私は落ちこぼれだった。
小悪魔――勿論だが、これは私の本名ではなく、幻想郷における渾名みたいなものだ。種族は何かと問われれば、私達は淫魔だと答えよう。
決して強い種族ではないが、しかし弱い種族というわけでもない。中堅かつある一定の知名度と需要を持ち、自分たちの生きる術を全うしながら繁栄してきた誇り高き種族だ。
ところで淫魔とは、大抵は元から美麗な風貌をしているものなのだが、しかし人間の前に現れて人間を襲う時には、基本的にその人が最も求めている姿へと変貌する。恋焦がれる純情な乙女の前では、憧れの先輩の姿になるだろう。欲を持て余した男子諸君が相手なら、性的さを前面に打ち出した姿になるだろう。
それは変身して物質的に姿を変えている、とかそういうわけではなくて、その者に幻覚を見せているに過ぎない。
変身魔法ではなく、幻覚魔法。
それを上手く扱い、精を受け取って糧としなくてはならないのだが、残念なことに、どういうわけか、私にはその魔法がろくに使えないのである。才能が無い、というやつだ。その上、風貌も子供っぽい体型のままで成長を終えてしまったため、自分の役目を殆ど果たせないのであった。まあ、蓼喰う虫もという言葉があるように、この体躯が好みだという者もいるらしいのだけれど、結局そういう人間は少数派で、それにエリートは、普段は豊満な体をしておきながら、相手が幼女を好めば幼女になってしまうのだから、どちらにせよ私は底辺の存在なのだ。
人間が社会保障だとかなんだとかそういった名目のもと、弱者と呼ばれる立場の方々に色々な加護を与えているように、悪魔にも、弱い立場の者を助けてくれる制度が存在している。人数が多くなると社会を形成しなくては統制が取れなくなるというのは、人間だろうと悪魔だろうと同じである。私はそれに甘んじながら、一向に来る気配の無い仕事の連絡をただ細々と一人で待ち侘びていたのだ。
「小悪魔、その本はそこじゃないわ」
「小悪魔、紅茶をお願い」
「小悪魔、肩を揉んで頂戴」
その頃の暗黒のような日々を考えると、私は淫魔として生まれ落ちてきたとはいえ、ここで本に囲まれて雑用をしているのが天職だったのかもしれない、と思う。私には、他人を魅了することなんてできなかったから。
そんな私を見初め、契約してくれたパチュリー・ノーレッジという女は、一体何を考えていたのか……私には、よく、わからない。
「おはよう、パチュリー」
ここ――ヴワル魔法図書館――にはたまに来客があるのだが、しかしその来客というのは大抵定まっている。友人の吸血鬼か、金髪の魔法使いか、金髪の人形遣いか。それ以外の者はこんな辺鄙なところには寄り付こうともしない。今日の来客は、どうやら人形遣いらしかった。何やら鞄を重そうに抱えている。
「あら、アリス」
パチュリー・ノーレッジはアリス――苗字は知らないから不本意ながらファーストネームで呼ばせてもらうが――の呼びかけに対して、いつものように素直に本から顔を上げて応じた。そして、いくつかの言葉を交わす。
私が呼んでも碌に反応しないのに。来客は暇を持て余しがちな毎日に変化をもたらしてくれるが、その度に、彼女と仲良さげにする誰かの存在に悲しくなる。
ああそうだ、笑ってくれ。私はパチュリー・ノーレッジの事が好きなのだ。他人からの恋情を喰い散らかすべき悪魔が他人に恋慕しているのだから、馬鹿げた話だ。
私は、悉く、淫魔に向いていない。
淫魔は欲情しない。自分が愛や恋や欲や情に溺れてしまっては日々の営みに支障が出る――だから実のところ、淫魔は肉欲に塗れた存在などではなく、そんな劣情を糧にこそすれ、本人たちは意外にも淡白でクールだ。ましてや愛や恋など鼻で笑うようなものなのだが……
それがどうだろう、彼女に認められたいという部下なりの向上心が、いつからだろうか、膨らみすぎて恋愛感情になってしまったらしく。彼女に愛されたい。彼女と笑いたい。彼女と一緒にいたい。彼女と一つになりたい。そんな思いが湧き上がる度に、その愚かさに苦笑し、そのハードルの高さに嘆息してしまう。
彼女が私に振り向くわけがない。
「そういえば、私、一つ思いついたことがあるのよ。そこの小さい子……小悪魔ちゃん、で、よかったかしら? 呼び名があれば教えて欲しいのだけれど、とにかく、その子について」
アリスさんはこちらを一瞥して、鞄をパチュリー・ノーレッジの前の机に下ろした。私に関すること、とは一体なんなのだろうか。例えば人形劇において淫魔の役が登場するからインタビューしたいとか。いやそれは流石に人里で披露できるストーリーにならないだろうし、まず彼女は私が淫魔だと知らないはずだし。
となると何か、ともう一度振り出しから考え直してみたが、しかし他の可能性は思いつかなかった。諦めてアリスさんの方を向き直す。
「この子、魔理沙に似ていると思わない?」
アリスさんの言うところによると、霧雨魔理沙と私は背格好が似通っているらしい。身長が五尺に満たないほどに小さいとか、出るとこ出てないとか。絶対に貶されている。
そして顔のパーツも、じっくりと見たことは無いがかなり似ている、らしい。人形を作るための容貌への鋭い観察眼を持っている彼女が言うのだから、恐らくそれは正しいのだろう。化粧をうまくやって服を着替えればいい線いける、と言われたのだが、似ていることを喜んでいいのかはよくわからなかった。本盗みに来てるだけだぞ、あの白黒。
だが、と、パチュリー・ノーレッジに視線を流してみる。
この際だからはっきりと言ってしまおう。
彼女は霧雨魔理沙に惚れている。 彼女に愛されたい。彼女と笑いたい。彼女と一緒にいたい。彼女と一つになりたい。彼女は、そう、霧雨魔理沙に対して思っているのである。
私にはわかるし、きっと私じゃなくてもわかる。恐らく隠す気すら毛頭ないのだろう。
だからこそ、私は霧雨魔理沙に似ていることを、誇らしくはなくても、好都合なことだと思ったわけだ。
まあ、そこまでは良い。
だが、すぐさま私に彼女の服と鬘を着せるのは、些か気が早すぎるのではないだろうか?
