静かに、なんの兆候も変化も見せず、けれども妖夢の中で理由も形もない切迫感は増していく。
まるで実体のない空気が風船を膨らませるように、自らの中で言いようも知れない焦燥感が内側からその圧力を強めていく事だけは確かに感じていた。
原因は分かっている、分り切っている。彼女の体の中で膨らむのは不気味な程になんの意味を持たぬ無味無臭の違和感であり、けれどもそれが確実に自分を脅かすであろうとは明らかな事であった。
彼女の存在は日を追うごと徐々に徐々に、されども確実に日常を浸食していく。声も発さず姿も見せず、それどころか妖夢自身には何の影響をも及ぼさない。しかしその視界の隅に現れるだけでもなぜか心臓が跳ね上がるような衝撃を受ける存在がちらりちらりと不意に、それも少しずつその現れる機会が増えるとあれば心中穏やかではいられないのは当然の成り行きだった。
元々妖夢は幽霊が苦手だ。生まれた時より半人半霊で、正真正銘の霊体である幽々子に仕えておきながら彼女は幽霊や怪異と言ったものを人より恐れた。それは自身が人よりも中途半端に黄泉の世界に近く、それでいて微妙に人のままなのが影響しているのかもしれない。
そんな彼女にとって予測なく表れてはふっと消えるそれは今までであったどんな怪物より、今まで行ってきたどんな経験よりも遥かに恐ろしいものだった。
ある晩だった、枕元に座っている彼女を見た時妖夢は手を合わせて初めて助けを乞うた。
勿論その相手は幽々子ではないし、その友人である胡散臭いが指折りの実力者である紫でも、あるいはその式にして自分に世渡りの術を時折教えては煙に巻く藍でもない。生まれてより広く狭い世界が全てでもあった彼女にとって、こんな時縋る相手ときたら厳格な師しか居ないのだった。
こんな時どのようにしたら良いのでしょう、お師匠様。
そう聞いたところで勿論帰ってくるのは実体のある答えではない。声を発するのは自分の経験から生まれた妖忌であり、つまりは妖夢の主観である妖忌だ。果たしてそれが実物のものとはどれ程掛け離れていようと、そしてどれ程歪められていようと、現れるのはまだ幼い妖夢から見えていた厳しく不器用である自身の師だった。
白ひげを蓄え、厳格な表情をした彼はただ一言こう言った。
『切れば分かる』、と。
妖夢にとってそれはまさしく天啓だった、青天の霹靂であった。
切るべきだ、分らないものはまず切って確かめるべきだと拍子を打った。
学者にとっての虫眼鏡のように、剣士にとっての剣がある、頭で考えて分からないのだとしたらまずは切る事で確かめる他ない。切れば分かる、切らねば分からない、なんと簡単な事を今まで失念していたのだろうか!
まるで電流を流されたように驚愕していた彼女は、次の瞬間には今までの鬱屈と停滞していた空気が全て取り払われたような、清々しい表情をしていた。
それは素晴らしい変化であった、妖夢にとってすればまるで一種の悟りを開いたかのような恍惚とした心境。不穏な音と共に暗雲立ち込める、今にも土砂降りの雷雨が降ってきそうな曇天が一閃で払われ、どこまでも広がる青空に変わったかのような解放感に満ちていた。
悟りを開きこの地から姿を消したと言われている自分の師はこのような心境だったのかもしれん、そう考える妖夢の表情はだらしなくにやけきっていた。
だが、それは彼女の恐ろしいまでの未熟さがそう思わせたに過ぎない、妖忌がただ唯一後ろ髪を引かれている原因であった時から何も変わっていない。確かに鍛錬の結果として剣術は上達したし体術だって強くはなった、けれどもその本質は――精神的な幼さはどこも成長を見せていないのだった。
肉体的な強さと精神的な弱さを併せ持てばどうなるだろうか、当然そこに産まれるのは二面性から生まれる脆弱性に他ならない。極端すぎる考え方と言い、思慮浅き短絡的な行動と言い、その傾向は昔から十分すぎる程現れていた。幽々子とてそれは分かっていた、妖忌も理解していた、けれどもそれが正されることは無かった。
