※独自設定、都合のよい解釈、都合のよい展開、いらっしゃいませイカ野郎(略)
闇が怖くてどうする? あいつが怖くてどうする?
doa/「英雄」
守矢神社。
茶の間。
「えーと」
早苗が言った。
「じゃあ、まず、私からいきますね?」
ちゃぶ台で向かいあった二柱に了解をとると、ちょっと息を吸ってから、早苗は、
「かえるぴょこぴょこみぴょこぴょこ、あわせてぴょこぴょこむぴょこぴょこ」
と、日ごろ祝詞の復唱等できたえた舌の滑らかさを駆使して言った。
「では、えーと、――かえるぴょこぴょこみぴょこぴょこ。あわせてぴょこぴょこ、むぴょこぴょこ」
と、早苗の次に、これも自分に仕える神主に負けじ劣らじの口の滑らかさで神奈子が、あっさりと言ってのける。
「え。えーと、か、かえるぴょぴょぴょぴょむぴょこぴょぴょ。あわせてぴょぴょぴょぴょむぴょぴょぴょぴょ……」
そして、最後に言ったのは、諏訪子だった。無論、言ったが言えてないのだが。
やがてばしん!! と、ちゃぶ台が叩かれる。
「ほかの!! 他でやり直し!!」
「往生際のわるい」
「他のって言われても……」
「なにを!? がちんこ勝負ならやったるわよ、さあ来いよ怖いのか!?」
ファイティングポーズを取りだす諏訪子から目をそらし、早苗は薄情に急須をあけて、中を確かめると、「あ、入れ替えてこなきゃ」と、つ、と立った。
「バカ者。自分とこの神主にからむご神体がどこにいるか。さぁさっさときりきり風呂釜そうじしてきなさいガマだけに」
「蛙じゃねぇ! 神様に風呂釜そーじなんかさせていいのか!? いやよくない!」
きいきいわめく諏訪子にしらっとした面持ちをかえす神奈子の横から、もどってきた早苗が、やれやれという目を向ける。
「だってこの勝負は諏訪子さまが言いだしたものですし……」
「私早口なんて言わなかったもんね。あえて私の不得意科目を持ちだすそこのヘビ女が……」
「いや、私もヘビじゃねえから。あーなんだ。向こうの国の格言にはこういうのがあってね。敵を知り、己を知れば、百戦危うからず、攻め上がること火の如し、敵を騙すにはまず味方から――ええ、まあ、なんだったかしら、どうでもいいけど、つまりは勝ちゃあ何でもいいのよ」
「あのう……ぜんぜん意味が分からないんですが」
早苗が困惑して言う、諏訪子は、とにかくじたばたとあがいて、ばん、と机をたたいた。
「だー! もう、この際そういうことはどうでもいいの! もういっかい! もういっかい!」
「生麦生米生卵」
「隣の客はよく柿くう客だ」
「今日のところはこのへんにしてあげるわ。時機がよかったわね」
諏訪子はちょっと引きつった笑みで不敵に言うと、「うおおぉ、ちくしょぉぉぉ……」という叫び声を残して、風呂場の方へ走っていった。
「さて。早苗。邪魔が居なくなった処で一献ついでくれ。」
「はい。お茶ですね」
「いや」
「八坂様。神様が真昼間から酒をかっ喰らうものではありませんよ。この里の妖怪連中じゃないんですから」
「……はい」
「しょぼんとしても騙されませんからね」
早苗はつれなく言うと、用意していた湯呑みにお茶を注いで、ちっとほおづえをつく自分の主神の様子をちょっと笑って、お茶を置き、台所の方へと戻っていく。
「……。ふむ」
神奈子は、物思いするような顔をしてから、ふとちりん、ちりん、と音の鳴った方に目を向けた。
庭先を背に、少しもう季節を外した風鈴が、暑さの温んだ風を受けて鳴っていた。
(山風か)
鈴。そう、思いだした。
早菜。あれは鈴の似合う、可愛らしい娘だったと思い出す。
およそ昔。神代の頃。
「お~い、サナ!」
何度か呼びかけると土間に出てきたサナは、ぎょっとした目でカミナを見た。とはいえ、当のカミナは、気にせず履き物を脱ぎ、土間から上がりこんでいる。
質素ながら仮にも比女たる様を示す服に、どっさりと縄で結わえた魚を担ぎ、板間に敷いた藁敷きの上に落とす。
「今日の晩飯だ。下下の者にも振る舞え。足りない分は干物にでもして取っておけ。いずれ使う時の足しにはなろう」
「どうなさったのですか、一体これは。……あ。お帰りなさいませ、いえ、違います。比女! またこのような! こんなに一度に川の魚を獲っては守り神様の不興を買います!」
サナはちりちりと、髪に飾った鈴を揺らし、若い面立ちを怒らせる。切り揃えられた前髪の下で、艶を帯びた細い眉が尖がっている。
「大丈夫さぁ。あそこの川の神は私にホの字だ。いざとなったら話しに行ってやるさ。むしろ喜んでおるだろうよ」
「ほんに仕方のないお方ですこと……。もう、では仰せの通りに今日の夕げにいたしまする」
サナは呆れた様子で言うと、ぱたぱたと奥へ行き、「誰ぞ」と呼ばわり、重重しい巫女の装束を揺らした。控えめな布地で織られた独特の意匠の裾は、なんとも言い知れぬ、清楚で品の有る薫りを、サナと、その碧色の黒髪に与えているようだ。
その背を見送りつつ、板間の上がった処へと両手を着き、カミナは風の匂いを嗅いだ。
(山風か)
良い風だ。
「――比女! カミナ様! またそんな風に行儀悪くして!」
そのままごろんと寝そべっていると、年若い巫女の顔が逆さまになって言ってきた。カミナは「あー」と面倒そうに返しながら、「サナ、近う寄れ」と、ぞんざいに言った。さらには近寄ってきたサナに、ひょいと頭を上げて、無言で膝を枕に貸すよう要求する。
「もう……」
サナは言いつつ、傍に寄ると、カミナの頭を膝枕に乗せてやった。カミナは満足そうに目を閉じ、しばしそよそよと動く風に鼻先を預けた。
「良き風だ。今度の戦に血生臭くも誇らしい勝利をもたらす威となる風気よ」
カミナの言葉に、サナがちょっと眉尻を下げた。
「お下知が来ましたので?」
「ああ。明後日、参上するようにと先程話があった。あの土産は戦前の景気付けじゃ」
カミナは言いつつ、うん、と腕を組んで伸ばした。
「今度赴くはいよいよ近隈でも至極の地、土着の者共の主が座る地と聞く。水も土も、豊豊と満ちた潤なる地であるぞ」
「それは楽しみなことで御座いますね。せいぜい怪我などなさらぬよう、お励みになって来てくださいませ」
「うむ」
三日の後。
カミナはすでに馬上の途にあった。
宗主、大国主命から下知を賜り、編成にわずかに三日。
急ごしらえの軍にも思えるが、彼の豊饒の大地への侵攻は、それこそ何か月と前から護国の間で決定されていたことだった。カミナ率いる先遣隊は、大国主命座する本隊に先行すること数日、これより更に二日の後には国境を越し、彼の国の大地へと足を踏み入れる手はずであった。
供の者含め数百からなる大軍は少数精鋭にて、要所の防衛に当たる敵軍を叩き、本隊の到着を待つこととなる。
(良き空よ)
兵達の隊列乱さぬ足音を背に追いながら、進軍の途の晴れ渡る空を見上げ、カミナは目を気負い無さそうに細め、先の国土を見通していた。
二日。先に走らせた馬の数騎が戻り、勢い荒く報告した。この先に陣取る敵、およそ百。
(肝試しよな)
「皆の者! 逆月を挙げよ!」
後列まで伝令を行き渡らせるよう言い伝え走らせてから、カミナは叫び、腰の鞘から剣を抜いた。
「間も無く戦場じゃ!! 我等が主神の加護を叫べ! 女子供を持つ者共は奮起せよ! これより皆の命、私が預かる!」
カミナの勝鬨に呼応し、オォォ、と隊の列から空を衝く雄叫びが上がる。気炎を上げた隊列は、その気勢のまま進軍を続け、やがて進軍を続ける先に、奇異な土着の民族特有の色彩に選り塗られた兵達の護る砦の一つを目視した。
「大草」
「はっ」
「どう見る?」
「は……」
大草は眼前に展開する騎馬の列を眇め、さらに後方にそびえる簡素な木造りのこしらえの砦を見やった。
「恐らくは砦に相応の数の手勢が居りましょう。こしらえの粗末さから見て、我等の足止めが目的かと。敵の弓手の存在を目しますれば、狙いは損耗戦でありましょう」
「玉砕覚悟か。健気なことだ」
そう話していると、眼前数広にかけて居並ぶ馬どもの中から、居立ちの威風堂堂とした者が一騎進み出た。カミナ達が相手どってきたこれまでの者達同様、その体躯は一際奇奇として立派であり、また、他の者たちより手足の長さがかけ離れて長いようで、それでありながら、兜の下の面は正しく武人のそれのようであった。
その手長足長の者が、堂、とした大声を威立てる。
「丁頭、居丈高なる蛮柄の族どもよ! 此処を何方と心得るか、今度の汝らの不調法、我等が王の念損ねる事甚だしきにして、非礼なり!」
武人は言いつのり、さらに続ける。
「斯く背成りしに申しければ聞け! 我が手長足長森之上の胴声を聞かぬとあらば、大人しく尻からげ逃げるがいい。冴え無くば汝等の命、まとめてこの武上が貰いうけよう!」
数畳も轟くかとおぼわしき恫喝に、隊列は少なからずざわめき、「何を、なぶるか」と猛る者もいれば、「おのれ」「無礼な!」と、血気盛んに荒ぶる者も出た。カミナは見やって大草を呼ばわり、
「皆を抑えよ。私が先陣を取る」
「はっ」
と、返事を聞く間も足らず、馬の腹をとん、と鳴らし、鞍を揺らして走りだした。後方の隊列がざわつくのを遠ざかって聞きつつ、進み出ていた敵将と相対する。
手綱を引くと、馬はいななきをかるく漏らして足を止めた。
「これはひげ面。汝こそ我等を此方の者と心得るか。田舎武者風情には馬も女の性質も分からなかろうが、恐れもせて、我等が主神の命を虐げるははなはだ不如意にして不実成りきよ」
カミナは言い返して、馬の足を鳴らした。
「さかしき成り毒婦ども。汝の評判、既に音に聞こえて知らぬ者無しよ。蛮柄どもの主が一粒種が、土具の兵隊、駄馬の鞍を引きて調子を鳴らせし事知らいでか」
「さても、これは捗捗しきや。この天禍之神奈之比女子を捕まえて、毒婦阿婆擦れ扱いとはよう申したものよ。さても西方の蛮勇どもは女も馬も分からぬ田舎武者どもと見ゆるわ。その泥臭い素っ首我が馬の脚に転がす前に、首を洗いに戻るがいいわ」
カミナが申すと、相手の手長足長某はカハハハハッ! と、無礼なほどに高笑いをかました。
「言うたわ阿婆擦れ! 成れば我が武上に組み伏され、その体躯、野卑なる者どもの手に落とすが良い!」
手長足長某は言うや、「ハァッ!」と、手綱を絞りつつ鐙を鳴らし、高くいなないた馬を一直線にカミナの前へ走らせてきた。
カミナはひるがえした刃でこれを迎え撃ち、その長い腕で繰り出される手長の珍奇な斬撃が馬の首を削ぐ寸前で弾き、逆に馬の鼻を向け返して、通り越した手長の背の下辺りを狙って、鋭くこれを打ち下ろした。が、手長もさる者、「むム!」とうなり声を上げて振り向きざまの斬撃を見まうと、距離の短さをもろともせず、馬の腹目がけ、蹴りを見まう。しかし、これも咄嗟に馬の背から繰り出されたカミナの足に払われ、やっと、怯んだところを、打ち下ろし気味のカミナの剣の刃先に掠められる。
「……、ムム!!」
手長は言いつつ退くと、カミナに距離を置いて走り、ばっと腕を上げた。
「小癪な、射かけ、射かけーーェイ!!」
矢の数百に渡る風切り音で、戦場の幕は上がった。
数日。
大国主命擁する神軍の陣営。
「こちらでございます!」
勢い荒く言う将の一人にうむ、と返し、カミナは血と埃と泥に塗れた鎧と服の裾とをそのままに、案内された間に踏み入った。
戦の勝敗はたった先程ついたところだ。
追い散らされ各地に散った敵将どももすでに総大将の王を護る力無く、僻地へ遁走の最中に在るだろう。これ以上の流血は長居と察したか、彼の地、諏訪の国の王は、側近を従え、投降の意を表して、こちらの手に落ちた。今のカミナはその見聞をするところだった。
(さても、さても……)
その場に通されたカミナが思ったのは、そんな厄体も無い事だった。この時初めて相見えた敵の王は女であった。まだ年若い娘の姿をして居り、異民族特有の青い染め抜きの布に白い神さびた風の生地を合わせた、ややゆったりとした比女のものらしき衣を纏っており、膝をきちりと合わせて瞑目した姿勢にて座っていた。熱気収まらぬ兵と将兵達の間には、あらかじめカミナが呼んでおいた通り、サナが来ており、敵の王の脇に控えるような形でその場に黙って佇んでいる。カミナはちらりとそれを見つつ、稀有な金色の稲穂色をした髪を、形式ばった縛り方でまとめた女の前にざっと座した。
「お初にお目にかかる。彼の諏訪の地を治める土着の者達の王どのと見受けるが、どうか」
「間違い無し」
「これは無礼をつかまつった。私が此軍の将を務めた天禍之神奈之比女子にある。大将、大国主は今しばしと此方には来られぬが、ごゆるりとご容赦頂きたい」
「今の内に尊大な礼をそうしてかわしておくがいい。貴方方はいずれ、我我にひれ伏すことになる」
「これはさても。御身のためを思えばそのように軽んじるのは感心ならん。口を慎まれよ」
「まずは兜を脱ぎなさい。敗れたりとはいえ、一軍の将に対して無礼でありましょう」
女がそう言うのと、カミナが手にした刀の鞘でその頬を殴り飛ばして、胸ぐら掴み上げるのとは、大して差無かった。上から見下ろしたカミナの目を、この扱いにも何の色変わりを見せず、一心に見返してくる目と、艶ばった眉を見て、カミナは内心で苦い笑みを浮かべた。