「ね、魔理沙でしょう?」
「本当ね……想像以上に尊かったわ……」
左様か。
なんで彼女の服を持っているのか私には知り得ないのだが、きっとこのために服を仕立ててきたのだろう……人形遣いは指先が器用なはずだから、手作りするくらい造作も無かろうし。盗んでいるわけではないと信じておく。 髪とかめっちゃリアルな手触りをしているけれど、これ本人から集めたり刈ったりしてたら途轍もなく嫌だ。後の連続殺人犯のエピソードの一つに並んでそうな字面だ。
「ああ……魔理沙……」
「落ち着いてください、魔理沙さんではないです」
恍惚とした表情で両の手を頬に添えるパチュリー・ノーレッジ。本当に、私はこんな人に仕えていていいのだろうか。いいのだろう、最初からどうせ負け戦なのだから。
はあ、と嘆息する私に、アリスさんが近付いてきて、耳打ちした。
「でも、小悪魔ちゃん。魔理沙の振りをしておけばパチュリーは貴女を好いてくれるかもしれないわよ?」
脳が一瞬停止したのを感じた。小さな声だったのに、その言葉は驚くほど頭の中に大きく響いた。目からウロコが落ちたというのはこういう感覚の事をいうんだろうと思う、その手があったか流石は聡明な魔法使い。いや、もしかしたら私が愚鈍すぎるだけかもしれないのだけれど、それはこの際どちらでもいい。そうだ、パチュリー・ノーレッジが霧雨魔理沙に惚れているならば、私が霧雨魔理沙になればいい。成り代わればいい。すり変わればいい。これこそ淫魔の真骨頂ではないか。
「んっ、あーあー。パチュリー、そこの魔術書、借りてくぜ」
少しばかり口調を変えて、彼女っぽいことを話してみる。できるだけ凛々しい表情と声色をして。視界の端でぽかんと口を開けるアリスさんと、だらしなく口角を上げるパチュリー・ノーレッジ。
「こ、小悪魔。貴女中々やるじゃない」
ここに来てから初めて褒められた。私というよりは霧雨魔理沙を持ち上げている感はあるけれど、しかし私の行為であることに間違いはない。
「巧いのね、物真似。宴会とかで披露したら人気を集められるんじゃないかしら?」
「種族上、擬態は得意でしてね……」
その中では底辺だったとはいえ、私とて淫魔の端くれだ。他人の真似くらいできなければ困る……いや、宴会芸レベルでしかないから困っていたのだけれど。
「種族? 悪魔って擬態得意だったかしら?」
「ワタクシ、恥ずかしながら淫魔でして」
「あー? あー……うん、なるほど」
わかっているのかいないのか、とにかく、アリスさんはそれ以上この話題には突っ込んでこなかった。淫魔の標準的な生態を知った上で私の身の上を察したのか、あるいはそんなことを知らずともこんなところで司書をやっていることから何かを読み取ったのか、それはわからない。わざわざ自分から説明する理由はなく、誤解があったとしても気にする必要がなかった。
「……アリス」
パチュリー・ノーレッジが神妙な面持ちで口を開く。その瞳に迷いは感じられず、どこか一本超越したような雰囲気を醸し出していた。
「どうしたの、パチュリー?」
「これ一式、いくら?」
私を顎で指すパチュリー・ノーレッジ。黒を基調としたゴシックなドレス。ただ黒いだけではなく、内側にも幾つかのギミックが秘められた帽子。厚底のブーツ。確かにこれは、普通にお買い求めれば相当に値が張るもののように思える。
「賢者の石一つと交換で」
何言ってんだこいつ。
「乗ったわ」
乗るな。
「では交渉成立ね、いいの? こんな高級なもの」
「いいのよ、どうせ五つあるし」
「そういう問題じゃないと思うんですけど!」
「いいのよ、どうせ錬金術苦手だし」
「諦めないでください!」
ぜえぜえと肩で息をする。しかしそれほどまでに彼女は私のこの服装を気に入ってしまったらしい。彼女の魔女としての心意気の是非を問うのは今はやめにしておいたほうがいいのかもしれない、彼女の気が変わらないうちにこの姿を駆使して取り入ってしまおう。またとないチャンスだ。
「じゃあ私はここで。対価は頂いたし。ごゆっくりー」
手を振って出ていくアリスさん。わかってるぅ! できる女は違いますねぇひゅー!
「……」
「……」
ただ、その気遣いをモノにできるほど、私達は神経が太くなかったのです。
いやパチュリー・ノーレッジの方に関してはニヤニヤと浮ついた顔でこちらをちらちらと見ているから、もしかしたら何らかの動きを考えているのかもしれないが、少なくとも体裁上は本を読んでいることにしたいらしく、暫くの間、私達は釘でも打ち込まれたかのようにその場に硬直していた。私のような弱い悪魔の思い通りに事が進むのが気に食わないという魔女特有の捻くれた思想によるものなのかもしれない。
「小悪魔」
「は、はい! 何でしょうか?」
数分、だっただろうか。パチュリー・ノーレッジが、本に視線を落としたままこちらに話しかけてきた。
「今日から貴女のことを魔理沙と呼ぶわ」
「は、はあ……」
軽やかな狂気を感じる。
「制服もいつものスーツからその服に変更」
「なるほど」
職権濫用である。
「あと給与は五倍」
「魔理沙さんに対して過保護すぎませんかね」
というか私に対して辛辣すぎないか。確かに霧雨魔理沙のように振舞って彼女のハートを鷲掴んでやろうと目論んでこそいたが、向こう側からそうグイグイ来られると、なんか、若干引く。私の自己を軽んじられて涙目。外の世界なら人権問題からの訴訟に発展しかねないところである。
しかし、なんとも美味い話だった。たかだか魔女に仮装するだけで、態度は一新される。向上する。イージーモード。これならもっと前にやっておけばよかったのかもしれないが、些か、自分から名乗り出るには恥ずかしいのと、それに、どうしても姑息な感は否めなかった。
「あと、もう一つ」
パチュリー・ノーレッジが、ここに来て少し言い淀む。赤らみながら、何やら口ごもり、何やら言いにくいことがあるらしく、逡巡、明後日の方向に視線を送った後、しっかりと私の方を向き直した。
「貴女は、今日から私の伴侶よ」
一週間ほど経って、紅魔館、一階、廊下。並んで歩く、私とアリスさん。十六夜咲夜に業務連絡を終えたところで、ばったりと遭遇した。パチュリー・ノーレッジは、図書館の中。
「……小悪魔ちゃん、その服」
「ああはい、あの日から私の制服はこれに改められまして」
私が半ば諦めたように言うと、アリスさんはくすくすとおかしそうに笑った。もとはといえば貴女の差し金なのだが、どういうつもりなのだろうか。
「パチュリーって、本当に盲目よね……本ばかり読んでるからかしら」
自分も図書館に入り浸って知識を欲しているくせに、とは、言わなかった。一応恩人だし。それに、個人的に、美人とは仲良くしておきたかったから。
よこしまこあくま。
「本に罪はありませんけれど……まあ、私としては、いいことづくめで……何と言うか、拍子抜けというか、これまで思い悩んでいた恋慕はなんだったのかというか」
「ふふふ、よかったじゃない。結果として成就したんだから、喜んでおけばいいのよ」
何を企んでいるのやら、何の見返りもなく、仲のいい友人というわけでもない、ほぼ初対面で、知人以下の他人の幸福に助力するなんて、そんな良い奴がいる訳が無い。ありがちな信念であるけれども、しかし経験上、その哲学は結構正しい気がしている。
「そりゃあ感謝してますけどね。お蔭でここ暫くパチュリー様もご機嫌ですし、私も楽しいですし」
「ふむ、ってことは貴女達、どこまで関係は進んだの?」
「最後まで」
「わお」
わざとらしく両手を挙げるアリスさん。
