、確かめて見ると息があるのか、弱々しく今にも消えてしまいそうな脈の胎動をその掌で感じる事が出来た。
暗闇の中で目が慣れてきた稗田は、その触っていた物の正体が、自分の中でありえないと、否定したかった物だと分かり茫然自失とする。
稗田の握ったもの。それは左手の甲に乾いた墨の汚れがあり、枯れた鬼灯の花を握りしめた人間の手。
そして目の前には、稗田と同じ顔をした人間が青白い顔で、今にも消えてしまいそうな浅い呼吸をしながら倒れていた。
「稗田様……」
目の前でもう一人の自分が倒れていたことに夢中になっていると、すぐ後ろから女中の困惑した声が稗田を呼ぶ。
その声で我に返り、声を失っていた稗田は、自分の出した物音で女中が書庫まで来ていた事にようやく気付くと、顔を恐怖で歪めながら後ろを振り向く。振り向いた稗田の視線には、日の光の中で狼狽した表情を自分に見せる女中が立っていた。
「これは一体どういうこと……?なんで私がもう一人ここに居るの?あなたなら分かる……?倒れているのは誰なの!私は一体何者なの!」
稗田が何をしてくるのか分からず、狼狽が見え隠れしている女中に対して、稗田は頭を抱え、書庫に倒れていたもう一人の自分の正体を女中に求める。
何が起きているのか理解が出来ない稗田はただ、もう一人の自分が何者であるのか、女中が何故、狼狽した表情を見せているのかをただ求めながら、揺らぎ始めた自身の記憶に狼狽えるしか出来なかった。
面白かったです