「ああ阿求か、いらっしゃい」
「蒸し暑くてたまらないわね。まだ六月だっていう……の…………に?」
鈴奈庵の暖簾を潜った私は、小鈴の笑顔を見るなり思わず固まってしまった。不覚をとったとしか言いようがない。
「ん、どしたの?」
冷ややかな視線を察したのか、小鈴はぱちぱちと目を瞬かせ、きょとんとした顔で私を見上げる。小鈴のその頭の上には、大きな、馬鹿馬鹿しいくらい大きな猫耳が乗っていた。たぶん、霊夢のリボンより幾らか大きい。大きくて馬鹿馬鹿しい。
一体どこの世界に猫耳を付けて接客をする貸本屋がいるというのだ。知識欲を満たさんと暖簾を潜る客を出迎えるのが猫耳の店員では、はて来る店を間違えたかなと、客はそのまま踵を返してしまうのではなかろうか。
しかも寄りに寄って、件の猫耳は白、黒、茶のぶち模様、つまり三毛猫だということではないか。これが黒猫か、せめて茶の縞柄ならまだわからないでもない。何故に三毛……。いや、今は柄に拘ってる場合じゃなかった。
つまり小鈴のこの奇妙な格好は、私が来ることを見越して、一丁からかってやろうという魂胆なのだろう。不意を打たれたとはいえ反応してしまった自分が悔しい。
「さっきから怖そうな顔して、だいじょうぶ阿求? お腹痛いの?」
心配する素振りの小鈴だが、なるほど、飽くまで白を切るつもりなのね。でも生憎と私はそんな安い茶番に付き合うつもりはない。
私は巾着から取り出した手鏡を渡して、小鈴の顔を指差した。小鈴が不思議そうに受け取った手鏡を覗き込むことしばし。
「きゃっ!」
と驚きの声をあげ、それに続いて。
「きゃあ、なにこれ、かわいいー!」
と、黄色く浮かれた声をあげた。私からすればとても白々しい。
「なにこれって、こっちが訊きたい。そんな巫山戯た格好して、からかってるつもりなのかしら」
「やだ阿求、怒ってるの?」
わざとらしく身を退いた小鈴が、ちょっとだけ苛ついた。なので私は強攻策に出ることにした。
「はいはい、お遊びはもうお終い。あんたの悪戯に付き合うつもりなんてないんですから」
私は小鈴の猫耳をひっ掴んで、取りあげ……あれ、取れない?
しかもこの猫耳、なんか温かい。
「痛っ、いたいやめてよ阿求!」
猫耳を引っ張る私を振りほどいた小鈴は、目尻に涙を浮かべていた。
「もう、いきなり酷いじゃない」
「ごめん」
これは非を認めるしかない。私はてっきり、小鈴は(馬鹿みたいに大きい)猫耳の髪飾りを付けて、私をからかって遊んでるものだとばかり思い込んでいた。
でも猫耳はいくら引っ張っても取れないもんだし、小鈴は痛がるし、仄かに温かいし、手触りは間違いなく本物の猫のそれだ。
つまりは、それだけ精巧にできている猫耳……じゃなくて。
「生えてるのね、それ」
「うん、だと思う」
小鈴は髪を手櫛で整えながら、恐る恐るといった様子で頭に生えた猫耳を触って、それを確かめていた。
さっきの手鏡で自分の姿を確かめた時の様子、それに今のこの様子から察するに、どうやら小鈴は自分に猫耳が生えていることに、まるで気がついていなかったのだろう。
「朝、顔を洗ってる時は生えてなかったのよ」
「小鈴あなた、今日は朝からずっとお店に?」
「うん」
今はお昼をすこし過ぎたくらいだ。もし小鈴が朝からいままでの間に外出していれば、気づかれぬよう忍び寄った何者かに猫耳を付けられた可能性も。
いや駄目だ、私も錯乱しているのだろうか。猫耳は小鈴から生えているのだから、何者かが付けるだなんてことは無理な話だ。
「ああっ、ねぇ阿求、見てみて」
驚きの声をあげた小鈴は、にっこりとご機嫌で猫耳を指差していた。
猫耳は小鈴の頭の上で、ぴくぴくと楽しげに動いている。
「凄いでしょ。とってもかわいいでしょ」
「え、えぇ……そうね」
なんだ、どうやら錯乱しているのは私だけだったみたいだ。当の小鈴は手鏡を覗いて、嬉しそうに微笑んでいるじゃないか。肝が据わっているというか、何というか。
「細かいことはわかんないけど、神様もたまには素敵なプレゼントくれるものなのね」
小鈴の言葉を上の空で聞きながら、私は頭の中に浮かんでしまったことを消し去ろうと必死に頑張っていた。
でもそんなことは無駄な努力でしかない。一度頭に思い浮かんでしまえば、それで最後。記憶を失うことのできない求聞持の能力が、こんな時ばかりは恨めしい。
゛猫耳の看板娘がいるのだから、この店はさしずめ「鈴にゃ庵」といったところかしら゛
考えるだけで、口には出さなかった自分を誉めてあげたい。
もしこの場に稗田阿礼だった頃の私がいたなら、迷惑な能力を残すなと、泣くまで殴り続けたいところだ。
◇
「うちは貸本屋だから、猫飼えなかったのよね。商売道具の本で爪を研がれちゃうと困るし。でももし飼うんなら、やっぱり三毛猫だって思ってたの。いやー、流石神様は分かってるわぁー」
そう上機嫌で喋る小鈴に、私は思わず呆れてしまった。この子は一体なにを言っているんだ。
猫を飼うのなら黒猫に決まっているじゃないか。最大限に妥協しても茶の縞柄まで。三毛猫だなんて選択はとてもじゃないけど納得できない。
いや、そういう話はひとまず置いておいて。
「暢気に構えてる場合じゃないでしょう」
私はにこにこと微笑む小鈴から手鏡をひったくった。
「身に覚えがないのに突然猫耳が生えてきた。小鈴、これは異変よ」
「異変!?」
「そう。困ったことになる前になにか手を打たないと」
私の言葉を聞いて小鈴はしばらく考えを巡らせていたが、やがて、うん、と頷いて満面の笑みを浮かべた。
「大丈夫よ。私、本で爪研がないもん」
「問題そこ!?」
思わず小鈴の襟を掴んで頭をガクガク揺すってやりたくなったが、すんでの所で思い止まる。冷静な話し合いのため、時には堪えることも必要だ。
「人間のあなたに突然猫耳が生えるだなんて、どう考えても異常な事態でしょ。このまま放っておいていいわけがないわ」
「えぇー。でもほら可愛いし」
「可愛いからといって異常じゃないとはならないでしょ」
「でも、でもっ、ここ幻想郷だよ。猫耳どころか九尾の狐や人魚やらが平気でいるんだもん。今更貸本屋が猫耳だっても、そんなにおかしくないんじゃない」
確かにここは魑魅魍魎が跋扈する幻想郷なのだから、猫耳の娘がいたとしても別段驚くほどのことではないのだし、小鈴の言い分にも一理あるのかもしれない。貸本屋が猫耳でも、可愛いのなら別にいいのかもしれない。
いやいや、やっぱりよくない。危うく流されてしまうところだった。
いくら幻想郷といっても、人間に猫耳が生える筈がない。それはやはり異常なことだ。そしてそうなると、猫耳の生えた人間はもはや人間では非ず。ならば行く末は……。
「小鈴っ!」
私は小鈴の手を両手で包み込むように握った。
「小鈴……お願いだから、言うことをきいて」
そして、できるかぎり弱々しく懇願するように呟いた。ついでに涙声っぽく、あなたのことが心配なの、とも付け加える。
小鈴は唐突に萎らしくなった私の態度に困惑した様子だったが、やがて小声で、うん、わかった。と応じてくれた。素直なことはいいことだ。
さて。
実害が出たのかどうかは微妙だとしても、これも異変には違いない。異変ならば、頼るのはやっぱり博麗の巫女と相場が決まっている。
今は昼過ぎだから、すぐに博麗神社に向かえば、か弱い女の子(特にか弱い私)の足でも夕暮れ前には帰って来られるはず。日の高いうちなら物騒な妖怪に出くわすことも滅多にはないだろう。
小鈴のお母様に店番を替わってもらい、私たちはそそくさと博麗神社へ向かった。
◇
博麗神社への道は、人里を外れて東に向かうことになる。道として整備はされているが人里から出ることになるのだから、妖怪に襲われない保証はない。
でもそれは日が暮れてからのことだし、日中に害のある妖怪に出くわすことは、よほど運が悪くない限り心配することもないし、もし仮に害のある妖怪に出くわしたとしても然るべき対処法を守れば大事には至らない。
用心として私も小鈴も博麗神社謹製のお守りを携帯しているし、むしろ妖怪よりも厄介なのはこの夏らしい日差しだ。
日差しに照らされて溶けてなくなってしまうのは御免被りたいので、私は日傘を差して歩くことにする。小鈴もこれに従って、愛用の日傘を差していた。
日傘の陰で小鈴の猫耳がぴょこぴょこと動いている様子を眺めているうちに、蒸すような暑さのせいもあって、なんだか無性に苛立ってきた。
私はそっと手を伸ばして小鈴の猫耳をふん捉まえようとする。小鈴はその気配に気づき、さっと避ける。
