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テレメトリという言葉をご存知だろうか。
今を遡ること、約半世紀。1957年11月3日。
遠隔測定法(テレメトリ)を用いて、一つの命の瞬きがその日、世界を震撼させた。それこそは世界初の宇宙旅行者の誕生であったが、同時に、世界初の宇宙旅行による犠牲者の誕生でもあった。
一般によく知られている『ライカ(Laika)』という名は『犬(Лайка)』をあらわすロシア語であり、彼女自身を表す言葉ではない。
どうか、心の片隅に覚えておいて欲しい。
体重約五キロ。性別・雌。その、小さな命の名は――
来客を告げるベルの音を聞いて、僕は読んでいた雑誌を閉じた。
雑誌の背表紙に書かれている書名は『空と望遠鏡』。宇宙・天文関連の記事を取りまとめたサイエンス雑誌だ。えらく年代物の一冊で、カサカサに劣化した表紙は朽ち葉色に変色していた。奥付を見るかぎりこれが発行されたのは大昔であるらしく、日付の欄には千年以上も昔の年号――“平成”の文字が刻まれていた。
もちろん、外の世界からの漂流物である。
僕は栞とともに雑誌をしまい、開ききった店の自動ドアを一瞥したが――そこに人影は見当たらなかった。誤作動だろうか。きっと虫か何かがセンサーに引っかかったのだろう。そう思いなおし、先ほどの雑誌を手に取った。
空と望遠鏡。
この雑誌は旧時代から続いている歴史ある天文雑誌であるらしく、外の世界でもいまだに発刊していた。最新刊(手元にある内の)によると、人類は火星へのテラフォーミングを無事に完遂したという。
長いあいだ人類を苦しめていた資源不足という足枷は火星資源に頼ることでその重みを克服し、今は順調に発展を遂げているらしい。記事によると、これであと五百年は不足分を賄えると説明されていた。現在は更なる資源を求めて木星に眠るヘリウム3の採掘計画が進行中である、との事だ。
雑誌を手に持ち、先刻まで読んでいたページを開こうとしたところで、その声が入口の方から聞こえた。
「わう」と控えめな犬の鳴き声。僕は視線を向けた。
時代は移り変わり、人々の関心は宇宙へ、そしてその先へと向けられるようになった。宇宙開拓時代という広大すぎる歴史を背景に、様々なものが生まれ、または、忘れ去られていった。
我らが幻想郷はそういった彼らを積極的に受け入れ、少しずつその領土を拡大していった。もしかしたら、日本という国そのものが世界の関心から薄まってきている事も原因の一つかもしれない。
まぁとにかく、そのようにして少しばかり大きくなった幻想郷は、それと同時に、人里を基盤としたインフラ整備を少しずつ開進させていた。誘蛾灯に惹かれるように人々が寄り添い合って形成された人里は、やがて村になり、町になり、そしていつしか街と呼べるほどになった。
永いながい時間をかけて、少しずつ発展を遂げてきた幻想郷は今や、科学に縁取られた文明社会と、忘却の隅に消えた空想が入り混じる奇妙な街並みを見せていた。
そんな訳だから、一ヶ月ぶりに香霖堂を訪れたお客様がハスキー系の小型犬で、しかも霊体で。つまるところ犬の動物霊であったとしても僕は大して驚かなかった。
小さな犬は、もう一度「わう」と鳴いた。
.2
「この小犬さ、昨夜、私が見つけたんだよ」
河童のにとりは小犬と戯れながら、そう教えてくれた。
「深夜、零時過ぎの頃かな、この近くに流れ星が落ちてきてね。音もなくスーっと。それで気になって落下場所を見に行ったら、そこにこの子が居たの」
にとりは、僕がちょうどこの小犬を相手にどう対応するべきかと思い悩んでいた所にひょこんと姿を現した。
目が合うと、彼女はしまったと言う表情をして視線を逸らした。その反応からして何か事情を知っているだろうと当たりを付けた僕は、そのまま彼女を店内に引き入れ、話を聞くことにしたのだ。
「うんまぁ、知ってる、って言っていのかな。まだ私も詳しいことは知らないんだけどね。……えーと、それは昨夜のことでね」
説明によると、昨夜遅くに流れ星がこの付近に落ちてきたらしい。その流れ星は、淡い光を発しながら音も立てずにゆっくりと落下してきたそうで、その光景はどう考えても普通の流れ星の範疇を超えていたという。
興味をそそられた彼女は落下点へ行ってみると、そこでこの小犬を見つけた。犬は焼けて朽ちた鉄の箱を背後に、古ぼけたビデオテープを咥えながら独りたたずんでいたそうだ。
「私ね。その物寂しい背中を見たら、何だか放っておけなくなっちゃって。それで取りあえず家に連れ帰って、一晩泊めることにしたのよ」
つまり、彼女がこの小犬を店まで連れて来たらしい。朝も早くから御苦労なことだ。
入店の際に犬を先行させたのは、ちょっとした悪戯心だったのだろう。犬のお客様というユニークな状況に戸惑っている僕を観察するために。
「キミにしてはあまり気の利かない悪戯だったね」
僕が言うと、彼女は少し困ったような表情をして「えへへ、まぁその、ね。ごめん」となんとも歯切れも悪い謝り方をした。
彼女は古くからの友人だ。
彼女は技術屋で、僕は道具屋で、だからその仕事の都合じょう顔を合わせることがよくある。彼女がこのような悪ふざけをする性格でないことは良く知っていて、だからその態度に多少の違和感を覚えたが、取りあえずは要件を訊くことにした。
「で、今日は何の用だい? まさかその拾い犬を見せびらかしに来たわけではないだろ?」
「うーん、それも有りだね」そう言うと彼女は小犬を抱き上げた。「ほら見てよ、可愛いでしょ」
栗色模様の入った毛並みに、ハスキー系の顔立ち。ちょんと先っぽが前に倒れた三角耳が特徴的だ。よく躾けられているのだろう、犬は彼女の腕の中で大人しく尻尾を振っている。
「一応言っておくと、僕の店は動物の入店をお断りしているんだよ」
「そうなの?」
「そうなんだ」
「知らなかった」
「言ってなかったからね」
「でもほら、この子は“動物”じゃなくて、動物の“幽霊”。つまりこの子は幽霊だから問題ないね」
人はそれを屁理屈と言うのではないのだろうか。
そうはいっても、僕自身この決まりを遵守している訳ではない。街の行政局が勝手に決めたのだ。店内に動物を招き入れるのは衛生管理的に理由が色々とあってダメらしい。
彼女に視線を向けると、犬相手に「問題ないよねー」などと言いながら頭をなでていた。彼女が言うと、それに返事をするように「わう」と犬が吠える。二人はすでに仲良しのようだ。
一見すると、それは微笑ましい光景のように見えるのだが、僕は心の隅で別のことを考えていた。それは彼女の身振り手振りだ。
今日の彼女の態度が何だかいつもと違うように感じる。妙にそわそわしていて、落ち着きが無い。視線を合わせた途端に目を逸らそうとする。今のこの状態も、彼女は小犬と戯れていて僕と向き合おうとはしていない。それは自然な流れで僕と視線を逸らすために、わざと犬と戯れているようにも感じられた。
彼女との付き合いが長いからこそ分かるのだが、彼女がこのような態度を取る時は大抵の場合、なにか不安を抱えている時か、もしくは隠し事を悟られまいとしている場合がほとんどだ。
なにか面倒事に巻き込まれて無ければいいのだが。
「それで」と僕は仕切りなおした。「要件は何かな?」
「何だと思う? ヒントはこの子に関係あることなんだけど」
「まさか、この犬を引き取ってくれ、なんて言うんじゃないだろうね」
「いや、さすがの私もそこまで図々しく無いよ。私が頼みたいのはコレ。コレを再生してほしいの」
そう言ってにとりは、黒のプラスチックケースを差し出した。ラベルには『打ち上げ記録』と書かれている。
「これは?」
「ビデオテープだよ。店主さんも見覚えあるでしょ?」
「ああ、それは分かるけど……、このビデオテープがその小犬と何か関係があるのかい?」
「コレさ、この子の持ち物なんだよ。私がこの犬を見つけた時、大事そうに咥えていたんだ。それで中身が気になっちゃってね。ここならビデオデッキくらい置いてあるでしょう?」
「えーと……」記憶を探る。「たしか、裏の倉庫に置いてあったはずだ」
「お願いできるかな?」
「ああ、その程度なら構わないよ」そう頷いてから気付いた。「てか、キミの工房に行けばビデオデッキぐらい置いてあるんじゃないか。わざわざ僕の店にまで足を運ばなくても、そこでビデオを見る方が手っ取り早いと思うけど?」
「壊れてたのよ」にとりは肩をすくめた。「さすがに何年も放置しっぱなしだったからね。劣化して使いものにならなくなってた」
そういえば、ビデオが普及し始めたのはずいぶん昔の事だ。僕だって最後に使ったのは何時だったか覚えていない。
「となると、僕の所にあるビデオデッキも劣化して駄目になっているかもしれないな」
僕が呟くと、「それなら問題ないよ」とにとりは言った。「もし、壊れてたら私が直せるから」
「直せるのか?」と訊き返してから、彼女が河童で、つまり街の機械製品の技術面を一手に支えているエンジニア集団の一人である事を思い出した。
「まぁね。ビデオってさ、実は割と単純な構造でね。やろうと思えばすぐにでも直せるんだよ」
ふと、彼女の言葉に違和感を覚えた。
「なぁ、にとり?」
呼ぶと、彼女は顔をこちらに向けた。が、その視線は僕の方に向けられてはいなかった。
やはり目を合わせようとしない。
本人は上手く隠し通しているつもりなのだろうが、その態度は『いま、私には隠し事がありますよ』と遠まわしに自己主張しているようにしか見みえない。彼女自身、何か想うところでもあるのだろう。だが、それを訊いても素直に答えてはくれないような気がした。彼女はそういう性格だ。
「……いや、何でもない」僕は首を横に振り、店の奥へ向かった。
「倉庫からビデオデッキを取ってくるよ。少しばかりここで待っていてくれ」
おそらく、にとりの態度が妙によそよそしい理由はあのビデオテープに関係があるのだろう。それがどんな種類の理由であるかは分からない。けれど、あのテープの中身を見ればそれも分かる様な気がした。
取りあえずビデオデッキが壊れてなければいいなと、そんなことを考えながらドアノブを回した。
.3
幸いにも、ビデオデッキは壊れてなかった。
何年も放置していたせいで、見ようによっては古代遺跡の石板のように思えるほど埃が堆積していたが、手ぬぐいで綺麗に拭き取ればレトロなアンティーク品としてギリギリ売りに出せそうなくらいの見栄えにはなった。所どころ錆ついてはいたが、使う分には何も問題は無さそうだ。
テレビを用意して、赤白黄のコードやら電源ケーブルやらの準備をしていると、にとりが数枚の用紙を手渡してきた。ホチキス留めされたそれは何かの記事のようで、見出しの部分には『スプートニク計画』と書かれていた。
渡しておくよと、そう言った彼女はやっぱり視線を合わせようとはしなかった。そのまま僕の横を通り過ぎ、ばつの悪さを誤魔化すように小犬と戯れはじめた。
「その紙きれはさ、昨夜、小犬を見つけた辺りに散らばっていたんだよ。回顧録、とでも言えばいいのかな。この小犬の生前の記録が事細かく書かれていてね。読めば分かると思うけど、なかなか複雑な境遇だったみたい。興味があれば一度、読んでみるといいよ」
ようやくビデオの準備が整うと僕は彼女たちを呼んだ。小犬がテレビの正面に陣取り、その一歩後ろに僕とにとりが並んだ。店内には休憩スペースなんて気の利いた場所は無いから僕たちは立ち見だ。
ジ…ジジ……、とノイズ音と共に立ちあがったビデオ映像はよほど古い物なのか、モノクロで、フィルムノイズであろう黒点がちろちろと画面に写り込んでいた。
『なぁ、これ、ちゃんと撮れているのか? ああ、うん、了解』
そんな音声とともに映し出されたのは、画面いっぱいに拡大された瞳だった。
一瞬、ぎょっとしたが、それは単に撮影に慣れていない撮り主がレンズを覗き込んだ事が原因だったようだ。操作確認の途中だったようで、画面はふらふらと周囲を映しながらズームインやアウト、ピント調節を繰り返していた。
揺れる画面の中では、なにやら研究施設のような場所が映し出されていた。事務机があり作業テーブルがあり、そして大小様々な機材が所せましと設置されていた。中には最初期のパソコン(キーボード一体型の無駄にでかいヤツだ)もあり、そこで研究員とみられる作業着姿の男たちがせっせと各自の作業に勤しんでいた。
テレビの中の映像はその画質の悪さもあいまって、いかにも古めかしい時代を感じさせる風景だった。
じきに映像の揺れが止まると、画面は誰も座っていない事務机に固定された。
数秒の沈黙の後に、先ほどの撮り主だろう男が現れ、そこに座った。
『ええと、この私が今回の打ち上げ計画の記録係を担当することになった者だ。これからの一ヶ月、解説を交えながら計画の進行状況を適時撮影していく予定になると思う。まあ、よろしく頼むよ』
男は彫の深い人物だった。おそらく日本人では無いだろう。モノクロ画質のせいで肌の色は分からなかったが、北欧あたりの出身だろうと見当をつけた。
作業着のような服装をしていたが、首元でゆれる襟章の意匠を鑑みると、もしかしたらそれは軍服なのかも知れない。
『先方にはもう事の経緯は知らされていると思うが、今回の打ち上げ計画にあたっては、それに平行してプレスリリース用の記録映像も残すことが決まってな。それでこのフィルムが撮られることになったんだ。
