夜の闇夜の中、月明かりだけを頼りに華扇はゆるい歩調で獣道を歩く。
「今日が満月で助かったわ」
明かり要らずである。人工の灯りは野生動物にとって非常に不快なものだ。使わないでいいのならそれに越したことはない。夜空を仰ぐ。上空では華扇の部下である大鷲の竿打が周囲の索敵のため満月に沿う様に円形に旋回している。
「竿打、こっちはいいから反対側の麓を見てきてちょうだい」
指示を飛ばすと大鷲は了承したことを示すために一度逆回りに旋回して滑空していった。
「さて。彭祖、もうにおいはしないの?」
華扇と並んで歩く部下の虎に訊く。こうして華扇が夜の妖怪の山を散策しているのは彼からのとある報告が理由だった。華扇の匂いを山中で感じた、という話だ。
華扇は部下の動物達全員に自分の匂いを覚えさせている。失ってしまった自身の腕を捜すために部下になった動物へ最初に教えることである。彼女にとって自身の腕の捜索は最優先事項である。眠気をおして山へ繰り出すくらいに。
彭祖は華扇の質問に自信なさげに首を傾げる。
「ちょっと。私を叩き起こしておいてそれはないでしょ」
文句を言うと彭祖は申し訳なさそうに低く唸る。彼の言い分は、匂いがしたから元を追ったはいいものの途中で気配が断ち切れて追えなくなってしまったという話だった。あまりにも不可思議な現象だったので自分だけでは対処できないと判断し、華扇に事の次第を報告したという運びだった。
「うーん。私の私物が小妖怪にでも盗まれたてそれが匂いの元だったってのが一番ありえそうね。気配が消えた理由はわからないけれど。まあ、いいわ。腕の所在を追うことは最優先だって貴方に教育したのは私だし。睡眠を邪魔したことは不問にするわ。とりあえず、二手に別れて探しましょう。私は東側から山を周るから、貴方は西側ね。反対の麓にいる竿打と合流したら捜索を打ち切っていいわ」
虎は華扇の指示に首肯し、獣道を逸れて行った。
華扇は部下が山中へ消えたことを確認し、大きく欠伸をした。本当のところ、早く自宅へ戻って睡眠の続きを取りたかったのだが部下が働いている手前、自身が怠けるわけにもいかない。かといって真面目に腕探しを取り組む気にもならない。自身の寝床の目と鼻の先にずっと探していた腕が現れるなんて都合のいいことがあるわけがないのだから。
しょうがないので華扇は散策を夜の散歩と割り切ることにした。幸い、雲一つない月見日和である。夜風も涼しく心地よい。
遠吠えが聞こえた。白狼天狗の声だ。この声音は、哨戒任務に当たる彼女達が侵入者を見つけたときの声音だと華扇は察した。こんな真夜中に侵入者とは珍しい。もしかしたら自分の匂いの気配が山中からしたことと関係があるのか。しかし、彭祖の報告から若干時間が経っている。
ここまでタイムラグが発生してるのは不信だ。白狼天狗の千里眼をすり抜けるようなものがいるとも考えづらいし。
そんな風に黙々と思考しながら歩いているときのことだった。耳元に突然「わっ」と脅かすような大声を浴びせられた。不意を突かれて華扇は「きゃあ!」と情けない悲鳴とともに声の方向を振り向きざまに左腕で薙いだ。咄嗟のことだったので手加減なしの威力である。
華扇の腕は声の主の鼻先で空振りした。余波で周囲の木々の枝葉がざわざわと揺らめき木の葉を散らす。
「こんばんは。そんなに吃驚するなんて。茨木様ともあろう者でも、夜分は抜けていますのね」
口角を緩めながら、声の主霍青娥は会釈する。華扇の攻撃が当たっていたらただでは済まなかったはずなのだが、青娥には先刻の腕の一振りに恐怖している様子は微塵もない。
「あ、あなたは、霍青娥……」
華扇は青娥の姿を認めると一歩彼女から距離を置く。小町の話では彼女は強力な力を持った邪仙であるとの事だった。以前会った時と印象は変わらず、邪悪は気配はしない。小町が言うほどの妖力も感じない。
しかし今しがた、その認識を華扇は改める。華扇が考え事をしていたとはいえ、全く気配を感じさせずここまで接近を許すなんて。いったいどういう術を使ったのか。油断できない存在だ
