ぬらり氷山のような巨体をくねらせて私の頭上をクジラが泳いでいく。どうやら随分と深い界層まで潜ってしまったようだ。かつて那由他と名付けた界から現在私が立っている界まで、およそ千は隔てられているだろう。虚無のようにのしかかるような水圧から連想して、いつだったかあの人が私に説いた無間地獄という言葉を私は思い出し、思い出されたことにより形を持った言葉は宙を漂い、暗い闇色の底へと昇ってゆく。対して足元では不透明な太陽を透過して、てらてらと海面が輝いている。天と地が逆転した世界であるらしい。地の果てを目指す私は、だから、ここから上を目指さねばならない。海底までたどり着くにはまた気の遠くなる時間が消費されることだろう。自我の正常さを安定させるためにも、何か次の暇つぶしを考え出さなくてはならなかった。風景の単調な世界においてはこれがなかなか難しいのだ。私は仕方なく大切に保管しておいたとある記憶を呼び起こすことにした。確固たる実感を持って存在するそれは、くすんだ黄金のオルゴールの形をしている。
今、私は絶望のただ中にいた。しかし一切の希望がなくなったわけではない。それはありとあらゆるモノが抜けきり澄んだ心の匣、その深奥に在る。私はいつしか久遠の時の果てにそれを見つけ、手に携えて戻ってくるつもりだ。あの人との再会を果たす為に……。
●~ムカンノカネ~ "探索者こいし最後の冒険"
――"那由他"より±1521界層付近――
新たな界に到着してすぐ、私の受信箱にコールが届いた。
「おや」
テーブルの上にティーカップを置き、紅色をした数式の塊がこちらを向いている。
テーブルと椅子とティーカップと数式。それらは純白の背景の中で否応なく際立っていたので、数万里の距離を隔てていても容易に気がつくことができた。私は空間を湾曲させて移動を行い、それらとの距離を一里ほどに設定した。
「珍しいね。こんなところにヒトがくるなんて」
「私はヒトなのかな?」
「私は少なくとも落ち着いて会話できる相手は皆、ヒトだと定義している」
よく観察してみると数式の羅列は通話用のコールの他に雛菊のコールと芥子のコールを発していることに気がついた。花の名を模したそれらは探索の過程で拡張させた知覚の一種だ。大まかに分類すれば雛菊が視覚の子孫、芥子が味覚の子孫にあたる。私はまばたきの合間にそれらを主要な知覚として登録し、もう一度数式を見た。
今度は数式が私の原型であった人型の少女と酷似した体を持つ存在として認識できた。相手が人懐っこい笑顔のコールを送っていることに気がつき、私も同様のコールを送り返した。
「へえ。私の事をちゃんと理解してる。偶然迷い込んできた訳ではないみたいね」
「うん。ここまで旅をしてきたの」
「そう。それはご苦労様ね。だけどお生憎様、よく見かけるわよ、貴方みたいなの。だから特別ではないの」
私はむっとした顔に表情を変化させ、肩を竦めてみせた。
「私は、こうして会話できる相手と出会えたのは久しぶりかも。だから嬉しいかな」
すると少女は小首を傾げて私のコールをまじまじと観察した。
「こんなところにくる物好きの半分は全身がすり切れてしまったただのプログラムか、もう半分はここが天国か何かと勘違いしている愚か者なのだけど……貴方はそのどちらでもないようね」
「貴方だってそのどちらでもないようだけど」
という私の言葉で、それまで一次関数のように無機質だった笑顔が初めて崩れ、乱数だらけのカオスな笑顔が表示された。そのあまりの突拍子もない無秩序さに、私は友人にいだく時のような親しみを覚えた。
「この辺りのこと、私は理性の連界と呼んでいるわ。ここじゃ奇跡的なくらい色んな法則が落ち着いているの。だから安心して存在していられるわけ」
「貴方の名前はなんて言うの?」
「フラン」
「私はこいし」
「ふふ。互いに名前を名乗りあったのは何世紀ぶりかしらね」
嬉しくてたまらないといった調子で、フランが椅子から立ち上った。
「久しぶりの客。いいでしょう。私についてきなさい。お茶会にとっておきの界があるのよ」
まるで絵を描くように理解不能な紅色の数式が空間を埋め尽くし、その中央に黒く複雑な図形が描かれた。あれはおそらくジャンプするための行き先を示しているのだろう。いわば門というやつだ。初期の頃は私も何度か作成したことがあった。その時のタグは私の記憶の中に保存されているが、むこうの界はとっくに変異してしまっているだろうからジャンプは不可能だろう。フランは門を描きあげると、それらの暗号を解読するためのツールを私に送り付けた。恐る恐るダウンロードしてみると、芸術的なまでにシンプルな理論で組まれた概念が頭の中を満たし、驚きのあまり私は自分の両頬が紅潮するのを感じた。フランが苦笑して鼻を鳴らす。
「フランって、とってもとっても頭がいいのね」
「それくらい暇さえあれば誰だって思いつくわ。さあ、行きましょう」
フランの後を追って界をジャンプし、次に私の両足が踏んだのは柔らかな草原だった。周囲を見回すと所狭しと背の高い書架が立ち並び本が並んでいる。天から降り注ぐ柔らかな光によって界全体が照らされ、緑の絨毯には疎らに広葉樹が生えている。解放的なのだか閉塞的なのだか分からない場所だ。
「……ここはヴワル図書館と言ってね、私がありとあらゆる界から集めた、ありとあらゆる本がしまわれているのよ」
「虫食い……バグは?」
「滅多にないわ。記憶が損なわれないように何重にもプロテクトをかけているからね」
そんなやり方を私は一切知らない。私はフランの持ち得ている技術や能力の高さに感嘆した。
「尊敬するよ。私は自分が傷つかないようにするだけで精一杯だったのに」
「あら、それこそ情報を蒐集して保管することよりもずっと難解なことなのよ。それより貴方の旅の話を聞かせて頂戴」
フランが虚空に手をかざすとシルクを被せた丸いテーブルと木で編まれた椅子が現れた。テーブルの上にはティーカップが二組あり、注がれた紅茶からは湯気が出ている。私は草原の感触を足裏に感じながら歩いて移動し、椅子に座った。
フランもスカートの皺を伸ばして行儀よく座った。紅茶なんて飲んでも腹は膨れることはなく、また減ることもないので必要はないのだが、どうやら彼女はこの習慣を好んで行っているらしい。
「……それで、どうしてこんなところまで?」
「●●を探しにきたの」
「ふうん。けどそれ、貴方が生まれた時には持っていたはずでしょ?」
「失くしちゃったの。大切なものだったんだけどね」
「おっちょこちょいね、貴方」
「あはは。笑えないよ」
いつの間に出現させたのだろうか、テーブルの上には一冊の本が広げられていた。何の文字も書かれていない。
「そんなものは案外近くに落ちているものだわ」
「そんなことはないよ」
慌てて首を横に振る仕草を示すと、フランは年老いた老婆のように優しくにっこりと笑った。
「かもしれないわね。それで、どうやってここまで?」
「私は……」
私は目を閉じて、旅に出た日のことを思い出した。
静脈のようなどす黒い夕闇の空。沈みゆく赤色。抱きついた姉の体温。風に吹かれ舞い散る落ち葉の音。空の深さが肌を刺す、あれは秋のことだったか。
「……最初は、そう、夢を見てた。私ね、他人の夢を見ることが得意だったんだ。小さい頃から寝てる時も起きてる時も夢ばかり見てたからからね……。そうしてるうちに、暗くて深い海溝みたいな亀裂を見つけたの」
「集合無意識ってやつね」
それが沢山のヒトの心が溜まってできた澱のようなものだと知ったのは随分後になってから。
「なんだか吸い込まれそうで怖くなって、夢を見るのを止めようと思ったのだけど」
気がついた時は既に夢は現実を侵食し尽くしていた。
私の原型は他人の心を知覚することができるサトリ妖怪。そのくせ私の知覚できる方法は限られており、それはヒトの五感に準拠していた。私にとって他人の思考は文章のように流れ出てくるのではなく、まして口頭から発せられる音声のように聞こえるのでもない。殆どは言語化するまでに昇華することはないただのイメージであり、未完成の、例えるならばヒトの胎児のような形をしている。無意識を旅した今ならば分かる話だが、心とは限りなく彼ら胎児の夢に酷似しているのだ。
私の知覚が構築する世界は、より鮮明で強烈で未熟な夢によって上書きされた、それだけの話だ。
「どっちが夢なのだか分からなくなっちゃったの」
「"魔に魅入られる"って言うのよ、それ」
フランが溜息を吐くように言った。
「私も妖怪だし、魔だと思うのだけど」
「いいこと、こいし。深淵に触れたものは総じて気がふれるものなの。そして、その運命も狂う。貴方は正しき運命に立ち帰るために●●を探しているのね」
「そうだね」
そのつもりなのだけど、と話を続けるつもりだったが広げられた本の白紙だったはずのページがいつの間にか文字で埋め尽くされていることに気がついて口を閉ざした。口頭で説明したものだけでなく、頭の中で考えていたことまで記録されているようだった。予想はついていたけれど、フランには想像を絶するほど高度な洞察能力があるらしい。
「記録しているの?」
「あら、いけない?」
「構わないけど……目の前でされてるとなんだか恥ずかしいなあ」
「代わりに私も話をするから、それでいいでしょう?」
少しだけ憮然として私は頷いた。フランは紅茶を啜り口の中を湿らせてから話し始めた。
「私は神話の世界を経由してここまで来たの」
「神話? それじゃあフランは神様なの?」
「いいえ。そうじゃないわ。私は魔法使いでね、神話魔法の研究をしてる最中にへましちゃってアレに触れたの。元々壊すことが得意だったのだけど、今では何でも壊すことができるわ。そのおかげで私が元いた世界が壊れてしまったのだけれどね。貴方も一度くらいは神話の世界は見たことがあるでしょう?」
「一応はね」
「神話だって突き詰めていけば集合意識が作り出した仮想の世界。私はそこから心の中へと潜ることができたの。虚実と現実の壁を壊してね。……さて、こいし。そもそも心とは何だと思う? どうしてこんなにも深い界層が存在しているのだと思う? 地を這う多細胞生物如きの脳髄の中に、そんな深淵が存在していると思うかしら?」
私は紅茶を一口啜った。
「ううん。思わないわ。私が知る神や妖怪を作り出したホモ・サピエンス総体の意識が在る浅瀬はもう、とっくに過ぎている」
「ならば、ここはどこ?」
「思うに、意識は地球上だけに存在している訳ではないと思うの。数は少なくとも、宇宙のあちこちで芽吹いているはずよ」
「ならば、宇宙中の生き物の集合意識?」
「ううん。それも違う。界を潜っていく途中で私は泡沫宇宙という理論、こう、無限の空間が泡のように幾つも存在しているという仮説を聞いたのだけれど、それらの泡の中に存在するすべての意識の集合だと私は考えているわ。それならば既存の概念では認識さえ不可能だった存在が散見できるのも頷けるはず」
「そうは言っても根本は同じでしょう。それらにはエネルギィ=重さ×光速の二乗という物理の縛りがある」
「……じゃあフランはどう考えてるのさ?」
フランは片目を瞑ってみせた。
「私は私達にとっての泡沫宇宙をビールの泡として認識している種族と、ここで話したことがあるわ」
「まさか」
「対話には骨が折れたけどね」
私はからかわれているのかもしれないと考えてそれを一笑しようとしたが、フランの表情が変わらないことに気がついて、ごくりと唾を飲み込んだ。
「つまるところ、理論の一切は全て幻想なのよ。初めに意識ありきで、意識が夢を見る。物質の周囲に時間と空間が付随しているようにね。それによって法則が生まれるの。
自らの界を作る原因を突き止め、それを生み出している原因を手繰り根源とされる界へと潜る。現実にそうして渡航している種族も沢山いるのよ。けどこれって何かに似てるわよね。……そう、私達の心そのもの」
私は話についていく為に必死に頭を回転させた。
「じゃ、じゃあ、どこかに世界を創りだしたはずの一番初めの意識があるはずだわ。もしかすると、それがきっと」
「貴方の探している●●そのものかもしれないわね。もしかすると」
「フランはここから下の界に行ったことはあるの?」
「あるわ。三億層までの地図もある。もっともあそこは劣化が激しいから役に立たないかもしれないけれど……」
ちょうだい、と私が叫ぶより早くフランが片手をひらひらと振った。
「あげない」
「どうして?」
「だって、こいしをみすみす失いたくないからよ」
「失う?」
私は問い返した。
「何を今更……」
私は椅子から立ち上がり、フランに詰め寄った。
「貴方、もしかして私を気遣ってるの? だったら余計なお世話だよ。ああ、そっか。魔法使いって欲しいものはなんでもコレクションするんだってね。私を捕まえようなんて考えてるんでしょう。馬鹿な考えだよ。私を観察して記録してシュミレーションできればそれで私が一体できあがるよ。貴方ほどのスペックの持ち主なら私のことを私より理解することだって可能だろうし、それでいいでしょう? その"こいし"を好き勝手弄べばいい。私の一体何を大切にすることがあるのかな?」
「ふうん。人格をコピーしたことがあるのね」
腹の底まで見透かしてくるようなフランの瞳に射竦められ、私は彼女から顔を背けた。じくじくと胸が締め付けられていることに気がついて、感覚を遮断するかしまいか少しだけ迷ったが、そのまま放置しておくことにした。
「……フランはなんでも知ってるね。そうだよ。セーブ&ロード。新しい界に潜るときは決まってコピーを残しておいて、定期連絡がなかったら……私が死んだら、コピーが動き出すの。基本でしょ?」
「そうね。副作用としては、それを繰り返していればレーゾンデートル、己が存在する理由について嫌でも考えてしまうことかしら」
私は片方の口の端を上げてフランに笑いかけた。
