「第一回秘封倶楽部星空観測大会の開催を宣言いたしますっ!」
私の友人兼相方、宇佐見蓮子が唐突にそんなことを言い出したのはお昼休みのときである。
どうして? 私がこの単純な問いを発するまでに一拍、いや二拍ほどの空白があった。いつものことだといっても、やはり脈絡が無さすぎるのではないだろうか。
「理由なんて無いわ。思い立ったが吉日よ」
困惑する私とは対照的に、蓮子は何故か自信満々な態度で頷いている。そういうわけで、そうなるわけもわからないまま、今日の秘封倶楽部の活動は謎大会に決まってしまったのだった。
23時09分52秒の京都大学南構内吉田南総合館東棟(相方調べ)。月明かりに濡れる空間は全く静かで、それは独り薄灰色の姿で立ち竦んでいた。夜の更けるこの時間帯ならば、南構内のおおよそ南端に位置するここに人は訪れない。動いているのは私たちだけ。錆びた金属の足音を鳴らしながら階段を駆け上がる。それがどうにも小気味よくて、自然と頬が緩んでくる。
四階分昇った先にあったのは南京錠のかかった白い柵。蓮子は得意そうに糸鋸を取り出すと、簡単にそれを開けてしまった。
今時南京錠なんて――蓮子はシニカルに嘆息する。
柵が開かれる。錆びた金属の悲鳴は誰にも聞かれない。完全犯罪の共犯者の気持ちで、私と蓮子は屋上に躍り出た。
夜が降りてくる――そんな言葉がふと、思い浮かんだ。私たちは昇り、夜は降りる。つまり私たちと夜は今、限りなく近くにあった。手を伸ばしても星は掴めないと知っているけれど、その空虚感はきっと夜を握っている。
そんなことを考えていると、蓮子は悪戯を成功させた子供のような純心で空を見ていた。
「メリー、何考えてた?」
口元だけで器用に笑って蓮子は尋ねる。投げかけられた視線は先程の子供めいた目ではない。私の全てを見透かしているとでも言いたげな、挑戦的な視線だった。
「蓮子ならわかってくれるでしょう?」
だから私は挑発するしかない。いや、もしかしたら半分本気でそう思っていたのかもしれないのだけれども。
「……わかってあーげない」
そっぽを向く後ろ髪が綺麗で、私はふと流れ星を想起した。願い事は聞き入れてもらえなくても、蓮子が流れ星ならもうそれは叶っているはずだよね。
「ねぇ、蓮子。どれがどの星座なの?」
「知らない。あんなのこじつけもいいとこよ。だいたい、向こうの神話関連だもの。私の関わるところじゃないわ」
投げかけた疑問はすげなくあしらわれる。拗ねた横顔も可愛らしい。
「じゃあ、蓮子にはどう見えてるの?」
振り向かせようと、問う。蓮子はそのまま不敵に空を睨んで宣言した。
「23時31分19秒、屋上ね」
「23時31分19秒屋上座?」
「残念、23時31分58秒屋上座」
なんてことない冗句。だけどそれがなくちゃ、私たちじゃないのかもしれない。
「星の数より多そうね」
目を伏せ、何気なく言葉を置いてみる。
「宇宙は拡がり続けているかもしれないのに?」
予想通りの台詞に。
「時間だって、重ね続けているでしょう?」
想定通りのお返し。
「人間の時間は有限よ、メリー」
「
「文字通り
やれやれと言わんばかりに蓮子は手を上げてみせる。
「皮肉ね」
「皮肉よ。人間らしいじゃない」
「腑抜け蓮子?」
溜息をついた蓮子の顔を覗き込む。なんとも言えぬような顔をしてから、
「メリーに骨抜き蓮子さん」
なんて悪戯っぽく言っちゃう蓮子さん。
前もそんなこと言っていたよね、だなんて呟いて笑い合った。何がおかしいのかもわからないし、何がおかしくないのかも知らない。でも、日常なんてそんなもの。蓮子がいてくれればそれでいいって、私は胸を張って言えるだろう。
――もう何番目の星座が視界を通っただろうか。
流星の瞬く間にも私たちの時間は過ぎていく。
けれども、それを数えるのは無為だと私は思う。
だって貴方は前を向いて進んでいるから、私が後ろを気にする道理は無い。
天空の文字盤を眺めるのは貴方でなければならない。虚空の境界を見つけるのは私でなければならない。その先へ旅をするのは二人でなければならない!