「もう、やめてよ」
どうやら不意に触られるのはお気に召さないようだ。嫌がる小鈴が可笑しくて、私は隙を見ては猫耳を捉まえようとする。小鈴は大袈裟に避ける。
そんなじゃれ合いを繰り返しているうちに博麗神社へ辿り着いた。
◇
神社の縁側ではいつものように、霊夢と魔理沙が仲良く西瓜を食して涼を得ていた。参道を登ってきた私たちを見ると、挨拶よりも先に、二人の動きが硬直したようだ。
「ちょっと小鈴ちゃん、どうしたのそれ」
小鈴の変わり果てた姿を見た霊夢の第一声がそれだった。至って正常な反応であろう。
「かわいいでしょ」
小鈴はなにを勘違いしたのか、くるくると踊るように回り始める。これは正常ではなかろう。
「へぇ、似合ってるじゃん」
魔理沙はご機嫌な小鈴を囃し立てる。正常ではない。
小鈴を中心に、巫女と魔法使いは姦しく盛り上がってしまう。私は長く歩いたため喉が渇いていたところ、たまたま丁度よく西瓜が置いてあるのを見つけ、縁側に陣取りそれに口を付けた。瑞々しい西瓜の果汁が喉を潤して、生き返ったかのような心地だ。実に間のよい偶然であった。
「で、あんたたちはこんな所まで、わざわざ西瓜を食べに来たのかしら」
霊夢の言葉は、そうじゃないことを分かっていながらの口調なのだろう。私は口の中の西瓜の種をハンケチに落として、相変わらず魔理沙と盛り上がってる小鈴を見た。
「あの耳は髪飾りではなく、小鈴の頭から生えています」
「どうやらそのようね」
「これは異変です」
霊夢は「異変ねぇ」と呟いて、暢気そうにぽりぽりと頬を掻いている。異変とあれば解決しなければならない。普段の霊夢、それと魔理沙であれば、一目散に異変解決に向けて飛び去っていく筈なのだが、どうも今日は勝手が違う様子。暑いからだれているのだろうか。それとも私が偶然見つけた西瓜を食べていたことに気を悪くしているのだろうか。
「そりゃ人間から猫の耳が生えたら異変だろうけど、でも今んとこ、小鈴ちゃん以外に猫耳が生えたって話は聞かないのよね。魔理沙はどう」
「ん、私も聞いてないなぁ」
「だとしたら、これは猫耳が生える異変というよりも、なにか小鈴ちゃんに原因があるんじゃないかしら。変な物食べたとか」
一体どれほど変な物を食べれば、猫耳が生えるというのだろうか。
「それに私の勘だと、そんなに悪い感じはしないのよね。本人も気に入ってるみたいだし、しばらくそのままでもいいんじゃない」
「そんな……」
本人が気に入ってるからそのままでいいって、そんないい加減なことでは博麗の巫女が聞いて呆れる。ならば小鈴は、この先一生猫耳のままでいなければならないということなのだろうか。
「いや、阿求が心配するのも分かるんだけど、でも私にどうにかしろと言われても、解決できるって保証はできないのよね。私は確かに異変解決の専門家ではあるんだけど、妖怪の専門家じゃないし」
「じゃ、じゃあ妖怪の専門家に相談するわ。紹介してよ」
霊夢と魔理沙、そして小鈴が、一斉に私のことを指差した。
ああ成る程、確かにここ幻想郷で妖怪の専門家といったら、私のことだ。
でもいくら記憶を辿っても、人間から猫耳が生えるなんて現象、さっぱり出てこない。だから困っているんだというのに。
「ま、私も魔理沙も折を見て調べてはおくけど、あんまり期待しないでね」
そう言われては大人しく引き下がるしかなかった。
◇
「霊夢さんも心配要らないって言ってるし、私も困っていないんだから、きっと大丈夫だよ」
「……うん」
霊夢の言いたいことも分かるし、霊夢の勘が信用に値することは私も充分に承知している。だから今は小鈴の行く末を見守るしかないのかもしれない。
そう分かってはいても、素直に引き下がってしまってよいものか、私は納得がいかずに逡巡してしまう。
もしこのまま小鈴に猫耳が生えたまま元に戻らなかったとしたら。今は無邪気にはしゃいでいればいいのかもしれない。しかし将来、小鈴が結婚して子を産んでお婆さんになっても猫耳なのだろうか。そんなのは考えるだに恐ろしい。
「どのみち今のところ、どうすることもできないみたいだし、ね」
「そうね」
私が思い悩んだところで、今の私たちに打つ手がないことも確かだ。今の私には、どうあっても小鈴を見守ることしかできないのだ。
納得はいかないものの、それでも霊夢の所を訪ねたことで、少しばかりは気持ちが楽になったような気もする。決して無意味ではなかったのだろう。西瓜を食べただけではなかった。
そう自分自身に言い聞かすようにして小鈴と別れたものの、明くる日に私は、そんな悠長に構えていることはできないのだと、思い知ることになった。
「えっと、どうしようね、これ」
苦笑いを浮かべる小鈴。袴の裾からは、ふさふさとした猫の尻尾がはみ出していた。
◇
猫耳だけなら無邪気にはしゃいでいられた小鈴も、尻尾まで生えてきたとなっては流石に暢気に構えてもいられないようで。
「座るときに邪魔なくらいで、一応生活に支障はないけど」
と気丈に振る舞ってはいても、やはりどこかそわそわと落ち着きがない。
猫耳と尻尾が一度に生えてきたのなら、まだそのほうがずっとましなのだろう。昨日が猫耳で今日が尻尾となれば、それは小鈴が日ごとに猫化していっているということを意味しているわけなのだから。
それは、つまり……。
「ねぇ阿求、どうしよう」
「小鈴、行くわよ」
私は小鈴の手をとって、店の外へ強引に引きずり出した。
つまり、このまま小鈴を放っておいたら、小鈴は猫になっていくばかりだということだろう。
いくら霊夢が大丈夫だと太鼓判を押したからって、小鈴が猫になっていくのを黙って見ていられる筈がない。
悪あがきでもいい、こうなったらとことんまで足掻いてやる。
「ね、行くって何処に?」
「私以外の妖怪の専門家んとこよ!」
人里の外れには、命蓮寺という妖怪寺がある。数多くの妖怪と接しているそこの住職なら、なにかしらの解決の糸口を見いだしてくれるかもしれない。
この選択に妥当性があるのか私にも分からない。ほんの思いつきでしかないのだから。でも、私たちには他に打つ手がないのだから。なにもしないで小鈴が猫になるのをじっと見守るよりも、当たって砕けたほうがよっぽどましだ。
◇
日傘を差すのも忘れて、私は小鈴を引き摺るように命蓮寺を目指した。命蓮寺の門前では、掃除をしていた山彦の響子が私たちを出迎えてくれた。
「わんっ!」
猫耳の小鈴を見るなり、思いっきり吠えられた。歓迎はされてないみたい。小鈴も小鈴で、肩を怒らせて「フゥー」と精一杯威嚇している。これでは完全に猫のそれではないか。
「さっ、行くわよ」
「あ、うん」
放っておいたらいつまでも犬猫のにらみ合いが続きそうだ。それでは私が困る。私はかなり手加減して、小鈴の頭を軽く叩いた。小鈴は驚いたような表情を見せたが、どうやら正気を取り戻してくれたようだ。
すかさず響子に会釈をして、小鈴の腕をひっ掴む。そのままの勢いで命蓮寺の境内へと小鈴を強引に引っ張り込んだ。
◇
一輪さんに案内されて面会の叶った白蓮さんは、人当たりの良い笑顔で私たちを迎えてくれた。普段は妖怪に与しているといっても、別に人間を毛嫌いしているわけではないし、そもそもこの方は礼節を欠かさなければ穏やかに接してくれる好人物である。門前の小娘も少しは見習って欲しい。
私は取る物も取りあえず、ここに来た経緯を白蓮さんに説明した。西瓜が偶然置いてあるなんてことはなかったし、もしあったとしても今の私にはそれを食べるだけの心の余裕がなかった。
「なるほど、大層お困りのようですね」
「ええ、大層困っています」
白蓮さんは「ちょっと失礼しますね」と言い添えて、小鈴に生えた猫耳や尻尾を触って確かめていた。小鈴はそのたびにくすぐったそうにむずかるのだが、一応は大人しく身を任せている様子。
「確かに猫のようです。ではこれは」
そう言いながら白蓮さんが懐から取り出したのは、長い棒の先にふさふさの毛が付いた、ああ、それは猫じゃらし! それを目にした小鈴が俄に色めきだし、そわそわと落ち着きない素振りを見せる。
白蓮さんは手に持った猫じゃらしを、畳の上ではたはたと動かす。小鈴はもう辛抱が堪らないといった風に、すかさずそれに飛びついた。これでは、身も心も猫ではないか。いままで全うに生きてきた貸本屋の娘ですといっても、誰も信じまい。
「私は仏門の身でありますから、生憎と猫界には明るくありませんが」
猫界なんてもんがどこかにあるのだろうか?
