守矢が妙ちきりんなものを売り出した。
そんな噂が最初に霊夢の耳に入ったのは、山の桜もいよいよ艶やかに咲き誇りそうな気配を匂わせ、誰も彼も花見の席の準備を始め出した頃であった。何でも食べると幸せを感ぜられるのだとか。箒に乗った噂の運び屋は好奇心に操られた様子で霊夢を引き連れようとしたが、守矢が妙なのは天地開闢以来の常であると言われると、それもそうかとあっさりと興味を無くしてその日はそのまま博麗神社に居座った。
次には白黒が妙ちきりんなものは美味であるし不味でもあることを拾ってきて、また次には恋の魔法使いが妙ちきりんなものは消滅期限なるものがあることを拾ってきて、またまた次にはキノコ好きの娘が妙ちきりんなものはいくら食べても太らないことを拾ってきて、またまたまたには困知勉行な道楽者が妙ちきりんは海に由来するものだということを拾ってきた。
聞けば聞くほどに妙ちきりんなもので、流石の霊夢も好奇心を揺さぶられ始めていたが、供給量が少ないことと売りに出てくる日が不規則であることを霧雨魔法店の女主人から聞き及んでおり、徒労に終わってしまうとの思いがそのまま腰の重いになっていた。
しかし、里へ食材の補給に出掛けたある日に実際に守矢が妙ちきりんなものを売っているのに出くわすと、どうもわざわざ手に入れるに足る凄いものだと認識することとなった。
手の平に包み込める大きさのものがお一人様一個限りで売られ、消滅期限は今日の日没までと怪しい注意書きがされ、買い食いをしている輩の反応が甘いから辛いまで、歯応えがあるから口の中でとろけるまでと一通り揃っている。そんな妙ちきりんなものに老若男女人妖問わず行列を作っているのだから、そこまでの人気というものを味わってみたくなったのだ。
話では最初こそ神社にて並んでいたものであるが、口コミで評判が広まって人が増えると天狗たちから文句が来たらしく、今はこうしてたまに里の自由市へ持ってくるのが唯一となっている。それもご覧の人気っぷりであるので霊夢には真っ当に手に入れられるかが怪しくなっていた。
博麗神社から人里へはやや遠い。大酒飲みの幼鬼に頼めば、妙ちきりんを背負った守矢が人里に降りてきたのを知ることは出来るだろう。しかし、この様子だと知ってから移動したのでは、霊夢の速度だとついた頃には守矢の影すら踏めまい。
では偶然に頼って毎日里に出掛けるのはどうかと言うと、これは霊夢的には勘弁であった。彼女は基本神社に籠もりっぱなしの種族である。それでも煩い連中はやってくるし、知らせを回さずとも宴会は開かれる。環境が彼女を怠惰、いや、省エネな生き物にした訳だ。
そこで彼女は完売御礼の声を鳴らして帰っていった守矢を追いかけるようにふわりと浮き上がった。かの面々とは交友があり、頼めば融通してくれるだろうとの楽観的計画である。
わんこ天狗をぺちりと叩き、からす天狗をぺちりと叩き、ついでにふわふわしてた秋姉妹をぺちりと叩いて守矢神社に辿り着いた霊夢は、早速とばかりに守矢のお嬢さんのもとへ歎願を行った。
守矢の早苗嬢は真に恩を知る性格で、霊夢の無理なお願いも日頃お世話になっているからとの理由で受けてくれた。
自分たち用に取っておいたものだと説明して出された妙ちきりんなものは、見た目は物寂しいものであった。色は白で形は長方形。飾りも模様もない。砂糖の固めたようにも見えるが、結晶がきらきらと輝くこともない。ただ白いのである。はんぺんのようにぷるっとしているとも、豆腐のようにつるっとしているようにも、餅のようにもちっとしているようにも、淡雪のようにふわっとしているようにも見えず、全く見た目では味の想像が付かない。
淹れてもらったお茶を脇に備え、霊夢は未知のものに対する僅かばかりの緊張を持ちながら、妙ちきりんをぽーんと口の中へ放り込んだ。
途端に広がったのは花の香り。香油とは違う豊かで長閑な、春先の色鮮やかに踊る野原を思い浮かばせる。舌では柔らかな甘さがとろとろと溶け出し、後を残さずにすっと消えていく。触りは滑らかで、噛もうとする前に消えてしまうほど儚い。花の蜜で作られた糸飴。そう評するのが一番近いだろう。
霊夢の顔が自然に綻ぶ。噂になるのも行列が出来るのも納得する美味しさに大変満足していた。一つ言うならば今食べた分しかないことだろうか。この軽い口溶けのお菓子、何個でも腹に収めたくなる。
霊夢はちらちらと目配せをしてもう一個をねだったが、早苗嬢の甘さは二度は続かず、きっぱりダメだと撥ね退けられた。曰く、食べ過ぎては障りが出ると。
こんなに小さいのだから一個も二個も十個も変わりはあるまいと思う霊夢であったが、好意で貴重な一個を提供してくれた早苗嬢への感謝から強く迫ることは無かった。
翌日、霊夢は人生で一番満ち足りた朝を迎える。
まず、目覚めが爽やかであった。体の重いことも気の重いこともなく、眠気の完全に抜けた覚醒を迎え、未練を引かずにすっと布団から起き上がることが出来た。大きく伸びをして肺いっぱいに新鮮な空気を取り込むと、身体の隅々にまで活力が湧いてくる。障子を開いて朝日を部屋に迎え入れると、充足や多幸感が心を満たした。
葉についた露が、庭の砂に混じる石英が、空をまばらに流れる雲たちが、そよそよと風が髪を撫でるのが、お零れを啄む小鳥らのちぃちぃ鳴くのが、白や黄をはためかせて中空を泳ぐ蝶々が。万物が愛らしく、万事が万事に風流を感じる。
自然は壮麗、生命は美麗、花鳥風月は友であり、世は万里同風。幸福が世界を満たし、愛こそが真理。大きく開けた視界には前途洋々とした人生が映る。嗚呼、生きることはなんと楽しいことなのか。
霊夢は大真面目に慈愛と至福の只中に埋もれていた。もっとも朝食の支度を始めた辺りでその気持ちは急速に萎み、角を生やした同居人などは幸福の余波である少し豪華な朝餉と、何時もと変わらぬ霊夢の様子を見比べてしきりに首を捻ることとなった。
その日の午後、霊夢は再び守矢へと向かっていた。あの幸福な時間が偶然でないことは噂にもある通りで、1日の始まりが快調に滑り出せるなら毎日食べない手は無いと思った次第である。それに妙ちきりんは思い出すほどに美味であった。
ふわふわしていた唐傘をぺちりと叩いて守矢へたどり着くと、朝も早くから神さまに布団が干せないから起きてくれとの祝詞を捧げている仕事熱心な早苗嬢に嘆願を行った。本日は金子もあるので、きちんと買い取るとの旨を加えて。
それに対する早苗嬢の答えは出来ないであった。
1日経ってもまだ食べ過ぎだと言うのかと不満を漏らす霊夢に早苗嬢は淡々と説明した。
