過去の話はこちらです。
血に栄養が溶けあい、相づちは曖昧を極めいく。
私の心は既に周囲へ興味の張り出しを失い、内へと籠り切った酔いの中にいた。浮遊感の中、脈音の強弱のみが識域の水面を息継ぎしている。稗田阿求もまた深い酔いが胸に渦まいているはずだった。
「あなたはまあ、ほどほどに幻想郷を知ったといっていいでしょう。まだ幻想郷縁起を私の代わり書くまでには至りませんが」
「そうかい。修行を積んでみるよ」
欠伸混じりに答える。
閉じた唇を芋虫のようにむにむにと蠕動させ、口内に残った呼吸を咀嚼する。
私といえば日中天高くなって誰もいない空間に向かって『今日は晴れだな』とからふと確認するときに匹儔する、いわば思って思わざる思いが胸に去来するのを発見していた。この虚無を感じさせるやり取りが記憶に残らないことは確実だった。
塗壁に深く腰を深く降ろす。
「私たちは昔のような牧歌的な存在ではないとされています」
ぽつりと彼女は雨粒の最初の一陣のように訥々と呟いた。もちろんそれは本降りの尖兵であり、また始まるぞ、と私にとっては警告的な響きを持っていたかもしれないが、止めようともせず、ただ杯を傾け、穏やかな身体の感覚を楽しんだ。
「そう、滑稽で芝居じみた意味づけ、時世粧の持す詞藻の重力が、一挙手一投足、日々の生活の膜にのしかかり歪曲させています。ばかばかしい、私たちはまず第一に、ただの著述家と、ただの巫女なのですから」
このように、折にふれ差し込まれる彼女の教化的な問いが私の安らいだ時を釘裂きにし、私の籠った認識の膜を破る。「どうだろうね」すると向こうから窺狙う眼差しが返答を要求し、黙殺の逃げ道を塞ぐといった次第だった。
「どうであれ私は……」
言いかけて、黙り込む。
数度のやりとりを省略する鋭さを持って、先刻承知とばかり言を被せる。稗田阿求は私に踏み込む。
「あなたは、手詰まりでしょう」
視線をそらす。何に手詰まりなのか、もちろん私の身の処し方だ。了解が確かに私たちにあった。だが私の内にある反発心が、このとき一瞬眠りから覚め、軽んじられはしまいと鎌首をもたげた。
「どうしてそう思う? じっと私を見て、睫毛の数を確めたらそれが分かるのか」
この強がりは役に立ったか? 役に立たなかった。だが稗田阿求は別に何も気にしてはいなかった。泰然とし、胸を張る。
「私は、御阿礼の子です」
私は驚きを表すように両手をあげた。
「へえ」
「しかし」
湯飲みを一端脇へ置き、彼女は私に直接答えず、何かを探るように御阿礼の子についての話を始めた。彼女は何かを待ち、時を窺っていた。
私の胃袋の消化は最高潮で、身体の先端まで食べ物が充溢する気配を感じた。視界がじわりと濡れていく。
「私が稗田阿礼というのならば、あなたにも九代前の立派な自分自身がいます。気に入らなければ十代前、二十代前まで遡ってもよいでしょう。シジュウカラとコオロギ、どちらを自分であると言い張るかは、難しい選択です」
ぱしゃりと、鯉が水面を打つ音が聞こえ、彼女は言い添える。
「おっと、仲間外れはいけません。もちろん錦鯉も第三の選択です」
「記憶の断絶した前世に何の意味もないと。そう言いたいのか」
わずかに目を伏せ、眇たる畳の編み目を見るともなしに見る。浮沈する編み目の開きは、転生する一個の魂の遍歴だと見えないこともなかった。
私は編み目の隙間に爪を差し込み、また差し入れる。この小規模な破壊活動を見咎めれない程度に、指先が開く鈍い痛みを楽しむ。
「稗田阿礼など、いないと」
「そう、私は見方によればただ阿求と名付けられた人間に過ぎません。どうして御阿礼との絆を保ち得ましょう。結局私は御阿礼の子です。御阿礼とは呼ばれません」
この衝撃的な告白はしかし冷やかしの調べに乗って耳に届いていた。もっともごかして語る彼女だが、挙措には深刻さはなく、気楽な放言の匂いを節々から空気に晒すにまかせていた。わたしは真に受けず、何かくだらないことを言おうと身を乗り出したが、彼女の息継ぎよりも遅かった。
「それは」
「たとえば」
今更気になった見苦しく跳ねたネギの切れ端を指の腹を押しつけ、椀の縁にへばりつかせる。
「稗田家の血がときおり偶然的に産み落とす求聞持法の生得者、つまり遺伝上の天分が与えられた娘がいるとします」
両足膳の天板は無疵が保たれ照り映えている。その琥珀に浸したようなちらちらとした春慶塗の輝きは、御阿礼の子への崇敬の星座を示している。
「魂の連続性など何もありません」
断言する。ところがまさにその連続性により稗田家は名聞を保っており、当代の降誕にあたって家門の価値も匂うがごとく今盛りとなっているのだった。
「その娘は生まれてこの方」
指の脂を両足膳に残す。白い跡が掠れていく。
この当主の外見にそぐわぬの該博な知識と世故に長けた言動と盛大な御阿礼神事のお祭り騒ぎは、この由緒ある旧家の役目に実感を失っていた里人たちに次の錯覚を出来させる威力を発揮した。つまり、あえて里人は伝説を忘れているふりしていたのではなく、絶えず胸中にて崇めたてまつっていたが、此度の降誕に際し、ようやそれを表明する好機に遭ったのだと。
彼女の部屋にある真新しい家財道具の丁寧な手仕事の見本市の出自を察せないほど私は里と遠ざかってはおらず、要はこれらは部屋のお歴々はめでたき出生を賀す贈品の連隊であった。
「ずっとずっと、遥か昔の輝かしき血脈の鼻祖の神話を吹き込まれ、増長し、稗田阿礼の御光に咽せてしまい、哀れにも自分が前世の生まれ変わりだと思い込んでいる。『お前は稗田阿礼の生まれ変わりなのだ』。小さい頃から乳母の寝物語のお題目はそればかりです」
「冗談だろう」
「御阿礼神事なる外法はためにする発明です。『御阿礼の子』という存在を憑依させる呪いです。うるさい儀式の銅鑼が音も轟に空も割れよと罅を入れ、たまげた小鳥を病葉のごとく墜落させ、ちょこんと高御座に座る子孫の頭の上で休わせるとき、霊妙なはたらきにより哀れな子孫の自我と『御阿礼の子』なる幻想とが相克し、ときに子孫は自我を奪われ、ときに『御阿礼の子』は自我に付帯する一能力となる。儀式が生後に行われる意味はここにあります」
「からかっているのか」
私の気怠い様子に目を細め、笑いを止めて私に向かって膝を寄せた。
「あなたは冗談か、と言われましたね。ずずず」
彼女は鼻先を杯に埋め、ずずずと表面のしぶきを呼気と共に吸い込んだ。お行儀が良いとは言えないかもしれないが、彼女の主張によればこの「ずずず」は、好ましいバッカスの体液の働きを是認するねぎらいの愛撫であるらしかった。「かわいい味」舌をぺろりと出す。そして答える。
「もちろんぜんぶ冗談です。私は稗田阿礼ですし、記憶もまるきり断絶している訳ではありません」
「紛らわしいことを」
(わたしは……)
私は。
このだらしなく毛玉が転がりふにゃふにゃと延びていくがごとき止めどない繰り言の軌跡は、幻想郷に飽き、得意の絶頂で思い上がりきった小娘、いわば人生の放蕩娘である霧雨魔理沙に向かい人文学者的な薫陶を授けんとする態度に由来するジグザグだと私は思っていた。だが。(そうではない……)これは。
「でも待ってください。むしろこれは、そう、もしかして博麗の巫女のたとえ話ではないでしょうか?」
確かに彼女はその話もしたかったのかもしれない。だがこの詔り直しは、先ほどから小話めかして吐き散らした彼女自身の由緒についての実意の痕跡を完全に糊塗しなかった。
そして私はそれとは別なる確信に心を奪われ、彼女の正体を追及せず、ただ、肩を落として、酒を飲み下す。
ようやく思う。彼女が私に語るのは、何やら身中期するところを秘めたる故ではないか。底巧みの対象にされているのではないか、稗田阿求は私を通して……。だが、どうして私はそう思うのか。
「これはあなたの話です。博麗の巫女と霧雨魔理沙という二つの存在が同居しようとしているのですから。……霊夢さんは三つでした。もちろんあなたは幻想郷を降ろさないぶん数が一つ少ないと卑しさを恥じながら訴えはしませんよね。私からの助言です。所詮それら別々の存在です。存在を分かちなさい」
「ふむ」
幻想郷、博麗の巫女、そして霧雨魔理沙。
もしもこの鼎立をパチュリー・ノーレッジが聞いたならば喜んで三位一体解釈の諸派を並び立て、ついで勢い余って三相のうち人間としての位格は地母神の処女に仮託されるのだと言ってのけ、だからどうしたと野次られすごすご引っ込むぐらいの愛嬌を見せたのかもしれない。
だが私は会話を抱えこまず、俯瞰し、稗田阿求に対する言明しがたい直接の理解、つまり彼女に従うのが正しいという命令的な直観の下に居た。
彼女は私を変えようとしている。(ええ)具体性を欠きつつも灼然たる直観。(それは)多分それは博麗の巫女を我が身に喚ばいはじめたことにより挿入された了たる託宣だった。受諾なき贈与にも似て、私に擬されたものであり、由来を捉えようとしても、水の中の水が運指の檻を嫋やかにこぼれ落ちるようにこぼれ落ち、己とは異なる精神様式の受容に直面させ……。
「存在を分かつ」
腕組みし、懐中の間隙を暖める。身体を丸める。
ただ爛熟しきった目の玉だけを外にやる。相変わらずもお元気の由を歌い上げる喜ばしい緑色が、桐の枝体が亭々と聳えている。
小窓の向こうの遠く群れなす雲と酒の香気は、迷い家での食事を想起させた。八雲紫は味噌汁をすすりながら、この味噌汁にはなめことしめじが宿っているわね、と確認するように「巫女服や陰陽玉には博麗の巫女という幻想が宿っています」と言ったのだった。彼女は続けた。伝承の塗り重ねは油絵の立体が塗こめられた腕に血管の隆起を這わせるように、力と権威のエッセンスとして潤色を得さしめ、霧雨魔理沙を助けてくれるでしょう。
残念ながら空腹に対する食事の救済の支配下にあった私は、全ての言葉を神聖なる食事行為の最中に懐古的自慢を聞かされる精神忍耐教程のひとつだとして処理していた。そして、今、今に至って、やっと、ずっと響いていた地鳴りに気付くように、前々から捉えていたものを明瞭に捉えた。(わたしは……)それは喩えるなら蛇腹折に圧縮された分厚い鉄線であり、押さえを外せばただ進行にまかせる行為の緊張した記述の凝縮であり、それらがギリギリと軋む展開寸前の関数のイメージとして、私の内にあった。(私に宿りつつあるもの)だと。勿論それは博麗の巫女と言って良かったのかもしれない。私はこの離人的な感覚の呼び方を少し迷った。
「もしかして私は既にそれを知っているのかもしれない」
例えるならば模糊たる個体、ガラスの霧、炎の氷塊、丸い四角、白い黒色にも似た、それ自体より他に描出しえぬ特殊の趣を擁する閃きを湛える御幣の雫であり、私は、それを舐めている己の姿にようやく気づいたのだった。霧雨魔理沙の概念の味覚に発生した処女的な反復による惑乱の叫び。このうるさい表現の羅列は、しかしただ醇乎たるを旨とする独白であり、実直な心象の吐露でもあった。
だが。
(消えていく)私の考えは路を行く推力を失い、闇へ溶けていき、すぐに進退窮まった。断絶する。あとはまた、いいあんばいに酔っ払った、とか、お茶漬けが欲しいとかいった慶事だけが身中の残余を形作る。
(私はここにいる)
思惟を照らす太陽は誰もが持つ。だがこう言ってよければ、私の太陽は光というよりむしろ影を放射する特色があり、暗く、暗く、執拗に暗く、ただ渦巻いた思考物の成果が偶然的に自分に引っかかるの待つ触覚だけをぶら下げていた。それは思索の路を辿る狩りではなく、偶感の匙に干しブドウが乗るにまかせられる運試しであり、(これはその偶感かもしれないけれど)、しかしその文目をわかぬ影の放射を背負いながらなお、闇の巨星の重みから逃れようとするように、(また現れる。消える。現れる)いわば内なる博麗の巫女の存在はが稗田阿求の『言葉あれ』によって分かたれ、生を孕み、おぼろげながらも手足を作り、這いはじめたのだった。存在へ。(まだ、もう少し)いわば、別なる主体の峭立へ向け。
同時に私は自分が思っている以上に、霧雨魔理沙としての巫女の形と私自身との分別が出来なくなってきていたことに遅ればせながら気づき、悄然とした。
彼女は私を慈しむように見て、一拍おいてから幻想郷縁起の話を余談的にはじめる。
「私は稗田阿礼です。博麗の巫女と同じような神傳相承の末子となることを私は肯んじ得ません。よって私は私を置いてより他になく続いていくことで、常在することなく、転生の期間を要します。なればこそ」
なればこそ、だが先を飲み下す。また彼女は一歩、膝をこちらに寄せる。斗酒辞せずとばかり、むんずと徳利を掴み頬を火照らす様子に、ふと深酒を制するか迷う。
彼女は唐突に表情を変えた。相好を崩し柔和に笑う。
「畢竟私の仕事は差迫ってはいません。百数十年の幕間はあらゆる課題を置き去りにしてしまいます」
隈無くアルコールの無関心の海に沈み込んだ私は座った姿勢から動けず、ぼんやりと彼女の姿を、頬を上げ、軽やかに皮肉を飛ばす姿を追っていた。
「幻想郷縁起が人間の生活を守っている。なるほど、この書物の信奉者の中には、そのような光景を幻視する者もいるでしょう。彼らはいったいどうして、頸動脈に挿入されんとする牙がもたらす喫緊の体術的課題があるのだと自らに言い聞かせながら、百数十年に一度悠長に撰述される泥縄的書物が間に合うと信じ込むことができるのでしょう。この著者の関知するところを超えた、読書子の霊感の飛翔にまかせられるところです」