「私の見解では、そちらの、ええと小鈴さんでしたっけ。小鈴さんは、狐憑きに近い状態にあるのではないかと、そう思います」
「狐憑き、ですか」
言うまでもなく、狐憑きなら私も知っている。心を狐に乗っ取られてしまい、常軌を逸した行動をとるようになり周りが大変迷惑するという現象だ。
しかし、今の小鈴に起こっていることが狐憑きだとすると、どうにも腑に落ちないことがある。
「狐憑きなら私も存じていますが、でも私の知る範囲では、狐に憑かれたからといってその者に狐の耳やら尻尾やらが生えたなどという話は聞いたことがありません」
「ですから狐憑きに、近い状態、だと」
白蓮さんは私の疑問を、慈しみ深い微笑みでさらりと受け流した。
「私の見たところ、小鈴さんはとても、取り憑かれやすい体質にあるのではないかと思われます」
「え、ええ、確かに」
小鈴がなにかに取り憑かれて騒ぎを起こしたことなんて、数えるのもうんざりするほど頻繁にあることだ。それが体質だと言われてしえば、黙って納得するしかない。早急な体質改善を要求したいところだが。
「狐憑きなのだとすれば、小鈴を元に戻すためには私たちはどうすればいいのでしょうか。たとえばお祓いで憑きものを落とすとか」
「なにもしなくてもいいですよ」
「……はぁ!?」
なにもしなければ小鈴はどんどん猫になっていくばかりではないか。それでは困る。
「狐憑きというのは大抵、現世への未練を成就するために体を借りている状態なのですから。それは怨みごとだったりやり残したことだったり様々ですけど。小鈴さんに憑いている猫ちゃんもそれは同じこと。でも私の見たところ、その猫ちゃんは悪い子ではないみたいですから、怨み辛みの類いではないのでしょうね。未練を成就させて気が済んだら、勝手に成仏してくれるでしょう」
放っておいても大事には至らないから我慢しろと、そう言いたいのだろうか。それで納得できるのなら、わざわざここまで足を運んだりしない。
「お祓いで落としても話が拗れるだけですから。どうしても早くに落としたいと言うのでしたら、その猫ちゃんの未練を探り当てて成就させてあげることですね」
白蓮さんは飄々とそんなことを宣った。私だって猫界には詳しくないし伝手もない。何処の何方かさっぱりわからない猫の心情など、分かろう筈もない。一体どうしろと。
私が思い悩んでいる隙に、一輪さんが猫じゃらしをはたはたと振って小鈴をからかっていた。小鈴はすぐさま飛びつくものの、すんでの所で猫じゃらしを躱されてしまい、その度ににゃーと鳴く。完全に遊ばれている。
「よく見たら、小鈴さんの耳、変わった模様をしているのですね。ほら、この黒のブチのところ、まるでハートみたい」
それは断じて小鈴の耳ではないし、それに三毛猫の模様なんてどれも大差ないのではなかろうか。
「耳にハートみたいなブチですか……うーん、なんか最近そんなような話を聞いたことがあるような?」
一輪さんの何気ない呟きに、私も、白蓮さんも、そして小鈴までも動きを止めて注目する。もし一輪さんの最近聞いた話が小鈴に取り憑いた猫と関係があるのならば、猫界の事情に疎い私たちには大きな足掛かりになるかもしれないのだから。
唐突に注目を浴びてしまった一輪さんは、あたふたと慌ててしまう。
「いえ喉元までは出かかっているんですけど、すぐには思い出せそうにないです。御免なさい」
結局、一輪さんからは「なにか思い出したらすぐに連絡する」と約束してもらい、私たちは命蓮寺を後にした。
◇
耳にハートみたいなブチというヒントが得られたのだから、命蓮寺へ相談に行ったのも無駄ではなかったのだろう。ヒントとしては心許ないものの、まるで打つ手がなかった状態に比べたら大きな前進だ。
私は小鈴を一旦鈴奈庵に帰して(野良犬や猫じゃらしに反応して往来で猫な振る舞いをされても困る)人里を練り歩き、耳にハートみたいなブチのある猫のことを訪ねて回ることにした。私一人で訊いて回ったところで成果は期待できないので、家で手隙な者も総動員することにした。小鈴の一大事だ、やり過ぎなんてことはない。
夏らしい天候に蒸されながら、私はか弱い体を引き摺って往来を訪ねて回った。足で探すなんて真似、私には酷く向いていない。しかも容赦のない真夏日に。
そもそも私は、雪の降るような冬の日の炬燵だけを最愛の友として生きようと、片時も離れることなく寄り添い、そして添い遂げようと、それが私の在り方だと心に決めているのだ。だから炬燵の出番のない夏は出来うる限り穏便に、小指一本曲げることすら控えながら、ひっそりとやり過ごさなければならないのである。
それが何故、炎天下の人里を練り歩かなければならないのか。
などと愚痴をこぼしながら猫のことを訪ねて回っていたが、小一時間ほどで体の限界を感じたので木陰で休むことにした。無理をして溶けてなくなってしまっては小鈴に会わす顔がないのだから仕方ない。涼んでいる私の目の前を野良猫が横切る。無性に腹立たしい。小石を投げてやった。
訪ねて回るだなんて効率の悪いことなどせずに、猫界に詳しそうな妖怪を頼ろうかという考えもよぎる。しかし私はあれの居場所を知らないし、あれの周りはなにかと面倒な連中ばかりなので、できれば避けたい。
そんなことを考えてるうちに、うちの女中頭がやって来て、人里中を訪ねて回ったが一向に成果はなかったと教えてくれた。飼い猫にそんな模様のやつはいないし、野良猫の模様だなんて誰も気にかけていない。成る程、当たり前のことだ。
あの雲女がどこでハートみたいなブチの話を聞いたのかは皆目検討もつかないが、私たちにはもうそれしか希望は残されていなかった。早く思い出せ。喉元まで出かかっているということは、きっと喉の奥に引っ掛かって出てこられないのだろう。そんな邪魔な喉は即刻捨てるべきだ。
◇
「ああ阿求ちゃん、いらっしゃい」
小鈴の様子が気になって立ち寄った鈴奈庵では、なぜか小鈴のお父様が店番をしていた。なんだかとても嫌な予感がする。
「小鈴なら奥にいるよ」
「お、お邪魔します」
逸る気持ちを抑えきれず、私は履き物を脱いで、店の奥の小鈴の家に立ち入った。
見知った間取りを進んでいくと、裏庭に面した縁側に小鈴の姿があった。
「あら阿求ちゃん、お久しぶり」
お母様に撫でられながら、小鈴は縁側で丸くなっていた。その光景は何処からどう見ても、猫と飼い主にしか見えない。
「この子ったら昼間だってのに縁側でごろごろして、まるで猫みたい。暑いからかしら」
いや、暑いから猫みたいになるという発想がさっぱり理解できないし、それに猫そのものの耳とか猫そのものの尻尾とか生えてるわけなんですが。
小鈴のお母様はどこか恍けたところがあるので、そんなこと説いてもきっと無駄だろう。
ともかく、縁側で丸くなって酷く猫らしい小鈴であったが、私が来たことに気づいたからだろうか、おもむろに顔を上げ「にゃー」とこれまた猫らしさ満点の鳴き声をあげた。
その小鈴の丸っこい頬には、ピンピンと、猫のような髭が……生えていた。
「ちょっと小鈴、あんた!」
驚いて取り乱してしまったとしても、誰が責めることができようか。私が目を離した少しの間に、また小鈴は猫界への階段を一歩駆け上がってしまったのだから。
このまま手をこまねいていては、いずれそう遠くない未来に、盗んだお魚咥えて走り出したとしても不思議ではないだろう。行き先も分からぬまま。
小鈴にそんな恥ずかしい真似をさせるわけにはいかない。私がなんとかして阻止しなければ。
ええと、まずは野良と間違われないように首輪を……。いやいや落ち着け、それじゃなにも解決しない。
「おばさま、ちょっと小鈴をお借りしてもよろしいでしょうか」
「え、それは構わないけど、お夕飯はどうするのかしら」
「私の家に泊めますから、心配なさらなくても結構です」
身も心もかなり猫になってしまった小鈴は、目を離せばなにをしでかすか分かったもんじゃない。つまり片時も目を離さず、常に見張っていなければならない。
解決の糸口は掴めないし、いつになったら元に戻るのかさっぱりわからないけど、とにかく小鈴が元に戻るまで、私がしっかり見張っていないと。
それには、私の部屋に幽閉するしか手はない。
◇
小鈴は完全に猫みたいになってしまったわけではなく、私が手をひいて屋敷まで引っ張っていく頃には正気を取り戻してくれたので、その点は助かった。
本当に猫になってしまっていたのだとしたら正直、私でも手に余る。
正気を取り戻した小鈴だったが、一体どのように猫だったのかをしっかりと(必要以上にしっかりと)説明すると、素直に私に従ってくれた。小鈴だって、知らぬまに醜態を晒すだなんて御免被りたいのだ。
「まるで覚えてないのよね、困ったわ」
猫のような振る舞いをしてる間のことを小鈴は欠片も覚えていないらしい。小鈴の記憶は、私と別れて家で着替えをしたところで途絶えている。
「その……迷惑かけちゃうかもしれないけど、その時は、ごめんね」
「いいわ。小鈴にかけられる迷惑なら、私は気にしない」
早めの夕餉を済ませ、軽くお風呂を浴びて部屋に戻ると、小鈴は途端にお布団の上で丸くなってしまった。つついても「にゃー」と気怠そうに鳴くばかり。
私も、昼間は沢山歩いたし、なんだかいろいろあって疲れてしまった。小鈴に倣って布団に横になり、猫みたいな小鈴をそっと撫でた。
「あなたは気楽でいいわね」
「……気楽なんかじゃ、ないよ」
弱々しい呟きが返ってきて、私は思わず小鈴を撫でる手を止めた。
「怖いんだよ、私も。そりゃ最初ははしゃいでたけど、気がつくとどんどん猫になっていっちゃって……。私、これからどうなっちゃうんだろって。不安だし、怖いんだよ」
「大丈夫、私が付いてるわ」
「……うん」
さらさらとした小鈴の髪を、優しく手で梳いてあげた。
「ねぇ、阿求」
「なに」
「私がもし猫になっちゃったら、元に戻らなかったら、私、阿求に飼って欲しい。……駄目かな」
「ん、そうね……」
小さい頃、私の家でも猫を飼っていた。耳から尻尾まで全身真っ黒な猫で、名前は見たまんま「くろ」誰が名付けたのか、捻りもなにもあったもんじゃない。
くろは私が生まれた時には稗田の住人の一人で、住人として勝手気ままに暮らしていた。幼い私はくろを殊更可愛がるようなこともなかったのだけれど、家の中に家族と一緒にくろが暮らしていることを自然と受け止め、案外そのことを気に入っていたんだと思う。
猫は人間なんかよりずっと寿命が短い。そのことは私も充分に承知していた。私が物心ついた頃にはくろはもう立派な大人だったので、それほど遠くないうちに別れが訪れることも覚悟していたつもりだった。
小春日和のある日、くろはなんの予兆もなく姿を消した。
私も家族も、勤めで来ている女中さん達も、駆け回って心当たりを探してまわった。猫はいまわの際を見せないように、そっと姿を消すと言い伝えられている。だから私たちも、くろが居なくなったことがそういう意味なのだと理解はしていた。それでも探さずにはいられなかった。
くろが居なくなってからの生活は、なんとも言い表すことが難しいものだった。悲しいとか寂しいとか、そんな簡単なものではない。私の心の中のとても大事にしているなにかが、ごっそりと掻き消えてしまったかのような、居心地の悪い虚無感のようなものに苛まれてしまうような。それは日常のふとした瞬間に訪れて、そのたびに私は溜息の回数を増やすのだった。
私は、私が思っていたよりもずっと、くろのいる生活を愛していたのだと。失ってからそのことを思い知らされることになるとは皮肉なものである。
時間が過ぎれば人は、寂しさも薄れて大切な者を失った生活にも慣れていくものだろう。
でも私は不幸にも阿礼乙女である。記憶が薄れることは期待できない。だからくろを失った痛みは、その瞬間そのままでいつまでも私の心にあり続ける。それに苛まれるたびに、阿礼を本気で恨みたくなる。