消滅期限は販促の為の文句ではなく、実際に作った日の日没には靄の如く消えてしまい、作り置きということが出来ないこと。安定した生産が行えず、毎日作れているわけではないこと。
何より恩のある人、仲の良くなった人の随分と増えた今、優先的に配ってしまったら一般のお客様に渡る分が無くなってしまうと。早苗嬢は誠に博愛を知る人物であった。
さて、妙ちきりんなもの。作っているというより天界の雲でも千切ってきているかのような存在である。普段なら遠ざける為の方便だろうと疑って食い下がるところであるが……。
霊夢は頬を掻いた。彼女、どうにも早苗嬢に弱い所がある。特に今回のように舌に綺麗な心が乗っていると、霊夢の方の舌は捻くれた理屈も返せないポンコツになってしまう。
妙ちきりんなものをねだるのは諦め、お土産に幾つか野菜を包んでもらって自分の神社へとすごすご帰っていった。
ねだるのは諦めた。しかしどうしても欲しい。霊夢は考え、そして閃く。
困った時の幼馴染である。二人乗りで多少落ちるとしても、彼女の速度なら間に合う。
空の速度超過常習犯も妙ちきりんなものを希求していたようで、ようやく霊夢がその気になってくれたと喜んで提案を受け入れた。
不覊奔放のちびっ子が人里に分身を飛ばし、星と降る少女は魔力伝達の最適化に勤しみ、霊夢はお茶を飲んでだらりとする。博麗神社に敷かれる布団が一組増えて二週間とちょっと。遂に機会は訪れる。
朝食の時間をほっぽり出してずざざと滑り込んでくれば、列の先頭に立つ人のつむじが見える余裕の購入可能圏内。少女たちは拳を突き合わせた。
早苗嬢が店先に顔を出すと群衆の気は期待にざわりと揺れた。しかし、その後に守矢の二柱が現れて護衛人のように傍に立つと、別の意味で群衆はざわりと揺れた。どうもこれが常ならぬことは初回の二人にも分かる所で、値上げでもするのだろうかと軽い財布を心許なさげに握りしめた。
しかし、事態はそれより深刻であった。
販売停止。
早苗嬢が店先にばさりと吊るした大紙にはその四文字が並んだ。
早苗嬢は深々と頭を下げて、このような運びとなってしまったことへの謝罪とこれまでの声援と購買への多大な感謝を述べた。その姿勢は健気でいじらしく、また上体を傾けたその姿勢は胸の谷間が強調されて艶かしいが、そんなことで群衆の間で膨らんだ不満は霧散しきるものではなかった。
神さま二人が睨みを利かせている故、荒れる群衆の気は個人への攻撃に変じてしまうギリギリで止まっているが、野次は辺りを縦横無尽に飛び跳ねている。いやはや、強大な神徳に当てられて尚口が塞がらないのは人と超常が近しい証左か、それとも集団となった有象無象の愚かさは神の威徳をも霞ませるという話か。
経済に及ぼす影響と消費者の健康に対する配慮だと説明はされたが、今の群衆を納得させるものではなかった。こういう時に大衆が求めるのは相手を思い切り非難する大義名分が得られるような下衆な理由か、重箱の隅まできっちり詰められた整然とした客観的事実かのどちらかである。その他曖昧な物や甘ったれた理由は真実だろうと受け付けない。
守矢の面々も熱気の高まり具合からそれを察したのだろう。まともな話し合いにはならぬと謝罪を終えた後はさっさと山に戻ってしまった。
守矢という対象が去ったことで市場に渦巻く陰気は幾分払われたが、口にかかる重りが外れたことで思い思いの愚痴や非難、ついで推察や失意がわっと流れ出した。
失望しました、秋神の信仰止めますといった声も何処からか聞こえてくる盛り上がりである。
その渦中、二人の少女も大いに不満を抱えていた。そしてこの少女たち、ただの少女ではない。神も妖怪も恐れぬ少女である。
怒れど一線を越えて行けない民草と違い、妖怪の山に認可無しで押し入ることも、神に対して中指を突き立てることも恐ろしいとは思っていない。
幾らか言葉を交わし合い、彼女らは意思を決定した。
直談判である。守矢の本拠地に乗り込み、最低でも納得のいく説明を、出来るなら販売の再開を、叶うなら妙ちきりんの奪取を目指して紅と金の弾丸が山の斜面を駆け上がる。
くるくる回る厄神やぱちゃぱちゃ泳ぐ河童を余波に巻き込みつつ辿り着けば、そこに広がるのは何やらもちっともつるっともぷるっともしていない白い塊を前に蛇と蛙と早苗嬢が分けるか捨てるかと話し合っている光景。
妙ちきりんを占有するとはこれけしからぬ、分けるならこっちに投げろ、捨てるなら寄越せと霊夢が飛び掛かる。ギョッとする守矢一家。
それに待ったをかけたのは霊夢と共に来た塵芥の蒐集家。彼女はまず白い塊が確かに妙ちきりんであることを確認し、それから友にどうしてアレが妙ちきりんであることを知っているのかと訪ねた。
友は何でもないように答えた。其処な早苗嬢に一つ馳走になったからである、と。
この時、妙ちきりんを食べていない方の少女に走った衝撃を果たしてどの程度汲んでやれるだろうか。
思い出されるは霊夢に声を掛け続けた日々。霊夢は釣れない少女だ。あれやこれやと言い訳をして滅多に動かない達人である。それでも毎日噂をぽんぽーんとその耳に運んでやると、聞きの姿勢が段々と良くなってくる。そして遂には向こうからのお誘いだ。心踊れば、胸も跳ねる。別に一人で買いに行くことが怖かったのではない。ただ、妙ちきりんを食べることをとても楽しみにしていた。そんな楽しみは仲の良い者と共有したいもので、陰森のシューティングスターにとってそれは霊夢であった。
だが、蓋を開けてみればどうだ。いざや赴いた市場では販売停止を喰らい、それでもめげずに守矢まで来てみれば親友の裏切りを喰らい。どしゃりと落とされた膝は、簡単には持ち上がらないだろう。
目も虚ろに嘘だ嘘だと呟く犠牲者の姿は余りに哀れで、神の慈愛をも惹くこととなった。それぞれ背丈の違う二柱に頭撫でられ背中さすられ、傷を癒すために静かに社の奥へと連れていかれた。
不幸な事故はあったが、そうして今残るは巫女が二人。一人は寄越せと迫り、もう一人は渡せぬと頑として譲らぬ。バチバチ視線がぶつかり、霊気を含んだ風が木々の枝を荒々しく揺らす。見つめ合って膠着すること数分、元よりヤクザ気質でない温和な少女であれば、先に折れたのは早苗嬢であった。
渡せはせぬがせめて訳を話そうと、霊夢を居間に通した。
守矢が外からやって来た者たちで、その知識や文化を惜しげも無くばら撒いた結果、守矢ショック、早苗ショックと呼ばれる変化が幻想郷にもたらされたことは古くないが、妙ちきりんはそうした外の世界の菓子ではない。彼女たちが幻想郷に来たからこそ生まれた菓子である。
さて、妙ちきりん妙ちきりんとすっかり浸透してしまったが、実はこの菓子にはきちんとした名前がある。