背景を説明するとだな、ほら、先のスプートニク一号の打ち上げが成功しただろう。それは我が国の技術力を西側の奴らに知らしめる絶好の機会だったはずなんだが、どうも報道関係の対応が悪かったらしくてね、いまいち国威効果が上がらなかったんだ。
そのことに対して当局のボスは御立腹でね。二号機の打ち上げは、その反省を活かして大々的に公表する予定なんだよ。
この映像を撮るのもその一環。あらかじめ使えそうな映像を撮っておけば、打ち上げ後すぐにでも記事の作成に取り掛かれるだろう、って事だ。
滞りなく進めば、決行されたその日のうちにフィルムはキミ達の手元に届く手筈になっている。そこから先はキミ達の仕事だ。必要な情報はできる限り積め込んでおくから、うまく活用してくれ』
テレビ画面を見ながら、これは戦時中に撮られた映像だろうと僕は見積もっていた。ほとんど直感ではあったが、男の服装といい、画質の粗さといい、なにより映像から漂う気詰りな雰囲気が僕にそう思わせた。
ただ、彼の話の内容については、よく分からない、というのが正直な感想だった。話しぶりから分かる事といえば、なにやら『打ち上げ計画』なるものに関係する映像であるらしいが、それが何かと問われても、やはりサッパリだ。
ふう、と僕は足元の小犬に視線を落とした。
おそらくは、この小犬に関係のある映像なのだろう。でなければ、小犬がここに居る理由は何もない。
次に、隣のにとりに視線をむけた。今日の彼女の態度は何かしら事情を知っているような素振りだった。訊けば教えてくれるかもしれない。
声をかけると、彼女は無言のまま首を横に振った。そうした後で、ある一点を指差した。
その先には、ホチキス留めの用紙が置かれていた。それは、先ほど彼女から渡されていた記事だった。
そういえば、と思いだす。あの記事の見出しは『スプートニク計画』と書かれていた。そして、テレビの中の男も同じ単語を口にしていた。
その一致はただの偶然ではないのだろう。
それを手に取り、読みはじめようとしたところで、ちょうどテレビの場面が切り替わった。
『今日は、私達の船に乗ることになる優秀な搭乗員たちを紹介するよ。とは言っても、まだ候補生だがね。この中から一名が選ばれる予定なんだ』
先ほどとは違う部屋だった。机や機械類は設置されておらず、その代わりに、腰ほどの高さの飼育ゲージが並べられていた。数にすると二十個ほどだろうか。その半分ほどが使用されており、そこで犬たちが飼われていた。
犬たちは撮影者に気付くと、尻尾を振ったり嬉しそうに吠えたりして、各々の反応を見せた。
カメラはいちばん手前のゲージに近づき、アップで撮影した。
『この子の名前はアルビナ。見ての通り綺麗な白毛だろ。だからそのままの意味を乗せて、アルビナって呼ばれているんだ。すでに二回も飛行実験を経験していてね、なかなかのベテランだ。訓練の成績も上々、優秀な子だよ。その後ろの斑毛はベルカ。コイツはすばしっこいヤツでね――』
男は解説を交えながら、順々に小犬達の紹介をしていった。
――リシチカ、バルス、マリューシュカ、リサ、ムーカ。
カメラが近づくと、犬達は掃除ハタキのように尻尾をしきりに振って撮影者を歓迎した。犬達はよく懐いているようだった。同時に、撮影者の口ぶりから犬達をとても気遣っている様子がうかがえた。案外、彼らの飼育係でもやっていたのかもしれない。
テレビの中では小犬達が順々に紹介されていたが、僕はその解説のほとんど聞き流していた。代わりに、画面のある一点を見つめていた。
順番待ちをしている小犬たち、その隅の方に、見知った顔の小犬が居たからだ。
そう、その犬は、今まさに僕の店で、僕と一緒にビデオを見ている小犬と全くの同じ犬だった。
じきに、その犬が紹介される順番が回ってきた。
カメラが近づく。名前が呼ばれる。
『――クドリャフカ』
わう、とテレビ画面に向かって吠えた。その声は、遥かテレビの向こう側に届きそうな、はっきりとした響きだった。
それが、この小犬の名前らしい。
『この子は素直で我慢強い優秀な子でね。期待の声も多い。この子なら、なれるだろうって意見もある程だ。名誉ある、そう、世界初の宇宙旅行者にね』
世界初の宇宙旅行者。
僕はようやく、話の流れを理解し始めていた。というより、記憶の片隅に引っかかっていたものを、ふっと思い出せたような感じだ。
小犬と、スプートニクと、そして宇宙旅行という単語にピンと来た。
僕はこの逸話を知っている。
それは、外の世界で伝えられている古いふるい御伽話だ。
はっきりと覚えている訳ではないが、暇つぶしに読んでいる天文雑誌、そこに載っていた記事を読んだ記憶がある。それは何時のことだったろうか。
思い出そうと、雑誌のバックナンバーが並べられている棚に目を向けたが、すでに僕は有益な情報を所持していることに気付いた。
それは、いま僕が手にしているホチキス留めの記事だ。見出しには『スプートニク計画』と書かれている。
にとりの説明によると、小犬の生前の記録が取りまとめられているらしい。これを読み進めれば、じきに話の内容も思い出せるだろう。
記事に視線を落とす。
テレビの中ではまだ解説が続いていた。
僕はその声に耳を傾けながら、手にした記事を読み始めた。
.4
その記事に書かれている話の舞台は1950年代――アメリカとソ連の対立を代表する、冷戦の時代であった。
第二次世界大戦後、資本主義勢力と社会主義勢力の対立関係は急激に悪化し、代理戦争や傀儡政権といった形で周辺諸国をも巻き込こむようになる。その途方もないうねりは世界を二分するほどに肥大化していた。
両陣営ともに、お互いを「仮想敵国」と想定し、戦争になった場合の勝利を保障するために、それぞれ兵器開発を競い合い、強引な軍備拡張が続く。そんな時代だった。
『ここ、設計局で特に力を注いでいる部門が二つほどあるのだけれど、それが何か分かるかい?』
テレビの中の男が訊いた。その質問は、べつだん僕に向けられたものでは無く、どちらかというと、強調としての意味の質問だった。
撮影場所は野外で、背景にはゴツゴツしたプレハブ小屋と、そして人間大の何十倍もありそうなサイズの、長細い巨大な建造物が映されていた。
『その一つは、敵国をせん滅するための核兵器開発。そして、もう一つは、その核兵器を敵国まで飛ばすためのロケット開発なのだよ』
男がそう言うと、カメラは背後に写る巨大な建造物に視点を移した。
『この基地は、後者、つまりロケット開発をメインに研究が進められていてね。いま画面に写っているのがR-7ロケットの改修型、スプートニクだ。我らが設計局の最高傑作でもある。コイツは、つい先日の衛星打ち上げに成功した機体と同じ型でね。コイツを使ってもう一度衛星を打ち上げるのが、我々に課せられたミッションなのだよ』
彼はそう言うと、そのロケットが如何に素晴らしいかを、長々と語りだした。
男の言うとおり、スプートニクロケットは世界初の衛星『スプートニク一号』の打ち上げに成功していた。
手元の記事にはそのロケットのスペックも記載されていた。それによると全長は30メートル、質量は250トンを超え、推力は390トン。その数値は、当時の科学力からすると破格の性能であり、当然ながら世界一のフライト能力を持つロケットでもあった。
ソ連はそのロケットを以って『世界初の衛星打ち上げ』という快挙を成し遂げ、一躍、世界最高峰の技術力を世に知らしめたのだった。
そしてその出来事が、とある一匹の小犬の運命を大きく変えるきっかけとなった。
『技術主任から今回の任務を言い渡されたとき、私は耳を疑ったよ。なにせ、もう一機の衛星を、今度は一ヶ月以内に打ち上げるって言うんだ。しかも今度は犬を乗せて、だ』
犬を乗せて衛星軌道に打ち上げる。
そのミッションが決定されたのは、一号機の打ち上げから、わずか数日後のことだった。
その快挙に世界中の人々がどよめいているさなか、第一設計局の技術主任は秘かに首都モスクワへ招致された。
彼を呼び寄せたのは、ソビエト連邦第一書記。フルシチョフであった。
フルシチョフは彼の功績を称え、一通りの言葉を交えた後で、こう命じたという。
「革命記念日が来月に控えているだろう。その日までに、何か目立つものを打ち上げてくれないかね」
しばしの思案の後、彼はそれを受諾した。そしてその確約の内容こそが、犬を乗せて衛星を打ち上げる、というものだった。
『ありていに言うとさ、それは体裁を取り繕っただけの、ただの広告塔でもあったんだ。本当ならそこには核弾頭が乗せられるはずだったんだけどね。あからさまな軍事目的で公表するよりかは、平和目的の衛星であると謳ったほうが民衆のウケもいいから。
それに、世界初の宇宙旅行者というフレーズは付け上がったアメリカの鼻を明かすには最適だった。奴らは全てにおいてナンバーワンであると過信していたからね。
可哀想だとは思うけどさ、それは仕方の無い事だったんだよ。本当にね』
宇宙へ行くため、設計局に集められた犬たち。そのほとんどは野良犬の出身だったという。というのも、打ち上げる機体の内部はどうしても窮屈になってしまうため、それに合わせて小柄な犬を厳選しなければならなかったのだ。
体重6キログラム以下、身長35センチメートル以下。
要求された条件は厳しく、そのため条件にマッチするような野良犬を見かけた時は、そのまま研究所へと連れ帰るようにして候補生たちを集めていた。
ちなみに、その条件の中には『メス犬である事』という項目もあった。その理由は、
『ほら、オスの場合は放尿に要する時に片足を上げるだろう。それが問題でね。わざわざ躾け直すよりも、お行儀の良いメス犬の方が扱い易かったんだ』
こうして集められた犬たちは、宇宙に行くための訓練を受ける事となった。
初めの段階では、狭いスペースに順応するための訓練が行われた。小窓の付いた実験用の閉鎖空間に閉じ込め、次第にそれを小さくしていく。最終的には、実際に乗る機体と同じスペースにまで縮小された。
当初は吠えたり鳴いたりしていた犬たちも、やがて訓練に慣れると落ち着きを取り戻していった。
それに平行して、遠心加速機を用いた対Gテストや、機器類から発せられる音や振動にも慣れる訓練も行われていた。
彼らは訓練やテストの成績いかんによって篩(ふるい)に掛けられ、十数匹ほどいた犬たちは、最終的に3匹にまで絞られる事となった。
そして、とうとうその日が来た。
『今日は、栄光ある宇宙飛行士を紹介するよ。そう、私達の宇宙船に乗る犬が、ついに決まったんだ』
そう口にした画面の中の男は、どこか浮かない表情をしていた。
撮影場所は、いつか見た飼育ゲージが並べられている部屋で、一匹の小犬がお座りをして待っていた。
おいで、クドリャフカ。
彼が呼ぶと、犬は駆け寄った。男は座ったままの姿勢で抱き寄せると、その頭を優しく撫でた。少しだけ悲しい表情をしていた。
『宇宙飛行士はキミに決まったんだ。おめでとう。キミは衛星軌道に乗って地球を周回するんだ。それは人類初の快挙……。英雄になれるんだよ。だから……』
彼の声は次第に尻すぼみになり、最後の方は聞きとり辛かった。
――だから、どうか恨まないでくれよ。
.5
ビデオはもう二時間以上も続いていた。
その間、小犬は辛抱強く映像を眺めていた。見入られたようにジッとたたずむ姿はなんだか剥製の置物みたいだ。時々、画面内の自分が呼ばれるたびに尻尾を左右に動かしたが、彼女が動くのは本当にその程度だった。
クドリャフカと呼ばれたこの小さなメス犬が、一体どのような想いでこのビデオを見続けているのか。僕はそれを想像しようとしたが、結局は上手くいかなかった。僕と彼女とでは隔たりが大き過ぎた。
長く続くこのビデオ映像だが、もう終わりが近いことを僕は知っていた。
歴史通りに映像が進めば、もうじき画面の中の小犬は死ぬことになる。それがこの御伽話の終着点だろう。
彼女が死ぬ理由、それは打ち上げ計画そのものにあった。この当時、大気圏外からの再突入――つまり地球へ帰還する技術は確立されておらず、そのため、彼女の打ち上げは文字通り、『宇宙への片道切符』に他ならなかったのだ。
打ち上げが成功したとしても、彼女は狭い機内の中でどうする事も出来ず、軌道に乗って地球の周りを延々と回り続ける。それが彼女に託された役目だった。
最終調整を終えたクドリャフカは、外科手術によって身体に計測器を埋め込まれると、その上から専用のベルトとハーネスが装着された。
ついに、打ち上げの準備が始まったのだ。
計器のチェックが済むと、彼女は座る以外に姿勢を変えられないキャビンに押し込まれた。八日分の食糧と酸素の入った生命維持装置と共に。それが彼女の命だった。
彼女が納められたキャビンはロケットの先端に据え付けられた。
打ち上げは三日後。その間、彼女はその狭いキャビンの中で待機しなければならなかった。
彼女はキャビンの小窓を通してバイコヌール地方の果てない荒野を見た。それが最後の景色だった。彼女は昼を見て、夜を見て、そして朝日を眺めた。待機中の彼女は落ち着いており、呼吸・心拍数ともに大きな変化は無かったという。
そして11月3日。その日が来た。午前7時30分。
ピカッ
テレビ画面に閃光が走る。次の瞬間、地響きと共に、地軸もろとも引き裂くような轟音が押し寄せた。
ロケットが発射されたのだ。
画面が揺れる。揺れながらも、カメラは砂埃の吹き荒れる上空を必死に撮影している。