(こいつはまた、難物だ)
「我が手の者の中で最も無礼で野卑な者どもの手にその身をさらすよう仕向けてやろうか? 汝がその者らを拒めば、汝の手の者を一人ずつ同じ目に遭わせるよう仕向けてやろうか? 汝は敗れたのだぞ、王どの」
やや騒然として、敵も味方も気色ばむ中で、カミナはその女の目を、一糸たりとも揺らがず逸らさぬ目を見やっていた。そして再度言う。
(成程、こいつは難物だ)
しばし。そうして敵の王との謁見を終えたカミナは、王を置いた天幕の外に出、外に立っていた敵兵をふと見やり、何の気無しにその肩を叩いた。敵兵の男の壮健そうな顔が、自分の肩を叩いた相手を、一筋のみだれも無く見やる。カミナはこれだな、と思い浮かべ、敵兵の耳元に口をやり、
「今宵、私の寝所に来い。警備の者には取り計らって置く」
と言いおいて、こちらの意図を探る豪の者の視線を感じて流しつつ、天幕を離れた。少し遅れて、サナが同じ天幕を出た足で付き従ってくる。
「気に食わぬ顔をしているな?」
「そのようなことはありませぬが」
サナはいつもよりややきつくした横顔でちらりとカミナを見やってくる。
「いくら大国主様のお目が無いとはいえ、王たる方の頬を殴るなど少々手が過ぎるのではないですか。私は退出するのにも将兵がたの視線が痛うございました」
「それは皆戦の残気でサナの顔に目が行っておったのだろう。良い顔を持つと辛いな」
「おからかいは半分に致しますよう」
夜半。しとね。カミナは男を帰し、しばし寝転んでいた裸体を起こすと、さっきまでの気だるい仕草が嘘のように、きりっと引き締めた帯で、白衣と足袋の裾を擦った。
寝所の周りには既に誰もいないが、しばらく前から佇んでいたらしいサナが、暗闇の中で仄かに発するかのような白の衣装で頭を下げた。
カミナは構わず、先程事に及んでいたばかりの身体を居座らせ、すぐにそのまま、太ももも露わにはしたなく寝転がった。
サナは咎めず、黙ってその頭の辺りにすすと座り、カミナが例のごと頭を少し上げると、その下に膝をあてがい、枕とした。だしぬけに小さなため息を漏らすが、カミナは聞こえないふりでかるく笑んだ。
「まったくお前と来たら、いつも私の前ではつんつんしよるな。ほれ、少しは笑んで見せい。ほれほれ」
「お命と在らば笑んで見せましょうか……?」
カミナの手をやんわりと退けつつ、サナはひくついたような笑い方で犬歯を見せた。カミナはサナの柔い頬をつまんでいた指をふり、ぞんざいに詫びた。
「すまぬ。からかいが過ぎた。許せ」
「全くサナは呆れてものも言われませぬ」
「まぁそう言うな。その国を知るにはその国の男を知ることが必要だ。善き味わいであった」
「全く。サナは呆れてものも言えませぬよ」
「そう申すなよ。せっかく良き顔をして居るに、そうきつく当たっては、碌に男も寄りつけぬ」
「そのことについては何とも言いかねまする」
ふーん、とカミナは笑って、サナの頬をつついていた指を下ろした。かん、こと、と、幽かな音がして、サナが酒の匂いとともに、控え目に満たされた盃を差し出してくる。カミナは盃を受け取るついでに、サナがこちらに伸ばしていた指をひょいと持ち上げ、下からすがめるように表、裏、と、ひっくり返しながら見やった。
「いつ見てもお前指は綺麗よな。私より相当朝に夜に雑事を任されているというのによく皺くちゃにならぬものよ」
「まだ年若いからではございませぬか。先代の御勤めを致した母もちょうど私の年を過ぎたころより指に手に、老いが見え始めましたので。案外比女さまにお仕えする加護なのかもしれませぬよ」
「ふーん」
「……あまりまじまじと見られると、よい気がしないのですが」
「済まぬな。私はどうも、元元女生より男神の気が強く出ているようでな。良い女子には好ましいものを感ずるのよ」
「いっそ比女さまが男の方であったなら、私も何ら苦労をしなかったのかもしれませぬな」
「よう言うの。私が男であったら指や手をしげしげ眺めるでは済まぬぞ。手籠めにして居る」
「いっそ手籠めにされた方が苦労が無かったのかも知れませぬな」
「よう言いよる」
カミナは笑って、くい、と盃を口づけた。
戦気の収まりゆく身体と、情事を終えたばかりの肌に、酒の味はしみ込むように広がった。ふぅ、と心中でため息をつき、カミナはサナの指を片手にしたまま、何の気なしに、ぼんやりと盃を眺めた。気がほんの少し緩くなる。
「比女」
「ん?」
「かの方はどうなされるのです?」
「気になるか?」
「は、多少は……」
「安心せよ。取って食うたりはせん。しばらくはお前に世話を任す。あの難物の相手を頼むぞ」
「私が、でございますか……」
「ん? 何だ、まさかあの見目良き娘に見惚れたか」
「見惚れてはおりませぬが、ぞんざいに扱ってはならぬ御方と感じました」
ふーん、とカミナは言って、盃につけていた唇を離した。
「確かに根の大層曲がらぬ厄介なものに見えたな。しっかりと世話をするようにな。あれは放っておくとただならぬことになる。たぶんな」
「承知いたしました」
それから。
ひと月ほど。
カミナ達の陣営が借り取った屋敷。
「比女。東の御所の者より通達が入っておりまする」
「あぁ」
カミナは山と積まれた書簡の中身をためつすがめつしながら、控えの者に報告を聞いた。
「サナか。達者でやっておるのだろう?」
「は。そのように申されておるようでございます」
「例の難物についてはなんと?」
「随時、変わりなし、と。我我の用意した屋敷にも特に何も言うところなく、それと――」
「何かな?」
カミナが言うと、控えの者は、やや迷ったように言った。
「比女さまよりも大層気がかからず、常時平穏な方である、と」
「はは。よう言いよる」
「まぁ、サナどのの言うことも……」
「ん? 何か言うたか、お?」
「いいえ」
控えの者は咳払いなどしてから、さらに改めた様子で、言葉を続けた。
「それと配下の者たちより、民の陳情について少少気がかりな点が在る、と」
「ふむ」
カミナはそうとだけ言って先を促した。控えの者は、少し神妙な様子をして、話を続けた。
「地方の統治を任せていた者たちに、幾人かこちらの子飼いの者たちをつけていたのですが、何でも各地地方はばらばらなのですが、皆一斉に同じことをほぼ同時期に訴えておるとのことです」
「何か?」
「彼の地に眠るタタリ神の事について、だとか」
「ふむ?」
「民どもの言うておることは、断片では在りまするが、全てそのタタリ神について訴えておる、という事は、皆一致して居るということです」
「ほぅ。もしや、それは例のあれのことか? 大国主どのが郷に戻られてすぐに我我に対して断固とした陳情が在ったという」
「如何にも、その様で」
配下が言うのを聞きつつ、カミナはふとした様子で書簡から目を上げた。
「彼の地を譲り渡すとした王の儀の後にもその神への信仰は頑として失えぬとのことだったな。彼の神は大く古きよりこの地に根ざし、今の王がそれを鎮める一族としての役割を担っていた。陳情はその神鎮めの儀を直ちに執り行う様に、とのことであるか?」
「ご明察の通りでございます」
「どうやらくだんの神は余程畏れを買っているようじゃな。我等の事などその神の前にはちっぽけで目に入らぬと見える」
「恐れながらその様で」
「分かった。直ちに対処致そう」
数日後。神気満ち満ちる、何処かの祭壇の前。
カミナがその髪の垂れた凛とした神々しい背を見ていると、元の王たる娘はつ、と立ち上がった。
「神託を得ました」
カミナは儀式の作法を従い、口をつぐんで娘の言葉の続きを待った。
「我、怒りケリ、と」
じじ、と、娘の言葉に合わせるように、長い蝋燭の先が揺れた。カミナは黙ったままそれを聞き、女の口唇が言葉を紡ぐのに合わせて、ふ、と表情を動かした。
(形の良い口唇よ)
そう厄体も無い事を考える内にも娘は続ける。
「我が男神ナル気ヲ鎮メシは、長居コト、オヌなる気持ちし彼の国ノ力持ツ巫女ども、その一族ニシテ王タル力備えシ者ナり。故ニ我ガ頭上ニ今王タル者としテノサバル者ハ、イと不快ナる気持ちシ、この地に根付かヌ風の神ドモナリ。ワレ、甚ダイカリケり。神はこの様に託宣なさいました。残念ながら今の私にこれを鎮めることは出来ません」
「それはどのような事だ。今までは汝が御勤め為さっていたのだろう?」
「今の私は王たる血脈を放たれ、貴方方が宗主どのにこれを譲った身で在ります故、この地の主として座する貴方方にこそ、この神を鎮める次第が在ります」
「つまり我我の神力持ちて、汝の代わりにこの神を平定せよということか」
「そう取ってもらっても構わぬと存じます」
(歯の挟まったような物言いよ。いちいち難物よな)
屋敷。カミナに与えられた間。
カミナがじっと考え込んでいると、仕切りの向こうからサナの声がした。入れ、と申しつけると、神妙な面持ちのサナが一人入ってきた。髪の鈴が、所作に合わせてちりちり鳴る。
「先の託宣の事についてか?」
「ちょうどお考えの事と存じ、参じ致しました」
「構わぬ。申せ」
「はい」
サナはいつもの調子よりも、ややきつめに、選び抜いたような言葉で話した。
「今度の戦、お止め下さいませ」
「何故だ?」
「彼の王たる方は争いも血も好まぬお人柄。あの忠言は我等に無駄な流血の事を避けるよう申された事と存じまする」
「それは私も存じておる。その流血が何処に在るかを考えておった」
カミナが言うのに、しかしサナはその目を見つつ、やがて頭を振った。
「私如きの言を受けぬは神の事と存じます」
「そうではないが、汝の言う事も尤もだ。だがサナよ、汝の言にも聞けるものと聞けぬものが在る。汝が武人で無いから言うのでは無いぞ。だが実として、我等はこの地、この戦を退くわけには行かぬ。勝てぬ戦とて、戦せしめねば為らぬ」
「彼の地の信仰は強大にして、さに在ればこそ彼の神を邪神たらしめるもので在ります。力を以て力を制すること行えばとみに人の魂の脆弱に失せる事この上無きことでしょう」
「だが、我々は退くわけには行かぬ」
「比女」
「忠言は受け入れた。次第の不吉は覚悟の上、残るは愚劣なる神の口述よ。この戦、しかと聞き容れ臨む事あたわずじゃ」
険しい顔で口をつぐんだサナの横を通り抜け、カミナは手にした鞘の鍔を鳴らした。
二日の後。だが、事態は、カミナの予測よりもはるかに早く、異変となって現れた。くだんのタタリ神討征のための準備を進める神軍の陣営に、士気を歓呼する最中の儀に、天地が裏返ったかのような自身が襲い、地に立つありとあらゆる者に脅威を投げ走らせた。
さしもの神軍の猛者どももこれには驚き、急ぎ軍議を召集し、ある者は士気のたて直しを、そしてある者は討征を思いとどまるよう、そう露骨にすらしないが、荒ぶる神の怒りの早さに、カミナに忠言しようとさえしていた。
「否だ」
カミナの意思が口開くより先に言ったのは、将の中でも血気盛んな者どもであった。
「何を不吉が恐るるか。我我が相手取るもののあれこそ凄まじさよ。却って士気が高ぶらずして、どう武張るおつもりか!」
「待たれよ。今度の地滑めにより兵どもの畏れ甚だしきにて、民草にあっては是非も無かろう。却って恐怖をあおり、我我への不和を煽るのは得策では無いですぞ」
「此の侭日和るなど我等連戦連貫の百将どもの威信地に落ちる事捗捗しきや。民草が何たるか、異地の民どもになぶられては我等の戦、平定の血潮まかり通られぬわ」
「逸られるな。主等の言うてる事の判らずでは無いが、彼のタタリ神の荒びたるやこれにて息止まろうはずもない。更なる災厄に身を晒すこと、これ蛮勇で在りますぞ」
「……。よい」
将どもの弁議を聴き続け、カミナはふとずしり、と言った。それで熱気浴びていた数名の将どもが静まり、カミナを見る。
「よい。もう弁談の為する処あたわずじゃ。我等に退く選択等無きこと皆も分かろう」
「……恐れながら」
カミナの横から口を挟む無礼をしたのは、大草であった。腹心の部下の言葉に、カミナは眉一つ動かさず、「よい。言え」と、短く言った。
「……、では恐れなし、申し上げまする。彼の地に根づく信仰の十大成ることはばからざりしことはすでに遠知の疑い無き事で在りましょう。兵達の畏れなしは尤も。彼の神の力、人心をはなさずして不惑成ることも、また疑いなし。彼の地の民草どもが乱して言いつのりますに、このままでは病のまん延すら考えられぬと申しつのりて、その顔皆一様に蒼白きこと甚だしと聞き及びまする」
大草は神妙に言った。その白眉、痩顔の、年経た腹心の白髪を見つつ、父娘ともども、同じ事を申すものよ、と、カミナは厄体も無いことを考えた。
「大草の!! 汝、臆されたか! 将の腹心たるそなたがその様で如何なさる!!」
「よい。皆、聞いてくれ」
猛将たる浮原ノ公某の胴声を聞きながら、カミナは言った。
「双方相成りて言わんとする事は分かる。で在るが、だからして我等が道曲折せんとせしむることは蛮勇であろうし、また君説でもある。この戦、この我等が立たされた地を省みてそれでもなお言わんとすることは、至言で在れ不言である」