その名をこはまぐり。漢字で書くと鼓浜栗。栗など入っていないが鼓浜栗。書き換えると小蛤。なんとも汁に入れたり、酒で蒸してみたりしたくなる名前であるが、何も適当につけたものではない。きちんと由来とする所がある。
鼓浜栗が最初に現れたのは冬の寒さもいよいよ本気を出して人も妖もみな纏めて炬燵に押し込めようとしだした、そんな時期であった。
慌てた様子の早苗嬢が神のおわす炬燵の上にとんと白い塊の乗ったお盆を置いた。
何だと問われると、白玉楼の庭師のように自分の魂もすっぽり身体から抜け出てしまったのだと悲嘆めいて言うものだから、神さまはそんなことにはなっていないと笑った。神の感覚では早苗嬢の魂はしかとその豊満な肉体の内にあったし、盆に乗った白い塊からは何ら霊的なモノは見いだせなかった。笑ったついでに白玉楼の剣士は魂と魄が別れた形で生きる種族だと説明してやる。
それを聞いてほっと胸をなでおろすとともにまた一つ賢くなった早苗嬢であるが、そうなると原初的な問題が出てくる。
つまり、これは何か。
この問いには神さまも口を噤んで頭を捻る。もちもちふわふわつるつる。見てくれではどれともつかぬ白い塊。こんな妙なものには出会ったことが無かった。
触ったり叩いたり伸ばしたり嗅いだりしながら何とか正体を探ろうとして暫く。バサッと切ったことで何かの卵や植物果実の類でないことまでは判明したが、そこから先がなんとも掴めない。
埒が開かぬで食べてみようかと提案したのは小さい方の神さまであった。
二人にじっと毒味の様子を見守られるなか、恐れなどないと言わんばかりに大口を開けて白い塊にかぶりつく。もきゅもきゅ口を動かし、ごくりと嚥下。果たしてそのお味は如何に。又はその毒性や如何に。
神は答えた、美味であると。つるっとして甘い。香りはすっと鼻を抜けていく涼しげな柑橘系。夏蜜柑の餡を包んだ水羊羹のようだ。
美味い美味いと蛙が跳ねる。そのままコロリと倒れこむことも無いみたいであるので、大きい方の神も白い塊に一つ噛み付く。しかし、こちらの方の反応は真反対であった。顔をきつく顰めると湯呑み二杯ほどのお茶を口に流し入れた。大層苦かった上に噛みきれぬほど筋があったらしい。
美味い不味い美味い不味いと神さま達が言い合う。実際に食べた感想であるので、狂っているのはお前の舌だと両者譲らぬ。異質を炙り出すには多数派と少数派に分けてしまうのが簡単で、奇しくもこの場には奇数の三人。応酬も膠着に入った所で早苗嬢に二つの視線が向かった。
神にはなんともなくとも弱き人の身では何が起こるか分からない。そんな恐怖はあるが、神さま二柱に迫られてはこれ断り辛く、ごくりと緊張の唾を飲み込んで小さな切れ端をそっと口に運ぶ。
味も何もせぬと早苗嬢は呟いた。
色々検証を重ねた結果、白い塊は早苗嬢以外の者だと口に放り込むたびに味が変わる妙なものであった。さらに妙なことには、この白い塊、一夜にして跡形もなく消えてしまった。物知りな暇人達に聞いて回るかと冷蔵庫の中に保存していたのだが、次の朝を迎えてみれば空になった皿が虚しく冷やされていただけであったのだ。
狐につままれたか、狸に化かされたか、蛤に虹を見せられたか。あれだけ騒いだのになんとも遣る瀬無い締め括りであるが、こんな不思議な出来事も或いは魑魅魍魎が東に西に駆け回る幻想郷では日常茶飯事なのかもと、守矢一家は前向きに考えることとした。
そして実際、白い塊が現れることは日常茶飯事となった。
完全に不規則に早苗嬢の枕元に転がっては、日の沈むとともに文字通り霧散する。夜に怪しの者でも入り込んでいるのではないかと結界を張ってみても朝方にはこてんとあって、夜になると影形を薄くしながら消えてゆく。
5度目の出現を迎えた時に訳の分からぬまま放って置くのはすっきりせぬし、些か不気味であるということで一致した守矢一同は、早苗嬢の傍らに寝ずの番を立てて、いよいよその発生源を突き止めることとした。
冬の終わり頃、守矢の神さまが一柱しか居らぬ、居る方も何処か不機嫌であると不安がられた裏にはこういった事情があったのである。
さて、その甲斐有って白い塊の正体は此処に暴かれた。
白い塊、生まれの元は早苗嬢である。寝ずの番をしていた神さまの言には、寝ている早苗嬢の頭から瘤のように膨らんで、太陽が顔を出すとプチっと離れたのだと。
発生源がそうであるなら、これまで分かっている性質と合わせて、この妙な塊が何であるかも推測出来る。
ずばり、早苗嬢の夢である。
守矢がこうして幻想郷にお引越しをしたのは、科学が理を暴く外の世界では最早得られなくなった信仰を新たに集める為である。結果としてそれは叶い、境内に並ぶ御柱も随分神徳の輝きを増した。しかし嬉しい誤算なのが、思った以上に信仰してもらえたことと、引越し先の立地が大きな気脈の湧く妖怪の山の頂であったこと。神さまは力を急速に取り戻し、その巫女である早苗嬢には恩恵として神気が大量に飛んでくる。常人なら吹き抜けていく類のものであるが、早苗嬢は現人神。魂にある神性が飛んでくる加護をせっせと集め蓄えてしまう。それを人の身の限界まで蓄えようとすると、必然的に神気をぎゅぎゅっと練ってことこと煮詰めて濃度を濃くすることになる。
濃くなった神気はそのままでは些か放出し辛く、形や特性を与えて術と為す必要がある。弾幕を散らす、奇跡を呼び出す、体内の澱みを払うといったことで使いはするが、なにせ元気になった二柱分の神気に加えて気脈から流れてくるものもある。ぎゅうぎゅうに詰まった神気が新たに供給された分に押されて体外へ出ねばならなくなった時、夢と結びつくことで形と特性を得て放出される。古今東西夢枕に立つ輩の多きを見れば、両者が結びつきやすいというのも何となく想像がつくのではないだろうか。
食べる毎に味が変わるのは人が一夜に幾つもの夢を見るからで、その内どれを引き寄せたかで決まるから。夜の訪れとともに消えてしまうのは、次の夢が生まれる時間になった、つまりは夢の寿命というのが人が起きてから寝るまでだからと考えることが出来る。
とまぁ、このように夢であるとすると一応は白い塊の特性について説明がいく。
成分が夢と神気で構成されているならば、悪鬼魔業の類でもなければ毒とはなるまい。そう結論付けた守矢が次に起こした行動は、この白い塊を売り物に出来ないかである。商魂逞しいと言うよりは、食える物をわざわざ残して霧散させてしまうのは勿体ないと言う精神であった。
売りに出すに当たってまず決めたのは名前である。出された候補は三つ。
一つに夢で出来ているのだからと名前もそのままに夢枕。これは安直過ぎてつまらぬと変な拘りのある神さまによって却下された。