私はそれ以来、家で動物を飼うことをやめた。家族も理解を示してくれたのか、稗田の家では小鳥や金魚ですら飼われることはなかった。別れの悲しみを積み重ねるくらいなら、最初から出会わないほうがずっとましだ。
そんな私の気持ちは動物に限ってのことだと、私そのつもりでいた。動物みたいに寿命が短くない人間ならば、私のほうがずっと早く死んでしまうのだから、別れを心配する必要なんてないのだから。
でもきっと意識しないうちに、私は人間すらも遠ざけようとしていたのかもしれない。
後になって悲しむくらいならと、距離を置いた付き合い方で接していたのかもしれない。
だから私には沢山の知り合いはいても、その中に心を許した友達は殆ど居なかった。
心配性の私の気持ちなんてあっさりと笑い飛ばしてしまう小鈴のような子だけに、私は心を許すことができた。
「いいわ……もし小鈴が戻らなかったら、私が飼ってあげる」
「…………」
「小鈴?」
私の気持ちなんて露知らず、いつの間にか小鈴はお布団の上で丸くなったまま、安らかな寝息をたてていた。
◇
何事もなく夜が明けて、朝餉を平らげた私たちは、特にすることもないので部屋で読書などして寛いでいた。
小鈴を見張らなければいけないのは確かなのだけれど、別に暴れたりするわけでもないので、お互いのんびりと過ごしていればそれで済むだけの話。
あとは大人しく、一輪さんが小鈴に取り憑いた猫のことを思い出してくれるのを待つしかない。
そうやってのんびりと過ごしているうちに、来客を告げに女中が部屋を訪れた。
「物部布都というお方が、お嬢様に会いたいと」
しかし来客は一輪さんではなく、私は状況が呑み込めずにしばし動揺してしまう。
物部布都。たしか豊聡耳さんのところの仙人の一人だったはず。何故私を訪ねてきたのか見当もつかないが、全く知らない相手でもないのだから、話ぐらいは聞いてみてもいいだろう。
程なくして、女中の案内で布都さんが私の部屋にやって来た。
「雲居殿から梵天丸が居ると訊いて、貸本屋に向かったのだが、どうやらこちらに居るらしいと伺って……」
「にゃー!」
布都さんが言い終わるのも待たず、小鈴が嬉しそうに布都さんに飛びついて、あろう事か、ぺろぺろと顔を舐めだした。
「にゃーん」
「こら、止めんか梵天丸。くすぐったいぞ」
そう咎める布都さんも満更ではなさそうで。私は一体どうしたらいいのか対処に困ってしまう。
◇
「あれは梅雨の頃だったかな。その日は太子様の遣いで人里に来ていたんだが、親猫とはぐれたのか、路地裏で雨に濡れて悲しそうに鳴くこいつがおってな」
再会の興奮が収まったのか、小鈴は布都さんに寄り添うように丸まって、大人しくしている。時折じゃれるように布都さんに抱きつこうとするが、布都さんは嫌がっていない様子なので放っておこう。
「こいつを拾ったのはほんの気紛れだった。まだ生まれて間もないのに親猫とはぐれたからなのか、随分と衰弱しておってな。だから先が長くないこともわかっていた。放っておいてもよかったのだが、こいつの悲しそうな鳴き声を聞くと、どうにも忍びなくてな」
布都さんは丸くなった小鈴を優しく見詰め、背中をゆっくりと撫でていた。
「生まれたはいいが訳も分からず死んでいくのも不憫であろうと思って、時間の許す限り、付きっきりで世話をしてやった。こいつも無邪気で人懐っこい奴だったんで、私にもよく懐いた。屠自古にだけはとうとう懐かなかったがな」
小鈴はくすぐったそうに、にゃーと小さく鳴いた。
「だがそれも短い間だったよ。私が所用で少し留守にしている間に、こいつは冷たくなっておった。死に目に会えなかったのが、私の心残りだな」
「つまり、その拾った仔猫のことを布都さんが一輪さんに話していたから、一輪さんはそのことを覚えていたと」
「ああ、その通りだ」
話から察するに、一輪さんは実際にその梵天丸という仔猫を見たことはなかったのだろう。布都さんの住む神霊廟に一輪さんが出入りしているとは考えづらい。
実際に見たことがなかったから、一輪さんは仔猫の事をなかなか思い出すことができなかったと。
「なるほど、話は分かりました。それで、その梵天丸さんは、なんの目的があって小鈴に憑いたのでしょうか」
「ふむ、目的とな」
「ええ。この世になにがしかの未練があったからこそ、小鈴に憑いてそれを成就しようとしたのでしょう。その成就したい未練がなんなのか分かれば、小鈴を元に戻せます」
「そんな大層なもんではないよ」
布都さんは小さな含み笑いを零した。
「こいつは生まれてすぐに死んでしまった仔猫。成就したい未練だなんて、そんなこと考えることもできないほどの未熟者だからな。きっと自分が死んでしまったことすら、よく分かっていないんじゃろうて。もし未練があるのだとすれば、もう一度私と会いたかったとか、そんなとこだろう」
小鈴の頭を優しく撫でて、布都さんは言い含めるように。
「さ、梵天丸よ、もう気が済んだだろう。これ以上は貸本屋の娘さんに迷惑がかかる。ここいらが潮時だ」
小鈴は、いえ梵天丸さんは、布都さんの頬に口づけをするように優しく舐めて、寂しそうな小さな声でにゃーと鳴き、そして糸が切れたかのように、その場に崩れ落ちる。
畳に力なく横たわる小鈴には、もう猫耳も尻尾も、猫みたいな髭も生えてはいなかった。
「迷惑をかけて済まなかった。お陰で梵天丸と再会できて、とても助かった。貸本屋の娘さんにも礼を言っておいておくれ」
布都さんは、とても晴れやかな笑顔を浮かべていた。
◇
「はぁ、一時はどうなることかと思ったわ」
布都さんが帰った後、意識を取り戻した小鈴に事の顛末を説明してやると、小鈴はようやく安堵の息を吐くのだった。
「猫みたいになっちゃって、私も訳が分からないまま変なことしちゃうんじゃないかって気が気でなかったわ。盗んだお魚咥えて走り出しちゃったりね。でも、何事もなくて人助けになったのなら、まぁ悪い結果じゃないよね」
「小鈴、あんた本当に覚えてないのね」
「ん、なにが?」
「いや、あんたが悪くない結果だって納得するんなら、私はそれでもいいんだけど。布都さんに抱きついて顔をぺろぺろ舐めたりしたのも、猫のしたことですもんね」
「えっ……えぇーっ!?」
私の言葉を訊いた小鈴は、顔を真っ赤にして恥ずかしがる。頭から湯気でも噴きそうな勢いだ。
その様子が可笑しくて、可愛くて、私は腹が痛くなるほど笑い転げてしまった。
「いやだぁー。もう恥ずかしくて外を歩けないよぉー」
「そんな大袈裟な。猫のしたことなんだから気にしないの」
「気にするのっ! 猫がしたことでも、舐めたのは私なんだもん」
小鈴は畳の上に倒れこんで、うわぁーと呻きながら足をバタバタとして精一杯の恥ずかしさを全身で訴えていた。そうやってむくれる様子が可笑しくて、私はまた笑い出してしまう。
こんな無邪気で和やかな時間が、私には掛け替えのない時間なんだって、そう思える。
ねぇ小鈴。私にはひとつだけ、譲れない願いがあるの。
それはささやかな願いなんだけど、自分勝手で、きっとあなたには迷惑な願い。
そう遠くない未来、私にはお迎えがやってくる。五年後か十年後かはわからないけど、いずれにしても想像もつかないほど遠いわけじゃない。
それはきっと変えられないことだから、私は諦めてるの。きっとあなたも諦めてるんだと思う。くろと別れることを諦めていた私みたいに。
でも、いつかお迎えがくるのなら、せめてその日までは、小鈴が健やかでいられますようにって、私はいつもそう願っているの。
お迎えがきてしまえば、私はもう悲しまなくてすむ。でも、その前にあなたと別れることになってしまったら、きっと私はその悲しさに耐えられない。
だからこれは私だけの、とても自分勝手な願い。
残されるあなたにしたら、いい迷惑でしょうね。私がいなくなって、きっとあなたは、あなたが思っているよりもずっと深く悲しむことになる。くろと別れた私がそうだったんだから。
でもそれは自分でなんとかして頂戴。あなたを悲しませないためには、私があなたに嫌われればいいんでしょうけど、生憎と私にはそんな気さらさらないんですから。
私はあなたと別れるその瞬間まで、あなたと幸せに過ごせたって、そんな気持ちのまま逝きたいんですから。ね、随分と自分勝手でしょう。
でも、もしあなたも私と一緒にいて幸せだと思ってくれるのなら、私はその幸せのために何だってできると思う。だからそれが、自分勝手な私にできる、せめてもの罪滅ぼしなのかな。
こんなこと、口に出して言えやしない。言えばきっと、嫌われてしまうわね。
ねぇ小鈴。
あなたが健やかでいてくれて、本当によかった。
◇
「ああ阿求か、いらっしゃい」
「蒸し暑くてたまらないわね。まだ七月だっていう……の…………に?」
鈴奈庵の暖簾を潜った私は、小鈴の笑顔を見るなり思わず固まってしまった。不覚をとったとしか言いようがない。
「ん、どしたの?」
冷ややかな視線を察したのか、小鈴はぱちぱちと目を瞬かせ、きょとんとした顔で私を見上げる。小鈴のその頭の上には、大きな、馬鹿馬鹿しいくらい大きな、犬の耳が乗っていた。たぶん、霊夢のリボンより幾らか大きい。大きくて馬鹿馬鹿しい。
呆けたような小鈴の顔を見ながら、私は頭の中に浮かんでしまったことを消し去ろうと必死に頑張っていた。
でもそんなことは無駄な努力でしかない。一度頭に思い浮かんでしまえば、それで最後。記憶を失うことのできない求聞持の能力が、こんな時ばかりは恨めしい。
゛犬の耳ってことは、今度は「鈴奈わん」といったところかしら゛
考えるだけで、口には出さなかった自分を誉めてあげたい。
もしこの場に稗田阿礼だった頃の私がいたなら、迷惑な能力を残すなと、泣くまで殴り続けたいところだ。
いや、泣いても許してやるもんか。
了
「蒸し暑くてたまらないわね。まだ六月だっていう……の…………に?」
鈴奈庵の暖簾を潜った私は、小鈴の笑顔を見るなり思わず固まってしまった。不覚をとったとしか言いようがない。
「ん、どしたの?」
冷ややかな視線を察したのか、小鈴はぱちぱちと目を瞬かせ、きょとんとした顔で私を見上げる。小鈴のその頭の上には、大きな、馬鹿馬鹿しいくらい大きな猫耳が乗っていた。たぶん、霊夢のリボンより幾らか大きい。大きくて馬鹿馬鹿しい。
一体どこの世界に猫耳を付けて接客をする貸本屋がいるというのだ。知識欲を満たさんと暖簾を潜る客を出迎えるのが猫耳の店員では、はて来る店を間違えたかなと、客はそのまま踵を返してしまうのではなかろうか。
しかも寄りに寄って、件の猫耳は白、黒、茶のぶち模様、つまり三毛猫だということではないか。これが黒猫か、せめて茶の縞柄ならまだわからないでもない。何故に三毛……。いや、今は柄に拘ってる場合じゃなかった。
つまり小鈴のこの奇妙な格好は、私が来ることを見越して、一丁からかってやろうという魂胆なのだろう。不意を打たれたとはいえ反応してしまった自分が悔しい。
「さっきから怖そうな顔して、だいじょうぶ阿求? お腹痛いの?」
心配する素振りの小鈴だが、なるほど、飽くまで白を切るつもりなのね。でも生憎と私はそんな安い茶番に付き合うつもりはない。
私は巾着から取り出した手鏡を渡して、小鈴の顔を指差した。小鈴が不思議そうに受け取った手鏡を覗き込むことしばし。
「きゃっ!」
と驚きの声をあげ、それに続いて。
「きゃあ、なにこれ、かわいいー!」
と、黄色く浮かれた声をあげた。私からすればとても白々しい。
「なにこれって、こっちが訊きたい。そんな巫山戯た格好して、からかってるつもりなのかしら」
「やだ阿求、怒ってるの?」
わざとらしく身を退いた小鈴が、ちょっとだけ苛ついた。なので私は強攻策に出ることにした。
「はいはい、お遊びはもうお終い。あんたの悪戯に付き合うつもりなんてないんですから」
私は小鈴の猫耳をひっ掴んで、取りあげ……あれ、取れない?