これは当人のみぞ知る事であるが、妖忌はその不器用さから孫娘が破綻してしまうのを心の底で恐れていたのだ。ただ剣術の身を鍛えさせた結果――そう、妖夢を孫娘としてではなく弟子としか見る事が出来なかった結果そのようになってしまったと理解していた。
自らが鍛え上げてしまったこの未熟な剣が、それも中途半端に実力だけは付けかけた歪んだ刃物は、それでもただ主人だけは傷つけない、それでいいのではないかと彼は目を逸らしていた。
幽々子も放任主義だった、妖夢の危うさを知ってこそ放っておいた。無責任かもしれないがそれが悪いとは必ずしも言い切れないだろう、幽々子は自分が常人と考えが違う事は理解していた。だからこそ時に迷わせるような事を言って妖夢が自ら思考する力を得ることを期待する事しか出来なかったし、それで良いだろうと思っていた。
彼らは人間ではない、悠久の時を生きる魔の者達だ。
彼女らに時間はたっぷりとある。
過ちを犯し、それを償う時間も、抗う期間も
そしてその様子を見て、暫しの暇潰しをする時間も。
妖夢はまだ気づかないのだ、自らの持つ危うさに気付かされることもないのだ。
そして――そんな自分が、変化の兆しを見せ始めた事もまだ。
閉鎖的で単調な日々を生き、主命を護り自らをただの剣として鍛え上げる事のみを盲目的に信仰してきた。それのみがあればいいと思っていた、それ以外は要らぬと断じていた。
しかし今の彼女は迷っていた、まったく見知らぬ存在に対する意味の分からぬ感情に戸惑っていた。まるで溺れる者が足掻くように、暗闇の中で辺りを必死に見回すように、悩み迷い苦しんで――迷い無き剣のみが己だと信じていたその器に、ピシリと罅が入っては広がってきたのを彼女はまだ知ることはない。
何はともあれ、妖夢にとってルナサを見る目が決まったのは主観的に見れば幸運であった。
“なんだかよく分からないけれど気になる相手”から“なんだかよく分からないからこそ切るべき相手”に――それが果たして正しい解釈であるかという最も根本的で重要な問題から意図してか意図せずか目を逸らして。それは当人にもわかり得ぬことではあるが、掴み得た一先ずの回答は刹那的なものであって、結局は遠回りに過ぎない事ではあるが。
なにが幸運であってなにが不幸であるかなんて、ほんの少しだけ観方を替えれば大きく違ってくるのだ。誰かにとっての幸運は世界中誰にとっての幸運でもなく、少なくとも誰か一人にとっての不幸である事は間違いないのだから。問題となってくるのはそれが誰にとって、どういった不幸であるか。それの当事者が果たしてどちらも自分でないとは言い難いのだから。
しかしながら、仮初の答えとはいえそれが妖夢にもたらした恩恵と言うのは絶大なものであったことは否定しきれないのだ。それが紛い物であったとしても多くのものが信じればそれは本物へとすり替わる、クルリクルリと表裏は裏返る、事実の真偽なんてものは本当に脆い。
果たして今自分が心の底から信じているなにかが、それも生まれて来た時から強く信じていたことが、人が、事実が、ある時急に「それは間違いだ」と言われたらどうするのだろう。それが本当の本当に事実だったとして、証拠もきちんと揃えた状態ならば果たして何割の人間がそれを受け入れられるだろうか、一瞬でなくても良い――数年かかっても、例え一生かかっても、どれだけの人間が生まれて今までずっと信じてきたものを偽物だったと言いきれるようになるのだろうか。
すぐに考えを切り替えられる柔軟で薄情なものが居る。
長い年月を掛けて理解する、植物のようなものが居る。
どれだけ永劫の時を掛けても、変わらないものが居る。
なぜならば、それは物事の真偽というものが所詮は絶対的なものではないからだからだ。
