ページをめくる音。
ティーカップがソーサーから離れて、再び元の位置に戻されて二つが重なる音。
図書館の主の周りにある音は、とってもとっても少ない。
優秀な従者がいつだって気を配っているから。
主が望んだ空間を最高の形で用意するために、頑張っているから。
今日だって彼女は黒のベストをぱりっと着こなし、彼女の髪と同じ色のネクタイを巻いて、働き蜂にだって負けないくらい自分の仕事をこなしている。
外の世界の高層ビル群を思わせる本棚と本棚の間を縫って、古ぼけてかび臭い本を腕いっぱいに抱えながら、右を向いて左を向いて、また右を向いて。
頭から生えた二枚の羽が、ぴょこぴょこ。
ずらりと並んだ背表紙を二つの目で流れるように眺めていると、一冊分のぽっかり空いた空間がおいでおいでをしているのに気付く。
ぱあっと小悪魔の顔に花が咲く。
それからふっと元の表情を取り戻し、持っていた本の束を片手で支えながら、逆の手の指先で、しーっと誰に向けるでもなく「お静かに」のポーズ。
棚と棚の切れ目からひょっこり顔を出して、パチュリーの姿を確認する。まるでぬいぐるみを座らせているみたいに規則正しく収まった主がいる。
近くにいるパチュリーが少しでも気に障ることのないように、左手に抱えた束の中から慎重に一冊を取りだし、右手で同じようにそっと本棚に差し込んだ。
本はぴったりと収まった。
小悪魔はくるりと身を翻して、次の本の家を探しに行く。
足取りは軽く、何かのステップを踏んでいるかのよう。でも音は立てない。この場所は、いつだって静かでなければいけないから。
主が少しでも快適に過ごせるように、小悪魔はいつだって気をつけている。
が、そのステップが棚からちょっとだけ突き出た本に引っかかった。
「わ……!」
こけた。
盛大に。
腕に抱えていた本が中華鍋の上で踊るチャーハンみたいに飛び出した。
――ドサ、ドサドササドササササ……。
静寂の中では余計に際立った。
カチリ、と食器同士のぶつかる音。それはパチュリーが紅茶を飲んだ音であり、読んでいた本から視線を外してこちらを向いた音でもあった。
ごめんなさ~~~~い、と心の中で大きく謝って、すぐに落ちた本を拾う。
小悪魔にも、偶には失敗しちゃう事だってあるのだ。
りんりん、と鈴の鳴る音。
小悪魔を呼びつける音。
「小悪魔、おかわり」
「はい」
主が新しい紅茶を要求する。
「咲夜の淹れた紅茶もいいけれど、あなたの淹れたやつの方が舌に合うわ」
彼女の言葉はため息と一緒に吐き出される。
気怠げなその声は、知らない人からすれば馬鹿にされているようにも聞こえるかもしれない。でも、小悪魔はそんな声が嫌いじゃなかった。
「ありがとうございます。そう言っていただけると嬉しいです」
にぱっと笑顔を見せる小悪魔。パチュリーは横目でその顔をちらりと見やり、それから再び手元の本に視線を落とした。
小悪魔は空になったティーカップに新しい紅茶を注ぎ入れ、主の手が届く距離にそっと置いた。
そうして、ぺこりと一礼をし、また本棚の海へと姿を消す。
パチュリーはその背中を見向きもせず見送る。これが二人の間の距離感。お互い必要以上に干渉しない。
小悪魔はパチュリーの望んだものを叶え、パチュリーは小悪魔が与えてくれるものを享受する。たったそれだけ。
簡単でしょう。
小悪魔にとってそれが一番いい関係であり、これからも変わることのない日常だ。
紅茶を淹れる時に、ほんの少しだけパチュリーと交わす会話が彼女の楽しみだった。その時が一番自然な気持ちで語り合える気がするから。
紅茶の香りに導かれるように、心の奥にある素の感情がそのままの形で飛び出してくる。それは何の抵抗もなく自分の中に入ってきて、胸の中にふわっとした熱を残していく。紅茶の温度がティーカップに伝わっていくみたいに。
小悪魔はその瞬間が、たまらなく好きだった。
好きなものはもうひとつある。