しかもこの猫耳、なんか温かい。
「痛っ、いたいやめてよ阿求!」
猫耳を引っ張る私を振りほどいた小鈴は、目尻に涙を浮かべていた。
「もう、いきなり酷いじゃない」
「ごめん」
これは非を認めるしかない。私はてっきり、小鈴は(馬鹿みたいに大きい)猫耳の髪飾りを付けて、私をからかって遊んでるものだとばかり思い込んでいた。
でも猫耳はいくら引っ張っても取れないもんだし、小鈴は痛がるし、仄かに温かいし、手触りは間違いなく本物の猫のそれだ。
つまりは、それだけ精巧にできている猫耳……じゃなくて。
「生えてるのね、それ」
「うん、だと思う」
小鈴は髪を手櫛で整えながら、恐る恐るといった様子で頭に生えた猫耳を触って、それを確かめていた。
さっきの手鏡で自分の姿を確かめた時の様子、それに今のこの様子から察するに、どうやら小鈴は自分に猫耳が生えていることに、まるで気がついていなかったのだろう。
「朝、顔を洗ってる時は生えてなかったのよ」
「小鈴あなた、今日は朝からずっとお店に?」
「うん」
今はお昼をすこし過ぎたくらいだ。もし小鈴が朝からいままでの間に外出していれば、気づかれぬよう忍び寄った何者かに猫耳を付けられた可能性も。
いや駄目だ、私も錯乱しているのだろうか。猫耳は小鈴から生えているのだから、何者かが付けるだなんてことは無理な話だ。
「ああっ、ねぇ阿求、見てみて」
驚きの声をあげた小鈴は、にっこりとご機嫌で猫耳を指差していた。
猫耳は小鈴の頭の上で、ぴくぴくと楽しげに動いている。
「凄いでしょ。とってもかわいいでしょ」
「え、えぇ……そうね」
なんだ、どうやら錯乱しているのは私だけだったみたいだ。当の小鈴は手鏡を覗いて、嬉しそうに微笑んでいるじゃないか。肝が据わっているというか、何というか。
「細かいことはわかんないけど、神様もたまには素敵なプレゼントくれるものなのね」
小鈴の言葉を上の空で聞きながら、私は頭の中に浮かんでしまったことを消し去ろうと必死に頑張っていた。
でもそんなことは無駄な努力でしかない。一度頭に思い浮かんでしまえば、それで最後。記憶を失うことのできない求聞持の能力が、こんな時ばかりは恨めしい。
゛猫耳の看板娘がいるのだから、この店はさしずめ「鈴にゃ庵」といったところかしら゛
考えるだけで、口には出さなかった自分を誉めてあげたい。
もしこの場に稗田阿礼だった頃の私がいたなら、迷惑な能力を残すなと、泣くまで殴り続けたいところだ。
◇
「うちは貸本屋だから、猫飼えなかったのよね。商売道具の本で爪を研がれちゃうと困るし。でももし飼うんなら、やっぱり三毛猫だって思ってたの。いやー、流石神様は分かってるわぁー」
そう上機嫌で喋る小鈴に、私は思わず呆れてしまった。この子は一体なにを言っているんだ。
猫を飼うのなら黒猫に決まっているじゃないか。最大限に妥協しても茶の縞柄まで。三毛猫だなんて選択はとてもじゃないけど納得できない。
いや、そういう話はひとまず置いておいて。
「暢気に構えてる場合じゃないでしょう」
私はにこにこと微笑む小鈴から手鏡をひったくった。
「身に覚えがないのに突然猫耳が生えてきた。小鈴、これは異変よ」
「異変!?」
「そう。困ったことになる前になにか手を打たないと」
私の言葉を聞いて小鈴はしばらく考えを巡らせていたが、やがて、うん、と頷いて満面の笑みを浮かべた。
「大丈夫よ。私、本で爪研がないもん」
「問題そこ!?」
思わず小鈴の襟を掴んで頭をガクガク揺すってやりたくなったが、すんでの所で思い止まる。冷静な話し合いのため、時には堪えることも必要だ。
「人間のあなたに突然猫耳が生えるだなんて、どう考えても異常な事態でしょ。このまま放っておいていいわけがないわ」
「えぇー。でもほら可愛いし」
「可愛いからといって異常じゃないとはならないでしょ」
「でも、でもっ、ここ幻想郷だよ。猫耳どころか九尾の狐や人魚やらが平気でいるんだもん。今更貸本屋が猫耳だっても、そんなにおかしくないんじゃない」
確かにここは魑魅魍魎が跋扈する幻想郷なのだから、猫耳の娘がいたとしても別段驚くほどのことではないのだし、小鈴の言い分にも一理あるのかもしれない。貸本屋が猫耳でも、可愛いのなら別にいいのかもしれない。
いやいや、やっぱりよくない。危うく流されてしまうところだった。
いくら幻想郷といっても、人間に猫耳が生える筈がない。それはやはり異常なことだ。そしてそうなると、猫耳の生えた人間はもはや人間では非ず。ならば行く末は……。
「小鈴っ!」
私は小鈴の手を両手で包み込むように握った。
「小鈴……お願いだから、言うことをきいて」
そして、できるかぎり弱々しく懇願するように呟いた。ついでに涙声っぽく、あなたのことが心配なの、とも付け加える。
小鈴は唐突に萎らしくなった私の態度に困惑した様子だったが、やがて小声で、うん、わかった。と応じてくれた。素直なことはいいことだ。
さて。
実害が出たのかどうかは微妙だとしても、これも異変には違いない。異変ならば、頼るのはやっぱり博麗の巫女と相場が決まっている。
今は昼過ぎだから、すぐに博麗神社に向かえば、か弱い女の子(特にか弱い私)の足でも夕暮れ前には帰って来られるはず。日の高いうちなら物騒な妖怪に出くわすことも滅多にはないだろう。
小鈴のお母様に店番を替わってもらい、私たちはそそくさと博麗神社へ向かった。
◇
博麗神社への道は、人里を外れて東に向かうことになる。道として整備はされているが人里から出ることになるのだから、妖怪に襲われない保証はない。
でもそれは日が暮れてからのことだし、日中に害のある妖怪に出くわすことは、よほど運が悪くない限り心配することもないし、もし仮に害のある妖怪に出くわしたとしても然るべき対処法を守れば大事には至らない。
用心として私も小鈴も博麗神社謹製のお守りを携帯しているし、むしろ妖怪よりも厄介なのはこの夏らしい日差しだ。
日差しに照らされて溶けてなくなってしまうのは御免被りたいので、私は日傘を差して歩くことにする。小鈴もこれに従って、愛用の日傘を差していた。
日傘の陰で小鈴の猫耳がぴょこぴょこと動いている様子を眺めているうちに、蒸すような暑さのせいもあって、なんだか無性に苛立ってきた。
私はそっと手を伸ばして小鈴の猫耳をふん捉まえようとする。小鈴はその気配に気づき、さっと避ける。
「もう、やめてよ」
どうやら不意に触られるのはお気に召さないようだ。嫌がる小鈴が可笑しくて、私は隙を見ては猫耳を捉まえようとする。小鈴は大袈裟に避ける。
そんなじゃれ合いを繰り返しているうちに博麗神社へ辿り着いた。
◇
神社の縁側ではいつものように、霊夢と魔理沙が仲良く西瓜を食して涼を得ていた。参道を登ってきた私たちを見ると、挨拶よりも先に、二人の動きが硬直したようだ。
「ちょっと小鈴ちゃん、どうしたのそれ」
小鈴の変わり果てた姿を見た霊夢の第一声がそれだった。至って正常な反応であろう。
「かわいいでしょ」
小鈴はなにを勘違いしたのか、くるくると踊るように回り始める。これは正常ではなかろう。
「へぇ、似合ってるじゃん」
魔理沙はご機嫌な小鈴を囃し立てる。正常ではない。
小鈴を中心に、巫女と魔法使いは姦しく盛り上がってしまう。私は長く歩いたため喉が渇いていたところ、たまたま丁度よく西瓜が置いてあるのを見つけ、縁側に陣取りそれに口を付けた。瑞々しい西瓜の果汁が喉を潤して、生き返ったかのような心地だ。実に間のよい偶然であった。
