過去の記憶がふと思い浮かぶ。
一体いつの事だったが思い出せないが、私は真っ暗な中に居て酷い窮屈に恐怖を感じていた。何とかそこから這い出して、安堵したのも束の間、今度は一人置いて行かれた様な悲しみに襲われる。目を開けて泣き声をあげようとするが、上手く声が出て来ない。必死になって声を出そうと口を大きく開くと、瞼の向こうに私を覗きこむ母の笑顔が見えた。筈なのだが、何故か記憶の中では、何処かで見た気のする見知らぬ女性が、青い髪を掻き上げながら、優しげな笑みを浮かべている。
駅のホームで電車を待っていると、ベンチに横たわっていた麻姫が呟く様に言った。
「子供欲しいなぁ」
飲み会の後だから、呂律が回っていない。どうせ返事をしたって無視されるだけだから、私は何も答えずに、電車を待った。
「子供欲しい」
ホームにベルが鳴った。もうそろそろ電車がやってくる。
「でも結婚はしたくない。絶対面倒だし」
電車がやって来て、ホームに風が吹き抜ける。私は麻姫を引っ張って電車の中に連れ込んだ。
「子供って可愛いと思わない?」
そりゃ可愛いとは思うけど、私は子供なんて欲しくない。色色と束縛されそうで。
私はそう答えようとしたが声がでない。
電車の床に座り込んだ麻姫が言った。
「欲しいよね?」
声が出ないので答えられない。
黙ったままの私に焦れた様子で麻姫は立ち上がろうとしたが、気持ち悪と呻いてそのまま床に寝転んで寝てしまった。
次の駅に着いても起きないので、何とか立ち上がらせて電車から引っ張りだそうとするが、中中動いてくれない。もたついている間に、扉の閉まる合図が流れ始めていよいよ焦っていると、手助けをしてくれる者が現れた。
青い髪の女性は、優しそうな笑みを浮かべて、私と一緒に麻姫を抱えて電車の外へ運んでくれた。
麻姫をベンチに座らせて一息吐き、女性に礼を言おうと顔を上げる。だが声が出ない。
「随分と酔っているみたいね」
女性が麻姫を覗き込みそんな事を言った。
「母体にアルコールはいけないわ」
ねえと同意を求められたが、私はやっぱり声が出せないので、口を閉じたまま頷いた。女性は満足そうに麻姫に目をやり、そして去って行った。
その背を見つめていると、ふと女性が振り返った。
その顔に驚いて私は身が竦んだ。
振り返った女性の顔は、一瞬前まで見ていた顔とまるで違っていた。
いや、よくよく思い返してみると、同じ顔だった。初めから優しそうな笑顔なんて浮かべていなかったし、髪も茶髪だった。それなのに何故か私は、青い髪に優しそうな笑顔と覚え違いをしていた。
女性はさっきまで浮かべていたのと同じ迷惑そうな仏頂面で、私達に先程と同じ様に、迷惑だから酔っ払うなと文句を言って、去って行った。
去っていく女性の背を見つめながら、私は何か奇妙な心地がした。片付かない頭の中、何処かで見た様な笑顔がこびりついている。さっき覚え違いをしていた笑顔だ。何処で見たのだろうと思い出そうとしたが、どうしても思い出せなかった。
悲鳴が辺りに響いた。
薬を飲んで少しずつ体の中が溶けていくのに我慢が出来無くなった様だ。
甲高い悲鳴が辺りに響いている。
ここは何処だろう。
真っ暗な闇の中、何処からか微かに光が入り込んでいる。
何処だろう。
まどろみの中で私はそう考え続けたが終に分からなかった。
ただ微かな光が入り込んでくる向こうには出口があって、そこに優しげな笑顔が待っている気がした。
「あれ、麻姫ちゃんは?」
「知らなーい」
麻姫を心配する声に、笑い声が被る。
「ゼミ遅刻だし、今日は夕方からゼミの飲みだよ? 誰か連絡してよ」
「してますけど、朝から完無視なんで」
「指導員のこっちが教授に怒られるんだけど」という溜息に「先輩、元気出して!」と応援が入る。
「病気って事にしておくか。口裏合わせといて。っていうか、本当に病気かもだけど。てか倒れたりしてないよね。一人暮らしだっけ?」
「そういや、昨日の合コンで相当酔ってたし? 二日酔いでくたばってんじゃないの?」
「あり得る」
皆が笑う。
それから一人が言った。
「昨日一緒に帰った奴居たよね。ちゃんと家まで連れてった?」
私は連れ帰った事を伝えようと口を開いたが、やはり喉が支えて言葉が出ない。
「もう麻姫の事は良くない? あいついっつもずぼらじゃん。昨日も遅刻したし」
麻姫に対する愚痴と皆の同意が重なる。
勘違いされては可愛そうだと、何とか本当の事を伝えようとしたが、結局声は出て来なかった。私が黙っている内に麻姫の話はすぐ終わる。そしてゼミが始まった。
「で、今日は発表の時間だけど」
指導員の言葉に、皆が笑いながらちゃちゃを入れる。
「今日は教授、夜からだし、適当で良くないっすか?」
「ねー、めんどーい。史輝君の発表でしょ? さっさと終わらせて。十秒で」
そうだそうだと賛同する声を、指導員が窘める。
「史輝がかわいそうでしょうが。頑張ってきたのに」
「さーせん、実は何もやってないっす」
史輝が頭を下げると、皆が歓声と笑いを上げた。指導員が驚いて史輝に顔を向ける。
「マジで? 何も? 別に早く帰りたいっていうみんなの空気読まなくていいからね」
「マジっす。だって先週急にテーマ変えられて、一週間で出来る訳無いじゃないっすか」
「え? テーマは現代の未成年が使用する呪具でしょ? 適当におまじないとか集めてまとめりゃ楽勝じゃんみたいな? 教授は文句言ってたけど」
「いや、結局変更になって、水子をテーマにしろって」
「何で水子?」
「何か教授、その時読んでた本に影響されて、急に思いついたみたいで」
また教授の我儘だよと皆が笑う。
「とにかく一週間でまとめられる訳無いんで、今日は無理っす。つーか、一週間後でも無理っす。ちょっと先輩助けて下さいよ」
「つっても水子ってだけじゃ意味広すぎて。何すんの?」
「知らないっすよ」
「えー、水子かー。先行研究多すぎて被る可能性高過ぎるしなぁ。独自性を出すとしたら」
「論文いっぱいあるなら、ぱくってくれば良いんじゃない? 史輝君、そういうの得意じゃん」
「あ、確かに」
指導員が首を横に振る。
「駄目。最近厳しいから」
「元元呪具がテーマなら、水子の呪術とか調べれば?」
「どんなのがあります、先輩?」
「水子の呪術? 子供を使った呪術なら結構あるけど」
「先輩、ヤンシャオグイは?」
「マイナーなの知ってるね、君」
ヤンシャオグイという言葉に、今まで黙って聞いていた私の体が跳ねた。聞いた事も無い言葉で、聞き覚えなんて無い。それなのに恐ろしい言葉だとすぐに分かった。その恐怖と一緒に、青い髪の笑顔が思い出される。何処かで見た気がする。つい最近。だが思い出せない。必死でその笑顔を何処で見たのか思い出そうとしていると、不意に喉の奥から叫び声がこみ上げてきた。だが声は出て来ない。
