思い立ったが吉日と始めたことだが、書き終わる頃には半ば後悔になっていた。
筆を置き、ふうと息をつく。霊夢は手紙を書くのは少し苦手だ、札を書く方が何倍も楽。
どうしてこう緊張するのだろう。間違えて紙を書き損じたくないからといえばそれまでだが、手紙の緊張感はともすると直接会って話すより緊張して無駄に手が震えたりする。
届くまで時間もかかるし、自分で用件を伝えた方が早いし明確という場合も多い。
その方が良いのだろうか、いやここまで来て辞めるも間違いだ。
霊夢は身を乗り出し目線を落として、最初から目で追った。
本居子鈴様
突然の手紙でおどろいた?
実は教えて欲しい事があって今回は手紙の形を取らせて貰いました
どうにも上手く読めない歌があって、子鈴ちゃんなら読めるんじゃないかなと思います
今度本を返すついでに聞きに行くので、読んでおいてくれると嬉しいです。
「三諸之神之 神須疑 已具耳矣自得 見監乍共 不寝夜叙多試」
借りてた本の続きも貸してね。
じゃ、よろしく。
博麗霊夢
しっくりこないけどこんなものだろうか。違和感がある、確かな違和感。
手紙を書くなんて滅多にしないと、何処を直すべきか分からない。分からないと言うことは、これが限界ということだ。
兎に角文字を読んでもらうのだから、手紙で先に見せて結果だけ聞きにいくのが方が利口である。
というのは建前で、まだ本を読み終わってないから行く気になれないだけだったりする。
「さてと」
息を吸い、霊夢は再び筆を取った。「清書しなくっちゃね」
三日後に借りていた本を読み終わり、鈴奈庵へと赴いた。
軽く入ろうとしたが、店の前まで来て鼻につく異臭に霊夢は思わず立ち止まった。生臭いというか、死臭の様な嫌な臭い。周りを見ても何もない、まさか中からじゃあるまいな。不安を煽られつつ、霊夢は中に入った。
「こんにちはー」
入ると特に変な臭いはせず、相変わらず古紙の香りが芳しい。昼間は適度な日光も入ってどことなく暖かい。臭いは勘違いだったらしい。
和やかな気分になる霊夢と裏腹に、手紙の相手は机の奥から冷え切った瞳を向けてくる。
ベタにふり返ってみたが誰もいない、間違いなく自分を睨んでいるのは分かるが、理由がさっぱりだ。
霊夢が動けないでいると、引き出しから紙を取り出してひらひらとさせた。
三日前に出した手紙に他ならない。
「えっと、手紙は読んでくれたみたいね」
「読みました。でもその前に、おかしなところ有りますよね」
「おかしなところ?」
霊夢は近寄って見てもおかしい箇所が見当たらない。敢えて言うなら今日の小鈴ちゃんがおかしい。
唸っているとまだわからぬかと言わんばかりの勢いで、冒頭辺りを指差された。
「あ、わかった、挨拶語が無い?」
「ちがーう! 名前ですよ名前!」
「名前って……もとおりこすずちゃんじゃなかったの?」
「字が違いますよ! 小さい鈴で小鈴!」
霊夢は「ああ」と思わず掌に拳を打ち付ける。書いていたときしっくり来なかった最大の原因は、名前が違ったところらしい。
それで静かな怒りを燃やしていたのだ。霊夢はごめんごめんと手をすり合わせて謝るが後の祭りだった。
小鈴は頬を膨らませるとそっぽ向いてしまう。
「ちょっとド忘れちゃったのよ……小鈴ちゃんの名前なんてあんまり書くことなかったからさ、ほら年賀とかも直接挨拶に来たし」
「名前間違えるなんて最低ですよ、この怨みはらさでおくべきか……」
「そ、そんなにむくれなくてもいいじゃない」
「ここ数日で子鈴と書かれたの二回目なんですもん。むくれもします」
「二回? もしかして小鈴ちゃん本当は子に鈴であってるんじゃない?」
「違います! もう……まあいいです、それよりこの歌の読みを聞きに来たんですよね」
ぷりぷりしたまま、小鈴は続けて歌を指す。何だかんだ好奇心を燻るものには弱いので助かった。
「なんて書いてあるのか分かった?」
「これって万葉集の歌ですよね、できれば書いておいてほしかったんですが……結論から言うと、これは私には読めないです。皆目見当付きません」
「え、小鈴ちゃんでも?」
小鈴は変な本を読める能力を持っているはず。書の知識もあるしそれを見越して頼んだのだが、断定的に言われるとは意外だった。
「これって霊夢さんも全部読めないってわけではないですよね?」
「まあ少しなら……」
霊夢はじっとその歌を見る。
三諸之神之 神須疑 已具耳矣自得 見監乍共 不寝夜叙多
「”三諸の神の神杉なんやかんや寝ぬ夜ぞ多き”とか、真ん中がさっぱりよ」
いわゆる万葉仮名で当て字と訓読みでそこそこ読める。しかし已具耳矣自得見監乍共の部分はどんなに考えても通る読みにならなかったのだ。
それで餅は餅屋だと送りつけたが、どうにもこれは餅ではないらしい。
「残念ですがこの部分は私にも分からないんです。これを読めるのはおそらく、最初からこの歌を知っている人だけです」
「もしかしてわざと読めないような歌なの?」
「歌集に載った事実や前後の言葉を鑑みるに、それは無いと思います。多分これは霊夢さんと同じで、誤字してます」
「誤字?」
「私は人の読めない物を読めますが、元が間違っている物が読めたりはしないみたいで……お役に立てなくてごめんなさい」
小鈴はやや悔しそうに言う。
霊夢は合点がいって申し訳なく思った。これは妖怪の書いた本等とは根本的に違って、未知や未解明の文字でもなければまず意図した文字ですらない。能力はかすりもしないのだ。
「私の方こそ、無理なお願いして悪かったわ」
「いえ、頼って貰えたのは嬉しいですから。元々万葉集は誤字が多いですし、試訓も調べてはみたんです」
「へぇ、そこまでしてくれたんだ。じゃあ読めないこともないのね」
「それが……誤字多き万葉集の中でもこの歌は特に解釈がばらけていて、着地点が存在しないんです。例えば"すぐるをしみ かげにみえつつ"、"いくにをしと みけむつつとも"等々、試訓はいくつか有りますが、定説は現在も無く今なお謎です」
「二百七十度くらい違う読み方ね、誤字一つで後生の人間を悩ますなんて面倒なことしてくれたもんだわ」
「本当ですねー……誤字なんてするもんじゃないと思いますよ? 私は誤字なんて一回もしたことないです」
「私ももうしないから、安心して」
藪を突いてしまって視線がとげとげしい。ここは話を逸らさなければ。
「ところでさ、お店の前で変な臭いがした気がするんだけど」
「あ、やっぱり気になりますか」
小鈴は一変して顔を曇らせ机にうな垂れた。
今日の小鈴はなんだか感情の起伏が激しくて面白い。
「良い匂いじゃ無いけど、何かあったの?」
「霊夢さんが来たら相談しようと思っていたんですが、最近やたら鳩の死骸が店前にあるんですよ」
「鳩の死骸? 偶々じゃなくて?」
「最近鳩が良く巣を作ってるから、始めは偶然と思ってたんですけど……皆かぎづめで掴まれたような傷を負っていたんです。偶々とは思えません」
「そりゃあ穏やかじゃないわね」
「不気味ですし、臭いもあってお客さんは減るしもうやってられないですよ」
気だるそうに体を揺らす小鈴。どうやら全体的に機嫌が悪そうなのは、この一件もあるらしい。
「わかった。誤字のお詫びも兼ねてちょっと私が調べてみるわ」
鳩ならまだ目立たないが、無差別に殺めるような奴だったら大事件だ、念入りに調べなくてはならない。霊夢がどうするか考えていると、小鈴が引き出しから不安そうな上目で紙を一枚出した。
掛け軸の中回しの如く台紙に古文書の様な物が貼り付けられている。
「実は死骸が置かれ始めたころに、この怪文書が届いたんです」
机に広げられた文書は豪華な確かに怪文書だった。
子鈴ちんへ
