夜の時間は月の時間でもあろう。美しい半月をその両手にすくい上げた夜が驕った哄笑を放ったとき、黒々とした夜の林を針妙丸は駆けていた。
日が落ちてなお夏の風は熱を帯びており、針妙丸は流れる汗を拭いもせずに闇の中で土を蹴りあげ、彼女の首ほどまで張り出ている木々の根を両手で跳び乗り越えていく様は
植物と土の濃い匂いが僅かに薄れ、根の丘の先にある小さな空き地へ向けて大きく跳躍した針妙丸は滞空中に空を見上げた。真っ黒になった木の葉と枝の向こうにきらびやかな光が花のように咲いてはバラバラと翳って消える。弾幕の軌跡を見るに博麗霊夢と霍青娥の弾幕決闘も今やたけなわといったところだろう。着地と同時に再び舞い上がり、先程よりもなお力強く疾くなった針妙丸の足どりは一歩ごとに旋転していく。そして一颯に揺れる枝よりも上空で打ち鳴らされる乱拍子が大きく聴こえるほどになった頃、いきなり針妙丸の身体が横へ直角に向かって跳び、着地を考えない無理な姿勢で二度三度転がっていった。間髪入れずそこへ空から風斬り音を立てて空転する肉体が地面へ打ちつけられて土煙と破砕音をはじけさせる。起き上がった針妙丸はそれが先ほど青娥の側に居た者だと知るや駆け寄った。
「よしか! しっかりしなさい!」
うろ覚えの名を叫ぶ声に反応せず放心の表情を崩さない芳香の状態を危険だと判断した針妙丸だったが、割れた木や凸凹になった土を避けて進むうちに様子が違うようだと察した。墜落者は大怪我で動けないのではなく故障で動けないのだと直感が囁いたのだ。破れた風車の回転もしくは命尽きる虫の痙攣を見てるようであり、奇妙な雰囲気と未知を前にして幾分か慎重になった小人は速度を落として折れ曲がった芳香の首に触れられる距離まで近寄った。墜落者の首が機械的に左右へ揺れる度に何かしらの香と僅かながら不快な匂いが漂って来る。
再び大きな声で呼びかけた針妙丸を無視して芳香の身体は痙攣的に蠢き、唇からは押し殺した唸り声が延々と漏れている。緑の息吹に満ちた夜気の中で針妙丸が途方に暮れて空を仰ぎ、きらめく光の狂い咲きを間近に見るのは別の機会になりそうだと思っていると隣人の動きがはたと止んだ。遂に力尽きたものかと振り向いた先にあった表情は、先ほどのものと違い眠れる者のように静かなものだった。後になって考えてみれば芳香が眠りの最中に見る夢想で満たされていたのは確かだったと針妙丸は思い至るのだが、この時は上方の千切られた枝々から溢れ落ちてくる月光へ沈殿した死顔につい引き込まれ、そのために言葉を失い芳香の小さな呟きを聞くことができた。
それは歌だった。五七五七七の音。古くは
これが不幸の暁。都の姫を娶った一寸法師の子らが歌を教養としなければ。彼らが欲望の果てに世界より隔離され古い文化を保持し続けなければ。その末裔の姫である針妙丸が歌のなんたるかを知らなければ安らかであったろうから。ただしこの時の針妙丸は幸福であり、予期せぬ綺羅びやかな贈り物の只中で風も忘れて
やがて霊夢と青娥の弾幕ごっこも終わり、墜落した芳香ごと回収された針妙丸は神社へ戻った。濡れ布巾で顔の土埃を拭っていると居間から決闘者たちの会話が聞こえてくる。
「死体から和歌が漏れてくるなんて朗読機能でも付け加えてるの? 酒の肴とか念仏を聞く羽目になった時のために」
「あら。それは面白そうね。次に芳香を調整する時できるかどうか考えてみましょう」
霊夢と青娥へ向けて、針妙丸は大声で割って入る。
「青娥が歌えるようにしたわけじゃないのね」
「先程簡単に説明したとおり、私は芳香の死体をキョンシーにしただけですわ。特に不都合もないので勝手に歌を口ずさむ機能は放置していますけど。魂が消え去ろうとも魄のみで記憶を引き出してみせるのは矛盾ではないのです」
「三魂七魄だっけ。魂すら腑分けする細かさが仙道を敬遠させるのよ」
「そのぶん選ばれた者だけが通暁できると言う訳」
霊夢の軽口をいなした青娥は軒下まで出て来て庭先を見やる。視線の先には全身が折れ曲がったまま敷物の上へ置かれている芳香がおり、針妙丸も生きる屍体をじっと見つめた。
「芳香の歌がそんなに気になる?」
青娥の問いに小人は素直に頷いた。
「素晴らしい物よ。貴方は興味がないの?」
「私はもう聞き飽きてるから。あの子の身体に染み付いた歌が繰り返されるだけだもの。ずっと聞いていればいずれ倦みます」
「勿体無い」
投げ出されたまま月に濡れた芳香を見ている針妙丸の口から静かに、抑えきれなくなった熱を込めて歌が詠まれる。
「さすがに
「これはさっき芳香が歌ったのよ」
向き合った顔は共に無表情。片方は疑問ゆえ。もう片方は懸念ゆえに。
「聞いたことがないのね。芳香が新しい歌を作ったって事?」
「ありえません。私の聞いたことのない歌が魄の奥より染み出して来たと考えるの方が自然ね。とするならば」
青娥は目を閉じて微笑むと頭の中で芳香に起きた可能性と道理を切り刻んで選り分けた。
「芳香が歌を吟詠する時には再現性があるの。花鳥風月からの刺激が何よりも強い場合に発現することが多い」
「美しい風景の中で他に何もすることがなければ歌うってことね」
「ご明察」
にこりとした二人の視線が互いを覗きこむ。
「聞き飽きたとは言ったけど確かにすべての絶景へ芳香を連れて行った訳ではないわ。夜下の林中に溜まった月光へ溺れるなんてした事がないのは認めます。となれば私も興味が湧くというもの。かわいい部下の枯れ果てたと思っていた作品を掘り起こすとなれば腕をふるってみせますとも」
「何かあてがあるの」
「ええ。目の前に」
青娥は針妙丸の隣に腰掛けると優しげに手を差し伸べて言った。
「貴方が芳香に小槌を振るう事を願ってもいいかしら。もちろん貴方が良ければ。願いを叶えるという強烈な妖術を以って芳香に触れれば私の術がどうなることか予測もつかない。魄はかき乱されてただの土に