「妊婦に薬を飲ませて無理矢理神様っていうか奇形を作って奉って守り神にするとか、生まれた赤ん坊を食わせた野犬を殺して犬神にするとか、双子の片割れを山の中に捨てて一年立ってから頭蓋骨を持って帰って祭具にするとか、色色あるけど」
「えぐい」
「よくそんな平気な顔で話せますね。サイコパスっすか?」
「いや、お前の為に説明してやってんだけど?」
「もうちょっとオブラートに」
「面倒臭ぇ。とにかく胎児とか緑児っていうのは、いつの時代も、世界各地で、成長した人間とは別の意味付けがされていた。それに象徴性も高い。類感呪術の格好の材料ではあった訳だ。お前等だって、俺が刃物で殺されたってよりも、生まれたばかりの赤ん坊が殺された方が、嫌な気分になるだろ?」
「そんな事無いっすよ、先輩」
「先輩むっちゃ大事っすよ」
「うん、ありがと。で、これは俺の考えなんだけど、常態的な赤子殺しの儀式ってのは、日本の村程度の小さなコミュニティで自然発生するとは思えないし、あっても酷く稀だろう。赤子は自分達のコミュニティを発展・成長させる礎な訳だから、恒常的に赤子を犠牲にする儀式が行われるっていうのは、それだけ余裕のある大きなコミュニティに発展しなくちゃいけない。ただそれでも、リスクと不確実性の高い出産を経て生まれた赤子を殺すのはあまりに不合理だ。だから、赤子殺しを行うっていう事は、少なくともルールを規定した上位と赤子を差し出す下位の階級、あるいは別のコミュニティから調達してくる算段があって始めて成り立つと思うんだよね。赤子殺しが伝承になってたりするけど、そういうのって現体制が反体制や前体制を批判する為に捏造しているんじゃないかって」
「先輩! 先輩! ストップ! ストップ!」
「また妄想入ってましたよ」
「あ、ごめん。えーっと何だっけ?」
「水子! 水子!」
「あ、そうそう。えーっと、そう、水子ね。えっと今言ったのは全部忘れて」
「はぁ?」
「今言ってた様なのは、水子とは違うから。水子なんて殆ど異界の存在と同義だろうし、現実で即物的な呪具とは相反するだろ? 水子は一般的に水子供養の事を表すと思うけど、それは母親を慰撫する為の儀式であって、子供が死んだって概念を使うだけ。子供っていう物は使わない。だから水子で何かするにしても赤子を呪具にする事は無いんじゃないかな。だから呪具と関連付けるのは難しいと思うよ」
「つまり、俺はどう研究すれば良いんですか?」
「だから水子って難しいんだって。下手に踏み込むと煩雑になって面倒だから、水子供養やってる宗教団体にコンタクト取って、比較研究してみたら? 直近に出来た新興宗教とかをフィールドに含めれば、一応オリジナリティを主張出来るんじゃない?」
「面倒そう! っていうか、祟られそう!」
「祟らないって」
「呪われるよ、絶対。あーあ、史輝かわいそう」
「史輝、ヤンシャオグイっちゃうかぁ」
ヤンシャオグイという言葉を聞いて、また私の体が跳ねる。叫びたくなる。でも声は出ない。
「ほんとよくヤンシャオグイなんて知ってるよね。何処で知ったの?」
「ネットでーす」
「ヤンシャオグイって何ですか?」
「死んだ胎児や緑児を使う呪術」
「きめぇ。土人思考過ぎ!」
「今までその話してきたんじゃん」
「今もヤンシャオグイってあるんですか?」
「あるんじゃない? 需要があって供給があれば。供給は、むしろ今の日本の方が材料なんて履いて捨てられている訳だからやりやすいかもしれない。いや、でも逆に凄みが無くなるのか。お手軽過ぎて。胎児も社会制度上、人じゃないしなぁ。良質な材料を手に入れようとしたら、やっぱり今の日本よりも貧富の差が激しい昔の」
「何ぶつぶつ言ってるんですか?」
「先輩、きもい!」
「サイコパス!」
「あ、ごめん。ちょっと気になっちゃって。あ、きもいついでにもう一つ。都市伝説なんだけど、赤ん坊がお腹の中で暴れる理由って知ってる?」
「絶対きもい理由でしょ、それ!」
「聞きたくない聞きたくない」
「それはね、怖いからなんだ。赤ん坊は、生まれてくるまでの間に、自分がこれから歩む人生を夢見ているの。自分がこれから歩む数十年分の人生を、十ヶ月の間で見る。その苦しさと恐ろしさによってお腹の中で暴れる。そして生まれ出たら、今度は夢で見た人生をなぞる事に怯えて泣くんだ」
「先輩!」
「先輩、本当に止めて下さい」
聞いていた一人が啜り泣き始めたので、指導員の顔が青ざめた。
「あ、ごめん」
皆の侮蔑の視線が、指導員に刺さる。
「調子乗りすぎ」
「最低です」
「ごめん、本当に」
「これから話し掛けないで下さい」
皆で一斉に立ち上がる。教授に報告しますんでという言葉を聞いた指導員が地面に頭を擦り付け始めたがそれを無視して、皆、教室の外へ向かう。
私も立ち上がろうか迷っていると、「あんたも、行こう」と言われたので、皆と一緒に教室を出た。背後からは指導員の泣き声が聞こえてくる。
廊下に出た途端、皆が苛立ちのままに指導員への非難を口にし始めた。
「本当に最低だったね。あいつ。まじきもい」
「あいつ、何様のつもりよ」
「ってういか、あいつの名前なんだっけ?」
皆が笑う。
「確かに覚えてない」
「何だっけ? 佐藤? 鈴木?」
「っていうか、今までゼミに出てたっけ?」
皆が笑いながら歩いていると、ふと誰かが言った。
「あれ? 本当にあんな先輩居たっけ?」
「え? でも確か指導員で」
皆の笑いが一瞬で途絶えた。お互いが考えこむ様に黙りこむ。そして何かに勘付いたのか一人また一人と不安そうに眉を寄せだした。お互いが安心感を得ようと目配せをしあい、やがて沈黙に耐え切れなくなった誰かが殊更大きな声で言った。
「何? あいつ、ずっとさぼってた訳? そんなのに、俺あんな偉そうに講義されちゃった?」
そう言ってわざとらしく笑い声を上げた。それに励まされて、他の者達も先程の見覚えの無い指導員を振り払う様に罵詈を声高に叫んだ。やがて話題を逸らす様に、今日の飲み会に話が移り、開始にはまだまだ時間があるけれど、予定の無い者で集まり零次会をしようという話になった。私も参加したかったが声を上げられず、零次会に参加するメンバーは去り、予定のある者達も姿を消した。一人残された私がぼんやりと上を見上げていると、急に青髪の笑顔が思い浮かんで慌ててその場を離れた。
麻姫がフローリングの上で仰向けになった。麻姫は平べったい。足はちゃんと立体なのに、股から上は平面だ。足は、膝を曲げて天井に向けて振り上げている。なのに股から上は紙の如く平面になり、フローリングと同化していた。目だけは辛うじて膨らんでいて、ぎょろりと私の事を見つめている。平面な顔の中で目玉だけ膨らんでいるから、まるで目を剥いた様な表情だ。こちらを睨んでいる様で怖かった。