気勢を窄ませ、自信なさげに肩をすくませる。惑乱する酔いが瑞雨に湧くミミズのように弱みを浮き上がらせたのだ。
「もしも稗田阿求が筆を滑らせ『この妖怪には腕が100本あり、右手をあげろと言えばどの腕をあげれば良いか混乱して神経がショートし、死ぬ。そのときの熱で魚を桜木で燻すとおいしい燻製が作れる』と書けばどの妖怪でも殺してしまえ、ついで美味しい酒肴にもありつけるような万能の存在なのでしょうか。いいえ、努めて例証より探を入れ、忠実に蒐集する挺身あるのみです。ありそうにないことは書いても仕方がありません。たまに夜道で人を殺してはらわたを食うと書くかわりに、人を驚かすことでお腹が膨れるのだと書いてやるくらいです。時代が降るごとに当世風に書き換えるぐらいならばできましょう。それも人間のためではなく、むしろその妖怪のために」
「ありがたい話にケチをつける訳ではないが」
彼女はゆっくりと私を観察していた。互いの眼睛を摩すように視線を凝らして。
「……幻想郷では風土紀など面倒くさがって誰も書こうとしないから、背に腹をかえず、百数十年に一度生まれる奇特な人間を待つことに決めたのかもしれないぜ」
きわめて穏健というほかない私の主張は、稗田阿求にとっては未だかつて検討されたことのない新説疑いなしだったが、それは揶揄の領野における成果に留まっていた。
「およよ」
彼女は泣きまねをした。
繊柔な猫の首先を摘むように両頬をを指先で挟み込み、そこから伝わる体温でもって己の酔いの軽重を確かめている。一度、二度、彼女は頬を挟む指先に力をこめ、おどけたように舌唇をたわませる。両頬をさらに押し込む。私はじっと見守る。楕円になった唇がぱくぱくと動く。
「私はたこです」
「ほう」
「墨を吐きますよ」
ぷーと息を吐く彼女は居住まいをただして、言葉を続けた。
「私の著作の最後の役割、今生の私の述作は、幻想郷縁起は、賢者様たちの生物多様性と持続可能性の無味乾燥な哲学に費やされています。幻想郷縁起の使いでなど、皮を剥いていけばただ一つ」
稗田阿求はじっと視線の握力を緩めぬまま私の奥底へと入り込み、自身の発言に至った同様の感情を誘い励起するように、うねるような抑揚をつける。
稗田阿求は瞑目する。
「幻想郷における妖怪の身体は幾ばくかの膠と煤と楮と少しの多糖類からなり、収納性に優れ、稗田家により紙魚や昆虫から守られ、物理的に有りどころが規定されています。つまり」
口惜しげに語尾の肌理をざらつかせ、残った酒を乱雑にごくりと飲み下す。
「妖怪は書物の影響を受けます。或いは……書物から生まれます。この子たちです」
彼女は手頃な書物を取り出し、ぱんぱんと乱暴に叩く。
「妖怪の写し身として十全を備えた記述の総体は、そのまま彼女たちの拠り所となるのですから。幾度滅ぼされようとも、私たちが幻想郷縁起を否定しない限り、毎朝の文鳥のさえずりとともに眠りから目覚めるでしょう。自然が壊れない限り妖精を生み出すように」
彼女は文鳥の首を振りを真似をして、目をちらりとこちらへ滑らせる。
「ぴちゅ、ぴちゅ」
「退治されたとしてもか」
「それは交流でしょう。もしもの場合は、歴史を隠しましょう。彼女たちは人体上の不可逆の欠損とは無縁です。事実などどうでもよろしい。物語は昨日の世界から始まります」
(私は……)
億劫な午後が覆い被さる。抗いがたい意識の減衰の中、私は口先だけで言葉を紡いでいた。
「妖怪の得意話を数万回変奏するのが幻想郷で流行しているようだけれど、結局それは何一つ私の財産ではないのだから、空しいものだよ」
「いいえ、あなたにも、私にも関係あることです。同じ妖怪が時の試練、人間の認識の試練から逃れ、いつまでも存在し続けることは、大結敷設後の幻想郷特有の現象です。それは幻想郷縁起による彼女たちのタイプの定義と合わせ、ある好ましからざる事実を付帯します」
既に徳利は2本目に突入していた。幻想郷縁起という字が頭の中で幾度となく反響し、輪郭を失う。アルコールはとおに胃袋の結界を素通りし、血に乗って体中でくつろいでいる。回りが早い。(私は……)体を壁に預け、深く沈める。
「何故」
「幻想郷では幻想は共有されているからです」
「それは分かる、だが」
いたずらっぽく笑う稗田阿求は、揺れながら羽虫のように動く考えの線を追うかのように、私の目の奥、頭蓋の中心に焦点を合わせる。
「妖怪が幾千幾万の矛盾する相貌をぶら下げておらず、同時にふたつの場所に存在することもなく、幻想郷縁起の絵姿が、記述が、どうして別なる異説を併記する必要がないのでしょう。ただ一つ。我々が幻想を共有する世界に住んでいるからです」
稗田阿求の挿花の純白と流れる髪、その釣り合い。そして耳に入る言葉を染み渡らせるように、手の平で開く薫香を飲み下す。舌先から根元へ、室温から体温へ、原液から口内に馴致し、間然する所のない味覚の経過。そして喉からたちのぼる南国の果実のような揮発が鼻孔を充たす。(それはこういうことよ……)尻切れの独白は誘い水となり、すでに彼女が言わんとする結論を先取りし、頭頂に痺れが走る。
「巫女様、ご存じでしょう。やがて幻想郷が至る所を。思い出してください」
(庭をかけずり回ってもまったく同じ落ち葉はおちていないように)
概念の番地はどれだけ垣根を接していても別人が住んでいる。私たちは日々認識の反復を繰り返しながら、しかし常に別者と出会い、概念の領野を拡大していく。それは幻想郷においては事象や概念に根を領く不衰花、その大輪、すなわち私たちを養分とし、眼前に出来する出来事を代表していく妖怪である。
彼女は集う埃を振り払うように、机上に積んであった鳥の子色がくすんだ過去の縁起を指す。
「妖怪は常に事象の差異を跨ぎ、不可識なる別者として幻想郷のあらゆる出来事に根を張り巡らせています。妖怪が現象を代表する作用が働く限り、私たちは反復しつづけ、差異を認識しないということです」
新たな認識の枠組みとはその妖怪の根から逃れることであり、具体的には異物の挿入であり、ひいては大結界の揺らぎ、つまり幻想郷と対応せる外の世界の進歩である。ところが大結界の命題が満たされる時、揺らぎのない世界が訪れ、外の世界の干渉も挿入もなく、幻想が共有され、しかも幻想の数量を計るような世界に住まい、あらゆるサイクルが幻想郷において完結するとき、現れるのは。……私の(即ち)言葉が耳元から響く。幻想と人間の逆転。稗田阿求の言葉と共鳴する。
「厄神様がいつまでも厄を司り続けるということは厄なる概念が悪意や不注意、知識の欠如に還元されず、さとり種族が我々の心を読み続けるということは、心の可読性を、無意識と意識との二分法の証明を、また全ての種族に渡った共通の言語という幻想を私たちに要求し続けます」
(幻想郷は異物を取り込み続ける。私はそれを見守るでしょう)
「この幻想郷は、習合に習合を重ねた挙げ句、忘れ去られる寸前のシンクレティズムの極点の蒸発を、八雲紫様が日傘で集めて回り再構成したものです。私たちは、新たな住人のためのアドホックな拡張を、その異物を翻って肯定する仕組みを作りました。幻想郷縁起はそれを追認し、書き記しました。一例として挙げるならば、仙人が死神に襲われるのは、むしろ仙人の存在を公的に認めるための仕組みだということです。ですが事業は終わりました。いえ、端的に言いましょう。私たちの認識は十年一日、万年一日のごとく、代わり映えすることなく続いくことになります」
葉越の日影薄く、僅かな香気が流れ込む。その萎れる余花を逃れいく精油の揮発は秘めやかに身をせくぐませ、辺りをわずかに這いまわっては涼感をまだらに残す。
日が私の居る場所を舐めた。目の順応が追いつかず眩しさ感じ、ふと帽子で日光を遮ろうとした。だが毛先に触れただけで腕が空を切る。指紋の溝を優しく埋めるような羊毛の不織布の触感を懐かしみ、指先を合わせてこする。細疵、落屑。
皮膚が欠ける前の私と、欠ける後の私が違うように、いかなる現象も、いかなる思想も、本来同一ではない。
撞着の螺旋を降りていきながら、躓き、よろけ、段差を生み、差異を、分節を得ていく。(八雲紫は、あいつは、そういう妖怪のはずなのに)
稗田阿求は呼び起こすように、語調を強め、途切れ途切れ、胸を押すように言葉を紡ぐ。
「妖怪が人間を規定する。人間がまた妖怪を規定する。人間が生まれ、成長し、時代へ継ぐ。常に同一の幻想の傘の下、反復を繰り返し、強固たる認識の土台となり、疑問すら抱くことなく。発想の枠外のことを発想することなく。明日も、あさっても、いつまでも、連鎖し、自己再生産し、無限に強化されていく規定のサイクルの強固な鉄鎖が、私たちの極大をめぐる認識の結界となるでしょう。霊夢さんは!」
彼女は長い枕から頭をもたげ、ついに話の始末に取りかかり始める。
「それを看取していました」
妖怪の賢者としてみれば、霊夢は幻想郷の善導を果たし、大結界の完成直前までの理想ではあったが、そのうえ自分消化をして次代へ繋ぐに至って、まこと手のかからない、秀をいくら与えても足りない巫女であっただろう。
「それが霊夢のしたかったことか。結界を完成させないほうが良いと」
「彼女は幻想郷の拡大と持続の相乗の果て、改良事業の最後の最後の結論として立ち現れた大結界の雲を突く壁を見据えて、躊躇し、自ら招いた結果を振り返り、運命をうらなったのです。幻想郷は今のままでいい。死ぬならば私が間違っている。私が成功すれば私は正しい」
「くだらん神盟裁判だ。焼けた火の上を歩いてみせる大道芸と己の信条には千里の径庭が横たわっている。霊夢は結界を壊すこともできた。ならば壊さなければならなかった」
(手厳しいことね。でも私はもうそれをできる)
ぱちくりと瞬きし。直言する。
「同じ話をしただろう」
誰に、とは稗田阿求は端厳として問い返さず、じっと沈黙が落ちる。時が爛熟し腐り果てるのを待つかのように。
「霊夢に、判で押したように同じ話をしただろう。呪われたから霊夢は死んだ、といっただろう。だったら今の話を聞いた私にも呪いをかけたな」
彼女は私の飛躍を覚悟した顔で受け止め、こう付け加えた
「そう思いますか? ……ならばそうですね。私は言を澄まして、責任をどこに見るのかは結局その人にまかせられるのだと言うこともできるでしょうけれど」
「いや、責めている訳ではない。私は」
全心が彼女への疑念を否定する。私の価値感から見て、彼女の言説は確かに扇動的ではあったが、事実の血色があった。私は事実を披露する段取りの巧拙について善悪の基準を採用するつもりもなく、そもそも彼女が罪というのならば、この幻想郷では事実が罪であるということだった。
「私は別に、幻想郷が先鋭化した巫女を否定した事の初めが、御阿礼の子の言葉の蒟蒻版のアジビラだと責めるつもりはない。知らないよりは知ったほうがよいだろうから。単に霊夢は失敗したのだろう」
「かもしれません」
彼女は決意をしたように私の膝に手を置いた。
「……ですが人には流儀というものがあります。私にも。そこをお退きください」
稗田阿求はまだ残っている湯飲みを一気に呷ると、ゆっくりと立ち上がり、箪笥まで歩んでいく。
彼女は漆塗りの薬箱の抽出の吊手に触れ、私の胸底まで見透かすようにしばらく言葉を休らい。
「人と装束がそろえば博麗の巫女となるには十分です」
覚束ない笑みを浮かべ。
「つまりあなたは巫女です。既に。修行不足であろうが、霊夢さんの結審前であろうが、幻想郷が降りてなかろうが、関係ありません」
胸裏の反応をうち捨てるように、深い歎息とともに大きめの捻袱紗を袂に入れ込んで、私の前に座る。私は彼女の取り出したものが誰かを察し、稗田阿求の行動に驚いた。たとう紙に包まれた茶褐色の脂の染み。粘り気を思わせる、その染みの正体。だが……中身はなかった。
ぬめりと、手に血の粘性がよみがえる。
「中身はどこだ」
彼女はその質問に、中身は何だ、という質問に対する答えも合わせて私の耳に冷水のような自白をねじ込んできた。
「私はあの日、料理を、餡かけを、『霊夢さん』を失敬してきました。例のアトレウス的饗宴では、私は確かに食べていません。どうです、少し、お味のほうは。ここにあります。あなたの」
彼女は自らの腹部に手のひらを押し当て、力を入れて圧迫した。溶け合う至微を、彼女を責めるように睨み付ける。
「うそだといえ」
何故博麗の巫女を切り分けることができそうなどと考えたのか。その力はどこから来たのか。私の身体には私の巫女しか宿らないはずだ。つまり私の身体にはもう一つ他の身体が。
(うそじゃあないわ)
視界が転換した。眼底に収め取る光景が一変する。捉える。幻想の結び目の錯綜を、澎湃たる情感の接触を、間隙なく厖大で、暖冬の陽の重さを持ち、掛けついだばかりの蜘蛛の網にも似た湿り気が、その柔繊の幾数万の集積が持ち上げる腕に絡む。(これが私たちの濫觴、朝霧の津々たる凝縮)