そして一呼吸を継ごうと薄く開いた青娥の唇へ後ろから長い針が無造作に当てられた。二人は目だけで背後に立っていた霊夢を見る。
「さっき決闘した理由をもう忘れたようね。思い出す手助けが必要なら売ってあげるわよ。私が妖怪にできる事なんてたかが知れてるけど」
「忙しい人。決闘をふっかけられたのは針妙丸へ打ち出の小槌の構造について私が聞きたがったから。どうして貴方が誤解したのかわからないけれど、いま話してるのは彼女と共通の趣味の話よ。言いがかりにも程があるわ」
「さらりと小槌の話題が出てきても疑うなと」
「無論です。針を仕舞っていただけない?」
「あんたが屁理屈を納めればね」
「霊夢。大丈夫よ。小槌は使わないから針をおろして。力が戻った第一の願いで誰かを壊してしまうかもしれないなんて私は御免よ青娥。それに言い様がなんだか正邪みたい。もしかしてそういう人なの」
「正邪ってどなたかしら」
「少し前に道具が動き出した騒ぎの火付け元で針妙丸を誑かした天邪鬼。コロリと騙されたこいつが何をしたのかは知っての通り。とはいえ賢いわね針妙丸。同じ轍を踏まないようにするなんて」
「小人の知恵は先祖伝来。なめてかからない事ね」
「生意気」
針の頭で霊夢は小人を打った。
「すぐ暴力に訴える!」
「あんたは危なっかしいのよ。頭の巡りは悪くないかもしれないけど目が見えてない」
「霊夢は眼が曇ってるからすぐ手を出すんだ。見えないから触ろうとして。私は道理を見てるもの」
「一本だけの道理なんて馬鹿にだって作れるわ。闇の中で一筋の光を見つけるのは容易いの。それがどれほど危うい道に続いていても」
揶揄するように振り向いた霊夢の視線を真正面から受けても青娥はニコニコ笑ったままだ。
「私は天の邪鬼とは違う。もっと素直ですし、もっと賢い。ほら。もう思い付いたわよ。皆が幸せになる方法を」
「そういう規模の物は異変になるんだけれど」
「失礼。言い直します。私達三人が幸せになる方法」
針妙丸と芳香と自分を指さした青娥が続ける。思いがけない光景であれば芳香から歌が飛び出すということは今宵判明したが、もう一つ青娥と芳香が持ち得なかった要因があるのだと言う。少名針妙丸。
「英雄譚は詩歌の題材として陳腐な物だけど我々仙人にとって関係することはほぼ絶無だもの。針妙丸。貴方には芳香と一緒に景色を見ることを望みます。まだ聞かぬ歌のために。私の知らぬ芳香のために」
針妙丸は笑った。輝くみごとな瞳と生命にあふれた所作は霊夢の目にすら快く映り
数日後に芳香が博麗神社に遣わされた夜の針妙丸の浮かれようは改めて書き記すことでもないだろう。翌日の
旅において定められた法はそう多くなかった。いらぬ
黎明に出発してしばらくすると屍は太陽に焼かれ始めた。ただでさえ判断が直截で制御の難しい芳香が肌の焼けるなか素直に言うことを聞くはずもなく、そもそも体格の違う二人の歩幅が合うはずもない。針妙丸は飛べず芳香は小人から離れないように――というよりはできるだけ小人の命令を聞くよう青娥に調整されていたぶん余計に悲惨であり、二人は見えない紐で結わえられた牛と蝿に等しかった。焦げる身体を地面に投げ出し泥中に突きとばされ、当たるを幸いに草木を千切りとばした末いっしょに川へ転落し、翌日の未明に目を覆いたくなるような外見となって博麗神社の軒下へ戻ってきた。
日が登り切る前に芳香を青娥の元へ返した後から針妙丸は住処の籠の中で一言も発すること無いまま眠り、寝息が止んでからも時が間延びしているかのような静寂がその場へ積もっていったが、夜になって愚直にも再び芳香がやって来ると布の山を抱えて小人は飛び出してきた。山は広げると薄沙で編まれた面隠しに変わり、芳香の帽子のつばをぐるりと襟足まで囲んで垂れ下がると内側には透かし模様で雨と雲が配されている。試着を通じて細かい直しの見立てをつけると籠の中へ面紗を放り込み、芳香の帽子へ飛び乗って針妙丸は命蓮寺の墓場へ向かった。
その道中も到着してからも針妙丸は芳香に話しかけ、朝日が登る前にお互いの寝床へ帰っていった。そして翌日から日暮れより墓場へ行き多くの者と戯れながら語らう彼女たちは歌など忘れ果てたようであり、さては外出の遊びのために口実をでっち上げたものかと霊夢が堪忍袋の緒を切ろうとした或る夕刻、博麗神社の縁側で再び針妙丸は旅の荷物を拡げはじめたのだ。小人から見ても大した量ではないそれらをわざわざ持ちだしたのは巫女への牽制だったのだろう。さっさと包んで纏めてしまうとやって来た芳香へ軒下で待つように諭してしばらく眠り、払暁を待たずに二人は旅へ出発していったのだ。
いつの間にか芳香の帽子を細工してこしらえた座部に腰掛けた針妙丸は日陰を見つけてはそこへ向かうように細かく指示していき、初めの頃はキョンシーの身体をすっぽり覆う手製の黒い外套の着心地が良くなるように、予期せぬ隙間から皮膚が焼けぬように注意していた。日があまりにも強ければ休み、地上が雲で陰っている時も無理はしなかった。
墓場での短い日々に針妙丸は学んでいたのだ。芳香はどういう死体で何ができるのか。できない事の把握は芳香の周りに集まる者達からよく聞いた。砂へ水を飲ませるように針妙丸は知り、芳香自身が学びにくいことすら学んだ今では得物の針で頭を軽く刺して注意をひくことすらやってのけた。
影から影へ。静から静へ。やがて二人が彼岸の寄る
「なんだお前。こんなところまで出てきて」
赤い花の中から歩いてきたのは白と黒でできた人間の魔女。世界の正午と同じ声音の魔法使いが云うには彼女もまた散策のついでに此処へやって来たのだと言う。普段はこんな遠くまで来ないのだが、おまえらに呼ばれたのかと魔理沙は笑った。
「死霊の呼び声というやつだな。気をつけろよ小さいの。おまえも半分墓場に足を突っ込んでるんじゃないか」
「ただの人間が死ぬのよ。貴方みたいな」
