「全く、いつになったら私は外へ帰れるのだろう」
起きたばかりの早朝、私は冷たい机に突っ伏したまま、誰にともなくそうぼやいた。薄い長屋の壁では、冬の風を凌ぎきることができない。かたかたと音を立て、まるで愚かな私を笑っているようだ。
私の名は菅天相(カン テンショウ)。外の世界では、それなりに名の知れた神であった。特に年の初めから終わりにかけては、受験に挑む学生からの信仰が厚く、私の神力も大いに高まった。
「それなのに・・・・」
ある巫女に呼び出されてから、私の人生(神生?)は狂ってしまった。なんとその巫女が暮らす郷には、受験が無いと言うではないか。受験の無い世界で学問の神が信仰を集めようなど、ガソリンが無いのに車を走らせようとするようなものである。私の神力はみるみるうちに衰えていき、郷の結界を超えることすら出来無くなってしまった。なんという諸行無常であろうか。ここに連れてこられてから、どれだけの時間が経ったのだろう?私をここに呼び出した巫女は、いつの間にか務めを終え、新たな巫女が神社を仕切っているという。
「ふぅむ」
私はよく分からない溜息を吐き、黒い鞄の中から一冊の和製本を取り出す。表紙には「小学入門」と書かれており、1ページ目には「いろは表」が載っている。私の務める寺子屋で使っている教科書だ。この郷の学問は、明治の頃から何も進歩していない。腐っても学問の神、私が教えるべきなのは、もっと難解で高度な学問であるはずなのだ。そしてそんな学問を教える場はこの郷のどこにも無く、また教えたとしても理解できる者がいない。学問は時に無力である。
―――
そんな風に私が突っ伏していると、長屋の扉を叩く音が聞こえてきた。少し人に叩かれただけでも、長屋の扉は折れそうなほどに悲鳴を上げる。擬音語で表現するのであれば、コンコンというよりミシミシといった感じだ。
「どうぞ」
私は正座に座り直し、しっかりと姿勢を正した。
「お邪魔します」
そう言って中に入ってきたのは、同じ寺子屋に勤めている上白沢慧音先生であった。トレードマークの学帽を脱ぎながら、こちらに向かって丁寧なお辞儀をする。私もできるだけ背筋を伸ばし、お辞儀を返した。
「上白沢先生でしたか。どうぞ中にお入りください」
私は上白沢先生に座布団を勧めてから、狭い台所に向かい茶を淹れた。茶と詩は、幻想郷でも楽しめる数少ない娯楽である。
上白沢先生は、まるで天井から伸びた糸に引っ張られているかのごとく、きっちりと背筋を伸ばし座っている。よく言えば真面目で、悪く言えば堅いというのが、私の先生に対する印象である。もう何年も同じ職場に務めているのだから、もう少し気を緩めてもいいのではないだろうか。
「それで今日はどうしたのですか?」
淹れたお茶を卓に置きながら、私は先生と向かい合うようにして座った。
「それがですね・・・。どうやら昨日、寺子屋に泥棒が入ったようなのですよ」
「泥棒?」
「はい。昨晩のうちに、何者かが校舎に侵入したようなのです。職員室の資料が散乱していたり、教室の机が動かされていたり・・・」
私は少し驚いた。泥棒そのものは、人間の里においてそう珍しいものではない。しかしわざわざ寺子屋を狙う泥棒がいるとは思ってもみなかった。金目のものが少ない上に、子供達を預かっているため、セキュリティも(人里にしては)しっかりしている。わざわざ盗みに入るメリットが考えられない。
「しかもその泥棒、何も盗んでないのです」
「え?」
「職員室を含む全教室を物色して、結局何も盗んで行かなかったみたいで。備品や教材を全て確認したのですが、無くなっている物がありませんでした」
「それ泥棒と呼べるんですか?」
「どうなのでしょう?物色した形跡は残っていますし・・・でも何も盗んでないんじゃ・・・。そもそも泥棒の定義とは・・・」
慧音先生は小さな声で呟きながら、考え込み始めてしまった。
それにしても、寺子屋に忍び込んでおきながら、何も盗まない泥棒とはどんな奴なのだろう?建物に侵入することに快楽を感じる変質者か、はたまた少女の使った机に興奮する変質者か。どちらにせよ、相当な変質者に違いない。私はそんな気持ちの悪い想像を頭から押し出そうと、緑茶を一口啜った。