「脅かさないで。いったいあなた、こんなところで何をしているの?」
「うふふ。探しものをしていましたの。貴女は?」
「私は……散歩よ。丁度夜風に当たりたくなって」
言葉を濁す。すぐにそう発言したことを軽率だったかと華扇は後悔する。いつから青娥に姿を見られていたかわからないのだ。部下に指示をする華扇の様子を見ていたのなら、それが普通の散歩ではないと気づいたはずだからだ。別に探し物をしていたと素直に説明してもよかったのだが、先ほどの青娥の様子を見て華扇は彼女を警戒に値する存在だと判断していた。
華扇の台詞に青娥は「そうですの。まあ、今日は満月がとても綺麗に見えますものね。散歩したくなるのもわかります」と納得した風に返す。華扇を謀っている風には見えない。
「ところで、今のどうやったの」
「今の、というのは?」
「あなた、気配もなく私の近くに現れたでしょ」
「ああ。それはこれを使ったの」
青娥は手のひらにある薔薇をあしらった装飾付きの指輪を見せる。駄目元で訊いてみただけだったのだが、青娥は嬉々としてその指輪のような道具に関して種明かしを始める。
「これは余分な思考を引き剥がし、無意識に動けるようになる指輪ですわ。無意識になれば、誰からも存在を気づかれず、誰の記憶にも残らない。以前見かけた珍しい妖怪を参考にして作ってみたの」
その妖怪というのは地霊殿の瞳を閉じてしまった覚妖怪だと華扇は察した。姉の方とはそれなりに面識はあるので、忘れてしまうはずのその覚妖怪に関しても詳細を覚えていられる。
「握っているだけでも効果があって、こうやって手のひらを広げると能力を解除できるの。おもしろいでしょう?」
「おもしろいけれど、私に聞かれてよかったの?」
「勿論ですわ。こうして理屈を説明すれば、二度驚いてもらえるでしょう? 私、人に驚いてもらうのが好きですの」
どこかの付喪神のようなことを言う。迷惑さでは段違いだが。
「ちゃんと指に嵌めるとさらに効果があって――と。ごめんなさい、少しの間匿ってください」
言葉を切り、突然そう宣言すると青娥は髪を留めていた鑿を外し、それを使って地面に穴を空けた。青娥が穴へ飛び込むと、跡形もなく穴は閉じる。土竜かなにかか。
「華扇殿!」
青娥が地面に隠れた直後、白狼天狗が現れる。息を切らし、周囲の様子を伺っている。
「ここら辺でおかしな人物を見かけませんでしたか? 許可のない侵入者です。妙な術を使う仙人のようでして、私の千里眼では追いきれません」
「えーっと。ごめんなさい、見ていないわ」
一瞬青娥を突き出してやろうと思案したが、そうしても余計に状況がこじれてしまいそうな気がしてしまい華扇はしらばくれた。信用しているわけではないが、探し物をしているだけとの事だし、そもそも白狼天狗達にこの邪仙が手に負えるように思えない。
華扇の言葉を聞いて白狼天狗は「そうですか」と残念そうに俯いて「申し訳ありませんが、おかしな人物を見かけた場合、私たちに連絡してください」と言って山中に消えた。
白狼天狗が遠くに行ったことを確認してから華扇は踵で地面を叩き「行ったわよ」と呟いた。
「ありがとうございます、茨木様」
声量こそ抑えられていたものの、熱の籠もった吐息混じりの声を耳元に浴びせられてたまらず華扇は「あうっ!」と艶のある悲鳴を上げてしまう。夜風で冷えた耳朶には刺激が強すぎる。
反射的に殴りかかろうとしてしまったが、寸前で動作を堪える。
華扇の反応に満足した様子で青娥はにこにこと屈託のない笑みをこぼしていた。どうやら青娥はいつの間にか地面から這い出て例の指輪を使い天狗と自分のやり取りを近くで見ていたらしい。本当にかわいげのない人だと華扇はため息をついた。
「もう、驚かさないでよ」
「ごめんなさい。人を驚かせるのが好きで好きでたまらなくて。そうですわ、お詫びと先ほど匿って頂いた御礼をしなくてわ」
