フランドール・スカーレットが初めて手紙を書き上げるまでに無くしたもの。便箋、書き損じを含めて十三枚。駄目にした万年筆、二本。それから、丸々たっぷり三日間。
フランドール・スカーレットが初めて手紙を書き上げてから受け取ったもの。お返事の便箋、一枚。お姉さまからお叱りの声、山のよう。それから、初めてのおともだち。
『はじまりは、ほんのちょっぴりの偶然でした。
吸血鬼の女の子、フランドールの住む家には、大きな、大きな図書館があるのです。それは今まで人間の造って来たどんな図書館よりも、ずっと広くてたくさんの本を収めていました。ですからフランドールは暇を潰したいとき、よくそこから本を持ち出しては自分の部屋に持ち帰るのでした。
その日もまた、いつもどおり書庫の隙間に忍び込んでおりました。
小さな身体が図書館の主、パチュリー・ノーレッジに見つからないよう、こっそりと高い天井の下を飛んでいきます。金色の髪の毛が、七色の翼と一緒にぱたぱたと揺れています。
フランドールはパチュリーのことがどうにも苦手でした。いつも下を向いていて何を考えているのか分からなかったし、前に外に出たかったときにも邪魔をされたからです。時折神経質そうな視線が向けられるたび、フランドールはさっと冷たい気持ちになるのです。たぶん、嫌われているんだろうな。彼女はいつもそう思っています。
なにせフランドールはいつか、癇癪を起こして図書館のあちこちを壊してしまったことがあったのですから。それ以来、彼女の顔を見るだけで、怖くて怖くて仕方がないのです。
そうこうしているうちに、フランドールはパチュリーを見つけました。紫色の服を着た後姿が蝋燭の炎にぼんやりと照らされて、椅子の上でもぞもぞと動いております。どうやらペンを走らせているようでして、書いているのがお手紙なのかお話なのか、はたまた魔法の術式なのかは分からなかったのですけれども、とにもかくにも集中している今が好機です。音も無く逃げるようにその場を離れて、適当な本棚から一冊を見繕い始めました。
きょろきょろと首を捻って探すうち、ふと、分厚い書物の隙間に楔のように埋め込まれた、白い背表紙の小さな本が気になりました。なぜならそのてっぺんから、一枚の紙の端が小指の爪の先ほど、ちょこりと覗いていたからです。
あれはなんだろう。無邪気な好奇心のまま本を右手で取ると、その手製の栞が挟まれたページを開いてみました。
零れ落ちるように飛び出してきたのは、一枚の便箋でした。幅広の蛇腹に折られたそれを、ゆっくり丁寧に開きますと、中には縦書きでなにやら文が書かれています。
『この手紙を読んでいる見ず知らずの貴方へ
いきなりのお手紙、ごめんなさい。
貴方は斎藤さんの古書店でこの本を手にとって下さったのかしら。だとしたら、手紙をこのままにしてくれた店主さんにお礼を言わなくちゃ。
そう、それで、私から、貴方にお願いがあります。
私はこの本のお話が大好きです。
もし貴方がこのお話を読んで気に入ってくれたのなら、お返事をください。
そして、どうか私とお友達になってください。
この街に白瀬という名字は私しかおりません。ですから、送り先については気にかけないで下さいませ。
白瀬 千代子』
他には灰色の罫線しか描かれていない、簡素な便箋です。すらすらと流れるような筆跡で、柔らかな丸みを帯びた文字が綴られておりました。不機嫌なときならば、ぽい、とその場に投げ捨ててもおかしくはありませんでした。けれどもその時のフランドールは不思議と、その手紙に惹かれるような気がしたのです。じっくり見つめて、それからぱちぱちと瞬きをして理由を考えてみましたが、ちっとも分かりません。ただ、なんとなく、としか答えられないのでした。
とりあえず、元通りに便箋を挟み込んで、その白い本を小脇に抱えました。そうしてからまた、楽しそうな本を探して大図書館を飛び回るのでした。
それからしばらく経ったあと、フランドールは腕を組んでうんうんと唸っておりました。彼女の翼の宝飾が、仄明るいランプに照らされて、赤みがかった七色に輝きます。すこし体が傾き、微かに光の具合が変わっただけで複雑に色合いを変えるそれは、まるでくるくると廻される万華鏡の中身をそのまま散りばめたかのようでした。
悪魔のお屋敷、紅魔館の地下室。それがフランドールにあてがわれた私室です。薄暗いこの部屋は、全ての方向が真紅に染められていて、なにやら言いようもなく不気味です。地面の下にあるのですから、夏の晴れ渡った青空の下の風の匂いも、冬の一面の銀世界の美しい輝きも、ここには届きません。彼女はこれまで四百九十五年ものあいだ、そんなふうに隔離されきった四角四面の無機質の中で暮らし続けて来ていたのでした。
フランドールは椅子に座ったまま、机の上に突っ伏して考え込んでいます。
理由は簡単でした。彼女が借りてきた例の白い本は最高に面白くて、誰かとその喜びを共有したくて仕方なかったからです。
でも、お姉さまも咲夜も彼女のお屋敷に巣食った妖精メイドも、あまり本を読んでいるようには見えません。パチュリーならきっとこの本のことも知っているのでしょうけれども、彼女に話しかける勇気はどうにも湧いてきませんでした。それに、みんなみんなフランドールを見るたび、怯えるように逃げ出してしまうのですから、お話なんてそもそも出来ないのです。
ですから、答えははじめから一つしかありませんでした。
傾けた首、そして視線の先には、お姉さまが遊びに行っている隙をついて、部屋から盗み出した便箋と幾つかのペンや万年筆。本を読んだことはあれど、文字を書いたことは今までほとんどありません。こくりと小さく息を呑んで、震える指でペンを掴みました。
『白瀬さんへ
この小説は面白かった。
人間という生物がいかに矛盾しているかについて私は見識を改める必要があった。
馬鹿馬鹿しくて不完全。けれど、不完全だからこそ人間は変化し続けることができるのだろう。
読めて良かったと思った。
もしこの手紙を読んでいたら、返事が欲しい。
フランドール・スカーレット』
たったそれだけの文章でしたが、フランドールには大変な仕事でした。
なにせ、文房具というものは彼女にとってあまりに脆いのです。フランドールが少し力を入れただけで、ペン先はぽきりぽきりと簡単に折れてしまいますし、便箋だって何度となく引き裂かれてしまいます。
それでもえっちらおっちら、どうにかこうにか書き上げたフランドールは、その手紙を机の脇のランプに透かしてみるのでした。ひどく不恰好な文字が、ほのかな橙色に照らされております。ちょっとした達成感がこみあげて、どうにもこそばゆくて仕方がありません。
それから自作の手紙をゆっくり噛み砕くように読み直したフランドールは、とたんにおかしくなって、けらけらと笑い出しました。
なんでこんなものを書いたのだろう。ひどく肩肘の張った、はじめてつくった粘土像みたいに歪んだまま凝り固まった、おかしな文章ではありませんか。そもそも例の文章だっていつ書かれたものかも分からなくて、人間ならとっくに死んでしまっているでしょうに。
今更そんなことに気がついたフランドールはひととおり笑うと、書いたばかりの手紙を折り畳んで、元の手紙の代わりに白い本に挟み込みました。そうしてから、壊した万年筆のことをレミリアにどう言い訳したものかと悩むのでした。
それから二日が経ちました。ようやく無くなったものに気がついたレミリアに散々おかんむりにされて、しょんぼりと戻ってきたフランドールは、階段の一番下のステップを降りてから改めてがっくりと肩を落としました。
だいたい二日間も気がつかなかったなら、普段はぜんぜん使ってないってことじゃない。それなら、いらないんじゃないかしら。そう心の中で毒づいてみたのですが、悪いのは自分なのだから仕方がありません。ごめんなさい、ごめんなさいと何度も謝って、逃げだすように地下室へと戻ってきたのです。去り際にお姉さまが何やら言っていたようにも思ったのですが、とにかくその場を離れたくて仕方がなかったのです。
ため息混じりに地下室のドアを開けたフランドールは、んん、と小さく息を漏らして、目を細めました。言葉にできないほどかすかな、けれど確かな違和感を覚えたからです。それは彼女が不思議な力を使ったあと、あたりに漂う魔法の残り香にどこか似ているような気がしました。
顎の辺りに手をやって、考えに考え、そうしてようやく、どこがおかしいのかに気がつきました。机の上に置きっぱなしだった件の白い本、それに挟んだはずの手紙が、昨日より僅かに膨らんでいるのです。
慌てて駆け寄ると、今度ははっきりと分かりました。本からはみ出しているのは、どこから見ても一枚の封筒です。はやる気持ちを抑えて引き抜くと、鋭い爪で封をこじ開けて、中身を改めました。
『フランドール・スカーレットさんへ
お手紙ありがとう。朝起きたら枕元にお手紙が置いてあって、とってもびっくりしました。
どちらの国からいらしたのでしょう。可愛らしいお名前ですし、日本語もお上手ですね。
まさか異国の方からお手紙を頂けるとは思ってもいませんでしたので、とても嬉しいです。
この小説、とても面白いですよね。私もいつか、この主人公みたいに遠いどこかに旅をしてみたいと思っています。
また、お手紙をください。私、あなたのことがもっと知りたいです。
追伸
私のことは千代子、でかまいません。
白瀬 千代子』
フランドールは、思わず辺りを見回しました。視線をせわしなく動かして、この手紙がどうやって来たのか、しばし考えを巡らせます。悪戯好きな妖精の仕業でしょうか。それとも、お姉さま。それとも、メイド長の咲夜でしょうか。
けれども、どうにも誰でもなさそうでした。フランドールは部屋にいるときもいないときも、つい鍵をかけてしまう癖があるのです。そのような密室で、内緒のうちに書いた手紙を、どうしてすりかえることができるでしょうか。
ですから、答えは一つしかありません。
どきどき。高鳴る胸の前に手紙を捧げ持って、それからじっと熱い視線を白く小さな本に送ります。
この本が、いわば一つのマジックアイテムとなっていたのに違いありません。だって、そうとしか思えないのですから。異なる場所と異なる場所とを結ぶ、空間の隙間、とでも呼ぶべきものでしょうか。魔法と怪異に満ち満ちた幻想郷のことです。その程度の不思議はありふれていて、だからこそフランドールは簡単に納得しました。
小さく頷いて、返信を書こうとしてから、ペンを取り上げられたことを思い出しました。
いっそ、自分の血でも使ってみようかしら。
一瞬そうも考えましたが、いくらなんでこの純朴そうな相手には刺激が強すぎます。千代子はフランドールのことも、吸血鬼のことすらもしらないのですから。
それなら、どうしよう。
ああでもないこうでもないと悩んでおりますと、こんこん、と部屋のドアがノックされました。それはあまりに久しぶりの音だったものですから、一瞬何が起こったのか理解できなかったのですが、どうにか気づいてドアへと向かいました。
「フラン」
滑らかにドアが開いた先に立っていたのは、唇を噛んだレミリアでした。
「なあに、お姉さま。まだ謝りたりなかったのかしら」
フランドールは反射的に警戒しました。こうして怖い顔をしたレミリアが持ってくるのは、往々にして悪い知らせかいやな命令か、それともその両方かなのです。
ところが、レミリアの言ったことは、ずいぶんと予想外のことなのでした。
「さっきは言いそびれたけれども、これなら使ってもいいわよ」
そう言って、レミリアは服の内側から何本かペンを取り出して差し出しました。フランドールが壊してしまったものよりも少し古びて見えますが、まだまだ使い続けることができるでしょう。
「あなたが壊したあれってね、貴重なのよ。もし壊さないで他の文房具を使えるようになったら、その時はきちんと貸してあげる」
レミリアの言葉に、フランドールは思わず目を丸くしました。思わず自分のほっぺを掴み、ちぎれそうなほどに摘み上げました。
「……お姉さまが私に優しくするなんて、明日は杭でも降るのかしら」
「失礼ね。ちょっとした気まぐれよ。それに、あなたが私のところから何か持ち出したことなんてはじめてだったから、なにか変化があったのかと思ったのよ。姉としてそれは歓迎するべきことだもの」
「お姉さまだって変化することくらいあるでしょう」
「私は完璧だから、変化する必要も意味もないのよ」
「あら、さっき気まぐれって言ったばかりじゃない。思いっきり変化しているわ」
「じゃあ、やっぱり気まぐれを気まぐれにやめようかしら」
「嘘です嘘です、冗談です敬愛するお姉さま」
「それでよし。じゃあ、このペンは渡すから……あ」
フランドールの顔を覗き込んだレミリアの表情が一瞬硬くなり、それから彼女の瞳をじっと凝視しました。
突然のことで、フランドールは驚きます。姉の瞳の中に、困惑した自分の姿が透けて見えるような気がしました。
「どうしたの、お姉さま?」
「……いえ、なんでもないわ。それじゃあね。また来るわ」
フランドールは受け取ったペンを片手につかんだまま、去り行くお姉さまの後姿を見送ります。
レミリアは、フランドールに見えない位置で、ひどく悲しそうに表情を歪めました。
彼女は、言うことが出来なかったのです。
フランドールの瞳に、変えようのない悲劇的な運命の影が、微かに覗いていたことを。
『千代子へ
私は生まれたときからずっとお屋敷の地下室に閉じ込められていたせいで、自分がどこから来たのもわからない。
旅なんてしたことないし、できるとも思わない。
私は吸血鬼だから、太陽の下も雨の中も歩けないから。
あなたはただの人間?
