不意に、足元に影が落ちた。
布都は庭先に七輪を持ち出して魚を焼いていた。家はゆるい坂の途中にあり、上れば里へ、下れば田畑が開ける。
赤茶けた地面になじまない青黒い影をしばらく眺め、布都は顔を上げた。夕陽に照らされた板塀に、青娥は肩から寄りかかっている。
「なんじゃおぬし、来たのか」
「はい」
半透明の羽衣が背中でゆれ、女仙の目つきはどこかとろんとしている。履物にうっすら土ぼこりが被っているのも珍しい。
布都は近頃、仙界を離れしばしばこの庵で起居していた。市井に交わるのがよい、と神子に勧められたのもあるが、人里のはずれで空き家になっていたこの草庵の佇まいを、一目で気に入ったからである。荒れ放題だった屋内を、春から夏、秋口までじっくり時間をかけて片付け、修繕し、調度をととのえた。坂の下に広がる段々畑をひとつ買い取り、庭とあわせて野菜を植えた。今では週の半分を過ごす、気ままな別宅である。
「物部様。今宵一夜、こちらにご厄介になっても構いませんでしょうか」
白く整った青娥の顔で、唇だけが絞れば滴りそうなほど水気をはらんでいる。
「うん? 構わぬが。相棒はどうした、置いてきたか?」
「あちらに」
たっぷりと光のあふれた下り坂の途中に、突き刺した棒杭のような姿。団扇で招くと、芳香はぴょんと一足寄ってきた。魚の煙を扇いで送ってやると、目を輝かせ、さらに飛びついてくる。布都は笑って椅子代わりの切り株から腰を上げた。
「これは魚が足らんなあ」
がらりと戸をあけて土間に入ると、甘やかな香りが背についてくる。
「お構いなく……」
「どうした、邪仙殿? またぞろ死神にでも追いかけられておるのか」
「そんなところですわ」
「面倒は勘弁してくれよ。なにしろ、やっと家を綺麗にしたばかりなのだ。壊されては、かなわん」
ひんやりした三和土に、水を張った盥があり、布都はそこから山女を二尾つかみ出した。まな板の上で暴れるところを、すばやく鰓に包丁をいれ喉をかき切る。
「ほれ」
ワタをかき出し、塩をふったのを渡す。「早く戻らんと、焼いている分を食われてしまうぞ」
「あの子は猫ではありません。『待て』ができる子よ」
魚を手に青娥が出ていき、布都はまな板の血を流して明日にとっておくつもりだった青菜を刻みだす。――豆腐も出すか。あとは椎茸と、何があったかな。
一人でいるのは苦にならないが、たまの来客を持て成すのもまた楽しからずや、だ。
顔の前で重ねた腕を、青娥がゆっくりと左右に開きながら上げると、下から現れたのは驚くべき形相だ。
「秘儀! アルカイックスマイル!」
「ひいぃ!」
布都が頭を抱えてちゃぶ台の下へ逃げる。ふう、とため息がきこえて恐る恐る顔を出すと、青娥は今しがたむき出した仏頂面ならぬ仏像面をひっこめ煙管をふかしている。
「何か芸を見せろというから……」
「青娥殿、おぬし、いったい全体どうしてそこまでそっくりな顔を作れるのだ! 今のはまさに、弥勒菩薩半跏思惟像のあの微笑み! 我のすべてが見透かされているようじゃ、ああ……」
「実は、仏像が好きなんじゃありませんの?」
肩をすくめ、青娥は杯に残った酒を舐めた。煙管に何をつめているのか、漂う紫煙は眼にしみるほど酸味を帯びている。
「長く生きていれば、手慰みにいろんなことを覚えるものですわ。……ねえ芳香?」
「おー? 食べた魚は三つだ、ちゃんと覚えてるぞ!」
開け放した障子の向こうで、縁側にのそりと立った芳香が得意げに指を三本たてる。初秋の夜はあかるく、山の姿がよく見えて、蛙と虫の声が重なり合って流れていた。