「いいや。分かってないねえフラン。こうみえて私は現象なのよ。探索を続けるというただの現象。現象は自分について悩むことなんてそもそもないんだよ」
「そんなことはないわ、決して。だって貴方には未だ感情があって、ちゃんと悩んでいるもの。悪いことは言わないわ、少しこの界で休んでいきなさい。……己を手放すのが怖くて睡眠なんかとってないのでしょう?」
久々に対話したからだろうか、沸々と湧いてくる感情のうなりが私をこの失礼な相手との交流を強引に打ち切って探索に引き戻そうとする。そうしなかった理由は曖昧なものだった。地図は必要だったし、それにフランの柔らかく、それでいてどこまでも枯れた表情を見ていると……誰かに似ているような気がしたのだ。
私はしぶしぶ頷いた。
「……分かったよ」
●
――"理性の連界"中央付近"ヴワル魔法図書館"=スタートラインより±0――
不思議なことに心だけの存在となった今でも夢は見るらしい。意識していなかったためか夢を記憶することはできなかったが、その残滓から痛烈な寂寥感を感じ取ったことから、その夢が幸せなそれだったのだと推測した。幻想を幻想のまま完全に捉えることは難しいのだ。
草原に横たわっていた体を起こすと、隣で寝そべって本を読んでいたフランと目が合った。
「おはよう。よく眠れたかしら?」
「……ああ、うん」
それきりフランは本に視線を戻して何も言わないので、私は立ち上がって近くを散策することにした。
歩けども歩けども墓標のように書架が立ち並んでいる。私は大地を蹴って上昇し、書架の天辺に座ろうと試みたが、一番上の段にはどこも本が乱雑に積まれていて座ることはできなかった。
仕方なく、その内の一冊を手に取って広げてみた。
「フラン。花なんか弄っていないでこっちにおいで。紅茶が冷めてしまうわよ」
耳元で大人びた声が聞こえたので、私はそちらを振り返った。
「お姉さまってば、いっつもそう。お茶を飲んでばかり」
どこかの庭園だろうか、紅い花に彩られた広場にフランともう一人、藤色の髪の少女が立っている。
場面はその一瞬で途切れてしまったが、狂気的なまでに綿密な言語群から成り立つ一連の文章は、この数秒間の情景をあたかも永遠と錯覚させるまで克明に描いていた。
「……レミリアお姉さま」
それがフランの姉の名であるらしい。
私は近くに置かれていた本も手に取った。
「それ、血?」
フランが問いかける。
「ええ。薄めてみたのだけど、貴方の口に合うかしらね?」
背景は黒一色だった。文章が未完成なのかもしれない。それでも仮想のレミリアお姉さまを構築する文章量は圧倒的だった。
他の本にも手を伸ばそうとした私は、しばらく逡巡してそれらを元の場所に戻すことにした。そういえば他人の心を覗くなんて行為は数えきれないほど行ったことがあるが、故意に行ったことは一度もなかったように思える。抵抗を覚えている自分に少しだけ驚いた。
今度は書架の中から本を取り出してみた。こちらは場面を呼び起こすことはなく、ただ数式が羅列しているだけだった。やはり理解はできない。
私は本を閉じて目を瞑ると、位相を変異させて自分が寝ていた場所まで戻ってきた。
フランは変わらず寝そべって本を読んでいる。
「フランって、小説書くんだ」
「まあね」
本から顔をあげてフランは言った。
「どうだった?」
「どうだったって?」
「感想よ」
「ああ……」
勝手に見てしまったことを咎められやしないか心配だったので、フランの気のない反応は拍子抜けだった。私は少し迷ってから、素直に思ったことを口にすることに決めた。
「……えっと、現実そのものみたいだったよ」
「ふん。ま、悪くはないわ」
フランは本に栞を挟むと、それを閉じて無造作に放り投げた。四五回転錐揉みした本は地面に衝突する前に消え去ってしまった。
「気持ちが良いものよ。なにかを創りだすって」
「ふうん」
「暇つぶしにやってみたら?」
「私が?」
「ええ。……しばらくこの界に滞在するつもりならね」
フランは私にメモ用のデータとそれに記入するためのツールを送ってきた。
それからしばらく放浪していると気がつかない内に界を照らす光が弱まっていき、やがて空に月が浮かんできた。紅の満月だ。夜空には星も雲もなく、漆黒の壁面のように貪欲に色を吸収していた。
私の視覚は少しの明かりの中であっても支障をきたすことはなかったので、放浪しながら適当に目についた本を広げては鑑賞していた。
書架の上に積んである本の大半がレミリアお姉さまとの交流を綴った文章だった。彼女を語る文章からは執念めいた敬意が滲み出して私を取り巻いた。実在の人物なのか、それとも架空のそれなのか(そもそも両者の区別はないのだが)は定かではないが、フランにとって彼女は大切な、おそらく彼女自身の命と同等に尊重されるべき存在なのだろうと私は考えた。
フランから地図を奪おうと決意したのは夜が明けてからだった。
私は自分の記憶の中で、最も攻撃性の高い構造を想起した。構築は容易だった。それは一振りの果物ナイフの形をしている。この剣に貫かれた意志はどんなに高度であろうと"ただ"で済むことはない。それはこのナイフが私の旅の過程で遭遇した一文明の好戦的な意識的集合体を両断し滅殺したという経歴からも保証できることだった。
正直こんなところにいることへの目的は未だに見出すことはできそうになかったし、何も得るものはないまま退廃していくのは目に見えている。永久と錯覚しそうなほど膨大な時間を生きた私の認識は、そのためか時間の浪費を嫌う傾向にあったのだ。
フランは相変わらず本を読んでばかりいた。
「やあ。今日も本を読んでるね」
「もちろんよ。近頃の私はそうして生きてるんだもの」
「ところで生きるってなんだろう?」
「その問いに躊躇いなく答えられるようになった輩は、もはや生きてはいないと私は思うわ」
私はほんの少しだけ首を傾げた。
「やっぱり、私に地図を渡すつもりはないのかな?」
顔をあげてフランは私を見た。それから、ナイフを見た。
「ええ」
「そっか」
私は鈍く光るナイフを振り上げて、フランの左胸へ突き入れた。フランに抱かれるように突き刺しながら、ナイフの先端から通達される数値を計測してみたが、防壁が張られている様子も反撃のプログラムが起動する様子も一切なかった。私は戸惑った。こんな簡単に仕留めたとは考え難いのだ。……まさか、油断していたのか。あの博識で底知れないフランが!
戸惑いながらも私の心は氷のように冷静だった。反撃がないことを確認すると、私は手早く抵抗を失ったフランの身体を横たえて、人差し指を口の中に入れた。身体の情報を探るためだ。予想通り、外殻を構築しているデータだけで既に莫大な量だった。いとも簡単に仕留めることができたとはいえ、彼女が私よりも高度な生命体だったことは確かだ。取りあえずは皮を引き剥いで、有益な情報を漁り尽くしてしまうことに決めた。
"吸血"するためにフランの肩口へ顔を近づけようとしたその瞬間、
「……何を、されているのですか、こいし様?」
ナイフを強く握りしめて振り返ると、そこに見知らぬ人型の存在がいた。人型をしているが微細なパーツが違うので、フランではないことが分かった。タグに表示された名前は、オリン。情報を入手した経緯は添付されておらず、それ以上の情報はいくら記憶に検索をかけても見つかることはなかった。何らかのプロテクトがかかっているのだろうか。
オリンからは敵対の意思は未だ感じられない。表情を膠着させている、目の前の情報を正しく処理できていない状態、つまり狼狽していた。
「違うっ!!」
私は喉が潰れるほど叫んでいた。
「これはっ、その、違うのっ……。私を信じて、おりん」
「けど……もう、死んでるんじゃ……」
はっとして私は機能停止したフランの顔を覗き込んだ。美しい陶器のような白い肌はいっそう青白くなって醜悪さの翳りを帯びている。虚ろな、それはまるで抜け殻のような表情。人形のようだ……人形? 人形。人形。
「……なぁんだ」
そこでやっと私は理解した。謎が解けて落ち着きが戻ってきた。なんてことはない、これは、フランの防衛プログラムなのだろう。つまり最初からフランは私に姿を見せてなどいなかったのだ。だから防壁なんて構築していなかった。そんなもの、必要がないからだ。いくらでも複製すればいい。
この死体となったフランはおそらく対話の為の仮想体。つまり、あそこにいるのは……。
私は相手の反撃が始まる前に素早く位相を変化させ、オリンとの距離を詰めた。そのままナイフを返して、喉を裂くためだ。身体は滑らかに動いてくれた。浅く、広く、熟れた果実に切れ込みを入れるように優しく……。
シュミレーション通りに身体を動かすと、オリンの皮は綺麗に裂け、中身を切り裂き、紅い血飛沫と酷似した、真っ赤な数と記号の羅列がそこから噴出した。
「あ……ぅ……こいし……様?」
フランは変わらない困惑したままの表情で私を見て、そのまま事切れて崩れ落ちた。一抹の不安が胸の奥に湧き上がった。けれどそれだけだった。反撃もない。実にあっけなく、私は勝利したのだった。
「……あ、はは。はははははは! ほらね。ほーらね。やっぱりだよ! 危なかったなあ! 邪悪な魔女め! 私を閉じ込める気だったなっ! けど、そうはいかないわっ! 私はこんなところで旅を終えるわけにはいかないんだっ!」
界に響き渡るように、どこかで息を潜めて私を観察しているフランに聞こえるように、私は声をはりあげた。
「う。ふふ。ああ……。地図を探さないと……。はやく、地図を」
顔に付着した数列を袖で拭い、息を整えてから、転がった二体の人形の検分にかかった。
不思議なことにそれらの身体からは、もはやデータを探し出すことはできなかった。ナイフでどこをどう引き裂いても生臭い血と生物的な肉ばかりなのだ。生の内臓というものを久しぶりに見たが、それは気分が悪くなるばかりで、気がつくと私は歯を食いしばり顔を顰めていた。他はというと、オリンの頭部にフランにはない大きな、動物の耳のようなものが付いているのが私の興味を引いたぐらいだろうか。もしかすると聴覚を拡張していたのだろうか。今後何かに利用できるかもしれないと思い、私は頭部からその二つを切り離してポケットに入れた。いよいよ嫌悪感に耐え切れなくなり、死体はその場に放置することにして、私は歩いて界の探索を続けることにした。
それからマッピングをしながら数か月歩き続けたが、書架は際限なく続くので、私は探索を諦めて書架の本の内容の解読を始めた。こちらは嫌悪感をまったく感じることはなかったので、およそ三年ほど続いた。
ようやく65パーセントの本に共通して使用される前提知識を発見して研究が軌道に乗り始めた頃、ひょっこりと書架の陰からフランが顔を出した。
「あら。まだいたの?」
「知識なしで旅に出るより、貴方の知識を身につけた方が、効率がいいもの」
「服が血でべとべとね。どうしたの?」
私は返答せず、本に視線を落とした。
「……それで、私の事は理解できたかしら?」
「レミリアお姉さまが如何に素晴らしいか、ぐらいかな」
「それで十分よ。こんな私が唯一自慢できる存在なの。貴方にはそんな存在がいる?」
「どうだろう」
「ねえ、こいし。やっぱり私は貴方が気に入ったわ。できることなら大切にしたい」
「……私を飼う気?」
フランは少しだけ悲しそうな表情をにじませながら微笑んだ。
「ここから下の界は貴方にはキツすぎる。悪いことは言わないから、引き返しなさい」
「それは御親切にどうも。けど無理だよ。もう、道しるべとして残しておいた私の分身はいなくなってるだろうし」
「だったら小説を書きなさい」
フランは作成した紙束とペンのデータを私に手渡した。
「それがここから出る唯一の方法よ」
私はそれらのデータについ最近習得したプロテクトをかけ、記憶の中に格納すると、フランにナイフを投げつけた。加速度を加えたナイフはフランの額を簡単に貫き、柄の部分まで食い込んだ。フランが倒れたのを確認すると、私は安心して本を読み始めた。
●
鳥居があった。夜の神社の光景だ。前後の脈絡がないことから、これは小説なのだろうと私は判断した。
鳥居の中央には一匹のフランがいた。フランは私の方に目を向けず、月を見上げている。書割みたいにのっぺりした紅の満月だった。夜風が私の髪を撫でた。
「……貴方。指名手配されてるわよ」
「ふーん」
「私も貴方を殺せと言われている。退治でなく、滅しろってね」
「私も、出くわした個体は取りあえず消していくことにしているの」
「あっそう。じゃあ、お互い文句は無いわよね」
「そうだね」
針を飛ばしてくる蜂のようなフランだった。手ごわい相手だった。私が勝てたのは、ちょうど近くにいたフランを盾に使ったからだ。小さなフランだったので、攻撃は当たることはなかったが、味方に当たりそうになったことがよほど恐ろしかったのか、それ以降、蜂フランの攻撃は弱まった。その点、私は容赦はしなかった。小さいフランを爆破させて反応を確かめたり、これ見よがしに肉片を口に含んでみたり、いろいろとえげつないことをやった。その成果か、最終的に私の攻撃を受けた蜂フランは、ひき肉のような状態になった。
私は喝采をあげてその血を啜り、データを読み込んでみたが、それらしきものは見当たらない。どうもフランは死体になると、情報を秘匿するために、データを消してしまうのではないかと私は考えた。
蜂フランを消してから、フラン達の攻撃は激しく、また際限がなくなった。まるで蜂の巣を突いたようだと思った。特に箒に跨ったフランが繰り出す怒涛の攻撃は執拗で、凶悪なものだった。相打ち覚悟で突っ込んでくるのだ。そのため箒フランに出くわす度に、私は逃げるしかなかった。
それでも私はフランを殺し続けた。光景から光景へジャンプを繰り返し、フラン754体目の首をねじ切って屠り、その血を啜っていると、背後から私を呼びかける声が聞こえてきた。