そうだ、私とパチュリー・ノーレッジは、既に一夜を共にしていた。同衾という話でもあり、そして、また違う話でもある。早い話が淫魔の真骨頂というわけだ。悲しいことに私は淫魔のコミュニティの中にいれば技術は最低ランクだが、それでもたかだかその辺の引きこもりの魔女を満足させるには十分すぎるほどの指を持っていたのだ。
喜ばしいことであり、望んでいたことだったことは確かだ。霧雨魔理沙の振りをしなければならないということ以外は、至福の時間だったと言ってもいい。
けれど、蟠りがあったのも、また事実だ。
「そういえば淫魔って言ってたしね。うんうん、いいんじゃない?」
「なーんか含みを感じますね」
「だとしたら貴女に何か後ろめたいことがあるんでしょう」
アリスさんはちらりとこちらに視線を送ってきた。その笑みは慈愛によるものではなく、なにやら妖精のような、悪戯っぽいものであった。
「誰のせいだと……」
「誰のお蔭でしょうね」
「あーはい、そうですね」
「ふふふ」
恩を着せるのが目的か? いや、こんな地下の黴臭い図書館に燻っているだけの矮小な悪魔ごときに恩を売ったところで、見返りなんてありそうにないだろうに。自分で言って悲しくなってきた。
「で、何が目的なんですか?」
「今日はね、とある魔法植物の生育方法について少し」
「とぼけないでくださいよ」
恐らくわざとなのだろう、全く的はずれなことを言いながら歩く彼女を、少しだけ睨んだ。こんなタイミングで利用者アンケートなんてとるわけないだろう。この魔女はきっと、私程度では全く太刀打ちできないほどに聡明なのだろうと思った。きっと、パチュリー・ノーレッジよりも数段、参謀に向いている。
「そんな怖い顔しなくてもいいじゃない、イッツ・ア・魔界・ジョーク!」
「全く魔界関係ないですけどね」
「私って魔界出身なのよ」
「……え?」
へらへらと驚愕の新事実を明かすアリスさん。まあ、別に驚愕というほどでもないといえばそれまでなのだけれど、私も魔界出身であるが故に、ちょっと、なんか、不覚にも、わくわくが止まらない。
「えっえっ、どこですか? 私は北東の方の田舎の生まれなんですけど」
「魔界神の娘よ」
「えーっ!? そ、そういえば、確かにアリスって名前の娘がいらっしゃった気が……えっと、えっと、とりあえず、神綺様の娘様って、えっと、無礼なこととかこれまでしてませんでしたよねっ? あと、あとあと、神綺様の写真とかサインとかも欲しいですし、えっとあのあの」
どうしよう、いきなり王女様みたいな高貴な生まれの方に出会ってしまった。どうするべきなのだろうか、頭が上手く回らない。確かに配信で見たことこそあったが、あれからかなり成長していらっしゃるからわからなかった。ああもっとちゃんと接しておけばよかった、神綺様お許しください、悪気はなかったのです!
「……」
「……」
「……」
「いや、違います! そんな話じゃなかったんですよ! なんで私とパチュリー様をくっつけるような真似を……はっ! もしかして、パチュリー様に私をあてがって本物の魔理沙さんは自分が頂こうとか考えているのですか!?」
危うく話題がぶっ飛んで迷子になるところだった。これももしかしたら彼女の作戦なのかもしれない。いや単純に私の知能指数が低いだけか。かなしい。
とにもかくにも、私がそうまくし立てると、違うわよ、とアリスさんは眉尻を下げながら返答した。そうか、なかなか妥当な推理だと思ったのだが、やはり賢人の考えることは私には想像に難いらしかった。
「可愛い子同士が百合の花を咲かせてるのを横から眺めるのが好きなだけよ」
何言ってんだこいつ。一週間ぶり二回目。
「それなら魔理沙さんとくっつけてもよかったんじゃあ」
「だって、パチュリーったら奥手なんだもの、魔理沙に会っても何にも行動に起こさないし、私があれこれやってみても最後には引き返しちゃって、なかなかうまいこといきそうになくて……別にそういった風なのが好きじゃないってわけじゃなくてむしろ好きではあるのだけれど、少々マンネリが過ぎてね……つまるところが、一つになったカップルの話を根掘り葉掘り聞きたいというか」
「めっちゃ喋りますね、てか歪みすぎでしょう」
ああこの人自分のテリトリーに入ったら急に饒舌になるタイプの人か。人じゃないけど。なんというか、友達、少ないんだろうなあ。私が言えたことではないけれども。
「というわけで、どっちが攻め? どっちが攻め?」
「うわグイグイ来る」
自分の趣味のことになったら急に他人との距離も弁えることなく一気に馴れ馴れしくなるタイプの人か。人じゃないけど。なんというか、友達、少ないんだろうなあ。この語り、さっきもやったけれども。
「そんなこといちいち考えてませんよ」
「えっリバ!? やるわね貴女達……」
「何の話ですか!」
閑話休題させてくれ。
アリスさんが鼻息を荒くしながら私の肩を揺らす。なんで他人の恋愛事情にそこまで熱くなれるのか私には理解できそうになかった。淫魔という特殊な生まれのせいか、否、これは私が人間だったとしてもその他だったとしても関係なく理解できない趣味だろうな、そんなことを思いながら、苦笑して前へと歩みを進める。さて、もうすぐ図書館だ。パチュリー・ノーレッジが私を、もとい、霧雨魔理沙を、心待ちにしていることだろう――そう思って、少しだけ、スピードを上げた。
重厚なドアを開けた。
霧雨魔理沙がいた。
惚けているパチュリー・ノーレッジもいた。
顎が外れるかと思った。
「お、おい小悪魔! なんなんだよ、その服!」
「お、おい魔理沙! なんなんだよ、その服!」
「小悪魔ちゃん、張り合わなくてもいいのよ。確実に負けるから。所詮偽物は偽物なのよ」
そうか。では一旦落ち着いて、霧雨魔理沙を見てみよう。なるほど、私はこんな顔をしていたのか。悪くない。
「ああ、これはアリスさんが『小悪魔ちゃんって魔理沙に似てるわね』と仰ったので」
「仰ったのでじゃねえよ人為的にドッペルゲンガー生み出してんじゃねえよ」
的確な突っ込みを返してくる霧雨魔理沙。やはり人間は常識を忘れられない生き物なのだろうか、たとえ普段は突拍子もない妖怪たちとつるんでいたとしても本質は人間だということなのだろうか。
「魔理沙の格好してたらパチュリー落とせるわよって吹き込んだのよ。私が」
「その聡い頭脳と続く発想力と鋭い炯眼をもっと世のため人のために使おうとは思わないのかよ……」
何故か得意気なアリスさんに、霧雨魔理沙が嘆息する。全くもって彼女の言う通りだと思う。
「何言ってるの、私は小悪魔ちゃんの恋を手助けしてあげたじゃない」
「ばばばばば、ばっかちげーし! パチュリー様のことなんて全然好きじゃねーですし!」
「今更何言ってんだお前」
顔が赤くなるのを感じた。とりあえず否定しなければいけない気がした。頭が回らなかった。他人の好きな人は他言しちゃいけないって寺子屋で習わなかったのか! 習ってないか! そうだね魔界神の娘だもんね! でもちょっとデリカシーが足りないんじゃないかと、私は思うわけですよ。恥ずかしいじゃないですか。
「全然好きじゃないのに貴女は私と閨を共にしたというの……?」
パチュリー・ノーレッジの瞳からハイライトが消えていく。なんだこれ。加速度的に意味不明になっていくこの状況はなんだ。週刊連載の少年漫画か。
「そんなことないわよ、小悪魔ちゃんなりの照れ隠しよ」
「小悪魔? 誰それ?」
「一週間で綺麗さっぱり部下の記憶を消しちゃったかー」
これまで私が彼女と過ごしていた数十年間は霧雨魔理沙に仮装していた一週間に敵わないというのか。私の自尊心はとっくに零よ!
