転校生が来たらしい。
私がそのことに気付いたのは、その日の放課後のことだった。眠りから覚めた私は、教室の中に奇怪な人だかりを発見したのである。最初はまた男子生徒が馬鹿な見世物をしているのかと考えたが、それにしては女子生徒の比率が高い。かといって誰かの誕生日といったような浮ついた雰囲気でもない。どこか奇異なものを見るような――かつて私が厭と言うほど味わった好奇の視線、そうしたイメージが直感された。耳を澄ましてみればなるほど渦中の人物は質問責めに遭っているらしい。そういうわけで、私はそれが転校生だと結論付けたのであった。
私が意識を向けたのはそれきり。元々他人に執着する性格をしてはいないし、転校生といえども所詮は人間で、つまるところ、普通だ。
だから夢の世界に比べると、それはどうしても刺激を欠いている。眠気を醒ますには生温い。
ゆらゆらと定まらない思考のまま、殆ど空っぽの鞄を掴んで教室を抜け出す。西日が背中を焼いていて、夏が来たのだと思った。
――東京の夏は暑い。
飽和した人間と自動車の輻輳。林立するビル群に囲まれたアスファルトは宛ら地獄の釜の底。人々は熱に浮かされていて、止め処無い欲望がこの都市を築き上げていた。
なんというマテリアル・ワールドだろう。文明の光に満ちた世界には最早一片の影も無い。誰もそれを知らないのだ。
そう、私だけが知っている。きっとこの世で最も怪異に近いのは私に違いない。
ふと、ビル街から外れた通りを行こうと思った。どちらにせよ人の多いことに変わりは無いが、どちらがマシかという話である。帰りを待つ人などいないのだから、帰宅時間が多少前後したところで差異は無いだろう。
手元の端末を弄りながら歩いてゆく。能力で周囲に障害物があれば感知できるようにしてあるので問題は無い。何か面白そうなニュースは無いものか、とネットの海を撫でる。しかし流れて行くのはいつも通りの噂、扇動、嘘八百にデマゴギー。全く暇人の多いものだと嘆息するが、これでは暇を潰すことさえ難しい。
さて、これではどうしたものかと考えていると――
卒然、甲高い音が思考を断ち切った。
次いで遮断機が降りてくる。こんな所に踏切があったとは。少しだけ新鮮な気分になる。どうやら世界に知らないことはまだ多いらしい。
暫く茫然とそれを眺めていた。ゆえに、
「貴方、宇佐見菫子さん……よね?」
突然の呼び声に飛び上がりそうになる。振り向いてみれば見知らぬ顔があった。だが、その少女の服には見覚えがある。東深見高校の制服だった。
「あぁ――良かった。私は貴方と友達になりに来たの」
頷くだけで答えを返すと、彼女は安堵した表情を浮かべてそんなことを言ってきた。全く意図が掴めない。
「貴方、誰?」
問う。恐らく、あの転校生なのだろうが。声は絞り出したようにかすれていて、自分のものとは思えなかった。
「ねぇ、宇佐見さん。私は貴方に興味があるの。聞いたわよ、学校の七不思議」
しかし彼女はこちらの問いなどお構いなしだ。それとも、こちらの声が届いていなかったのだろうか。
「悪いけど、名前も分からない人と友達にはなれないわー」
「私なら貴方を救うことができる。だから友達になりましょう?」
再度投げた言葉も意味をなさない。返ってくるのは見当外れの言葉ばかり。下手な宗教勧誘でもこうは行かないことだろう。
「宇佐見さん、良いでしょう?」
「貴方を救えるのは私だけなの」
「友達になりましょうよ」
ね、ぇ――――
歪な声が語り掛ける。どこか金属音にも似たそれは、とても人間の声とは思えない。最早これは幻聴だ。ディスコミュニケーションなどではないと確信する。
警報機が鳴り響く。偏頭痛が煩くて堪らない。電車は、いつまで経っても訪れなかった。気付けば周囲の人間はみな消えていた。私たち二人だけが、遮断機の前に立ち尽くしている。
「宇佐見さん、顔色が悪いわね」
「宇佐見さん、苦しそうね」
「宇佐見さん、辛そうね」
「宇佐見さん、可哀そうね」
「宇佐見さん、助けてあげましょうか」
宇佐見さん宇佐見さん宇佐見さん宇佐見さん――何度も繰り返される不協和音が脳髄を揺らす。
「私が友達になってあげるから――」
人間離れした力で肩を掴みながら、彼女は愛おしげに言葉を吐き出す。彼女の
これは性質の悪い白昼夢だ。或いは、幻覚か。いずれにせよ現実ではない。現実であっていいはずがない。
そう考える間にも、眼前の恐怖は止まらない。
爛れ落ちた肉が蚯蚓の如くに絡み付く。
腐臭を放つ血液が意思を持って浸食する。
その白い腕は蛆の塊だ。冒涜的な咀嚼音を掻き鳴らしながら私の肩を喰らってゆく。
羽搏く蛾の鱗粉は毒々しく、あらゆる感覚を狂わせる。
蠕虫が自分の血管を這っている気がした。
羽虫が自分の口蓋を犯している気がした。
摩訶不思議な幼虫達が降り注いでは擂り潰され、自分の全身に死液を滴らせている。
魑魅魍魎の百鬼夜行を私は直感した。完全なる異常事態。ゆえに、導かれた結論は一つ。
異常は
勝敗は一瞬にして決した。元よりサイコキネシスアプリを使う余裕など無く、微調整抜きで力を揮ったのだから当然だろう。
霊威に圧されて蟲の外套は四散した。中身の少女が投げ出され、遮断機の向こう側へと飛んで行った。そして、轟音と共に忽然と現れた電車が、彼女を粉々に轢殺した。
私は何故か、その光景を何も出来ずに眺めていたのだ。
私はどれほど愚かだったことだろう。事ここに至って理解する。
アレはただの
ゆえに最早私は人間ではないのだと自覚する。
人間を殺す異能など、妖怪以外にありはしないだろう。
天上の声が、私の思考を眩く射る。
『全ては貴方が盲
異なる位相に坐す
後のことは、何も知らない。
* * * * *
「ねぇ、メリー。こんな
――信州のサナトリウムは、一人の超能力者のために造られた。
「それはまた、随分と気が滅入るお話ですこと」
物憂げに答える少女はいったい何を考えていたのか。
地獄の破片。
神代の残骸。
日本の深淵には何が在るのか。
そして、何故自分がそこに居たのか。
きっと偶然では済まされない意味があるのだと思わずにはいられなかった。