わたしのことおばえていいますか
わたしからのプレぜント、よころんでくれたらいいな
おとろしいなんて、言わないでね
「子鈴ちんて」
霊夢は吹き出しそうになるが、ここで逆撫でしては面倒なのでどうにかこらえた。
「見ての通り、誤字だらけなんですよね」
一回目の子鈴表記はこれらしい。内容に反し字面は整っている。少しバランスが偏って字が右側に傾きがちなくらいだ。
「鳩と無関係とは思えないと。それで心当たりはある? 変な本見たとか」
「それが全く……妖魔本もあまり触ってないですし。最近は普段以上に平和的でした」
あまりというのが気になるが、手紙を出してきたと言うことは明確に鈴奈庵がターゲットということだ。人間関係において人畜無害な小鈴が人に恨まれて鳩の死骸を置かれるとは思えない。
やるなら妖怪の仕業だろうか、だとしても怪文書の存在が謎ではある。
「どうせ鳩を置きに来るのなら、隠れて見張ってみるとかどうかしら」
「そう思って何度かやったんですけど、警戒されるのか私がやっても尻尾を掴めずで」
「なら私がやってみるね」
霊夢は待ち伏せは好きじゃないが、名前の間違いを忘れてもらう為にも即答するのだった。
隠密重視で鈴奈庵とはす向かいに並ぶ家の間に身を潜め、監視を開始する。
息苦しさを感じつつも霊夢はひたすら耐え忍んだ。
そうして早数時間。不本意ながら通行人に向けられる憐憫に近い視線にも慣れ始め、睡魔が襲ってきたころ。
往来の人が途切れ人の目が無くなった瞬間に犯人は現れた。
「あれは……」
鈴奈庵の屋根に毛むくじゃらの頭の様な物体が音も無く降りて、そして鳩の骸が店の前に投げ出したのだ。
落とされた鳩は血をだらだらと流し、平和の象徴とはとても思えない見てくれになっている。
「正体見たりよ、頭でっかち!」
霊夢は高々に叫び、凝り固まった体で躓きそうになりながら飛び出した。
精々トビ位の大きさではあるが、髪を振り乱す大きな頭、鳥の様な小さな足に、爪を持っていた。瞼は胡乱としているが、目には確かな妖しさを持っている。よく見ると小さい胴体もあるが、大部分が髪の毛で覆われている。
一言で言えばおぞましい容姿の妖怪だった。
霊夢がじりじりと寄ると妖怪も交戦を覚悟したらしく霊夢を見据えてくる。
こういう時は合図なんて要らないだろう。懐から札を出して妖怪に飛びかかった。
「と、いう訳で犯人を捕まえたわ」
「本当ですか!」
見た目こそ恐ろしいが見かけ倒しで、札を飛ばしていると早々に屋根から転げ落ちて来た。そこを取りあえず縄でぐるぐる巻きにして御用となった。
流石に観念しているのか、もう大人しい。そもそも睨んできただけで何かしてくる風でもなかった。
「こいつがそうよ、多分こいつって絵巻とかでよく見る……」
「もしかしておとろしですか! 実物って結構可愛いもんですねー」
「か、可愛い?」
「いやまあ、頭だけですけど、切れた首みたいに生々しさが無いじゃないですか。お饅頭というか、ゆっくりしていって欲しいというか……」
小鈴が何故か楽しげに言う。霊夢は到底理解できそうに無い境地だ。
「まあ、その可愛いおとろしが犯人って事よ、どうする?」
「うーん、なんだか憎めません。それに文書にはプレゼントがが“おとろしい”と書いてありましたよね」
「ああ、鳩のことで恐ろしいの誤字かと思ったけど、こいつのことだったのかしら」
「おとろしは鳩を捕まえている図も残っていますし、もしかしたら習性のような物かも」
「そうは言っても妖怪よ、不気味だし」
「きっとこの子も被害者なんですって。鳩を置くのは駄目ですが、できるだけそっとしておいて上げましょう」
おとろしには散々鳩を置くなと言い聞かせ、その場は解放することになった。
数日して鈴奈庵に来た霊夢は驚愕した。屋根の上におとろしが乗っているではないか。
鳩の死骸も臭いもしない辺り、言った事は守ってはいるようだ。
「小鈴ちゃん、またおとろし来てるけど」
中に入り伝えると小鈴は困ったように笑った。
「それが毎日来て屋根に乗ってるんですよ。日当たりがいいからかな?」
「野良猫じゃあるまいし……。魔除けにはなりそうだけど邪魔でしょう」
「来るなとは言わなかったですし。怪文書の方を解いて、仕向けた人に迎えに来てもらいましょう」
完全にペット感覚である。霊夢は甘いなぁと思うが、本人がそういうのなら今しばらくは放っておくのも悪くはないと考えていた。
真犯人が居るのなら、あいつは餌にもなる筈だ。
「変な動きあったら言ってね、すぐ駆けつけるから……それより今日は散らかってるわね。調べもの?」
「あの手紙を解読しようと、少し誤字について調べていたんです」
鈴奈庵の一角は雑多な本が集められ、ちょっとした山になっていた。
「誤字についてねえ」
霊夢にはよくわからない本だらけだった。霊夢は適当にめくってみるが、外の本らしいことしか見えてこない。
「それはゲーメストという雑誌ですね」
「こんなのがヒントになるの?」
「その雑誌誤字が酷いんですよ、『確かめて見ろ!』って最終回の最後のセリフを『確かみて見ろ!』と言ったり。『ハンドルを右に!』を『インド人を右に!』、『餓狼伝説』を『餓死伝説』等々」
「……酷過ぎない?」
「真似しようとしても難しいですね。でも草稿がかなり乱雑としていたそうで、それを別の人が活字におこしたので、こうした誤字が起きたのかと」
「確かにハンドルをかなり雑に書けばインド人に見えなくは無いかもね」
「最初の『め』と『み』についても字面が似ているのと、『見』の訓読みに引っ張られた可能性があります。餓死伝説は『餓』という字から『餓死』という言葉が先行して引き出されてしまったんですね、『浪』の字が雑なら尚更です。要は機械的に写し取ろうとするので、逆に人間的なミスが出ると信じられない形になります」
小鈴は「でもですよ」と続け、例の怪文書を掲げた。
「一筆ものでこの間違いは普通に考えたら無いって事ね」
「そうです。意図があるとは思うんですが」
「不気味さを演出したかったんじゃないの」
「それもあり得ますが……」
腑に落ちないようだ。霊夢自身もそんなに単純でないだろうなと思った。半ば勘だがこれには確かにメッセージが宿っている気がする。しかし伝えるべき事があるなら、何故誤字を直しもせず送ってきたのか。ひたすら謎めく文章である。
外に出るとおとろしが胡乱な顔で見下ろしてくるので不愉快だ。こいつも何か伝えたいことでもあるのだろうか。
霊夢もまけじと睨み返すが、馬鹿らしいのでやめた。
程なく鈴奈庵はおとろしが出ると話題となった。客寄せパンダになるなら良かったが、そんな可愛がる奇人は小鈴くらいなもので、前を通ると危険だと風評が沸き始めてしまっていた。
果ては悪い事したら鈴奈庵に連れて行くよ! とナマハゲ扱いにすらされている。
「小鈴ちゃん、おとろし追っ払っといたから」
流石にこのままではまずいと思い、霊夢が定期的に追い払うようにしたが懲りずにやってくる。
本当は再起不能にしてやっても良いのだが、小鈴も頑なにそれは可哀想だと堂々巡りだ。
「ありがとうございます……」
生返事で言う小鈴は、筆を持ち半紙を穴が開きそうな程見つめている。
「今日はまたおかしなことしてるのね」
「あの手紙が敢えての誤字だったとしたらと思って、誤字を書いてみています」
小鈴の周囲には紙が散らばっており、悉く子鈴と書かれていた。とても活路は見いだせそうにない。
「これで何かわかることあった?」
「自分の名前間違えて書くって変な気分……でも書いているうちに子鈴もしっくり来るような気がしてきました。私って子鈴だったんでしょうか?」