拍手を打ち、首を傾けつつ青娥は言う。じっくりと華扇の姿を足元から観察し始め、包帯の右手を視認し、続けて左手を見据えると何を思いついたのか指輪を握り込む。
青娥の挙動が無意識になる。華扇は彼女の動作に対する警戒心を失い、あっさりと左手を掴まれた。そしてそのまま青娥は握りこんでいた指輪を華扇の左手の薬指に嵌め込んだ。無意識の指輪はあつらえたかのように華扇の指にぴったりと嵌った。
瞬間、余分な思考が華扇の中から切り取られたかのように消失する。握り込むだけで効果があり、嵌めると更に効力を強める。そんな青娥の台詞を想起するが、どうにも思考が上滑りしてまとまらない。
今の状況が非常に不味いことも把握していたが、思考が動作に結びつかない。無意識に囚われる。
「あら、思ったとおり、ぴったりですわ」
青娥は華扇を見失わないよう彼女の左手を掴みっぱなしだった。無意識の効力がしっかりと作用していることを確認すると青娥は華扇の左手薬指に嵌っていた指輪を外し握らせた。
無意識から開放された華扇は瞬時に青娥から距離を取り、臨戦体勢に移る。
「何のつもり、霍青娥!」
「あらあら、勘違いされちゃったかしら。別に私は貴女と敵対する意思はありませんわ」
両手を挙げ、青娥は緩んだ表情で華扇の戦意を受け流す。
「その指輪を差し上げたいと思っただけですわ。便利でしょう?」
「出来すぎだな。あなた最初から私にこの指輪を渡すつもりだったんじゃないの?」
「何を根拠に?」
「この指輪」
華扇は受け取った指輪を自身の薬指にあてがう。
「私の指のサイズにぴったりだ。何のつもりか知らないけれど、初めから私用に造ったんじゃないの?」
もっともな指摘に青娥は徹底して緩んだ表情のままクスクスと笑う。
「いえいえ。偶然ですわ。そもそも、これを差し上げようと思ったのも、貴女の指にきっとぴったり嵌ると思ったからです」
「一瞥しただけでそんなことがわかるとは思えないわね」
「信用されていませんね。まぁ、仕方ありませんわね。私、どうにも他人から警戒される体質ですの」
そんな飄々としていたら当たり前だろ。そう言い放とうと思ったが、青娥はどこか悲しげに頬を緩ませていたので華扇は思わず発言を飲み込む。これも演技だとしたら、大したものだ。
落ち込んだ様子の青娥を見て、華扇はようやく戦意を消失させる。真面目に応対したら駄目だ、呑まれてしまう。そう判断した。
「もういいわ。どういう意図があるのか知らないけれど、くれるというなら指輪は貰っておくわ」
そもそも珍しいものは好きだし。そう返すと青娥は口角を綻ばせた。
「うふふ。よかった。どうぞ、大事に使ってくださいね」
「というか、あなたはよかったの? せっかく造ったものをその場の気分であっさりと手放して」
「構いませんわ。どうせ全く同じものをもう一つ持っているので」
何故か「全く」の部分に強くアクセントを置いて青娥は応える。意図がわからず華扇は小首を傾げる。
そういえば、この指輪はそもそも誰のために造ったものなのだろうか。偶然華扇の指のサイズにぴったりだったから渡したくなったとの事だが。
「そうですわ。茨木様、訊きたいことがありました」
「え。なに?」
この指輪は誰のための物なのか、という質問を華扇は投げかけようとしていたが青娥の発言に遮られる。
「この辺で一番月が綺麗に見える場所をご存知ありませんか?」
「そうね。ここの山頂に湖畔があるからそこから眺める月が一番綺麗かもね」
「ああ。あの軍神が管理しているとかいう湖ね。水面に映る月を眺めてみるのも風情があっていいかもしれませんわね」
そうだ、と何を思いついたのか、青娥は拍手を打つ。
「次の満月の夜、一緒にその湖で月見でもしませんか?」
「月見?」
「ええ。豊聡耳様達もお誘いしておくので。如何でしょう?」
そういえば霍青娥は神霊廟所属の仙人だったな、と華扇は思い出す。随分とフットワークが軽いらしいので失念していた。
「仙人同士の親睦会ってこと?」