認識の拡大におののく脳裡に現れたのは、絶佳たる観念の眺望だといえた。幻想郷中が幻想の湖底に沈むようだった。見上げる髪にまとわりつく。私の足指の先が、振動と振動を繰り合わせる。(だけどあなたが縛られてはいけない)肌の甘いしびれは、私の産毛の周囲を這い回る。幻想は形を変え、或いは成就し、或いは断絶し、靡みたる波は瞻視の暇に、寿詞が魂を分与するように生命と生命を斎き祀らせ、連絡する。(私ではない)そうだ、私は私の内なる私の姿を同定しはじめた。霊夢、そうかもしれない。それが私にとっての巫女だからだ。(巫女とは、私にとって)口からは覚えず言葉が漏れ。「私は」詩の水潦を割り「博麗霊夢」産み落とされる
我に返って、信じられないように自分の頬を触る。
「霊夢だって……? 私はそう言ったのか」
(そうよ、私は巫女としての霊夢)
予感と留保の季節がやや半ばを過ぎようとしていることを自覚した。
だがそれは私は存在の繰り上げには至らず、私自身は結局何も選択していない。代わりに巫女が私の選択を代表し、可能性を仮託された主体となった。
存在の繰り上げ。ところで再びパチュリー・ノーレッジの話になって心苦しいが、私に初歩的な数学を教授する彼女は、無限の濃度を応用した魔法概念の価値審級の体系作りなる話題のついでに、延々に存在の繰上げに辿りつけない霧雨魔理沙のアナロジーを添付することをお気に入りのジョークとしていた。彼女はよくレミリア・スカーレットの『レッド・ドローイングルーム』に対抗したパーソナルカラーである紫色の統一感がある図書室の小部屋で、私的な集いを開いてはごきげんな冗談を飛ばしたものだ。『パチュリー・ノーレッジ、100。アリス・マーガトロイド、50。霧雨魔理沙、無限。ただし、3.1415……目下成長中。小数点の森々たる最奥へ向け』と。それは百万言を弄して自らを開陳しながらその実一歩も進まぬ私への悪意あるあてこすりではなく、驚くべきことに人間存在一般への婉曲な尊重の評言だったと気付いたのは、この紫色の魔女の言動への相当の理解を得る親交を経て後だった。
彼女は私をひとしきりからかったあと、やや取ってつけたように誤解されやすい言い方で、だが紛れもなく本心で、こう付け加えた。『それは星の高さを感じることよ』とまじめな表情を保ち、おとめよ、『なんじの園の中に生い出る柘榴およびもろもろの佳き実』は、今は好きにもいだり食べきれず腐り落ちるにまかせられるだろうが、季節が過ぎたのち、二度と手に入れられることはないぞよ。くしゅん、喋りすぎたわ。無表情のままに。星へは歩いて行かなければならない。『思想はそらから降ってきたりはしないのだから』
星。したり。だがもしここで、星は私の成長のイメージの極点であり、憧憬の至純である……などと胡乱なことを私が恍惚として語り始めるとすれば、それはパチュリー・ノーレッジの提供する文法にただ乗りした場限りの思いつきであり、鼻息荒い錯覚に一瞬で全存在を支配された浮薄を告白するに過ぎない。
星は私のイコンではあるが、多義的だった。止めようのない天運の象徴でもあり、私のうえに降ってくるものでもあった。私はまだ星への衝動を定義することを否定していた。
この部屋には窓が三方に開いている。大きく開いた南側の窓と、それよりもやや小さな窓が東と西に設けられている。東側の窓にはこれ見よがしに虚空像菩薩の殊妙な容顔が飾られていた。私はじっと宝珠に乗った蓮華のあたりをじっと見ていた。右手は五指を垂れ下げ掌を向けている。わずかに口角をあげ、印相を作し、半跏を組んでいる。この虚空像菩薩のイコンの観相から稗田阿求の存在理由が引き写されてはいないように。
『思想はそらから降ってきたりはしない』その言い切りは、私の世界の話ではなかった。私には偶然的に降ってくるものしか存在せず、昨日降ってきたからといって明日降るとは限らず、可能と不可能は常にゆらいでおり、命題の真偽の反転は星のように瞬き、3.1415……。
私は私に未だに至らず。
(で、どうするの。あなたって本当にややこしいのね。まっすぐにややこしいわ。いつもこんなこと考えていたのね)
霊夢ならそういうかもしれない。
(簡単よ、私を呼び返すのでしょう。あなたは既に)
「ええ。あなたは霊夢さんの身体を得ました」
稗田阿求は、自分の不利になることを言わねばならない殉教的な震えと、冒険的な詐術が成功した自尊心の誇りが入り交じった口吻で説明をした。
「幻想郷の仕組みはあなたの手続きを認め、聞き届けました。痛快ではありませんか? 身体と装束、妖怪の賢者様ご自慢の仕組みの鼻をあかしてやったのですよ」
そして私は極めて変則的に、しかし初めて内なる主体を持ったのだった。それは残念ながら私自身としてではなく、稗田阿求が準備したある託いの真似事の結果としてであったが。
私の精神的な操作によって生み出された観念は、霊夢の肉体と、内に占める精神と、博麗の巫女という幻想を備え、幻想郷のルールに承認され、博麗の巫女としての霊夢を再び復活させた。(私は霊夢)身中の主張。混濁を引きちぎるように。
「しかしながら、霊夢さんの魂は未だに彼岸にあります」
稗田阿求の言葉が木の葉ずれの音のように遠景に引き、私は稗田阿求の手を引っ張り、胸元に寄せ、襟ぐりを掴む。
「私が感謝し、土下座で額をどれだけ汚せるかを見せつけて媚びるとでも思ったか」
彼女は抵抗せず、私に委ねるように身体の力を抜いていた。
私はすぐに手を放す。
「……それとも私が涙ながらに人間倫理なるものを盾に、どうしてこんな冒涜的なことをした、弁償しろ、金とお宝をよこせ、と迫るとでも思ったか」
私は湯飲みを傾け、濃厚な香りに鼻先を突っ込む。透き通った底に沈む濾し残した茶葉の鶸萌黄がゆらゆらとその場に留まりつつも揺らいでいる。
「何かを私に期待しているようだけれど、私には何も残されてはいないよ」
うつむいて、腕を抱える。
「何も残されてやいないさ。私は何も出来ない。まさか、これが土産だとでも言うつもりか」
「ええ」
への字になった口の端が千鈞の重を持つ巌となり閉じられた。
私は意を含んだ様子で人差し指をこつんこつんと畳に叩き付ける。もちろんその仕草には何の意味もなかった。
ただひたひたと満たした湯飲みを、溢れ出さないように飲む。気忙しげに酒をあおる。
ただ私の未来は八雲紫と博麗霊夢によってすでになされており、そしてそれぞれの形で失敗していたのだ、という、既に決定した過去を内省するかのごとく強固な喪失感にとらわれていた。
「でもありません。霊夢さんの続きをすることができます。そして束縛のない力も」
(結界を壊して、今の幻想郷を続けることが。私の望みが)
「これは実利的な考量です。私が未来の幻想郷を嫌うのは、非造物者たちの思い上がった創造ではなく、幻想郷を自然の偉大な潮流に任せるべきだからでしょうか? いいえ、幻想郷は進歩しきった社会とその成員がどう生活するかという疑問に対する一個の解答を、存在が守られ無気力となった連中に対し準備しました」
(それがスペルカードルールに始まる一連の私の仕事)
聖なるもの、厳なるもの、悦なるものの創造。全てが許され、全てを知るが故にそれは自ら作り出されなければならない。
(力を振わないことが大妖怪にとって生きる糧となる)
かつて八雲紫が同じようなことを言っていた意味がようやく私に理解できた。長命の実存哲学の蘊奥として彼女たちが見出した結論は、遊者として生きることであり、じつにご立派、自らの造詣に通暁する美しい精神的な態度だが、同時に次のことを意味する。
(人間にとっては作り物である世界が妖怪にとっては本物なのだから)
「妖怪は何のために生まれてきたのかを知っています。それを感じさせてくれるものならばウソも本当もありません。作り物である彼女たちには作り物で満足なのです」
私の振る舞いを眺めながら稗田阿求は、会話を紡ぐ。
「そしてもっとも重要なこと、人間には限定された欲望には限定された手段しか対応しません。彼女たちのようになれはしない。決して、彼女たちのようにはなれない、そうでしょう」
幻想の幻想。それは彼女たちにとって、人生を保証するスペルカードルールを含めた現在の幻想郷のあらゆる儀式めいた文化。あらゆる行為を約束事の畑で栽培し、燻して水タバコで吸うかのように楽しむやり方。生を汲みつくしながら無為に耽ることなく、てスペルカードルールも本物の闘争も区別なく、巫女に勝てないことになっていることと本当に勝てないことには区別のない考え方。
そして今、一つの幻想が彼女たちの世界を規定する。否定されたはずの博麗の巫女の遊歩が。
私は稗田阿求の家を辞し、彼女と別れ、飛び立とうとしたときだった。
彼女の意見に全面的に同意した訳でもなかったが、無傷とは行かなかった。私の世界観は彼女の世界観に幾分か添削されていた。
だが私は霊夢のこと、幻想郷のこと、私のことで頭がいっぱいで、いつものように考えようとすると影がかかる太陽の下、何も生産的な結論を生み出さずに、頭を上げる。
「お待ちください」
振り返ると、射命丸文がにこにこ笑いながら封蝋された紅魔館のものだと一目で分かる状袋を差し出す。
彼女は気楽な様子で、私にそれを握らせた。
「ディナーパーティーのお誘いです」
微笑む。私は手に取って見る。
これはただレミリア・スカーレットが一人で晩ご飯を食べるのが寂しいから手紙をよこしたのだろうか? いや、違う。遠くレミリア・スカーレットの腕が伸び、私を掴んだ気がした。
「私をじっと待っていたのか?」
この疑問への答えは、私の顔をしかめさせるのには十分だった。
「鯉にエサをやっていました。退屈はしませんでしたよ」
(私は聞いていたぞ、と言いたいのね。別にそれ以上の何かがある訳ではないわ)
「ふぅん。良いことをしたね」
私はとりあえず返答し、しかめた顔をもとに戻す。
(今のうちに退治してやってもいいけれど、彼女は放っておいても私たちを陥れようとはしないわ)
このまま引っ込んでられん。この挑発にやり返してやろうと、口を開いた。
「お手紙ありがとう。郵便屋とは思いついたものだね。新聞売りは食えなかったのかい」
この皮肉はそこそこ効き目があった。彼女は唇を不満そうに尖らせた。
「そんなことはありません」
「返状をしたためる時間はあるかい。郵便屋さん」
「そんな暇はないです。意地悪。今夜ですよ! 絶対出席してください。それでは」
会話もそこそこ、彼女は私の視界から消えた。
(慌ただしい奴ね)
雨催いの空に不安を感じる。案の定乃刻に降り出す。
「雨」
独りごちた。
「雨ね」
じっと博麗神社の縁側に座り、端から端まで、ここから見える光景を観察する。
妖怪の山が、視界を片側を占有している。そこからなだらかに流れる小川が漏れ出し、湖に溜まる。平地が続き、彩りに寂しさを覚えるところで澎湃と渦巻く里の建築物の騒乱に出くわす。そして山の迫力に対置するコントラストとして、遙か遠くに消えゆく花畑と森林の静寂。
暗くなり、雨音が強まる。
(空を割ってあげればいいの。殴って壊すとなおすのが面倒くさいから。時間稼ぎになるわ)
「で、どうするんだ。壊してどうする」
(結界を全て取り去ることはできないわ。まだ、ね。まずは妖怪たちに、彼女たちが否定した私という幻想が消えずに残っているのだと思い知らせてやりましょう)
それは妖怪と人間との関係の再度の逆転だった。いつまでも消えない妖怪が人間の認識を規定するように、妖怪が生み出した幻想がいつまでも消えないことによってまた妖怪も規定される。
(私が居る限り大結界は閉じさせない)
私は未だに信じられない気持ちで身中の声に耳を傾ける。彼女は復活した。しかし、博麗霊夢本人としてではなく。
妖怪の魂は語る私たちが居る限りは不滅である。読み継がれ、語り継がれ、命を吹き込まれ続ける。この麗しき夜の住人の生起の瞬間を認めるが故に幻想郷は外と区別されるだろう。
そして博麗の巫女はどうだろう。装束と身体。
あの夜……。霊夢の通夜の日のことを思い出す。奴は継承と復活の断絶を同時に行った事実に追いつく。
継承されるのは博麗の巫女なのだ。『あなたが今夜を霊具とともに過ごす意味は、継承を専らとします』。嫌みったらしい奴の声が耳に響く。確かにあの時、巫女は霊具に宿るとおおっぴらに説明され、実際に堂々と儀式は終わったのだった。妖怪たちがこの霊具達に何らかの巫女の伝承を見ているのは信憑性のあることだ。
(そう、稗田阿求の解釈ではない。彼女たちのルール)
そして愛すべき我が親友である霊夢個人は未だに彼岸に留め置かれている。よって、正しく言うのならばこれは復活ではない。博麗の巫女の取り憑く先を変えただけだ。妖怪たちはあの儀式で霊夢の復活は失敗したという尊重すべき運命の計算結果を刻み込んだのだ。
だが此度の迂回を可能としたのはまたしても、奴らの手続きだった。つまり、私の中に霊夢が存在するという手続きは、妖怪が霊夢の存在を摂取する手続き、稗田阿求風に言うのであれば、『テュエステス的饗宴』を踏襲している。私は彼女たちの流儀に従って、霊夢を取り込んだ。
承認。つまりこれは、かくのごとき手続きが承認されたと換言されたのだと言って良いだろう。この涙ぐましい遵法精神により、幻想郷の住人が共有する博麗の巫女という幻想の仕組みに沿ったのだ。その結果、博麗の巫女としての霊夢という著作物が宿り、私は綴り続けることで彼女の存在を留めおくだろう。
……だが、それは、あの日、死の間際に垣間見た霊夢ではない。妖怪達が知っている博麗の巫女としての霊夢なのだ。個と公、この二分の相克はいささか単純化しすぎているだろうか? 凡庸な切り口だろうか?
