不良オカルトサークル、秘封倶楽部の片割れである宇佐見蓮子が、新しいネタを見つけたからいつものカフェ「サテライト」に来るようにと指定した約束の時間になっても私の前に姿を現さないまま、かれこれ十分が経とうとしていた。
常習的に遅刻を繰り返す彼女の身を、もしや何かしらの事故に巻き込まれたのかしらとか、まさか変な男に絡まれてはいないだろうかなどという心配をしなくなって久しいが、やはりそれでもなんの連絡もなしに遅刻をされるといい気はしない。
腕時計をちらと見やり、それから待ち合わせ場所としていつも利用している大学構内のカフェの窓際にあるボックス席から、入り口の扉に目をやるも、扉に取り付けられたベルはただその身を持て余し動じる事なく、なんの音も鳴らさなかった。
仕方がない。いつもの事だと諦めて、私はメニュー表を見る事なく軽く手を上げてウエイトレスを呼んだ。
「ご注文はお決まりですか」
この明石という名前のウエイトレスは私が知る中でも一二を争う黒髪の乙女である。
落ち着き払った性格で、しかし時折間の抜けた行動をとる彼女は神秘的な雰囲気を醸し出していた。
彼女目当てでこのカフェに通う客も多いのではないかと推測するが、その彼女自身はどうやらこのカフェの店長に悪しからぬ思いを抱いている様子であった。
私は彼女にアップルパイとアイスコーヒーを注文すると、ぱたぱたとカウンターの奥にある厨房へと消えていく彼女の背中を目で追った。
と、カウンターの中ではどこか頼りなさげな風貌の店長が右耳に手を当てて、むつかしい顔でなにやらを話している様子であった。
耳につけるタイプの通話端末を使っているのだろう。
さして気になるものでもなかったので、私は暇つぶしがてら店内をぐるりと見回した。
客の入りは半分ほどで、談笑したり、パソコンになにやら打ち込んでいたり、分厚い本を広げたりなどしている。
今度から私も暇つぶしに本の一つでも持ち歩こうかなどと考えていると、明石さんがアイスコーヒーをトレーに乗せて運んできた。
キンキンに冷えたそれはグラスに水滴が浮かんでおり、中でカランと氷が鳴った。
それをちびちび飲みながら窓の外の中庭をなんとなしに眺めることさらに十分が経ち、テーブルにはほくほくと熱を発するアップルパイが運ばれた。
向かいの席には相変わらず蓮子の姿はなく、カフェの扉に取り付けられたベルは暇を持て余すが如く動じる事なく、なんの音も鳴らさなかった。
このカフェのアップルパイの味は私が自信を持って周囲に吹聴するほどの美味しさである。
開店前にまとめて焼いており、こうして客に出されるのは開店直後でもなければまず温め直しなのだが、しかしこのアップルパイは焼きたてと錯覚するほど生地がサクサクとしている。
漂う軽く焦げたバターの芳醇な香りにうっとりとしながら、そのツヤのある生地にフォークを刺すと、サクッと小気味の良い音が響いた。
パイを半分に割ると、中からとろりとしたアップルソースと、柔らかくなったリンゴの果肉がごろりと転がるのだ。
私はそれを口の中へと放り込み、歯に押しつぶされて音を奏でる生地と、舌の上にとろりと溶けてなんとも言えない甘さで味蕾を刺激するソースと、ごろりと口腔内に転がる大きなリンゴの欠片にはふはふした。
私が幸せのはふはふをしていると、突然それを破壊するがごとき勢いでカフェの扉が開けられた。
待ってましたとばかりにベルがけたたましく鳴り響き、店内の皆が驚いてそちらに目をやった。
入り口のところで皆の視線をほしいままにしながらぜいぜいと息を切らし突っ立っている人物こそ、不良オカルトサークル、秘封倶楽部の片割れである宇佐見蓮子に他ならず、悲しいかな私の相棒である。
明石さんが慌てた様子で蓮子に駆け寄り、蓮子はごめんごめんと彼女にぺこぺこ頭を下げた。
それから鳩が首を前後させながら歩くみたいに、店長や他の客にぺこぺこと頭を下げながら私の元へとやってきた。
私はその光景のあまりのはずかしさに、今ばかりは彼女の関係者であることを神様に恨んだが、そんな八つ当たり的恨みを押し付けられても神様だって迷惑だろう。
だが、迷惑と思うのであればこそどうかこれきりにして欲しいものであると、私は切に願ったのであるからして、神様はこの願いを十二分に受け入れて然るべきではなかろうか。
しかしそんな思いを知ってか知らずか、知ってようが知ってまいが、神様に背いてでも蓮子は私の向かい側にどっこいしょと腰掛けると、
「や、お待たせ」
とヘリウムガスもかくやという軽々しさでのたまったのであった。
ところで、蓮子は遅刻魔であり、ことその遅刻に関してはことごとく反省というものをしない新種の霊長類である。
当然のことながら反省しないから教訓を得られず、教訓を得られないから次に活かす事ができず、次に活かせないから結果として二たび三たびと言わず、四たびも五たびも同じ過ちを繰り返すのである。
これが遅刻魔蓮子が遅刻魔足り得る所以であった
今回も例に漏れずなんの反省の色もない蓮子は、代わりに自分色で一色に染め上げたマイペースさで水を持ってきた明石さんにいちごのタルトとアイスティーを何食わぬ顔で注文した。
蓮子はテーブルに肘をついて指を組むと、その上に顎を乗せて私を見つめた。
私はというとなるべく彼女の知り合いと思われないがために、彼女の視線を右へ左へかわしながらアップルパイを口に放り込む作業に戻った。
しかし、彼女の視線が邪魔をして先ほどよりいささか味が落ちている感が否めない。
「……それで、今日はいったいどうしたの?」
結局根負けしたのは私の方であった。
呼び出した理由を問う私に、蓮子は悲喜交々といった風に演技がかった口調で話し出す。
「これには日本海溝もかくやといった深い深い理由があるの。ここに来る途中、教授に呼び止められたのよ。次の講義に使う機材を運ぶ手伝いをしてくれって。私はカフェで友人と待ち合わせがあるのでと丁重にお断りさせてもらったんだけど、教授はあのカフェのいちごのタルトは美味しいわよねと言って取り合ってくれなかったわ。結局それで、私は遅れてしまったというわけ。ほら、私悪くない」
「私が訊いたのは、どうしてここに呼び出したのってことよ」
「あら、遅刻の理由を訊ねないだなんて、もしかしてメリー、私が遅刻したことを怒ってないの?」
寝ぼけたことをぬかす蓮子にあんまり腹が立ったので、私は熱々のリンゴの欠片を蓮子の口にぐいぐいと押し込んでやった。
蓮子ははふはふしながら涙を流した。蓮子は猫舌なのだ。
「あなたの言い訳なんてもう聞き飽きたわよ」
前述の通り遅刻魔であり反省を微塵もしない蓮子は、繰り返される遅刻の数だけ言い訳を生み出す能力の持ち主でもあった。
その多岐にわたる言い訳の数々に、最初こそこんな無駄なことに才能の一片を費やしてしまうとは嘆かわしいと思いつつも耳を傾けていたのだが、今では聴くにも値しない唾棄すべき駄弁であると一蹴するに落ち着いていた。
「それで、早く教えてくれないかしら。新しいネタとやらを」
「まあまあ落ち着きなさいな。急いだってネタは逃げないし私も逃げないわよ」
そう言いながら蓮子は鞄をがさごそと物色し、やがてその顔をしかめた。
「あれ、おっかしぃなぁ……あれー?」
「どうしたのよ」
「いや、鞄に入れてきたはずなんだけど、写真。入れたはずなんだよなあ」
「でも入っていないんでしょう? それじゃあ入れていないんじゃない?」
「いやいや、でも相対性精神学的観点から見るに、主観では入れたことになんら相違ないのよ。おかしいわね。観測したはずの粒子が再び波の状態に逆行するなんて……いや、そもそも主観と客観の違いについて考える必要があるわね。相対性精神学的考えは他人の存在をことごとく無視しているわ」
「詭弁はいいから、結局忘れたのね」
「ううーん、ううーん」
唸り声をあげながら鞄の中身をかき混ぜる蓮子。
と、蓮子はとつぜんはっとしてカウンターの方へと視線を向けた。
ならって私もカウンターに目を向けると、何やら店長が蓮子に向かって目配せをしている風に見えなくもない光景であった。
なにやら違和感を感じていると、お待たせいたしました、と明石さんがトレーにいちごのタルトとアイスティーを乗せてやってきた。
それらを蓮子の前へと置いていくと、明石さんはうやうやしくお辞儀をして去っていった。
「あっ、あったあった」
そう呟いて蓮子は取り出したる一枚の写真を、テーブルの上にすっと置いた。
私から見て逆さまに置かれているその写真を半回転させ、まじまじとその写し取られた光景を覗き込む。
夜の森を見上げる形で撮られたその写真には、闇の中に茫然と浮かぶ木々の隙間から覗き込むように二つの月が煌々と光っていた。
「月が二つ?」
「片方は現世の月よ。場所は御蔭通から下鴨神社の参道を少し入った糺ノ森で……下鴨神社、知ってる?」
「知ってるわよ。鴨川デルタの北にある神社でしょう?」
鴨川デルタは京都の西側を流れる鴨川の上流、高野川と賀茂川の合流地点にできた逆三角形の地帯であり、昼間は子供連れやカップルがなにをするでもなく無為に時間を費やし、夜は騒ぎ足りない愚学生たちが天照大御神でも呼び出さんばかりの騒ぎを起こす場である。
そんな賀茂川デルタは春から初夏にかけてサークルの新歓コンパの会場と化し、まだ入学したてで右も左もわからぬ私たちが仮入部した似非オカルトサークルの新歓コンパもまた、ここで開かれた。
この似非オカルトサークルが活動内容もひどければ、部長と副部長もひどく、おまけにこの新歓コンパがあの蓮子をしてひどかったと言わしめるに足るものであった。