「はい。上物のお酒も用意しておくので」
「わかったわ。私も一度、あなた達と腰を据えて話してみたいと思ってたし」
「うふふ、よかった」
青娥は華扇の左手に自身の手のひらを近づけたが、避けられ掴み損ねる。青娥は単純にスキンシップのつもりだったのだが、先刻のようなことがあれば警戒されるのも仕方ない。なんとなく気まずい空気が流れる。
「さて。では私はそろそろ失礼しますわ。探し物の場所もやっと当てが見つかりましたし」
華扇の手を掴み損ねて前傾姿勢になっていたところから仕切りなおすように後退しつつ青娥は言う。華扇の目から見て青娥が索敵している様子はなかったが、やはり飄々としている癖に抜け目ない。
「じゃあ、次の満月の夜に」
「はい。楽しみにしていますわ」
青娥はひらひらと手を振り、山中の闇に消えた。彼女が去ってから華扇は渡された指輪の検分を始める。よく見れば無意識の指輪は装飾も凝っていて、アクセサリーとしてもなかなか出来がいい。
「嵌めるのは危険そうだけど。無意識を制御できるようになれば、それなりに有用でしょうね」
その前にこの指輪に何らかの呪術が仕掛けられていないか調べなければ。青娥が油断ならない存在であることは先刻の僅かなやり取りで嫌というほど理解した。
華扇は獣道を歩く。眠気はいつの間にか覚めていた。
山頂、月を映す湖畔。夜風にあおられ、水面に緩やかな波紋が広がる。
そんな湖の淵で水面に脚が浸かるのも気にせず、少女が一人座り込んでいた。
「――――」
月明かりに照らされた彼女の肌は死人のように青白かった。
「――――」
誰にも聞こえない声量で――否、聞こえていたとしてもそれを声として認識して記憶できる者はいないだろう。無意識に紡がれる声は、詩を詠んでいた。
「――――」
月を双眸で捉えたまま、思いつくままにひたすらと。生前の記憶がそうさせるのか、はたまた無意識になった死体少女は情緒に溢れてそうなってしまうのか。
「やっと見つけたわ」
そんな芳香の詩作りの水を差すように青娥は現れた。彼女の右側に青娥は腰掛ける。足元が水面に浸るのも気にせず。
「困ったものね。無意識になると札の効果も無視してしまうなんて。おかげで探すのに苦労したわ。でも、無意識になっても嗜好は変わらないようね。当たり前だけれど」
芳香は月が綺麗に見える場所が好きだ。無意識になったときにここまで足を運ばせてしまうのは半ば必然だった。青娥は芳香の右手の薬指に嵌っていた指輪を外した。すると芳香は一瞬、糸が切れたかのように脱力し、被りを振って自我を取り戻した。
「んあ……。おー、青娥。おはよう」
「おはよう。気分はどう?」
「わかんない。札に最高の気分になるって書いてくれれば最高になるぞー」
本気で言っているのか、ただの皮肉なのか。芳香は茶化すように言う。
「うふふ。おもしろいことを言うのね、芳香。私は貴女のそういうところ、とっても好きですわ」
「そうかそうか。青娥は芳香のことほんとに好きだなー」
にへら、と芳香は頬を緩ませる。共通点のない二人だったが愛想のいい笑い方だけは似通っていた。
「ええ。芳香、私は貴女のことが好きよ。顔もかわいらしいし、性格も人懐っこいし、あとは」
青娥は芳香の身体と右腕を繋ぐ継ぎ目部分にぐるりと指を這わせる。
「くすぐったいぞ、青娥」
「ごめんなさいね。私、貴女の体のパーツでは右腕が特に好きなの。力強くて、その癖白魚のように極め細やかな肌」
「そこはあんま腐ってないしなー。きれいだって思うなら、元の持ち主に感謝しなきゃなー」
芳香の身体は、その多くの部分が彼女の自前のものではない。腐ったり壊れたりして継ぎ足したものが人体の大半を占めている。
「そうね。感謝しなくっちゃね」
青娥は手のひらの上で無意識の指輪を転がしながら微笑んだ。
「今日が満月で助かったわ」
明かり要らずである。人工の灯りは野生動物にとって非常に不快なものだ。使わないでいいのならそれに越したことはない。夜空を仰ぐ。上空では華扇の部下である大鷲の竿打が周囲の索敵のため満月に沿う様に円形に旋回している。