やがてレンズはそれを捉えた。
天空を穿つように真っ直ぐ飛ぶ鉛色の発光体。スプートニク。
「順調です」誰かが言った。「高度1100、1200」
まるで上空へ滑り落ちるように船体は加速を続ける。その加速度は、過重力となって彼女に襲いかかった。その値は5G。彼女はそれを一身に受ける。心拍数は3倍に膨れ上がった。相当苦しかったに違いない。
それでも船は飛んだ。
灼熱を噴き出し、大気を引き裂き、ただ一心不乱に、飛んだ。
皆の視線を一身に集めた機体は、一筋のロケット雲を跡にして、やがて空の蒼々に吸い込まれると、小さな点となって消えた。
その後で、モニターを見守っていた管制官が声を張り上げた。
「成功です」笑顔だ。「無事、衛星軌道に乗りました。彼女も生きています」
歓声が広がった。彼らは抱き合い、諸手を挙げながら喜びを分かち合った。ウォッカを注ぎ合い、空へ向かって敬礼をした。
成功。
その報せはすぐさま電報に打たれた。
受け取った関係各所のうち、最も迅速な対応を示したのは共産党機関誌『プラウダ』であった。
プラウダはいちはやく、彼女を紹介した記事を全世界に向けて発信した。と言うのも、その時にはもうすでに打ち上げ成功の記事が出来あがっていたのだ。
なぜなら、彼女の打ち上げはソ連の国威発揚を示す重要なプロジェクトの一つであったから。
当時、経済力・軍事技術ともに劣勢を強いられていたソ連であったが、彼らが開発したロケットは、その技術を転用すれば、アメリカ全土を射程に収める事の出来る脅威の核ミサイル(ICBM)の製造が可能であった。そしてそれは、西側勢力を恐怖に陥れるには十分すぎる代物であった。
当然、これをプロパガンダとして利用しない手は無く、そのためスプートニク二号の宣伝は大々的に行われたのである。
そのような理由からクドリャフカは宇宙に行く事になったのだが、もちろん、その目的はただ宣伝塔になるためだけではなく、科学的な知見からも重要な役割を果たしていた。
それは、長時間の無重力環境が生物に与える影響を調べるためでもあった。
それまでは、弾道飛行実験によって数分程度の無重力を体験させることは可能であったが、それが、数十分、数時間単位となると、やはり実際に生物を軌道へ打ち上げて生体反応を確認するしか手は無かったのだ。
およそ100分。それが衛星軌道に乗った彼女が地球を一周し、再びソ連の遥か上空を通過するまでの時間であった。
設計局のメンバーは、その時が来るのを固唾を飲んで見守っていた。彼女の生体データを記録したテレメトリーは、他国に傍受される危険性を恐れ、ソ連上空でしか発信されないように設定されていたのだ。
……ピー、ピー、ピー。
やがてその音が近づいてくると、技師たちは通信機にかじりつきテレメトリーの解析をはじめた。最初こそは不安げな表情をしていた彼らだったが、やがてモニターに映し出された表示を見ると、それぞれ安堵の息を漏らした。
そう、データは彼女の生存を示していたのだ。
機内の酸素は十分で、生体データも異常なし。全て正常値だ。
ひとりの作業員が歓喜の声を上げた。その声は周りにも伝播し、やがて一つの大きな歓声となった。
その日、二度目の歓声だった。
関係者のだれもが成功を確信しきっていた。打ち上げは理想的なかたちで成功し、彼女は衛星の中で残りの数日間を静かに過ごすのだと、誰もがそう思っていた。
しかし。
その歓喜は、そう長くは続かなかった。
この時、機体の断熱カバーが一部剥離していたのだ。そしてそれが原因となり、彼女はその短い生涯の幕を降ろすことになる。
管制官がその事態に気付いたのは、彼女が地球を三周して帰って来た時だった。
取得されたデータを見て、彼らは唖然とした。
機内の温度は急激に上昇し、その値は40℃にまで達していたのだ。断熱カバーの損傷が原因だった。さらには、機内の彼女が暴れていることを示すデータも読み取れた。パニックになっていたのだろう。彼女の動きを感知する計器の針は悲しいくらいに打ち震えていた。
彼らは唇を歪めた。けれども、彼らにはどうする事も出来なかった。遥か宇宙を飛ぶ彼女を助ける手立てなんて何も無かった。ただ祈る事しかできない。
悲痛な面持ちのまま時間は過ぎ、やがて衛星はテレメトリーの受信範囲から離れていった。
そして、一時間半後。
スプートニク二号は再び上空を通過した。テレメトリーは受信されたが、それは彼らの望むような内容では無かった。非情な現実を突きつけられただけだった。
生体データは全てゼロ。それはつまり、彼女が息絶えたことを示していた。
テレビ画面の中は、まるでタールコールを流し込んだみたいに重苦しい空気に沈んでいた。誰もが俯き、何も言葉を発しなかった。計器が刻む無機質な機械音だけがカチカチと時を運んでいた。
急に、その静寂を裂くように声が響いた。
『同志たちよ。心して聞くように!』
ずいぶんと威圧的な声だ。カメラはそちらを向いた。上官と思しき人物が立っていた。
『今回の打ち上げの件、サンプルの犬が死亡してしまった件は私達にとって手痛い出来事であったと思う。非常に残念だ。だがしかし、祖国の事業に失敗はあってはならない。失敗は許されないのだ。この意味は分かるね? それが祖国の一大プロジェクトとなれば尚更だ。国の威光に傷を付ける事は許されない』
私の言いたい事は理解できるだろう。
上官は一度メンバーたちの顔を見回してから、ゆっくりと口を開いた。
『これより、ここに箝口令を敷く。この件に関しては他言無用だ。情報局へはこのまま順調に飛行を続けていると報告する。事故は起きていない。もちろん、サンプルの死亡を示すようなデータは全て破棄だ。磁気ディスクは粉砕機にかけ、紙媒体はシュレッダーを通してから焼却処分する事。毛ほどの証拠も残すな。徹底を心掛けろ』
それを聞くと、各人は作業に取り掛かった。
しかしカメラは依然として上官の姿を撮影し続けていた。上官は撮影者に気付くと、その目を光らせた。
『おい貴様、何を撮影している。その映像も破棄の対象だ。速やかに作業をはじめるんだ』
指摘された撮影者は、それでも映像を撮り続けていた。
上官は不審そうな表情で近づいてきた。おい、私の命令が聞こえないのか。
『……い、嫌です』撮影者は震える声を絞り出した。『私はこの映像を消したくはありません』
なおも上官は近づいてくる。その顔には青筋が立っている。今の貴様の発言は反逆罪とみなされるぞ、いいのか。
『あの犬、クドリャフカは祖国のためにその身を犠牲にした偉大な宇宙犬です。称えられるべき存在なんです』
周囲がざわめく。作業員たちが止めに入ろうと近寄ってくる。
『その勇志は正しいかたちで語り継がれるべきなんです。それを破棄することは、それこそ――』
上官が握り拳を振りかぶった。
ボグォ、鈍い音とともに画面が大きく揺れた。ノイズが走る。
『おい誰か、コイツを取り押さえろ』
ゴァッ、ガッ、ぐぅぅ…はなせ……。
画面からは呻き声が聞こえたが、カメラはほとんど地面だけを映していた。
グゥッ、げはっ、ドブッ。
地面に落ちたカメラは横に倒れ、ちょうど地上視点で彼らの足元を映していた。そこには、殴られ、蹴られ、ほとんど引きずる様にして連れて行かれる男性の姿が捉えられていた
じきに静かになると、上官の靴はこちら側につま先を向けた。そしてその靴が一歩、一歩と、こちらの方へ歩み始めた。
残り三歩。
二歩。
一歩。
その足はレンズの眼と鼻の先まで近づくと、そこで一旦止まった。靴のつま先がアップで写される。その靴の片方が持ち上げられた。ぱらぱらと砂粒が落ちる。そして――
ガッ
.6
店の中は、ザーというテレビから発せられる砂嵐の音が、まるで止まない雨みたいに淀めいていた。
ビデオの再生が終っても小犬はテレビの前から動こうとはしなかった。相変わらずにテレビ画面の砂嵐を神妙そうに眺めているだけだ。
結局のところ、僕たちが観ていたビデオの内容はあれで全部だった。
ラストシーンはカメラが踏みつぶされて終わり。なんとも味気ない終り方だ。このビデオ映像に一体どんな意味があったのだろうか。そんなことを考えていると、不意に、背後から声がした。
「仕方なかったんだよ」
にとりではない。男性の声だ。振り向くと、男が立っていた。見知った顔だ。
「当時、ソ連の軍事環境は割と劣悪だったからね。だれもが結果を求めていたんだ。結果を出さなきゃ、シベリア送りになってしまうから。みんな必死だった。私を殴ったあの上官も、私を取り押さえた同僚たちもね。とどのつまり、仕方なかったんだ。言い訳がましいけど、結局は、時代の流れがそれを望んだから。としか言えないね」
僕は驚いた。なぜ彼がここにいるのだろうか。ほとんど無意識に疑問を口にしていた。
えっと、……貴方は?
彼は頷いて、見ての通りだよ、とでも言いたげな笑みを浮かべた。あのビデオの撮影者だよ。見て分かるだろう?
たしかに彼はあのビデオに登場していた人物だ。時には解説者として、時には撮影者として。そして、最後のさいごになってデータの破棄に反対した人物だ。
男がビデオの登場人物である事は一目で分かったが、その姿は映像時と全く同じという訳では無かった。顔や背格好こそは同じだったが、彼の身体は半分ほど透けていた。身体を通して向う側が透けて見える。おまけに、彼の足元を見てもそこに影は見あたらない。まるで幻みたいに。
霊体とか、思念体とか、そういった類なのだろう。
彼は一歩ほど身を乗り出すと、僕に向かってありがとうと言った。
「キミがあのビデオを再生してくれたんだね。キミのおかげで彼女、クドリャフカを迎えに来ることが出来た。一同を代表して礼を言わせてもらうよ」
一同?
その言葉に疑問を感じて彼の後ろ側、つまり店の入口の方へ視線を向けると、またしても驚かされた。
彼と同じ服装の面々が並んでいた。設計局のメンバーたちだ。やはりというか、彼らも半透明であった。
僕はこめかみのあたりが痛くなるような気がした。何がどうなっている事やら。途方にくれたまま、その視線を隣に居るにとりの方に向けると、彼女も驚いた顔をしていた。目を大きく見開いてきょとんとしている。
彼女も驚いているという事は、少なくとも僕は幻覚を見ている訳ではなさそうだ。少し安心した。
幻覚ではない彼は身をかがめると、おいで、と小犬を呼んだ。
「迎えに来たよ。ずいぶんと時間がかかってしまったけどね。みんなキミの姿を待ちわびている。帰りを待ってるんだ。同僚の小犬達も駆けつけてきてくれた。さ、おいで」
わう、とクドリャフカは駆けだした。尻尾を振って、彼に飛び付いた。彼はその頭を優しく撫でた。
「うん、いい子だ。元気そうだね。なによりだ。その元気な姿を他のみんなにも見せてあげるといい」
彼はそう言うと、小犬の背中をぽんと押した。小犬は走りだした。入口の方では設計局のメンバーたちが待ち構えている。
――おかえり、クドリャフカ。
――よく頑張った、偉いぞ。
――アンタは稀代の英雄だよ。
彼らは小犬をしきりに歓迎していた。そんな光景を眩しそうな笑みで見つめながら彼は立ち上がると、こちらに視線を向けた。
「驚かせてすまないね。迷惑をかけてしまったかな」
「……ん、あ、いや」声をかけられた事に気付き、慌てて取り繕った。「迷惑だ、なんてとんでもない」
急な出来事に散々驚かされた僕だったが、ここが僕の店で、僕は店主である事をやっと思いだした。小さく息を吸って、気を締めなおす。
「ここ、幻想郷に店を構えていると、突飛なお客さんには慣れてしまうんだ。こんなことで迷惑をかけた、なんて思わない方がいい、うぬぼれ屋だと勘違いされてしまうから」
精一杯の軽口だったが、彼は二回ほど瞬きをした後に小さく笑い、店内を見回した。
「店か……、なかなか良い雰囲気だね」
「どうも、ついでに何か買っていくかい?」
「いいや、これ以上欲しい物は何もないよ」彼はそう言ってから、思い出したように付け加えた。
「それとも、幽霊用のドックフードなんてものは置いてあるかな?」
「残念ながら。そんなものは存在しないよ」
だと思ってたよ。と彼は笑みを見せ、その足を店の入り口の方に向けた。
「そろそろ、おいとまさせてもらうよ。これ以上、長居する理由も無いしね」
入口付近では、設計局のメンバー達が店の外に出ようとしているところだった。彼等は店の出入り口である自動ドアの敷板をまたぐと、まるで日射しの中に溶けていくかのように消散していった。
一人、また一人と、店の外に消えていく。
そして、最後に彼が店の外に出ようとその足を踏み出した瞬間、「待って」とにとりが叫んだ。
呼ばれて彼は振り返った。その身体は半分ほど消えかかっていた。
「教えてほしい事があるの」彼女は口早に捲し立てた。「貴方たちはスプートニクを打ち上げた事を後悔していないの? クドリャフカを見殺しにしたことは? ねぇ、それは本当に仕方のない事だったの?」
彼はひとつ頷くと、はっきりした口調で答えた。
「申し訳ないけど、それは教えられないんだ。決まりでね。死人に口無し。それは今を生きるキミ達が考えるべきことなんだよ」
それだけを言うと、彼は最後の一歩を踏み出し、サラサラと蒸発するように消えた。
気配も何も残らなかった。開いた自動ドアの向こう側には、やはりのドアの向こう側の景色が見えるだけだ。やがて、ドアはその機能に従って自動で閉められた。
僕はまだ何かあるのでは、と疑ってしばらく身構えていたが、結局は何も起こらなかった。