「………こいし様、見つけたぁ」
それは何の変哲もないフランのように見えた。最近、フランの姿を沢山見ているせいで、区別がつき辛いのだ。
「あら? 貴方……」
タグに表示された名前は、オク―だった。タグを持っている個体はなかなかいないから珍しい。オク―は、きょろきょろと辺りを見回した。
「うにゅ……。……人里に、人がいない」
「ああ。この辺りはフランが沢山いたからねえ。基地みたいなものだったのかな?」
「こいし様、帰りましょう?」
オク―が言った。
「いいよ。貴方を殺してからね」
「うにゅ」
オク―は私の足元に跪くと、上目遣いで私を見上げた。
「ん? 抵抗しないの?」
「んん。だって、こいし様の言うことだし……」
「へえ。貴方、面白いね」
これはどうやら、異常個体というやつらしい。私は構えたナイフを下ろした。
「うーん。じゃあねー。貴方の小指の爪を私にくれたら、殺さないであげる」
オク―は躊躇なく左手の小指の第一関節を引きちぎり、私に差し出した。私はそれを口に含んで舌で転がしてみた。美味だった。
「へえ! 偉いわ。撫でてあげる」
「えへへー」
オク―は他のフランと比べ圧倒的に強かったので、オク―と行動し始めてから私の仕事は随分と楽になった。
それでもフランはたびたび私の前に現れて、私に小説を書けと促した。
あまりのしつこさに私はしぶしぶ頷いた。
「えっと、それで、何を書けばいいんだっけ?」
「貴方が望むことよ」
「●●」
その二文字を書いてフランに見せると、彼女は露骨に顔を顰めて突き返した。
「もっと具体的に書きなさい。私みたいに」
「うるさいなあ。命令するのなら、私を屈服させてみてからにしなよ」
「何言ってるの。もはや貴方の周りに敵はいない。そこにいる如何なる幻想よりも貴方は根源に近いのだから」
それからはできる限りフランを生け捕りにすることにした。フランの持つ情報を確かめるためだ。生きたフランからは幾らかの情報を得ることができた。けれどそれはフランの知り合いの知り合いの知り合いの知り合いから話を聞くような曖昧なもので、役に立つレベルでは到底なかった。せめて、あと一万回ぐらい試行を重ねないといけないだろうが、近くにそんなにフランがいるようには思えない。私はフラン探すのを止め、代わりにさまざまな光景を見てまわることにした。お腹が空けば、その過程で出くわしたフランを食べた。
楽園にいたフランをあらかた片づけた頃、ボロ雑巾のようなフランに出会った。酷い悪臭がしたので、私はそいつから遠ざかり鼻をつまんだ。
「すんななまにみみとちもち」
「んー?」
「すんななまにみみとちもち。しらなのちらとにつなもちすにのなしちとちに」
「何言ってるの?」
既存の読解プログラムでは解読できない音声の並びだった。
「にのちすにてらららとちもいのなしちとちに」
雑巾フランは空間を弄ってスキマを作り、そこからヘンテコな形をした剣を取り出した。
「すちのないみみきちのらてちすいかいとにもちにもちとな」
「だから言葉が通じないんだって。分からないかなあ。下等な言語だと思うよ、それ。耳触りが良くないの。私のをあげるからこれを使いないよ」
転送はできないだろうから私は仕方なく開発した言語プログラムに形を宿して右手ひらの上に乗せた。正二十面体の形をしたそれは、それぞれの一面に異なる世界を映す鏡があり、これらの中で宇宙を創造して生物を宿し進化退化を行うことにより、生まれる可能性のある数多の言語を永遠に記録し続けるという画期的なアイテムだった。一秒の間で、大体2の一兆乗の言語を理解できるようになる。理解とは量だけではなく速度でもあり、加速度でもあるのだ。あるいは、それ以上時間で微分したものでもある。一回微分しただけの速度ぐらいなら、雑巾フランのスペックでもなんとかなるだろうと思ったのだ。
「てちかちとにみらにみらかにてらとちとちきいもちとんらな。しいとなのちすち。しらなのち」
「うんうん。大丈夫。愚かなことは何も罪じゃないんだよ」
雑巾フランの目の前に位相を移し、手をフランの頭に押し当てて、その脳の中にプログラムをねじ込んだ。
直後、紙風船が膨れたような炸裂音がしてフランの頭が吹き飛んだ。
驚いたことに、頭が千切れたフランはそれでも生きており、手のひらをかざして私の周囲にスキマを作ると、私をその中に押し込もうとしてきた。私はスキマを掴んで口の中に放り込んだ。咀嚼してみると意外と美味だった。
「あら。桃の味がする」
私は近くで寝転がっていたオク―に隙間を渡したが、食べたくないようだった。雑巾フランは骨だけ残して泥のように溶けていた。本当に酷い臭いだったので、私はすぐにその場から離れた。
何日か経過して、オク―が家に帰りたいと言い出したので、彼女が案内する光景までついて行った。
そこは物音一つない、とても静かな所だった。光源の温度がかなり熱いけれど、誰も済んでいないからクレームがこないのだろう。
一番奥に建つ建物の中に辿りつくと、オク―は力尽きたようにそこでぐったりと横たわった。
「おくう。おくう。どうしたの? お腹空いた?」
「あ、いや、違います。これはちょっと……。……疲れただけで」
顔にべっとりついた血を拭って、オク―は言った。
「閻魔様。殺しちゃったから、自分はこれからどうなるんだろうなあって、ちょっぴり思ったり」
「エンマ? 神フランのこと? へえ。フランはフランを崇めているのね。不思議」
それからしばらく返事はなかった。
「不思議、です。私は、頭が悪いから、世界って本当に、よく分からない事ばかりで」
「あははー。自分が異常だって理解してるのね。修理してもらわないの?」
「あ……。その発想はありませんでしたね」
「じゃあ誰に治してもらおうか」
「そう、ですねー」
オク―は小さな声で呟いた。
「さとり様とか……」
ナイフが床に落ちて大きな音を立てた。動悸が激しくなって、視界が強くブレる。同時に吐き気が込み上げてきた。
「こいし様?」
「あ、あれ? え、と、誰だっけ、それ」
「……忘れたのですか?」
「忘れるわけないでしょう!!」
私は脳みそを引き摺りだそうとして頭を強く引っ掻いたが、頭蓋は思いのほか硬くて割れることはなかった。立っていられなくなって、その場にしゃがみ込んで嘔吐した。血ばかり飲んでいたので、吐瀉物は当然のように赤い。
それはそれはおぞましい赤色だった。
「今よ。ペンを持ちなさい」
私の耳元でフランが言った。
「魂に刻むのよ」
「何を!?」
胸に走る激痛に耐えながら私は叫んだ。
「大丈夫ですか?」
オク―が尋ねた。
「ううん。大丈夫。少し、気分が、悪くて。ちょっと散歩してくるね」
地霊殿から飛び出して、私は地獄を飛び回った。
行く先々で私は手を見た。どれもこれも青白い手だった。くにゃりと私を手招きしていた。
ああ、手が、手が伸びてくる。蔦のように私に絡みつくそれを、私はナイフで切り裂いた。しかし何度繰り返しても手がなくなることはない。不思議に思ってありったけの解析プログラムを動員して手についてスキャンしてみたが、手らしき存在を確認することはできなかった。幻覚だろうか。幻覚だろう、きっと。
フランの手に捕まらないように、飛んで、飛んで、地霊殿に帰ってきた。
屋敷の中にまで手が追ってくることはなかった。
感情のうなりが激しくなっていることに気がついた。すぐに感覚プログラムを遮断した。
「ち、地霊殿? なにそれ……」
私は自室に戻り、ベットの上に倒れ込んだ。眠ろうと思った。
私の肌が冷たい何かに触れて、私は目を開いた。そこで今まで目を閉じていたことを思い出した。
フランの死体が一匹、ベットの上に倒れていた。ベットの脇にもう一匹。
「あれ? ……違う」
フランをもっとよく見るように、私の脳が促した。
「これ、フランじゃないわ……」
誰だろう。一体、誰が、私の部屋に……。
「う、うう……。うああああああああああああああああ!! たすけてっ!! たすけてぇ!! くらいよっ!! もうなにもみえないのっ!! ここどこだっけ!? ああ、●●さえあれば!! ●●ァァァ!! だれかわたしにちょうだいっ!! おねえちゃぁん!! どこにいるの!? でてきてよ!! こわいよ!! こわいの!! みんながわたしをいじめるの!! わたしをまもって!! いたい!! いたい!! どうしていたいの!? おしえて!!」
私が身体を横たえた瞬間、時間が急速に流れ始めて周囲の景色が歪み始めた。私は脳のクロックを限界まで引き上げた。それでも処理が追いつかない。
お前が殺した。
お前が殺した。
お姉ちゃんは私が殺した。
お燐も殺した。
ペットたちを殺して、外に出て人間達を殺して、妖怪たちを殺して、皆を殺した。
生者なのか死者なのか定かではない、何体ものフランが私を取り囲んでいた。嘲笑っているように感じた。怒っているように感じた。悲しんでいるように感じた。嗚呼、これは全部、狂った私のせいで!
その時、私はサトリを開いた。
私を苛む一切の艱難辛苦を断ち切る方法は観測しないことであり、干渉しないことだったのだ。見ざる聞かざる言わざる知らず臭わず触れず感じず、傲慢にも閉じた世界の中で一人で生きる存在であれば。ああ、こんな簡単なことに気がつかなかったなんて。最初からそうすれば。ああ、私がもっとはやく死んでいれば。
「泣かないで」
優しい声がした。
お姉ちゃんはもう死んでいたので、そこにはいなかった。
代わりに、お空がいた。血まみれだった。お空は私を抱いていた。
「……こいし様。私を拾った時の事を、覚えていますか?」
お空は全身に怪我をしていた。背中から腸の管が零れているのが見えた。左手は手首から先がなかった。
「何にも分からなくて、好きも嫌いも混ざりあって、空っぽだった私が初めて抱いた感情を、これから貴方にあげますね」
「おくう。ねえ、おくう……。聞いて。気がついたの。あのね、私が生きているのが悪かったの。もう、どうしようもないくらい悪かったのよ。私が生きてさえいなければ、こんなことにはならなかった……」
お空は微笑みを崩さず、苦しそうに首を振って、私を強く抱きしめてみせた。
「大好きです。こいし様。貴方が大好きです。生きていてくれて、私と出逢ってくれて、構ってくれて、私はとっても、とぉーっても嬉しいんですよ、こいし様。いつか貴方に伝えたかった。嘘じゃありません。本当です。きっと、お燐も、サトリ様もそう思ってる。殺されたぐらいじゃ、怒りはしませんよ。二人とも優しいですからね。貴方が……」
呆けたように抱かれている私は、部屋の外から、扉の向こうから、鮮烈な感情が注がれてくるのを感じた。
もはや彼らはフランではなかった。親友を殺された霧雨魔理沙の感情がその中に含まれていた。
黒い刃物のような殺意のうねりの中、私はお空の残り火のような涙だけをじっと見つめ続けた。
「……貴方が、世界からどれだけ嫌われようとも、貴方が世界をどれだけ嫌いになろうとも、私たちは、家族は、貴方の味方なんです。たとえ私だけになっても、●●してるから。忘れないで。だから……だから、どうか」
――生きてください。
お空は零れそうになる内臓を抑えながら立ち上がると、振り返って周囲の妖怪たちを威圧した。
部屋に入ってきたのはたった六人。妖も、神も、仏も、もうそこにはいない。それ以外は死んだのだろうか。私には分からなかった。
「……仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、信眷に逢うては新眷を殺し、いじめる者は私が皆殺して殺して殺し尽くして……そして、必ず貴方の元へ帰ってきますから」
輪廻も天国も地獄も瓦解した世界で私が一人ぼっちになったのは、それから三日後の事だった。
………
………
………
●
――"理性の連界"中央付近"ヴワル魔法図書館"――
気がつくと私は本を広げて、口をぽかんと大きく開けて、空を見上げていた。雲一つなくて、高い青空だった。
隣で本を読んでいたフランが私の頬を突いて、それで私は覚醒した。
頬に涙がこびりついていたので、顔を動かすと変な感じがした。木漏れ日が眩しくて目を細めた。
どうやら私は、世界を等身大の実感を持って感じることができるようになったらしい。
「おはよ、こいし」
「うん。おはよう、フラン」
「目が覚めた?」
「うん。かなりすっきりしたよ。フランのおかげ」
緩やかな風が草原を揺らす。
私は、ぐいっと背伸びをしてみた。それから未だ鳴りつづけていたオルゴールを止めた。
「良い夢だった?」
「ちょっと昔の夢をね……。さぁて。休憩も済んだことだし。小説を書くことにするよ」
「どんな話?」
「みんなが幸せになる話」
「ふうん。でもそれ、かなり難しくない?」
「設定はふわっとしてていいの。そっちの方が皆幸せでいられるから」
「そういうものなのかしら」
「ホントウを追及する学者や魔法使いを騙すのは大変になるだろうね。けど、幸せな一瞬は、どこまでも詳しく書くことにするよ」
「それは、いいと思う」
「不幸もある。なくしてしまえば、それはもう世界ではないからね。だから悪いことをしちゃった子には、罰を与えるの。けれど、もう一度チャンスをあげるわ」
「優しい」
「そりゃあ」
私はテーブルとイス、それから紙束を作成し、ナイフをペンに変換した。
「ねえ、一つ聞いてもいい?」
「いいよ」
フランは本を閉じてから立ち上がった。
「貴方の楽園は何処にあるの?」
「間違いの向こう側、なんじゃないかな」
私の答えに満足してくれたのかはフランの表情からは推測することができなかった。
「んじゃ、邪魔しちゃ悪いから、私は遠くに行っているわ。完成したら呼んで」
フランは数式の残滓を残して消え去った。
それから私は瞳を閉じて、新たな世界の構築を開始した。
●
見送りは簡素なものだった。
「結局、もうサトリとしては生きられなくなったんだ」