P.S 私のことも、フランでいい
フランドール・スカーレット』
今度の手紙は、最初の返信よりも幾分うまく書けたような気がしました。
またしてもちょっとばかりの損害が文房具にありましたが、それでも前回よりはだいぶ少なく済みました。それはフランドールが慣れたこともありますが、筆記用具それ自体が以前のものよりもだいぶ書きやすかったことも大きな理由でした。
そうして頑張ったおかげか、次の手紙は思いのほか早く、次の日には届きました。
『フランへ
こうして愛称で呼ぶというものも、少し恥ずかしいというか、こそばゆいですね。
吸血鬼さんだなんて、ちょっと驚きました。
すぐには信じられなかったのですが、そもそもこの文通自体が奇妙なものなのですから、吸血鬼さんに届いても何もおかしくないな、と思い直しました。
私はただの人間です。
あなたのほかにも妖術師だとか、妖怪だとか、怪物だとかがいたりするのでしょうか。
私はお話を書くのが好きなので、そんな不思議な方々のことがとても気になります。
あなたと、あなたの住む世界のこと、もっと知りたいです。
白瀬 千代子』
吸血鬼という言葉をすんなり受け入れて貰えたのは、彼女が幻想郷の人里に暮らしているからでしょうか。
それとも、お話を書くことが好きな、彼女の夢見がちな部分が影響したのでしょうか。
とにもかくにも、文通は続きます。フランドールは自分の周りの人間、それとも人間以外たちのことを書こうとして、そうだ、と一つ思いつきました。自分が不思議なことを教えるかわりに、千代子の生み出した物語を読んでみたいと思ったのです。 この白い本を同じように気に入った仲間なのですから、彼女が書いた話もまた、好きになれるはずなのでした。
『千代子へ
魔法使いとか吸血鬼とか天狗とか、私の暮らす幻想郷には変なやつがいっぱいいる。
そいつらのことで良いなら、私はどれだけでも教えてあげられる。
でも、私もあなたの書いたお話が読んでみたい。
だから、私の知っていることと、あなたの物語を、交換してほしい。
フランドール・スカーレット』
しばらくして、『もちろん構いませんよ。一度誰かに読んでもらいたかったのです』という内容とともに、短い話が送られて来ました。夜空と月と、蛍のお話でした。フランドールはそのお話をとても気に入って、感想と、それから幻想郷に住んでいる蛍の妖怪について話しました。そうすると、蛍の妖怪など知らなかったのでしょう、千代子からは感謝の返事が届きました。
それからというものの、千代子からの手紙には必ずといっていいほど物語が添えられるようになりました。本の間に挟むには少し分厚すぎるからか、いつも白い本の隣に物語の書かれた紙束が送られています。
「空の向こうは、夜なのでした。夜の向こうは、空なのでした。夜と空とが重なって、そこには明日がありました」
「『がたごろがたごろ、地球の上で汽車が車輪を回しているんじゃあない。汽車が地球を回しているのさ』車掌さんはぽう、と汽笛のような声で笑いました」
「夢の中にのみ咲く花を、どうして摘むことができましょう。その花びらは、貴方さまが忘れてしまったあの雪の日のように白いのに」
そんな風に始まる不思議なお話が、お手紙のたびに付録としてついてくるのです。心躍る冒険譚、甘酸っぱい初恋の物語、すこし恐ろしい夜のお話。さまざまな世界が千代子の指と文字を借りて、紙面に紡がれておりました。
フランドールも負けてはいません。もっとも、彼女自身の周りが不思議に満ち満ちていたので、そのことを書けば済むことではありました。
「博麗神社というところに、霊夢という巫女がいる。すごく強くて、不公平だ」
「霧雨魔理沙という変なやつがいる。人間のくせに、私より生意気だ」
「レミリア・スカーレットは私の姉だ。なぜだかあいつを慕っている奴らが紅魔館に住んでいる」
その文章は技術としては拙いものでしたが、魅力的な真実味に溢れていて、千代子からはとても楽しみにしている、というお返事がよく届きました。時にはフランドールが教えたばかりの人物が千代子の物語のなかに登場して、わくわくするような大活躍をすることもありました。自分の館の外ではこんなことが起こっているのだろうか、とフランドールは階段を見上げながらよく思うようになりました。
フランドールはいつの間にか、自分が千代子の描くお話に夢中になっていることに気がつきました。時々お話が付いてこないお手紙が来ると、はしたないとは分かっていてもついつい早く早く、と次をせかしてしまいます。まるで次の日の物語を楽しみにするあまり、語り手をついに殺めることができなかった千夜一夜物語の狂気の王様のようでした。
そうして頬杖をつき、歌を口ずさみ、髪を弄って千代子の物語を待っているうちに、フランドールの心の中でむくむく立ち上る感情がありました。
私だって千代子に負けないほど、素敵なお話が書いてみたい。
ただただ事実を書き記しただけではなく、もっと読んだ人の心を打つような、物語を作ってみたい。
それはちょっとした思い付きでありながら、あっというまにフランドールの心を覆い尽くしました。
けれども、フランドールも自分だけでそんな難しそうなことが出来るとは思っていません。誰かにお話の作り方を教えてもらいたいのですが、彼女の狭い生活範囲のことです。どうにも、そんな芸当ができる人のことが分からなかったのです。
いえ、正しくは、そう思い込もうとしていた、でしょう。
一人だけ、たった一人だけ。
フランドールに近い人々の中で、物語の作り方を知っていそうな人がいたのです。
「あら、あなたが私に話しかけるなんて珍しいわね。どうかしたの?」
蝋燭の炎が揺れて、少女の青ざめた顔を下から照らします。つっけんどんな口調とあわせてそら恐ろしく、思わずフランドールはびくりと身震いしました。肩幅をなるべく小さくして、椅子の上にある自分を押しつぶそうとしているかのようでした。
椅子に座ったままのパチュリーは、そんなフランドールの様子に困惑した様子で、隣でぱたぱたと羽を揺らしていた小悪魔の顔を見つめました。眉尻を下げきったその表情は、私にどうしろって言うのよ、と雄弁に語っておりました。
「私、なんだと思われているのかしら」
「パチュリーさま、なにかしたんじゃないですか?」
「何も出来ないわよ。私のほうが弱いんだから」
「いたずらとか、弱くても出来ますよ」
「私をあなたと一緒にしないでちょうだい」
ふふ、と可笑しそうに笑います。けれどもフランドールは椅子に座って下を向いたまま、ぴくりとも動こうとしません。
「ええと、こほん。私はずいぶん怖がられているみたいだけれども、そんな私になんの用事なのかしら」
フランドールは返事をしません。
「別に、緊張しなくてもいいわ。ええと、なにか食べたいものとか、あるかしら? それとも飲み物? あ、それとも昔の話かしら。あれならもう、気にしなくていいのよ」
パチュリーは言い出しやすいよう、なるべく穏やかな調子で尋ねました。そうすると、ようやくフランドールは口を開きました。
「あの、その。変なことかも知れないけれど。私、小説が書いてみたいの。だから、パチュリーにやり方を聞きたいと思って」
フランドールは小さな小さな声で答えると、笑われるかもしれないと思って、視線を伏せました。
けれども、パチュリーはまったく笑いませんでした。
代わりに真摯な表情で、フランドールに向き合いました。
「フラン、あなたは勘違いしているわ。小説にやり方なんてないわ。あなたはあなたの信じる方法で、あなたの夢を書けばいいの。さあ、あなたの書きたいことはなにかしら」
フランドールがなかなか答えられずにいると、パチュリーは机の上で開いたままだった本の上に、そっと手をかざしました。なにやら呪文を唱えますと、左の頁の上に、小人の弓兵隊が。右の頁には折り紙で出来たような中華風の竜が具現化します。
「技術なんて、たいした問題でないのよ。そんなものはどうでもいいの。物語を紡ごうという心。自分の中身を見つめる決意。真に必要なのはそちらなの。心のある物語は、それだけで人を惹きつける」
パチュリーが竜の上に手をかざしますと、真っ白な円だったその眼に黒い瞳が入り、そうかと思えば吐き出した炎で兵士たちをあっという間に焼き尽くしました。
「けれども」
手で払うように頁の上を撫ぜますと、もう一度、繰り返すように竜と兵士が現われました。
しかし今度は竜の瞳に墨が垂らされることはなく、すると竜は瞬く間に弓兵たちに射落とされてしまいまったのです。
「心のない物語に魂が吹き込まれることは、けしてない」
だから、あなたはあなた自身の心から、物語を生み出すかけらを見つけなくてはいけない、とパチュリーは続けました。フランドールは言われたとおり、眼を瞑って集中します。自分の心と向き合って、そこから物語を見出そうとしました。
しかし四百九十五年の孤独は、少女の心に深い深い影を投げかけておりました。記憶のどこを見渡しても、赤い赤い血の沼だけが狂気めいてべっとりと続いているように思えて仕方がなかったのです。
「パチュリー……私、私の中には、なにもない。私につくれるお話なんて、なにも」
フランドールはパチュリーの紫色の服にしがみつくように抱きついて、そう漏らしました。どこまでいってもなにもないような、自分の中の空虚が怖くてしかたがなかったのです。
「本当に、本当にそう? 恐れないで、しっかりと直視しなさい。あなたにも、あるはずよ。物語の鍵が」
フランドールは目を逸らしたくて仕方がありませんでした。けれども、ぐっとこらえて、自分自身との対峙を諦めずに戦います。傍らの魔法使いが掴んでくれる腕の感覚と、声だけが、自分を現実に繋ぎとめてくれているような気がしました。
それからほんの少しあとのことです。
きらり、となにかが輝いたような気がしました。
人間のくせにちっとも吸血鬼を怖がらない、おかしな少女たちとの会話が、沸き立つ泡が弾けたように、ふと蘇りました。
迷惑そうに口を開きながらも、私を狂人ではなく、一人の吸血鬼として話をしてくれた巫女。
館に忍び込んできた魔法使いと繰り広げた、虹色の弾幕の嵐とマザーグースの言葉遊び。
それは四百九十五年分の紅色の悪夢に比べれば、ほんの小さな思い出のかけらですが、それでも赤々とした記憶の沼の中で、舞い落ちる桜の花びらのようにたしかに煌めいていたのです。
それを飛び石のように渡っていくと、フランドールは自分のなかに眠っていたたくさんの物語たちに気がつきました。
今までに読んだたくさんのお話。
ほんのたまにだけれど、優しくしてくれるお姉さま。
千代子がたくさんくれた、手紙たち。
それから、今こうして、私を支えてくれる魔法使い。
次か次へと、自分の中を満たしてくれる存在を見つけ出していきます。
フランドールは、それまで自分は一人ぽっちだと思っていました。
そう思い込んでいただけで、本当は彼女を大切に思ってくれている人たちはいたのです。
フランドールの中身は、からっぽなんかではありませんでした。
本当にフランドールが作りたかった物語の中身は、たくさんたくさんあったのです。
そのことに気がつくと、嬉しさのあまりフランドールは思い切りパチュリーに抱きついてしまいました。すると、パチュリーはフランドールが怖がっていると考えてしまったのでしょうか。力の限り抱き返してしまって、フランドールは彼女の腕を軽く叩き返します。
「パチュリー、ちょっと、苦しい」
「あら、ごめんなさい。」
フランドールを抱きとめる力が、緩みました。
ふたりで顔を見合わせて、やがてどちらからともなく笑いはじめました。
それは、フランドールがはじめて見る、パチュリーの心からの笑顔でした。
それから、パチュリーがはじめて見る、フランドールの心からの笑顔でもありました。
「……ありがとう、パチュリー。私にも、お話が書ける気がしたわ」
「そう、見つかったのね。……あなたもいつか、外に出れるといいわね」
「なあに、急にどうしたの。変なの」
「今のあなたなら、信じられると思ったの。ただそれだけよ」
「そうは言うけれども、パチュリーだってずっと図書館に篭もっているじゃない。私とたいして変わりないわ」