こぽりと湿っぽい泡立ちの音が聞こえた。かと思うと、麻姫の顔が急に立体を取り戻して膨らんだ。それは顔の厚みが元に戻ったのではなく、顔の内側に何かが生み出されただけで、顔の中で何かが這いだし、顔から喉を通り、胸へと進む。それに合わせて、麻姫の顔が、首が、胸が膨らんでは、萎む。それがお腹から腰へ、そして股まで辿り着くと、中のものが外に出ようともがきだした。麻姫の股が引き伸ばされて、赤ん坊の顔が粘ついた糸を引きながら、ゆっくりと這い出てくる。手も体も現れる。
そうして足も外に出て、赤ん坊が生まれた。生まれた赤ん坊はしばらく目を瞑って身を縮込めていたが、やがて目を開いて、口を開け、産声を上げようとする。
その瞬間、麻姫の足が振り下ろされて、産声が上がる事は無かった。
振り下ろされた麻姫の足が持ち上がり、また元の振り上げた態勢で止まる。しばらくすると、麻姫の顔が膨らんで、また何かが生まれ出ようと、麻姫の体の中を這い始めた。
「結局、麻姫から連絡無かったね。どうしたんだろう」
二人で人通りの少ない深夜の駅構内を歩いていると、麗奈がそんな事を言って、心配そうに溜息を吐いた。
「大丈夫かな」
だだっ広い駅の構内は静かで不気味だ。何か異世界にでも舞い込んだ様な気味の悪さがある。
「ああ、何か、大分酔い気味。家帰るの面倒臭いな。今日泊めてくれない?」
私が頷くと、麗奈が嬉しそうに笑った。
「ありがとう! 家何処だっけ? 一人暮らし? 大学近いの?」
私はそれに答えようとしたが、答えられなかった。
「今日の飲み会、酷かったねぇ。史輝君、吐いちゃって。掃除するの面倒だったよね?」
返答しようとするも、声が出ない。どうしても声が出ない。
「てかさ、今日の、何か全然知らない先輩が言ってた事、覚えてる?」
酔っ払っている所為か、麗奈の話題が次から次へと飛んで行く。私が答える間も無く、麗奈は一人で話し続けている。
「赤ちゃんが泣く理由。生まれる前に自分の人生を夢で全部見ちゃうっていうの。つまりさ、それって今私がこうして生きてるのが、夢で見ているだけかもしれないって事じゃん? 何か怖くない?」
生きているのが全部夢だったとしたら。今まで小中高と生きてきて、こうして大学生として生きている。それが全部夢だとしたら。何て事の無い想像の筈だが、急に寒気がした。もう一度思い出そうとしてみる。小学校の事。中学校の事。高校の事。今日の事も昨日の事も一昨日の事も。私が生きてきた日日はみんな思い出せる。筈だ。その確信がある。なのに何故だろう過去の事を考えようとすると怖くて思考が止まる。
もしも私がまだ赤ん坊で、ただ夢を見ているだけだとしたら。
「あれ? 赤ちゃん?」
麗奈に自分の思考を覗かれた気がして、驚いて体が竦み上がった。麗奈を見ると、眉を寄せた険しい顔で当たりを見回している。
「今、何か赤ちゃんの声が聞こえた気がした」
当たりを見回すが、広い構内の何処にも私達以外の人影は見当たらない。もしも居るとすれば。
私の目が、居並ぶコインロッカーに留まる。
「やだ、幻聴かな? お化けとかじゃないよね?」
私はコインロッカーから目が離せない。沢山の閉ざされた穴が圧迫感を放っている。見ていると息苦しくなる。
私は震える足を動かして、コインロッカーの一つに歩み寄った。そのコインロッカーは、何だか酷く重苦しい。まるで影がわだかまっているかの様に、見つめていると視界が明滅する。扉の縁から、今にも赤黒い血が流れ出てきそうな、異常な予感を覚えた。
「どうしたの? 荷物預けてあるの?」
私はゆっくりと鍵の掛かっていないロッカーの扉に手を掛けた。もしかしたら血と赤ん坊が溢れ出てくるかもしれない。
「ねえ。何か言ってよ? どうしたの? 怖いよ」
私は力を込めて、扉を開けた。
だが中は空っぽで何も無い。
肩透かしを食らって息を吐こうとすると、突然突き飛ばされて地面に転んだ。見上げると、真夏なのにコートを来た女が、歯茎を剥き出しにして、息を荒げていた。
私が恐怖を覚えて固まっていると、女は急な動作で振り向き、閉じかけたロッカーの扉を乱暴に開け、中を覗き込んだ。女の目が見開かれ、次の瞬間、女は髪を掻き毟り、奇声を上げながら後退り、私の事を睨み下ろしてきた。
その、充血しきった目が怖い。その、人の感情を失ってしまった様な目が怖い。
女は、ぎょろぎょろと目だけで辺りを見回すと、涙ぐみ、大声を上げながら、何処かへ駆け去って行った。
「大丈夫?」
麗奈から差し伸べられた手を掴んで、私は立ち上がる。
「何だったんだろう、今の」
私は麗奈の声を聞きながら、ロッカーを見つめた。依然として、ロッカーから漂ってくる腐臭染みた重圧は減っていない。
私は、開け放されたロッカーの隣を見る。当然そこにも全く同じ形をした四角いロッカーの扉がある。私は誘われる様に取っ手に手を掛けて引いた。だが鍵がかかっていて開かなかった。
もう一度、扉を引っ張る。大きな音がして、扉がひしゃぐ。
「ちょっと、何してんの?」
もう一度引っ張ると、扉の鍵が壊れて開いた。
中には、真っ白いタオルが押し込められていた。
背後で麗奈が、ひきつけを起こした様に短い悲鳴を上げた。
「それ、何? 何か血が付いてない?」
ロッカーの中に押し込められたタオルは血で濡れている。何かを包んでいる。タオルの中から今にも甲高い産声が聞こえてくる気がした。
「警察呼ぼ。何かやばいよ、それ」
私が麗奈の言葉を無視してタオルを引っ張りだそうとした時、突然横から手を掴まれた。見ると、青髪の女性が立っていた。口角の釣り上がった優しい笑みで、私の手を下ろし、代わりにロッカーの中から赤ん坊を取り出す。
「これは、赤ん坊ですわ」
青髪の笑顔が一層強くなる。
麗奈が涙混じりの声で不安そうに尋ねる。
「赤ちゃん、って、それ、大丈夫なの? 血が出てて。死んじゃってない?」
「死んでいますわ。かわいそうに」
麗奈が喉の奥からくぐもった悲鳴を上げる。
「これは私が預かりましょう」
「どうするの?」
しゃくりあげる麗奈に、女性は笑みを見せながら、あやす様に手の中のタオルを揺する。
「あなたが警察を呼ぼうと言ったんじゃありませんか」
「そうですよね。あの、それ」
その先は、麗奈が泣き出した所為で言葉にならなかった。
青髪の笑顔が私に向く。
「もうそろそろ寿命みたいですね」
そう言って、青髪の笑顔が歪んだ。
その、口角の釣り上がった優しげな笑顔を見た瞬間、怖気が走る。