「竿打、こっちはいいから反対側の麓を見てきてちょうだい」
指示を飛ばすと大鷲は了承したことを示すために一度逆回りに旋回して滑空していった。
「さて。彭祖、もうにおいはしないの?」
華扇と並んで歩く部下の虎に訊く。こうして華扇が夜の妖怪の山を散策しているのは彼からのとある報告が理由だった。華扇の匂いを山中で感じた、という話だ。
華扇は部下の動物達全員に自分の匂いを覚えさせている。失ってしまった自身の腕を捜すために部下になった動物へ最初に教えることである。彼女にとって自身の腕の捜索は最優先事項である。眠気をおして山へ繰り出すくらいに。
彭祖は華扇の質問に自信なさげに首を傾げる。
「ちょっと。私を叩き起こしておいてそれはないでしょ」
文句を言うと彭祖は申し訳なさそうに低く唸る。彼の言い分は、匂いがしたから元を追ったはいいものの途中で気配が断ち切れて追えなくなってしまったという話だった。あまりにも不可思議な現象だったので自分だけでは対処できないと判断し、華扇に事の次第を報告したという運びだった。
「うーん。私の私物が小妖怪にでも盗まれたてそれが匂いの元だったってのが一番ありえそうね。気配が消えた理由はわからないけれど。まあ、いいわ。腕の所在を追うことは最優先だって貴方に教育したのは私だし。睡眠を邪魔したことは不問にするわ。とりあえず、二手に別れて探しましょう。私は東側から山を周るから、貴方は西側ね。反対の麓にいる竿打と合流したら捜索を打ち切っていいわ」
虎は華扇の指示に首肯し、獣道を逸れて行った。
華扇は部下が山中へ消えたことを確認し、大きく欠伸をした。本当のところ、早く自宅へ戻って睡眠の続きを取りたかったのだが部下が働いている手前、自身が怠けるわけにもいかない。かといって真面目に腕探しを取り組む気にもならない。自身の寝床の目と鼻の先にずっと探していた腕が現れるなんて都合のいいことがあるわけがないのだから。
しょうがないので華扇は散策を夜の散歩と割り切ることにした。幸い、雲一つない月見日和である。夜風も涼しく心地よい。
遠吠えが聞こえた。白狼天狗の声だ。この声音は、哨戒任務に当たる彼女達が侵入者を見つけたときの声音だと華扇は察した。こんな真夜中に侵入者とは珍しい。もしかしたら自分の匂いの気配が山中からしたことと関係があるのか。しかし、彭祖の報告から若干時間が経っている。
ここまでタイムラグが発生してるのは不信だ。白狼天狗の千里眼をすり抜けるようなものがいるとも考えづらいし。
そんな風に黙々と思考しながら歩いているときのことだった。耳元に突然「わっ」と脅かすような大声を浴びせられた。不意を突かれて華扇は「きゃあ!」と情けない悲鳴とともに声の方向を振り向きざまに左腕で薙いだ。咄嗟のことだったので手加減なしの威力である。
華扇の腕は声の主の鼻先で空振りした。余波で周囲の木々の枝葉がざわざわと揺らめき木の葉を散らす。
「こんばんは。そんなに吃驚するなんて。茨木様ともあろう者でも、夜分は抜けていますのね」
口角を緩めながら、声の主霍青娥は会釈する。華扇の攻撃が当たっていたらただでは済まなかったはずなのだが、青娥には先刻の腕の一振りに恐怖している様子は微塵もない。
「あ、あなたは、霍青娥……」
華扇は青娥の姿を認めると一歩彼女から距離を置く。小町の話では彼女は強力な力を持った邪仙であるとの事だった。以前会った時と印象は変わらず、邪悪は気配はしない。小町が言うほどの妖力も感じない。
しかし今しがた、その認識を華扇は改める。華扇が考え事をしていたとはいえ、全く気配を感じさせずここまで接近を許すなんて。いったいどういう術を使ったのか。油断できない存在だ
「脅かさないで。いったいあなた、こんなところで何をしているの?」
「うふふ。探しものをしていましたの。貴女は?」
「私は……散歩よ。丁度夜風に当たりたくなって」