カミナは落ちつき、また落ちつき払っている事が悟られない程度に声を低く心持ちは重くあるよう律した。
「第一に我等が背に負うてるは誰が名で在ると存ずるか。我等足踏む事既に不知比の事と知って居る」
カミナは言い、目を伏せ、「大国主命の御命にかけて」と、律唱した。
「……大国主命の御命にかけて」
「大国主命の御命にかけて!!」
「御命にかけて!!」
更に二日。その間に、幾度かの地震を喰らいつつも、神軍は選り抜いた者だけで編成を済ませ、彼の神の討征、平定を旨とし、戦場への道を進めた。
数日も経ったか。
静まり返る暗闇の中、カミナは屋敷へと馬を入れ、その泥と埃、又、何とも知れぬ黒ずんだ布を巻きつけた腕と服とを、まるで構わぬといった体で、馬の背を降りた。
奥の茂みに蛙の鳴き声が響いている。暗闇に紛れてところどころ分からぬ汚れを嫌がり、ぶる、と身ななきする馬をかるくねぎらい、カミナは両脚の計り知れぬ疲労を振りはらい、屋敷の門をくぐった。ここは自分の屋敷ではないが、夜半遅くか――あるいは、この屋敷の者どもも悉く伏せっているのか、と、自らを嘲り気味に思い、カミナは目の前で黒い泥のようになって崩れ砕けていった将たちの様子を、眉ひとつ動かさずに思い返した。
土間に上がり、その者がいるはずの床間へと足を向ける。
欄間をくぐり、その場の様子を見ると、まるでその時を待っていたかのような神さびぶりで、王たる娘はこちらに正対し、きちりと座していた。
(厄体も無い)
娘の姿に、ほんの一間、常、自分の帰りを待ち受けて座る巫女の姿を重ねたのを自覚し、それを弄して、娘の前に座った。チャリ、とぶら下がっていた、泥にまみれた鞘が、座った拍子に音を立てたのが、ずいぶんと虚ろに間に浮き響いた。沈。
先に口を開いたのは、ずいぶんと長く何も言わずにいたカミナの方だった。
「あれは、何なのだ?」
言うが、娘の返事は無い。だが、一言も聞き洩らしてもいない、と思いつつ、カミナは粛粛とした口調で後を継いだ。
「あれは、一体何なのだ? 見られよ、この有様を。無様に引きを誤った一軍の将を。我が歴貫の群将どもは、果敢にあれに挑みかかり、悉く、そして、黒ずみ、全身、泥のようになってただれ落ち、骨も残らず染みとなった。目の前にしてなお我が目を信じられぬ、この中央神軍たる勢の生え抜く猛将がだ。笑うてくれ、王よ」
カミナは礼儀も何もない座り方で自らの片膝に寄りかかり、自分の無様さをあざけり笑った。ただしその口元には乾いた陰気の射す、黒い笑みしか浮かばなかったが。カミナは押し黙り、言うことが無くなったのに気づいた自分を感じ、目の前で黙して動かない娘の顔を見やり、自分の言葉が待たれている、とも感じて、軽い眩暈のような感覚がさすのに気づき、頭を振った。
「……。……それで。私はどういたせばいい」
「かの神が貴方達の神力にとても屈さぬとこれで貴方も、将兵どもも分かったことでしょう? ならば選ぶべきは二つ。退くか、それとも譲るか」
「おめおめと敗れた足を引き、郷に帰るか、冴えなくば主に王の座を再び譲り返す」
「左様ね」
「成程、先の主の言葉通りのようだ。私は主の前に何れひれ伏す事となったな」
「左様ね」
「こうなることが分かっていながら汝が何も動かず、最小の犠牲を目視して、座したまま再び座す結果を手に入れたのは――」
「左様ね。しかし貴方は選ぶ道が他に無かった事を知っている」
カミナは頭を振って、「そうだな。言うべきことでもない」と否定し、後を続けた。
「そうだ他の道は無い。そして今も他の道は無いことを知っている。それでは改めて汝に道を乞い願いたい。我等は一体何をすれば良い?」
「私に王の座を返し恭順しなさい。さすれば彼の荒ぶる神、王の血脈を以て鎮めましょう」
「そのようなことはできぬ。だが、しなければならない」
「歯がゆい事ね。力で力を制さんとするは貴方方の道。捻じ曲げれば威信を失う」
言いおく娘の言葉を半ばに聞いて、カミナは立ち上がり、その場を去った。
そして、その足で屋敷の奥の間の方へ向かった。一切明かりの無い廊下に灯る、申し訳程度の蝋燭の火を頼り、目当ての間の前に差しかかると、先に来ていた大草が、戦甲冑姿(所所、これもやはり血や泥で汚れており、大草自身も右眼を白い布で覆っていた)のまま、カミナの姿を目に止め、頭を下げた。
カミナは無言のまま、その布団の敷かれた部屋に数人の者たちがさらに控えているのを目に止めながら、今、正に今際の際を去らんとしている、布団に寝かされたサナの姿を見やった。見渡せば寝かされているのはサナだけでなく、幾人も、謎の病に伏せった者達が、すでに聞かされていた報告の通り、仄かな蝋燭の揺らめく中、手も無く死の淵へ去らんとしているようだった。
「様子は」
カミナは短く言った。
「……」
治癒の祈りに精神をすり減らしていたらしい、祈とうの老婆は、静かに首を振った。
「話せるか」
「お声は聞こえるものと」
老婆が答えるのに、そうか。御苦労、と短くねぎらいの言葉をかけ、
「サナ」
と、カミナは短く呼んだ。寝伏したサナの顔はすでに青黒く見えるほど生気が失せており、包帯で覆われた首や肩の辺りから、幽かに黒ずんだ泥のようになった肌が見えた。この流行り病が、自分の手の者達を襲っているということを聞いたのは一昨日前のことだ。そこから病は瞬く間に広がり、気づけばすでにこのような状態になっていた。サナは、カミナの姿を認め、何かを言おうとしたようだった。
「良い。無理をするな」
カミナは静かに声をかけた。口元に笑みが浮かんでいるのは、自分で自覚していた。
サナは、それを聞くと、微笑むようにして、幽かに唇を言葉の形に動かした。カミナはそれを見て取り、今度ははっきりと笑いかけた。
「サナ」
言う。
「すまぬ。苦労をかけた」
サナが引き取るのを看取ってから、カミナは中の者達に二、三言いおいて、外へと出た。廊下のすぐそこに居る大草を見やり、その頭を垂れるのを見やって言った。
「大草。皆に伝えよ。私は彼の地の王どのに恭順し、頭を垂れる。各地に散った者達は各々屋敷を引き払い、撤収をせよ、と」
「畏まりました」
「大草」
「は」
「済まなかった」
「滅相もございませぬ。……娘は、サナは聡い心持つ女子でございました。事の次第にうらみなど持ちますまい」
「死んだ者の心は分からぬさ」
「は」
三日。
サナの葬送も野暮に伏して、カミナは普段よりも壮麗な衣を身に纏い、自分より幾らか背の低い娘の前に膝を折り、恭順の意を示した。
この儀式を経て、再び王となった娘の力添えにより、彼の地の神の鎮縛は行われる。その途、自ら馬上にて、王の乗る輿に随して横を行き、カミナはふとこの日の晴れ渡る、藍を流したような夏風を受け、この地の美しさと空の蒼を見て、ほんの少し目を細めた。
(良き空よ)
昨日のケをすべて吹き流すようなハレの空を眺めながら、カミナは心中で己の声を聞いた。
(ハレの日だ)
同日。
鎮縛の儀の祭壇。王に返りて、巫女となった娘の、朗朗と、粛粛と、この地独特らしい祝詞の言を読み上げる声を聞き、カミナはあまり祭壇を見ぬよう、立ち上がって祝詞を述べている娘の背にも目を合わせず、半ば閉じるようにして、目蓋を伏せていた。やがて、祝詞が終わり、娘はカミナの前に立ち、前に出るよう促した。カミナは言われるままに立ち、そして、祭壇の前にひざまずいた。
(肝試しよな)
いつか呟いた言葉を述べながら、口唇を柔らかく、しかし威を失わぬ程度には将らしく開く。その日のカミナの衣装は、山の紅葉を汁に染めたような上衣に、落陽の山山を映したような影色の、ゆったりとした下衣、そして、しめ縄のようなもので頭頂にまとめた青い髪が山の頂を指して表し、胸には泉を抱くような青い鏡を提げていた。その鏡がちりちりと揺れる度に鳴り、意識せずともその日着けていた鈴の在り様を、カミナに意識させた。
(山風か)
いつか思ったことを想う。この秋に移り変わる時節の寒いほど青い風と、深い空。
気づけば、カミナはふと言葉を止め、そして、後ろにいる娘を振り返っていた。
「――おい。今日は、何の日だ?」
「――は?」
娘は目を丸くして、というより、一瞬カミナのあまりに非礼すぎる――よりにもよって誓言の途中に私心を挟むという――行為に、かえって意味が分からず、思わず、地が出たというように、呆気に取られた顔で見て、その口が何かを言う前に、カミナは一人自分に言い聞かせるように続けた。
「そう、今日は何の日だ? ハレか? ケか?」
「いきなり何を言い出すの。いえ、いいわ、とにかく――」
「いや、大事なことさ」
カミナは首を振ると、言った。
「我我神には、そも人間のような情動やら趣きやらは与えられておらん。ただその日がケであるか、ハレであるか――。私にとって、例えば今日は何の日かと聞かれれば、私にとっては今日はケの日であろう。前後の経緯がどうであれ、私は今日この日より彼の地を支配しおる神に追われ、頭を屈した。神軍の者どもにとってはどうか? これもやはりケの日であろう。今日この日を境に我我は彼の神への畏れに屈し、威を失い、恭順してなお畏れを共し、捧げつづける無力の徒となった。彼の国の王どのにとってはどうか? 彼の国の王どのにとっては今日はハレの日であろう。目算した通りのことが起こり、目算した通りの鞘に収まった。最小の被害を以て我我神軍すべてを御した手並みは批判の余地もないほど見事なものだった。だが、やはり今日は誰にとってもハレの日なのだよ。――さて、汝はどうであるか、蛇神どのよ」
カミナは目を閉じ、澄ました顔で腕を横へ広げた。
「汝にとっては? そう、汝にとっては、今日はやはりハレの日であることだろう、蛇神どのよ。全く汝にはお聞きしたいところだ。汝の威信、汝の畏れは正にこの国のみならずして留まらざるほどに、それは強大で、強力で、また邪となるほどに大それたものよ。これまでの年月、この地に根ざしての汝の生とはまさにハレの日ばかりの三昧であったことだろう」
「ちょっと。いい加減になさい! 何を考えているの!?」
いつの間にか立ちあがって訥訥と述べていたカミナの肩を、後ろから王たる娘が掴む。なかなかの力だ。そういえば直接触れ合ったのはあの初対面のときぐらいで、この娘の力量など、測ってみようと思ったことはなかったか。
カミナは続けた。
「しかし、蛇どの。ハレの日ばかりでケの無い日日は、自然と薄れ、ハレがハレでは無くなっていくもの。我等に人間のような強欲は存在してはならじ、より多くを「望む」ようなれば、神は道外れ、「邪」と見なされる。まったく難儀な事だな、蛇どのよ。汝は退屈していたのだ。ハレがハレたらぬ日日はぬるま湯に浸かるがごとし。神が望んではおらぬというのに汝は畏れの強大さ故にハレを望まれ邪に堕ちた。同情たらしめんぞ、蛇どの。汝を祭祀するには、もはや人どもの畏れでは不足なりき。なればこそ、この私が祀ってやろう。神どもの宗主たる大国主命の一粒種、この天禍之神奈之比女子が、汝を祀ってやろう。さあ、起きられよ、くちなわ。今日こそ、汝の待ち望んだ、ハレの日だ!!」
轟、とカミナの言葉とともに、聞く者達の耳に、音が遅れて届くほどの風が爆発し、カミナとその後ろにいた娘以外、全てを巻き込み、滅茶苦茶に荒れ狂った。
無論の事、広い室内とは言え、そんなものを屋内で吹かせれば、何が無事で済むはずはなく、供物は天井に跳ね上がって、べちゃっべちゃべちゃっと、形残さず潰れ、皿は地面へと這って、破片となって散り、燭台は全て消えるどころか、あるものは蝋燭ごとばらばらになり、あるものはあらぬところまで吹っ飛んで「ひっ」と伏せていた巫女どもの頭の上辺りで壁にぶち当り、ひしゃげた。
そして。
まず始めに割れたのは、横倒しになったまま祭壇にのっかっていた鏡だった。パキッと誰が触れるでもないのに亀裂が走り、欠け落ちた小さな破片が、屑となってパラパラと落ちた。そして、その頃になってようやく大きくなったのは祭壇が小刻みに震える音だった。最初のうちはカタタタ……と、耳に聞こえて気づくか、気づかないかだったが、それがやがて大きくなりガタッガタタッガタタッガタッ、と、まるで地揺れにでもさらされているかのように大きく振動する。だが、祭壇以外の処は、こそとも揺れていない。あまりに強い揺れに、辛うじて乗っかっていた鏡が、ついに落ちて砕け散る。誰かの大きな叫び声が聞こえた。神の名を口にする声が。
「――ミジャグジ様!! お待ち下さい!!」
そう後ろの娘がカミナを押し退けて叫んだ。その瞬間、天を衝かんばかりの勢いで祭壇が木端に散って、その中を恐ろしく巨大な黒い体躯が蠢き、そして、何の前触れもなくカミナをぶうん、と襲った。カミナはこれをあらかじめ手にしていた祭祀用の剣で半ば斬撃するように正面から受けたが、耳鳴りのような音がして、勢いそのままカミナは吹き飛ばされ、剣は柄を残して粉微塵と宙に散った。しかし、カミナもさる者よ、と、とっくに体勢を立て直しており、そのまま印を切って、疾、と念じ、指を中空に滑らせ、眼前に迫る、図抜けて巨大かつ速い黒蛇の頭目がけて解き放った。中空が、炎と蔓とに覆われ燃える。それは一瞬で炎の筋となって、ずぁおう!! と、音にならない音とともに飛んで蛇の喉もと辺りに突き刺さってのけ反らせた。その間にカミナも片手に剣を握り、その剣を呼びだした蔓を手荒く引きちぎった。炎の風圧で舞い上がった下衣の下には、ちゃんと鎧装束の、神さびた織り糸で織られた下衣を履き、上衣の袖の下からは、これも同様の、輝く糸で織られた小手装束がのぞいている。祭祀用、とは銘打ったが、これらも戦に用いる物としては十分に上等だ。