今目の前にあるのは先日から何故か頭にこびりついているあの笑顔だ。今まで見覚えなんて無かった筈なのに、何故か私は覚えがある。高校の時にもこの笑顔を見た気がした。中学校でもこの笑顔を見た気がした。小学校でもこの笑顔を見た気がした。生まれた時にも、この笑顔を見た気がした。酷く不吉な、優しげな笑顔が、私の記憶にへばりついている。へばりついて私の記憶を歪めている。歪められた記憶の齟齬が私の事を急かしている。何をさせようとしているかは分からないが、記憶の中でちらちらと見える笑顔が、歪な世界に私を押し込め、そして急かしている。小さな子供のイメージが浮かぶ。四つん這いになって前へ歩こうとする私を、優しい笑顔が手を打ち鳴らしながら待っている。急かしている。その笑顔に辿り着けば、光が見える。
青髪の笑顔が背を向けた。
そうして軽やかな足取りで去っていく。大事そうに赤ん坊を抱えて、去っていく。
ふと甘い花の香りが漂ってきた。
私は何だかその匂いに惹かれて、女性の後を追おうとした。
だが恐慌した麗奈が腕に縋りついてきたので止められる。
「帰ろ。早く帰ろ」
私はそれに答えようとしたが、やはり声が出ない。代わりに頷くと、麗奈は怯えきった弱弱しい笑顔で私の手を引っ張った。
「もう、何なの? 何か今日おかしい。早く帰ろ。このままここに居たらもっとやばい事になる気がする」
私は麗奈に引っ張られて、構内を歩く。
焦った様子で麗奈が私へ振り返る。
「何か今日おかしくない? ゼミの時の先輩とかさ、さっきの、赤ちゃんとか。何かやばくない? 何かホラー映画みたいで。何か怖くて、何か」
多分自分が何を言っているかも分からずに、思いついた言葉を口にしている。
「路線は? あんたの家は何処にあるの?」
私はそれに答えようとした。
だが答えられなかった。
「そういや、会うの今日が初めてだよね。何かゼミの時から居たけど、先輩の知り合い? 同い年だよね?」
私はそれに答えようとした。が、答えられない。
麗奈が眉を寄せ、不安げな表情になった。
「っていうか、名前は?」
私はそれに答えようとした。
だが私は答えられなかった。
自分の異常さに、今ようやく気がつく事が出来た。
名前が出てこない。
ついさっきまで覚えていた筈だ。それなのに、自分の名前が思い出せない。生まれてからずっとみんなに呼ばれ続けていた筈の、名前が思い出せない。
誰かに呼ばれていた事を思い出せない。
幾ら思い出そうとしても、あの笑顔が邪魔してくる。
口角の釣り上がったあの優しげな笑みが私の記憶を歪めている。
あの笑顔が私の名前を奪ったのだと分かった。
取り返さないと、名前だけでなく何もかも奪われてしまう気がした。
私は急いであの笑みを追った。もう姿は見当たらないが、あの笑みが何処に居ったのか分かる気がした。改札を抜けて、駅の外に出て、町を走りながらも、私はまだ思い出せるかもしれないという一縷の希望にかけて、必死で名前を思い出そうとした。
だがどうしても名前が思い浮かばない。生まれてから今日までの事を思い出そうとしても、あの口角の釣り上がった優しげな笑顔が邪魔をする。
私が生まれた時も、私の事を覗きこむ母や父の顔はあの笑顔だ。祖父や祖母もあの笑顔になって私の事を見守っている。小学校で遠足に言った時も、周りは皆あの笑顔だった。体育祭でもあの笑顔ばかりが応援している。中学校の部活でも周りみんなあの笑顔。友達を思い出そうとするとあの笑顔が思い浮かぶ。高校の先輩もクラスメイトも彼氏もみんな。修学旅行の時も海外にボランティアに行った時も初エッチの時もあの笑顔が見つめてくる。
訳が分からない。どうしてあの笑顔に私の人生が上書きされているのか。
今までの人生がみんなあの笑顔に塗りつぶされている。
今日のゼミも飲み会も思い出そうとするとあの笑顔に侵食されていた。
酔っぱらって、電車に乗っている間も、あの笑顔がそこかしこから見つめてくる。
電車を降りて、家に向かう間も、道行く人は皆あの笑顔。
家の近くの交差点でもあの笑顔が信号を待っている。
私が横断歩道を歩いていても、あの笑顔が迫ってきた。
私が振り向いた時も、自動車のライトの向こうにあの笑顔が見えた。
ぶつかる直前まで、あの笑顔がはっきりと私の事を見つめていた。
私の中の全部があの笑顔に食い尽くされている。
必死で走り、私は戻ってきた。
玄関を開けて、中に入ると、鉄錆染みた臭いが鼻についた。
何処かに居る筈だ。
私はそれを探して家の中を探し回った。
部屋の一つから呻き声が聞こえたので開けたが、のっぺりとした麻姫しか居なかった。
何処かに居る筈だ。私が何処かに居る。居る筈なんだ。
「赤ん坊は、生まれてくるまでの間に、自分がこれから歩であろう人生の可能性を夢見ているの」
何となく記憶が戻ってきた。私の居る部屋は二階にある。
「赤ん坊はね、その可能性を全部持って生まれてくるの」
階段を駆け上がりながら、私は恐怖で泣きそうだった。自分が今、何か抗い難い力に急かされている事がはっきりと分かる。進む先で手が打ち鳴らされている。私はよちよちとそちらに向かって歩いている。
「もしもそうやって可能性を抱いて生まれてきた瞬間に死んでしまったら、一体その可能性はどうなると思う?」
階段を駆け上がって廊下を走り、私は目的の扉に辿り着いた。真四角な扉が閉ざされている。駅の居並ぶコインロッカーが思い浮かぶ。視界が明滅する。
泣きたかった。嗚咽が漏れそうになって口を開けるが、やはり声は出て来ない。
中には私が居る。部屋の中に私が居る。
赤ん坊の私がそこに居る。
「それがヤンシャオグイ」
私は必死で叫ぼうと口を開くが、声が出ない。
恐怖が私の事を締めあげてくる。私の体を締め付けて苛んでくる。酷く悍ましい感触だった。この締め付けてくる恐怖から開放されるのなら、どうなっても良いとさえ思えた。限界で、今にも狂ってしまいそうで。
私は、この恐怖から逃れる為に、取っ手を掴んだ。
そうして全てを終わらせる為に、赤ん坊の私が居た部屋に踏み込んだ。
だが、私の期待に反して、中には誰も居なかった。辺りを見回しても、部屋の中は真っ更に清掃されて埃一つ落ちていない。
どういう事だか分からなかった。
ただとにかく、今まで締め付けてきた恐怖から開放された気がして、胸の内に安堵感が広がった。
緊張が解けると、体から力が抜け、崩れ落ちる。
四つん這いになり、それでも体を支えきれずに、私は倒れて仰向けになる。
閉じたまぶたの向こうに、あの笑顔が見えた気がした。
内から溢れる衝動に任せて私は口を開く。
喉の奥の支えが取れていた。
今なら叫ぶ事が出来そうだ。
後は目を開き、思いっきり叫ぶだけ。
その既に知っている未来を実現する為に、私は閉じきっていた目をゆっくりと開いた。
そうして産声を上げようとすると、視界一杯に、振り下ろされた踵が見えた。