フランドールは唇を尖らせます。
「そんなことないわ。私だって魔理沙と協力して、異変を解決したこともあるのよ」
「へえ、初耳。いったいどんなことがあったの」
「あれはそう、博麗の神社に怨霊が湧いたときの話ね……」
「ああ、覚えてますよ、それ! 私も混ぜてほしかったのにぃ……」
それから数刻のあいだ、パチュリーとフランドール、それから司書の小悪魔を加えた三人は、のんびりとした談笑を楽しみました。
あれほど怖ろしくて仕方がなかった図書館の魔法使いは、いつのまにやら、優しい友人のパチュリー・ノーレッジとなっていたのでした。
それからの一年は、あっという間でした。
もともと長い時間を生きてきたフランドールですが、その年ほど短く感じられたことは今までありません。
毎日が楽しくて楽しくて、仕方がありませんでした。たくさんのお手紙と、たくさんの物語。語りに語り、語られに語られ、そうしているうちに千代子はフランドールにとってかけがえのない大切な人間になっていました。
ところが、どうにも最近、めっきり千代子からのお手紙が少なくなったのです。
以前はほとんど毎日のように送ってきてくれたというのに、今ではそのときの数分の一ほどの頻度になってしまいまったのです。それはしばらく経っても変わりません。
ひょっとして、私との文通に飽きてしまったのかしら。
いえ、それだけならまだしも、人間の身体は弱いから、ひょっとして。
心配になったフランドールが、手紙の数が減ったけれどもなにかあったのかしら、と手紙を送りますと、最近少し体調が優れなくて、ごめんなさい、といった内容のお手紙が返ってきました。
文面では、あまり重大な病のようには見えません。けれどもフランドールにとって、それが逆に不安です。そんなに簡単な病なら、どうしてこんなに長引いているのでしょう。どうしてこんなに、文字から筆圧を感じることができないのでしょう。
もしフランドールが考える最悪の状況なら、猶予は一刻もありません。どうか一度、孤独から自分を救い出してくれた千代子に直接お礼を言いたかったのです。そのお返しに、崩れ行く彼女の命を、支えたかったのです。
ですから、ためらいはありませんでした。
「お姉さま、お願いします。どうか一日だけ、私を外に出させてください」
フランドールは深々と頭を下げて、私室の椅子に座っていたレミリアに頼み込みました。
レミリアは突然のことに驚きながらも、すぐに冷静さを取り戻して問い直します。
「突然こんなことをしたのですもの。なにか深い事情があるのでしょう。言ってご覧なさい」
フランドールは、どこまで説明したものか少し悩んで、結局全部正直に話すことにしました。信じて貰えないかもしれませんが、それでも嘘をつくよりもずっと良い気がしたのです。
「お姉さま、私ね、どうしても会いたい人間が出来たの」
「……詳しく聞かせて貰おうかしら」
レミリアはいったん立ち上がって、フランドールの傍らにそっとかがみこみました。
それから、一週間ほどが経ちました。あいも変わらず、千代子からの手紙の数は減ったままです。それでもフランドールは上機嫌で、パチュリーに話しかけました。
「ねえねえパチュリー、私、今度大切な友達に会いに外に行くの」
「あら、ついに外出許可が出たのね。良かったじゃない」
「お姉さまも一緒だけれどもね、最近はあなたも別人みたいに落ち着いて、もう大丈夫だろうからって」
「なんだか、レミィが保護者らしいことをしているの、はじめて見る気がするわ」
「出来れば博麗の巫女にも見守りに来て欲しいって言ってたけれども」
「そこまで行くとさすがに過保護ねえ」
パチュリーは遠い目で明後日の方向を見つめています。
「どうかしたの?」
「あなたのこと。変わったなあ、って思ってたのよ」
「うん、そうかも。私は化け物だけれども、千代子に会いたい私はただの人間よ」
「そう思える心があるのなら、あなたはもう化け物じゃないわ」
人間でもないけれどもね、とパチュリーは言いました。
「哲学的ねえ」
「分かりづらいことをとりあえず哲学的と評するのは、あまり褒められた方針ではないわね」
「じゃあ、つまりどういうことよ」
「言ったでしょう。あなたは化け物じゃない、ってことよ」
それ以外に何か言葉が必要かしら、とパチュリーは改めて問い直します。途端にフランドールははずかしくなって、思わず頬を染めてしまいました。
「ああ、そうだ。ちょっと気になるのだけれども、あなたがその人間と文通しているときに使う、ええと、本だったかしら。それを見せてもらいたいのだけれども」
それを聞いて、フランドールの表情が曇りました。パチュリーは慌てて弁解します。
「別に取り返そうだとか、魔法を解いてやろうってことじゃないわ。その本は間違いなくあなたのものよ。ただ、どうしてそのようなことが起こったのか、不思議に思って」
「う、うん。分かった、ちょっと待ってて」
フランドールはくるりと背中を向けたかと思うと、そのまま背中の虹色をはばたかせて、風のように飛び去っていきました。かと思うと、パチュリーが一杯の珈琲を飲み干すよりも前に戻ってきて、両手で件の白い本を差し出しました。
「この本なんだけれども」
その本の題名を見た瞬間、パチュリーの顔色が変わりました。
「フラン、その本、貸してもらってもいいかしら」
明らかにただごとではない雰囲気で、ずい、とパチュリーが身体を前のめりにしました。すっかり狼狽した様子に気圧されるようにして、フランドールは手渡します。
パチュリーは大慌てで机の上に広げると、ざらららら、と頁を捲りました。最後のほうでぴたりと動きを止めたかと思うと、それから下のほうを指でそっと印を引くように撫ぜました。
やっぱり、と小さく呟いて、パチュリーはフランドールの顔を見上げます。
「フラン、なにがあっても落ち着いて聞けるかしら」
いったいなにごとなのかしら。
なんだかいやな予感はしましたが、しかし最近は良いことが続いているのです。楽天的な気分で、フランドールは尋ねました。
「どうしたのよ急に。パチュリーらしくもないわ」
「驚くことにこの本の状態は極めて良い。おそらく、刊行後数年も経っていないはずよ。そして、この本が発行されたのは、昭和八年とある」
「……昭和?」
いまだに事態の重大さを飲み込めていないフランドールが、怪訝そうに尋ねます。
「外の世界のね、おおよその時代をさす言葉なの。昭和八年となると、それは今からだいたい八十年前のことよ」
「……え?」
「幻想郷の結界は常識と非常識の境界。そのほつれが空間を超えるように、時間という常識を歪ませてしまっても、おかしくはないわ。ただでさえ最近は色々な事件が重なって、結界がおかしくなってたみたいだから」
「ちょ、ちょっと待ってよ。八十年前の本が、刊行後数年ですって? 私、明日千代子に会いに人里に行くのよ。千代子と、会えるよね? 会ってお話、出来るよね?」
けれどもパチュリーは、ひどく言いづらそうに下を向いてから、ゆっくりとかぶりを振りました。
「フラン。辛いのは分かるわ。けれども、人間の寿命は……」
「そんな、そんな、そんなの急に言われて納得できるわけないじゃない」
フランドールは本を掴むと、今度は逃げ出すように走り去ってしまいました。どこへ行こうというわけでなく、ただただそうせずにはいられなかったのです。
「良かったんですか。本当のことを伝えて」
パチュリーのすぐ隣に降り立った小悪魔が、小さく囁くような声で言いました。
「私だって言いたくなかったわ。けれども、明日行ってから本当のことがわかったら、フランはもっと苦しむことになる」
ふぅ、と息を深く吐き、一旦眼を瞑ってから、パチュリーは小悪魔のほうへと向き直ります。
「小悪魔、レミィを呼んできてちょうだい」
「引き止めなくていいんですか」
「私とあなたじゃ時間の無駄よ。それに、下手に止めて後から大爆発を起こされるよりはまし」
「でも、館の外でなにか起こしたら大変なことになりますよ。最悪、お偉方に殺されてしまうかも」
「だからレミィを呼ぶの。いざとなったら咲夜もあわせて三人ででも四人ででも命がけで止めるわ」
なるほど、と小悪魔はいつになく真剣な表情で頷きました。
「分かりました。今すぐ行ってきます」
「ええ、よろしく」
大急ぎで飛び立つ小悪魔の背中を見送ってから、パチュリーはのっそりと立ち上がります。携帯用の喘息薬を探しながら、パチュリーはこれからどうすればフランドールを傷つけずに済むか、難しい顔をして考え込むのでした。
フランはいてもたってもいられなくなりましたが、その前に確認の手紙を送るだけの理性は残していました。
今って、何年だったかしら。たったそれだけの文章に、すぐに返信して欲しい、とだけ付け加えて、白い本に挟み込みます。
すると、返事は思いのほかすぐにきました。
『フランへ
おかしなことを聞くのですね。
今は昭和十二年です。』
そこまで読んだだけで、フランドールは我慢が出来なくなりました。
――嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ。
フランドールは手紙をくしゃくしゃに丸めて、放り出しました。今まで千代子からの手紙は全部大切に保管していたので、そんなことははじめてでした。
フランドールは誰もいない場所を見計らって、思い切り館の壁を殴りつけました。力が弾けて、女の子一人くらいなら悠々と通れるほどの大きな穴が開きます。
もちろんそれなりに大きな轟音も響いたのですが、フランドールの耳には届きません。ただ、焼け付くような焦燥だけが、彼女をひたすらに急かしつけておりました。以前の彼女なら、その感情の波に簡単に飲み込まれていたかもしれません。押し寄せる狂気のまま暴れに暴れて、気が済むまであたりを壊し続けることもできたかもしれません。けれども今となっては、パチュリーや千代子との交流を通じて手に入れた、感情を抑える方法が、逆に心を強く締め付けています。破裂しそうなほど気持ちが高ぶっているのに、理性がそれを押しつぶそうと拮抗しています。二つの感情に両側から押しつぶされて、フランドールはなにがなにやら、わからなくなっていました。
もどかしくてもどかしくて、フランドールはたまらなくなりました。瞼をごしごしと袖で擦り、ひりひりと痛む喉を押さえ込むようにぐっと唾を飲み込みます。
空を切り風を裂き、フランドールはまっすぐに地図で見た人里へと向かいました。今日は黒く濁った雲が地平線まで続いておりまして、太陽こそ出てきそうにはありませんが、一方で雨がいつ降ってもおかしくはありません。雨といえば吸血鬼の大きな弱点です。大降りになってしまえばひとたまりもありません。
それでも、フランは飛びました。ただがむしゃらに、我を忘れて飛び続けました。そうしているうちに、やがて遠くに人間たちの住む家々が見えてきて、それらはすぐに眼下にまで迫りました。
適当な三叉路の中央に降り立ちますと、雨の予感に足早になった人間たちが走っていきます。雨傘をさしている人こそいませんが、手を前方に差し伸ばす者、どんよりとした空を見上げる者、と、それぞれ思い思いに雨の様子を探っています。
「あ、あの、白瀬。白瀬千代子っていう女の子を知りませんか」
行きかう人波に声をかけていきますが、芳しい答えは得られません。
なにせ、今まで紅魔館の住民以外とお話をしたことはほとんどなかったのです。それは会話に慣れていない彼女にとって、手紙をはじめて書いたときよりもずっと大変な仕事でした。
もちろん、時折足を止めて話を聞いてくれる人もいました。しかし、優しそうな母娘も、屈強な大男も、フランドールの話を聞いてくれたかと思うと、すぐに背中の羽に気がついて、大慌てで逃げ出してしまうのです。
そのうちにぽつりぽつりと、空より滴る水が一つ、二つと地面に染みを作りました。
もちろん、それはフランドールの身体にも落ちてきて、そのたびにいやな音を立てながら、手や羽を酸のように焼くのです。
雨が当たったところがひりひりと痛みますが、今のフランドールには関係ありません。
「あの、誰か、誰か」
