私もかつては会う人会う人から与えられる無償の愛をほしいままにしていた可愛らしい少女であり、まだ日本語のにの字も知らぬ自他共に認めるまごうことなき外国人に他なりませんでした。
そんな私が日本の首都である京都の大学で日本人もかくやとばかり思われる流暢な日本語を発揮し、日本人の誇りをほしいままにするに至る背景には、とある一人の少女が日本海溝よりも少しばかり程度に深く関わってくることとなるのです。
少女の名前は宇佐見蓮子。
のちに京都で知る人ぞ知る、知らぬ人ぞしらぬ不良オカルトサークルとして名を轟かせたり轟かせなかったりする秘封倶楽部が片割れにして私の相棒でありました。
さて、日本語のにの字も知らぬ私が如何にして日本語を意のままに操る少女へと成長したのかは、かれこれ私が小学生の頃まで遡ります。
この頃私はまだ海外に住んでおり、一日のほとんどを病室で過ごす毎日を送っていました。
というのも、原因はこの忌々しき目にあり、本来であれば見えてはいけないものが見えてしまうこの目は今でこそ個性として放置されていますが、当時は立派な病気扱いをされておりました。
しかし原因は一向に解明されることなく、また目以外の器官に関しては驚くほど何の問題もない健康優良児でしたので、ただひたすらに一日一日を病室で閑と共に過ごしていたようなものでした。
そんな生活をしていれば心は荒野のウエスタンが如く荒み、干からび、ひび割れてまるで像の尻のように硬くなってしまうのも至極当然であり、かつては誰からも愛され無償の愛をほしいままにしていた私も、すっかり皆の鼻つまみ者となってしまったのでありました。
そんな鼻つまみ者に手を差し伸べたのは二人の日本人でした。
二人の名前は宇佐見恭一と宇佐見蓮花、お察しの通り宇佐見蓮子の父と母です。
相対性精神学の教授であるという二人は、どこから聞き付けたのか私の病気の治療を買って出て、共に日本に来ないかと私に手を差し伸べました。
その頃の荒んだ私からしてみたら、二人は神か仏か、それに準ずる崇高な何かに見え、後光すら差して見えたのです。
私はこの病室から抜け出せるのであれば、どこにだって行きますと二つ返事でその申し出を受けたのでした。
家族とお別れをした時の寂しさは今でも忘れません。
父や母と手を取り合って涙を流したのを覚えています。
それでも最後には気丈に振る舞い、いざ出陣と胸を張って飛行機に乗り込んだのでした。
飛行機が夜の空を飛ぶと感動のあまり私は窓に張り付いて離れようとしませんでした。
地上がだんだんと小さくなっていき、まるで星空のように地上の光がきらきらと輝いておりました。
やがて雲を抜けると満天の星空が広がり、そのあまりの美しさに私は指を組んで神様にお祈りをしました。
これからもたくさん、こんな素敵な光景が見られますように。
しばらくすると飛行機の中は真っ暗になりました。
もう寝る時間のようで、こんなに気分が高揚しているのにおちおち寝ていられないと思ったものの、すぐに私は夢の中へと落ちていったのでした。
目がさめると朝でした。
昨日までのことが夢ではないと改めて実感した私は、再び神様にお祈りを捧げます。
それから飛行機の中で朝食をとり(病院食よりすごく美味しい!)、再び窓の外を眺めました。
窓の外にはふわふわの白い雲と、真っ青なそらがひろがっていて、私は是非ともあのふわふわの雲の上を歩いてみたいから外に出ようと言って宇佐見御夫妻を困らせました。
きっとあの上はふかふかで気持ちのいいものなのだろうなあと、外を眺めながら思ったものでした。
そうしてお昼前には飛行機は日本に着陸しました。
飛行機を降りた途端、日本の夏はなんて蒸し暑いのだろうと少しげんなりしました。
日本について最初に私を出迎えたのは、宇佐見御夫妻の娘さんで、彼女こそ宇佐見蓮子その人でした。
蓮子は蓮花さんととてもそっくりでしたが、成長した蓮子はますます彼女に似てきている気がします。
正確には宇佐見御夫妻を出迎えたのでしょうが、彼女は私を見るや驚いた風に駆け寄り、私の周りをぐるぐると回りました。
「パパ、ママ、この子は?」蓮子は知らない言葉を話しました。
「この子は蓮子と同じ病気の子だよ。これから一緒に暮らすことになるんだ」
私には二人がなんと話しているのかがわかりませんでした。
蓮子は私には向き直ると、「私は宇佐見蓮子よ。よろしく」と言って手を差し伸べました。
きっと彼女はよろしくと言ったのであろうことが、手を差し伸べて握手を促すジェスチャーから見て取れました。
また、「ウサミレンコ」は多分、彼女の名前です。
だって宇佐見御夫妻と同じ名字を名乗ったのですから、蓮子が彼女の名前なのだろうと当時の私は推測し、そしてその推理は物の見事に的を射ていたのでした。
『マエリベリー・ハーンよ。よろしく、レンコ』と私は差し出された手を握り返しました。
空港から電車に乗って向かった先は京都でした。
なにやらわからない言葉で話す蓮子に、私も蓮子がわからない言葉で応答しました。
つまるところお互いにわからない言語でめちゃくちゃな会話のドッジボールをしていたのですが、それでもなんとなく話は通じ合っているみたいで私も蓮子も満足でした。
両方の言葉がわかる宇佐見御夫妻は驚いた風でしたけれどもね。
ただ、蓮子は私の名前をうまく言えないらしく「まいりぶぇりぃ」と発音していました。
そうしてしばらく電車に揺られていると、とうとう目的地の京都に到着しました。
京都は不思議な街で、いたるところに無数の結界の境目が見えました。
この街は、私の目には穴だらけに見えたのです。
酉京都駅にたどり着くと、何やら不思議な力がぶわりと体の中を駆け巡る感覚がありました。
驚いて周囲を見回しますが、何もありません。
宇佐見御夫妻や蓮子たちも何事もなく普通にしていましたので、私は気のせいかと思いましたが、腕にはびっしりと鳥肌が立っていました。
さて、蓮子たちの家は酉京都駅から地下鉄に乗って少しの烏丸御池駅から、東に数ブロック歩いたところにある大きなマンションでした。
マンションの部屋は広く、なんと私には個室まで与えられているではありませんか!
蓮子のお父さんの恭一さんが『ここが君の家で、君の部屋はここ。これからは週に一回病院で検査を受けて、あとは普通に過ごしてもらうよ。もちろん、学校にも行ってもらう』と言いました。
学校! 私は学校というものに行ったことはありませんでしたが、学校は大人になるまでの礎を築くための場所であり、そして友情や愛情を育む社会の縮図であると耳にしたことがありました。
ずっと病室に閉じ込められていたも同然だった私にとってそれはまさに憧れ!
学校に通えると知った時の喜びといったら、一体どうやって伝えたら良いでしょうか!
私は嬉しさのあまり二足歩行のロボットのステップを踏み、それを見た蓮子も見よう見まねでロボットになりきりました。
どうやら今は夏休みという、七月中旬から八月いっぱいまでの長期休暇らしく、私が学校に通うのはもう少し先の話なのだそうです。
なので、その間私はこの国の言葉を学ぶことになりました。
ご存知の通りこの時の私は日本語のにの字も知らないものでしたから、一から言葉を覚えるのはなかなかに苦労したと言えましょう。
ただ、苦労はしましたがつまらなくはありませんでした。
いつの間にか蓮子は私のことを「まいりぶぇりぃ」ではなく「メリー」と呼ぶようになっていました。
どうやらマエリベリーという名前は日本人には発音し辛いらしいのですが、メリーはマーシーの短縮系ですから私の名前とはかすりもしません。
それでもすっかりメリーが定着してしまい、宇佐見御夫妻にもいつしかそう呼ばれるようになりました。
まあ別に良いのです、名前なんて単なる記号にすぎません。
「いーい、メリー。朝はおはようございます。お昼はこんにちは。夜はこんばんは。寝る時はおやすみなさいよ」
「オハヨウゴザイマス。コニーチハ。コンバンハ。オヤスミナサイヨ?」
「違う違う。おやすみなさい」
「オヤスミナサーイ」
普段は宇佐見御夫妻が私に日本語を教えてくれましたが、お二人がいない時は蓮子が日本語の先生役を買って出たのでした。
蓮子とはよく京都の街を一緒に練り歩き、そこで色々な日本語を学びました。
なにせ京都は変なものだけは腐るほどあったので、教材に事欠かなかったのです。
街を歩きながら蓮子があれやこれやを指差し、時には私があれやこれやを指差しながら、あれやこれの名前を覚えていきました。
「あれは八つ橋。これはかりんとう饅頭。あれは焼き鳥。これは抹茶。どれも美味しい」
「ヤツハシ。カリントマンジュ。ヤキトリ。マチャ。オイシー」
「鴨川。賀茂大橋。鴨川デルタ。新歓コンパ。ロケット花火」
「カモガワ。カモオーハシ。カモガワデルタ。シンカンコンパ。ロケットハナビ」
「あの空をぷかぷかしているのが天狗様よ。面白いわね」
「ソラをプカプカ。テングサマ。オモチロイ」
そんな調子で(若干偏りがあるものの)着々と日本語を覚えていくうちに、私は少しずつ蓮子ともちゃんとしたコミュニケーションが取れるようになっていきました。
拙くはあるものの話ができるようになってくると、私の日本語を覚えるスピードはめきめきと上がっていくのでした。
とある日、私と蓮子は特に目的もなく三条大橋から先斗町下を流れるみそそぎ川と鴨川に挟まれた河原を歩いておりました。
河原には仲睦まじ気な男女が一定間隔で座り込んで、鴨川を眺めてはなにやらきゃっきゃうふふと楽し気に笑っております。
きっとお互いの毛穴を点検しているに違いありませんでした。
「あれは鴨川等間隔の法則っていうの」
「カモガワトーカンカクノホウソク……?」
「何故かカップルがああして示し合わせたように一定間隔に並んで、人目もはばからずに昼間からちんちんかもかもしてるのよ」
「チンチッ……! レンコ! ヒワイ! コージョリョーゾク!」
「違うわよ。男女が仲良くしてる様をちんちんかもかもって言うの」
日本語ってムツカシイ、私は頬を染めました。
「メリーってばおませさんなんだからー」
蓮子がからかうように言いましたが、この頃の私はまだおませさんの意味を知りませんでした。
「さてっと、それじゃあどうしようかなー。この時間帯は何かデザートが食べたくなるわね」蓮子が左腕につけている腕時計は午後の二時頃を示しておりました。