「で、あんたたちはこんな所まで、わざわざ西瓜を食べに来たのかしら」
霊夢の言葉は、そうじゃないことを分かっていながらの口調なのだろう。私は口の中の西瓜の種をハンケチに落として、相変わらず魔理沙と盛り上がってる小鈴を見た。
「あの耳は髪飾りではなく、小鈴の頭から生えています」
「どうやらそのようね」
「これは異変です」
霊夢は「異変ねぇ」と呟いて、暢気そうにぽりぽりと頬を掻いている。異変とあれば解決しなければならない。普段の霊夢、それと魔理沙であれば、一目散に異変解決に向けて飛び去っていく筈なのだが、どうも今日は勝手が違う様子。暑いからだれているのだろうか。それとも私が偶然見つけた西瓜を食べていたことに気を悪くしているのだろうか。
「そりゃ人間から猫の耳が生えたら異変だろうけど、でも今んとこ、小鈴ちゃん以外に猫耳が生えたって話は聞かないのよね。魔理沙はどう」
「ん、私も聞いてないなぁ」
「だとしたら、これは猫耳が生える異変というよりも、なにか小鈴ちゃんに原因があるんじゃないかしら。変な物食べたとか」
一体どれほど変な物を食べれば、猫耳が生えるというのだろうか。
「それに私の勘だと、そんなに悪い感じはしないのよね。本人も気に入ってるみたいだし、しばらくそのままでもいいんじゃない」
「そんな……」
本人が気に入ってるからそのままでいいって、そんないい加減なことでは博麗の巫女が聞いて呆れる。ならば小鈴は、この先一生猫耳のままでいなければならないということなのだろうか。
「いや、阿求が心配するのも分かるんだけど、でも私にどうにかしろと言われても、解決できるって保証はできないのよね。私は確かに異変解決の専門家ではあるんだけど、妖怪の専門家じゃないし」
「じゃ、じゃあ妖怪の専門家に相談するわ。紹介してよ」
霊夢と魔理沙、そして小鈴が、一斉に私のことを指差した。
ああ成る程、確かにここ幻想郷で妖怪の専門家といったら、私のことだ。
でもいくら記憶を辿っても、人間から猫耳が生えるなんて現象、さっぱり出てこない。だから困っているんだというのに。
「ま、私も魔理沙も折を見て調べてはおくけど、あんまり期待しないでね」
そう言われては大人しく引き下がるしかなかった。
◇
「霊夢さんも心配要らないって言ってるし、私も困っていないんだから、きっと大丈夫だよ」
「……うん」
霊夢の言いたいことも分かるし、霊夢の勘が信用に値することは私も充分に承知している。だから今は小鈴の行く末を見守るしかないのかもしれない。
そう分かってはいても、素直に引き下がってしまってよいものか、私は納得がいかずに逡巡してしまう。
もしこのまま小鈴に猫耳が生えたまま元に戻らなかったとしたら。今は無邪気にはしゃいでいればいいのかもしれない。しかし将来、小鈴が結婚して子を産んでお婆さんになっても猫耳なのだろうか。そんなのは考えるだに恐ろしい。
「どのみち今のところ、どうすることもできないみたいだし、ね」
「そうね」
私が思い悩んだところで、今の私たちに打つ手がないことも確かだ。今の私には、どうあっても小鈴を見守ることしかできないのだ。
納得はいかないものの、それでも霊夢の所を訪ねたことで、少しばかりは気持ちが楽になったような気もする。決して無意味ではなかったのだろう。西瓜を食べただけではなかった。
そう自分自身に言い聞かすようにして小鈴と別れたものの、明くる日に私は、そんな悠長に構えていることはできないのだと、思い知ることになった。
「えっと、どうしようね、これ」
苦笑いを浮かべる小鈴。袴の裾からは、ふさふさとした猫の尻尾がはみ出していた。
◇
猫耳だけなら無邪気にはしゃいでいられた小鈴も、尻尾まで生えてきたとなっては流石に暢気に構えてもいられないようで。
「座るときに邪魔なくらいで、一応生活に支障はないけど」
と気丈に振る舞ってはいても、やはりどこかそわそわと落ち着きがない。
猫耳と尻尾が一度に生えてきたのなら、まだそのほうがずっとましなのだろう。昨日が猫耳で今日が尻尾となれば、それは小鈴が日ごとに猫化していっているということを意味しているわけなのだから。
それは、つまり……。
「ねぇ阿求、どうしよう」
「小鈴、行くわよ」
私は小鈴の手をとって、店の外へ強引に引きずり出した。
つまり、このまま小鈴を放っておいたら、小鈴は猫になっていくばかりだということだろう。
いくら霊夢が大丈夫だと太鼓判を押したからって、小鈴が猫になっていくのを黙って見ていられる筈がない。
悪あがきでもいい、こうなったらとことんまで足掻いてやる。
「ね、行くって何処に?」
「私以外の妖怪の専門家んとこよ!」
人里の外れには、命蓮寺という妖怪寺がある。数多くの妖怪と接しているそこの住職なら、なにかしらの解決の糸口を見いだしてくれるかもしれない。
この選択に妥当性があるのか私にも分からない。ほんの思いつきでしかないのだから。でも、私たちには他に打つ手がないのだから。なにもしないで小鈴が猫になるのをじっと見守るよりも、当たって砕けたほうがよっぽどましだ。
◇
日傘を差すのも忘れて、私は小鈴を引き摺るように命蓮寺を目指した。命蓮寺の門前では、掃除をしていた山彦の響子が私たちを出迎えてくれた。
「わんっ!」
猫耳の小鈴を見るなり、思いっきり吠えられた。歓迎はされてないみたい。小鈴も小鈴で、肩を怒らせて「フゥー」と精一杯威嚇している。これでは完全に猫のそれではないか。
「さっ、行くわよ」
「あ、うん」
放っておいたらいつまでも犬猫のにらみ合いが続きそうだ。それでは私が困る。私はかなり手加減して、小鈴の頭を軽く叩いた。小鈴は驚いたような表情を見せたが、どうやら正気を取り戻してくれたようだ。
すかさず響子に会釈をして、小鈴の腕をひっ掴む。そのままの勢いで命蓮寺の境内へと小鈴を強引に引っ張り込んだ。
◇
一輪さんに案内されて面会の叶った白蓮さんは、人当たりの良い笑顔で私たちを迎えてくれた。普段は妖怪に与しているといっても、別に人間を毛嫌いしているわけではないし、そもそもこの方は礼節を欠かさなければ穏やかに接してくれる好人物である。門前の小娘も少しは見習って欲しい。
私は取る物も取りあえず、ここに来た経緯を白蓮さんに説明した。西瓜が偶然置いてあるなんてことはなかったし、もしあったとしても今の私にはそれを食べるだけの心の余裕がなかった。
「なるほど、大層お困りのようですね」
「ええ、大層困っています」
白蓮さんは「ちょっと失礼しますね」と言い添えて、小鈴に生えた猫耳や尻尾を触って確かめていた。小鈴はそのたびにくすぐったそうにむずかるのだが、一応は大人しく身を任せている様子。
「確かに猫のようです。ではこれは」
そう言いながら白蓮さんが懐から取り出したのは、長い棒の先にふさふさの毛が付いた、ああ、それは猫じゃらし! それを目にした小鈴が俄に色めきだし、そわそわと落ち着きない素振りを見せる。
白蓮さんは手に持った猫じゃらしを、畳の上ではたはたと動かす。小鈴はもう辛抱が堪らないといった風に、すかさずそれに飛びついた。これでは、身も心も猫ではないか。いままで全うに生きてきた貸本屋の娘ですといっても、誰も信じまい。
「私は仏門の身でありますから、生憎と猫界には明るくありませんが」
猫界なんてもんがどこかにあるのだろうか?