「抹香臭いことを言うようになったな。寺へフラフラ出ていくようになったと聞いてたけど。この様子じゃあまた坊主が増えそうだ。で。ここへ何しに来たんだ。小槌で悪さをする算段なら一枚噛んでやってもいい」
「みんなアレが大好きねえ。私たちは絶景を探しているのよ」
歌を呼び覚ますための旅を針妙丸が説明するのを魔法使いはつまらなそうに聞いていたが話が終わるとにやにや笑いはじめる。
「なるほど絶景か。ここは当たりだと思うよ。なんと言っても命の果てだからな」
「境界じゃなくて?」
「普通はここへ来たら死んでるようなもんだしな」
「じゃあ私たちはどうなのよ」
「瀬戸際で遊ぶのは面白いだろ? そっちの死体は飽き飽きしてそうだが。おい。何かぶつぶつ言ってるぞ」
芳香の額から吊り下がらんばかりに身を乗り出した針妙丸は死んだ唇から漏れでる歌を聴き、魔法使いも興味深げに無言で近づいていく。血潮を含むおとめの白い肌のように赤い花弁へ乗っていた水が、魔法使いの徒歩に揺らされて次々と滴り落ちていった。滴は鮫人が流すとされる真珠の涙にも似ていたかもしれない。耳を澄ませて一通り聞いた魔法使いが再度つまらなそうな顔をする。
「ここと何も関係ない歌じゃないか」
「素敵な歌じゃない」
「思いつきをただ歌うなんて大したものでもない。時間の無駄だ」
言葉尻に別れを付け足した魔女はさっさと
この歌。滅びた石の都のような歌は旅をする二人の髪を風が
幻想郷の空を珍しい者が行くようだと噂が立ち始めたのはいつだったろう。落ち着きなく先を急いで異変を解決しようとする少女は居た。老いているかのように落ち着き払って真っ直ぐに空を浮いていく少女も。今やこれらとは別の者達が空を行くのだ。どこへ向かうのかも知らぬくせに笑い、些細な事で言い合い、地上へ降りては陰でおとなしく休む。ちょっかいをかけてくる妖精と半ば戯れ、邪魔をするようであれば屍が頭からかじりついた。小人への甘言はじれったげに振り払い、向かうべき道を見つけたならば目的地へ立つために多くの手段を考えだした。ただそこへ立つ事のみを求めたので死穢を嫌う場所でなければ大方は騒動も起きなかった。
そんな針妙丸と芳香へ地底に住む火車が話しかけてきたのは砂埃の舞う風の強い日だった。岩陰で高い陽を避けていた所へこっそりとやって来て言ったのだ。
「珍しい光景ならこれ以上ないという物を知ってるよ。地底に沈んだ太陽なんて聞いたこともないだろう。案内もしてあげる。ただ場所が場所なんで、そこへ着くまでアンタらが他に見られるとちょいと厄介なんだ。つまり、あたいの商売道具に乗ってもらうのが条件なんだけども」
火焔猫燐と名乗った火車は猫なで声で一息にまくしたてると、曳いていた猫車をフリフリと揺らした。
「どうだろうね? 聞いてくれるね?」
針妙丸はニコニコ笑って芳香に聞く。
「行こうか」
「うん」
すると燐はニタニタ笑い、剣影じみた幸せの笑みを咲かせた。
「さあさ。乗った乗った。布をかぶせてしまうから暗くなるけど辛抱しておくれ。あと死臭も少しばかり残っているだろうけど辛抱しておくれ」
笑顔で頷いた針妙丸と芳香を手早く車に押し込めると、調子良く鼻歌をやりながら旧地獄行きの道を燐は走り始めた。暗闇の中でも針妙丸は笑い続けている。
さきほどの火車の眼。飢えを満たせると踏んだ獣の眼を針妙丸が知らぬと決めつけたのだろうか。そこまでお人好しで無垢だと思ったのだろうか。
火車の一方的な信頼へ相応の値は支払われることなく、地底へ連れ込まれた旅人たちは隙を見つけると目を盗んでさっさと途中下車して放浪を始めた。空となった荷台を前に燐が地団太を踏む間にも先へと進み、やがて地の底にある旧灼熱地獄の熱い道に差し掛かった。尋常ならざる熱気で芳香が腐乱に冒されていき、本人も恥じて前へ進むことに気乗りしなくなっていくのをなだめながら針妙丸は辺りを見渡した。光景こそ無惨な岩と
いま芳香が死体だとばれてしまえば文字通りの八つ裂きに遭うのは考えるまでもないことで、すっぽり体に巻きつけた日除け(今では熱気避けとなっているが)から言い逃れできないほど悪臭が漏れていないか密かに鼻を利かせていた針妙丸が不意に強くなった熱気を胸いっぱいに吸い込んでむせた。それを自らの死臭のためだと勘違いして傷つき是非もなく帰ろうとした芳香は、自分たちの天地が火焔で一色に染まっているのを見た。地底でもその辺りの火炎は呼吸じみた周期を以って蠕動する。潮のように岩を洗い
しばらくは音と熱が世界を回って甘やかに溶かし、やがて炎の峡谷が元の年老いた地獄に戻ったころ、己の取り逃がした獲物が熱にやられ蹌踉となり地面に座って休んでいるのを燐が見つけた。引っかき傷のひとつでも作ってやろうと素早く近寄った燐は小人の眼が不思議と輝いているのを見て噂を思い出し、この場所で歌を見つけたのだと知るや剣呑な気持ちをさっさと吹き飛ばして気安く話しかけた。人づてに彼女たちの歌なるものを聞いたところ退屈そうな言葉を並べる道楽のようだったが歌は歌。自らの住処が歌われるのは快いものだろうと燐は勝手に決めつけていた。たとえ一時のうちに飽きて棄ててしまうにせよ。
こうして針妙丸が喜んで聞かせた芳香の歌は、しかし燐の顔をしかめさせた。夜鶴が泣く夜における月光が凄まじさを朗々と歌ったのだが太陽すら懐に持つ旧地獄でも未だに月は蔵しておらず、しかし死体は
地底より帰ったころから物思いに耽るようになった針妙丸は旅の途中であっても心の内側を見つめている時間が多くなっていった。話しかけても頭の上から返事が返ってこない時は風が強かったり雲に見とれているのだろうと芳香は考え、以前よりも会話を切り出したり呼びかけたりすることが増えていった。その日は太陽が高く掲げられた空の下で珍しく屍が話しかけたのだが、返事をするかのように面紗が裂けたときは午後の陽光が手を下したのだと芳香は思った。それほど速く熱かったのだ。しかし実際には美しい剣がやったことであり、遅れて気づいた針妙丸が慌てて面を上げたのと傲慢な声が降ってきたのは同時だった。