二つにかの有名な漢文から名を拝借して胡蝶丸。これは竹林の薬師に権利を主張されたら面倒であるし、ちっともしゃれっ気が無いと変な拘りのある神さまその二によって却下された。
三つにこはまぐり。海上に揺らめく楼閣が如く消えてしまうから、妖怪蜃が大蛤であることにちなんでならば此方はと小蛤。お菓子で使うような漢字に変えて鼓浜栗。特に却下する声が上がらなかったのでこの名前と相成った。
夢と神気が原材料の鼓浜栗。砂糖も葛も小麦も使っていなければ、カロリーは無いだろうと判断した早苗嬢が女の子を引き寄せる為に太らない菓子との売り文句を付けて棚に並べた。
如何に楽に痩せるかということに並々ならぬ努力と情熱を捧ぐは人の性。この文句に参拝に来た女性は見事に吸い寄せられた。また、食べてみるまで味が分からぬのが博打みたいで面白いと男性からも人気が出た。
しかし、それ以上に名を広めた効果があった。神さまたちと夢の生み手である早苗嬢には現れぬから知らなかったのだが、どうも神気をふんだんに使ったこの菓子、食べると夢を見ている間に心や体の澱みを綺麗にする効果があったようなのだ。最も一つに含まれる量はそれほど多く無いので、起きて半刻から一刻ほどで戻る程度の掃除であるが、それでも幸せを感ぜられる菓子だと売りに出して直ぐに大評判となった。
食べても太らず、味が七変化し、消滅期限なるものがあり、次の朝には幸せを感ぜられる。全く妙だ、妙ちきりんだ、守矢の妙ちきりんだと誰かが言ったのがすっかり浸透して、鼓浜栗という名が忘れさられてしまうのも売りに出して直ぐである。
人がやったら入ってくるので案内の天狗も見張りの天狗もとんと足ら無いと泣きつかれたので売り場を里に移し、一人が2個3個買うだけで皆に回らぬほどの行列が出来るようになったので、食べても太らないの文句を消してお一人様1個限りと注意事項を足した。
妙ちきりんの人気は日に日に高まった。早苗嬢も睡眠時間を増やしてみたり、神さま膝枕や神さま抱き枕を用いて生産効率を上げようとしたがどうにもダメで、需要の熱だけが右肩上がりに伸びていった。
その熱が異様だったのは、一度でも食べた客が離れていかないことだ。普通でも幾らかの客は離れていく。妙ちきりんは味に関して言えば当たり外れがあるのだから余計に離れていきそうなのだが、これが離れるどころか余計に熱を帯びた様子になる。
組織ぐるみで買い占めての高値販売で不当な利益を上げる輩、出回る偽物を買わされて泣きつく者が出始めている。それでなくとも昼頃に無気力になってしまう者が多くて問題になっている。
寺小屋の先生が妙ちきりんの起こす問題を守矢に持ってきたのが、ちょうど霊夢と小さな大泥棒が結託した頃だ。
暗に依存性の高い薬を混ぜているだろうと問われた守矢は、もうびっくりである。これこれこうこうと妙ちきりんが夢と神気から作られたものであると身の潔白を説明した。
実際、早苗嬢の夢にニコチンやアルカロイドが詰まっている訳でも、守矢の神気がアドレナリン受容体を刺激する訳でもない。ただ一点、多幸感を得られるというのが依存とも言える熱狂を生んだ原因であった。
脳は幸せを貪る器官である。その為に酒や煙草は古くから人妖の友とされてきたのだし、時には強烈な薬にも手が伸び、賭博というのは一向に廃れぬ。継続した幸福、又は大きな至福を経験すると普通の状態で満足いかなくなり、度々幸せを求めるのも脳の貪欲さである。守矢に非があるのだとすれば、妙ちきりんを安価で売って酒や煙草のように誰でも何度でも気軽に手が伸ばせるものにしてしまったことだ。
救われたことは、妙ちきりんの供給量や日時が不安定であったこと。重度に摂取した者はこの段階ではまだおらず、欲する余りに身を滅ぼしたという例は確認はされていないと歴覧の美食家は言った。
しかし、何れにせよこのままだと良くない影響は強くなる。改善するか、でなければ販売停止にするか。その二択を迫られた守矢は迷わず後者を選んだ。元より利益を上げる為の商売でもなければ、踏ん切りというのも容易であった。勿論、知らぬとは言え迷惑をかけていたのだから、被るであろう非難は覚悟してである。
妙ちきりんの生まれから販売停止に至るまでの顛末はかくかくの如し。
神社に乗り込んでまで手に入れたいその執心、実にらしくないものだと突っ込まれれば、霊夢もはっとせざるをえない。
霊夢は無関心な人間である。何かに躍起になるというのが非常に珍しい。それはさんざっぱら周りがいけずだと愚痴を垂らすものだから、すっかり本人も自覚しているところである。
それが一度食べた妙ちきりんが忘れられず、2週間も神社に伏せり、販売停止と見れば怒りを沸かせて守矢に押し込みをかける。そこまでの執着は確かにらしくない。
霊夢はこれが依存かと自身の中で猛る魔物にぶるりと痩身を震わせた。
慰められるついでに事情も聞いたのだろう。食わなくて正解だったぜ、なんて生意気な口を叩きながら戻ってきた閑古鳥飼いの何でも屋と共に妙ちきりんではないが上等な菓子を食べさせて貰い、そこそこ満足して博麗神社へと戻っていった。
その後であるが、当然のこと妙ちきりんは依然として生まれてきている。しかしもう売りには出せないので消滅させるばかりかと言えばそうではなく、神さまには妙ちきりんの悪い効果が現れぬので、守矢は幻想郷の天神地祇にお裾分けを行っているらしい。お陰で神々の繋がりが増えたとか。
里の方はと言うと、これが以外にも何ともなかった。販売停止を受けて直ぐは守矢への非難、妙ちきりんを求める声が続いたが、心は移ろい流れゆくもの。皐月躑躅咲き、不如帰が鳴き出す頃にはまた別の新しいもの、人気のものに飛びついて、すっかり妙ちきりんのことは話に登らなくなった。
霊夢も妙ちきりんのことはすっかり忘れ、今日も今日とて穏やかな気候を帆に受けてうっつらうっつら午睡に出かける船を漕いでいた。
もう少しで転がってしまうといった傾き具合で名前を呼ばれ、大儀そうに空を見上げれば魔女の影がぴゅーっと近づいてくる。
紅魔館が変てこりんなものを売りだした。
そんな噂を抱えて。
そんな噂が最初に霊夢の耳に入ったのは、山の桜もいよいよ艶やかに咲き誇りそうな気配を匂わせ、誰も彼も花見の席の準備を始め出した頃であった。何でも食べると幸せを感ぜられるのだとか。箒に乗った噂の運び屋は好奇心に操られた様子で霊夢を引き連れようとしたが、守矢が妙なのは天地開闢以来の常であると言われると、それもそうかとあっさりと興味を無くしてその日はそのまま博麗神社に居座った。