(全く武辺の比女とは便利なものよ)
心中で笑いながら、蛇に突き刺さった剣が消え、黒い血を垂らしていた赤い口内がぐばぁと開けて一気に押してくるのを、カミナは今度は上に飛び退きざまに、力任せに圧し潰した。じゅん、と指先が蛇の神力に腐るが、それを笑ってかわす。人の身体ではない。タタリの一つや二つ、痛みはあれどすぐに治る。
(この蛇神と戦えるのは、故にこそ私なのだ)
圧し潰した蛇の頭を、同時に力の方向を変えながら抑えてやりつつ、それでもカミナは激しく後ろへ引きずられ、慌てて退避していた者達の間を、力任せに蛇の動きを御してかわした。
(邪魔な)
ちっと舌打ちしつつも離れ、今度はカミナの押さえを突破した蛇神の頭が後ろから迫って来るのに一瞬で向き直り、暴風のような蛇の動きに遅れることなく刃を当てる。ガリガリガリガリ!! と蛇の鱗が剣の刃の腹を激しく削り、横に受け流し気味に受けていたカミナの身体を、刃ごと怯ませ、吹き飛ばす。
(ちっ)
カミナは咄嗟に床を跳ね飛ばし、材木を蹴り抜く勢いで跳んだが失策だった。間を空けすぎた。そう気付いた時には、蛇はくっと顎を引いており、次の一瞬には、その赤い口内から、色が無くなって見えるほどの粘ついたタタリの塊を吐きだした。いかん、とカミナは内心で舌打ちし、仕方なくその場で受ける算段をして、印を切った。
じゅわっ!! と、まともに黒いこごりの渦を受ける、それらはべちゃべちゃっ!! と床に落ち、粘っこく跳ねて辺りにばら撒かれ、触れるもの全てを腐らせた。黒い泥のように。
(行幸じゃ)
カミナは地獄のような痛みのなかで、溶けた歯を喰いしばり、まともにとろけた目を見張り、かろうじて襲い来る黒い巨体の薙ぎ払う様を見届けて、骨になった指と剣でこれを受け、どかん!! と背に来る衝撃とともに、多数の壁材を外へぶっ飛ばして散らせ、だん!! と黒い煙を上げながら、土の地面を手のひらに叩いた。
「ふ」
ばっと、目の前の邪魔な煙を薙ぎ、すさまじい速さで再生する指を、剣の刃を確かめ、ぎゅっと柄を握り直す。
儀式の場にしていた祭場の周りには、すでに多くの人どもの姿があり、中から逃げ出してくる人とぶっ壊れかけた建物(まあ半分はカミナが暴風を操った際の被害だが)を見やり、その屋根がついに崩落し、中から先程よりさらに巨大となった黒い蛇の体躯が、天を衝くように伸びあがるのを見ると、ついに恐怖の悲鳴を上げ、ミジャグジ様、ミジャグジ様だ! と、口々に神の名を口にしてはおたけびを上げて、散り散りに逃げはじめる。
(怒った神の目に民の姿など目に入らぬ)
しゅうしゅうと煙を上げる自身のおぞましい姿を見下ろしつつ、カミナは笑った。
(人の姿を取っていようと、神も化物も紙一重か……)
肌を覆う装束ごと再生していく足を気張り、カミナは飛び、ひゅお、と手にした剣を宙にやった。
「疾!!!」
雄叫びとともに、こちらに向き直っていた蛇の右目に、炎を纏った剣が風の速さでズン!! と突き刺さる。蛇は血を噴き出してぎしゃあ、と鳴きながら、宙に浮いたカミナ目がけ、ぐあ、と真っ赤な口を広げる。それがばくん、と閉じ、己の身体が黒い体躯に消えると同時、カミナは出現させ、手にしていた新たな剣で、これを防いで、屈めた身のまま、蛇の口内で突き立てるようにした剣で、わずかな間を作りあげて、これを喰わんとした蛇に、大きな悲鳴を上げさせた。してやったり、とこぼれ落ちたカミナはしかし、一瞬わずかに目を見開いた。
(いかん)
大きく上を向いた蛇がしようとしてることが分からないではない。そのままかぶせるようにしてあのタタリの塊か何かを吐きかけようというのだろう。
ちょうど大勢の人どもが逃げている上に。
(夢中になりすぎたわ)
カミナは思っているよりもかるく考えるのを感じ、それと同時に全速をふり絞り、「盾」の印を切りながら、黒い塊が毒のように吐きかけられるのを見送った。
そして、その毒が貫かれ、蛇の頭を、何かの巨大な力が打ち据えるのも。
(輪?)
それは巨大な鉄の輪だった。しかし、タタリの塊を貫いてもびくともしておらず、蛇の頭を打ち据えたのも、ちょうど輪投げのようにその頭を捉え、勢いのまま揺すぶったということらしい。
「この大うつけ!! 大たわけ!!」
下から聞こえてきたのは、聞きおぼえのある、しかし、聞きおぼえまるでないようなやんちゃな口調の声だった。それが、がーがーと怒鳴り飛ばしてきた。
「なんてことすんのよ、このアホたれ!! わたしんとこの貴重な民草がえらい事になるところでしょうが、うつけ!!」
「おお、おお。何だ、とうとう地が出たか王どの」
「じゃかましぃ!!」
「はは、そう怒るな。いや、怒った顔もかなり良いな。どれもうちとよく見せてくれりゃ」
「ええい、このクソ女」
娘は艶を帯びた眉を吊り上げ、さらにびっと両手を突き出し、その腕にしていた幾つもの輪をしゃりん、と鳴らし、ついでに髪に下げた輪もちりん、ちりん、と、澄んだ響きで鳴らしつけた。すぱぁん、とそして、すさまじい音が宙で鳴ったかと思うと、きしゃぁっ!
と蛇の巨大な身体が信じられない勢いで跳ね跳び、怯まされた。
「こうなった以上、蛇神様の怒りは七日七晩は治まらないわ。どう責任を取るつもりかしら」
「私はいい女は好きだよ、王どの」
「真面目に話を聞く気がないの?」
「真面目に話している。何、汝が力添え致せば十日十晩は蛇どのを抑えられることだろう。後は民どもに被害が及ばぬよう、戦場をもうちと遠地へ移すことだな」
「こうなったのは貴方の責よ。当然けじめはつけてもらうわ。――全く信じられない!! 無茶苦茶よ!」
十二日後。
とある彼の地の人気無き僻地。後にこの戦いを見た民草どもは、これを口にすることを恐れ、封印してしまったが、この戦い、正に凄まじく、蛇と風の神と王の通った後は森は抉れ、岩は穿たれ、あるところには、草木の一本も生えぬ泥地が広がるようになり、またあるところでは、新しい谷が一つ出来た。勝負は蛇も神神も一歩も譲ることなく、その轟音は広き彼の地を跨いで響き、民草の眠りをひたすらに妨げ続け、不眠に陥らせた。蛇の怒りは途中で途切れていたようだが、その後も何かのうっぷんを晴らすように暴れ続け戦い続け、そして、――この僻地、美しい諏訪の湖が広がる地にて終息したという。――いや。終息「した」のだ。正確には。
民どもは前記した通り、この戦のてん末を後に記さず、語る者は祟りを受ける也、として、固く秘した。だから、このてん末を知っているのは、力尽きてぐったりと伏した蛇神と、その場に居合わせた満身創痍なるたった二人の神たちであった。
同、僻地。丘の上。
「ふ……」
カミナはぜぇ、ぜぇ、と肩で息をつき、ざしゃ、と地面に剣を刺し、寄りかかった。少し向こうに倒れている蛇の巨躯を背中に、こちらも両手を着いてぼろぼろの様子になった王が、ぜー、ぜー、と俯いて息を漏らしていたが、カミナのにやけたような面を見て、急に眉をひそめた。
「何笑ってる」
「気にせんでくれ。呆れているのだ」
言うカミナの台詞に、王はぐっと何か言いかけたが、結局疲労が勝ったようで、はー、はー、げほっ、と、軽く咳をした。
「ふ」
カミナは笑ったが、こちらもその拍子か、げほ、げほっ、げほっ、と、口に手を当てて咳をした。ふぅ、と息を吐いて、しばらく整える。
間。
「王どのよ」
カミナは言った。
「私はそなたに恭順しよう。今後、神軍の手の者どもは郷へ返し、私一人ここに残り、汝らの手に身を任す。――もっとも幾人かはこの地で肉親や同胞を失った者達だ。残留を希望するなら、どうか叶え、黙認してやってほしい。残る者達の面倒は、私が長となって留まり、この地に眠らせよう。――さすれば本当の意味でタタリは治まろう」
「呆れたわ……」
「図々しさにか?」
「まさか、それを言うためだけにこんなアホたれをやらかしたの?」
「いや。それはまた別の理由だ。だが、言いたくない」
「別に私も聞きたかないけれどね」
王は憎々しげに言い、ちら、と後ろを見やった。巨大な黒い巨体は、相変わらず山のようにそこに倒れていたが、よく見やれば呼吸をしている。……呆れた話だが、暴れ疲れて眠っているものらしい。
「ここまでやるなら恭順などしなくてもいいようなものだけどね。私の力添えなど無くても貴方ならいずれ、彼の神を平定してしまいそうなものだわ。あえてそうするというの?」
「私はいずれこの地を去る。いや、この地を離れるという意味ではない。神々の力は永劫ではない。汝も感じているのではないか? 何故我々が此処に在り、そして人間どもの信仰により支えられているのか、そして、我々を信仰するあの人なる者どもが何であるか」
「……」
「私の力が何れ衰えるか、それとも彼の神の力が何れ衰えるか、それは分からぬ。だが、同じことだ。この、私と彼の神がいることによって作る均衡とは崩れ去るを得ない、脆いものだ。ここに私を封じても、後の世の事は分かるまい。いや、予測がつくからこのように言うておるのだが、正確にはそうだ。この地を平定し得ぬという事柄が残ったことは、大国主命の行う中央よりの国納めにも小さからぬ影を投げかけよう。私の役目は終わったのさ」
「言うことは分かる。なるほど、それが貴方が言っていた神々の話か……」
「そなたなら分かろうと思う。どちらにせよ、私は自分の意思でこの地に留まるさ」
「貴方もこの地で何かを失ったから?」
王は言った。カミナはしばし言葉を止め、ふと夏も終わりがけにさしかかった空を見あげた。落陽か。
奇しくもと言おうか、蛇がうずくまる丘を掠めて、山風と影が、夜気に沈もうとしていた。カミナはやがて俯いた。
「我ら神々には、そういった感傷は無きやと思う。あるのは、ハレとケの日のみだ。ハレの後にはケがやってくる。つまりこれはそういうことなのだろう、この込み上げるような、郷愁の重さは。我らは人の形を取り人のごとく振る舞いて、その身に信仰を受けし、業深き存在よ。是は或いは其の為なのかもしれぬ。儚き人の命に、記憶に囚われ、落涙し、天ならぬ地を見下げることなど。だが、今だけは、共に泣いてくれるか、王よ」
王はしばしカミナを見やり、俯くように、何かを抑えるように眉を引き締めた後、ふっと呆れて目を閉じたような顔をした。そのままひそめた眉を崩さずに、言う。
「ええ。いいでしょう、風の神。貴方のした事が何であれ、「私のした事」が何であれ、あの娘は、私の中にも心を残していった。泣きましょう。ただし心の中で。そして、あの娘ではなく、儚き人間の為に」
そうして、私は初めて人の為に涙を流し、心を砕いた。生まれて初めて人間のために、心の底から涙を流した。
現代。
いや。現在、か。
茶の間の縁側。神奈子はだらしなく寝そべって、指の先でコロコロと小さな鈴をもてあそんだ。鈴は小気味よい音を立てて、神奈子の万年、永百年、それこそ遠の昔からそうであるよう保たれてきたきめ細かい指先をくすぐった。
(ふ)
「八坂様。お行儀悪いですよ。魔理沙や妖怪連中にでも見られたら示しが――何ですか、それ?」
「うん? ああ」
神奈子はほろ酔い気味の声で答え、内心しくじったな、と、ちょっと口を尖らせた。
「あ。もぅ、まぁた! 何でそうやってこっそり自分とこのお酒をくすねたりするんです! やめてくださいよ、もう」
案の定早苗にはすぐにばれたらしく、上から怒り顔と、風変わりな碧の髪の薫りとを、いっしょに降らせてくる。
「まったくカタいことを言うわねぇ。いーのよ、私は神様なんだから。神様はえーらいのよ」
「酔ってますね。あー、もう。まーいいや。知りません、もう」
早苗は薄情に言って、ふわりとした香りを残しながら、持っていた皿を卓に並べていく。それから、ちょっと神奈子をふり返って、怪訝な顔をした。
「その鈴、思い出でもあるのですか?」
「んん? ふふ。まぁね。ちょっと。でも、そうだな……」
「?」
「教えるのはお前がもう少し大人になってからだね、早苗や」
「なんですか、それ……」
ふふ、と意味ありげに笑って、神奈子は、気分よさげな顔を繕った。
「私の若い頃の話だからねぇ。ちょっとお前に話すのは、なんというか、その、早いねぇ」
「八坂様のお若い頃ですか……」
ふーん、と早苗は気なさげに言って、カチャ、と最後の皿を並べおえると、立って台所の方に戻っていった。
きっとまた酔っぱらった私のたわ言と思っていることだろう。
廊下の方から、ぱたぱたと諏訪子の戻ってくる足音が聞こえた。
闇が怖くてどうする? あいつが怖くてどうする?
