出来るだけ隅に座ろうと思ったけれど、生憎壁際の席はすっかり埋まっていた。構内で夏祭りのようなものが開かれるらしく、夏休みに入った今も学生たちが食堂に集っているのだ。私は部室の整理に来ただけなので、彼らの高揚感の中ではどうも肩身が狭かった。心なしか、普段よりも大きい声で会話が交わされている気がした。中途半端に二つ三つ空いた席にも座りづらく、うろうろしていると、少し離れた席から声をかけられた。
「メリーさーん」
見ると、三人組の女の子の内、一人が私に手を振っていた。見覚えがあるけど、はっきりとは覚えていない。確か、蓮子と同じ高校だったか何かの人達だと思う。私も手を振り返した。
「座らない?女の子一人足りないの」
「おい一人だけ女子ぶんな」
「あははは」
この人達も夏祭りの準備に来たのだろうか。愛想笑いは苦手だけれど、私も努めて笑顔を作る。馴染めるかどうかは不安だったが、他に座る場所もなさそうだったので、有り難く同席させてもらうことにした。
「あの、蓮子は居ないんですけど」
「知ってるよ、8月入るまでに課題済ませるんでしょ」
「は、はい」
蓮子は目下全力で課題をこなしていた。夏本番の活動に向けて、一切の憂いをなくしておこうということだ。……この人達は、そのことを知ってるんだ。ちょっぴり胸がざわついた。
「夏祭りの司会っていうか、ちょっとした進行役を任せたかったんだけどね。その理由で断られちゃった。その代わり、夏が終わったら何か一つはちゃんと付き合うって」
「そうだったんですか」
「そゆとこ宇佐見は信用できるからね」
スケジュール管理、ちゃんとしてたのか。蓮子は大体遅刻するし、全部思いつきで動いてるものだと思っていたから、こんな風に人との約束をきちんと管理してるとは思わなかった。
「あ、でも安心してね。メリーさんとの約束があるときは、あたしらも無理に誘ったりしないから」
「えっと」
「友人だもん。あの子の一番大事なものは、解ってるつもり」
一番大事なもの、とは。……サークル活動、ということだろうか。それとも。……できるだけ、詳しいことは知りません、という顔をして話を聞いているつもりだったけれど、どうだろう。動揺してしまっているかもしれない。
「宇佐見って、怒るとちょっと怖いんだよね。遊びに誘って、断られてさ。『またメリーさん?』とか軽口叩いたりすると、じっと私のこと見て、真顔で言うんだ」
ひょっとして。
「『メリーの所為じゃないよ。私の決めたことだから』ってさ」
ひょっとして、私は蓮子の知らないところで、随分と守られてきたのではないかしら。
私と違って、蓮子は社交的だ。友達も多い。いつもいつも特定の相手と約束を理由に断っていれば、その相手に良くない感情を抱かれることもあるだろう。それを蓮子が、いつも防いでくれていたのだとしたら。
「そう……なんですか」
最も逸脱が許される場所はどこだか解る?と彼女は言った。廃ビルの地下?社会の隅っこ?世界の端っこ?違うわ――答えは「世界の中心」よ。宇宙の真理を語ろうが、量子の世界で遊ぼうが、幻想を現実と言い張ろうが――優秀であれば、許される。だから私は勝ち取りたい。誰よりも優秀になりたい。――そう、彼女は言った。純粋な思想も、繊細な感性も、優秀さという防壁の中でなら、汚されることなく自由に生きることができる。そうやって彼女が構築してきた、強固な結界の内側で、弱く傷つきやすいマエリベリー・ハーンという存在は、どれほど守られてきたのだろう。私は愕然とした。だって私は、誰かと共に居るときに、何度無責任に中座したことか――「ごめん、蓮子が呼んでるから」と言い訳して!