「って、よく考えたら魔理沙が二人いるじゃない! ああ、そういえば部下を魔理沙にしたような記憶があるわ。急に夢から連れ戻された気分よ」
「よく考えないとわからなかったのか……?」
パチュリー・ノーレッジの視線が気だるそうに私を突き刺した。ああっ申し訳ない。私が悪いのかどうかはわからないけれど、どうやら私に快くない何かがあったらしい。そして霧雨魔理沙がそんな彼女を訝しげに見つめている。
「で、あー、つまり、アリスの進言で、パチュリーの気を引くために、小悪魔は私の物真似をして過ごしていたと。で、パチュリーはそれにかなりハマっちまって、そのまま一週間、私に扮した小悪魔とパチュリーが恋仲になってたってわけか」
霧雨魔理沙が有難いことに話をおさらいしてくれている。こんなカオスから状況を把握することができるなんて、彼女も腐っても魔法使い、賢いのだなあと思う。
「そういうことよ、笑いたいなら笑えばいいわ」
「哀れだな」
「心に来る嘲りはやめて」
霧雨魔理沙に吐き捨てるような憫笑を貰って机に突っ伏すパチュリー・ノーレッジ。着飾っている自分で言うのもなんだけれど、私も同じ立場なら同じことを言っていたと思う。なんだこいつらってなるよそりゃあ。
「ていうか、お前らさあ……偽物の私を作って恋愛ごっこして、楽しいのかよ?」
ついに根底をひっくり返し始めた。私が耳を塞ぎ続けていたことを、こいつは、いとも容易く。
「私は楽しいわよ!」
「お前はそうだろうよ!」
アリスさんのサムズアップ。この魔女ずっと楽しんでるな。今回の首謀者だし。この霧雨魔理沙の反応を見るに、彼女はアリスさんの嗜好を理解しているらしかった。アリスさん、隠す気は無いらしい。清々しいな。
「わ……私だって……本当は……」
ついにパチュリー・ノーレッジの瞳が潤み始めた。確かに、ここ一週間の生活を冷静に思い返すと、途轍もない虚無感に襲われそうになる。
「パチュリーお前さあ、私のことが好きならそう言えばいいじゃねえか。わざわざ部下で人形遊びみたいな真似しなくても、私だってお前を快く思ってるんだ」
少しだけ呆れたような口調で、パチュリー・ノーレッジを諭す。そんな台詞、よくもまあ。恥ずかしくないのだろうか。
「そんで小悪魔もさあ……」
その矛先は当たり前ながらこちらにも向かってきた。実行犯って私だしね。別に悪いことをしたわけではないのだけれども、しかたない、当然の話だ。霧雨魔理沙が、パチュリー・ノーレッジの横からこちらへと歩み寄ってくる。
「その服でパチュリーと愛し合って、お前、幸せだったか?」
至近距離。脳に響く文句。ああ、その通りだ。貴女の言う通り、私はこの一週間、引っ掛かりを抱えたまま彼女と過ごしていた。彼女は確かに私を労わってくれたし、愛してくれたし、認めてくれた。けれど、彼女が貴女の名前を呼ぶ度に、私の笑顔はぎこちないものになっていくのだ。彼女は貴女の名前を呼びながら私を抱きしめていたのだ。
今思えば笑える話だ。どこが伴侶だ。私は私でなくちゃあいけないじゃないか。性質? 知ったこっちゃない。種族? そんなものは魔界の田舎に置いてきた。
「ありがとうございました、魔理沙さん」
「目が覚めたって顔だな」
頷いて、帽子と鬘を投げ捨てた。
パチュリー・ノーレッジに向き直る。
「パチュリー様。私は、小悪魔は、貴女のことが好きです。霧雨魔理沙の生き写しとしてではなく、一匹の悪魔として、私と交際していただけませんか」
背後の気配は気にならなかった。とにかく今の気持ちの昂りを無駄にしたくなかった。当たって砕けろ、上等だ。
「え、やだ」
当たって砕けた。
まあ、それもそうか。さっきの発言で、彼女の心は霧雨魔理沙一本に絞られていた筈なのだから。
でも、それでいい。これから彼女を振り向かせてみせる。いつかお前に勝ってやる、霧雨魔理沙。首を洗って待っていろ。すっきりと、爽やかな気分で、渾身の笑顔で振り向いた。
霧雨魔理沙が笑顔で迎えてくれた。
アリスさんは帽子と鬘をせっせと拾っていた。後でもいいだろそれは。私の気分を考えて欲しかった。
「よかったぜ、小悪魔」
霧雨魔理沙と私の右の掌同士が高らかに音を奏でて、閉じ篭った図書館の中に反響した。二人が帰ったら、すぐにでも元の服に着替えようと思う。
私の恋が、これから始まる。
小悪魔――勿論だが、これは私の本名ではなく、幻想郷における渾名みたいなものだ。種族は何かと問われれば、私達は淫魔だと答えよう。
決して強い種族ではないが、しかし弱い種族というわけでもない。中堅かつある一定の知名度と需要を持ち、自分たちの生きる術を全うしながら繁栄してきた誇り高き種族だ。
ところで淫魔とは、大抵は元から美麗な風貌をしているものなのだが、しかし人間の前に現れて人間を襲う時には、基本的にその人が最も求めている姿へと変貌する。恋焦がれる純情な乙女の前では、憧れの先輩の姿になるだろう。欲を持て余した男子諸君が相手なら、性的さを前面に打ち出した姿になるだろう。
それは変身して物質的に姿を変えている、とかそういうわけではなくて、その者に幻覚を見せているに過ぎない。
変身魔法ではなく、幻覚魔法。
