萃香の頬をぷにぷにとつついてやると、やめろれいむ~とむにゃむにゃ言っていた。音に聞こえた鬼の四天王も、随分と家畜化されたものである。暫くぷにぷにして遊んでいると、漸く違和感に気付いたのか、萃香はぱちっと目を開けた。
「紫っ!?」
「大正解。よく気付いたわね」
「霊夢はすぐ乱暴になるもん」
じっくりと時間をかけてぷにぷにほっぺと遊ぶだけの心の余裕はあの子にはないようだ。しかし、その推理でようやく気付くというのは、随分とのんびりしたことではなかろうか。長い付き合いなのだから、指や爪の感触で分かってくれても良さそうなものなのに。
「随分久しぶりじゃん。今丁度霊夢出てるんだよ、もう少し待てば――」
「知っているわ」
「…………」
「だから、来たのよ」
「……紫」
霊夢がいる時間に訪れる気は更々なかった。彼女が出発し、十分に神社から離れたタイミングを見計らって、私はやってきたのである。
「……そうだったね。霊夢の動向を、お前が知らないわけないもんな」
「霊夢だけではないけれどね」
「よく言うよ。霊夢しか見てないくせに」
萃香は諦めたような、それでいて諦めきれないような、恨みがましい目を私に向けてきた。この鬼は底なしのお人好しだ。友が傷ついているのを見たら、本人よりも傷ついてしまう。そして、傷つけた輩を追及せずには置かない。
「なんでさ、紫」
「何が?」
「……っ」
頬をはたかれそうになったので、身体を引く。とぼけてのらりくらり躱そうという態度は、火に油を注ぐだけのようだ。鬼の腕力で攻撃されれば、私もただでは済まない。最も、当てようとした動きではないのは明白だった。衝動に任せて、ただ、振り回しただけの拳。
「なんで、霊夢と距離取るのさ?」
苦悶の表情、絞りだすような声。――そう、このところ、私は博麗霊夢と会っていない。会話もしていない。私の方から彼女の姿は見放題だけれど、彼女は私の姿を捉えることはできない。彼女は境界を破ることが出来ないし、自分で作り出すことも出来ない。私が拒みさえすれば、私に思いを伝えることすら出来ない。彼女との逢引は、一切が私の独断で成されている。
「霊夢は、異変の解決に向かったのでしょう」
「……そだよ」
「彼女には、為すべき仕事がある。私にも、為すべき仕事がある。それだけのことよ」
幻想郷の結界を構成する際、私はそこに生じる様々な危惧を一つ一つ排した。人の常識が妖怪の存在を脅かすなら、それらを隔てるように。消滅した妖怪が輪廻に戻り得ないのならば、それらの行き場を作るように。外と中の区切りが安定した後にも、幻想郷の中での小競り合い、力関係の不均衡はしばしば生じた。それを私は一つ一つ、丁寧に潰していった。小石を拾い、雑草を抜いて、道を舗装してゆくように、丁寧に、丁寧に。一切の誤差に、計算外に、私は対応することが出来る。そう信じて疑わなかった。
「……楽園を、維持しなければならない。それだけのことよ」
八雲は妖怪の象徴、博麗は人間の象徴。太極図のごとく、両者が融け合わずに存在していることが、この世界の安定を保つ条件だった。博麗と私は常に表裏。教会に描かれたイコンのように、私達の関係性そのものが、幻想郷の在り方の指針を遍く示す役割を持っていた。これこそが幻想郷の常識である、と。
耐えられなくなってしまったのは、いつだったのだろう。霊夢がこの世に生まれ落ちて、未だ十数年しか経っていないのに。もう数百年も前から、この不安定は続いているように感じられる。私達のルールを、戯れに崩してしまいたくなる。表裏であることが我慢できない。同じ方向を向いて、彼女の手を取り、彼女の隣を歩きたい。泡沫の如く淡く、しかし際限なく生じるこの愚かな願いを、日々打ち消すことで精一杯だった。私と博麗との関係が崩れる時、幻想郷の常識も同時に崩れる。それは、結界を支える唯一絶対の柱の崩壊を意味する。結界は、外と中の常識を隔てるものである。幻想郷の常識が揺らぐ時、結界を保つ張力は、いとも容易く失われるだろう。語ってしまえば、余りにも単純で、笑ってしまうような「計算外」だった。
「守れてるじゃないか。今のままでいいじゃないか。……私は、居場所を守れなかったよ。どんなに力があっても、内側から壊れていくものは、支えようがなかった。手を尽くしたくても、尽くしようがなかった。けど、紫は。何も壊れてないのに、どうして自分から失いに行くんだよ。解らない。全然解らない」
「解らなくていいのよ。解ってもらいたいとも思わない」
「私は解りたいんだよ」
「なんて傲慢なのかしら。所詮は鬼ね」
旧知の間柄とはいえ、こんなふうに八つ当りしてしまうなんて、私らしくもなかった。否、私らしい在り方なんて、きっととうの昔に壊れてしまったのだ。……何気ない霊夢の笑顔に惹かれて、立ち止まって理由を考え始めてしまった、あの時から。
「大事な人の為に、傲慢にならずにいられる奴なんて、いない」
――嗚呼。なんて真っ直ぐな言葉だろう。その言葉が悔しくて嬉しくて、無性に萃香を抱き締めたくなった。何でもいい、私の腕の中に何かを強く抱き締めたかった。霊夢がいるはずの場所が、今この瞬間空っぽであることが、耐えられないほど辛かった。それでも私は、その孤独に耐えねばならない。私が霊夢に縋るとき、それは幻想郷の終わりであり、それはつまり、私と霊夢の縁の終わりだ。
「その通りよ。だから私は」
愛しい指先。愛しい髪の毛。愛しい霊夢!