「まだオハヨーゴザイマス?」
「もうこんにちはかなー」
「うん! レンコ! コーニチハ!」
「はーい、こんにちはー」
蓮子はバッグからタブレット端末を取り出すと、なにやら検索を始めました。
横から覗き込むと、この周辺のスポットを探しているようでした。
と、画面にパフェの写真が映り、私は思わず横からその画像をタッチしました。
出てきたのは祇園の四条通沿いに新しくできたパフェのお店の紹介でした。
これだ! と私は思いました。
「レンコ! レンコ! ギオンシジョウ、美味しいパフェ、食べよ!」
私はタブレット端末を指差して蓮子に言いました。
「えー、なになに? あー、新しいお店できたんだ。いいわね、行きましょう!」
蓮子がメニュー一覧を開くと、そこには抹茶パフェがありました。
パフェはあまいものですが、反対に抹茶はにがいものです。
これはどうしたことでしょうか。
「パフェあまい、マッチャにがい、マッチャパフェ、どうする?」
「あまにがーいのよ」
「あまい……にがい?」
私が首をかしげると、蓮子は腕を組んで唸りました。
「メリーにはまだ早いかしら。あまからいとか、あまじょっぱいとか、あまずっぱいとか」
「あまいとあまいは、あまあまい?」
「そんなわけないでしょう」
実際に食べてみればわかるわよ! と蓮子は私の手を掴んで歩き出しました。
河原を歩いているとあるものが目につきました。
先斗町に並ぶお店からみそそぎ川の上にいくつもバルコニーが突き出ているのです。
それも一つや二つではなく、見渡す限り延々とあるのでなんとも奇妙な光景でした。
「あれは納涼床よ」
「ノーリョードコ。ノーリョーわかる! ウチミズ、フーリン、ハナビ、カイダン、フーリューですなー。暑さをしのぐ、日本人のソウイクフーね?」
「変な方向に知識をつけ始めてるわね」と蓮子は苦笑しました。
「鴨川デルタ、ロケットハナビ打ち込むのもノーリョー」
「違うわよ。で、納涼床だけど、ああやって川の上でご飯を食べると、涼しいの」
「フーリューね!?」
「そうそう、風流風流」
私は夜の鴨川を眺めながら涼しい納涼床でパフェを食べるのを想像しました。
とても楽しそうで、風流っていいなと思いを馳せます。
ふと見ると、納涼床を箒で掃いている店主と思しきおじさんがいました。
「オッチャン! ノーリョードコのオッチャン! 涼しい!? フーリュー!?」
おじさんはこちらに気付くと「昼間はまだ暑いよぉ!」と返事をしました。
「夜、ノーリョードコ、涼しいか!?」
「そうだよぉ! だから七月と八月は昼の納涼床はやってないんだ!」
「じゃー、夜なったら行くねー!」
私はおじさんに手を振って別れを告げました。
「いやいやいや、行くねじゃないでしょう。行けないわよ」蓮子が呆れ顔で言いました。
「行こう! レンコのパパとママ、連れてく!」
「連れてくって……まったく。まあ、ダメはもともとで提案はしてみるけどさ」
とは言いつつも、蓮子も納涼床に少なからず興味があるらしく、私の提案に乗ってくれたのでした。
「やたっ! レンコ好き! これだからやめらんねぇ!」
「ほんっと、変な方向に知識をつけ始めてるわね」蓮子は再び苦笑しました。
四条大橋にたどり着くと、橋を渡って祇園に入りました。
川端通と四条通の交差点から、菊水と京都四條南座を頭に八坂神社の西楼門前で東大路通と交わる交差点までをいくつもの店が立ち並び、歩く人はみなあちらの店へこちらの店へとうごうごしておりました。
そんなうごうごの中を目的地に向かって一直線に進みますと、大和大路通の手前にそのお店はありました。
オープンして間もないからか盛況しており、少し並んで私と蓮子も抹茶パフェを注文しました。
抹茶パフェはバニラと抹茶のソフトクリームに抹茶の粉末が振りかけられており、その下にはフルーツとあんこや白玉や寒天といったものが盛り付けられていて、和風パフェといった装いでありました。
そして何より目を引いたのは、アイスの上で抹茶の粉末と一緒に光り輝いている金色の粉でした。
きらめくそれにうっとり見とれていると、蓮子がその粉は金粉だと教えてくれました。
「純金の粉末よ。混じり物じゃないなら毒はないからそのまま食べられるわよ」
「ジュンキン!?」
「いや、なんで純金は知ってるのよ」
なんと、日本人は金さえも食べてしまうと言うのです!
なんてセレブなのでしょうと私は、自分ごときがこれを食してしまっていいのかと持つ手を震わせました。
こんなもの、昔の王女だって食べられなかったでしょう。
「はー……日本人、カネクイムシだったのね」
「違う違う」
「私は王女ではーないけれどー、アイスクーリームをーめしあがるー」
「唐突に歌いだしたわね」
「スプーンですくってーピチャッチャッチャ、舌にーのせーるとー」
私はスプーンでアイスの頂点を掘削すると、それを口の中に入れました。
冷たいアイスが舌の上で溶けて、口の中になんとも言えない苦味が……苦味が……。
「苦い」
「まあ、抹茶だからね」
「ニガムシを噛み潰したみたいだわ」
「苦虫とか言わないの。下の方のあんことかと一緒に食べたら丁度いいわよ」
そう言って蓮子はパフェの底のあんこと寒天とアイスを一度に口に入れて、ふにゃんと顔を蕩けさせました。
不安に思いながらも私も真似をしたところ、口の中に抹茶のほろ苦さとあんこの甘みが溶けたアイスと一緒になって広がりました。
なんて美味しいのでしょうか!
これがあまにがいというものなのねと、私は顔をふにゃんと蕩けさせました。
「美味しいわ、レンコ!」
「うん、美味しいわね」
「こんなに美味しいもの食べられる、日本いいとこ! 来てよかった!」
「大げさねぇ」
店先で騒いでいたからでしょうか、道をうごうごと埋め尽くす人たちの視線がこちらへと向けられていたかと思うと、その人々もパフェのお店の列を形成し始めたのです。
「思いがけず広告塔になってたみたいね」蓮子が苦笑しながらパフェをぱくつきました。
刻一刻と溶けゆくパフェを食べ終えると、私たちは大和大路通を上って白川南通へと向かいました。
石畳が敷かれた静かな通りで、なんだか高そうな趣のあるお店が並ぶ中を、沿うようにして小さな川が流れていました。
その川は神宮通の大鳥居近くを流れる琵琶湖疏水から分岐していて、堀池町や古川町を右へ左へ行ったり来たりしながら鴨川へと流れていくのだそうです。
忙しない蝉の鳴き声と、ふとそよぐ風にさざめく木の葉に混じって、川のせせらぎを耳にしながら歩いていると、夏の暑さも和らいでいくように感じます。
「くそ暑い」蓮子が風流もなにもあったもんじゃないことを口走りました。
「茹だる。茹で蛸になる。なにが川のせせらぎよ。こんなちんけな川ごとき、きっと熱湯がごとくアツアツのフーフーに決まってるわ」
「レンコ、フーリューだよ」
「風流で気温は下がらないわ。あんなんただの気休めよ。あー、クーラーの下で涼みたい……」
滝のように汗をだらだらと流しながら、蓮子はまるで溶けたカマンベールチーズみたいになりました。
これはいけません。汗と一緒に日本人としての誇りまでも流れ落ちてしまっているではありませんか!
私は蓮子の手を掴むと、彼女の日本人としての誇りが石畳の隙間から大地に染み込んで母なる日本に還る前にどうにかせねばなるまいと、新橋通と交わる辰巳大明神前の巽橋のほとりまで彼女を引っ張って行きました。
それから彼女の鞄を預かりました。
「ちょっとメリー、なにを……」
私は有無を言わさず蓮子を巽橋から川へと突き飛ばしました。
「すりゅびゃあっ!」奇妙な叫び声をあげながら蓮子はざぶんと川に落っこちました。
こうすることによって彼女の体に不足しがちな日本らしさが補充されるのです。
何故ならこの川は日本でも一番大きな湖である、琵琶湖の水なのですから。
きっと大地に染み込んで行った日本人らしさも、琵琶湖から染み出ているに違いありません。
「ちょっとメリー! なにするのよ!」なにやら蓮子は怒っている様子でした。
「レンコー、涼しい?」
「思いがけず涼しくなったわよ!」
魚肉ハンバーグのようにぷりぷりしながら、蓮子は川底からこちらに手を差し伸べました。
その手を掴んで引っ張り上げようとしたところ、なんと蓮子のほうから私を思い切り引っ張って川へと引きずり込んだのでした。
「はみゅん!」蓮子に覆いかぶさるようにして川に落っこち、私たち二人は仲良く濡れ鼠と化しました。
「あばあばあば」私の下で水に浸かりぶくぶくと気泡を吐き出す蓮子を引っ張り起こしてやると、彼女は口からだばあと日本人の誇りを吐き出しました。
それがおかしくて、私はお腹を抱えて笑いに笑いました。
「レンコ、マーライオンみたい! あはははは!」
「あはははは!」蓮子も一緒になって笑いました。
「ちょっと、なにしてるのよあんたたちー」と、頭上から声がかかりました。
見上げると巽橋の欄干から女性が顔を覗かせていました。
「そういうことをしていいのは脳の皺に阿呆神を住まわせた阿呆な大学生だけよ。あなたたちはまだ若いんだから、水遊びがしたいなら大人しくプールか鴨川デルタに行きなさい」
阿呆神を崇め奉るにはまだ早いわよと言いながら、女性は巽橋のほとりからこちらに手を差し伸べました。
「プール、鴨川デルタ、日本人の誇りありませんわ」
「何を言っているのかしらこの子は」
「気にしないでください。まだ日本に来たばかりで右も左も分からないものですから、きっと何か良からぬ知恵でも得たんでしょう」
女性の手を借りて川から這い上がると、私と蓮子は石畳に水溜りを作りました。
びしょ濡れになった服は冷たく、日本人の誇りはこの暑い夏を乗り切る術を与えてくれたのでした。
曰く、これが納涼であります。
私と蓮子は引き上げてくれた女性にお礼を言い、頭を下げました。
頭を上げると、女性の傍らにはいつの間にかひどく古ぼけた浴衣を着た、無精髭のナスのような男性も立っておりました。
その男性は煙管をプカプカと吹かしながら、口から煙の輪っかをプカプカと吐き出していました。
その顔には見覚えがありました。
彼は空をプカプカと浮かんでいたあの天狗様でした。
「おや、その歳で日本人の誇りを知っているとは、いやなかなか侮れん」天狗様は感心した風に言いました。
「日本人の誇り、汗と一緒に出る、琵琶湖から湧き出す」