「気をしっかり持つのよ。そもそも敢えて誤字する意味なんてないでしょ、変な癖付く前にやめなさい」
「でも夏目漱石という作家は意図的に誤字をしたと言われています、ディスレクシアという障害だったなんて噂もありますけどね。他にもとある新聞では新年の書に迎春のしんにょうの上を卵と書いて載せたりとか」
「なにそれ、新年からオオコケじゃない」
「敢えて間違えることで、お堅い文章を柔らかくしたんですよ」
そう言って小鈴は半紙に卵の迎春をさらりと書いた。
手本のような味のある筆跡で誤字をされると、確かに笑ってしまいそうなミスマッチさがある。
「飽き飽きする新年に刺激を求めるなら有りね」
「敢えてとは少し毛色が違いますが、ゴキカブリはゴキブリと事典に誤植され、以後はゴキブリで定着してます。他にも的を得るは的を射るの誤字誤用と議論されました、最終的に的を得るも正用の判定を公に得たんですけどね」
次々に誤字だか正しいのか分からない字を半紙に書いていく。
「誤字にも色々あるのね、それにしても小鈴ちゃん字が上手」
書いてる内容がおかしいのが玉に瑕だが、字の綺麗さはむしろ引き立っている。
「小さい頃は筆と本が玩具でしたからね、昔は阿求と競ったもんですよ。そういえば昔、阿求の書いた書を預かっていたっけ」
思い出を掘り返すような楽しげな笑みを浮かべ、古い戸棚から一枚の色紙を手にした。意外にもおぼつかない筆跡で「川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず」と書かれていた。
「阿求ってこんな字だったっけ?」
「だいぶ前ですから、今見ると少し下手っぴですね。阿求が嫁に行くときにでも見せて、懐かしがらせてやる予定です」
「それは名案ね。それにしてもこれ似てない?」
「え……」
小鈴は一瞬硬直してから、怪文書とそれを見比べた。
書いてある字も異なり素人目の霊夢では筆跡がどうのと見抜く事はできないが、文字の傾き具合やバランスの悪さが良く似ている。
線の太さから字の大きさまで、同じ人が書いてるんだろうな、と思うには十分だ。
「ま、まさか阿求がこんな物送りつけるでしょうか?」
小鈴は目をぐるぐるさせている。
「さあ、そこまでは……そうだとしても子供の頃に書いたって事になるし。直接聞きに行くのがいいんじゃないかしら」
小鈴は手紙と怪文書を今一度見比べおもむろに頷いた。
阿求の屋敷に早速赴いた二人は奉公人と思われる人に見舞いかと聞かれ顔を見合わせた。
なんでもここ数日風邪か何かで少し休養に努めているらしい。そんなこと初耳だったので、一度適当な水菓子を買ってから再訪問する。
話せる状況か心配だったが、通された先で阿求は布団を跨ぐように文机を置き、足半分しか布団に入っていなかった。
「体調悪いって聞いたけど平気なの?」
「あら小鈴。皆ちょっと過敏すぎるのよね、このくらいへっちゃらなのに」
「そっかあ」
書を読みふけっている阿求の姿に小鈴は安堵の息を漏らす。
「で、霊夢さんまで連れて何かあったの?」
「病人に取り調べなんて気が引けるんだけどね。これに見覚えあるんじゃない?」
「うちに届いた怪文書なの」
霊夢は怪文書を広げて見せたが、阿求は目を丸くして首を傾けた。
「知ってるも何もねぇ、持ってこられても困る」
「やっぱり阿求が書いたんでしょ! うちにあったのと似てるもん」
小鈴が探偵気取りで阿求を指差し、問い詰める様に言う
しかし阿求は黙って肩をプルプルと震わせた。
「ぶふ、あははは!」
爆発するかのように突然吹き出した。
唖然とする二人を置き去りに文机をばんばんと叩く始末だ。
「阿求が壊れちゃった……」
「ごめんごめん、まさか覚えてないとは思わなくて」
「あんたが書いたんじゃないの?」
完全に調子を崩された霊夢は引きつった笑みで、怪文書を自由落下させた。
「まさかこっちが驚かされるとはね、これを書いたの小鈴でしょ」
「え? わ、私!?」
今度は自分を指さして小鈴は絶句した。
「阿求の書を小鈴が持っていた様に、阿求も小鈴ちゃんの書を持っていたのね」
「すっかり忘れちゃってたよぉ……そういえばお互い真似し合ってたら似た筆跡になってた気も……」
顔全体を赤くして小鈴がはにかむ。阿求の布団に項垂れてすっかり意気消沈だ。
「小鈴は私より字が上手かったけど、流石に字の覚えは私が早かったわ。私が何度も字が間違ってるって教えたのに、これで正しいって言い張って暴れ周って……」
「ひい、そんなこと言わなくていいから!」
「一度も誤字をした事ないって息巻いてたのは誰だったかしら」
「そんな事言ってたの? 名前間違えられると怒るのに自分の名前も良く間違えてたし。ついでにブロッコリーとカリフラワーも見分けられなくて、挙句ブッコロリとか言っ」
「ぎゃあ! 阿求を殺して私も死んでやる!」
吠える小鈴を霊夢がどうどうと抑える。
こりゃあうっかり阿求の前で恥をかけたもんじゃない。霊夢は密かに冷や汗するのだった。
しかし怪文書の正体が小鈴の一筆だとすると、おとろしとこの文書の関係は無いのだろうか。
「それで結局どんな経緯で書かれたのよこれ?」
「最初からその状態で私が貰ったんです。間違いを指摘したけど、暴れた挙句この紙じゃないとだめだし、まあいいや。と」
かなり昔だろうに阿求はさっき有ったことの様に説明してくれる。
「小鈴ちゃんはそれについて何か覚えてるの?」
「そんな事あったのかなぁ……何で阿求に渡したんだろ」
一方小鈴は既に忘却の彼方である。怪文書には私の事覚えているかという一文は未来の自分を懸念していたのだ。
そして見事的中している。
「私なら絶対忘れないからだと思う。いつかお店を任される様になったら、自分に返して欲しいからそれまでは厳重に保管してとも言っていた。だから普段開けない特別な倉に置いてたけど、最近開ける機会があったからついでに出して届けたのよ。風邪引かされたけど」
風邪のせいでおとろしが出ていることはまったく知らなかったらしい。
「手渡しにしてくれれば、こんなことには……」
「それじゃつまんないでしょ」
にたあと笑って全然悪びれてない。
「それに渡されただけで、内容についてはノータッチだったし」
「旧小鈴ちゃんが言うには、文字よりも紙そのものが重要みたいね」
「今でも小鈴です……。まさか炙り出しとか、水に浮かべると字が! なんて凝った真似私はしないかなぁ」
「あるとしたらこの台紙の下が怪しい。厚みは違和感ないけど剥がしてみる?」
言いながら阿求が怪文書を光にすかして目をこらす。
「うん、何かありそう」
糊は正麩糊という剥がしやすい物らしい。阿求が水と竹のヘラを貰ってきてじっくりと丁寧に剥がしていく。
霊夢は表具の扱いはさっぱりなので、牛歩戦術よろしくな慎重作業を欠伸しつつ待った。
ようやく台紙から剥がれると、阿求は文机の上に裏面を置いた。
「はいお待ちどう」
「んん? もしかしてこれって……」
霊夢は書かれている文字を見つめた。
「まさかのまさか……」
見たところ手紙の裏面は「おとろし」とだけ細い流れるような字でぽつりと書かれていた。
達筆過ぎて読みにくくすらあるが、書いた人物が表と違うである事は一目瞭然だ。
「むしろこっちが表ね、妖魔本の残欠みたい。小鈴ったら妖魔本に落書きするなんて」
阿求が呆れ顔で言う。現状から推測するに、これは妖怪封じた妖魔本の一部とみて間違いなさそうだ。本来おとろしの絵が描かれていて、それが外に出て鈴奈庵の屋根に今乗っているのである。
「え、ええと……記憶にございません。そんなことするかなぁ」
「でも自分に返せって言ったのならそうかも。小鈴ちゃん出てきたおとろし好きそうだもん」