次には白黒が妙ちきりんなものは美味であるし不味でもあることを拾ってきて、また次には恋の魔法使いが妙ちきりんなものは消滅期限なるものがあることを拾ってきて、またまた次にはキノコ好きの娘が妙ちきりんなものはいくら食べても太らないことを拾ってきて、またまたまたには困知勉行な道楽者が妙ちきりんは海に由来するものだということを拾ってきた。
聞けば聞くほどに妙ちきりんなもので、流石の霊夢も好奇心を揺さぶられ始めていたが、供給量が少ないことと売りに出てくる日が不規則であることを霧雨魔法店の女主人から聞き及んでおり、徒労に終わってしまうとの思いがそのまま腰の重いになっていた。
しかし、里へ食材の補給に出掛けたある日に実際に守矢が妙ちきりんなものを売っているのに出くわすと、どうもわざわざ手に入れるに足る凄いものだと認識することとなった。
手の平に包み込める大きさのものがお一人様一個限りで売られ、消滅期限は今日の日没までと怪しい注意書きがされ、買い食いをしている輩の反応が甘いから辛いまで、歯応えがあるから口の中でとろけるまでと一通り揃っている。そんな妙ちきりんなものに老若男女人妖問わず行列を作っているのだから、そこまでの人気というものを味わってみたくなったのだ。
話では最初こそ神社にて並んでいたものであるが、口コミで評判が広まって人が増えると天狗たちから文句が来たらしく、今はこうしてたまに里の自由市へ持ってくるのが唯一となっている。それもご覧の人気っぷりであるので霊夢には真っ当に手に入れられるかが怪しくなっていた。
博麗神社から人里へはやや遠い。大酒飲みの幼鬼に頼めば、妙ちきりんを背負った守矢が人里に降りてきたのを知ることは出来るだろう。しかし、この様子だと知ってから移動したのでは、霊夢の速度だとついた頃には守矢の影すら踏めまい。
では偶然に頼って毎日里に出掛けるのはどうかと言うと、これは霊夢的には勘弁であった。彼女は基本神社に籠もりっぱなしの種族である。それでも煩い連中はやってくるし、知らせを回さずとも宴会は開かれる。環境が彼女を怠惰、いや、省エネな生き物にした訳だ。
そこで彼女は完売御礼の声を鳴らして帰っていった守矢を追いかけるようにふわりと浮き上がった。かの面々とは交友があり、頼めば融通してくれるだろうとの楽観的計画である。
わんこ天狗をぺちりと叩き、からす天狗をぺちりと叩き、ついでにふわふわしてた秋姉妹をぺちりと叩いて守矢神社に辿り着いた霊夢は、早速とばかりに守矢のお嬢さんのもとへ歎願を行った。
守矢の早苗嬢は真に恩を知る性格で、霊夢の無理なお願いも日頃お世話になっているからとの理由で受けてくれた。
自分たち用に取っておいたものだと説明して出された妙ちきりんなものは、見た目は物寂しいものであった。色は白で形は長方形。飾りも模様もない。砂糖の固めたようにも見えるが、結晶がきらきらと輝くこともない。ただ白いのである。はんぺんのようにぷるっとしているとも、豆腐のようにつるっとしているようにも、餅のようにもちっとしているようにも、淡雪のようにふわっとしているようにも見えず、全く見た目では味の想像が付かない。
淹れてもらったお茶を脇に備え、霊夢は未知のものに対する僅かばかりの緊張を持ちながら、妙ちきりんをぽーんと口の中へ放り込んだ。
途端に広がったのは花の香り。香油とは違う豊かで長閑な、春先の色鮮やかに踊る野原を思い浮かばせる。舌では柔らかな甘さがとろとろと溶け出し、後を残さずにすっと消えていく。触りは滑らかで、噛もうとする前に消えてしまうほど儚い。花の蜜で作られた糸飴。そう評するのが一番近いだろう。
霊夢の顔が自然に綻ぶ。噂になるのも行列が出来るのも納得する美味しさに大変満足していた。一つ言うならば今食べた分しかないことだろうか。この軽い口溶けのお菓子、何個でも腹に収めたくなる。
霊夢はちらちらと目配せをしてもう一個をねだったが、早苗嬢の甘さは二度は続かず、きっぱりダメだと撥ね退けられた。曰く、食べ過ぎては障りが出ると。
こんなに小さいのだから一個も二個も十個も変わりはあるまいと思う霊夢であったが、好意で貴重な一個を提供してくれた早苗嬢への感謝から強く迫ることは無かった。
翌日、霊夢は人生で一番満ち足りた朝を迎える。
まず、目覚めが爽やかであった。体の重いことも気の重いこともなく、眠気の完全に抜けた覚醒を迎え、未練を引かずにすっと布団から起き上がることが出来た。大きく伸びをして肺いっぱいに新鮮な空気を取り込むと、身体の隅々にまで活力が湧いてくる。障子を開いて朝日を部屋に迎え入れると、充足や多幸感が心を満たした。
葉についた露が、庭の砂に混じる石英が、空をまばらに流れる雲たちが、そよそよと風が髪を撫でるのが、お零れを啄む小鳥らのちぃちぃ鳴くのが、白や黄をはためかせて中空を泳ぐ蝶々が。万物が愛らしく、万事が万事に風流を感じる。
自然は壮麗、生命は美麗、花鳥風月は友であり、世は万里同風。幸福が世界を満たし、愛こそが真理。大きく開けた視界には前途洋々とした人生が映る。嗚呼、生きることはなんと楽しいことなのか。
霊夢は大真面目に慈愛と至福の只中に埋もれていた。もっとも朝食の支度を始めた辺りでその気持ちは急速に萎み、角を生やした同居人などは幸福の余波である少し豪華な朝餉と、何時もと変わらぬ霊夢の様子を見比べてしきりに首を捻ることとなった。
その日の午後、霊夢は再び守矢へと向かっていた。あの幸福な時間が偶然でないことは噂にもある通りで、1日の始まりが快調に滑り出せるなら毎日食べない手は無いと思った次第である。それに妙ちきりんは思い出すほどに美味であった。
ふわふわしていた唐傘をぺちりと叩いて守矢へたどり着くと、朝も早くから神さまに布団が干せないから起きてくれとの祝詞を捧げている仕事熱心な早苗嬢に嘆願を行った。本日は金子もあるので、きちんと買い取るとの旨を加えて。
それに対する早苗嬢の答えは出来ないであった。
1日経ってもまだ食べ過ぎだと言うのかと不満を漏らす霊夢に早苗嬢は淡々と説明した。
消滅期限は販促の為の文句ではなく、実際に作った日の日没には靄の如く消えてしまい、作り置きということが出来ないこと。安定した生産が行えず、毎日作れているわけではないこと。
何より恩のある人、仲の良くなった人の随分と増えた今、優先的に配ってしまったら一般のお客様に渡る分が無くなってしまうと。早苗嬢は誠に博愛を知る人物であった。
さて、妙ちきりんなもの。作っているというより天界の雲でも千切ってきているかのような存在である。普段なら遠ざける為の方便だろうと疑って食い下がるところであるが……。
霊夢は頬を掻いた。彼女、どうにも早苗嬢に弱い所がある。特に今回のように舌に綺麗な心が乗っていると、霊夢の方の舌は捻くれた理屈も返せないポンコツになってしまう。