あの時の記憶は思い起こすのもはばかられる悲惨さに彩られており、うすらぼんやりと脳裏に浮かぶのは川の向こう岸から喧騒の夜空に打ち上げられたロケット花火と、響き渡る大音声であった。
やあやあ我こそはむにゃむにゃ……
「あんな記憶、忘れたくても忘れられないわ」
「まあまあ。それはそれとして、下鴨神社よ。もう一つの月は現世の月ではないわ。この眼に映るのはどこか別の世界。詰まる所、言いたいことはわかるでしょう?」
蓮子は自分の右目を指差して言った。
「別の世界への入り口がここにある?」
「いかにも」
そう言って蓮子はいちごのタルトを口に放り込むと、蓮子らしからぬふにゃんと緩みきった表情でもってその美味しさを存分にアピールした。
「うん、教授がオススメするだけはあるわね。美味しいわ」
「蓮子、さっきリンゴ一欠片あげたわよね?」
「ええー、あんなの熱くて味もなにもわかったもんじゃないわよ」
「あら、それじゃあもう一口ご所望かしらん?」
私がもう一欠片をフォークで刺して見せると、蓮子は魚肉ハンバーグのようにぷりぷりと文句を言いながら一口大のタルトをこちらに差し出した。
「蓮子のそういうところが好きよ」
口の中にタルトのしっとりとした歯触りのクッキー生地と、いちごとクリームの甘酸っぱい香りが舌の温度でじわりと液化して口内をはじけて広がった。
私は幸せのもぐもぐをしながら、蓮子が持ってきた二つの月の写真をまじまじと眺めた。
「これも、例の情報機関から持ってきたの?」
なんとなしにそう訊ねると、蓮子はタルトを口に運ぶ動作の途中で硬直するという、想像していたのとは少し違う不思議な反応を示した。
それだけでは飽き足らず、なんと店内の客も話すのやパソコンに文字を打ち込むのをやめ、店長と明石さんも仕事をしている途中で硬直していた。
まるで時間でも停止したみたいであると思いながら、ふとこういった静寂が重なり合いなんの音もしなくなるのを天使が通ると何処かの国では表現するのだと思い出した。
さて、天使が通って困惑したのは誰でもない私である。
「えっ、あの、蓮子?」
しんと静まり返ったカフェでは私の声がいやによく響いた。
途端に、周囲の人々は我に返ったようにおしゃべりを始め、パソコンをいじり、仕事を再開し、そして蓮子はアルコール中毒者のように手を震わせながらタルトを口へと運んだ。
その顔からは長年付き合いのある私だからこそ感じ取れる動揺がうかがえた。
「えっ、な、なにかな?」
「だから、この写真。これ、いつもの裏表ルートとやらから入手したのって」
「あー、うんうん! そうそう! 知ってるわよ!」
反応があからさまに警察に声をかけられた不審者のそれである。
もしくは家族に猥褻物の所持を疑われたうら若き青少年もとい性少年のそれに他ならない。
「はて、もしや蓮子。あなたなにか私に隠し事とかしていないかしら?」
蓮子の体がメデューサに睨まれたが如く硬直した。
叩けば釘を木の板に打ち付けることも容易そうなほど、見事りっぱな硬直ぶりにはさすがの私も感嘆せざるを得ない。
私は身を乗り出して蓮子をじっと睨んだ。
睨まれた蓮子はさらに硬直し、目を右へ左へと自由自在に泳がせ頑なに私と目を合わせようとはしなかった。
ここでやっと私は自分こそがメデューサに他ならないのだと気付いたのである。
そしてメデューサこと私は蓮子の目をじっと覗き込んだまま、もう一度彼女に訊ねた。
「蓮子、よもやこの私に隠し事が通じるなんて思ってないわよね? 思ってないわよね。蓮子はわかってるものね。そうでしょ?」
蓮子に詰め寄っていて気付いたのだが、なにやら周囲からいやに視線を感じた。
もし視線が可視化されれば一直線に私に向けられているであろうそれら視線群は、どうやら店内の客が発信源であるらしかった。
私は素早い動きでこちらを見ていると思しき客に目を向けた。
するとさっと顔を背けるそぶりを見せる人物がちらほらとおり、先ほどの視線がか弱い乙女の自意識過剰ではないことが証明された。
まあ、これだけ騒いでいれば注目も浴びるというものであると、しばし猛省。
さて、気を取り直して嘘つき蓮子である。
しばらく硬直を持って黙秘を貫いていた蓮子であったが、私の目力を前にしてとうとう屈服を余儀なくされるに至った。
「降参降参、あーもう、メリーにはかなわないわ」と蓮子。
「殊勝な心構えね。さて、それじゃあなにを隠しているのか教えてもらおうかしら」
私が期待を込めた視線を蓮子に向けるのと同じように、店長と明石さん、それから客の視線も蓮子を向いていたのを私はこっそり気付いていた。
聞き耳でも立てていたのか、蓮子の隠し事とやらがどうにも珍しくあり、気になるといった様子であった。
皆の視線を一身に受けながら、蓮子はゆっくりと話し始めた。
「実はね、この写真の調査は建前で、本当の目的は別にあるのよ」
「本当の目的」
「それはね、下鴨界隈に存在するという猫ラーメンという屋台ラーメンを食べることよと」
「猫ラーメン」私は呆れてため息をついた。
「ラーメンなんて一人で食べてくればいいじゃない」
私や明石さんならいざ知らず、蓮子ほど乙女心からかけ離れた存在にもなればラーメン屋に一人で入るくらい赤子の手をひねるよりも容易かろうと進言するも、しかし蓮子はとんでもないと首を横に振って反論した。
「いい? まず、私だって乙女よ。それに、ラーメン屋はラーメン屋でも、猫ラーメンは屋台ラーメンなの。屋台よ屋台。レベル表記で言えば超上級よ。初心者が一人でやすやすと足を踏み込んでいい場所じゃないわ」
「じゃあ行かなきゃいいじゃない」
「わかってないわね。猫ラーメンって、猫を出汁に使っているなんて噂もあるけれど、その実味は無類の美味しさらしいの。どう、気にならない? 今や合成食品が軒を連ねる日本の食文化界隈において、健康に気を使わないケミカルな調味料で健康食品至上主義者が卒倒しそうなものを食べたくない?」
蓮子の言わんとすることは、実はわからないでもなかった。
この日本の首都、京都を中心にこの国の食文化は大きく傾き始めていた。
合成食品が主流となり天然食品が淘汰され、今やそれらは金に余裕のある成金が自身の成金アピールのために購入するにすぎないものへと成り下がった。
そもそも合成食品は天然食品より安全で、栄養も高く、そして何より安いのだ。
そんな合成食品は健康に良いものであるが故に、健康に悪いジャンクフード類に使用すべきではないなどという意見が広まり、京都の食文化はもっぱら精進料理や懐石料理といった味気のないものばかりが蔓延ることとなった。
そんな京都の食文化に憂いを感じ、一石を投じんと逆にジャンクフード店が多く出現、流行し始めたのは言うまでもない。
「そうねぇ、たまにはラーメンもいいかもしれないわね」
「でしょうでしょう! そうと決まったら、早速今日の夜に下鴨神社に行くわよ!」
そして蓮子はいちごのタルトをぱくつき、アイスティーを一気に喉へと流し込むと、それじゃ! と手を挙げて颯爽とカフェを飛び出していった。
嵐が過ぎ去った後のような静けさがカフェを支配し、私は疲れからふうと軽いため息をついた。
「………………」
蓮子は自分が食べた分の支払いをせずに出ていったのである。
出町柳駅を降りた私は高野川側の飛び石を渡って鴨川デルタへと降り立った。
夜の鴨川デルタでは相変わらずどこぞのサークルが宴会で蛙鳴蝉噪としており、夜をもってして昼間のような喧騒であった。
「あっ、メリー!」
その横を通り過ぎて松の木の方へと向かおうとすると、どういう訳か酒を飲み笑う声の中に一つ私の名前を呼ぶ既知の声が混じっていた。
見ると、どんちゃん騒ぐ学生に混じってどんちゃん騒いでいる蓮子の姿がそこにはあった。
蓮子は缶ビール片手に恵比寿様みたいに笑いながらこちらへとやってきた。
「何やってるのよ、蓮子」
「いやぁ、なんか賀茂大橋から楽しそうにしてるのを見つけちゃって、それで混ざってたのよ」
「私が通りかからなかったらどうしたのよ」
「そりゃあ、頃合いを見て抜け出したわよ? 今の私ほど時間に正確な人間はいないんですもの」
そう言って蓮子は星空を見上げて、十一時二十六分十七秒と呟いた。
「おうい! 蓮子ちゃーん!」
宴会の中から頭の悪そうなちゃらちゃらとした学生が親しげに蓮子の名前を呼び、それに振り返って蓮子も手を振って答える。
「その子誰? 蓮子ちゃんの友達? かわいいね、紹介してよ!」
「やだもう部長さんたら、こんなにかわいい女の子がここにいるのに」
頭の悪そうなちゃらちゃらしたその男は、どうやらこのサークルの部長であるらしく、周りの学生たちもそれに呼応するように囃し立てた。
なんだか面白くない。
明らかに日本人ではない風貌が災いして、昔からよく好奇の目で見られたことを思い出す。
私はこの空気が苦手だった。
胸中に漠然としてわだかまるこのもやもやを抱きながら、私は松の木の方へと歩き出した。
「あれあれ? 行っちゃうの?」と男の間抜けな声が聞こえたが無視する。
「ちょっとメリー! どうしたの!」
「知らない。そんなに宴会が楽しいならどうぞごゆっくり。好きなだけちんちんかもかもしてればいいじゃない。私は下鴨神社の結界を見てから猫ラーメンを食べるわ」
河合橋と出町橋の間を横切って下鴨東通に入り、家庭裁判所の裏にある参道入り口を進む。
賀茂御祖神社研修道場を過ぎると御蔭通と交差し、その先には鬱々と広がる糺ノ森が風にざわめいており一つの怪物じみて不気味であった。
「ちょっとメリー、まだ拗ねてるの? いつまで魚肉ハンバーグみたいにぷりぷりしてるのよ」
「拗ねてないし、魚肉ハンバーグみたいにぷりぷりもしてない」
結局蓮子は宴会を抜け出して私の後を追ってきた。