たっぷり十秒数えた後で、小さく息を吐いた。取りあえずは問題ないようだ。そんな安心感に胸をなでおろしていると、不意に、パンパンッ、と小気味のいい音が店内に響いた。
視線を向けると、どうやらそれは、にとりが二回ほど拍手をした音のようだ。今度は深くお辞儀をしている。そのお辞儀の向きは自動ドアの方向だ。
「えっと……」僕はにとりの動作が終わるのを待ってから訊いた。「二拍手一礼?」
「二礼二拍手一礼だよ」にとりは答えた。
「なんでまた?」
「あっちの国の人たちの作法は知らないけどさ」にとりは入口のドアの方に顔を向けながら言った。「せっかく幻想郷に来たんだから、こっちのやり方で敬うのが礼儀だとおもってね」
僕もドアの方に視線を向けてみたが、特に面白味がある訳でもなかった。何の変哲もない自動ドアだ。
「なんかそれ、神様みたいな扱いだね」
「私は十分、神様だと思うよ」
「ん?」
「あの小犬はさ、死んでからも千年間以上も幻想入りしなかったんだよ。きっと愛されていたんだろうね。信仰心とは違うかもしれないけど、それは十分神様の域だと思わない?」
「ああ、なるほど」
うん、と彼女は頷いた。なんとなくだけど、今日の彼女の態度が妙によそよそしかった理由が分かった気がした。
「本当はさ、にとりがビデオデッキが壊れているなんて言ったの、アレ、嘘だったんだろ?」
「えっ」とにとりは顔をこちらに向けた。「気付いてたの」
「態度でバレバレ。その、隠し事をしている時は視線を合わせない癖を直した方がイイと思う。明らかに怪しいから」
にとりは少し顔を赤らめて、俯いた。
「それにあの時、ビデオデッキ程度なら簡単に直せるって言っていただろう。あれは失敗だったね。直せるなら、そのままにとりの工房で直しちゃった方が手っ取り早いはずなんだ。わざわざ僕の店にまで足を運ぶよりかは、ずっとね。で、そう考えると、やっぱりビデオデッキが壊れているからって、わざわざ僕の店に来るのは不自然過ぎるんだよ。つまり嘘だろうな。って推測」
にとりは反論しない。多分、合っているのだろう。
「もしかするとさ、あのビデオを再生するとどうなるのか、キミは知っていたんじゃないのかい?」
「ううん」と、にとりは首を横に振った。「それは違う。知っていた訳じゃないんだよ。ただ、ビデオになにか強い想いが込められていたから、何かあるかもとは思っていたけどね。まさか登場人物が店に現れるなんて、考えもしなかったよ。私もビックリしたし」
「えーと?」少し疑問に思う。「そうなると、なんでキミは僕の店にまで足を運んだんだろうか? それに、わざわざ嘘をついてまで」
「それは……」にとりは口ごもる。「えっと、言わなきゃ駄目……かな?」
「僕としては是非とも教えてほしいね。害は無かったにしても、結果としては巻き込まれた訳だし」
彼女は小さくため息を吐いて、そりゃそうだよねと、独りごちた。
「本当の事を言うとね、そのビデオは私一人で見ても良かったんだ。けどさ、出来れば誰かと、しいて言えば人間の誰かと一緒に見たかったの。それがここに来た理由でね」
「一応言っておくと、僕は人間じゃ無いんだけどな」
「うん、それは分かってる。けどさ」彼女はそう言って僕を指差した。「その身体には人間の血が流れている事に変わり無いでしょ? 一応は人間ってことで、私なりの妥協、だよ」
「まぁたしかに、僕は人妖だけど……、他にも人間の知り合いは居るだろうに」
「うん、まあ、知り合いは居るよ。居るんだけどね。えぇと、ほら、私って顔が広い訳でもないでしょう。それに、そもそもビデオデッキなんて古臭い物を今でも所持している人ってなかなか居ないし。そう考えると、ここ以外にめぼしい人物が思い浮かばなかったんだよね」
「あーなるほど」
言われてみれば、ビデオデッキなんて数世代前の骨董品だ。そんなものを今だに所蔵しているような物好きは、懐古趣味な僕ぐらいかも知れない。
「あのビデオを見る理由はさ、私なりの『けじめ』だったの」
「けじめ?」
「そう、けじめ。正直に言うとね、あのビデオの中身を見たくは無かったんだ。目を背けたかったの。笑っちゃうかもしれないけどさ、私、あのビデオの中身を見るのが怖かったの」
彼女は自分の言葉を確認するように、呟いた。
「うん、怖かったんだと思う」
.7
――夜
僕は店じまいのために外に出て、店のシャッターを降ろしていた。
今日の一件があったせいかも知れない。ふと思い、空を仰ぐと、夜の群青色に揺らめく星々が見えた。
そういえば、まじまじと星空を見上げるのは何年ぶりだろうか。思い出そうとしたが、思い出せなかった。ずっと昔のことのように思う。
記憶の中の星空は、もう少し星が多かった気がする。視界の隅にちらつく街灯を見て、それもそうかと独り納得した。
今の時代は夜も明るい。街灯や、夜店の光、看板のネオンなどのせいで、夜空が明るくなり星が見辛くなる。光害と言うんだっけか。天体観測愛好家や、星を司る妖怪たちにとっては割と死活問題だった気がする。
僕は星を眺めながら、今日のにとりの言葉を反芻していた。
怖かったのよ。と彼女は言った。
そのビデオの中身を確認するのが、怖かったの。店主さんは知らない事だと思うけど、彼女――クドリャフカのことは私達の間では割と有名な逸話なんだよ。科学の犠牲になった動物の代表としてね。
あの時、彼女はぽつりぽつりと、言葉を選ぶようにゆっくりと語りだした。その雰囲気はなんだか懺悔みたいで、僕は少しばかり戸惑いながらもその話に耳を傾けていた。
私がよく研究室に籠りっぱなしになる事は知っているよね。そこで私は色んな研究をしてるんだけど、やっぱり実験もする訳。ものを作ったり、壊したり。たまにだけど、そこに生きた動物だって混じる事もあんだ。
なんていうのかな、そういう事をしていると、コレでいいのかな? って時々思っちゃうんだよね。倫理観の線引きが上手くできなくて。先輩はそんな所がまだまだ甘ちゃんだなって言うけど、やっぱり難しい。
ねえ、わかるかな。
そのビデオを見ることは、私にとっては、自分が行ってきた実験の所業を再確認させられる事と同じ意味なの。そういう意味で、ビデオを見るのが怖かったんだ。
「なぁ、もしかしてキミは――」
僕は質問をしようとしたが、彼女はそれをさせなかった。僕の言葉にかぶせるようにして、できれば訊かないでほしいな。と、そう言った。
多分、店主さんの考えていることは、おおよそ当たってると思うから。
えっとさ、分かるでしょう。
私は河童で、エンジニアで、研究者で。結局のところ好奇心には勝てない、そんな種族なの。迷ったら好奇心の方を選択しちゃうのよ、それで後になって思い悩んだりするから世話ないよね。
だからかな、やっぱり訊かれたくない事もね、そういうこと。
そう言ってから、彼女は少しぎこちない笑みを僕に見せた。
僕としては疑問に思うところは色々とあったが、それを訊くのはどう考えても野暮だったので、質問はしなかった。
結局のところ、それは彼女自身が解決しなければならない問題なのだろう。
僕は店のシャッターを降ろし、戸締りを済ますと、店内には戻らず近くの丘まで歩く事にした。街灯の少ない場所に行けば、ここよりは多くの星々が見えるかもしれない、と思ったからだ。
丘の頂上にはこぢんまりとした公園がある。そこならば光害となる街の光も少しは和らいでくれるだろう。
僕は歩きながらも夜空の星を見上げていた。季節は春で、だから春の星座を見つける事が出来た。
スピカ、デネボラ、アークトゥルス。それらは春の大三角とよばれる星たちだ。それに、りょうけん座のα星であるコル・カロリを加えると、春のダイヤモンドと呼ばれるようなる。
北斗七星、おとめ座、うしかい座、しし座……。クドリャフカは、果たしてこの景色を見る事は出来たのだろうか。
かすかな雨気を含んだ春の夜風は、僕の頬をひやりとそそいでいた。
あの後、僕らはしばしのあいだ店内に佇んでいた。
やがて、にとりは一つ息を吐いた後に「なーんか、しんみりしちゃったね」と明るい声を出した。
「湿っぽくするつもりは無かったんだけど。まぁ、その、ね。ウジウジしていても仕方ないし。今日は色々とありがとね。ちょっとは気が軽くなった気がするよ」
その口ぶりこそは軽快だったが、彼女の態度はどう見ても空元気だった。唐変木だとか揶揄されるような僕でも、それくらいは分かった。
「さて」と彼女は足を店のドアの方へ向けた。「用事も済んだことだし、私はもう帰るね」
「近くまで送って行こうか?」
「ううん、大丈夫。今はちょっと一人になりたい気分だから。それに今日は色々と迷惑かけちゃったからね。これ以上迷惑をかけるのは、さすがに気が引けちゃうかな」
彼女はそう言って自動ドアの前に立った。ドアが開く。彼女がその足を踏み出そうとしたところで、「待って」と僕は呼び止めた。
空元気な彼女の態度が気になったので、なにか励ましの言葉をかけようと思ったのだ。
なに、と彼女が振り返る。
呼び止めてから気付いたのだが、僕は掛ける言葉を用意してなかった。咄嗟にそれらしい言葉が思い浮かばなかったので、誤魔化すように「迷惑じゃない」と言った。
「幻想郷に店を構えていると、突飛なお客さんには慣れてしまうんだ。こんなことで迷惑をかけた、なんて思わない方がいい、うぬぼれ屋だと勘違いされてしまうから」
彼女はきょとんとした顔で二回ほど瞬きをした後、小さく笑い、「ばーか」とぶっきら棒に言い残して、足早に店を後にした。
今日のこと思い出しながら、僕は月明かりの夜道を歩いていた。
郊外に出るほど街灯はまばらになり、街の喧騒は少なくなる。だから、アスファルトを踏む音は僕の耳によく届いた。
じきに道が細くなり、階段や坂道が多くなる。そのまま十分ほど進んだところで、ようやく丘の上の公園に辿りついた。目的の場所だ。
公園はしんと静まり返っていた。ひとっ子ひとり居ない。まぁ当たり前だろう。わざわざ丘を登ってまで、それも深夜にここを訪れるような輩はきっと、よほどの暇人か、奇人変人の類だ。
夜の公園ともなれば、いちゃつくカップルや、酔い潰れたおっさんが一人ぐらい居ても良さそうなのだが、この公園にはそれすら居なかった。
なにしろ、本当にこぢんまりとした公園なのだ。
鉄棒があり、ブランコがあり、ぞうさん滑り台と草の生えた砂場が設置してある。それに加えてベンチが数台ほど。目につくのはそれで全部だ。
僕は公園へ足を踏み入れると、広場の奥、手摺のある方へ移動した。そこならば、眼下の景色を一望できる。
身を乗り出し、見降ろした視線の先には、僕が先ほど歩いてきた坂道が見えた。薄暗い夜道だ。その道なりを目で追いながら、少しずつ視線を上げていくと、ぽつぽつと街灯が灯るようになり、じきに民家の窓からこぼれた灯影たちが織り交ざるようにして、ささやかに色付いた夜景をぼんやりと浮かび上がらせていた。
僕の店と、僕の住む街が見えた。
よくもまぁここまで発展したものだと、改めて感心する。少し視線を上げると、遠景にそびえる高層ビルやら巨大施設やらが小洒落たランプシェードのように淡い光を静かに落としていた。
あれら建築物は、にとりや河童たちが開発したテクノロジーがふんだんに取り入れられているのだろう。そう思うと、見慣れているはずの風景が、何だかいつもと違うように感じられた。
僕はぐっと視線を上げ、天を仰ぐ。
星空。
半ば予想はしていたけれど、そこに映る星の数は、街中で見上げた時とさほど変わらなかった。
まぁこんなもんだろう、と心の中で呟く。
にとりは、あの時『せっかく幻想郷に来たんだから』と言っていた。『こっちのやり方で敬うのが礼儀だとおもってね』
僕は姿勢を正すと、二回、深くお辞儀をした。その後で、ぱんっぱんっと手を鳴らす。
二礼二拍手一礼。参拝の作法だ。それは千年たった今でも変わらない。
僕は目をつむり、幻想郷のことを思った。そしてその未来のことを思った。
近い将来、この幻想郷も外の世界と同じように宇宙を目指す時が来るのだろう。ロマンだとか夢だとか、そんな希望を求めて宇宙に進出する。それは抗いようのない時代の流れだ。
その時、その宇宙開発が、戦争や営利目的などではなく、ただ純粋に平和目的の為だけに行われてほしいと、なんとなくだけど、そう思った。
当初、クドリャフカは宇宙空間で一週間ほど生きたと公表されていた。彼女の打ち上げは順調に成功し、それから一週間ほど生体データを発信し続け、最後には、酸素不足で苦しむ前に睡眠薬入りの毒物で安楽死させた、と。それが、ソ連政府の報じた筋書きであった。
彼女は打ち上げ後に数時間ほどしか生きられなかったことは、長いあいだ秘匿され続けた。その真相が明るみになったのは、2002年、ヒューストンで行われた国際会議の場でのことだ。
それは彼女の死から、約半世紀後の事であった。
彼女の遺体の乗せたスプートニク2号は、その後も地球の周りを回り続けた。周回軌道に乗って、ぐるぐる、ぐるぐる、と。
そして、翌年4月14日、打ち上げから162日後のこと。徐々に高度を失った彼女の船は、ついに地球の重力につかまり、大気圏への再突入を開始した。
空力加熱によって燃え尽きながら、空中分解し、ゆっくりと消滅していくその姿は、さながら、流れ星のようだったという。
了
テレメトリという言葉をご存知だろうか。
今を遡ること、約半世紀。1957年11月3日。