思い至ってしまえば、気が気ではなかった。過去の自分を叱りとばして、今すぐ蓮子に謝りたかった。けれど、蓮子の友人に悪い印象を与えるのだけは駄目だと思った。蓮子が一生懸命守る相手が、お喋りもまともに出来ないつまらない子だと思われたら、蓮子の顔にも泥を塗る。私は出来る限り明るく振る舞って、小一時間の会食をクリアした。一人で食べるのも疲れるけど、今日はその三倍くらい疲れた。少なくとも、蓮子の友人として、「可」を取れる程度には頑張れたかしら、と思う。
『もしもし。メリー?』
「蓮子」
『進捗確認かな、ありがとー。良い感じだよ、も少し文字数水増しして、文体整えたら完成』
あまりにもいつも通りな蓮子の声を聞いて、決意は簡単に揺らぐ。でも、それでは駄目だ。心の中で、自分に喝を入れる。自分から動くということに、こんなにもエネルギーが要るなんて知らなかった。皮切りの一言は――
「会いたいのだけれど」
ぎりぎり、裏返らなかった。
『あ、いけるいける。今夜にでも』
「……今、会いたいのだけれど」
思えば、私の方から蓮子を誘った回数は、片手で数えきれる程度。何かしら思いついたことを提案しはしても、最終決定の責任は、いつも蓮子に背負わせていたように思う。今日会いたいのは、私の我侭だ。私だけの責任なんだ。返事を待つ手が震える。自分の呼吸がうるさいくらいに、蓮子の声が待ち遠しい。
『……解った。その代わり奢りだぞぉ』
「パフェの特盛りまでなら奢るわ」
『豪気じゃん。遠慮しないからね。その代わり』
「急いで、来て」
『最速で行く』
切れた電話を、暫くの間耳に当てていた。ツー、ツーという無機質な音が、蝉の鳴き声と奇妙に融合し、ノスタルジックなハーモニーを奏でていた。いつの間にか首筋に伝っていた汗を拭って、いつの間にか止めていた呼吸を再開させる。会いたい。今まで口にしたことのなかった言葉が、感情が、一度口にした途端、止めどなく溢れだして、心臓の鼓動を早めていた。終わる前の課題をほっぽり出して、「始めてはいけない場所」から、強引に物語を始めてしまうことの、強い罪悪感と、言い知れない充実感に、酔ってしまいそうだった。それは境界をこえる瞬間によく似て、鮮やかで幻惑的な目眩だった。
「メリーさーん」
見ると、三人組の女の子の内、一人が私に手を振っていた。見覚えがあるけど、はっきりとは覚えていない。確か、蓮子と同じ高校だったか何かの人達だと思う。私も手を振り返した。
「座らない?女の子一人足りないの」
「おい一人だけ女子ぶんな」
「あははは」
この人達も夏祭りの準備に来たのだろうか。愛想笑いは苦手だけれど、私も努めて笑顔を作る。馴染めるかどうかは不安だったが、他に座る場所もなさそうだったので、有り難く同席させてもらうことにした。
「あの、蓮子は居ないんですけど」
「知ってるよ、8月入るまでに課題済ませるんでしょ」
「は、はい」
蓮子は目下全力で課題をこなしていた。夏本番の活動に向けて、一切の憂いをなくしておこうということだ。……この人達は、そのことを知ってるんだ。ちょっぴり胸がざわついた。
「夏祭りの司会っていうか、ちょっとした進行役を任せたかったんだけどね。その理由で断られちゃった。その代わり、夏が終わったら何か一つはちゃんと付き合うって」
「そうだったんですか」
「そゆとこ宇佐見は信用できるからね」
スケジュール管理、ちゃんとしてたのか。蓮子は大体遅刻するし、全部思いつきで動いてるものだと思っていたから、こんな風に人との約束をきちんと管理してるとは思わなかった。
「あ、でも安心してね。メリーさんとの約束があるときは、あたしらも無理に誘ったりしないから」
「えっと」
「友人だもん。あの子の一番大事なものは、解ってるつもり」
一番大事なもの、とは。……サークル活動、ということだろうか。それとも。……できるだけ、詳しいことは知りません、という顔をして話を聞いているつもりだったけれど、どうだろう。動揺してしまっているかもしれない。