嬉しいのは嬉しいのだが、やはりどこか素直に喜ぶことができないのは、きっと蓮子の言う通り私が拗ねているからなのだろう。
「ごめんって。メリーがああいうふうにいじられるのが嫌だって、知ってたのにフォローしてあげられなくってさ。でも、あいつらだって悪気があってやってる訳じゃないんだし、酒の席だからと思って大目に見てよ。ね?」
蓮子を振り向くと、彼女は苦笑していた。
きっと子供じみた理論で拗ねる私に呆れているのだろう。
そして、呆れているのにこうやっていつも私の隣にいてくれる彼女に、私は感謝した。
じわりと、視界が歪む。
「えっ、ちょ! 泣くほど? 泣くほど嫌だったの?」
私は手の甲で涙を拭ってから、首を横に振った。
「ううん、自分のみっともなさに涙が出てきただけよ」
「もー、メリーってば真面目すぎるのよ。もっとこう、のんびりしなさいよのんびり」
「のんびりって、蓮子みたいな救い難い阿呆になれってこと?」
「……あんたもうとっくに泣き止んでるでしょう」
涙と一緒に心の老廃物も流れてしまったらしく、その後の私の気持ちは晴れ晴れとしたものであった。
だが、のんびりしすぎて救い難い阿呆になってしまった、我が愛しき相棒に忠告の一つもせにゃならんのは心苦しい限りである。
「さて、蓮子。ああいう無頼の輩と付き合うなとは言わないわ。でも世の中には聖人君子なんてほんの一握りしか存在しないの。残りは腐れ外道かド阿呆か、もしくは腐れ外道でド阿呆なのよ。特にこの年頃の男なんてほとんどみんな自分のジョニーを遊ばせる事にやたらと躍起になって、事を成すことばかり考えている後先を考えない万年発情期の愚か者ばかりよ。事を成した相手の数でカーストが決まるような、そういう種類の霊長類なんだから。蓮子も曲がりなりにも乙女を名乗るなら、それくらいは気を付けてもらわないと大変な事になるわよ。特にお酒が絡むと人間周りが見えなくなるんだから。ちょっと、聞いてるの?」
どうやら私のありがたいお説教も蓮子には馬の耳に念仏であるらしく、私はまた蓮子が件の似非オカルトサークルの悲劇めいた事件に巻き込まれやしないかと、参道を闇へと突き進む彼女の背中を眺めながら不安に駆られるのであった。
とまあ、世の中の男どもがいかにジョニーをあれやこれやする事だけを考えているかを力説したところで、乙女のおの字も危うい蓮子には少々むつかしい話であったかもしれない。
蓮子は引き続き私がしっかりと見張っていようと改めて心に固く誓い、私は一人参道を進んでいく蓮子を追った。
結局私たちは、お互いにお互いを保護者と思っているのかもしれない。
闇の中をしばらく進み、途中で参道を外れて鬱蒼とした森の中を悪戦苦闘しながら突き進む。
ギャアギャアと鳥が鳴き、虫の声があちこちから響く。
月の明かりもほとんど枝葉に遮られ、一寸先は闇を具現化したような感じである。
「この辺りの筈なんだけど」蓮子が星空を見上げて言った。
私は周囲を見回して結界の境目を探した。
結界の境目は普通の人間の視覚では捉える事のできない、この世のものではない存在である。
例えば紫外線や赤外線を通常の人間は視認する事ができないみたいに、結界もまた視認できないものなのだ。
しかしどういう因果か、私の目にはそれが見えてしまう。
多色型色覚の持ち主であるとか、脳の視覚野が外部から結界の情報を受信しているだとか、色々と説はあるが未だに原理は不明であった。
蓮子はそんな私の目を笑いながら気持ち悪いと揶揄するが、私から見れば蓮子の目だって同じようなものであり、つまりは目くそ鼻くそである。
「あ……あった」
目くそと鼻くそのコンビで形成された秘封倶楽部の片割れの私は、そこで結界を見つけた。
それは空間上に開いた穴で、向こう側には同じような、でも違う森が広がっていた。
穴が開いた書き割りの向こう側にそういう風景が広がっているとでも理解していただけると幸いである。
「どれどれ? 見せて見せて!」
まるで子供のように蓮子がせがみ、私は彼女の目を覆い隠すように手で塞いだ。
「おお……すごいわ。ねえメリー、向こう側の空を見上げてみてよ!」
私は蓮子が言う通りに結界の向こう側の夜空を見上げた。
夜空にはこちらの世界とは比べ物にならないほど無数の星と、大きな月がまるで宝石のように煌めいていた。
「場所は長野県の山中……時間は、えっ! これ、何十年も前じゃない!」
「何十年も前の長野県?」
「ええ。結界は繋がる場所も時間も滅茶苦茶だから普通なんだけど、でもこんなに古い結界が未だ現存しているなんて……メリー、この結界、入れない?」
「……やって、みようかしら」
私は蓮子から手を離すと、自分の顔を手で覆って何も見えなくした。
頭の中に結界のビジョンが浮かび上がる。
これは私の頭の中の世界。
人間、眠らなくたってこうして夢と同じように映像を視覚野から流す事ができるのだ。
そして、それが夢であろうと、なかろうと、それは同一なのである。
夢であろうと現であろうと、主観で見ればそれは同一の世界なのである。
全ては主観によって世界は定められており、それは例えば箱の中の猫は必ず死んでいるか、もしくは生きているか、という問題と同等なのだ。
主観によって観測された猫は、波動関数が収束し波から一つの点になる。
世界も同じだ。
波動関数は収束し、世界は波から一つの点になる。
一つの可能性に収束される。
さて、それではあなたは、死んだ猫が目を離した隙に生きた猫になることなどあり得るとお考えだろうか。
一旦目を離した隙に、再び波の状態に戻ることなどあり得るだろうか。
答えは否である。
では、果たして現から夢にシフトした時に、一旦世界が波に変わることもあり得るだろうか。
夢も現も、主観で見た、つまりは同じ点なのである。
だから私は、夢の中から現へと物を持ってくることができるのだ。
私はビジョンの中でそっと結界に触れた。
普通であれば触れることなどできないはずの結界を。
すると、触れた先から結界がぼろぼろと崩れ、連鎖反応を起こして最後にはぐしゃりと潰れてしまった。
結界の老朽化が原因であろう、さっきまでそこにあった結界は今はもう跡形も残っていなかった。
私は目を開けて、期待に目を爛々と輝かせる蓮子に残酷な現実を突き付けることとなった。
「残念だわ。何十年も前の長野に一体何があったっていうのかしら。結界なんて張られていたんだから、きっと何かがあるのよ」
「それも今となっては水泡に帰してしまったというわけね」
結界が壊れてしまったので、私たちは本日のメインイベントである猫ラーメンへと向かった。
一旦御蔭通に出てから紆余曲折を経て、私たちは暗闇の中で輝く電球の光を見つけ、蛾かなにかのようにその元へと向かった。
果たして、蛾のように集まっていたのは何も私たちだけではないらしく、そこには見知った先客の姿があった。
「あれ、明石さんと店長?」
そこにいたのは「サテライト」の店長と、ウエイトレスの明石さんであった。
「おや、あなたがたは」と店長は一礼し、明石さんは口をもぐもぐとしながら小さくお辞儀した。
二人が少し詰めて生まれた隙間に私と蓮子も座ったが、ただでさえ狭い屋台の席に四人も座ると肘と肘がぶつかり合うほどであった。
猫ラーメンの店主にラーメンを二つ注文し、私は二人に話しかけた。
「二人ともどうしたんですか。こんな時間にこんな……」
と、そこまで言ってから気付き、私は口を手で塞いだ。
そういうことを訊くのは野暮である。
しかし明石さんがすかさず反論した。
「違います。そうじゃありません。明日の仕込みをしていたら遅くなってしまいまして、それでお腹も空いたので店長が何か奢ってくれるとおっしゃいますので、お言葉に甘えさせていただいた次第です」
そう言って明石さんは再び麺をちゅるちゅると啜り幸せそうにはふはふした。
否定はしておきながらも、店長とちんちんかもかもしていたと誤解されてどこか嬉しそうな様子であった。
店長の方はというと豪快にずぞぞぞぞと麺を啜り、さらに一玉を店主に注文していた。
そんな二人の姿ににやにやと浮かべた笑みがあんまり気持ち悪かったらしく、蓮子が怪訝そうな表情をした。
「あんた、大丈夫? ビジョンと一緒になんか変なもん見ちゃったんじゃないでしょうね?」
「失礼ね、私はいつだって自分を見失っていないわ」
ならいいんだけれど、と未だ疑いの眼差しを向ける蓮子と向けられる私の前に丼が置かれた。
湯気が顔を包み込み、鼻の中に醤油ベースの少し甘みのある香りが広がった。
「うわあ! 美味しそう!」
さっそく麺を啜ると、甘みのある醤油のまろやかでいてコクのあるスープの類い稀な味に恍惚と不安の間を絶え間なく揺れ動いた。
中太のちぢれ麺ももっちりしていて、それでいてコシがありスープがよく絡みついていた。
猫を出汁にしていると噂されているとのことであったが、これなら猫の出汁がとられていても一向に構わないし、日本人はイナゴとかハチの幼虫を平気で食べてるんだから何の問題もないだろう。
麺はみるみるうちに減ってゆき、蓮子と私は一度顔を見合わせてから思い切ってもう一玉を追加で注文することにした。
追加の二玉目もあっという間に平らげてしまい、私と蓮子はスープを飲み干して満足げにお腹を膨らませた。
こんなにも美味しいのであれば週三回は通ってもいいくらいである。
その結果として体重が増えてしまったとしても甘んじてそれを受け入れることも辞さないほどであった。
満足したところで店長がこんな夜遅くに女の子二人が出歩くのは危なっかしいと、車で送ってもらえることとなった。
御蔭通沿いにある下鴨神社の駐車場まで歩く。
「いやぁ、ありがとう店長。わたしぃ、店長のこと好きになっちゃうかも!」
