Coolier - 新生・東方創想話

ドリームゲイザーprologue

2015/08/12 23:49:00
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 陽へ晒した肌に、まだ風が肌寒い皐月の朝。
「あら」眼をぱちくりさせて。「あなたが先に来てるなんて、珍しいわね」
 晴れ渡った青空には、白い雲がまばらに流れていた。京都タワーに見下ろされた酉京都駅前。休日のこの日も、首都・京都の玄関口は早くから多くの人で賑わっている。
 中央改札口がある駅のエントランスにやって来たマエリベリーは、壁にもたれてぼんやり携帯端末を操作する蓮子の許へ駆け寄った。壁から背を離した蓮子は、足元のトラベルバッグを手に取りつつマエリベリーを迎えた。
「うん、まあね」
「今日は雨かしら」
「あいにく、私は晴れ女よ」
 長い袖を七分丈に折った白のシャツに、黒のロングスカート。胸元を飾るネクタイもまた、黒地に白で小さく星をあしらったデザインと、その出で立ちは徹底的なまでに二進数めいた色彩(モノトーン)耳を小さく擽るよう(ハイトーン)な声音が奏でられるたび揺れる焦げ茶の髪は、そこだけ長く伸びた左の揉み上げを赤いリボンで結んでいた。
 マエリベリーの言葉を素っ気なくあしらった宇佐見蓮子は、これまた黒地に白いリボンで飾られた中折れ帽子を被りなおし、「さ、行こうか」と。
「そうね。さっそく行きましょうか」
 木春菊色(マーガレット)のロングスカートに菫色(バイオレット)のブラウス。ブラウスの上からは腰へ深紅色(スカーレット)のベルトが斜めに巻き付けられている。
 蓮子とは対照的に彩り溢れた出で立ちのマエリベリー・ハーンは、小さく肩をすくめると蓮子の隣に並んで改札へ向かった。
 この日、二人は長野へ行く。学業も私生活も、全て忘れて二泊三日の旅に出るのだ。マエリベリーが蓮子に旅行の話を持ちかけたのは弥生の下旬。二人が大学四年生になる少し前のこと。
 二人はヒロシゲ36号に乗り卯東京駅へ向かうため、新幹線のホームへと足早な歩を向けた。卯東京駅に着いてからは、さらに新幹線を乗り継ぎ長野駅へ走る予定になっている。卯酉東海道新幹線の登場と東海道新幹線の乗車料金高騰が生み出した、全行程約三時間の東西行ったり来たり旅だ。
 蓮子がマエリベリーの予想に反して待ち合わせ時間を守ったため、ヒロシゲには余裕を持って乗り込めた。座席のおよそ半数が埋まった車内。二人は指定のボックス席に向かいあって腰を下ろし、背もたれに身を預けた。
「ヒロシゲに乗るのは……、あなたのお家にお邪魔した時以来ね」
「私もそうね。去年は何だかんだで帰省しなかったし、一昨年のお彼岸参り以来だわ」
「今年の夏は実家に帰るの?」
「んー、まだ決めてはないけど、たぶんそうかな」
「そうするべきよ。曾祖母様も、きっとあなたに会いたがってると思うわ」
「まあ、うん……」
 生粋のお婆ちゃんっ子は、気恥ずかしそうに鼻の頭を掻いてマエリベリーから眼をそらした。
 車内の壁から天井にかけてを覆ったカレイドスクリーンには、酉京都駅周辺の様子が映し出されている。マエリベリーは蓮子の視線を追うようにして、スクリーンに映し出された景色に目をやった。
 街の影が、青く澄んだ空の裾を不揃いな丈に削っている。その向こうから射し込む朝日の虚像は、スクリーンを覗き込むマエリベリーの瞳をちくちくと刺激した。朝の涼やかな風も匂いもなく、それでいて不自然なまでに鮮やかな朝の風景。そんな景色の中に、とりわけマエリベリーの注意を引くものが建っている。
 それらは広い青空に、見た目は電信柱よろしく、高さは街のどの建造物よりも高いシルエットを描いている。
 鋼鉄の鳥居――人々は、京都の街を円形に囲う全十六塔の円柱型建造物をそう呼んでいる。
 鋼鉄の鳥居は〈神亀の遷都〉以降、遷都の理由となった〈大霊害〉の脅威から京都を守護するために作られた。その働きは主に、完全自立型理論結界生成システム《HAKUREI》による結界の生成と、結界自動修繕システム《YAKUMO》による空間の綻びの自動修正であり、これらの技術によって、京都の街は結界の内に封されている。とりわけ《YAKUMO》による結界の修繕は、日々京都の人々を神隠しなどといった危険から守っているが、それは同時に、結界の綻び探しが主な活動内容である秘封倶楽部の二人を困らせてもいる。京都内に結界の綻びがほとんど現れないため、必然的に彼女たちの活動範囲は街の外へと広がらざるを得ないのだ。
 マエリベリーはふと考えた。蓮子と、こうして二人きり、倶楽部のことすら忘れて京都の外へ出るのは初めてかもしれない、と。
 宇佐見蓮子とは大学一年の春に出合い、かれこれ三年の付き合いになる。マエリベリーにとって、その三年間はあまりに濃密だった。この三年間の毎日が輝かしい思い出であるようにも思えるが、しかし、思い返してみると決して楽しい出来事ばかりがあったわけではない。いつだって苦も楽も共にしてきた。そんな相手と、今になってようやく、京都の外へ()()()行くのだと考えるとどこか滑稽だった。
 発車のアナウンスが車内に響く。
「いよいよ出発ね」
 蓮子が小さく呟くと、スクリーンが暗転した。旅の始まりを飾る短いオープニングクレジットが流れる。スクリーンは霧が晴れるように透明感を取り戻し、歌川広重が描いた日本の原風景が車窓へ広がった。
 音もなく、車両は東京を目指して走り始めた。