小鈴のおとろし好きは今に始まった事ではなく、昔からだったのだ。残したことは忘れて居るみたいだが、再び見惚れているとすれば変わらぬ思いではなかろうか。
「さては鈴奈庵からくすねたのね。私に渡せばそう見つからない。見つかっても余計な物が書かれていれば、商品価値は下がって貸し出されたり売られることも無い」
「うわ、なんて狡賢い……」
阿求の分析に当の本人は末恐ろしいなあ、と完全に他人事である。
怪文書の内容も未来の小鈴を完全に把握していたし、中々に切れ者だったのかもしれない。
「でもじゃあ何でおとろしは私に嫌がらせしてくるんだろう」
「実は相思相愛で、好きな子に意地悪してるだけだったりしてね」
「そうなの……かな?」
「何でときめいてるのよ。察するに裏に落書きしたから怒ってるんじゃないかしら」
「でも元々残欠本だし、大事にされてきたわけでもなさそうですよ。そもそも今は晴れて自由の身なのに、落書きなんて気にするでしょうか」
「確かにそれはそうよね」
妖魔本の裏に落書きしたところで、本人に影響は無いだろう。まだ鈴奈庵に居るのはそれだけの理由がある筈だ。
「小鈴が忘れてるだけで、おとろしに何かしたんじゃないの? 髪の毛毟って円形脱毛症にしたとか」
「否定できないのが怖い。でもおとろし本人に会っていたら流石に覚えてると思うんだけどなぁ」
小鈴は目を細めて「おとろし」の字面を睨む。怪文書があまり怪でも無くなった今、手がかりは小鈴の覚束ない記憶ぐらいな物だ。
霊夢と阿求は期待と不安を込めて見守った。
「ん、んん?」
少しして、小鈴が細めていた目を見開く。
「何か思い出した?」
「いえ何も。でも私はずっと勘違いしてたのかも……」
そうして勝手に青くなって申し訳なさそうにする。霊夢も阿求も首をかしげた。
二人で鈴奈庵に戻ると、相変わらずおとろしが屋根の上で不気味さを振りまいていた。
阿求は病み上がりなので置いてきたが、何も教えて貰えないので僻事を呟いていた。霊夢も教えてくれないと困るとは思ったが、小鈴はまずおとろしに確認してからと言うので追及は止めた。
「こんにちは」
小鈴がぎこちない挨拶をすると、おとろしはぎろりと音の出そうな眼差しで返した。
それ対して「かわいい……」等と呟いてるから、どっちが恐ろしいのかは定かではない。
「実は謝らないといけないな、と……」
おもむろに取り出したおとろしの妖魔本残欠。おとろしの方は訝しげである。
それを見せつける様に掲げると、思い切り頭を下げた。
「ごめんなさい! あなたのお名前はおとろしじゃ無かったんですね」
「え、どういうこと?」
思わず霊夢が聞き返してしまう。
「言い訳になりますけど、これって”し”では無くて踊り字だったんですよ」
踊り字は同じ字を繰り返す時の記号だ。色々あるが一文字だと『ゝ』、二文字以上だと『く』の字を伸ばしたのが良くある。
確かにおとろしと思われていた字は、『し』と言っても線を縦長に流したような字だ。文脈が無く、踊り字と間違えても不思議では無い。
「じゃあ本当の名前は、おどろおどろって所かしら」
「ずっと私が読み間違えていたんです、おどろおどろさん本当に失礼しました!」
小鈴が改めて謝罪を述べた。肝心のおどろおどろはというと、地べたを見つめる小鈴に溜飲が下がったらしい。
なんと笑った。
その満面の笑みはおどろおどろという名前すら間違っていたんじゃないかという程、穏やかで優しい笑顔。
「ま、まあ……許してやって頂戴。小鈴ちゃんもわざとじゃなかったのよ。あんたを退治しないようにって働きかけてもくれたんだから」
まぶしい笑顔に眩みつつ霊夢が言うと、頷くような動きを一つしておどろおどろは霧のごとく消えてしまった。
ようやく顔を上げた小鈴は、消えたおどろおどろを探してきょろきょろしたが、やがてその姿を見つけた。
「霊夢さん、見てください」
「あらら、まさか自分から妖魔本に戻るとは……」
おどろおどろの姿は残欠本に現れていた。その表情はあの笑みでは無いが、あんまりおどろおどろしくも無かった。
「呼び間違えられていたのが、そんなに嫌だったのかしらね」
「名前を間違えるなんて、最低。って昔から言ってた覚えがありますから」
申し訳なさそうに、でもほんの少し嬉しそうに小鈴は呟くのだった。
それ以来おどろおどろが出てくる事はなくなり、鈴奈庵が子供達の恐怖スポットにされる現象も落ち着いた。
問題の妖魔本は小鈴の手に戻り今では店の片隅に飾られている。ちゃんとおどろおどろと題紙を付けてあげたとか。
彼は本当に名前を間違えられた事だけ不満だったということだ。
何だか拍子抜けしてしまうが、終わってしまえばこんな物だろうか。
文机で茶を飲みつつ霊夢は再度手紙に臨んでいた。
小鈴が風邪を引いてしまったので、お見舞いの手紙だ。
事の顛末を伝える為に阿求と三人屋台で少し酒を煽った折り、そのまま寝てたのでそれが原因だろう。
酔った小鈴には、散々子鈴と間違えられたと僻事を言われてしまった。
相当根に持ってる様である、まるでおどろおどろだ。酔った勢いだとは思うのだが。
どうにか水に流してもらいたい所だが……と思いつつ霊夢は一連を振り返る。
おどろおどろよりも、小鈴の文書、ひいては誤字に振り回された数日だった。
結局知りたかった短歌の意味もわかりゃしなかったし……。そもそも子鈴と書かなければここまで首を突っ込んだのかは分からない。もし間違えなければ、さっさとおどろおどろを退治して終わらせていた。
そうなっていたら、小鈴とおどろおどろは悔恨が残っただろうか。もしかしてこうなって良かったのかな。誤字がいい訳ではない、終わりよければ全てよしという意味で。
しかしまあ小鈴の話を聞くと誤字とひとえに言っても、色々ある様だ。
伝えたいことが伝わらないのが、誤字の一番の被害ではある。
でも自分の未熟さを伝えてしまったり
誤りが定着して正しい物に成り代わったり。
敢えて利用する人がいたり
正しい物も間違いだと認識されたり。
時には知らぬ間に誰かを傷つけてしまう事もある。
もっとも、誤字に限らず誤りや間違いとは須らくそういう物かもしれない。
一番大切なのは、小鈴の様に自分で気付いた時に、どうする事ができるか、なのだろう。
私だったら妖怪相手にあの頭の下げ方はできなかったに違いない。
「さてと、今回は上手に書けたけど」
ばっちりと小鈴と書けた、ついでに挨拶文も欠かさない。
最後にもう一度誤字した事を謝っておこうかなと思ったのだが、言葉が浮かんでこない。
流石に本心ではもう気にしてないとは思うのだが……。
悩みぬいた末、霊夢は言葉を付けるのを諦めた。何だか仰々しく謝るのも私らしくない。
その代わり最後に「博霊霊夢より」と付け足してみた。
意識して誤字すると非常にむず痒い。頭で分かっていても書いた手が、見ている眼が、誤字を知らせんと違和感を訴えて来る。そもそも、これで水に流せると思うのが間違いだ。
けど間違いから始まったのだから、間違いで終わる事が有っても良いだろう。
なんて、言い訳してみるのだった。
筆を置き、ふうと息をつく。霊夢は手紙を書くのは少し苦手だ、札を書く方が何倍も楽。
どうしてこう緊張するのだろう。間違えて紙を書き損じたくないからといえばそれまでだが、手紙の緊張感はともすると直接会って話すより緊張して無駄に手が震えたりする。
届くまで時間もかかるし、自分で用件を伝えた方が早いし明確という場合も多い。
その方が良いのだろうか、いやここまで来て辞めるも間違いだ。
霊夢は身を乗り出し目線を落として、最初から目で追った。
本居子鈴様
突然の手紙でおどろいた?