蓮子がにやにやと笑みを浮かべて頭の悪い女を真似ると、店長は心の底から嫌そうな顔をしてみせた。
明石さんが店長の腕に縋り付き、蓮子を眉間にしわを刻んで睨む。
「宇佐見きょ……さん、いくら宇佐見さんと言えども店長だけは渡せません」
意外と積極的らしいのだが、黒髪の乙女にこれだけされておいて頬の一つも染めない店長は近年稀に見る猥褻のスペシャリストか、でなければ男の人をお好きになりあそばされる類いの霊長類なのだろう。
「まあまあそんなこと言わずに」と店長に抱きつこうとする蓮子を、明石さんがぐいぐいと押し返す。
「駄目ですいけません卑猥です破廉恥です」
どうやら反応を示さない店長に、蓮子は対象を早々に明石さんへとシフトチェンジしたらしかった。
だがさすがに明石さんが可哀想に思えたので、私は蓮子の首根っこを掴み引き剥がすことにした。
「いい加減になさい蓮子。あんまりからかうとひどいわよ」
「えぇー、いいじゃんいいじゃん、泰然自若な明石さんのうろたえる顔かわいいじゃん」
その気持ちはわからなくもないが、蓮子と違って思慮深い私は彼女の暴走を止めるべく四本の指を親指でガッチリ固定した握りこぶしを作ってみせた。
その握りこぶしに愛はない。
「あんまりひどいとおともだちパンチじゃ済まないわよ」
ちぇー、と口を尖らせると、それから蓮子は再び店長に視線を向けて妖怪もかくやという不気味な笑みを作ってみせた。
……なんだか、蓮子は思っていた以上にこの二人と親しげな様子であった。
ちょっぴり羨ましい。
「ふっふーん、店長、あなたを好いてる女の子三人に囲まれてどんな気分? 血気盛んなジョニーも大喜びじゃない?」
私は別に店長のことなど好きではない。
店長は蓮子を一瞥すると心底うんざりした顔をしてみせた。
「まるで子守をしてる気分だ」
蓮子の暇つぶしは駐車場にたどり着くまで終わることはなく、度々揶揄の対象が店長と明石さんの間を行ったり来たりし、明石さんに向けられるたびに私の愛のないパンチが蓮子に炸裂することとなったが、以前にも話した通り蓮子は反省をしないので同じ光景が度々繰り返される形となった。
店長が運転席、明石さんが助手席に座り、私と蓮子は後部座席に並んで座った。
「宇佐見の家は御池通だったか?」
「そうそう、御池通の中学校の近くでよろしく」
「ハーンさんは家ってどこにあるんですか?」
「あっ、三条大橋のあたりです」
「それじゃ、先に三条大橋だな」
どうやら店長達と蓮子は家の場所を知っているほど仲が良いらしく、私は少し意外に思った。
駐車場から御蔭通を右折して御蔭橋で高野川を渡ると、橋の前の交差点を右折して川端通を南下する。
鴨川デルタの横を通り過ぎる際、未だに宴会に明け暮れどんちゃん騒ぎをする愚学生たちがうごうごしている様が見えた。
暗がりの中で蠢くその姿からは、土の中から這い出てくる無数の蛆虫を連想させた。
と、突然に愚学生たちの周囲がぱあっと明るくなり、赤に緑にと輝く光弾が四方八方へと弾け飛んだ。
とうとう天岩戸が開かれたかと思ったがなんてことはない、打上花火が賀茂川の飛び石を挟んだ対岸から打ち込まれただけであった。
「歴史は繰り返されるねぇ」
そんな光景を眺めながら蓮子は苦笑した。
「それで、結界は結局どうだったんですか?」明石さんが訊ねた。
「いやぁ、それがもう古かったみたいで、すぐに壊れちゃったのよね。だからろくに調べられなかったのよ。残念だわ」
お腹を撫でて幸せそうな表情を浮かべながら蓮子はまったく説得力なく答えた。
「でも、手がかりは手に入れたわよ。長野県に何かがあるみたい」
「何かって、何ですか?」
「なにかしら。とんと見当もつかないわ。でも、例の消失した博麗神社も長野県だったし、メリーの……あー、いや、なんでもない」
蓮子が私の名前を言いかけてからやめると、店長と明石さんの体がビクッと硬直した。
「ちょっと、私がどうしたっていうのよ」
「なんでもないなんでもない! 兎に角! 長野に何かがありそうなのは間違いないわ。というわけでメリー、今度長野に行くわよ!」
久々の遠征ね、と意気揚々とする蓮子であったが、それと反比例するように私のテンションはイザナギプレート辺りまで落ちていった。
「長野とか……嫌よあんな辺鄙なところ。できればもう二度と足を踏み入れたくはないわね」
「辺鄙とか言わない。信州観光、面白かったでしょう?」
私には電波も入らないようなサナトリウムで療養、もとい隔離されていた記憶の方が鮮明に頭の裏側にこびりついており、亀の子束子でもってしても落ちる気配が微塵もない。
だから善光寺も戸隠も、蓮子が写真を入手してから結構経ってやっと行くことになった博麗神社跡地も、伊弉諾物質による高揚感に彩られて少々美化されてはいるがやはりどこか色あせている感が否めないのだ。
「まあ、蓮子が行くって言うなら、行くことになるんでしょうね」
「わかってるじゃない。そうと決まれば、早速スケジュール表をくむわよ!」
蓮子は手帳を取り出すと万年筆でなにやら書き始め、ものの数分と経たないうちに顔面を土色に変えてぐったりとした。
「……酔った」
「ほんと、救い難い阿呆ね」
蓮子はしくしくと泣いた。
三条大橋の傍に車が停まると、私は夜風の涼しい外の世界に降り立った。
暗闇の中を流れる鴨川が先斗町の明かりを反射して宝石のように輝いていた。
「それじゃあメリー、また明日ね」蓮子がぐったりしたまま言った。
「気をつけて帰れよ」店長が助手席越しに言い、明石さんはぺこりと小さくお辞儀をした。
店長の車は三条大橋を渡ってビル街へと消えていった。
私はぐっと背伸びをしてから、鴨川沿いに伸びる川端通を南に下った。
なにやら先斗町界隈がやけに騒がしく、いつも以上にぎらぎらと光り輝いていたが、きっと叡山電車を積み重ねたような三階建ての乗り物で老人と女子大生が飲み比べでもしているのだろう。
京都の夜は眠ることなく朝を迎えるが、私はもうすっかり疲れてくたくたになってしまった。
川端通を東に一本入った大和大路通に私が借りているマンションはある。
入り口で部屋の暗証番号を入力してから、白いグランドピアノが置かれた共有スペースを通り抜けてエレベーターに乗る。
最上階の五〇三号室に入り、私はそのままベッドに倒れこんでしまった。
シャワーを浴びて服を着替えて歯磨きをして肌の手入れをして、と頭の中では理解していても体は指先一つ動くことはなかった。
そうしてやがて混濁してゆく意識の中で、ふと疑問が浮かんだ。
「明石さん、どうして私たちが結界を暴きに行ったことを知って……」
カフェで聞き耳を立てられていたのだとしても、結界を暴くなんて一言も言っていないはずだ。
結界を暴く行為は、いわば波の状態の対象を無理矢理同じ舞台に立たせるようなものであり、均衡を崩す恐れがあるということで禁止された行為なのだ。
だから、人がいる場所でおいそれと口にしていいものではないし、それには細心の注意を払っている。
では、明石さんはどこでその情報を知ったのか。
いや、そもそも、それに馬鹿正直に答えた蓮子にも謎が残る。
そして私は一つの結論に辿り着いた。
ああ、そうか、裏表ルートって、明石さんと店長だったのか。
そこで混濁していた私の意識はとうとう失われることとなった。
そして私の名推理は、翌日の朝には綺麗さっぱり頭の片隅にも残っていなかったのであった。
「しかし、最初にハーンさんが情報機関とか言い出した時は焦りましたし、さらに裏表ルートなんて意味のわからないことまで言い出した時にはもう混乱しました」
助手席で深く息を吐きながら明石は言った。
「まあ、裏表ルートなんて意味のわからない機関をでっち上げて隠れ蓑にするという発想は中々だな。これで俺と明石は宇佐見に秘密裏に情報を差し出す機関の人間として被検体に認識され、ある程度怪しいことをしても被検体に疑われることはないだろう。だが宇佐見、今後はそういったアドリブは禁止な」
私が後部座席に向けて言うと、宇佐見は「うぇーい」と力なく返事した。
どうやら演技ではなく本当に酔ってしまったらしく、本当に救い難い阿呆であった。
「宇佐見教授、本当に勘弁してください。思いつきで出てきた猫ラーメンの屋台を探し求めて下鴨界隈をうろうろする羽目になった私たちの身にもなってください」
明石が念を押して言うと、宇佐見はぐずぐずと泣き始めた。
しかしそれが嘘泣きであると見破っていた明石は追い打ちを続けた。
「それだけじゃありません。何十分も遅刻してきたり、写真を忘れてきて私がいちごのタルトと一緒にこっそり持っていく羽目になったり、勝手に別サークルの飲み会に混じったり、あと失言の数々も見過ごせません。小津さんたちも客席でヒヤヒヤしてましたよ。一つ一つは小さなミスでもそれが積み重なることによっていつ私たちの活動がハーンさんにばれるともわからないんですから、その点をしっかり考えていただかないと困ります」
どうやら明石はけっこう腹に据えかねていたらしく、宇佐見に対して苦情を一気にまくし立てて宇佐見を飲み込んだ。
「わかったわかった、わかったわよう。そんな魚肉ハンバーグみたいにぷりぷりすることないじゃない」
「してません」
そんなことを言っているうちに御池通にあるマンションの前に辿り着く。
「それじゃ、おつかれー……」
宇佐見はふらふらとした足取りで、マンションの中へと消えていった。
「……お疲れ、明石」
助手席の明石を見ると、明石はこちらを見上げて微笑んだ。
「お疲れ様です。疲れましたね、精神的に」
「まったくだ。どうだ、明日は休みだし、よければこれから付き合ってくれないか」