doa/「英雄」
守矢神社。
茶の間。
「えーと」
早苗が言った。
「じゃあ、まず、私からいきますね?」
ちゃぶ台で向かいあった二柱に了解をとると、ちょっと息を吸ってから、早苗は、
「かえるぴょこぴょこみぴょこぴょこ、あわせてぴょこぴょこむぴょこぴょこ」
と、日ごろ祝詞の復唱等できたえた舌の滑らかさを駆使して言った。
「では、えーと、――かえるぴょこぴょこみぴょこぴょこ。あわせてぴょこぴょこ、むぴょこぴょこ」
と、早苗の次に、これも自分に仕える神主に負けじ劣らじの口の滑らかさで神奈子が、あっさりと言ってのける。
「え。えーと、か、かえるぴょぴょぴょぴょむぴょこぴょぴょ。あわせてぴょぴょぴょぴょむぴょぴょぴょぴょ……」
そして、最後に言ったのは、諏訪子だった。無論、言ったが言えてないのだが。
やがてばしん!! と、ちゃぶ台が叩かれる。
「ほかの!! 他でやり直し!!」
「往生際のわるい」
「他のって言われても……」
「なにを!? がちんこ勝負ならやったるわよ、さあ来いよ怖いのか!?」
ファイティングポーズを取りだす諏訪子から目をそらし、早苗は薄情に急須をあけて、中を確かめると、「あ、入れ替えてこなきゃ」と、つ、と立った。
「バカ者。自分とこの神主にからむご神体がどこにいるか。さぁさっさときりきり風呂釜そうじしてきなさいガマだけに」
「蛙じゃねぇ! 神様に風呂釜そーじなんかさせていいのか!? いやよくない!」
きいきいわめく諏訪子にしらっとした面持ちをかえす神奈子の横から、もどってきた早苗が、やれやれという目を向ける。
「だってこの勝負は諏訪子さまが言いだしたものですし……」
「私早口なんて言わなかったもんね。あえて私の不得意科目を持ちだすそこのヘビ女が……」
「いや、私もヘビじゃねえから。あーなんだ。向こうの国の格言にはこういうのがあってね。敵を知り、己を知れば、百戦危うからず、攻め上がること火の如し、敵を騙すにはまず味方から――ええ、まあ、なんだったかしら、どうでもいいけど、つまりは勝ちゃあ何でもいいのよ」
「あのう……ぜんぜん意味が分からないんですが」
早苗が困惑して言う、諏訪子は、とにかくじたばたとあがいて、ばん、と机をたたいた。
「だー! もう、この際そういうことはどうでもいいの! もういっかい! もういっかい!」
「生麦生米生卵」
「隣の客はよく柿くう客だ」
「今日のところはこのへんにしてあげるわ。時機がよかったわね」
諏訪子はちょっと引きつった笑みで不敵に言うと、「うおおぉ、ちくしょぉぉぉ……」という叫び声を残して、風呂場の方へ走っていった。
「さて。早苗。邪魔が居なくなった処で一献ついでくれ。」
「はい。お茶ですね」
「いや」
「八坂様。神様が真昼間から酒をかっ喰らうものではありませんよ。この里の妖怪連中じゃないんですから」
「……はい」
「しょぼんとしても騙されませんからね」
早苗はつれなく言うと、用意していた湯呑みにお茶を注いで、ちっとほおづえをつく自分の主神の様子をちょっと笑って、お茶を置き、台所の方へと戻っていく。
「……。ふむ」
神奈子は、物思いするような顔をしてから、ふとちりん、ちりん、と音の鳴った方に目を向けた。
庭先を背に、少しもう季節を外した風鈴が、暑さの温んだ風を受けて鳴っていた。
(山風か)
鈴。そう、思いだした。
早菜。あれは鈴の似合う、可愛らしい娘だったと思い出す。
およそ昔。神代の頃。
「お~い、サナ!」
何度か呼びかけると土間に出てきたサナは、ぎょっとした目でカミナを見た。とはいえ、当のカミナは、気にせず履き物を脱ぎ、土間から上がりこんでいる。
質素ながら仮にも比女たる様を示す服に、どっさりと縄で結わえた魚を担ぎ、板間に敷いた藁敷きの上に落とす。
「今日の晩飯だ。下下の者にも振る舞え。足りない分は干物にでもして取っておけ。いずれ使う時の足しにはなろう」
「どうなさったのですか、一体これは。……あ。お帰りなさいませ、いえ、違います。比女! またこのような! こんなに一度に川の魚を獲っては守り神様の不興を買います!」
サナはちりちりと、髪に飾った鈴を揺らし、若い面立ちを怒らせる。切り揃えられた前髪の下で、艶を帯びた細い眉が尖がっている。
「大丈夫さぁ。あそこの川の神は私にホの字だ。いざとなったら話しに行ってやるさ。むしろ喜んでおるだろうよ」
「ほんに仕方のないお方ですこと……。もう、では仰せの通りに今日の夕げにいたしまする」
サナは呆れた様子で言うと、ぱたぱたと奥へ行き、「誰ぞ」と呼ばわり、重重しい巫女の装束を揺らした。控えめな布地で織られた独特の意匠の裾は、なんとも言い知れぬ、清楚で品の有る薫りを、サナと、その碧色の黒髪に与えているようだ。
その背を見送りつつ、板間の上がった処へと両手を着き、カミナは風の匂いを嗅いだ。
(山風か)
良い風だ。
「――比女! カミナ様! またそんな風に行儀悪くして!」
そのままごろんと寝そべっていると、年若い巫女の顔が逆さまになって言ってきた。カミナは「あー」と面倒そうに返しながら、「サナ、近う寄れ」と、ぞんざいに言った。さらには近寄ってきたサナに、ひょいと頭を上げて、無言で膝を枕に貸すよう要求する。
「もう……」
サナは言いつつ、傍に寄ると、カミナの頭を膝枕に乗せてやった。カミナは満足そうに目を閉じ、しばしそよそよと動く風に鼻先を預けた。
「良き風だ。今度の戦に血生臭くも誇らしい勝利をもたらす威となる風気よ」
カミナの言葉に、サナがちょっと眉尻を下げた。
「お下知が来ましたので?」
「ああ。明後日、参上するようにと先程話があった。あの土産は戦前の景気付けじゃ」
カミナは言いつつ、うん、と腕を組んで伸ばした。
「今度赴くはいよいよ近隈でも至極の地、土着の者共の主が座る地と聞く。水も土も、豊豊と満ちた潤なる地であるぞ」
「それは楽しみなことで御座いますね。せいぜい怪我などなさらぬよう、お励みになって来てくださいませ」
「うむ」
三日の後。
カミナはすでに馬上の途にあった。
宗主、大国主命から下知を賜り、編成にわずかに三日。
急ごしらえの軍にも思えるが、彼の豊饒の大地への侵攻は、それこそ何か月と前から護国の間で決定されていたことだった。カミナ率いる先遣隊は、大国主命座する本隊に先行すること数日、これより更に二日の後には国境を越し、彼の国の大地へと足を踏み入れる手はずであった。
供の者含め数百からなる大軍は少数精鋭にて、要所の防衛に当たる敵軍を叩き、本隊の到着を待つこととなる。
(良き空よ)
兵達の隊列乱さぬ足音を背に追いながら、進軍の途の晴れ渡る空を見上げ、カミナは目を気負い無さそうに細め、先の国土を見通していた。
二日。先に走らせた馬の数騎が戻り、勢い荒く報告した。この先に陣取る敵、およそ百。
(肝試しよな)
「皆の者! 逆月を挙げよ!」
後列まで伝令を行き渡らせるよう言い伝え走らせてから、カミナは叫び、腰の鞘から剣を抜いた。
「間も無く戦場じゃ!! 我等が主神の加護を叫べ! 女子供を持つ者共は奮起せよ! これより皆の命、私が預かる!」
カミナの勝鬨に呼応し、オォォ、と隊の列から空を衝く雄叫びが上がる。気炎を上げた隊列は、その気勢のまま進軍を続け、やがて進軍を続ける先に、奇異な土着の民族特有の色彩に選り塗られた兵達の護る砦の一つを目視した。
「大草」
「はっ」
「どう見る?」
「は……」
大草は眼前に展開する騎馬の列を眇め、さらに後方にそびえる簡素な木造りのこしらえの砦を見やった。
「恐らくは砦に相応の数の手勢が居りましょう。こしらえの粗末さから見て、我等の足止めが目的かと。敵の弓手の存在を目しますれば、狙いは損耗戦でありましょう」
「玉砕覚悟か。健気なことだ」
そう話していると、眼前数広にかけて居並ぶ馬どもの中から、居立ちの威風堂堂とした者が一騎進み出た。カミナ達が相手どってきたこれまでの者達同様、その体躯は一際奇奇として立派であり、また、他の者たちより手足の長さがかけ離れて長いようで、それでありながら、兜の下の面は正しく武人のそれのようであった。
その手長足長の者が、堂、とした大声を威立てる。
「丁頭、居丈高なる蛮柄の族どもよ! 此処を何方と心得るか、今度の汝らの不調法、我等が王の念損ねる事甚だしきにして、非礼なり!」
武人は言いつのり、さらに続ける。
「斯く背成りしに申しければ聞け! 我が手長足長森之上の胴声を聞かぬとあらば、大人しく尻からげ逃げるがいい。冴え無くば汝等の命、まとめてこの武上が貰いうけよう!」
数畳も轟くかとおぼわしき恫喝に、隊列は少なからずざわめき、「何を、なぶるか」と猛る者もいれば、「おのれ」「無礼な!」と、血気盛んに荒ぶる者も出た。カミナは見やって大草を呼ばわり、
「皆を抑えよ。私が先陣を取る」
「はっ」
と、返事を聞く間も足らず、馬の腹をとん、と鳴らし、鞍を揺らして走りだした。後方の隊列がざわつくのを遠ざかって聞きつつ、進み出ていた敵将と相対する。
手綱を引くと、馬はいななきをかるく漏らして足を止めた。
「これはひげ面。汝こそ我等を此方の者と心得るか。田舎武者風情には馬も女の性質も分からなかろうが、恐れもせて、我等が主神の命を虐げるははなはだ不如意にして不実成りきよ」
カミナは言い返して、馬の足を鳴らした。
「さかしき成り毒婦ども。汝の評判、既に音に聞こえて知らぬ者無しよ。蛮柄どもの主が一粒種が、土具の兵隊、駄馬の鞍を引きて調子を鳴らせし事知らいでか」
「さても、これは捗捗しきや。この天禍之神奈之比女子を捕まえて、毒婦阿婆擦れ扱いとはよう申したものよ。さても西方の蛮勇どもは女も馬も分からぬ田舎武者どもと見ゆるわ。その泥臭い素っ首我が馬の脚に転がす前に、首を洗いに戻るがいいわ」
カミナが申すと、相手の手長足長某はカハハハハッ! と、無礼なほどに高笑いをかました。
「言うたわ阿婆擦れ! 成れば我が武上に組み伏され、その体躯、野卑なる者どもの手に落とすが良い!」
手長足長某は言うや、「ハァッ!」と、手綱を絞りつつ鐙を鳴らし、高くいなないた馬を一直線にカミナの前へ走らせてきた。
カミナはひるがえした刃でこれを迎え撃ち、その長い腕で繰り出される手長の珍奇な斬撃が馬の首を削ぐ寸前で弾き、逆に馬の鼻を向け返して、通り越した手長の背の下辺りを狙って、鋭くこれを打ち下ろした。が、手長もさる者、「むム!」とうなり声を上げて振り向きざまの斬撃を見まうと、距離の短さをもろともせず、馬の腹目がけ、蹴りを見まう。しかし、これも咄嗟に馬の背から繰り出されたカミナの足に払われ、やっと、怯んだところを、打ち下ろし気味のカミナの剣の刃先に掠められる。
「……、ムム!!」
手長は言いつつ退くと、カミナに距離を置いて走り、ばっと腕を上げた。
「小癪な、射かけ、射かけーーェイ!!」
矢の数百に渡る風切り音で、戦場の幕は上がった。
数日。
大国主命擁する神軍の陣営。
「こちらでございます!」
勢い荒く言う将の一人にうむ、と返し、カミナは血と埃と泥に塗れた鎧と服の裾とをそのままに、案内された間に踏み入った。
戦の勝敗はたった先程ついたところだ。
追い散らされ各地に散った敵将どももすでに総大将の王を護る力無く、僻地へ遁走の最中に在るだろう。これ以上の流血は長居と察したか、彼の地、諏訪の国の王は、側近を従え、投降の意を表して、こちらの手に落ちた。今のカミナはその見聞をするところだった。
(さても、さても……)
その場に通されたカミナが思ったのは、そんな厄体も無い事だった。この時初めて相見えた敵の王は女であった。まだ年若い娘の姿をして居り、異民族特有の青い染め抜きの布に白い神さびた風の生地を合わせた、ややゆったりとした比女のものらしき衣を纏っており、膝をきちりと合わせて瞑目した姿勢にて座っていた。熱気収まらぬ兵と将兵達の間には、あらかじめカミナが呼んでおいた通り、サナが来ており、敵の王の脇に控えるような形でその場に黙って佇んでいる。カミナはちらりとそれを見つつ、稀有な金色の稲穂色をした髪を、形式ばった縛り方でまとめた女の前にざっと座した。
「お初にお目にかかる。彼の諏訪の地を治める土着の者達の王どのと見受けるが、どうか」
「間違い無し」
「これは無礼をつかまつった。私が此軍の将を務めた天禍之神奈之比女子にある。大将、大国主は今しばしと此方には来られぬが、ごゆるりとご容赦頂きたい」
「今の内に尊大な礼をそうしてかわしておくがいい。貴方方はいずれ、我我にひれ伏すことになる」
「これはさても。御身のためを思えばそのように軽んじるのは感心ならん。口を慎まれよ」
「まずは兜を脱ぎなさい。敗れたりとはいえ、一軍の将に対して無礼でありましょう」
女がそう言うのと、カミナが手にした刀の鞘でその頬を殴り飛ばして、胸ぐら掴み上げるのとは、大して差無かった。上から見下ろしたカミナの目を、この扱いにも何の色変わりを見せず、一心に見返してくる目と、艶ばった眉を見て、カミナは内心で苦い笑みを浮かべた。
(こいつはまた、難物だ)