「うむ、如何にもその通りである。京都が日本で最も日本らしい都であるのも、何より琵琶湖疏水の賜物なのだよ」
天狗様がニィッと笑い、私も笑い返しました。
何故か蓮子とお姉さんは呆れたような表情をしておりました。
「ちょっと、年端もいかない、それもまだ日本に来たばかりの子に変なこと教えちゃ駄目じゃない」
「いやいや、彼女は日本人よりも日本人らしいよ。将来、大物になりそうだ」
「あなたのせいで将来、阿呆神を崇め奉るような阿呆にならないかが心配なのよ」
「ふむん」天狗様はそう呟くと私を見ました。
思い切って、私は天狗様に訊ねました。
「あの、あなた、もしかしてテングサマ?」
「おや」と天狗様は大層驚いた様子でした。
「如何にも、天狗などをやっております」
ひょおー、と思わず私は変な声を出してしまいました。
それから天狗様に向けて手を合わせて「なむなむ!」と唱えました。
「面白いお嬢さんだ。どれ、これをあげよう」
天狗様は私に手を差し出すように言ってから、口からプカプカと煙の玉をいくつも吐き出しました。
それらは私の手の上でかりんとう饅頭になり、いくつもいくつも積み重なっていきました。
目の前で起きた奇跡に私は感嘆の声を上げずにはいられませんでした。
「河原町三条交差点の角の饅頭屋「ぬばたま堂」のかりんとう饅頭だ」
「あっ、それすぐに売り切れちゃう人気商品じゃない! どうやってこんなたくさん手に入れたのよ」
「五条堀川饅頭コネクションで秘密裡に入手したのである」
やがて三十個ほどかりんとう饅頭を出し終えると、天狗様は再び美味しそうに煙をプカプカとし始めました。
「テングサマ、ありがてぇありがてぇ」私は両手に山を持って深々と頭を下げました。
「この子にどんな日本語の教え方してるのよ」と女性が呆れた風に蓮子に訊ね、蓮子はあははと苦笑いをしておりました。
「はやく鞄に仕舞い給え。彼女は……」と天狗様は煙管で女性を指しました。「饅頭でも酒でもつるつると呑み込んでしまう。まるで蟒蛇だ。全自動乙女型饅頭消費機関だ。んんっ、乙女は言い過ぎか……」
「ちょっと! さっきから失礼しちゃうじゃない!」
「んっ」天狗様は呟きますと、しずしずと川の中へと足を踏み入れてゆき、水の上に胡座をかいてプカプカと浮かびました。
「そろそろ私は去るとしよう」
そのまま天狗様はすいーと川上へと向かって流されて行きました。
水の流れに逆らって流されていくなんて、やはり彼は天狗様に間違いありません。
「えっ、ちょっと樋口君!?」
「さらばだ諸君。いずれまた相見える日まで」そう言って天狗様は見えなくなって行きました。
お姉さんはしばらくその方向を呆れた風に眺めていましたが、ふと思い出したかのようにこちらに向き直ると、
「ああいう風になっちゃうから、あまり阿呆なことばかりしてちゃ駄目よ?」と私たちに言いつけ、それから天狗様を追うように川上の方へと歩いて行ってしまいました。
「レンコ! 天狗様! 本物の天狗様よ! すごいわ! 日本の妖精!」
「まあ、天狗っぽいといえば天狗っぽいと思うけれど……うーん……」
「はー、みんなに自慢できる……」
それから饅頭の山を蓮子の鞄にしまって、私たちは川端通まで戻りました。
青々とした葉が茂る並木道から土手を下って、鴨川の東岸の河原を御池通まで歩いて行きました。
全身がびしょ濡れになったおかげでそれほど暑さも感じることなく、特に蓮子はとても機嫌がよさそうでした。
時おり鞄からかりんとう饅頭を取り出しては口の中に放り込み、サクサクとした皮としっとりとしていて甘すぎないあんこに舌鼓を打ちつつ、鴨川のほとりを遡って行きました。
御池大橋を渡る頃にはびしょ濡れだった服もすっかり乾いており、再び日本人の誇りを失ってしまった蓮子の「クーラーが効いた部屋で涼みたい」といった呪詛めいた呟きを聞き流しながら市役所の前を横切りました。
やがて、天狗様が川を遡って神宮通りの大鳥居前まで流れ着いた頃、私と蓮子はマンションにたどり着いたのでした。
「ママー、ただいまー!」
リビングに飛び込むなり、蓮子はソファーに座っている蓮花さんの膝に抱きつきました。
リビングはクーラーで程よく涼しくなっており、全身をひんやりとした冷たい空気が包み込みました。
扇風機が部屋の隅で首を振っており、それに当てられて風鈴がちりんちりんと儚げな音色を響かせておりました。
「ただいま帰りました、レンゲさん」私は蓮花さんにぺこりとお辞儀をしました。
「おかえりなさい、二人とも」
「あのね、今日は祇園でパフェ食べて、それから変な人にかりんとう饅頭をもらったのよ!」そう言って蓮子が鞄いっぱいのかりんとう饅頭を見せると、蓮花さんは顔を顰めました。
「レンコ! 変な人ちがう! 天狗様、すごくすごい人!」
「天狗様?」
「うん、なんかボロボロの浴衣を着た、ナスみたいな人だった」
「それって……」と、なにやら蓮花さんは天狗様について心当たりがあるような様子でしたが、その時の私の頭にはふと納涼床のことが浮かび上がっており、蓮花さんのわずかな仕草には気がついておりませんでした。
「レンゲさん! 折り入ってお頼み申したいことが!」
「メリーちゃんは本当、変な日本語を覚えてくるわね」困ったように蓮子を見やる蓮花さんに、蓮子は「ちがう!」と否定しました。
「それで、頼みってなあに?」
可愛らしく首を傾げて見せる蓮花さんに、私は納涼床の魅力と、是非とも一度体験してみたい旨を力説しました。
最初は戸惑った様子の蓮花さんでしたが、私が「立てよ日本人! 取り戻せ日本人の誇り!」といった具合に説得し、なんとか了承を得ることに成功したのでした。
「ただ問題は、この季節はどこも人気だから、もう予約でいっぱいかもしれないわよ?」
「ダーイジョウブ、マーカセテ! 予約とってあります!」私が胸を張って言うと、蓮花さんは目を丸くしました。
慌てて蓮子が補足します。
「違う違うママ、祇園に向かう途中に納涼床の下を歩いていてね、そこでメリーが納涼床の掃除をしている店のおじさんに今日の夜に行くねって、言ってただけだから」
「あら、そういうこと。そのお店、どこだかわかる?」
「あの納涼床は先斗町の枝垂庵ね」
「ああ、あのお店。うーん、一応電話してみましょうか」
蓮花さんが固定電話で店の人と話をしている間、私は彼女の傍に立って耳をそばだてていました。
受話器からはかすかにあのおじさんの声らしきものがぼそぼそと聞こえてきます。
やがて蓮花さんは受話器からは顔を離すと、マイクを手で押さえながら私に言いました。
「メリーちゃん、やっぱり予約でいっぱいだって」
まさかあの人の良さそうなおじさんが嘘をつくはずがないと、私は蓮花さんから受話器を受け取りました。
ここで一つ補足しておきますと、当時の私はまだ日本語のにほ程度までしか知らぬ小娘で、しかもその人生の大半を病室で過ごした常識知らずも甚だしいガキンチョであったという点を、どうか考慮した上で私の行為を大目に見てもらえれば幸いであります。
「おっちゃん! おっちゃん! 私だよ!」私はしっかりと自分の声を伝えるために大声で受話器に向かって怒鳴りました。
「おおっ! あの時のお嬢ちゃんかい! なんだい、予約ってお嬢ちゃんだったのか! 最初からそう言ってくれれば……」
「今日の夜、ノーリョードコ行くって言ったよ!」私はおじさんの声を遮るようにして叫びました。
「ああ、ああ、大丈夫。お嬢ちゃんの分の席もちゃあんと用意してあるよ。お母さんに代わってくれないかい?」
私は満面の笑みを浮かべて受話器を蓮花さんに渡しました。
蓮花さんは苦笑しながら電話の向こうにぺこぺこと頭を下げておりました。
そうして、その日の夜は皆で納涼床でご飯を食べることとなったのでした。
夜になって大学病院から帰ってきた恭一さんと一緒に、私たちは先斗町まで徒歩で向かいました。
大通りに沿って行くのもつまらないと、蓮子は私たちをぐいぐい引っ張って裏通りへと入っていきます。
裏の裏のさらに裏の方は街灯も少なく、月明かりに照らされた古ぼけた家々は薄気味悪く、自分で入っていっておきながら蓮子は恐々と蓮花さんに抱きついておりました。
また、私も私で仄暗い路地裏にいくつもの結界の境目を見ており、そこから顔を覗かせる奇妙な花弁の形をした真っ赤な花を見て、恭一さんに抱きついたりしておりました。
「大丈夫。大丈夫。怖くないよ」と優しく囁きながら、恭一さんは私の頭にはぽんぽんと手を置きました。
そんな風にしているうちに河原町通を抜けて、高瀬川が流れる木屋町通にさしかかりました。
木屋町通から車も通れないほどの細道を鴨川の方へと入っていくと、まるで今が夜であることを忘れそうになる程に眩しい光が道を覆っておりました。
左右に軒を連ねる店先に吊るされた提灯が赤く光を放ち、てらてらと濡れた石畳に反射しておりました。
道をゆく人々は束の間に浮世を忘れてどこか楽しそうにふらふらと歩いております。
ここが夜の先斗町なのかと、私は感嘆しました。
先斗町の石畳を南へと向かっておりますと、「あった!」と蓮子が一軒の店を指差しました。
店先の提灯に照らされて、小さく「枝垂庵」と看板が掛かっておりました。
引き戸を開けて中に入りますと、そこにはたくさんのお客さんがおり、なかなかの賑わいを見せておりました。
そして出迎えてくれたのはあのおじさんでした。
「おっ、お嬢ちゃん!」おじさんは仰々しく驚いて見せると、いらっしゃいいらっしゃいと私を招き入れました。
蓮花さんと恭一さんがおじさんにぺこぺこと頭を下げて、それから私たちは店の一番奥へと案内されました。
簾がかかった窓の横にある扉から外に出ると、ふわりと生暖かくも優しい風が吹きました。
そこにあったのは、二十人ほどは座れるであろう夜空の下のお座敷でした。
お座敷には一面茣蓙が敷かれており、周りを欄干と灯籠で囲っておりました。
お座敷は鴨川の河原から見たようにみそそぎ川の上に建てられており、欄干から下を覗き込むと灯籠の灯りをくしゃくしゃにしながら川が流れています。
鴨川とみそそぎ川のせせらぎを耳にすると、不思議と暑さを感じませんでした。
一番奥の席へと案内され、私たちは鴨川の反対岸や四条通から漏れ出す灯りを眺めながら座布団に座りました。
渡されたメニュー表を開くと、抹茶パフェの写真が載っていましたので、私はさっそく夜の鴨川を眺めながら抹茶パフェを食べるべくそれを注文しようとしましたが、「デザートはあとで。まずはご飯からよ」と蓮子に止められてしまいました。