私がクイっと酒を飲むジェスチャーをすると、明石はいいですね、と手を合わせた。
私は先斗町に向かって車を走らせた。
常習的に遅刻を繰り返す彼女の身を、もしや何かしらの事故に巻き込まれたのかしらとか、まさか変な男に絡まれてはいないだろうかなどという心配をしなくなって久しいが、やはりそれでもなんの連絡もなしに遅刻をされるといい気はしない。
腕時計をちらと見やり、それから待ち合わせ場所としていつも利用している大学構内のカフェの窓際にあるボックス席から、入り口の扉に目をやるも、扉に取り付けられたベルはただその身を持て余し動じる事なく、なんの音も鳴らさなかった。
仕方がない。いつもの事だと諦めて、私はメニュー表を見る事なく軽く手を上げてウエイトレスを呼んだ。
「ご注文はお決まりですか」
この明石という名前のウエイトレスは私が知る中でも一二を争う黒髪の乙女である。
落ち着き払った性格で、しかし時折間の抜けた行動をとる彼女は神秘的な雰囲気を醸し出していた。
彼女目当てでこのカフェに通う客も多いのではないかと推測するが、その彼女自身はどうやらこのカフェの店長に悪しからぬ思いを抱いている様子であった。
私は彼女にアップルパイとアイスコーヒーを注文すると、ぱたぱたとカウンターの奥にある厨房へと消えていく彼女の背中を目で追った。
と、カウンターの中ではどこか頼りなさげな風貌の店長が右耳に手を当てて、むつかしい顔でなにやらを話している様子であった。
耳につけるタイプの通話端末を使っているのだろう。
さして気になるものでもなかったので、私は暇つぶしがてら店内をぐるりと見回した。
客の入りは半分ほどで、談笑したり、パソコンになにやら打ち込んでいたり、分厚い本を広げたりなどしている。
今度から私も暇つぶしに本の一つでも持ち歩こうかなどと考えていると、明石さんがアイスコーヒーをトレーに乗せて運んできた。
キンキンに冷えたそれはグラスに水滴が浮かんでおり、中でカランと氷が鳴った。
それをちびちび飲みながら窓の外の中庭をなんとなしに眺めることさらに十分が経ち、テーブルにはほくほくと熱を発するアップルパイが運ばれた。
向かいの席には相変わらず蓮子の姿はなく、カフェの扉に取り付けられたベルは暇を持て余すが如く動じる事なく、なんの音も鳴らさなかった。
このカフェのアップルパイの味は私が自信を持って周囲に吹聴するほどの美味しさである。
開店前にまとめて焼いており、こうして客に出されるのは開店直後でもなければまず温め直しなのだが、しかしこのアップルパイは焼きたてと錯覚するほど生地がサクサクとしている。
漂う軽く焦げたバターの芳醇な香りにうっとりとしながら、そのツヤのある生地にフォークを刺すと、サクッと小気味の良い音が響いた。
パイを半分に割ると、中からとろりとしたアップルソースと、柔らかくなったリンゴの果肉がごろりと転がるのだ。
私はそれを口の中へと放り込み、歯に押しつぶされて音を奏でる生地と、舌の上にとろりと溶けてなんとも言えない甘さで味蕾を刺激するソースと、ごろりと口腔内に転がる大きなリンゴの欠片にはふはふした。
私が幸せのはふはふをしていると、突然それを破壊するがごとき勢いでカフェの扉が開けられた。
待ってましたとばかりにベルがけたたましく鳴り響き、店内の皆が驚いてそちらに目をやった。
入り口のところで皆の視線をほしいままにしながらぜいぜいと息を切らし突っ立っている人物こそ、不良オカルトサークル、秘封倶楽部の片割れである宇佐見蓮子に他ならず、悲しいかな私の相棒である。
明石さんが慌てた様子で蓮子に駆け寄り、蓮子はごめんごめんと彼女にぺこぺこ頭を下げた。
それから鳩が首を前後させながら歩くみたいに、店長や他の客にぺこぺこと頭を下げながら私の元へとやってきた。
私はその光景のあまりのはずかしさに、今ばかりは彼女の関係者であることを神様に恨んだが、そんな八つ当たり的恨みを押し付けられても神様だって迷惑だろう。
だが、迷惑と思うのであればこそどうかこれきりにして欲しいものであると、私は切に願ったのであるからして、神様はこの願いを十二分に受け入れて然るべきではなかろうか。
しかしそんな思いを知ってか知らずか、知ってようが知ってまいが、神様に背いてでも蓮子は私の向かい側にどっこいしょと腰掛けると、
「や、お待たせ」
とヘリウムガスもかくやという軽々しさでのたまったのであった。
ところで、蓮子は遅刻魔であり、ことその遅刻に関してはことごとく反省というものをしない新種の霊長類である。
当然のことながら反省しないから教訓を得られず、教訓を得られないから次に活かす事ができず、次に活かせないから結果として二たび三たびと言わず、四たびも五たびも同じ過ちを繰り返すのである。
これが遅刻魔蓮子が遅刻魔足り得る所以であった
今回も例に漏れずなんの反省の色もない蓮子は、代わりに自分色で一色に染め上げたマイペースさで水を持ってきた明石さんにいちごのタルトとアイスティーを何食わぬ顔で注文した。
蓮子はテーブルに肘をついて指を組むと、その上に顎を乗せて私を見つめた。
私はというとなるべく彼女の知り合いと思われないがために、彼女の視線を右へ左へかわしながらアップルパイを口に放り込む作業に戻った。
しかし、彼女の視線が邪魔をして先ほどよりいささか味が落ちている感が否めない。
「……それで、今日はいったいどうしたの?」
結局根負けしたのは私の方であった。
呼び出した理由を問う私に、蓮子は悲喜交々といった風に演技がかった口調で話し出す。
「これには日本海溝もかくやといった深い深い理由があるの。ここに来る途中、教授に呼び止められたのよ。次の講義に使う機材を運ぶ手伝いをしてくれって。私はカフェで友人と待ち合わせがあるのでと丁重にお断りさせてもらったんだけど、教授はあのカフェのいちごのタルトは美味しいわよねと言って取り合ってくれなかったわ。結局それで、私は遅れてしまったというわけ。ほら、私悪くない」
「私が訊いたのは、どうしてここに呼び出したのってことよ」
「あら、遅刻の理由を訊ねないだなんて、もしかしてメリー、私が遅刻したことを怒ってないの?」
寝ぼけたことをぬかす蓮子にあんまり腹が立ったので、私は熱々のリンゴの欠片を蓮子の口にぐいぐいと押し込んでやった。
蓮子ははふはふしながら涙を流した。蓮子は猫舌なのだ。
「あなたの言い訳なんてもう聞き飽きたわよ」
前述の通り遅刻魔であり反省を微塵もしない蓮子は、繰り返される遅刻の数だけ言い訳を生み出す能力の持ち主でもあった。
その多岐にわたる言い訳の数々に、最初こそこんな無駄なことに才能の一片を費やしてしまうとは嘆かわしいと思いつつも耳を傾けていたのだが、今では聴くにも値しない唾棄すべき駄弁であると一蹴するに落ち着いていた。
「それで、早く教えてくれないかしら。新しいネタとやらを」
「まあまあ落ち着きなさいな。急いだってネタは逃げないし私も逃げないわよ」
そう言いながら蓮子は鞄をがさごそと物色し、やがてその顔をしかめた。
「あれ、おっかしぃなぁ……あれー?」
「どうしたのよ」
「いや、鞄に入れてきたはずなんだけど、写真。入れたはずなんだよなあ」
「でも入っていないんでしょう? それじゃあ入れていないんじゃない?」
「いやいや、でも相対性精神学的観点から見るに、主観では入れたことになんら相違ないのよ。おかしいわね。観測したはずの粒子が再び波の状態に逆行するなんて……いや、そもそも主観と客観の違いについて考える必要があるわね。相対性精神学的考えは他人の存在をことごとく無視しているわ」
「詭弁はいいから、結局忘れたのね」
「ううーん、ううーん」
唸り声をあげながら鞄の中身をかき混ぜる蓮子。
と、蓮子はとつぜんはっとしてカウンターの方へと視線を向けた。
ならって私もカウンターに目を向けると、何やら店長が蓮子に向かって目配せをしている風に見えなくもない光景であった。
なにやら違和感を感じていると、お待たせいたしました、と明石さんがトレーにいちごのタルトとアイスティーを乗せてやってきた。
それらを蓮子の前へと置いていくと、明石さんはうやうやしくお辞儀をして去っていった。
「あっ、あったあった」
そう呟いて蓮子は取り出したる一枚の写真を、テーブルの上にすっと置いた。
私から見て逆さまに置かれているその写真を半回転させ、まじまじとその写し取られた光景を覗き込む。
夜の森を見上げる形で撮られたその写真には、闇の中に茫然と浮かぶ木々の隙間から覗き込むように二つの月が煌々と光っていた。
「月が二つ?」
「片方は現世の月よ。場所は御蔭通から下鴨神社の参道を少し入った糺ノ森で……下鴨神社、知ってる?」
「知ってるわよ。鴨川デルタの北にある神社でしょう?」
鴨川デルタは京都の西側を流れる鴨川の上流、高野川と賀茂川の合流地点にできた逆三角形の地帯であり、昼間は子供連れやカップルがなにをするでもなく無為に時間を費やし、夜は騒ぎ足りない愚学生たちが天照大御神でも呼び出さんばかりの騒ぎを起こす場である。
そんな賀茂川デルタは春から初夏にかけてサークルの新歓コンパの会場と化し、まだ入学したてで右も左もわからぬ私たちが仮入部した似非オカルトサークルの新歓コンパもまた、ここで開かれた。
この似非オカルトサークルが活動内容もひどければ、部長と副部長もひどく、おまけにこの新歓コンパがあの蓮子をしてひどかったと言わしめるに足るものであった。
あの時の記憶は思い起こすのもはばかられる悲惨さに彩られており、うすらぼんやりと脳裏に浮かぶのは川の向こう岸から喧騒の夜空に打ち上げられたロケット花火と、響き渡る大音声であった。