「私には他に道はない」
(いい、結界は私一人だけが触れるわけではないからね。巫女は何も特別ではない。それを忘れないで)
かくして博麗の巫女は当代の巫女である霧雨魔理沙という身体に潜む博麗霊夢の身体を通して現れる託宣の形を取った。
霊夢という結界の拡張と持続を象徴する巫女が存在し続ける限り、幻想郷はその世界観を支持する。
(それにしても稗田阿求、彼女はなかなかルールを知っているわね)
社叢に連なるムクの榛莽たる天蓋がざわつく音、アカショウビン、キジバト、ヒグラシ、ヤブキリ、アマガエル。そして名も知れぬ生き物の鳴き声、遠吠え、甲高い驟雨。博麗神社が誇るお抱え楽団はこの瞬間においては優れて心を落ち着けてくれるアンサンブルを誇る。これは不均斉の静寂だ。プリズムリバー楽団の楽器の痙攣よりも。心地よい雑音。完成された静けさだ。
これが悪いのだ、と私は思う。ここにあるのは一個の世界である。私はここでは世界の営みを見つめる視座を提供される。今の私には心を千路にかき乱す不快な抵抗が必要だった。でなければ、私は全てを受け容れてしまいそうだった。
陰陽玉を構えて、空に向ける。
(まかせた)
「私にまかせて」
肉体と陰陽玉が共鳴し、私の視界は巨人の手に握られがくがくと上下に振られているように揺れ、底のほうから弾けるように放たれる。空が砕かれる
パリンと。
陰陽玉が空を砕く。降り注ぐ星の灰を髪につどわせながら、私は空を見上げる。亀裂から燃える屑が、耐えられなくなった星が、幻想郷に無数の流星として降り注ぐ。
規則性のある亀裂が走る天蓋は天蓋であることを廃業し、一個の絵画に下降しはじめたといえよう。しかしその規則性のある亀裂はボルロミーニの幾何学模様から受ける空間性の印象の上昇とぶつかり再び天蓋を目指し、結局は亀裂は空を可視化あるいは戯画化し、無気力なトロンプ・ルイユを呈し、むき出しに空であり、いつもよりも数段の歪曲で背骨が折れそうになっており、見る者に自らの重さでもってのしかかっている。当然、穏やかならぬ印象を全力で発散していた。
(はいはい。幻想郷の空が割れるなんて、瑞兆であるはずがないでしょう)
私は霊夢の魂を追い求める。魂の存在は幻想郷が保証している。私がいきなりやけになって『霊魂は可能的に生命を有する自然的物体の、形相としての実体である』と語りだしたならば、その呪文により生命を失った自然的物体は全て蘇生が不可能になるのだろうか。それとも仏教では魂独立の存在性格はなく、因縁の動力の一面であると思い出すべきなのだろうか。私の内なる他者。ギガメシュ叙事詩やホメロスまで古くなくてもいい、たとえばワーズワースなど著作の内の死者の扱いについての記述を引用すべきなのだろうか。道教や神道の霊魂観が正しいのだろうか。この幻想郷においてはそれらが正しいときもある。全てが少しずつ許されている。
(あーもういいわよ。いい、すぐに紫がくるわ。そしたら適当に痛めつけて、ディナーパーティーに行きましょう)
彼女の計画によれば、結界を損壊させた後、幻想郷と合一している紫もまた損壊させ、手傷をたっぷり負わせたあと、彼女が傷を癒し結界を支えるのに必死になっている間に、霊夢の身体を食べた妖怪どもが間抜けにも集まってくるディナーパーティーにおいて、妖怪の身体から霊夢の肉体を集めまわり、とりあえず身体を一つにし、しかる後に魂を呼び寄せるとのことだった。(完璧な作品ね)
そして。
「ああ痛い! 大けがですわ!」
どろり、と、紫が隙間から這い出してくる。
「許されることと、許されないことがあります。あなたに教えてあげましょう」
篠突く夕刻の深い青の沈潜に漂う八雲紫のぎらつく瞳。焼けた鉄漿の赤色を拉し去るような朱色は、胸の怒りと自責の杯盤狼藉が織り成す濫りがわしさの残渣をなみなみと湛えており、その妖しく又けたたましい夕闇の二つの前線に曝された私は息をのみ、無意識に手を心臓に当てて胸焼けを収めていた。
(臆病ね、魔理沙。あいつはちょっと脅かしてみせているだけよ)
彼女の前に立つ。
「私を見なさい。紫、私の目を見て言えるかしら。許されることですって?」
冷え固まった地面から屈伸するように立ちこめる瞋恚の蒸気の成分。虫たちが静まり、鳥も鳴いていない、降り積もる埃の音が聞こえるほどの静けさに包まれる。彼女の歯ぎしりの音が聞こえる気がした。
彼女の頭蓋は半壊し、だらだらと、重油のような暗黒が流れている。幻想郷の毀損に対応する身体の毀損が、彼女を割れた卵のように横溢させている。
だが。
「……何ぞ及ばん。爛れたる屍に、仮に絵彩を著せたるがごとし」
私の姿を見て、ため息をつく彼女。震え、母音を掠れさせ、力ない声でイメージチェンジした霧雨魔理沙への所感を述べる。
「こどもたちよ、悪ふざけは終わりです」
八雲紫のお小言はごもっともだ。彼女の美的感覚ではそうだろう。だがそれは、私の世界ではない。私は口角を歪ませ、彼女の目前に立つ。(よし、一発蹴らせろ)「私はその絵彩が好きだぜ」彼女を蹴り飛ばす。彼女は私を睨み付けた。
「私を返してもらうわよ」
倒れ込んだ彼女の胸に手をあてる。八雲紫は起きようとして腕がべちゃりと地面に溶けた。彼女は今や、幻想郷から生える塩の柱に水をかけたように崩れかけていた。
「当代巫女の記念すべき命令第一号は、妖怪は巫女に勝てない、よ。どうやら身を砕くほどの努力をもって理解していただけたようね」
「ふざけたことを」
目に力がこもる。その瞬間、私の中を砕こうとする彼女の意志が、私の脳裡に天蓋と対応するかのように無数のひび割れを作り、博麗の巫女も、霧雨魔理沙も、ちりぢりに消滅させようとしていた。だがこの八雲紫の能力の侵犯は、巫女の結界により阻まれる。
「無理よ」
「ちょっと試してみただけですわ」
その結界は虹色かかった絹糸のようで、姿を捉えることはできない。それは無数に遷移する結界の集合体だった。(紫に対抗する結界を創るのは簡単よ。要は境目をあったりなかったり、狭かったり広かったり、私も追いつけないぐらい速く、次々と変えてやればいいの)
「いい。紫。スペルカードルールを要求するわ。これは実に安全な異変よ。これぐらいなら大丈夫だと分かっているもの。あなたがちょっと徹夜して頑張らないといけないだけ」
心の底で哄笑が響く。(あはははっ、我ながら傑作ね。ところが私はルールなんて守らない。ウソに決まっているじゃあない。紫はルールを守るわ。かわいそ。私に騙されるのね。あいつが動かない間に全てを済ませてしまいましょう)
「異変? 私はそれを指をくわえて見ているしかないのかしら」
八雲紫は凄絶な笑みを浮かべ、肘先で胴体を持ち上げた。
「あなたは私が何の妖怪も知らないでしょう。私を知らずして私を痛めつけるなんて」
「化粧の妖怪だろ」
しかし彼女は気にとめない。通じないと分かっている祈りのように、万感を香にして天に返すように、つぶやいた。
「私は隔てるものにあらず。溶けあわせるものにあらず。私はそれを否定するもの」
「またぞろ否定神学の口吻をお宿しになっているのかい、大妖怪様」
彼女から距離をとる。彼女は私の冗談に意に沿わずして苦笑した。そして、私に得々と自らの身の上を語りはじめる。
「八雲紫とは接し、隣りて摩し、舫うもの。人と妖怪を、幻想と現実を、過去と未来を、私とあなたを、此れ彼を。私があればあなたがある。項辞、観念を。繋索し、向き合わせるもの。世界を、結び界うもの」
私は指先から光熱に白んだ火球を浮かばせる。紫は首をもたげ、その光を見た。
「あら、スペルカードルールはどうしたのです」
ぴしゃりと言葉を被せる。
「あなたは異変の犠牲者。参加はさせない。犬に噛まれたと思いなさい」
水たまりには私の目が浮かんでいる。私は霊夢と瞳孔を鏡合わせにする錯覚に出会った。
博麗の巫女……。幻想郷の体現であり、時の象徴。そしてまた、あの尊敬おくあたわざる妖怪の賢者たちが通有する自分の取り決めた約束事をピグマリオンのごとく恋い慕う精神様式が生み出した人間との関係のある理想の側面。
「結ぶ者、といったな。ところが幻想郷の時が止まると聞いたぜ」
幻想の住人たちは時代の風致であり、永遠の存在ではない。砂塵の辻風が人影を描くように。芳芬たる花々の香りに沈潜するひとつの花の香りだけがふと浮かぶように、捉えたと思えば消えていく一瞬の造形。だがこの幻想郷ではそうではない。
「決して貴方が思うようにはなりません。我々の営為は営為にのみあり。思考の贅肉の中にあらず。『天が下の全て事には季節があり、すべてのわざには時がある。生るるに時あり死ぬるに時あり』」
「かもしれんな。私は別に……」
ここで八雲紫に対抗するためだけに、人間存在は未来の世界観まで含んで現在の生活を生きるのだという空論を述べても仕方がないだろう。結局未だ私自身は流されるばかりで、行為としては分節された博麗の巫女、しかも霊夢の作法しか知らないのだ。確信ある行為が罪を減じるならば、私の確信なき行為は減刑の余地がなかった。しかし私自身が巫女となる道を否定した以上、もはや私にはこの私の内なる住人の指針に従うより他に幻想郷において私自身を留保する手段はないこともまた確かだった。
(少し早いけれども、準備もしなくちゃね)
指先の火球を八雲紫にぶつけ、その火炎を背景に私は地面を割って地下へ降りる。
血に栄養が溶けあい、相づちは曖昧を極めいく。
私の心は既に周囲へ興味の張り出しを失い、内へと籠り切った酔いの中にいた。浮遊感の中、脈音の強弱のみが識域の水面を息継ぎしている。稗田阿求もまた深い酔いが胸に渦まいているはずだった。
「あなたはまあ、ほどほどに幻想郷を知ったといっていいでしょう。まだ幻想郷縁起を私の代わり書くまでには至りませんが」
「そうかい。修行を積んでみるよ」
欠伸混じりに答える。
閉じた唇を芋虫のようにむにむにと蠕動させ、口内に残った呼吸を咀嚼する。
私といえば日中天高くなって誰もいない空間に向かって『今日は晴れだな』とからふと確認するときに匹儔する、いわば思って思わざる思いが胸に去来するのを発見していた。この虚無を感じさせるやり取りが記憶に残らないことは確実だった。
塗壁に深く腰を深く降ろす。
「私たちは昔のような牧歌的な存在ではないとされています」
ぽつりと彼女は雨粒の最初の一陣のように訥々と呟いた。もちろんそれは本降りの尖兵であり、また始まるぞ、と私にとっては警告的な響きを持っていたかもしれないが、止めようともせず、ただ杯を傾け、穏やかな身体の感覚を楽しんだ。
「そう、滑稽で芝居じみた意味づけ、時世粧の持す詞藻の重力が、一挙手一投足、日々の生活の膜にのしかかり歪曲させています。ばかばかしい、私たちはまず第一に、ただの著述家と、ただの巫女なのですから」
このように、折にふれ差し込まれる彼女の教化的な問いが私の安らいだ時を釘裂きにし、私の籠った認識の膜を破る。「どうだろうね」すると向こうから窺狙う眼差しが返答を要求し、黙殺の逃げ道を塞ぐといった次第だった。
「どうであれ私は……」
言いかけて、黙り込む。
数度のやりとりを省略する鋭さを持って、先刻承知とばかり言を被せる。稗田阿求は私に踏み込む。
「あなたは、手詰まりでしょう」
視線をそらす。何に手詰まりなのか、もちろん私の身の処し方だ。了解が確かに私たちにあった。だが私の内にある反発心が、このとき一瞬眠りから覚め、軽んじられはしまいと鎌首をもたげた。
「どうしてそう思う? じっと私を見て、睫毛の数を確めたらそれが分かるのか」
この強がりは役に立ったか? 役に立たなかった。だが稗田阿求は別に何も気にしてはいなかった。泰然とし、胸を張る。
「私は、御阿礼の子です」
私は驚きを表すように両手をあげた。
「へえ」
「しかし」
湯飲みを一端脇へ置き、彼女は私に直接答えず、何かを探るように御阿礼の子についての話を始めた。彼女は何かを待ち、時を窺っていた。
私の胃袋の消化は最高潮で、身体の先端まで食べ物が充溢する気配を感じた。視界がじわりと濡れていく。
「私が稗田阿礼というのならば、あなたにも九代前の立派な自分自身がいます。気に入らなければ十代前、二十代前まで遡ってもよいでしょう。シジュウカラとコオロギ、どちらを自分であると言い張るかは、難しい選択です」
ぱしゃりと、鯉が水面を打つ音が聞こえ、彼女は言い添える。
