五月雨は大して降らず過ぎ、朝夕の空気も大分と暖かになった。鈍い私は夜気が生ぬるいのも気に掛けず、未だに冬用の大布団を片づけないでいた。ところへ、相部屋の一輪がそれを見て「夏が来てるのにまだ気付いてないの、あんた」と真面目な顔で見くびったようなことを言われる。大布団を洗って干し直す手間が面倒だった私は「いや、そのうち夏物に替えるよ」といい加減なことを言っていつまでも暑い布団をかぶって寝ていたが、その後も夜布団を引っ張って広げていると、決まって一輪が真面目に忠告を繰り返してくるので、六月四日にしてとうとう大布団を押入れに仕舞った。一輪は「ムラサもようやく夏が分かったのね」と言って私を褒めていた。私は「はいはい教えてくれてどうもありがとう」と返事をしておいた。私が八尺様を初めて見たのは、その明くる日だった。
明け方、六畳間に体を寝かせていた私は、コツコツコツという窓を叩く音に気が付いた。何だろうと考える間に、コツコツコツとまた窓が鳴った。不審に思ってそちらへ目をやると、窓の外は一面真っ暗な中に、白い布がざわざわと波のように揺れている。誰か白い洋服を来た人物が立っているらしかった。もっとも、その奇妙なことには、聖の顔の高さにあるはずの窓に、白い洋服は腰までしか見えていない。だらりと垂れた長い手が、コツコツコツと六畳間の窓を叩いていた。私が驚いていると窓の外の人物はするすると滑るように動いてどこへか去ってしまった。
はっとして六畳間の中をぐるぐる見回した。そして隣に布団を敷いて寝ている一輪の方を見た。一輪はコツコツコツにも全く気が付かなかった様子で目を閉じて静かな息をたてていた。
私は朝になってもあの時のことは滑稽な夢であったような気がして、普段通りの日課の中に座って過ごした。掃除をしたり朝餉を食べたり読経をしたりして呑気だった。夢の話をしてもつまらないと思ったので、窓を叩く巨人のことは誰にも黙っていた。
正午、縁側をあけて破れたふすまの修繕をしていると、ふと顔を上げた先に見慣れない女の姿があった。それは非常な長身の女で、私の背の二倍は高さがあるだろうかという竹垣の向こう側から、なお頭一つ分高く、ぬっと顔を出してこっちを見ていた。長い黒髪をさらさら流して、垣の外を右の方から左の方へと滑るように動いていく。大きな白いツバ広の帽子をかぶっていて、目元は影で暗くなっていたが、私の方を見下ろしながらにやにやと笑っていた。私はすぐに今朝の出来事に思い当った。六畳間の窓をコツコツコツと叩いていた白い洋服の巨人はこの大女に違いなかった。また、そうした目の前の光景と夢の中の光景の符合は、その時の私には不吉なものとしか思われなかった。
私はふすまの埃を払っていた刷毛を足元に投げ、白帽子の大女の笑みに睨みを返して後をついていった。大女の方でも私に顔を向けたまま決してそむけなかった。垣を隔てて互いに一言も無く、右の方から左の方へどこまでも歩いていった。彼女が垣に手をかけて命蓮寺へ入るそぶりを見せようものなら、私はあの高い顔をめがけて靴を投げつけてやる構えでいたが、相手はなかなか垣を越える様子は無く、二人はそのまま竹垣の途切れている裏戸まで歩いてきてしまった。
いよいよ入ってくるかと身構えている私の前に、裏戸を押して今朝から出掛けていたはずの一輪が顔を出した。なんだか変だなと思っていると、一輪は「さっきそこで面白いもの拾っちゃったわ」と得意顔で言い、私がここまで睨みながらつけてきた垣の向こうの大女を指して「ほら、大きいでしょう」と嬉しそうに言った。「八尺様っていうみたいよ」
