ナズーリンの一日は部下のネズミ達の簡易報告から始まる。彼女が寝ている間、こんな人物が無縁塚に近づきました、こんな物が落ちていました、龍神様の像によると今日は晴れになる模様です。十の声を同時に聞く霊廟の聖人には流石に及ばないが、こうしたネズミのネットワークを使い彼女は寝起きであらゆる情報を得る。その報告を元に一日の予定を組み立てるのが日課なのだが、今日は違った。
「ん? 見慣れない顔だね君は」
眠気眼をこすりながら、ベッドの中で寝巻きのまま部下の鳴き声を聞いている最中に気づく。報告ネズミの中に部下ではないネズミが一匹混じっている。手のひらを広げてこちらに来るよう誘うとネズミはそれに素直に応じる。
「迷子ではなさそうだね。仲間に入れてほしいのかい? 生憎、今は手下の募集はしていないんだよ」
『手下になりに来たわけではない。久しいな、ナズーリン』
手のひらの上で声がした。とても厳かな低音。人語を発せられるほど妖力を蓄えたネズミというのはそう居ない。『久しいな』という台詞も併せて考慮してナズーリンは状況を把握し、流れるような挙動で土下座の体勢に移行した。
「び、毘沙門天様! 大変失礼しました! 貴方様の存在に気づかぬとは、このナズーリン一生の不覚です」
勢いづいてしまったせいで土下座体勢のままベッドのスプリングでナズーリンの身体はゆらゆらと上下する。それでも手のひらの上の毘沙門天に不快感を与えぬようナズーリンは腕の力加減を調節し揺れを抑えるよう注力した。
『気にするな、ナズーリン。ただのネズミに我の分霊を移しただけの身体だ。君が気づかぬのも無理からぬ話さ。それに、突然押しかけた我にも非がある』
毘沙門天はナズーリンの手のひらから降り、軽快な動作で木製の棚の上に上る。ナズーリンは彼とは寅丸星への監視報告のため紙面ではそれなりの頻度で連絡し合っているのだが、こうして声を聞くのは数百年ぶりのことである。何か大事でもあったのかと身構えるナズーリンに毘沙門天は若干軽い口調で話し始める。
『そう固くなるな、ナズーリン。面を上げなさい。実は我は一週間ほど前にこの幻想郷へ訪れ、直接寅丸星の様子を観察してきた』
最終監査というやつだな、と付け加える。その言葉にナズーリンは息を呑む。
「最終、というのはつまり」
『そうだ。我の代理として相応しいかどうか。回りくどいのは好まぬから結果をまず言おう。合格だ。今までは黙認という形で彼女の本尊としての活動を許してきたが、これからは正式にこの毘沙門天の代理をすることを認める』
「ほ、本当ですか!?」
思わず語気を荒くしてしまうナズーリン。毘沙門天の言葉が本当だとしたら、彼女と寅丸星の千年以上にも及ぶ活動が実を結んだことになる。小躍りしたい気持ちだったが、身を乗り出して彼の言葉を聞き入っている無礼に気づき、萎縮するようナズーリンは座りなおした。
『固くなるなと言ったではないか。君はすこし自分の感情を表に出すことを覚えたほうがいい。話が逸れたな。寅丸星。彼女はこの千年間、我の力を悪用することなく、毘沙門天の代理として振舞ってきた。その力を遣い、恩人を救いたいと焦がれるときもあっただろう』
これは聖が封印されたときのことを言っているのだろうとナズーリンは推測する。確かにあの時の寅丸星は聖白蓮を救うために妖怪としての本性を出し、本尊としての役割を投げ出して封印を阻止しようと動くことも出来たはずだ。
ナズーリンは彼女がそう動いた時点で落第点を押そうと考えていたのだが、寅丸星はついに妖怪としての本性を現すことはなかった。彼女は自身の感情を殺し、毘沙門天代理としての自分を全うしたのだ。一番近くで彼女を見てきたナズーリンはその苦悩が痛いほどわかった。不器用な方だ、と思った。同時に彼女を敬愛する気持ちも強くなった。
この方のために尽くしたい。毘沙門天以外で彼女がそう素直に思える存在は初めてだった。
『寅丸星は我欲のために動くことはないだろう。ここまでは君の報告書を読んで把握していたことだが、直接彼女の姿を観察して我はその認識をさらに強めた。腕っぷしも申し分なく謙虚で聡明である。ナズーリン、我は彼女の人格を特に評価している』
手放しに褒められて何故かナズーリンのほうが紅潮する。寅丸星というのは普段、何かしら活動するときは裏方に徹している。そのため自分以外は彼女の聡明さをよく把握していないのでこうして褒められるのは稀なのだ。
『君から見てもそうだろう?』
「はい。ご主人様の人格は評価されてしかるべきだと私も思っています」
『うむ。少々抜けているのもまた愛嬌だろう』
毘沙門天が言っているのは宝塔の失せ物癖のことだろう。ナズーリンはクスリと笑う。
『そういう運びで我は寅丸星を正式な代理として認めることにした。寅丸星には我の三叉槍のレプリカを授与しよう。これは今寅丸星が持っているものより霊格の高い代物だ』
空間を裂き、掘っ立て小屋全体を揺るがせる衝撃とともに豪奢な槍が召喚された。それをナズーリンは両手のひらで受け止める。
「ありがとうございます」
『うむ。この槍を寅丸星に届けた時点で君に課していた監視の任を解こうと思う。今までご苦労だった』
ナズーリンは理解が追いつかず、返答に一拍間を置いた。
「え。えーっと。毘沙門天様、それはいったいどういうことでしょう」
『我の元に帰還せよということだ。君は優秀だ。その地に留まらせておくには惜しい人材である。二度は言わぬぞ』
「で、ですが毘沙門天様!」
思わずナズーリンは身を乗り出す。喉元まで出かかった言葉は、寅丸星が代理に相応しくないという異議だった。先刻言質も取られているというのに、考えなしに言葉が飛び出そうになる。ナズーリンはそれを寸でのところで飲み込んだ。
ダメだ。せっかく正式に代理を名乗ることを許可して頂いたのに。それを自分の勝手で台無しにする気か。ナズーリンの思考が巡る。
そもそも何でそんな言葉が出かかったのだ。自分はあの方と離れたくないのか? 甘えだ、そんなの。彼女を騙して監視していた分際で、図々しいぞ。毘沙門天の機嫌を損ねるわけにはいかないし、これは名誉なことなのだ。受け入れねば。
震えそうになるのを抑え、ナズーリンはベッドの上で元の体勢に収まる。
『……なんだ、ナズーリン。何か言いたいことでもあるのかね』
「いいえ。確かに請け賜りました。この槍を配達した後、貴方様の元へ帰還します」
『うむ。待っているぞ』
その言葉を最後に毘沙門天の分霊は抜け落ち、言葉を発していたネズミは妖力を失った。ナズーリンは保温棚からチーズを取り出し、毘沙門天が宿っていたネズミにそれを分け与える。
「……やれやれ。困ったものだね、どうも」
ネズミの頭を撫でながら一人ごちる。片手に持った毘沙門天の槍が随分と重く感じた。
ネズミの報告どおり、本日は快晴である。それでもナズーリンの気分は沈んだままだ。飛んで行けば一瞬でたどり着けるというのに、ナズーリンは徒歩で命蓮寺へ向かっていた。足取りも重い。それはきっと槍が重たいせいだろうとナズーリンは結論付けていた。
「おはよーございます! 今日もいいお湿りですねナズーリン!」
門を潜ったところで幽谷響子の挨拶が飛んできた。このやかましい声を聞くのも最後になると思うと、ナズーリンは寂しく感じた。
「おはよう響子。また妙な挨拶を覚えたね。お湿り、というのは雨が降ったりしているときのじめじめした空気のときにする挨拶だよ」
響子は山彦の妖怪である。意味もわからず言葉を繰り返す癖があるので、こうしておかしな挨拶を仕込まれるのは珍しくない。おそらく、犯人は封獣ぬえ辺りだろうとナズーリンは当たりをつける。
「へーそうなんだ。ひとつ賢くなった! って今気づいたけど、何で本尊様の槍を持ってるの? もしかして、あの方槍まで失くすようになっちゃったの?」