――思考はどこまでもdisorderlyで、私たちの存在はどうしたってorderly。
星月の軌道はきっと後者だから、そこに自分の時空を見ることのできる能力というのは案外理に適っているのかもしれない。
だったら、私の能力は? そんな疑問が思惟を襲う。
わからない。わからない。わからない。
虚空とはどこで、境界とは何で、私とは誰で――すべてについて私は無知だ。そもそも私はどうしてこんな能力を持たなければならなかったのだろうか。
こんな能力、普通は持っていていいはずが無いし、そう生まれついたことについて意識すべきだったのではないだろうか。
それとも、最早私たち全員が
だとしたらそれこそ危機だ。京都という結界都市の内側に、オカルトに汚染された化物がいていいはずがない。結界を破ろうという悪意の輩が、私を利用しているという説はどうだろう。それが私の存在意義だとしたら? 認めたくはないけれども、それじゃ私が化物であることへの理由がつかない。
怖い。どうしようもなく恐ろしい。そんな仮定があってたまるものかと叫びたかった。だけど現実は切ないまでに残酷で、私は今も境界を発見してしまっていた。目を背けたいという衝動と、直視すべきだという直感がせめぎあう。これまで考えてこなかった私のアイデンティティが崩れていくようだった。
境界の向こう側の風は優しい。私はそのことを一瞬の内に理解できていた。私が化物だという何よりの証左だろう。もしこの感覚がノスタルジアならば、私はあの星空に還るべきなのかしら?
きっと、そうだ。そうに違いない。
でなければあんなにも星が美しいはずがない。
逸る興奮は言葉にはならず、しかし血液の如くに全身を駆け巡る蛇と化していた。
蛇が教唆する――こちら側へ、と。
私は遊離する――向こう側へ、と。
意識を手放した無重力の自由落下。
星空と地面の境界が薄れていく。
皆、暗闇の中へと消えていく。
何もかも、忘れてしまった。
己の名前も種族も出身も。
愛しい誰かの顔すらも。
不自由なわたしの生。
自由なる飛翔の死。
磔られた星の声。
貴方はだあれ。
私は、化物。
人でなし。
だから。
空へ。
夢。
ああ。
ああ―――――――――――――――
星々に惹かれた私の
『メリー』
声。
引力。
そうよ。
こちら側。
戻ってきて。
私を呼ぶ叫び。
貴方のいた世界。
私を引き留める力。
宇佐見蓮子という存在。
「秘封倶楽部」という概念。
帰らなければならない。
戻らないといけない。
蓮子が呼んでいる。
私を探している。
一人は寂しい。
行かなきゃ。
また隣に。
還るの。
君へ。
現。
「メリー!」
夢を醒ます声がした。何度も聞いた愛しい響き。貴方だけが呼んでくれる私の名前。
どうやら隣に蓮子がいたことを私はいつの間にか忘れていたらしい。
「さっきからぼうっとして、大丈夫?」
そう訊く蓮子の瞳は明らかに動揺していて、潤んでいるようにさえ見えてしまう。
だというのに当の私は自分の事態を把握できなくて、その真剣さがちょっとおかしい。
「たぶん、大丈夫?」
「たぶん、じゃないわよ。馬鹿」
悪態をつきながらも、蓮子の表情は確かに緩んだものになっていた。まだ感覚はふわふわ、ゆらゆらとしていたけれど、それを見逃すほど私の目は曇っていない。蓮子のことは前髪の具合から、睫毛の先、指の関節を経由して踝の根元、はたまた今日見た夢の内容やご機嫌の良し悪しに至るまで、出来る限り把握しているつもりにございます。まぁ、殆ど意識せずとも分かってしまうという癖がついてしまっただけなのだけれども。
あぁ、そうか。私は蓮子に会うために――そのためにこう生まれついたのだろうか。相対する視線の中、私は蓮子に惹かれて巡る。私も蓮子を引いて回る。二つ繋がる遊星としての私たち。居場所はそこで、私はまさしくそれだったのだ。
“The Eagle has landed.”
気付いてしまえば刹那的なスペーストラベルはもう終わり。
アームストロングは偉大な飛躍を、ガガーリンは地球の青さを知ったけど、私はそれよりも重大な事実を発見してしまった。
だから、そうして、帰ってくる。地上に降り立った一人ぼっちのトラベラーは、最愛の人との再会を果たすの。
ゆえに最初に語るべき言葉は――――
「ただいま、蓮子」
「はいはい、おかえりなさい」
そうして笑う蓮子はやっぱり何よりも綺麗で、それだけで私がここで生きていく理由になる。
「蓮子、ありがとね」
そんな蓮子に答えるべく、私も精一杯の笑顔を作る。どこまで行っても一方通行のコミュニケーションな気がするけど、それでも分かってくれるはず。
「はぁ、どういたしまして……?」
疑問符だらけの返答。既に理解を放棄しているように見えるのは、そもそも理解する必要が無いからで。そんな面倒をしなくても、きっと心は通じていると信じているから。
アイコンタクトすらも要らない無意識のやり取り。光速すら飛び越えた心速。私は貴方で貴方は私。ここに遊星の軌道は交差する。だからいつも通りの表情で顔を上げて、たった二人で星空を眺めた。
――さあ、何通りの星座を見つけただろうか。
私たちの時間の終わりはundefined。
それを待っても意味は無いから。
私たちは不思議を求め、歩いていこう。
どこまでも、いつまでも、二人で現に夢を探していよう。
――――Nihil difficile amanti.
始まりの夜(TUMENECO)をBGMに読ませていただきました。