遠隔測定法(テレメトリ)を用いて、一つの命の瞬きがその日、世界を震撼させた。それこそは世界初の宇宙旅行者の誕生であったが、同時に、世界初の宇宙旅行による犠牲者の誕生でもあった。
一般によく知られている『ライカ(Laika)』という名は『犬(Лайка)』をあらわすロシア語であり、彼女自身を表す言葉ではない。
どうか、心の片隅に覚えておいて欲しい。
体重約五キロ。性別・雌。その、小さな命の名は――
来客を告げるベルの音を聞いて、僕は読んでいた雑誌を閉じた。
雑誌の背表紙に書かれている書名は『空と望遠鏡』。宇宙・天文関連の記事を取りまとめたサイエンス雑誌だ。えらく年代物の一冊で、カサカサに劣化した表紙は朽ち葉色に変色していた。奥付を見るかぎりこれが発行されたのは大昔であるらしく、日付の欄には千年以上も昔の年号――“平成”の文字が刻まれていた。
もちろん、外の世界からの漂流物である。
僕は栞とともに雑誌をしまい、開ききった店の自動ドアを一瞥したが――そこに人影は見当たらなかった。誤作動だろうか。きっと虫か何かがセンサーに引っかかったのだろう。そう思いなおし、先ほどの雑誌を手に取った。
空と望遠鏡。
この雑誌は旧時代から続いている歴史ある天文雑誌であるらしく、外の世界でもいまだに発刊していた。最新刊(手元にある内の)によると、人類は火星へのテラフォーミングを無事に完遂したという。
長いあいだ人類を苦しめていた資源不足という足枷は火星資源に頼ることでその重みを克服し、今は順調に発展を遂げているらしい。記事によると、これであと五百年は不足分を賄えると説明されていた。現在は更なる資源を求めて木星に眠るヘリウム3の採掘計画が進行中である、との事だ。
雑誌を手に持ち、先刻まで読んでいたページを開こうとしたところで、その声が入口の方から聞こえた。
「わう」と控えめな犬の鳴き声。僕は視線を向けた。
時代は移り変わり、人々の関心は宇宙へ、そしてその先へと向けられるようになった。宇宙開拓時代という広大すぎる歴史を背景に、様々なものが生まれ、または、忘れ去られていった。
我らが幻想郷はそういった彼らを積極的に受け入れ、少しずつその領土を拡大していった。もしかしたら、日本という国そのものが世界の関心から薄まってきている事も原因の一つかもしれない。
まぁとにかく、そのようにして少しばかり大きくなった幻想郷は、それと同時に、人里を基盤としたインフラ整備を少しずつ開進させていた。誘蛾灯に惹かれるように人々が寄り添い合って形成された人里は、やがて村になり、町になり、そしていつしか街と呼べるほどになった。
永いながい時間をかけて、少しずつ発展を遂げてきた幻想郷は今や、科学に縁取られた文明社会と、忘却の隅に消えた空想が入り混じる奇妙な街並みを見せていた。
そんな訳だから、一ヶ月ぶりに香霖堂を訪れたお客様がハスキー系の小型犬で、しかも霊体で。つまるところ犬の動物霊であったとしても僕は大して驚かなかった。
小さな犬は、もう一度「わう」と鳴いた。
.2
「この小犬さ、昨夜、私が見つけたんだよ」
河童のにとりは小犬と戯れながら、そう教えてくれた。
「深夜、零時過ぎの頃かな、この近くに流れ星が落ちてきてね。音もなくスーっと。それで気になって落下場所を見に行ったら、そこにこの子が居たの」
にとりは、僕がちょうどこの小犬を相手にどう対応するべきかと思い悩んでいた所にひょこんと姿を現した。
目が合うと、彼女はしまったと言う表情をして視線を逸らした。その反応からして何か事情を知っているだろうと当たりを付けた僕は、そのまま彼女を店内に引き入れ、話を聞くことにしたのだ。
「うんまぁ、知ってる、って言っていのかな。まだ私も詳しいことは知らないんだけどね。……えーと、それは昨夜のことでね」
説明によると、昨夜遅くに流れ星がこの付近に落ちてきたらしい。その流れ星は、淡い光を発しながら音も立てずにゆっくりと落下してきたそうで、その光景はどう考えても普通の流れ星の範疇を超えていたという。
興味をそそられた彼女は落下点へ行ってみると、そこでこの小犬を見つけた。犬は焼けて朽ちた鉄の箱を背後に、古ぼけたビデオテープを咥えながら独りたたずんでいたそうだ。
「私ね。その物寂しい背中を見たら、何だか放っておけなくなっちゃって。それで取りあえず家に連れ帰って、一晩泊めることにしたのよ」
つまり、彼女がこの小犬を店まで連れて来たらしい。朝も早くから御苦労なことだ。
入店の際に犬を先行させたのは、ちょっとした悪戯心だったのだろう。犬のお客様というユニークな状況に戸惑っている僕を観察するために。
「キミにしてはあまり気の利かない悪戯だったね」
僕が言うと、彼女は少し困ったような表情をして「えへへ、まぁその、ね。ごめん」となんとも歯切れも悪い謝り方をした。
彼女は古くからの友人だ。
彼女は技術屋で、僕は道具屋で、だからその仕事の都合じょう顔を合わせることがよくある。彼女がこのような悪ふざけをする性格でないことは良く知っていて、だからその態度に多少の違和感を覚えたが、取りあえずは要件を訊くことにした。
「で、今日は何の用だい? まさかその拾い犬を見せびらかしに来たわけではないだろ?」
「うーん、それも有りだね」そう言うと彼女は小犬を抱き上げた。「ほら見てよ、可愛いでしょ」
栗色模様の入った毛並みに、ハスキー系の顔立ち。ちょんと先っぽが前に倒れた三角耳が特徴的だ。よく躾けられているのだろう、犬は彼女の腕の中で大人しく尻尾を振っている。
「一応言っておくと、僕の店は動物の入店をお断りしているんだよ」
「そうなの?」
「そうなんだ」
「知らなかった」
「言ってなかったからね」
「でもほら、この子は“動物”じゃなくて、動物の“幽霊”。つまりこの子は幽霊だから問題ないね」
人はそれを屁理屈と言うのではないのだろうか。
そうはいっても、僕自身この決まりを遵守している訳ではない。街の行政局が勝手に決めたのだ。店内に動物を招き入れるのは衛生管理的に理由が色々とあってダメらしい。
彼女に視線を向けると、犬相手に「問題ないよねー」などと言いながら頭をなでていた。彼女が言うと、それに返事をするように「わう」と犬が吠える。二人はすでに仲良しのようだ。
一見すると、それは微笑ましい光景のように見えるのだが、僕は心の隅で別のことを考えていた。それは彼女の身振り手振りだ。
今日の彼女の態度が何だかいつもと違うように感じる。妙にそわそわしていて、落ち着きが無い。視線を合わせた途端に目を逸らそうとする。今のこの状態も、彼女は小犬と戯れていて僕と向き合おうとはしていない。それは自然な流れで僕と視線を逸らすために、わざと犬と戯れているようにも感じられた。
彼女との付き合いが長いからこそ分かるのだが、彼女がこのような態度を取る時は大抵の場合、なにか不安を抱えている時か、もしくは隠し事を悟られまいとしている場合がほとんどだ。
なにか面倒事に巻き込まれて無ければいいのだが。
「それで」と僕は仕切りなおした。「要件は何かな?」
「何だと思う? ヒントはこの子に関係あることなんだけど」
「まさか、この犬を引き取ってくれ、なんて言うんじゃないだろうね」
「いや、さすがの私もそこまで図々しく無いよ。私が頼みたいのはコレ。コレを再生してほしいの」
そう言ってにとりは、黒のプラスチックケースを差し出した。ラベルには『打ち上げ記録』と書かれている。
「これは?」
「ビデオテープだよ。店主さんも見覚えあるでしょ?」
「ああ、それは分かるけど……、このビデオテープがその小犬と何か関係があるのかい?」
「コレさ、この子の持ち物なんだよ。私がこの犬を見つけた時、大事そうに咥えていたんだ。それで中身が気になっちゃってね。ここならビデオデッキくらい置いてあるでしょう?」
「えーと……」記憶を探る。「たしか、裏の倉庫に置いてあったはずだ」
「お願いできるかな?」
「ああ、その程度なら構わないよ」そう頷いてから気付いた。「てか、キミの工房に行けばビデオデッキぐらい置いてあるんじゃないか。わざわざ僕の店にまで足を運ばなくても、そこでビデオを見る方が手っ取り早いと思うけど?」
「壊れてたのよ」にとりは肩をすくめた。「さすがに何年も放置しっぱなしだったからね。劣化して使いものにならなくなってた」
そういえば、ビデオが普及し始めたのはずいぶん昔の事だ。僕だって最後に使ったのは何時だったか覚えていない。
「となると、僕の所にあるビデオデッキも劣化して駄目になっているかもしれないな」
僕が呟くと、「それなら問題ないよ」とにとりは言った。「もし、壊れてたら私が直せるから」
「直せるのか?」と訊き返してから、彼女が河童で、つまり街の機械製品の技術面を一手に支えているエンジニア集団の一人である事を思い出した。
「まぁね。ビデオってさ、実は割と単純な構造でね。やろうと思えばすぐにでも直せるんだよ」
ふと、彼女の言葉に違和感を覚えた。
「なぁ、にとり?」
呼ぶと、彼女は顔をこちらに向けた。が、その視線は僕の方に向けられてはいなかった。
やはり目を合わせようとしない。
本人は上手く隠し通しているつもりなのだろうが、その態度は『いま、私には隠し事がありますよ』と遠まわしに自己主張しているようにしか見みえない。彼女自身、何か想うところでもあるのだろう。だが、それを訊いても素直に答えてはくれないような気がした。彼女はそういう性格だ。
「……いや、何でもない」僕は首を横に振り、店の奥へ向かった。
「倉庫からビデオデッキを取ってくるよ。少しばかりここで待っていてくれ」
おそらく、にとりの態度が妙によそよそしい理由はあのビデオテープに関係があるのだろう。それがどんな種類の理由であるかは分からない。けれど、あのテープの中身を見ればそれも分かる様な気がした。
取りあえずビデオデッキが壊れてなければいいなと、そんなことを考えながらドアノブを回した。
.3
幸いにも、ビデオデッキは壊れてなかった。
何年も放置していたせいで、見ようによっては古代遺跡の石板のように思えるほど埃が堆積していたが、手ぬぐいで綺麗に拭き取ればレトロなアンティーク品としてギリギリ売りに出せそうなくらいの見栄えにはなった。所どころ錆ついてはいたが、使う分には何も問題は無さそうだ。
テレビを用意して、赤白黄のコードやら電源ケーブルやらの準備をしていると、にとりが数枚の用紙を手渡してきた。ホチキス留めされたそれは何かの記事のようで、見出しの部分には『スプートニク計画』と書かれていた。
渡しておくよと、そう言った彼女はやっぱり視線を合わせようとはしなかった。そのまま僕の横を通り過ぎ、ばつの悪さを誤魔化すように小犬と戯れはじめた。
「その紙きれはさ、昨夜、小犬を見つけた辺りに散らばっていたんだよ。回顧録、とでも言えばいいのかな。この小犬の生前の記録が事細かく書かれていてね。読めば分かると思うけど、なかなか複雑な境遇だったみたい。興味があれば一度、読んでみるといいよ」
ようやくビデオの準備が整うと僕は彼女たちを呼んだ。小犬がテレビの正面に陣取り、その一歩後ろに僕とにとりが並んだ。店内には休憩スペースなんて気の利いた場所は無いから僕たちは立ち見だ。
ジ…ジジ……、とノイズ音と共に立ちあがったビデオ映像はよほど古い物なのか、モノクロで、フィルムノイズであろう黒点がちろちろと画面に写り込んでいた。
『なぁ、これ、ちゃんと撮れているのか? ああ、うん、了解』
そんな音声とともに映し出されたのは、画面いっぱいに拡大された瞳だった。
一瞬、ぎょっとしたが、それは単に撮影に慣れていない撮り主がレンズを覗き込んだ事が原因だったようだ。操作確認の途中だったようで、画面はふらふらと周囲を映しながらズームインやアウト、ピント調節を繰り返していた。
揺れる画面の中では、なにやら研究施設のような場所が映し出されていた。事務机があり作業テーブルがあり、そして大小様々な機材が所せましと設置されていた。中には最初期のパソコン(キーボード一体型の無駄にでかいヤツだ)もあり、そこで研究員とみられる作業着姿の男たちがせっせと各自の作業に勤しんでいた。
テレビの中の映像はその画質の悪さもあいまって、いかにも古めかしい時代を感じさせる風景だった。
じきに映像の揺れが止まると、画面は誰も座っていない事務机に固定された。
数秒の沈黙の後に、先ほどの撮り主だろう男が現れ、そこに座った。
『ええと、この私が今回の打ち上げ計画の記録係を担当することになった者だ。これからの一ヶ月、解説を交えながら計画の進行状況を適時撮影していく予定になると思う。まあ、よろしく頼むよ』
男は彫の深い人物だった。おそらく日本人では無いだろう。モノクロ画質のせいで肌の色は分からなかったが、北欧あたりの出身だろうと見当をつけた。
作業着のような服装をしていたが、首元でゆれる襟章の意匠を鑑みると、もしかしたらそれは軍服なのかも知れない。
『先方にはもう事の経緯は知らされていると思うが、今回の打ち上げ計画にあたっては、それに平行してプレスリリース用の記録映像も残すことが決まってな。それでこのフィルムが撮られることになったんだ。
背景を説明するとだな、ほら、先のスプートニク一号の打ち上げが成功しただろう。それは我が国の技術力を西側の奴らに知らしめる絶好の機会だったはずなんだが、どうも報道関係の対応が悪かったらしくてね、いまいち国威効果が上がらなかったんだ。