響子はナズーリンの抱えている毘沙門天の槍を指す。すぐにそんな連想をされる辺り、寅丸星の失くし癖はこんな下っ端にも周知なのだなあとナズーリンは苦い思いになる。これを理由に正式な代理指名を蹴れないかと一瞬思案したが、すぐにその考えを打ち消した。ダメだ、何を考えてるんだ私は。そもそも毘沙門天様はそういった失せ物癖も含めて寅丸星を評価しているのだ。今更その考えを覆すことなどないだろう。というかそんな不義を企てるくらいなら、素直に帰りたくないと自分が主張すべきだろう。
そうじゃないよ、とナズーリンはとりあえず控えめに響子の言葉を否定してその場を去った。響子はなにやら別のことを考えながら歩いているような彼女の態度を不信に思いつつも、特に疑問を抱かず箒を使って門前の掃除を再開する。
「隙あり!」
ナズーリンが本堂前に来たところで鋭く動く影があった。上の空だったナズーリンはその影の接近に気づかず、槍を奪われるという不覚を取られた。
「おはよーナズ。なーんで星の槍をあんたが持ってるのさ」
雲居一輪だった。彼女はナズーリンから掠め取った槍を頭上で得意げにくるくると回す。器用な奴だ、とナズーリンは槍を奪われたというのに暢気にぼんやりと考える。
「もしかしてあいつ槍まで失くし始めたの? ナズもたいへんだねぇ。へい、雲山パース」
一輪は自身の従える入道の大男の雲山に槍を投げ渡した。受け取った雲山も一輪の動きに倣って槍をバトンのように回す。振り心地がよく気に入ったのか、雲山はそのまま槍を勢いよく素振りした。するとその瞬間、槍の先端から宝塔の光と同じ属性の光線が斬撃となって飛び出した。
「おわっ!?」
驚いた一輪は悲鳴染みた声を上げる。斬撃があわや本堂へぶつかるその瞬間、巨大な鉄製の錨がそれを遮った。
「こらッ! なにやってんの雲山! 本堂を壊す気?」
怒声とともに現れたのは村紗水蜜である。強い歩調で一輪に近づき、彼女の頭に拳骨をかます。
「あいたぁっ! なんで私を殴るのよ!」
「雲山殴っても効かないから意味ないでしょ。それに、あんたと雲山は一連托生なんだから、雲山のやったことはあんたがやったことも同然よ」
「……一連托生」
思わずナズーリンは誰にも聞かれない声音で村紗の言葉を復唱する。自分もいつからかご主人様とは一蓮托生の存在だと思っていたのだけれど。結局それは幻想だったようだ。所詮は監視役とその対象者。いつかは別れる運命だったのだ。
「ううー。そんな理不尽な。痛いー、うんざーん。冷やしたいから水に浸したおしぼり持ってきてー」
一輪の指示を聞き、槍を置いた後雲山は申し訳なさそうに頭を掻きながら井戸の方向へ飛んで行った。
「まったく。って、これ星の槍? なんでこんなところに。またあの子の失くし物が増えたのかしら」
「星の槍かなーと私も思ったんだけど違うみたいよ。振ったらあんな攻撃が出来るなんて機能なかったはずだし。ナズーリン、これってなんなの――ってあれ、なんで泣いてるの!?」
一輪に指摘されて気づく。知らぬ間にナズーリンは涙ぐんでいた。おそらく先ほど復唱した言葉がいけなかったらしい。
「ご、ごめん。槍大事なものだった?」
「いや、気にしないでくれ。目にゴミが入っただけさ」
一輪から槍を受け取り、口角を無理に緩ませながらナズーリンは苦し紛れに誤魔化す。
「変ねぇ。ナズーリン、いつもなら偉そうな態度で怒り出しそうなのに。何かあった?」
「偉そうは余計だよ。何でもないから気にしないでくれ」
村紗の質問を躱し、ナズーリンは本堂へ向かう。やれやれ、と自分に呆れる。感情が表に出るなんて、私らしくない。寅丸星の前で今のような愚行を起こさぬよう気をつけなければ。
ナズーリンは頬を叩き、槍を抱えて本堂へ上がる。
「ご主人様、居るかい?」
「居ますよー。ナズーリン、どうしました?」
寅丸星の声は何故かナズーリンの真後ろから聞こえた。振り返るとひょっこりと軒下からほこりまみれになった寅丸星が顔を出していた。
「どうしました、はこちらの台詞だよご主人。一体そんなところで何をやってるんだい」
「あはは……。宝塔をこの下に蹴っ飛ばしてしまいまして。探していました。ああ、ご安心を。ちゃんと自分で見つけましたから」
誇らしげに星は宝塔を掲げる。ナズーリンは呆れて閉口した。この方は果たして自分がいなくなってもやっていけるのか。
「へぇ。それはすごい」
「いやあそれほどでも」
「ところでご主人。今日は話したいことがあってきたんだ」
ナズーリンの声の調子に何かを感じ取ったのか、星は目を細める。
「二人っきりになれる場所へ行こう。大事な話だ」
「承知しました。せっかくですから茶菓子でも食べながらどうでしょう。私、取ってきますから」
星は笑顔を作り、客間の方へ向かう。ナズーリンもその後に続く。相変わらず槍が重たい。
茶を淹れ、団子を用意し、腰を据えたところでナズーリンは矢継ぎ早に今朝毘沙門天から正式に星が代理を任されたことを説明した。文章は頭の中でしっかりと事前に組み上げていたのでナズーリンが喋っている間、星は口を挟む隙もなかった。
「――というわけで君は毘沙門天様の正式な代理として認められたわけさ。喜びたまえ」
「やりましたねナズーリン! いやあ、これで私も今まで以上に聖の力になれるというわけですね! ありがとうございます、ナズーリン。これも貴方のおかげです」
話し終えるのを待ってから星はナズーリンの手を包むように捕え、ぶんぶんと腕を上下させて喜んだ。
「……私が君を騙して監視していたことに対してのお咎めはないのかい?」
手放しで喜ぶ星に冷や水を浴びせるようにナズーリンは言った。しかし星はにっこりと笑い「そんなのあるわけないじゃないですか」と当たり前のように切り返す。
「貴方が私に隠し事をしていたとしても、それが私のためであることは今の話で理解しました。責める理由にはなりませんよ」
そう言って星はナズーリンの頭を撫でようと手を伸ばす。ナズーリンはそれを頭を逸らし避ける。
「……あれ。なんで避けるんですか」
ナズーリンは口を一文字に結ぶ。結局、事前に文章を組み上げたにも関わらず、自分が毘沙門天の下へ帰還しなければならない旨を伝えそこねた。大した話じゃない。なんでもないことのように伝えなければ。そう意識すればするほど、ナズーリンは胸の奥を締め付けられたかのように言葉が出なくなる。
ナズーリンは覚悟して手元の湯呑みを一気に煽り、思い切りむせた。
「げ、げほっげほ」
「わわ、大丈夫ですかナズーリン!」
「だ、大丈夫だよ」
喉もと過ぎれば熱さを忘れる、という。ナズーリンはお茶で咳き込む勢いのまま言葉を吐き出す。
「ご主人様。これを以て私の貴方への監視の任は解かれることになった。私は毘沙門天様の元へ帰らなければならない」
今までお世話になりました。頭を下げながらそう言って、いや世話をしていたのは自分だったかなとナズーリンは思い至り苦笑する。対して星の反応は僅かに息を呑む気配がしただけで動きがない。ちらりと頭を上げて様子を伺うと彼女はぼろぼろと涙を流していた。
「わわ、ご主人様! そんなに泣くことかい!?」
「ううっ……。も、申し訳ありません。薄々そんな話かなと勘付いていたのですが、心の準備が足りませんでした」
涙を拭う。その姿を見るだけで、ナズーリンは心苦しくなる。同調してはいけない、と思った。そうすれば別れるのが更に辛くなる。ナズーリンは表情を変えず、言葉を続ける。
「この槍を貴方に届け次第、毘沙門天様の元へ帰らなければならない。どうか受け取ってくれ」
「い、いやですよ! そんな話なら私は正式な代理の指名なんて――」
「寅丸殿!」
