上手くいかないものだと思った。
人里から帰る飛行の途中、早苗は突然激しい夕立に降られた。髪を雨に晒したくなかったし、すぐに止みそうな気配はあったので、早苗は眼下に見えた湖のほとりで雨宿りをすることにした。
木々の下、視界は立ち込める霧と雨で灰色に染まっている。
「やまないかなあ」となんとなしにつぶやくと、その端から激しい雨音にかき消された。そっと木陰から手を雨に濡らしてみると、ひんやりと打ち付ける雨の感触がじめじめとまとわりつく空気の中で際立ち、清涼感をもたらした。
案外、体じゅう雨に濡らしながら帰るのもいいかもしれない。自由とはそういうことらしいし。流れる雨の冷たさに思いを馳せながら考えてみるものの、全身濡れネズミの自分のみずぼらしさを想像すると、引き下がらざるをえないのであった。
「仕方ない、か」
早苗は諦めて雨が上がるのを大人しく待つことにした。人里での布教も上手くいかず、真っ直ぐに山の神社に帰る気分ではなかったので、丁度良かったとも言える。
水量を増しながら、足元の水たまりが濃霧で覆われた湖に伸びてゆく。
その水面を見ていると、あちらこちらでせわしなく雨の波紋が点滅し、広がり、相互作用し、映る木陰の輪郭を歪め、消えてゆく様子に何かを見いだせそうだった。
水面に、逆さまの少女の足が大写しになった。
「ねえ、何してんの」
「……別に、なんにも。ぼーっとしてます」
「ふーん」
雨の音。
一泊置いて、うつむく早苗の眼前に、ずいと覗きこむようにして少女の実像が現れた。
「楽しい?」
早苗は、少女がこの湖に住む氷精のチルノであったことに気付き、遅れて彼女がまとうぼんやりとした冷気を濡れた右手に感じた。
「……風流っていうんでしょうか、たぶん」
チルノは、雨に濡れて額にへばりついた髪先から水滴が頬をつたい、白い首筋から鎖骨に流れ、じんわりと溜まるまでの時間を眉根を寄せて固まっていた。
「フウリュウって楽しい?よくわかんない」
「ええ、私も、です」
何をしたいのか、という言葉は声にならずに消えていった。
早苗の返答に、チルノは首をかしげた。
「……もしかして、巫女ってバカなの」
「巫女は馬鹿かもしれません」
チルノは何故か誇らしげに自分を指差してみせた。
「あたいもバカってよく言われるよ。バカ仲間だ」
「私は風祝なので違います。勝手に馬鹿やっててください」
「嵌められた!」
早苗はなんだか当てられて、ため息をついた。
「ところで、なんの用ですか」
チルノは、しばらく考えたあと首を傾げた。
「……なんだっけ?」
「噂にたがわぬアタマのようで……」
思わず再び吐いたため息に、早苗はさらに気力を奪われた気がした。
「あ、そうだ」
チルノは期待に満ちた様子で早苗の袖の端を引いた。
「遊ぼうよ。暇なんでしょ、元気出るよ」
「遠慮します。私は存分に雨を見ているのでどうぞご勝手に、」
「わかった!」
チルノはその体躯に見合わぬ力強さで早苗の腕をつかむと、一気に木陰の外に引っ張りだした。
「え、ちょっと、勝手にってそういう―――」
たたらを踏んだ早苗はぬかるみに足を突っ込み、水たまりを跳ね上げスカートの端を汚した。そして大雨があっという間に早苗の髪を濡らし、服を素肌に張り付かせ、早苗をみるみる重くする。
「なにするんですかー!」
「よーし、上だー!」
チルノは早苗の腕を掴んだまま空にとびたち、早苗が抵抗する意図を持つ前にはもう引き上げられていた。
風を切り急上昇する二人に、雲は迫り、雨は速度を増し身体を容赦なく打ちつける。
「雨が痛いです!腕が痛いです!」
「すごいだろ!水はすごいんだ!」
早苗の、必死に風と雨を押しのけての抗議も、チルノには関係無いようだった。もう上を飛ぶチルノを目を開いては見てられなかった。耐えかねて下を向くと、ぐんぐんと地面が遠ざかっていく。