そのことに対して当局のボスは御立腹でね。二号機の打ち上げは、その反省を活かして大々的に公表する予定なんだよ。
この映像を撮るのもその一環。あらかじめ使えそうな映像を撮っておけば、打ち上げ後すぐにでも記事の作成に取り掛かれるだろう、って事だ。
滞りなく進めば、決行されたその日のうちにフィルムはキミ達の手元に届く手筈になっている。そこから先はキミ達の仕事だ。必要な情報はできる限り積め込んでおくから、うまく活用してくれ』
テレビ画面を見ながら、これは戦時中に撮られた映像だろうと僕は見積もっていた。ほとんど直感ではあったが、男の服装といい、画質の粗さといい、なにより映像から漂う気詰りな雰囲気が僕にそう思わせた。
ただ、彼の話の内容については、よく分からない、というのが正直な感想だった。話しぶりから分かる事といえば、なにやら『打ち上げ計画』なるものに関係する映像であるらしいが、それが何かと問われても、やはりサッパリだ。
ふう、と僕は足元の小犬に視線を落とした。
おそらくは、この小犬に関係のある映像なのだろう。でなければ、小犬がここに居る理由は何もない。
次に、隣のにとりに視線をむけた。今日の彼女の態度は何かしら事情を知っているような素振りだった。訊けば教えてくれるかもしれない。
声をかけると、彼女は無言のまま首を横に振った。そうした後で、ある一点を指差した。
その先には、ホチキス留めの用紙が置かれていた。それは、先ほど彼女から渡されていた記事だった。
そういえば、と思いだす。あの記事の見出しは『スプートニク計画』と書かれていた。そして、テレビの中の男も同じ単語を口にしていた。
その一致はただの偶然ではないのだろう。
それを手に取り、読みはじめようとしたところで、ちょうどテレビの場面が切り替わった。
『今日は、私達の船に乗ることになる優秀な搭乗員たちを紹介するよ。とは言っても、まだ候補生だがね。この中から一名が選ばれる予定なんだ』
先ほどとは違う部屋だった。机や機械類は設置されておらず、その代わりに、腰ほどの高さの飼育ゲージが並べられていた。数にすると二十個ほどだろうか。その半分ほどが使用されており、そこで犬たちが飼われていた。
犬たちは撮影者に気付くと、尻尾を振ったり嬉しそうに吠えたりして、各々の反応を見せた。
カメラはいちばん手前のゲージに近づき、アップで撮影した。
『この子の名前はアルビナ。見ての通り綺麗な白毛だろ。だからそのままの意味を乗せて、アルビナって呼ばれているんだ。すでに二回も飛行実験を経験していてね、なかなかのベテランだ。訓練の成績も上々、優秀な子だよ。その後ろの斑毛はベルカ。コイツはすばしっこいヤツでね――』
男は解説を交えながら、順々に小犬達の紹介をしていった。
――リシチカ、バルス、マリューシュカ、リサ、ムーカ。
カメラが近づくと、犬達は掃除ハタキのように尻尾をしきりに振って撮影者を歓迎した。犬達はよく懐いているようだった。同時に、撮影者の口ぶりから犬達をとても気遣っている様子がうかがえた。案外、彼らの飼育係でもやっていたのかもしれない。
テレビの中では小犬達が順々に紹介されていたが、僕はその解説のほとんど聞き流していた。代わりに、画面のある一点を見つめていた。
順番待ちをしている小犬たち、その隅の方に、見知った顔の小犬が居たからだ。
そう、その犬は、今まさに僕の店で、僕と一緒にビデオを見ている小犬と全くの同じ犬だった。
じきに、その犬が紹介される順番が回ってきた。
カメラが近づく。名前が呼ばれる。
『――クドリャフカ』
わう、とテレビ画面に向かって吠えた。その声は、遥かテレビの向こう側に届きそうな、はっきりとした響きだった。
それが、この小犬の名前らしい。
『この子は素直で我慢強い優秀な子でね。期待の声も多い。この子なら、なれるだろうって意見もある程だ。名誉ある、そう、世界初の宇宙旅行者にね』
世界初の宇宙旅行者。
僕はようやく、話の流れを理解し始めていた。というより、記憶の片隅に引っかかっていたものを、ふっと思い出せたような感じだ。
小犬と、スプートニクと、そして宇宙旅行という単語にピンと来た。
僕はこの逸話を知っている。
それは、外の世界で伝えられている古いふるい御伽話だ。
はっきりと覚えている訳ではないが、暇つぶしに読んでいる天文雑誌、そこに載っていた記事を読んだ記憶がある。それは何時のことだったろうか。
思い出そうと、雑誌のバックナンバーが並べられている棚に目を向けたが、すでに僕は有益な情報を所持していることに気付いた。
それは、いま僕が手にしているホチキス留めの記事だ。見出しには『スプートニク計画』と書かれている。
にとりの説明によると、小犬の生前の記録が取りまとめられているらしい。これを読み進めれば、じきに話の内容も思い出せるだろう。
記事に視線を落とす。
テレビの中ではまだ解説が続いていた。
僕はその声に耳を傾けながら、手にした記事を読み始めた。
.4
その記事に書かれている話の舞台は1950年代――アメリカとソ連の対立を代表する、冷戦の時代であった。
第二次世界大戦後、資本主義勢力と社会主義勢力の対立関係は急激に悪化し、代理戦争や傀儡政権といった形で周辺諸国をも巻き込こむようになる。その途方もないうねりは世界を二分するほどに肥大化していた。
両陣営ともに、お互いを「仮想敵国」と想定し、戦争になった場合の勝利を保障するために、それぞれ兵器開発を競い合い、強引な軍備拡張が続く。そんな時代だった。
『ここ、設計局で特に力を注いでいる部門が二つほどあるのだけれど、それが何か分かるかい?』
テレビの中の男が訊いた。その質問は、べつだん僕に向けられたものでは無く、どちらかというと、強調としての意味の質問だった。
撮影場所は野外で、背景にはゴツゴツしたプレハブ小屋と、そして人間大の何十倍もありそうなサイズの、長細い巨大な建造物が映されていた。
『その一つは、敵国をせん滅するための核兵器開発。そして、もう一つは、その核兵器を敵国まで飛ばすためのロケット開発なのだよ』
男がそう言うと、カメラは背後に写る巨大な建造物に視点を移した。
『この基地は、後者、つまりロケット開発をメインに研究が進められていてね。いま画面に写っているのがR-7ロケットの改修型、スプートニクだ。我らが設計局の最高傑作でもある。コイツは、つい先日の衛星打ち上げに成功した機体と同じ型でね。コイツを使ってもう一度衛星を打ち上げるのが、我々に課せられたミッションなのだよ』
彼はそう言うと、そのロケットが如何に素晴らしいかを、長々と語りだした。
男の言うとおり、スプートニクロケットは世界初の衛星『スプートニク一号』の打ち上げに成功していた。
手元の記事にはそのロケットのスペックも記載されていた。それによると全長は30メートル、質量は250トンを超え、推力は390トン。その数値は、当時の科学力からすると破格の性能であり、当然ながら世界一のフライト能力を持つロケットでもあった。
ソ連はそのロケットを以って『世界初の衛星打ち上げ』という快挙を成し遂げ、一躍、世界最高峰の技術力を世に知らしめたのだった。
そしてその出来事が、とある一匹の小犬の運命を大きく変えるきっかけとなった。
『技術主任から今回の任務を言い渡されたとき、私は耳を疑ったよ。なにせ、もう一機の衛星を、今度は一ヶ月以内に打ち上げるって言うんだ。しかも今度は犬を乗せて、だ』
犬を乗せて衛星軌道に打ち上げる。
そのミッションが決定されたのは、一号機の打ち上げから、わずか数日後のことだった。
その快挙に世界中の人々がどよめいているさなか、第一設計局の技術主任は秘かに首都モスクワへ招致された。
彼を呼び寄せたのは、ソビエト連邦第一書記。フルシチョフであった。
フルシチョフは彼の功績を称え、一通りの言葉を交えた後で、こう命じたという。
「革命記念日が来月に控えているだろう。その日までに、何か目立つものを打ち上げてくれないかね」
しばしの思案の後、彼はそれを受諾した。そしてその確約の内容こそが、犬を乗せて衛星を打ち上げる、というものだった。
『ありていに言うとさ、それは体裁を取り繕っただけの、ただの広告塔でもあったんだ。本当ならそこには核弾頭が乗せられるはずだったんだけどね。あからさまな軍事目的で公表するよりかは、平和目的の衛星であると謳ったほうが民衆のウケもいいから。
それに、世界初の宇宙旅行者というフレーズは付け上がったアメリカの鼻を明かすには最適だった。奴らは全てにおいてナンバーワンであると過信していたからね。
可哀想だとは思うけどさ、それは仕方の無い事だったんだよ。本当にね』
宇宙へ行くため、設計局に集められた犬たち。そのほとんどは野良犬の出身だったという。というのも、打ち上げる機体の内部はどうしても窮屈になってしまうため、それに合わせて小柄な犬を厳選しなければならなかったのだ。
体重6キログラム以下、身長35センチメートル以下。
要求された条件は厳しく、そのため条件にマッチするような野良犬を見かけた時は、そのまま研究所へと連れ帰るようにして候補生たちを集めていた。
ちなみに、その条件の中には『メス犬である事』という項目もあった。その理由は、
『ほら、オスの場合は放尿に要する時に片足を上げるだろう。それが問題でね。わざわざ躾け直すよりも、お行儀の良いメス犬の方が扱い易かったんだ』
こうして集められた犬たちは、宇宙に行くための訓練を受ける事となった。
初めの段階では、狭いスペースに順応するための訓練が行われた。小窓の付いた実験用の閉鎖空間に閉じ込め、次第にそれを小さくしていく。最終的には、実際に乗る機体と同じスペースにまで縮小された。
当初は吠えたり鳴いたりしていた犬たちも、やがて訓練に慣れると落ち着きを取り戻していった。
それに平行して、遠心加速機を用いた対Gテストや、機器類から発せられる音や振動にも慣れる訓練も行われていた。
彼らは訓練やテストの成績いかんによって篩(ふるい)に掛けられ、十数匹ほどいた犬たちは、最終的に3匹にまで絞られる事となった。
そして、とうとうその日が来た。
『今日は、栄光ある宇宙飛行士を紹介するよ。そう、私達の宇宙船に乗る犬が、ついに決まったんだ』
そう口にした画面の中の男は、どこか浮かない表情をしていた。
撮影場所は、いつか見た飼育ゲージが並べられている部屋で、一匹の小犬がお座りをして待っていた。
おいで、クドリャフカ。
彼が呼ぶと、犬は駆け寄った。男は座ったままの姿勢で抱き寄せると、その頭を優しく撫でた。少しだけ悲しい表情をしていた。
『宇宙飛行士はキミに決まったんだ。おめでとう。キミは衛星軌道に乗って地球を周回するんだ。それは人類初の快挙……。英雄になれるんだよ。だから……』
彼の声は次第に尻すぼみになり、最後の方は聞きとり辛かった。
――だから、どうか恨まないでくれよ。
.5
ビデオはもう二時間以上も続いていた。
その間、小犬は辛抱強く映像を眺めていた。見入られたようにジッとたたずむ姿はなんだか剥製の置物みたいだ。時々、画面内の自分が呼ばれるたびに尻尾を左右に動かしたが、彼女が動くのは本当にその程度だった。
クドリャフカと呼ばれたこの小さなメス犬が、一体どのような想いでこのビデオを見続けているのか。僕はそれを想像しようとしたが、結局は上手くいかなかった。僕と彼女とでは隔たりが大き過ぎた。
長く続くこのビデオ映像だが、もう終わりが近いことを僕は知っていた。
歴史通りに映像が進めば、もうじき画面の中の小犬は死ぬことになる。それがこの御伽話の終着点だろう。
彼女が死ぬ理由、それは打ち上げ計画そのものにあった。この当時、大気圏外からの再突入――つまり地球へ帰還する技術は確立されておらず、そのため、彼女の打ち上げは文字通り、『宇宙への片道切符』に他ならなかったのだ。
打ち上げが成功したとしても、彼女は狭い機内の中でどうする事も出来ず、軌道に乗って地球の周りを延々と回り続ける。それが彼女に託された役目だった。
最終調整を終えたクドリャフカは、外科手術によって身体に計測器を埋め込まれると、その上から専用のベルトとハーネスが装着された。
ついに、打ち上げの準備が始まったのだ。
計器のチェックが済むと、彼女は座る以外に姿勢を変えられないキャビンに押し込まれた。八日分の食糧と酸素の入った生命維持装置と共に。それが彼女の命だった。
彼女が納められたキャビンはロケットの先端に据え付けられた。
打ち上げは三日後。その間、彼女はその狭いキャビンの中で待機しなければならなかった。
彼女はキャビンの小窓を通してバイコヌール地方の果てない荒野を見た。それが最後の景色だった。彼女は昼を見て、夜を見て、そして朝日を眺めた。待機中の彼女は落ち着いており、呼吸・心拍数ともに大きな変化は無かったという。
そして11月3日。その日が来た。午前7時30分。
ピカッ
テレビ画面に閃光が走る。次の瞬間、地響きと共に、地軸もろとも引き裂くような轟音が押し寄せた。
ロケットが発射されたのだ。
画面が揺れる。揺れながらも、カメラは砂埃の吹き荒れる上空を必死に撮影している。
やがてレンズはそれを捉えた。
天空を穿つように真っ直ぐ飛ぶ鉛色の発光体。スプートニク。
「順調です」誰かが言った。「高度1100、1200」
まるで上空へ滑り落ちるように船体は加速を続ける。その加速度は、過重力となって彼女に襲いかかった。その値は5G。彼女はそれを一身に受ける。心拍数は3倍に膨れ上がった。相当苦しかったに違いない。