「宇佐見って、怒るとちょっと怖いんだよね。遊びに誘って、断られてさ。『またメリーさん?』とか軽口叩いたりすると、じっと私のこと見て、真顔で言うんだ」
ひょっとして。
「『メリーの所為じゃないよ。私の決めたことだから』ってさ」
ひょっとして、私は蓮子の知らないところで、随分と守られてきたのではないかしら。
私と違って、蓮子は社交的だ。友達も多い。いつもいつも特定の相手と約束を理由に断っていれば、その相手に良くない感情を抱かれることもあるだろう。それを蓮子が、いつも防いでくれていたのだとしたら。
「そう……なんですか」
最も逸脱が許される場所はどこだか解る?と彼女は言った。廃ビルの地下?社会の隅っこ?世界の端っこ?違うわ――答えは「世界の中心」よ。宇宙の真理を語ろうが、量子の世界で遊ぼうが、幻想を現実と言い張ろうが――優秀であれば、許される。だから私は勝ち取りたい。誰よりも優秀になりたい。――そう、彼女は言った。純粋な思想も、繊細な感性も、優秀さという防壁の中でなら、汚されることなく自由に生きることができる。そうやって彼女が構築してきた、強固な結界の内側で、弱く傷つきやすいマエリベリー・ハーンという存在は、どれほど守られてきたのだろう。私は愕然とした。だって私は、誰かと共に居るときに、何度無責任に中座したことか――「ごめん、蓮子が呼んでるから」と言い訳して!
思い至ってしまえば、気が気ではなかった。過去の自分を叱りとばして、今すぐ蓮子に謝りたかった。けれど、蓮子の友人に悪い印象を与えるのだけは駄目だと思った。蓮子が一生懸命守る相手が、お喋りもまともに出来ないつまらない子だと思われたら、蓮子の顔にも泥を塗る。私は出来る限り明るく振る舞って、小一時間の会食をクリアした。一人で食べるのも疲れるけど、今日はその三倍くらい疲れた。少なくとも、蓮子の友人として、「可」を取れる程度には頑張れたかしら、と思う。
『もしもし。メリー?』
「蓮子」
『進捗確認かな、ありがとー。良い感じだよ、も少し文字数水増しして、文体整えたら完成』
あまりにもいつも通りな蓮子の声を聞いて、決意は簡単に揺らぐ。でも、それでは駄目だ。心の中で、自分に喝を入れる。自分から動くということに、こんなにもエネルギーが要るなんて知らなかった。皮切りの一言は――
「会いたいのだけれど」
ぎりぎり、裏返らなかった。
『あ、いけるいける。今夜にでも』
「……今、会いたいのだけれど」
思えば、私の方から蓮子を誘った回数は、片手で数えきれる程度。何かしら思いついたことを提案しはしても、最終決定の責任は、いつも蓮子に背負わせていたように思う。今日会いたいのは、私の我侭だ。私だけの責任なんだ。返事を待つ手が震える。自分の呼吸がうるさいくらいに、蓮子の声が待ち遠しい。
『……解った。その代わり奢りだぞぉ』
「パフェの特盛りまでなら奢るわ」
『豪気じゃん。遠慮しないからね。その代わり』
「急いで、来て」
『最速で行く』
切れた電話を、暫くの間耳に当てていた。ツー、ツーという無機質な音が、蝉の鳴き声と奇妙に融合し、ノスタルジックなハーモニーを奏でていた。いつの間にか首筋に伝っていた汗を拭って、いつの間にか止めていた呼吸を再開させる。会いたい。今まで口にしたことのなかった言葉が、感情が、一度口にした途端、止めどなく溢れだして、心臓の鼓動を早めていた。終わる前の課題をほっぽり出して、「始めてはいけない場所」から、強引に物語を始めてしまうことの、強い罪悪感と、言い知れない充実感に、酔ってしまいそうだった。それは境界をこえる瞬間によく似て、鮮やかで幻惑的な目眩だった。
信頼関係の最たるものじゃないですか、それって
良かったです
それだけにここで終わってしまったのは実に惜しい。もっとこの二人の物語を読みたいです。