司書というからにはやっぱり本が好きで、仕事の合間に取る休憩時には本を読むことが多い。
パチュリーが読む本は魔術関連のちょっとむつかしいものばっかりだけど、小悪魔は小説を好んだ。
理由は、物語を通して自分の知らない世界を見せてくれるから。ちょっと月並みだったかもしれない。とにかく小悪魔は小説が好きだ。
そういうわけで彼女は本の整理を終えると、そのまま本棚によりかかって読みかけだった小説の続きを読み始める。
紙に印刷された文字を目で追う。するとすぐにその世界の中へと入り込む。まるで穴を覗き込んだアリスみたい。不思議の国へようこそ、なんて。
小悪魔は読書に熱中し、ページをめくっていく。紙の擦れる音が一定間隔で響き渡る。
小説はとある海兵の話だった。まだ若く経験の浅い海兵が、海賊ひしめく海峡を航海する様子を描いている。
しばらく読みふけっていると、何だかまぶたが重くなってくる。重たい本を担いで歩き回ったせいかもしれない。ちょっと疲れていた。
それまでページをめくるリズムは一定だったのに、段々と遅くなってくる。意識せずに頭がかくんかくん揺れる。その頃になると、すでにもう小説の内容は頭に入って来ない。いつの間にか目を閉じ、すぐに深い闇の中へと落ちていった。
「敵襲~~~~敵襲~~~~!」
そんな叫び声と、くっそやかましく打ち鳴らされる鐘の音で小悪魔は跳ね起きた。
「二時の方角、敵船あり! 各員戦闘準備!」
上から大声が響いてきて、次いで天地がひっくり返るような衝撃が襲ってくる。小悪魔はその衝撃で壁に頭をしたたかに打ち付け、涙が浮かんだ。
「うわあ~~~、いきなり大砲ぶっ放してきやがった~~~!」
「こっちも応戦しろ! 大砲用意!」
船の中は馬鹿騒ぎだ。船室で寝ていた小悪魔はすぐに状況を理解し、戦闘の準備に移る。同じく船室にいた仲間達はまだ半分寝ぼけていて、その動きはものすごく遅い。
が、敵が発射した大砲の弾が船室の壁を突き破って部屋の中まで到達し、その鉛の塊が仲間の一人に直撃して、そのままそいつが弾と一緒に逆側の壁を突き破って外へぶっ飛んで行ったのを目の当たりにし、ようやくやばい状況であるのを皆が理解した。
小悪魔は階段を五段飛ばしで駆け上り、甲板へと出る。
そこにいたのは、豪奢なコート着てめっちゃイカす帽子をかぶったパチュリー船長だ。
「小悪魔二等兵、大砲を敵船に撃ち込みなさい」
「小悪魔二等兵、大砲を敵船に撃ち込みます!」
びしっと敬礼をかまし、すぐに砲台へと駆け寄った。
敵からの攻撃は依然として激しく、砲弾が木製の船に直撃する度に馬鹿でかい穴が開く。このままでは確実に海の底へ直行だ。
小悪魔は大砲の筒にありったけの火薬を注ぎ込み、突き棒を突っ込んで火薬を固める。それが終わったら棒をそこら辺に投げ捨てて、すぐ横に置いてある砲弾を両手で抱えるように持ち上げる。
「お、重たい~~~~」
歯を食いしばってなんとか大砲に装填する。
発射準備は完了。いつでもぶっ放せる。
小悪魔は敵船の姿をじっと見据え、大砲の直線上に来るのを待った。向こうからの攻撃は続きこっちの被害は甚大だ。今この瞬間にも仲間達が海の藻屑となっていく。だが、焦ってはダメだ。しっかり狙いを定める必要がある。
じっくり待ち構え、ついに敵船が大砲の直線上に来た所で点火。轟音をあげて吐き出された鉛の塊は、一直線に敵の船に向かって飛び、直撃。
相手にとってどうやら当たり所が悪かったらしい。そのまま船は横に傾いていった。
「や、やった……」
歓声が上がる。「小悪魔、よくやったぞ~!」とどこからか声が飛んでくる。
が、安堵の息を吐く前に、敵が最後の悪あがきに放った弾がこの船を粉砕した。それまで必死に耐えていたがついに致命的な部分にダメージを受け、船が大きく傾いた。
「うわああああー、沈む~~~~」
「小舟出せ、全員退避~~~~~!」
小悪魔はそんな騒ぎの中、冷静に一人の姿を探した。辺りを見回すと、慌ただしい足取りの中で唯一、落ち着いた様子で船長室に入っていく姿があった。