一輪に導かれて裏戸から境内へ登場した八尺様は、果たして明け方私が目にした物と同じ白い服を着ていた。背丈は恐らく八尺よりも少し高い。窓を叩いていた長い細い手は、こうして昼日中に持ってきて見ると、ぎょっとするほど異様だった。肌の色は私に似て薄かった。相変わらず私の方を見下ろしてにやにやしていた。一輪はこれを参道の途中で拾ったのだと言う。
「拾ったって、どんな風にして拾ったの」
私は呆れながらも疑問に感じたことを訊ねた。一輪はこれに「声をかけてみたら後ろからずっとくっついてくるのよ」と不気味な事実を明かして当人はまるで平気らしかった。
「悪霊かもしれないよ。捨ててきた方がいいよ」
「悪霊でも、精々がムラサとおんなじ程度よ」
「私もそう思うよ」
一輪は私の忠告も構わず、八尺様を聖に見せて来ると言って回廊から講堂へ入っていった。八尺様は一輪の後について窮屈そうに身を曲げながら講堂の梁をくぐった。その顔は梁に視線を遮られるまで私の方を向いてにやにや笑っていた。
一輪の調べたところによると、八尺様とは外の世界の都市伝説で、人間の子供の前に現れ、そのまま取り憑いて殺してしまうらしい。しかし命蓮寺にやってきた彼女は、伝説の当の物とはあまり思われなかった。
一輪はこの不気味な八尺様を犬か何かのように扱っていた。また、傍目から見ていても八尺様は一輪に従順な動物のように思われた。
八尺様は一輪が呼ぶと空中からぬっと姿を現して、一輪が動くとついて動いたが、しばらくするとまた空へ透けて見えなくなる。それ以外はほとんど自ら動くことも無く大人しかった。相変わらず私が傍へ寄るとこっちを見たがったが、どうやらにやにや笑いは常時あの顔に張り付いているもののようだった。
八尺様が口を開くことは滅多になかったが、ときどき「ポッポッポポポッ」などという変な音声を発していた。一輪がこれに「ポポッポポッポ……」と返事するのを見たときは、一輪には彼女の言葉が解るのかと驚いたが、訊いてみると「鳩の真似してるだけよ」とまるで解っていなかった。
八尺様の言葉は解らなかったが、一輪は彼女に対して命令をすることが出来た。といっても、炊事や洗濯が出来るほど器用ではないようで、「あの袈裟を取ってきてよ」とか「この鍋持ってそこに立っててね」とか雑に使っていた。
こんなことばかりなら一輪には雲山という友達が既にいるので、状況は口を利かない入道が二人になって、そうして相変わらず一輪が威張っているというだけだが、八尺様は何かを捕えさせることにはとても優れて便利だった。八尺様に追われると、どんなものも逃げおおせる事が出来なかった。一輪は時々、庭で金輪を投げて八尺様に取って来させる遊びをやった。八尺様は例のするすると滑るような動きで気味が悪いほど速く金輪を捕えて一輪の元へ持ち帰った。夜に堂内に飛び込んできた蚊や小虫のような小さなものも、一輪の命令一つで素早く動いて手の中に閉じ込める事が出来た。これには聖が「雨季の虫といえども殺生しないで捕まえるのは、心のあることですよ」と言って一輪を褒めた。八尺様が上手く物を捕ると、一輪は手でちょいちょいと合図して八尺様を屈ませ、高所から降りてきた白い帽子を撫でて「よし」と言った。一輪は犬を飼ったつもりになっている。
八尺様が長身を折り曲げて本堂の廊下の途中に立っているような奇観も、ひと月が経つと見慣れたものに変わった。初めは捨てて来るように忠告までした私も、一輪が楽しげに使いこなしている様子を見ているとだんだん警戒しなくなってしまった。ただ、船幽霊の本分を果たしたくなって聖の説法を抜け出そうとするとき、目ざとく見つけた一輪がけしかけて八尺様に捕えられるのには閉口した。八尺様は私を捕える場合、決まって頭を掴んでぶら下げる。