けれども、もはやフランドールの声に耳を傾けてくれる人間すらいませんでした。自分たちの天敵の語る話に、降りしきる雨の中、いったい誰が、どうして耳を傾けるでしょうか。
そうしている間にもざあざあと大きな音を立て、空から降り注ぐ水の塊は体積を増していくのです。身体のあちこちが燃えているのかと思うほどの激痛が、絶え間なく襲い掛かってきました。いっそ羽をぜんぶ溶かしてくれれば、人間にも話を聞けるだろうに。そう悲観するほど、フランドールは思いつめていました。絶望がゆっくりと心を覆い尽くして、軒先に隠れる気力もついに湧きませんでした。
やがて、あまりの苦しさに倒れこんだフランドールの上に、大きな黒い影が覆いかぶさりました。
「フラン」
それから、フランドールの名前を呼ぶ声がしました。濡れて額に張り付く髪を掻き上げると、そこに立っていたのは傘を掲げたレミリアお嬢様です。
フランドールは、自分の顔からさっと血の気が引いていくのを感じました。
勝手にお屋敷を抜け出したのだから、怒られて当然です。それもこのような雨の日ですから、尚更でしょう。
フランドールは思わずびくりと身体を縮めました。ひょっとしたら、殴られてもおかしくはないと思ったからです。レミリアは普段はそんなことはしないのですが、激昂すると手に負えないのも本当のことです。
「帰るわよ」
けれどもレミリアは一言だけ口にして、それから何も言いませんでした。
かわりに下を向いたまま怯える、あちこち傷だらけのフランドールを、ただ、ただ優しく見守るのみなのでした。
後ろに控えていた咲夜が大きな黒い傘を、レミリアにそっと差し出しました。女の子二人なら、十二分に覆い隠せるでしょう。しかし、レミリアはそれを拒絶してゆっくりと首を振ります。
「私は先に帰っているから、咲夜、フランに傘を差してきてあげて頂戴」
「かしこまりました。しかし、よろしいのですか」
「悔しいけれども、私では役者不足だわ。こういうの、苦手なのよ」
レミリアは、ぽつりとそう呟いて、持って来たもう一つの傘をばさりと開きました。
そうして飛び立とうとしたレミリアの服の端を、フランドールが右手で力なく掴みました。下を向いているのでその表情はうかがい知れませんが、誰にだって簡単に予想することが出来ました。
「……遅れてごめんなさい。でも、よく頑張ったわね。私、てっきりあなたのことだからかんしゃくを起こして、大暴れして大変なことになると思っていたわ」
レミリアは振り向かず、赤子をあやすような調子で言いました。
「……ない」
フランドールが、搾り出すように答えます。それはまるで断末魔の喘ぎのように、ひどく掠れたものでした。
「頑張れてなんかない! 私、駄目だった。約束したのに。会いに行くって約束したのに!」
フランドールは、泣いていました。ずっと我慢していた涙が一気に溢れ出して、あっというまに小さな頬と顎から雨を流し去りました。
レミリアが叱ってくれなかったことが、むしろ辛かったのです。たくさん怒られて、明日になったら案内してあげたのに、とぴしゃりと言い放ってくれれば、それでよかったのです。
しかし、レミリアが向けてくるのは、憐れみと同情の優しさのみなのです。それが意味するところは、ひとつしかありません。フランドールは、それでようやく、人間の死を実感してしまったのでした。
「私、こんなに簡単な約束も守れなかった! やっと外に出れたのに! やっと会えると思ったのに!」
同じ事を何度も何度も叫んで、フランドールはひたすらに泣いていました。レミリアは、そうなってからようやく、振り向きました。それから変わり果てた妹の姿を見て、レミリアは咲夜のほうへ手を伸ばしました。
「咲夜、気が変わったわ。先に帰っていなさい。傘、持って行っていいから」
「ええ。仰せのままに」
レミリアは手に持っていた傘を、そっとフランのほうへと傾けました。
「あなたも、自分の大切なものをなくして、そうしてようやく気がついたのね」
レミリアの言葉が、重くのしかかります。
『馬鹿馬鹿しくて不完全。けれど、不完全だからこそ人間は変化し続けることができるのだろう』。
はじめて千代子に送った手紙の一節が脳裏に蘇りました。でもそれは、大間違いだったのです。
一番に馬鹿だったのは、自分自身だと悟りました。
自分が不完全だったことも知らなかった、大馬鹿者です。
ほんとうに恐ろしい現実を認められず、備えることすらできなかったのですから。
「今は、泣きなさい。私も昔、そうしたわ」
レミリアは傘を小脇に挟んで、それからフランドールをそっと抱き寄せました。そうしても、彼女の妹はひんひんと変わらずに泣き続けていました。
妹の体温をそうして感じるのは、ずいぶんと久方ぶりのことでした。
だから、苦手だって言ったのに。
誰へともなく呟いて、レミリアは肌に触れる妹の涙の感触と、それから降りしきる雨の音とを抱いて、しばらくの間立ち尽くしていました。
それからというものの、フランはただただ毎日泣いて過ごすようになりました。普段は顔を見せることもないレミリアが、わざわざ地下室に降りてきたときも、立てた膝の間に顔を埋めるのみでなのした。
それは、パチュリーが合鍵を使ってはじめて部屋に入ってきたときにも、変わりませんでした。
「ここ、空気が悪いわねえ。上に行かないと、身体を悪くするわ」
冗談めかして言うパチュリーにも、ベッドの上の少女はほんのわずかな反応すら返しません。彼女の肌の冷たい白色もあわさって、まるで西洋の人形のようでした。
「読みなさい」
「いや」
ベッドの上でクッションを抱えたまま、フランドールはその裏側からじっとパチュリーを睨み付けています。
「白瀬千代子と、少しだけ文通したわ。色々と積もる話をね」
千代子の名前を聞いて、フランドールはわずかに顔を上げました。二つの眼だけが、クッションの裏からパチュリーを覗いています。
「あなたの物語を待っているのは、あなただけではないのよ」
「でも、私、約束を守れなかった。もう千代子は、私を嫌っているもの」
フランドールはそう答えましたが、パチュリーは無言のまま、フランドールに分厚い紙束と、それに乗った一枚の便箋を渡しました。フランドールは最初は拒絶しようとしたのですが、無理やり押し付けられて、いやがおうにも読み始める羽目になりました。
千代子からの手紙。そこには、こうありました。
『フランへ
私の世界には、妖怪も魔法使いも、吸血鬼もいないから。きっとフランは私とは違う世界に住んでいるのでしょう。最初からたぶんそうだろうと思ってはいましたが、いざ知ってしまうとやっぱり改めて残念だとも思います。
だから私は、フランから、そしてフランのお友達から聞いた色々なことを、物語にして私の一番好きな本に挟んでおきました。
霊夢さんのこと。
魔理沙さんのこと。
フランのお姉さまのこと。
一緒に住んでいる人たちのこと。
沢山沢山書いたので、これを次に見つけた人が、きっとフランにまた、お手紙を書いてくれると思います。私が今会えないぶん、その人に全部譲ってあげたいと思うのです。
それから、フランとお手紙を交換するようになってから、こっそり書き続けてきた物語を一緒に入れておきました。最近はずっとこれにかかりきりだったので、いつものようにお話を送れなくなってごめんなさい。私と手紙を交換する、フランのお話です。
このお話は、未完です。私はもう、あまり長い文章も書けない身体になってしまったから。だからどうか、フランの手でこのおはなしの続きを書いてください。おはなしの中で、私を生きさせてください。おはなしの中で、一緒にいさせてください。
時間のかかるむずかしい字は時々飛ばすことにしました。もう太陽を見ることすら出来ないかもしれません。
けれどもさいごの時まで、私はこの物語を、書き続けたいとおもっています。
今までありがとう、フラン。
白瀬 千代子』
フランドールはパチュリーから受け取った長い長い物語をよみおえると、涙をぬぐい、椅子にすわりました。
パチュリーは何も言わず、部屋の外に出ました。とても、とても安心した様子でした。
フランドールはレミリアからもらったかみの束をひらき、もう壊すことも無くなった万年ひつを走らせました。
そのとき、さく夜がフランドールをよぶ声がしました。
「いもうとさま、お客さまですよ」
フランドールはあわててへやをとびだしました。
そこに、いたのは、』
フランドールは、ぎゅっと唇を噛んだ。
初めのうちは美しかった筆跡も、お話が進むごとにどんどんと崩れていく。最後の一行に至っては、ぶるぶると震えてもう文字としての体裁を保てないほどになっていた。続く文のない最後の読点のあとには、酷く歪んだ一本の直線だけが残されている。
いったい、どれだけ病に苦しみながら、千代子はこれを書き続けてきたのだろう。鉛のように重い空想がフランドールの胸に絡みつくように渦巻いた。
「わたし、わたしは……」
ほとんど無意識のうちに、唇が震えた。
あの雨の日の、ぞっとするような無力感と虚しさが、胸の中からこみあげて口からこぼれそうになった。
「さよならも、言えなかった……」
「手紙を、書きなさい」
唐突に響いた、母親のように優しいパチュリーの声色に、フランドールははっとした。
「まだ、間に合うの?」
「……時間を越える魔術は、本来、人為的には不可能なものよ。けれども、今回はこの魔法の本が存在する。どうにか一回分、ほんのもう少しだけ、過去に繋ぐことに成功したはずよ。だから、書きなさい。あなたの全身全霊をこめて、あなた自身の物語を、あなたの手紙にこめて。私の存在をかけて、送り届けてみせるわ」
パチュリーはそれだけ言い残して、部屋の外に出た。一度も振り向かなかった。振り向く必要もないと思ったからだ。
ただ一人取り残されたフランドールは、しばらく呆然としていたが、やがて唇を痛いほどに噛みしめて、前を向いた。抱えていたクッションを放り投げて、部屋の隅へと落とす。
逡巡は、ほんの一瞬だった。
フランドールの長らく力の篭もっていなかった腕が、ぎゅっと力強く握りこまれた。
私が。
私が、やらなくちゃいけないんだ。
決意を胸に、フランドールは立ち上がる。
フランドールは長い長い物語を読み終えると、湧き出してきた涙を拭って椅子に座った。
レミリアから貰った紙の束を開き、もう壊すことも無くなった万年筆を走らせる。
書くことは、一つしかない。
今となっては、私にしか書けないことだ。
『そこに、いたのは、フランドールのずっと会いたかった最高の親友でした』
そこまで書いて、フランドールは便箋を取り出し、最後の手紙をしたためはじめた。
大丈夫、きっとまだ、間に合うはず。
『私の最高の親友 白瀬千代子へ』
咲夜の声は、聞こえてこなかったけれども。
自分の後ろから優しく腕が伸びてきて、ペンを持つ自分の手に、そっと重ねあわされたような気がした。
フランドール・スカーレットが初めて手紙を書き上げてから受け取ったもの。お返事の便箋、一枚。お姉さまからお叱りの声、山のよう。それから、初めてのおともだち。
『はじまりは、ほんのちょっぴりの偶然でした。
吸血鬼の女の子、フランドールの住む家には、大きな、大きな図書館があるのです。それは今まで人間の造って来たどんな図書館よりも、ずっと広くてたくさんの本を収めていました。ですからフランドールは暇を潰したいとき、よくそこから本を持ち出しては自分の部屋に持ち帰るのでした。
その日もまた、いつもどおり書庫の隙間に忍び込んでおりました。
小さな身体が図書館の主、パチュリー・ノーレッジに見つからないよう、こっそりと高い天井の下を飛んでいきます。金色の髪の毛が、七色の翼と一緒にぱたぱたと揺れています。
フランドールはパチュリーのことがどうにも苦手でした。いつも下を向いていて何を考えているのか分からなかったし、前に外に出たかったときにも邪魔をされたからです。時折神経質そうな視線が向けられるたび、フランドールはさっと冷たい気持ちになるのです。たぶん、嫌われているんだろうな。彼女はいつもそう思っています。
なにせフランドールはいつか、癇癪を起こして図書館のあちこちを壊してしまったことがあったのですから。それ以来、彼女の顔を見るだけで、怖くて怖くて仕方がないのです。