恰も「これは事実である」と公言されている事が証拠であるかのように扱われているがそれはおかしな話だ、それはあくまでも神の目から見た紛う事無き絶対の真実であるわけがない、それを判別するのはあくまで人の目であり、つまりは人の観方によって事柄の真偽は決められるのだ。
ならば、ならばそれは
神の意志という絶対不変の柱によって採択されるのではなく。
人の意志という揺蕩う大天秤によって採択されるのだろう。
何が正しいかなんてものは、所詮「何を信じたいか」で決められる。
だからこそ妖夢が今信じている事も事実には違いないのだった、彼女にとっての真実であるそれがなんとも危うい真実だとしても。
「――――は、ぁぁっ!!」
それは少女を導く灯となった
それが照らす一条の光は少女の足掛かりとなった
それも、正しく真実であった
妖夢は短期間のうちにメキメキと力をつけ始めた、驚くべき集中力によって今まで鍛錬に使ってきた時間の半分で倍以上の成果を出し始めたのだ。その表情からはつい最近まで見せていたまるで白玉楼の周りだけに雨がここ三年間ぐらい降り続いているかのような胡乱な眼差しは、まるで何か怪しげな宗教に巡り合ってしまったのではないかと思えるぐらい不自然に、直視すれば目が潰れるのではないかと思えるほど煌めく宝玉に変貌を遂げていた。
その集中ときたら今までは視界の隅どころか気配さえ見れば忽ちその足元で首を垂れていた主人である幽々子を、声を掛けられるまでは気付かないぐらいだった。そして異変まではそんな事があった途端に切腹の姿勢になったのを幽々子が「駄目よ」と止めていたのに、今では少しばかり頭を下げるばかりになっていた。
変わった、本人は気付いて居ないが彼女は随分とは変わった。
それは主人のみが心中で思っている事だったが、彼女は少なくともそれを迎合していた。
果たしてその力の原動力がどれ程道を外していようとも彼女にとってそれは微塵たりとも気に障らない事、つまりはどうでもいいのである。それがあまりにも行き過ぎたのであればただせばよい、けれどもそうでない内なら自分が口を挟む必要はない。果たしてそれが正しい事なのか――それもまた真実の一つ、場合と結果によって揺蕩う振子の一端に過ぎないのだった。
しかしながら、けれどもしかし
「危なっかしいのは、変わってないのよねぇ」
そっと扇を口許に当てながらそっと呟く彼女の前には、相も変わらず自分に気付かない庭師の姿。あれでも鍛錬以外では普通……よりは少し張り切り過ぎな様相を呈していたが、それでも支障が出ない程度なので口は出さないでおいていた。
それでもと、少しばかり考え込む様にゆらりゆらりと体を揺らめかせながら――その扇で隠された口許は確かに嗤っているのだった。
その気になればどうとでもなるのだ、本当にどうとでも。
世界の理に抵触する輩は、この狭い世界にはごまんと居るのだから。
そう嘯いて、得体の知れない彼女の前でただ一心に剣を振る剣士。
彼女が標は一つ、彼女の導はただ一つ。
「ルナサ」
ルナサ・プリズムリバー
プリズムリバー三姉妹の長女にして幻想郷では駆け出しの部類に入る『プリズムリバー楽団』の長、未だ広くは名を知られておらずとも愛好家が確かに生まれだした――即ち知る人ぞ知る、といった表現がふさわしい楽団らしい。
絶対数こそ少ない者も確かに、そして着実にその数を増やしている現在最も注目の集まる三姉妹と言うのが人里での主な評判だった。
弦楽器を使うのが団長である長女のルナサ、管楽器を使うのがムードメーカーとなる次女のメルラン、鍵盤を使うのが裏方兼雑用であり常に腹黒い噂がある三女のリリカ。どうにも長女と次女がそれぞれ何らかの問題を抱える為相対的に彼女が色々やらざるを得なかったらしいが、それは適材適所であるとの見方が大半らしい。