「あの子を許さない。あの子を抱けない私の寂しさと、同じだけの寂しさをあの子が抱くまで、私は彼女に触れてあげない」
萃香は、馬鹿だねえ、馬鹿だ、と言って私の手を握った。ぽたぽたと溢れる涙に触れて、私の手は痺れるように痛んだ。……神出鬼没の巫女が帰ってくる前に、私は博麗神社から去らねばならない。私の去った神社を、あの子は寂しがってくれるだろうか。気配や、残り香や、或いは直感から、私がここに僅かにでも留まったことを、あの子は気付いてくれるだろうか。触れてやらないなどと言いながら、気付いて欲しがっているのは私の方だった。なんて無様、なんて馬鹿。全く、萃香の言うとおりだった。
私は萃香に別れを告げて、スキマへと入り込んだ。萃香の目は真っ赤に充血して、スキマが完全に閉じるまで、私の事を瞬きもせずに見つめていた。……ねじれた空間の中で、私は一人ため息をつく。どうにかこうにか、私の方は涙を見せずにいられた。これから私の精神がどうなってゆくのか、皆目見当がつかないけれど。とりあえず今日のところは、ほんの少しだけ心を安らげることができたのだった。私の泣くべき分の涙を、心優しい鬼が流してくれたお陰で。
「紫っ!?」
「大正解。よく気付いたわね」
「霊夢はすぐ乱暴になるもん」
じっくりと時間をかけてぷにぷにほっぺと遊ぶだけの心の余裕はあの子にはないようだ。しかし、その推理でようやく気付くというのは、随分とのんびりしたことではなかろうか。長い付き合いなのだから、指や爪の感触で分かってくれても良さそうなものなのに。
「随分久しぶりじゃん。今丁度霊夢出てるんだよ、もう少し待てば――」
「知っているわ」
「…………」
「だから、来たのよ」
「……紫」
霊夢がいる時間に訪れる気は更々なかった。彼女が出発し、十分に神社から離れたタイミングを見計らって、私はやってきたのである。
「……そうだったね。霊夢の動向を、お前が知らないわけないもんな」
「霊夢だけではないけれどね」
「よく言うよ。霊夢しか見てないくせに」
萃香は諦めたような、それでいて諦めきれないような、恨みがましい目を私に向けてきた。この鬼は底なしのお人好しだ。友が傷ついているのを見たら、本人よりも傷ついてしまう。そして、傷つけた輩を追及せずには置かない。
「なんでさ、紫」
「何が?」
「……っ」
頬をはたかれそうになったので、身体を引く。とぼけてのらりくらり躱そうという態度は、火に油を注ぐだけのようだ。鬼の腕力で攻撃されれば、私もただでは済まない。最も、当てようとした動きではないのは明白だった。衝動に任せて、ただ、振り回しただけの拳。
「なんで、霊夢と距離取るのさ?」
苦悶の表情、絞りだすような声。――そう、このところ、私は博麗霊夢と会っていない。会話もしていない。私の方から彼女の姿は見放題だけれど、彼女は私の姿を捉えることはできない。彼女は境界を破ることが出来ないし、自分で作り出すことも出来ない。私が拒みさえすれば、私に思いを伝えることすら出来ない。彼女との逢引は、一切が私の独断で成されている。
「霊夢は、異変の解決に向かったのでしょう」
「……そだよ」
「彼女には、為すべき仕事がある。私にも、為すべき仕事がある。それだけのことよ」
幻想郷の結界を構成する際、私はそこに生じる様々な危惧を一つ一つ排した。人の常識が妖怪の存在を脅かすなら、それらを隔てるように。消滅した妖怪が輪廻に戻り得ないのならば、それらの行き場を作るように。外と中の区切りが安定した後にも、幻想郷の中での小競り合い、力関係の不均衡はしばしば生じた。それを私は一つ一つ、丁寧に潰していった。小石を拾い、雑草を抜いて、道を舗装してゆくように、丁寧に、丁寧に。一切の誤差に、計算外に、私は対応することが出来る。そう信じて疑わなかった。
「……楽園を、維持しなければならない。それだけのことよ」