「泥棒が入ったということは、今日は鍵の確認にいらしたということですか?」
「おっしゃる通りです」
寺子屋の校門、職員室の鍵は、全ての教員が1本ずつ持っている。侵入者があったとなれば、最初に疑われるのは我々ということだ。私は部屋の隅の戸棚を開け、鍵の有無を確認する。
「私の鍵はしっかりありますね」
私の寺子屋の鍵は、昨日戻した通りの場所に置いてあった。寺子屋に設置されている鍵は、外の世界では見かけ無くなった南京錠である。
「そうですか」
上白沢先生はこともなげに頷いた。元々疑ってなどいなかったのだろう。あくまで形式上の調査というわけだ。
「すいません、お力になれなくて」
「いえいえ、ご協力ありがとうございました」
上白沢先生はゆっくり立ち上がると、長屋の扉を開け、外に出ようとした。そこで、何かを思い出したかのように振り返り、悩ましげに言った。
「多分、侵入しただけなら泥棒とは定義されないと思います。先程の発言は訂正します。すいません」
「はぁ・・・」
まだ考えていたのかと、私は少し呆れてしまった。もう一度言っておこう。よく言えば真面目で、悪く言えば堅いというのが、私の先生に対する印象である。
―――
上白沢先生がお帰りになった後、私は朝食を摂り、身支度を始めた。腰に巻いた注連縄に、松と梅の枝を挟んでおく。それらは私にとってお守りのようなものだ。いつから、どうして身につけ始めたのかは、不思議とよく覚えていないが、ないとどうも落ち着かないのだ。神がお守りを持つというのも、よく分からない話ではあるが。私はいつも通りの準備を終え、足早に長屋を出た。
私の家から徒歩で十分ほど、人間の里の中心街に寺子屋はある。脇に流れる小川が美しい、純和風の建物だ。
「おはようございます」
職員室の扉を開けると、資料やら教科書やらが床にまみれていた。昨日の泥棒が物色した跡らしい。
「おはようございます」
上白沢先生や他の先生方が挨拶を返してくる。私は周囲の資料を拾いながら、それぞれの書棚にしまい始めた。書棚に入っていた本の八割ほどが床に散らばっている。
「教室の机も、みんな位置をずらされたり、ひっくり返されたりしていたのです」
上白沢先生が、机上の資料を整えながら言った。上白沢先生の資料は、他の先生のものに比べて数倍多い。机上に置かれていたそれらが皆ばらばらにされてしまったのだから、その苦労は推して測るべきであろう。翻って、私の机には数冊の歌集、物語集が置いてあるのみ。これが社会科教師と国語科教師の差であろうか。
「やっぱり奇妙ですね」
私は言った。
「先生もそう思いますか?」
「えぇ」
「昨日の夕方見回りをした先生に聞いたのですが、その時には何も不審な点は無かったようです。しっかり鍵を閉めたと仰っていましたし、朝も確かに鍵はかかっていました」
我々職員は、当番制で毎夕見回りをしている。残った生徒がいないか、不審な点が無いかなどを確認し、最後に職員室と校門の鍵を閉めて帰るのだ。その鍵が朝にもしっかりかかっていたのだとすれば、やはり怪しいのは、鍵の開け閉めができる職員か?しかし、職員がこんなことをしなければならない理由が見当たらない。
「やっぱり不自然ですね。どうやって寺子屋、職員室に侵入したのかが分からない。物色だけして何も盗まなかった理由が分からない。分からないことだらけです」
「このまま何も進展しないようでしたら、自警団に頼る他ないかもしれませんね」
「それが確実な手でしょう。今日の授業終わりにでも詰所に・・・」
私はまた床に散らばった資料を整理し、本棚に戻そうとした。そしてそこで私の目が止まった。一冊の本が、私に一つの可能性を教えてくれたのだ。そうか、そういうことなのかもしれない。いや、それで構わないはずだ。
「あぁ、なるほど。そういうことか」
「何か分かったのですか?」
上白沢先生が驚いた様子で尋ねてきた。
「えぇ、分かりました」
私は神の威厳を知らしめるかのごとく、自信満々で答える。上白沢先生は畏れ慄きひざまずく・・・など言うことはなく、微妙に首を傾げただけだった。どうやら神の威光は伝わらなかったらしい。
「まぁ、とりあえず授業に出なきゃ行けませんね、もう時間ですし」