それを上手く扱い、精を受け取って糧としなくてはならないのだが、残念なことに、どういうわけか、私にはその魔法がろくに使えないのである。才能が無い、というやつだ。その上、風貌も子供っぽい体型のままで成長を終えてしまったため、自分の役目を殆ど果たせないのであった。まあ、蓼喰う虫もという言葉があるように、この体躯が好みだという者もいるらしいのだけれど、結局そういう人間は少数派で、それにエリートは、普段は豊満な体をしておきながら、相手が幼女を好めば幼女になってしまうのだから、どちらにせよ私は底辺の存在なのだ。
人間が社会保障だとかなんだとかそういった名目のもと、弱者と呼ばれる立場の方々に色々な加護を与えているように、悪魔にも、弱い立場の者を助けてくれる制度が存在している。人数が多くなると社会を形成しなくては統制が取れなくなるというのは、人間だろうと悪魔だろうと同じである。私はそれに甘んじながら、一向に来る気配の無い仕事の連絡をただ細々と一人で待ち侘びていたのだ。
「小悪魔、その本はそこじゃないわ」
「小悪魔、紅茶をお願い」
「小悪魔、肩を揉んで頂戴」
その頃の暗黒のような日々を考えると、私は淫魔として生まれ落ちてきたとはいえ、ここで本に囲まれて雑用をしているのが天職だったのかもしれない、と思う。私には、他人を魅了することなんてできなかったから。
そんな私を見初め、契約してくれたパチュリー・ノーレッジという女は、一体何を考えていたのか……私には、よく、わからない。
「おはよう、パチュリー」
ここ――ヴワル魔法図書館――にはたまに来客があるのだが、しかしその来客というのは大抵定まっている。友人の吸血鬼か、金髪の魔法使いか、金髪の人形遣いか。それ以外の者はこんな辺鄙なところには寄り付こうともしない。今日の来客は、どうやら人形遣いらしかった。何やら鞄を重そうに抱えている。
「あら、アリス」
パチュリー・ノーレッジはアリス――苗字は知らないから不本意ながらファーストネームで呼ばせてもらうが――の呼びかけに対して、いつものように素直に本から顔を上げて応じた。そして、いくつかの言葉を交わす。
私が呼んでも碌に反応しないのに。来客は暇を持て余しがちな毎日に変化をもたらしてくれるが、その度に、彼女と仲良さげにする誰かの存在に悲しくなる。
ああそうだ、笑ってくれ。私はパチュリー・ノーレッジの事が好きなのだ。他人からの恋情を喰い散らかすべき悪魔が他人に恋慕しているのだから、馬鹿げた話だ。
私は、悉く、淫魔に向いていない。
淫魔は欲情しない。自分が愛や恋や欲や情に溺れてしまっては日々の営みに支障が出る――だから実のところ、淫魔は肉欲に塗れた存在などではなく、そんな劣情を糧にこそすれ、本人たちは意外にも淡白でクールだ。ましてや愛や恋など鼻で笑うようなものなのだが……
それがどうだろう、彼女に認められたいという部下なりの向上心が、いつからだろうか、膨らみすぎて恋愛感情になってしまったらしく。彼女に愛されたい。彼女と笑いたい。彼女と一緒にいたい。彼女と一つになりたい。そんな思いが湧き上がる度に、その愚かさに苦笑し、そのハードルの高さに嘆息してしまう。
彼女が私に振り向くわけがない。
「そういえば、私、一つ思いついたことがあるのよ。そこの小さい子……小悪魔ちゃん、で、よかったかしら? 呼び名があれば教えて欲しいのだけれど、とにかく、その子について」
アリスさんはこちらを一瞥して、鞄をパチュリー・ノーレッジの前の机に下ろした。私に関すること、とは一体なんなのだろうか。例えば人形劇において淫魔の役が登場するからインタビューしたいとか。いやそれは流石に人里で披露できるストーリーにならないだろうし、まず彼女は私が淫魔だと知らないはずだし。
となると何か、ともう一度振り出しから考え直してみたが、しかし他の可能性は思いつかなかった。諦めてアリスさんの方を向き直す。
「この子、魔理沙に似ていると思わない?」
アリスさんの言うところによると、霧雨魔理沙と私は背格好が似通っているらしい。身長が五尺に満たないほどに小さいとか、出るとこ出てないとか。絶対に貶されている。
そして顔のパーツも、じっくりと見たことは無いがかなり似ている、らしい。人形を作るための容貌への鋭い観察眼を持っている彼女が言うのだから、恐らくそれは正しいのだろう。化粧をうまくやって服を着替えればいい線いける、と言われたのだが、似ていることを喜んでいいのかはよくわからなかった。本盗みに来てるだけだぞ、あの白黒。
だが、と、パチュリー・ノーレッジに視線を流してみる。
この際だからはっきりと言ってしまおう。
彼女は霧雨魔理沙に惚れている。 彼女に愛されたい。彼女と笑いたい。彼女と一緒にいたい。彼女と一つになりたい。彼女は、そう、霧雨魔理沙に対して思っているのである。
私にはわかるし、きっと私じゃなくてもわかる。恐らく隠す気すら毛頭ないのだろう。
だからこそ、私は霧雨魔理沙に似ていることを、誇らしくはなくても、好都合なことだと思ったわけだ。
まあ、そこまでは良い。
だが、すぐさま私に彼女の服と鬘を着せるのは、些か気が早すぎるのではないだろうか?
