彼女が日課である神社の掃除をしていた時だった。
「ちーっす」
突然、軽い挨拶と軽やかな足音が神社の境内に響いた。
「よく続くわね」
掃除の手を止めて少女にかけられる声に驚きの色はない。そこに色を見つけるなら呆れだった。
少女は夢の中でだけ外の世界から幻想郷に入ってくる、文字通りの夢見る少女なのだが、何せその顔は見慣れてしまった。毎日を飛び越えて一日に何度も姿を見せる日もあるのだから、驚くにも疲れてもはや呆れるというところだろう。
「へへへ、夢を見るのは人の自由でしょ?」
「そりゃ、まあ勝手だけどさ」
「あなたもそうやって掃除してると、ちゃんと巫女さんに見えるのね」
「見える、じゃなくて巫女そのものよ。今日も竹林?」
笑顔で頷き「じゃあね」と言い残し、菫子がフワリと空に浮かぶ。思い切りがいいのか、慣れてしまえば水にあったのか。怖がっていた幻想郷の妖怪に脅える素振りは今はない。
菫子の姿が見えなくなったところで、
「そりゃあ夢のような夢の話ですもの。楽しくってしょうがないんじゃない?」
私は彼女に声をかけた。彼女は箒を置き私に答える。
「何してたのよアンタ。この一大事に」
菫子に答えた声と同様、驚きの色はなかった。呆れでもなく、怒っていた。なんなら叱っていたと言ってもいい。
「大切な一日一日を一瞬たりとも見逃さないよう見守っていました……と答えれば合格かしら?」
私の返事に今度は呆れる。いや憐れんで見せているのかもしれない。
「零点もいいところよ。妖怪の賢者の肩書きが呆れて泣くわよ。女子高生以下よ」
「あら、手厳しい」
「でも高って付くぐらいだし案外あれでいいのかしら」と自分の言葉の変なところに引っかかり、素に戻る。
「女子高生なんてありふれていますわ。女子大生以下のお子様よ」
「ふーん、外の世界では高より大の方が強いのかしら」
「強いって比較が馬鹿っぽいわねえ。まあ、馬鹿な子ほどかわいいと言うし、とりあえずのご褒美をあげましょう」
「それは貰うけど、とりあえずなら何してたから話しなさいよ」
再び怒った彼女を無視して、私はスキマの空間から深みのある茶色の瓶を取り出す。
「とりあえず、どうしましょうか」
彼女にその瓶を持たせてやる。重みのあるビール瓶に彼女が顔をしかめる。結露の水滴を指で拭いながら彼女が言う。
「……冷えてるわね」
「そうでしょう? この陽気ですから。ボヤボヤ話していると温くなってしまうかも」
少女は長いため息の後、手を伸ばす。
「とりあえずどうしましょう?」
「とりあえず……他にあるでしょ」
「例えば?」
「栓抜きとか、グラスとか」不承不承喋る彼女。
「じゃあ、とりあえずビールね」
彼女に栓抜きを渡すと、さっさと自分のグラスを満たし、ビール瓶を私に押しつけ、鳥居の方へ歩いていく。
私もそれを追うべく自分のグラスにビールを注ぎ、一歩踏みだし、向かってくる彼女の右手のグラスに自分のグラスをぶつけた。
「乾杯」
にこやかに言う私に唱和せず、彼女はビールを煽る。半分ほど飲んで鼻を鳴らす。
「誰と飲んでも冷えたビールは美味しいわね」
そんな事を言う。
「別に掃除という労働で疲れた体を冷えたビールで釣ろうだなんて思ってないわよ? 釣れるとは思ってるけど」
「じゃあ、何のつもりよ」
「何って、お祝いでしょう? 異変解決の」
「そう。最低限、今回の事は認識してたわけよね」
鳥居を支える台石に座り、彼女は二口目で一気にビールを飲み干す。スキマから手を伸ばし注いでやると、また一口。少し時間をおいて、もう一口。そして、一旦口の前でグラスを止め、
「もう一回聞くわ。何を、してたの?」
「もう一度答えるわ。大切な一日一日を一瞬たりとも見逃さないよう見守っていました」