言葉を濁す。すぐにそう発言したことを軽率だったかと華扇は後悔する。いつから青娥に姿を見られていたかわからないのだ。部下に指示をする華扇の様子を見ていたのなら、それが普通の散歩ではないと気づいたはずだからだ。別に探し物をしていたと素直に説明してもよかったのだが、先ほどの青娥の様子を見て華扇は彼女を警戒に値する存在だと判断していた。
華扇の台詞に青娥は「そうですの。まあ、今日は満月がとても綺麗に見えますものね。散歩したくなるのもわかります」と納得した風に返す。華扇を謀っている風には見えない。
「ところで、今のどうやったの」
「今の、というのは?」
「あなた、気配もなく私の近くに現れたでしょ」
「ああ。それはこれを使ったの」
青娥は手のひらにある薔薇をあしらった装飾付きの指輪を見せる。駄目元で訊いてみただけだったのだが、青娥は嬉々としてその指輪のような道具に関して種明かしを始める。
「これは余分な思考を引き剥がし、無意識に動けるようになる指輪ですわ。無意識になれば、誰からも存在を気づかれず、誰の記憶にも残らない。以前見かけた珍しい妖怪を参考にして作ってみたの」
その妖怪というのは地霊殿の瞳を閉じてしまった覚妖怪だと華扇は察した。姉の方とはそれなりに面識はあるので、忘れてしまうはずのその覚妖怪に関しても詳細を覚えていられる。
「握っているだけでも効果があって、こうやって手のひらを広げると能力を解除できるの。おもしろいでしょう?」
「おもしろいけれど、私に聞かれてよかったの?」
「勿論ですわ。こうして理屈を説明すれば、二度驚いてもらえるでしょう? 私、人に驚いてもらうのが好きですの」
どこかの付喪神のようなことを言う。迷惑さでは段違いだが。
「ちゃんと指に嵌めるとさらに効果があって――と。ごめんなさい、少しの間匿ってください」
言葉を切り、突然そう宣言すると青娥は髪を留めていた鑿を外し、それを使って地面に穴を空けた。青娥が穴へ飛び込むと、跡形もなく穴は閉じる。土竜かなにかか。
「華扇殿!」
青娥が地面に隠れた直後、白狼天狗が現れる。息を切らし、周囲の様子を伺っている。
「ここら辺でおかしな人物を見かけませんでしたか? 許可のない侵入者です。妙な術を使う仙人のようでして、私の千里眼では追いきれません」
「えーっと。ごめんなさい、見ていないわ」
一瞬青娥を突き出してやろうと思案したが、そうしても余計に状況がこじれてしまいそうな気がしてしまい華扇はしらばくれた。信用しているわけではないが、探し物をしているだけとの事だし、そもそも白狼天狗達にこの邪仙が手に負えるように思えない。
華扇の言葉を聞いて白狼天狗は「そうですか」と残念そうに俯いて「申し訳ありませんが、おかしな人物を見かけた場合、私たちに連絡してください」と言って山中に消えた。
白狼天狗が遠くに行ったことを確認してから華扇は踵で地面を叩き「行ったわよ」と呟いた。
「ありがとうございます、茨木様」
声量こそ抑えられていたものの、熱の籠もった吐息混じりの声を耳元に浴びせられてたまらず華扇は「あうっ!」と艶のある悲鳴を上げてしまう。夜風で冷えた耳朶には刺激が強すぎる。
反射的に殴りかかろうとしてしまったが、寸前で動作を堪える。
華扇の反応に満足した様子で青娥はにこにこと屈託のない笑みをこぼしていた。どうやら青娥はいつの間にか地面から這い出て例の指輪を使い天狗と自分のやり取りを近くで見ていたらしい。本当にかわいげのない人だと華扇はため息をついた。
「もう、驚かさないでよ」
「ごめんなさい。人を驚かせるのが好きで好きでたまらなくて。そうですわ、お詫びと先ほど匿って頂いた御礼をしなくてわ」
拍手を打ち、首を傾けつつ青娥は言う。じっくりと華扇の姿を足元から観察し始め、包帯の右手を視認し、続けて左手を見据えると何を思いついたのか指輪を握り込む。