「仰ぎ見なさい」
互いが互いを見返すと全ての謎が解けた。二人を見下ろして値踏みをするように眺め回しながら不定形の刃が揺れる剣をいじっているのは比那名居天子。針妙丸は特徴から相手が何者であるかを知り、あらゆる話が面倒事の代名詞であるかのような内容だったのも思い出した。天界という絶界の住人であることも。
「
「天界に虫がいるの?」
「教えてあげない」
裂けた面紗と天子の剣を交互に見続けている芳香に気づき天子は一層楽しげに笑う。
「何よあんた。風中の桃木の先みたいにブラブラと視線を行ったり来たり。最近の小人は便利な椀に乗っていると思ったけれど故障が多いのね」
「手足の付いたお椀なんてあるわけないでしょ。どうしたの芳香」
「まぶしい」
頭の上から身を乗り出した針妙丸は怪訝そうに眉をしならせる。布帛が裂かれたのは顎下の辺りで芳香の目に光が入る場所ではないはずだった。
「お前は気に食わない」
睨みつける芳香の視線を受けて天子の笑みが深くなっていく。彼女は知っていたのだ。芳香が憤っているのは光のためではなく布への傷のためなのだと。そして怒らせる材料はまだたっぷりと残っていることも。
「天人の成り損ないに作られた蘇り損ない。何でも食べるのが唯一の取り柄と聞いていたのですけれど」
「よーし。桃味の人間は初めてだ」
「その貧弱な歯で食いつけるものならやってごらん」
先にスペルカードを取りだした天子へ応える芳香のカードへいつ針妙丸が細工を施したのかは誰にもわからないが、頭の上にいる道連れを地上へ降ろす途中で合図と対応を芳香が命令されたのは確かなようだ。地上に転げ落ちるように着地した針妙丸は空中で繰り広げられ始めた弾幕決闘の中心へ向かい駆けだした。この辺りの俯瞰図は半ば目に入っていなかったとはいえ丈の短い草原が広がっていたはずだと小人はおぼろげに思い出し、いつぞやの夜のように上を注視しながら動き回った。陽の下であるためか動きに精彩を欠く芳香を半ば心配し、半ば予想通りだと冷静に観察しながら空を巡る光渦の応酬の中心点をめざし続け、右へ飛び込み左へ曲がり旋風に舞う紙切れのように走り続ける。着物は乱れ頬から汗が流れ落ちると、最近は汗をかいてばかりだと唇だけで笑いながら頭より高い草をかき分け、土から飛び出した石を蹴りかわしているうちに待ちわびた音が――地鳴りが聞こえてきた。機会だと悟るより早く水面で膨れる水泡のように前方の地面が幾筋も隆起しては土煙と共に草を根ごと空中へ撒き散らし、針妙丸が大きく息を吸い込んだあたりで鉱物性の柱が天を衝く勢いで伸び上がっていく。鳥や獣が獲物を襲うより速く撃ち出される大地の矛へ向けて小人は全速力で走り寄っていくと、新しく伸び始めた一本の側面へ思い切り針剣を突き立てた。
弾き飛ばされるより前に巧く岩の隙間に引っかかった針が折れんばかり軋む中で針妙丸は身を捻りながら柱を蹴りつけて針を引き抜き、下方から迫ってきていた後続の柱へ同じように自らを縫い付けていく。この柱が狙っている芳香の元へ向かうために一番新しい柱槍へ次々と乗り換えて行くことが彼女の目的だった。やがて風を切り裂く悲鳴じみた音の中で最後の柱が決闘の行われている上空まで届いた時、衣装を端々を破られふらつく芳香をかすめて空へ昇っていった柱から彼女の名を高く激しく針妙丸は叫んだ。
合図を受けた芳香は最後に残っていたスペルカードを高らかに宣言した。『少名針妙丸』と。体勢を崩していた相手にとどめを刺すべく最後の動きへ移行していた天子はそこで逡巡に囚われた。常に優勢を維持して退屈すら感じていた決闘の最後、残り一枚のスペルカードの宣言を待ちかねていた天子だったが見慣れぬカードの名前に虚を突かれたのだ。スクナシンミョウマルという毒や牙があっただろうか。キョンシーの伝説に関する何かだろうか。
この思考が頭上にある太陽のあたりからやって来る違和感を受け取るまで数瞬の遅れを生んでしまい、天子が空を見上げた時には針妙丸とその剣が猛禽の疾さで迫ってきていた。帽子の桃を跳ね飛ばしてそのまま額に突き刺さった針は天人の頑丈な皮膚を貫くことができず、不敵な瞳は小人を睨みつける。だが背後から芳香の曲がらぬ両腕が己の方に食い込んだ時に天子は背骨へ冷たい蛇が這いまわるのを感じ、振り向いてその大きな顎がいっぱいに広がるのを目前に確かめた時には叫び声すら上げたのだった。
口上通り天人の全てを腹に収めるつもりで顎を動かす芳香を引き離すための条件として旅人らは天界へ侵入した。ただし芳香は首だけとなり、天子の持ち寄った天界の布を使って斑状に補修された面隠しにすっぽり覆われている。さすがに死穢を持ち込むのは天子としても許容できることではなかったのだが、建前さえ用意してしまえば首から上を持ち込むのを禁じたりはしなかった。曰く、この布の下にあるのは少名針妙丸なる小人の乗り物であり、特殊な空飛ぶ椀である。無礼を恐れるあまり殊勝にも飛ぶことをやめ椀を天人に預けて見聞を広めているのだと。この神妙な悪戯に少なからず愉快な心持ちで天界の縁を案内する天子は歯型の着いた額を時々指でさすりながらいかに天界が雄大かを語り、それを芳香の頭の上で珍しげに聞いていた針妙丸は唇へ指を立てた。芳香が歌を読み始めたのだ。
「天を見て大海に浮かぶ大山を歌うとは呆れた奴ね」
聞き終えて芳香の頭を突つく天子の指を針妙丸が叩いて止める。
「これでいいのよ」
「方丈も蓬莱も
「ここまで来なければ芳香は歌えなかった。私も、たぶん貴方も縫われた天衣を見ることなんてできなかった。旅は進まなきゃ」
己の縫い合わせた継ぎ接ぎの布を針妙丸は両手を広げて撫でる。狐につままれた顔をした後、天子は腹を抱えて大笑いした。
「なんという傲岸不遜! 英雄の末裔に相応しい子ね!」