星の話を遮り思わず大きな声を出してしまった。星は身じろぐ。
「子どもみたいな道理は通じないよ。これは名誉なことなんだ。私と君の、これまでの努力を無駄にする気かい?」
すこし意地の悪い口調で嗜める。星がこうして食い下がることは珍しいのでナズーリンも知らずに対処が強引になってしまう。槍を押し付けるように渡し、ナズーリンは立ち上がった。
「寅丸殿。貴方はこれまで立派に毘沙門天様の代理を務めてこられた。これからもそうだと、私は信じて疑わない。正式に名を借りるとなれば忙しくもなるだろう、私なんかにかまけている暇などないよ」
「だったら尚更」
星はそこまで言って言葉を切る。尚更、そばに居て自分を支えてくれと言おうとしたのだろう。だがそれが自分のエゴであることに気づいてしまう。寅丸星は聡明である。今までも、こうして我を抑えて毘沙門天の代理として活動してきた。
「……納得してくれたようだね。では、失礼させてもらうよ」
「も、もう行くのですか? せめて皆に挨拶を」
「そんなことしても辛くなるだけさ。なに、今生の別れというわけでもない。また会えるさ」
出まかせだった。毘沙門天の住処は幻想郷の外である。ナズーリンは結界を自由に行き来できるほどの妖力を持っていない。次に会うのはいつになるか、見当も付かないのが真実だった。ナズーリンの出まかせが利いたのか、星は大人しい。受け取った槍を見つめてじっとしている。
「そう落ち込まないでくれ。ほら、君にはこれを渡しておくよ」
ナズーリンは自身の首に掛かっていた水晶の振り子を外して星に手渡す。
「ダウジングペンデュラムというマジックアイテムさ。こいつを持って君の探したいもののことを思い浮かべれば、振り子がその方向へ引っ張られる仕組みになっている。これさえあれば私がいなくても君の失せ物癖に対処できるだろう」
「あはは。やっぱり、私ってダメですね。……最後まで貴方に頼りっぱなしです」
水晶を見つめて、星は苦い笑いを作る。
「そんなことはないよ。毘沙門天様は、貴方の人格を特に評価していた。私も、貴方は尊敬できる人物だと思っているよ。駄目だなんて、自分を卑下しないでくれ。……では、失礼する。さよなら、ご主人様」
そう言ってナズーリンは半ば駆け足で客間から飛び出した。途中背に星の声を受けたような気がしたが、止まることは出来なかった。逃げ出すように、ナズーリンは飛行する。限界だったのだ。あれ以上あの場にいたら、ナズーリンの方が感情を抑えられなかった。
「すまない、ご主人様……」
後を濁さず去るつもりだったのに。ナズーリンは涙を拭いながらふらふらと飛行した。
ナズーリンが去ったあと、星は茶菓子や湯呑みを片付けず、物憂げに机に突っ伏していた。彼女から受け取ったペンデュラムを未練がましく見つめながら、何度目になるかわからないため息をつく。追いかけよう、と衝動的に思う反面、理性がそれを抑えつける。妖獣時代は感情に任せて暴れていたこともあるが、そういった衝動はもう何百年も封じてきた。感情を飼いならすことに慣れていた。それが今は、たまらなく不自由に感じる。思いのまま動きたいという気持ちはあるが、そうするには自分はしがらみが多くなりすぎた。
毘沙門天の代理。しかしこの役目を投げ出すような勝手は許されない。ナズーリンのことを大事に思っていた星だがそれと同等に命蓮寺の面々も彼女は愛していた。
「はぁ」
「これ、星。そんなにため息ばかりしていたら幸せが逃げてしまうよ」
後ろから頭を小突かれた。
「私の幸せはもう既に逃げてしまいましたよ、聖」
客間に入ってきたのは命蓮寺の住職、聖白蓮だった。聖は先刻までナズーリンが座っていた辺りに腰掛ける。
「おや、らしくない。詩人のようなことを言うのね。ナズーリンは貴方にとってそんなに大事な人だったのかしら」
「……聞いていたのですか」
「盗み聞きするつもりはなかったのだけど。私は耳がよくてね」
聖は魔人経巻で自分の耳をつつく仕草をする。
「大事な人……、そうですね。こうして何もする気が起きなくなるくらいには、ナズーリンに依存していました」
「何もする気が起きなくなる、ねぇ。嘘はいけないわ、星。貴方はナズーリンを追いかけたいと思っているはずよ」
「駄目ですよ聖。話を聞いていたのでしょう? ナズーリンは、もう、私の元に居る理由がありません。監視する必要がなくなったのですからね」
「えいッ」
何を思ったのか、聖は急に星の額を指で弾いた。魔人経巻による強化が効いていたのか、それはなかなかの威力で星の身体は後方にひっくり返った。
「いたっ! な、何をするんですか聖!」
涙目になって倒れたまま星は苦言を呈す。対して聖はいたずらっぽい笑みを浮かべている。
「わかっているくせに、あの子の気持ちに気づいていない振りをするお仕置きです。貴方達二人はとても似ているわ。感情を抑え込もうとするところが。今はそれが悪いように作用しているようだから、私がすこし背中を押してあげます」
聖は星の肩を掴み、無理矢理上体を起こさせた。
「ナズーリンを追いなさい、星。彼女も貴方と離れ離れになることは望んでいないはずです」
「しかし聖、そうすれば私は毘沙門天の意向に逆らうことになります。そうなれば……」
星の台詞に聖は親指を立てて応じる。
「なに言ってるの。私達のことを気にする必要はないわ。たまには貴方のしたいように動きなさい。この寺にいる修行者達は、毘沙門天の加護を失ったくらいで崩れてしまうほど脆くないわ」
今まで色々と我慢させてごめんね、と聖は星の肩を抱く。たまらず星は感極まりそうになるが、その前に聖は力任せに思い切り彼女の身体を外に叩き出した。鞠のように転がり出た星に驚いたのか、命蓮寺の面々が何事かとわらわらと集まって来た。
「星、どうしたの? 聖怒らせちゃったの?」
「大丈夫? 私の使い古しだけど、おしぼり使う?」
村紗と一輪のそれぞれの問いかけに星は身振り手振りで問題ないと応える。本当は強く打ちつけたせいで声が出ないほど身体を痛めていたので問題ありといえばあるのだが。
「さあ、行きなさい。寅丸星! うちのネズミを連れ戻しておいで」
そんな星の様子を知ってか知らずか、聖は激励を送る。星は苦笑いを浮かべて親指を立てて聖のそれに応じ、命蓮寺を飛び出した。ナズーリンを追って。
「はぁ」
何度目になるかわからないため息をナズーリンはする。飛んでいけば境界の狭間である博麗神社まで直ぐなのに、ナズーリンは徒歩だった。しかも今歩いている場所は無縁塚に繋がる再思の道である。神社とは別方向である。こうして未練がましく自身の掘っ立て小屋周辺をうろうろしている現状に、いい加減ナズーリンは腹が立っていた。
なんて往生際が悪いんだ、早く毘沙門天様の元へ向かわなければならないのに。そう気持ちは逸るのに、いまいち神社の方へ身体が動かない。
「依存していたのは、私の方だったのかな」
星と別れるとき、彼女が自分なしでやっていけるのかと心配したものだがどうやら思い上がりだったらしい。槍を星に渡して身軽になったというのに足が重い。まったく、なんてざまだろう。
「ナズーリン! ナズーリン!」
ああ、とうとう幻聴まで聞こえるようになってしまった。毘沙門天様の元へ帰るまでに矯正しなければ、とナズーリンが思考しているうちに声は更に大きくなる。
「ナズーリン! 聞こえないのですか!」
「う、うわぁ! 実体もある!」
ナズーリンは尻餅をついた。実体になった寅丸星に心底驚いたのか、ナズーリンの目が点になる。
「なにを言ってるんですか、ナズーリン。私ですよ、寅丸星!」
「な、な」
ようやく事態を把握したナズーリンは星が追ってきたという事実に喜びかけたが、しかしそれを怒りと焦りが勝った。