 二人が長野駅に到着したのは、およそ午前十一時頃。そこから更にローカル線で揺られ、二人は目的の駅までやって来ていた。
「んーっ、やっぱりこの辺の電車は揺れるわね」
 改札を抜けたマエリベリーは、駅前のロータリーへ出て大きく伸びをした。天球の頂点へ差し掛かろうとする太陽は眩く輝き、マエリベリーの白い頬を照らした。大きな伸びに、ゆらりと一瞬視界が霞む。頭から血液がすうっと抜けていく感覚が、列車に揺られた疲労感と相まって今はどこか心地よかった。
 遅れてやって来た蓮子が、腕を目元にかざしながら空を見上げる。日光の眩さに目を瞬かせた。
 お世辞にも大きな駅とは言えないが、それでも駅前は多くの人々で賑わっていた。マエリベリーはその様子に、少し驚いてしまった。景色を見渡せば緑にあふれた土地である。駅周辺にも、それほど集客力をほこる何かが建っているようにも思えないからだ。
 とはいえ、大小さまざまな荷物を抱えたその装いから、すぐにそれらの人たちが、二人と同じ観光客であることが窺えた。これから自分たちが向おうとしている場所が、どれだけ有名な観光スポットなのか。マエリベリーは、改めてその事を思い知らされていた。
「それで? 私たちはどのバスに乗ればいいのかしら、っと」ぐるりと辺りを見渡し蓮子が言う。「ああ、あれね」
 蓮子が指差す先は、バスの停留所だった。駅を出てすぐのところに佇む二人の位置からもはっきりわかるよう、その屋根には〝守矢神社跡へはこちら〟と書かれた看板が掲げられている。そこにはすでに、守矢神社跡へ向かおうとする人たちで長い列が出来上がっていた。普段から日本の首都であり、かつ日本有数の観光地である京都に暮らす二人にとって、バスや電車への乗車待ち列という光景は新鮮なものだった。
 今からおよそ百年前、第三次エネルギー革命が起こってからは、人々が自家用車を使う機会はみるみる内に減っていった。二十世紀後期までの人類は、重力・電磁気力・弱い力・強い力と言った四つの力を統一的に扱う統一場理論を世界の常識としていた。そのため、文明の発展はイコール科学技術の発展を意味したが、あるとき『非統一魔法世界論』が投じられたのを皮切りに、人類は文明発展の方向性を精神世界へと転じていった。そうしていつの間にやら根付いていった、〝自然の頂点に立つ人間ではなく、自然の一部である人間〟という、〝行き過ぎたロハス〟〝文明の発展的衰退〟とさえ揶揄された思想から、一度の輸送効率が悪く、そのくせ環境を破壊しすぎる自家用車は姿を消してしまったのである。
 その代わりとして発達したのが公共交通機関だった。都市交通システムの管理下に置かれたバスや電車といった乗り物が都市全体を網羅的に、しかも従来より多くの本数を走ることで、人や物の流れを滞らせることなくしたのだ。そして全国に先駆けて新たな交通計画を取り入れたのが京都であったため、今や京都の人間は乗り物待ち知らず、渋滞知らずなのだった。
 とは言え、そのような交通計画を実行に移せるのも、公共交通機関利用者が一定数以上存在する都市に限られる。京都の外、とりわけ二人がいるような田舎町では今でも、人々の主要な移動手段は自動車やバイクなどなど、二酸化炭素を吐き出して動く骨董品(アンティーク)である。特に、守矢神社跡は日本でも指折りの観光スポットだ。そんな場所に()()()()()()()()()()()都会人が大量に流入すれば、目の前の現状のように、駅前が混雑するのも当然のこと。ある意味で、混雑・渋滞は田舎町ならではのものとなっている。
 二人が守矢神社跡と駅前とを行き来するシャトルバスに乗れたのは、それからしばらくしてのことだった。
「守矢神社跡、か」
 二人掛けの座席で窓際に座った蓮子が、窓枠に肘をつき外の景色を眺めながら呟いた。マエリベリーも、蓮子の横顔越しに車窓からの光景を眺める。
 バスが道を進むにつれ、町の気配は視界から薄れていった。やがて背の高い建物が姿を消す頃には、視線の彼方で青々と緑の茂る山々が連なるようになる。景色のあちらこちらには水が張られたばかりの水田が広がり、時期が来れば、山の緑が辺りまで寄せるようなかたちで、水田にも青々と稲穂がなびくだろう。スクリーンに映し出されるのとは違った、どこか不揃いで乱雑な自然へマエリベリーは思いを馳せた。
「去年長野を観て回ったときは、時間が無くて行けなかったから、今日はここが良いと思って」
「なるほど。もちろん、()()()()()()()()()()()()どこだって構わないよ」マエリベリーを振り返って「守矢神社跡の伝説も、なかなか興味深いしね」
「そうでしょう?」言いながらも、胸にはちくりと刺すような痛みが走っていた。「伊達にいつも()()()()()()()()()わけじゃないわ」
 あなたがそんなことを言うなんて。脳裏にちらついた言葉を、マエリベリーはそっと飲み込んだ。ちくりと刺すような胸の痛みは、自己嫌悪がもたらすものなのか、あるいは相手への途方もない好意が感じさせるものなのか、瞬時に判断できなかった。
 今もマエリベリーの右腕にうっすら白く残る線――手首の内側から前腕の半ばまで伸びた傷跡。
 それは衛星トリフネで遭遇した合成獣(キマイラ)が、マエリベリーの身体に、二人の間に、深々と刻み込んでいった過ちの跡だった。
 あの時から宇佐見蓮子は変わった。そしてまた、マエリベリー自身も。二人の間を隔てる爪痕。二人を等しく結びつけていた何かに穿たれた境界線。その深さも、それがどれだけの悲痛を相手に与えたのか、そしてこれからも与え続けるのか、互いが互いにわからなくなってしまっていた。