「まあ中に入らぬか。そろそろ冷えてもこよう」
芳香がそんなもの平気なのは承知の上である。布都は、青娥の忠実な死体である彼女に関心を寄せていた。可能ならば自分も、芳香のような僕を持ちたいと考えていたのである。縁側に出て前に伸べた芳香の腕をとり、部屋へいざなう。
「……紳士なエスコートの、あなたはだあれ?」
「もう忘れたか」
「いや、そう、ふーとー」
もう少し物覚えのいい僕にしたいものだが。しかし、腕を掴んだだけではにかんだようにするのは、死体とも思えない初々しさだ。
「せーが?」
いつの間にか主人の姿が消えていた。杯に渡した煙管がゆるゆると煙をあげている。
「厠か何かであろう……」
布都は芳香の左手の指に、小さな引っかかりを感じた。よく見ればそれは縫い目で、関節と関節の間の肉をぐるりと一周しており、そこから指先までの色が少し違うのだ。野良犬にでも齧られたか、不注意に傷つけたか、青娥が「新品」に取り替えたのであろうと布都は目星をつけた。みごとな施術痕であり、少し向きを変えて撫でると、もう継ぎ目はわからない。
「ふーとー」
灯明に、芳香の影が襖にゆれる。
「なんじゃ?」
「指輪のサイズは、その、7号だから……」
「うおっ!?」
その指は薬指だった。真っ赤になってうつむく死体に、血色という言葉の意味を考える布都である。
芳香を残し廊下へ出ると、土間へと曲がる角のところに青娥の丸めた背中がある。
「魔除けの呪、ですか」
行灯の下に、小さな平皿があり、赤米が盛られている。
「あちらの角にもありました。面白いやり方なのね」
「うむ。我も道半ばの身の上なれば、いろいろと備えておかねばならぬ」
「まあ。謙遜ほどあなたに似合わないものもありませんね」
顔を隠して青娥は、くつくつと笑った。布都は、またもあの仏像が現れるのではと一瞬不安になる。
「物部様」
廊下を戻りかけ、青娥が足を止めた。
「今宵、ここに訪れ来るものに、一切の手出しは無用です」
「やはり、なんぞ来るのか。我も加勢するぞ!?」
青娥は少しくたびれた顔をしていた。やつれたような鼻梁の影で、しかし瞳が炯炯と光っている。いつの間にか、夜の懐に楕円の月が昇っていた。
「なりません。声を出してもいけません。何が見え、もし呼びかけられても、返事をしてはなりません。物部様といえど、命に関わります」
ふわりと、青い衣がなびく。何が起きたのか、布都はすぐにはわからなかった。布都の胸に縋り付き、邪仙は肩を震わせていた。
「どうか、どうかお願いします……」
青娥の起こした風が、遅れて行灯の火を揺すぶった。
夜も深くなり酒も切れたので、布都は床に入った。布団を二枚ならべ、一方の端で横倒しになった芳香はさっさと静かになったが、川の字の真ん中で青娥はしばらく立て膝に火の消えた煙管をのせて物憂げにしていた。ずっと起きているのかと思ったが、ほどなくもぞもぞと横になる気配がした。
しめきった障子を月が明るく照らし、眠気はなかなか訪れなかった。青娥の言ったことより、直後の彼女の行動が脳裏によみがえり、布都の心をもやもやとかき乱すのだった。
仙人は妖怪にとって妖力を高める格好の贄として狙われる。それだけではなく、寿命を全うさせようとする是非曲直庁の使いをも出し抜かねばならない。しかし青娥は、布都の知る限りそれらを相手に臆するようなことはなかった。むしろ悠々と、手玉にとってみせるのだ。
そんな彼女をおびえさせるのは何か? あるいはいつもどおりに悪趣味な戯れなのか?