私は壁に掛けてある時計を見て、そう言った。私が学校に着いてから既に半刻、授業開始の時間は迫っていた。
「あ、本当だ!」
上白沢先生は慌てて机上の資料を集め始めた。私も必要な荷物を鞄に詰め、自分の教室へ向かった。
―――
授業の終わった夕刻、私は全ての教員に、校庭に集まってもらった。と言っても、私と上白沢先生以外に数人いるだけ。これで人間の里唯一の教育機関だというのだから、里の識字率は如何程なのかと心配になる。
「菅先生。泥棒が誰か分かったって本当ですか?」
上白沢先生が、私に尋ねる。
「まぁ、泥棒が分かったと言いますかなんと言いますか・・・。まぁとりあえず、この事件の真相は分かりました」
私の歯切れの悪い言動に、教員達が騒めく。
「とりあえず結論から言いますと・・・」
私はできるだけインパクトが出るように、目一杯言葉を溜め、そして言った。
「この事件に、犯人なんていません」
「え?」
「そもそもおかしいではないですか。金目のものがない、警備が厳しい、そんな寺子屋に侵入して何の得があるのです?しかも犯人は何も盗んで行かなかった。こんなことをする人間がいるとは思えません。ですから、発想を逆転するのです。そんなことをする犯人は誰かを考えるのではなく、そもそも犯人がいないのではないかと」
「じゃあどうして寺子屋は荒らされていたのですか?あれはどう見ても泥棒が物色したとしか」
「泥棒は何を探しますか?」
私は上白沢先生の言葉を遮りながら言う。
「・・・高価なものを探すと思います」
「私もそう思います。では、教室に、生徒の机の中に、高価なものはあるでしょうか?」
「・・・常識的に考えれば無いでしょう」
「そうでしょうね。私もそう思います。ではやはり変ではないですか。なぜ泥棒は教室や生徒の机まで物色したんです?職員室ならまだしも、そんなところに金品はありませんよ。まぁ、職員室にも殆ど無いのですが」
私はそう言って、周囲を見回す。教員達は皆黙り込んで、こちらをじっと見つめていた。普段の私はこんな高圧的な人間では無く、礼儀礼節に煩い神様なのだが、今ばかりは仕方がない。私はゆっくりと言葉を紡いだ。
「どうやって寺子屋に侵入したのか?なぜ何も盗まなかったのか?なぜ何も無い教室まで荒らしたのか?今回の事件の原因は・・・」
私はもう一度言葉を溜める。できるだけ演出に気を配り、教員の方々にインパクトを与えられるよう努める。
「今回の事件の原因は、地震です」
「地震?」
「そう、地震です。職員室の資料が散らばっていたのも、教室の机が荒れていたのも、地震による揺れの影響です。揺れた影響で資料が床に落ち、机の位置がずれた。ただそれだけです」
私はそう言い切った。
「でも、昨日人里に地震なんて・・・」
「大鯰という妖怪をご存知ですか?地震を操る妖怪です。奴ならば、寺子屋のみに地震を起こすことが可能でしょう。そして寺子屋の前には、鯰にお誂え向きの場所があるではないですか」
私は校門の前を流れる小川に視線を移す。先生達の視線も、同じように動いていく。
そう。原因が地震であったとすれば、全て納得がいく。そもそも鍵を開ける必要などないわけだし、何かを盗もうにも盗めないのだ。ただ荒らされた教室だけが残る。確かにその見た目だけならば、誰かが盗みに入ったと勘違いしてもおかしくない。
「ですから、皆で鯰を見つけましょう」
私はそう言って、ゆっくりと小川に向って歩き始めた。
―――
結論から言えば、鯰は見つかった。全長数十センチほどのものが一匹。大鯰と言うには多少小さい気もするが、きっと彼が地震を起こしたのだろう。それ以降寺子屋に地震が起こることは無く、勿論泥棒に入られることも無かった。これでめでたしめでたし、一件落着である。
少なくとも私は、それで良いと思っていた。
―――
「私達に嘘を吐きましたね?」
満月の夜の翌日、長屋を訪ねてきた上白沢先生は、開口一番そう言い放った。私は一瞬何のことだか分からず、言葉に詰まってしまう。
「この間の鯰の件、あれは嘘ですね?」
「さて、何のことでしょう?」
私はそう言って惚けてみせる。それが精一杯の抵抗だった。まさか気付かれてしまうとは思っていなかったのだ。