「そ」
テーブルの前に開いたゲートは、私の世界へと通じる一人用の一方通行だった。私の技術ではそれが限界だった。
私は両手を広げてフランを抱いた。友情と感謝を込めて強く抱いた。フランも同じように抱きしめてくれた。
「この、オルゴールをあげるわ」
ハグを終えて、私はポケットからオルゴールを取り出しフランに渡した。
「いいの? この記憶は貴方の世界の記憶でしょう。貴方にとって一番大切なものじゃないの?」
「貴方を見つける目印にするの」
私はフランの手を握った。
「……貴方も●●を忘れた迷子なのでしょう?」
フランの表情は変わらなかった。
「いつか必ず、貴方の世界と私の世界を繋げてみせる。その方法を見つけて、貴方を迎えに行くから。必ずよ」
「夢のような話ね」
フランが力なく苦笑した。
「……だけど、嬉しいな」
「貴方は私を助けてくれた。●●を教えてくれたの。今度は私の番」
「いいよ。私の運命は閉じているから」
「だから、それまでどうか狂わないでいて。生きるのよ」
「無理よ」
「貴方ならできる」
私は何か言おうとしたフランの唇を塞いで、顔を放した。
「……またね」
返事はなかった。ただ、フランは少しだけ悲しそうに頷いた。
◇
――"新世界"――
ペットから三日ぶりに妹である古明地こいしが帰ってきたと聞いた姉の古明地さとりは、彼女の自室までわざわざ足を運んで面会を求めた。コンコンと二回ノックしたが返事はない。もしやまた出て行ってしまったのかと少しだけ残念に思いながらゆっくりと扉を開くと、妹のこいしがちょうど部屋から出ていこうとした所だった。
「おねえちゃん!」
こいしはさとりの姿を認めると、思いきり抱きついた。
「ああ、おねえちゃん! 会いたかったよ! 大好き!」
さとりはこいしの心が読めない。その為、さとりにとってこいしの言葉とボディーランゲージが彼女の気持ちの全てであり、今、その心の全てから愛されているという快感をヒシヒシと感じた。
久方ぶりの妹の顔を見たさとりは、こいしが泣いている事に気がついた。きっと寂しかったのだろうと思い、さとりはこいしに同情し、ほろり涙をこぼした。
遅れてこいしの部屋に辿りついた燐は、姉妹の熱い抱擁に少し気恥しさを感じつつも、それを遥かに上回る愛おしさを感じて顔を綻ばせた。
「ええ。私も会いたかったわ。心配していましたよ。お腹が空いているわよね。さあ、一緒に夕食を食べましょう」
「それは嫌」
「え……?」
予想外の拒絶に、さとりは卒倒しそうになった。今やさとりはこいしの心の全てから拒絶されたに等しい。
「今から七日七晩、私は部屋でやることがあるから、絶対に中に入ってこないでね」
「ど、どうして……。私と一緒に食べるのは嫌なの?」
私の事が嫌いになったのかしらと思い、さとりは尋ねた。
「ううん。大好きだよ、おねえちゃん」
「そう……」
さとりは再びこいしから愛されている快感に満たされた。
「やることがあるの。友達を連れてきたいから」
「ええと、手紙を書くのかしら」
「ううん。どっちかというと地図だね」
じゃあねおねえちゃんとこいしは笑い、部屋の扉を閉じた。
ちょうどその時やってきた空は部屋の前で立ち尽くしている燐とさとりの二人を見て「なにをやっているんですか」と尋ねた。
「取りあえず応援しましょうか」
さとりが答えた。
◇
こいしが部屋に閉じこもってから三日目。さとりは部屋の前で布団を敷き、そこでくつろぐのにも慣れた始めた頃、部屋の中から奇声が聞こえてくるようになった。
「うふふ」や「あはははは」のような笑い声から誰かと話しているような声まで、時には怒声や悲鳴など、その言葉は多岐にわたった。
いよいよこいしの精神状態が不安になったさとりは「ちょっとだけ覗いてみませんか?」と燐と空に尋ねた。
「駄目ですよ、約束なんですから」と空は反対した。
「けど、首でも吊られてたらたまりませんよ。……正直やりかねない」と燐は賛成した。
さとりは賛成だったので、多数決でちょっと覗いてみることに決定した。空はむっとした。
誰から覗いてみるか順番をじゃんけんで決め、燐、さとりの順番になった。空はそっぽを向いて参加しないことを表明した。
「ちょっと、さとりさま。卑怯ですよ。あたいが何出すか知ってたでしょう」
ぶつぶつ文句を言いながら、さりとて主人に逆らうこともできず、燐はドアをそっと押しのけ、中を覗いてみた。
そして、そのまま気絶した。
まあこいしの部屋ならちょっと覗いて燐が気絶することもあるだろうとさとりは冷静に考え、とりあえず燐を引き摺りだしてドアを閉めた。
「これ。お燐。お燐。目を覚ましなさい」
ぺちぺちと顔を叩かれ目を覚ました燐は、ぼんやりとした目でさとりの顔を見つめた。
「何が見えましたか?」
「何って、さとりさま。そりゃ……」
さとりは燐が想起した記憶を読み、部屋中に貼りつけられた紙の映像を閲覧し、そこに描かれている名状しがたき冒涜的な記号や数値の数々を見た。
「オロロロロロロロロ」
「オロロロロロロロロ」
二人は吐いた。
空はそっぽを向いていたが、頭を抱え呻いている二人を見ていると流石に心配になり、彼女たちを吐瀉物まみれになった布団の上に横たえた。
「まあ。私の妹はどうしてしまったのかしら」
さとりはもう一度、今度は冷静さを保ちつつ、先程の記憶を辿ることにした。想起されえた燐の記憶の中で、こいしは部屋の中央に蹲って紙に何かを描きこんでいた。映像の端々は確かに冒涜的で見るに堪えないものだったが、それでもこいしの一所懸命な姿は姉の心を強かに打った。
妹のやっていることは自分には理解できないが、応援を続けることにしよう。そう決めて、まずは汚れた布団をどうにかしようと考えた。
「にゃあ! 壁に! 壁に!」
その隣では、燐が悪夢にうなされていた。
やがて七日七晩の末、こいしは部屋から出てきた。
ペットたちを集めトランプゲームに興じていたさとりは、青白い死人のような顔をして、それでも達成感に満ち溢れたこいしを見て、心配半分、喜び半分、複雑な気持ちになった。
「出かけてくるね、おねえちゃん。ちょっと行くところがあるから」
「お腹は空いていないのですか?」
「ペコペコだけど、大事な事なんだ」
「でしたら、しっかりやりとげなさい」
こいしは頷くとその場から掻き消えた。
ペット一同はこいし様はワープなんてできたかしらと不思議に思ったが、まあこいし様ならと思い直し、さとりは妹が帰ってきた時の為に、ご馳走を作っておこうと考えた。
◇
八雲紫の核に直接コンタクトをしてきたのは、紫から観察して古明地こいしに似た"何か"だった。
戦闘行為は極力望まないというメッセージを受け取り、こいしと名乗る存在に対する自身の解析がまったく通用しないことを悟り、紫は時間をかけ人の姿に化生して、寝ていた式達を全員叩き起こし、何時でも全力で術を繰り出せるようにしてから、こいしのような何かとの対談に臨んだ。
「こんにちは」
「こんにちは」
紫は答えた。
「地底のお嬢さんね。どうやってこの場所を?」
こいしは「馬鹿にだって丸わかりだよ」というメッセージを高次元拡散言語に変換して送りつけた。それはちょうど紫が先日思いついて、今後の暗号として活用しようと考えていたものだった。
こいしの底知れなさを実感した紫はすぐさま敵対行動を止めるよう式たちに伝え、可能な限り礼を正して彼女と向き合った。
「とんだご無礼を」
「構いません。貴方の対応としてはそれが最善でしょうから」
こいしは紫の術式を用いて空間にティーセット一式を創りだし、そこに腰掛けた。紫は向かい側に座った。
「それで貴方の用件は?」
「私は、貴方が住んでいる界が近いうちに破綻することを知らせにきました」
こいしが言った。
「界を移すべきです」
「界とは?」
「幻想距離という単語はご存知?」
紫は記憶の索引を引いて、一連の情報を引き出した。
全ての世界は空想されたものとして見なし、世界と世界の隔たり計るというアイデアだった。紫はそれに関する情報を価値のないものと見なしアーカイブしていた。
「ええ。空想家の与太かと」
こいしは右手の平に野球ボールサイズの二十面体を創りだし、テーブルの上に置いた。
「ここに貴方が知るべきレベルの情報を整理しておきました。可能な限り早く解読し、理解してください。脳が炸裂しないよう気をつけて」
続いて、先程よりも小さな立方体を創りだし、テーブルの上に置いた。
「こちらは貴方を取り巻く人物関係のデータです。ここから今後貴方と考えを同じくするであろう人物を私が選びましたので、そちらの項も参照してください。そして、彼らとの関係を良好に保ちつつ、私から得た情報を伝えてください」
「ちょっと待って」
紫が両手を振った。
「貴方の思考速度で矢継ぎ早に繰り出されても困るわ。そもそもこの空間自体、通常の何万倍の速度で時間が流れているというのに」
「それもそうね」
数秒考えたこいしはスキマを作り、その中へこちら側へ来るよう呼びかけた。呼びかけに応じて出てきたのは八雲藍だった。藍は困惑した表情で紫を見た。
「ゆ、紫さま。これは一体……」
「この式をコンピュータとして使いましょう」
「構いませんけれど、負荷は?」
「九尾ならば問題はないでしょう。そもそも、貴方は思考能力拡張の為に彼女を起用しているのでは?」
「確かにその通りですわ。……藍。お願い」
「うー。危なくないのですか? 痛いのは、ご免なのですが」
「大丈夫だよ。痛くはしない。これを咥えるだけでいいからね」
こいしは紫色の紐を二本創り、その先端を藍に差し出した。藍はいやいや紐を咥えた。
こいしは紐のもう一方の先端をテーブルの上の二十面体に接続した。紐は二十面体に吸い込まれるようにして合体した。
紫は藍と同期して圧縮された情報の解凍に取りかかった。
外の時間で十五分。中の時間で900×42000秒後、紫と藍は死体のようにテーブルに突っ伏していた。
体感時間で一年近く自我を否定され、こき使われ続けオーバーヒートした藍は自分が生きていることを運命に感謝し、不眠不休で情報を吸収しきった紫は猛烈な眠気に襲われていた。こいしはその間、身動き一つせず二人の様子を眺めていた。
「………。ええ。正直、手玉に取られてばかりだったから貴方の事が心の底からいけ好かないと思っていたわ。けれど、その認識は間違っていた」
紫が頭を抱えながら言った。
「狂ってる」
「考慮する次元がちょっと増えて、それを統括する上位次元をちょっと追加して、それらをマッピングする手段をいくらか紹介しただけだよ。貴方が学ぶべきことは他にも沢山ある」
「勘弁してほしいわね」
「とりあえず今はここまでにしておきましょう。これで危機感は持ってくれましたね?」
「ええ。存分にね。幻想の肥大化、分化、離別、菲薄化……そして、破綻へのシュミレーション。説明にあった幻想の穴という界について詳しく教えてほしいのだけど。できるだけ簡潔に」
「後の説明に追加しておきましょう。文字通り、幻想の一切ない世界のことです。一度はまれば抜け出すことは敵わない、貴方達の界における物理の用語で言えば、それはブラックホール」
「貴方はその界の間近に幻想郷を移そうとしている」
「弱い幻想が淘汰されるからです。すなわち、そこにはインスタントに基幹を揺るがすような規格外の存在が生きていられなくなる。従って、肥大化は起こらない。簡単な理屈です」
「………」
「説明を追加しておきましょうか」
紫は休憩を終えて、未だ泥のように寝ている藍を横目で眺めながら、ティーカップを傾けた。
「貴方は何者なのと訊いてまたあの幾何学ブロックを追加されても困るから、簡潔な返答を期待して質問をするわ。……私の世界にいる"古明地こいし"の皮を被った貴方の目的は何?」
「家族を守るためです。もはや私一人の幻想で、この世界は救えない」
「私を選んだ理由は?」
「あちらの世界に渡れば、私の処理能力は格段に落ちることでしょう。私も規格から外れた弱い幻想なのです。もしもの時の手段を残しておきたかった」
「貴方の目論見では、その世界を牽引するのは私ってことね」
「いいえ。貴方だけではない。ただ、貴方がその因果の中心付近にいることは確かです」
紫は超越者然としたこいしとの会話に飽きて、悪戯半分、カマをかけてみることにした。
「……まだ、あるんじゃないの?」
無機質だったこいしの表情はその時になって初めて崩れた。くすくすと乱数だらけの笑いを漏らし、紫を驚かせ、彼女は言った。
「まあね」
◇
――"最果て"より±7="新世界"――
満月が歪む。因果が渦巻いている。
世界が、理屈が、過去が、一瞬にして塗り替えられたことを夜の王レミリア・スカーレットは知った。
途方もない硬度の鎖が幾重にも彼女を縛り、全能であったはずの能力が封じられたことを知った。
しかし自分が如何なる手段でこれらの事実を知るに至ったのか脈絡を見出すことができなかった。
そこで記憶が改竄されているらしいと気がつく。
気まぐれな竜神がこの界の近くを過ったのか、単なる天災か、それとも……。
「やあ。孤独な王女様」
濃厚な血の臭い。
天を貫くほど巨大な玉座に座し、永久の眠りに沈んでいた王は目を覚ます。
「非力な幻想め。何故このような場所にいる?」
「貴方の姫を攫いに」
レミリアが鼻で笑う。
「世界の辻褄を合わせるには、どうも貴方を説得するしかないみたいなの」
「封印を解く気ね。正気ではない」
「そうさ。私は狂っている」
玉座の前に盗人が立つ。界への浸食はすでに開始され、見渡す限りの大地には薔薇が敷き詰められていた。長い間、闇の黒しか見ていないレミリアはそれさえ眩しくて目を顰めた。
「私の命は、あれを永久に封印しておく為にある」
「私の命は、あの子を連れ出すためにあるの」
「あはは。意志が食い違ったわ。……古来より、そういう問題を手っ取り早く解決する方法があるのを、お前は知っているかしら?」