どうしても八尺様からは逃げられないのかと思った私は、一輪に頼んで何度か試したが、やはり走っても藪に隠れても、水にもぐってもすぐに長い手が追いついてぶら下げられてしまう。私は頭を掴まれて持ち帰られながらみっともない気がしたが、一輪はその度に膝を叩いて大笑いした。
一輪は雲山と八尺様を自分の左右に引き連れ、妖怪寺の境内をずんずん歩き回った。巨大な護衛を二人も雇って天下無敵のような顔をしていた。そこへ私まで並んで歩いていると、妖怪にさえ道をよけて通された。
暑さがいよいよ真夏のものになってきた頃に、一輪が何やら妙な紫の玉を手に入れて、寺の山門を出たり入ったりと俄かに忙しく活動し始めた。その後ろには八尺様がついてうろうろしている。何をしているのかと訊ねると、一輪はオカルトボールを七つ集めれば悟りが開けるなどと昼間から酔っぱらっているようなことを早口に喋ってまた出掛けて行った。
玉を集めて悟りが開かれるなんて噂が本当なら物凄いので、私は聖のところへ行って一輪の様子を教えた。聖は私が話すのをいちいち相槌打ちながら聞いていたが、そのうち溜め息をして「あの子はきっと、尋常な悟りは開かれませんよ」と言ったので可笑しかった。聖は玉の話には興味を持ったようだったが、悟りが開けるなど莫迦なことは全く考えていないようだった。
私はその日一日は、一輪が噂に騙されたといって赤い顔をして怒りながら帰ってくるのを楽しみに待っていたが、一輪は夕方になっても夜になっても帰って来なかった。
翌日の夜になっても帰って来ないので、一輪がそれほど熱心に悟ろうとしているのは意外だと思って呑気にしていた。その翌日も一輪は帰らないまま、私は六畳間に一人で座っていた。ぬえは「あいつどうやら悟りを開いて悟りの世界へ行ったようだね」と言って笑い転げていたが、私は退屈を感じた。
一輪が寺を出てから三日経ち、不意に私の頭に八尺の悪霊のことが閃いた。山門をくぐっていく一輪の背後について白い長い手をだらりと下げていた八尺様のことを思い出した。私はまさか一輪が八尺様に連れ去られてしまったとは思いはしなかったが、戻って来ない一輪の頭上でひらひらと波のように揺れていた白い帽子のことが、何か不安な印象として心に映った。
一輪が戻ったのは五日経った明け方のことだった。私は六畳間に寝て鮫のことを夢に見ていた。一輪がいないので四角い部屋にわざと斜めに布団を敷いて部屋の中央を占めていた。そこへ頭の上でコツコツコツと音がして、私は鮫の夢を振り切って飛び起きた。窓の外にはいつかのように腰までの八尺様が立っていると思うと、窓の下から一輪が顔を出して「ただいま」と言った。なんとなく草臥れてぼんやりとしているようだった。私が窓を開けると雲山が一輪の体を持ち上げて部屋へ入れた。私は「こんなに長い間どうしてたの」と訊ねたが、一輪は「悟ってきたわよ」と言ったなり部屋に斜めに一組敷いてあった私の布団にもぐり込んでそのまま寝てしまった。私は茫然として立ったまま、思わず六畳間をぐるぐる見回した。中心に寝ている一輪の周囲三方に、雲山と、八尺様と、私がいる。その日私は一輪の顔を見ながら朝まで寝なかった。
その後も数日間はどこか草臥れていた一輪だったが、すぐに元のように戻ってお酒を飲んだり碌でもない遊びをする僧になった。不在の間の出来事を訊ねると「悟りの世界へ行ってきたんだけど、もしかしたらあれは悟りの世界じゃないかもしれない」と今更首をひねっていた。八尺様も変わらずまだ一輪についている。八尺様は私が一輪の傍へ寄るとこっちを見下ろしてにやにや笑う。