そうこうしているうちに、フランドールはパチュリーを見つけました。紫色の服を着た後姿が蝋燭の炎にぼんやりと照らされて、椅子の上でもぞもぞと動いております。どうやらペンを走らせているようでして、書いているのがお手紙なのかお話なのか、はたまた魔法の術式なのかは分からなかったのですけれども、とにもかくにも集中している今が好機です。音も無く逃げるようにその場を離れて、適当な本棚から一冊を見繕い始めました。
きょろきょろと首を捻って探すうち、ふと、分厚い書物の隙間に楔のように埋め込まれた、白い背表紙の小さな本が気になりました。なぜならそのてっぺんから、一枚の紙の端が小指の爪の先ほど、ちょこりと覗いていたからです。
あれはなんだろう。無邪気な好奇心のまま本を右手で取ると、その手製の栞が挟まれたページを開いてみました。
零れ落ちるように飛び出してきたのは、一枚の便箋でした。幅広の蛇腹に折られたそれを、ゆっくり丁寧に開きますと、中には縦書きでなにやら文が書かれています。
『この手紙を読んでいる見ず知らずの貴方へ
いきなりのお手紙、ごめんなさい。
貴方は斎藤さんの古書店でこの本を手にとって下さったのかしら。だとしたら、手紙をこのままにしてくれた店主さんにお礼を言わなくちゃ。
そう、それで、私から、貴方にお願いがあります。
私はこの本のお話が大好きです。
もし貴方がこのお話を読んで気に入ってくれたのなら、お返事をください。
そして、どうか私とお友達になってください。
この街に白瀬という名字は私しかおりません。ですから、送り先については気にかけないで下さいませ。
白瀬 千代子』
他には灰色の罫線しか描かれていない、簡素な便箋です。すらすらと流れるような筆跡で、柔らかな丸みを帯びた文字が綴られておりました。不機嫌なときならば、ぽい、とその場に投げ捨ててもおかしくはありませんでした。けれどもその時のフランドールは不思議と、その手紙に惹かれるような気がしたのです。じっくり見つめて、それからぱちぱちと瞬きをして理由を考えてみましたが、ちっとも分かりません。ただ、なんとなく、としか答えられないのでした。
とりあえず、元通りに便箋を挟み込んで、その白い本を小脇に抱えました。そうしてからまた、楽しそうな本を探して大図書館を飛び回るのでした。
それからしばらく経ったあと、フランドールは腕を組んでうんうんと唸っておりました。彼女の翼の宝飾が、仄明るいランプに照らされて、赤みがかった七色に輝きます。すこし体が傾き、微かに光の具合が変わっただけで複雑に色合いを変えるそれは、まるでくるくると廻される万華鏡の中身をそのまま散りばめたかのようでした。
悪魔のお屋敷、紅魔館の地下室。それがフランドールにあてがわれた私室です。薄暗いこの部屋は、全ての方向が真紅に染められていて、なにやら言いようもなく不気味です。地面の下にあるのですから、夏の晴れ渡った青空の下の風の匂いも、冬の一面の銀世界の美しい輝きも、ここには届きません。彼女はこれまで四百九十五年ものあいだ、そんなふうに隔離されきった四角四面の無機質の中で暮らし続けて来ていたのでした。
フランドールは椅子に座ったまま、机の上に突っ伏して考え込んでいます。
理由は簡単でした。彼女が借りてきた例の白い本は最高に面白くて、誰かとその喜びを共有したくて仕方なかったからです。
でも、お姉さまも咲夜も彼女のお屋敷に巣食った妖精メイドも、あまり本を読んでいるようには見えません。パチュリーならきっとこの本のことも知っているのでしょうけれども、彼女に話しかける勇気はどうにも湧いてきませんでした。それに、みんなみんなフランドールを見るたび、怯えるように逃げ出してしまうのですから、お話なんてそもそも出来ないのです。
ですから、答えははじめから一つしかありませんでした。
傾けた首、そして視線の先には、お姉さまが遊びに行っている隙をついて、部屋から盗み出した便箋と幾つかのペンや万年筆。本を読んだことはあれど、文字を書いたことは今までほとんどありません。こくりと小さく息を呑んで、震える指でペンを掴みました。
『白瀬さんへ
この小説は面白かった。
人間という生物がいかに矛盾しているかについて私は見識を改める必要があった。
馬鹿馬鹿しくて不完全。けれど、不完全だからこそ人間は変化し続けることができるのだろう。
読めて良かったと思った。
もしこの手紙を読んでいたら、返事が欲しい。
フランドール・スカーレット』
たったそれだけの文章でしたが、フランドールには大変な仕事でした。
なにせ、文房具というものは彼女にとってあまりに脆いのです。フランドールが少し力を入れただけで、ペン先はぽきりぽきりと簡単に折れてしまいますし、便箋だって何度となく引き裂かれてしまいます。
それでもえっちらおっちら、どうにかこうにか書き上げたフランドールは、その手紙を机の脇のランプに透かしてみるのでした。ひどく不恰好な文字が、ほのかな橙色に照らされております。ちょっとした達成感がこみあげて、どうにもこそばゆくて仕方がありません。
それから自作の手紙をゆっくり噛み砕くように読み直したフランドールは、とたんにおかしくなって、けらけらと笑い出しました。
なんでこんなものを書いたのだろう。ひどく肩肘の張った、はじめてつくった粘土像みたいに歪んだまま凝り固まった、おかしな文章ではありませんか。そもそも例の文章だっていつ書かれたものかも分からなくて、人間ならとっくに死んでしまっているでしょうに。
今更そんなことに気がついたフランドールはひととおり笑うと、書いたばかりの手紙を折り畳んで、元の手紙の代わりに白い本に挟み込みました。そうしてから、壊した万年筆のことをレミリアにどう言い訳したものかと悩むのでした。
それから二日が経ちました。ようやく無くなったものに気がついたレミリアに散々おかんむりにされて、しょんぼりと戻ってきたフランドールは、階段の一番下のステップを降りてから改めてがっくりと肩を落としました。
だいたい二日間も気がつかなかったなら、普段はぜんぜん使ってないってことじゃない。それなら、いらないんじゃないかしら。そう心の中で毒づいてみたのですが、悪いのは自分なのだから仕方がありません。ごめんなさい、ごめんなさいと何度も謝って、逃げだすように地下室へと戻ってきたのです。去り際にお姉さまが何やら言っていたようにも思ったのですが、とにかくその場を離れたくて仕方がなかったのです。
ため息混じりに地下室のドアを開けたフランドールは、んん、と小さく息を漏らして、目を細めました。言葉にできないほどかすかな、けれど確かな違和感を覚えたからです。それは彼女が不思議な力を使ったあと、あたりに漂う魔法の残り香にどこか似ているような気がしました。
顎の辺りに手をやって、考えに考え、そうしてようやく、どこがおかしいのかに気がつきました。机の上に置きっぱなしだった件の白い本、それに挟んだはずの手紙が、昨日より僅かに膨らんでいるのです。
慌てて駆け寄ると、今度ははっきりと分かりました。本からはみ出しているのは、どこから見ても一枚の封筒です。はやる気持ちを抑えて引き抜くと、鋭い爪で封をこじ開けて、中身を改めました。
『フランドール・スカーレットさんへ
お手紙ありがとう。朝起きたら枕元にお手紙が置いてあって、とってもびっくりしました。
どちらの国からいらしたのでしょう。可愛らしいお名前ですし、日本語もお上手ですね。
まさか異国の方からお手紙を頂けるとは思ってもいませんでしたので、とても嬉しいです。
この小説、とても面白いですよね。私もいつか、この主人公みたいに遠いどこかに旅をしてみたいと思っています。
また、お手紙をください。私、あなたのことがもっと知りたいです。
追伸
私のことは千代子、でかまいません。
白瀬 千代子』
フランドールは、思わず辺りを見回しました。視線をせわしなく動かして、この手紙がどうやって来たのか、しばし考えを巡らせます。悪戯好きな妖精の仕業でしょうか。それとも、お姉さま。それとも、メイド長の咲夜でしょうか。
けれども、どうにも誰でもなさそうでした。フランドールは部屋にいるときもいないときも、つい鍵をかけてしまう癖があるのです。そのような密室で、内緒のうちに書いた手紙を、どうしてすりかえることができるでしょうか。
ですから、答えは一つしかありません。
どきどき。高鳴る胸の前に手紙を捧げ持って、それからじっと熱い視線を白く小さな本に送ります。
この本が、いわば一つのマジックアイテムとなっていたのに違いありません。だって、そうとしか思えないのですから。異なる場所と異なる場所とを結ぶ、空間の隙間、とでも呼ぶべきものでしょうか。魔法と怪異に満ち満ちた幻想郷のことです。その程度の不思議はありふれていて、だからこそフランドールは簡単に納得しました。
小さく頷いて、返信を書こうとしてから、ペンを取り上げられたことを思い出しました。
いっそ、自分の血でも使ってみようかしら。
一瞬そうも考えましたが、いくらなんでこの純朴そうな相手には刺激が強すぎます。千代子はフランドールのことも、吸血鬼のことすらもしらないのですから。
それなら、どうしよう。
ああでもないこうでもないと悩んでおりますと、こんこん、と部屋のドアがノックされました。それはあまりに久しぶりの音だったものですから、一瞬何が起こったのか理解できなかったのですが、どうにか気づいてドアへと向かいました。
「フラン」
滑らかにドアが開いた先に立っていたのは、唇を噛んだレミリアでした。
「なあに、お姉さま。まだ謝りたりなかったのかしら」
フランドールは反射的に警戒しました。こうして怖い顔をしたレミリアが持ってくるのは、往々にして悪い知らせかいやな命令か、それともその両方かなのです。
ところが、レミリアの言ったことは、ずいぶんと予想外のことなのでした。
「さっきは言いそびれたけれども、これなら使ってもいいわよ」
そう言って、レミリアは服の内側から何本かペンを取り出して差し出しました。フランドールが壊してしまったものよりも少し古びて見えますが、まだまだ使い続けることができるでしょう。
「あなたが壊したあれってね、貴重なのよ。もし壊さないで他の文房具を使えるようになったら、その時はきちんと貸してあげる」
レミリアの言葉に、フランドールは思わず目を丸くしました。思わず自分のほっぺを掴み、ちぎれそうなほどに摘み上げました。
「……お姉さまが私に優しくするなんて、明日は杭でも降るのかしら」
「失礼ね。ちょっとした気まぐれよ。それに、あなたが私のところから何か持ち出したことなんてはじめてだったから、なにか変化があったのかと思ったのよ。姉としてそれは歓迎するべきことだもの」
「お姉さまだって変化することくらいあるでしょう」
「私は完璧だから、変化する必要も意味もないのよ」
「あら、さっき気まぐれって言ったばかりじゃない。思いっきり変化しているわ」
「じゃあ、やっぱり気まぐれを気まぐれにやめようかしら」
「嘘です嘘です、冗談です敬愛するお姉さま」
「それでよし。じゃあ、このペンは渡すから……あ」
フランドールの顔を覗き込んだレミリアの表情が一瞬硬くなり、それから彼女の瞳をじっと凝視しました。
突然のことで、フランドールは驚きます。姉の瞳の中に、困惑した自分の姿が透けて見えるような気がしました。
「どうしたの、お姉さま?」
「……いえ、なんでもないわ。それじゃあね。また来るわ」
フランドールは受け取ったペンを片手につかんだまま、去り行くお姉さまの後姿を見送ります。
レミリアは、フランドールに見えない位置で、ひどく悲しそうに表情を歪めました。
彼女は、言うことが出来なかったのです。
フランドールの瞳に、変えようのない悲劇的な運命の影が、微かに覗いていたことを。
『千代子へ
私は生まれたときからずっとお屋敷の地下室に閉じ込められていたせいで、自分がどこから来たのもわからない。
旅なんてしたことないし、できるとも思わない。
私は吸血鬼だから、太陽の下も雨の中も歩けないから。
あなたはただの人間?