蓮子と一緒にメニューをぱらぱらとめくって行きましたが、どうやら懐石料理であるとか京料理であるとか、なんだかよくわからないものが羅列されていて、さっぱり理解できませんでした。
「レンコ……わたし、わかんない……」
私が蓮子に助けを求めると、蓮子はメニューに載っている写真を指差して一つ一つ説明してくれましたが、五つほど説明を終えたところで面倒臭そうに「どうせコースで頼むんだから食べればわかるわよ」と言ってメニューを放ってしまいました。
結局私は宇佐見御夫妻に全てを丸投げして欄干から夜の鴨川を眺めておりました。
すると、残りの席の客が群れを成してうごうごと納涼床へとやってきました。
どうやら団体客のようでした。
団体客の人たちはすでに他のお店で飲んでいるのか、赤ら顔のほろ酔い気味で浮世を忘れて少し興奮している様子でありました。
そんな団体客の中に私は知るべの顔を見つけました。
それはまごうことなき天狗様と、全自動乙女型饅頭消費機関と言われた女性に他なりませんでした。
「テングサマ!」私が天狗様の元へと駆け寄ると、二人はこちらを見て驚いた風に目を開きました。
「おやこれは奇遇な。まさかこんな場所で再び相見えることになろうとは」それから天狗様は私の背後に目をやりました。「ふむん、おまけに懐かしい顔も見受けられる」
「あれっ、蓮花先生に恭一先生!」と女性も驚いた様子で声をあげました。
「天狗様って、やっぱり君だったのね」と蓮花さんと恭一さんは苦笑しました。
私たちは天狗様が煙管の煙からぽんと出した、壬生絶佳の生八つ橋をはむはむしながら話しました。
女性は全自動乙女型八つ橋消費機関となり、八つ橋をつるつると呑み込んで行きました。
聞く話によると、天狗様と宇佐見御夫妻は大学生時代の知り合いで、女性とは大学病院での知り合いなのだそうです。
「私、これでも歯科衛生士だから」そう言って女性はなおもつるつると八つ橋を呑み込んでいきますが、不思議と彼女が呑み込んだ分の八つ橋は減っておりませんでした。
天狗様は「彼女はああやってなんでもつるつると呑み込んでしまうから虫歯にならないのだよ」と耳打ちしました。
天狗様と一緒に入ってきた団体客は、どうやら詭弁論部という集まりでした。
その日は現役詭弁論部と詭弁論部OBとで朝まで呑み明かそうという腹積りで、しかしお二人は詭弁論部ではないのにその飲み会にごく自然な風に混ざり込んだのだそうです。
「天狗たるものかくあらなければならぬのだよ」と天狗様は煙管の煙をすぱすぱしながら言いました。
詭弁論部の喧騒たるや納涼床全体を巻き込み、私や蓮子もそのどんちゃん騒ぎに自ら巻き込まれて行く形になったのは言うまでもありません。
両手を頭上で合わせ、腰をくねくねとして納涼床を練り歩いたりなどし、私がそこに即興で二足歩行のロボットのステップを組み込んで場はさらに盛り上がりました。
私は夢でも見ている気分でした。
つい先日まで病室に幽閉されていた私が、見も知らぬ人たちと同じ踊りを踊って笑い合うなんて、いったい誰が想像できましょう。
納涼床に一斉に料理が運ばれてくると、なんとも芳しい香りが風に吹かれて鴨川を駆け巡りました。
私たちは踊るのを一旦止めて、その食事に舌鼓を打つことに専念しました。
「焼き鳥、天ぷら、お寿司、湯葉」
「ヤキトリ、テンプラ、オスシ、ユバー……ギューニュー、温めてできたやつ?」
「違う違う。えーっと、豆腐の薄切りみたいなものよ」
それらは大変美味なものでした。
「鯛の煮付け、カサゴの唐揚げ、高菜のお浸し、玉子焼き」
それらも大変美味なものでした。
「サンショウウオの丸焼き、イナゴの佃煮、蜂の子、エスカルゴのオーブン焼き」
どれも大変美味なものでした。
そうやって色々なものをちまちまと食べておりますと、詭弁論部のほうでおぉー! と歓声が上がり、天狗様がすっくと立ち上がりました。
「どれここで一つ余興をば」
天狗様は煙を燻らせながら何もない中空に足をつきますと、まるで階段を上るかのようにもう片方の足も中空につけてするすると宙に浮かび上がりました。
それから気怠そうに宙に寝そべると、ぷかぷかと納涼床の周囲を自由自在に動き回り呵々大笑しました。
詭弁論部のみなさんと一緒に拍手喝采を送っていると、お酒をしこたま飲んだらし女性はべろんべろんになりながら詭弁論部の方々の顔をべろんべろんと舐め回しておりました。
私はそれを見て垢嘗という妖怪を思い出しました。
天狗様と親しそうですので、もしかしたら彼女も妖怪の類なのかもしれません。
鴨川の上流からロケット花火の音がかすかに響き、私と蓮子は喧騒を背に鴨川を眺めながら食後の抹茶パフェを食べました。
「思いがけず騒がしくなったわね」蓮子は空を見上げ、「十九時三十分三秒」と呟きました。
「夜、静かしなきゃ、怒られる、ねー?」
「どっこい、先斗町界隈は騒いでも怒られません。ここはね、昼間に寝て夜に起きる世界なのよ」
「チューヤギャクテン?」
「そ。だからじゃんじゃん騒いでもいいのよ」
「わかった! じゃんじゃん騒ぐ!」
私は納涼床を見渡し、ぽっかりと口を開けている結界の境目を見つけると、それの前で目を瞑りました。
真っ暗闇の世界に、目の前の結界を思い浮かべ、そして頭の中のそれを頭の中の手でゆっくりと押し広げました。
原理こそわかりませんが、私は長い病室生活の中で自然とこういった能力を身につけておりました。
「ふむん」と天狗様が感心した風に呟きます。
私は押し広げた結界の淵にそっと足を乗せると、そのまま両足を乗せてバランスをとりました。
「はいっ!」私が両手を広げて見せると、周囲で拍手喝采がわきおこりました。
「お嬢ちゃんも浮いてるぞ!」「あの子も天狗なのか!」「樋口よりずっと可愛くていいや!」詭弁論部の方々が口々に言い、天狗様は少ししょげた風に納涼床へと戻ってまいりました。
「やるねぇお嬢ちゃん。しかたがない。私のとっておきをご覧に入れて見せませう。ゆめゆめ見逃すことなかれ」そう言って天狗様は口からふわりと煙を吐き出しました。
ぐんと先ほどまで私が乗っていた結界の境目が大きく広がりました。
天狗様がさらに煙を吐き出すと、結界の境目はぐんぐんと大きくなっていき、やがてそれは納涼床に覆いかぶさりました。
周囲の景色がぐるりと反転し、目まぐるしく移り変わってゆきます。
それはすべての結界の内側でありました。
朝日に照らされた山々が海の上に浮かぶ白い雲となり、幾度となく押し寄せる白い波がビル群の隙間をうごうごと埋め尽くす人混みとなり、そびえる高層ビルの隙間から見上げる切り取られた夜空は周囲を包む闇となりました。
何せ結界の境目や、その向こう側から覗く何かを見ることはあれど、境目の向こう側なんてものは初めて見たものでしたから、それはもう仰天してしまいました。
蓮子や宇佐見御夫妻、詭弁論部のみなさんも、何が起きたか理解できず仰天といったご様子で目を見開いておりました。
きっと私もこのような表情をしていたことでしょう。
「十五時二十九分七秒、長野県白馬村、六時十一分五十六秒、秋田県大館市、二十三時四十九分一秒、神奈川県大和市」蓮子がぐるぐると回る空を見上げながら呟きました。
ふと、周囲を何かが飛び交っているのが見えました。
それらは光弾やら何やらを放射状に撒き散らし、様々な模様を描きながらまるで踊るように空で戦っておりました。
それは花火もかくやという美しさでした。
そのあまりに美しい光景に、私はすっかりと魅了されてしまいました。
聡明な読者諸君にはお分かりかと思われますが、やがて私と蓮子が秘封倶楽部なる不良オカルトサークルを結成し、降霊術もせずにあっちへこっちへ禁じられた結界暴きに奔走することになるのも、この出来事が発端と言っても過言ではありませんでした。
やがてその弾幕はぐんぐんとこちらへと近付いてきて、納涼床を取り囲みました。
頭上を行き来する様々な弾幕をぼうっと見上げていると、戦っている二人の姿が鮮明に見えました。
片方は真っ赤な可愛らしい巫女さん、そしてもう片方は……。
パチン、と天狗様が指を鳴らすのと同時に、ふっと世界は消え去りました。
今、目の前に広がっているのはなんの変哲もない納涼床から眺める、なんの変哲もない夜の鴨川でした。
そして皆が唖然としている中で、天狗様は一人黙々と八つ橋を口に放り込んでいるのでした。
天狗様や詭弁論部のみなさんとお別れをした私たちは、お店を出てなお賑やかな石畳の先斗町に出ました。
石畳の通りは相変わらず華やいでおり、来た時よりも一層賑やかになっておりました。
蓮子が教えてくれた通り、この町は夜になってから活気付き始めるのでした。
「伊佐美さぁーん、私たちもう飲めませんってばぁー」
「なに言ってるのよ! 辰巳ちゃんの店なんてまだまだ序の口じゃない! よぉーし! 次はルミちゃんのC2H5OHに行きますかー!」
「そんなぁー」
道中、頭に赤いネクタイを巻いた女性と、彼女に引きずられて涙を流す二人組とすれ違いました。
大人はああやって無理やりにでも飲み会をしなければならないから大変だなあと、私は小学生ながら感慨深く思いました。
やっぱり、学生は学生のうちに阿呆なことをしておくべきなのでしょう。
それこそ、天狗様のように自由気ままに空を飛んだり、川を流されていったり、そして結界の向こう側に入ってみたり。
私は大学生になって、蓮子と二人で空を飛んだり、川を流されたり、結界の向こう側に入ったりするのを想像して、楽しい気分になりました。
くふふと小さく笑っていると、蓮子が「ちょっとメリー、なに笑ってるのさ」と怪訝そうに訊ねたので、私は彼女にそっと耳打ちしました。
「レンコ、私たち、大学生になったら結界入ったり、空飛んだり、しよ?」
「しよって、そうそうできるもんでもないでしょうに」
「テングサマみたい、阿呆なろう?」
「えっ、それは嫌だなぁ」と蓮子は嬉しそうに顔をしかめました。
「メリーちゃんがあいつみたいに成り果てるのは許せないなあ」と宇佐見御夫妻も嫌そうに笑うのでした。
途中で西へと細い路地に入る際、先斗町の南から何かギラギラと光を放つ背の高い電車のようなものが入ってくるのが見えました。
それも少し気になりましたが、私はそのまま木屋町通へと向かいました。