「君は、ここまで聞き分けのない人だったのか! どうして追ってきたんだい!?」
「貴方と一緒に居たいからに決まってるじゃないですか!」
直球。ナズーリンの怒声に負けない声量で星は返す。今まで見たこともないほどに感情をむき出しにしている星に、ナズーリンはすこし怯む。
「毘沙門天の元へは帰らないでください。私は、貴方を欲しています!」
星はペンデュラムを突き出す。水晶の振り子は、ナズーリンの方へ引っ張られるように揺れていた。これを渡さなければ、彼女がナズーリンの居場所を特定して追ってくることはなかっただろう。最後に大きなミスを起こしてしまった、と後悔するところなのだが今のナズーリンはそんな風に思えないでいた。
そう思えない自分に毘沙門天への背徳の念を覚える。
「だ、駄目だよ寅丸殿……。毘沙門天様の元へ帰らなければ。これは命令なんだ」
「嫌です! 拒否します! 貴方がどうしても戻らないというなら、私は毘沙門天の名を借りて異変を起こします!」
「バカな」
冗談が過ぎるぞ、とナズーリンは叫びだそうとしたが星の目は本気だった。その覇気に圧されてナズーリンはじりじりと後退する。
「や、やめてくれないか」
「止めません! 貴方はどうなんですか。ナズーリン、貴方は私と一緒に居るのは嫌なんですかッ!」
「私は……私は……」
『何をやっているのだ寅丸星、ナズーリン』
声。地鳴りのような低音。それに遅れて二人の間を割るように槍が飛んできた。ナズーリンが毘沙門天から預かり、星に手渡したはずの三叉槍である。槍は二人を威圧するように妖力と法の光を垂れ流しにしている。毘沙門天の分霊が宿っているのだ。
「毘沙門天様!」
ナズーリンは膝をつく。星は毅然とした態度で宙に浮いた槍を見上げている。
「毘沙門天殿、こうして声を交わすのは初めてですね。寅丸星です」
『うむ、そうなるな。我は毘沙門天だ。槍に分霊を移した身だがな。――で、我には君がおかしなことを口走っていたように聞こえたが、距離があったせいかよく聞こえなかった。君はいったい何と言ったのだ』
「ナズーリンを渡さなければ、貴方の名を借りて幻想郷中をめちゃくちゃにする異変を起こす、と言ったのです」
「ちょ」
先ほど宣言した台詞より内容が過剰になっていた。毘沙門天を前にしているせいで気持ちがいつも以上に昂ぶっているのか。ナズーリンは星のブレーキにならねばと槍と星の間に割り込むように立ち回った。
「申し訳ありません毘沙門天様! 彼女は少々混乱しているようで、本気ではないんです」
「本気も本気、すごい本気ですよ!」
「君は黙っててくれないかい!?」
自分のせいだ。ナズーリンは自身を責めた。彼女と親密になりすぎたのだ。ここまで星が暴走しているのは、千年近くも長い間一緒にいて、それが当たり前の状態になってしまったせいだ。もっと冷めた関係でいるべきだったのだ。所詮は自分は監視役で、彼女はその対象者でしかないのだから。
『……愚かな。君がそこまで直情的な人物だとは知らなかったよ。我は君の人格を評価していたのだが。しかし、こうなった以上我の正式な代理を任せるわけにはいかない』
槍が発光する。今にも熱で溶け出しかねないほどに。
「ああ、おやめください毘沙門天様!」
『寅丸星。君から、我の正式な代理としての資格を剥奪する。槍も破壊させてもらう』
言うが早い。毘沙門天の『破壊』という言葉とともに、槍は木っ端微塵に砕け散った。
「そ、そんな……」
ナズーリンはうな垂れた。千年以上にも及ぶ二人の努力が水泡に帰してしまった。こうなったのも、自分のせいだ。ナズーリンは自責の念で胸が潰れるような錯覚を感じる。星は覚悟の上だったのか、毅然とした態度を未だ崩さない。槍が砕けた辺りの空間を睨んだままだ。まだ毘沙門天の分霊はその場所にあるらしく、金色の威光は消えないままだ。
『そしてナズーリン。どうやら元を正せば我には寅丸星の暴走は君が原因のように思える。よって君にも罰を与えようと思う』
「ちょ! それは駄目です! いけません! ナズーリンは関係ありません!」
毘沙門天がナズーリンに言及した途端一転し、星は取り乱し始めた。
「……はい。覚悟の上です」
今度はナズーリンが冷静になる番だった。内心、毘沙門天の怒りが自身に向いていることにナズーリンは安堵していた。どうやら毘沙門天は代理権の剥奪以外は星に責任を問わないつもりでいるらしい。このまま大人しくしていれば、これ以上の損害を星が負うことはない。
「駄目です! ナズーリンは悪くありません! 全部私の責任で」
「よさないか、寅丸殿。みっともないよ」
「し、しかし……。や、やっぱり駄目です! 毘沙門天殿! ナズーリンに罰とやらがあるのなら、私が請け負います! ですから!」
『ならん。どうあっても罰は受けてもらう。ナズーリン、我が君に与える罰は――』
ナズーリンは息を呑む。霊格を剥奪されても文句は言えないし、殺される可能性だってあるだろう。それでも、ナズーリンにとっては望むところだった。星は悲しむだろうが、それでも彼女に危害が加えられないのなら十分だ。そもそも、星と仲良くなってしまったのが自分の不手際だったのだから。
本望だと思った。この方のためなら命だって捧げられる。毘沙門天の威光に食って掛かる星を横目に、ナズーリンは死を覚悟した。
『寅丸星の監視。ナズーリン、君にはそれを行ってもらう』
地鳴りのような低音は、心持ち軽い調子でそんなことを言った。
「「へ?」」
毘沙門天の言葉に妖怪二人は揃って間抜けに小首を傾げた。
『一生だ。残りの一生、君はずっと寅丸星の監視を続けるのだ。無断で我の代理を名乗るその愚か者が、馬鹿なことをしでかさないようにな』
「び、毘沙門天様! それはつまり――」
『黙れ。不満は受け付けぬし、二度は言わぬぞ』
突然の宣告に呆けて、理解の追いついたナズーリンは地に頭をこすり付けんばかりの体勢になった。
「ありがとうございます! 毘沙門天様!」
『はて、罰を与えられて礼を言うとはおかしなネズミだ。こんなおかしなネズミはそこの間抜けな寅に押し付けておいて正解だな』
毘沙門天は淡々とそう告げて威光を弱める。
『寅丸星』
「は、はひぃ!」
唐突に名前を呼ばれて星は気の抜けたような返事をした。
『我の名を遣い悪さをしてみろ。監視役から直ぐに報告が来るぞ。無断で我の名を借りるからには、分相応でいろ』
さらばだ。そう告げて、毘沙門天は去った。
後に残ったのは槍の破片と二人の妖怪。再思の道の脇に並ぶ彼岸花が、風でゆらゆらとした。
「ば、馬鹿か君はーッ!」
毘沙門天が去り、ようやく言動に自由が利くようになったナズーリンの一声は、星を思い切り貶す言葉だった。
「せっかく正式な代理に認められたというのに、それを台無しにしてしまうなんて! 馬鹿、馬鹿、ホント馬鹿ッ!」
腰の抜けた様子の星を一方的に両手で叩き、ナズーリンは責めた。
「あはは、申し訳ありません。でも、正式な代理という地位を捨ててでも、貴方には私の傍に居てほしいと思ったのです」
星は相変わらずナズーリンに引っ張られるペンデュラムを掲げながら恥ずかしげもなくそんなことを言う。
「このっ、ばかぁ」
ナズーリンは頬を紅潮させながら一際強く星の胸に拳を打ちつける。体格差からか、その威力はどうしても決定的なものにはならない。
「それはそうとナズーリン。さっそくお願いがあるのですが」
「……なんだい。もう何でも言いたまえよ」
「宝塔を一緒に探してくれませんか? その、ここへ来るまでに落としてしまったみたいで」
星は苦笑いを作りながらいつもの台詞を言う。ナズーリンは怒りやら呆れやら先刻の緊張やらが合わさって頭に一気に血が昇る感覚とともに酩酊感を覚えた。