それでも船は飛んだ。
灼熱を噴き出し、大気を引き裂き、ただ一心不乱に、飛んだ。
皆の視線を一身に集めた機体は、一筋のロケット雲を跡にして、やがて空の蒼々に吸い込まれると、小さな点となって消えた。
その後で、モニターを見守っていた管制官が声を張り上げた。
「成功です」笑顔だ。「無事、衛星軌道に乗りました。彼女も生きています」
歓声が広がった。彼らは抱き合い、諸手を挙げながら喜びを分かち合った。ウォッカを注ぎ合い、空へ向かって敬礼をした。
成功。
その報せはすぐさま電報に打たれた。
受け取った関係各所のうち、最も迅速な対応を示したのは共産党機関誌『プラウダ』であった。
プラウダはいちはやく、彼女を紹介した記事を全世界に向けて発信した。と言うのも、その時にはもうすでに打ち上げ成功の記事が出来あがっていたのだ。
なぜなら、彼女の打ち上げはソ連の国威発揚を示す重要なプロジェクトの一つであったから。
当時、経済力・軍事技術ともに劣勢を強いられていたソ連であったが、彼らが開発したロケットは、その技術を転用すれば、アメリカ全土を射程に収める事の出来る脅威の核ミサイル(ICBM)の製造が可能であった。そしてそれは、西側勢力を恐怖に陥れるには十分すぎる代物であった。
当然、これをプロパガンダとして利用しない手は無く、そのためスプートニク二号の宣伝は大々的に行われたのである。
そのような理由からクドリャフカは宇宙に行く事になったのだが、もちろん、その目的はただ宣伝塔になるためだけではなく、科学的な知見からも重要な役割を果たしていた。
それは、長時間の無重力環境が生物に与える影響を調べるためでもあった。
それまでは、弾道飛行実験によって数分程度の無重力を体験させることは可能であったが、それが、数十分、数時間単位となると、やはり実際に生物を軌道へ打ち上げて生体反応を確認するしか手は無かったのだ。
およそ100分。それが衛星軌道に乗った彼女が地球を一周し、再びソ連の遥か上空を通過するまでの時間であった。
設計局のメンバーは、その時が来るのを固唾を飲んで見守っていた。彼女の生体データを記録したテレメトリーは、他国に傍受される危険性を恐れ、ソ連上空でしか発信されないように設定されていたのだ。
……ピー、ピー、ピー。
やがてその音が近づいてくると、技師たちは通信機にかじりつきテレメトリーの解析をはじめた。最初こそは不安げな表情をしていた彼らだったが、やがてモニターに映し出された表示を見ると、それぞれ安堵の息を漏らした。
そう、データは彼女の生存を示していたのだ。
機内の酸素は十分で、生体データも異常なし。全て正常値だ。
ひとりの作業員が歓喜の声を上げた。その声は周りにも伝播し、やがて一つの大きな歓声となった。
その日、二度目の歓声だった。
関係者のだれもが成功を確信しきっていた。打ち上げは理想的なかたちで成功し、彼女は衛星の中で残りの数日間を静かに過ごすのだと、誰もがそう思っていた。
しかし。
その歓喜は、そう長くは続かなかった。
この時、機体の断熱カバーが一部剥離していたのだ。そしてそれが原因となり、彼女はその短い生涯の幕を降ろすことになる。
管制官がその事態に気付いたのは、彼女が地球を三周して帰って来た時だった。
取得されたデータを見て、彼らは唖然とした。
機内の温度は急激に上昇し、その値は40℃にまで達していたのだ。断熱カバーの損傷が原因だった。さらには、機内の彼女が暴れていることを示すデータも読み取れた。パニックになっていたのだろう。彼女の動きを感知する計器の針は悲しいくらいに打ち震えていた。
彼らは唇を歪めた。けれども、彼らにはどうする事も出来なかった。遥か宇宙を飛ぶ彼女を助ける手立てなんて何も無かった。ただ祈る事しかできない。
悲痛な面持ちのまま時間は過ぎ、やがて衛星はテレメトリーの受信範囲から離れていった。
そして、一時間半後。
スプートニク二号は再び上空を通過した。テレメトリーは受信されたが、それは彼らの望むような内容では無かった。非情な現実を突きつけられただけだった。
生体データは全てゼロ。それはつまり、彼女が息絶えたことを示していた。
テレビ画面の中は、まるでタールコールを流し込んだみたいに重苦しい空気に沈んでいた。誰もが俯き、何も言葉を発しなかった。計器が刻む無機質な機械音だけがカチカチと時を運んでいた。
急に、その静寂を裂くように声が響いた。
『同志たちよ。心して聞くように!』
ずいぶんと威圧的な声だ。カメラはそちらを向いた。上官と思しき人物が立っていた。
『今回の打ち上げの件、サンプルの犬が死亡してしまった件は私達にとって手痛い出来事であったと思う。非常に残念だ。だがしかし、祖国の事業に失敗はあってはならない。失敗は許されないのだ。この意味は分かるね? それが祖国の一大プロジェクトとなれば尚更だ。国の威光に傷を付ける事は許されない』
私の言いたい事は理解できるだろう。
上官は一度メンバーたちの顔を見回してから、ゆっくりと口を開いた。
『これより、ここに箝口令を敷く。この件に関しては他言無用だ。情報局へはこのまま順調に飛行を続けていると報告する。事故は起きていない。もちろん、サンプルの死亡を示すようなデータは全て破棄だ。磁気ディスクは粉砕機にかけ、紙媒体はシュレッダーを通してから焼却処分する事。毛ほどの証拠も残すな。徹底を心掛けろ』
それを聞くと、各人は作業に取り掛かった。
しかしカメラは依然として上官の姿を撮影し続けていた。上官は撮影者に気付くと、その目を光らせた。
『おい貴様、何を撮影している。その映像も破棄の対象だ。速やかに作業をはじめるんだ』
指摘された撮影者は、それでも映像を撮り続けていた。
上官は不審そうな表情で近づいてきた。おい、私の命令が聞こえないのか。
『……い、嫌です』撮影者は震える声を絞り出した。『私はこの映像を消したくはありません』
なおも上官は近づいてくる。その顔には青筋が立っている。今の貴様の発言は反逆罪とみなされるぞ、いいのか。
『あの犬、クドリャフカは祖国のためにその身を犠牲にした偉大な宇宙犬です。称えられるべき存在なんです』
周囲がざわめく。作業員たちが止めに入ろうと近寄ってくる。
『その勇志は正しいかたちで語り継がれるべきなんです。それを破棄することは、それこそ――』
上官が握り拳を振りかぶった。
ボグォ、鈍い音とともに画面が大きく揺れた。ノイズが走る。
『おい誰か、コイツを取り押さえろ』
ゴァッ、ガッ、ぐぅぅ…はなせ……。
画面からは呻き声が聞こえたが、カメラはほとんど地面だけを映していた。
グゥッ、げはっ、ドブッ。
地面に落ちたカメラは横に倒れ、ちょうど地上視点で彼らの足元を映していた。そこには、殴られ、蹴られ、ほとんど引きずる様にして連れて行かれる男性の姿が捉えられていた
じきに静かになると、上官の靴はこちら側につま先を向けた。そしてその靴が一歩、一歩と、こちらの方へ歩み始めた。
残り三歩。
二歩。
一歩。
その足はレンズの眼と鼻の先まで近づくと、そこで一旦止まった。靴のつま先がアップで写される。その靴の片方が持ち上げられた。ぱらぱらと砂粒が落ちる。そして――
ガッ
.6
店の中は、ザーというテレビから発せられる砂嵐の音が、まるで止まない雨みたいに淀めいていた。
ビデオの再生が終っても小犬はテレビの前から動こうとはしなかった。相変わらずにテレビ画面の砂嵐を神妙そうに眺めているだけだ。
結局のところ、僕たちが観ていたビデオの内容はあれで全部だった。
ラストシーンはカメラが踏みつぶされて終わり。なんとも味気ない終り方だ。このビデオ映像に一体どんな意味があったのだろうか。そんなことを考えていると、不意に、背後から声がした。
「仕方なかったんだよ」
にとりではない。男性の声だ。振り向くと、男が立っていた。見知った顔だ。
「当時、ソ連の軍事環境は割と劣悪だったからね。だれもが結果を求めていたんだ。結果を出さなきゃ、シベリア送りになってしまうから。みんな必死だった。私を殴ったあの上官も、私を取り押さえた同僚たちもね。とどのつまり、仕方なかったんだ。言い訳がましいけど、結局は、時代の流れがそれを望んだから。としか言えないね」
僕は驚いた。なぜ彼がここにいるのだろうか。ほとんど無意識に疑問を口にしていた。
えっと、……貴方は?
彼は頷いて、見ての通りだよ、とでも言いたげな笑みを浮かべた。あのビデオの撮影者だよ。見て分かるだろう?
たしかに彼はあのビデオに登場していた人物だ。時には解説者として、時には撮影者として。そして、最後のさいごになってデータの破棄に反対した人物だ。
男がビデオの登場人物である事は一目で分かったが、その姿は映像時と全く同じという訳では無かった。顔や背格好こそは同じだったが、彼の身体は半分ほど透けていた。身体を通して向う側が透けて見える。おまけに、彼の足元を見てもそこに影は見あたらない。まるで幻みたいに。
霊体とか、思念体とか、そういった類なのだろう。
彼は一歩ほど身を乗り出すと、僕に向かってありがとうと言った。
「キミがあのビデオを再生してくれたんだね。キミのおかげで彼女、クドリャフカを迎えに来ることが出来た。一同を代表して礼を言わせてもらうよ」
一同?
その言葉に疑問を感じて彼の後ろ側、つまり店の入口の方へ視線を向けると、またしても驚かされた。
彼と同じ服装の面々が並んでいた。設計局のメンバーたちだ。やはりというか、彼らも半透明であった。
僕はこめかみのあたりが痛くなるような気がした。何がどうなっている事やら。途方にくれたまま、その視線を隣に居るにとりの方に向けると、彼女も驚いた顔をしていた。目を大きく見開いてきょとんとしている。
彼女も驚いているという事は、少なくとも僕は幻覚を見ている訳ではなさそうだ。少し安心した。
幻覚ではない彼は身をかがめると、おいで、と小犬を呼んだ。
「迎えに来たよ。ずいぶんと時間がかかってしまったけどね。みんなキミの姿を待ちわびている。帰りを待ってるんだ。同僚の小犬達も駆けつけてきてくれた。さ、おいで」
わう、とクドリャフカは駆けだした。尻尾を振って、彼に飛び付いた。彼はその頭を優しく撫でた。
「うん、いい子だ。元気そうだね。なによりだ。その元気な姿を他のみんなにも見せてあげるといい」
彼はそう言うと、小犬の背中をぽんと押した。小犬は走りだした。入口の方では設計局のメンバーたちが待ち構えている。
――おかえり、クドリャフカ。
――よく頑張った、偉いぞ。
――アンタは稀代の英雄だよ。
彼らは小犬をしきりに歓迎していた。そんな光景を眩しそうな笑みで見つめながら彼は立ち上がると、こちらに視線を向けた。
「驚かせてすまないね。迷惑をかけてしまったかな」
「……ん、あ、いや」声をかけられた事に気付き、慌てて取り繕った。「迷惑だ、なんてとんでもない」
急な出来事に散々驚かされた僕だったが、ここが僕の店で、僕は店主である事をやっと思いだした。小さく息を吸って、気を締めなおす。
「ここ、幻想郷に店を構えていると、突飛なお客さんには慣れてしまうんだ。こんなことで迷惑をかけた、なんて思わない方がいい、うぬぼれ屋だと勘違いされてしまうから」
精一杯の軽口だったが、彼は二回ほど瞬きをした後に小さく笑い、店内を見回した。
「店か……、なかなか良い雰囲気だね」
「どうも、ついでに何か買っていくかい?」
「いいや、これ以上欲しい物は何もないよ」彼はそう言ってから、思い出したように付け加えた。
「それとも、幽霊用のドックフードなんてものは置いてあるかな?」
「残念ながら。そんなものは存在しないよ」
だと思ってたよ。と彼は笑みを見せ、その足を店の入り口の方に向けた。
「そろそろ、おいとまさせてもらうよ。これ以上、長居する理由も無いしね」
入口付近では、設計局のメンバー達が店の外に出ようとしているところだった。彼等は店の出入り口である自動ドアの敷板をまたぐと、まるで日射しの中に溶けていくかのように消散していった。
一人、また一人と、店の外に消えていく。
そして、最後に彼が店の外に出ようとその足を踏み出した瞬間、「待って」とにとりが叫んだ。
呼ばれて彼は振り返った。その身体は半分ほど消えかかっていた。
「教えてほしい事があるの」彼女は口早に捲し立てた。「貴方たちはスプートニクを打ち上げた事を後悔していないの? クドリャフカを見殺しにしたことは? ねぇ、それは本当に仕方のない事だったの?」
彼はひとつ頷くと、はっきりした口調で答えた。
「申し訳ないけど、それは教えられないんだ。決まりでね。死人に口無し。それは今を生きるキミ達が考えるべきことなんだよ」
それだけを言うと、彼は最後の一歩を踏み出し、サラサラと蒸発するように消えた。
気配も何も残らなかった。開いた自動ドアの向こう側には、やはりのドアの向こう側の景色が見えるだけだ。やがて、ドアはその機能に従って自動で閉められた。
僕はまだ何かあるのでは、と疑ってしばらく身構えていたが、結局は何も起こらなかった。
たっぷり十秒数えた後で、小さく息を吐いた。取りあえずは問題ないようだ。そんな安心感に胸をなでおろしていると、不意に、パンパンッ、と小気味のいい音が店内に響いた。
視線を向けると、どうやらそれは、にとりが二回ほど拍手をした音のようだ。今度は深くお辞儀をしている。そのお辞儀の向きは自動ドアの方向だ。