 メリーが行きたい場所なら――あの時のあなたはそうじゃなかった。そして私も、あの時のあなたを否定しなかった。それで自分達の関係は成り立っていた。しかし、今はそうじゃなかった。
 傷跡は痛みを伴って、無軌道な好奇心には必ず対価は必要であることを少女たちに教えたのだった。
「けど、本当だと思う?」
「え?」
 再び窓の外を向き、蓮子が言った。マエリベリーは暗褐色に彩られた思考を振り払い、隣に座った少女の横顔を見つめる。無表情に景色を眺める蓮子の面。陽が照らし出すその健康的な肌の色に、意識が吸い込まれそうになった。
「守矢神社の伝説。ある日の早朝、近隣の人間がたまたま守矢神社を訪れたら、そこに存在したはずの神社が大きな湖ごと消えてたって話よ」
「守矢神社跡を有名観光スポットたらしめている伝説よね。神社が消えたのは……」小首を傾げる。「確か百年以上も前の話よね?」
「ええ、そうよ」蓮子は頷き、淀みなく流れるように脳内から情報を引き出す。「一九八○年代の話。当時の調査じゃ、神社消失の原因は科学的に証明できなかったらしいじゃない」
「一種の神隠しと言えないこともないだろうけど……、でも、規模が規模だものねぇ」
「まあ、現代の科学ですら、空間の歪み、結界の綻びの向こうに消えていったとしか言えないんだけど……。神隠しと言ったって、普通は人間や飼っていた動物が忽然と姿を消す程度のものなのに」
 全くどういうことかしら、とでも言うように蓮子が肩をすくめてみせる。そうして感情の窺えない、それでいて茫洋とした眼差しを青い空の彼方へ向けたまま、あとは何も言わなかった。
 二人を乗せてガタガタと道を揺られたバスは、そうかからないうちに目的地に到着した。駐車する車もほとんど無いせいでやたら広く見える駐車場の一角にバスは停車。他の客と混ぜこぜになりつつマエリベリー達は降車した。
 雨の汚れが目立つ周辺地域マップ、自動販売機、灰皿(スモーキング)スタンド、古びたベンチ、公衆トイレ――駐車場沿いにはそんな、画面の中でしか見ないような物たちが並んでいる。昼時ということもあって、人ごみは神社跡へ向かう人たちと、土産物屋へ向かう人たちで二分されているようだった。土産物屋には食事処も併設されているようで、この時間帯はそちらの方も繁盛しているようである。食事と観光、どちらを先に済ませるか一瞬足を止めた二人だったが、その足は真っ直ぐに守矢神社跡へ向った。入場口でパンフレットを一部もらい、参道へと足を踏み入れる。
 参道の左右に広がる杉並木は見上げるほどに高く、昼間の眩い陽の光も、青々と茂った枝葉が程よく遮っていた。波間のように木漏れ日の揺れる足元には砂利が敷き詰められており、ざっくざっくと歩を進める小気味良い音が、深緑に木霊して聞こえる野鳥の鳴き声と混ざり合う。肌に纏わるような湿気は、しかし決して不快ではなく、まるで森の精に抱きすくめられるようで心地よかった。
 少しの間、二人は森林の香気と戯れた。風が参道を抜けてゆくたびに杉並木はその四肢をいっぱいに震わせ、二人を音の波に包み込んでしまう。森林浴という言葉があるが、森
の音色に全身を包まれる様は、まさに大自然の清浄な息吹を一身に浴びているようだった。
 そうして軽やかに息を弾ませ参道を進んでいると、やがて視界の先で杉並木が開けていった。空を覆う緑が消えゆくにつれ、二人の瞳を明るい太陽がちくちくと刺激する。若干の眩しさに目を細めながら参道を抜けると、
「わあ―――― 」
 目の前に現れた光景に、二人は息を呑んだ。
 参道を抜けてすぐのところには、赤々と青空に映える鳥居が直立していた。その額束には『守矢神社』の文字。二人を驚嘆させたのは、その鳥居の向こうに広がる風景だった。
 どちからともなく早足になり、鳥居をくぐった。()()をまっすぐ進み、二人は敷地の中央に巡らされた木目の柵から身を乗り出す。そしてそれを見た。
 二人の足元――柵のすぐ先に存在するのは、巨大と形容してしかるべき()()だった。さながら隕石孔(クレーター)のような大穴の直径は、素人の目測でさえ数百メートルに及ぶだろうことがわかる。深さと言えば、太陽が二人のほぼ頭上にある時間帯でも、底のほうが薄暗がりに包まれるほどである。冗談でも柵を乗り越えようなどとは思えない。
 バケツのアイスを大きなスプーンでくり抜けば、こんな形になるのかもしれない。マエリベリーは大穴を見て、ふとそんなことを考えた。それほどまでに、大穴は不自然なほど綺麗だった。地盤がそこだけ陥没したり、何らかの要因で穿(うが)たれたとして、こんな穴が生まれるとは彼女には思えなかった。まるで神社があった部分だけ、空間ごと切り取っような滑らかさが大穴からは感じられた。
 マエリベリーは薄暗がりをじっと見据えた。風が吹くと、大穴の薄暗がりがごうごうと音を立てた。どこか獣の息遣いを感じさせる低い唸りが鼓膜を揺すぶる。獣が身をいかり震わすように、影そのものが揺らめいているように思えた。
 マエリベリーは両目を(すが)めた。そうすることで、まるで影の中に潜む何者かを暴くことができるとでも言うように。そしてまた、そうすることで大穴の底に揺蕩(たゆた)う何かが気配を(まと)い、じっと彼女を見つめ返してくるような感覚を味わってもいた。
「――リー? ねえ――……リー、メリー!」
「……えっ?」
