マエリベリー・ハーンが死んだ。
彼女の死を最初に発見したのはある三回生の男子学生だったと記憶している。自治会の仕事を終え、深夜の文学部東館地下から出てきたその三回生は、喫煙所の雰囲気が明らかに異質であると気が付いた。
曰く、鉄の匂い。血の匂い――死の匂い。
暗闇といえども直感に訴えかける死がそこにいた。
それこそがマエリベリー・ハーン。真紅の血が注がれた噴水の下に、彼女の鞄がくずおれていた。彼はすぐさま警察へと通報し、捜査が始められた。しかし、奇妙なことに彼女の死体はどこにも見つからなかったのだという。
この奇怪な事件は、例によって翌朝にはニュースで報じられ、学内に知らぬものは無いと言えるまでに広まっていった。私がそのことを知ったのも、通学途中の噂話からである。
「殺人事件」
「マエリベリー・ハーン」
――決して交わるべきでない二つのワード。それが会話の中で浮き上がり、私の歩みを縫い止めた。
そこからのことは、よく覚えていない。噂話をする学生たちを問い質した気もするし、その場で叫んだ気もする。あるいは全速力で逃げ出していたかもしれない。
知りたいけれども知ってしまえば自己を滅ぼすだろうというジレンマ。好奇心が殺すはずの猫はもういないのに、どうしてもこの檻からは抜け出せなかった。
今、私はその葬儀を終えて一人帰路に就いている。遺体が見つからなかったのに加え、メリーは日本に身寄りがなかったこともあり、葬儀は非常に簡素なものだった。彼女を喪ったという事実に比べると、それはひどく歪に思えてくる。
ゆえに私は今でもこう考えるのだろう。
「メリーはまだ、生きているかもしれない」
希望を抱くまでに至らずとも、私は決して絶望していなかった。少なくとも、一種の執念を持ち続けられる程度には。
そうなると、メリーはいったいどこへ消えてしまったのだろうか。
現場はあらかた片付けられ、警備はもう解かれたと聞いた。そのまま未解決事件として放置するつもりらしい。そもそも大学という場――とりわけ私の通う大学では、警察の介入など歓迎されるわけがないのだから、それは当然の結果と言えるし、恨む気もない。
寧ろ好都合だと思った。私がメリーを探しに行けるのだから。もしかしたら私にだけ分かるような手掛かりが残されているかもしれない。
しかし、警察の捜査能力が私に劣っているとは考えにくい。ゆえ、私にできるのはただ一つ。絶対に彼らが想定しえない証拠を探ること。
結界の境目が見える程度の能力――他の人は知らない、メリーの秘密。不自然な死の正体がこの能力だとしたら? 最近のメリーは無意識に結界を越えることすらできるようになっていたのだから、謎の失踪が起きたとしても不思議ではないはずだ。
だが、もしそうだとしても私には打つ手が無い。メリーと同じ目を持たない私はやはり無力だ。時間と場所が分かるこの目も、俯くしかない今は意味を持てない。
下宿に向かう足はいつの間にか大学の方へと歩んでいた。何もできないと知りながら、無意識では謎を暴くことを求めていたのだろうか。それとも何かに引かれて? それがメリーだったら素敵だけれど、そんなメルヘンを信じられるほど私は楽観主義者に造られていなかった。
大学に着く頃には、もう随分と陽が傾いていた。黒く焼き付けられた建物のシルエットがやけに眩しい。帽子で目元を覆い隠しながら例の場所へと歩を進める。休日だからか、先日の事件のせいか、学生の姿は殆ど無かった。
とりわけ文学部東館周辺は最早人の気配が皆無と言っていい具合である。血の痕跡は全く消失しているはずなのだが、異質な気配はどうしても否定できない。
改めて、ここでメリーが死んだと考えると、急に胸が苦しくなってくる。建物に包囲されたこの場所は一種の隔離空間だ。四角に区切られた空以外に道は無い。メリーの魂はここを通って天国へ行ったのかしら?