「我が手の者の中で最も無礼で野卑な者どもの手にその身をさらすよう仕向けてやろうか? 汝がその者らを拒めば、汝の手の者を一人ずつ同じ目に遭わせるよう仕向けてやろうか? 汝は敗れたのだぞ、王どの」
やや騒然として、敵も味方も気色ばむ中で、カミナはその女の目を、一糸たりとも揺らがず逸らさぬ目を見やっていた。そして再度言う。
(成程、こいつは難物だ)
しばし。そうして敵の王との謁見を終えたカミナは、王を置いた天幕の外に出、外に立っていた敵兵をふと見やり、何の気無しにその肩を叩いた。敵兵の男の壮健そうな顔が、自分の肩を叩いた相手を、一筋のみだれも無く見やる。カミナはこれだな、と思い浮かべ、敵兵の耳元に口をやり、
「今宵、私の寝所に来い。警備の者には取り計らって置く」
と言いおいて、こちらの意図を探る豪の者の視線を感じて流しつつ、天幕を離れた。少し遅れて、サナが同じ天幕を出た足で付き従ってくる。
「気に食わぬ顔をしているな?」
「そのようなことはありませぬが」
サナはいつもよりややきつくした横顔でちらりとカミナを見やってくる。
「いくら大国主様のお目が無いとはいえ、王たる方の頬を殴るなど少々手が過ぎるのではないですか。私は退出するのにも将兵がたの視線が痛うございました」
「それは皆戦の残気でサナの顔に目が行っておったのだろう。良い顔を持つと辛いな」
「おからかいは半分に致しますよう」
夜半。しとね。カミナは男を帰し、しばし寝転んでいた裸体を起こすと、さっきまでの気だるい仕草が嘘のように、きりっと引き締めた帯で、白衣と足袋の裾を擦った。
寝所の周りには既に誰もいないが、しばらく前から佇んでいたらしいサナが、暗闇の中で仄かに発するかのような白の衣装で頭を下げた。
カミナは構わず、先程事に及んでいたばかりの身体を居座らせ、すぐにそのまま、太ももも露わにはしたなく寝転がった。
サナは咎めず、黙ってその頭の辺りにすすと座り、カミナが例のごと頭を少し上げると、その下に膝をあてがい、枕とした。だしぬけに小さなため息を漏らすが、カミナは聞こえないふりでかるく笑んだ。
「まったくお前と来たら、いつも私の前ではつんつんしよるな。ほれ、少しは笑んで見せい。ほれほれ」
「お命と在らば笑んで見せましょうか……?」
カミナの手をやんわりと退けつつ、サナはひくついたような笑い方で犬歯を見せた。カミナはサナの柔い頬をつまんでいた指をふり、ぞんざいに詫びた。
「すまぬ。からかいが過ぎた。許せ」
「全くサナは呆れてものも言われませぬ」
「まぁそう言うな。その国を知るにはその国の男を知ることが必要だ。善き味わいであった」
「全く。サナは呆れてものも言えませぬよ」
「そう申すなよ。せっかく良き顔をして居るに、そうきつく当たっては、碌に男も寄りつけぬ」
「そのことについては何とも言いかねまする」
ふーん、とカミナは笑って、サナの頬をつついていた指を下ろした。かん、こと、と、幽かな音がして、サナが酒の匂いとともに、控え目に満たされた盃を差し出してくる。カミナは盃を受け取るついでに、サナがこちらに伸ばしていた指をひょいと持ち上げ、下からすがめるように表、裏、と、ひっくり返しながら見やった。
「いつ見てもお前指は綺麗よな。私より相当朝に夜に雑事を任されているというのによく皺くちゃにならぬものよ」
「まだ年若いからではございませぬか。先代の御勤めを致した母もちょうど私の年を過ぎたころより指に手に、老いが見え始めましたので。案外比女さまにお仕えする加護なのかもしれませぬよ」
「ふーん」
「……あまりまじまじと見られると、よい気がしないのですが」
「済まぬな。私はどうも、元元女生より男神の気が強く出ているようでな。良い女子には好ましいものを感ずるのよ」
「いっそ比女さまが男の方であったなら、私も何ら苦労をしなかったのかもしれませぬな」
「よう言うの。私が男であったら指や手をしげしげ眺めるでは済まぬぞ。手籠めにして居る」
「いっそ手籠めにされた方が苦労が無かったのかも知れませぬな」
「よう言いよる」
カミナは笑って、くい、と盃を口づけた。
戦気の収まりゆく身体と、情事を終えたばかりの肌に、酒の味はしみ込むように広がった。ふぅ、と心中でため息をつき、カミナはサナの指を片手にしたまま、何の気なしに、ぼんやりと盃を眺めた。気がほんの少し緩くなる。
「比女」
「ん?」
「かの方はどうなされるのです?」
「気になるか?」
「は、多少は……」
「安心せよ。取って食うたりはせん。しばらくはお前に世話を任す。あの難物の相手を頼むぞ」
「私が、でございますか……」
「ん? 何だ、まさかあの見目良き娘に見惚れたか」
「見惚れてはおりませぬが、ぞんざいに扱ってはならぬ御方と感じました」
ふーん、とカミナは言って、盃につけていた唇を離した。
「確かに根の大層曲がらぬ厄介なものに見えたな。しっかりと世話をするようにな。あれは放っておくとただならぬことになる。たぶんな」
「承知いたしました」
それから。
ひと月ほど。
カミナ達の陣営が借り取った屋敷。
「比女。東の御所の者より通達が入っておりまする」
「あぁ」
カミナは山と積まれた書簡の中身をためつすがめつしながら、控えの者に報告を聞いた。
「サナか。達者でやっておるのだろう?」
「は。そのように申されておるようでございます」
「例の難物についてはなんと?」
「随時、変わりなし、と。我我の用意した屋敷にも特に何も言うところなく、それと――」
「何かな?」
カミナが言うと、控えの者は、やや迷ったように言った。
「比女さまよりも大層気がかからず、常時平穏な方である、と」
「はは。よう言いよる」
「まぁ、サナどのの言うことも……」
「ん? 何か言うたか、お?」
「いいえ」
控えの者は咳払いなどしてから、さらに改めた様子で、言葉を続けた。
「それと配下の者たちより、民の陳情について少少気がかりな点が在る、と」
「ふむ」
カミナはそうとだけ言って先を促した。控えの者は、少し神妙な様子をして、話を続けた。
「地方の統治を任せていた者たちに、幾人かこちらの子飼いの者たちをつけていたのですが、何でも各地地方はばらばらなのですが、皆一斉に同じことをほぼ同時期に訴えておるとのことです」
「何か?」
「彼の地に眠るタタリ神の事について、だとか」
「ふむ?」
「民どもの言うておることは、断片では在りまするが、全てそのタタリ神について訴えておる、という事は、皆一致して居るということです」
「ほぅ。もしや、それは例のあれのことか? 大国主どのが郷に戻られてすぐに我我に対して断固とした陳情が在ったという」
「如何にも、その様で」
配下が言うのを聞きつつ、カミナはふとした様子で書簡から目を上げた。
「彼の地を譲り渡すとした王の儀の後にもその神への信仰は頑として失えぬとのことだったな。彼の神は大く古きよりこの地に根ざし、今の王がそれを鎮める一族としての役割を担っていた。陳情はその神鎮めの儀を直ちに執り行う様に、とのことであるか?」
「ご明察の通りでございます」
「どうやらくだんの神は余程畏れを買っているようじゃな。我等の事などその神の前にはちっぽけで目に入らぬと見える」
「恐れながらその様で」
「分かった。直ちに対処致そう」
数日後。神気満ち満ちる、何処かの祭壇の前。
カミナがその髪の垂れた凛とした神々しい背を見ていると、元の王たる娘はつ、と立ち上がった。
「神託を得ました」
カミナは儀式の作法を従い、口をつぐんで娘の言葉の続きを待った。
「我、怒りケリ、と」
じじ、と、娘の言葉に合わせるように、長い蝋燭の先が揺れた。カミナは黙ったままそれを聞き、女の口唇が言葉を紡ぐのに合わせて、ふ、と表情を動かした。
(形の良い口唇よ)
そう厄体も無い事を考える内にも娘は続ける。
「我が男神ナル気ヲ鎮メシは、長居コト、オヌなる気持ちし彼の国ノ力持ツ巫女ども、その一族ニシテ王タル力備えシ者ナり。故ニ我ガ頭上ニ今王タル者としテノサバル者ハ、イと不快ナる気持ちシ、この地に根付かヌ風の神ドモナリ。ワレ、甚ダイカリケり。神はこの様に託宣なさいました。残念ながら今の私にこれを鎮めることは出来ません」
「それはどのような事だ。今までは汝が御勤め為さっていたのだろう?」
「今の私は王たる血脈を放たれ、貴方方が宗主どのにこれを譲った身で在ります故、この地の主として座する貴方方にこそ、この神を鎮める次第が在ります」
「つまり我我の神力持ちて、汝の代わりにこの神を平定せよということか」
「そう取ってもらっても構わぬと存じます」
(歯の挟まったような物言いよ。いちいち難物よな)
屋敷。カミナに与えられた間。
カミナがじっと考え込んでいると、仕切りの向こうからサナの声がした。入れ、と申しつけると、神妙な面持ちのサナが一人入ってきた。髪の鈴が、所作に合わせてちりちり鳴る。
「先の託宣の事についてか?」
「ちょうどお考えの事と存じ、参じ致しました」
「構わぬ。申せ」
「はい」
サナはいつもの調子よりも、ややきつめに、選び抜いたような言葉で話した。
「今度の戦、お止め下さいませ」
「何故だ?」
「彼の王たる方は争いも血も好まぬお人柄。あの忠言は我等に無駄な流血の事を避けるよう申された事と存じまする」
「それは私も存じておる。その流血が何処に在るかを考えておった」
カミナが言うのに、しかしサナはその目を見つつ、やがて頭を振った。
「私如きの言を受けぬは神の事と存じます」
「そうではないが、汝の言う事も尤もだ。だがサナよ、汝の言にも聞けるものと聞けぬものが在る。汝が武人で無いから言うのでは無いぞ。だが実として、我等はこの地、この戦を退くわけには行かぬ。勝てぬ戦とて、戦せしめねば為らぬ」
「彼の地の信仰は強大にして、さに在ればこそ彼の神を邪神たらしめるもので在ります。力を以て力を制すること行えばとみに人の魂の脆弱に失せる事この上無きことでしょう」
「だが、我々は退くわけには行かぬ」
「比女」
「忠言は受け入れた。次第の不吉は覚悟の上、残るは愚劣なる神の口述よ。この戦、しかと聞き容れ臨む事あたわずじゃ」
険しい顔で口をつぐんだサナの横を通り抜け、カミナは手にした鞘の鍔を鳴らした。
二日の後。だが、事態は、カミナの予測よりもはるかに早く、異変となって現れた。くだんのタタリ神討征のための準備を進める神軍の陣営に、士気を歓呼する最中の儀に、天地が裏返ったかのような自身が襲い、地に立つありとあらゆる者に脅威を投げ走らせた。
さしもの神軍の猛者どももこれには驚き、急ぎ軍議を召集し、ある者は士気のたて直しを、そしてある者は討征を思いとどまるよう、そう露骨にすらしないが、荒ぶる神の怒りの早さに、カミナに忠言しようとさえしていた。
「否だ」
カミナの意思が口開くより先に言ったのは、将の中でも血気盛んな者どもであった。
「何を不吉が恐るるか。我我が相手取るもののあれこそ凄まじさよ。却って士気が高ぶらずして、どう武張るおつもりか!」
「待たれよ。今度の地滑めにより兵どもの畏れ甚だしきにて、民草にあっては是非も無かろう。却って恐怖をあおり、我我への不和を煽るのは得策では無いですぞ」
「此の侭日和るなど我等連戦連貫の百将どもの威信地に落ちる事捗捗しきや。民草が何たるか、異地の民どもになぶられては我等の戦、平定の血潮まかり通られぬわ」
「逸られるな。主等の言うてる事の判らずでは無いが、彼のタタリ神の荒びたるやこれにて息止まろうはずもない。更なる災厄に身を晒すこと、これ蛮勇で在りますぞ」
「……。よい」
将どもの弁議を聴き続け、カミナはふとずしり、と言った。それで熱気浴びていた数名の将どもが静まり、カミナを見る。
「よい。もう弁談の為する処あたわずじゃ。我等に退く選択等無きこと皆も分かろう」
「……恐れながら」
カミナの横から口を挟む無礼をしたのは、大草であった。腹心の部下の言葉に、カミナは眉一つ動かさず、「よい。言え」と、短く言った。
「……、では恐れなし、申し上げまする。彼の地に根づく信仰の十大成ることはばからざりしことはすでに遠知の疑い無き事で在りましょう。兵達の畏れなしは尤も。彼の神の力、人心をはなさずして不惑成ることも、また疑いなし。彼の地の民草どもが乱して言いつのりますに、このままでは病のまん延すら考えられぬと申しつのりて、その顔皆一様に蒼白きこと甚だしと聞き及びまする」
大草は神妙に言った。その白眉、痩顔の、年経た腹心の白髪を見つつ、父娘ともども、同じ事を申すものよ、と、カミナは厄体も無いことを考えた。
「大草の!! 汝、臆されたか! 将の腹心たるそなたがその様で如何なさる!!」
「よい。皆、聞いてくれ」
猛将たる浮原ノ公某の胴声を聞きながら、カミナは言った。
「双方相成りて言わんとする事は分かる。で在るが、だからして我等が道曲折せんとせしむることは蛮勇であろうし、また君説でもある。この戦、この我等が立たされた地を省みてそれでもなお言わんとすることは、至言で在れ不言である」
カミナは落ちつき、また落ちつき払っている事が悟られない程度に声を低く心持ちは重くあるよう律した。