 耳元で爆ぜた蓮子の声に、マエリベリーはふと我に返った。気付くと大穴の底に吸い込まれつつあった意識が、自他の境界を得て彼女の中心へと収束する。遠のいていた世界の音が途端に押し寄せるにつれ、マエリベリーは自分の肩が荒く上下し、早鐘を打つように心臓が脈打つのを感じた。
「どうしたの、メリー?」眉をひそめて「具合が悪いの?」
「い、いいえ。何でもないわ。あんまり大きな穴だから、ちょっと怖くなっただけよ」
 大げさに両手を振って見せてから、マエリベリーは、自分が右手を固く握りしめていることにようやく気付いた。さりげなさを装い、両手を後ろ手に隠す。蓮子の黒曜石めいて暗く、冷たい光を宿した瞳がマエリベリーへ向けられた。悪意よりも柔らかく、殺意よりも温かなもので首元をそっと絞めつけられるような息苦しさと焦りを感じる。マエリベリーは、どこか懸命になって相手の瞳から視線を逸らさないよう努めていた。自分でも訳のわからないまま、悲しいような辛いような思いになっていた。
「……まあ、メリーがそう言うなら良いんだけどさ」
「ありがとう、蓮子。でも、ちょっと気にしすぎだわ」強いて明るく言う――柵の一角に出来た人だかりを指さす。「それより、アレは何かしら?」
「うん?」
 人だかりのほうへ歩き出しながら、マエリベリーは密かに服の上から自分の右腕を撫でた。今さら痛みを感じさせることもない傷跡。意識さえしなければ存在すら忘れてしまうようなそれは、しかし独りでに熱を帯びているようだった。そっと開いた指の関節が鈍く疼く。
 トリフネでの一件以来、霊的な物事へ敏感になっている身体。その霊的な何かがマエリベリー自身に意識されることであれ、そうでないことであれ、時折こうして、身体が過剰に反応することがあった。心的外傷(トラウマ)によるものかと考えたこともあったが、事故の後に受けたカウンセリングによれば、身体の過剰反応と精神との間に因果関係は認められなかった。そうなってしまうとマエリベリーに成すべき術などなく、こうして自身の心の動揺と、蓮子の不安や懐疑を平穏にやり過ごすよう努めるより他になかった。
 人だかりへ近づいた二人は、そこに集まった人々と同じように、柵の一部へ設置されていた案内板を見た。そこに記されていたのは、守矢神社跡についての簡単なガイドだった。

守矢神社跡
信濃国(現在の長野県)には本来、洩矢神という山の神様が居られました。
洩矢神はミシャグジ様と呼ばれる生誕・農作・軍事その他様々な事柄を司る祟り神を束ねられる神様であり、崇め敬う者には恵みを、叛き謗る者には罰を与えられ、その力ゆえに人々から絶対的な信仰を得ておられたのです。
しかしある時、洩矢神の治められる王国は、大和の国津神による侵略に遭います。洩矢神と国津神の争いは国津神の勝利に終わり、洩矢神は大和の神に王国を明け渡されました。
しかし信濃国での洩矢神に対する信仰心が消えることはなく、やがて洩矢神と国津神は同一の神様と見なされるようになります。こうして誕生したのが守矢神(建御名方神)であり、守矢神社はこの守矢神を祭神とする神社でした。
しかしこの守矢神社は、いつ創建されたのか、歴代の宮司は誰のか、御神体が何であったのかなど、様々なことが謎に包まれています。国津神でさえ奪うことのできなかった人々の信仰心が時代の推移とともに徐々に薄れていってしまったことも原因の一つではありますが、一番の原因は守矢神社そのものの消失にあります。
守矢神社が湖とともに消失したのは、一九八九年一月七日(土)のことであると推測されています。神社近辺に住んでいた住民の話によると、一九八九年一月八日(日)の早朝、偶然神社の近くを通りかかった男性が、神社がもと存在した場所に大きな穴が開いているのを目撃しました。大穴の直径は約六○○メートル。これは霊峰富士の山頂火口の直径と比較し、おおよそ四分の三もの大きさになります。
奇妙なことに、神社の消失が確認される前日、つまり一九八九年一月七日(土)に神社へ訪れていた人は誰一人としておらず、守矢神社はまさに人知れず、神社に関する情報とともにこの世から消えてしまったのでした。

「凄い話。信じがたいけど、やっぱり神社消失は事実なのよね……」
 蓮子が熱っぽく言った。人だかりの先に見え隠れする案内板を、彼女は身を捩るようにしてもどかしげに覗き込んでいる。自他共に認める天才少女が時々見せる、旺盛な好奇心をさらけ出したありのままの姿。彼女のなかに残る一片の幼さとも言えるものを窺わせる様子に、重たく胸元に詰まるようだった気持ちも、たまらず氷解してしまう。お互い変に気を遣い合うよりも、私はずっと、幻想を追い求めて前を向く彼女の横顔を見つめていたい。代わりに心の空虚さを満たすのは、そんな日溜まりのような暖かさだった。
「ねえ」マエリベリーは相手の手を取った。「せっかくだし、ぐるっと一周歩きましょうよ」
「うん、そうしようか」
 陽の暖かさと、そよぐ風にのせられてくる草と土の薫りを楽しみながら、二人は大穴の外周をゆっくりと歩いた。
 神社跡という名称が付けられ、また出雲、博麗に並び三大神社として数えられているとはいえ、厳密には、守矢神社跡はただのパワースポットである。参道の先に直立する鳥居以外に神社らしさを留めていないそこには、代わって大穴の外周を沿うように転々とベンチが置かれている。二人はそのうちの一つに腰かけた。コンクリート製のベンチは二人がけ用だが少し小さいサイズらしく、マエリベリーと蓮子は自然と互いの肩を寄せるかたちになった。