青娥の挙動が無意識になる。華扇は彼女の動作に対する警戒心を失い、あっさりと左手を掴まれた。そしてそのまま青娥は握りこんでいた指輪を華扇の左手の薬指に嵌め込んだ。無意識の指輪はあつらえたかのように華扇の指にぴったりと嵌った。
瞬間、余分な思考が華扇の中から切り取られたかのように消失する。握り込むだけで効果があり、嵌めると更に効力を強める。そんな青娥の台詞を想起するが、どうにも思考が上滑りしてまとまらない。
今の状況が非常に不味いことも把握していたが、思考が動作に結びつかない。無意識に囚われる。
「あら、思ったとおり、ぴったりですわ」
青娥は華扇を見失わないよう彼女の左手を掴みっぱなしだった。無意識の効力がしっかりと作用していることを確認すると青娥は華扇の左手薬指に嵌っていた指輪を外し握らせた。
無意識から開放された華扇は瞬時に青娥から距離を取り、臨戦体勢に移る。
「何のつもり、霍青娥!」
「あらあら、勘違いされちゃったかしら。別に私は貴女と敵対する意思はありませんわ」
両手を挙げ、青娥は緩んだ表情で華扇の戦意を受け流す。
「その指輪を差し上げたいと思っただけですわ。便利でしょう?」
「出来すぎだな。あなた最初から私にこの指輪を渡すつもりだったんじゃないの?」
「何を根拠に?」
「この指輪」
華扇は受け取った指輪を自身の薬指にあてがう。
「私の指のサイズにぴったりだ。何のつもりか知らないけれど、初めから私用に造ったんじゃないの?」
もっともな指摘に青娥は徹底して緩んだ表情のままクスクスと笑う。
「いえいえ。偶然ですわ。そもそも、これを差し上げようと思ったのも、貴女の指にきっとぴったり嵌ると思ったからです」
「一瞥しただけでそんなことがわかるとは思えないわね」
「信用されていませんね。まぁ、仕方ありませんわね。私、どうにも他人から警戒される体質ですの」
そんな飄々としていたら当たり前だろ。そう言い放とうと思ったが、青娥はどこか悲しげに頬を緩ませていたので華扇は思わず発言を飲み込む。これも演技だとしたら、大したものだ。
落ち込んだ様子の青娥を見て、華扇はようやく戦意を消失させる。真面目に応対したら駄目だ、呑まれてしまう。そう判断した。
「もういいわ。どういう意図があるのか知らないけれど、くれるというなら指輪は貰っておくわ」
そもそも珍しいものは好きだし。そう返すと青娥は口角を綻ばせた。
「うふふ。よかった。どうぞ、大事に使ってくださいね」
「というか、あなたはよかったの? せっかく造ったものをその場の気分であっさりと手放して」
「構いませんわ。どうせ全く同じものをもう一つ持っているので」
何故か「全く」の部分に強くアクセントを置いて青娥は応える。意図がわからず華扇は小首を傾げる。
そういえば、この指輪はそもそも誰のために造ったものなのだろうか。偶然華扇の指のサイズにぴったりだったから渡したくなったとの事だが。
「そうですわ。茨木様、訊きたいことがありました」
「え。なに?」
この指輪は誰のための物なのか、という質問を華扇は投げかけようとしていたが青娥の発言に遮られる。
「この辺で一番月が綺麗に見える場所をご存知ありませんか?」
「そうね。ここの山頂に湖畔があるからそこから眺める月が一番綺麗かもね」
「ああ。あの軍神が管理しているとかいう湖ね。水面に映る月を眺めてみるのも風情があっていいかもしれませんわね」
そうだ、と何を思いついたのか、青娥は拍手を打つ。
「次の満月の夜、一緒にその湖で月見でもしませんか?」
「月見?」
「ええ。豊聡耳様達もお誘いしておくので。如何でしょう?」
そういえば霍青娥は神霊廟所属の仙人だったな、と華扇は思い出す。随分とフットワークが軽いらしいので失念していた。
「仙人同士の親睦会ってこと?」
「はい。上物のお酒も用意しておくので」
「わかったわ。私も一度、あなた達と腰を据えて話してみたいと思ってたし」
「うふふ、よかった」
青娥は華扇の左手に自身の手のひらを近づけたが、避けられ掴み損ねる。青娥は単純にスキンシップのつもりだったのだが、先刻のようなことがあれば警戒されるのも仕方ない。なんとなく気まずい空気が流れる。