そうして早苗はただひたすらに引き上げられ、秘術でこの妖精を撃退することを考え始めた頃、やっとチルノは停止した。かなりの高さまで上昇したようで、もう入道雲のすぐ下に来ていた。
「うむ、このくらいかな」
「いきなりなにするんですかっ!もうっ!びしょびしょ!」
「はははっ!早苗が濡れわかめだ!」
「……」
「ところでわかめってなに?」
早苗は脱力した両腕から、雨を存分に吸った袖が重みでずれ落ちそうになるのを感じた。濡れた前髪が執拗に目を覆う。服がべたべたする。スカートもずいぶん重い。はねた泥で裾が汚れてしまった。
それらの不快な感覚に、早苗は、今日ずっと感じていた行き場のない苛立ちを再熱させた。上手くいかないという気持ち。ぐるぐると淀む。なぜか涙が溢れそうだった。
「あなたね……!」
「怒っちゃった?じゃああんたが鬼ね!悔しかったら追ってみな!」
チルノは挑発的な笑みで宣言すると、次の瞬間には自由落下じみた降下を始めた。
「待ちなさい!」
早苗も、反射的にチルノを追って降下する。
「そんな速さで追えるもんか!」
「うるさい!」
曇天の下降り続く雨の中、チルノは重力に沿って加速し続けた。
それに合わせて早苗も速度を上げる。
そしていよいよ追いつこうかというところで、早苗はふと、周囲の風景の変化に気付いた。
奇妙な光景だった。
大量の雨粒が中空で停止していた。
早苗たちと雨との相対速度がゼロになったことがもたらした光景だった。
上を見ても下を見ても見渡す限りに透き通る雨粒があった。下側が潰れた横楕円の雨粒がそれぞれにきらりとハイライトを灯し、それぞれが内に黒く影をゆらし、吹き上げる風のなかで輪郭を揺らしている。それら透明の珠が無数に停止し、小さくなりながらつぶつぶと水平線まで広がっていた。
チルノは落下しながら、寝転がるような気軽さで緩やかに近づく湖面に背を向けて、早苗に笑顔を向けた。蒼い髪が勢い良く立ち上り揺れている。
不意に横を見ると、遠くの雲の切れ目から、光のカーテンが差し込んでいた。そして次々と生まれる新たな雲の切れ目から夕日が降り注ぎ、夕日はさらに、周囲で無数にとどまり揺れ続ける雨の珠を輝かせ、チルノの右半分を黄色く染めて、氷の羽に輝きを灯した。
「 」
押し寄せる風の中、チルノが楽しげに何かを言って、言葉は風をきる音に消えた。
◆
ゆったりと降り立った湖のほとりにチルノはいた。夕日を乱反射する湖面を見つめながら
「なかなかのものだったっしょ」
と誇らしげにチルノは言った。それで早苗は、あれが妖精の遊びなのだろうなとようやく思い当たった。
「そうですね」
早苗は、半ば放心しながら答えた。
十秒足らずの間だけ見られた、停止した雨粒の美しさを思い出していた。考えてみれば不思議なものだ。
雨はつねにそうあり続けていて、ただ降っていて、私達の視点が変わったに過ぎないのに。
そういうものなのかもしれない。
「そうだ」
雲が晴れ、夕焼けがほの暗く明るさを取り戻してゆく。それを見て思い出した。
早苗はスカートのポケットを漁った。スカートが濡れて張り付くせいで、取り出すために少々苦労した。
「どうです、今から」
早苗の掲げたスペルカードに、チルノは顔を輝かせる。
「なんまい?」
「五で」
早苗は片手を広げて答えて、チルノは不敵に笑い返した。
二つの影はふわりと飛び上がると、だいだい色とあい色が混ざり合う夕焼けを挟んで距離をとった。
人里から帰る飛行の途中、早苗は突然激しい夕立に降られた。髪を雨に晒したくなかったし、すぐに止みそうな気配はあったので、早苗は眼下に見えた湖のほとりで雨宿りをすることにした。
木々の下、視界は立ち込める霧と雨で灰色に染まっている。