 マエリベリーは、神社跡の御利益が()()()()であることを改めて思い出していた。もともとは敵同士だった神々が、やがて一つの国を共に治めたとも()()()()()()()()()守矢神の成立経緯から生まれたご利益だ。そのことを事前のリサーチで調べ上げていた彼女は、このベンチの程よい窮屈さが、おそらくカップル向けに設計されているためだろうと考えた。
「今日は晴れて良かったわ」
「でも、朝の天気予報では夜から雨らしいじゃない」
「あら、そうだったかしら?」空を見上げ、両目を細める。「明日には晴れてくれれば良いけど」
「そうだね。明日はどこに行こうか」
「んー、いくつか考えてはいるんだけどね。蓮子はどこか、行きたい場所ある?」
「どうだろう。私はどこでも良いかな」
「もう」やっぱりあなたらしくない、という切実な言葉は呑みこみ、呆れた風に言った。「そういうのが一番困るんだからね?」
 困ったように頬を掻く蓮子の視線をなぞるようにして、大穴へと眼差しを向ける。心許なさに両の足でぷらぷらと宙を掻いてみたが、それさえ遣る瀬無い気持ちでいっぱいになりすぐさまやめてしまった。
 マエリベリーは右隣に座る蓮子の存在を意識した。触れあった肩の熱を意識した。
 今回の旅行にはいくつか目的があった。その一つはもちろん、蓮子と一緒に何もかも忘れて旅行を楽しむことだ。だがマエリベリーにとって、それ以上に重要な目的とは、蓮子との関係修復にあった。
 とりわけ彼女と仲が悪いわけではない。それこそ、こうして一緒に、二人きりで旅行へ来る程には親密な間柄だった。だが、それだけ密な関係であるがために、一度その距離感を掴めなくなると、空白を埋めることが困難になることもある。その空白にはやがて罅が入り、最後には明確な(うろ)となって二人の間に穿たれる。マエリベリーはそれを恐れていた。
それだからこそ、彼女はこの旅行を機会に狂ってしまった関係性をどうにかしたいと思っていた。実のところは、そういった狙いがあったからこそ恋愛成就が御利益であるこの場所を最初に訪れようと計画したのだし、実際にタイミングを見つけて話を切り出そうとも思ってはいた。しかし、いざ蓮子を目の前にしてみるとなかなか一歩を踏み出す機会や勇気は、降っても湧いてもこず、こうしてただ肩を寄せ合っているだけの現状となっている。
 マエリベリーは小さく溜め息を吐き、いつしか強張っていた肩から力を抜いた。旅は始まったばかりだ。焦っていても仕方ない。自分にそう言い聞かせる。そして今この時を楽しむことにした。こうして二人水入らずで旅行に来れること自体が、とても喜ばしく、平和で、幸福なのだから。
 ふと、こんなにもよく晴れた空の下、隣に腰掛けた少女の肩へ身を預けることができればどんなに良いだろうかと、そんなことを考えた。触れ合った肩と肩。触れ合った腕と腕。そこに感じる相手の体温に、近くて遠い距離感への焦がれるようなもどかしさを感じた。

 大穴の見物を終えた二人は、駐車場のほうへ戻った。相変わらず土産物屋は混雑しているようだが、二人がここへ来た時よりは併設された食事処の人混みも少なくなったようである。二人は食事を採るため、土産物屋に立ち寄った。
 食事処へ入る道すがらの土産物コーナーで、ふとマエリベリーは棚に並んだ置物に眼を向けた。そこには陶器や布製、はたまた木彫りの蛙や蛇の置物が大小様々、ところ狭しと並んでいた。
「どうしたの、メリー?」
 不意に歩みを止めたメリーを振り返り蓮子が言った。その眼はマエリベリーの視線の先を追っている。
「ううん、特に何だってことはないわ。ただ、やけにたくさん、蛙と蛇が並んでいると思って」
「ああ、メリーは知らない?」
「知らないって、なにを?」
「蛙と蛇って、洩矢神と国津神それぞれの象徴なのよ」
「あなたって、本当に何でも知ってるわね」感心しつつ「つまり、蛇に睨まれた蛙……、二柱の関係を表しているのかしら」
「ま、そんなところでしょ」
 くるっと踵を返して歩き出す蓮子を追いマエリベリーは食事処へ入った。多く並んだ長机の一角に席を取る。椅子に荷物を置いた蓮子は「ちょっと見てて」と言って店内のどこかへ消えていった。
 マエリベリーは蓮子の向かいの椅子に腰掛け、頬杖をついた。その眼は自然と、蓮子が消えていった方向を追っていた。

 温泉上がりの身体は、部屋に戻ってからしばらくした今もぽかぽかと火照っていた。夕食で山の幸を存分に楽しんだ後の満足感が、質量を得て目蓋を程よく重たくしている。このまま布団へ倒れ込めば、今日は気持ちよく眠りにつけそうだった。
 開け放った窓の向こうから、降りしきる雨音の旋律が涼しい風と共に部屋へ舞い込み、マエリベリーの浴衣の裾から覗ける素足を撫でた。
 二人が旅館にチェックインしたのは、陽も傾き始めた夕方頃。それから間もなくして、空模様は昼間蓮子が言った通りの雨となった。今日一日の汗を流すために温泉に浸かり、部屋でゆっくりしていると気付けば夕食に。食後、再び揃って温泉に浸かった二人は今、布団を引いた部屋でお酒を楽しんでいる。
 二人が今晩泊まるのは、八畳の和室に、小さな机と椅子の置かれた広縁がついた部屋だった。藺草(いぐさ)の香りが充満する和室には、水墨画の描かれた掛け軸が壁の一辺に掛かっている。その端に型の古い薄型液晶テレビが据え置かれている。画面の中ではキャスターがその日世界で起きたとりとめのない出来事についての情報を、口から淡々と出力し続けている。部屋にはすでに布団が敷かれていて、二人はキャスターの言葉に耳を傾けるわけでもなく、端に寄せた座敷机へ並んで向っていた。
