静かな夜だったから、ソーサーの音がよく聞こえた。アリスは笑顔を作るのが上手い。本心でも追従でも、同じ表情を作れる。人形遣いだけあって、器用さは抜群だ。そんなアリスの本心を知るための、良い質問がある。――「それ、本心か?」だ。
「なあに、それ」
ころころと笑い続けている。つまりこの笑顔は、本心でない。本心の場合は、「何で?」といって、少し声のトーンが落ちるのだ。アリスとの付き合いが長いおかげで、私も賢くなった。……仮に機嫌を損ねた場合、修復が困難であるのが玉に瑕だが。
「魔理沙が来てくれて、嬉しいわ」
嬉しくない、と。
これだけの回数迎えてくれているのだから、私自身が嫌われていることはないだろう(嫌われていようが、私は回数を重ねれば相手に好かれる自信がある)。とすると、タイミングの悪い時に来たということだ。無論、それを承知で来たのである。現在、夜の9時。寝る時間には早いにしても、夕食は済んでいるだろう。入浴もことによれば。少なくとも、来客を予期するような時間ではない。
「流石に遅かったかな」
「気にしてないわよ」
「そうか。アリスは優しいな」
睫毛がひくつく。ここで謝ると、相手に主導権を渡してしまう。上辺の対応でやり過ごそうとする相手には、気付かない体で図々しく行くのが良い。
「申し訳ないけれど、今から寝るところだったの。今日は少し肩が凝っていてね。あまりもてなせないわ」
「そりゃ大変だな。私が看病してやろうか」
「魔理沙の睡眠時間を奪うわけには行かないわ。遠慮しておく。有難う」
「どういたしまして」
有難う、で上手く纏められた形である。体調を持ちだされると、こちらもそう強く押す訳にはいかない。
アリスの家に上がるのは珍しいことではないが、このような強引な形を取ったことはこれまでにない。実のところ、私の方が、余裕は無いのである。普段ならば、日常会話をこねくり回し、反論を封じつつ約束まで取り付ける程度の技術はあると自負している。だが、アリスはそこの防御が恐ろしく固いのだ。オフィシャルとプライベートの境に、二重三重の結界が張られているようだった。下手に深入りしようとした分だけ、態度も硬化しつつあった。こうして予告なしに来るしかなかったというのは、組手争いならば敗北に近い。一瞬でも驚く顔が見られた分、成果は在ったけれど。焦りを感じ取られたとしたら、差し引きマイナスだ。
「いつも元気ね。魔理沙は」
アリスは小さなため息をつく。僅かに気を許した、ように見える。だが私は安心できない。攻勢に回っている時ほど、大差がついている時ほど、実は袋小路に向かっておびき寄せられてるのではないか、という錯覚に陥る。余裕のない時には見えなかったような、僅かな不安が増幅する。この手の危惧は、力押しを標榜する人間にとっては致命的だ。魔女を名乗るにあたり、幻想郷の強者達を相手取るにあたり、まず克服しなければならなかったのが、この不安感である。逆転されるかもしれない、などと考えていては、その一瞬間に逆転される。勝てる時には、勝てるだけ勝つ。それが罠ならば、罠ごと吹き飛ばしてこそ私。……なのだけれど。
「おう。元気だぜ。羨ましいだろ」
「心配になっちゃうわね」
「置いて行かれそうで?」
「ううん。踏み込まれてしまいそうで」
これだ。……拒絶の言葉なのか、歓迎の言葉なのか。アリスの表情からは、何も読めない。いつもの笑顔が在るだけだ。……私は今、ちゃんと笑顔を作れているのだろうか?