「わわ! 急にふらついて、大丈夫ですか!?」
「……大丈夫だよ、ご主人様。ホント貴方は、私がいないと駄目なんだね」
私も貴方が居ないと駄目なようだけど。心の中でナズーリンはそう付け加えた。
「ん? 見慣れない顔だね君は」
眠気眼をこすりながら、ベッドの中で寝巻きのまま部下の鳴き声を聞いている最中に気づく。報告ネズミの中に部下ではないネズミが一匹混じっている。手のひらを広げてこちらに来るよう誘うとネズミはそれに素直に応じる。
「迷子ではなさそうだね。仲間に入れてほしいのかい? 生憎、今は手下の募集はしていないんだよ」
『手下になりに来たわけではない。久しいな、ナズーリン』
手のひらの上で声がした。とても厳かな低音。人語を発せられるほど妖力を蓄えたネズミというのはそう居ない。『久しいな』という台詞も併せて考慮してナズーリンは状況を把握し、流れるような挙動で土下座の体勢に移行した。
「び、毘沙門天様! 大変失礼しました! 貴方様の存在に気づかぬとは、このナズーリン一生の不覚です」
勢いづいてしまったせいで土下座体勢のままベッドのスプリングでナズーリンの身体はゆらゆらと上下する。それでも手のひらの上の毘沙門天に不快感を与えぬようナズーリンは腕の力加減を調節し揺れを抑えるよう注力した。
『気にするな、ナズーリン。ただのネズミに我の分霊を移しただけの身体だ。君が気づかぬのも無理からぬ話さ。それに、突然押しかけた我にも非がある』
毘沙門天はナズーリンの手のひらから降り、軽快な動作で木製の棚の上に上る。ナズーリンは彼とは寅丸星への監視報告のため紙面ではそれなりの頻度で連絡し合っているのだが、こうして声を聞くのは数百年ぶりのことである。何か大事でもあったのかと身構えるナズーリンに毘沙門天は若干軽い口調で話し始める。
『そう固くなるな、ナズーリン。面を上げなさい。実は我は一週間ほど前にこの幻想郷へ訪れ、直接寅丸星の様子を観察してきた』
最終監査というやつだな、と付け加える。その言葉にナズーリンは息を呑む。
「最終、というのはつまり」
『そうだ。我の代理として相応しいかどうか。回りくどいのは好まぬから結果をまず言おう。合格だ。今までは黙認という形で彼女の本尊としての活動を許してきたが、これからは正式にこの毘沙門天の代理をすることを認める』
「ほ、本当ですか!?」
思わず語気を荒くしてしまうナズーリン。毘沙門天の言葉が本当だとしたら、彼女と寅丸星の千年以上にも及ぶ活動が実を結んだことになる。小躍りしたい気持ちだったが、身を乗り出して彼の言葉を聞き入っている無礼に気づき、萎縮するようナズーリンは座りなおした。
『固くなるなと言ったではないか。君はすこし自分の感情を表に出すことを覚えたほうがいい。話が逸れたな。寅丸星。彼女はこの千年間、我の力を悪用することなく、毘沙門天の代理として振舞ってきた。その力を遣い、恩人を救いたいと焦がれるときもあっただろう』
これは聖が封印されたときのことを言っているのだろうとナズーリンは推測する。確かにあの時の寅丸星は聖白蓮を救うために妖怪としての本性を出し、本尊としての役割を投げ出して封印を阻止しようと動くことも出来たはずだ。
ナズーリンは彼女がそう動いた時点で落第点を押そうと考えていたのだが、寅丸星はついに妖怪としての本性を現すことはなかった。彼女は自身の感情を殺し、毘沙門天代理としての自分を全うしたのだ。一番近くで彼女を見てきたナズーリンはその苦悩が痛いほどわかった。不器用な方だ、と思った。同時に彼女を敬愛する気持ちも強くなった。
この方のために尽くしたい。毘沙門天以外で彼女がそう素直に思える存在は初めてだった。
『寅丸星は我欲のために動くことはないだろう。ここまでは君の報告書を読んで把握していたことだが、直接彼女の姿を観察して我はその認識をさらに強めた。腕っぷしも申し分なく謙虚で聡明である。ナズーリン、我は彼女の人格を特に評価している』
手放しに褒められて何故かナズーリンのほうが紅潮する。寅丸星というのは普段、何かしら活動するときは裏方に徹している。そのため自分以外は彼女の聡明さをよく把握していないのでこうして褒められるのは稀なのだ。
『君から見てもそうだろう?』
「はい。ご主人様の人格は評価されてしかるべきだと私も思っています」
『うむ。少々抜けているのもまた愛嬌だろう』
毘沙門天が言っているのは宝塔の失せ物癖のことだろう。ナズーリンはクスリと笑う。
『そういう運びで我は寅丸星を正式な代理として認めることにした。寅丸星には我の三叉槍のレプリカを授与しよう。これは今寅丸星が持っているものより霊格の高い代物だ』
空間を裂き、掘っ立て小屋全体を揺るがせる衝撃とともに豪奢な槍が召喚された。それをナズーリンは両手のひらで受け止める。
「ありがとうございます」
『うむ。この槍を寅丸星に届けた時点で君に課していた監視の任を解こうと思う。今までご苦労だった』
ナズーリンは理解が追いつかず、返答に一拍間を置いた。
「え。えーっと。毘沙門天様、それはいったいどういうことでしょう」
『我の元に帰還せよということだ。君は優秀だ。その地に留まらせておくには惜しい人材である。二度は言わぬぞ』
「で、ですが毘沙門天様!」
思わずナズーリンは身を乗り出す。喉元まで出かかった言葉は、寅丸星が代理に相応しくないという異議だった。先刻言質も取られているというのに、考えなしに言葉が飛び出そうになる。ナズーリンはそれを寸でのところで飲み込んだ。
ダメだ。せっかく正式に代理を名乗ることを許可して頂いたのに。それを自分の勝手で台無しにする気か。ナズーリンの思考が巡る。
そもそも何でそんな言葉が出かかったのだ。自分はあの方と離れたくないのか? 甘えだ、そんなの。彼女を騙して監視していた分際で、図々しいぞ。毘沙門天の機嫌を損ねるわけにはいかないし、これは名誉なことなのだ。受け入れねば。
震えそうになるのを抑え、ナズーリンはベッドの上で元の体勢に収まる。
『……なんだ、ナズーリン。何か言いたいことでもあるのかね』
「いいえ。確かに請け賜りました。この槍を配達した後、貴方様の元へ帰還します」
『うむ。待っているぞ』
その言葉を最後に毘沙門天の分霊は抜け落ち、言葉を発していたネズミは妖力を失った。ナズーリンは保温棚からチーズを取り出し、毘沙門天が宿っていたネズミにそれを分け与える。
「……やれやれ。困ったものだね、どうも」
ネズミの頭を撫でながら一人ごちる。片手に持った毘沙門天の槍が随分と重く感じた。
ネズミの報告どおり、本日は快晴である。それでもナズーリンの気分は沈んだままだ。飛んで行けば一瞬でたどり着けるというのに、ナズーリンは徒歩で命蓮寺へ向かっていた。足取りも重い。それはきっと槍が重たいせいだろうとナズーリンは結論付けていた。
「おはよーございます! 今日もいいお湿りですねナズーリン!」
門を潜ったところで幽谷響子の挨拶が飛んできた。このやかましい声を聞くのも最後になると思うと、ナズーリンは寂しく感じた。
「おはよう響子。また妙な挨拶を覚えたね。お湿り、というのは雨が降ったりしているときのじめじめした空気のときにする挨拶だよ」
響子は山彦の妖怪である。意味もわからず言葉を繰り返す癖があるので、こうしておかしな挨拶を仕込まれるのは珍しくない。おそらく、犯人は封獣ぬえ辺りだろうとナズーリンは当たりをつける。
「へーそうなんだ。ひとつ賢くなった! って今気づいたけど、何で本尊様の槍を持ってるの? もしかして、あの方槍まで失くすようになっちゃったの?」