P.S 私のことも、フランでいい
フランドール・スカーレット』
今度の手紙は、最初の返信よりも幾分うまく書けたような気がしました。
またしてもちょっとばかりの損害が文房具にありましたが、それでも前回よりはだいぶ少なく済みました。それはフランドールが慣れたこともありますが、筆記用具それ自体が以前のものよりもだいぶ書きやすかったことも大きな理由でした。
そうして頑張ったおかげか、次の手紙は思いのほか早く、次の日には届きました。
『フランへ
こうして愛称で呼ぶというものも、少し恥ずかしいというか、こそばゆいですね。
吸血鬼さんだなんて、ちょっと驚きました。
すぐには信じられなかったのですが、そもそもこの文通自体が奇妙なものなのですから、吸血鬼さんに届いても何もおかしくないな、と思い直しました。
私はただの人間です。
あなたのほかにも妖術師だとか、妖怪だとか、怪物だとかがいたりするのでしょうか。
私はお話を書くのが好きなので、そんな不思議な方々のことがとても気になります。
あなたと、あなたの住む世界のこと、もっと知りたいです。
白瀬 千代子』
吸血鬼という言葉をすんなり受け入れて貰えたのは、彼女が幻想郷の人里に暮らしているからでしょうか。
それとも、お話を書くことが好きな、彼女の夢見がちな部分が影響したのでしょうか。
とにもかくにも、文通は続きます。フランドールは自分の周りの人間、それとも人間以外たちのことを書こうとして、そうだ、と一つ思いつきました。自分が不思議なことを教えるかわりに、千代子の生み出した物語を読んでみたいと思ったのです。 この白い本を同じように気に入った仲間なのですから、彼女が書いた話もまた、好きになれるはずなのでした。
『千代子へ
魔法使いとか吸血鬼とか天狗とか、私の暮らす幻想郷には変なやつがいっぱいいる。
そいつらのことで良いなら、私はどれだけでも教えてあげられる。
でも、私もあなたの書いたお話が読んでみたい。
だから、私の知っていることと、あなたの物語を、交換してほしい。
フランドール・スカーレット』
しばらくして、『もちろん構いませんよ。一度誰かに読んでもらいたかったのです』という内容とともに、短い話が送られて来ました。夜空と月と、蛍のお話でした。フランドールはそのお話をとても気に入って、感想と、それから幻想郷に住んでいる蛍の妖怪について話しました。そうすると、蛍の妖怪など知らなかったのでしょう、千代子からは感謝の返事が届きました。
それからというものの、千代子からの手紙には必ずといっていいほど物語が添えられるようになりました。本の間に挟むには少し分厚すぎるからか、いつも白い本の隣に物語の書かれた紙束が送られています。
「空の向こうは、夜なのでした。夜の向こうは、空なのでした。夜と空とが重なって、そこには明日がありました」
「『がたごろがたごろ、地球の上で汽車が車輪を回しているんじゃあない。汽車が地球を回しているのさ』車掌さんはぽう、と汽笛のような声で笑いました」
「夢の中にのみ咲く花を、どうして摘むことができましょう。その花びらは、貴方さまが忘れてしまったあの雪の日のように白いのに」
そんな風に始まる不思議なお話が、お手紙のたびに付録としてついてくるのです。心躍る冒険譚、甘酸っぱい初恋の物語、すこし恐ろしい夜のお話。さまざまな世界が千代子の指と文字を借りて、紙面に紡がれておりました。
フランドールも負けてはいません。もっとも、彼女自身の周りが不思議に満ち満ちていたので、そのことを書けば済むことではありました。
「博麗神社というところに、霊夢という巫女がいる。すごく強くて、不公平だ」
「霧雨魔理沙という変なやつがいる。人間のくせに、私より生意気だ」
「レミリア・スカーレットは私の姉だ。なぜだかあいつを慕っている奴らが紅魔館に住んでいる」
その文章は技術としては拙いものでしたが、魅力的な真実味に溢れていて、千代子からはとても楽しみにしている、というお返事がよく届きました。時にはフランドールが教えたばかりの人物が千代子の物語のなかに登場して、わくわくするような大活躍をすることもありました。自分の館の外ではこんなことが起こっているのだろうか、とフランドールは階段を見上げながらよく思うようになりました。
フランドールはいつの間にか、自分が千代子の描くお話に夢中になっていることに気がつきました。時々お話が付いてこないお手紙が来ると、はしたないとは分かっていてもついつい早く早く、と次をせかしてしまいます。まるで次の日の物語を楽しみにするあまり、語り手をついに殺めることができなかった千夜一夜物語の狂気の王様のようでした。
そうして頬杖をつき、歌を口ずさみ、髪を弄って千代子の物語を待っているうちに、フランドールの心の中でむくむく立ち上る感情がありました。
私だって千代子に負けないほど、素敵なお話が書いてみたい。
ただただ事実を書き記しただけではなく、もっと読んだ人の心を打つような、物語を作ってみたい。
それはちょっとした思い付きでありながら、あっというまにフランドールの心を覆い尽くしました。
けれども、フランドールも自分だけでそんな難しそうなことが出来るとは思っていません。誰かにお話の作り方を教えてもらいたいのですが、彼女の狭い生活範囲のことです。どうにも、そんな芸当ができる人のことが分からなかったのです。
いえ、正しくは、そう思い込もうとしていた、でしょう。
一人だけ、たった一人だけ。
フランドールに近い人々の中で、物語の作り方を知っていそうな人がいたのです。
「あら、あなたが私に話しかけるなんて珍しいわね。どうかしたの?」
蝋燭の炎が揺れて、少女の青ざめた顔を下から照らします。つっけんどんな口調とあわせてそら恐ろしく、思わずフランドールはびくりと身震いしました。肩幅をなるべく小さくして、椅子の上にある自分を押しつぶそうとしているかのようでした。
椅子に座ったままのパチュリーは、そんなフランドールの様子に困惑した様子で、隣でぱたぱたと羽を揺らしていた小悪魔の顔を見つめました。眉尻を下げきったその表情は、私にどうしろって言うのよ、と雄弁に語っておりました。
「私、なんだと思われているのかしら」
「パチュリーさま、なにかしたんじゃないですか?」
「何も出来ないわよ。私のほうが弱いんだから」
「いたずらとか、弱くても出来ますよ」
「私をあなたと一緒にしないでちょうだい」
ふふ、と可笑しそうに笑います。けれどもフランドールは椅子に座って下を向いたまま、ぴくりとも動こうとしません。
「ええと、こほん。私はずいぶん怖がられているみたいだけれども、そんな私になんの用事なのかしら」
フランドールは返事をしません。
「別に、緊張しなくてもいいわ。ええと、なにか食べたいものとか、あるかしら? それとも飲み物? あ、それとも昔の話かしら。あれならもう、気にしなくていいのよ」
パチュリーは言い出しやすいよう、なるべく穏やかな調子で尋ねました。そうすると、ようやくフランドールは口を開きました。
「あの、その。変なことかも知れないけれど。私、小説が書いてみたいの。だから、パチュリーにやり方を聞きたいと思って」
フランドールは小さな小さな声で答えると、笑われるかもしれないと思って、視線を伏せました。
けれども、パチュリーはまったく笑いませんでした。
代わりに真摯な表情で、フランドールに向き合いました。
「フラン、あなたは勘違いしているわ。小説にやり方なんてないわ。あなたはあなたの信じる方法で、あなたの夢を書けばいいの。さあ、あなたの書きたいことはなにかしら」
フランドールがなかなか答えられずにいると、パチュリーは机の上で開いたままだった本の上に、そっと手をかざしました。なにやら呪文を唱えますと、左の頁の上に、小人の弓兵隊が。右の頁には折り紙で出来たような中華風の竜が具現化します。
「技術なんて、たいした問題でないのよ。そんなものはどうでもいいの。物語を紡ごうという心。自分の中身を見つめる決意。真に必要なのはそちらなの。心のある物語は、それだけで人を惹きつける」
パチュリーが竜の上に手をかざしますと、真っ白な円だったその眼に黒い瞳が入り、そうかと思えば吐き出した炎で兵士たちをあっという間に焼き尽くしました。
「けれども」
手で払うように頁の上を撫ぜますと、もう一度、繰り返すように竜と兵士が現われました。
しかし今度は竜の瞳に墨が垂らされることはなく、すると竜は瞬く間に弓兵たちに射落とされてしまいまったのです。
「心のない物語に魂が吹き込まれることは、けしてない」
だから、あなたはあなた自身の心から、物語を生み出すかけらを見つけなくてはいけない、とパチュリーは続けました。フランドールは言われたとおり、眼を瞑って集中します。自分の心と向き合って、そこから物語を見出そうとしました。
しかし四百九十五年の孤独は、少女の心に深い深い影を投げかけておりました。記憶のどこを見渡しても、赤い赤い血の沼だけが狂気めいてべっとりと続いているように思えて仕方がなかったのです。
「パチュリー……私、私の中には、なにもない。私につくれるお話なんて、なにも」
フランドールはパチュリーの紫色の服にしがみつくように抱きついて、そう漏らしました。どこまでいってもなにもないような、自分の中の空虚が怖くてしかたがなかったのです。
「本当に、本当にそう? 恐れないで、しっかりと直視しなさい。あなたにも、あるはずよ。物語の鍵が」
フランドールは目を逸らしたくて仕方がありませんでした。けれども、ぐっとこらえて、自分自身との対峙を諦めずに戦います。傍らの魔法使いが掴んでくれる腕の感覚と、声だけが、自分を現実に繋ぎとめてくれているような気がしました。
それからほんの少しあとのことです。
きらり、となにかが輝いたような気がしました。
人間のくせにちっとも吸血鬼を怖がらない、おかしな少女たちとの会話が、沸き立つ泡が弾けたように、ふと蘇りました。
迷惑そうに口を開きながらも、私を狂人ではなく、一人の吸血鬼として話をしてくれた巫女。
館に忍び込んできた魔法使いと繰り広げた、虹色の弾幕の嵐とマザーグースの言葉遊び。
それは四百九十五年分の紅色の悪夢に比べれば、ほんの小さな思い出のかけらですが、それでも赤々とした記憶の沼の中で、舞い落ちる桜の花びらのようにたしかに煌めいていたのです。
それを飛び石のように渡っていくと、フランドールは自分のなかに眠っていたたくさんの物語たちに気がつきました。
今までに読んだたくさんのお話。
ほんのたまにだけれど、優しくしてくれるお姉さま。
千代子がたくさんくれた、手紙たち。
それから、今こうして、私を支えてくれる魔法使い。
次か次へと、自分の中を満たしてくれる存在を見つけ出していきます。
フランドールは、それまで自分は一人ぽっちだと思っていました。
そう思い込んでいただけで、本当は彼女を大切に思ってくれている人たちはいたのです。
フランドールの中身は、からっぽなんかではありませんでした。
本当にフランドールが作りたかった物語の中身は、たくさんたくさんあったのです。
そのことに気がつくと、嬉しさのあまりフランドールは思い切りパチュリーに抱きついてしまいました。すると、パチュリーはフランドールが怖がっていると考えてしまったのでしょうか。力の限り抱き返してしまって、フランドールは彼女の腕を軽く叩き返します。
「パチュリー、ちょっと、苦しい」
「あら、ごめんなさい。」
フランドールを抱きとめる力が、緩みました。
ふたりで顔を見合わせて、やがてどちらからともなく笑いはじめました。
それは、フランドールがはじめて見る、パチュリーの心からの笑顔でした。
それから、パチュリーがはじめて見る、フランドールの心からの笑顔でもありました。
「……ありがとう、パチュリー。私にも、お話が書ける気がしたわ」