意地を張るのはそろそろ終わりにしたらどうだい、という香霖の言葉を思い出す。かつて全力で拒絶して以来、香霖は表面上だけ遠慮がちになった。具体的な言葉こそ出さなくなったが、しかし遠回しにしろ、事あるごとに諭そうとする姿勢は何も変わっていない。意地を張るな、だって。それで説得できるような奴は、意地を張っているのではなくて、気を引くための演技をしているだけだ。香霖に教えてやらなければならない。反省文を書ける奴は、教師を心底馬鹿にできた奴だけだと。だが、その程度のことを理解させるのに、どれだけの時間がかかるか。それを考えただけで気が滅入る。
いつかは折れなければならない、ということ。そんなことは分かっている。お前のそれは分かっているとは言わない、先人の言葉をなぞっているだけだと言われそうだが、いくら未熟者だろうと解るものは解るのだ。限界を知るという、絶対の過程。その必要性と、必然性。それはしかし、漸進的に力を弱めていくことで得られるような観念ではないと思うのだ。寧ろ、もっともっと強いエネルギーの中で、見たこともない、予想したことすらないような光と熱の中で、目一杯に自分自身を放射しながら、そして僅かに、新しい世界のかけらが見えた時――ああ、ここまでだな、と、鮮やかに、限界というものは、見えるものなのではないかと思うのだ。
だから、そこに至るまでは、エネルギーは弱めてはいけない。迷走も空回りも、恐れてはならない。何があろうとも。
「踏み込まれたくない部屋、か。どんな部屋だろうな。却って興味が出ちゃうぜ」
「素敵な部屋よ。自分で言うのは、恥ずかしいけれど。……いつかは、魔理沙にも入ってほしいわ」
「……そりゃ楽しみだ」
ふふ、とアリスは笑った。私も笑った、と思う。しばしの沈黙。これで、私の負けだった。
明日また来るから見せてくれよ、とは言えなかった。入って欲しい、なんて。無防備に受け入れられる時、私が一瞬躊躇してしまうことを、アリスは完全に見透かしているのだ。今のアリスのこの笑いは、間違いなく本心だろうと思った。悔しいけれど、そんなことは訊かなくてもよく分かった。
「いつか、魔理沙が充分にパワーをつけた時にね。……そう。ブレインを、凌駕するほど」
紅茶一杯、30分。力押しを曲げて挑んだ奇襲は、散々な結果に終わった。帰りの空は、何の音も聞こえなかった。ただ、早鐘のような心臓の音と、アリスの「またね」の声が、頭蓋骨の中で繰り返し響いていた。
「なあに、それ」
ころころと笑い続けている。つまりこの笑顔は、本心でない。本心の場合は、「何で?」といって、少し声のトーンが落ちるのだ。アリスとの付き合いが長いおかげで、私も賢くなった。……仮に機嫌を損ねた場合、修復が困難であるのが玉に瑕だが。
「魔理沙が来てくれて、嬉しいわ」
嬉しくない、と。
これだけの回数迎えてくれているのだから、私自身が嫌われていることはないだろう(嫌われていようが、私は回数を重ねれば相手に好かれる自信がある)。とすると、タイミングの悪い時に来たということだ。無論、それを承知で来たのである。現在、夜の9時。寝る時間には早いにしても、夕食は済んでいるだろう。入浴もことによれば。少なくとも、来客を予期するような時間ではない。
「流石に遅かったかな」
「気にしてないわよ」
「そうか。アリスは優しいな」
睫毛がひくつく。ここで謝ると、相手に主導権を渡してしまう。上辺の対応でやり過ごそうとする相手には、気付かない体で図々しく行くのが良い。
「申し訳ないけれど、今から寝るところだったの。今日は少し肩が凝っていてね。あまりもてなせないわ」
「そりゃ大変だな。私が看病してやろうか」
「魔理沙の睡眠時間を奪うわけには行かないわ。遠慮しておく。有難う」
「どういたしまして」
有難う、で上手く纏められた形である。体調を持ちだされると、こちらもそう強く押す訳にはいかない。
アリスの家に上がるのは珍しいことではないが、このような強引な形を取ったことはこれまでにない。実のところ、私の方が、余裕は無いのである。普段ならば、日常会話をこねくり回し、反論を封じつつ約束まで取り付ける程度の技術はあると自負している。だが、アリスはそこの防御が恐ろしく固いのだ。オフィシャルとプライベートの境に、二重三重の結界が張られているようだった。下手に深入りしようとした分だけ、態度も硬化しつつあった。こうして予告なしに来るしかなかったというのは、組手争いならば敗北に近い。一瞬でも驚く顔が見られた分、成果は在ったけれど。焦りを感じ取られたとしたら、差し引きマイナスだ。
「いつも元気ね。魔理沙は」
アリスは小さなため息をつく。僅かに気を許した、ように見える。だが私は安心できない。攻勢に回っている時ほど、大差がついている時ほど、実は袋小路に向かっておびき寄せられてるのではないか、という錯覚に陥る。余裕のない時には見えなかったような、僅かな不安が増幅する。この手の危惧は、力押しを標榜する人間にとっては致命的だ。魔女を名乗るにあたり、幻想郷の強者達を相手取るにあたり、まず克服しなければならなかったのが、この不安感である。逆転されるかもしれない、などと考えていては、その一瞬間に逆転される。勝てる時には、勝てるだけ勝つ。それが罠ならば、罠ごと吹き飛ばしてこそ私。……なのだけれど。
「おう。元気だぜ。羨ましいだろ」
「心配になっちゃうわね」
「置いて行かれそうで?」
「ううん。踏み込まれてしまいそうで」
これだ。……拒絶の言葉なのか、歓迎の言葉なのか。アリスの表情からは、何も読めない。いつもの笑顔が在るだけだ。……私は今、ちゃんと笑顔を作れているのだろうか?