「知っているわ。それって、とびっきり優雅で素敵で稚拙で蛮族的な考えよね」
「その通り。決闘よ」
王が立ち上がり、天空の闇は蜷局を巻いて彼女を中心に踊り始める。
盗人は両手を広げ、薔薇を模した魔法に攻撃の命令を下した。
「こんなにも月が紅いなら、きっと」
「楽しい夜になりそうだね」
「永い夜になるだろう」
今、私は絶望のただ中にいた。しかし一切の希望がなくなったわけではない。それはありとあらゆるモノが抜けきり澄んだ心の匣、その深奥に在る。私はいつしか久遠の時の果てにそれを見つけ、手に携えて戻ってくるつもりだ。あの人との再会を果たす為に……。
●~ムカンノカネ~ "探索者こいし最後の冒険"
――"那由他"より±1521界層付近――
新たな界に到着してすぐ、私の受信箱にコールが届いた。
「おや」
テーブルの上にティーカップを置き、紅色をした数式の塊がこちらを向いている。
テーブルと椅子とティーカップと数式。それらは純白の背景の中で否応なく際立っていたので、数万里の距離を隔てていても容易に気がつくことができた。私は空間を湾曲させて移動を行い、それらとの距離を一里ほどに設定した。
「珍しいね。こんなところにヒトがくるなんて」
「私はヒトなのかな?」
「私は少なくとも落ち着いて会話できる相手は皆、ヒトだと定義している」
よく観察してみると数式の羅列は通話用のコールの他に雛菊のコールと芥子のコールを発していることに気がついた。花の名を模したそれらは探索の過程で拡張させた知覚の一種だ。大まかに分類すれば雛菊が視覚の子孫、芥子が味覚の子孫にあたる。私はまばたきの合間にそれらを主要な知覚として登録し、もう一度数式を見た。
今度は数式が私の原型であった人型の少女と酷似した体を持つ存在として認識できた。相手が人懐っこい笑顔のコールを送っていることに気がつき、私も同様のコールを送り返した。
「へえ。私の事をちゃんと理解してる。偶然迷い込んできた訳ではないみたいね」
「うん。ここまで旅をしてきたの」
「そう。それはご苦労様ね。だけどお生憎様、よく見かけるわよ、貴方みたいなの。だから特別ではないの」
私はむっとした顔に表情を変化させ、肩を竦めてみせた。
「私は、こうして会話できる相手と出会えたのは久しぶりかも。だから嬉しいかな」
すると少女は小首を傾げて私のコールをまじまじと観察した。
「こんなところにくる物好きの半分は全身がすり切れてしまったただのプログラムか、もう半分はここが天国か何かと勘違いしている愚か者なのだけど……貴方はそのどちらでもないようね」
「貴方だってそのどちらでもないようだけど」
という私の言葉で、それまで一次関数のように無機質だった笑顔が初めて崩れ、乱数だらけのカオスな笑顔が表示された。そのあまりの突拍子もない無秩序さに、私は友人にいだく時のような親しみを覚えた。
「この辺りのこと、私は理性の連界と呼んでいるわ。ここじゃ奇跡的なくらい色んな法則が落ち着いているの。だから安心して存在していられるわけ」
「貴方の名前はなんて言うの?」
「フラン」
「私はこいし」
「ふふ。互いに名前を名乗りあったのは何世紀ぶりかしらね」
嬉しくてたまらないといった調子で、フランが椅子から立ち上った。
「久しぶりの客。いいでしょう。私についてきなさい。お茶会にとっておきの界があるのよ」
まるで絵を描くように理解不能な紅色の数式が空間を埋め尽くし、その中央に黒く複雑な図形が描かれた。あれはおそらくジャンプするための行き先を示しているのだろう。いわば門というやつだ。初期の頃は私も何度か作成したことがあった。その時のタグは私の記憶の中に保存されているが、むこうの界はとっくに変異してしまっているだろうからジャンプは不可能だろう。フランは門を描きあげると、それらの暗号を解読するためのツールを私に送り付けた。恐る恐るダウンロードしてみると、芸術的なまでにシンプルな理論で組まれた概念が頭の中を満たし、驚きのあまり私は自分の両頬が紅潮するのを感じた。フランが苦笑して鼻を鳴らす。
「フランって、とってもとっても頭がいいのね」
「それくらい暇さえあれば誰だって思いつくわ。さあ、行きましょう」
フランの後を追って界をジャンプし、次に私の両足が踏んだのは柔らかな草原だった。周囲を見回すと所狭しと背の高い書架が立ち並び本が並んでいる。天から降り注ぐ柔らかな光によって界全体が照らされ、緑の絨毯には疎らに広葉樹が生えている。解放的なのだか閉塞的なのだか分からない場所だ。
「……ここはヴワル図書館と言ってね、私がありとあらゆる界から集めた、ありとあらゆる本がしまわれているのよ」
「虫食い……バグは?」
「滅多にないわ。記憶が損なわれないように何重にもプロテクトをかけているからね」
そんなやり方を私は一切知らない。私はフランの持ち得ている技術や能力の高さに感嘆した。
「尊敬するよ。私は自分が傷つかないようにするだけで精一杯だったのに」
「あら、それこそ情報を蒐集して保管することよりもずっと難解なことなのよ。それより貴方の旅の話を聞かせて頂戴」
フランが虚空に手をかざすとシルクを被せた丸いテーブルと木で編まれた椅子が現れた。テーブルの上にはティーカップが二組あり、注がれた紅茶からは湯気が出ている。私は草原の感触を足裏に感じながら歩いて移動し、椅子に座った。
フランもスカートの皺を伸ばして行儀よく座った。紅茶なんて飲んでも腹は膨れることはなく、また減ることもないので必要はないのだが、どうやら彼女はこの習慣を好んで行っているらしい。
「……それで、どうしてこんなところまで?」
「●●を探しにきたの」
「ふうん。けどそれ、貴方が生まれた時には持っていたはずでしょ?」
「失くしちゃったの。大切なものだったんだけどね」
「おっちょこちょいね、貴方」
「あはは。笑えないよ」
いつの間に出現させたのだろうか、テーブルの上には一冊の本が広げられていた。何の文字も書かれていない。
「そんなものは案外近くに落ちているものだわ」
「そんなことはないよ」
慌てて首を横に振る仕草を示すと、フランは年老いた老婆のように優しくにっこりと笑った。
「かもしれないわね。それで、どうやってここまで?」
「私は……」
私は目を閉じて、旅に出た日のことを思い出した。
静脈のようなどす黒い夕闇の空。沈みゆく赤色。抱きついた姉の体温。風に吹かれ舞い散る落ち葉の音。空の深さが肌を刺す、あれは秋のことだったか。
「……最初は、そう、夢を見てた。私ね、他人の夢を見ることが得意だったんだ。小さい頃から寝てる時も起きてる時も夢ばかり見てたからからね……。そうしてるうちに、暗くて深い海溝みたいな亀裂を見つけたの」
「集合無意識ってやつね」
それが沢山のヒトの心が溜まってできた澱のようなものだと知ったのは随分後になってから。
「なんだか吸い込まれそうで怖くなって、夢を見るのを止めようと思ったのだけど」
気がついた時は既に夢は現実を侵食し尽くしていた。
私の原型は他人の心を知覚することができるサトリ妖怪。そのくせ私の知覚できる方法は限られており、それはヒトの五感に準拠していた。私にとって他人の思考は文章のように流れ出てくるのではなく、まして口頭から発せられる音声のように聞こえるのでもない。殆どは言語化するまでに昇華することはないただのイメージであり、未完成の、例えるならばヒトの胎児のような形をしている。無意識を旅した今ならば分かる話だが、心とは限りなく彼ら胎児の夢に酷似しているのだ。
私の知覚が構築する世界は、より鮮明で強烈で未熟な夢によって上書きされた、それだけの話だ。
「どっちが夢なのだか分からなくなっちゃったの」
「"魔に魅入られる"って言うのよ、それ」
フランが溜息を吐くように言った。
「私も妖怪だし、魔だと思うのだけど」
「いいこと、こいし。深淵に触れたものは総じて気がふれるものなの。そして、その運命も狂う。貴方は正しき運命に立ち帰るために●●を探しているのね」
「そうだね」
そのつもりなのだけど、と話を続けるつもりだったが広げられた本の白紙だったはずのページがいつの間にか文字で埋め尽くされていることに気がついて口を閉ざした。口頭で説明したものだけでなく、頭の中で考えていたことまで記録されているようだった。予想はついていたけれど、フランには想像を絶するほど高度な洞察能力があるらしい。
「記録しているの?」
「あら、いけない?」
「構わないけど……目の前でされてるとなんだか恥ずかしいなあ」
「代わりに私も話をするから、それでいいでしょう?」
少しだけ憮然として私は頷いた。フランは紅茶を啜り口の中を湿らせてから話し始めた。
「私は神話の世界を経由してここまで来たの」
「神話? それじゃあフランは神様なの?」
「いいえ。そうじゃないわ。私は魔法使いでね、神話魔法の研究をしてる最中にへましちゃってアレに触れたの。元々壊すことが得意だったのだけど、今では何でも壊すことができるわ。そのおかげで私が元いた世界が壊れてしまったのだけれどね。貴方も一度くらいは神話の世界は見たことがあるでしょう?」
「一応はね」
「神話だって突き詰めていけば集合意識が作り出した仮想の世界。私はそこから心の中へと潜ることができたの。虚実と現実の壁を壊してね。……さて、こいし。そもそも心とは何だと思う? どうしてこんなにも深い界層が存在しているのだと思う? 地を這う多細胞生物如きの脳髄の中に、そんな深淵が存在していると思うかしら?」
私は紅茶を一口啜った。
「ううん。思わないわ。私が知る神や妖怪を作り出したホモ・サピエンス総体の意識が在る浅瀬はもう、とっくに過ぎている」
「ならば、ここはどこ?」
「思うに、意識は地球上だけに存在している訳ではないと思うの。数は少なくとも、宇宙のあちこちで芽吹いているはずよ」
「ならば、宇宙中の生き物の集合意識?」
「ううん。それも違う。界を潜っていく途中で私は泡沫宇宙という理論、こう、無限の空間が泡のように幾つも存在しているという仮説を聞いたのだけれど、それらの泡の中に存在するすべての意識の集合だと私は考えているわ。それならば既存の概念では認識さえ不可能だった存在が散見できるのも頷けるはず」
「そうは言っても根本は同じでしょう。それらにはエネルギィ=重さ×光速の二乗という物理の縛りがある」
「……じゃあフランはどう考えてるのさ?」
フランは片目を瞑ってみせた。
「私は私達にとっての泡沫宇宙をビールの泡として認識している種族と、ここで話したことがあるわ」
「まさか」
「対話には骨が折れたけどね」
私はからかわれているのかもしれないと考えてそれを一笑しようとしたが、フランの表情が変わらないことに気がついて、ごくりと唾を飲み込んだ。
「つまるところ、理論の一切は全て幻想なのよ。初めに意識ありきで、意識が夢を見る。物質の周囲に時間と空間が付随しているようにね。それによって法則が生まれるの。
自らの界を作る原因を突き止め、それを生み出している原因を手繰り根源とされる界へと潜る。現実にそうして渡航している種族も沢山いるのよ。けどこれって何かに似てるわよね。……そう、私達の心そのもの」
私は話についていく為に必死に頭を回転させた。
「じゃ、じゃあ、どこかに世界を創りだしたはずの一番初めの意識があるはずだわ。もしかすると、それがきっと」
「貴方の探している●●そのものかもしれないわね。もしかすると」
「フランはここから下の界に行ったことはあるの?」
「あるわ。三億層までの地図もある。もっともあそこは劣化が激しいから役に立たないかもしれないけれど……」
ちょうだい、と私が叫ぶより早くフランが片手をひらひらと振った。
「あげない」
「どうして?」
「だって、こいしをみすみす失いたくないからよ」
「失う?」
私は問い返した。
「何を今更……」
私は椅子から立ち上がり、フランに詰め寄った。
「貴方、もしかして私を気遣ってるの? だったら余計なお世話だよ。ああ、そっか。魔法使いって欲しいものはなんでもコレクションするんだってね。私を捕まえようなんて考えてるんでしょう。馬鹿な考えだよ。私を観察して記録してシュミレーションできればそれで私が一体できあがるよ。貴方ほどのスペックの持ち主なら私のことを私より理解することだって可能だろうし、それでいいでしょう? その"こいし"を好き勝手弄べばいい。私の一体何を大切にすることがあるのかな?」
「ふうん。人格をコピーしたことがあるのね」
腹の底まで見透かしてくるようなフランの瞳に射竦められ、私は彼女から顔を背けた。じくじくと胸が締め付けられていることに気がついて、感覚を遮断するかしまいか少しだけ迷ったが、そのまま放置しておくことにした。
「……フランはなんでも知ってるね。そうだよ。セーブ&ロード。新しい界に潜るときは決まってコピーを残しておいて、定期連絡がなかったら……私が死んだら、コピーが動き出すの。基本でしょ?」
「そうね。副作用としては、それを繰り返していればレーゾンデートル、己が存在する理由について嫌でも考えてしまうことかしら」
私は片方の口の端を上げてフランに笑いかけた。
「いいや。分かってないねえフラン。こうみえて私は現象なのよ。探索を続けるというただの現象。現象は自分について悩むことなんてそもそもないんだよ」
「そんなことはないわ、決して。だって貴方には未だ感情があって、ちゃんと悩んでいるもの。悪いことは言わないわ、少しこの界で休んでいきなさい。……己を手放すのが怖くて睡眠なんかとってないのでしょう?」
久々に対話したからだろうか、沸々と湧いてくる感情のうなりが私をこの失礼な相手との交流を強引に打ち切って探索に引き戻そうとする。そうしなかった理由は曖昧なものだった。地図は必要だったし、それにフランの柔らかく、それでいてどこまでも枯れた表情を見ていると……誰かに似ているような気がしたのだ。
