ふと、立ち止まり今まで私が通ってきた道を振り返る。林道が幾度も折り返し山裾へと伸びていた。さっき降りたバス停が見えている。
長い間歩いていたような気がしたけれど、時計が表示している時刻は歩き始めて十分も経っていなかった。
右手には一枚の紙。
目的地までの道のりを示す唯一のもの。握りしめていたせいか、汗で柔らかくなっていた。強い日差しに加えて山道の傾斜が、日頃運動をしない私の身体に負担をかけてくる。
「……よし」
今日は一人だ。誰に咎められるわけでもないし、急かされるわけでもない。それなのに、急いでいかなければならないと思っている。
足を踏み出すのと同時に、頬を何かが撫でる。冷たい。反射的に指で頬を拭う。指に水分が付着する。山の天気と女性の心は変わりやすい。なんて下らない話をいつかしたことを思い出しながら空を見上げても、その彼方には雲一つなかった。遮る物など何もない綺麗で澄んだ空色をしていた。
ふいに、立ち止まって空を見ている私を、私が見ているような奇妙な感覚に襲われる。
こうやって上を見上げていると、まるで自分の中にもう一人がいるような気分になる。不思議だと、そう思う。そして私はまた歩を進めるだろう。いくら不思議でも、これ以上のことを体験してきた。
早く進まなきゃ。どうして。
◆
ねぇ。どうしてそんなにも心を奪われるの?いや、考えてたって、意味なんかないんだ。無意味なのに。それでも待ってる。
誰かが問いかけるのを。
『…………を見に行かない?』
そうして、私たちが存在する日常のすぐ隣にある、不思議な世界を覗くのを。
目には映っているのに、そんな場所があるなんて思いもしなかった境界を越えさせてくれるのを。
だけど知っている。
今となってはもう無意味なんだと。
さぁ、先へと進もう。ここでいくら待っていても、その人は境界の向こう側へと消えて行ってしまったのだから。
◆
大学四回生の冬だった。
私の友人がいなくなってから、私の中で整理をすることができるようになってきたころ。
私は、友人のことを知るある人から、一枚の地図を手渡された。市販されてるものじゃなかった。
「一度……行ってみるといい」
ほかに客のいない骨董品屋は、自分が知らない過去の香りがして居心地が悪い。
「これって何?」
大きな矢印で目印をつけられた地図に目を落としながら訊いた私に、彼は眼鏡をかけなおす仕草をしながら言う。
「墓だよ」
彼岸はとっくに過ぎてしまっているけどね。彼はそういって読みかけの本へと目線を落とした。
誰のとは訊かなかった。誰のかは分かっていた。
私の友人の母に当たる人だ。
私は、友人や、他の人から彼女にまつわる様々な話を聞いていた。そのせいか、古くからの知り合いのような親近感を抱いていたが、考えてみれば、私は彼女の写真すら見たことがない。すべて人から聞いた話で、私の中にいる彼女は不安定な存在だった。
だからこそ、お墓があるなんて思っていなかった。友人みたいに、非現実的などこかへを身を投じているのだと思っていた。
「……行ってきますね」
そういって、頭を下げ、その場を後にした。
◆
右手に握りしめた地図を広げ、位置を確認する。目的の場所はまだ少しだけ山の上のほうのようだ。もう雨粒一つ落ちてきそうにない空の下を、歩き始めた。
山頂の方向へと登り続けると、やがて舗装された道はなくなり、砂利道へと変わっていった。それでも先へ、先へと進んでいく。砂利道から人が一人通れるかどうかというくらいの獣道へと変わっていた。
黙々と、ただただ歩を進める。
途中、向かいの山の中腹に広がる段々畑が目に入る。紅葉が少し残っていて、もう少しすれば木々が雪化粧で覆われるんだろう。
汗を額に浮かべながら歩き続けていると、別れ道へと辿り着いた。
地図によればこの別れ道を右手に進む。右の道に入る前に見えた看板には何か文字が書かれていたが擦れてよく読めなかった。
遠くで鳥の鳴き声がする。
持ってきていた飲料水で水分補給をしながら登り続けて、ようやくその場所へと辿り着くことができた。
山の斜面を登り切ったとこにある、小さなスペース。そこに鎮座する墓石。見晴らしがいい場所だった。
墓石の前へと立つ。眼下には山と山を割るように流れる川が姿を現していた。目線を少し上流のほうへ移すとそこには大きな滝。滝壺に水が吸い込まれていた。
「はじめまして」
私はそう言った。返事をするかのように風が吹き抜ける。
「いいところですね、ここは」
小さなスペースに佇む苔の生えた石。
その両脇には花を添える筒があり、左右には枯れた菫が添えられていた。黒ずんだ供え物の跡をみて、彼女もここへ来ることがあったのだろうか、と思う。
持ってきた鞄の中から線香を取り出す。ライターで火をつけて、手を振って消す。
そして、線香を立てたときに、私は、止まった。
頭が混乱している。眼前には予想だにしないものが広がっていた。意味が理解出来るまで、じっと見つめる。
心臓の鼓動が早くなる。
どうして? なんで?