やあやあ我こそはむにゃむにゃ……
「あんな記憶、忘れたくても忘れられないわ」
「まあまあ。それはそれとして、下鴨神社よ。もう一つの月は現世の月ではないわ。この眼に映るのはどこか別の世界。詰まる所、言いたいことはわかるでしょう?」
蓮子は自分の右目を指差して言った。
「別の世界への入り口がここにある?」
「いかにも」
そう言って蓮子はいちごのタルトを口に放り込むと、蓮子らしからぬふにゃんと緩みきった表情でもってその美味しさを存分にアピールした。
「うん、教授がオススメするだけはあるわね。美味しいわ」
「蓮子、さっきリンゴ一欠片あげたわよね?」
「ええー、あんなの熱くて味もなにもわかったもんじゃないわよ」
「あら、それじゃあもう一口ご所望かしらん?」
私がもう一欠片をフォークで刺して見せると、蓮子は魚肉ハンバーグのようにぷりぷりと文句を言いながら一口大のタルトをこちらに差し出した。
「蓮子のそういうところが好きよ」
口の中にタルトのしっとりとした歯触りのクッキー生地と、いちごとクリームの甘酸っぱい香りが舌の温度でじわりと液化して口内をはじけて広がった。
私は幸せのもぐもぐをしながら、蓮子が持ってきた二つの月の写真をまじまじと眺めた。
「これも、例の情報機関から持ってきたの?」
なんとなしにそう訊ねると、蓮子はタルトを口に運ぶ動作の途中で硬直するという、想像していたのとは少し違う不思議な反応を示した。
それだけでは飽き足らず、なんと店内の客も話すのやパソコンに文字を打ち込むのをやめ、店長と明石さんも仕事をしている途中で硬直していた。
まるで時間でも停止したみたいであると思いながら、ふとこういった静寂が重なり合いなんの音もしなくなるのを天使が通ると何処かの国では表現するのだと思い出した。
さて、天使が通って困惑したのは誰でもない私である。
「えっ、あの、蓮子?」
しんと静まり返ったカフェでは私の声がいやによく響いた。
途端に、周囲の人々は我に返ったようにおしゃべりを始め、パソコンをいじり、仕事を再開し、そして蓮子はアルコール中毒者のように手を震わせながらタルトを口へと運んだ。
その顔からは長年付き合いのある私だからこそ感じ取れる動揺がうかがえた。
「えっ、な、なにかな?」
「だから、この写真。これ、いつもの裏表ルートとやらから入手したのって」
「あー、うんうん! そうそう! 知ってるわよ!」
反応があからさまに警察に声をかけられた不審者のそれである。
もしくは家族に猥褻物の所持を疑われたうら若き青少年もとい性少年のそれに他ならない。
「はて、もしや蓮子。あなたなにか私に隠し事とかしていないかしら?」
蓮子の体がメデューサに睨まれたが如く硬直した。
叩けば釘を木の板に打ち付けることも容易そうなほど、見事りっぱな硬直ぶりにはさすがの私も感嘆せざるを得ない。
私は身を乗り出して蓮子をじっと睨んだ。
睨まれた蓮子はさらに硬直し、目を右へ左へと自由自在に泳がせ頑なに私と目を合わせようとはしなかった。
ここでやっと私は自分こそがメデューサに他ならないのだと気付いたのである。
そしてメデューサこと私は蓮子の目をじっと覗き込んだまま、もう一度彼女に訊ねた。
「蓮子、よもやこの私に隠し事が通じるなんて思ってないわよね? 思ってないわよね。蓮子はわかってるものね。そうでしょ?」
蓮子に詰め寄っていて気付いたのだが、なにやら周囲からいやに視線を感じた。
もし視線が可視化されれば一直線に私に向けられているであろうそれら視線群は、どうやら店内の客が発信源であるらしかった。
私は素早い動きでこちらを見ていると思しき客に目を向けた。
するとさっと顔を背けるそぶりを見せる人物がちらほらとおり、先ほどの視線がか弱い乙女の自意識過剰ではないことが証明された。
まあ、これだけ騒いでいれば注目も浴びるというものであると、しばし猛省。
さて、気を取り直して嘘つき蓮子である。
しばらく硬直を持って黙秘を貫いていた蓮子であったが、私の目力を前にしてとうとう屈服を余儀なくされるに至った。
「降参降参、あーもう、メリーにはかなわないわ」と蓮子。
「殊勝な心構えね。さて、それじゃあなにを隠しているのか教えてもらおうかしら」
私が期待を込めた視線を蓮子に向けるのと同じように、店長と明石さん、それから客の視線も蓮子を向いていたのを私はこっそり気付いていた。
聞き耳でも立てていたのか、蓮子の隠し事とやらがどうにも珍しくあり、気になるといった様子であった。
皆の視線を一身に受けながら、蓮子はゆっくりと話し始めた。
「実はね、この写真の調査は建前で、本当の目的は別にあるのよ」
「本当の目的」
「それはね、下鴨界隈に存在するという猫ラーメンという屋台ラーメンを食べることよと」
「猫ラーメン」私は呆れてため息をついた。
「ラーメンなんて一人で食べてくればいいじゃない」
私や明石さんならいざ知らず、蓮子ほど乙女心からかけ離れた存在にもなればラーメン屋に一人で入るくらい赤子の手をひねるよりも容易かろうと進言するも、しかし蓮子はとんでもないと首を横に振って反論した。
「いい? まず、私だって乙女よ。それに、ラーメン屋はラーメン屋でも、猫ラーメンは屋台ラーメンなの。屋台よ屋台。レベル表記で言えば超上級よ。初心者が一人でやすやすと足を踏み込んでいい場所じゃないわ」
「じゃあ行かなきゃいいじゃない」
「わかってないわね。猫ラーメンって、猫を出汁に使っているなんて噂もあるけれど、その実味は無類の美味しさらしいの。どう、気にならない? 今や合成食品が軒を連ねる日本の食文化界隈において、健康に気を使わないケミカルな調味料で健康食品至上主義者が卒倒しそうなものを食べたくない?」
蓮子の言わんとすることは、実はわからないでもなかった。
この日本の首都、京都を中心にこの国の食文化は大きく傾き始めていた。
合成食品が主流となり天然食品が淘汰され、今やそれらは金に余裕のある成金が自身の成金アピールのために購入するにすぎないものへと成り下がった。
そもそも合成食品は天然食品より安全で、栄養も高く、そして何より安いのだ。
そんな合成食品は健康に良いものであるが故に、健康に悪いジャンクフード類に使用すべきではないなどという意見が広まり、京都の食文化はもっぱら精進料理や懐石料理といった味気のないものばかりが蔓延ることとなった。
そんな京都の食文化に憂いを感じ、一石を投じんと逆にジャンクフード店が多く出現、流行し始めたのは言うまでもない。
「そうねぇ、たまにはラーメンもいいかもしれないわね」
「でしょうでしょう! そうと決まったら、早速今日の夜に下鴨神社に行くわよ!」
そして蓮子はいちごのタルトをぱくつき、アイスティーを一気に喉へと流し込むと、それじゃ! と手を挙げて颯爽とカフェを飛び出していった。
嵐が過ぎ去った後のような静けさがカフェを支配し、私は疲れからふうと軽いため息をついた。
「………………」
蓮子は自分が食べた分の支払いをせずに出ていったのである。
出町柳駅を降りた私は高野川側の飛び石を渡って鴨川デルタへと降り立った。
夜の鴨川デルタでは相変わらずどこぞのサークルが宴会で蛙鳴蝉噪としており、夜をもってして昼間のような喧騒であった。
「あっ、メリー!」
その横を通り過ぎて松の木の方へと向かおうとすると、どういう訳か酒を飲み笑う声の中に一つ私の名前を呼ぶ既知の声が混じっていた。
見ると、どんちゃん騒ぐ学生に混じってどんちゃん騒いでいる蓮子の姿がそこにはあった。
蓮子は缶ビール片手に恵比寿様みたいに笑いながらこちらへとやってきた。
「何やってるのよ、蓮子」
「いやぁ、なんか賀茂大橋から楽しそうにしてるのを見つけちゃって、それで混ざってたのよ」
「私が通りかからなかったらどうしたのよ」
「そりゃあ、頃合いを見て抜け出したわよ? 今の私ほど時間に正確な人間はいないんですもの」
そう言って蓮子は星空を見上げて、十一時二十六分十七秒と呟いた。
「おうい! 蓮子ちゃーん!」
宴会の中から頭の悪そうなちゃらちゃらとした学生が親しげに蓮子の名前を呼び、それに振り返って蓮子も手を振って答える。
「その子誰? 蓮子ちゃんの友達? かわいいね、紹介してよ!」
「やだもう部長さんたら、こんなにかわいい女の子がここにいるのに」
頭の悪そうなちゃらちゃらしたその男は、どうやらこのサークルの部長であるらしく、周りの学生たちもそれに呼応するように囃し立てた。
なんだか面白くない。
明らかに日本人ではない風貌が災いして、昔からよく好奇の目で見られたことを思い出す。
私はこの空気が苦手だった。
胸中に漠然としてわだかまるこのもやもやを抱きながら、私は松の木の方へと歩き出した。
「あれあれ? 行っちゃうの?」と男の間抜けな声が聞こえたが無視する。
「ちょっとメリー! どうしたの!」
「知らない。そんなに宴会が楽しいならどうぞごゆっくり。好きなだけちんちんかもかもしてればいいじゃない。私は下鴨神社の結界を見てから猫ラーメンを食べるわ」
河合橋と出町橋の間を横切って下鴨東通に入り、家庭裁判所の裏にある参道入り口を進む。
賀茂御祖神社研修道場を過ぎると御蔭通と交差し、その先には鬱々と広がる糺ノ森が風にざわめいており一つの怪物じみて不気味であった。
「ちょっとメリー、まだ拗ねてるの? いつまで魚肉ハンバーグみたいにぷりぷりしてるのよ」
「拗ねてないし、魚肉ハンバーグみたいにぷりぷりもしてない」
結局蓮子は宴会を抜け出して私の後を追ってきた。
嬉しいのは嬉しいのだが、やはりどこか素直に喜ぶことができないのは、きっと蓮子の言う通り私が拗ねているからなのだろう。