「さて。では私はそろそろ失礼しますわ。探し物の場所もやっと当てが見つかりましたし」
華扇の手を掴み損ねて前傾姿勢になっていたところから仕切りなおすように後退しつつ青娥は言う。華扇の目から見て青娥が索敵している様子はなかったが、やはり飄々としている癖に抜け目ない。
「じゃあ、次の満月の夜に」
「はい。楽しみにしていますわ」
青娥はひらひらと手を振り、山中の闇に消えた。彼女が去ってから華扇は渡された指輪の検分を始める。よく見れば無意識の指輪は装飾も凝っていて、アクセサリーとしてもなかなか出来がいい。
「嵌めるのは危険そうだけど。無意識を制御できるようになれば、それなりに有用でしょうね」
その前にこの指輪に何らかの呪術が仕掛けられていないか調べなければ。青娥が油断ならない存在であることは先刻の僅かなやり取りで嫌というほど理解した。
華扇は獣道を歩く。眠気はいつの間にか覚めていた。
山頂、月を映す湖畔。夜風にあおられ、水面に緩やかな波紋が広がる。
そんな湖の淵で水面に脚が浸かるのも気にせず、少女が一人座り込んでいた。
「――――」
月明かりに照らされた彼女の肌は死人のように青白かった。
「――――」
誰にも聞こえない声量で――否、聞こえていたとしてもそれを声として認識して記憶できる者はいないだろう。無意識に紡がれる声は、詩を詠んでいた。
「――――」
月を双眸で捉えたまま、思いつくままにひたすらと。生前の記憶がそうさせるのか、はたまた無意識になった死体少女は情緒に溢れてそうなってしまうのか。
「やっと見つけたわ」
そんな芳香の詩作りの水を差すように青娥は現れた。彼女の右側に青娥は腰掛ける。足元が水面に浸るのも気にせず。
「困ったものね。無意識になると札の効果も無視してしまうなんて。おかげで探すのに苦労したわ。でも、無意識になっても嗜好は変わらないようね。当たり前だけれど」
芳香は月が綺麗に見える場所が好きだ。無意識になったときにここまで足を運ばせてしまうのは半ば必然だった。青娥は芳香の右手の薬指に嵌っていた指輪を外した。すると芳香は一瞬、糸が切れたかのように脱力し、被りを振って自我を取り戻した。
「んあ……。おー、青娥。おはよう」
「おはよう。気分はどう?」
「わかんない。札に最高の気分になるって書いてくれれば最高になるぞー」
本気で言っているのか、ただの皮肉なのか。芳香は茶化すように言う。
「うふふ。おもしろいことを言うのね、芳香。私は貴女のそういうところ、とっても好きですわ」
「そうかそうか。青娥は芳香のことほんとに好きだなー」
にへら、と芳香は頬を緩ませる。共通点のない二人だったが愛想のいい笑い方だけは似通っていた。
「ええ。芳香、私は貴女のことが好きよ。顔もかわいらしいし、性格も人懐っこいし、あとは」
青娥は芳香の身体と右腕を繋ぐ継ぎ目部分にぐるりと指を這わせる。
「くすぐったいぞ、青娥」
「ごめんなさいね。私、貴女の体のパーツでは右腕が特に好きなの。力強くて、その癖白魚のように極め細やかな肌」
「そこはあんま腐ってないしなー。きれいだって思うなら、元の持ち主に感謝しなきゃなー」
芳香の身体は、その多くの部分が彼女の自前のものではない。腐ったり壊れたりして継ぎ足したものが人体の大半を占めている。
「そうね。感謝しなくっちゃね」
青娥は手のひらの上で無意識の指輪を転がしながら微笑んだ。
このコンビほんと好きだわ
完全におちょくられとる
青蛾は嫌いだが魔法使いだらけの東方世界で一番魔女してるあたりが凄い
地力では圧倒される相手を手球にとってこそ魔法使いよ
と、思わせてからの邪仙チックなブラックなオチ。
たまらないですねえ。
ただ、夜の闇夜とか円形に旋回とか、重複表現がやや多かったことだけが少し残念でした。
次も期待しています!
面白かったです
仙人としてのキャリアが長いせいでしょうか
面白かったです。