私はしぶしぶ頷いた。
「……分かったよ」
●
――"理性の連界"中央付近"ヴワル魔法図書館"=スタートラインより±0――
不思議なことに心だけの存在となった今でも夢は見るらしい。意識していなかったためか夢を記憶することはできなかったが、その残滓から痛烈な寂寥感を感じ取ったことから、その夢が幸せなそれだったのだと推測した。幻想を幻想のまま完全に捉えることは難しいのだ。
草原に横たわっていた体を起こすと、隣で寝そべって本を読んでいたフランと目が合った。
「おはよう。よく眠れたかしら?」
「……ああ、うん」
それきりフランは本に視線を戻して何も言わないので、私は立ち上がって近くを散策することにした。
歩けども歩けども墓標のように書架が立ち並んでいる。私は大地を蹴って上昇し、書架の天辺に座ろうと試みたが、一番上の段にはどこも本が乱雑に積まれていて座ることはできなかった。
仕方なく、その内の一冊を手に取って広げてみた。
「フラン。花なんか弄っていないでこっちにおいで。紅茶が冷めてしまうわよ」
耳元で大人びた声が聞こえたので、私はそちらを振り返った。
「お姉さまってば、いっつもそう。お茶を飲んでばかり」
どこかの庭園だろうか、紅い花に彩られた広場にフランともう一人、藤色の髪の少女が立っている。
場面はその一瞬で途切れてしまったが、狂気的なまでに綿密な言語群から成り立つ一連の文章は、この数秒間の情景をあたかも永遠と錯覚させるまで克明に描いていた。
「……レミリアお姉さま」
それがフランの姉の名であるらしい。
私は近くに置かれていた本も手に取った。
「それ、血?」
フランが問いかける。
「ええ。薄めてみたのだけど、貴方の口に合うかしらね?」
背景は黒一色だった。文章が未完成なのかもしれない。それでも仮想のレミリアお姉さまを構築する文章量は圧倒的だった。
他の本にも手を伸ばそうとした私は、しばらく逡巡してそれらを元の場所に戻すことにした。そういえば他人の心を覗くなんて行為は数えきれないほど行ったことがあるが、故意に行ったことは一度もなかったように思える。抵抗を覚えている自分に少しだけ驚いた。
今度は書架の中から本を取り出してみた。こちらは場面を呼び起こすことはなく、ただ数式が羅列しているだけだった。やはり理解はできない。
私は本を閉じて目を瞑ると、位相を変異させて自分が寝ていた場所まで戻ってきた。
フランは変わらず寝そべって本を読んでいる。
「フランって、小説書くんだ」
「まあね」
本から顔をあげてフランは言った。
「どうだった?」
「どうだったって?」
「感想よ」
「ああ……」
勝手に見てしまったことを咎められやしないか心配だったので、フランの気のない反応は拍子抜けだった。私は少し迷ってから、素直に思ったことを口にすることに決めた。
「……えっと、現実そのものみたいだったよ」
「ふん。ま、悪くはないわ」
フランは本に栞を挟むと、それを閉じて無造作に放り投げた。四五回転錐揉みした本は地面に衝突する前に消え去ってしまった。
「気持ちが良いものよ。なにかを創りだすって」
「ふうん」
「暇つぶしにやってみたら?」
「私が?」
「ええ。……しばらくこの界に滞在するつもりならね」
フランは私にメモ用のデータとそれに記入するためのツールを送ってきた。
それからしばらく放浪していると気がつかない内に界を照らす光が弱まっていき、やがて空に月が浮かんできた。紅の満月だ。夜空には星も雲もなく、漆黒の壁面のように貪欲に色を吸収していた。
私の視覚は少しの明かりの中であっても支障をきたすことはなかったので、放浪しながら適当に目についた本を広げては鑑賞していた。
書架の上に積んである本の大半がレミリアお姉さまとの交流を綴った文章だった。彼女を語る文章からは執念めいた敬意が滲み出して私を取り巻いた。実在の人物なのか、それとも架空のそれなのか(そもそも両者の区別はないのだが)は定かではないが、フランにとって彼女は大切な、おそらく彼女自身の命と同等に尊重されるべき存在なのだろうと私は考えた。
フランから地図を奪おうと決意したのは夜が明けてからだった。
私は自分の記憶の中で、最も攻撃性の高い構造を想起した。構築は容易だった。それは一振りの果物ナイフの形をしている。この剣に貫かれた意志はどんなに高度であろうと"ただ"で済むことはない。それはこのナイフが私の旅の過程で遭遇した一文明の好戦的な意識的集合体を両断し滅殺したという経歴からも保証できることだった。
正直こんなところにいることへの目的は未だに見出すことはできそうになかったし、何も得るものはないまま退廃していくのは目に見えている。永久と錯覚しそうなほど膨大な時間を生きた私の認識は、そのためか時間の浪費を嫌う傾向にあったのだ。
フランは相変わらず本を読んでばかりいた。
「やあ。今日も本を読んでるね」
「もちろんよ。近頃の私はそうして生きてるんだもの」
「ところで生きるってなんだろう?」
「その問いに躊躇いなく答えられるようになった輩は、もはや生きてはいないと私は思うわ」
私はほんの少しだけ首を傾げた。
「やっぱり、私に地図を渡すつもりはないのかな?」
顔をあげてフランは私を見た。それから、ナイフを見た。
「ええ」
「そっか」
私は鈍く光るナイフを振り上げて、フランの左胸へ突き入れた。フランに抱かれるように突き刺しながら、ナイフの先端から通達される数値を計測してみたが、防壁が張られている様子も反撃のプログラムが起動する様子も一切なかった。私は戸惑った。こんな簡単に仕留めたとは考え難いのだ。……まさか、油断していたのか。あの博識で底知れないフランが!
戸惑いながらも私の心は氷のように冷静だった。反撃がないことを確認すると、私は手早く抵抗を失ったフランの身体を横たえて、人差し指を口の中に入れた。身体の情報を探るためだ。予想通り、外殻を構築しているデータだけで既に莫大な量だった。いとも簡単に仕留めることができたとはいえ、彼女が私よりも高度な生命体だったことは確かだ。取りあえずは皮を引き剥いで、有益な情報を漁り尽くしてしまうことに決めた。
"吸血"するためにフランの肩口へ顔を近づけようとしたその瞬間、
「……何を、されているのですか、こいし様?」
ナイフを強く握りしめて振り返ると、そこに見知らぬ人型の存在がいた。人型をしているが微細なパーツが違うので、フランではないことが分かった。タグに表示された名前は、オリン。情報を入手した経緯は添付されておらず、それ以上の情報はいくら記憶に検索をかけても見つかることはなかった。何らかのプロテクトがかかっているのだろうか。
オリンからは敵対の意思は未だ感じられない。表情を膠着させている、目の前の情報を正しく処理できていない状態、つまり狼狽していた。
「違うっ!!」
私は喉が潰れるほど叫んでいた。
「これはっ、その、違うのっ……。私を信じて、おりん」
「けど……もう、死んでるんじゃ……」
はっとして私は機能停止したフランの顔を覗き込んだ。美しい陶器のような白い肌はいっそう青白くなって醜悪さの翳りを帯びている。虚ろな、それはまるで抜け殻のような表情。人形のようだ……人形? 人形。人形。
「……なぁんだ」
そこでやっと私は理解した。謎が解けて落ち着きが戻ってきた。なんてことはない、これは、フランの防衛プログラムなのだろう。つまり最初からフランは私に姿を見せてなどいなかったのだ。だから防壁なんて構築していなかった。そんなもの、必要がないからだ。いくらでも複製すればいい。
この死体となったフランはおそらく対話の為の仮想体。つまり、あそこにいるのは……。
私は相手の反撃が始まる前に素早く位相を変化させ、オリンとの距離を詰めた。そのままナイフを返して、喉を裂くためだ。身体は滑らかに動いてくれた。浅く、広く、熟れた果実に切れ込みを入れるように優しく……。
シュミレーション通りに身体を動かすと、オリンの皮は綺麗に裂け、中身を切り裂き、紅い血飛沫と酷似した、真っ赤な数と記号の羅列がそこから噴出した。
「あ……ぅ……こいし……様?」
フランは変わらない困惑したままの表情で私を見て、そのまま事切れて崩れ落ちた。一抹の不安が胸の奥に湧き上がった。けれどそれだけだった。反撃もない。実にあっけなく、私は勝利したのだった。
「……あ、はは。はははははは! ほらね。ほーらね。やっぱりだよ! 危なかったなあ! 邪悪な魔女め! 私を閉じ込める気だったなっ! けど、そうはいかないわっ! 私はこんなところで旅を終えるわけにはいかないんだっ!」
界に響き渡るように、どこかで息を潜めて私を観察しているフランに聞こえるように、私は声をはりあげた。
「う。ふふ。ああ……。地図を探さないと……。はやく、地図を」
顔に付着した数列を袖で拭い、息を整えてから、転がった二体の人形の検分にかかった。
不思議なことにそれらの身体からは、もはやデータを探し出すことはできなかった。ナイフでどこをどう引き裂いても生臭い血と生物的な肉ばかりなのだ。生の内臓というものを久しぶりに見たが、それは気分が悪くなるばかりで、気がつくと私は歯を食いしばり顔を顰めていた。他はというと、オリンの頭部にフランにはない大きな、動物の耳のようなものが付いているのが私の興味を引いたぐらいだろうか。もしかすると聴覚を拡張していたのだろうか。今後何かに利用できるかもしれないと思い、私は頭部からその二つを切り離してポケットに入れた。いよいよ嫌悪感に耐え切れなくなり、死体はその場に放置することにして、私は歩いて界の探索を続けることにした。
それからマッピングをしながら数か月歩き続けたが、書架は際限なく続くので、私は探索を諦めて書架の本の内容の解読を始めた。こちらは嫌悪感をまったく感じることはなかったので、およそ三年ほど続いた。
ようやく65パーセントの本に共通して使用される前提知識を発見して研究が軌道に乗り始めた頃、ひょっこりと書架の陰からフランが顔を出した。
「あら。まだいたの?」
「知識なしで旅に出るより、貴方の知識を身につけた方が、効率がいいもの」
「服が血でべとべとね。どうしたの?」
私は返答せず、本に視線を落とした。
「……それで、私の事は理解できたかしら?」
「レミリアお姉さまが如何に素晴らしいか、ぐらいかな」
「それで十分よ。こんな私が唯一自慢できる存在なの。貴方にはそんな存在がいる?」
「どうだろう」
「ねえ、こいし。やっぱり私は貴方が気に入ったわ。できることなら大切にしたい」
「……私を飼う気?」
フランは少しだけ悲しそうな表情をにじませながら微笑んだ。
「ここから下の界は貴方にはキツすぎる。悪いことは言わないから、引き返しなさい」
「それは御親切にどうも。けど無理だよ。もう、道しるべとして残しておいた私の分身はいなくなってるだろうし」
「だったら小説を書きなさい」
フランは作成した紙束とペンのデータを私に手渡した。
「それがここから出る唯一の方法よ」
私はそれらのデータについ最近習得したプロテクトをかけ、記憶の中に格納すると、フランにナイフを投げつけた。加速度を加えたナイフはフランの額を簡単に貫き、柄の部分まで食い込んだ。フランが倒れたのを確認すると、私は安心して本を読み始めた。
●
鳥居があった。夜の神社の光景だ。前後の脈絡がないことから、これは小説なのだろうと私は判断した。
鳥居の中央には一匹のフランがいた。フランは私の方に目を向けず、月を見上げている。書割みたいにのっぺりした紅の満月だった。夜風が私の髪を撫でた。
「……貴方。指名手配されてるわよ」
「ふーん」
「私も貴方を殺せと言われている。退治でなく、滅しろってね」
「私も、出くわした個体は取りあえず消していくことにしているの」
「あっそう。じゃあ、お互い文句は無いわよね」
「そうだね」
針を飛ばしてくる蜂のようなフランだった。手ごわい相手だった。私が勝てたのは、ちょうど近くにいたフランを盾に使ったからだ。小さなフランだったので、攻撃は当たることはなかったが、味方に当たりそうになったことがよほど恐ろしかったのか、それ以降、蜂フランの攻撃は弱まった。その点、私は容赦はしなかった。小さいフランを爆破させて反応を確かめたり、これ見よがしに肉片を口に含んでみたり、いろいろとえげつないことをやった。その成果か、最終的に私の攻撃を受けた蜂フランは、ひき肉のような状態になった。
私は喝采をあげてその血を啜り、データを読み込んでみたが、それらしきものは見当たらない。どうもフランは死体になると、情報を秘匿するために、データを消してしまうのではないかと私は考えた。
蜂フランを消してから、フラン達の攻撃は激しく、また際限がなくなった。まるで蜂の巣を突いたようだと思った。特に箒に跨ったフランが繰り出す怒涛の攻撃は執拗で、凶悪なものだった。相打ち覚悟で突っ込んでくるのだ。そのため箒フランに出くわす度に、私は逃げるしかなかった。
それでも私はフランを殺し続けた。光景から光景へジャンプを繰り返し、フラン754体目の首をねじ切って屠り、その血を啜っていると、背後から私を呼びかける声が聞こえてきた。
「………こいし様、見つけたぁ」
それは何の変哲もないフランのように見えた。最近、フランの姿を沢山見ているせいで、区別がつき辛いのだ。
「あら? 貴方……」
タグに表示された名前は、オク―だった。タグを持っている個体はなかなかいないから珍しい。オク―は、きょろきょろと辺りを見回した。
「うにゅ……。……人里に、人がいない」
「ああ。この辺りはフランが沢山いたからねえ。基地みたいなものだったのかな?」
「こいし様、帰りましょう?」
オク―が言った。
「いいよ。貴方を殺してからね」
「うにゅ」
オク―は私の足元に跪くと、上目遣いで私を見上げた。