「おっと、仲間外れはいけません。もちろん錦鯉も第三の選択です」
「記憶の断絶した前世に何の意味もないと。そう言いたいのか」
わずかに目を伏せ、眇たる畳の編み目を見るともなしに見る。浮沈する編み目の開きは、転生する一個の魂の遍歴だと見えないこともなかった。
私は編み目の隙間に爪を差し込み、また差し入れる。この小規模な破壊活動を見咎めれない程度に、指先が開く鈍い痛みを楽しむ。
「稗田阿礼など、いないと」
「そう、私は見方によればただ阿求と名付けられた人間に過ぎません。どうして御阿礼との絆を保ち得ましょう。結局私は御阿礼の子です。御阿礼とは呼ばれません」
この衝撃的な告白はしかし冷やかしの調べに乗って耳に届いていた。もっともごかして語る彼女だが、挙措には深刻さはなく、気楽な放言の匂いを節々から空気に晒すにまかせていた。わたしは真に受けず、何かくだらないことを言おうと身を乗り出したが、彼女の息継ぎよりも遅かった。
「それは」
「たとえば」
今更気になった見苦しく跳ねたネギの切れ端を指の腹を押しつけ、椀の縁にへばりつかせる。
「稗田家の血がときおり偶然的に産み落とす求聞持法の生得者、つまり遺伝上の天分が与えられた娘がいるとします」
両足膳の天板は無疵が保たれ照り映えている。その琥珀に浸したようなちらちらとした春慶塗の輝きは、御阿礼の子への崇敬の星座を示している。
「魂の連続性など何もありません」
断言する。ところがまさにその連続性により稗田家は名聞を保っており、当代の降誕にあたって家門の価値も匂うがごとく今盛りとなっているのだった。
「その娘は生まれてこの方」
指の脂を両足膳に残す。白い跡が掠れていく。
この当主の外見にそぐわぬの該博な知識と世故に長けた言動と盛大な御阿礼神事のお祭り騒ぎは、この由緒ある旧家の役目に実感を失っていた里人たちに次の錯覚を出来させる威力を発揮した。つまり、あえて里人は伝説を忘れているふりしていたのではなく、絶えず胸中にて崇めたてまつっていたが、此度の降誕に際し、ようやそれを表明する好機に遭ったのだと。
彼女の部屋にある真新しい家財道具の丁寧な手仕事の見本市の出自を察せないほど私は里と遠ざかってはおらず、要はこれらは部屋のお歴々はめでたき出生を賀す贈品の連隊であった。
「ずっとずっと、遥か昔の輝かしき血脈の鼻祖の神話を吹き込まれ、増長し、稗田阿礼の御光に咽せてしまい、哀れにも自分が前世の生まれ変わりだと思い込んでいる。『お前は稗田阿礼の生まれ変わりなのだ』。小さい頃から乳母の寝物語のお題目はそればかりです」
「冗談だろう」
「御阿礼神事なる外法はためにする発明です。『御阿礼の子』という存在を憑依させる呪いです。うるさい儀式の銅鑼が音も轟に空も割れよと罅を入れ、たまげた小鳥を病葉のごとく墜落させ、ちょこんと高御座に座る子孫の頭の上で休わせるとき、霊妙なはたらきにより哀れな子孫の自我と『御阿礼の子』なる幻想とが相克し、ときに子孫は自我を奪われ、ときに『御阿礼の子』は自我に付帯する一能力となる。儀式が生後に行われる意味はここにあります」
「からかっているのか」
私の気怠い様子に目を細め、笑いを止めて私に向かって膝を寄せた。
「あなたは冗談か、と言われましたね。ずずず」
彼女は鼻先を杯に埋め、ずずずと表面のしぶきを呼気と共に吸い込んだ。お行儀が良いとは言えないかもしれないが、彼女の主張によればこの「ずずず」は、好ましいバッカスの体液の働きを是認するねぎらいの愛撫であるらしかった。「かわいい味」舌をぺろりと出す。そして答える。
「もちろんぜんぶ冗談です。私は稗田阿礼ですし、記憶もまるきり断絶している訳ではありません」
「紛らわしいことを」
(わたしは……)
私は。
このだらしなく毛玉が転がりふにゃふにゃと延びていくがごとき止めどない繰り言の軌跡は、幻想郷に飽き、得意の絶頂で思い上がりきった小娘、いわば人生の放蕩娘である霧雨魔理沙に向かい人文学者的な薫陶を授けんとする態度に由来するジグザグだと私は思っていた。だが。(そうではない……)これは。
「でも待ってください。むしろこれは、そう、もしかして博麗の巫女のたとえ話ではないでしょうか?」
確かに彼女はその話もしたかったのかもしれない。だがこの詔り直しは、先ほどから小話めかして吐き散らした彼女自身の由緒についての実意の痕跡を完全に糊塗しなかった。
そして私はそれとは別なる確信に心を奪われ、彼女の正体を追及せず、ただ、肩を落として、酒を飲み下す。
ようやく思う。彼女が私に語るのは、何やら身中期するところを秘めたる故ではないか。底巧みの対象にされているのではないか、稗田阿求は私を通して……。だが、どうして私はそう思うのか。
「これはあなたの話です。博麗の巫女と霧雨魔理沙という二つの存在が同居しようとしているのですから。……霊夢さんは三つでした。もちろんあなたは幻想郷を降ろさないぶん数が一つ少ないと卑しさを恥じながら訴えはしませんよね。私からの助言です。所詮それら別々の存在です。存在を分かちなさい」
「ふむ」
幻想郷、博麗の巫女、そして霧雨魔理沙。
もしもこの鼎立をパチュリー・ノーレッジが聞いたならば喜んで三位一体解釈の諸派を並び立て、ついで勢い余って三相のうち人間としての位格は地母神の処女に仮託されるのだと言ってのけ、だからどうしたと野次られすごすご引っ込むぐらいの愛嬌を見せたのかもしれない。
だが私は会話を抱えこまず、俯瞰し、稗田阿求に対する言明しがたい直接の理解、つまり彼女に従うのが正しいという命令的な直観の下に居た。
彼女は私を変えようとしている。(ええ)具体性を欠きつつも灼然たる直観。(それは)多分それは博麗の巫女を我が身に喚ばいはじめたことにより挿入された了たる託宣だった。受諾なき贈与にも似て、私に擬されたものであり、由来を捉えようとしても、水の中の水が運指の檻を嫋やかにこぼれ落ちるようにこぼれ落ち、己とは異なる精神様式の受容に直面させ……。
「存在を分かつ」
腕組みし、懐中の間隙を暖める。身体を丸める。
ただ爛熟しきった目の玉だけを外にやる。相変わらずもお元気の由を歌い上げる喜ばしい緑色が、桐の枝体が亭々と聳えている。
小窓の向こうの遠く群れなす雲と酒の香気は、迷い家での食事を想起させた。八雲紫は味噌汁をすすりながら、この味噌汁にはなめことしめじが宿っているわね、と確認するように「巫女服や陰陽玉には博麗の巫女という幻想が宿っています」と言ったのだった。彼女は続けた。伝承の塗り重ねは油絵の立体が塗こめられた腕に血管の隆起を這わせるように、力と権威のエッセンスとして潤色を得さしめ、霧雨魔理沙を助けてくれるでしょう。
残念ながら空腹に対する食事の救済の支配下にあった私は、全ての言葉を神聖なる食事行為の最中に懐古的自慢を聞かされる精神忍耐教程のひとつだとして処理していた。そして、今、今に至って、やっと、ずっと響いていた地鳴りに気付くように、前々から捉えていたものを明瞭に捉えた。(わたしは……)それは喩えるなら蛇腹折に圧縮された分厚い鉄線であり、押さえを外せばただ進行にまかせる行為の緊張した記述の凝縮であり、それらがギリギリと軋む展開寸前の関数のイメージとして、私の内にあった。(私に宿りつつあるもの)だと。勿論それは博麗の巫女と言って良かったのかもしれない。私はこの離人的な感覚の呼び方を少し迷った。
「もしかして私は既にそれを知っているのかもしれない」
例えるならば模糊たる個体、ガラスの霧、炎の氷塊、丸い四角、白い黒色にも似た、それ自体より他に描出しえぬ特殊の趣を擁する閃きを湛える御幣の雫であり、私は、それを舐めている己の姿にようやく気づいたのだった。霧雨魔理沙の概念の味覚に発生した処女的な反復による惑乱の叫び。このうるさい表現の羅列は、しかしただ醇乎たるを旨とする独白であり、実直な心象の吐露でもあった。
だが。
(消えていく)私の考えは路を行く推力を失い、闇へ溶けていき、すぐに進退窮まった。断絶する。あとはまた、いいあんばいに酔っ払った、とか、お茶漬けが欲しいとかいった慶事だけが身中の残余を形作る。
(私はここにいる)
思惟を照らす太陽は誰もが持つ。だがこう言ってよければ、私の太陽は光というよりむしろ影を放射する特色があり、暗く、暗く、執拗に暗く、ただ渦巻いた思考物の成果が偶然的に自分に引っかかるの待つ触覚だけをぶら下げていた。それは思索の路を辿る狩りではなく、偶感の匙に干しブドウが乗るにまかせられる運試しであり、(これはその偶感かもしれないけれど)、しかしその文目をわかぬ影の放射を背負いながらなお、闇の巨星の重みから逃れようとするように、(また現れる。消える。現れる)いわば内なる博麗の巫女の存在はが稗田阿求の『言葉あれ』によって分かたれ、生を孕み、おぼろげながらも手足を作り、這いはじめたのだった。存在へ。(まだ、もう少し)いわば、別なる主体の峭立へ向け。
同時に私は自分が思っている以上に、霧雨魔理沙としての巫女の形と私自身との分別が出来なくなってきていたことに遅ればせながら気づき、悄然とした。
彼女は私を慈しむように見て、一拍おいてから幻想郷縁起の話を余談的にはじめる。
「私は稗田阿礼です。博麗の巫女と同じような神傳相承の末子となることを私は肯んじ得ません。よって私は私を置いてより他になく続いていくことで、常在することなく、転生の期間を要します。なればこそ」
なればこそ、だが先を飲み下す。また彼女は一歩、膝をこちらに寄せる。斗酒辞せずとばかり、むんずと徳利を掴み頬を火照らす様子に、ふと深酒を制するか迷う。
彼女は唐突に表情を変えた。相好を崩し柔和に笑う。
「畢竟私の仕事は差迫ってはいません。百数十年の幕間はあらゆる課題を置き去りにしてしまいます」
隈無くアルコールの無関心の海に沈み込んだ私は座った姿勢から動けず、ぼんやりと彼女の姿を、頬を上げ、軽やかに皮肉を飛ばす姿を追っていた。
「幻想郷縁起が人間の生活を守っている。なるほど、この書物の信奉者の中には、そのような光景を幻視する者もいるでしょう。彼らはいったいどうして、頸動脈に挿入されんとする牙がもたらす喫緊の体術的課題があるのだと自らに言い聞かせながら、百数十年に一度悠長に撰述される泥縄的書物が間に合うと信じ込むことができるのでしょう。この著者の関知するところを超えた、読書子の霊感の飛翔にまかせられるところです」
気勢を窄ませ、自信なさげに肩をすくませる。惑乱する酔いが瑞雨に湧くミミズのように弱みを浮き上がらせたのだ。
「もしも稗田阿求が筆を滑らせ『この妖怪には腕が100本あり、右手をあげろと言えばどの腕をあげれば良いか混乱して神経がショートし、死ぬ。そのときの熱で魚を桜木で燻すとおいしい燻製が作れる』と書けばどの妖怪でも殺してしまえ、ついで美味しい酒肴にもありつけるような万能の存在なのでしょうか。いいえ、努めて例証より探を入れ、忠実に蒐集する挺身あるのみです。ありそうにないことは書いても仕方がありません。たまに夜道で人を殺してはらわたを食うと書くかわりに、人を驚かすことでお腹が膨れるのだと書いてやるくらいです。時代が降るごとに当世風に書き換えるぐらいならばできましょう。それも人間のためではなく、むしろその妖怪のために」
「ありがたい話にケチをつける訳ではないが」
彼女はゆっくりと私を観察していた。互いの眼睛を摩すように視線を凝らして。
「……幻想郷では風土紀など面倒くさがって誰も書こうとしないから、背に腹をかえず、百数十年に一度生まれる奇特な人間を待つことに決めたのかもしれないぜ」
きわめて穏健というほかない私の主張は、稗田阿求にとっては未だかつて検討されたことのない新説疑いなしだったが、それは揶揄の領野における成果に留まっていた。
「およよ」
彼女は泣きまねをした。
繊柔な猫の首先を摘むように両頬をを指先で挟み込み、そこから伝わる体温でもって己の酔いの軽重を確かめている。一度、二度、彼女は頬を挟む指先に力をこめ、おどけたように舌唇をたわませる。両頬をさらに押し込む。私はじっと見守る。楕円になった唇がぱくぱくと動く。
「私はたこです」
「ほう」
「墨を吐きますよ」
ぷーと息を吐く彼女は居住まいをただして、言葉を続けた。