そう言った情報は人里に買い出し中であるとか、そう言った時に自然に入ってくるものだった。時折世間話のついでに尋ねてみたりもするが――妖夢は自然と「プリズムリバー」であるとか「楽団」であるとか、そう言った単語に対して至極敏感になっていることに気がついた。何の苦労をせずともごく自然に拾い上げる事が出来た、まるで吸収するようにはっきりと会話や情報を聞き取る事が出来た。
自然と彼女はそれに耳を傾けている、時にそれはただの噂話や憶測が含まれてはいたものの、ただのそういった霞のような信憑性の底に真実が含まれている事もある。だからこそ彼女はただその情報の濁流に身を浸して、目を閉じながら『彼女達』を見ていた。
ご老人の間ではその人懐っこさと子供らしさでリリカが一躍アイドルとなっている事とか、特に集会の時に彼女が宣伝しに来た時は全員が揃って飴や羊羹を渡してしまって目を白黒させていた――なんて、妖夢も聞いていて笑ってしまいそうになった。
他には男衆の間ではその元気溌剌とした……それは性格だけとは限らないのだが、ともかく底抜けに明るく気の利くメルランが抜群の人気らしい。だがその陰でしっかり者だがどこか抜けていたりするところのあるルナサが静かにそのファン層の勢力と根深さを拡大させている事を聞いた時、なぜか食事をしていた妖夢が持っている箸がみしみしっと不穏な音と共に圧し折れてしまった時には焦った。
だが、彼女達が時折ゲリラのようなライブをする以外では特に接触手段を持たないことを知った時には落胆した。その所在を探しに里を出られるほど奇特な輩は里には居ないようであったし、よっぽどの事がない限り白玉楼に居る妖夢がゲリラライブなんて不定期極まりない行事を目にする機会があるのかと言われれば、ないと断言できるのだ。
「怖いのですか、あなたは」
剣を振りながら、妖夢は居もしない彼女に問いかける。
それに答えは返ってこない、そしてルナサは妖夢を知らないだろう。
当たり前だ、彼女達の邂逅なんてあの夜の一瞬のみなのだから。
「私が怖いのですか、切られたくないのですか」
けれども妖夢は再び問いかけ、まるでそうすれば二つの軌跡が繋がりあうかと思っている様に、ただ繰り返し銀の閃光を何条も何条も描く。
目蓋を閉じた妖夢が見るのはただ一人、スポットライトに照らされた少女は何度も何度も焼き付けるように思い返し続けた姿。ただその目蓋はあの時と同じようにしっかりと閉じられて、それがなぜだか無性に苛立たしかった。
「ルナサ・プリズムリバー」
「会いたい」
「私はあなたに会いたい」
それが果たして叶う可能性が限りなく低い願いであっても、それがどれ程歪んでいるものであったとしても、それは魂魄妖夢によって初めて持った願望だった。ただ己の職務に呑み忠実であった彼女が持った、己の胸を激しく焦がす懇願だった。
そして、それは果たされる
ただし、それは意図せぬ形で
「宴会、ですか」
突如として幽々子が何かを決める事は刺して珍しくもない、元より天真爛漫の気がある彼女は時として思いもよらぬことを命ずる。それは多いとは決して言えない頻度であるのが幸いではあるが、それでも本当に無理難題と言う時がないのかと聞かれれば困った事にないとは言い切る事は出来ないのだった。
それでも妖夢は、例えそれが一見どう足掻いても無理である事を命ぜられたとしても拒否したことは一度たりとも無かった。足掻くだけ足掻いて、その結果恥をかいたとしても良いのだ。妖夢にとっては主命を疑う事、主命を拒否する事を上回る恥は存在しないのだから。そしてその結果何も残さなかろうと、大抵の場合幽々子はくすくすと笑うのみで何も言葉は掛けないのだった。
彼女にとって大事なのが、己の退屈を紛らわす事だとしたら。
妖夢にとって大事なのは、主の退屈を紛らわす事なのだから。
しかしながら、この時期に宴会かと妖夢は少しばかり考えていた。