心外な言葉を送りつけられ、世界の頂点で針妙丸は驚いた。そこへ死体と立つことがどういう意味かも知らぬまま。
やがて天から陽は落ちるもの。旅人たちも大地へと帰り、再び旅をするためにしばしの休みを得ることにした。やむをえぬ事情があったにせよ芳香の首を飛ばした傷はそれなりに軽視できなかったのだ。旅装の補修も芳香が強く願い、そのための時間も必要とされた。
博麗神社の夜にかかる星は白く焼かれている。そこへ再び青娥が訪れ針妙丸の言葉に耳を傾けていた。それまでに二人が何処へおもむき、芳香が何を歌って自分を喜ばせたのかを針妙丸は詳しく語る。それら全てをにこやかに、感情の分からぬ瞳で聞き終えた青娥は破顔した。開け放たれた扉のごとく。
「さすが私の部下。何処に出しても恥ずかしくない出来映えと言うことですね」
「私は誉めないのかい?」
「もちろん賛辞いたします。ただし英雄の末裔であらせられるのであれば」
「当然だと」
「はばかりながら」
口先をとがらせ抗議する針妙丸をやんわりいなしてから思いついたように青娥が告げる。
「ところで幻想郷のあらゆる風景を見てきたのはわかったけれど、光景そのままを芳香は歌えた?」
「ううん。何かしら連想させる詩歌だけで目前そのものは歌わなかった。やっぱり魄だけだと巧くいかないのかな。楽しいけれど旧い物だけなのは嫌。私は彼女の今も聞きたいもん」
針妙丸はしばらく考えてから青娥を見上げた。
「芳香の生前を知ってる?」
「そんなものをどうするの」
「彼女の見た物が分かるかもしれない。魄に刻まれた模様を」
「もちろん答えませんよ。かわいい物は出所が不明なものです」
しかし。と青娥は続けた。とある歌の巧い娘がキョンシーになるまでの幻想物語ならばございます。冒険談のお礼にお教えしましょうと微笑み、月と同じ丸さの瞳で針妙丸を見据えながら唇を動かし始めた。
一寸法師が都へ上った頃と大きくは変わらぬ時代。王都に一人の娘がいた。地位の低い貴族の家に緩やかな死病を携えて生まれてきた娘は早くから家の中より外へは一歩も動けなくなり、才気に満ち世間を飛び回っている身体の大きな兄とは対照的な人生を過ごしていた。
この似ているところなどないような兄妹にもひとつだけ共通した資質があった。詩歌の才に恵まれていたのだ。
娘が歌を覚えた理由はわからぬ。だが時間はあった。一人になり才を練り込む時間が。多くを知らぬゆえに素の心のままで紡がれる歌は情緒の点において劣っていたのは否めぬながら旅から兄が持ち帰る光景や歌を濾過することに秀でており、歌そのものが装飾に溺れる前の時代の事とて娘を通して歌は洗練されていった。しかし生命の定めに追いつかれた娘は多くの見立て通りに早逝した。人々の口端に上ることも作品に自らの名を残すこともなく消えた娘。場所の無駄だと小さな家系図にさえ記されることのなかった名を時が埋めてしまうはずだった彼女を或る仙人が見初めていた。何よりも美しい死体になると娘へ目をつけていた仙人は成仙の知識にのみ興味を持っていた娘の兄へ近づくと詳細な術理を教授し、わずかな手間を加えて思惑通りに娘の死体を手に入れた。やがて屍のまま蘇った娘は仙人と共に何処かへ去り、今でも彷徨しているのだと青娥は話を締めくくった。
「なぜ仙人は娘に兄の名をつけたの」
開口一番に飛び出した小人の問いへ青娥は困ったように首を傾げた。
「彼の者たちの名は知りません。ただ仮にそうであるならば娘の兄は歌人として名を残しており、中には娘との合作といえる作品もあった。であれば娘の再名としてあやかるべきは何か? こういった解釈はいかがですか」
「嫌味ね。いや。優しいのか。娘の名は?」
「知りません」
続いて起こった押し問答が途切れたあとで不意に訪れた静寂は暗闇といっしょに凝っていった。
「どちらにしろ旅も終わり。継ぎ目のない幻想郷の光景は余すことなく見て回ってしまった」
きらめく声で静止を破って空を見上げる針妙丸の目に月が移る。まだ到達し得ぬ場所を。月の時間は尽きていない。つまり夜の時間も残されている。
「まだ芳香の奥には歌が眠っている気がする」
にこりと一寸法師の末裔が笑む。
「いいえ。楽しいのよ。見知らぬ場所へ行くことが。私はずっと城の中で育ってきたんだもの。もう少しすれば力も戻って自分の好きに行き来できるようになるんだろうけれど」
「あら。じゃあ芳香はもうお払い箱?」
「まさか。連れて行くよ。どこへ行こうかな」
いずれかの口から歌が紡がれていく。その全てが芳香の歌であり、優しげな瞳で口ずさんでいた針妙丸はある歌を歌い終わると黙ってしまった。三千世界を見渡す心地を歌う歌。この歌のようにすべてを見渡せる場所があるのかどうかを小人が己に問いかけはじめた頃、青娥が註釈を一つ付け加えた。
その歌は大湖と島からの光景を着想として詠まれたものだと。針妙丸は「島」と呟いたきり押し黙ってしまった。やがて青娥が辞去したあとも虫の声を聞きながらそこへ夜深くまで留まり続けた。針妙丸が見たことのない幻想郷の抱かざる存在を思い出したからだ。海を。
輝針城に残されていた多くの物語と絵図から海そのものを思い描くのはたやすい事だったが、海に関しての情報を集めるのは容易ではなかった。そもそも幻想郷に海がない事自体が枷であり、海をその目にしたことのある旧い者も海を見に行くにはどうすればよいかという段になると言葉少なになるのが通例だった。青娥も笑ってとりあわず「引き続き鬼への守り役を頼んでおくわ」とだけ告げるのみ。
誰も語らぬところを見ると何かしら外道を行わなければならぬのだろうと当たりをつけた針妙丸はそれ以上追求するわけにもいかず、自分の籠家に括りつけられた小槌をそっと見つめもした。
「何か代用できそうな場所にしなさいよ」
霊夢に声をかけられたのはそんな夜だったろう。針妙丸は難しい顔をして巫女を見上げた。
「山の上の湖なんてどう? 行きも帰りも良くはないでしょうけどね」