夏休みはまだまだ長いのです。
そんな私が日本の首都である京都の大学で日本人もかくやとばかり思われる流暢な日本語を発揮し、日本人の誇りをほしいままにするに至る背景には、とある一人の少女が日本海溝よりも少しばかり程度に深く関わってくることとなるのです。
少女の名前は宇佐見蓮子。
のちに京都で知る人ぞ知る、知らぬ人ぞしらぬ不良オカルトサークルとして名を轟かせたり轟かせなかったりする秘封倶楽部が片割れにして私の相棒でありました。
さて、日本語のにの字も知らぬ私が如何にして日本語を意のままに操る少女へと成長したのかは、かれこれ私が小学生の頃まで遡ります。
この頃私はまだ海外に住んでおり、一日のほとんどを病室で過ごす毎日を送っていました。
というのも、原因はこの忌々しき目にあり、本来であれば見えてはいけないものが見えてしまうこの目は今でこそ個性として放置されていますが、当時は立派な病気扱いをされておりました。
しかし原因は一向に解明されることなく、また目以外の器官に関しては驚くほど何の問題もない健康優良児でしたので、ただひたすらに一日一日を病室で閑と共に過ごしていたようなものでした。
そんな生活をしていれば心は荒野のウエスタンが如く荒み、干からび、ひび割れてまるで像の尻のように硬くなってしまうのも至極当然であり、かつては誰からも愛され無償の愛をほしいままにしていた私も、すっかり皆の鼻つまみ者となってしまったのでありました。
そんな鼻つまみ者に手を差し伸べたのは二人の日本人でした。
二人の名前は宇佐見恭一と宇佐見蓮花、お察しの通り宇佐見蓮子の父と母です。
相対性精神学の教授であるという二人は、どこから聞き付けたのか私の病気の治療を買って出て、共に日本に来ないかと私に手を差し伸べました。
その頃の荒んだ私からしてみたら、二人は神か仏か、それに準ずる崇高な何かに見え、後光すら差して見えたのです。
私はこの病室から抜け出せるのであれば、どこにだって行きますと二つ返事でその申し出を受けたのでした。
家族とお別れをした時の寂しさは今でも忘れません。
父や母と手を取り合って涙を流したのを覚えています。
それでも最後には気丈に振る舞い、いざ出陣と胸を張って飛行機に乗り込んだのでした。
飛行機が夜の空を飛ぶと感動のあまり私は窓に張り付いて離れようとしませんでした。
地上がだんだんと小さくなっていき、まるで星空のように地上の光がきらきらと輝いておりました。
やがて雲を抜けると満天の星空が広がり、そのあまりの美しさに私は指を組んで神様にお祈りをしました。
これからもたくさん、こんな素敵な光景が見られますように。
しばらくすると飛行機の中は真っ暗になりました。
もう寝る時間のようで、こんなに気分が高揚しているのにおちおち寝ていられないと思ったものの、すぐに私は夢の中へと落ちていったのでした。
目がさめると朝でした。
昨日までのことが夢ではないと改めて実感した私は、再び神様にお祈りを捧げます。
それから飛行機の中で朝食をとり(病院食よりすごく美味しい!)、再び窓の外を眺めました。
窓の外にはふわふわの白い雲と、真っ青なそらがひろがっていて、私は是非ともあのふわふわの雲の上を歩いてみたいから外に出ようと言って宇佐見御夫妻を困らせました。
きっとあの上はふかふかで気持ちのいいものなのだろうなあと、外を眺めながら思ったものでした。
そうしてお昼前には飛行機は日本に着陸しました。
飛行機を降りた途端、日本の夏はなんて蒸し暑いのだろうと少しげんなりしました。
日本について最初に私を出迎えたのは、宇佐見御夫妻の娘さんで、彼女こそ宇佐見蓮子その人でした。
蓮子は蓮花さんととてもそっくりでしたが、成長した蓮子はますます彼女に似てきている気がします。
正確には宇佐見御夫妻を出迎えたのでしょうが、彼女は私を見るや驚いた風に駆け寄り、私の周りをぐるぐると回りました。
「パパ、ママ、この子は?」蓮子は知らない言葉を話しました。
「この子は蓮子と同じ病気の子だよ。これから一緒に暮らすことになるんだ」
私には二人がなんと話しているのかがわかりませんでした。
蓮子は私には向き直ると、「私は宇佐見蓮子よ。よろしく」と言って手を差し伸べました。
きっと彼女はよろしくと言ったのであろうことが、手を差し伸べて握手を促すジェスチャーから見て取れました。
また、「ウサミレンコ」は多分、彼女の名前です。
だって宇佐見御夫妻と同じ名字を名乗ったのですから、蓮子が彼女の名前なのだろうと当時の私は推測し、そしてその推理は物の見事に的を射ていたのでした。
『マエリベリー・ハーンよ。よろしく、レンコ』と私は差し出された手を握り返しました。
空港から電車に乗って向かった先は京都でした。
なにやらわからない言葉で話す蓮子に、私も蓮子がわからない言葉で応答しました。
つまるところお互いにわからない言語でめちゃくちゃな会話のドッジボールをしていたのですが、それでもなんとなく話は通じ合っているみたいで私も蓮子も満足でした。
両方の言葉がわかる宇佐見御夫妻は驚いた風でしたけれどもね。
ただ、蓮子は私の名前をうまく言えないらしく「まいりぶぇりぃ」と発音していました。
そうしてしばらく電車に揺られていると、とうとう目的地の京都に到着しました。
京都は不思議な街で、いたるところに無数の結界の境目が見えました。
この街は、私の目には穴だらけに見えたのです。
酉京都駅にたどり着くと、何やら不思議な力がぶわりと体の中を駆け巡る感覚がありました。
驚いて周囲を見回しますが、何もありません。
宇佐見御夫妻や蓮子たちも何事もなく普通にしていましたので、私は気のせいかと思いましたが、腕にはびっしりと鳥肌が立っていました。
さて、蓮子たちの家は酉京都駅から地下鉄に乗って少しの烏丸御池駅から、東に数ブロック歩いたところにある大きなマンションでした。
マンションの部屋は広く、なんと私には個室まで与えられているではありませんか!
蓮子のお父さんの恭一さんが『ここが君の家で、君の部屋はここ。これからは週に一回病院で検査を受けて、あとは普通に過ごしてもらうよ。もちろん、学校にも行ってもらう』と言いました。
学校! 私は学校というものに行ったことはありませんでしたが、学校は大人になるまでの礎を築くための場所であり、そして友情や愛情を育む社会の縮図であると耳にしたことがありました。
ずっと病室に閉じ込められていたも同然だった私にとってそれはまさに憧れ!
学校に通えると知った時の喜びといったら、一体どうやって伝えたら良いでしょうか!
私は嬉しさのあまり二足歩行のロボットのステップを踏み、それを見た蓮子も見よう見まねでロボットになりきりました。
どうやら今は夏休みという、七月中旬から八月いっぱいまでの長期休暇らしく、私が学校に通うのはもう少し先の話なのだそうです。
なので、その間私はこの国の言葉を学ぶことになりました。
ご存知の通りこの時の私は日本語のにの字も知らないものでしたから、一から言葉を覚えるのはなかなかに苦労したと言えましょう。
ただ、苦労はしましたがつまらなくはありませんでした。
いつの間にか蓮子は私のことを「まいりぶぇりぃ」ではなく「メリー」と呼ぶようになっていました。
どうやらマエリベリーという名前は日本人には発音し辛いらしいのですが、メリーはマーシーの短縮系ですから私の名前とはかすりもしません。
それでもすっかりメリーが定着してしまい、宇佐見御夫妻にもいつしかそう呼ばれるようになりました。
まあ別に良いのです、名前なんて単なる記号にすぎません。
「いーい、メリー。朝はおはようございます。お昼はこんにちは。夜はこんばんは。寝る時はおやすみなさいよ」
「オハヨウゴザイマス。コニーチハ。コンバンハ。オヤスミナサイヨ?」
「違う違う。おやすみなさい」
「オヤスミナサーイ」
普段は宇佐見御夫妻が私に日本語を教えてくれましたが、お二人がいない時は蓮子が日本語の先生役を買って出たのでした。
蓮子とはよく京都の街を一緒に練り歩き、そこで色々な日本語を学びました。
なにせ京都は変なものだけは腐るほどあったので、教材に事欠かなかったのです。
街を歩きながら蓮子があれやこれやを指差し、時には私があれやこれやを指差しながら、あれやこれの名前を覚えていきました。
「あれは八つ橋。これはかりんとう饅頭。あれは焼き鳥。これは抹茶。どれも美味しい」
「ヤツハシ。カリントマンジュ。ヤキトリ。マチャ。オイシー」
「鴨川。賀茂大橋。鴨川デルタ。新歓コンパ。ロケット花火」
「カモガワ。カモオーハシ。カモガワデルタ。シンカンコンパ。ロケットハナビ」
「あの空をぷかぷかしているのが天狗様よ。面白いわね」
「ソラをプカプカ。テングサマ。オモチロイ」
そんな調子で(若干偏りがあるものの)着々と日本語を覚えていくうちに、私は少しずつ蓮子ともちゃんとしたコミュニケーションが取れるようになっていきました。
拙くはあるものの話ができるようになってくると、私の日本語を覚えるスピードはめきめきと上がっていくのでした。
とある日、私と蓮子は特に目的もなく三条大橋から先斗町下を流れるみそそぎ川と鴨川に挟まれた河原を歩いておりました。
河原には仲睦まじ気な男女が一定間隔で座り込んで、鴨川を眺めてはなにやらきゃっきゃうふふと楽し気に笑っております。
きっとお互いの毛穴を点検しているに違いありませんでした。
「あれは鴨川等間隔の法則っていうの」
「カモガワトーカンカクノホウソク……?」
「何故かカップルがああして示し合わせたように一定間隔に並んで、人目もはばからずに昼間からちんちんかもかもしてるのよ」
「チンチッ……! レンコ! ヒワイ! コージョリョーゾク!」
「違うわよ。男女が仲良くしてる様をちんちんかもかもって言うの」
日本語ってムツカシイ、私は頬を染めました。
「メリーってばおませさんなんだからー」
蓮子がからかうように言いましたが、この頃の私はまだおませさんの意味を知りませんでした。
「さてっと、それじゃあどうしようかなー。この時間帯は何かデザートが食べたくなるわね」蓮子が左腕につけている腕時計は午後の二時頃を示しておりました。
「まだオハヨーゴザイマス?」
「もうこんにちはかなー」
「うん! レンコ! コーニチハ!」
「はーい、こんにちはー」
蓮子はバッグからタブレット端末を取り出すと、なにやら検索を始めました。