一体いつの事だったが思い出せないが、私は真っ暗な中に居て酷い窮屈に恐怖を感じていた。何とかそこから這い出して、安堵したのも束の間、今度は一人置いて行かれた様な悲しみに襲われる。目を開けて泣き声をあげようとするが、上手く声が出て来ない。必死になって声を出そうと口を大きく開くと、瞼の向こうに私を覗きこむ母の笑顔が見えた。筈なのだが、何故か記憶の中では、何処かで見た気のする見知らぬ女性が、青い髪を掻き上げながら、優しげな笑みを浮かべている。
駅のホームで電車を待っていると、ベンチに横たわっていた麻姫が呟く様に言った。
「子供欲しいなぁ」
飲み会の後だから、呂律が回っていない。どうせ返事をしたって無視されるだけだから、私は何も答えずに、電車を待った。
「子供欲しい」
ホームにベルが鳴った。もうそろそろ電車がやってくる。
「でも結婚はしたくない。絶対面倒だし」
電車がやって来て、ホームに風が吹き抜ける。私は麻姫を引っ張って電車の中に連れ込んだ。
「子供って可愛いと思わない?」
そりゃ可愛いとは思うけど、私は子供なんて欲しくない。色色と束縛されそうで。
私はそう答えようとしたが声がでない。
電車の床に座り込んだ麻姫が言った。
「欲しいよね?」
声が出ないので答えられない。
黙ったままの私に焦れた様子で麻姫は立ち上がろうとしたが、気持ち悪と呻いてそのまま床に寝転んで寝てしまった。
次の駅に着いても起きないので、何とか立ち上がらせて電車から引っ張りだそうとするが、中中動いてくれない。もたついている間に、扉の閉まる合図が流れ始めていよいよ焦っていると、手助けをしてくれる者が現れた。
青い髪の女性は、優しそうな笑みを浮かべて、私と一緒に麻姫を抱えて電車の外へ運んでくれた。
麻姫をベンチに座らせて一息吐き、女性に礼を言おうと顔を上げる。だが声が出ない。
「随分と酔っているみたいね」
女性が麻姫を覗き込みそんな事を言った。
「母体にアルコールはいけないわ」
ねえと同意を求められたが、私はやっぱり声が出せないので、口を閉じたまま頷いた。女性は満足そうに麻姫に目をやり、そして去って行った。
その背を見つめていると、ふと女性が振り返った。
その顔に驚いて私は身が竦んだ。
振り返った女性の顔は、一瞬前まで見ていた顔とまるで違っていた。
いや、よくよく思い返してみると、同じ顔だった。初めから優しそうな笑顔なんて浮かべていなかったし、髪も茶髪だった。それなのに何故か私は、青い髪に優しそうな笑顔と覚え違いをしていた。
女性はさっきまで浮かべていたのと同じ迷惑そうな仏頂面で、私達に先程と同じ様に、迷惑だから酔っ払うなと文句を言って、去って行った。
去っていく女性の背を見つめながら、私は何か奇妙な心地がした。片付かない頭の中、何処かで見た様な笑顔がこびりついている。さっき覚え違いをしていた笑顔だ。何処で見たのだろうと思い出そうとしたが、どうしても思い出せなかった。
悲鳴が辺りに響いた。
薬を飲んで少しずつ体の中が溶けていくのに我慢が出来無くなった様だ。
甲高い悲鳴が辺りに響いている。
ここは何処だろう。
真っ暗な闇の中、何処からか微かに光が入り込んでいる。
何処だろう。
まどろみの中で私はそう考え続けたが終に分からなかった。
ただ微かな光が入り込んでくる向こうには出口があって、そこに優しげな笑顔が待っている気がした。
「あれ、麻姫ちゃんは?」
「知らなーい」
麻姫を心配する声に、笑い声が被る。
「ゼミ遅刻だし、今日は夕方からゼミの飲みだよ? 誰か連絡してよ」
「してますけど、朝から完無視なんで」
「指導員のこっちが教授に怒られるんだけど」という溜息に「先輩、元気出して!」と応援が入る。
「病気って事にしておくか。口裏合わせといて。っていうか、本当に病気かもだけど。てか倒れたりしてないよね。一人暮らしだっけ?」
「そういや、昨日の合コンで相当酔ってたし? 二日酔いでくたばってんじゃないの?」
「あり得る」
皆が笑う。
それから一人が言った。
「昨日一緒に帰った奴居たよね。ちゃんと家まで連れてった?」
私は連れ帰った事を伝えようと口を開いたが、やはり喉が支えて言葉が出ない。
「もう麻姫の事は良くない? あいついっつもずぼらじゃん。昨日も遅刻したし」
麻姫に対する愚痴と皆の同意が重なる。
勘違いされては可愛そうだと、何とか本当の事を伝えようとしたが、結局声は出て来なかった。私が黙っている内に麻姫の話はすぐ終わる。そしてゼミが始まった。
「で、今日は発表の時間だけど」
指導員の言葉に、皆が笑いながらちゃちゃを入れる。
「今日は教授、夜からだし、適当で良くないっすか?」
「ねー、めんどーい。史輝君の発表でしょ? さっさと終わらせて。十秒で」
そうだそうだと賛同する声を、指導員が窘める。
「史輝がかわいそうでしょうが。頑張ってきたのに」
「さーせん、実は何もやってないっす」
史輝が頭を下げると、皆が歓声と笑いを上げた。指導員が驚いて史輝に顔を向ける。
「マジで? 何も? 別に早く帰りたいっていうみんなの空気読まなくていいからね」
「マジっす。だって先週急にテーマ変えられて、一週間で出来る訳無いじゃないっすか」
「え? テーマは現代の未成年が使用する呪具でしょ? 適当におまじないとか集めてまとめりゃ楽勝じゃんみたいな? 教授は文句言ってたけど」
「いや、結局変更になって、水子をテーマにしろって」
「何で水子?」
「何か教授、その時読んでた本に影響されて、急に思いついたみたいで」
また教授の我儘だよと皆が笑う。
「とにかく一週間でまとめられる訳無いんで、今日は無理っす。つーか、一週間後でも無理っす。ちょっと先輩助けて下さいよ」
「つっても水子ってだけじゃ意味広すぎて。何すんの?」
「知らないっすよ」
「えー、水子かー。先行研究多すぎて被る可能性高過ぎるしなぁ。独自性を出すとしたら」
「論文いっぱいあるなら、ぱくってくれば良いんじゃない? 史輝君、そういうの得意じゃん」
「あ、確かに」
指導員が首を横に振る。
「駄目。最近厳しいから」
「元元呪具がテーマなら、水子の呪術とか調べれば?」
「どんなのがあります、先輩?」
「水子の呪術? 子供を使った呪術なら結構あるけど」
「先輩、ヤンシャオグイは?」
「マイナーなの知ってるね、君」
ヤンシャオグイという言葉に、今まで黙って聞いていた私の体が跳ねた。聞いた事も無い言葉で、聞き覚えなんて無い。それなのに恐ろしい言葉だとすぐに分かった。その恐怖と一緒に、青い髪の笑顔が思い出される。何処かで見た気がする。つい最近。だが思い出せない。必死でその笑顔を何処で見たのか思い出そうとしていると、不意に喉の奥から叫び声がこみ上げてきた。だが声は出て来ない。