「規模も香りも良くないんじゃないかなあ。芳香は詠まないよ。月も無理なんだよね」
「行く前に針と札をたっぷり食らってもらう事になるわね。もう一度
「いや」
そのまま月を見上げて針妙丸は黙ってしまったので瞳の底で懸念をくゆらせながら霊夢は立ち去っていった。
月の海を見ることは叶わない。幻想郷で海を見出すことも恐らくできまい。では外は? 変わらず海があるという外界はどうだろう。己の小槌を針妙丸は見た。博麗大結界を行き来するのは大それた願いなのだろうか。条件さえ整えば未だに妖怪の出入りが認められている境界を欺くことがどれだけの禁忌になるだろう。小人は静かに動きはじめた。眠る人々を横目に工房で
針妙丸は霊夢の目が届かぬ場所で小槌のレプリカを作り上げ、魔力の回収がもう数日で完了するだろうというところで本物とすり替えた。すぐにでも元の大きさに戻りたいのはやまやまだったが自らの発想に抗える彼女ではなかったのだ。秘宝を芳香の服の下へこっそり忍ばせた朝、いつものように二人は出かけていった。結界の境界に置かれてあるとはいえ神社から堂々と向かうわけにもいかず、事を起こすまで誰かに見られるわけにもいかなかった。
二人は遠くを目指した。幸いにも今までの旅の噂のせいで僻地へ向かう彼女たちを疑問に思う者もなく、誰一人呼び止める者もないまま旅人たちは荒野の上を飛んでいた。地平から湧き出す浮雲と岩と土だけの草すら消えたゆるやかな起伏の連続の上へ疲れた芳香のために降りて休息する針妙丸を低い風が撫でる。
長いこと移動し続けても摩滅していく土くれの群れは似たような景色ばかりで果てしなく、空をこそげ取った跡のような陽は同じ位置から変わっていないように思えてならない。現実味を失った鈍い色で万物の上に立ちつくす光と陰は芳香のことを考えると好都合だったがいかにも遠く、大結界をただ踏破するという事はこういう事かと腑に落ちぬ顔で針妙丸は貧しい風の音を聞いていた。
針妙丸は海を見たことがない。芳香はどうだろうか。小槌を引っ張りだして埃色の地に置くと針妙丸は相方を見上げた。布に覆われた顔の細かな仕草を見ることはできないが、その向こうにある表情がいつもと変わらぬ事が針妙丸には分かっている。期待も不安もないであろう彼女を見て休憩が終わりしだい外の世界へ向かうのを決心した針妙丸が小槌へ手を添えた時、背中の向こうから音が聞こえた。靴が土を踏みしめる音のようであり、歩いたにしては大きすぎる。空を飛んでいた者が地上へ降り立った時にピッタリの音だと針妙丸が思い至ったころ芳香は素早く立ち上がり、その陰が小人を包んだ。
「一筋の光が何処に続いているか、もう少し考えるべきだったわね」
少女の声がした。振り返った針妙丸と霊夢の瞳が交わる。
「海へ行く目的を持ったままアンタ達がこの先へ出て行くことは決してない」
「大結界はそこまで融通の効かないものじゃないんでしょう? なんで私を止めるの」
「それはアンタが英雄の末裔だからよ。切り開く者の血を引くアンタが冒険の末に未開地を見つけてしまえば認識は境界を広げる。海をこの先に見てしまったら幻想郷が海を内包してしまうかもしれない。たとえ外側の誰もが目にする事のできない幻想の彼方の海であったとしても無視できない変化をもたらす。その変化は外の人間の視線をこちらへ引き寄せ、やがて大結界を暴かせることになる。そんなことをさせる訳にはいかない」
「だったら旅の途中で教えてくれればよかったじゃないの。残酷だわ。目的地でそんなことを教えるなんて」
「渋々諦めたら燻り続けて再発するでしょ。アンタたちにはバッサリ諦めてもらわないといけないの」
霊夢の指が不思議な動きをしたと思えば一つの札をつまんでいた。忌むべき物であるかのような持ち方をしたそれには捻れた根のようにのたうつ文字が記されており、どことなく芳香の額に張られた物を想起させる。巫女の白い指と札が揺れると屍の唇から小さな吐息が漏れた。
「去りなさい芳香」
霊夢は青娥から巻き上げるようにしてこの札を手に入れたのだ。針妙丸に関する命令を無効にして帰還させるための道具だったが、断続的に呻く芳香はその場で小さく跳躍を繰り返すも依然としてそこに居た。針妙丸の不安げな顔を見下ろしてから舌足らずな口調で芳香は言った。
「うみをみにいく。うみをみにいく」
「あっそ。道教の式は小回りが利かないわね」
霊夢は指だけで札を弾いて少し浮かせると逆の手指で札の真ん中辺りを無造作に突いた。乾いた音が荒野の風を通して響き、炎のような揺らめきに札が灰となると芳香の身体がぐにゃりと曲がり頭から崩れるようにして倒れた。その勢いで小槌が跳ねて転がったが針妙丸は見向きもせずに芳香へ駆け寄るも、じれったげに首から上を動かす屍の手足は
「その死体から歌を見出すために外界を目指すのは禁ずると自分へ誓約してもらうよ」
霊夢への返答として針妙丸は背中から針剣を抜き放った。
「ねえ。弾幕決闘で決める気? 力も戻ってない。カードも使えないアンタが?」
「そうよ」
「帰って来なさいよ。針妙丸」
霊夢の手が針妙丸に差し伸べられる。
「いや」
いつかの夜のように針妙丸は拒絶した。それがどれほどの重さを持つのかを小人は理解していたし、巫女も醒めた色を瞳へ絡みつかせた。告知は終わったのだ。
「そ。じゃあ連れていくわね」
無造作に霊夢の腕が振られて一枚の札が針妙丸へ飛来する。切り落とそうと剣へ神経を通わせかけた針妙丸の腕が躊躇した。重なっていたものか札は三つに分かれていたのだ。針妙丸を狙うものと、左右への移動を制限するもの。真正面のものだけを切り裂けば自分も芳香も無事だろうと判断した瞬間に札は九つに別れ、その軌道を予想する前に二十七に別れ、剣の届きうる範囲でどれほどの物を落とせるか想定する前に八十一に別れ、二百四十三、七百二十九。立体的に迫り来る苦痛の嵐を前に針妙丸は考えることを止め剣を振るった。振るおうとした。