横から覗き込むと、この周辺のスポットを探しているようでした。
と、画面にパフェの写真が映り、私は思わず横からその画像をタッチしました。
出てきたのは祇園の四条通沿いに新しくできたパフェのお店の紹介でした。
これだ! と私は思いました。
「レンコ! レンコ! ギオンシジョウ、美味しいパフェ、食べよ!」
私はタブレット端末を指差して蓮子に言いました。
「えー、なになに? あー、新しいお店できたんだ。いいわね、行きましょう!」
蓮子がメニュー一覧を開くと、そこには抹茶パフェがありました。
パフェはあまいものですが、反対に抹茶はにがいものです。
これはどうしたことでしょうか。
「パフェあまい、マッチャにがい、マッチャパフェ、どうする?」
「あまにがーいのよ」
「あまい……にがい?」
私が首をかしげると、蓮子は腕を組んで唸りました。
「メリーにはまだ早いかしら。あまからいとか、あまじょっぱいとか、あまずっぱいとか」
「あまいとあまいは、あまあまい?」
「そんなわけないでしょう」
実際に食べてみればわかるわよ! と蓮子は私の手を掴んで歩き出しました。
河原を歩いているとあるものが目につきました。
先斗町に並ぶお店からみそそぎ川の上にいくつもバルコニーが突き出ているのです。
それも一つや二つではなく、見渡す限り延々とあるのでなんとも奇妙な光景でした。
「あれは納涼床よ」
「ノーリョードコ。ノーリョーわかる! ウチミズ、フーリン、ハナビ、カイダン、フーリューですなー。暑さをしのぐ、日本人のソウイクフーね?」
「変な方向に知識をつけ始めてるわね」と蓮子は苦笑しました。
「鴨川デルタ、ロケットハナビ打ち込むのもノーリョー」
「違うわよ。で、納涼床だけど、ああやって川の上でご飯を食べると、涼しいの」
「フーリューね!?」
「そうそう、風流風流」
私は夜の鴨川を眺めながら涼しい納涼床でパフェを食べるのを想像しました。
とても楽しそうで、風流っていいなと思いを馳せます。
ふと見ると、納涼床を箒で掃いている店主と思しきおじさんがいました。
「オッチャン! ノーリョードコのオッチャン! 涼しい!? フーリュー!?」
おじさんはこちらに気付くと「昼間はまだ暑いよぉ!」と返事をしました。
「夜、ノーリョードコ、涼しいか!?」
「そうだよぉ! だから七月と八月は昼の納涼床はやってないんだ!」
「じゃー、夜なったら行くねー!」
私はおじさんに手を振って別れを告げました。
「いやいやいや、行くねじゃないでしょう。行けないわよ」蓮子が呆れ顔で言いました。
「行こう! レンコのパパとママ、連れてく!」
「連れてくって……まったく。まあ、ダメはもともとで提案はしてみるけどさ」
とは言いつつも、蓮子も納涼床に少なからず興味があるらしく、私の提案に乗ってくれたのでした。
「やたっ! レンコ好き! これだからやめらんねぇ!」
「ほんっと、変な方向に知識をつけ始めてるわね」蓮子は再び苦笑しました。
四条大橋にたどり着くと、橋を渡って祇園に入りました。
川端通と四条通の交差点から、菊水と京都四條南座を頭に八坂神社の西楼門前で東大路通と交わる交差点までをいくつもの店が立ち並び、歩く人はみなあちらの店へこちらの店へとうごうごしておりました。
そんなうごうごの中を目的地に向かって一直線に進みますと、大和大路通の手前にそのお店はありました。
オープンして間もないからか盛況しており、少し並んで私と蓮子も抹茶パフェを注文しました。
抹茶パフェはバニラと抹茶のソフトクリームに抹茶の粉末が振りかけられており、その下にはフルーツとあんこや白玉や寒天といったものが盛り付けられていて、和風パフェといった装いでありました。
そして何より目を引いたのは、アイスの上で抹茶の粉末と一緒に光り輝いている金色の粉でした。
きらめくそれにうっとり見とれていると、蓮子がその粉は金粉だと教えてくれました。
「純金の粉末よ。混じり物じゃないなら毒はないからそのまま食べられるわよ」
「ジュンキン!?」
「いや、なんで純金は知ってるのよ」
なんと、日本人は金さえも食べてしまうと言うのです!
なんてセレブなのでしょうと私は、自分ごときがこれを食してしまっていいのかと持つ手を震わせました。
こんなもの、昔の王女だって食べられなかったでしょう。
「はー……日本人、カネクイムシだったのね」
「違う違う」
「私は王女ではーないけれどー、アイスクーリームをーめしあがるー」
「唐突に歌いだしたわね」
「スプーンですくってーピチャッチャッチャ、舌にーのせーるとー」
私はスプーンでアイスの頂点を掘削すると、それを口の中に入れました。
冷たいアイスが舌の上で溶けて、口の中になんとも言えない苦味が……苦味が……。
「苦い」
「まあ、抹茶だからね」
「ニガムシを噛み潰したみたいだわ」
「苦虫とか言わないの。下の方のあんことかと一緒に食べたら丁度いいわよ」
そう言って蓮子はパフェの底のあんこと寒天とアイスを一度に口に入れて、ふにゃんと顔を蕩けさせました。
不安に思いながらも私も真似をしたところ、口の中に抹茶のほろ苦さとあんこの甘みが溶けたアイスと一緒になって広がりました。
なんて美味しいのでしょうか!
これがあまにがいというものなのねと、私は顔をふにゃんと蕩けさせました。
「美味しいわ、レンコ!」
「うん、美味しいわね」
「こんなに美味しいもの食べられる、日本いいとこ! 来てよかった!」
「大げさねぇ」
店先で騒いでいたからでしょうか、道をうごうごと埋め尽くす人たちの視線がこちらへと向けられていたかと思うと、その人々もパフェのお店の列を形成し始めたのです。
「思いがけず広告塔になってたみたいね」蓮子が苦笑しながらパフェをぱくつきました。
刻一刻と溶けゆくパフェを食べ終えると、私たちは大和大路通を上って白川南通へと向かいました。
石畳が敷かれた静かな通りで、なんだか高そうな趣のあるお店が並ぶ中を、沿うようにして小さな川が流れていました。
その川は神宮通の大鳥居近くを流れる琵琶湖疏水から分岐していて、堀池町や古川町を右へ左へ行ったり来たりしながら鴨川へと流れていくのだそうです。
忙しない蝉の鳴き声と、ふとそよぐ風にさざめく木の葉に混じって、川のせせらぎを耳にしながら歩いていると、夏の暑さも和らいでいくように感じます。
「くそ暑い」蓮子が風流もなにもあったもんじゃないことを口走りました。
「茹だる。茹で蛸になる。なにが川のせせらぎよ。こんなちんけな川ごとき、きっと熱湯がごとくアツアツのフーフーに決まってるわ」
「レンコ、フーリューだよ」
「風流で気温は下がらないわ。あんなんただの気休めよ。あー、クーラーの下で涼みたい……」
滝のように汗をだらだらと流しながら、蓮子はまるで溶けたカマンベールチーズみたいになりました。
これはいけません。汗と一緒に日本人としての誇りまでも流れ落ちてしまっているではありませんか!
私は蓮子の手を掴むと、彼女の日本人としての誇りが石畳の隙間から大地に染み込んで母なる日本に還る前にどうにかせねばなるまいと、新橋通と交わる辰巳大明神前の巽橋のほとりまで彼女を引っ張って行きました。
それから彼女の鞄を預かりました。
「ちょっとメリー、なにを……」
私は有無を言わさず蓮子を巽橋から川へと突き飛ばしました。
「すりゅびゃあっ!」奇妙な叫び声をあげながら蓮子はざぶんと川に落っこちました。
こうすることによって彼女の体に不足しがちな日本らしさが補充されるのです。
何故ならこの川は日本でも一番大きな湖である、琵琶湖の水なのですから。
きっと大地に染み込んで行った日本人らしさも、琵琶湖から染み出ているに違いありません。
「ちょっとメリー! なにするのよ!」なにやら蓮子は怒っている様子でした。
「レンコー、涼しい?」
「思いがけず涼しくなったわよ!」
魚肉ハンバーグのようにぷりぷりしながら、蓮子は川底からこちらに手を差し伸べました。
その手を掴んで引っ張り上げようとしたところ、なんと蓮子のほうから私を思い切り引っ張って川へと引きずり込んだのでした。
「はみゅん!」蓮子に覆いかぶさるようにして川に落っこち、私たち二人は仲良く濡れ鼠と化しました。
「あばあばあば」私の下で水に浸かりぶくぶくと気泡を吐き出す蓮子を引っ張り起こしてやると、彼女は口からだばあと日本人の誇りを吐き出しました。
それがおかしくて、私はお腹を抱えて笑いに笑いました。
「レンコ、マーライオンみたい! あはははは!」
「あはははは!」蓮子も一緒になって笑いました。
「ちょっと、なにしてるのよあんたたちー」と、頭上から声がかかりました。
見上げると巽橋の欄干から女性が顔を覗かせていました。
「そういうことをしていいのは脳の皺に阿呆神を住まわせた阿呆な大学生だけよ。あなたたちはまだ若いんだから、水遊びがしたいなら大人しくプールか鴨川デルタに行きなさい」
阿呆神を崇め奉るにはまだ早いわよと言いながら、女性は巽橋のほとりからこちらに手を差し伸べました。
「プール、鴨川デルタ、日本人の誇りありませんわ」
「何を言っているのかしらこの子は」
「気にしないでください。まだ日本に来たばかりで右も左も分からないものですから、きっと何か良からぬ知恵でも得たんでしょう」
女性の手を借りて川から這い上がると、私と蓮子は石畳に水溜りを作りました。
びしょ濡れになった服は冷たく、日本人の誇りはこの暑い夏を乗り切る術を与えてくれたのでした。
曰く、これが納涼であります。
私と蓮子は引き上げてくれた女性にお礼を言い、頭を下げました。
頭を上げると、女性の傍らにはいつの間にかひどく古ぼけた浴衣を着た、無精髭のナスのような男性も立っておりました。
その男性は煙管をプカプカと吹かしながら、口から煙の輪っかをプカプカと吐き出していました。
その顔には見覚えがありました。
彼は空をプカプカと浮かんでいたあの天狗様でした。
「おや、その歳で日本人の誇りを知っているとは、いやなかなか侮れん」天狗様は感心した風に言いました。
「日本人の誇り、汗と一緒に出る、琵琶湖から湧き出す」
「うむ、如何にもその通りである。京都が日本で最も日本らしい都であるのも、何より琵琶湖疏水の賜物なのだよ」
天狗様がニィッと笑い、私も笑い返しました。
何故か蓮子とお姉さんは呆れたような表情をしておりました。