「そもそも、大鯰は地下を移動することができるのです。川の中を移動する必要はありません。それに大鯰は数メートルから数十メートルのモノが普通です。あんなに小さい鯰では、地震を起こすことなどできません。管先生の仰っていたことは間違っています」
「はぁ、そうなのですか。さすが上白沢先生、妖怪にもお詳しい」
「歴史家として当たり前です」
上白沢先生は私の言葉を意にも介さず、淡々と話を続ける。弁明の余地は残っていなかった。
「ではなぜ菅先生は嘘を吐いたのか?」
私があの時したのと同じように、上白沢先生が言葉を溜める。長屋の薄い戸が、風にあおられ軽い音を立てる。そして上白沢先生は言った。
「それは、嘘を現実にするためです」
「・・・気付かれてしまいましたか」
どうやら本当に全てお見通しのようだった。私は両の手を挙げて、降伏の意を示す。上白沢先生は私の白旗を無視したまま、容赦なく先を続ける。
「信じればこそ神が生まれる。信じればこそ妖怪は生きる。皆が信じ、その事象に名を付ければ、それは実体を持つ。それが幻想郷のルール、幻想の実体化。だから管先生は私達に嘘をつき、信じさせ、事実を捻じ曲げた。「大鯰」という幻想を実体化し、事件の原因をすり替えた」
「その通りです」
今回の事件を知っていたのは、事件の犯人と我々教員だけ。何でも良かったのだ、建物に侵入することに快楽を感じる変質者でも、はたまた少女の使った机に興奮する変質者でも、とにかく教員達に信じ込ませることができれば。私が妖怪に関する資料を本棚にしまう時、たまたま大鯰のページが見えたのだ。だから大鰻を使った。彼ら全員が大鯰を信じれば、幻想が実体化し、事件の原因が書き換えられる。犯人は存在しなくなり、寺子屋は平和に戻る。それが神の原理であり、妖怪の原理であり、ここ幻想郷の原理なのだから。
「それにしても、良くお気付きになりましたね。頑張ったつもりだったのですけど」
だからあの時私は、出来る限りの芝居をした。皆が嘘を信じ込めるよう、最大限のインパクトを残した。まさかばれてしまうとは、学問の神もまだまだである。
「大丈夫です。他の先生方にはお伝えしませんから。管先生の思惑通り、この事件の原因は「大鯰」となるはずです」
先生はそう言うと立ち上がり、扉に向かって歩き始めた。
「もうお帰りになってしまうのですか?お茶くらい飲んで行かれては如何でしょう?」
「すいません。昨晩の仕事がまだ残っておりまして」
「・・・そうなのですか」
上白沢先生は、長屋の戸をゆっくり開いてから、あの時と同じように振り返り、こう言った。
「そういった行為は、私の専門分野なのです。お株を奪われるわけにはいきません」
私には、上白沢先生の言っていることが分からなかった。先生は嬉しそうに笑いながら、長屋を出て行った。
―――
上白沢先生を見送ってから、私は一人お茶を注ぎ、ゆっくりとそれを飲んだ。温かく豊潤な香りが、私の喉を通り抜けていく。
「ううぬ、まさか気付かれてしまうとは」
だがしかし、上白沢先生の気付いていない点がもう一つだけある。それは何故私が嘘を騙ってまで、事件を解決したのかという点だ。きっと事件発覚の翌日には、自警団による捜査が始まっていただろう。そうすれば、本当の犯人が捕まっていたかもしれない。なぜ私がそれを待たずに、あえてこのような解決を選んだのか?上白沢先生はそこに言及しなかった。
「幻想の実体化、それは妖怪の原理であり、幻想郷の原理であり、結局は神の原理なのだ」
私が事件を解決すれば、職員達は私をそう言った目で見るようになる。それは特異な者を見る目かもしれないし、聡明な者を見る目かもしれない。少なくとも、彼らの私に対する感情が変わるだろう。そしてその感情の揺れは、ある種の信仰として私に力を与える。だから私は、自ら事件を解決しなければならなかった。
私は自身の正体を上白沢先生に伝えていないのだから、彼女にここまで推理しろというのは、到底無理な話なのだが。
「だがやはり、この程度の信仰じゃあ腹の足しにもならないな」
私は目の前の卓に突っ伏して、大きく溜息をつく。
「全く、いつになったら私は外へ帰れるのだろう」
答えてくれる者はいないし、私自身にも答えは分からなかった。