響子はナズーリンの抱えている毘沙門天の槍を指す。すぐにそんな連想をされる辺り、寅丸星の失くし癖はこんな下っ端にも周知なのだなあとナズーリンは苦い思いになる。これを理由に正式な代理指名を蹴れないかと一瞬思案したが、すぐにその考えを打ち消した。ダメだ、何を考えてるんだ私は。そもそも毘沙門天様はそういった失せ物癖も含めて寅丸星を評価しているのだ。今更その考えを覆すことなどないだろう。というかそんな不義を企てるくらいなら、素直に帰りたくないと自分が主張すべきだろう。
そうじゃないよ、とナズーリンはとりあえず控えめに響子の言葉を否定してその場を去った。響子はなにやら別のことを考えながら歩いているような彼女の態度を不信に思いつつも、特に疑問を抱かず箒を使って門前の掃除を再開する。
「隙あり!」
ナズーリンが本堂前に来たところで鋭く動く影があった。上の空だったナズーリンはその影の接近に気づかず、槍を奪われるという不覚を取られた。
「おはよーナズ。なーんで星の槍をあんたが持ってるのさ」
雲居一輪だった。彼女はナズーリンから掠め取った槍を頭上で得意げにくるくると回す。器用な奴だ、とナズーリンは槍を奪われたというのに暢気にぼんやりと考える。
「もしかしてあいつ槍まで失くし始めたの? ナズもたいへんだねぇ。へい、雲山パース」
一輪は自身の従える入道の大男の雲山に槍を投げ渡した。受け取った雲山も一輪の動きに倣って槍をバトンのように回す。振り心地がよく気に入ったのか、雲山はそのまま槍を勢いよく素振りした。するとその瞬間、槍の先端から宝塔の光と同じ属性の光線が斬撃となって飛び出した。
「おわっ!?」
驚いた一輪は悲鳴染みた声を上げる。斬撃があわや本堂へぶつかるその瞬間、巨大な鉄製の錨がそれを遮った。
「こらッ! なにやってんの雲山! 本堂を壊す気?」
怒声とともに現れたのは村紗水蜜である。強い歩調で一輪に近づき、彼女の頭に拳骨をかます。
「あいたぁっ! なんで私を殴るのよ!」
「雲山殴っても効かないから意味ないでしょ。それに、あんたと雲山は一連托生なんだから、雲山のやったことはあんたがやったことも同然よ」
「……一連托生」
思わずナズーリンは誰にも聞かれない声音で村紗の言葉を復唱する。自分もいつからかご主人様とは一蓮托生の存在だと思っていたのだけれど。結局それは幻想だったようだ。所詮は監視役とその対象者。いつかは別れる運命だったのだ。
「ううー。そんな理不尽な。痛いー、うんざーん。冷やしたいから水に浸したおしぼり持ってきてー」
一輪の指示を聞き、槍を置いた後雲山は申し訳なさそうに頭を掻きながら井戸の方向へ飛んで行った。
「まったく。って、これ星の槍? なんでこんなところに。またあの子の失くし物が増えたのかしら」
「星の槍かなーと私も思ったんだけど違うみたいよ。振ったらあんな攻撃が出来るなんて機能なかったはずだし。ナズーリン、これってなんなの――ってあれ、なんで泣いてるの!?」
一輪に指摘されて気づく。知らぬ間にナズーリンは涙ぐんでいた。おそらく先ほど復唱した言葉がいけなかったらしい。
「ご、ごめん。槍大事なものだった?」
「いや、気にしないでくれ。目にゴミが入っただけさ」
一輪から槍を受け取り、口角を無理に緩ませながらナズーリンは苦し紛れに誤魔化す。
「変ねぇ。ナズーリン、いつもなら偉そうな態度で怒り出しそうなのに。何かあった?」
「偉そうは余計だよ。何でもないから気にしないでくれ」
村紗の質問を躱し、ナズーリンは本堂へ向かう。やれやれ、と自分に呆れる。感情が表に出るなんて、私らしくない。寅丸星の前で今のような愚行を起こさぬよう気をつけなければ。
ナズーリンは頬を叩き、槍を抱えて本堂へ上がる。
「ご主人様、居るかい?」
「居ますよー。ナズーリン、どうしました?」
寅丸星の声は何故かナズーリンの真後ろから聞こえた。振り返るとひょっこりと軒下からほこりまみれになった寅丸星が顔を出していた。
「どうしました、はこちらの台詞だよご主人。一体そんなところで何をやってるんだい」
「あはは……。宝塔をこの下に蹴っ飛ばしてしまいまして。探していました。ああ、ご安心を。ちゃんと自分で見つけましたから」
誇らしげに星は宝塔を掲げる。ナズーリンは呆れて閉口した。この方は果たして自分がいなくなってもやっていけるのか。
「へぇ。それはすごい」
「いやあそれほどでも」
「ところでご主人。今日は話したいことがあってきたんだ」
ナズーリンの声の調子に何かを感じ取ったのか、星は目を細める。
「二人っきりになれる場所へ行こう。大事な話だ」
「承知しました。せっかくですから茶菓子でも食べながらどうでしょう。私、取ってきますから」
星は笑顔を作り、客間の方へ向かう。ナズーリンもその後に続く。相変わらず槍が重たい。
茶を淹れ、団子を用意し、腰を据えたところでナズーリンは矢継ぎ早に今朝毘沙門天から正式に星が代理を任されたことを説明した。文章は頭の中でしっかりと事前に組み上げていたのでナズーリンが喋っている間、星は口を挟む隙もなかった。
「――というわけで君は毘沙門天様の正式な代理として認められたわけさ。喜びたまえ」
「やりましたねナズーリン! いやあ、これで私も今まで以上に聖の力になれるというわけですね! ありがとうございます、ナズーリン。これも貴方のおかげです」
話し終えるのを待ってから星はナズーリンの手を包むように捕え、ぶんぶんと腕を上下させて喜んだ。
「……私が君を騙して監視していたことに対してのお咎めはないのかい?」
手放しで喜ぶ星に冷や水を浴びせるようにナズーリンは言った。しかし星はにっこりと笑い「そんなのあるわけないじゃないですか」と当たり前のように切り返す。
「貴方が私に隠し事をしていたとしても、それが私のためであることは今の話で理解しました。責める理由にはなりませんよ」
そう言って星はナズーリンの頭を撫でようと手を伸ばす。ナズーリンはそれを頭を逸らし避ける。
「……あれ。なんで避けるんですか」
ナズーリンは口を一文字に結ぶ。結局、事前に文章を組み上げたにも関わらず、自分が毘沙門天の下へ帰還しなければならない旨を伝えそこねた。大した話じゃない。なんでもないことのように伝えなければ。そう意識すればするほど、ナズーリンは胸の奥を締め付けられたかのように言葉が出なくなる。
ナズーリンは覚悟して手元の湯呑みを一気に煽り、思い切りむせた。
「げ、げほっげほ」
「わわ、大丈夫ですかナズーリン!」
「だ、大丈夫だよ」
喉もと過ぎれば熱さを忘れる、という。ナズーリンはお茶で咳き込む勢いのまま言葉を吐き出す。
「ご主人様。これを以て私の貴方への監視の任は解かれることになった。私は毘沙門天様の元へ帰らなければならない」
今までお世話になりました。頭を下げながらそう言って、いや世話をしていたのは自分だったかなとナズーリンは思い至り苦笑する。対して星の反応は僅かに息を呑む気配がしただけで動きがない。ちらりと頭を上げて様子を伺うと彼女はぼろぼろと涙を流していた。
「わわ、ご主人様! そんなに泣くことかい!?」
「ううっ……。も、申し訳ありません。薄々そんな話かなと勘付いていたのですが、心の準備が足りませんでした」
涙を拭う。その姿を見るだけで、ナズーリンは心苦しくなる。同調してはいけない、と思った。そうすれば別れるのが更に辛くなる。ナズーリンは表情を変えず、言葉を続ける。
「この槍を貴方に届け次第、毘沙門天様の元へ帰らなければならない。どうか受け取ってくれ」
「い、いやですよ! そんな話なら私は正式な代理の指名なんて――」
「寅丸殿!」
星の話を遮り思わず大きな声を出してしまった。星は身じろぐ。
「子どもみたいな道理は通じないよ。これは名誉なことなんだ。私と君の、これまでの努力を無駄にする気かい?」