「ん? 抵抗しないの?」
「んん。だって、こいし様の言うことだし……」
「へえ。貴方、面白いね」
これはどうやら、異常個体というやつらしい。私は構えたナイフを下ろした。
「うーん。じゃあねー。貴方の小指の爪を私にくれたら、殺さないであげる」
オク―は躊躇なく左手の小指の第一関節を引きちぎり、私に差し出した。私はそれを口に含んで舌で転がしてみた。美味だった。
「へえ! 偉いわ。撫でてあげる」
「えへへー」
オク―は他のフランと比べ圧倒的に強かったので、オク―と行動し始めてから私の仕事は随分と楽になった。
それでもフランはたびたび私の前に現れて、私に小説を書けと促した。
あまりのしつこさに私はしぶしぶ頷いた。
「えっと、それで、何を書けばいいんだっけ?」
「貴方が望むことよ」
「●●」
その二文字を書いてフランに見せると、彼女は露骨に顔を顰めて突き返した。
「もっと具体的に書きなさい。私みたいに」
「うるさいなあ。命令するのなら、私を屈服させてみてからにしなよ」
「何言ってるの。もはや貴方の周りに敵はいない。そこにいる如何なる幻想よりも貴方は根源に近いのだから」
それからはできる限りフランを生け捕りにすることにした。フランの持つ情報を確かめるためだ。生きたフランからは幾らかの情報を得ることができた。けれどそれはフランの知り合いの知り合いの知り合いの知り合いから話を聞くような曖昧なもので、役に立つレベルでは到底なかった。せめて、あと一万回ぐらい試行を重ねないといけないだろうが、近くにそんなにフランがいるようには思えない。私はフラン探すのを止め、代わりにさまざまな光景を見てまわることにした。お腹が空けば、その過程で出くわしたフランを食べた。
楽園にいたフランをあらかた片づけた頃、ボロ雑巾のようなフランに出会った。酷い悪臭がしたので、私はそいつから遠ざかり鼻をつまんだ。
「すんななまにみみとちもち」
「んー?」
「すんななまにみみとちもち。しらなのちらとにつなもちすにのなしちとちに」
「何言ってるの?」
既存の読解プログラムでは解読できない音声の並びだった。
「にのちすにてらららとちもいのなしちとちに」
雑巾フランは空間を弄ってスキマを作り、そこからヘンテコな形をした剣を取り出した。
「すちのないみみきちのらてちすいかいとにもちにもちとな」
「だから言葉が通じないんだって。分からないかなあ。下等な言語だと思うよ、それ。耳触りが良くないの。私のをあげるからこれを使いないよ」
転送はできないだろうから私は仕方なく開発した言語プログラムに形を宿して右手ひらの上に乗せた。正二十面体の形をしたそれは、それぞれの一面に異なる世界を映す鏡があり、これらの中で宇宙を創造して生物を宿し進化退化を行うことにより、生まれる可能性のある数多の言語を永遠に記録し続けるという画期的なアイテムだった。一秒の間で、大体2の一兆乗の言語を理解できるようになる。理解とは量だけではなく速度でもあり、加速度でもあるのだ。あるいは、それ以上時間で微分したものでもある。一回微分しただけの速度ぐらいなら、雑巾フランのスペックでもなんとかなるだろうと思ったのだ。
「てちかちとにみらにみらかにてらとちとちきいもちとんらな。しいとなのちすち。しらなのち」
「うんうん。大丈夫。愚かなことは何も罪じゃないんだよ」
雑巾フランの目の前に位相を移し、手をフランの頭に押し当てて、その脳の中にプログラムをねじ込んだ。
直後、紙風船が膨れたような炸裂音がしてフランの頭が吹き飛んだ。
驚いたことに、頭が千切れたフランはそれでも生きており、手のひらをかざして私の周囲にスキマを作ると、私をその中に押し込もうとしてきた。私はスキマを掴んで口の中に放り込んだ。咀嚼してみると意外と美味だった。
「あら。桃の味がする」
私は近くで寝転がっていたオク―に隙間を渡したが、食べたくないようだった。雑巾フランは骨だけ残して泥のように溶けていた。本当に酷い臭いだったので、私はすぐにその場から離れた。
何日か経過して、オク―が家に帰りたいと言い出したので、彼女が案内する光景までついて行った。
そこは物音一つない、とても静かな所だった。光源の温度がかなり熱いけれど、誰も済んでいないからクレームがこないのだろう。
一番奥に建つ建物の中に辿りつくと、オク―は力尽きたようにそこでぐったりと横たわった。
「おくう。おくう。どうしたの? お腹空いた?」
「あ、いや、違います。これはちょっと……。……疲れただけで」
顔にべっとりついた血を拭って、オク―は言った。
「閻魔様。殺しちゃったから、自分はこれからどうなるんだろうなあって、ちょっぴり思ったり」
「エンマ? 神フランのこと? へえ。フランはフランを崇めているのね。不思議」
それからしばらく返事はなかった。
「不思議、です。私は、頭が悪いから、世界って本当に、よく分からない事ばかりで」
「あははー。自分が異常だって理解してるのね。修理してもらわないの?」
「あ……。その発想はありませんでしたね」
「じゃあ誰に治してもらおうか」
「そう、ですねー」
オク―は小さな声で呟いた。
「さとり様とか……」
ナイフが床に落ちて大きな音を立てた。動悸が激しくなって、視界が強くブレる。同時に吐き気が込み上げてきた。
「こいし様?」
「あ、あれ? え、と、誰だっけ、それ」
「……忘れたのですか?」
「忘れるわけないでしょう!!」
私は脳みそを引き摺りだそうとして頭を強く引っ掻いたが、頭蓋は思いのほか硬くて割れることはなかった。立っていられなくなって、その場にしゃがみ込んで嘔吐した。血ばかり飲んでいたので、吐瀉物は当然のように赤い。
それはそれはおぞましい赤色だった。
「今よ。ペンを持ちなさい」
私の耳元でフランが言った。
「魂に刻むのよ」
「何を!?」
胸に走る激痛に耐えながら私は叫んだ。
「大丈夫ですか?」
オク―が尋ねた。
「ううん。大丈夫。少し、気分が、悪くて。ちょっと散歩してくるね」
地霊殿から飛び出して、私は地獄を飛び回った。
行く先々で私は手を見た。どれもこれも青白い手だった。くにゃりと私を手招きしていた。
ああ、手が、手が伸びてくる。蔦のように私に絡みつくそれを、私はナイフで切り裂いた。しかし何度繰り返しても手がなくなることはない。不思議に思ってありったけの解析プログラムを動員して手についてスキャンしてみたが、手らしき存在を確認することはできなかった。幻覚だろうか。幻覚だろう、きっと。
フランの手に捕まらないように、飛んで、飛んで、地霊殿に帰ってきた。
屋敷の中にまで手が追ってくることはなかった。
感情のうなりが激しくなっていることに気がついた。すぐに感覚プログラムを遮断した。
「ち、地霊殿? なにそれ……」
私は自室に戻り、ベットの上に倒れ込んだ。眠ろうと思った。
私の肌が冷たい何かに触れて、私は目を開いた。そこで今まで目を閉じていたことを思い出した。
フランの死体が一匹、ベットの上に倒れていた。ベットの脇にもう一匹。
「あれ? ……違う」
フランをもっとよく見るように、私の脳が促した。
「これ、フランじゃないわ……」
誰だろう。一体、誰が、私の部屋に……。
「う、うう……。うああああああああああああああああ!! たすけてっ!! たすけてぇ!! くらいよっ!! もうなにもみえないのっ!! ここどこだっけ!? ああ、●●さえあれば!! ●●ァァァ!! だれかわたしにちょうだいっ!! おねえちゃぁん!! どこにいるの!? でてきてよ!! こわいよ!! こわいの!! みんながわたしをいじめるの!! わたしをまもって!! いたい!! いたい!! どうしていたいの!? おしえて!!」
私が身体を横たえた瞬間、時間が急速に流れ始めて周囲の景色が歪み始めた。私は脳のクロックを限界まで引き上げた。それでも処理が追いつかない。
お前が殺した。
お前が殺した。
お姉ちゃんは私が殺した。
お燐も殺した。
ペットたちを殺して、外に出て人間達を殺して、妖怪たちを殺して、皆を殺した。
生者なのか死者なのか定かではない、何体ものフランが私を取り囲んでいた。嘲笑っているように感じた。怒っているように感じた。悲しんでいるように感じた。嗚呼、これは全部、狂った私のせいで!
その時、私はサトリを開いた。
私を苛む一切の艱難辛苦を断ち切る方法は観測しないことであり、干渉しないことだったのだ。見ざる聞かざる言わざる知らず臭わず触れず感じず、傲慢にも閉じた世界の中で一人で生きる存在であれば。ああ、こんな簡単なことに気がつかなかったなんて。最初からそうすれば。ああ、私がもっとはやく死んでいれば。
「泣かないで」
優しい声がした。
お姉ちゃんはもう死んでいたので、そこにはいなかった。
代わりに、お空がいた。血まみれだった。お空は私を抱いていた。
「……こいし様。私を拾った時の事を、覚えていますか?」
お空は全身に怪我をしていた。背中から腸の管が零れているのが見えた。左手は手首から先がなかった。
「何にも分からなくて、好きも嫌いも混ざりあって、空っぽだった私が初めて抱いた感情を、これから貴方にあげますね」
「おくう。ねえ、おくう……。聞いて。気がついたの。あのね、私が生きているのが悪かったの。もう、どうしようもないくらい悪かったのよ。私が生きてさえいなければ、こんなことにはならなかった……」
お空は微笑みを崩さず、苦しそうに首を振って、私を強く抱きしめてみせた。
「大好きです。こいし様。貴方が大好きです。生きていてくれて、私と出逢ってくれて、構ってくれて、私はとっても、とぉーっても嬉しいんですよ、こいし様。いつか貴方に伝えたかった。嘘じゃありません。本当です。きっと、お燐も、サトリ様もそう思ってる。殺されたぐらいじゃ、怒りはしませんよ。二人とも優しいですからね。貴方が……」
呆けたように抱かれている私は、部屋の外から、扉の向こうから、鮮烈な感情が注がれてくるのを感じた。
もはや彼らはフランではなかった。親友を殺された霧雨魔理沙の感情がその中に含まれていた。
黒い刃物のような殺意のうねりの中、私はお空の残り火のような涙だけをじっと見つめ続けた。
「……貴方が、世界からどれだけ嫌われようとも、貴方が世界をどれだけ嫌いになろうとも、私たちは、家族は、貴方の味方なんです。たとえ私だけになっても、●●してるから。忘れないで。だから……だから、どうか」
――生きてください。
お空は零れそうになる内臓を抑えながら立ち上がると、振り返って周囲の妖怪たちを威圧した。
部屋に入ってきたのはたった六人。妖も、神も、仏も、もうそこにはいない。それ以外は死んだのだろうか。私には分からなかった。
「……仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、信眷に逢うては新眷を殺し、いじめる者は私が皆殺して殺して殺し尽くして……そして、必ず貴方の元へ帰ってきますから」
輪廻も天国も地獄も瓦解した世界で私が一人ぼっちになったのは、それから三日後の事だった。
………
………
………
●
――"理性の連界"中央付近"ヴワル魔法図書館"――
気がつくと私は本を広げて、口をぽかんと大きく開けて、空を見上げていた。雲一つなくて、高い青空だった。
隣で本を読んでいたフランが私の頬を突いて、それで私は覚醒した。
頬に涙がこびりついていたので、顔を動かすと変な感じがした。木漏れ日が眩しくて目を細めた。
どうやら私は、世界を等身大の実感を持って感じることができるようになったらしい。
「おはよ、こいし」
「うん。おはよう、フラン」
「目が覚めた?」
「うん。かなりすっきりしたよ。フランのおかげ」
緩やかな風が草原を揺らす。
私は、ぐいっと背伸びをしてみた。それから未だ鳴りつづけていたオルゴールを止めた。
「良い夢だった?」
「ちょっと昔の夢をね……。さぁて。休憩も済んだことだし。小説を書くことにするよ」
「どんな話?」
「みんなが幸せになる話」
「ふうん。でもそれ、かなり難しくない?」
「設定はふわっとしてていいの。そっちの方が皆幸せでいられるから」
「そういうものなのかしら」
「ホントウを追及する学者や魔法使いを騙すのは大変になるだろうね。けど、幸せな一瞬は、どこまでも詳しく書くことにするよ」
「それは、いいと思う」
「不幸もある。なくしてしまえば、それはもう世界ではないからね。だから悪いことをしちゃった子には、罰を与えるの。けれど、もう一度チャンスをあげるわ」
「優しい」
「そりゃあ」
私はテーブルとイス、それから紙束を作成し、ナイフをペンに変換した。
「ねえ、一つ聞いてもいい?」
「いいよ」
フランは本を閉じてから立ち上がった。
「貴方の楽園は何処にあるの?」
「間違いの向こう側、なんじゃないかな」
私の答えに満足してくれたのかはフランの表情からは推測することができなかった。
「んじゃ、邪魔しちゃ悪いから、私は遠くに行っているわ。完成したら呼んで」
フランは数式の残滓を残して消え去った。
それから私は瞳を閉じて、新たな世界の構築を開始した。
●
見送りは簡素なものだった。
「結局、もうサトリとしては生きられなくなったんだ」
「そ」
テーブルの前に開いたゲートは、私の世界へと通じる一人用の一方通行だった。私の技術ではそれが限界だった。
私は両手を広げてフランを抱いた。友情と感謝を込めて強く抱いた。フランも同じように抱きしめてくれた。
「この、オルゴールをあげるわ」
ハグを終えて、私はポケットからオルゴールを取り出しフランに渡した。
「いいの? この記憶は貴方の世界の記憶でしょう。貴方にとって一番大切なものじゃないの?」
「貴方を見つける目印にするの」
私はフランの手を握った。
「……貴方も●●を忘れた迷子なのでしょう?」
フランの表情は変わらなかった。