「妊婦に薬を飲ませて無理矢理神様っていうか奇形を作って奉って守り神にするとか、生まれた赤ん坊を食わせた野犬を殺して犬神にするとか、双子の片割れを山の中に捨てて一年立ってから頭蓋骨を持って帰って祭具にするとか、色色あるけど」
「えぐい」
「よくそんな平気な顔で話せますね。サイコパスっすか?」
「いや、お前の為に説明してやってんだけど?」
「もうちょっとオブラートに」
「面倒臭ぇ。とにかく胎児とか緑児っていうのは、いつの時代も、世界各地で、成長した人間とは別の意味付けがされていた。それに象徴性も高い。類感呪術の格好の材料ではあった訳だ。お前等だって、俺が刃物で殺されたってよりも、生まれたばかりの赤ん坊が殺された方が、嫌な気分になるだろ?」
「そんな事無いっすよ、先輩」
「先輩むっちゃ大事っすよ」
「うん、ありがと。で、これは俺の考えなんだけど、常態的な赤子殺しの儀式ってのは、日本の村程度の小さなコミュニティで自然発生するとは思えないし、あっても酷く稀だろう。赤子は自分達のコミュニティを発展・成長させる礎な訳だから、恒常的に赤子を犠牲にする儀式が行われるっていうのは、それだけ余裕のある大きなコミュニティに発展しなくちゃいけない。ただそれでも、リスクと不確実性の高い出産を経て生まれた赤子を殺すのはあまりに不合理だ。だから、赤子殺しを行うっていう事は、少なくともルールを規定した上位と赤子を差し出す下位の階級、あるいは別のコミュニティから調達してくる算段があって始めて成り立つと思うんだよね。赤子殺しが伝承になってたりするけど、そういうのって現体制が反体制や前体制を批判する為に捏造しているんじゃないかって」
「先輩! 先輩! ストップ! ストップ!」
「また妄想入ってましたよ」
「あ、ごめん。えーっと何だっけ?」
「水子! 水子!」
「あ、そうそう。えーっと、そう、水子ね。えっと今言ったのは全部忘れて」
「はぁ?」
「今言ってた様なのは、水子とは違うから。水子なんて殆ど異界の存在と同義だろうし、現実で即物的な呪具とは相反するだろ? 水子は一般的に水子供養の事を表すと思うけど、それは母親を慰撫する為の儀式であって、子供が死んだって概念を使うだけ。子供っていう物は使わない。だから水子で何かするにしても赤子を呪具にする事は無いんじゃないかな。だから呪具と関連付けるのは難しいと思うよ」
「つまり、俺はどう研究すれば良いんですか?」
「だから水子って難しいんだって。下手に踏み込むと煩雑になって面倒だから、水子供養やってる宗教団体にコンタクト取って、比較研究してみたら? 直近に出来た新興宗教とかをフィールドに含めれば、一応オリジナリティを主張出来るんじゃない?」
「面倒そう! っていうか、祟られそう!」
「祟らないって」
「呪われるよ、絶対。あーあ、史輝かわいそう」
「史輝、ヤンシャオグイっちゃうかぁ」
ヤンシャオグイという言葉を聞いて、また私の体が跳ねる。叫びたくなる。でも声は出ない。
「ほんとよくヤンシャオグイなんて知ってるよね。何処で知ったの?」
「ネットでーす」
「ヤンシャオグイって何ですか?」
「死んだ胎児や緑児を使う呪術」
「きめぇ。土人思考過ぎ!」
「今までその話してきたんじゃん」
「今もヤンシャオグイってあるんですか?」
「あるんじゃない? 需要があって供給があれば。供給は、むしろ今の日本の方が材料なんて履いて捨てられている訳だからやりやすいかもしれない。いや、でも逆に凄みが無くなるのか。お手軽過ぎて。胎児も社会制度上、人じゃないしなぁ。良質な材料を手に入れようとしたら、やっぱり今の日本よりも貧富の差が激しい昔の」
「何ぶつぶつ言ってるんですか?」
「先輩、きもい!」
「サイコパス!」
「あ、ごめん。ちょっと気になっちゃって。あ、きもいついでにもう一つ。都市伝説なんだけど、赤ん坊がお腹の中で暴れる理由って知ってる?」
「絶対きもい理由でしょ、それ!」
「聞きたくない聞きたくない」
「それはね、怖いからなんだ。赤ん坊は、生まれてくるまでの間に、自分がこれから歩む人生を夢見ているの。自分がこれから歩む数十年分の人生を、十ヶ月の間で見る。その苦しさと恐ろしさによってお腹の中で暴れる。そして生まれ出たら、今度は夢で見た人生をなぞる事に怯えて泣くんだ」
「先輩!」
「先輩、本当に止めて下さい」
聞いていた一人が啜り泣き始めたので、指導員の顔が青ざめた。
「あ、ごめん」
皆の侮蔑の視線が、指導員に刺さる。
「調子乗りすぎ」
「最低です」
「ごめん、本当に」
「これから話し掛けないで下さい」
皆で一斉に立ち上がる。教授に報告しますんでという言葉を聞いた指導員が地面に頭を擦り付け始めたがそれを無視して、皆、教室の外へ向かう。
私も立ち上がろうか迷っていると、「あんたも、行こう」と言われたので、皆と一緒に教室を出た。背後からは指導員の泣き声が聞こえてくる。
廊下に出た途端、皆が苛立ちのままに指導員への非難を口にし始めた。
「本当に最低だったね。あいつ。まじきもい」
「あいつ、何様のつもりよ」
「ってういか、あいつの名前なんだっけ?」
皆が笑う。
「確かに覚えてない」
「何だっけ? 佐藤? 鈴木?」
「っていうか、今までゼミに出てたっけ?」
皆が笑いながら歩いていると、ふと誰かが言った。
「あれ? 本当にあんな先輩居たっけ?」
「え? でも確か指導員で」
皆の笑いが一瞬で途絶えた。お互いが考えこむ様に黙りこむ。そして何かに勘付いたのか一人また一人と不安そうに眉を寄せだした。お互いが安心感を得ようと目配せをしあい、やがて沈黙に耐え切れなくなった誰かが殊更大きな声で言った。
「何? あいつ、ずっとさぼってた訳? そんなのに、俺あんな偉そうに講義されちゃった?」
そう言ってわざとらしく笑い声を上げた。それに励まされて、他の者達も先程の見覚えの無い指導員を振り払う様に罵詈を声高に叫んだ。やがて話題を逸らす様に、今日の飲み会に話が移り、開始にはまだまだ時間があるけれど、予定の無い者で集まり零次会をしようという話になった。私も参加したかったが声を上げられず、零次会に参加するメンバーは去り、予定のある者達も姿を消した。一人残された私がぼんやりと上を見上げていると、急に青髪の笑顔が思い浮かんで慌ててその場を離れた。
麻姫がフローリングの上で仰向けになった。麻姫は平べったい。足はちゃんと立体なのに、股から上は平面だ。足は、膝を曲げて天井に向けて振り上げている。なのに股から上は紙の如く平面になり、フローリングと同化していた。目だけは辛うじて膨らんでいて、ぎょろりと私の事を見つめている。平面な顔の中で目玉だけ膨らんでいるから、まるで目を剥いた様な表情だ。こちらを睨んでいる様で怖かった。