すこし意地の悪い口調で嗜める。星がこうして食い下がることは珍しいのでナズーリンも知らずに対処が強引になってしまう。槍を押し付けるように渡し、ナズーリンは立ち上がった。
「寅丸殿。貴方はこれまで立派に毘沙門天様の代理を務めてこられた。これからもそうだと、私は信じて疑わない。正式に名を借りるとなれば忙しくもなるだろう、私なんかにかまけている暇などないよ」
「だったら尚更」
星はそこまで言って言葉を切る。尚更、そばに居て自分を支えてくれと言おうとしたのだろう。だがそれが自分のエゴであることに気づいてしまう。寅丸星は聡明である。今までも、こうして我を抑えて毘沙門天の代理として活動してきた。
「……納得してくれたようだね。では、失礼させてもらうよ」
「も、もう行くのですか? せめて皆に挨拶を」
「そんなことしても辛くなるだけさ。なに、今生の別れというわけでもない。また会えるさ」
出まかせだった。毘沙門天の住処は幻想郷の外である。ナズーリンは結界を自由に行き来できるほどの妖力を持っていない。次に会うのはいつになるか、見当も付かないのが真実だった。ナズーリンの出まかせが利いたのか、星は大人しい。受け取った槍を見つめてじっとしている。
「そう落ち込まないでくれ。ほら、君にはこれを渡しておくよ」
ナズーリンは自身の首に掛かっていた水晶の振り子を外して星に手渡す。
「ダウジングペンデュラムというマジックアイテムさ。こいつを持って君の探したいもののことを思い浮かべれば、振り子がその方向へ引っ張られる仕組みになっている。これさえあれば私がいなくても君の失せ物癖に対処できるだろう」
「あはは。やっぱり、私ってダメですね。……最後まで貴方に頼りっぱなしです」
水晶を見つめて、星は苦い笑いを作る。
「そんなことはないよ。毘沙門天様は、貴方の人格を特に評価していた。私も、貴方は尊敬できる人物だと思っているよ。駄目だなんて、自分を卑下しないでくれ。……では、失礼する。さよなら、ご主人様」
そう言ってナズーリンは半ば駆け足で客間から飛び出した。途中背に星の声を受けたような気がしたが、止まることは出来なかった。逃げ出すように、ナズーリンは飛行する。限界だったのだ。あれ以上あの場にいたら、ナズーリンの方が感情を抑えられなかった。
「すまない、ご主人様……」
後を濁さず去るつもりだったのに。ナズーリンは涙を拭いながらふらふらと飛行した。
ナズーリンが去ったあと、星は茶菓子や湯呑みを片付けず、物憂げに机に突っ伏していた。彼女から受け取ったペンデュラムを未練がましく見つめながら、何度目になるかわからないため息をつく。追いかけよう、と衝動的に思う反面、理性がそれを抑えつける。妖獣時代は感情に任せて暴れていたこともあるが、そういった衝動はもう何百年も封じてきた。感情を飼いならすことに慣れていた。それが今は、たまらなく不自由に感じる。思いのまま動きたいという気持ちはあるが、そうするには自分はしがらみが多くなりすぎた。
毘沙門天の代理。しかしこの役目を投げ出すような勝手は許されない。ナズーリンのことを大事に思っていた星だがそれと同等に命蓮寺の面々も彼女は愛していた。
「はぁ」
「これ、星。そんなにため息ばかりしていたら幸せが逃げてしまうよ」
後ろから頭を小突かれた。
「私の幸せはもう既に逃げてしまいましたよ、聖」
客間に入ってきたのは命蓮寺の住職、聖白蓮だった。聖は先刻までナズーリンが座っていた辺りに腰掛ける。
「おや、らしくない。詩人のようなことを言うのね。ナズーリンは貴方にとってそんなに大事な人だったのかしら」
「……聞いていたのですか」
「盗み聞きするつもりはなかったのだけど。私は耳がよくてね」
聖は魔人経巻で自分の耳をつつく仕草をする。
「大事な人……、そうですね。こうして何もする気が起きなくなるくらいには、ナズーリンに依存していました」
「何もする気が起きなくなる、ねぇ。嘘はいけないわ、星。貴方はナズーリンを追いかけたいと思っているはずよ」
「駄目ですよ聖。話を聞いていたのでしょう? ナズーリンは、もう、私の元に居る理由がありません。監視する必要がなくなったのですからね」
「えいッ」
何を思ったのか、聖は急に星の額を指で弾いた。魔人経巻による強化が効いていたのか、それはなかなかの威力で星の身体は後方にひっくり返った。
「いたっ! な、何をするんですか聖!」
涙目になって倒れたまま星は苦言を呈す。対して聖はいたずらっぽい笑みを浮かべている。
「わかっているくせに、あの子の気持ちに気づいていない振りをするお仕置きです。貴方達二人はとても似ているわ。感情を抑え込もうとするところが。今はそれが悪いように作用しているようだから、私がすこし背中を押してあげます」
聖は星の肩を掴み、無理矢理上体を起こさせた。
「ナズーリンを追いなさい、星。彼女も貴方と離れ離れになることは望んでいないはずです」
「しかし聖、そうすれば私は毘沙門天の意向に逆らうことになります。そうなれば……」
星の台詞に聖は親指を立てて応じる。
「なに言ってるの。私達のことを気にする必要はないわ。たまには貴方のしたいように動きなさい。この寺にいる修行者達は、毘沙門天の加護を失ったくらいで崩れてしまうほど脆くないわ」
今まで色々と我慢させてごめんね、と聖は星の肩を抱く。たまらず星は感極まりそうになるが、その前に聖は力任せに思い切り彼女の身体を外に叩き出した。鞠のように転がり出た星に驚いたのか、命蓮寺の面々が何事かとわらわらと集まって来た。
「星、どうしたの? 聖怒らせちゃったの?」
「大丈夫? 私の使い古しだけど、おしぼり使う?」
村紗と一輪のそれぞれの問いかけに星は身振り手振りで問題ないと応える。本当は強く打ちつけたせいで声が出ないほど身体を痛めていたので問題ありといえばあるのだが。
「さあ、行きなさい。寅丸星! うちのネズミを連れ戻しておいで」
そんな星の様子を知ってか知らずか、聖は激励を送る。星は苦笑いを浮かべて親指を立てて聖のそれに応じ、命蓮寺を飛び出した。ナズーリンを追って。
「はぁ」
何度目になるかわからないため息をナズーリンはする。飛んでいけば境界の狭間である博麗神社まで直ぐなのに、ナズーリンは徒歩だった。しかも今歩いている場所は無縁塚に繋がる再思の道である。神社とは別方向である。こうして未練がましく自身の掘っ立て小屋周辺をうろうろしている現状に、いい加減ナズーリンは腹が立っていた。
なんて往生際が悪いんだ、早く毘沙門天様の元へ向かわなければならないのに。そう気持ちは逸るのに、いまいち神社の方へ身体が動かない。
「依存していたのは、私の方だったのかな」
星と別れるとき、彼女が自分なしでやっていけるのかと心配したものだがどうやら思い上がりだったらしい。槍を星に渡して身軽になったというのに足が重い。まったく、なんてざまだろう。
「ナズーリン! ナズーリン!」
ああ、とうとう幻聴まで聞こえるようになってしまった。毘沙門天様の元へ帰るまでに矯正しなければ、とナズーリンが思考しているうちに声は更に大きくなる。
「ナズーリン! 聞こえないのですか!」
「う、うわぁ! 実体もある!」
ナズーリンは尻餅をついた。実体になった寅丸星に心底驚いたのか、ナズーリンの目が点になる。
「なにを言ってるんですか、ナズーリン。私ですよ、寅丸星!」
「な、な」
ようやく事態を把握したナズーリンは星が追ってきたという事実に喜びかけたが、しかしそれを怒りと焦りが勝った。
「君は、ここまで聞き分けのない人だったのか! どうして追ってきたんだい!?」
「貴方と一緒に居たいからに決まってるじゃないですか!」