実は教えて欲しい事があって今回は手紙の形を取らせて貰いました
どうにも上手く読めない歌があって、子鈴ちゃんなら読めるんじゃないかなと思います
今度本を返すついでに聞きに行くので、読んでおいてくれると嬉しいです。
「三諸之神之 神須疑 已具耳矣自得 見監乍共 不寝夜叙多試」
借りてた本の続きも貸してね。
じゃ、よろしく。
博麗霊夢
しっくりこないけどこんなものだろうか。違和感がある、確かな違和感。
手紙を書くなんて滅多にしないと、何処を直すべきか分からない。分からないと言うことは、これが限界ということだ。
兎に角文字を読んでもらうのだから、手紙で先に見せて結果だけ聞きにいくのが方が利口である。
というのは建前で、まだ本を読み終わってないから行く気になれないだけだったりする。
「さてと」
息を吸い、霊夢は再び筆を取った。「清書しなくっちゃね」
三日後に借りていた本を読み終わり、鈴奈庵へと赴いた。
軽く入ろうとしたが、店の前まで来て鼻につく異臭に霊夢は思わず立ち止まった。生臭いというか、死臭の様な嫌な臭い。周りを見ても何もない、まさか中からじゃあるまいな。不安を煽られつつ、霊夢は中に入った。
「こんにちはー」
入ると特に変な臭いはせず、相変わらず古紙の香りが芳しい。昼間は適度な日光も入ってどことなく暖かい。臭いは勘違いだったらしい。
和やかな気分になる霊夢と裏腹に、手紙の相手は机の奥から冷え切った瞳を向けてくる。
ベタにふり返ってみたが誰もいない、間違いなく自分を睨んでいるのは分かるが、理由がさっぱりだ。
霊夢が動けないでいると、引き出しから紙を取り出してひらひらとさせた。
三日前に出した手紙に他ならない。
「えっと、手紙は読んでくれたみたいね」
「読みました。でもその前に、おかしなところ有りますよね」
「おかしなところ?」
霊夢は近寄って見てもおかしい箇所が見当たらない。敢えて言うなら今日の小鈴ちゃんがおかしい。
唸っているとまだわからぬかと言わんばかりの勢いで、冒頭辺りを指差された。
「あ、わかった、挨拶語が無い?」
「ちがーう! 名前ですよ名前!」
「名前って……もとおりこすずちゃんじゃなかったの?」
「字が違いますよ! 小さい鈴で小鈴!」
霊夢は「ああ」と思わず掌に拳を打ち付ける。書いていたときしっくり来なかった最大の原因は、名前が違ったところらしい。
それで静かな怒りを燃やしていたのだ。霊夢はごめんごめんと手をすり合わせて謝るが後の祭りだった。
小鈴は頬を膨らませるとそっぽ向いてしまう。
「ちょっとド忘れちゃったのよ……小鈴ちゃんの名前なんてあんまり書くことなかったからさ、ほら年賀とかも直接挨拶に来たし」
「名前間違えるなんて最低ですよ、この怨みはらさでおくべきか……」
「そ、そんなにむくれなくてもいいじゃない」
「ここ数日で子鈴と書かれたの二回目なんですもん。むくれもします」
「二回? もしかして小鈴ちゃん本当は子に鈴であってるんじゃない?」
「違います! もう……まあいいです、それよりこの歌の読みを聞きに来たんですよね」
ぷりぷりしたまま、小鈴は続けて歌を指す。何だかんだ好奇心を燻るものには弱いので助かった。
「なんて書いてあるのか分かった?」
「これって万葉集の歌ですよね、できれば書いておいてほしかったんですが……結論から言うと、これは私には読めないです。皆目見当付きません」
「え、小鈴ちゃんでも?」
小鈴は変な本を読める能力を持っているはず。書の知識もあるしそれを見越して頼んだのだが、断定的に言われるとは意外だった。
「これって霊夢さんも全部読めないってわけではないですよね?」
「まあ少しなら……」
霊夢はじっとその歌を見る。
三諸之神之 神須疑 已具耳矣自得 見監乍共 不寝夜叙多
「”三諸の神の神杉なんやかんや寝ぬ夜ぞ多き”とか、真ん中がさっぱりよ」
いわゆる万葉仮名で当て字と訓読みでそこそこ読める。しかし已具耳矣自得見監乍共の部分はどんなに考えても通る読みにならなかったのだ。
それで餅は餅屋だと送りつけたが、どうにもこれは餅ではないらしい。
「残念ですがこの部分は私にも分からないんです。これを読めるのはおそらく、最初からこの歌を知っている人だけです」
「もしかしてわざと読めないような歌なの?」
「歌集に載った事実や前後の言葉を鑑みるに、それは無いと思います。多分これは霊夢さんと同じで、誤字してます」
「誤字?」
「私は人の読めない物を読めますが、元が間違っている物が読めたりはしないみたいで……お役に立てなくてごめんなさい」
小鈴はやや悔しそうに言う。
霊夢は合点がいって申し訳なく思った。これは妖怪の書いた本等とは根本的に違って、未知や未解明の文字でもなければまず意図した文字ですらない。能力はかすりもしないのだ。
「私の方こそ、無理なお願いして悪かったわ」
「いえ、頼って貰えたのは嬉しいですから。元々万葉集は誤字が多いですし、試訓も調べてはみたんです」
「へぇ、そこまでしてくれたんだ。じゃあ読めないこともないのね」
「それが……誤字多き万葉集の中でもこの歌は特に解釈がばらけていて、着地点が存在しないんです。例えば"すぐるをしみ かげにみえつつ"、"いくにをしと みけむつつとも"等々、試訓はいくつか有りますが、定説は現在も無く今なお謎です」
「二百七十度くらい違う読み方ね、誤字一つで後生の人間を悩ますなんて面倒なことしてくれたもんだわ」
「本当ですねー……誤字なんてするもんじゃないと思いますよ? 私は誤字なんて一回もしたことないです」
「私ももうしないから、安心して」
藪を突いてしまって視線がとげとげしい。ここは話を逸らさなければ。
「ところでさ、お店の前で変な臭いがした気がするんだけど」
「あ、やっぱり気になりますか」
小鈴は一変して顔を曇らせ机にうな垂れた。
今日の小鈴はなんだか感情の起伏が激しくて面白い。
「良い匂いじゃ無いけど、何かあったの?」
「霊夢さんが来たら相談しようと思っていたんですが、最近やたら鳩の死骸が店前にあるんですよ」
「鳩の死骸? 偶々じゃなくて?」
「最近鳩が良く巣を作ってるから、始めは偶然と思ってたんですけど……皆かぎづめで掴まれたような傷を負っていたんです。偶々とは思えません」
「そりゃあ穏やかじゃないわね」
「不気味ですし、臭いもあってお客さんは減るしもうやってられないですよ」
気だるそうに体を揺らす小鈴。どうやら全体的に機嫌が悪そうなのは、この一件もあるらしい。
「わかった。誤字のお詫びも兼ねてちょっと私が調べてみるわ」
鳩ならまだ目立たないが、無差別に殺めるような奴だったら大事件だ、念入りに調べなくてはならない。霊夢がどうするか考えていると、小鈴が引き出しから不安そうな上目で紙を一枚出した。
掛け軸の中回しの如く台紙に古文書の様な物が貼り付けられている。
「実は死骸が置かれ始めたころに、この怪文書が届いたんです」
机に広げられた文書は豪華な確かに怪文書だった。
子鈴ちんへ
わたしのことおばえていいますか
わたしからのプレぜント、よころんでくれたらいいな
おとろしいなんて、言わないでね
「子鈴ちんて」
霊夢は吹き出しそうになるが、ここで逆撫でしては面倒なのでどうにかこらえた。
「見ての通り、誤字だらけなんですよね」
一回目の子鈴表記はこれらしい。内容に反し字面は整っている。少しバランスが偏って字が右側に傾きがちなくらいだ。
「鳩と無関係とは思えないと。それで心当たりはある? 変な本見たとか」
「それが全く……妖魔本もあまり触ってないですし。最近は普段以上に平和的でした」