「やまないかなあ」となんとなしにつぶやくと、その端から激しい雨音にかき消された。そっと木陰から手を雨に濡らしてみると、ひんやりと打ち付ける雨の感触がじめじめとまとわりつく空気の中で際立ち、清涼感をもたらした。
案外、体じゅう雨に濡らしながら帰るのもいいかもしれない。自由とはそういうことらしいし。流れる雨の冷たさに思いを馳せながら考えてみるものの、全身濡れネズミの自分のみずぼらしさを想像すると、引き下がらざるをえないのであった。
「仕方ない、か」
早苗は諦めて雨が上がるのを大人しく待つことにした。人里での布教も上手くいかず、真っ直ぐに山の神社に帰る気分ではなかったので、丁度良かったとも言える。
水量を増しながら、足元の水たまりが濃霧で覆われた湖に伸びてゆく。
その水面を見ていると、あちらこちらでせわしなく雨の波紋が点滅し、広がり、相互作用し、映る木陰の輪郭を歪め、消えてゆく様子に何かを見いだせそうだった。
水面に、逆さまの少女の足が大写しになった。
「ねえ、何してんの」
「……別に、なんにも。ぼーっとしてます」
「ふーん」
雨の音。
一泊置いて、うつむく早苗の眼前に、ずいと覗きこむようにして少女の実像が現れた。
「楽しい?」
早苗は、少女がこの湖に住む氷精のチルノであったことに気付き、遅れて彼女がまとうぼんやりとした冷気を濡れた右手に感じた。
「……風流っていうんでしょうか、たぶん」
チルノは、雨に濡れて額にへばりついた髪先から水滴が頬をつたい、白い首筋から鎖骨に流れ、じんわりと溜まるまでの時間を眉根を寄せて固まっていた。
「フウリュウって楽しい?よくわかんない」
「ええ、私も、です」
何をしたいのか、という言葉は声にならずに消えていった。
早苗の返答に、チルノは首をかしげた。
「……もしかして、巫女ってバカなの」
「巫女は馬鹿かもしれません」
チルノは何故か誇らしげに自分を指差してみせた。
「あたいもバカってよく言われるよ。バカ仲間だ」
「私は風祝なので違います。勝手に馬鹿やっててください」
「嵌められた!」
早苗はなんだか当てられて、ため息をついた。
「ところで、なんの用ですか」
チルノは、しばらく考えたあと首を傾げた。
「……なんだっけ?」
「噂にたがわぬアタマのようで……」
思わず再び吐いたため息に、早苗はさらに気力を奪われた気がした。
「あ、そうだ」
チルノは期待に満ちた様子で早苗の袖の端を引いた。
「遊ぼうよ。暇なんでしょ、元気出るよ」
「遠慮します。私は存分に雨を見ているのでどうぞご勝手に、」
「わかった!」
チルノはその体躯に見合わぬ力強さで早苗の腕をつかむと、一気に木陰の外に引っ張りだした。
「え、ちょっと、勝手にってそういう―――」
たたらを踏んだ早苗はぬかるみに足を突っ込み、水たまりを跳ね上げスカートの端を汚した。そして大雨があっという間に早苗の髪を濡らし、服を素肌に張り付かせ、早苗をみるみる重くする。
「なにするんですかー!」
「よーし、上だー!」
チルノは早苗の腕を掴んだまま空にとびたち、早苗が抵抗する意図を持つ前にはもう引き上げられていた。
風を切り急上昇する二人に、雲は迫り、雨は速度を増し身体を容赦なく打ちつける。
「雨が痛いです!腕が痛いです!」
「すごいだろ!水はすごいんだ!」
早苗の、必死に風と雨を押しのけての抗議も、チルノには関係無いようだった。もう上を飛ぶチルノを目を開いては見てられなかった。耐えかねて下を向くと、ぐんぐんと地面が遠ざかっていく。
そうして早苗はただひたすらに引き上げられ、秘術でこの妖精を撃退することを考え始めた頃、やっとチルノは停止した。かなりの高さまで上昇したようで、もう入道雲のすぐ下に来ていた。
「うむ、このくらいかな」
「いきなりなにするんですかっ!もうっ!びしょびしょ!」
「はははっ!早苗が濡れわかめだ!」
「……」
「ところでわかめってなに?」