「私の見解では、そちらの、ええと小鈴さんでしたっけ。小鈴さんは、狐憑きに近い状態にあるのではないかと、そう思います」
「狐憑き、ですか」
言うまでもなく、狐憑きなら私も知っている。心を狐に乗っ取られてしまい、常軌を逸した行動をとるようになり周りが大変迷惑するという現象だ。
しかし、今の小鈴に起こっていることが狐憑きだとすると、どうにも腑に落ちないことがある。
「狐憑きなら私も存じていますが、でも私の知る範囲では、狐に憑かれたからといってその者に狐の耳やら尻尾やらが生えたなどという話は聞いたことがありません」
「ですから狐憑きに、近い状態、だと」
白蓮さんは私の疑問を、慈しみ深い微笑みでさらりと受け流した。
「私の見たところ、小鈴さんはとても、取り憑かれやすい体質にあるのではないかと思われます」
「え、ええ、確かに」
小鈴がなにかに取り憑かれて騒ぎを起こしたことなんて、数えるのもうんざりするほど頻繁にあることだ。それが体質だと言われてしえば、黙って納得するしかない。早急な体質改善を要求したいところだが。
「狐憑きなのだとすれば、小鈴を元に戻すためには私たちはどうすればいいのでしょうか。たとえばお祓いで憑きものを落とすとか」
「なにもしなくてもいいですよ」
「……はぁ!?」
なにもしなければ小鈴はどんどん猫になっていくばかりではないか。それでは困る。
「狐憑きというのは大抵、現世への未練を成就するために体を借りている状態なのですから。それは怨みごとだったりやり残したことだったり様々ですけど。小鈴さんに憑いている猫ちゃんもそれは同じこと。でも私の見たところ、その猫ちゃんは悪い子ではないみたいですから、怨み辛みの類いではないのでしょうね。未練を成就させて気が済んだら、勝手に成仏してくれるでしょう」
放っておいても大事には至らないから我慢しろと、そう言いたいのだろうか。それで納得できるのなら、わざわざここまで足を運んだりしない。
「お祓いで落としても話が拗れるだけですから。どうしても早くに落としたいと言うのでしたら、その猫ちゃんの未練を探り当てて成就させてあげることですね」
白蓮さんは飄々とそんなことを宣った。私だって猫界には詳しくないし伝手もない。何処の何方かさっぱりわからない猫の心情など、分かろう筈もない。一体どうしろと。
私が思い悩んでいる隙に、一輪さんが猫じゃらしをはたはたと振って小鈴をからかっていた。小鈴はすぐさま飛びつくものの、すんでの所で猫じゃらしを躱されてしまい、その度ににゃーと鳴く。完全に遊ばれている。
「よく見たら、小鈴さんの耳、変わった模様をしているのですね。ほら、この黒のブチのところ、まるでハートみたい」
それは断じて小鈴の耳ではないし、それに三毛猫の模様なんてどれも大差ないのではなかろうか。
「耳にハートみたいなブチですか……うーん、なんか最近そんなような話を聞いたことがあるような?」
一輪さんの何気ない呟きに、私も、白蓮さんも、そして小鈴までも動きを止めて注目する。もし一輪さんの最近聞いた話が小鈴に取り憑いた猫と関係があるのならば、猫界の事情に疎い私たちには大きな足掛かりになるかもしれないのだから。
唐突に注目を浴びてしまった一輪さんは、あたふたと慌ててしまう。
「いえ喉元までは出かかっているんですけど、すぐには思い出せそうにないです。御免なさい」
結局、一輪さんからは「なにか思い出したらすぐに連絡する」と約束してもらい、私たちは命蓮寺を後にした。
◇
耳にハートみたいなブチというヒントが得られたのだから、命蓮寺へ相談に行ったのも無駄ではなかったのだろう。ヒントとしては心許ないものの、まるで打つ手がなかった状態に比べたら大きな前進だ。
私は小鈴を一旦鈴奈庵に帰して(野良犬や猫じゃらしに反応して往来で猫な振る舞いをされても困る)人里を練り歩き、耳にハートみたいなブチのある猫のことを訪ねて回ることにした。私一人で訊いて回ったところで成果は期待できないので、家で手隙な者も総動員することにした。小鈴の一大事だ、やり過ぎなんてことはない。
夏らしい天候に蒸されながら、私はか弱い体を引き摺って往来を訪ねて回った。足で探すなんて真似、私には酷く向いていない。しかも容赦のない真夏日に。
そもそも私は、雪の降るような冬の日の炬燵だけを最愛の友として生きようと、片時も離れることなく寄り添い、そして添い遂げようと、それが私の在り方だと心に決めているのだ。だから炬燵の出番のない夏は出来うる限り穏便に、小指一本曲げることすら控えながら、ひっそりとやり過ごさなければならないのである。
それが何故、炎天下の人里を練り歩かなければならないのか。
などと愚痴をこぼしながら猫のことを訪ねて回っていたが、小一時間ほどで体の限界を感じたので木陰で休むことにした。無理をして溶けてなくなってしまっては小鈴に会わす顔がないのだから仕方ない。涼んでいる私の目の前を野良猫が横切る。無性に腹立たしい。小石を投げてやった。
訪ねて回るだなんて効率の悪いことなどせずに、猫界に詳しそうな妖怪を頼ろうかという考えもよぎる。しかし私はあれの居場所を知らないし、あれの周りはなにかと面倒な連中ばかりなので、できれば避けたい。
そんなことを考えてるうちに、うちの女中頭がやって来て、人里中を訪ねて回ったが一向に成果はなかったと教えてくれた。飼い猫にそんな模様のやつはいないし、野良猫の模様だなんて誰も気にかけていない。成る程、当たり前のことだ。
あの雲女がどこでハートみたいなブチの話を聞いたのかは皆目検討もつかないが、私たちにはもうそれしか希望は残されていなかった。早く思い出せ。喉元まで出かかっているということは、きっと喉の奥に引っ掛かって出てこられないのだろう。そんな邪魔な喉は即刻捨てるべきだ。
◇
「ああ阿求ちゃん、いらっしゃい」
小鈴の様子が気になって立ち寄った鈴奈庵では、なぜか小鈴のお父様が店番をしていた。なんだかとても嫌な予感がする。
「小鈴なら奥にいるよ」
「お、お邪魔します」
逸る気持ちを抑えきれず、私は履き物を脱いで、店の奥の小鈴の家に立ち入った。
見知った間取りを進んでいくと、裏庭に面した縁側に小鈴の姿があった。
「あら阿求ちゃん、お久しぶり」
お母様に撫でられながら、小鈴は縁側で丸くなっていた。その光景は何処からどう見ても、猫と飼い主にしか見えない。
「この子ったら昼間だってのに縁側でごろごろして、まるで猫みたい。暑いからかしら」
いや、暑いから猫みたいになるという発想がさっぱり理解できないし、それに猫そのものの耳とか猫そのものの尻尾とか生えてるわけなんですが。
小鈴のお母様はどこか恍けたところがあるので、そんなこと説いてもきっと無駄だろう。
ともかく、縁側で丸くなって酷く猫らしい小鈴であったが、私が来たことに気づいたからだろうか、おもむろに顔を上げ「にゃー」とこれまた猫らしさ満点の鳴き声をあげた。
その小鈴の丸っこい頬には、ピンピンと、猫のような髭が……生えていた。
「ちょっと小鈴、あんた!」
驚いて取り乱してしまったとしても、誰が責めることができようか。私が目を離した少しの間に、また小鈴は猫界への階段を一歩駆け上がってしまったのだから。
このまま手をこまねいていては、いずれそう遠くない未来に、盗んだお魚咥えて走り出したとしても不思議ではないだろう。行き先も分からぬまま。
小鈴にそんな恥ずかしい真似をさせるわけにはいかない。私がなんとかして阻止しなければ。
ええと、まずは野良と間違われないように首輪を……。いやいや落ち着け、それじゃなにも解決しない。
「おばさま、ちょっと小鈴をお借りしてもよろしいでしょうか」
「え、それは構わないけど、お夕飯はどうするのかしら」
「私の家に泊めますから、心配なさらなくても結構です」
身も心もかなり猫になってしまった小鈴は、目を離せばなにをしでかすか分かったもんじゃない。つまり片時も目を離さず、常に見張っていなければならない。
解決の糸口は掴めないし、いつになったら元に戻るのかさっぱりわからないけど、とにかく小鈴が元に戻るまで、私がしっかり見張っていないと。
それには、私の部屋に幽閉するしか手はない。
◇
小鈴は完全に猫みたいになってしまったわけではなく、私が手をひいて屋敷まで引っ張っていく頃には正気を取り戻してくれたので、その点は助かった。
本当に猫になってしまっていたのだとしたら正直、私でも手に余る。
正気を取り戻した小鈴だったが、一体どのように猫だったのかをしっかりと(必要以上にしっかりと)説明すると、素直に私に従ってくれた。小鈴だって、知らぬまに醜態を晒すだなんて御免被りたいのだ。
「まるで覚えてないのよね、困ったわ」
猫のような振る舞いをしてる間のことを小鈴は欠片も覚えていないらしい。小鈴の記憶は、私と別れて家で着替えをしたところで途絶えている。
「その……迷惑かけちゃうかもしれないけど、その時は、ごめんね」
「いいわ。小鈴にかけられる迷惑なら、私は気にしない」
早めの夕餉を済ませ、軽くお風呂を浴びて部屋に戻ると、小鈴は途端にお布団の上で丸くなってしまった。つついても「にゃー」と気怠そうに鳴くばかり。
私も、昼間は沢山歩いたし、なんだかいろいろあって疲れてしまった。小鈴に倣って布団に横になり、猫みたいな小鈴をそっと撫でた。
「あなたは気楽でいいわね」
「……気楽なんかじゃ、ないよ」
弱々しい呟きが返ってきて、私は思わず小鈴を撫でる手を止めた。
「怖いんだよ、私も。そりゃ最初ははしゃいでたけど、気がつくとどんどん猫になっていっちゃって……。私、これからどうなっちゃうんだろって。不安だし、怖いんだよ」
「大丈夫、私が付いてるわ」
「……うん」
さらさらとした小鈴の髪を、優しく手で梳いてあげた。
「ねぇ、阿求」
「なに」
「私がもし猫になっちゃったら、元に戻らなかったら、私、阿求に飼って欲しい。……駄目かな」
「ん、そうね……」
小さい頃、私の家でも猫を飼っていた。耳から尻尾まで全身真っ黒な猫で、名前は見たまんま「くろ」誰が名付けたのか、捻りもなにもあったもんじゃない。
くろは私が生まれた時には稗田の住人の一人で、住人として勝手気ままに暮らしていた。幼い私はくろを殊更可愛がるようなこともなかったのだけれど、家の中に家族と一緒にくろが暮らしていることを自然と受け止め、案外そのことを気に入っていたんだと思う。
猫は人間なんかよりずっと寿命が短い。そのことは私も充分に承知していた。私が物心ついた頃にはくろはもう立派な大人だったので、それほど遠くないうちに別れが訪れることも覚悟していたつもりだった。
小春日和のある日、くろはなんの予兆もなく姿を消した。
私も家族も、勤めで来ている女中さん達も、駆け回って心当たりを探してまわった。猫はいまわの際を見せないように、そっと姿を消すと言い伝えられている。だから私たちも、くろが居なくなったことがそういう意味なのだと理解はしていた。それでも探さずにはいられなかった。
くろが居なくなってからの生活は、なんとも言い表すことが難しいものだった。悲しいとか寂しいとか、そんな簡単なものではない。私の心の中のとても大事にしているなにかが、ごっそりと掻き消えてしまったかのような、居心地の悪い虚無感のようなものに苛まれてしまうような。それは日常のふとした瞬間に訪れて、そのたびに私は溜息の回数を増やすのだった。