飲み干す。注いでやろうと再度スキマから手を伸ばすと瓶からグラスを遠ざける。
ビールはもういいということだろうか、スキマの中に手を引き別の酒を探り始めた瞬間、彼女の手がスキマへと伸び、
「これもらうわよ」
日本酒の瓶を引き抜いていく。
「一番高いのを、いやしんぼな鋭い勘ね」
「……手当たり次第の偶然よ」
そう言いながら、彼女は手酌の酒をゆっくりと口に運ぶ。静かに少しずつ、暮れていく日差しの中でゆっくりと。そして口を開く。
「どの段階から見てたの?」
「最初からと言いたいところだけれど、まああの娘がここに姿を表して以降かしら。それからは最後まで」
答えに新たな質問が重なる。
「どうして見てるだけだったの?」
「異変解決には首を突っ込んでくる魔法使い、包帯を巻いた……仙人、頭はそれなりに切れる化け狸、重い腰を上げた蓬莱人、芝居がかった聖人、ターボ……フフッ、命蓮寺の住職さん、それに、異変解決を仕事にしている貴方。
これだけ揃っていれば大丈夫なのかなという判断ですわ。精神的負担を抱えてまで労働なんてしたくはないわ」
「なら、なんで見てたの? 寝てればよかったでしょ」
「驚いたので目が覚めてしまいまして。今の世の中で、あんな外の人間が幻想郷に関わってくるとは思っていませんでしたし。まあ、思うところがあったので直接関わることはしませんでした。事態は把握していましたが。疑問は解けました?」
「いいわ。腹は立つけどね。」
「じゃあ、これで鎮めてくださいな」
日本酒の瓶を持ち上げ、軽く揺らす。
欲しがるように手を伸ばしたので、渡す。蓋を開けると自分のグラスではなく、私のグラスへと瓶を傾ける。
「あらあら、ありがとうございます」
「別に。元々あんたの酒でしょ」と言いながら、注ぎ終わると今度は自分のグラスに目一杯注ぐ。
「ありがとうついでに今度はこちらから一つ質問いいかしら」
「お酒分ならいいわよ」と言いながら、注ぎすぎた酒をこぼさないよう慎重にグラスと顔を近づけている。
「ありがとう。
じゃあ、八雲紫として質問するわ。
どうして貴方は彼女を殺さなかったのかしら?」
グラスを伝い落ちた酒が境内を濡らす。
神経質に目を細めて彼女が酒を啜る。
「どうして? 今ではあの通りの馴染みぶりよ」
「今ではね。でもあの夜、最初の計画通りなら貴方はあんなに慌ててまで、協力者を押し退けてまで動く必要なんてなかったのでしょう?」
「勘よ。博麗の巫女としてのね。あの玉の中には異物が混ざっていた。それは放置せず早急に片づけないといけなかった」
「じゃあ、貴方の勘は異変解決の方法、ううん、結果かしらね、それについては何て言ってたのかしら」
「殺して欲しかったの?」
「そうは言ってないわ。ただ、幻想郷に対しての危険度をどう判断してどう対処しようとしてたのか、というお話よ。貴方の勘はどう言ってた?」
「……場合によっては」
「でもあなたはそうしなかった。その場合、ではなかったということなのかしら?」
彼女は答えない。
「蓬莱人から忘れ物を預かっていたわね。渡すと言って。場合によっては葬り去る。結果としては今回はその場合ではなかったのかもしれない。でも、貴方は最初から決めていたんじゃないの? 勘に逆らってでも、宇佐見菫子は、あの人間は殺さないと」
そう、思っていたんじゃないのか。
「ねえ、どうなのかしら?」
博麗の巫女ではない、
「教えて」
博麗霊夢。
今の目の前にいる少女は、そう思っていたんじゃないのか。
でも、そうだとしたら。彼女と彼女の在り方が同一でないのだとしたら。
それはそれは、
彼女は答えない。
博麗神社の巫女は、ただ、目の前に広がる楽園を見渡し、また一口酒を飲むだけだった。