妙ちきりんなものをねだるのは諦め、お土産に幾つか野菜を包んでもらって自分の神社へとすごすご帰っていった。
ねだるのは諦めた。しかしどうしても欲しい。霊夢は考え、そして閃く。
困った時の幼馴染である。二人乗りで多少落ちるとしても、彼女の速度なら間に合う。
空の速度超過常習犯も妙ちきりんなものを希求していたようで、ようやく霊夢がその気になってくれたと喜んで提案を受け入れた。
不覊奔放のちびっ子が人里に分身を飛ばし、星と降る少女は魔力伝達の最適化に勤しみ、霊夢はお茶を飲んでだらりとする。博麗神社に敷かれる布団が一組増えて二週間とちょっと。遂に機会は訪れる。
朝食の時間をほっぽり出してずざざと滑り込んでくれば、列の先頭に立つ人のつむじが見える余裕の購入可能圏内。少女たちは拳を突き合わせた。
早苗嬢が店先に顔を出すと群衆の気は期待にざわりと揺れた。しかし、その後に守矢の二柱が現れて護衛人のように傍に立つと、別の意味で群衆はざわりと揺れた。どうもこれが常ならぬことは初回の二人にも分かる所で、値上げでもするのだろうかと軽い財布を心許なさげに握りしめた。
しかし、事態はそれより深刻であった。
販売停止。
早苗嬢が店先にばさりと吊るした大紙にはその四文字が並んだ。
早苗嬢は深々と頭を下げて、このような運びとなってしまったことへの謝罪とこれまでの声援と購買への多大な感謝を述べた。その姿勢は健気でいじらしく、また上体を傾けたその姿勢は胸の谷間が強調されて艶かしいが、そんなことで群衆の間で膨らんだ不満は霧散しきるものではなかった。
神さま二人が睨みを利かせている故、荒れる群衆の気は個人への攻撃に変じてしまうギリギリで止まっているが、野次は辺りを縦横無尽に飛び跳ねている。いやはや、強大な神徳に当てられて尚口が塞がらないのは人と超常が近しい証左か、それとも集団となった有象無象の愚かさは神の威徳をも霞ませるという話か。
経済に及ぼす影響と消費者の健康に対する配慮だと説明はされたが、今の群衆を納得させるものではなかった。こういう時に大衆が求めるのは相手を思い切り非難する大義名分が得られるような下衆な理由か、重箱の隅まできっちり詰められた整然とした客観的事実かのどちらかである。その他曖昧な物や甘ったれた理由は真実だろうと受け付けない。
守矢の面々も熱気の高まり具合からそれを察したのだろう。まともな話し合いにはならぬと謝罪を終えた後はさっさと山に戻ってしまった。
守矢という対象が去ったことで市場に渦巻く陰気は幾分払われたが、口にかかる重りが外れたことで思い思いの愚痴や非難、ついで推察や失意がわっと流れ出した。
失望しました、秋神の信仰止めますといった声も何処からか聞こえてくる盛り上がりである。
その渦中、二人の少女も大いに不満を抱えていた。そしてこの少女たち、ただの少女ではない。神も妖怪も恐れぬ少女である。
怒れど一線を越えて行けない民草と違い、妖怪の山に認可無しで押し入ることも、神に対して中指を突き立てることも恐ろしいとは思っていない。
幾らか言葉を交わし合い、彼女らは意思を決定した。
直談判である。守矢の本拠地に乗り込み、最低でも納得のいく説明を、出来るなら販売の再開を、叶うなら妙ちきりんの奪取を目指して紅と金の弾丸が山の斜面を駆け上がる。
くるくる回る厄神やぱちゃぱちゃ泳ぐ河童を余波に巻き込みつつ辿り着けば、そこに広がるのは何やらもちっともつるっともぷるっともしていない白い塊を前に蛇と蛙と早苗嬢が分けるか捨てるかと話し合っている光景。
妙ちきりんを占有するとはこれけしからぬ、分けるならこっちに投げろ、捨てるなら寄越せと霊夢が飛び掛かる。ギョッとする守矢一家。
それに待ったをかけたのは霊夢と共に来た塵芥の蒐集家。彼女はまず白い塊が確かに妙ちきりんであることを確認し、それから友にどうしてアレが妙ちきりんであることを知っているのかと訪ねた。
友は何でもないように答えた。其処な早苗嬢に一つ馳走になったからである、と。
この時、妙ちきりんを食べていない方の少女に走った衝撃を果たしてどの程度汲んでやれるだろうか。
思い出されるは霊夢に声を掛け続けた日々。霊夢は釣れない少女だ。あれやこれやと言い訳をして滅多に動かない達人である。それでも毎日噂をぽんぽーんとその耳に運んでやると、聞きの姿勢が段々と良くなってくる。そして遂には向こうからのお誘いだ。心踊れば、胸も跳ねる。別に一人で買いに行くことが怖かったのではない。ただ、妙ちきりんを食べることをとても楽しみにしていた。そんな楽しみは仲の良い者と共有したいもので、陰森のシューティングスターにとってそれは霊夢であった。
だが、蓋を開けてみればどうだ。いざや赴いた市場では販売停止を喰らい、それでもめげずに守矢まで来てみれば親友の裏切りを喰らい。どしゃりと落とされた膝は、簡単には持ち上がらないだろう。
目も虚ろに嘘だ嘘だと呟く犠牲者の姿は余りに哀れで、神の慈愛をも惹くこととなった。それぞれ背丈の違う二柱に頭撫でられ背中さすられ、傷を癒すために静かに社の奥へと連れていかれた。
不幸な事故はあったが、そうして今残るは巫女が二人。一人は寄越せと迫り、もう一人は渡せぬと頑として譲らぬ。バチバチ視線がぶつかり、霊気を含んだ風が木々の枝を荒々しく揺らす。見つめ合って膠着すること数分、元よりヤクザ気質でない温和な少女であれば、先に折れたのは早苗嬢であった。
渡せはせぬがせめて訳を話そうと、霊夢を居間に通した。
守矢が外からやって来た者たちで、その知識や文化を惜しげも無くばら撒いた結果、守矢ショック、早苗ショックと呼ばれる変化が幻想郷にもたらされたことは古くないが、妙ちきりんはそうした外の世界の菓子ではない。彼女たちが幻想郷に来たからこそ生まれた菓子である。
さて、妙ちきりん妙ちきりんとすっかり浸透してしまったが、実はこの菓子にはきちんとした名前がある。
その名をこはまぐり。漢字で書くと鼓浜栗。栗など入っていないが鼓浜栗。書き換えると小蛤。なんとも汁に入れたり、酒で蒸してみたりしたくなる名前であるが、何も適当につけたものではない。きちんと由来とする所がある。
鼓浜栗が最初に現れたのは冬の寒さもいよいよ本気を出して人も妖もみな纏めて炬燵に押し込めようとしだした、そんな時期であった。
慌てた様子の早苗嬢が神のおわす炬燵の上にとんと白い塊の乗ったお盆を置いた。
何だと問われると、白玉楼の庭師のように自分の魂もすっぽり身体から抜け出てしまったのだと悲嘆めいて言うものだから、神さまはそんなことにはなっていないと笑った。神の感覚では早苗嬢の魂はしかとその豊満な肉体の内にあったし、盆に乗った白い塊からは何ら霊的なモノは見いだせなかった。笑ったついでに白玉楼の剣士は魂と魄が別れた形で生きる種族だと説明してやる。