先日八尺様に肩車されて雲山の手にぶら下がっている一輪を見ながら、私はふと、この友達が今よりもう少しでも度胸がなければよかったのにという思いにとらわれた。突然として聖の言っていた言葉が胸裏によみがえった。
尋常な――。
明け方、六畳間に体を寝かせていた私は、コツコツコツという窓を叩く音に気が付いた。何だろうと考える間に、コツコツコツとまた窓が鳴った。不審に思ってそちらへ目をやると、窓の外は一面真っ暗な中に、白い布がざわざわと波のように揺れている。誰か白い洋服を来た人物が立っているらしかった。もっとも、その奇妙なことには、聖の顔の高さにあるはずの窓に、白い洋服は腰までしか見えていない。だらりと垂れた長い手が、コツコツコツと六畳間の窓を叩いていた。私が驚いていると窓の外の人物はするすると滑るように動いてどこへか去ってしまった。
はっとして六畳間の中をぐるぐる見回した。そして隣に布団を敷いて寝ている一輪の方を見た。一輪はコツコツコツにも全く気が付かなかった様子で目を閉じて静かな息をたてていた。
私は朝になってもあの時のことは滑稽な夢であったような気がして、普段通りの日課の中に座って過ごした。掃除をしたり朝餉を食べたり読経をしたりして呑気だった。夢の話をしてもつまらないと思ったので、窓を叩く巨人のことは誰にも黙っていた。
正午、縁側をあけて破れたふすまの修繕をしていると、ふと顔を上げた先に見慣れない女の姿があった。それは非常な長身の女で、私の背の二倍は高さがあるだろうかという竹垣の向こう側から、なお頭一つ分高く、ぬっと顔を出してこっちを見ていた。長い黒髪をさらさら流して、垣の外を右の方から左の方へと滑るように動いていく。大きな白いツバ広の帽子をかぶっていて、目元は影で暗くなっていたが、私の方を見下ろしながらにやにやと笑っていた。私はすぐに今朝の出来事に思い当った。六畳間の窓をコツコツコツと叩いていた白い洋服の巨人はこの大女に違いなかった。また、そうした目の前の光景と夢の中の光景の符合は、その時の私には不吉なものとしか思われなかった。
私はふすまの埃を払っていた刷毛を足元に投げ、白帽子の大女の笑みに睨みを返して後をついていった。大女の方でも私に顔を向けたまま決してそむけなかった。垣を隔てて互いに一言も無く、右の方から左の方へどこまでも歩いていった。彼女が垣に手をかけて命蓮寺へ入るそぶりを見せようものなら、私はあの高い顔をめがけて靴を投げつけてやる構えでいたが、相手はなかなか垣を越える様子は無く、二人はそのまま竹垣の途切れている裏戸まで歩いてきてしまった。
いよいよ入ってくるかと身構えている私の前に、裏戸を押して今朝から出掛けていたはずの一輪が顔を出した。なんだか変だなと思っていると、一輪は「さっきそこで面白いもの拾っちゃったわ」と得意顔で言い、私がここまで睨みながらつけてきた垣の向こうの大女を指して「ほら、大きいでしょう」と嬉しそうに言った。「八尺様っていうみたいよ」
一輪に導かれて裏戸から境内へ登場した八尺様は、果たして明け方私が目にした物と同じ白い服を着ていた。背丈は恐らく八尺よりも少し高い。窓を叩いていた長い細い手は、こうして昼日中に持ってきて見ると、ぎょっとするほど異様だった。肌の色は私に似て薄かった。相変わらず私の方を見下ろしてにやにやしていた。一輪はこれを参道の途中で拾ったのだと言う。
「拾ったって、どんな風にして拾ったの」
私は呆れながらも疑問に感じたことを訊ねた。一輪はこれに「声をかけてみたら後ろからずっとくっついてくるのよ」と不気味な事実を明かして当人はまるで平気らしかった。
「悪霊かもしれないよ。捨ててきた方がいいよ」
「悪霊でも、精々がムラサとおんなじ程度よ」
「私もそう思うよ」