「ね、魔理沙でしょう?」
「本当ね……想像以上に尊かったわ……」
左様か。
なんで彼女の服を持っているのか私には知り得ないのだが、きっとこのために服を仕立ててきたのだろう……人形遣いは指先が器用なはずだから、手作りするくらい造作も無かろうし。盗んでいるわけではないと信じておく。 髪とかめっちゃリアルな手触りをしているけれど、これ本人から集めたり刈ったりしてたら途轍もなく嫌だ。後の連続殺人犯のエピソードの一つに並んでそうな字面だ。
「ああ……魔理沙……」
「落ち着いてください、魔理沙さんではないです」
恍惚とした表情で両の手を頬に添えるパチュリー・ノーレッジ。本当に、私はこんな人に仕えていていいのだろうか。いいのだろう、最初からどうせ負け戦なのだから。
はあ、と嘆息する私に、アリスさんが近付いてきて、耳打ちした。
「でも、小悪魔ちゃん。魔理沙の振りをしておけばパチュリーは貴女を好いてくれるかもしれないわよ?」
脳が一瞬停止したのを感じた。小さな声だったのに、その言葉は驚くほど頭の中に大きく響いた。目からウロコが落ちたというのはこういう感覚の事をいうんだろうと思う、その手があったか流石は聡明な魔法使い。いや、もしかしたら私が愚鈍すぎるだけかもしれないのだけれど、それはこの際どちらでもいい。そうだ、パチュリー・ノーレッジが霧雨魔理沙に惚れているならば、私が霧雨魔理沙になればいい。成り代わればいい。すり変わればいい。これこそ淫魔の真骨頂ではないか。
「んっ、あーあー。パチュリー、そこの魔術書、借りてくぜ」
少しばかり口調を変えて、彼女っぽいことを話してみる。できるだけ凛々しい表情と声色をして。視界の端でぽかんと口を開けるアリスさんと、だらしなく口角を上げるパチュリー・ノーレッジ。
「こ、小悪魔。貴女中々やるじゃない」
ここに来てから初めて褒められた。私というよりは霧雨魔理沙を持ち上げている感はあるけれど、しかし私の行為であることに間違いはない。
「巧いのね、物真似。宴会とかで披露したら人気を集められるんじゃないかしら?」
「種族上、擬態は得意でしてね……」
その中では底辺だったとはいえ、私とて淫魔の端くれだ。他人の真似くらいできなければ困る……いや、宴会芸レベルでしかないから困っていたのだけれど。
「種族? 悪魔って擬態得意だったかしら?」
「ワタクシ、恥ずかしながら淫魔でして」
「あー? あー……うん、なるほど」
わかっているのかいないのか、とにかく、アリスさんはそれ以上この話題には突っ込んでこなかった。淫魔の標準的な生態を知った上で私の身の上を察したのか、あるいはそんなことを知らずともこんなところで司書をやっていることから何かを読み取ったのか、それはわからない。わざわざ自分から説明する理由はなく、誤解があったとしても気にする必要がなかった。
「……アリス」
パチュリー・ノーレッジが神妙な面持ちで口を開く。その瞳に迷いは感じられず、どこか一本超越したような雰囲気を醸し出していた。
「どうしたの、パチュリー?」
「これ一式、いくら?」
私を顎で指すパチュリー・ノーレッジ。黒を基調としたゴシックなドレス。ただ黒いだけではなく、内側にも幾つかのギミックが秘められた帽子。厚底のブーツ。確かにこれは、普通にお買い求めれば相当に値が張るもののように思える。
「賢者の石一つと交換で」
何言ってんだこいつ。
「乗ったわ」
乗るな。
「では交渉成立ね、いいの? こんな高級なもの」
「いいのよ、どうせ五つあるし」
「そういう問題じゃないと思うんですけど!」
「いいのよ、どうせ錬金術苦手だし」
「諦めないでください!」
ぜえぜえと肩で息をする。しかしそれほどまでに彼女は私のこの服装を気に入ってしまったらしい。彼女の魔女としての心意気の是非を問うのは今はやめにしておいたほうがいいのかもしれない、彼女の気が変わらないうちにこの姿を駆使して取り入ってしまおう。またとないチャンスだ。
「じゃあ私はここで。対価は頂いたし。ごゆっくりー」
手を振って出ていくアリスさん。わかってるぅ! できる女は違いますねぇひゅー!
「……」
「……」
ただ、その気遣いをモノにできるほど、私達は神経が太くなかったのです。
いやパチュリー・ノーレッジの方に関してはニヤニヤと浮ついた顔でこちらをちらちらと見ているから、もしかしたら何らかの動きを考えているのかもしれないが、少なくとも体裁上は本を読んでいることにしたいらしく、暫くの間、私達は釘でも打ち込まれたかのようにその場に硬直していた。私のような弱い悪魔の思い通りに事が進むのが気に食わないという魔女特有の捻くれた思想によるものなのかもしれない。
「小悪魔」
「は、はい! 何でしょうか?」
数分、だっただろうか。パチュリー・ノーレッジが、本に視線を落としたままこちらに話しかけてきた。
「今日から貴女のことを魔理沙と呼ぶわ」
「は、はあ……」
軽やかな狂気を感じる。
「制服もいつものスーツからその服に変更」
「なるほど」
職権濫用である。
「あと給与は五倍」
「魔理沙さんに対して過保護すぎませんかね」
というか私に対して辛辣すぎないか。確かに霧雨魔理沙のように振舞って彼女のハートを鷲掴んでやろうと目論んでこそいたが、向こう側からそうグイグイ来られると、なんか、若干引く。私の自己を軽んじられて涙目。外の世界なら人権問題からの訴訟に発展しかねないところである。
しかし、なんとも美味い話だった。たかだか魔女に仮装するだけで、態度は一新される。向上する。イージーモード。これならもっと前にやっておけばよかったのかもしれないが、些か、自分から名乗り出るには恥ずかしいのと、それに、どうしても姑息な感は否めなかった。
「あと、もう一つ」
パチュリー・ノーレッジが、ここに来て少し言い淀む。赤らみながら、何やら口ごもり、何やら言いにくいことがあるらしく、逡巡、明後日の方向に視線を送った後、しっかりと私の方を向き直した。
「貴女は、今日から私の伴侶よ」
一週間ほど経って、紅魔館、一階、廊下。並んで歩く、私とアリスさん。十六夜咲夜に業務連絡を終えたところで、ばったりと遭遇した。パチュリー・ノーレッジは、図書館の中。
「……小悪魔ちゃん、その服」
「ああはい、あの日から私の制服はこれに改められまして」
私が半ば諦めたように言うと、アリスさんはくすくすとおかしそうに笑った。もとはといえば貴女の差し金なのだが、どういうつもりなのだろうか。
「パチュリーって、本当に盲目よね……本ばかり読んでるからかしら」
自分も図書館に入り浸って知識を欲しているくせに、とは、言わなかった。一応恩人だし。それに、個人的に、美人とは仲良くしておきたかったから。
よこしまこあくま。
「本に罪はありませんけれど……まあ、私としては、いいことづくめで……何と言うか、拍子抜けというか、これまで思い悩んでいた恋慕はなんだったのかというか」
「ふふふ、よかったじゃない。結果として成就したんだから、喜んでおけばいいのよ」
何を企んでいるのやら、何の見返りもなく、仲のいい友人というわけでもない、ほぼ初対面で、知人以下の他人の幸福に助力するなんて、そんな良い奴がいる訳が無い。ありがちな信念であるけれども、しかし経験上、その哲学は結構正しい気がしている。
「そりゃあ感謝してますけどね。お蔭でここ暫くパチュリー様もご機嫌ですし、私も楽しいですし」
「ふむ、ってことは貴女達、どこまで関係は進んだの?」
「最後まで」
「わお」
わざとらしく両手を挙げるアリスさん。