起きたばかりの早朝、私は冷たい机に突っ伏したまま、誰にともなくそうぼやいた。薄い長屋の壁では、冬の風を凌ぎきることができない。かたかたと音を立て、まるで愚かな私を笑っているようだ。
私の名は菅天相(カン テンショウ)。外の世界では、それなりに名の知れた神であった。特に年の初めから終わりにかけては、受験に挑む学生からの信仰が厚く、私の神力も大いに高まった。
「それなのに・・・・」
ある巫女に呼び出されてから、私の人生(神生?)は狂ってしまった。なんとその巫女が暮らす郷には、受験が無いと言うではないか。受験の無い世界で学問の神が信仰を集めようなど、ガソリンが無いのに車を走らせようとするようなものである。私の神力はみるみるうちに衰えていき、郷の結界を超えることすら出来無くなってしまった。なんという諸行無常であろうか。ここに連れてこられてから、どれだけの時間が経ったのだろう?私をここに呼び出した巫女は、いつの間にか務めを終え、新たな巫女が神社を仕切っているという。
「ふぅむ」
私はよく分からない溜息を吐き、黒い鞄の中から一冊の和製本を取り出す。表紙には「小学入門」と書かれており、1ページ目には「いろは表」が載っている。私の務める寺子屋で使っている教科書だ。この郷の学問は、明治の頃から何も進歩していない。腐っても学問の神、私が教えるべきなのは、もっと難解で高度な学問であるはずなのだ。そしてそんな学問を教える場はこの郷のどこにも無く、また教えたとしても理解できる者がいない。学問は時に無力である。
―――
そんな風に私が突っ伏していると、長屋の扉を叩く音が聞こえてきた。少し人に叩かれただけでも、長屋の扉は折れそうなほどに悲鳴を上げる。擬音語で表現するのであれば、コンコンというよりミシミシといった感じだ。
「どうぞ」
私は正座に座り直し、しっかりと姿勢を正した。
「お邪魔します」
そう言って中に入ってきたのは、同じ寺子屋に勤めている上白沢慧音先生であった。トレードマークの学帽を脱ぎながら、こちらに向かって丁寧なお辞儀をする。私もできるだけ背筋を伸ばし、お辞儀を返した。
「上白沢先生でしたか。どうぞ中にお入りください」
私は上白沢先生に座布団を勧めてから、狭い台所に向かい茶を淹れた。茶と詩は、幻想郷でも楽しめる数少ない娯楽である。
上白沢先生は、まるで天井から伸びた糸に引っ張られているかのごとく、きっちりと背筋を伸ばし座っている。よく言えば真面目で、悪く言えば堅いというのが、私の先生に対する印象である。もう何年も同じ職場に務めているのだから、もう少し気を緩めてもいいのではないだろうか。
「それで今日はどうしたのですか?」
淹れたお茶を卓に置きながら、私は先生と向かい合うようにして座った。
「それがですね・・・。どうやら昨日、寺子屋に泥棒が入ったようなのですよ」
「泥棒?」
「はい。昨晩のうちに、何者かが校舎に侵入したようなのです。職員室の資料が散乱していたり、教室の机が動かされていたり・・・」
私は少し驚いた。泥棒そのものは、人間の里においてそう珍しいものではない。しかしわざわざ寺子屋を狙う泥棒がいるとは思ってもみなかった。金目のものが少ない上に、子供達を預かっているため、セキュリティも(人里にしては)しっかりしている。わざわざ盗みに入るメリットが考えられない。
「しかもその泥棒、何も盗んでないのです」
「え?」
「職員室を含む全教室を物色して、結局何も盗んで行かなかったみたいで。備品や教材を全て確認したのですが、無くなっている物がありませんでした」
「それ泥棒と呼べるんですか?」
「どうなのでしょう?物色した形跡は残っていますし・・・でも何も盗んでないんじゃ・・・。そもそも泥棒の定義とは・・・」
慧音先生は小さな声で呟きながら、考え込み始めてしまった。
それにしても、寺子屋に忍び込んでおきながら、何も盗まない泥棒とはどんな奴なのだろう?建物に侵入することに快楽を感じる変質者か、はたまた少女の使った机に興奮する変質者か。どちらにせよ、相当な変質者に違いない。私はそんな気持ちの悪い想像を頭から押し出そうと、緑茶を一口啜った。
「泥棒が入ったということは、今日は鍵の確認にいらしたということですか?」
「おっしゃる通りです」