剣よりも速いものが天より降り注ぎ札を撃ち落としていく。一。三。八一。七百二九。冷えきった視線で霊夢が見上げた先へいるのは一匹の鬼であり、伊吹萃香だと名乗るかわりに瓢箪から一口酒を飲んだ。
「もう守役はおしまいよ」
「それで?」
「酔っぱらいだろうと判断の軽重はしっかりしてよ!」
「お小言が巧くなってきたんじゃないの。紫みたいにさ。それにそろそろ海をつまみにしたくなってきたんだ。私も一緒に行っていい?」
「いいわ。幻想郷から叩き出してあげるから、あちら側で鬼を流行らせてきなさい!」
真一文字に霊夢が空へ放たれるとすぐ暴風のような弾幕が決闘者たちの間に張り巡らされ、流れ弾が辺りの土石を抉り巻き上げていく。針妙丸は小槌に駆け寄りかけたが止めてしまうと芳香の頭の前に立った。剣先を地面に触れぬ程度に下げ、背をまっすぐにして。
「にげろ」
呂律の回らぬ声で言う芳香へ針妙丸は笑って言った。
「いや」
破壊で地面が揺れるなか芳香は何度も逃げろと言い、その度に針妙丸はいやだと返した。芳香はできる限りの勢いで上下の歯を噛みあわせて小さく鳴らすと叫ぶように言った。
「くうぞ! おまえ!」
「後でね」
しかしこれが最後となった。一瞬がまばたきをする間もあっただろうか。針妙丸が吹き飛ばされるのを見ることもできなかった芳香には彼女が突然消えてしまったように思えたし、舞い上がる土煙と耳障りな破裂音がようやく認識された頃には抉られた地面に風が通り抜けているだけで、子供のようにあやふやな目玉を彷徨わせても守るべき者は見あたらなくなっていた。中空には相変わらず煌びやかな弾が行き交っていたが今やそこへ風が
慟哭というには絶望が足りず悲鳴というには拒絶が足りぬ叫喚は届ける相手を見出せぬまま高まり、乱れて口に入り込む幾筋の髪にかまう事なく繰り返された静かな地獄は腐った脳髄の最後を貫いて言葉を紡がせた。禁じられた名という花を摘み取ってしまったのだ。
「青娥! 助けて青娥!」
呼ばれた主人がどこで声を聞いていたのかは定かではない。住処へ
「私を呼んだわね」
転がる石を拾うように降ろされた青娥の指が芳香の後頭部のあたりへ埋まると横たわった少女から声が失われ眼は曇り時計が止まるようにして動かなくなってから、首から背中の真ん中を通り尾骨にかけて女の手が振るわれた。水平線をなぞるようにして一つを壊したのだ。青娥の手指は。
蛹の孵化よりも構造分解過程が美しい開花が始まった。着ている衣服の全てを月光が雲を割る時の仕草で地面に落として芳香が拡がっていく。横たわったままで己の発する全ての音を飲み干しながら芳香の肢体は砕け散り、弾けながらも一切の離散を起こすことなく波紋のように皺を寄せた。
例えば飛び立つ夜鳥が羽根を奏するように。黒豹が高木の茂みから躍りかかる一瞬の刹那。繭から生まれ来る者が行う膜の中の泳ぎ。紅絹の垂幕へ入る風の動きと銀細工を施された扉口の蝶番。
ほぐれていく芳香の中から糸や針に似た細い物が天へ向かってより合わされ編まれていき、ちょうど背の低い木か蛾翼のように影を落として中空を埋めていく。剥きだしの白い骨が幹と枝。
己だけが没入する観察者の沈黙に包まれていたからだろうか。青娥の耳へ歩み寄ってきた針妙丸の第一声は言葉として入ってこなかった。
「もう一度言ってもらえる?」
「挨拶は一回」
欠けた椀の隙間から地面に伏す芳香と服を見やり、そこから生えた樹の梢まで視線を上げると針妙丸は折れた剣を青娥に向けた。
「あんたの目的はこれ?」
「ええ」
空に光が瞬くと青娥の羽衣が透け、針妙丸の汚損した着物と顔をぼやかす。自らの部下に施した事を素直に邪仙は語った。屍体を動かす術は何千年も働き続けるものではない。一番単純な類の道具と同じように年月の重みに耐えられぬ部分が必ず出てくるため定期的に補修と改良を繰り返す必要があり、その中には気づかぬまま蓄積されていく歪みもある。圧し潰される前に削除せねばならぬこの歪曲を発見するのに有効なのが感情の発露だと青娥は皮肉げに嗤った。隷属の中では決して見つけられぬ不可視の泥を造物主の命令すら越えるほどの関係性と結びつけて釣り上げさえすれば、あとは洗浄してしまえばいいだけのこと。胎動する芳香の樹を指先でなぞって青娥は笑い続ける。
「英雄の末裔である貴方にならば屍であろうと心を開く。古今東西の物語にもあるように。心躍る二人の冒険譚が芳香から聞けなくなるのは残念ですが、それは貴方から聞けば良いこと」
「なんだって?」
「いえね。歪みと一緒に直近の記憶も消してしまいますから」
樹を撫でていた指が止まり足元に転がっている小槌を見て青娥は微笑んだ。
「この子は物を忘れるのが当然。死んでいるんですもの。あくまで私の術は
「なるほど。
ここで青娥の顔に皮肉げな影が射したかもしれぬ。
「道の摂理に私の理など些末な物です。」
「ふん。都合の良い大樹を選ぶ術に長けているのね。木漏れ日すら選んで回るんでしょう」
「きれいな瞳ね。まるでお伽話を信じきる子供のよう」
「夢から生まれて連綿と続いているからね。あんたは違うの?」
「残念ながらヒト産ですわ。ああ。だから貴方に芳香を任せたのよ。砂塵に還ってしまう記憶を積んでほしいと人間へ頼めるはずがないでしょう。不可能であることも引っくり返しうる小人なのだから、私の力不足で起きる問題も解決できます。魄から歌を剥がし取るのではなく、空いた脳味噌に消えるはずの記憶をもう一度入れるくらいであれば芳香は変質しませんもの」
青娥の目が一つだけ手立てが残されていると語っている。無心な海から顔を出す海蛇さながらの目が。針妙丸が壊れた剣を下ろすと帽子がわりの椀が完全に割れてしまい、落ちて砂煙を二つ上げた。
「そしてアンタは小槌の仕組みを読み解ける」
荒んだ風が全てを揺らして通り過ぎて行く。青娥の瞳が揺れたのもそのためだったのだろうか?