「ごめんって。メリーがああいうふうにいじられるのが嫌だって、知ってたのにフォローしてあげられなくってさ。でも、あいつらだって悪気があってやってる訳じゃないんだし、酒の席だからと思って大目に見てよ。ね?」
蓮子を振り向くと、彼女は苦笑していた。
きっと子供じみた理論で拗ねる私に呆れているのだろう。
そして、呆れているのにこうやっていつも私の隣にいてくれる彼女に、私は感謝した。
じわりと、視界が歪む。
「えっ、ちょ! 泣くほど? 泣くほど嫌だったの?」
私は手の甲で涙を拭ってから、首を横に振った。
「ううん、自分のみっともなさに涙が出てきただけよ」
「もー、メリーってば真面目すぎるのよ。もっとこう、のんびりしなさいよのんびり」
「のんびりって、蓮子みたいな救い難い阿呆になれってこと?」
「……あんたもうとっくに泣き止んでるでしょう」
涙と一緒に心の老廃物も流れてしまったらしく、その後の私の気持ちは晴れ晴れとしたものであった。
だが、のんびりしすぎて救い難い阿呆になってしまった、我が愛しき相棒に忠告の一つもせにゃならんのは心苦しい限りである。
「さて、蓮子。ああいう無頼の輩と付き合うなとは言わないわ。でも世の中には聖人君子なんてほんの一握りしか存在しないの。残りは腐れ外道かド阿呆か、もしくは腐れ外道でド阿呆なのよ。特にこの年頃の男なんてほとんどみんな自分のジョニーを遊ばせる事にやたらと躍起になって、事を成すことばかり考えている後先を考えない万年発情期の愚か者ばかりよ。事を成した相手の数でカーストが決まるような、そういう種類の霊長類なんだから。蓮子も曲がりなりにも乙女を名乗るなら、それくらいは気を付けてもらわないと大変な事になるわよ。特にお酒が絡むと人間周りが見えなくなるんだから。ちょっと、聞いてるの?」
どうやら私のありがたいお説教も蓮子には馬の耳に念仏であるらしく、私はまた蓮子が件の似非オカルトサークルの悲劇めいた事件に巻き込まれやしないかと、参道を闇へと突き進む彼女の背中を眺めながら不安に駆られるのであった。
とまあ、世の中の男どもがいかにジョニーをあれやこれやする事だけを考えているかを力説したところで、乙女のおの字も危うい蓮子には少々むつかしい話であったかもしれない。
蓮子は引き続き私がしっかりと見張っていようと改めて心に固く誓い、私は一人参道を進んでいく蓮子を追った。
結局私たちは、お互いにお互いを保護者と思っているのかもしれない。
闇の中をしばらく進み、途中で参道を外れて鬱蒼とした森の中を悪戦苦闘しながら突き進む。
ギャアギャアと鳥が鳴き、虫の声があちこちから響く。
月の明かりもほとんど枝葉に遮られ、一寸先は闇を具現化したような感じである。
「この辺りの筈なんだけど」蓮子が星空を見上げて言った。
私は周囲を見回して結界の境目を探した。
結界の境目は普通の人間の視覚では捉える事のできない、この世のものではない存在である。
例えば紫外線や赤外線を通常の人間は視認する事ができないみたいに、結界もまた視認できないものなのだ。
しかしどういう因果か、私の目にはそれが見えてしまう。
多色型色覚の持ち主であるとか、脳の視覚野が外部から結界の情報を受信しているだとか、色々と説はあるが未だに原理は不明であった。
蓮子はそんな私の目を笑いながら気持ち悪いと揶揄するが、私から見れば蓮子の目だって同じようなものであり、つまりは目くそ鼻くそである。
「あ……あった」
目くそと鼻くそのコンビで形成された秘封倶楽部の片割れの私は、そこで結界を見つけた。
それは空間上に開いた穴で、向こう側には同じような、でも違う森が広がっていた。
穴が開いた書き割りの向こう側にそういう風景が広がっているとでも理解していただけると幸いである。
「どれどれ? 見せて見せて!」
まるで子供のように蓮子がせがみ、私は彼女の目を覆い隠すように手で塞いだ。
「おお……すごいわ。ねえメリー、向こう側の空を見上げてみてよ!」
私は蓮子が言う通りに結界の向こう側の夜空を見上げた。
夜空にはこちらの世界とは比べ物にならないほど無数の星と、大きな月がまるで宝石のように煌めいていた。
「場所は長野県の山中……時間は、えっ! これ、何十年も前じゃない!」
「何十年も前の長野県?」
「ええ。結界は繋がる場所も時間も滅茶苦茶だから普通なんだけど、でもこんなに古い結界が未だ現存しているなんて……メリー、この結界、入れない?」
「……やって、みようかしら」
私は蓮子から手を離すと、自分の顔を手で覆って何も見えなくした。
頭の中に結界のビジョンが浮かび上がる。
これは私の頭の中の世界。
人間、眠らなくたってこうして夢と同じように映像を視覚野から流す事ができるのだ。
そして、それが夢であろうと、なかろうと、それは同一なのである。
夢であろうと現であろうと、主観で見ればそれは同一の世界なのである。
全ては主観によって世界は定められており、それは例えば箱の中の猫は必ず死んでいるか、もしくは生きているか、という問題と同等なのだ。
主観によって観測された猫は、波動関数が収束し波から一つの点になる。
世界も同じだ。
波動関数は収束し、世界は波から一つの点になる。
一つの可能性に収束される。
さて、それではあなたは、死んだ猫が目を離した隙に生きた猫になることなどあり得るとお考えだろうか。
一旦目を離した隙に、再び波の状態に戻ることなどあり得るだろうか。
答えは否である。
では、果たして現から夢にシフトした時に、一旦世界が波に変わることもあり得るだろうか。
夢も現も、主観で見た、つまりは同じ点なのである。
だから私は、夢の中から現へと物を持ってくることができるのだ。
私はビジョンの中でそっと結界に触れた。
普通であれば触れることなどできないはずの結界を。
すると、触れた先から結界がぼろぼろと崩れ、連鎖反応を起こして最後にはぐしゃりと潰れてしまった。
結界の老朽化が原因であろう、さっきまでそこにあった結界は今はもう跡形も残っていなかった。
私は目を開けて、期待に目を爛々と輝かせる蓮子に残酷な現実を突き付けることとなった。
「残念だわ。何十年も前の長野に一体何があったっていうのかしら。結界なんて張られていたんだから、きっと何かがあるのよ」
「それも今となっては水泡に帰してしまったというわけね」
結界が壊れてしまったので、私たちは本日のメインイベントである猫ラーメンへと向かった。
一旦御蔭通に出てから紆余曲折を経て、私たちは暗闇の中で輝く電球の光を見つけ、蛾かなにかのようにその元へと向かった。
果たして、蛾のように集まっていたのは何も私たちだけではないらしく、そこには見知った先客の姿があった。
「あれ、明石さんと店長?」
そこにいたのは「サテライト」の店長と、ウエイトレスの明石さんであった。
「おや、あなたがたは」と店長は一礼し、明石さんは口をもぐもぐとしながら小さくお辞儀した。
二人が少し詰めて生まれた隙間に私と蓮子も座ったが、ただでさえ狭い屋台の席に四人も座ると肘と肘がぶつかり合うほどであった。
猫ラーメンの店主にラーメンを二つ注文し、私は二人に話しかけた。
「二人ともどうしたんですか。こんな時間にこんな……」
と、そこまで言ってから気付き、私は口を手で塞いだ。
そういうことを訊くのは野暮である。
しかし明石さんがすかさず反論した。
「違います。そうじゃありません。明日の仕込みをしていたら遅くなってしまいまして、それでお腹も空いたので店長が何か奢ってくれるとおっしゃいますので、お言葉に甘えさせていただいた次第です」
そう言って明石さんは再び麺をちゅるちゅると啜り幸せそうにはふはふした。
否定はしておきながらも、店長とちんちんかもかもしていたと誤解されてどこか嬉しそうな様子であった。
店長の方はというと豪快にずぞぞぞぞと麺を啜り、さらに一玉を店主に注文していた。
そんな二人の姿ににやにやと浮かべた笑みがあんまり気持ち悪かったらしく、蓮子が怪訝そうな表情をした。
「あんた、大丈夫? ビジョンと一緒になんか変なもん見ちゃったんじゃないでしょうね?」
「失礼ね、私はいつだって自分を見失っていないわ」
ならいいんだけれど、と未だ疑いの眼差しを向ける蓮子と向けられる私の前に丼が置かれた。
湯気が顔を包み込み、鼻の中に醤油ベースの少し甘みのある香りが広がった。
「うわあ! 美味しそう!」
さっそく麺を啜ると、甘みのある醤油のまろやかでいてコクのあるスープの類い稀な味に恍惚と不安の間を絶え間なく揺れ動いた。
中太のちぢれ麺ももっちりしていて、それでいてコシがありスープがよく絡みついていた。
猫を出汁にしていると噂されているとのことであったが、これなら猫の出汁がとられていても一向に構わないし、日本人はイナゴとかハチの幼虫を平気で食べてるんだから何の問題もないだろう。
麺はみるみるうちに減ってゆき、蓮子と私は一度顔を見合わせてから思い切ってもう一玉を追加で注文することにした。
追加の二玉目もあっという間に平らげてしまい、私と蓮子はスープを飲み干して満足げにお腹を膨らませた。
こんなにも美味しいのであれば週三回は通ってもいいくらいである。
その結果として体重が増えてしまったとしても甘んじてそれを受け入れることも辞さないほどであった。
満足したところで店長がこんな夜遅くに女の子二人が出歩くのは危なっかしいと、車で送ってもらえることとなった。
御蔭通沿いにある下鴨神社の駐車場まで歩く。
「いやぁ、ありがとう店長。わたしぃ、店長のこと好きになっちゃうかも!」
蓮子がにやにやと笑みを浮かべて頭の悪い女を真似ると、店長は心の底から嫌そうな顔をしてみせた。