こぽりと湿っぽい泡立ちの音が聞こえた。かと思うと、麻姫の顔が急に立体を取り戻して膨らんだ。それは顔の厚みが元に戻ったのではなく、顔の内側に何かが生み出されただけで、顔の中で何かが這いだし、顔から喉を通り、胸へと進む。それに合わせて、麻姫の顔が、首が、胸が膨らんでは、萎む。それがお腹から腰へ、そして股まで辿り着くと、中のものが外に出ようともがきだした。麻姫の股が引き伸ばされて、赤ん坊の顔が粘ついた糸を引きながら、ゆっくりと這い出てくる。手も体も現れる。
そうして足も外に出て、赤ん坊が生まれた。生まれた赤ん坊はしばらく目を瞑って身を縮込めていたが、やがて目を開いて、口を開け、産声を上げようとする。
その瞬間、麻姫の足が振り下ろされて、産声が上がる事は無かった。
振り下ろされた麻姫の足が持ち上がり、また元の振り上げた態勢で止まる。しばらくすると、麻姫の顔が膨らんで、また何かが生まれ出ようと、麻姫の体の中を這い始めた。
「結局、麻姫から連絡無かったね。どうしたんだろう」
二人で人通りの少ない深夜の駅構内を歩いていると、麗奈がそんな事を言って、心配そうに溜息を吐いた。
「大丈夫かな」
だだっ広い駅の構内は静かで不気味だ。何か異世界にでも舞い込んだ様な気味の悪さがある。
「ああ、何か、大分酔い気味。家帰るの面倒臭いな。今日泊めてくれない?」
私が頷くと、麗奈が嬉しそうに笑った。
「ありがとう! 家何処だっけ? 一人暮らし? 大学近いの?」
私はそれに答えようとしたが、答えられなかった。
「今日の飲み会、酷かったねぇ。史輝君、吐いちゃって。掃除するの面倒だったよね?」
返答しようとするも、声が出ない。どうしても声が出ない。
「てかさ、今日の、何か全然知らない先輩が言ってた事、覚えてる?」
酔っ払っている所為か、麗奈の話題が次から次へと飛んで行く。私が答える間も無く、麗奈は一人で話し続けている。
「赤ちゃんが泣く理由。生まれる前に自分の人生を夢で全部見ちゃうっていうの。つまりさ、それって今私がこうして生きてるのが、夢で見ているだけかもしれないって事じゃん? 何か怖くない?」
生きているのが全部夢だったとしたら。今まで小中高と生きてきて、こうして大学生として生きている。それが全部夢だとしたら。何て事の無い想像の筈だが、急に寒気がした。もう一度思い出そうとしてみる。小学校の事。中学校の事。高校の事。今日の事も昨日の事も一昨日の事も。私が生きてきた日日はみんな思い出せる。筈だ。その確信がある。なのに何故だろう過去の事を考えようとすると怖くて思考が止まる。
もしも私がまだ赤ん坊で、ただ夢を見ているだけだとしたら。
「あれ? 赤ちゃん?」
麗奈に自分の思考を覗かれた気がして、驚いて体が竦み上がった。麗奈を見ると、眉を寄せた険しい顔で当たりを見回している。
「今、何か赤ちゃんの声が聞こえた気がした」
当たりを見回すが、広い構内の何処にも私達以外の人影は見当たらない。もしも居るとすれば。
私の目が、居並ぶコインロッカーに留まる。
「やだ、幻聴かな? お化けとかじゃないよね?」
私はコインロッカーから目が離せない。沢山の閉ざされた穴が圧迫感を放っている。見ていると息苦しくなる。
私は震える足を動かして、コインロッカーの一つに歩み寄った。そのコインロッカーは、何だか酷く重苦しい。まるで影がわだかまっているかの様に、見つめていると視界が明滅する。扉の縁から、今にも赤黒い血が流れ出てきそうな、異常な予感を覚えた。
「どうしたの? 荷物預けてあるの?」
私はゆっくりと鍵の掛かっていないロッカーの扉に手を掛けた。もしかしたら血と赤ん坊が溢れ出てくるかもしれない。
「ねえ。何か言ってよ? どうしたの? 怖いよ」
私は力を込めて、扉を開けた。
だが中は空っぽで何も無い。
肩透かしを食らって息を吐こうとすると、突然突き飛ばされて地面に転んだ。見上げると、真夏なのにコートを来た女が、歯茎を剥き出しにして、息を荒げていた。
私が恐怖を覚えて固まっていると、女は急な動作で振り向き、閉じかけたロッカーの扉を乱暴に開け、中を覗き込んだ。女の目が見開かれ、次の瞬間、女は髪を掻き毟り、奇声を上げながら後退り、私の事を睨み下ろしてきた。
その、充血しきった目が怖い。その、人の感情を失ってしまった様な目が怖い。
女は、ぎょろぎょろと目だけで辺りを見回すと、涙ぐみ、大声を上げながら、何処かへ駆け去って行った。
「大丈夫?」
麗奈から差し伸べられた手を掴んで、私は立ち上がる。
「何だったんだろう、今の」
私は麗奈の声を聞きながら、ロッカーを見つめた。依然として、ロッカーから漂ってくる腐臭染みた重圧は減っていない。
私は、開け放されたロッカーの隣を見る。当然そこにも全く同じ形をした四角いロッカーの扉がある。私は誘われる様に取っ手に手を掛けて引いた。だが鍵がかかっていて開かなかった。
もう一度、扉を引っ張る。大きな音がして、扉がひしゃぐ。
「ちょっと、何してんの?」
もう一度引っ張ると、扉の鍵が壊れて開いた。
中には、真っ白いタオルが押し込められていた。
背後で麗奈が、ひきつけを起こした様に短い悲鳴を上げた。
「それ、何? 何か血が付いてない?」
ロッカーの中に押し込められたタオルは血で濡れている。何かを包んでいる。タオルの中から今にも甲高い産声が聞こえてくる気がした。
「警察呼ぼ。何かやばいよ、それ」
私が麗奈の言葉を無視してタオルを引っ張りだそうとした時、突然横から手を掴まれた。見ると、青髪の女性が立っていた。口角の釣り上がった優しい笑みで、私の手を下ろし、代わりにロッカーの中から赤ん坊を取り出す。
「これは、赤ん坊ですわ」
青髪の笑顔が一層強くなる。
麗奈が涙混じりの声で不安そうに尋ねる。
「赤ちゃん、って、それ、大丈夫なの? 血が出てて。死んじゃってない?」
「死んでいますわ。かわいそうに」
麗奈が喉の奥からくぐもった悲鳴を上げる。
「これは私が預かりましょう」
「どうするの?」
しゃくりあげる麗奈に、女性は笑みを見せながら、あやす様に手の中のタオルを揺する。
「あなたが警察を呼ぼうと言ったんじゃありませんか」
「そうですよね。あの、それ」
その先は、麗奈が泣き出した所為で言葉にならなかった。
青髪の笑顔が私に向く。
「もうそろそろ寿命みたいですね」
そう言って、青髪の笑顔が歪んだ。
その、口角の釣り上がった優しげな笑顔を見た瞬間、怖気が走る。