早苗は脱力した両腕から、雨を存分に吸った袖が重みでずれ落ちそうになるのを感じた。濡れた前髪が執拗に目を覆う。服がべたべたする。スカートもずいぶん重い。はねた泥で裾が汚れてしまった。
それらの不快な感覚に、早苗は、今日ずっと感じていた行き場のない苛立ちを再熱させた。上手くいかないという気持ち。ぐるぐると淀む。なぜか涙が溢れそうだった。
「あなたね……!」
「怒っちゃった?じゃああんたが鬼ね!悔しかったら追ってみな!」
チルノは挑発的な笑みで宣言すると、次の瞬間には自由落下じみた降下を始めた。
「待ちなさい!」
早苗も、反射的にチルノを追って降下する。
「そんな速さで追えるもんか!」
「うるさい!」
曇天の下降り続く雨の中、チルノは重力に沿って加速し続けた。
それに合わせて早苗も速度を上げる。
そしていよいよ追いつこうかというところで、早苗はふと、周囲の風景の変化に気付いた。
奇妙な光景だった。
大量の雨粒が中空で停止していた。
早苗たちと雨との相対速度がゼロになったことがもたらした光景だった。
上を見ても下を見ても見渡す限りに透き通る雨粒があった。下側が潰れた横楕円の雨粒がそれぞれにきらりとハイライトを灯し、それぞれが内に黒く影をゆらし、吹き上げる風のなかで輪郭を揺らしている。それら透明の珠が無数に停止し、小さくなりながらつぶつぶと水平線まで広がっていた。
チルノは落下しながら、寝転がるような気軽さで緩やかに近づく湖面に背を向けて、早苗に笑顔を向けた。蒼い髪が勢い良く立ち上り揺れている。
不意に横を見ると、遠くの雲の切れ目から、光のカーテンが差し込んでいた。そして次々と生まれる新たな雲の切れ目から夕日が降り注ぎ、夕日はさらに、周囲で無数にとどまり揺れ続ける雨の珠を輝かせ、チルノの右半分を黄色く染めて、氷の羽に輝きを灯した。
「 」
押し寄せる風の中、チルノが楽しげに何かを言って、言葉は風をきる音に消えた。
◆
ゆったりと降り立った湖のほとりにチルノはいた。夕日を乱反射する湖面を見つめながら
「なかなかのものだったっしょ」
と誇らしげにチルノは言った。それで早苗は、あれが妖精の遊びなのだろうなとようやく思い当たった。
「そうですね」
早苗は、半ば放心しながら答えた。
十秒足らずの間だけ見られた、停止した雨粒の美しさを思い出していた。考えてみれば不思議なものだ。
雨はつねにそうあり続けていて、ただ降っていて、私達の視点が変わったに過ぎないのに。
そういうものなのかもしれない。
「そうだ」
雲が晴れ、夕焼けがほの暗く明るさを取り戻してゆく。それを見て思い出した。
早苗はスカートのポケットを漁った。スカートが濡れて張り付くせいで、取り出すために少々苦労した。
「どうです、今から」
早苗の掲げたスペルカードに、チルノは顔を輝かせる。
「なんまい?」
「五で」
早苗は片手を広げて答えて、チルノは不敵に笑い返した。
二つの影はふわりと飛び上がると、だいだい色とあい色が混ざり合う夕焼けを挟んで距離をとった。
静止して見える雨は素敵な光景。
とてもいいフウリュウちっくなのを味わいました。
光に照らされて、それまで灰色一色だった世界がにわかに色を取り戻す。
そんな印象。
発想に脱帽しました。
素敵
小さい水晶玉がたくさん分散してるみたいな
雨上がりの弾幕ごっこ、どちらが勝ったんでしょうね。
人間の身で同じ気分を味わうには超高所から地上に向けてダイブするしかなく、その時には死亡確定なことを考えると、これを見ることが出来る幻想少女達は凄く幸せな世界にいるなぁ、も思いました
体験したら最後になっちゃいそうだけどさ
短編としてはありがちかもしれんけどいい構成だったと思います。
面白かった!
自然に近い妖精だからこそこういう楽しさに気づくのでしょうか
いやなものを全て洗い流してくれました