「えっと……」僕はにとりの動作が終わるのを待ってから訊いた。「二拍手一礼?」
「二礼二拍手一礼だよ」にとりは答えた。
「なんでまた?」
「あっちの国の人たちの作法は知らないけどさ」にとりは入口のドアの方に顔を向けながら言った。「せっかく幻想郷に来たんだから、こっちのやり方で敬うのが礼儀だとおもってね」
僕もドアの方に視線を向けてみたが、特に面白味がある訳でもなかった。何の変哲もない自動ドアだ。
「なんかそれ、神様みたいな扱いだね」
「私は十分、神様だと思うよ」
「ん?」
「あの小犬はさ、死んでからも千年間以上も幻想入りしなかったんだよ。きっと愛されていたんだろうね。信仰心とは違うかもしれないけど、それは十分神様の域だと思わない?」
「ああ、なるほど」
うん、と彼女は頷いた。なんとなくだけど、今日の彼女の態度が妙によそよそしかった理由が分かった気がした。
「本当はさ、にとりがビデオデッキが壊れているなんて言ったの、アレ、嘘だったんだろ?」
「えっ」とにとりは顔をこちらに向けた。「気付いてたの」
「態度でバレバレ。その、隠し事をしている時は視線を合わせない癖を直した方がイイと思う。明らかに怪しいから」
にとりは少し顔を赤らめて、俯いた。
「それにあの時、ビデオデッキ程度なら簡単に直せるって言っていただろう。あれは失敗だったね。直せるなら、そのままにとりの工房で直しちゃった方が手っ取り早いはずなんだ。わざわざ僕の店にまで足を運ぶよりかは、ずっとね。で、そう考えると、やっぱりビデオデッキが壊れているからって、わざわざ僕の店に来るのは不自然過ぎるんだよ。つまり嘘だろうな。って推測」
にとりは反論しない。多分、合っているのだろう。
「もしかするとさ、あのビデオを再生するとどうなるのか、キミは知っていたんじゃないのかい?」
「ううん」と、にとりは首を横に振った。「それは違う。知っていた訳じゃないんだよ。ただ、ビデオになにか強い想いが込められていたから、何かあるかもとは思っていたけどね。まさか登場人物が店に現れるなんて、考えもしなかったよ。私もビックリしたし」
「えーと?」少し疑問に思う。「そうなると、なんでキミは僕の店にまで足を運んだんだろうか? それに、わざわざ嘘をついてまで」
「それは……」にとりは口ごもる。「えっと、言わなきゃ駄目……かな?」
「僕としては是非とも教えてほしいね。害は無かったにしても、結果としては巻き込まれた訳だし」
彼女は小さくため息を吐いて、そりゃそうだよねと、独りごちた。
「本当の事を言うとね、そのビデオは私一人で見ても良かったんだ。けどさ、出来れば誰かと、しいて言えば人間の誰かと一緒に見たかったの。それがここに来た理由でね」
「一応言っておくと、僕は人間じゃ無いんだけどな」
「うん、それは分かってる。けどさ」彼女はそう言って僕を指差した。「その身体には人間の血が流れている事に変わり無いでしょ? 一応は人間ってことで、私なりの妥協、だよ」
「まぁたしかに、僕は人妖だけど……、他にも人間の知り合いは居るだろうに」
「うん、まあ、知り合いは居るよ。居るんだけどね。えぇと、ほら、私って顔が広い訳でもないでしょう。それに、そもそもビデオデッキなんて古臭い物を今でも所持している人ってなかなか居ないし。そう考えると、ここ以外にめぼしい人物が思い浮かばなかったんだよね」
「あーなるほど」
言われてみれば、ビデオデッキなんて数世代前の骨董品だ。そんなものを今だに所蔵しているような物好きは、懐古趣味な僕ぐらいかも知れない。
「あのビデオを見る理由はさ、私なりの『けじめ』だったの」
「けじめ?」
「そう、けじめ。正直に言うとね、あのビデオの中身を見たくは無かったんだ。目を背けたかったの。笑っちゃうかもしれないけどさ、私、あのビデオの中身を見るのが怖かったの」
彼女は自分の言葉を確認するように、呟いた。
「うん、怖かったんだと思う」
.7
――夜
僕は店じまいのために外に出て、店のシャッターを降ろしていた。
今日の一件があったせいかも知れない。ふと思い、空を仰ぐと、夜の群青色に揺らめく星々が見えた。
そういえば、まじまじと星空を見上げるのは何年ぶりだろうか。思い出そうとしたが、思い出せなかった。ずっと昔のことのように思う。
記憶の中の星空は、もう少し星が多かった気がする。視界の隅にちらつく街灯を見て、それもそうかと独り納得した。
今の時代は夜も明るい。街灯や、夜店の光、看板のネオンなどのせいで、夜空が明るくなり星が見辛くなる。光害と言うんだっけか。天体観測愛好家や、星を司る妖怪たちにとっては割と死活問題だった気がする。
僕は星を眺めながら、今日のにとりの言葉を反芻していた。
怖かったのよ。と彼女は言った。
そのビデオの中身を確認するのが、怖かったの。店主さんは知らない事だと思うけど、彼女――クドリャフカのことは私達の間では割と有名な逸話なんだよ。科学の犠牲になった動物の代表としてね。
あの時、彼女はぽつりぽつりと、言葉を選ぶようにゆっくりと語りだした。その雰囲気はなんだか懺悔みたいで、僕は少しばかり戸惑いながらもその話に耳を傾けていた。
私がよく研究室に籠りっぱなしになる事は知っているよね。そこで私は色んな研究をしてるんだけど、やっぱり実験もする訳。ものを作ったり、壊したり。たまにだけど、そこに生きた動物だって混じる事もあんだ。
なんていうのかな、そういう事をしていると、コレでいいのかな? って時々思っちゃうんだよね。倫理観の線引きが上手くできなくて。先輩はそんな所がまだまだ甘ちゃんだなって言うけど、やっぱり難しい。
ねえ、わかるかな。
そのビデオを見ることは、私にとっては、自分が行ってきた実験の所業を再確認させられる事と同じ意味なの。そういう意味で、ビデオを見るのが怖かったんだ。
「なぁ、もしかしてキミは――」
僕は質問をしようとしたが、彼女はそれをさせなかった。僕の言葉にかぶせるようにして、できれば訊かないでほしいな。と、そう言った。
多分、店主さんの考えていることは、おおよそ当たってると思うから。
えっとさ、分かるでしょう。
私は河童で、エンジニアで、研究者で。結局のところ好奇心には勝てない、そんな種族なの。迷ったら好奇心の方を選択しちゃうのよ、それで後になって思い悩んだりするから世話ないよね。
だからかな、やっぱり訊かれたくない事もね、そういうこと。
そう言ってから、彼女は少しぎこちない笑みを僕に見せた。
僕としては疑問に思うところは色々とあったが、それを訊くのはどう考えても野暮だったので、質問はしなかった。
結局のところ、それは彼女自身が解決しなければならない問題なのだろう。
僕は店のシャッターを降ろし、戸締りを済ますと、店内には戻らず近くの丘まで歩く事にした。街灯の少ない場所に行けば、ここよりは多くの星々が見えるかもしれない、と思ったからだ。
丘の頂上にはこぢんまりとした公園がある。そこならば光害となる街の光も少しは和らいでくれるだろう。
僕は歩きながらも夜空の星を見上げていた。季節は春で、だから春の星座を見つける事が出来た。
スピカ、デネボラ、アークトゥルス。それらは春の大三角とよばれる星たちだ。それに、りょうけん座のα星であるコル・カロリを加えると、春のダイヤモンドと呼ばれるようなる。
北斗七星、おとめ座、うしかい座、しし座……。クドリャフカは、果たしてこの景色を見る事は出来たのだろうか。
かすかな雨気を含んだ春の夜風は、僕の頬をひやりとそそいでいた。
あの後、僕らはしばしのあいだ店内に佇んでいた。
やがて、にとりは一つ息を吐いた後に「なーんか、しんみりしちゃったね」と明るい声を出した。
「湿っぽくするつもりは無かったんだけど。まぁ、その、ね。ウジウジしていても仕方ないし。今日は色々とありがとね。ちょっとは気が軽くなった気がするよ」
その口ぶりこそは軽快だったが、彼女の態度はどう見ても空元気だった。唐変木だとか揶揄されるような僕でも、それくらいは分かった。
「さて」と彼女は足を店のドアの方へ向けた。「用事も済んだことだし、私はもう帰るね」
「近くまで送って行こうか?」
「ううん、大丈夫。今はちょっと一人になりたい気分だから。それに今日は色々と迷惑かけちゃったからね。これ以上迷惑をかけるのは、さすがに気が引けちゃうかな」
彼女はそう言って自動ドアの前に立った。ドアが開く。彼女がその足を踏み出そうとしたところで、「待って」と僕は呼び止めた。
空元気な彼女の態度が気になったので、なにか励ましの言葉をかけようと思ったのだ。
なに、と彼女が振り返る。
呼び止めてから気付いたのだが、僕は掛ける言葉を用意してなかった。咄嗟にそれらしい言葉が思い浮かばなかったので、誤魔化すように「迷惑じゃない」と言った。
「幻想郷に店を構えていると、突飛なお客さんには慣れてしまうんだ。こんなことで迷惑をかけた、なんて思わない方がいい、うぬぼれ屋だと勘違いされてしまうから」
彼女はきょとんとした顔で二回ほど瞬きをした後、小さく笑い、「ばーか」とぶっきら棒に言い残して、足早に店を後にした。
今日のこと思い出しながら、僕は月明かりの夜道を歩いていた。
郊外に出るほど街灯はまばらになり、街の喧騒は少なくなる。だから、アスファルトを踏む音は僕の耳によく届いた。
じきに道が細くなり、階段や坂道が多くなる。そのまま十分ほど進んだところで、ようやく丘の上の公園に辿りついた。目的の場所だ。
公園はしんと静まり返っていた。ひとっ子ひとり居ない。まぁ当たり前だろう。わざわざ丘を登ってまで、それも深夜にここを訪れるような輩はきっと、よほどの暇人か、奇人変人の類だ。
夜の公園ともなれば、いちゃつくカップルや、酔い潰れたおっさんが一人ぐらい居ても良さそうなのだが、この公園にはそれすら居なかった。
なにしろ、本当にこぢんまりとした公園なのだ。
鉄棒があり、ブランコがあり、ぞうさん滑り台と草の生えた砂場が設置してある。それに加えてベンチが数台ほど。目につくのはそれで全部だ。
僕は公園へ足を踏み入れると、広場の奥、手摺のある方へ移動した。そこならば、眼下の景色を一望できる。
身を乗り出し、見降ろした視線の先には、僕が先ほど歩いてきた坂道が見えた。薄暗い夜道だ。その道なりを目で追いながら、少しずつ視線を上げていくと、ぽつぽつと街灯が灯るようになり、じきに民家の窓からこぼれた灯影たちが織り交ざるようにして、ささやかに色付いた夜景をぼんやりと浮かび上がらせていた。
僕の店と、僕の住む街が見えた。
よくもまぁここまで発展したものだと、改めて感心する。少し視線を上げると、遠景にそびえる高層ビルやら巨大施設やらが小洒落たランプシェードのように淡い光を静かに落としていた。
あれら建築物は、にとりや河童たちが開発したテクノロジーがふんだんに取り入れられているのだろう。そう思うと、見慣れているはずの風景が、何だかいつもと違うように感じられた。
僕はぐっと視線を上げ、天を仰ぐ。
星空。
半ば予想はしていたけれど、そこに映る星の数は、街中で見上げた時とさほど変わらなかった。
まぁこんなもんだろう、と心の中で呟く。
にとりは、あの時『せっかく幻想郷に来たんだから』と言っていた。『こっちのやり方で敬うのが礼儀だとおもってね』
僕は姿勢を正すと、二回、深くお辞儀をした。その後で、ぱんっぱんっと手を鳴らす。
二礼二拍手一礼。参拝の作法だ。それは千年たった今でも変わらない。
僕は目をつむり、幻想郷のことを思った。そしてその未来のことを思った。
近い将来、この幻想郷も外の世界と同じように宇宙を目指す時が来るのだろう。ロマンだとか夢だとか、そんな希望を求めて宇宙に進出する。それは抗いようのない時代の流れだ。
その時、その宇宙開発が、戦争や営利目的などではなく、ただ純粋に平和目的の為だけに行われてほしいと、なんとなくだけど、そう思った。
当初、クドリャフカは宇宙空間で一週間ほど生きたと公表されていた。彼女の打ち上げは順調に成功し、それから一週間ほど生体データを発信し続け、最後には、酸素不足で苦しむ前に睡眠薬入りの毒物で安楽死させた、と。それが、ソ連政府の報じた筋書きであった。
彼女は打ち上げ後に数時間ほどしか生きられなかったことは、長いあいだ秘匿され続けた。その真相が明るみになったのは、2002年、ヒューストンで行われた国際会議の場でのことだ。
それは彼女の死から、約半世紀後の事であった。
彼女の遺体の乗せたスプートニク2号は、その後も地球の周りを回り続けた。周回軌道に乗って、ぐるぐる、ぐるぐる、と。
そして、翌年4月14日、打ち上げから162日後のこと。徐々に高度を失った彼女の船は、ついに地球の重力につかまり、大気圏への再突入を開始した。
空力加熱によって燃え尽きながら、空中分解し、ゆっくりと消滅していくその姿は、さながら、流れ星のようだったという。
了
幻想郷も、やがては外の世界のように発展し、近代化していくのかもしれません。その時、得るものと引き換えに失ってしまうものがあったとしても、それが人の心を失わせることの無いものであることを願います。
いちいち東方でやる意味ある?
いちいち東方でやる意味ある?
いちいち東方でやる意味ある?
いちいち東方でやる意味ある?
どことなく秘封倶楽部の様な近未来感がありますね
素晴らしい作品でした!