寺子屋の校門、職員室の鍵は、全ての教員が1本ずつ持っている。侵入者があったとなれば、最初に疑われるのは我々ということだ。私は部屋の隅の戸棚を開け、鍵の有無を確認する。
「私の鍵はしっかりありますね」
私の寺子屋の鍵は、昨日戻した通りの場所に置いてあった。寺子屋に設置されている鍵は、外の世界では見かけ無くなった南京錠である。
「そうですか」
上白沢先生はこともなげに頷いた。元々疑ってなどいなかったのだろう。あくまで形式上の調査というわけだ。
「すいません、お力になれなくて」
「いえいえ、ご協力ありがとうございました」
上白沢先生はゆっくり立ち上がると、長屋の扉を開け、外に出ようとした。そこで、何かを思い出したかのように振り返り、悩ましげに言った。
「多分、侵入しただけなら泥棒とは定義されないと思います。先程の発言は訂正します。すいません」
「はぁ・・・」
まだ考えていたのかと、私は少し呆れてしまった。もう一度言っておこう。よく言えば真面目で、悪く言えば堅いというのが、私の先生に対する印象である。
―――
上白沢先生がお帰りになった後、私は朝食を摂り、身支度を始めた。腰に巻いた注連縄に、松と梅の枝を挟んでおく。それらは私にとってお守りのようなものだ。いつから、どうして身につけ始めたのかは、不思議とよく覚えていないが、ないとどうも落ち着かないのだ。神がお守りを持つというのも、よく分からない話ではあるが。私はいつも通りの準備を終え、足早に長屋を出た。
私の家から徒歩で十分ほど、人間の里の中心街に寺子屋はある。脇に流れる小川が美しい、純和風の建物だ。
「おはようございます」
職員室の扉を開けると、資料やら教科書やらが床にまみれていた。昨日の泥棒が物色した跡らしい。
「おはようございます」
上白沢先生や他の先生方が挨拶を返してくる。私は周囲の資料を拾いながら、それぞれの書棚にしまい始めた。書棚に入っていた本の八割ほどが床に散らばっている。
「教室の机も、みんな位置をずらされたり、ひっくり返されたりしていたのです」
上白沢先生が、机上の資料を整えながら言った。上白沢先生の資料は、他の先生のものに比べて数倍多い。机上に置かれていたそれらが皆ばらばらにされてしまったのだから、その苦労は推して測るべきであろう。翻って、私の机には数冊の歌集、物語集が置いてあるのみ。これが社会科教師と国語科教師の差であろうか。
「やっぱり奇妙ですね」
私は言った。
「先生もそう思いますか?」
「えぇ」
「昨日の夕方見回りをした先生に聞いたのですが、その時には何も不審な点は無かったようです。しっかり鍵を閉めたと仰っていましたし、朝も確かに鍵はかかっていました」
我々職員は、当番制で毎夕見回りをしている。残った生徒がいないか、不審な点が無いかなどを確認し、最後に職員室と校門の鍵を閉めて帰るのだ。その鍵が朝にもしっかりかかっていたのだとすれば、やはり怪しいのは、鍵の開け閉めができる職員か?しかし、職員がこんなことをしなければならない理由が見当たらない。
「やっぱり不自然ですね。どうやって寺子屋、職員室に侵入したのかが分からない。物色だけして何も盗まなかった理由が分からない。分からないことだらけです」
「このまま何も進展しないようでしたら、自警団に頼る他ないかもしれませんね」
「それが確実な手でしょう。今日の授業終わりにでも詰所に・・・」
私はまた床に散らばった資料を整理し、本棚に戻そうとした。そしてそこで私の目が止まった。一冊の本が、私に一つの可能性を教えてくれたのだ。そうか、そういうことなのかもしれない。いや、それで構わないはずだ。
「あぁ、なるほど。そういうことか」
「何か分かったのですか?」
上白沢先生が驚いた様子で尋ねてきた。
「えぇ、分かりました」
私は神の威厳を知らしめるかのごとく、自信満々で答える。上白沢先生は畏れ慄きひざまずく・・・など言うことはなく、微妙に首を傾げただけだった。どうやら神の威光は伝わらなかったらしい。
「まぁ、とりあえず授業に出なきゃ行けませんね、もう時間ですし」
私は壁に掛けてある時計を見て、そう言った。私が学校に着いてから既に半刻、授業開始の時間は迫っていた。
「あ、本当だ!」