 瞳を閉じてみた。そうすると、雨音に混ざって表の木々が風になびく音が聞こえてきた。視界が暗闇に覆われているぶん、音がまるで輪郭を得て迫ってくるようにも感じられる。枝葉のざわざわと揺れる音に包み込まれ、ざあざあと降りしきる雨音はどこか、遠くで水の止め処なく流れ続ける音にも似ていた。あるいは過去の記憶が、そう思わせるのかもしれなかった。彼女の脳裏の片隅には、宇宙に浮かぶ楽園の存在がチラついていた。
「明日、雨はやむかしら」
 琥珀色に輝く麦酒(ビール)の注がれたガラスコップを、両手で包み込むようにしつつマエリベリーは独りごちた。瞳を開いて窓の外に広がる夜闇を見つめると、木々のざわめきは潮のように引いていった。手元のガラスコップを見下ろす。琥珀の水面に、照明の光が満月の明かりのように射し込み揺れていた。
「大丈夫よ。晴れ女の私がいるんですもの」
 そう、蓮子が言う。アルコールに強い彼女の声は、しかしどこか間延びして聞こえた。
「ねえ、蓮子。ちょっと飲み過ぎじゃない?」
 マエリベリーは言って右隣に座る蓮子のほんのり赤く染まった横顔を覗き込んだ。そう言えば彼女は夕食の時からずいぶん飲んでたな、と考える。
「大丈夫よ、メリー。そんなに飲んでないから」
 言いつつ、蓮子は()()()と笑った。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()
 それは宇佐見蓮子の悪い癖だった。酔うほどに酒を飲むと、こうして笑うのは。
 〈大霊害〉以降に生まれた子どもは笑わない。それが世界の常識だった。厳密には〈大霊害〉の後に生まれた子の子ども、つまりマエリベリーと蓮子の世代は、先天的に笑うという能力を持ち合わせていない。進みすぎた科学力がそうさせたのだ、という事は今や誰もが知るところだが、なぜそうなったのかを、少なからずマエリベリーは知らなかった。知らなかったし、知る必要もないように感じていた。()むという行為が、果たして彼女たちの生活に価値的な何かをもたらすとは思えなかったし、事実、笑うことを知らない世代の中で育ったところで、何ら不便は無かったからだ。
 だが、宇佐見蓮子という少女は、マエリベリーがこれまで出会ってきたどのような少女とも異なる人物だった。自分と同い年の少女が浮かべる笑みが、不自然に世界から浮き上がって見えたのだ。故にマエリベリーは蓮子と互いの目を気持ち悪いとからかいあうことがあるが、その実、マエリベリーにとっては蓮子が時々浮かべる笑みにこそ、薄ら寒いものを感じるようにも思っていた。そして逆に、だからこそ自分は彼女に惹かれたのかもしれないとも思っていた。
「ちょっと蓮子……。他の人がいるところでは()()、絶対に嫌だからね」
 そうであるからこそ、彼女は蓮子の他人とは違う部分を受け入れることができたし、他人の目がない場所に限って許すことができた。むしろ、それは独占欲にも近かったのかもしれない。それはマエリベリーと蓮子の間に封されるべき秘密なのだ。
「わかってるわかってる。メリーの前でしかこんなことしないよ」
 ()()()と蓮子が笑った。マエリベリーは溜め息を吐きつつ、ガラスコップの中の麦酒(ビール)を仰ぐ。そうしてしばらく互いに沈黙を共有した。沈黙には途方もない安心感があるように感じられた。少なからずマエリベリーにとって、宇佐見蓮子という少女はいまだ、沈黙を心地よく分かち合うことのできる存在なのだ。そのことがわかった瞬間、すうっと今まで気付かぬうちに力んでいた身体から、余計な力が抜けていくような感じがした。
「ねえ、蓮子」
 マエリベリーが声をかけた。蓮子は寝惚けたような調子で「んん?」と。少し間をおいてから、マエリベリーは深呼吸を一つしてから切り出した。
「私、今が幸せだわ。あなたとこうしていられることが」
 蓮子は答えなかった。メリーの言葉を理解しているのか、そもそも耳に入っているのかさえ曖昧な調子だった。だがそれで良かった。相手が珍しく酔っているのを良いことに、昼間伝えられなかったことを伝えようとしているのだから。そんな自分をずるい人間だと思いつつ、彼女は言葉を紡いだ。
「覚えてるでしょ? 私たちが出会ったのって、ちょうど今から三年前くらいよね。あの時の私たちって、()()()()仲が悪かった。あの頃のあなたって、ちょっと怖かったのよね――まあ、そこに関してはあなたにも言い分があるのは重々承知ですけれど」
 思っていたより、冷静でいられる自分がいた。冷静でいられるうちに、全部吐き出すつもりで続けた。
「けれど、今ではこうして二人でいる」勇気を出して口にする。「トリフネでの一件があってから、私ね、すごく不安だったの。何かが私たちの中でズレてしまったような気がして。実際、ズレてしまったのかもしれないわ。だけど、もしもそうであるなら、それでも良いのかもしれないって、今、思ったの。私の気持ちが変わらない限り」
 ――――私、やっぱりあなたのことが大好きみたい。
 最後にそう付け足して、マエリベリーは口を閉じた。言葉は藺草(いぐさ)の香りと瞬間だけ戯れ、雨音の向こうへと消えていった。
 マエリベリーはテレビのリモコンに手を伸ばした。そろそろ眠りへ就くためにその電源を切ろうとして、そんな彼女の体へ不意に、肩に頭を乗せるようなかたちで蓮子がその身を寄せた。マエリベリーはリモコンに手を伸ばしたまま、すっかり動きを静止させてしまった。