「そう、見つかったのね。……あなたもいつか、外に出れるといいわね」
「なあに、急にどうしたの。変なの」
「今のあなたなら、信じられると思ったの。ただそれだけよ」
「そうは言うけれども、パチュリーだってずっと図書館に篭もっているじゃない。私とたいして変わりないわ」
フランドールは唇を尖らせます。
「そんなことないわ。私だって魔理沙と協力して、異変を解決したこともあるのよ」
「へえ、初耳。いったいどんなことがあったの」
「あれはそう、博麗の神社に怨霊が湧いたときの話ね……」
「ああ、覚えてますよ、それ! 私も混ぜてほしかったのにぃ……」
それから数刻のあいだ、パチュリーとフランドール、それから司書の小悪魔を加えた三人は、のんびりとした談笑を楽しみました。
あれほど怖ろしくて仕方がなかった図書館の魔法使いは、いつのまにやら、優しい友人のパチュリー・ノーレッジとなっていたのでした。
それからの一年は、あっという間でした。
もともと長い時間を生きてきたフランドールですが、その年ほど短く感じられたことは今までありません。
毎日が楽しくて楽しくて、仕方がありませんでした。たくさんのお手紙と、たくさんの物語。語りに語り、語られに語られ、そうしているうちに千代子はフランドールにとってかけがえのない大切な人間になっていました。
ところが、どうにも最近、めっきり千代子からのお手紙が少なくなったのです。
以前はほとんど毎日のように送ってきてくれたというのに、今ではそのときの数分の一ほどの頻度になってしまいまったのです。それはしばらく経っても変わりません。
ひょっとして、私との文通に飽きてしまったのかしら。
いえ、それだけならまだしも、人間の身体は弱いから、ひょっとして。
心配になったフランドールが、手紙の数が減ったけれどもなにかあったのかしら、と手紙を送りますと、最近少し体調が優れなくて、ごめんなさい、といった内容のお手紙が返ってきました。
文面では、あまり重大な病のようには見えません。けれどもフランドールにとって、それが逆に不安です。そんなに簡単な病なら、どうしてこんなに長引いているのでしょう。どうしてこんなに、文字から筆圧を感じることができないのでしょう。
もしフランドールが考える最悪の状況なら、猶予は一刻もありません。どうか一度、孤独から自分を救い出してくれた千代子に直接お礼を言いたかったのです。そのお返しに、崩れ行く彼女の命を、支えたかったのです。
ですから、ためらいはありませんでした。
「お姉さま、お願いします。どうか一日だけ、私を外に出させてください」
フランドールは深々と頭を下げて、私室の椅子に座っていたレミリアに頼み込みました。
レミリアは突然のことに驚きながらも、すぐに冷静さを取り戻して問い直します。
「突然こんなことをしたのですもの。なにか深い事情があるのでしょう。言ってご覧なさい」
フランドールは、どこまで説明したものか少し悩んで、結局全部正直に話すことにしました。信じて貰えないかもしれませんが、それでも嘘をつくよりもずっと良い気がしたのです。
「お姉さま、私ね、どうしても会いたい人間が出来たの」
「……詳しく聞かせて貰おうかしら」
レミリアはいったん立ち上がって、フランドールの傍らにそっとかがみこみました。
それから、一週間ほどが経ちました。あいも変わらず、千代子からの手紙の数は減ったままです。それでもフランドールは上機嫌で、パチュリーに話しかけました。
「ねえねえパチュリー、私、今度大切な友達に会いに外に行くの」
「あら、ついに外出許可が出たのね。良かったじゃない」
「お姉さまも一緒だけれどもね、最近はあなたも別人みたいに落ち着いて、もう大丈夫だろうからって」
「なんだか、レミィが保護者らしいことをしているの、はじめて見る気がするわ」
「出来れば博麗の巫女にも見守りに来て欲しいって言ってたけれども」
「そこまで行くとさすがに過保護ねえ」
パチュリーは遠い目で明後日の方向を見つめています。
「どうかしたの?」
「あなたのこと。変わったなあ、って思ってたのよ」
「うん、そうかも。私は化け物だけれども、千代子に会いたい私はただの人間よ」
「そう思える心があるのなら、あなたはもう化け物じゃないわ」
人間でもないけれどもね、とパチュリーは言いました。
「哲学的ねえ」
「分かりづらいことをとりあえず哲学的と評するのは、あまり褒められた方針ではないわね」
「じゃあ、つまりどういうことよ」
「言ったでしょう。あなたは化け物じゃない、ってことよ」
それ以外に何か言葉が必要かしら、とパチュリーは改めて問い直します。途端にフランドールははずかしくなって、思わず頬を染めてしまいました。
「ああ、そうだ。ちょっと気になるのだけれども、あなたがその人間と文通しているときに使う、ええと、本だったかしら。それを見せてもらいたいのだけれども」
それを聞いて、フランドールの表情が曇りました。パチュリーは慌てて弁解します。
「別に取り返そうだとか、魔法を解いてやろうってことじゃないわ。その本は間違いなくあなたのものよ。ただ、どうしてそのようなことが起こったのか、不思議に思って」
「う、うん。分かった、ちょっと待ってて」
フランドールはくるりと背中を向けたかと思うと、そのまま背中の虹色をはばたかせて、風のように飛び去っていきました。かと思うと、パチュリーが一杯の珈琲を飲み干すよりも前に戻ってきて、両手で件の白い本を差し出しました。
「この本なんだけれども」
その本の題名を見た瞬間、パチュリーの顔色が変わりました。
「フラン、その本、貸してもらってもいいかしら」
明らかにただごとではない雰囲気で、ずい、とパチュリーが身体を前のめりにしました。すっかり狼狽した様子に気圧されるようにして、フランドールは手渡します。
パチュリーは大慌てで机の上に広げると、ざらららら、と頁を捲りました。最後のほうでぴたりと動きを止めたかと思うと、それから下のほうを指でそっと印を引くように撫ぜました。
やっぱり、と小さく呟いて、パチュリーはフランドールの顔を見上げます。
「フラン、なにがあっても落ち着いて聞けるかしら」
いったいなにごとなのかしら。
なんだかいやな予感はしましたが、しかし最近は良いことが続いているのです。楽天的な気分で、フランドールは尋ねました。
「どうしたのよ急に。パチュリーらしくもないわ」
「驚くことにこの本の状態は極めて良い。おそらく、刊行後数年も経っていないはずよ。そして、この本が発行されたのは、昭和八年とある」
「……昭和?」
いまだに事態の重大さを飲み込めていないフランドールが、怪訝そうに尋ねます。
「外の世界のね、おおよその時代をさす言葉なの。昭和八年となると、それは今からだいたい八十年前のことよ」
「……え?」
「幻想郷の結界は常識と非常識の境界。そのほつれが空間を超えるように、時間という常識を歪ませてしまっても、おかしくはないわ。ただでさえ最近は色々な事件が重なって、結界がおかしくなってたみたいだから」
「ちょ、ちょっと待ってよ。八十年前の本が、刊行後数年ですって? 私、明日千代子に会いに人里に行くのよ。千代子と、会えるよね? 会ってお話、出来るよね?」
けれどもパチュリーは、ひどく言いづらそうに下を向いてから、ゆっくりとかぶりを振りました。
「フラン。辛いのは分かるわ。けれども、人間の寿命は……」
「そんな、そんな、そんなの急に言われて納得できるわけないじゃない」
フランドールは本を掴むと、今度は逃げ出すように走り去ってしまいました。どこへ行こうというわけでなく、ただただそうせずにはいられなかったのです。
「良かったんですか。本当のことを伝えて」
パチュリーのすぐ隣に降り立った小悪魔が、小さく囁くような声で言いました。
「私だって言いたくなかったわ。けれども、明日行ってから本当のことがわかったら、フランはもっと苦しむことになる」
ふぅ、と息を深く吐き、一旦眼を瞑ってから、パチュリーは小悪魔のほうへと向き直ります。
「小悪魔、レミィを呼んできてちょうだい」
「引き止めなくていいんですか」
「私とあなたじゃ時間の無駄よ。それに、下手に止めて後から大爆発を起こされるよりはまし」
「でも、館の外でなにか起こしたら大変なことになりますよ。最悪、お偉方に殺されてしまうかも」
「だからレミィを呼ぶの。いざとなったら咲夜もあわせて三人ででも四人ででも命がけで止めるわ」
なるほど、と小悪魔はいつになく真剣な表情で頷きました。
「分かりました。今すぐ行ってきます」
「ええ、よろしく」
大急ぎで飛び立つ小悪魔の背中を見送ってから、パチュリーはのっそりと立ち上がります。携帯用の喘息薬を探しながら、パチュリーはこれからどうすればフランドールを傷つけずに済むか、難しい顔をして考え込むのでした。
フランはいてもたってもいられなくなりましたが、その前に確認の手紙を送るだけの理性は残していました。
今って、何年だったかしら。たったそれだけの文章に、すぐに返信して欲しい、とだけ付け加えて、白い本に挟み込みます。
すると、返事は思いのほかすぐにきました。
『フランへ
おかしなことを聞くのですね。
今は昭和十二年です。』
そこまで読んだだけで、フランドールは我慢が出来なくなりました。
――嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ。
フランドールは手紙をくしゃくしゃに丸めて、放り出しました。今まで千代子からの手紙は全部大切に保管していたので、そんなことははじめてでした。
フランドールは誰もいない場所を見計らって、思い切り館の壁を殴りつけました。力が弾けて、女の子一人くらいなら悠々と通れるほどの大きな穴が開きます。
もちろんそれなりに大きな轟音も響いたのですが、フランドールの耳には届きません。ただ、焼け付くような焦燥だけが、彼女をひたすらに急かしつけておりました。以前の彼女なら、その感情の波に簡単に飲み込まれていたかもしれません。押し寄せる狂気のまま暴れに暴れて、気が済むまであたりを壊し続けることもできたかもしれません。けれども今となっては、パチュリーや千代子との交流を通じて手に入れた、感情を抑える方法が、逆に心を強く締め付けています。破裂しそうなほど気持ちが高ぶっているのに、理性がそれを押しつぶそうと拮抗しています。二つの感情に両側から押しつぶされて、フランドールはなにがなにやら、わからなくなっていました。
もどかしくてもどかしくて、フランドールはたまらなくなりました。瞼をごしごしと袖で擦り、ひりひりと痛む喉を押さえ込むようにぐっと唾を飲み込みます。
空を切り風を裂き、フランドールはまっすぐに地図で見た人里へと向かいました。今日は黒く濁った雲が地平線まで続いておりまして、太陽こそ出てきそうにはありませんが、一方で雨がいつ降ってもおかしくはありません。雨といえば吸血鬼の大きな弱点です。大降りになってしまえばひとたまりもありません。
それでも、フランは飛びました。ただがむしゃらに、我を忘れて飛び続けました。そうしているうちに、やがて遠くに人間たちの住む家々が見えてきて、それらはすぐに眼下にまで迫りました。
適当な三叉路の中央に降り立ちますと、雨の予感に足早になった人間たちが走っていきます。雨傘をさしている人こそいませんが、手を前方に差し伸ばす者、どんよりとした空を見上げる者、と、それぞれ思い思いに雨の様子を探っています。
「あ、あの、白瀬。白瀬千代子っていう女の子を知りませんか」
行きかう人波に声をかけていきますが、芳しい答えは得られません。
なにせ、今まで紅魔館の住民以外とお話をしたことはほとんどなかったのです。それは会話に慣れていない彼女にとって、手紙をはじめて書いたときよりもずっと大変な仕事でした。