「ちょっと、年端もいかない、それもまだ日本に来たばかりの子に変なこと教えちゃ駄目じゃない」
「いやいや、彼女は日本人よりも日本人らしいよ。将来、大物になりそうだ」
「あなたのせいで将来、阿呆神を崇め奉るような阿呆にならないかが心配なのよ」
「ふむん」天狗様はそう呟くと私を見ました。
思い切って、私は天狗様に訊ねました。
「あの、あなた、もしかしてテングサマ?」
「おや」と天狗様は大層驚いた様子でした。
「如何にも、天狗などをやっております」
ひょおー、と思わず私は変な声を出してしまいました。
それから天狗様に向けて手を合わせて「なむなむ!」と唱えました。
「面白いお嬢さんだ。どれ、これをあげよう」
天狗様は私に手を差し出すように言ってから、口からプカプカと煙の玉をいくつも吐き出しました。
それらは私の手の上でかりんとう饅頭になり、いくつもいくつも積み重なっていきました。
目の前で起きた奇跡に私は感嘆の声を上げずにはいられませんでした。
「河原町三条交差点の角の饅頭屋「ぬばたま堂」のかりんとう饅頭だ」
「あっ、それすぐに売り切れちゃう人気商品じゃない! どうやってこんなたくさん手に入れたのよ」
「五条堀川饅頭コネクションで秘密裡に入手したのである」
やがて三十個ほどかりんとう饅頭を出し終えると、天狗様は再び美味しそうに煙をプカプカとし始めました。
「テングサマ、ありがてぇありがてぇ」私は両手に山を持って深々と頭を下げました。
「この子にどんな日本語の教え方してるのよ」と女性が呆れた風に蓮子に訊ね、蓮子はあははと苦笑いをしておりました。
「はやく鞄に仕舞い給え。彼女は……」と天狗様は煙管で女性を指しました。「饅頭でも酒でもつるつると呑み込んでしまう。まるで蟒蛇だ。全自動乙女型饅頭消費機関だ。んんっ、乙女は言い過ぎか……」
「ちょっと! さっきから失礼しちゃうじゃない!」
「んっ」天狗様は呟きますと、しずしずと川の中へと足を踏み入れてゆき、水の上に胡座をかいてプカプカと浮かびました。
「そろそろ私は去るとしよう」
そのまま天狗様はすいーと川上へと向かって流されて行きました。
水の流れに逆らって流されていくなんて、やはり彼は天狗様に間違いありません。
「えっ、ちょっと樋口君!?」
「さらばだ諸君。いずれまた相見える日まで」そう言って天狗様は見えなくなって行きました。
お姉さんはしばらくその方向を呆れた風に眺めていましたが、ふと思い出したかのようにこちらに向き直ると、
「ああいう風になっちゃうから、あまり阿呆なことばかりしてちゃ駄目よ?」と私たちに言いつけ、それから天狗様を追うように川上の方へと歩いて行ってしまいました。
「レンコ! 天狗様! 本物の天狗様よ! すごいわ! 日本の妖精!」
「まあ、天狗っぽいといえば天狗っぽいと思うけれど……うーん……」
「はー、みんなに自慢できる……」
それから饅頭の山を蓮子の鞄にしまって、私たちは川端通まで戻りました。
青々とした葉が茂る並木道から土手を下って、鴨川の東岸の河原を御池通まで歩いて行きました。
全身がびしょ濡れになったおかげでそれほど暑さも感じることなく、特に蓮子はとても機嫌がよさそうでした。
時おり鞄からかりんとう饅頭を取り出しては口の中に放り込み、サクサクとした皮としっとりとしていて甘すぎないあんこに舌鼓を打ちつつ、鴨川のほとりを遡って行きました。
御池大橋を渡る頃にはびしょ濡れだった服もすっかり乾いており、再び日本人の誇りを失ってしまった蓮子の「クーラーが効いた部屋で涼みたい」といった呪詛めいた呟きを聞き流しながら市役所の前を横切りました。
やがて、天狗様が川を遡って神宮通りの大鳥居前まで流れ着いた頃、私と蓮子はマンションにたどり着いたのでした。
「ママー、ただいまー!」
リビングに飛び込むなり、蓮子はソファーに座っている蓮花さんの膝に抱きつきました。
リビングはクーラーで程よく涼しくなっており、全身をひんやりとした冷たい空気が包み込みました。
扇風機が部屋の隅で首を振っており、それに当てられて風鈴がちりんちりんと儚げな音色を響かせておりました。
「ただいま帰りました、レンゲさん」私は蓮花さんにぺこりとお辞儀をしました。
「おかえりなさい、二人とも」
「あのね、今日は祇園でパフェ食べて、それから変な人にかりんとう饅頭をもらったのよ!」そう言って蓮子が鞄いっぱいのかりんとう饅頭を見せると、蓮花さんは顔を顰めました。
「レンコ! 変な人ちがう! 天狗様、すごくすごい人!」
「天狗様?」
「うん、なんかボロボロの浴衣を着た、ナスみたいな人だった」
「それって……」と、なにやら蓮花さんは天狗様について心当たりがあるような様子でしたが、その時の私の頭にはふと納涼床のことが浮かび上がっており、蓮花さんのわずかな仕草には気がついておりませんでした。
「レンゲさん! 折り入ってお頼み申したいことが!」
「メリーちゃんは本当、変な日本語を覚えてくるわね」困ったように蓮子を見やる蓮花さんに、蓮子は「ちがう!」と否定しました。
「それで、頼みってなあに?」
可愛らしく首を傾げて見せる蓮花さんに、私は納涼床の魅力と、是非とも一度体験してみたい旨を力説しました。
最初は戸惑った様子の蓮花さんでしたが、私が「立てよ日本人! 取り戻せ日本人の誇り!」といった具合に説得し、なんとか了承を得ることに成功したのでした。
「ただ問題は、この季節はどこも人気だから、もう予約でいっぱいかもしれないわよ?」
「ダーイジョウブ、マーカセテ! 予約とってあります!」私が胸を張って言うと、蓮花さんは目を丸くしました。
慌てて蓮子が補足します。
「違う違うママ、祇園に向かう途中に納涼床の下を歩いていてね、そこでメリーが納涼床の掃除をしている店のおじさんに今日の夜に行くねって、言ってただけだから」
「あら、そういうこと。そのお店、どこだかわかる?」
「あの納涼床は先斗町の枝垂庵ね」
「ああ、あのお店。うーん、一応電話してみましょうか」
蓮花さんが固定電話で店の人と話をしている間、私は彼女の傍に立って耳をそばだてていました。
受話器からはかすかにあのおじさんの声らしきものがぼそぼそと聞こえてきます。
やがて蓮花さんは受話器からは顔を離すと、マイクを手で押さえながら私に言いました。
「メリーちゃん、やっぱり予約でいっぱいだって」
まさかあの人の良さそうなおじさんが嘘をつくはずがないと、私は蓮花さんから受話器を受け取りました。
ここで一つ補足しておきますと、当時の私はまだ日本語のにほ程度までしか知らぬ小娘で、しかもその人生の大半を病室で過ごした常識知らずも甚だしいガキンチョであったという点を、どうか考慮した上で私の行為を大目に見てもらえれば幸いであります。
「おっちゃん! おっちゃん! 私だよ!」私はしっかりと自分の声を伝えるために大声で受話器に向かって怒鳴りました。
「おおっ! あの時のお嬢ちゃんかい! なんだい、予約ってお嬢ちゃんだったのか! 最初からそう言ってくれれば……」
「今日の夜、ノーリョードコ行くって言ったよ!」私はおじさんの声を遮るようにして叫びました。
「ああ、ああ、大丈夫。お嬢ちゃんの分の席もちゃあんと用意してあるよ。お母さんに代わってくれないかい?」
私は満面の笑みを浮かべて受話器を蓮花さんに渡しました。
蓮花さんは苦笑しながら電話の向こうにぺこぺこと頭を下げておりました。
そうして、その日の夜は皆で納涼床でご飯を食べることとなったのでした。
夜になって大学病院から帰ってきた恭一さんと一緒に、私たちは先斗町まで徒歩で向かいました。
大通りに沿って行くのもつまらないと、蓮子は私たちをぐいぐい引っ張って裏通りへと入っていきます。
裏の裏のさらに裏の方は街灯も少なく、月明かりに照らされた古ぼけた家々は薄気味悪く、自分で入っていっておきながら蓮子は恐々と蓮花さんに抱きついておりました。
また、私も私で仄暗い路地裏にいくつもの結界の境目を見ており、そこから顔を覗かせる奇妙な花弁の形をした真っ赤な花を見て、恭一さんに抱きついたりしておりました。
「大丈夫。大丈夫。怖くないよ」と優しく囁きながら、恭一さんは私の頭にはぽんぽんと手を置きました。
そんな風にしているうちに河原町通を抜けて、高瀬川が流れる木屋町通にさしかかりました。
木屋町通から車も通れないほどの細道を鴨川の方へと入っていくと、まるで今が夜であることを忘れそうになる程に眩しい光が道を覆っておりました。
左右に軒を連ねる店先に吊るされた提灯が赤く光を放ち、てらてらと濡れた石畳に反射しておりました。
道をゆく人々は束の間に浮世を忘れてどこか楽しそうにふらふらと歩いております。
ここが夜の先斗町なのかと、私は感嘆しました。
先斗町の石畳を南へと向かっておりますと、「あった!」と蓮子が一軒の店を指差しました。
店先の提灯に照らされて、小さく「枝垂庵」と看板が掛かっておりました。
引き戸を開けて中に入りますと、そこにはたくさんのお客さんがおり、なかなかの賑わいを見せておりました。
そして出迎えてくれたのはあのおじさんでした。
「おっ、お嬢ちゃん!」おじさんは仰々しく驚いて見せると、いらっしゃいいらっしゃいと私を招き入れました。
蓮花さんと恭一さんがおじさんにぺこぺこと頭を下げて、それから私たちは店の一番奥へと案内されました。
簾がかかった窓の横にある扉から外に出ると、ふわりと生暖かくも優しい風が吹きました。
そこにあったのは、二十人ほどは座れるであろう夜空の下のお座敷でした。
お座敷には一面茣蓙が敷かれており、周りを欄干と灯籠で囲っておりました。
お座敷は鴨川の河原から見たようにみそそぎ川の上に建てられており、欄干から下を覗き込むと灯籠の灯りをくしゃくしゃにしながら川が流れています。
鴨川とみそそぎ川のせせらぎを耳にすると、不思議と暑さを感じませんでした。
一番奥の席へと案内され、私たちは鴨川の反対岸や四条通から漏れ出す灯りを眺めながら座布団に座りました。
渡されたメニュー表を開くと、抹茶パフェの写真が載っていましたので、私はさっそく夜の鴨川を眺めながら抹茶パフェを食べるべくそれを注文しようとしましたが、「デザートはあとで。まずはご飯からよ」と蓮子に止められてしまいました。