「私の著作の最後の役割、今生の私の述作は、幻想郷縁起は、賢者様たちの生物多様性と持続可能性の無味乾燥な哲学に費やされています。幻想郷縁起の使いでなど、皮を剥いていけばただ一つ」
稗田阿求はじっと視線の握力を緩めぬまま私の奥底へと入り込み、自身の発言に至った同様の感情を誘い励起するように、うねるような抑揚をつける。
稗田阿求は瞑目する。
「幻想郷における妖怪の身体は幾ばくかの膠と煤と楮と少しの多糖類からなり、収納性に優れ、稗田家により紙魚や昆虫から守られ、物理的に有りどころが規定されています。つまり」
口惜しげに語尾の肌理をざらつかせ、残った酒を乱雑にごくりと飲み下す。
「妖怪は書物の影響を受けます。或いは……書物から生まれます。この子たちです」
彼女は手頃な書物を取り出し、ぱんぱんと乱暴に叩く。
「妖怪の写し身として十全を備えた記述の総体は、そのまま彼女たちの拠り所となるのですから。幾度滅ぼされようとも、私たちが幻想郷縁起を否定しない限り、毎朝の文鳥のさえずりとともに眠りから目覚めるでしょう。自然が壊れない限り妖精を生み出すように」
彼女は文鳥の首を振りを真似をして、目をちらりとこちらへ滑らせる。
「ぴちゅ、ぴちゅ」
「退治されたとしてもか」
「それは交流でしょう。もしもの場合は、歴史を隠しましょう。彼女たちは人体上の不可逆の欠損とは無縁です。事実などどうでもよろしい。物語は昨日の世界から始まります」
(私は……)
億劫な午後が覆い被さる。抗いがたい意識の減衰の中、私は口先だけで言葉を紡いでいた。
「妖怪の得意話を数万回変奏するのが幻想郷で流行しているようだけれど、結局それは何一つ私の財産ではないのだから、空しいものだよ」
「いいえ、あなたにも、私にも関係あることです。同じ妖怪が時の試練、人間の認識の試練から逃れ、いつまでも存在し続けることは、大結敷設後の幻想郷特有の現象です。それは幻想郷縁起による彼女たちのタイプの定義と合わせ、ある好ましからざる事実を付帯します」
既に徳利は2本目に突入していた。幻想郷縁起という字が頭の中で幾度となく反響し、輪郭を失う。アルコールはとおに胃袋の結界を素通りし、血に乗って体中でくつろいでいる。回りが早い。(私は……)体を壁に預け、深く沈める。
「何故」
「幻想郷では幻想は共有されているからです」
「それは分かる、だが」
いたずらっぽく笑う稗田阿求は、揺れながら羽虫のように動く考えの線を追うかのように、私の目の奥、頭蓋の中心に焦点を合わせる。
「妖怪が幾千幾万の矛盾する相貌をぶら下げておらず、同時にふたつの場所に存在することもなく、幻想郷縁起の絵姿が、記述が、どうして別なる異説を併記する必要がないのでしょう。ただ一つ。我々が幻想を共有する世界に住んでいるからです」
稗田阿求の挿花の純白と流れる髪、その釣り合い。そして耳に入る言葉を染み渡らせるように、手の平で開く薫香を飲み下す。舌先から根元へ、室温から体温へ、原液から口内に馴致し、間然する所のない味覚の経過。そして喉からたちのぼる南国の果実のような揮発が鼻孔を充たす。(それはこういうことよ……)尻切れの独白は誘い水となり、すでに彼女が言わんとする結論を先取りし、頭頂に痺れが走る。
「巫女様、ご存じでしょう。やがて幻想郷が至る所を。思い出してください」
(庭をかけずり回ってもまったく同じ落ち葉はおちていないように)
概念の番地はどれだけ垣根を接していても別人が住んでいる。私たちは日々認識の反復を繰り返しながら、しかし常に別者と出会い、概念の領野を拡大していく。それは幻想郷においては事象や概念に根を領く不衰花、その大輪、すなわち私たちを養分とし、眼前に出来する出来事を代表していく妖怪である。
彼女は集う埃を振り払うように、机上に積んであった鳥の子色がくすんだ過去の縁起を指す。
「妖怪は常に事象の差異を跨ぎ、不可識なる別者として幻想郷のあらゆる出来事に根を張り巡らせています。妖怪が現象を代表する作用が働く限り、私たちは反復しつづけ、差異を認識しないということです」
新たな認識の枠組みとはその妖怪の根から逃れることであり、具体的には異物の挿入であり、ひいては大結界の揺らぎ、つまり幻想郷と対応せる外の世界の進歩である。ところが大結界の命題が満たされる時、揺らぎのない世界が訪れ、外の世界の干渉も挿入もなく、幻想が共有され、しかも幻想の数量を計るような世界に住まい、あらゆるサイクルが幻想郷において完結するとき、現れるのは。……私の(即ち)言葉が耳元から響く。幻想と人間の逆転。稗田阿求の言葉と共鳴する。
「厄神様がいつまでも厄を司り続けるということは厄なる概念が悪意や不注意、知識の欠如に還元されず、さとり種族が我々の心を読み続けるということは、心の可読性を、無意識と意識との二分法の証明を、また全ての種族に渡った共通の言語という幻想を私たちに要求し続けます」
(幻想郷は異物を取り込み続ける。私はそれを見守るでしょう)
「この幻想郷は、習合に習合を重ねた挙げ句、忘れ去られる寸前のシンクレティズムの極点の蒸発を、八雲紫様が日傘で集めて回り再構成したものです。私たちは、新たな住人のためのアドホックな拡張を、その異物を翻って肯定する仕組みを作りました。幻想郷縁起はそれを追認し、書き記しました。一例として挙げるならば、仙人が死神に襲われるのは、むしろ仙人の存在を公的に認めるための仕組みだということです。ですが事業は終わりました。いえ、端的に言いましょう。私たちの認識は十年一日、万年一日のごとく、代わり映えすることなく続いくことになります」
葉越の日影薄く、僅かな香気が流れ込む。その萎れる余花を逃れいく精油の揮発は秘めやかに身をせくぐませ、辺りをわずかに這いまわっては涼感をまだらに残す。
日が私の居る場所を舐めた。目の順応が追いつかず眩しさ感じ、ふと帽子で日光を遮ろうとした。だが毛先に触れただけで腕が空を切る。指紋の溝を優しく埋めるような羊毛の不織布の触感を懐かしみ、指先を合わせてこする。細疵、落屑。
皮膚が欠ける前の私と、欠ける後の私が違うように、いかなる現象も、いかなる思想も、本来同一ではない。
撞着の螺旋を降りていきながら、躓き、よろけ、段差を生み、差異を、分節を得ていく。(八雲紫は、あいつは、そういう妖怪のはずなのに)
稗田阿求は呼び起こすように、語調を強め、途切れ途切れ、胸を押すように言葉を紡ぐ。
「妖怪が人間を規定する。人間がまた妖怪を規定する。人間が生まれ、成長し、時代へ継ぐ。常に同一の幻想の傘の下、反復を繰り返し、強固たる認識の土台となり、疑問すら抱くことなく。発想の枠外のことを発想することなく。明日も、あさっても、いつまでも、連鎖し、自己再生産し、無限に強化されていく規定のサイクルの強固な鉄鎖が、私たちの極大をめぐる認識の結界となるでしょう。霊夢さんは!」
彼女は長い枕から頭をもたげ、ついに話の始末に取りかかり始める。
「それを看取していました」
妖怪の賢者としてみれば、霊夢は幻想郷の善導を果たし、大結界の完成直前までの理想ではあったが、そのうえ自分消化をして次代へ繋ぐに至って、まこと手のかからない、秀をいくら与えても足りない巫女であっただろう。
「それが霊夢のしたかったことか。結界を完成させないほうが良いと」
「彼女は幻想郷の拡大と持続の相乗の果て、改良事業の最後の最後の結論として立ち現れた大結界の雲を突く壁を見据えて、躊躇し、自ら招いた結果を振り返り、運命をうらなったのです。幻想郷は今のままでいい。死ぬならば私が間違っている。私が成功すれば私は正しい」
「くだらん神盟裁判だ。焼けた火の上を歩いてみせる大道芸と己の信条には千里の径庭が横たわっている。霊夢は結界を壊すこともできた。ならば壊さなければならなかった」
(手厳しいことね。でも私はもうそれをできる)
ぱちくりと瞬きし。直言する。
「同じ話をしただろう」
誰に、とは稗田阿求は端厳として問い返さず、じっと沈黙が落ちる。時が爛熟し腐り果てるのを待つかのように。
「霊夢に、判で押したように同じ話をしただろう。呪われたから霊夢は死んだ、といっただろう。だったら今の話を聞いた私にも呪いをかけたな」
彼女は私の飛躍を覚悟した顔で受け止め、こう付け加えた
「そう思いますか? ……ならばそうですね。私は言を澄まして、責任をどこに見るのかは結局その人にまかせられるのだと言うこともできるでしょうけれど」
「いや、責めている訳ではない。私は」
全心が彼女への疑念を否定する。私の価値感から見て、彼女の言説は確かに扇動的ではあったが、事実の血色があった。私は事実を披露する段取りの巧拙について善悪の基準を採用するつもりもなく、そもそも彼女が罪というのならば、この幻想郷では事実が罪であるということだった。
「私は別に、幻想郷が先鋭化した巫女を否定した事の初めが、御阿礼の子の言葉の蒟蒻版のアジビラだと責めるつもりはない。知らないよりは知ったほうがよいだろうから。単に霊夢は失敗したのだろう」
「かもしれません」
彼女は決意をしたように私の膝に手を置いた。
「……ですが人には流儀というものがあります。私にも。そこをお退きください」
稗田阿求はまだ残っている湯飲みを一気に呷ると、ゆっくりと立ち上がり、箪笥まで歩んでいく。
彼女は漆塗りの薬箱の抽出の吊手に触れ、私の胸底まで見透かすようにしばらく言葉を休らい。
「人と装束がそろえば博麗の巫女となるには十分です」
覚束ない笑みを浮かべ。
「つまりあなたは巫女です。既に。修行不足であろうが、霊夢さんの結審前であろうが、幻想郷が降りてなかろうが、関係ありません」
胸裏の反応をうち捨てるように、深い歎息とともに大きめの捻袱紗を袂に入れ込んで、私の前に座る。私は彼女の取り出したものが誰かを察し、稗田阿求の行動に驚いた。たとう紙に包まれた茶褐色の脂の染み。粘り気を思わせる、その染みの正体。だが……中身はなかった。
ぬめりと、手に血の粘性がよみがえる。
「中身はどこだ」
彼女はその質問に、中身は何だ、という質問に対する答えも合わせて私の耳に冷水のような自白をねじ込んできた。
「私はあの日、料理を、餡かけを、『霊夢さん』を失敬してきました。例のアトレウス的饗宴では、私は確かに食べていません。どうです、少し、お味のほうは。ここにあります。あなたの」
彼女は自らの腹部に手のひらを押し当て、力を入れて圧迫した。溶け合う至微を、彼女を責めるように睨み付ける。
「うそだといえ」
何故博麗の巫女を切り分けることができそうなどと考えたのか。その力はどこから来たのか。私の身体には私の巫女しか宿らないはずだ。つまり私の身体にはもう一つ他の身体が。
(うそじゃあないわ)
視界が転換した。眼底に収め取る光景が一変する。捉える。幻想の結び目の錯綜を、澎湃たる情感の接触を、間隙なく厖大で、暖冬の陽の重さを持ち、掛けついだばかりの蜘蛛の網にも似た湿り気が、その柔繊の幾数万の集積が持ち上げる腕に絡む。(これが私たちの濫觴、朝霧の津々たる凝縮)
認識の拡大におののく脳裡に現れたのは、絶佳たる観念の眺望だといえた。幻想郷中が幻想の湖底に沈むようだった。見上げる髪にまとわりつく。私の足指の先が、振動と振動を繰り合わせる。(だけどあなたが縛られてはいけない)肌の甘いしびれは、私の産毛の周囲を這い回る。幻想は形を変え、或いは成就し、或いは断絶し、靡みたる波は瞻視の暇に、寿詞が魂を分与するように生命と生命を斎き祀らせ、連絡する。(私ではない)そうだ、私は私の内なる私の姿を同定しはじめた。霊夢、そうかもしれない。それが私にとっての巫女だからだ。(巫女とは、私にとって)口からは覚えず言葉が漏れ。「私は」詩の水潦を割り「博麗霊夢」産み落とされる
我に返って、信じられないように自分の頬を触る。
「霊夢だって……? 私はそう言ったのか」
(そうよ、私は巫女としての霊夢)
予感と留保の季節がやや半ばを過ぎようとしていることを自覚した。
だがそれは私は存在の繰り上げには至らず、私自身は結局何も選択していない。代わりに巫女が私の選択を代表し、可能性を仮託された主体となった。