 ふわりと、その拍子に蓮子の香りがマエリベリーの鼻をくすぐった。いつもとは違う香りだった。それだけで彼女が旅館のバスアメニティを使ったことがわかった。そのことで自分の身体が、風呂上がりのそれとは異なった熱を帯びようとしていることも。
「ちょ、ちょっと。あなたどうしたのよ」羞恥と戸惑いに身をすくませつつ「ほら、もう寝ましょう? 先にお布団に入って」
「だいじょうぶ。私はぜんぜん平気よ」
 噛み合っているようで噛み合っていない返答が返ってきた。とても大丈夫には思えない。それがマエリベリーの素直な気持ちだった。このシチュエーションはあまりにも異常だった。いつでも淡白な調子の蓮子が、自ずからマエリベリーに甘えるような行動を起こすなんてことは。
 それだけ相手が酔っているということだろうか。あるいは自分の告白のせいだろうか。マエリベリーは頭の中のいたって冷静な部分でそう考えつつ、自分に持たれる蓮子の肩をそっと揺する。
「ほら、今日はそろそろお開きにして――」
 マエリベリーの言葉はそこで遮られた。相手の肩に置いた手――その右手首を突然掴まれたと思うと、口を噤むのがやっとな瞬間の後、マエリベリーの身体は背中から仰向けに倒れ込んでいた。ばすっ、と重量のある物体がクッションに叩きつけられるような音が遠くで響いた気がした。それが、自分自身が背後に敷かれていた布団に押し倒された音なのだと数瞬遅れて理解する。下腹部に重みを感じるのと同時に、頭上で煌々と瞬く照明の光が何者かに遮られた。
 マエリベリー・ハーンは彼女へ馬乗りになった宇佐見蓮子の顔を見上げた。ほんのりと赤く、三日月型に唇を引き攣らせる面を。
「ね、ねえ。やっぱりあなた、今日はずいぶん酔ってるみたい」
 だから止めよう。そう言外に言うようにマエリベリーは目を逸らした。そのくせ、胸の高鳴りは抑えられなかった。
「私はぜんぜん()()よ、メリー」
 とろんとして熱っぽい視線がマエリベリーに降り注いだ。それはマエリベリーに触れたあと、ゆっくり時間をかけて肌を伝うような感触をマエリベリーに味わわせた。
()()()()
「え?」
 藪から棒な言葉にマエリベリーはきょとんと目を丸くし、次いで頬が熱くなるのを感じた。恋愛成就。それは昼間二人が訪れた守矢神社跡の御利益だったし、マエリベリーにとっては、二人の間の距離感の狂いを元通りにするための特別な言葉だった。この聡い少女は、全てお見通しだったのだろうか。そう考えると情けないやら恥ずかしいやらで、顔から火が出そうになった。
「し、知ってたの? 守矢神社跡の御利益が恋愛成就だってこと……」
「いいえ、知らなかったわ。でも、そんなことはパンフレットを読めば簡単にわかることでしょう? それで、あなたの望むことにも気付いたってわけ」
「ちょっと待って。私別に、こんなこと望んでなんて――」
「メリーは、()()?」
 胸の奥底にどんと重たい衝撃を受けたようになって、マエリベリーは言葉を詰まらせた。
 今この瞬間に温もりを重ねて、果たしてどれだけの意味があるのだろう。それは傷跡に穿たれた二人の空白を正しく繋ぎ合わせることができるのだろうか。彼女は間違いなく目の前の少女を愛していた。であるからこそ、今、こうして二人きりでいられることに幸せを感じるのだ。であるが故の告白だった。傷跡の暴露だった。だが自分は相手の傷を知らない。正しく相手の傷の深さを知らない限り、闇雲に舌を這わせても無意味に痛覚を刺激するだけだ。傷口の奥深くに眠る心の痛覚を。ただ二人でいれば良いのではなかった。互いが望むべき形で二人でなければならないのだ。
 だがそんな思いとは裏腹に、意識の片隅の熱っぽく微睡んだ場所は、蓮子の行動を空恐ろしいほどの従順さで肯定していた。結局そうなのだ、と思った。距離感の狂いに悩まされる時点で、それは明白だったのだ。すなわちマエリベリー・ハーンは、どこか強引で独り善がりな宇佐見蓮子の有無を言わさぬわがままに、手を引かれることを切に望んでいるのだ。指先が痺れるほどに強く、その手を握っていてほしいのだ。
 ふとその時、マエリベリーの右手を握り締める蓮子の手が、その親指の腹で手首をそっと撫でた。そこにあるのは、もはや痛むことなどなく、意識しなければ存在を忘れてしまう傷跡だった。
 マエリベリーは彷徨わせていた視線を、自分を見下ろす蓮子へと戻した。そして正面から蓮子の顔を見た。ほんのり赤くなった頬はそのまま、しかし、不気味な笑みも熱っぽい眼差しもそこからは消えていた。あるのはマエリベリーを見つめ返す眼差しの、冴え渡るように真っ直ぐ輝く光だけだった。
「蓮子」自然と柔らかな口調になった。「あなた、本当は酔ってなんかないんでしょう?」
「さあて、どうだか」
 言いつつ、蓮子はまた笑おうとした。だが口元が震えただけで、その滑らかな頬に笑みを塗りたくることはできないようだった。そしてその唇が一度だけ大きくわなないたかと思うと、透明な滴が一滴、マエリベリーの頬に落ちて流れていった。
 マエリベリーは自分の右手を握る蓮子の手を解いた。相手が抵抗することはなかった。そうして自由になった両手で、蓮子の体を引き寄せた。両腕を華奢な胴にまわし、抱き締めた。相手の背中をまるで母親が子どもへそうするように優しく叩くと、マエリベリーの胸元に顔を埋めた蓮子は一度だけ、小さく鼻を啜った。