それを聞いてほっと胸をなでおろすとともにまた一つ賢くなった早苗嬢であるが、そうなると原初的な問題が出てくる。
つまり、これは何か。
この問いには神さまも口を噤んで頭を捻る。もちもちふわふわつるつる。見てくれではどれともつかぬ白い塊。こんな妙なものには出会ったことが無かった。
触ったり叩いたり伸ばしたり嗅いだりしながら何とか正体を探ろうとして暫く。バサッと切ったことで何かの卵や植物果実の類でないことまでは判明したが、そこから先がなんとも掴めない。
埒が開かぬで食べてみようかと提案したのは小さい方の神さまであった。
二人にじっと毒味の様子を見守られるなか、恐れなどないと言わんばかりに大口を開けて白い塊にかぶりつく。もきゅもきゅ口を動かし、ごくりと嚥下。果たしてそのお味は如何に。又はその毒性や如何に。
神は答えた、美味であると。つるっとして甘い。香りはすっと鼻を抜けていく涼しげな柑橘系。夏蜜柑の餡を包んだ水羊羹のようだ。
美味い美味いと蛙が跳ねる。そのままコロリと倒れこむことも無いみたいであるので、大きい方の神も白い塊に一つ噛み付く。しかし、こちらの方の反応は真反対であった。顔をきつく顰めると湯呑み二杯ほどのお茶を口に流し入れた。大層苦かった上に噛みきれぬほど筋があったらしい。
美味い不味い美味い不味いと神さま達が言い合う。実際に食べた感想であるので、狂っているのはお前の舌だと両者譲らぬ。異質を炙り出すには多数派と少数派に分けてしまうのが簡単で、奇しくもこの場には奇数の三人。応酬も膠着に入った所で早苗嬢に二つの視線が向かった。
神にはなんともなくとも弱き人の身では何が起こるか分からない。そんな恐怖はあるが、神さま二柱に迫られてはこれ断り辛く、ごくりと緊張の唾を飲み込んで小さな切れ端をそっと口に運ぶ。
味も何もせぬと早苗嬢は呟いた。
色々検証を重ねた結果、白い塊は早苗嬢以外の者だと口に放り込むたびに味が変わる妙なものであった。さらに妙なことには、この白い塊、一夜にして跡形もなく消えてしまった。物知りな暇人達に聞いて回るかと冷蔵庫の中に保存していたのだが、次の朝を迎えてみれば空になった皿が虚しく冷やされていただけであったのだ。
狐につままれたか、狸に化かされたか、蛤に虹を見せられたか。あれだけ騒いだのになんとも遣る瀬無い締め括りであるが、こんな不思議な出来事も或いは魑魅魍魎が東に西に駆け回る幻想郷では日常茶飯事なのかもと、守矢一家は前向きに考えることとした。
そして実際、白い塊が現れることは日常茶飯事となった。
完全に不規則に早苗嬢の枕元に転がっては、日の沈むとともに文字通り霧散する。夜に怪しの者でも入り込んでいるのではないかと結界を張ってみても朝方にはこてんとあって、夜になると影形を薄くしながら消えてゆく。
5度目の出現を迎えた時に訳の分からぬまま放って置くのはすっきりせぬし、些か不気味であるということで一致した守矢一同は、早苗嬢の傍らに寝ずの番を立てて、いよいよその発生源を突き止めることとした。
冬の終わり頃、守矢の神さまが一柱しか居らぬ、居る方も何処か不機嫌であると不安がられた裏にはこういった事情があったのである。
さて、その甲斐有って白い塊の正体は此処に暴かれた。
白い塊、生まれの元は早苗嬢である。寝ずの番をしていた神さまの言には、寝ている早苗嬢の頭から瘤のように膨らんで、太陽が顔を出すとプチっと離れたのだと。
発生源がそうであるなら、これまで分かっている性質と合わせて、この妙な塊が何であるかも推測出来る。
ずばり、早苗嬢の夢である。
守矢がこうして幻想郷にお引越しをしたのは、科学が理を暴く外の世界では最早得られなくなった信仰を新たに集める為である。結果としてそれは叶い、境内に並ぶ御柱も随分神徳の輝きを増した。しかし嬉しい誤算なのが、思った以上に信仰してもらえたことと、引越し先の立地が大きな気脈の湧く妖怪の山の頂であったこと。神さまは力を急速に取り戻し、その巫女である早苗嬢には恩恵として神気が大量に飛んでくる。常人なら吹き抜けていく類のものであるが、早苗嬢は現人神。魂にある神性が飛んでくる加護をせっせと集め蓄えてしまう。それを人の身の限界まで蓄えようとすると、必然的に神気をぎゅぎゅっと練ってことこと煮詰めて濃度を濃くすることになる。
濃くなった神気はそのままでは些か放出し辛く、形や特性を与えて術と為す必要がある。弾幕を散らす、奇跡を呼び出す、体内の澱みを払うといったことで使いはするが、なにせ元気になった二柱分の神気に加えて気脈から流れてくるものもある。ぎゅうぎゅうに詰まった神気が新たに供給された分に押されて体外へ出ねばならなくなった時、夢と結びつくことで形と特性を得て放出される。古今東西夢枕に立つ輩の多きを見れば、両者が結びつきやすいというのも何となく想像がつくのではないだろうか。
食べる毎に味が変わるのは人が一夜に幾つもの夢を見るからで、その内どれを引き寄せたかで決まるから。夜の訪れとともに消えてしまうのは、次の夢が生まれる時間になった、つまりは夢の寿命というのが人が起きてから寝るまでだからと考えることが出来る。
とまぁ、このように夢であるとすると一応は白い塊の特性について説明がいく。
成分が夢と神気で構成されているならば、悪鬼魔業の類でもなければ毒とはなるまい。そう結論付けた守矢が次に起こした行動は、この白い塊を売り物に出来ないかである。商魂逞しいと言うよりは、食える物をわざわざ残して霧散させてしまうのは勿体ないと言う精神であった。
売りに出すに当たってまず決めたのは名前である。出された候補は三つ。
一つに夢で出来ているのだからと名前もそのままに夢枕。これは安直過ぎてつまらぬと変な拘りのある神さまによって却下された。
二つにかの有名な漢文から名を拝借して胡蝶丸。これは竹林の薬師に権利を主張されたら面倒であるし、ちっともしゃれっ気が無いと変な拘りのある神さまその二によって却下された。
三つにこはまぐり。海上に揺らめく楼閣が如く消えてしまうから、妖怪蜃が大蛤であることにちなんでならば此方はと小蛤。お菓子で使うような漢字に変えて鼓浜栗。特に却下する声が上がらなかったのでこの名前と相成った。
夢と神気が原材料の鼓浜栗。砂糖も葛も小麦も使っていなければ、カロリーは無いだろうと判断した早苗嬢が女の子を引き寄せる為に太らない菓子との売り文句を付けて棚に並べた。