八雲は妖怪の象徴、博麗は人間の象徴。太極図のごとく、両者が融け合わずに存在していることが、この世界の安定を保つ条件だった。博麗と私は常に表裏。教会に描かれたイコンのように、私達の関係性そのものが、幻想郷の在り方の指針を遍く示す役割を持っていた。これこそが幻想郷の常識である、と。
耐えられなくなってしまったのは、いつだったのだろう。霊夢がこの世に生まれ落ちて、未だ十数年しか経っていないのに。もう数百年も前から、この不安定は続いているように感じられる。私達のルールを、戯れに崩してしまいたくなる。表裏であることが我慢できない。同じ方向を向いて、彼女の手を取り、彼女の隣を歩きたい。泡沫の如く淡く、しかし際限なく生じるこの愚かな願いを、日々打ち消すことで精一杯だった。私と博麗との関係が崩れる時、幻想郷の常識も同時に崩れる。それは、結界を支える唯一絶対の柱の崩壊を意味する。結界は、外と中の常識を隔てるものである。幻想郷の常識が揺らぐ時、結界を保つ張力は、いとも容易く失われるだろう。語ってしまえば、余りにも単純で、笑ってしまうような「計算外」だった。
「守れてるじゃないか。今のままでいいじゃないか。……私は、居場所を守れなかったよ。どんなに力があっても、内側から壊れていくものは、支えようがなかった。手を尽くしたくても、尽くしようがなかった。けど、紫は。何も壊れてないのに、どうして自分から失いに行くんだよ。解らない。全然解らない」
「解らなくていいのよ。解ってもらいたいとも思わない」
「私は解りたいんだよ」
「なんて傲慢なのかしら。所詮は鬼ね」
旧知の間柄とはいえ、こんなふうに八つ当りしてしまうなんて、私らしくもなかった。否、私らしい在り方なんて、きっととうの昔に壊れてしまったのだ。……何気ない霊夢の笑顔に惹かれて、立ち止まって理由を考え始めてしまった、あの時から。
「大事な人の為に、傲慢にならずにいられる奴なんて、いない」
――嗚呼。なんて真っ直ぐな言葉だろう。その言葉が悔しくて嬉しくて、無性に萃香を抱き締めたくなった。何でもいい、私の腕の中に何かを強く抱き締めたかった。霊夢がいるはずの場所が、今この瞬間空っぽであることが、耐えられないほど辛かった。それでも私は、その孤独に耐えねばならない。私が霊夢に縋るとき、それは幻想郷の終わりであり、それはつまり、私と霊夢の縁の終わりだ。
「その通りよ。だから私は」
愛しい指先。愛しい髪の毛。愛しい霊夢!
「あの子を許さない。あの子を抱けない私の寂しさと、同じだけの寂しさをあの子が抱くまで、私は彼女に触れてあげない」
萃香は、馬鹿だねえ、馬鹿だ、と言って私の手を握った。ぽたぽたと溢れる涙に触れて、私の手は痺れるように痛んだ。……神出鬼没の巫女が帰ってくる前に、私は博麗神社から去らねばならない。私の去った神社を、あの子は寂しがってくれるだろうか。気配や、残り香や、或いは直感から、私がここに僅かにでも留まったことを、あの子は気付いてくれるだろうか。触れてやらないなどと言いながら、気付いて欲しがっているのは私の方だった。なんて無様、なんて馬鹿。全く、萃香の言うとおりだった。
私は萃香に別れを告げて、スキマへと入り込んだ。萃香の目は真っ赤に充血して、スキマが完全に閉じるまで、私の事を瞬きもせずに見つめていた。……ねじれた空間の中で、私は一人ため息をつく。どうにかこうにか、私の方は涙を見せずにいられた。これから私の精神がどうなってゆくのか、皆目見当がつかないけれど。とりあえず今日のところは、ほんの少しだけ心を安らげることができたのだった。私の泣くべき分の涙を、心優しい鬼が流してくれたお陰で。
霊夢側の心境が気になりますね
強者の涙は心にくるね とても素敵でした
いずれ次代に譲った後にでも、なんかの形で報われて欲しい3人