一輪は私の忠告も構わず、八尺様を聖に見せて来ると言って回廊から講堂へ入っていった。八尺様は一輪の後について窮屈そうに身を曲げながら講堂の梁をくぐった。その顔は梁に視線を遮られるまで私の方を向いてにやにや笑っていた。
一輪の調べたところによると、八尺様とは外の世界の都市伝説で、人間の子供の前に現れ、そのまま取り憑いて殺してしまうらしい。しかし命蓮寺にやってきた彼女は、伝説の当の物とはあまり思われなかった。
一輪はこの不気味な八尺様を犬か何かのように扱っていた。また、傍目から見ていても八尺様は一輪に従順な動物のように思われた。
八尺様は一輪が呼ぶと空中からぬっと姿を現して、一輪が動くとついて動いたが、しばらくするとまた空へ透けて見えなくなる。それ以外はほとんど自ら動くことも無く大人しかった。相変わらず私が傍へ寄るとこっちを見たがったが、どうやらにやにや笑いは常時あの顔に張り付いているもののようだった。
八尺様が口を開くことは滅多になかったが、ときどき「ポッポッポポポッ」などという変な音声を発していた。一輪がこれに「ポポッポポッポ……」と返事するのを見たときは、一輪には彼女の言葉が解るのかと驚いたが、訊いてみると「鳩の真似してるだけよ」とまるで解っていなかった。
八尺様の言葉は解らなかったが、一輪は彼女に対して命令をすることが出来た。といっても、炊事や洗濯が出来るほど器用ではないようで、「あの袈裟を取ってきてよ」とか「この鍋持ってそこに立っててね」とか雑に使っていた。
こんなことばかりなら一輪には雲山という友達が既にいるので、状況は口を利かない入道が二人になって、そうして相変わらず一輪が威張っているというだけだが、八尺様は何かを捕えさせることにはとても優れて便利だった。八尺様に追われると、どんなものも逃げおおせる事が出来なかった。一輪は時々、庭で金輪を投げて八尺様に取って来させる遊びをやった。八尺様は例のするすると滑るような動きで気味が悪いほど速く金輪を捕えて一輪の元へ持ち帰った。夜に堂内に飛び込んできた蚊や小虫のような小さなものも、一輪の命令一つで素早く動いて手の中に閉じ込める事が出来た。これには聖が「雨季の虫といえども殺生しないで捕まえるのは、心のあることですよ」と言って一輪を褒めた。八尺様が上手く物を捕ると、一輪は手でちょいちょいと合図して八尺様を屈ませ、高所から降りてきた白い帽子を撫でて「よし」と言った。一輪は犬を飼ったつもりになっている。
八尺様が長身を折り曲げて本堂の廊下の途中に立っているような奇観も、ひと月が経つと見慣れたものに変わった。初めは捨てて来るように忠告までした私も、一輪が楽しげに使いこなしている様子を見ているとだんだん警戒しなくなってしまった。ただ、船幽霊の本分を果たしたくなって聖の説法を抜け出そうとするとき、目ざとく見つけた一輪がけしかけて八尺様に捕えられるのには閉口した。八尺様は私を捕える場合、決まって頭を掴んでぶら下げる。
どうしても八尺様からは逃げられないのかと思った私は、一輪に頼んで何度か試したが、やはり走っても藪に隠れても、水にもぐってもすぐに長い手が追いついてぶら下げられてしまう。私は頭を掴まれて持ち帰られながらみっともない気がしたが、一輪はその度に膝を叩いて大笑いした。
一輪は雲山と八尺様を自分の左右に引き連れ、妖怪寺の境内をずんずん歩き回った。巨大な護衛を二人も雇って天下無敵のような顔をしていた。そこへ私まで並んで歩いていると、妖怪にさえ道をよけて通された。