夜の鳥がほうほうと鳴き、その声を聞いているうち、布都はいつしかうとうとまどろんだ。
次に目の開いたとき、布都はすぐ異変に気づいた。静か過ぎる。鳥どころか、虫も蛙も黙り込み、草葉のざわめきすらも夜の粘液に絡めとられているようだ。
ぎしり、と遠くの廊下が鈍くきしんだ。それきり静かになったが、闇夜にまぎれて広がる黒雲のように、近づいてくるものがある。感覚ではなく、経験がそう告げた。
布都は枕から頭をもたげて縁側の方を凝視していた。障子は月光に一面白く輝き、羽虫の一匹の影すらない。
そのまま何事もなく過ぎ、ふたたび眠気がじんわり布団から発散されてくる。ひょっとすると気のせいだったか。
そう思いかけたとき、突如部屋が暗く翳った。
はじめ、月が雲に隠れたのかと思った。しかし、障子をびっしりと覆った網目のような陰影から、布都の目が複数の人の姿を見て取るまでに、そう時間はかからなかった。
少なく見積もっても十数体の人間、もしくは人間の姿をした何かが、障子の向こうの縁側にひしめき合っているのだ。
そして動いている。巨木の根のように折り重なった影は、ぐねぐねと絡み合い、全体でひとつの冒涜的な舞踏を演じているようだ。
それでいて、足音も気配もない。あやかしの類ならば少なからず放射するエネルギーというものの存在しない、体験したことのない「無」であり、布都はそれが不気味だった。
「青娥殿、これ青娥殿」
小声で隣に呼びかけるが、反応がない。見れば青娥は腰のあたりに布団を巻きつけ、膝を抱えて貝のように丸まっている。今にも、障子を破って得体の知れないものが部屋になだれ込むかもしれない。揺すぶり起こそうとして、布都は愕然と手を引いた。青娥の背中は冷たい汗がぐっしょりと染み出していた。
「わたしのうで」
不意に、女の声が部屋に響いた。布都は青娥の方に身を乗り出したまま、すばやく部屋全体に目を配る。誰もいない。天井の木目が嗤い出したり、おかしな煙が立ち込めたりもしない。
「わたしのつめ」
「ゆびは、わたしの」
何もない宙空で声はつづく。それぞれ別人のようだ。
「わたしの、みみ」
「めだま」
ことさら無感情でも、怨念めいた力みもなく、ただ布団をかこんで普通に会話している様子なのである。しかし、布団から襖にかけて分割する桟の影に、布都はぞっとして目を上げた。障子の人影が、いつの間にかすべて消えている。つまり「向こう側」には誰もいないのだ! 布都は思わず目をかたく閉じた。姿の見えない何ものかが部屋を埋め尽くし、代わる代わるじっと覗き込まれているように思えたからだ。
「きれい」
「きれいなまま」
「よかった」
「かみのけ」
「わたしのはな」
どうとでもなれと目を閉じていると、声の出所がある程度判然としてくる。大の字になった布都の左手側、青娥とそれから、
――そうか、ゾンビ娘か!
寝ているというべきか死んでいるというべきか、ともかく声の主たちは芳香の横たわる側に集っている。彼女とその主人を取り囲む女たちを幻視して、布都の中である仮説が芽生える。ひょっとしてこやつら、芳香のため使われた「材料」なのではあるまいか?