上白沢先生は慌てて机上の資料を集め始めた。私も必要な荷物を鞄に詰め、自分の教室へ向かった。
―――
授業の終わった夕刻、私は全ての教員に、校庭に集まってもらった。と言っても、私と上白沢先生以外に数人いるだけ。これで人間の里唯一の教育機関だというのだから、里の識字率は如何程なのかと心配になる。
「菅先生。泥棒が誰か分かったって本当ですか?」
上白沢先生が、私に尋ねる。
「まぁ、泥棒が分かったと言いますかなんと言いますか・・・。まぁとりあえず、この事件の真相は分かりました」
私の歯切れの悪い言動に、教員達が騒めく。
「とりあえず結論から言いますと・・・」
私はできるだけインパクトが出るように、目一杯言葉を溜め、そして言った。
「この事件に、犯人なんていません」
「え?」
「そもそもおかしいではないですか。金目のものがない、警備が厳しい、そんな寺子屋に侵入して何の得があるのです?しかも犯人は何も盗んで行かなかった。こんなことをする人間がいるとは思えません。ですから、発想を逆転するのです。そんなことをする犯人は誰かを考えるのではなく、そもそも犯人がいないのではないかと」
「じゃあどうして寺子屋は荒らされていたのですか?あれはどう見ても泥棒が物色したとしか」
「泥棒は何を探しますか?」
私は上白沢先生の言葉を遮りながら言う。
「・・・高価なものを探すと思います」
「私もそう思います。では、教室に、生徒の机の中に、高価なものはあるでしょうか?」
「・・・常識的に考えれば無いでしょう」
「そうでしょうね。私もそう思います。ではやはり変ではないですか。なぜ泥棒は教室や生徒の机まで物色したんです?職員室ならまだしも、そんなところに金品はありませんよ。まぁ、職員室にも殆ど無いのですが」
私はそう言って、周囲を見回す。教員達は皆黙り込んで、こちらをじっと見つめていた。普段の私はこんな高圧的な人間では無く、礼儀礼節に煩い神様なのだが、今ばかりは仕方がない。私はゆっくりと言葉を紡いだ。
「どうやって寺子屋に侵入したのか?なぜ何も盗まなかったのか?なぜ何も無い教室まで荒らしたのか?今回の事件の原因は・・・」
私はもう一度言葉を溜める。できるだけ演出に気を配り、教員の方々にインパクトを与えられるよう努める。
「今回の事件の原因は、地震です」
「地震?」
「そう、地震です。職員室の資料が散らばっていたのも、教室の机が荒れていたのも、地震による揺れの影響です。揺れた影響で資料が床に落ち、机の位置がずれた。ただそれだけです」
私はそう言い切った。
「でも、昨日人里に地震なんて・・・」
「大鯰という妖怪をご存知ですか?地震を操る妖怪です。奴ならば、寺子屋のみに地震を起こすことが可能でしょう。そして寺子屋の前には、鯰にお誂え向きの場所があるではないですか」
私は校門の前を流れる小川に視線を移す。先生達の視線も、同じように動いていく。
そう。原因が地震であったとすれば、全て納得がいく。そもそも鍵を開ける必要などないわけだし、何かを盗もうにも盗めないのだ。ただ荒らされた教室だけが残る。確かにその見た目だけならば、誰かが盗みに入ったと勘違いしてもおかしくない。
「ですから、皆で鯰を見つけましょう」
私はそう言って、ゆっくりと小川に向って歩き始めた。
―――
結論から言えば、鯰は見つかった。全長数十センチほどのものが一匹。大鯰と言うには多少小さい気もするが、きっと彼が地震を起こしたのだろう。それ以降寺子屋に地震が起こることは無く、勿論泥棒に入られることも無かった。これでめでたしめでたし、一件落着である。
少なくとも私は、それで良いと思っていた。
―――
「私達に嘘を吐きましたね?」
満月の夜の翌日、長屋を訪ねてきた上白沢先生は、開口一番そう言い放った。私は一瞬何のことだか分からず、言葉に詰まってしまう。
「この間の鯰の件、あれは嘘ですね?」
「さて、何のことでしょう?」
私はそう言って惚けてみせる。それが精一杯の抵抗だった。まさか気付かれてしまうとは思っていなかったのだ。
「そもそも、大鯰は地下を移動することができるのです。川の中を移動する必要はありません。それに大鯰は数メートルから数十メートルのモノが普通です。あんなに小さい鯰では、地震を起こすことなどできません。管先生の仰っていたことは間違っています」