明石さんが店長の腕に縋り付き、蓮子を眉間にしわを刻んで睨む。
「宇佐見きょ……さん、いくら宇佐見さんと言えども店長だけは渡せません」
意外と積極的らしいのだが、黒髪の乙女にこれだけされておいて頬の一つも染めない店長は近年稀に見る猥褻のスペシャリストか、でなければ男の人をお好きになりあそばされる類いの霊長類なのだろう。
「まあまあそんなこと言わずに」と店長に抱きつこうとする蓮子を、明石さんがぐいぐいと押し返す。
「駄目ですいけません卑猥です破廉恥です」
どうやら反応を示さない店長に、蓮子は対象を早々に明石さんへとシフトチェンジしたらしかった。
だがさすがに明石さんが可哀想に思えたので、私は蓮子の首根っこを掴み引き剥がすことにした。
「いい加減になさい蓮子。あんまりからかうとひどいわよ」
「えぇー、いいじゃんいいじゃん、泰然自若な明石さんのうろたえる顔かわいいじゃん」
その気持ちはわからなくもないが、蓮子と違って思慮深い私は彼女の暴走を止めるべく四本の指を親指でガッチリ固定した握りこぶしを作ってみせた。
その握りこぶしに愛はない。
「あんまりひどいとおともだちパンチじゃ済まないわよ」
ちぇー、と口を尖らせると、それから蓮子は再び店長に視線を向けて妖怪もかくやという不気味な笑みを作ってみせた。
……なんだか、蓮子は思っていた以上にこの二人と親しげな様子であった。
ちょっぴり羨ましい。
「ふっふーん、店長、あなたを好いてる女の子三人に囲まれてどんな気分? 血気盛んなジョニーも大喜びじゃない?」
私は別に店長のことなど好きではない。
店長は蓮子を一瞥すると心底うんざりした顔をしてみせた。
「まるで子守をしてる気分だ」
蓮子の暇つぶしは駐車場にたどり着くまで終わることはなく、度々揶揄の対象が店長と明石さんの間を行ったり来たりし、明石さんに向けられるたびに私の愛のないパンチが蓮子に炸裂することとなったが、以前にも話した通り蓮子は反省をしないので同じ光景が度々繰り返される形となった。
店長が運転席、明石さんが助手席に座り、私と蓮子は後部座席に並んで座った。
「宇佐見の家は御池通だったか?」
「そうそう、御池通の中学校の近くでよろしく」
「ハーンさんは家ってどこにあるんですか?」
「あっ、三条大橋のあたりです」
「それじゃ、先に三条大橋だな」
どうやら店長達と蓮子は家の場所を知っているほど仲が良いらしく、私は少し意外に思った。
駐車場から御蔭通を右折して御蔭橋で高野川を渡ると、橋の前の交差点を右折して川端通を南下する。
鴨川デルタの横を通り過ぎる際、未だに宴会に明け暮れどんちゃん騒ぎをする愚学生たちがうごうごしている様が見えた。
暗がりの中で蠢くその姿からは、土の中から這い出てくる無数の蛆虫を連想させた。
と、突然に愚学生たちの周囲がぱあっと明るくなり、赤に緑にと輝く光弾が四方八方へと弾け飛んだ。
とうとう天岩戸が開かれたかと思ったがなんてことはない、打上花火が賀茂川の飛び石を挟んだ対岸から打ち込まれただけであった。
「歴史は繰り返されるねぇ」
そんな光景を眺めながら蓮子は苦笑した。
「それで、結界は結局どうだったんですか?」明石さんが訊ねた。
「いやぁ、それがもう古かったみたいで、すぐに壊れちゃったのよね。だからろくに調べられなかったのよ。残念だわ」
お腹を撫でて幸せそうな表情を浮かべながら蓮子はまったく説得力なく答えた。
「でも、手がかりは手に入れたわよ。長野県に何かがあるみたい」
「何かって、何ですか?」
「なにかしら。とんと見当もつかないわ。でも、例の消失した博麗神社も長野県だったし、メリーの……あー、いや、なんでもない」
蓮子が私の名前を言いかけてからやめると、店長と明石さんの体がビクッと硬直した。
「ちょっと、私がどうしたっていうのよ」
「なんでもないなんでもない! 兎に角! 長野に何かがありそうなのは間違いないわ。というわけでメリー、今度長野に行くわよ!」
久々の遠征ね、と意気揚々とする蓮子であったが、それと反比例するように私のテンションはイザナギプレート辺りまで落ちていった。
「長野とか……嫌よあんな辺鄙なところ。できればもう二度と足を踏み入れたくはないわね」
「辺鄙とか言わない。信州観光、面白かったでしょう?」
私には電波も入らないようなサナトリウムで療養、もとい隔離されていた記憶の方が鮮明に頭の裏側にこびりついており、亀の子束子でもってしても落ちる気配が微塵もない。
だから善光寺も戸隠も、蓮子が写真を入手してから結構経ってやっと行くことになった博麗神社跡地も、伊弉諾物質による高揚感に彩られて少々美化されてはいるがやはりどこか色あせている感が否めないのだ。
「まあ、蓮子が行くって言うなら、行くことになるんでしょうね」
「わかってるじゃない。そうと決まれば、早速スケジュール表をくむわよ!」
蓮子は手帳を取り出すと万年筆でなにやら書き始め、ものの数分と経たないうちに顔面を土色に変えてぐったりとした。
「……酔った」
「ほんと、救い難い阿呆ね」
蓮子はしくしくと泣いた。
三条大橋の傍に車が停まると、私は夜風の涼しい外の世界に降り立った。
暗闇の中を流れる鴨川が先斗町の明かりを反射して宝石のように輝いていた。
「それじゃあメリー、また明日ね」蓮子がぐったりしたまま言った。
「気をつけて帰れよ」店長が助手席越しに言い、明石さんはぺこりと小さくお辞儀をした。
店長の車は三条大橋を渡ってビル街へと消えていった。
私はぐっと背伸びをしてから、鴨川沿いに伸びる川端通を南に下った。
なにやら先斗町界隈がやけに騒がしく、いつも以上にぎらぎらと光り輝いていたが、きっと叡山電車を積み重ねたような三階建ての乗り物で老人と女子大生が飲み比べでもしているのだろう。
京都の夜は眠ることなく朝を迎えるが、私はもうすっかり疲れてくたくたになってしまった。
川端通を東に一本入った大和大路通に私が借りているマンションはある。
入り口で部屋の暗証番号を入力してから、白いグランドピアノが置かれた共有スペースを通り抜けてエレベーターに乗る。
最上階の五〇三号室に入り、私はそのままベッドに倒れこんでしまった。
シャワーを浴びて服を着替えて歯磨きをして肌の手入れをして、と頭の中では理解していても体は指先一つ動くことはなかった。
そうしてやがて混濁してゆく意識の中で、ふと疑問が浮かんだ。
「明石さん、どうして私たちが結界を暴きに行ったことを知って……」
カフェで聞き耳を立てられていたのだとしても、結界を暴くなんて一言も言っていないはずだ。
結界を暴く行為は、いわば波の状態の対象を無理矢理同じ舞台に立たせるようなものであり、均衡を崩す恐れがあるということで禁止された行為なのだ。
だから、人がいる場所でおいそれと口にしていいものではないし、それには細心の注意を払っている。
では、明石さんはどこでその情報を知ったのか。
いや、そもそも、それに馬鹿正直に答えた蓮子にも謎が残る。
そして私は一つの結論に辿り着いた。
ああ、そうか、裏表ルートって、明石さんと店長だったのか。
そこで混濁していた私の意識はとうとう失われることとなった。
そして私の名推理は、翌日の朝には綺麗さっぱり頭の片隅にも残っていなかったのであった。
「しかし、最初にハーンさんが情報機関とか言い出した時は焦りましたし、さらに裏表ルートなんて意味のわからないことまで言い出した時にはもう混乱しました」
助手席で深く息を吐きながら明石は言った。
「まあ、裏表ルートなんて意味のわからない機関をでっち上げて隠れ蓑にするという発想は中々だな。これで俺と明石は宇佐見に秘密裏に情報を差し出す機関の人間として被検体に認識され、ある程度怪しいことをしても被検体に疑われることはないだろう。だが宇佐見、今後はそういったアドリブは禁止な」
私が後部座席に向けて言うと、宇佐見は「うぇーい」と力なく返事した。
どうやら演技ではなく本当に酔ってしまったらしく、本当に救い難い阿呆であった。
「宇佐見教授、本当に勘弁してください。思いつきで出てきた猫ラーメンの屋台を探し求めて下鴨界隈をうろうろする羽目になった私たちの身にもなってください」
明石が念を押して言うと、宇佐見はぐずぐずと泣き始めた。
しかしそれが嘘泣きであると見破っていた明石は追い打ちを続けた。
「それだけじゃありません。何十分も遅刻してきたり、写真を忘れてきて私がいちごのタルトと一緒にこっそり持っていく羽目になったり、勝手に別サークルの飲み会に混じったり、あと失言の数々も見過ごせません。小津さんたちも客席でヒヤヒヤしてましたよ。一つ一つは小さなミスでもそれが積み重なることによっていつ私たちの活動がハーンさんにばれるともわからないんですから、その点をしっかり考えていただかないと困ります」
どうやら明石はけっこう腹に据えかねていたらしく、宇佐見に対して苦情を一気にまくし立てて宇佐見を飲み込んだ。
「わかったわかった、わかったわよう。そんな魚肉ハンバーグみたいにぷりぷりすることないじゃない」
「してません」
そんなことを言っているうちに御池通にあるマンションの前に辿り着く。
「それじゃ、おつかれー……」
宇佐見はふらふらとした足取りで、マンションの中へと消えていった。
「……お疲れ、明石」
助手席の明石を見ると、明石はこちらを見上げて微笑んだ。
「お疲れ様です。疲れましたね、精神的に」
「まったくだ。どうだ、明日は休みだし、よければこれから付き合ってくれないか」
私がクイっと酒を飲むジェスチャーをすると、明石はいいですね、と手を合わせた。
私は先斗町に向かって車を走らせた。
二人の世界って感じで