今目の前にあるのは先日から何故か頭にこびりついているあの笑顔だ。今まで見覚えなんて無かった筈なのに、何故か私は覚えがある。高校の時にもこの笑顔を見た気がした。中学校でもこの笑顔を見た気がした。小学校でもこの笑顔を見た気がした。生まれた時にも、この笑顔を見た気がした。酷く不吉な、優しげな笑顔が、私の記憶にへばりついている。へばりついて私の記憶を歪めている。歪められた記憶の齟齬が私の事を急かしている。何をさせようとしているかは分からないが、記憶の中でちらちらと見える笑顔が、歪な世界に私を押し込め、そして急かしている。小さな子供のイメージが浮かぶ。四つん這いになって前へ歩こうとする私を、優しい笑顔が手を打ち鳴らしながら待っている。急かしている。その笑顔に辿り着けば、光が見える。
青髪の笑顔が背を向けた。
そうして軽やかな足取りで去っていく。大事そうに赤ん坊を抱えて、去っていく。
ふと甘い花の香りが漂ってきた。
私は何だかその匂いに惹かれて、女性の後を追おうとした。
だが恐慌した麗奈が腕に縋りついてきたので止められる。
「帰ろ。早く帰ろ」
私はそれに答えようとしたが、やはり声が出ない。代わりに頷くと、麗奈は怯えきった弱弱しい笑顔で私の手を引っ張った。
「もう、何なの? 何か今日おかしい。早く帰ろ。このままここに居たらもっとやばい事になる気がする」
私は麗奈に引っ張られて、構内を歩く。
焦った様子で麗奈が私へ振り返る。
「何か今日おかしくない? ゼミの時の先輩とかさ、さっきの、赤ちゃんとか。何かやばくない? 何かホラー映画みたいで。何か怖くて、何か」
多分自分が何を言っているかも分からずに、思いついた言葉を口にしている。
「路線は? あんたの家は何処にあるの?」
私はそれに答えようとした。
だが答えられなかった。
「そういや、会うの今日が初めてだよね。何かゼミの時から居たけど、先輩の知り合い? 同い年だよね?」
私はそれに答えようとした。が、答えられない。
麗奈が眉を寄せ、不安げな表情になった。
「っていうか、名前は?」
私はそれに答えようとした。
だが私は答えられなかった。
自分の異常さに、今ようやく気がつく事が出来た。
名前が出てこない。
ついさっきまで覚えていた筈だ。それなのに、自分の名前が思い出せない。生まれてからずっとみんなに呼ばれ続けていた筈の、名前が思い出せない。
誰かに呼ばれていた事を思い出せない。
幾ら思い出そうとしても、あの笑顔が邪魔してくる。
口角の釣り上がったあの優しげな笑みが私の記憶を歪めている。
あの笑顔が私の名前を奪ったのだと分かった。
取り返さないと、名前だけでなく何もかも奪われてしまう気がした。
私は急いであの笑みを追った。もう姿は見当たらないが、あの笑みが何処に居ったのか分かる気がした。改札を抜けて、駅の外に出て、町を走りながらも、私はまだ思い出せるかもしれないという一縷の希望にかけて、必死で名前を思い出そうとした。
だがどうしても名前が思い浮かばない。生まれてから今日までの事を思い出そうとしても、あの口角の釣り上がった優しげな笑顔が邪魔をする。
私が生まれた時も、私の事を覗きこむ母や父の顔はあの笑顔だ。祖父や祖母もあの笑顔になって私の事を見守っている。小学校で遠足に言った時も、周りは皆あの笑顔だった。体育祭でもあの笑顔ばかりが応援している。中学校の部活でも周りみんなあの笑顔。友達を思い出そうとするとあの笑顔が思い浮かぶ。高校の先輩もクラスメイトも彼氏もみんな。修学旅行の時も海外にボランティアに行った時も初エッチの時もあの笑顔が見つめてくる。
訳が分からない。どうしてあの笑顔に私の人生が上書きされているのか。
今までの人生がみんなあの笑顔に塗りつぶされている。
今日のゼミも飲み会も思い出そうとするとあの笑顔に侵食されていた。
酔っぱらって、電車に乗っている間も、あの笑顔がそこかしこから見つめてくる。
電車を降りて、家に向かう間も、道行く人は皆あの笑顔。
家の近くの交差点でもあの笑顔が信号を待っている。
私が横断歩道を歩いていても、あの笑顔が迫ってきた。
私が振り向いた時も、自動車のライトの向こうにあの笑顔が見えた。
ぶつかる直前まで、あの笑顔がはっきりと私の事を見つめていた。
私の中の全部があの笑顔に食い尽くされている。
必死で走り、私は戻ってきた。
玄関を開けて、中に入ると、鉄錆染みた臭いが鼻についた。
何処かに居る筈だ。
私はそれを探して家の中を探し回った。
部屋の一つから呻き声が聞こえたので開けたが、のっぺりとした麻姫しか居なかった。
何処かに居る筈だ。私が何処かに居る。居る筈なんだ。
「赤ん坊は、生まれてくるまでの間に、自分がこれから歩であろう人生の可能性を夢見ているの」
何となく記憶が戻ってきた。私の居る部屋は二階にある。
「赤ん坊はね、その可能性を全部持って生まれてくるの」
階段を駆け上がりながら、私は恐怖で泣きそうだった。自分が今、何か抗い難い力に急かされている事がはっきりと分かる。進む先で手が打ち鳴らされている。私はよちよちとそちらに向かって歩いている。
「もしもそうやって可能性を抱いて生まれてきた瞬間に死んでしまったら、一体その可能性はどうなると思う?」
階段を駆け上がって廊下を走り、私は目的の扉に辿り着いた。真四角な扉が閉ざされている。駅の居並ぶコインロッカーが思い浮かぶ。視界が明滅する。
泣きたかった。嗚咽が漏れそうになって口を開けるが、やはり声は出て来ない。
中には私が居る。部屋の中に私が居る。
赤ん坊の私がそこに居る。
「それがヤンシャオグイ」
私は必死で叫ぼうと口を開くが、声が出ない。
恐怖が私の事を締めあげてくる。私の体を締め付けて苛んでくる。酷く悍ましい感触だった。この締め付けてくる恐怖から開放されるのなら、どうなっても良いとさえ思えた。限界で、今にも狂ってしまいそうで。
私は、この恐怖から逃れる為に、取っ手を掴んだ。
そうして全てを終わらせる為に、赤ん坊の私が居た部屋に踏み込んだ。
だが、私の期待に反して、中には誰も居なかった。辺りを見回しても、部屋の中は真っ更に清掃されて埃一つ落ちていない。
どういう事だか分からなかった。
ただとにかく、今まで締め付けてきた恐怖から開放された気がして、胸の内に安堵感が広がった。
緊張が解けると、体から力が抜け、崩れ落ちる。
四つん這いになり、それでも体を支えきれずに、私は倒れて仰向けになる。
閉じたまぶたの向こうに、あの笑顔が見えた気がした。
内から溢れる衝動に任せて私は口を開く。
喉の奥の支えが取れていた。
今なら叫ぶ事が出来そうだ。
後は目を開き、思いっきり叫ぶだけ。
その既に知っている未来を実現する為に、私は閉じきっていた目をゆっくりと開いた。
そうして産声を上げようとすると、視界一杯に、振り下ろされた踵が見えた。
ただ、東方とはあまり関係がなさげかな