そうだ、私とパチュリー・ノーレッジは、既に一夜を共にしていた。同衾という話でもあり、そして、また違う話でもある。早い話が淫魔の真骨頂というわけだ。悲しいことに私は淫魔のコミュニティの中にいれば技術は最低ランクだが、それでもたかだかその辺の引きこもりの魔女を満足させるには十分すぎるほどの指を持っていたのだ。
喜ばしいことであり、望んでいたことだったことは確かだ。霧雨魔理沙の振りをしなければならないということ以外は、至福の時間だったと言ってもいい。
けれど、蟠りがあったのも、また事実だ。
「そういえば淫魔って言ってたしね。うんうん、いいんじゃない?」
「なーんか含みを感じますね」
「だとしたら貴女に何か後ろめたいことがあるんでしょう」
アリスさんはちらりとこちらに視線を送ってきた。その笑みは慈愛によるものではなく、なにやら妖精のような、悪戯っぽいものであった。
「誰のせいだと……」
「誰のお蔭でしょうね」
「あーはい、そうですね」
「ふふふ」
恩を着せるのが目的か? いや、こんな地下の黴臭い図書館に燻っているだけの矮小な悪魔ごときに恩を売ったところで、見返りなんてありそうにないだろうに。自分で言って悲しくなってきた。
「で、何が目的なんですか?」
「今日はね、とある魔法植物の生育方法について少し」
「とぼけないでくださいよ」
恐らくわざとなのだろう、全く的はずれなことを言いながら歩く彼女を、少しだけ睨んだ。こんなタイミングで利用者アンケートなんてとるわけないだろう。この魔女はきっと、私程度では全く太刀打ちできないほどに聡明なのだろうと思った。きっと、パチュリー・ノーレッジよりも数段、参謀に向いている。
「そんな怖い顔しなくてもいいじゃない、イッツ・ア・魔界・ジョーク!」
「全く魔界関係ないですけどね」
「私って魔界出身なのよ」
「……え?」
へらへらと驚愕の新事実を明かすアリスさん。まあ、別に驚愕というほどでもないといえばそれまでなのだけれど、私も魔界出身であるが故に、ちょっと、なんか、不覚にも、わくわくが止まらない。
「えっえっ、どこですか? 私は北東の方の田舎の生まれなんですけど」
「魔界神の娘よ」
「えーっ!? そ、そういえば、確かにアリスって名前の娘がいらっしゃった気が……えっと、えっと、とりあえず、神綺様の娘様って、えっと、無礼なこととかこれまでしてませんでしたよねっ? あと、あとあと、神綺様の写真とかサインとかも欲しいですし、えっとあのあの」
どうしよう、いきなり王女様みたいな高貴な生まれの方に出会ってしまった。どうするべきなのだろうか、頭が上手く回らない。確かに配信で見たことこそあったが、あれからかなり成長していらっしゃるからわからなかった。ああもっとちゃんと接しておけばよかった、神綺様お許しください、悪気はなかったのです!
「……」
「……」
「……」
「いや、違います! そんな話じゃなかったんですよ! なんで私とパチュリー様をくっつけるような真似を……はっ! もしかして、パチュリー様に私をあてがって本物の魔理沙さんは自分が頂こうとか考えているのですか!?」
危うく話題がぶっ飛んで迷子になるところだった。これももしかしたら彼女の作戦なのかもしれない。いや単純に私の知能指数が低いだけか。かなしい。
とにもかくにも、私がそうまくし立てると、違うわよ、とアリスさんは眉尻を下げながら返答した。そうか、なかなか妥当な推理だと思ったのだが、やはり賢人の考えることは私には想像に難いらしかった。
「可愛い子同士が百合の花を咲かせてるのを横から眺めるのが好きなだけよ」
何言ってんだこいつ。一週間ぶり二回目。
「それなら魔理沙さんとくっつけてもよかったんじゃあ」
「だって、パチュリーったら奥手なんだもの、魔理沙に会っても何にも行動に起こさないし、私があれこれやってみても最後には引き返しちゃって、なかなかうまいこといきそうになくて……別にそういった風なのが好きじゃないってわけじゃなくてむしろ好きではあるのだけれど、少々マンネリが過ぎてね……つまるところが、一つになったカップルの話を根掘り葉掘り聞きたいというか」
「めっちゃ喋りますね、てか歪みすぎでしょう」
ああこの人自分のテリトリーに入ったら急に饒舌になるタイプの人か。人じゃないけど。なんというか、友達、少ないんだろうなあ。私が言えたことではないけれども。
「というわけで、どっちが攻め? どっちが攻め?」
「うわグイグイ来る」
自分の趣味のことになったら急に他人との距離も弁えることなく一気に馴れ馴れしくなるタイプの人か。人じゃないけど。なんというか、友達、少ないんだろうなあ。この語り、さっきもやったけれども。
「そんなこといちいち考えてませんよ」
「えっリバ!? やるわね貴女達……」
「何の話ですか!」
閑話休題させてくれ。
アリスさんが鼻息を荒くしながら私の肩を揺らす。なんで他人の恋愛事情にそこまで熱くなれるのか私には理解できそうになかった。淫魔という特殊な生まれのせいか、否、これは私が人間だったとしてもその他だったとしても関係なく理解できない趣味だろうな、そんなことを思いながら、苦笑して前へと歩みを進める。さて、もうすぐ図書館だ。パチュリー・ノーレッジが私を、もとい、霧雨魔理沙を、心待ちにしていることだろう――そう思って、少しだけ、スピードを上げた。
重厚なドアを開けた。
霧雨魔理沙がいた。
惚けているパチュリー・ノーレッジもいた。
顎が外れるかと思った。
「お、おい小悪魔! なんなんだよ、その服!」
「お、おい魔理沙! なんなんだよ、その服!」
「小悪魔ちゃん、張り合わなくてもいいのよ。確実に負けるから。所詮偽物は偽物なのよ」
そうか。では一旦落ち着いて、霧雨魔理沙を見てみよう。なるほど、私はこんな顔をしていたのか。悪くない。
「ああ、これはアリスさんが『小悪魔ちゃんって魔理沙に似てるわね』と仰ったので」
「仰ったのでじゃねえよ人為的にドッペルゲンガー生み出してんじゃねえよ」
的確な突っ込みを返してくる霧雨魔理沙。やはり人間は常識を忘れられない生き物なのだろうか、たとえ普段は突拍子もない妖怪たちとつるんでいたとしても本質は人間だということなのだろうか。
「魔理沙の格好してたらパチュリー落とせるわよって吹き込んだのよ。私が」
「その聡い頭脳と続く発想力と鋭い炯眼をもっと世のため人のために使おうとは思わないのかよ……」
何故か得意気なアリスさんに、霧雨魔理沙が嘆息する。全くもって彼女の言う通りだと思う。
「何言ってるの、私は小悪魔ちゃんの恋を手助けしてあげたじゃない」
「ばばばばば、ばっかちげーし! パチュリー様のことなんて全然好きじゃねーですし!」
「今更何言ってんだお前」
顔が赤くなるのを感じた。とりあえず否定しなければいけない気がした。頭が回らなかった。他人の好きな人は他言しちゃいけないって寺子屋で習わなかったのか! 習ってないか! そうだね魔界神の娘だもんね! でもちょっとデリカシーが足りないんじゃないかと、私は思うわけですよ。恥ずかしいじゃないですか。
「全然好きじゃないのに貴女は私と閨を共にしたというの……?」
パチュリー・ノーレッジの瞳からハイライトが消えていく。なんだこれ。加速度的に意味不明になっていくこの状況はなんだ。週刊連載の少年漫画か。
「そんなことないわよ、小悪魔ちゃんなりの照れ隠しよ」
「小悪魔? 誰それ?」
「一週間で綺麗さっぱり部下の記憶を消しちゃったかー」
これまで私が彼女と過ごしていた数十年間は霧雨魔理沙に仮装していた一週間に敵わないというのか。私の自尊心はとっくに零よ!