「第一に我等が背に負うてるは誰が名で在ると存ずるか。我等足踏む事既に不知比の事と知って居る」
カミナは言い、目を伏せ、「大国主命の御命にかけて」と、律唱した。
「……大国主命の御命にかけて」
「大国主命の御命にかけて!!」
「御命にかけて!!」
更に二日。その間に、幾度かの地震を喰らいつつも、神軍は選り抜いた者だけで編成を済ませ、彼の神の討征、平定を旨とし、戦場への道を進めた。
数日も経ったか。
静まり返る暗闇の中、カミナは屋敷へと馬を入れ、その泥と埃、又、何とも知れぬ黒ずんだ布を巻きつけた腕と服とを、まるで構わぬといった体で、馬の背を降りた。
奥の茂みに蛙の鳴き声が響いている。暗闇に紛れてところどころ分からぬ汚れを嫌がり、ぶる、と身ななきする馬をかるくねぎらい、カミナは両脚の計り知れぬ疲労を振りはらい、屋敷の門をくぐった。ここは自分の屋敷ではないが、夜半遅くか――あるいは、この屋敷の者どもも悉く伏せっているのか、と、自らを嘲り気味に思い、カミナは目の前で黒い泥のようになって崩れ砕けていった将たちの様子を、眉ひとつ動かさずに思い返した。
土間に上がり、その者がいるはずの床間へと足を向ける。
欄間をくぐり、その場の様子を見ると、まるでその時を待っていたかのような神さびぶりで、王たる娘はこちらに正対し、きちりと座していた。
(厄体も無い)
娘の姿に、ほんの一間、常、自分の帰りを待ち受けて座る巫女の姿を重ねたのを自覚し、それを弄して、娘の前に座った。チャリ、とぶら下がっていた、泥にまみれた鞘が、座った拍子に音を立てたのが、ずいぶんと虚ろに間に浮き響いた。沈。
先に口を開いたのは、ずいぶんと長く何も言わずにいたカミナの方だった。
「あれは、何なのだ?」
言うが、娘の返事は無い。だが、一言も聞き洩らしてもいない、と思いつつ、カミナは粛粛とした口調で後を継いだ。
「あれは、一体何なのだ? 見られよ、この有様を。無様に引きを誤った一軍の将を。我が歴貫の群将どもは、果敢にあれに挑みかかり、悉く、そして、黒ずみ、全身、泥のようになってただれ落ち、骨も残らず染みとなった。目の前にしてなお我が目を信じられぬ、この中央神軍たる勢の生え抜く猛将がだ。笑うてくれ、王よ」
カミナは礼儀も何もない座り方で自らの片膝に寄りかかり、自分の無様さをあざけり笑った。ただしその口元には乾いた陰気の射す、黒い笑みしか浮かばなかったが。カミナは押し黙り、言うことが無くなったのに気づいた自分を感じ、目の前で黙して動かない娘の顔を見やり、自分の言葉が待たれている、とも感じて、軽い眩暈のような感覚がさすのに気づき、頭を振った。
「……。……それで。私はどういたせばいい」
「かの神が貴方達の神力にとても屈さぬとこれで貴方も、将兵どもも分かったことでしょう? ならば選ぶべきは二つ。退くか、それとも譲るか」
「おめおめと敗れた足を引き、郷に帰るか、冴えなくば主に王の座を再び譲り返す」
「左様ね」
「成程、先の主の言葉通りのようだ。私は主の前に何れひれ伏す事となったな」
「左様ね」
「こうなることが分かっていながら汝が何も動かず、最小の犠牲を目視して、座したまま再び座す結果を手に入れたのは――」
「左様ね。しかし貴方は選ぶ道が他に無かった事を知っている」
カミナは頭を振って、「そうだな。言うべきことでもない」と否定し、後を続けた。
「そうだ他の道は無い。そして今も他の道は無いことを知っている。それでは改めて汝に道を乞い願いたい。我等は一体何をすれば良い?」
「私に王の座を返し恭順しなさい。さすれば彼の荒ぶる神、王の血脈を以て鎮めましょう」
「そのようなことはできぬ。だが、しなければならない」
「歯がゆい事ね。力で力を制さんとするは貴方方の道。捻じ曲げれば威信を失う」
言いおく娘の言葉を半ばに聞いて、カミナは立ち上がり、その場を去った。
そして、その足で屋敷の奥の間の方へ向かった。一切明かりの無い廊下に灯る、申し訳程度の蝋燭の火を頼り、目当ての間の前に差しかかると、先に来ていた大草が、戦甲冑姿(所所、これもやはり血や泥で汚れており、大草自身も右眼を白い布で覆っていた)のまま、カミナの姿を目に止め、頭を下げた。
カミナは無言のまま、その布団の敷かれた部屋に数人の者たちがさらに控えているのを目に止めながら、今、正に今際の際を去らんとしている、布団に寝かされたサナの姿を見やった。見渡せば寝かされているのはサナだけでなく、幾人も、謎の病に伏せった者達が、すでに聞かされていた報告の通り、仄かな蝋燭の揺らめく中、手も無く死の淵へ去らんとしているようだった。
「様子は」
カミナは短く言った。
「……」
治癒の祈りに精神をすり減らしていたらしい、祈とうの老婆は、静かに首を振った。
「話せるか」
「お声は聞こえるものと」
老婆が答えるのに、そうか。御苦労、と短くねぎらいの言葉をかけ、
「サナ」
と、カミナは短く呼んだ。寝伏したサナの顔はすでに青黒く見えるほど生気が失せており、包帯で覆われた首や肩の辺りから、幽かに黒ずんだ泥のようになった肌が見えた。この流行り病が、自分の手の者達を襲っているということを聞いたのは一昨日前のことだ。そこから病は瞬く間に広がり、気づけばすでにこのような状態になっていた。サナは、カミナの姿を認め、何かを言おうとしたようだった。
「良い。無理をするな」
カミナは静かに声をかけた。口元に笑みが浮かんでいるのは、自分で自覚していた。
サナは、それを聞くと、微笑むようにして、幽かに唇を言葉の形に動かした。カミナはそれを見て取り、今度ははっきりと笑いかけた。
「サナ」
言う。
「すまぬ。苦労をかけた」
サナが引き取るのを看取ってから、カミナは中の者達に二、三言いおいて、外へと出た。廊下のすぐそこに居る大草を見やり、その頭を垂れるのを見やって言った。
「大草。皆に伝えよ。私は彼の地の王どのに恭順し、頭を垂れる。各地に散った者達は各々屋敷を引き払い、撤収をせよ、と」
「畏まりました」
「大草」
「は」
「済まなかった」
「滅相もございませぬ。……娘は、サナは聡い心持つ女子でございました。事の次第にうらみなど持ちますまい」
「死んだ者の心は分からぬさ」
「は」
三日。
サナの葬送も野暮に伏して、カミナは普段よりも壮麗な衣を身に纏い、自分より幾らか背の低い娘の前に膝を折り、恭順の意を示した。
この儀式を経て、再び王となった娘の力添えにより、彼の地の神の鎮縛は行われる。その途、自ら馬上にて、王の乗る輿に随して横を行き、カミナはふとこの日の晴れ渡る、藍を流したような夏風を受け、この地の美しさと空の蒼を見て、ほんの少し目を細めた。
(良き空よ)
昨日のケをすべて吹き流すようなハレの空を眺めながら、カミナは心中で己の声を聞いた。
(ハレの日だ)
同日。
鎮縛の儀の祭壇。王に返りて、巫女となった娘の、朗朗と、粛粛と、この地独特らしい祝詞の言を読み上げる声を聞き、カミナはあまり祭壇を見ぬよう、立ち上がって祝詞を述べている娘の背にも目を合わせず、半ば閉じるようにして、目蓋を伏せていた。やがて、祝詞が終わり、娘はカミナの前に立ち、前に出るよう促した。カミナは言われるままに立ち、そして、祭壇の前にひざまずいた。
(肝試しよな)
いつか呟いた言葉を述べながら、口唇を柔らかく、しかし威を失わぬ程度には将らしく開く。その日のカミナの衣装は、山の紅葉を汁に染めたような上衣に、落陽の山山を映したような影色の、ゆったりとした下衣、そして、しめ縄のようなもので頭頂にまとめた青い髪が山の頂を指して表し、胸には泉を抱くような青い鏡を提げていた。その鏡がちりちりと揺れる度に鳴り、意識せずともその日着けていた鈴の在り様を、カミナに意識させた。
(山風か)
いつか思ったことを想う。この秋に移り変わる時節の寒いほど青い風と、深い空。
気づけば、カミナはふと言葉を止め、そして、後ろにいる娘を振り返っていた。
「――おい。今日は、何の日だ?」
「――は?」
娘は目を丸くして、というより、一瞬カミナのあまりに非礼すぎる――よりにもよって誓言の途中に私心を挟むという――行為に、かえって意味が分からず、思わず、地が出たというように、呆気に取られた顔で見て、その口が何かを言う前に、カミナは一人自分に言い聞かせるように続けた。
「そう、今日は何の日だ? ハレか? ケか?」
「いきなり何を言い出すの。いえ、いいわ、とにかく――」
「いや、大事なことさ」
カミナは首を振ると、言った。
「我我神には、そも人間のような情動やら趣きやらは与えられておらん。ただその日がケであるか、ハレであるか――。私にとって、例えば今日は何の日かと聞かれれば、私にとっては今日はケの日であろう。前後の経緯がどうであれ、私は今日この日より彼の地を支配しおる神に追われ、頭を屈した。神軍の者どもにとってはどうか? これもやはりケの日であろう。今日この日を境に我我は彼の神への畏れに屈し、威を失い、恭順してなお畏れを共し、捧げつづける無力の徒となった。彼の国の王どのにとってはどうか? 彼の国の王どのにとっては今日はハレの日であろう。目算した通りのことが起こり、目算した通りの鞘に収まった。最小の被害を以て我我神軍すべてを御した手並みは批判の余地もないほど見事なものだった。だが、やはり今日は誰にとってもハレの日なのだよ。――さて、汝はどうであるか、蛇神どのよ」
カミナは目を閉じ、澄ました顔で腕を横へ広げた。
「汝にとっては? そう、汝にとっては、今日はやはりハレの日であることだろう、蛇神どのよ。全く汝にはお聞きしたいところだ。汝の威信、汝の畏れは正にこの国のみならずして留まらざるほどに、それは強大で、強力で、また邪となるほどに大それたものよ。これまでの年月、この地に根ざしての汝の生とはまさにハレの日ばかりの三昧であったことだろう」
「ちょっと。いい加減になさい! 何を考えているの!?」
いつの間にか立ちあがって訥訥と述べていたカミナの肩を、後ろから王たる娘が掴む。なかなかの力だ。そういえば直接触れ合ったのはあの初対面のときぐらいで、この娘の力量など、測ってみようと思ったことはなかったか。
カミナは続けた。
「しかし、蛇どの。ハレの日ばかりでケの無い日日は、自然と薄れ、ハレがハレでは無くなっていくもの。我等に人間のような強欲は存在してはならじ、より多くを「望む」ようなれば、神は道外れ、「邪」と見なされる。まったく難儀な事だな、蛇どのよ。汝は退屈していたのだ。ハレがハレたらぬ日日はぬるま湯に浸かるがごとし。神が望んではおらぬというのに汝は畏れの強大さ故にハレを望まれ邪に堕ちた。同情たらしめんぞ、蛇どの。汝を祭祀するには、もはや人どもの畏れでは不足なりき。なればこそ、この私が祀ってやろう。神どもの宗主たる大国主命の一粒種、この天禍之神奈之比女子が、汝を祀ってやろう。さあ、起きられよ、くちなわ。今日こそ、汝の待ち望んだ、ハレの日だ!!」
轟、とカミナの言葉とともに、聞く者達の耳に、音が遅れて届くほどの風が爆発し、カミナとその後ろにいた娘以外、全てを巻き込み、滅茶苦茶に荒れ狂った。
無論の事、広い室内とは言え、そんなものを屋内で吹かせれば、何が無事で済むはずはなく、供物は天井に跳ね上がって、べちゃっべちゃべちゃっと、形残さず潰れ、皿は地面へと這って、破片となって散り、燭台は全て消えるどころか、あるものは蝋燭ごとばらばらになり、あるものはあらぬところまで吹っ飛んで「ひっ」と伏せていた巫女どもの頭の上辺りで壁にぶち当り、ひしゃげた。
そして。
まず始めに割れたのは、横倒しになったまま祭壇にのっかっていた鏡だった。パキッと誰が触れるでもないのに亀裂が走り、欠け落ちた小さな破片が、屑となってパラパラと落ちた。そして、その頃になってようやく大きくなったのは祭壇が小刻みに震える音だった。最初のうちはカタタタ……と、耳に聞こえて気づくか、気づかないかだったが、それがやがて大きくなりガタッガタタッガタタッガタッ、と、まるで地揺れにでもさらされているかのように大きく振動する。だが、祭壇以外の処は、こそとも揺れていない。あまりに強い揺れに、辛うじて乗っかっていた鏡が、ついに落ちて砕け散る。誰かの大きな叫び声が聞こえた。神の名を口にする声が。
「――ミジャグジ様!! お待ち下さい!!」
そう後ろの娘がカミナを押し退けて叫んだ。その瞬間、天を衝かんばかりの勢いで祭壇が木端に散って、その中を恐ろしく巨大な黒い体躯が蠢き、そして、何の前触れもなくカミナをぶうん、と襲った。カミナはこれをあらかじめ手にしていた祭祀用の剣で半ば斬撃するように正面から受けたが、耳鳴りのような音がして、勢いそのままカミナは吹き飛ばされ、剣は柄を残して粉微塵と宙に散った。しかし、カミナもさる者よ、と、とっくに体勢を立て直しており、そのまま印を切って、疾、と念じ、指を中空に滑らせ、眼前に迫る、図抜けて巨大かつ速い黒蛇の頭目がけて解き放った。中空が、炎と蔓とに覆われ燃える。それは一瞬で炎の筋となって、ずぁおう!! と、音にならない音とともに飛んで蛇の喉もと辺りに突き刺さってのけ反らせた。その間にカミナも片手に剣を握り、その剣を呼びだした蔓を手荒く引きちぎった。炎の風圧で舞い上がった下衣の下には、ちゃんと鎧装束の、神さびた織り糸で織られた下衣を履き、上衣の袖の下からは、これも同様の、輝く糸で織られた小手装束がのぞいている。祭祀用、とは銘打ったが、これらも戦に用いる物としては十分に上等だ。