あまりというのが気になるが、手紙を出してきたと言うことは明確に鈴奈庵がターゲットということだ。人間関係において人畜無害な小鈴が人に恨まれて鳩の死骸を置かれるとは思えない。
やるなら妖怪の仕業だろうか、だとしても怪文書の存在が謎ではある。
「どうせ鳩を置きに来るのなら、隠れて見張ってみるとかどうかしら」
「そう思って何度かやったんですけど、警戒されるのか私がやっても尻尾を掴めずで」
「なら私がやってみるね」
霊夢は待ち伏せは好きじゃないが、名前の間違いを忘れてもらう為にも即答するのだった。
隠密重視で鈴奈庵とはす向かいに並ぶ家の間に身を潜め、監視を開始する。
息苦しさを感じつつも霊夢はひたすら耐え忍んだ。
そうして早数時間。不本意ながら通行人に向けられる憐憫に近い視線にも慣れ始め、睡魔が襲ってきたころ。
往来の人が途切れ人の目が無くなった瞬間に犯人は現れた。
「あれは……」
鈴奈庵の屋根に毛むくじゃらの頭の様な物体が音も無く降りて、そして鳩の骸が店の前に投げ出したのだ。
落とされた鳩は血をだらだらと流し、平和の象徴とはとても思えない見てくれになっている。
「正体見たりよ、頭でっかち!」
霊夢は高々に叫び、凝り固まった体で躓きそうになりながら飛び出した。
精々トビ位の大きさではあるが、髪を振り乱す大きな頭、鳥の様な小さな足に、爪を持っていた。瞼は胡乱としているが、目には確かな妖しさを持っている。よく見ると小さい胴体もあるが、大部分が髪の毛で覆われている。
一言で言えばおぞましい容姿の妖怪だった。
霊夢がじりじりと寄ると妖怪も交戦を覚悟したらしく霊夢を見据えてくる。
こういう時は合図なんて要らないだろう。懐から札を出して妖怪に飛びかかった。
「と、いう訳で犯人を捕まえたわ」
「本当ですか!」
見た目こそ恐ろしいが見かけ倒しで、札を飛ばしていると早々に屋根から転げ落ちて来た。そこを取りあえず縄でぐるぐる巻きにして御用となった。
流石に観念しているのか、もう大人しい。そもそも睨んできただけで何かしてくる風でもなかった。
「こいつがそうよ、多分こいつって絵巻とかでよく見る……」
「もしかしておとろしですか! 実物って結構可愛いもんですねー」
「か、可愛い?」
「いやまあ、頭だけですけど、切れた首みたいに生々しさが無いじゃないですか。お饅頭というか、ゆっくりしていって欲しいというか……」
小鈴が何故か楽しげに言う。霊夢は到底理解できそうに無い境地だ。
「まあ、その可愛いおとろしが犯人って事よ、どうする?」
「うーん、なんだか憎めません。それに文書にはプレゼントがが“おとろしい”と書いてありましたよね」
「ああ、鳩のことで恐ろしいの誤字かと思ったけど、こいつのことだったのかしら」
「おとろしは鳩を捕まえている図も残っていますし、もしかしたら習性のような物かも」
「そうは言っても妖怪よ、不気味だし」
「きっとこの子も被害者なんですって。鳩を置くのは駄目ですが、できるだけそっとしておいて上げましょう」
おとろしには散々鳩を置くなと言い聞かせ、その場は解放することになった。
数日して鈴奈庵に来た霊夢は驚愕した。屋根の上におとろしが乗っているではないか。
鳩の死骸も臭いもしない辺り、言った事は守ってはいるようだ。
「小鈴ちゃん、またおとろし来てるけど」
中に入り伝えると小鈴は困ったように笑った。
「それが毎日来て屋根に乗ってるんですよ。日当たりがいいからかな?」
「野良猫じゃあるまいし……。魔除けにはなりそうだけど邪魔でしょう」
「来るなとは言わなかったですし。怪文書の方を解いて、仕向けた人に迎えに来てもらいましょう」
完全にペット感覚である。霊夢は甘いなぁと思うが、本人がそういうのなら今しばらくは放っておくのも悪くはないと考えていた。
真犯人が居るのなら、あいつは餌にもなる筈だ。
「変な動きあったら言ってね、すぐ駆けつけるから……それより今日は散らかってるわね。調べもの?」
「あの手紙を解読しようと、少し誤字について調べていたんです」
鈴奈庵の一角は雑多な本が集められ、ちょっとした山になっていた。
「誤字についてねえ」
霊夢にはよくわからない本だらけだった。霊夢は適当にめくってみるが、外の本らしいことしか見えてこない。
「それはゲーメストという雑誌ですね」
「こんなのがヒントになるの?」
「その雑誌誤字が酷いんですよ、『確かめて見ろ!』って最終回の最後のセリフを『確かみて見ろ!』と言ったり。『ハンドルを右に!』を『インド人を右に!』、『餓狼伝説』を『餓死伝説』等々」
「……酷過ぎない?」
「真似しようとしても難しいですね。でも草稿がかなり乱雑としていたそうで、それを別の人が活字におこしたので、こうした誤字が起きたのかと」
「確かにハンドルをかなり雑に書けばインド人に見えなくは無いかもね」
「最初の『め』と『み』についても字面が似ているのと、『見』の訓読みに引っ張られた可能性があります。餓死伝説は『餓』という字から『餓死』という言葉が先行して引き出されてしまったんですね、『浪』の字が雑なら尚更です。要は機械的に写し取ろうとするので、逆に人間的なミスが出ると信じられない形になります」
小鈴は「でもですよ」と続け、例の怪文書を掲げた。
「一筆ものでこの間違いは普通に考えたら無いって事ね」
「そうです。意図があるとは思うんですが」
「不気味さを演出したかったんじゃないの」
「それもあり得ますが……」
腑に落ちないようだ。霊夢自身もそんなに単純でないだろうなと思った。半ば勘だがこれには確かにメッセージが宿っている気がする。しかし伝えるべき事があるなら、何故誤字を直しもせず送ってきたのか。ひたすら謎めく文章である。
外に出るとおとろしが胡乱な顔で見下ろしてくるので不愉快だ。こいつも何か伝えたいことでもあるのだろうか。
霊夢もまけじと睨み返すが、馬鹿らしいのでやめた。
程なく鈴奈庵はおとろしが出ると話題となった。客寄せパンダになるなら良かったが、そんな可愛がる奇人は小鈴くらいなもので、前を通ると危険だと風評が沸き始めてしまっていた。
果ては悪い事したら鈴奈庵に連れて行くよ! とナマハゲ扱いにすらされている。
「小鈴ちゃん、おとろし追っ払っといたから」
流石にこのままではまずいと思い、霊夢が定期的に追い払うようにしたが懲りずにやってくる。
本当は再起不能にしてやっても良いのだが、小鈴も頑なにそれは可哀想だと堂々巡りだ。
「ありがとうございます……」
生返事で言う小鈴は、筆を持ち半紙を穴が開きそうな程見つめている。
「今日はまたおかしなことしてるのね」
「あの手紙が敢えての誤字だったとしたらと思って、誤字を書いてみています」
小鈴の周囲には紙が散らばっており、悉く子鈴と書かれていた。とても活路は見いだせそうにない。
「これで何かわかることあった?」
「自分の名前間違えて書くって変な気分……でも書いているうちに子鈴もしっくり来るような気がしてきました。私って子鈴だったんでしょうか?」
「気をしっかり持つのよ。そもそも敢えて誤字する意味なんてないでしょ、変な癖付く前にやめなさい」
「でも夏目漱石という作家は意図的に誤字をしたと言われています、ディスレクシアという障害だったなんて噂もありますけどね。他にもとある新聞では新年の書に迎春のしんにょうの上を卵と書いて載せたりとか」
「なにそれ、新年からオオコケじゃない」
「敢えて間違えることで、お堅い文章を柔らかくしたんですよ」
そう言って小鈴は半紙に卵の迎春をさらりと書いた。