噴水の傍にあるベンチに座って目を閉じる。メリーの残響を求めて耳を澄ませた。
どこにいるのか教えてよ、メリー。私はここで待ち続けるから、どうか戻ってきてほしい。
だけど祈りは儚くも届かなくて、私は静止した空間に一人取り残されていた。
斜陽はもう冷たくなっていて、光の時間の終わりを囁いている。
「ごめんね、メリー」
最も大切な人の死について、何も知ることができない。それがあまりに情けなくて、私は懺悔せざるをえなかった。
「ごめんなさい」
閉じた瞳から涙が止め処なく零れてくる。千の涙を流しても、万の言葉を尽くしても、私のメリーへの気持ちはきっと涸れない。
ゆっくりと、目を開ける。
西の明星が時間を告げた気がした。
東の月が場所を語った気がした。
決して見えるはずがないのに――
黄昏。
逢魔時。
曖昧な境界。
向こう側へのアクセス。
存在しないはずの記憶がフラッシュバック。
肉の感覚。
血の感覚。
殺人の感覚が無限に脳髄を巡り続けるハルシネイション。
爆発的に蘇る時間のイメージ。
破片 の奔流に攪拌されるアイデンティティ。
造られた神が私という存在のクウィンテセンスを物語る。
そう、
私、だ。
私。
メリー――マエリベリー・ハーンを殺したのは宇佐見蓮子。
メリーの能力はとうにコントロール不能。放っておいたらすぐ夢の中。肉体という器は現に残るけれどもメリーの心は夢に在り続けていた。
だから私は彼女を殺し、あちら側へと送ったのだ。
夢へ。幻想郷へ。
それが私にできる彼女への救い。
幻想郷は忘れ去られたモノの終着点だから、私はメリーを殺したことを忘れなければならない。メリーを殺したことを忘れてしまえば、私はメリーの生を信じ続けるほかない。
本来幻想郷 の住人が持ちうるはずのない現からの信仰――唯一無二の妖怪の存在理由はまさにそれであった。
『私を殺し続けるのよ、蓮子』
八雲紫 を生かし続けるため、私はマエリベリー・ハーンを殺し続ける。
現 に死に続けることこそが夢での生の証左だった。
並行世界の私たち は同じ時点 でメリーを殺し続けなければならない。この世界でのそれは一瞬の時間の空隙にすぎないけれど、並行世界の空隙を集めれば一つの垂線が示される。
ゆえに彼女はスキマ妖怪。隙間に死に、隙間に生まれ、隙間の中にのみ在り続ける。
メリーの能力 は八雲紫へと続くカウントダウン。私は彼女の生きる垂線 を乱さぬようにこの目を与えられたのだ。
ならばこの永遠のプログラムは正しく私とメリーが望んだものに違いない。
私たちはこの事実を自覚してしまったのだから、それを実行し継承する以外の選択肢を持たないのはある種当然の論理と言えるだろう。
そう、これは幻想が永遠に生きるためのプログラム。
飽和したリアリズムは幻想の生を認めないから、私たちの存在はどこまでも切ない。
ゆえに私たちは楽園を求めた。
私が――貴方が――皆が生き続けるために。
私の祖母が創ったという秘封倶楽部。
一人になるために始めた秘封倶楽部は二人でいるためのものになった。
不適合者 を秘めて封じるための箱。
私たち は不思議 を探しに出かける。
一人から二人へ。
二人から皆へ。
全てを受け入れる箱庭へ。
私たちが夢見た楽園。
そうして、幻想郷は創られた。
***
「ごめんね、メリー」
どこかで少女が泣いていた。
「ごめんね、蓮子」
そこで誰かが泣いていた。
「ごめんなさい」
少女は誰かの躯を抱いている。
崩れ行く現実。
砕け散る夢想。
だからせめて夢が終わる前に二人は口付けを交わす。
一瞬か永遠かもわからない、そもそも夢なのだから零だったかもしれない空隙の睦言。
『さようなら』
――ずっと貴方を愛していました。