「いつか必ず、貴方の世界と私の世界を繋げてみせる。その方法を見つけて、貴方を迎えに行くから。必ずよ」
「夢のような話ね」
フランが力なく苦笑した。
「……だけど、嬉しいな」
「貴方は私を助けてくれた。●●を教えてくれたの。今度は私の番」
「いいよ。私の運命は閉じているから」
「だから、それまでどうか狂わないでいて。生きるのよ」
「無理よ」
「貴方ならできる」
私は何か言おうとしたフランの唇を塞いで、顔を放した。
「……またね」
返事はなかった。ただ、フランは少しだけ悲しそうに頷いた。
◇
――"新世界"――
ペットから三日ぶりに妹である古明地こいしが帰ってきたと聞いた姉の古明地さとりは、彼女の自室までわざわざ足を運んで面会を求めた。コンコンと二回ノックしたが返事はない。もしやまた出て行ってしまったのかと少しだけ残念に思いながらゆっくりと扉を開くと、妹のこいしがちょうど部屋から出ていこうとした所だった。
「おねえちゃん!」
こいしはさとりの姿を認めると、思いきり抱きついた。
「ああ、おねえちゃん! 会いたかったよ! 大好き!」
さとりはこいしの心が読めない。その為、さとりにとってこいしの言葉とボディーランゲージが彼女の気持ちの全てであり、今、その心の全てから愛されているという快感をヒシヒシと感じた。
久方ぶりの妹の顔を見たさとりは、こいしが泣いている事に気がついた。きっと寂しかったのだろうと思い、さとりはこいしに同情し、ほろり涙をこぼした。
遅れてこいしの部屋に辿りついた燐は、姉妹の熱い抱擁に少し気恥しさを感じつつも、それを遥かに上回る愛おしさを感じて顔を綻ばせた。
「ええ。私も会いたかったわ。心配していましたよ。お腹が空いているわよね。さあ、一緒に夕食を食べましょう」
「それは嫌」
「え……?」
予想外の拒絶に、さとりは卒倒しそうになった。今やさとりはこいしの心の全てから拒絶されたに等しい。
「今から七日七晩、私は部屋でやることがあるから、絶対に中に入ってこないでね」
「ど、どうして……。私と一緒に食べるのは嫌なの?」
私の事が嫌いになったのかしらと思い、さとりは尋ねた。
「ううん。大好きだよ、おねえちゃん」
「そう……」
さとりは再びこいしから愛されている快感に満たされた。
「やることがあるの。友達を連れてきたいから」
「ええと、手紙を書くのかしら」
「ううん。どっちかというと地図だね」
じゃあねおねえちゃんとこいしは笑い、部屋の扉を閉じた。
ちょうどその時やってきた空は部屋の前で立ち尽くしている燐とさとりの二人を見て「なにをやっているんですか」と尋ねた。
「取りあえず応援しましょうか」
さとりが答えた。
◇
こいしが部屋に閉じこもってから三日目。さとりは部屋の前で布団を敷き、そこでくつろぐのにも慣れた始めた頃、部屋の中から奇声が聞こえてくるようになった。
「うふふ」や「あはははは」のような笑い声から誰かと話しているような声まで、時には怒声や悲鳴など、その言葉は多岐にわたった。
いよいよこいしの精神状態が不安になったさとりは「ちょっとだけ覗いてみませんか?」と燐と空に尋ねた。
「駄目ですよ、約束なんですから」と空は反対した。
「けど、首でも吊られてたらたまりませんよ。……正直やりかねない」と燐は賛成した。
さとりは賛成だったので、多数決でちょっと覗いてみることに決定した。空はむっとした。
誰から覗いてみるか順番をじゃんけんで決め、燐、さとりの順番になった。空はそっぽを向いて参加しないことを表明した。
「ちょっと、さとりさま。卑怯ですよ。あたいが何出すか知ってたでしょう」
ぶつぶつ文句を言いながら、さりとて主人に逆らうこともできず、燐はドアをそっと押しのけ、中を覗いてみた。
そして、そのまま気絶した。
まあこいしの部屋ならちょっと覗いて燐が気絶することもあるだろうとさとりは冷静に考え、とりあえず燐を引き摺りだしてドアを閉めた。
「これ。お燐。お燐。目を覚ましなさい」
ぺちぺちと顔を叩かれ目を覚ました燐は、ぼんやりとした目でさとりの顔を見つめた。
「何が見えましたか?」
「何って、さとりさま。そりゃ……」
さとりは燐が想起した記憶を読み、部屋中に貼りつけられた紙の映像を閲覧し、そこに描かれている名状しがたき冒涜的な記号や数値の数々を見た。
「オロロロロロロロロ」
「オロロロロロロロロ」
二人は吐いた。
空はそっぽを向いていたが、頭を抱え呻いている二人を見ていると流石に心配になり、彼女たちを吐瀉物まみれになった布団の上に横たえた。
「まあ。私の妹はどうしてしまったのかしら」
さとりはもう一度、今度は冷静さを保ちつつ、先程の記憶を辿ることにした。想起されえた燐の記憶の中で、こいしは部屋の中央に蹲って紙に何かを描きこんでいた。映像の端々は確かに冒涜的で見るに堪えないものだったが、それでもこいしの一所懸命な姿は姉の心を強かに打った。
妹のやっていることは自分には理解できないが、応援を続けることにしよう。そう決めて、まずは汚れた布団をどうにかしようと考えた。
「にゃあ! 壁に! 壁に!」
その隣では、燐が悪夢にうなされていた。
やがて七日七晩の末、こいしは部屋から出てきた。
ペットたちを集めトランプゲームに興じていたさとりは、青白い死人のような顔をして、それでも達成感に満ち溢れたこいしを見て、心配半分、喜び半分、複雑な気持ちになった。
「出かけてくるね、おねえちゃん。ちょっと行くところがあるから」
「お腹は空いていないのですか?」
「ペコペコだけど、大事な事なんだ」
「でしたら、しっかりやりとげなさい」
こいしは頷くとその場から掻き消えた。
ペット一同はこいし様はワープなんてできたかしらと不思議に思ったが、まあこいし様ならと思い直し、さとりは妹が帰ってきた時の為に、ご馳走を作っておこうと考えた。
◇
八雲紫の核に直接コンタクトをしてきたのは、紫から観察して古明地こいしに似た"何か"だった。
戦闘行為は極力望まないというメッセージを受け取り、こいしと名乗る存在に対する自身の解析がまったく通用しないことを悟り、紫は時間をかけ人の姿に化生して、寝ていた式達を全員叩き起こし、何時でも全力で術を繰り出せるようにしてから、こいしのような何かとの対談に臨んだ。
「こんにちは」
「こんにちは」
紫は答えた。
「地底のお嬢さんね。どうやってこの場所を?」
こいしは「馬鹿にだって丸わかりだよ」というメッセージを高次元拡散言語に変換して送りつけた。それはちょうど紫が先日思いついて、今後の暗号として活用しようと考えていたものだった。
こいしの底知れなさを実感した紫はすぐさま敵対行動を止めるよう式たちに伝え、可能な限り礼を正して彼女と向き合った。
「とんだご無礼を」
「構いません。貴方の対応としてはそれが最善でしょうから」
こいしは紫の術式を用いて空間にティーセット一式を創りだし、そこに腰掛けた。紫は向かい側に座った。
「それで貴方の用件は?」
「私は、貴方が住んでいる界が近いうちに破綻することを知らせにきました」
こいしが言った。
「界を移すべきです」
「界とは?」
「幻想距離という単語はご存知?」
紫は記憶の索引を引いて、一連の情報を引き出した。
全ての世界は空想されたものとして見なし、世界と世界の隔たり計るというアイデアだった。紫はそれに関する情報を価値のないものと見なしアーカイブしていた。
「ええ。空想家の与太かと」
こいしは右手の平に野球ボールサイズの二十面体を創りだし、テーブルの上に置いた。
「ここに貴方が知るべきレベルの情報を整理しておきました。可能な限り早く解読し、理解してください。脳が炸裂しないよう気をつけて」
続いて、先程よりも小さな立方体を創りだし、テーブルの上に置いた。
「こちらは貴方を取り巻く人物関係のデータです。ここから今後貴方と考えを同じくするであろう人物を私が選びましたので、そちらの項も参照してください。そして、彼らとの関係を良好に保ちつつ、私から得た情報を伝えてください」
「ちょっと待って」
紫が両手を振った。
「貴方の思考速度で矢継ぎ早に繰り出されても困るわ。そもそもこの空間自体、通常の何万倍の速度で時間が流れているというのに」
「それもそうね」
数秒考えたこいしはスキマを作り、その中へこちら側へ来るよう呼びかけた。呼びかけに応じて出てきたのは八雲藍だった。藍は困惑した表情で紫を見た。
「ゆ、紫さま。これは一体……」
「この式をコンピュータとして使いましょう」
「構いませんけれど、負荷は?」
「九尾ならば問題はないでしょう。そもそも、貴方は思考能力拡張の為に彼女を起用しているのでは?」
「確かにその通りですわ。……藍。お願い」
「うー。危なくないのですか? 痛いのは、ご免なのですが」
「大丈夫だよ。痛くはしない。これを咥えるだけでいいからね」
こいしは紫色の紐を二本創り、その先端を藍に差し出した。藍はいやいや紐を咥えた。
こいしは紐のもう一方の先端をテーブルの上の二十面体に接続した。紐は二十面体に吸い込まれるようにして合体した。
紫は藍と同期して圧縮された情報の解凍に取りかかった。
外の時間で十五分。中の時間で900×42000秒後、紫と藍は死体のようにテーブルに突っ伏していた。
体感時間で一年近く自我を否定され、こき使われ続けオーバーヒートした藍は自分が生きていることを運命に感謝し、不眠不休で情報を吸収しきった紫は猛烈な眠気に襲われていた。こいしはその間、身動き一つせず二人の様子を眺めていた。
「………。ええ。正直、手玉に取られてばかりだったから貴方の事が心の底からいけ好かないと思っていたわ。けれど、その認識は間違っていた」
紫が頭を抱えながら言った。
「狂ってる」
「考慮する次元がちょっと増えて、それを統括する上位次元をちょっと追加して、それらをマッピングする手段をいくらか紹介しただけだよ。貴方が学ぶべきことは他にも沢山ある」
「勘弁してほしいわね」
「とりあえず今はここまでにしておきましょう。これで危機感は持ってくれましたね?」
「ええ。存分にね。幻想の肥大化、分化、離別、菲薄化……そして、破綻へのシュミレーション。説明にあった幻想の穴という界について詳しく教えてほしいのだけど。できるだけ簡潔に」
「後の説明に追加しておきましょう。文字通り、幻想の一切ない世界のことです。一度はまれば抜け出すことは敵わない、貴方達の界における物理の用語で言えば、それはブラックホール」
「貴方はその界の間近に幻想郷を移そうとしている」
「弱い幻想が淘汰されるからです。すなわち、そこにはインスタントに基幹を揺るがすような規格外の存在が生きていられなくなる。従って、肥大化は起こらない。簡単な理屈です」
「………」
「説明を追加しておきましょうか」
紫は休憩を終えて、未だ泥のように寝ている藍を横目で眺めながら、ティーカップを傾けた。
「貴方は何者なのと訊いてまたあの幾何学ブロックを追加されても困るから、簡潔な返答を期待して質問をするわ。……私の世界にいる"古明地こいし"の皮を被った貴方の目的は何?」
「家族を守るためです。もはや私一人の幻想で、この世界は救えない」
「私を選んだ理由は?」
「あちらの世界に渡れば、私の処理能力は格段に落ちることでしょう。私も規格から外れた弱い幻想なのです。もしもの時の手段を残しておきたかった」
「貴方の目論見では、その世界を牽引するのは私ってことね」
「いいえ。貴方だけではない。ただ、貴方がその因果の中心付近にいることは確かです」
紫は超越者然としたこいしとの会話に飽きて、悪戯半分、カマをかけてみることにした。
「……まだ、あるんじゃないの?」
無機質だったこいしの表情はその時になって初めて崩れた。くすくすと乱数だらけの笑いを漏らし、紫を驚かせ、彼女は言った。
「まあね」
◇
――"最果て"より±7="新世界"――
満月が歪む。因果が渦巻いている。
世界が、理屈が、過去が、一瞬にして塗り替えられたことを夜の王レミリア・スカーレットは知った。
途方もない硬度の鎖が幾重にも彼女を縛り、全能であったはずの能力が封じられたことを知った。
しかし自分が如何なる手段でこれらの事実を知るに至ったのか脈絡を見出すことができなかった。
そこで記憶が改竄されているらしいと気がつく。
気まぐれな竜神がこの界の近くを過ったのか、単なる天災か、それとも……。
「やあ。孤独な王女様」
濃厚な血の臭い。
天を貫くほど巨大な玉座に座し、永久の眠りに沈んでいた王は目を覚ます。
「非力な幻想め。何故このような場所にいる?」
「貴方の姫を攫いに」
レミリアが鼻で笑う。
「世界の辻褄を合わせるには、どうも貴方を説得するしかないみたいなの」
「封印を解く気ね。正気ではない」
「そうさ。私は狂っている」
玉座の前に盗人が立つ。界への浸食はすでに開始され、見渡す限りの大地には薔薇が敷き詰められていた。長い間、闇の黒しか見ていないレミリアはそれさえ眩しくて目を顰めた。
「私の命は、あれを永久に封印しておく為にある」
「私の命は、あの子を連れ出すためにあるの」
「あはは。意志が食い違ったわ。……古来より、そういう問題を手っ取り早く解決する方法があるのを、お前は知っているかしら?」
「知っているわ。それって、とびっきり優雅で素敵で稚拙で蛮族的な考えよね」
「その通り。決闘よ」
王が立ち上がり、天空の闇は蜷局を巻いて彼女を中心に踊り始める。
盗人は両手を広げ、薔薇を模した魔法に攻撃の命令を下した。
「こんなにも月が紅いなら、きっと」
「楽しい夜になりそうだね」
「永い夜になるだろう」
理解したら発狂しそうですし、自分が愚鈍或いは思慮に欠けていて良かったと
こういうラストにするならば主人公とレミリアの最初の邂逅(フランを通してですが)に対立者としての属性や思考をにじませた方がわかりやすいかなと思いました