私の中の記憶が呼び覚まされる。断片的でしかなかった記憶のピースが一つ一つ繋がり、形を成してゆく。混乱する頭の中を整理しようとするけれど、出来ない。
どれほどの時間がたっただろうか。
何も知らなかった。
滝の落ちる音だけが耳の中に響いてくる。
頬を伝う水滴が一粒、空へ吸い込まれていく。
「ばか」
私はすべてを理解していた。
長い間歩いていたような気がしたけれど、時計が表示している時刻は歩き始めて十分も経っていなかった。
右手には一枚の紙。
目的地までの道のりを示す唯一のもの。握りしめていたせいか、汗で柔らかくなっていた。強い日差しに加えて山道の傾斜が、日頃運動をしない私の身体に負担をかけてくる。
「……よし」
今日は一人だ。誰に咎められるわけでもないし、急かされるわけでもない。それなのに、急いでいかなければならないと思っている。
足を踏み出すのと同時に、頬を何かが撫でる。冷たい。反射的に指で頬を拭う。指に水分が付着する。山の天気と女性の心は変わりやすい。なんて下らない話をいつかしたことを思い出しながら空を見上げても、その彼方には雲一つなかった。遮る物など何もない綺麗で澄んだ空色をしていた。
ふいに、立ち止まって空を見ている私を、私が見ているような奇妙な感覚に襲われる。
こうやって上を見上げていると、まるで自分の中にもう一人がいるような気分になる。不思議だと、そう思う。そして私はまた歩を進めるだろう。いくら不思議でも、これ以上のことを体験してきた。
早く進まなきゃ。どうして。
◆
ねぇ。どうしてそんなにも心を奪われるの?いや、考えてたって、意味なんかないんだ。無意味なのに。それでも待ってる。
誰かが問いかけるのを。
『…………を見に行かない?』
そうして、私たちが存在する日常のすぐ隣にある、不思議な世界を覗くのを。
目には映っているのに、そんな場所があるなんて思いもしなかった境界を越えさせてくれるのを。
だけど知っている。
今となってはもう無意味なんだと。
さぁ、先へと進もう。ここでいくら待っていても、その人は境界の向こう側へと消えて行ってしまったのだから。
◆
大学四回生の冬だった。
私の友人がいなくなってから、私の中で整理をすることができるようになってきたころ。
私は、友人のことを知るある人から、一枚の地図を手渡された。市販されてるものじゃなかった。
「一度……行ってみるといい」
ほかに客のいない骨董品屋は、自分が知らない過去の香りがして居心地が悪い。
「これって何?」
大きな矢印で目印をつけられた地図に目を落としながら訊いた私に、彼は眼鏡をかけなおす仕草をしながら言う。
「墓だよ」
彼岸はとっくに過ぎてしまっているけどね。彼はそういって読みかけの本へと目線を落とした。
誰のとは訊かなかった。誰のかは分かっていた。
私の友人の母に当たる人だ。
私は、友人や、他の人から彼女にまつわる様々な話を聞いていた。そのせいか、古くからの知り合いのような親近感を抱いていたが、考えてみれば、私は彼女の写真すら見たことがない。すべて人から聞いた話で、私の中にいる彼女は不安定な存在だった。
だからこそ、お墓があるなんて思っていなかった。友人みたいに、非現実的などこかへを身を投じているのだと思っていた。
「……行ってきますね」
そういって、頭を下げ、その場を後にした。
◆
右手に握りしめた地図を広げ、位置を確認する。目的の場所はまだ少しだけ山の上のほうのようだ。もう雨粒一つ落ちてきそうにない空の下を、歩き始めた。
山頂の方向へと登り続けると、やがて舗装された道はなくなり、砂利道へと変わっていった。それでも先へ、先へと進んでいく。砂利道から人が一人通れるかどうかというくらいの獣道へと変わっていた。
黙々と、ただただ歩を進める。
途中、向かいの山の中腹に広がる段々畑が目に入る。紅葉が少し残っていて、もう少しすれば木々が雪化粧で覆われるんだろう。
汗を額に浮かべながら歩き続けていると、別れ道へと辿り着いた。
地図によればこの別れ道を右手に進む。右の道に入る前に見えた看板には何か文字が書かれていたが擦れてよく読めなかった。
遠くで鳥の鳴き声がする。
持ってきていた飲料水で水分補給をしながら登り続けて、ようやくその場所へと辿り着くことができた。
山の斜面を登り切ったとこにある、小さなスペース。そこに鎮座する墓石。見晴らしがいい場所だった。
墓石の前へと立つ。眼下には山と山を割るように流れる川が姿を現していた。目線を少し上流のほうへ移すとそこには大きな滝。滝壺に水が吸い込まれていた。
「はじめまして」
私はそう言った。返事をするかのように風が吹き抜ける。
「いいところですね、ここは」
小さなスペースに佇む苔の生えた石。
その両脇には花を添える筒があり、左右には枯れた菫が添えられていた。黒ずんだ供え物の跡をみて、彼女もここへ来ることがあったのだろうか、と思う。
持ってきた鞄の中から線香を取り出す。ライターで火をつけて、手を振って消す。
そして、線香を立てたときに、私は、止まった。
頭が混乱している。眼前には予想だにしないものが広がっていた。意味が理解出来るまで、じっと見つめる。
心臓の鼓動が早くなる。
どうして? なんで?
私の中の記憶が呼び覚まされる。断片的でしかなかった記憶のピースが一つ一つ繋がり、形を成してゆく。混乱する頭の中を整理しようとするけれど、出来ない。
どれほどの時間がたっただろうか。
何も知らなかった。
滝の落ちる音だけが耳の中に響いてくる。
頬を伝う水滴が一粒、空へ吸い込まれていく。
「ばか」
私はすべてを理解していた。