「気の流れに精通した仙人なら鬼の作った小槌の仕組みから何かを汲み取れる。私に芳香を近づけさせたのもそのため。術の整備も本当だけど、霊夢に本当の尻尾を掴ませないようにするための方便で」
針妙丸は眩しげに目を細めて金紅石と瑠璃の入り乱れる頭上を見やった。
「鬼を呼んだのは最後の今この時に邪魔を入れさせないため。あんたの言動には何かあるだろうとは言われていたし一度疑えば我々小人は忘れない。なにより青娥。あんたは最後の最後で欲を出した。そして私も」
半ば駆けるような早足で芳香に近づいた針妙丸は小さな手で地面へ流れる髪を梳いた。
「芳香の欲はどうだったのかしら。知る術はもはやない」
「そうね」
青娥と針妙丸は視線を合わせたまま動かない。やがてひとつの歌が針妙丸の口からこぼれ落ちた。飾り気のない素朴な歌であり、一人の女についての歌だった。青娥が樹へ五指を絡ませる。
「それを芳香は何処で詠んだの?」
「どこでもない。これは成果よ。私にずっと歌を聞かせ、どのような時にどのような物事の捉え方をするのかを見せ続けた芳香の成果。彼女は蘇ったよ邪仙。あんたの手が触れる前の彼女に」
しかし、と続けて針妙丸はその場へ正座する。
「屍としての芳香の願いはまだ半分しか果たされていない」
「私に関係のあることならば私がやります。芳香の願いは私の物」
「彼女は貴方を歌いたいの。聞くまでもない願いだけど今の芳香には絶対に叶えられなかった。さあ。さっきの不完全な歌じゃ芳香も嫌がるよ。霍青娥という人を教えて頂戴。私も芳香もあんたの事を何も知らない」
呆けた顔をした青娥は吹き出して大仰に嗤い、それからすぐに無表情となって小さな娘を見下ろした。
それはいつかの月下における博麗神社の縁側で語られた娘の幻想話のようでもあり、男の旅行記だったかもしれない。
遠い過去の話であったのは間違いないだろう。仙人に憧れた女とその娘を好いた男が共に仙人となり仙界から放逐された末、人間界を彷徨していた。そして娘が憧れた旧い仙人に会うための方法を探していた二人は時間を遡行する術を見つけた(もしくは編み出した)。自然の流れに反する術を扱えばどうなるかを知っていたはずの彼らがそこまでして過去へ向かった理由は知る由もない。息子や娘を残しつつ永く行きた彼らの精神は老境に達していたのか。どちらにせよ倦怠が墨のような闇の中からその手を引いていたのだろう。
過去へは行けた。ただし男の体は死に絶え、女は魂魄が擦り切れていた。時間を遡れば生まれる以前へと戻り消え失せるのが自然の摂理ではないか。女は竹の棒を素にした尸解仙であった為に道理から少しばかり外れて身体が残り、その中へ男の魂が逃げこむ形で二人は一人となって生き延びたが、食い合い重なりあった多くの記憶が混濁していた。綺羅と墨染を接ぐように自らの出自と知恵を持ったまま旧い旧い時代へ生まれ落ちたその者は今も何処かを彷徨っているのだと物語は締めくくられた。
全てを語り終えた青娥は来たときと同じように消えた。芳香と共に去りゆくその顔は微細な表情が複雑に錯綜したもので少なくとも笑みはなかった。立ち上がった針妙丸もまた静かな表情を浮かべて身体についた塵を払う。空の遊戯も終わり荒涼とした最果てが戻ってくると相方のいなくなった旅人は小槌に寄りかかり、やがて決闘の勝者が話しかけてくるまで永遠の凪の音を聞いていた。
少しばかりは慟哭が流れたかも知れぬ。地上を這う哀しみは乾いた大地にすぐ染み込み、海のない場所でこぼれ落ちた涙も後を追ったろう。沈む
黒翡翠の石群へ冷たい瑪瑙の月華が降る墓場は人外の喧騒で高揚しており、その中を芳香は普段と変わらぬ屍ぶりでぶらついていた。特別な命令を受けていない夜であり落ち着く場所をなんとなく渡り歩いている中で墓場の通路を跳ね歩いていたのだが、目の前にいる影に気づいて動きを止めた。目玉だけで見下ろした先には芳香の腰あたりまでしか背のない小人が居る。あらゆる記憶に合致しないその姿を見る屍の目は小暗いままで、硬直した両の腕を三度上下に動かしてから芳香は聞いた。
「何だおまえ。仲間か?」
「生きてるわよ。こんばんは」
「うむ」
ゆらゆらと微笑む針妙丸を
「うろついてもいいが廟に入っては駄目だぞ」
「行かないもん」
「よーし」
飛び上がりながら背中を見せた芳香は石畳を鳴らして二跳び進んだがまた止まり、その場で跳ねながら振り返った。
「んー」
牙を開閉させながら針妙丸を見つめ、行こうとしては振り返る。幾度か繰り返される動作を見ながら針妙丸は静かに立っていた。
「おかしいぞ、おまえ。なんでそこに立っている」
「あら。ここは邪魔なの」
「邪魔じゃない。そんなことは聞いてないからな。でも、おまえがそこに居るのはおかしいぞ。誰だ」
「少名針妙丸」
「知らん」
いつの間にか騒がしい音も気配も止んでいた墓場で芳香が一定の律動で上下に飛ぶ。
「そこの墓の上に立て」
「罰が当たるじゃないの」
「大丈夫だ。死んでるから何もできん」
「それはそれは」
危なげなく墓石の頂上へ登った小人はちょうど芳香の頭より少し高い場所へ立つことになり、それを見上げた屍は不思議そうな顔をしながら嬉しそうに跳ねた。針妙丸は胸を張って笑うと或る女に関する歌を詠み始め、言葉巧みに芳香も誘うと一緒になって声を響かせだした。二人を見下ろす形で満月が――潮を司る月球が輝いている。
月の時間は夜の時間でもある。死と時を存分に
終わりすら口ずさめる今となっては。
(終)
なんともロマン溢れる文面じゃあござんせんか
それと誤字です
>針妙丸は妙蓮寺の墓場へ向かった。
誤字の修正をさせていただきました。教えていただきありがとうございます。
多少ダイジェストっぽい感触だったのが残念ですが、そこを緻密に書くと膨大な量になってしまうので、さくさくとテンポ良く進めたほうが良かったのか、長くなっても書き込んだほうが良かったのか、読者視点でも迷うところです。
面白かったです