小悪魔は咄嗟にあとを追い、船長室の扉を壊すような勢いで開いて中に転がり込んだ。
「何をやっているんですか。逃げないと!」
パチュリーは涼しい顔で、
「私はここに残るわ」
「残るって……」
「船長は船の上にいるから船長なの。船が沈むなら、私も運命を共にするわ」
「何を馬鹿なこと言ってるんですか!」
小悪魔は問答無用でパチュリーの腕を掴むと、無理やり引っ張って部屋の外へ出た。
「ちょ、ちょっと……」
余っていた小舟を海にたたき落とし、その船の上にパチュリーを体当たりする勢いで強引に乗っけたあと、自分も乗り込む。
「生きていればやり直しはできます。私はまだ、あなたの船に乗っていたいんです!」
「小悪魔二等兵……」
「私が船を漕ぎます。絶対に陸地まで送り届けます」
小悪魔はそう言ってオールを掴むと、体全体を使って漕ぎ始める。
「小悪魔二等兵」
「絶対に、絶対に送り届けます。それが私の役目です」
「小悪魔二等兵!」
世界はそこで反転する。
大海原のまっただ中から、いつも見慣れた図書館へ。潮のにおいは消え去り、独特のかび臭さが鼻を突いた。
いつの間にか眠っていたことに気付く。目を擦って欠伸をする。と、足下に影が揺らめいている。
はっと思って顔を持ち上げると、そこにはいつも通りの格好をしたパチュリーがいて、小悪魔を見下ろしていた。
「船は漕ぎ終わったかしら、小悪魔二等兵さん?」
そう言って彼女は人差し指で小悪魔の額を小突いた。コツン、と軽く音がした。
「あう……」
小悪魔は小突かれた部分を手で押さえる。寝言を思いっきり聞かれたらしい。頬に熱を感じる。
「紅茶のおかわりを淹れてもらおうと思ったのに」
「ごめんなさい」
「ま、いいわ。偶には自分で淹れるのも悪くない。あなたの分も用意したから、こっちに来なさい」
「え……?」
「なに?」
じろりと睨み付けられた。
「あ、いえ、珍しいなと思ったので」
「まあ、そうね」
小悪魔は起き上がり、パチュリーの後に続いて歩いた。
テーブルの上には二人分のティーカップが置かれていた。もうすでに紅茶は注がれていて、湯気が立ち上っている。
「いただきます」
「どうぞ」
パチュリーが淹れた紅茶を飲むのは久しぶりだった。以前に飲んだのは、いつのことだっけ、と小悪魔は考えながらティーカップに口を付けた。
パチュリーも同じタイミングで口を付け、それからすぐに表情が曇る。
「……渋い」
「ですね」
そういえば以前に飲んだときも、とても渋かったと思う。小悪魔はふふっと笑った。
「なによ、なにか文句があるの?」
「い、いえ、そんなことは」
「悪かったわね。紅茶もろくに淹れられなくて」
「い、いやー、これはこれで味があると言いますか、味わい深いと言いますか」
「……はっきりまずいと言いなさいよ」
「じゃあ言います。まずいです」
すると彼女はつーんとした表情を見せ、そっぽを向いてしまう。でもすぐに表情を崩して、ふうとひとつため息を吐くと、
「これは後で、お口直しが必要ね」
ちらっとこちらに視線を送ってくる。
小悪魔はそっと笑みを浮かべて、
「はい!」
元気よく答えた。
かちゃり、と二人分のティーカップが置かれる音がした。
確かにこの紅茶はとっても渋かった。でも、寝起きの頭にはこれくらいの方がちょうどいいかもしれない。
もう少しだけ、この渋い紅茶を味わっていたいな、と小悪魔は思った。
そんなある日の午後のお話。
パチュリーも面白がってしばらく起こさずに見ていたのかもしれませんね。ほのぼのとしていました。
あのチャーハンの描写はじっくり来ますw
お付き合いは楽しいますようにw
パチェこあ好きですが、もうちょっと距離感離れていてもって個人的には・・・でもグッド!
夢世界の小悪魔とパチュリーのやり取りも良いですね
非常に楽しそうだ
って寝言に出ちゃう小悪魔がどうしようもなく可愛い……