もちろん、時折足を止めて話を聞いてくれる人もいました。しかし、優しそうな母娘も、屈強な大男も、フランドールの話を聞いてくれたかと思うと、すぐに背中の羽に気がついて、大慌てで逃げ出してしまうのです。
そのうちにぽつりぽつりと、空より滴る水が一つ、二つと地面に染みを作りました。
もちろん、それはフランドールの身体にも落ちてきて、そのたびにいやな音を立てながら、手や羽を酸のように焼くのです。
雨が当たったところがひりひりと痛みますが、今のフランドールには関係ありません。
「あの、誰か、誰か」
けれども、もはやフランドールの声に耳を傾けてくれる人間すらいませんでした。自分たちの天敵の語る話に、降りしきる雨の中、いったい誰が、どうして耳を傾けるでしょうか。
そうしている間にもざあざあと大きな音を立て、空から降り注ぐ水の塊は体積を増していくのです。身体のあちこちが燃えているのかと思うほどの激痛が、絶え間なく襲い掛かってきました。いっそ羽をぜんぶ溶かしてくれれば、人間にも話を聞けるだろうに。そう悲観するほど、フランドールは思いつめていました。絶望がゆっくりと心を覆い尽くして、軒先に隠れる気力もついに湧きませんでした。
やがて、あまりの苦しさに倒れこんだフランドールの上に、大きな黒い影が覆いかぶさりました。
「フラン」
それから、フランドールの名前を呼ぶ声がしました。濡れて額に張り付く髪を掻き上げると、そこに立っていたのは傘を掲げたレミリアお嬢様です。
フランドールは、自分の顔からさっと血の気が引いていくのを感じました。
勝手にお屋敷を抜け出したのだから、怒られて当然です。それもこのような雨の日ですから、尚更でしょう。
フランドールは思わずびくりと身体を縮めました。ひょっとしたら、殴られてもおかしくはないと思ったからです。レミリアは普段はそんなことはしないのですが、激昂すると手に負えないのも本当のことです。
「帰るわよ」
けれどもレミリアは一言だけ口にして、それから何も言いませんでした。
かわりに下を向いたまま怯える、あちこち傷だらけのフランドールを、ただ、ただ優しく見守るのみなのでした。
後ろに控えていた咲夜が大きな黒い傘を、レミリアにそっと差し出しました。女の子二人なら、十二分に覆い隠せるでしょう。しかし、レミリアはそれを拒絶してゆっくりと首を振ります。
「私は先に帰っているから、咲夜、フランに傘を差してきてあげて頂戴」
「かしこまりました。しかし、よろしいのですか」
「悔しいけれども、私では役者不足だわ。こういうの、苦手なのよ」
レミリアは、ぽつりとそう呟いて、持って来たもう一つの傘をばさりと開きました。
そうして飛び立とうとしたレミリアの服の端を、フランドールが右手で力なく掴みました。下を向いているのでその表情はうかがい知れませんが、誰にだって簡単に予想することが出来ました。
「……遅れてごめんなさい。でも、よく頑張ったわね。私、てっきりあなたのことだからかんしゃくを起こして、大暴れして大変なことになると思っていたわ」
レミリアは振り向かず、赤子をあやすような調子で言いました。
「……ない」
フランドールが、搾り出すように答えます。それはまるで断末魔の喘ぎのように、ひどく掠れたものでした。
「頑張れてなんかない! 私、駄目だった。約束したのに。会いに行くって約束したのに!」
フランドールは、泣いていました。ずっと我慢していた涙が一気に溢れ出して、あっというまに小さな頬と顎から雨を流し去りました。
レミリアが叱ってくれなかったことが、むしろ辛かったのです。たくさん怒られて、明日になったら案内してあげたのに、とぴしゃりと言い放ってくれれば、それでよかったのです。
しかし、レミリアが向けてくるのは、憐れみと同情の優しさのみなのです。それが意味するところは、ひとつしかありません。フランドールは、それでようやく、人間の死を実感してしまったのでした。
「私、こんなに簡単な約束も守れなかった! やっと外に出れたのに! やっと会えると思ったのに!」
同じ事を何度も何度も叫んで、フランドールはひたすらに泣いていました。レミリアは、そうなってからようやく、振り向きました。それから変わり果てた妹の姿を見て、レミリアは咲夜のほうへ手を伸ばしました。
「咲夜、気が変わったわ。先に帰っていなさい。傘、持って行っていいから」
「ええ。仰せのままに」
レミリアは手に持っていた傘を、そっとフランのほうへと傾けました。
「あなたも、自分の大切なものをなくして、そうしてようやく気がついたのね」
レミリアの言葉が、重くのしかかります。
『馬鹿馬鹿しくて不完全。けれど、不完全だからこそ人間は変化し続けることができるのだろう』。
はじめて千代子に送った手紙の一節が脳裏に蘇りました。でもそれは、大間違いだったのです。
一番に馬鹿だったのは、自分自身だと悟りました。
自分が不完全だったことも知らなかった、大馬鹿者です。
ほんとうに恐ろしい現実を認められず、備えることすらできなかったのですから。
「今は、泣きなさい。私も昔、そうしたわ」
レミリアは傘を小脇に挟んで、それからフランドールをそっと抱き寄せました。そうしても、彼女の妹はひんひんと変わらずに泣き続けていました。
妹の体温をそうして感じるのは、ずいぶんと久方ぶりのことでした。
だから、苦手だって言ったのに。
誰へともなく呟いて、レミリアは肌に触れる妹の涙の感触と、それから降りしきる雨の音とを抱いて、しばらくの間立ち尽くしていました。
それからというものの、フランはただただ毎日泣いて過ごすようになりました。普段は顔を見せることもないレミリアが、わざわざ地下室に降りてきたときも、立てた膝の間に顔を埋めるのみでなのした。
それは、パチュリーが合鍵を使ってはじめて部屋に入ってきたときにも、変わりませんでした。
「ここ、空気が悪いわねえ。上に行かないと、身体を悪くするわ」
冗談めかして言うパチュリーにも、ベッドの上の少女はほんのわずかな反応すら返しません。彼女の肌の冷たい白色もあわさって、まるで西洋の人形のようでした。
「読みなさい」
「いや」
ベッドの上でクッションを抱えたまま、フランドールはその裏側からじっとパチュリーを睨み付けています。
「白瀬千代子と、少しだけ文通したわ。色々と積もる話をね」
千代子の名前を聞いて、フランドールはわずかに顔を上げました。二つの眼だけが、クッションの裏からパチュリーを覗いています。
「あなたの物語を待っているのは、あなただけではないのよ」
「でも、私、約束を守れなかった。もう千代子は、私を嫌っているもの」
フランドールはそう答えましたが、パチュリーは無言のまま、フランドールに分厚い紙束と、それに乗った一枚の便箋を渡しました。フランドールは最初は拒絶しようとしたのですが、無理やり押し付けられて、いやがおうにも読み始める羽目になりました。
千代子からの手紙。そこには、こうありました。
『フランへ
私の世界には、妖怪も魔法使いも、吸血鬼もいないから。きっとフランは私とは違う世界に住んでいるのでしょう。最初からたぶんそうだろうと思ってはいましたが、いざ知ってしまうとやっぱり改めて残念だとも思います。
だから私は、フランから、そしてフランのお友達から聞いた色々なことを、物語にして私の一番好きな本に挟んでおきました。
霊夢さんのこと。
魔理沙さんのこと。
フランのお姉さまのこと。
一緒に住んでいる人たちのこと。
沢山沢山書いたので、これを次に見つけた人が、きっとフランにまた、お手紙を書いてくれると思います。私が今会えないぶん、その人に全部譲ってあげたいと思うのです。
それから、フランとお手紙を交換するようになってから、こっそり書き続けてきた物語を一緒に入れておきました。最近はずっとこれにかかりきりだったので、いつものようにお話を送れなくなってごめんなさい。私と手紙を交換する、フランのお話です。
このお話は、未完です。私はもう、あまり長い文章も書けない身体になってしまったから。だからどうか、フランの手でこのおはなしの続きを書いてください。おはなしの中で、私を生きさせてください。おはなしの中で、一緒にいさせてください。
時間のかかるむずかしい字は時々飛ばすことにしました。もう太陽を見ることすら出来ないかもしれません。
けれどもさいごの時まで、私はこの物語を、書き続けたいとおもっています。
今までありがとう、フラン。
白瀬 千代子』
フランドールはパチュリーから受け取った長い長い物語をよみおえると、涙をぬぐい、椅子にすわりました。
パチュリーは何も言わず、部屋の外に出ました。とても、とても安心した様子でした。
フランドールはレミリアからもらったかみの束をひらき、もう壊すことも無くなった万年ひつを走らせました。
そのとき、さく夜がフランドールをよぶ声がしました。
「いもうとさま、お客さまですよ」
フランドールはあわててへやをとびだしました。
そこに、いたのは、』
フランドールは、ぎゅっと唇を噛んだ。
初めのうちは美しかった筆跡も、お話が進むごとにどんどんと崩れていく。最後の一行に至っては、ぶるぶると震えてもう文字としての体裁を保てないほどになっていた。続く文のない最後の読点のあとには、酷く歪んだ一本の直線だけが残されている。
いったい、どれだけ病に苦しみながら、千代子はこれを書き続けてきたのだろう。鉛のように重い空想がフランドールの胸に絡みつくように渦巻いた。
「わたし、わたしは……」
ほとんど無意識のうちに、唇が震えた。
あの雨の日の、ぞっとするような無力感と虚しさが、胸の中からこみあげて口からこぼれそうになった。
「さよならも、言えなかった……」
「手紙を、書きなさい」
唐突に響いた、母親のように優しいパチュリーの声色に、フランドールははっとした。
「まだ、間に合うの?」
「……時間を越える魔術は、本来、人為的には不可能なものよ。けれども、今回はこの魔法の本が存在する。どうにか一回分、ほんのもう少しだけ、過去に繋ぐことに成功したはずよ。だから、書きなさい。あなたの全身全霊をこめて、あなた自身の物語を、あなたの手紙にこめて。私の存在をかけて、送り届けてみせるわ」
パチュリーはそれだけ言い残して、部屋の外に出た。一度も振り向かなかった。振り向く必要もないと思ったからだ。
ただ一人取り残されたフランドールは、しばらく呆然としていたが、やがて唇を痛いほどに噛みしめて、前を向いた。抱えていたクッションを放り投げて、部屋の隅へと落とす。
逡巡は、ほんの一瞬だった。
フランドールの長らく力の篭もっていなかった腕が、ぎゅっと力強く握りこまれた。
私が。
私が、やらなくちゃいけないんだ。
決意を胸に、フランドールは立ち上がる。
フランドールは長い長い物語を読み終えると、湧き出してきた涙を拭って椅子に座った。
レミリアから貰った紙の束を開き、もう壊すことも無くなった万年筆を走らせる。
書くことは、一つしかない。
今となっては、私にしか書けないことだ。
『そこに、いたのは、フランドールのずっと会いたかった最高の親友でした』
そこまで書いて、フランドールは便箋を取り出し、最後の手紙をしたためはじめた。
大丈夫、きっとまだ、間に合うはず。
『私の最高の親友 白瀬千代子へ』
咲夜の声は、聞こえてこなかったけれども。
自分の後ろから優しく腕が伸びてきて、ペンを持つ自分の手に、そっと重ねあわされたような気がした。
文章内容合わせて満点を送りたいです
>一箇所 「さく夜」 になってたかな?
最初の『見て作中作なんだろなと思いつつ忘れてた自分の記憶力のなさよ
その分、はっとさせられたというのはありますが
知的さを感じさせるフランっていいですよねっ!
さり気なく今後も書いてくださるだろうと期待しています
素晴らしく素敵で美しいお話でした。
泣かないわけないだろ、こんな切なくて、でも温かい話なんか。