「ずるいよ、メリー。もし本当に私が聞いてなかったら、どうしてたのさ」
「ごめんなさい」
「私だって、不安だったんだから。不安だったし、辛かった。その傷は私が負わせたものだもの。だけどあなたは一度たりとも私を責めたりしないで、いつも通り私と接しようとしてくれた。私、どうすれば良いのかわからなかった」
「ごめんなさい」
「私にはあなたしかいないんだから。ズレたままで良いなんて言わないでよ」
「……ごめんなさい」
「私も、あなたが大好きよ、メリー」
 それから蓮子は何も言わなかった。マエリベリーもまた、口を開くことはなかった。優しさに溢れた沈黙。とく、とく、とくと。身に一枚纏った浴衣の向うから、相手の鼓動が聞こえてくる。蓮子の熱と、香りと、音と。全てに等しく包まれる。ああ、と。マエリベリーはどこまでも果てしなく広がりゆくような心の中で、強く強く思った。私の()()()に染め上げられる瞬間を。
 やがて蓮子がマエリベリーから離れ、隣に寝転がった。二人手を握り合ったまま、ただ時が経過していくのを、耳の裏で響く自分自身の心の音で数えつづけた。とく、とく、とくと。それは手を握った相手のリズムと同じようでもあったし、そうでないようにも思えた。
「ねえ、メリー」
 マエリベリーは首を傾け、同じようにこちらへ顔を向けた相手を見た。
「呼んでみただけ」
「なによそれ」
「良いじゃない、別に」
 少しの沈黙を挟んで、マエリベリーは言った。
「大好き」
「ちょっと、それはいきなりすぎるわ」
「良いじゃない、今更よ」
 それ以上、互いに言葉を紡ぐことはなかった。そうする必要もなかった。ただそれ以上のものを、互いに与え合った。唇と唇で(ついば)みあった。
 互いの身体を寄せ合った。密着しあった。マエリベリー・ハーンと宇佐見蓮子。そんな境界さえ溶け出すように、焼け付くような熱と熱が混ざり合った。
 額に口づけを。
 目蓋に口づけを。
 鼻尖(びせん)に口づけを。
 頬に口づけを。
 唇に口づけを。
 下顎に口づけを。
 首筋に口づけを。
 鎖骨に口づけを。
「蓮子」
 その艶めく黒髪を撫でた。その頬に手を添え、そっと面を上向ける。見つめ合った。境界を見定める眼と、時空間を見極める眼。世界に二つとない気持ちの悪い眼で。彼女たちだけの眼で。
 頬に添えたマエリベリーの手を蓮子が手に取った。そうして手首にキスをする。トリフネで負った怪我の跡が、宇佐見蓮子がマエリベリー・ハーンに刻み込んだ傷が、うっすらと残る細い手首に。快感にマエリベリーの全身が震えた。
 それは肯定だった。今感じている温もりは、決して幻ではない。そう確かめさせてくれる、二人の関係性を絶対なものたらしめてくれる秘密の儀式。
「メリー」
 蓮子が濡れた声で囁きかける。もう一度唇を重ね合った。より深く、より熱く、より激しく。マエリベリーの金の髪を、蓮子の指が掻き乱した。まるで髪を掻きむしるように、緩く波を描く髪の根元から、ぐしゃぐしゃに弄ぶ。その指先が頭皮を引っ掻くたびに、髪の引っ張られる痛みを感じるたびに、ぞくぞくと身体の中心が痺れるように波打った。
 堪らなく気持ち良くて、堪らなく苦しい。
 この上なく満たされて、この上なく寂しい。
 もはや不安はなかった。戸惑いもなかった。
 ちゅっ、と。唇と唇の離れる音。間近で感じる吐息。
 蓮子の手が、浴衣越しにマエリベリーの身体に触れた。どくどくと速まる鼓動。大切な人の熱っぽく、それでいて優しい眼差し。きっと自分も、負けないくらい蕩けきっているという確信。
「蓮子」もう一度相手の頭を撫でながら「――――愛してる」
 溢れ出すように告げる甘い睦言(むつごと)
 そして一つになる。境もなく、生まれたままの体温で混ざり合う。
これから連載していく予定の長編の、プロローグ的な立ち位置の回です。
作者の筆が非常に遅いので、次回投稿はいつになるか分かりませんが気長に待っていただければ幸いです。
コメントとかもらえるとモチベーション上がって速度も上がるかもしれません(

※お願い
当作品は、製品版東方深秘録が発売された時点での、ゲーム・書籍・音楽CDの作品の設定に基づいています。
雑誌連載分は作者が追っていないので、作品の設定はあくまで単行本化した分までと考えてください。
今後発表される公式作品に関しても、当作品の設定に矛盾を来たさない範囲でなら順次取り込んでいこうと考えていますが、大きな矛盾などが生じた場合でも優しく見逃してやってください。

twitter:https://twitter.com/brother_NN
brother
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コメント



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3.100名前が無い程度の能力削除
よかったです。続き楽しみにしています。
4.100奇声を発する程度の能力削除
面白かったです、続きが楽しみです
6.100名前が無い程度の能力削除
肉体感をもって迫る巧みな百合小説
7.100非現実世界に棲む者削除
蓮メリちゅっちゅご馳走さまでした。続きを楽しみにしております。
8.30名前が無い程度の能力削除
話に抑揚が無くダラダラしているのと。作者が見せたいものばかりが強調されるのが気になる作品でした。
10.100名前が無い程度の能力削除
良い蓮メリでした
執筆頑張ってください!