(全く武辺の比女とは便利なものよ)
心中で笑いながら、蛇に突き刺さった剣が消え、黒い血を垂らしていた赤い口内がぐばぁと開けて一気に押してくるのを、カミナは今度は上に飛び退きざまに、力任せに圧し潰した。じゅん、と指先が蛇の神力に腐るが、それを笑ってかわす。人の身体ではない。タタリの一つや二つ、痛みはあれどすぐに治る。
(この蛇神と戦えるのは、故にこそ私なのだ)
圧し潰した蛇の頭を、同時に力の方向を変えながら抑えてやりつつ、それでもカミナは激しく後ろへ引きずられ、慌てて退避していた者達の間を、力任せに蛇の動きを御してかわした。
(邪魔な)
ちっと舌打ちしつつも離れ、今度はカミナの押さえを突破した蛇神の頭が後ろから迫って来るのに一瞬で向き直り、暴風のような蛇の動きに遅れることなく刃を当てる。ガリガリガリガリ!! と蛇の鱗が剣の刃の腹を激しく削り、横に受け流し気味に受けていたカミナの身体を、刃ごと怯ませ、吹き飛ばす。
(ちっ)
カミナは咄嗟に床を跳ね飛ばし、材木を蹴り抜く勢いで跳んだが失策だった。間を空けすぎた。そう気付いた時には、蛇はくっと顎を引いており、次の一瞬には、その赤い口内から、色が無くなって見えるほどの粘ついたタタリの塊を吐きだした。いかん、とカミナは内心で舌打ちし、仕方なくその場で受ける算段をして、印を切った。
じゅわっ!! と、まともに黒いこごりの渦を受ける、それらはべちゃべちゃっ!! と床に落ち、粘っこく跳ねて辺りにばら撒かれ、触れるもの全てを腐らせた。黒い泥のように。
(行幸じゃ)
カミナは地獄のような痛みのなかで、溶けた歯を喰いしばり、まともにとろけた目を見張り、かろうじて襲い来る黒い巨体の薙ぎ払う様を見届けて、骨になった指と剣でこれを受け、どかん!! と背に来る衝撃とともに、多数の壁材を外へぶっ飛ばして散らせ、だん!! と黒い煙を上げながら、土の地面を手のひらに叩いた。
「ふ」
ばっと、目の前の邪魔な煙を薙ぎ、すさまじい速さで再生する指を、剣の刃を確かめ、ぎゅっと柄を握り直す。
儀式の場にしていた祭場の周りには、すでに多くの人どもの姿があり、中から逃げ出してくる人とぶっ壊れかけた建物(まあ半分はカミナが暴風を操った際の被害だが)を見やり、その屋根がついに崩落し、中から先程よりさらに巨大となった黒い蛇の体躯が、天を衝くように伸びあがるのを見ると、ついに恐怖の悲鳴を上げ、ミジャグジ様、ミジャグジ様だ! と、口々に神の名を口にしてはおたけびを上げて、散り散りに逃げはじめる。
(怒った神の目に民の姿など目に入らぬ)
しゅうしゅうと煙を上げる自身のおぞましい姿を見下ろしつつ、カミナは笑った。
(人の姿を取っていようと、神も化物も紙一重か……)
肌を覆う装束ごと再生していく足を気張り、カミナは飛び、ひゅお、と手にした剣を宙にやった。
「疾!!!」
雄叫びとともに、こちらに向き直っていた蛇の右目に、炎を纏った剣が風の速さでズン!! と突き刺さる。蛇は血を噴き出してぎしゃあ、と鳴きながら、宙に浮いたカミナ目がけ、ぐあ、と真っ赤な口を広げる。それがばくん、と閉じ、己の身体が黒い体躯に消えると同時、カミナは出現させ、手にしていた新たな剣で、これを防いで、屈めた身のまま、蛇の口内で突き立てるようにした剣で、わずかな間を作りあげて、これを喰わんとした蛇に、大きな悲鳴を上げさせた。してやったり、とこぼれ落ちたカミナはしかし、一瞬わずかに目を見開いた。
(いかん)
大きく上を向いた蛇がしようとしてることが分からないではない。そのままかぶせるようにしてあのタタリの塊か何かを吐きかけようというのだろう。
ちょうど大勢の人どもが逃げている上に。
(夢中になりすぎたわ)
カミナは思っているよりもかるく考えるのを感じ、それと同時に全速をふり絞り、「盾」の印を切りながら、黒い塊が毒のように吐きかけられるのを見送った。
そして、その毒が貫かれ、蛇の頭を、何かの巨大な力が打ち据えるのも。
(輪?)
それは巨大な鉄の輪だった。しかし、タタリの塊を貫いてもびくともしておらず、蛇の頭を打ち据えたのも、ちょうど輪投げのようにその頭を捉え、勢いのまま揺すぶったということらしい。
「この大うつけ!! 大たわけ!!」
下から聞こえてきたのは、聞きおぼえのある、しかし、聞きおぼえまるでないようなやんちゃな口調の声だった。それが、がーがーと怒鳴り飛ばしてきた。
「なんてことすんのよ、このアホたれ!! わたしんとこの貴重な民草がえらい事になるところでしょうが、うつけ!!」
「おお、おお。何だ、とうとう地が出たか王どの」
「じゃかましぃ!!」
「はは、そう怒るな。いや、怒った顔もかなり良いな。どれもうちとよく見せてくれりゃ」
「ええい、このクソ女」
娘は艶を帯びた眉を吊り上げ、さらにびっと両手を突き出し、その腕にしていた幾つもの輪をしゃりん、と鳴らし、ついでに髪に下げた輪もちりん、ちりん、と、澄んだ響きで鳴らしつけた。すぱぁん、とそして、すさまじい音が宙で鳴ったかと思うと、きしゃぁっ!
と蛇の巨大な身体が信じられない勢いで跳ね跳び、怯まされた。
「こうなった以上、蛇神様の怒りは七日七晩は治まらないわ。どう責任を取るつもりかしら」
「私はいい女は好きだよ、王どの」
「真面目に話を聞く気がないの?」
「真面目に話している。何、汝が力添え致せば十日十晩は蛇どのを抑えられることだろう。後は民どもに被害が及ばぬよう、戦場をもうちと遠地へ移すことだな」
「こうなったのは貴方の責よ。当然けじめはつけてもらうわ。――全く信じられない!! 無茶苦茶よ!」
十二日後。
とある彼の地の人気無き僻地。後にこの戦いを見た民草どもは、これを口にすることを恐れ、封印してしまったが、この戦い、正に凄まじく、蛇と風の神と王の通った後は森は抉れ、岩は穿たれ、あるところには、草木の一本も生えぬ泥地が広がるようになり、またあるところでは、新しい谷が一つ出来た。勝負は蛇も神神も一歩も譲ることなく、その轟音は広き彼の地を跨いで響き、民草の眠りをひたすらに妨げ続け、不眠に陥らせた。蛇の怒りは途中で途切れていたようだが、その後も何かのうっぷんを晴らすように暴れ続け戦い続け、そして、――この僻地、美しい諏訪の湖が広がる地にて終息したという。――いや。終息「した」のだ。正確には。
民どもは前記した通り、この戦のてん末を後に記さず、語る者は祟りを受ける也、として、固く秘した。だから、このてん末を知っているのは、力尽きてぐったりと伏した蛇神と、その場に居合わせた満身創痍なるたった二人の神たちであった。
同、僻地。丘の上。
「ふ……」
カミナはぜぇ、ぜぇ、と肩で息をつき、ざしゃ、と地面に剣を刺し、寄りかかった。少し向こうに倒れている蛇の巨躯を背中に、こちらも両手を着いてぼろぼろの様子になった王が、ぜー、ぜー、と俯いて息を漏らしていたが、カミナのにやけたような面を見て、急に眉をひそめた。
「何笑ってる」
「気にせんでくれ。呆れているのだ」
言うカミナの台詞に、王はぐっと何か言いかけたが、結局疲労が勝ったようで、はー、はー、げほっ、と、軽く咳をした。
「ふ」
カミナは笑ったが、こちらもその拍子か、げほ、げほっ、げほっ、と、口に手を当てて咳をした。ふぅ、と息を吐いて、しばらく整える。
間。
「王どのよ」
カミナは言った。
「私はそなたに恭順しよう。今後、神軍の手の者どもは郷へ返し、私一人ここに残り、汝らの手に身を任す。――もっとも幾人かはこの地で肉親や同胞を失った者達だ。残留を希望するなら、どうか叶え、黙認してやってほしい。残る者達の面倒は、私が長となって留まり、この地に眠らせよう。――さすれば本当の意味でタタリは治まろう」
「呆れたわ……」
「図々しさにか?」
「まさか、それを言うためだけにこんなアホたれをやらかしたの?」
「いや。それはまた別の理由だ。だが、言いたくない」
「別に私も聞きたかないけれどね」
王は憎々しげに言い、ちら、と後ろを見やった。巨大な黒い巨体は、相変わらず山のようにそこに倒れていたが、よく見やれば呼吸をしている。……呆れた話だが、暴れ疲れて眠っているものらしい。
「ここまでやるなら恭順などしなくてもいいようなものだけどね。私の力添えなど無くても貴方ならいずれ、彼の神を平定してしまいそうなものだわ。あえてそうするというの?」
「私はいずれこの地を去る。いや、この地を離れるという意味ではない。神々の力は永劫ではない。汝も感じているのではないか? 何故我々が此処に在り、そして人間どもの信仰により支えられているのか、そして、我々を信仰するあの人なる者どもが何であるか」
「……」
「私の力が何れ衰えるか、それとも彼の神の力が何れ衰えるか、それは分からぬ。だが、同じことだ。この、私と彼の神がいることによって作る均衡とは崩れ去るを得ない、脆いものだ。ここに私を封じても、後の世の事は分かるまい。いや、予測がつくからこのように言うておるのだが、正確にはそうだ。この地を平定し得ぬという事柄が残ったことは、大国主命の行う中央よりの国納めにも小さからぬ影を投げかけよう。私の役目は終わったのさ」
「言うことは分かる。なるほど、それが貴方が言っていた神々の話か……」
「そなたなら分かろうと思う。どちらにせよ、私は自分の意思でこの地に留まるさ」
「貴方もこの地で何かを失ったから?」
王は言った。カミナはしばし言葉を止め、ふと夏も終わりがけにさしかかった空を見あげた。落陽か。
奇しくもと言おうか、蛇がうずくまる丘を掠めて、山風と影が、夜気に沈もうとしていた。カミナはやがて俯いた。
「我ら神々には、そういった感傷は無きやと思う。あるのは、ハレとケの日のみだ。ハレの後にはケがやってくる。つまりこれはそういうことなのだろう、この込み上げるような、郷愁の重さは。我らは人の形を取り人のごとく振る舞いて、その身に信仰を受けし、業深き存在よ。是は或いは其の為なのかもしれぬ。儚き人の命に、記憶に囚われ、落涙し、天ならぬ地を見下げることなど。だが、今だけは、共に泣いてくれるか、王よ」
王はしばしカミナを見やり、俯くように、何かを抑えるように眉を引き締めた後、ふっと呆れて目を閉じたような顔をした。そのままひそめた眉を崩さずに、言う。
「ええ。いいでしょう、風の神。貴方のした事が何であれ、「私のした事」が何であれ、あの娘は、私の中にも心を残していった。泣きましょう。ただし心の中で。そして、あの娘ではなく、儚き人間の為に」
そうして、私は初めて人の為に涙を流し、心を砕いた。生まれて初めて人間のために、心の底から涙を流した。
現代。
いや。現在、か。
茶の間の縁側。神奈子はだらしなく寝そべって、指の先でコロコロと小さな鈴をもてあそんだ。鈴は小気味よい音を立てて、神奈子の万年、永百年、それこそ遠の昔からそうであるよう保たれてきたきめ細かい指先をくすぐった。
(ふ)
「八坂様。お行儀悪いですよ。魔理沙や妖怪連中にでも見られたら示しが――何ですか、それ?」
「うん? ああ」
神奈子はほろ酔い気味の声で答え、内心しくじったな、と、ちょっと口を尖らせた。
「あ。もぅ、まぁた! 何でそうやってこっそり自分とこのお酒をくすねたりするんです! やめてくださいよ、もう」
案の定早苗にはすぐにばれたらしく、上から怒り顔と、風変わりな碧の髪の薫りとを、いっしょに降らせてくる。
「まったくカタいことを言うわねぇ。いーのよ、私は神様なんだから。神様はえーらいのよ」
「酔ってますね。あー、もう。まーいいや。知りません、もう」
早苗は薄情に言って、ふわりとした香りを残しながら、持っていた皿を卓に並べていく。それから、ちょっと神奈子をふり返って、怪訝な顔をした。
「その鈴、思い出でもあるのですか?」
「んん? ふふ。まぁね。ちょっと。でも、そうだな……」
「?」
「教えるのはお前がもう少し大人になってからだね、早苗や」
「なんですか、それ……」
ふふ、と意味ありげに笑って、神奈子は、気分よさげな顔を繕った。
「私の若い頃の話だからねぇ。ちょっとお前に話すのは、なんというか、その、早いねぇ」
「八坂様のお若い頃ですか……」
ふーん、と早苗は気なさげに言って、カチャ、と最後の皿を並べおえると、立って台所の方に戻っていった。
きっとまた酔っぱらった私のたわ言と思っていることだろう。
廊下の方から、ぱたぱたと諏訪子の戻ってくる足音が聞こえた。
読み終わった後に冒頭を読み返すと昔とのあまりのギャップに笑ってしまいますね
あの難物が早口ことばにムキになっているという