如何に楽に痩せるかということに並々ならぬ努力と情熱を捧ぐは人の性。この文句に参拝に来た女性は見事に吸い寄せられた。また、食べてみるまで味が分からぬのが博打みたいで面白いと男性からも人気が出た。
しかし、それ以上に名を広めた効果があった。神さまたちと夢の生み手である早苗嬢には現れぬから知らなかったのだが、どうも神気をふんだんに使ったこの菓子、食べると夢を見ている間に心や体の澱みを綺麗にする効果があったようなのだ。最も一つに含まれる量はそれほど多く無いので、起きて半刻から一刻ほどで戻る程度の掃除であるが、それでも幸せを感ぜられる菓子だと売りに出して直ぐに大評判となった。
食べても太らず、味が七変化し、消滅期限なるものがあり、次の朝には幸せを感ぜられる。全く妙だ、妙ちきりんだ、守矢の妙ちきりんだと誰かが言ったのがすっかり浸透して、鼓浜栗という名が忘れさられてしまうのも売りに出して直ぐである。
人がやったら入ってくるので案内の天狗も見張りの天狗もとんと足ら無いと泣きつかれたので売り場を里に移し、一人が2個3個買うだけで皆に回らぬほどの行列が出来るようになったので、食べても太らないの文句を消してお一人様1個限りと注意事項を足した。
妙ちきりんの人気は日に日に高まった。早苗嬢も睡眠時間を増やしてみたり、神さま膝枕や神さま抱き枕を用いて生産効率を上げようとしたがどうにもダメで、需要の熱だけが右肩上がりに伸びていった。
その熱が異様だったのは、一度でも食べた客が離れていかないことだ。普通でも幾らかの客は離れていく。妙ちきりんは味に関して言えば当たり外れがあるのだから余計に離れていきそうなのだが、これが離れるどころか余計に熱を帯びた様子になる。
組織ぐるみで買い占めての高値販売で不当な利益を上げる輩、出回る偽物を買わされて泣きつく者が出始めている。それでなくとも昼頃に無気力になってしまう者が多くて問題になっている。
寺小屋の先生が妙ちきりんの起こす問題を守矢に持ってきたのが、ちょうど霊夢と小さな大泥棒が結託した頃だ。
暗に依存性の高い薬を混ぜているだろうと問われた守矢は、もうびっくりである。これこれこうこうと妙ちきりんが夢と神気から作られたものであると身の潔白を説明した。
実際、早苗嬢の夢にニコチンやアルカロイドが詰まっている訳でも、守矢の神気がアドレナリン受容体を刺激する訳でもない。ただ一点、多幸感を得られるというのが依存とも言える熱狂を生んだ原因であった。
脳は幸せを貪る器官である。その為に酒や煙草は古くから人妖の友とされてきたのだし、時には強烈な薬にも手が伸び、賭博というのは一向に廃れぬ。継続した幸福、又は大きな至福を経験すると普通の状態で満足いかなくなり、度々幸せを求めるのも脳の貪欲さである。守矢に非があるのだとすれば、妙ちきりんを安価で売って酒や煙草のように誰でも何度でも気軽に手が伸ばせるものにしてしまったことだ。
救われたことは、妙ちきりんの供給量や日時が不安定であったこと。重度に摂取した者はこの段階ではまだおらず、欲する余りに身を滅ぼしたという例は確認はされていないと歴覧の美食家は言った。
しかし、何れにせよこのままだと良くない影響は強くなる。改善するか、でなければ販売停止にするか。その二択を迫られた守矢は迷わず後者を選んだ。元より利益を上げる為の商売でもなければ、踏ん切りというのも容易であった。勿論、知らぬとは言え迷惑をかけていたのだから、被るであろう非難は覚悟してである。
妙ちきりんの生まれから販売停止に至るまでの顛末はかくかくの如し。
神社に乗り込んでまで手に入れたいその執心、実にらしくないものだと突っ込まれれば、霊夢もはっとせざるをえない。
霊夢は無関心な人間である。何かに躍起になるというのが非常に珍しい。それはさんざっぱら周りがいけずだと愚痴を垂らすものだから、すっかり本人も自覚しているところである。
それが一度食べた妙ちきりんが忘れられず、2週間も神社に伏せり、販売停止と見れば怒りを沸かせて守矢に押し込みをかける。そこまでの執着は確かにらしくない。
霊夢はこれが依存かと自身の中で猛る魔物にぶるりと痩身を震わせた。
慰められるついでに事情も聞いたのだろう。食わなくて正解だったぜ、なんて生意気な口を叩きながら戻ってきた閑古鳥飼いの何でも屋と共に妙ちきりんではないが上等な菓子を食べさせて貰い、そこそこ満足して博麗神社へと戻っていった。
その後であるが、当然のこと妙ちきりんは依然として生まれてきている。しかしもう売りには出せないので消滅させるばかりかと言えばそうではなく、神さまには妙ちきりんの悪い効果が現れぬので、守矢は幻想郷の天神地祇にお裾分けを行っているらしい。お陰で神々の繋がりが増えたとか。
里の方はと言うと、これが以外にも何ともなかった。販売停止を受けて直ぐは守矢への非難、妙ちきりんを求める声が続いたが、心は移ろい流れゆくもの。皐月躑躅咲き、不如帰が鳴き出す頃にはまた別の新しいもの、人気のものに飛びついて、すっかり妙ちきりんのことは話に登らなくなった。
霊夢も妙ちきりんのことはすっかり忘れ、今日も今日とて穏やかな気候を帆に受けてうっつらうっつら午睡に出かける船を漕いでいた。
もう少しで転がってしまうといった傾き具合で名前を呼ばれ、大儀そうに空を見上げれば魔女の影がぴゅーっと近づいてくる。
紅魔館が変てこりんなものを売りだした。
そんな噂を抱えて。
とばっちりで減る秋姉妹の信仰は儚い
面白かったです
面白かったです
個人的には最近のそそわ作品で一番かなあ
愉しかったです、ひたすらに
不思議が納得のいく理屈に落とし込まれる瞬間の、なんと心地良い事か。天晴と膝を打ちましたw
この読了感、是非とも参考にしたいものです。
話作りに慣れてきたって感じなのかな。
魔理沙の言い替え部分、妖怪を千切っては投げの部分がいいですね
こんな作品は少ないから新鮮
特に理由の無い信仰離れが秋姉妹を襲う!
いや面白かったです。妙ちきりんでまとめも見事。
お話も面白く、あっという間に読み終わってしまいました
失望しました、秋神の信仰止めます
どちらも素敵でした
夢を食べ物として売り出すというアイディアも面白かったです
文章の軽快さに読み易くとても楽しめました。
妙に味のある文章と、その文章から生み出される軽妙なやり取りが、とても心地良いですね。
所々に挟まれるネタもグッド。何より「妙ちきりん」という物を発想して、それをここまで面白おかしくお話として描いたその腕前に拍手を送らせていただきます。
早苗さんが可愛い
語り口調やネーミングの面白さもあって、これはかなり完成したSSであるなあとしみじみ思いました