存在の繰り上げ。ところで再びパチュリー・ノーレッジの話になって心苦しいが、私に初歩的な数学を教授する彼女は、無限の濃度を応用した魔法概念の価値審級の体系作りなる話題のついでに、延々に存在の繰上げに辿りつけない霧雨魔理沙のアナロジーを添付することをお気に入りのジョークとしていた。彼女はよくレミリア・スカーレットの『レッド・ドローイングルーム』に対抗したパーソナルカラーである紫色の統一感がある図書室の小部屋で、私的な集いを開いてはごきげんな冗談を飛ばしたものだ。『パチュリー・ノーレッジ、100。アリス・マーガトロイド、50。霧雨魔理沙、無限。ただし、3.1415……目下成長中。小数点の森々たる最奥へ向け』と。それは百万言を弄して自らを開陳しながらその実一歩も進まぬ私への悪意あるあてこすりではなく、驚くべきことに人間存在一般への婉曲な尊重の評言だったと気付いたのは、この紫色の魔女の言動への相当の理解を得る親交を経て後だった。
彼女は私をひとしきりからかったあと、やや取ってつけたように誤解されやすい言い方で、だが紛れもなく本心で、こう付け加えた。『それは星の高さを感じることよ』とまじめな表情を保ち、おとめよ、『なんじの園の中に生い出る柘榴およびもろもろの佳き実』は、今は好きにもいだり食べきれず腐り落ちるにまかせられるだろうが、季節が過ぎたのち、二度と手に入れられることはないぞよ。くしゅん、喋りすぎたわ。無表情のままに。星へは歩いて行かなければならない。『思想はそらから降ってきたりはしないのだから』
星。したり。だがもしここで、星は私の成長のイメージの極点であり、憧憬の至純である……などと胡乱なことを私が恍惚として語り始めるとすれば、それはパチュリー・ノーレッジの提供する文法にただ乗りした場限りの思いつきであり、鼻息荒い錯覚に一瞬で全存在を支配された浮薄を告白するに過ぎない。
星は私のイコンではあるが、多義的だった。止めようのない天運の象徴でもあり、私のうえに降ってくるものでもあった。私はまだ星への衝動を定義することを否定していた。
この部屋には窓が三方に開いている。大きく開いた南側の窓と、それよりもやや小さな窓が東と西に設けられている。東側の窓にはこれ見よがしに虚空像菩薩の殊妙な容顔が飾られていた。私はじっと宝珠に乗った蓮華のあたりをじっと見ていた。右手は五指を垂れ下げ掌を向けている。わずかに口角をあげ、印相を作し、半跏を組んでいる。この虚空像菩薩のイコンの観相から稗田阿求の存在理由が引き写されてはいないように。
『思想はそらから降ってきたりはしない』その言い切りは、私の世界の話ではなかった。私には偶然的に降ってくるものしか存在せず、昨日降ってきたからといって明日降るとは限らず、可能と不可能は常にゆらいでおり、命題の真偽の反転は星のように瞬き、3.1415……。
私は私に未だに至らず。
(で、どうするの。あなたって本当にややこしいのね。まっすぐにややこしいわ。いつもこんなこと考えていたのね)
霊夢ならそういうかもしれない。
(簡単よ、私を呼び返すのでしょう。あなたは既に)
「ええ。あなたは霊夢さんの身体を得ました」
稗田阿求は、自分の不利になることを言わねばならない殉教的な震えと、冒険的な詐術が成功した自尊心の誇りが入り交じった口吻で説明をした。
「幻想郷の仕組みはあなたの手続きを認め、聞き届けました。痛快ではありませんか? 身体と装束、妖怪の賢者様ご自慢の仕組みの鼻をあかしてやったのですよ」
そして私は極めて変則的に、しかし初めて内なる主体を持ったのだった。それは残念ながら私自身としてではなく、稗田阿求が準備したある託いの真似事の結果としてであったが。
私の精神的な操作によって生み出された観念は、霊夢の肉体と、内に占める精神と、博麗の巫女という幻想を備え、幻想郷のルールに承認され、博麗の巫女としての霊夢を再び復活させた。(私は霊夢)身中の主張。混濁を引きちぎるように。
「しかしながら、霊夢さんの魂は未だに彼岸にあります」
稗田阿求の言葉が木の葉ずれの音のように遠景に引き、私は稗田阿求の手を引っ張り、胸元に寄せ、襟ぐりを掴む。
「私が感謝し、土下座で額をどれだけ汚せるかを見せつけて媚びるとでも思ったか」
彼女は抵抗せず、私に委ねるように身体の力を抜いていた。
私はすぐに手を放す。
「……それとも私が涙ながらに人間倫理なるものを盾に、どうしてこんな冒涜的なことをした、弁償しろ、金とお宝をよこせ、と迫るとでも思ったか」
私は湯飲みを傾け、濃厚な香りに鼻先を突っ込む。透き通った底に沈む濾し残した茶葉の鶸萌黄がゆらゆらとその場に留まりつつも揺らいでいる。
「何かを私に期待しているようだけれど、私には何も残されてはいないよ」
うつむいて、腕を抱える。
「何も残されてやいないさ。私は何も出来ない。まさか、これが土産だとでも言うつもりか」
「ええ」
への字になった口の端が千鈞の重を持つ巌となり閉じられた。
私は意を含んだ様子で人差し指をこつんこつんと畳に叩き付ける。もちろんその仕草には何の意味もなかった。
ただひたひたと満たした湯飲みを、溢れ出さないように飲む。気忙しげに酒をあおる。
ただ私の未来は八雲紫と博麗霊夢によってすでになされており、そしてそれぞれの形で失敗していたのだ、という、既に決定した過去を内省するかのごとく強固な喪失感にとらわれていた。
「でもありません。霊夢さんの続きをすることができます。そして束縛のない力も」
(結界を壊して、今の幻想郷を続けることが。私の望みが)
「これは実利的な考量です。私が未来の幻想郷を嫌うのは、非造物者たちの思い上がった創造ではなく、幻想郷を自然の偉大な潮流に任せるべきだからでしょうか? いいえ、幻想郷は進歩しきった社会とその成員がどう生活するかという疑問に対する一個の解答を、存在が守られ無気力となった連中に対し準備しました」
(それがスペルカードルールに始まる一連の私の仕事)
聖なるもの、厳なるもの、悦なるものの創造。全てが許され、全てを知るが故にそれは自ら作り出されなければならない。
(力を振わないことが大妖怪にとって生きる糧となる)
かつて八雲紫が同じようなことを言っていた意味がようやく私に理解できた。長命の実存哲学の蘊奥として彼女たちが見出した結論は、遊者として生きることであり、じつにご立派、自らの造詣に通暁する美しい精神的な態度だが、同時に次のことを意味する。
(人間にとっては作り物である世界が妖怪にとっては本物なのだから)
「妖怪は何のために生まれてきたのかを知っています。それを感じさせてくれるものならばウソも本当もありません。作り物である彼女たちには作り物で満足なのです」
私の振る舞いを眺めながら稗田阿求は、会話を紡ぐ。
「そしてもっとも重要なこと、人間には限定された欲望には限定された手段しか対応しません。彼女たちのようになれはしない。決して、彼女たちのようにはなれない、そうでしょう」
幻想の幻想。それは彼女たちにとって、人生を保証するスペルカードルールを含めた現在の幻想郷のあらゆる儀式めいた文化。あらゆる行為を約束事の畑で栽培し、燻して水タバコで吸うかのように楽しむやり方。生を汲みつくしながら無為に耽ることなく、てスペルカードルールも本物の闘争も区別なく、巫女に勝てないことになっていることと本当に勝てないことには区別のない考え方。
そして今、一つの幻想が彼女たちの世界を規定する。否定されたはずの博麗の巫女の遊歩が。
私は稗田阿求の家を辞し、彼女と別れ、飛び立とうとしたときだった。
彼女の意見に全面的に同意した訳でもなかったが、無傷とは行かなかった。私の世界観は彼女の世界観に幾分か添削されていた。
だが私は霊夢のこと、幻想郷のこと、私のことで頭がいっぱいで、いつものように考えようとすると影がかかる太陽の下、何も生産的な結論を生み出さずに、頭を上げる。
「お待ちください」
振り返ると、射命丸文がにこにこ笑いながら封蝋された紅魔館のものだと一目で分かる状袋を差し出す。
彼女は気楽な様子で、私にそれを握らせた。
「ディナーパーティーのお誘いです」
微笑む。私は手に取って見る。
これはただレミリア・スカーレットが一人で晩ご飯を食べるのが寂しいから手紙をよこしたのだろうか? いや、違う。遠くレミリア・スカーレットの腕が伸び、私を掴んだ気がした。
「私をじっと待っていたのか?」
この疑問への答えは、私の顔をしかめさせるのには十分だった。
「鯉にエサをやっていました。退屈はしませんでしたよ」
(私は聞いていたぞ、と言いたいのね。別にそれ以上の何かがある訳ではないわ)
「ふぅん。良いことをしたね」
私はとりあえず返答し、しかめた顔をもとに戻す。
(今のうちに退治してやってもいいけれど、彼女は放っておいても私たちを陥れようとはしないわ)
このまま引っ込んでられん。この挑発にやり返してやろうと、口を開いた。
「お手紙ありがとう。郵便屋とは思いついたものだね。新聞売りは食えなかったのかい」
この皮肉はそこそこ効き目があった。彼女は唇を不満そうに尖らせた。
「そんなことはありません」
「返状をしたためる時間はあるかい。郵便屋さん」
「そんな暇はないです。意地悪。今夜ですよ! 絶対出席してください。それでは」
会話もそこそこ、彼女は私の視界から消えた。
(慌ただしい奴ね)
雨催いの空に不安を感じる。案の定乃刻に降り出す。
「雨」
独りごちた。
「雨ね」
じっと博麗神社の縁側に座り、端から端まで、ここから見える光景を観察する。
妖怪の山が、視界を片側を占有している。そこからなだらかに流れる小川が漏れ出し、湖に溜まる。平地が続き、彩りに寂しさを覚えるところで澎湃と渦巻く里の建築物の騒乱に出くわす。そして山の迫力に対置するコントラストとして、遙か遠くに消えゆく花畑と森林の静寂。
暗くなり、雨音が強まる。
(空を割ってあげればいいの。殴って壊すとなおすのが面倒くさいから。時間稼ぎになるわ)
「で、どうするんだ。壊してどうする」
(結界を全て取り去ることはできないわ。まだ、ね。まずは妖怪たちに、彼女たちが否定した私という幻想が消えずに残っているのだと思い知らせてやりましょう)
それは妖怪と人間との関係の再度の逆転だった。いつまでも消えない妖怪が人間の認識を規定するように、妖怪が生み出した幻想がいつまでも消えないことによってまた妖怪も規定される。
(私が居る限り大結界は閉じさせない)
私は未だに信じられない気持ちで身中の声に耳を傾ける。彼女は復活した。しかし、博麗霊夢本人としてではなく。
妖怪の魂は語る私たちが居る限りは不滅である。読み継がれ、語り継がれ、命を吹き込まれ続ける。この麗しき夜の住人の生起の瞬間を認めるが故に幻想郷は外と区別されるだろう。
そして博麗の巫女はどうだろう。装束と身体。
あの夜……。霊夢の通夜の日のことを思い出す。奴は継承と復活の断絶を同時に行った事実に追いつく。
継承されるのは博麗の巫女なのだ。『あなたが今夜を霊具とともに過ごす意味は、継承を専らとします』。嫌みったらしい奴の声が耳に響く。確かにあの時、巫女は霊具に宿るとおおっぴらに説明され、実際に堂々と儀式は終わったのだった。妖怪たちがこの霊具達に何らかの巫女の伝承を見ているのは信憑性のあることだ。
(そう、稗田阿求の解釈ではない。彼女たちのルール)
そして愛すべき我が親友である霊夢個人は未だに彼岸に留め置かれている。よって、正しく言うのならばこれは復活ではない。博麗の巫女の取り憑く先を変えただけだ。妖怪たちはあの儀式で霊夢の復活は失敗したという尊重すべき運命の計算結果を刻み込んだのだ。
だが此度の迂回を可能としたのはまたしても、奴らの手続きだった。つまり、私の中に霊夢が存在するという手続きは、妖怪が霊夢の存在を摂取する手続き、稗田阿求風に言うのであれば、『テュエステス的饗宴』を踏襲している。私は彼女たちの流儀に従って、霊夢を取り込んだ。
承認。つまりこれは、かくのごとき手続きが承認されたと換言されたのだと言って良いだろう。この涙ぐましい遵法精神により、幻想郷の住人が共有する博麗の巫女という幻想の仕組みに沿ったのだ。その結果、博麗の巫女としての霊夢という著作物が宿り、私は綴り続けることで彼女の存在を留めおくだろう。
……だが、それは、あの日、死の間際に垣間見た霊夢ではない。妖怪達が知っている博麗の巫女としての霊夢なのだ。個と公、この二分の相克はいささか単純化しすぎているだろうか? 凡庸な切り口だろうか?