彼女の死を最初に発見したのはある三回生の男子学生だったと記憶している。自治会の仕事を終え、深夜の文学部東館地下から出てきたその三回生は、喫煙所の雰囲気が明らかに異質であると気が付いた。
曰く、鉄の匂い。血の匂い――死の匂い。
暗闇といえども直感に訴えかける死がそこにいた。
それこそがマエリベリー・ハーン。真紅の血が注がれた噴水の下に、彼女の鞄がくずおれていた。彼はすぐさま警察へと通報し、捜査が始められた。しかし、奇妙なことに彼女の死体はどこにも見つからなかったのだという。
この奇怪な事件は、例によって翌朝にはニュースで報じられ、学内に知らぬものは無いと言えるまでに広まっていった。私がそのことを知ったのも、通学途中の噂話からである。
「殺人事件」
「マエリベリー・ハーン」
――決して交わるべきでない二つのワード。それが会話の中で浮き上がり、私の歩みを縫い止めた。
そこからのことは、よく覚えていない。噂話をする学生たちを問い質した気もするし、その場で叫んだ気もする。あるいは全速力で逃げ出していたかもしれない。
知りたいけれども知ってしまえば自己を滅ぼすだろうというジレンマ。好奇心が殺すはずの猫はもういないのに、どうしてもこの檻からは抜け出せなかった。
今、私はその葬儀を終えて一人帰路に就いている。遺体が見つからなかったのに加え、メリーは日本に身寄りがなかったこともあり、葬儀は非常に簡素なものだった。彼女を喪ったという事実に比べると、それはひどく歪に思えてくる。
ゆえに私は今でもこう考えるのだろう。
「メリーはまだ、生きているかもしれない」
希望を抱くまでに至らずとも、私は決して絶望していなかった。少なくとも、一種の執念を持ち続けられる程度には。
そうなると、メリーはいったいどこへ消えてしまったのだろうか。
現場はあらかた片付けられ、警備はもう解かれたと聞いた。そのまま未解決事件として放置するつもりらしい。そもそも大学という場――とりわけ私の通う大学では、警察の介入など歓迎されるわけがないのだから、それは当然の結果と言えるし、恨む気もない。
寧ろ好都合だと思った。私がメリーを探しに行けるのだから。もしかしたら私にだけ分かるような手掛かりが残されているかもしれない。
しかし、警察の捜査能力が私に劣っているとは考えにくい。ゆえ、私にできるのはただ一つ。絶対に彼らが想定しえない証拠を探ること。
結界の境目が見える程度の能力――他の人は知らない、メリーの秘密。不自然な死の正体がこの能力だとしたら? 最近のメリーは無意識に結界を越えることすらできるようになっていたのだから、謎の失踪が起きたとしても不思議ではないはずだ。
だが、もしそうだとしても私には打つ手が無い。メリーと同じ目を持たない私はやはり無力だ。時間と場所が分かるこの目も、俯くしかない今は意味を持てない。
下宿に向かう足はいつの間にか大学の方へと歩んでいた。何もできないと知りながら、無意識では謎を暴くことを求めていたのだろうか。それとも何かに引かれて? それがメリーだったら素敵だけれど、そんなメルヘンを信じられるほど私は楽観主義者に造られていなかった。
大学に着く頃には、もう随分と陽が傾いていた。黒く焼き付けられた建物のシルエットがやけに眩しい。帽子で目元を覆い隠しながら例の場所へと歩を進める。休日だからか、先日の事件のせいか、学生の姿は殆ど無かった。
とりわけ文学部東館周辺は最早人の気配が皆無と言っていい具合である。血の痕跡は全く消失しているはずなのだが、異質な気配はどうしても否定できない。
改めて、ここでメリーが死んだと考えると、急に胸が苦しくなってくる。建物に包囲されたこの場所は一種の隔離空間だ。四角に区切られた空以外に道は無い。メリーの魂はここを通って天国へ行ったのかしら?