「はぁ、そうなのですか。さすが上白沢先生、妖怪にもお詳しい」
「歴史家として当たり前です」
上白沢先生は私の言葉を意にも介さず、淡々と話を続ける。弁明の余地は残っていなかった。
「ではなぜ菅先生は嘘を吐いたのか?」
私があの時したのと同じように、上白沢先生が言葉を溜める。長屋の薄い戸が、風にあおられ軽い音を立てる。そして上白沢先生は言った。
「それは、嘘を現実にするためです」
「・・・気付かれてしまいましたか」
どうやら本当に全てお見通しのようだった。私は両の手を挙げて、降伏の意を示す。上白沢先生は私の白旗を無視したまま、容赦なく先を続ける。
「信じればこそ神が生まれる。信じればこそ妖怪は生きる。皆が信じ、その事象に名を付ければ、それは実体を持つ。それが幻想郷のルール、幻想の実体化。だから管先生は私達に嘘をつき、信じさせ、事実を捻じ曲げた。「大鯰」という幻想を実体化し、事件の原因をすり替えた」
「その通りです」
今回の事件を知っていたのは、事件の犯人と我々教員だけ。何でも良かったのだ、建物に侵入することに快楽を感じる変質者でも、はたまた少女の使った机に興奮する変質者でも、とにかく教員達に信じ込ませることができれば。私が妖怪に関する資料を本棚にしまう時、たまたま大鯰のページが見えたのだ。だから大鰻を使った。彼ら全員が大鯰を信じれば、幻想が実体化し、事件の原因が書き換えられる。犯人は存在しなくなり、寺子屋は平和に戻る。それが神の原理であり、妖怪の原理であり、ここ幻想郷の原理なのだから。
「それにしても、良くお気付きになりましたね。頑張ったつもりだったのですけど」
だからあの時私は、出来る限りの芝居をした。皆が嘘を信じ込めるよう、最大限のインパクトを残した。まさかばれてしまうとは、学問の神もまだまだである。
「大丈夫です。他の先生方にはお伝えしませんから。管先生の思惑通り、この事件の原因は「大鯰」となるはずです」
先生はそう言うと立ち上がり、扉に向かって歩き始めた。
「もうお帰りになってしまうのですか?お茶くらい飲んで行かれては如何でしょう?」
「すいません。昨晩の仕事がまだ残っておりまして」
「・・・そうなのですか」
上白沢先生は、長屋の戸をゆっくり開いてから、あの時と同じように振り返り、こう言った。
「そういった行為は、私の専門分野なのです。お株を奪われるわけにはいきません」
私には、上白沢先生の言っていることが分からなかった。先生は嬉しそうに笑いながら、長屋を出て行った。
―――
上白沢先生を見送ってから、私は一人お茶を注ぎ、ゆっくりとそれを飲んだ。温かく豊潤な香りが、私の喉を通り抜けていく。
「ううぬ、まさか気付かれてしまうとは」
だがしかし、上白沢先生の気付いていない点がもう一つだけある。それは何故私が嘘を騙ってまで、事件を解決したのかという点だ。きっと事件発覚の翌日には、自警団による捜査が始まっていただろう。そうすれば、本当の犯人が捕まっていたかもしれない。なぜ私がそれを待たずに、あえてこのような解決を選んだのか?上白沢先生はそこに言及しなかった。
「幻想の実体化、それは妖怪の原理であり、幻想郷の原理であり、結局は神の原理なのだ」
私が事件を解決すれば、職員達は私をそう言った目で見るようになる。それは特異な者を見る目かもしれないし、聡明な者を見る目かもしれない。少なくとも、彼らの私に対する感情が変わるだろう。そしてその感情の揺れは、ある種の信仰として私に力を与える。だから私は、自ら事件を解決しなければならなかった。
私は自身の正体を上白沢先生に伝えていないのだから、彼女にここまで推理しろというのは、到底無理な話なのだが。
「だがやはり、この程度の信仰じゃあ腹の足しにもならないな」
私は目の前の卓に突っ伏して、大きく溜息をつく。
「全く、いつになったら私は外へ帰れるのだろう」
答えてくれる者はいないし、私自身にも答えは分からなかった。
結末として注連縄の不備から幻想郷の中に逃げられてしまっています。
菅公を取り上げるなら先代巫女よりそちらの方がまだ判り易かったのでは?
それと梅や鶴ならともかく菅公と鯰は結びつきがイマイチ…