「ちーっす」
突然、軽い挨拶と軽やかな足音が神社の境内に響いた。
「よく続くわね」
掃除の手を止めて少女にかけられる声に驚きの色はない。そこに色を見つけるなら呆れだった。
少女は夢の中でだけ外の世界から幻想郷に入ってくる、文字通りの夢見る少女なのだが、何せその顔は見慣れてしまった。毎日を飛び越えて一日に何度も姿を見せる日もあるのだから、驚くにも疲れてもはや呆れるというところだろう。
「へへへ、夢を見るのは人の自由でしょ?」
「そりゃ、まあ勝手だけどさ」
「あなたもそうやって掃除してると、ちゃんと巫女さんに見えるのね」
「見える、じゃなくて巫女そのものよ。今日も竹林?」
笑顔で頷き「じゃあね」と言い残し、菫子がフワリと空に浮かぶ。思い切りがいいのか、慣れてしまえば水にあったのか。怖がっていた幻想郷の妖怪に脅える素振りは今はない。
菫子の姿が見えなくなったところで、
「そりゃあ夢のような夢の話ですもの。楽しくってしょうがないんじゃない?」
私は彼女に声をかけた。彼女は箒を置き私に答える。
「何してたのよアンタ。この一大事に」
菫子に答えた声と同様、驚きの色はなかった。呆れでもなく、怒っていた。なんなら叱っていたと言ってもいい。
「大切な一日一日を一瞬たりとも見逃さないよう見守っていました……と答えれば合格かしら?」
私の返事に今度は呆れる。いや憐れんで見せているのかもしれない。
「零点もいいところよ。妖怪の賢者の肩書きが呆れて泣くわよ。女子高生以下よ」
「あら、手厳しい」
「でも高って付くぐらいだし案外あれでいいのかしら」と自分の言葉の変なところに引っかかり、素に戻る。
「女子高生なんてありふれていますわ。女子大生以下のお子様よ」
「ふーん、外の世界では高より大の方が強いのかしら」
「強いって比較が馬鹿っぽいわねえ。まあ、馬鹿な子ほどかわいいと言うし、とりあえずのご褒美をあげましょう」
「それは貰うけど、とりあえずなら何してたから話しなさいよ」
再び怒った彼女を無視して、私はスキマの空間から深みのある茶色の瓶を取り出す。
「とりあえず、どうしましょうか」
彼女にその瓶を持たせてやる。重みのあるビール瓶に彼女が顔をしかめる。結露の水滴を指で拭いながら彼女が言う。
「……冷えてるわね」
「そうでしょう? この陽気ですから。ボヤボヤ話していると温くなってしまうかも」
少女は長いため息の後、手を伸ばす。
「とりあえずどうしましょう?」
「とりあえず……他にあるでしょ」
「例えば?」
「栓抜きとか、グラスとか」不承不承喋る彼女。
「じゃあ、とりあえずビールね」
彼女に栓抜きを渡すと、さっさと自分のグラスを満たし、ビール瓶を私に押しつけ、鳥居の方へ歩いていく。
私もそれを追うべく自分のグラスにビールを注ぎ、一歩踏みだし、向かってくる彼女の右手のグラスに自分のグラスをぶつけた。
「乾杯」
にこやかに言う私に唱和せず、彼女はビールを煽る。半分ほど飲んで鼻を鳴らす。
「誰と飲んでも冷えたビールは美味しいわね」
そんな事を言う。
「別に掃除という労働で疲れた体を冷えたビールで釣ろうだなんて思ってないわよ? 釣れるとは思ってるけど」
「じゃあ、何のつもりよ」
「何って、お祝いでしょう? 異変解決の」
「そう。最低限、今回の事は認識してたわけよね」
鳥居を支える台石に座り、彼女は二口目で一気にビールを飲み干す。スキマから手を伸ばし注いでやると、また一口。少し時間をおいて、もう一口。そして、一旦口の前でグラスを止め、
「もう一回聞くわ。何を、してたの?」
「もう一度答えるわ。大切な一日一日を一瞬たりとも見逃さないよう見守っていました」