「私には他に道はない」
(いい、結界は私一人だけが触れるわけではないからね。巫女は何も特別ではない。それを忘れないで)
かくして博麗の巫女は当代の巫女である霧雨魔理沙という身体に潜む博麗霊夢の身体を通して現れる託宣の形を取った。
霊夢という結界の拡張と持続を象徴する巫女が存在し続ける限り、幻想郷はその世界観を支持する。
(それにしても稗田阿求、彼女はなかなかルールを知っているわね)
社叢に連なるムクの榛莽たる天蓋がざわつく音、アカショウビン、キジバト、ヒグラシ、ヤブキリ、アマガエル。そして名も知れぬ生き物の鳴き声、遠吠え、甲高い驟雨。博麗神社が誇るお抱え楽団はこの瞬間においては優れて心を落ち着けてくれるアンサンブルを誇る。これは不均斉の静寂だ。プリズムリバー楽団の楽器の痙攣よりも。心地よい雑音。完成された静けさだ。
これが悪いのだ、と私は思う。ここにあるのは一個の世界である。私はここでは世界の営みを見つめる視座を提供される。今の私には心を千路にかき乱す不快な抵抗が必要だった。でなければ、私は全てを受け容れてしまいそうだった。
陰陽玉を構えて、空に向ける。
(まかせた)
「私にまかせて」
肉体と陰陽玉が共鳴し、私の視界は巨人の手に握られがくがくと上下に振られているように揺れ、底のほうから弾けるように放たれる。空が砕かれる
パリンと。
陰陽玉が空を砕く。降り注ぐ星の灰を髪につどわせながら、私は空を見上げる。亀裂から燃える屑が、耐えられなくなった星が、幻想郷に無数の流星として降り注ぐ。
規則性のある亀裂が走る天蓋は天蓋であることを廃業し、一個の絵画に下降しはじめたといえよう。しかしその規則性のある亀裂はボルロミーニの幾何学模様から受ける空間性の印象の上昇とぶつかり再び天蓋を目指し、結局は亀裂は空を可視化あるいは戯画化し、無気力なトロンプ・ルイユを呈し、むき出しに空であり、いつもよりも数段の歪曲で背骨が折れそうになっており、見る者に自らの重さでもってのしかかっている。当然、穏やかならぬ印象を全力で発散していた。
(はいはい。幻想郷の空が割れるなんて、瑞兆であるはずがないでしょう)
私は霊夢の魂を追い求める。魂の存在は幻想郷が保証している。私がいきなりやけになって『霊魂は可能的に生命を有する自然的物体の、形相としての実体である』と語りだしたならば、その呪文により生命を失った自然的物体は全て蘇生が不可能になるのだろうか。それとも仏教では魂独立の存在性格はなく、因縁の動力の一面であると思い出すべきなのだろうか。私の内なる他者。ギガメシュ叙事詩やホメロスまで古くなくてもいい、たとえばワーズワースなど著作の内の死者の扱いについての記述を引用すべきなのだろうか。道教や神道の霊魂観が正しいのだろうか。この幻想郷においてはそれらが正しいときもある。全てが少しずつ許されている。
(あーもういいわよ。いい、すぐに紫がくるわ。そしたら適当に痛めつけて、ディナーパーティーに行きましょう)
彼女の計画によれば、結界を損壊させた後、幻想郷と合一している紫もまた損壊させ、手傷をたっぷり負わせたあと、彼女が傷を癒し結界を支えるのに必死になっている間に、霊夢の身体を食べた妖怪どもが間抜けにも集まってくるディナーパーティーにおいて、妖怪の身体から霊夢の肉体を集めまわり、とりあえず身体を一つにし、しかる後に魂を呼び寄せるとのことだった。(完璧な作品ね)
そして。
「ああ痛い! 大けがですわ!」
どろり、と、紫が隙間から這い出してくる。
「許されることと、許されないことがあります。あなたに教えてあげましょう」
篠突く夕刻の深い青の沈潜に漂う八雲紫のぎらつく瞳。焼けた鉄漿の赤色を拉し去るような朱色は、胸の怒りと自責の杯盤狼藉が織り成す濫りがわしさの残渣をなみなみと湛えており、その妖しく又けたたましい夕闇の二つの前線に曝された私は息をのみ、無意識に手を心臓に当てて胸焼けを収めていた。
(臆病ね、魔理沙。あいつはちょっと脅かしてみせているだけよ)
彼女の前に立つ。
「私を見なさい。紫、私の目を見て言えるかしら。許されることですって?」
冷え固まった地面から屈伸するように立ちこめる瞋恚の蒸気の成分。虫たちが静まり、鳥も鳴いていない、降り積もる埃の音が聞こえるほどの静けさに包まれる。彼女の歯ぎしりの音が聞こえる気がした。
彼女の頭蓋は半壊し、だらだらと、重油のような暗黒が流れている。幻想郷の毀損に対応する身体の毀損が、彼女を割れた卵のように横溢させている。
だが。
「……何ぞ及ばん。爛れたる屍に、仮に絵彩を著せたるがごとし」
私の姿を見て、ため息をつく彼女。震え、母音を掠れさせ、力ない声でイメージチェンジした霧雨魔理沙への所感を述べる。
「こどもたちよ、悪ふざけは終わりです」
八雲紫のお小言はごもっともだ。彼女の美的感覚ではそうだろう。だがそれは、私の世界ではない。私は口角を歪ませ、彼女の目前に立つ。(よし、一発蹴らせろ)「私はその絵彩が好きだぜ」彼女を蹴り飛ばす。彼女は私を睨み付けた。
「私を返してもらうわよ」
倒れ込んだ彼女の胸に手をあてる。八雲紫は起きようとして腕がべちゃりと地面に溶けた。彼女は今や、幻想郷から生える塩の柱に水をかけたように崩れかけていた。
「当代巫女の記念すべき命令第一号は、妖怪は巫女に勝てない、よ。どうやら身を砕くほどの努力をもって理解していただけたようね」
「ふざけたことを」
目に力がこもる。その瞬間、私の中を砕こうとする彼女の意志が、私の脳裡に天蓋と対応するかのように無数のひび割れを作り、博麗の巫女も、霧雨魔理沙も、ちりぢりに消滅させようとしていた。だがこの八雲紫の能力の侵犯は、巫女の結界により阻まれる。
「無理よ」
「ちょっと試してみただけですわ」
その結界は虹色かかった絹糸のようで、姿を捉えることはできない。それは無数に遷移する結界の集合体だった。(紫に対抗する結界を創るのは簡単よ。要は境目をあったりなかったり、狭かったり広かったり、私も追いつけないぐらい速く、次々と変えてやればいいの)
「いい。紫。スペルカードルールを要求するわ。これは実に安全な異変よ。これぐらいなら大丈夫だと分かっているもの。あなたがちょっと徹夜して頑張らないといけないだけ」
心の底で哄笑が響く。(あはははっ、我ながら傑作ね。ところが私はルールなんて守らない。ウソに決まっているじゃあない。紫はルールを守るわ。かわいそ。私に騙されるのね。あいつが動かない間に全てを済ませてしまいましょう)
「異変? 私はそれを指をくわえて見ているしかないのかしら」
八雲紫は凄絶な笑みを浮かべ、肘先で胴体を持ち上げた。
「あなたは私が何の妖怪も知らないでしょう。私を知らずして私を痛めつけるなんて」
「化粧の妖怪だろ」
しかし彼女は気にとめない。通じないと分かっている祈りのように、万感を香にして天に返すように、つぶやいた。
「私は隔てるものにあらず。溶けあわせるものにあらず。私はそれを否定するもの」
「またぞろ否定神学の口吻をお宿しになっているのかい、大妖怪様」
彼女から距離をとる。彼女は私の冗談に意に沿わずして苦笑した。そして、私に得々と自らの身の上を語りはじめる。
「八雲紫とは接し、隣りて摩し、舫うもの。人と妖怪を、幻想と現実を、過去と未来を、私とあなたを、此れ彼を。私があればあなたがある。項辞、観念を。繋索し、向き合わせるもの。世界を、結び界うもの」
私は指先から光熱に白んだ火球を浮かばせる。紫は首をもたげ、その光を見た。
「あら、スペルカードルールはどうしたのです」
ぴしゃりと言葉を被せる。
「あなたは異変の犠牲者。参加はさせない。犬に噛まれたと思いなさい」
水たまりには私の目が浮かんでいる。私は霊夢と瞳孔を鏡合わせにする錯覚に出会った。
博麗の巫女……。幻想郷の体現であり、時の象徴。そしてまた、あの尊敬おくあたわざる妖怪の賢者たちが通有する自分の取り決めた約束事をピグマリオンのごとく恋い慕う精神様式が生み出した人間との関係のある理想の側面。
「結ぶ者、といったな。ところが幻想郷の時が止まると聞いたぜ」
幻想の住人たちは時代の風致であり、永遠の存在ではない。砂塵の辻風が人影を描くように。芳芬たる花々の香りに沈潜するひとつの花の香りだけがふと浮かぶように、捉えたと思えば消えていく一瞬の造形。だがこの幻想郷ではそうではない。
「決して貴方が思うようにはなりません。我々の営為は営為にのみあり。思考の贅肉の中にあらず。『天が下の全て事には季節があり、すべてのわざには時がある。生るるに時あり死ぬるに時あり』」
「かもしれんな。私は別に……」
ここで八雲紫に対抗するためだけに、人間存在は未来の世界観まで含んで現在の生活を生きるのだという空論を述べても仕方がないだろう。結局未だ私自身は流されるばかりで、行為としては分節された博麗の巫女、しかも霊夢の作法しか知らないのだ。確信ある行為が罪を減じるならば、私の確信なき行為は減刑の余地がなかった。しかし私自身が巫女となる道を否定した以上、もはや私にはこの私の内なる住人の指針に従うより他に幻想郷において私自身を留保する手段はないこともまた確かだった。
(少し早いけれども、準備もしなくちゃね)
指先の火球を八雲紫にぶつけ、その火炎を背景に私は地面を割って地下へ降りる。
今回もズブりと文字へ浸れました。次回もお待ちしております。
レイマリがひとつになったような今の状態も、これはこれで、なんかいいなと(無責任にも)思ってみたり…
お話を読むのでなくこれはもう文体を眺める作品だと割り切れば、例えるなら弐○勉のBL○ME!の様な…
阿求かわいかったけどえげつないようなそうでもないような
魔理沙は魔理沙じゃなくなるのかどうなるのか非常に楽しみです