手本のような味のある筆跡で誤字をされると、確かに笑ってしまいそうなミスマッチさがある。
「飽き飽きする新年に刺激を求めるなら有りね」
「敢えてとは少し毛色が違いますが、ゴキカブリはゴキブリと事典に誤植され、以後はゴキブリで定着してます。他にも的を得るは的を射るの誤字誤用と議論されました、最終的に的を得るも正用の判定を公に得たんですけどね」
次々に誤字だか正しいのか分からない字を半紙に書いていく。
「誤字にも色々あるのね、それにしても小鈴ちゃん字が上手」
書いてる内容がおかしいのが玉に瑕だが、字の綺麗さはむしろ引き立っている。
「小さい頃は筆と本が玩具でしたからね、昔は阿求と競ったもんですよ。そういえば昔、阿求の書いた書を預かっていたっけ」
思い出を掘り返すような楽しげな笑みを浮かべ、古い戸棚から一枚の色紙を手にした。意外にもおぼつかない筆跡で「川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず」と書かれていた。
「阿求ってこんな字だったっけ?」
「だいぶ前ですから、今見ると少し下手っぴですね。阿求が嫁に行くときにでも見せて、懐かしがらせてやる予定です」
「それは名案ね。それにしてもこれ似てない?」
「え……」
小鈴は一瞬硬直してから、怪文書とそれを見比べた。
書いてある字も異なり素人目の霊夢では筆跡がどうのと見抜く事はできないが、文字の傾き具合やバランスの悪さが良く似ている。
線の太さから字の大きさまで、同じ人が書いてるんだろうな、と思うには十分だ。
「ま、まさか阿求がこんな物送りつけるでしょうか?」
小鈴は目をぐるぐるさせている。
「さあ、そこまでは……そうだとしても子供の頃に書いたって事になるし。直接聞きに行くのがいいんじゃないかしら」
小鈴は手紙と怪文書を今一度見比べおもむろに頷いた。
阿求の屋敷に早速赴いた二人は奉公人と思われる人に見舞いかと聞かれ顔を見合わせた。
なんでもここ数日風邪か何かで少し休養に努めているらしい。そんなこと初耳だったので、一度適当な水菓子を買ってから再訪問する。
話せる状況か心配だったが、通された先で阿求は布団を跨ぐように文机を置き、足半分しか布団に入っていなかった。
「体調悪いって聞いたけど平気なの?」
「あら小鈴。皆ちょっと過敏すぎるのよね、このくらいへっちゃらなのに」
「そっかあ」
書を読みふけっている阿求の姿に小鈴は安堵の息を漏らす。
「で、霊夢さんまで連れて何かあったの?」
「病人に取り調べなんて気が引けるんだけどね。これに見覚えあるんじゃない?」
「うちに届いた怪文書なの」
霊夢は怪文書を広げて見せたが、阿求は目を丸くして首を傾けた。
「知ってるも何もねぇ、持ってこられても困る」
「やっぱり阿求が書いたんでしょ! うちにあったのと似てるもん」
小鈴が探偵気取りで阿求を指差し、問い詰める様に言う
しかし阿求は黙って肩をプルプルと震わせた。
「ぶふ、あははは!」
爆発するかのように突然吹き出した。
唖然とする二人を置き去りに文机をばんばんと叩く始末だ。
「阿求が壊れちゃった……」
「ごめんごめん、まさか覚えてないとは思わなくて」
「あんたが書いたんじゃないの?」
完全に調子を崩された霊夢は引きつった笑みで、怪文書を自由落下させた。
「まさかこっちが驚かされるとはね、これを書いたの小鈴でしょ」
「え? わ、私!?」
今度は自分を指さして小鈴は絶句した。
「阿求の書を小鈴が持っていた様に、阿求も小鈴ちゃんの書を持っていたのね」
「すっかり忘れちゃってたよぉ……そういえばお互い真似し合ってたら似た筆跡になってた気も……」
顔全体を赤くして小鈴がはにかむ。阿求の布団に項垂れてすっかり意気消沈だ。
「小鈴は私より字が上手かったけど、流石に字の覚えは私が早かったわ。私が何度も字が間違ってるって教えたのに、これで正しいって言い張って暴れ周って……」
「ひい、そんなこと言わなくていいから!」
「一度も誤字をした事ないって息巻いてたのは誰だったかしら」
「そんな事言ってたの? 名前間違えられると怒るのに自分の名前も良く間違えてたし。ついでにブロッコリーとカリフラワーも見分けられなくて、挙句ブッコロリとか言っ」
「ぎゃあ! 阿求を殺して私も死んでやる!」
吠える小鈴を霊夢がどうどうと抑える。
こりゃあうっかり阿求の前で恥をかけたもんじゃない。霊夢は密かに冷や汗するのだった。
しかし怪文書の正体が小鈴の一筆だとすると、おとろしとこの文書の関係は無いのだろうか。
「それで結局どんな経緯で書かれたのよこれ?」
「最初からその状態で私が貰ったんです。間違いを指摘したけど、暴れた挙句この紙じゃないとだめだし、まあいいや。と」
かなり昔だろうに阿求はさっき有ったことの様に説明してくれる。
「小鈴ちゃんはそれについて何か覚えてるの?」
「そんな事あったのかなぁ……何で阿求に渡したんだろ」
一方小鈴は既に忘却の彼方である。怪文書には私の事覚えているかという一文は未来の自分を懸念していたのだ。
そして見事的中している。
「私なら絶対忘れないからだと思う。いつかお店を任される様になったら、自分に返して欲しいからそれまでは厳重に保管してとも言っていた。だから普段開けない特別な倉に置いてたけど、最近開ける機会があったからついでに出して届けたのよ。風邪引かされたけど」
風邪のせいでおとろしが出ていることはまったく知らなかったらしい。
「手渡しにしてくれれば、こんなことには……」
「それじゃつまんないでしょ」
にたあと笑って全然悪びれてない。
「それに渡されただけで、内容についてはノータッチだったし」
「旧小鈴ちゃんが言うには、文字よりも紙そのものが重要みたいね」
「今でも小鈴です……。まさか炙り出しとか、水に浮かべると字が! なんて凝った真似私はしないかなぁ」
「あるとしたらこの台紙の下が怪しい。厚みは違和感ないけど剥がしてみる?」
言いながら阿求が怪文書を光にすかして目をこらす。
「うん、何かありそう」
糊は正麩糊という剥がしやすい物らしい。阿求が水と竹のヘラを貰ってきてじっくりと丁寧に剥がしていく。
霊夢は表具の扱いはさっぱりなので、牛歩戦術よろしくな慎重作業を欠伸しつつ待った。
ようやく台紙から剥がれると、阿求は文机の上に裏面を置いた。
「はいお待ちどう」
「んん? もしかしてこれって……」
霊夢は書かれている文字を見つめた。
「まさかのまさか……」
見たところ手紙の裏面は「おとろし」とだけ細い流れるような字でぽつりと書かれていた。
達筆過ぎて読みにくくすらあるが、書いた人物が表と違うである事は一目瞭然だ。
「むしろこっちが表ね、妖魔本の残欠みたい。小鈴ったら妖魔本に落書きするなんて」
阿求が呆れ顔で言う。現状から推測するに、これは妖怪封じた妖魔本の一部とみて間違いなさそうだ。本来おとろしの絵が描かれていて、それが外に出て鈴奈庵の屋根に今乗っているのである。
「え、ええと……記憶にございません。そんなことするかなぁ」
「でも自分に返せって言ったのならそうかも。小鈴ちゃん出てきたおとろし好きそうだもん」
小鈴のおとろし好きは今に始まった事ではなく、昔からだったのだ。残したことは忘れて居るみたいだが、再び見惚れているとすれば変わらぬ思いではなかろうか。
「さては鈴奈庵からくすねたのね。私に渡せばそう見つからない。見つかっても余計な物が書かれていれば、商品価値は下がって貸し出されたり売られることも無い」
「うわ、なんて狡賢い……」