飲み干す。注いでやろうと再度スキマから手を伸ばすと瓶からグラスを遠ざける。
ビールはもういいということだろうか、スキマの中に手を引き別の酒を探り始めた瞬間、彼女の手がスキマへと伸び、
「これもらうわよ」
日本酒の瓶を引き抜いていく。
「一番高いのを、いやしんぼな鋭い勘ね」
「……手当たり次第の偶然よ」
そう言いながら、彼女は手酌の酒をゆっくりと口に運ぶ。静かに少しずつ、暮れていく日差しの中でゆっくりと。そして口を開く。
「どの段階から見てたの?」
「最初からと言いたいところだけれど、まああの娘がここに姿を表して以降かしら。それからは最後まで」
答えに新たな質問が重なる。
「どうして見てるだけだったの?」
「異変解決には首を突っ込んでくる魔法使い、包帯を巻いた……仙人、頭はそれなりに切れる化け狸、重い腰を上げた蓬莱人、芝居がかった聖人、ターボ……フフッ、命蓮寺の住職さん、それに、異変解決を仕事にしている貴方。
これだけ揃っていれば大丈夫なのかなという判断ですわ。精神的負担を抱えてまで労働なんてしたくはないわ」
「なら、なんで見てたの? 寝てればよかったでしょ」
「驚いたので目が覚めてしまいまして。今の世の中で、あんな外の人間が幻想郷に関わってくるとは思っていませんでしたし。まあ、思うところがあったので直接関わることはしませんでした。事態は把握していましたが。疑問は解けました?」
「いいわ。腹は立つけどね。」
「じゃあ、これで鎮めてくださいな」
日本酒の瓶を持ち上げ、軽く揺らす。
欲しがるように手を伸ばしたので、渡す。蓋を開けると自分のグラスではなく、私のグラスへと瓶を傾ける。
「あらあら、ありがとうございます」
「別に。元々あんたの酒でしょ」と言いながら、注ぎ終わると今度は自分のグラスに目一杯注ぐ。
「ありがとうついでに今度はこちらから一つ質問いいかしら」
「お酒分ならいいわよ」と言いながら、注ぎすぎた酒をこぼさないよう慎重にグラスと顔を近づけている。
「ありがとう。
じゃあ、八雲紫として質問するわ。
どうして貴方は彼女を殺さなかったのかしら?」
グラスを伝い落ちた酒が境内を濡らす。
神経質に目を細めて彼女が酒を啜る。
「どうして? 今ではあの通りの馴染みぶりよ」
「今ではね。でもあの夜、最初の計画通りなら貴方はあんなに慌ててまで、協力者を押し退けてまで動く必要なんてなかったのでしょう?」
「勘よ。博麗の巫女としてのね。あの玉の中には異物が混ざっていた。それは放置せず早急に片づけないといけなかった」
「じゃあ、貴方の勘は異変解決の方法、ううん、結果かしらね、それについては何て言ってたのかしら」
「殺して欲しかったの?」
「そうは言ってないわ。ただ、幻想郷に対しての危険度をどう判断してどう対処しようとしてたのか、というお話よ。貴方の勘はどう言ってた?」
「……場合によっては」
「でもあなたはそうしなかった。その場合、ではなかったということなのかしら?」
彼女は答えない。
「蓬莱人から忘れ物を預かっていたわね。渡すと言って。場合によっては葬り去る。結果としては今回はその場合ではなかったのかもしれない。でも、貴方は最初から決めていたんじゃないの? 勘に逆らってでも、宇佐見菫子は、あの人間は殺さないと」
そう、思っていたんじゃないのか。
「ねえ、どうなのかしら?」
博麗の巫女ではない、
「教えて」
博麗霊夢。
今の目の前にいる少女は、そう思っていたんじゃないのか。
でも、そうだとしたら。彼女と彼女の在り方が同一でないのだとしたら。
それはそれは、
彼女は答えない。
博麗神社の巫女は、ただ、目の前に広がる楽園を見渡し、また一口酒を飲むだけだった。