暑さがいよいよ真夏のものになってきた頃に、一輪が何やら妙な紫の玉を手に入れて、寺の山門を出たり入ったりと俄かに忙しく活動し始めた。その後ろには八尺様がついてうろうろしている。何をしているのかと訊ねると、一輪はオカルトボールを七つ集めれば悟りが開けるなどと昼間から酔っぱらっているようなことを早口に喋ってまた出掛けて行った。
玉を集めて悟りが開かれるなんて噂が本当なら物凄いので、私は聖のところへ行って一輪の様子を教えた。聖は私が話すのをいちいち相槌打ちながら聞いていたが、そのうち溜め息をして「あの子はきっと、尋常な悟りは開かれませんよ」と言ったので可笑しかった。聖は玉の話には興味を持ったようだったが、悟りが開けるなど莫迦なことは全く考えていないようだった。
私はその日一日は、一輪が噂に騙されたといって赤い顔をして怒りながら帰ってくるのを楽しみに待っていたが、一輪は夕方になっても夜になっても帰って来なかった。
翌日の夜になっても帰って来ないので、一輪がそれほど熱心に悟ろうとしているのは意外だと思って呑気にしていた。その翌日も一輪は帰らないまま、私は六畳間に一人で座っていた。ぬえは「あいつどうやら悟りを開いて悟りの世界へ行ったようだね」と言って笑い転げていたが、私は退屈を感じた。
一輪が寺を出てから三日経ち、不意に私の頭に八尺の悪霊のことが閃いた。山門をくぐっていく一輪の背後について白い長い手をだらりと下げていた八尺様のことを思い出した。私はまさか一輪が八尺様に連れ去られてしまったとは思いはしなかったが、戻って来ない一輪の頭上でひらひらと波のように揺れていた白い帽子のことが、何か不安な印象として心に映った。
一輪が戻ったのは五日経った明け方のことだった。私は六畳間に寝て鮫のことを夢に見ていた。一輪がいないので四角い部屋にわざと斜めに布団を敷いて部屋の中央を占めていた。そこへ頭の上でコツコツコツと音がして、私は鮫の夢を振り切って飛び起きた。窓の外にはいつかのように腰までの八尺様が立っていると思うと、窓の下から一輪が顔を出して「ただいま」と言った。なんとなく草臥れてぼんやりとしているようだった。私が窓を開けると雲山が一輪の体を持ち上げて部屋へ入れた。私は「こんなに長い間どうしてたの」と訊ねたが、一輪は「悟ってきたわよ」と言ったなり部屋に斜めに一組敷いてあった私の布団にもぐり込んでそのまま寝てしまった。私は茫然として立ったまま、思わず六畳間をぐるぐる見回した。中心に寝ている一輪の周囲三方に、雲山と、八尺様と、私がいる。その日私は一輪の顔を見ながら朝まで寝なかった。
その後も数日間はどこか草臥れていた一輪だったが、すぐに元のように戻ってお酒を飲んだり碌でもない遊びをする僧になった。不在の間の出来事を訊ねると「悟りの世界へ行ってきたんだけど、もしかしたらあれは悟りの世界じゃないかもしれない」と今更首をひねっていた。八尺様も変わらずまだ一輪についている。八尺様は私が一輪の傍へ寄るとこっちを見下ろしてにやにや笑う。
先日八尺様に肩車されて雲山の手にぶら下がっている一輪を見ながら、私はふと、この友達が今よりもう少しでも度胸がなければよかったのにという思いにとらわれた。突然として聖の言っていた言葉が胸裏によみがえった。
尋常な――。
とことん器量人な一輪さんが好きです。
容姿とかじゃなくて言動の闊達さというかそういうのが。
そのネタを巧く、巧い構成と文体で昇華しているのは見事でした。
言葉遣いも相変わらず素敵です
ムラサは相変わらず変な夢見てるんやなw
幼少期に見越し入道を倒し、普段から魑魅魍魎と一緒に暮らしている一輪にとって八尺様なんか全然怖くないんでしょうね
ペット扱いというのも妙にしっくりきていました
八尺「様」まで含めて名前だと思ってそうな一輪さんもかわいい