阿求の分析に当の本人は末恐ろしいなあ、と完全に他人事である。
怪文書の内容も未来の小鈴を完全に把握していたし、中々に切れ者だったのかもしれない。
「でもじゃあ何でおとろしは私に嫌がらせしてくるんだろう」
「実は相思相愛で、好きな子に意地悪してるだけだったりしてね」
「そうなの……かな?」
「何でときめいてるのよ。察するに裏に落書きしたから怒ってるんじゃないかしら」
「でも元々残欠本だし、大事にされてきたわけでもなさそうですよ。そもそも今は晴れて自由の身なのに、落書きなんて気にするでしょうか」
「確かにそれはそうよね」
妖魔本の裏に落書きしたところで、本人に影響は無いだろう。まだ鈴奈庵に居るのはそれだけの理由がある筈だ。
「小鈴が忘れてるだけで、おとろしに何かしたんじゃないの? 髪の毛毟って円形脱毛症にしたとか」
「否定できないのが怖い。でもおとろし本人に会っていたら流石に覚えてると思うんだけどなぁ」
小鈴は目を細めて「おとろし」の字面を睨む。怪文書があまり怪でも無くなった今、手がかりは小鈴の覚束ない記憶ぐらいな物だ。
霊夢と阿求は期待と不安を込めて見守った。
「ん、んん?」
少しして、小鈴が細めていた目を見開く。
「何か思い出した?」
「いえ何も。でも私はずっと勘違いしてたのかも……」
そうして勝手に青くなって申し訳なさそうにする。霊夢も阿求も首をかしげた。
二人で鈴奈庵に戻ると、相変わらずおとろしが屋根の上で不気味さを振りまいていた。
阿求は病み上がりなので置いてきたが、何も教えて貰えないので僻事を呟いていた。霊夢も教えてくれないと困るとは思ったが、小鈴はまずおとろしに確認してからと言うので追及は止めた。
「こんにちは」
小鈴がぎこちない挨拶をすると、おとろしはぎろりと音の出そうな眼差しで返した。
それ対して「かわいい……」等と呟いてるから、どっちが恐ろしいのかは定かではない。
「実は謝らないといけないな、と……」
おもむろに取り出したおとろしの妖魔本残欠。おとろしの方は訝しげである。
それを見せつける様に掲げると、思い切り頭を下げた。
「ごめんなさい! あなたのお名前はおとろしじゃ無かったんですね」
「え、どういうこと?」
思わず霊夢が聞き返してしまう。
「言い訳になりますけど、これって”し”では無くて踊り字だったんですよ」
踊り字は同じ字を繰り返す時の記号だ。色々あるが一文字だと『ゝ』、二文字以上だと『く』の字を伸ばしたのが良くある。
確かにおとろしと思われていた字は、『し』と言っても線を縦長に流したような字だ。文脈が無く、踊り字と間違えても不思議では無い。
「じゃあ本当の名前は、おどろおどろって所かしら」
「ずっと私が読み間違えていたんです、おどろおどろさん本当に失礼しました!」
小鈴が改めて謝罪を述べた。肝心のおどろおどろはというと、地べたを見つめる小鈴に溜飲が下がったらしい。
なんと笑った。
その満面の笑みはおどろおどろという名前すら間違っていたんじゃないかという程、穏やかで優しい笑顔。
「ま、まあ……許してやって頂戴。小鈴ちゃんもわざとじゃなかったのよ。あんたを退治しないようにって働きかけてもくれたんだから」
まぶしい笑顔に眩みつつ霊夢が言うと、頷くような動きを一つしておどろおどろは霧のごとく消えてしまった。
ようやく顔を上げた小鈴は、消えたおどろおどろを探してきょろきょろしたが、やがてその姿を見つけた。
「霊夢さん、見てください」
「あらら、まさか自分から妖魔本に戻るとは……」
おどろおどろの姿は残欠本に現れていた。その表情はあの笑みでは無いが、あんまりおどろおどろしくも無かった。
「呼び間違えられていたのが、そんなに嫌だったのかしらね」
「名前を間違えるなんて、最低。って昔から言ってた覚えがありますから」
申し訳なさそうに、でもほんの少し嬉しそうに小鈴は呟くのだった。
それ以来おどろおどろが出てくる事はなくなり、鈴奈庵が子供達の恐怖スポットにされる現象も落ち着いた。
問題の妖魔本は小鈴の手に戻り今では店の片隅に飾られている。ちゃんとおどろおどろと題紙を付けてあげたとか。
彼は本当に名前を間違えられた事だけ不満だったということだ。
何だか拍子抜けしてしまうが、終わってしまえばこんな物だろうか。
文机で茶を飲みつつ霊夢は再度手紙に臨んでいた。
小鈴が風邪を引いてしまったので、お見舞いの手紙だ。
事の顛末を伝える為に阿求と三人屋台で少し酒を煽った折り、そのまま寝てたのでそれが原因だろう。
酔った小鈴には、散々子鈴と間違えられたと僻事を言われてしまった。
相当根に持ってる様である、まるでおどろおどろだ。酔った勢いだとは思うのだが。
どうにか水に流してもらいたい所だが……と思いつつ霊夢は一連を振り返る。
おどろおどろよりも、小鈴の文書、ひいては誤字に振り回された数日だった。
結局知りたかった短歌の意味もわかりゃしなかったし……。そもそも子鈴と書かなければここまで首を突っ込んだのかは分からない。もし間違えなければ、さっさとおどろおどろを退治して終わらせていた。
そうなっていたら、小鈴とおどろおどろは悔恨が残っただろうか。もしかしてこうなって良かったのかな。誤字がいい訳ではない、終わりよければ全てよしという意味で。
しかしまあ小鈴の話を聞くと誤字とひとえに言っても、色々ある様だ。
伝えたいことが伝わらないのが、誤字の一番の被害ではある。
でも自分の未熟さを伝えてしまったり
誤りが定着して正しい物に成り代わったり。
敢えて利用する人がいたり
正しい物も間違いだと認識されたり。
時には知らぬ間に誰かを傷つけてしまう事もある。
もっとも、誤字に限らず誤りや間違いとは須らくそういう物かもしれない。
一番大切なのは、小鈴の様に自分で気付いた時に、どうする事ができるか、なのだろう。
私だったら妖怪相手にあの頭の下げ方はできなかったに違いない。
「さてと、今回は上手に書けたけど」
ばっちりと小鈴と書けた、ついでに挨拶文も欠かさない。
最後にもう一度誤字した事を謝っておこうかなと思ったのだが、言葉が浮かんでこない。
流石に本心ではもう気にしてないとは思うのだが……。
悩みぬいた末、霊夢は言葉を付けるのを諦めた。何だか仰々しく謝るのも私らしくない。
その代わり最後に「博霊霊夢より」と付け足してみた。
意識して誤字すると非常にむず痒い。頭で分かっていても書いた手が、見ている眼が、誤字を知らせんと違和感を訴えて来る。そもそも、これで水に流せると思うのが間違いだ。
けど間違いから始まったのだから、間違いで終わる事が有っても良いだろう。
なんて、言い訳してみるのだった。
子悪魔「子鈴がやられたようだな…」
八坂加奈子「ククク…奴は誤字四天王の中でも最弱…」
宇佐美蓮子「〜ごときに負けるとは四天王の面汚しよ…」
面白かったです
なんであんなに見直しても気付かないんだろう。ひょっとして、自分のもとをはなれたときに文字が姿勢を崩すんだろうか。
書く時に手紙ならまだ誤字に違和感を覚えられるのでしょうが、メールだともう無理です。
ミステリーのような難しさを読後に感じました。
水木版のおどろおどろの画像見ると・・・こんな鬼瓦いいじゃないかと思ってしまった。
誤字は恥ずかしいんですよねえ。なんでこんな誤字したんだ!? と頭を抱えたくなるようなものばかりです。やつらは普通の文章にうまい具合に擬態しやがってるから本当に悩ましい。
こういうあるあるネタ(?)を使って話が作れるのは、とても羨ましいです。面白かったです。
ことやかさんの作風が好きです