意地を張るのはそろそろ終わりにしたらどうだい、という香霖の言葉を思い出す。かつて全力で拒絶して以来、香霖は表面上だけ遠慮がちになった。具体的な言葉こそ出さなくなったが、しかし遠回しにしろ、事あるごとに諭そうとする姿勢は何も変わっていない。意地を張るな、だって。それで説得できるような奴は、意地を張っているのではなくて、気を引くための演技をしているだけだ。香霖に教えてやらなければならない。反省文を書ける奴は、教師を心底馬鹿にできた奴だけだと。だが、その程度のことを理解させるのに、どれだけの時間がかかるか。それを考えただけで気が滅入る。
いつかは折れなければならない、ということ。そんなことは分かっている。お前のそれは分かっているとは言わない、先人の言葉をなぞっているだけだと言われそうだが、いくら未熟者だろうと解るものは解るのだ。限界を知るという、絶対の過程。その必要性と、必然性。それはしかし、漸進的に力を弱めていくことで得られるような観念ではないと思うのだ。寧ろ、もっともっと強いエネルギーの中で、見たこともない、予想したことすらないような光と熱の中で、目一杯に自分自身を放射しながら、そして僅かに、新しい世界のかけらが見えた時――ああ、ここまでだな、と、鮮やかに、限界というものは、見えるものなのではないかと思うのだ。
だから、そこに至るまでは、エネルギーは弱めてはいけない。迷走も空回りも、恐れてはならない。何があろうとも。
「踏み込まれたくない部屋、か。どんな部屋だろうな。却って興味が出ちゃうぜ」
「素敵な部屋よ。自分で言うのは、恥ずかしいけれど。……いつかは、魔理沙にも入ってほしいわ」
「……そりゃ楽しみだ」
ふふ、とアリスは笑った。私も笑った、と思う。しばしの沈黙。これで、私の負けだった。
明日また来るから見せてくれよ、とは言えなかった。入って欲しい、なんて。無防備に受け入れられる時、私が一瞬躊躇してしまうことを、アリスは完全に見透かしているのだ。今のアリスのこの笑いは、間違いなく本心だろうと思った。悔しいけれど、そんなことは訊かなくてもよく分かった。
「いつか、魔理沙が充分にパワーをつけた時にね。……そう。ブレインを、凌駕するほど」
紅茶一杯、30分。力押しを曲げて挑んだ奇襲は、散々な結果に終わった。帰りの空は、何の音も聞こえなかった。ただ、早鐘のような心臓の音と、アリスの「またね」の声が、頭蓋骨の中で繰り返し響いていた。
自らの持つものとは真反対のスタンスに見えるそのセンスが、それが故に魅力的に見えるので御座います。
しっかし常にこんな気の抜けない会話してるんですね…
迷わずいけよいけばわかるさ
ぐらいまでいったら私惚れちゃうってことですかね
しかしまさかふき切さんがこられるとは思わなんだ
考えるより行動するタイプだ、と口で言うような奴ほど、結構頭も使ってると思います。
彼女の場合軽口ばかりでそうそう信用できるものではありませんが、じゃあ何も考えていないタイプかというと決してそうではない。
多分冷静な自分が、俯瞰の形でいつも自身の姿を見下ろしているのでしょう。
そんな語りでした。
貴方の作品はキャラクターの心情が極めて丁寧に描写されているので大好物です。
魔理沙はいつか勝てる日が来るのでしょうか…。
ライバルなのか、友人未満なのか、恋人未満なのか、以上なのか
いろいろと想像できるいい作品でした
常日頃からこんな計算をしながら行動をしているといつか擦り切れてしまいそうで怖いです
二人の種族の違いとか、考え方とか、生きるスピードとかが、短い物語から少しずつ浮き出てくるようです。
それにしても5キロバイト弱の文面から様々な想像を掻き立てられて素敵ですね。
キャラをよく理解してらっしゃる……