噴水の傍にあるベンチに座って目を閉じる。メリーの残響を求めて耳を澄ませた。
どこにいるのか教えてよ、メリー。私はここで待ち続けるから、どうか戻ってきてほしい。
だけど祈りは儚くも届かなくて、私は静止した空間に一人取り残されていた。
斜陽はもう冷たくなっていて、光の時間の終わりを囁いている。
「ごめんね、メリー」
最も大切な人の死について、何も知ることができない。それがあまりに情けなくて、私は懺悔せざるをえなかった。
「ごめんなさい」
閉じた瞳から涙が止め処なく零れてくる。千の涙を流しても、万の言葉を尽くしても、私のメリーへの気持ちはきっと涸れない。
ゆっくりと、目を開ける。
西の明星が時間を告げた気がした。
東の月が場所を語った気がした。
決して見えるはずがないのに――
黄昏。
逢魔時。
曖昧な境界。
向こう側へのアクセス。
存在しないはずの記憶がフラッシュバック。
肉の感覚。
血の感覚。
殺人の感覚が無限に脳髄を巡り続けるハルシネイション。
爆発的に蘇る時間のイメージ。
造られた神が私という存在のクウィンテセンスを物語る。
そう、
私、だ。
私。
メリー――マエリベリー・ハーンを殺したのは宇佐見蓮子。
メリーの能力はとうにコントロール不能。放っておいたらすぐ夢の中。肉体という器は現に残るけれどもメリーの心は夢に在り続けていた。
だから私は彼女を殺し、あちら側へと送ったのだ。
夢へ。幻想郷へ。
それが私にできる彼女への救い。
幻想郷は忘れ去られたモノの終着点だから、私はメリーを殺したことを忘れなければならない。メリーを殺したことを忘れてしまえば、私はメリーの生を信じ続けるほかない。
本来
『私を殺し続けるのよ、蓮子』
並行世界の私
ゆえに彼女はスキマ妖怪。隙間に死に、隙間に生まれ、隙間の中にのみ在り続ける。
メリーの
ならばこの永遠のプログラムは正しく私とメリーが望んだものに違いない。
私たちはこの事実を自覚してしまったのだから、それを実行し継承する以外の選択肢を持たないのはある種当然の論理と言えるだろう。
そう、これは幻想が永遠に生きるためのプログラム。
飽和したリアリズムは幻想の生を認めないから、私たちの存在はどこまでも切ない。
ゆえに私たちは楽園を求めた。
私が――貴方が――皆が生き続けるために。
私の祖母が創ったという秘封倶楽部。
一人になるために始めた秘封倶楽部は二人でいるためのものになった。
一人から二人へ。
二人から皆へ。
全てを受け入れる箱庭へ。
私たちが夢見た楽園。
そうして、幻想郷は創られた。
***
「ごめんね、メリー」
どこかで少女が泣いていた。
「ごめんね、蓮子」
そこで誰かが泣いていた。
「ごめんなさい」
少女は誰かの躯を抱いている。
崩れ行く現実。
砕け散る夢想。
だからせめて夢が終わる前に二人は口付けを交わす。
一瞬か永遠かもわからない、そもそも夢なのだから零だったかもしれない空隙の睦言。
『さようなら』
――ずっと貴方を愛していました。
必ず一定の時点で望まない一定の行動を起こさなければならないというところに救いの無さを感じました。
無粋な話かもしれませんが、どこか全く異なる平行世界群ではお互いに納得のいく結末を迎えられるような垂線が形成されていたらいいなあと思いました。
昔のNHKみたいというか
秘封だしありだと思うのだけれど。