蓮子と一緒にメニューをぱらぱらとめくって行きましたが、どうやら懐石料理であるとか京料理であるとか、なんだかよくわからないものが羅列されていて、さっぱり理解できませんでした。
「レンコ……わたし、わかんない……」
私が蓮子に助けを求めると、蓮子はメニューに載っている写真を指差して一つ一つ説明してくれましたが、五つほど説明を終えたところで面倒臭そうに「どうせコースで頼むんだから食べればわかるわよ」と言ってメニューを放ってしまいました。
結局私は宇佐見御夫妻に全てを丸投げして欄干から夜の鴨川を眺めておりました。
すると、残りの席の客が群れを成してうごうごと納涼床へとやってきました。
どうやら団体客のようでした。
団体客の人たちはすでに他のお店で飲んでいるのか、赤ら顔のほろ酔い気味で浮世を忘れて少し興奮している様子でありました。
そんな団体客の中に私は知るべの顔を見つけました。
それはまごうことなき天狗様と、全自動乙女型饅頭消費機関と言われた女性に他なりませんでした。
「テングサマ!」私が天狗様の元へと駆け寄ると、二人はこちらを見て驚いた風に目を開きました。
「おやこれは奇遇な。まさかこんな場所で再び相見えることになろうとは」それから天狗様は私の背後に目をやりました。「ふむん、おまけに懐かしい顔も見受けられる」
「あれっ、蓮花先生に恭一先生!」と女性も驚いた様子で声をあげました。
「天狗様って、やっぱり君だったのね」と蓮花さんと恭一さんは苦笑しました。
私たちは天狗様が煙管の煙からぽんと出した、壬生絶佳の生八つ橋をはむはむしながら話しました。
女性は全自動乙女型八つ橋消費機関となり、八つ橋をつるつると呑み込んで行きました。
聞く話によると、天狗様と宇佐見御夫妻は大学生時代の知り合いで、女性とは大学病院での知り合いなのだそうです。
「私、これでも歯科衛生士だから」そう言って女性はなおもつるつると八つ橋を呑み込んでいきますが、不思議と彼女が呑み込んだ分の八つ橋は減っておりませんでした。
天狗様は「彼女はああやってなんでもつるつると呑み込んでしまうから虫歯にならないのだよ」と耳打ちしました。
天狗様と一緒に入ってきた団体客は、どうやら詭弁論部という集まりでした。
その日は現役詭弁論部と詭弁論部OBとで朝まで呑み明かそうという腹積りで、しかしお二人は詭弁論部ではないのにその飲み会にごく自然な風に混ざり込んだのだそうです。
「天狗たるものかくあらなければならぬのだよ」と天狗様は煙管の煙をすぱすぱしながら言いました。
詭弁論部の喧騒たるや納涼床全体を巻き込み、私や蓮子もそのどんちゃん騒ぎに自ら巻き込まれて行く形になったのは言うまでもありません。
両手を頭上で合わせ、腰をくねくねとして納涼床を練り歩いたりなどし、私がそこに即興で二足歩行のロボットのステップを組み込んで場はさらに盛り上がりました。
私は夢でも見ている気分でした。
つい先日まで病室に幽閉されていた私が、見も知らぬ人たちと同じ踊りを踊って笑い合うなんて、いったい誰が想像できましょう。
納涼床に一斉に料理が運ばれてくると、なんとも芳しい香りが風に吹かれて鴨川を駆け巡りました。
私たちは踊るのを一旦止めて、その食事に舌鼓を打つことに専念しました。
「焼き鳥、天ぷら、お寿司、湯葉」
「ヤキトリ、テンプラ、オスシ、ユバー……ギューニュー、温めてできたやつ?」
「違う違う。えーっと、豆腐の薄切りみたいなものよ」
それらは大変美味なものでした。
「鯛の煮付け、カサゴの唐揚げ、高菜のお浸し、玉子焼き」
それらも大変美味なものでした。
「サンショウウオの丸焼き、イナゴの佃煮、蜂の子、エスカルゴのオーブン焼き」
どれも大変美味なものでした。
そうやって色々なものをちまちまと食べておりますと、詭弁論部のほうでおぉー! と歓声が上がり、天狗様がすっくと立ち上がりました。
「どれここで一つ余興をば」
天狗様は煙を燻らせながら何もない中空に足をつきますと、まるで階段を上るかのようにもう片方の足も中空につけてするすると宙に浮かび上がりました。
それから気怠そうに宙に寝そべると、ぷかぷかと納涼床の周囲を自由自在に動き回り呵々大笑しました。
詭弁論部のみなさんと一緒に拍手喝采を送っていると、お酒をしこたま飲んだらし女性はべろんべろんになりながら詭弁論部の方々の顔をべろんべろんと舐め回しておりました。
私はそれを見て垢嘗という妖怪を思い出しました。
天狗様と親しそうですので、もしかしたら彼女も妖怪の類なのかもしれません。
鴨川の上流からロケット花火の音がかすかに響き、私と蓮子は喧騒を背に鴨川を眺めながら食後の抹茶パフェを食べました。
「思いがけず騒がしくなったわね」蓮子は空を見上げ、「十九時三十分三秒」と呟きました。
「夜、静かしなきゃ、怒られる、ねー?」
「どっこい、先斗町界隈は騒いでも怒られません。ここはね、昼間に寝て夜に起きる世界なのよ」
「チューヤギャクテン?」
「そ。だからじゃんじゃん騒いでもいいのよ」
「わかった! じゃんじゃん騒ぐ!」
私は納涼床を見渡し、ぽっかりと口を開けている結界の境目を見つけると、それの前で目を瞑りました。
真っ暗闇の世界に、目の前の結界を思い浮かべ、そして頭の中のそれを頭の中の手でゆっくりと押し広げました。
原理こそわかりませんが、私は長い病室生活の中で自然とこういった能力を身につけておりました。
「ふむん」と天狗様が感心した風に呟きます。
私は押し広げた結界の淵にそっと足を乗せると、そのまま両足を乗せてバランスをとりました。
「はいっ!」私が両手を広げて見せると、周囲で拍手喝采がわきおこりました。
「お嬢ちゃんも浮いてるぞ!」「あの子も天狗なのか!」「樋口よりずっと可愛くていいや!」詭弁論部の方々が口々に言い、天狗様は少ししょげた風に納涼床へと戻ってまいりました。
「やるねぇお嬢ちゃん。しかたがない。私のとっておきをご覧に入れて見せませう。ゆめゆめ見逃すことなかれ」そう言って天狗様は口からふわりと煙を吐き出しました。
ぐんと先ほどまで私が乗っていた結界の境目が大きく広がりました。
天狗様がさらに煙を吐き出すと、結界の境目はぐんぐんと大きくなっていき、やがてそれは納涼床に覆いかぶさりました。
周囲の景色がぐるりと反転し、目まぐるしく移り変わってゆきます。
それはすべての結界の内側でありました。
朝日に照らされた山々が海の上に浮かぶ白い雲となり、幾度となく押し寄せる白い波がビル群の隙間をうごうごと埋め尽くす人混みとなり、そびえる高層ビルの隙間から見上げる切り取られた夜空は周囲を包む闇となりました。
何せ結界の境目や、その向こう側から覗く何かを見ることはあれど、境目の向こう側なんてものは初めて見たものでしたから、それはもう仰天してしまいました。
蓮子や宇佐見御夫妻、詭弁論部のみなさんも、何が起きたか理解できず仰天といったご様子で目を見開いておりました。
きっと私もこのような表情をしていたことでしょう。
「十五時二十九分七秒、長野県白馬村、六時十一分五十六秒、秋田県大館市、二十三時四十九分一秒、神奈川県大和市」蓮子がぐるぐると回る空を見上げながら呟きました。
ふと、周囲を何かが飛び交っているのが見えました。
それらは光弾やら何やらを放射状に撒き散らし、様々な模様を描きながらまるで踊るように空で戦っておりました。
それは花火もかくやという美しさでした。
そのあまりに美しい光景に、私はすっかりと魅了されてしまいました。
聡明な読者諸君にはお分かりかと思われますが、やがて私と蓮子が秘封倶楽部なる不良オカルトサークルを結成し、降霊術もせずにあっちへこっちへ禁じられた結界暴きに奔走することになるのも、この出来事が発端と言っても過言ではありませんでした。
やがてその弾幕はぐんぐんとこちらへと近付いてきて、納涼床を取り囲みました。
頭上を行き来する様々な弾幕をぼうっと見上げていると、戦っている二人の姿が鮮明に見えました。
片方は真っ赤な可愛らしい巫女さん、そしてもう片方は……。
パチン、と天狗様が指を鳴らすのと同時に、ふっと世界は消え去りました。
今、目の前に広がっているのはなんの変哲もない納涼床から眺める、なんの変哲もない夜の鴨川でした。
そして皆が唖然としている中で、天狗様は一人黙々と八つ橋を口に放り込んでいるのでした。
天狗様や詭弁論部のみなさんとお別れをした私たちは、お店を出てなお賑やかな石畳の先斗町に出ました。
石畳の通りは相変わらず華やいでおり、来た時よりも一層賑やかになっておりました。
蓮子が教えてくれた通り、この町は夜になってから活気付き始めるのでした。
「伊佐美さぁーん、私たちもう飲めませんってばぁー」
「なに言ってるのよ! 辰巳ちゃんの店なんてまだまだ序の口じゃない! よぉーし! 次はルミちゃんのC2H5OHに行きますかー!」
「そんなぁー」
道中、頭に赤いネクタイを巻いた女性と、彼女に引きずられて涙を流す二人組とすれ違いました。
大人はああやって無理やりにでも飲み会をしなければならないから大変だなあと、私は小学生ながら感慨深く思いました。
やっぱり、学生は学生のうちに阿呆なことをしておくべきなのでしょう。
それこそ、天狗様のように自由気ままに空を飛んだり、川を流されていったり、そして結界の向こう側に入ってみたり。
私は大学生になって、蓮子と二人で空を飛んだり、川を流されたり、結界の向こう側に入ったりするのを想像して、楽しい気分になりました。
くふふと小さく笑っていると、蓮子が「ちょっとメリー、なに笑ってるのさ」と怪訝そうに訊ねたので、私は彼女にそっと耳打ちしました。
「レンコ、私たち、大学生になったら結界入ったり、空飛んだり、しよ?」
「しよって、そうそうできるもんでもないでしょうに」
「テングサマみたい、阿呆なろう?」
「えっ、それは嫌だなぁ」と蓮子は嬉しそうに顔をしかめました。
「メリーちゃんがあいつみたいに成り果てるのは許せないなあ」と宇佐見御夫妻も嫌そうに笑うのでした。
途中で西へと細い路地に入る際、先斗町の南から何かギラギラと光を放つ背の高い電車のようなものが入ってくるのが見えました。
それも少し気になりましたが、私はそのまま木屋町通へと向かいました。
夏休みはまだまだ長いのです。
蓮メリ好き!これだからやめらんねぇ!
よいお話でした~
良い雰囲気の京都でした。
良いお話でした。
あと、多分「命短し歩けよ乙女」が元ネタかな?