「ほら」
「あなたの」
「きれいなままよ」
「あなたの」
「くび」
そのとき思い出したように夜風が渡り、庭先の枇杷の木ががさがさ騒いだ。耳孔を押さえ込んでいた圧力がふっとやわらぎ、肩が軽くなった気がした。布都はおそるおそるまぶたをこじ開けた。
障子にずらりと並んだ影は、今度は整然と手をつなぐようにして動かない。背の高いのから子供のようなのもいるそれぞれの輪郭から、ある共通点を布都は見出す。身体のどこかが欠損しているのだ。手指や腕、片方の足、もしくはもっと致命的な部位が。じっと見つめていると、影は風に吹かれる砂のようにして、徐々に薄まりやがて消えていった。
翌朝、明るくなると青娥は早々に起き出し、さわがしく庭先で行水などしたかと思えば、勝手場にこもり雑炊などこさえて、寝ている布都もおかまいなく芳香に食わせている。呑気なやりとりを聞きながら、布都は布団の中で昨夜のことを夢ではなかったかと何度も疑ったくらいだ。
玄関にも庭にも何か這入りこんだ痕跡はなく、ただ家の四方に配置した皿のうち一ヶ所の赤米が真っ黒く焦げていた。残りの食材を全部芳香に平らげられ、仕方なく布都は薄茶だけを供に、青娥に昨夜の出来事を話した。怖い夢を見たと親に泣きつくような居たたまれなさを、どこかで感じながら。
もっともそんな時代は、どれだけ昔に過ぎ去ったことだろう。
「あの者たちは」すべて聞き終えると、青娥はおだやかにうなずいた。「ごくまれに現れるの。逃げても抗っても意味はないわ。だって彼女らは、つねに私たちとともにあるのですから」
布都は、昨夜の自分の仮説が間違っていなかったことを確信した。
「私とて、心細くなるときもあります。とはいえ豊聡耳様のお心を騒がすわけにもまいりませんし」
「だからとて、我を巻き込むでない!」
「ふふ。物部様はお優しいですから。……ねえ? 昨夜は少し脅かしましたが、大丈夫。綺麗にしておけば、彼女たちは怒らないわ」
青娥の膝枕で、満腹の芳香はうつらうつら首を揺らしている。弛緩した顔つきながら、もとの目鼻立ちは整っているといえなくもない。きっと服に隠れた部分も「きれい」にしてあるのだろう。
「しかしな」そのときふと湧いた疑問を、布都は素直に口にした。「彼奴らあれだけの人数だ。つまりはそれだけの部位が組み込まれているということであろ……。この娘、原型をとどめておるのか?」
芳香の髪をゆっくりと指で梳きながら、青娥はゆるく微笑んだ。
「芳香は、ほとんど昔のままよ。これはおおむね死んだときのままの姿といって間違いないですわ」
「うん? そうなのか?」
「ええ、指の一、二本、痛んだ肌くらいは取り替えているけれど」
「いや、しかしそれでは」
間に合うまい、と言いかけ、布都は口をつぐんだ。青娥はきちんと紅をひき、それに負けないくらい頬はばら色に輝いている。これまで会った中でももっとも美しい彼女かもしれないと気押されつつ、陽光の下で今まで気づかなかった腐敗が進行しているような予感を、布都は嗅ぎ取っていた。布都を黙らせたものはまさにその腐臭であった。
「この子で試して、うまくいったのがいけなかったのかもしれないわね」
「おぬし、まさか……」
「巷間であくせく生きる衆生のうちには、驚くような美しさが隠れているものよ。物部様? 不死の術などに血道をあげるのが馬鹿らしくなるほど、彼女らは美しく……美しかったわ。でも残念ながらそれは、どこか体の一部分だけなのよ」
誘うように髪をかきあげた青娥の首筋はつやつやして、もちろん継ぎ目のようなものは見当たらない。悪戯っぽく顔を傾け、彼女は布都を見た。
「物部様。貴女と豊聡耳様はとてもとても長い時間を眠って過ごされました。記憶の中の太古の私は、果たしてこんな顔でしたかしら……?」
これは良いものですね。
面白かったです。
読後感が変に良いんですが、いやあ青娥さんマジ青娥さん。
芳香が非常に愛らしかったです。
巧いものです
応援してます。
素晴らしいと月並みなことしか言えないもどかしさです
美女がなぜうつくしいのか、は詮索しないほうがいいことなのですね
美しい文章から醸し出されるなんとも言えない気味の悪さが、素晴らしかったです。
こういったホラーは大好きです。