私は、私が思っていたよりもずっと、くろのいる生活を愛していたのだと。失ってからそのことを思い知らされることになるとは皮肉なものである。
時間が過ぎれば人は、寂しさも薄れて大切な者を失った生活にも慣れていくものだろう。
でも私は不幸にも阿礼乙女である。記憶が薄れることは期待できない。だからくろを失った痛みは、その瞬間そのままでいつまでも私の心にあり続ける。それに苛まれるたびに、阿礼を本気で恨みたくなる。
私はそれ以来、家で動物を飼うことをやめた。家族も理解を示してくれたのか、稗田の家では小鳥や金魚ですら飼われることはなかった。別れの悲しみを積み重ねるくらいなら、最初から出会わないほうがずっとましだ。
そんな私の気持ちは動物に限ってのことだと、私そのつもりでいた。動物みたいに寿命が短くない人間ならば、私のほうがずっと早く死んでしまうのだから、別れを心配する必要なんてないのだから。
でもきっと意識しないうちに、私は人間すらも遠ざけようとしていたのかもしれない。
後になって悲しむくらいならと、距離を置いた付き合い方で接していたのかもしれない。
だから私には沢山の知り合いはいても、その中に心を許した友達は殆ど居なかった。
心配性の私の気持ちなんてあっさりと笑い飛ばしてしまう小鈴のような子だけに、私は心を許すことができた。
「いいわ……もし小鈴が戻らなかったら、私が飼ってあげる」
「…………」
「小鈴?」
私の気持ちなんて露知らず、いつの間にか小鈴はお布団の上で丸くなったまま、安らかな寝息をたてていた。
◇
何事もなく夜が明けて、朝餉を平らげた私たちは、特にすることもないので部屋で読書などして寛いでいた。
小鈴を見張らなければいけないのは確かなのだけれど、別に暴れたりするわけでもないので、お互いのんびりと過ごしていればそれで済むだけの話。
あとは大人しく、一輪さんが小鈴に取り憑いた猫のことを思い出してくれるのを待つしかない。
そうやってのんびりと過ごしているうちに、来客を告げに女中が部屋を訪れた。
「物部布都というお方が、お嬢様に会いたいと」
しかし来客は一輪さんではなく、私は状況が呑み込めずにしばし動揺してしまう。
物部布都。たしか豊聡耳さんのところの仙人の一人だったはず。何故私を訪ねてきたのか見当もつかないが、全く知らない相手でもないのだから、話ぐらいは聞いてみてもいいだろう。
程なくして、女中の案内で布都さんが私の部屋にやって来た。
「雲居殿から梵天丸が居ると訊いて、貸本屋に向かったのだが、どうやらこちらに居るらしいと伺って……」
「にゃー!」
布都さんが言い終わるのも待たず、小鈴が嬉しそうに布都さんに飛びついて、あろう事か、ぺろぺろと顔を舐めだした。
「にゃーん」
「こら、止めんか梵天丸。くすぐったいぞ」
そう咎める布都さんも満更ではなさそうで。私は一体どうしたらいいのか対処に困ってしまう。
◇
「あれは梅雨の頃だったかな。その日は太子様の遣いで人里に来ていたんだが、親猫とはぐれたのか、路地裏で雨に濡れて悲しそうに鳴くこいつがおってな」
再会の興奮が収まったのか、小鈴は布都さんに寄り添うように丸まって、大人しくしている。時折じゃれるように布都さんに抱きつこうとするが、布都さんは嫌がっていない様子なので放っておこう。
「こいつを拾ったのはほんの気紛れだった。まだ生まれて間もないのに親猫とはぐれたからなのか、随分と衰弱しておってな。だから先が長くないこともわかっていた。放っておいてもよかったのだが、こいつの悲しそうな鳴き声を聞くと、どうにも忍びなくてな」
布都さんは丸くなった小鈴を優しく見詰め、背中をゆっくりと撫でていた。
「生まれたはいいが訳も分からず死んでいくのも不憫であろうと思って、時間の許す限り、付きっきりで世話をしてやった。こいつも無邪気で人懐っこい奴だったんで、私にもよく懐いた。屠自古にだけはとうとう懐かなかったがな」
小鈴はくすぐったそうに、にゃーと小さく鳴いた。
「だがそれも短い間だったよ。私が所用で少し留守にしている間に、こいつは冷たくなっておった。死に目に会えなかったのが、私の心残りだな」
「つまり、その拾った仔猫のことを布都さんが一輪さんに話していたから、一輪さんはそのことを覚えていたと」
「ああ、その通りだ」
話から察するに、一輪さんは実際にその梵天丸という仔猫を見たことはなかったのだろう。布都さんの住む神霊廟に一輪さんが出入りしているとは考えづらい。
実際に見たことがなかったから、一輪さんは仔猫の事をなかなか思い出すことができなかったと。
「なるほど、話は分かりました。それで、その梵天丸さんは、なんの目的があって小鈴に憑いたのでしょうか」
「ふむ、目的とな」
「ええ。この世になにがしかの未練があったからこそ、小鈴に憑いてそれを成就しようとしたのでしょう。その成就したい未練がなんなのか分かれば、小鈴を元に戻せます」
「そんな大層なもんではないよ」
布都さんは小さな含み笑いを零した。
「こいつは生まれてすぐに死んでしまった仔猫。成就したい未練だなんて、そんなこと考えることもできないほどの未熟者だからな。きっと自分が死んでしまったことすら、よく分かっていないんじゃろうて。もし未練があるのだとすれば、もう一度私と会いたかったとか、そんなとこだろう」
小鈴の頭を優しく撫でて、布都さんは言い含めるように。
「さ、梵天丸よ、もう気が済んだだろう。これ以上は貸本屋の娘さんに迷惑がかかる。ここいらが潮時だ」
小鈴は、いえ梵天丸さんは、布都さんの頬に口づけをするように優しく舐めて、寂しそうな小さな声でにゃーと鳴き、そして糸が切れたかのように、その場に崩れ落ちる。
畳に力なく横たわる小鈴には、もう猫耳も尻尾も、猫みたいな髭も生えてはいなかった。
「迷惑をかけて済まなかった。お陰で梵天丸と再会できて、とても助かった。貸本屋の娘さんにも礼を言っておいておくれ」
布都さんは、とても晴れやかな笑顔を浮かべていた。
◇
「はぁ、一時はどうなることかと思ったわ」
布都さんが帰った後、意識を取り戻した小鈴に事の顛末を説明してやると、小鈴はようやく安堵の息を吐くのだった。
「猫みたいになっちゃって、私も訳が分からないまま変なことしちゃうんじゃないかって気が気でなかったわ。盗んだお魚咥えて走り出しちゃったりね。でも、何事もなくて人助けになったのなら、まぁ悪い結果じゃないよね」
「小鈴、あんた本当に覚えてないのね」
「ん、なにが?」
「いや、あんたが悪くない結果だって納得するんなら、私はそれでもいいんだけど。布都さんに抱きついて顔をぺろぺろ舐めたりしたのも、猫のしたことですもんね」
「えっ……えぇーっ!?」
私の言葉を訊いた小鈴は、顔を真っ赤にして恥ずかしがる。頭から湯気でも噴きそうな勢いだ。
その様子が可笑しくて、可愛くて、私は腹が痛くなるほど笑い転げてしまった。
「いやだぁー。もう恥ずかしくて外を歩けないよぉー」
「そんな大袈裟な。猫のしたことなんだから気にしないの」
「気にするのっ! 猫がしたことでも、舐めたのは私なんだもん」
小鈴は畳の上に倒れこんで、うわぁーと呻きながら足をバタバタとして精一杯の恥ずかしさを全身で訴えていた。そうやってむくれる様子が可笑しくて、私はまた笑い出してしまう。
こんな無邪気で和やかな時間が、私には掛け替えのない時間なんだって、そう思える。
ねぇ小鈴。私にはひとつだけ、譲れない願いがあるの。
それはささやかな願いなんだけど、自分勝手で、きっとあなたには迷惑な願い。
そう遠くない未来、私にはお迎えがやってくる。五年後か十年後かはわからないけど、いずれにしても想像もつかないほど遠いわけじゃない。
それはきっと変えられないことだから、私は諦めてるの。きっとあなたも諦めてるんだと思う。くろと別れることを諦めていた私みたいに。
でも、いつかお迎えがくるのなら、せめてその日までは、小鈴が健やかでいられますようにって、私はいつもそう願っているの。
お迎えがきてしまえば、私はもう悲しまなくてすむ。でも、その前にあなたと別れることになってしまったら、きっと私はその悲しさに耐えられない。
だからこれは私だけの、とても自分勝手な願い。
残されるあなたにしたら、いい迷惑でしょうね。私がいなくなって、きっとあなたは、あなたが思っているよりもずっと深く悲しむことになる。くろと別れた私がそうだったんだから。
でもそれは自分でなんとかして頂戴。あなたを悲しませないためには、私があなたに嫌われればいいんでしょうけど、生憎と私にはそんな気さらさらないんですから。
私はあなたと別れるその瞬間まで、あなたと幸せに過ごせたって、そんな気持ちのまま逝きたいんですから。ね、随分と自分勝手でしょう。
でも、もしあなたも私と一緒にいて幸せだと思ってくれるのなら、私はその幸せのために何だってできると思う。だからそれが、自分勝手な私にできる、せめてもの罪滅ぼしなのかな。
こんなこと、口に出して言えやしない。言えばきっと、嫌われてしまうわね。
ねぇ小鈴。
あなたが健やかでいてくれて、本当によかった。
◇
「ああ阿求か、いらっしゃい」
「蒸し暑くてたまらないわね。まだ七月だっていう……の…………に?」
鈴奈庵の暖簾を潜った私は、小鈴の笑顔を見るなり思わず固まってしまった。不覚をとったとしか言いようがない。
「ん、どしたの?」
冷ややかな視線を察したのか、小鈴はぱちぱちと目を瞬かせ、きょとんとした顔で私を見上げる。小鈴のその頭の上には、大きな、馬鹿馬鹿しいくらい大きな、犬の耳が乗っていた。たぶん、霊夢のリボンより幾らか大きい。大きくて馬鹿馬鹿しい。
呆けたような小鈴の顔を見ながら、私は頭の中に浮かんでしまったことを消し去ろうと必死に頑張っていた。
でもそんなことは無駄な努力でしかない。一度頭に思い浮かんでしまえば、それで最後。記憶を失うことのできない求聞持の能力が、こんな時ばかりは恨めしい。
゛犬の耳ってことは、今度は「鈴奈わん」といったところかしら゛
考えるだけで、口には出さなかった自分を誉めてあげたい。
もしこの場に稗田阿礼だった頃の私がいたなら、迷惑な能力を残すなと、泣くまで殴り続けたいところだ。
いや、泣いても許してやるもんか。
了
お話の内容もスムーズで、とても上手だなと感じました。面白かったです。
ともあれ、小鈴は体質の改善に取り組んだ方がいい。
すっきりとしたお話でした。とても面白かったです
霊夢って小鈴のことちゃん付けじゃありませんでしたっけ?
少ししか出てなかったけれど、布都もいい味出してました
阿求と小鈴ちゃんには最後まで幸せでいて欲しいですね。
次はどこの飼い犬だ!?
出番は少ないですが爽やかな布都ちゃんも印象的です
色んな意味で無防備な小鈴ちゃん…良い
そこはかとなくイケメンオーラが立ち上ってる布都ちゃんもよかったです
小鈴ちゃんの体質を上手く利用したお話で良かったです
ああ……次はウサ耳だ……
タイトル、導入、そこからあのような流れに展開するとは……。
面白かったです。
ところで「鈴にゃ庵」と「鈴奈わん」が頭から離れないのですが阿求さんどうしてくれるんです