「って、よく考えたら魔理沙が二人いるじゃない! ああ、そういえば部下を魔理沙にしたような記憶があるわ。急に夢から連れ戻された気分よ」
「よく考えないとわからなかったのか……?」
パチュリー・ノーレッジの視線が気だるそうに私を突き刺した。ああっ申し訳ない。私が悪いのかどうかはわからないけれど、どうやら私に快くない何かがあったらしい。そして霧雨魔理沙がそんな彼女を訝しげに見つめている。
「で、あー、つまり、アリスの進言で、パチュリーの気を引くために、小悪魔は私の物真似をして過ごしていたと。で、パチュリーはそれにかなりハマっちまって、そのまま一週間、私に扮した小悪魔とパチュリーが恋仲になってたってわけか」
霧雨魔理沙が有難いことに話をおさらいしてくれている。こんなカオスから状況を把握することができるなんて、彼女も腐っても魔法使い、賢いのだなあと思う。
「そういうことよ、笑いたいなら笑えばいいわ」
「哀れだな」
「心に来る嘲りはやめて」
霧雨魔理沙に吐き捨てるような憫笑を貰って机に突っ伏すパチュリー・ノーレッジ。着飾っている自分で言うのもなんだけれど、私も同じ立場なら同じことを言っていたと思う。なんだこいつらってなるよそりゃあ。
「ていうか、お前らさあ……偽物の私を作って恋愛ごっこして、楽しいのかよ?」
ついに根底をひっくり返し始めた。私が耳を塞ぎ続けていたことを、こいつは、いとも容易く。
「私は楽しいわよ!」
「お前はそうだろうよ!」
アリスさんのサムズアップ。この魔女ずっと楽しんでるな。今回の首謀者だし。この霧雨魔理沙の反応を見るに、彼女はアリスさんの嗜好を理解しているらしかった。アリスさん、隠す気は無いらしい。清々しいな。
「わ……私だって……本当は……」
ついにパチュリー・ノーレッジの瞳が潤み始めた。確かに、ここ一週間の生活を冷静に思い返すと、途轍もない虚無感に襲われそうになる。
「パチュリーお前さあ、私のことが好きならそう言えばいいじゃねえか。わざわざ部下で人形遊びみたいな真似しなくても、私だってお前を快く思ってるんだ」
少しだけ呆れたような口調で、パチュリー・ノーレッジを諭す。そんな台詞、よくもまあ。恥ずかしくないのだろうか。
「そんで小悪魔もさあ……」
その矛先は当たり前ながらこちらにも向かってきた。実行犯って私だしね。別に悪いことをしたわけではないのだけれども、しかたない、当然の話だ。霧雨魔理沙が、パチュリー・ノーレッジの横からこちらへと歩み寄ってくる。
「その服でパチュリーと愛し合って、お前、幸せだったか?」
至近距離。脳に響く文句。ああ、その通りだ。貴女の言う通り、私はこの一週間、引っ掛かりを抱えたまま彼女と過ごしていた。彼女は確かに私を労わってくれたし、愛してくれたし、認めてくれた。けれど、彼女が貴女の名前を呼ぶ度に、私の笑顔はぎこちないものになっていくのだ。彼女は貴女の名前を呼びながら私を抱きしめていたのだ。
今思えば笑える話だ。どこが伴侶だ。私は私でなくちゃあいけないじゃないか。性質? 知ったこっちゃない。種族? そんなものは魔界の田舎に置いてきた。
「ありがとうございました、魔理沙さん」
「目が覚めたって顔だな」
頷いて、帽子と鬘を投げ捨てた。
パチュリー・ノーレッジに向き直る。
「パチュリー様。私は、小悪魔は、貴女のことが好きです。霧雨魔理沙の生き写しとしてではなく、一匹の悪魔として、私と交際していただけませんか」
背後の気配は気にならなかった。とにかく今の気持ちの昂りを無駄にしたくなかった。当たって砕けろ、上等だ。
「え、やだ」
当たって砕けた。
まあ、それもそうか。さっきの発言で、彼女の心は霧雨魔理沙一本に絞られていた筈なのだから。
でも、それでいい。これから彼女を振り向かせてみせる。いつかお前に勝ってやる、霧雨魔理沙。首を洗って待っていろ。すっきりと、爽やかな気分で、渾身の笑顔で振り向いた。
霧雨魔理沙が笑顔で迎えてくれた。
アリスさんは帽子と鬘をせっせと拾っていた。後でもいいだろそれは。私の気分を考えて欲しかった。
「よかったぜ、小悪魔」
霧雨魔理沙と私の右の掌同士が高らかに音を奏でて、閉じ篭った図書館の中に反響した。二人が帰ったら、すぐにでも元の服に着替えようと思う。
私の恋が、これから始まる。
人の恋愛助けてるようで面白がってるアリスが気持ち悪い
最後に美味しい所もって行くキャラにしたかったんだけど全然持っていけてない霧雨魔理沙が気持ち悪い
パチュリーも色々とあれだが何よりアリスが酷すぎる。
唐突な身分自慢や他人を小馬鹿にして見下したような態度…原作でも妖精見下してたからそんなもんかもしれないけど。
もう魔女なんだし人間のモラルや倫理はないにしても爽快感のある悪役でもなく不愉快になる三流悪役にしかなれてないよ。
アリスがガス抜きしたんだろうと邪推
魔理沙は本来ならパチェリーも小悪魔も怒鳴りたい気分になる状態だったと思うけど
動じず綺麗事で説得できたのはえらいと思う
パチェリーヤベー状態だっただろうし