直球。ナズーリンの怒声に負けない声量で星は返す。今まで見たこともないほどに感情をむき出しにしている星に、ナズーリンはすこし怯む。
「毘沙門天の元へは帰らないでください。私は、貴方を欲しています!」
星はペンデュラムを突き出す。水晶の振り子は、ナズーリンの方へ引っ張られるように揺れていた。これを渡さなければ、彼女がナズーリンの居場所を特定して追ってくることはなかっただろう。最後に大きなミスを起こしてしまった、と後悔するところなのだが今のナズーリンはそんな風に思えないでいた。
そう思えない自分に毘沙門天への背徳の念を覚える。
「だ、駄目だよ寅丸殿……。毘沙門天様の元へ帰らなければ。これは命令なんだ」
「嫌です! 拒否します! 貴方がどうしても戻らないというなら、私は毘沙門天の名を借りて異変を起こします!」
「バカな」
冗談が過ぎるぞ、とナズーリンは叫びだそうとしたが星の目は本気だった。その覇気に圧されてナズーリンはじりじりと後退する。
「や、やめてくれないか」
「止めません! 貴方はどうなんですか。ナズーリン、貴方は私と一緒に居るのは嫌なんですかッ!」
「私は……私は……」
『何をやっているのだ寅丸星、ナズーリン』
声。地鳴りのような低音。それに遅れて二人の間を割るように槍が飛んできた。ナズーリンが毘沙門天から預かり、星に手渡したはずの三叉槍である。槍は二人を威圧するように妖力と法の光を垂れ流しにしている。毘沙門天の分霊が宿っているのだ。
「毘沙門天様!」
ナズーリンは膝をつく。星は毅然とした態度で宙に浮いた槍を見上げている。
「毘沙門天殿、こうして声を交わすのは初めてですね。寅丸星です」
『うむ、そうなるな。我は毘沙門天だ。槍に分霊を移した身だがな。――で、我には君がおかしなことを口走っていたように聞こえたが、距離があったせいかよく聞こえなかった。君はいったい何と言ったのだ』
「ナズーリンを渡さなければ、貴方の名を借りて幻想郷中をめちゃくちゃにする異変を起こす、と言ったのです」
「ちょ」
先ほど宣言した台詞より内容が過剰になっていた。毘沙門天を前にしているせいで気持ちがいつも以上に昂ぶっているのか。ナズーリンは星のブレーキにならねばと槍と星の間に割り込むように立ち回った。
「申し訳ありません毘沙門天様! 彼女は少々混乱しているようで、本気ではないんです」
「本気も本気、すごい本気ですよ!」
「君は黙っててくれないかい!?」
自分のせいだ。ナズーリンは自身を責めた。彼女と親密になりすぎたのだ。ここまで星が暴走しているのは、千年近くも長い間一緒にいて、それが当たり前の状態になってしまったせいだ。もっと冷めた関係でいるべきだったのだ。所詮は自分は監視役で、彼女はその対象者でしかないのだから。
『……愚かな。君がそこまで直情的な人物だとは知らなかったよ。我は君の人格を評価していたのだが。しかし、こうなった以上我の正式な代理を任せるわけにはいかない』
槍が発光する。今にも熱で溶け出しかねないほどに。
「ああ、おやめください毘沙門天様!」
『寅丸星。君から、我の正式な代理としての資格を剥奪する。槍も破壊させてもらう』
言うが早い。毘沙門天の『破壊』という言葉とともに、槍は木っ端微塵に砕け散った。
「そ、そんな……」
ナズーリンはうな垂れた。千年以上にも及ぶ二人の努力が水泡に帰してしまった。こうなったのも、自分のせいだ。ナズーリンは自責の念で胸が潰れるような錯覚を感じる。星は覚悟の上だったのか、毅然とした態度を未だ崩さない。槍が砕けた辺りの空間を睨んだままだ。まだ毘沙門天の分霊はその場所にあるらしく、金色の威光は消えないままだ。
『そしてナズーリン。どうやら元を正せば我には寅丸星の暴走は君が原因のように思える。よって君にも罰を与えようと思う』
「ちょ! それは駄目です! いけません! ナズーリンは関係ありません!」
毘沙門天がナズーリンに言及した途端一転し、星は取り乱し始めた。
「……はい。覚悟の上です」
今度はナズーリンが冷静になる番だった。内心、毘沙門天の怒りが自身に向いていることにナズーリンは安堵していた。どうやら毘沙門天は代理権の剥奪以外は星に責任を問わないつもりでいるらしい。このまま大人しくしていれば、これ以上の損害を星が負うことはない。
「駄目です! ナズーリンは悪くありません! 全部私の責任で」
「よさないか、寅丸殿。みっともないよ」
「し、しかし……。や、やっぱり駄目です! 毘沙門天殿! ナズーリンに罰とやらがあるのなら、私が請け負います! ですから!」
『ならん。どうあっても罰は受けてもらう。ナズーリン、我が君に与える罰は――』
ナズーリンは息を呑む。霊格を剥奪されても文句は言えないし、殺される可能性だってあるだろう。それでも、ナズーリンにとっては望むところだった。星は悲しむだろうが、それでも彼女に危害が加えられないのなら十分だ。そもそも、星と仲良くなってしまったのが自分の不手際だったのだから。
本望だと思った。この方のためなら命だって捧げられる。毘沙門天の威光に食って掛かる星を横目に、ナズーリンは死を覚悟した。
『寅丸星の監視。ナズーリン、君にはそれを行ってもらう』
地鳴りのような低音は、心持ち軽い調子でそんなことを言った。
「「へ?」」
毘沙門天の言葉に妖怪二人は揃って間抜けに小首を傾げた。
『一生だ。残りの一生、君はずっと寅丸星の監視を続けるのだ。無断で我の代理を名乗るその愚か者が、馬鹿なことをしでかさないようにな』
「び、毘沙門天様! それはつまり――」
『黙れ。不満は受け付けぬし、二度は言わぬぞ』
突然の宣告に呆けて、理解の追いついたナズーリンは地に頭をこすり付けんばかりの体勢になった。
「ありがとうございます! 毘沙門天様!」
『はて、罰を与えられて礼を言うとはおかしなネズミだ。こんなおかしなネズミはそこの間抜けな寅に押し付けておいて正解だな』
毘沙門天は淡々とそう告げて威光を弱める。
『寅丸星』
「は、はひぃ!」
唐突に名前を呼ばれて星は気の抜けたような返事をした。
『我の名を遣い悪さをしてみろ。監視役から直ぐに報告が来るぞ。無断で我の名を借りるからには、分相応でいろ』
さらばだ。そう告げて、毘沙門天は去った。
後に残ったのは槍の破片と二人の妖怪。再思の道の脇に並ぶ彼岸花が、風でゆらゆらとした。
「ば、馬鹿か君はーッ!」
毘沙門天が去り、ようやく言動に自由が利くようになったナズーリンの一声は、星を思い切り貶す言葉だった。
「せっかく正式な代理に認められたというのに、それを台無しにしてしまうなんて! 馬鹿、馬鹿、ホント馬鹿ッ!」
腰の抜けた様子の星を一方的に両手で叩き、ナズーリンは責めた。
「あはは、申し訳ありません。でも、正式な代理という地位を捨ててでも、貴方には私の傍に居てほしいと思ったのです」
星は相変わらずナズーリンに引っ張られるペンデュラムを掲げながら恥ずかしげもなくそんなことを言う。
「このっ、ばかぁ」
ナズーリンは頬を紅潮させながら一際強く星の胸に拳を打ちつける。体格差からか、その威力はどうしても決定的なものにはならない。
「それはそうとナズーリン。さっそくお願いがあるのですが」
「……なんだい。もう何でも言いたまえよ」
「宝塔を一緒に探してくれませんか? その、ここへ来るまでに落としてしまったみたいで」
星は苦笑いを作りながらいつもの台詞を言う。ナズーリンは怒りやら呆れやら先刻の緊張やらが合わさって頭に一気に血が昇る感覚とともに酩酊感を覚えた。
「わわ! 急にふらついて、大丈夫ですか!?」
「……大丈夫だよ、ご主人様。ホント貴方は、私がいないと駄目なんだね」
私も貴方が居ないと駄目なようだけど。心の中でナズーリンはそう付け加えた。