果たして幽々子の命によって宴会を用意した経験は確かにある、それは主に幽々子の直接的な上司である四季映姫・ヤマザナドゥ及びに是非曲直庁に対しての接待的な目的なのだが。しかしながらまったく飲む経験ではない、苦難する事はないとは思っていた。
そう言えばあの異変の後行った突発的な宴会は自分が初めて参加した本来の意味での「無礼講」だったのかもしれない、そんな思考を巡らせながらも妖夢の両耳はきちんと主の命を脳味噌に聞き届けていた。主の言葉を一字一句諳んじる事が出来るのは当然と彼女は思っているが、恐らくそれに賛同するのは紅い館の従者ぐらいだろう。
「三日後、ここでって事でお願いできるかしら」
その言葉に妖夢はこくりと頷く、それいいのかと思ったがそれは「果たして宴会と聞いてこの郷の連中が三日も我慢できるのか」と言った方向にである。しかしながら宴会の前夜祭を開こうにも此処は下界とは隔絶された場所、軽々しく来ることが出来ないことは――そこまで考えて妖夢はふむと考えこむ、幽々子の笑みが僅かに深くなったことにはその理由はさておいて気付いていた。
「博麗神社にその旨を張るよう、許可を頂いてきましょう」
冥界に自力で来られる者なぞ限られている、そもそも生身で冥界に乗り込める輩なぞ間違いなくそこそこの実力者でなければ不可能なことだ。ならばそう言った存在が集まる場所――つまり、それが博麗の巫女にとって不本意極まりない事でも、それは博麗神社以外ありえないことではあった。あの場所には実力者……それも時によっては相当行為の実力者がやってくる、それはつまりある程度の足きりが出来ていると言う事なのだから。
それから三日後、なんの問題もなく宴会は開かれる。
妖夢が宴会の始めにおいてすべきことは会場の設営、及びに簡単な誘導。
それだけなのだ、あとは宴会慣れしている当人たちがなんとかしてくれる。無礼講の場と言えど彼らは手馴れた戦士でもある、自らが愉しく騒げるための努力を惜しまぬ妖怪だからこそ出来る統率の取れたどんちゃん騒ぎは、その騒がしさとは裏腹にまるで祭りのような高揚感を伴うものだった。
それ故に妖夢は宴会を回りながら自分も一杯ぐらい酒でも飲むかと考えられる程度の余裕は産まれていた。
まぁ、妖夢は幽々子が呼べばすぐに駆けつけなければならない故に酒を呑んで騒ぎに巻き込まれる事態になってはならないのだが、そして酔っ払いが受け取る盃を手に取るということは宴会へのチケットを切ったと言う事に間違いはないのだ。
それに妖夢はこの宴会において料理係としての責務があった、紅魔間のメイドを初め数人の手伝いは要請したものの陣頭指揮を執るのは当然彼女だ。いかに自分よりも熟練したものがいたとしても白玉楼において催される宴会ならばそれは妖夢が指揮を執るべきなのだ、他の場所でなら下に付く事も良いが自らの領土で他者の意見を聞くと言うのはつまり――幽々子自体がその者の主に劣ると、そう宣言するのと同じ事なのだから。
そういった訳もあって当初は見回る余裕ぐらいあるかと思っていた妖夢だったが、初まってみればまったくもってそれは机上の空論である事は開始の数分で判別した。
とにかく妖怪は暴飲暴食、酒を呑んで気分がよくなっているともう凄まじい、出した傍から料理が消えていく。手慣れた様子のメイドがてきぱきと手慣れた仕草で手伝ってくれなければぶっ倒れていたことは間違いない、鍛錬が足りんなと妖夢は嘆息した。
けれども夜も更けていけばピークは過ぎる、帰っていく者も居るし無理が祟ってぶっ倒れる者も居る。大抵前者は祭りを見て楽しむ側で、後者は祭りに参加して楽しむ側だがそのどちらも自らのスタイルで宴会を楽しむ事が出来ていたらしい。何の未練も悔いも残さない表情で心地よく眠っている誰かさんを踏まないようにしながら、妖夢は少しだけそこまで楽しめる事が羨ましくなった。
「しかし、これを片付けるとなると……はぁ」
当然ながら散らかした分は片付けさせねばならない、ここが博麗神社であれば鬼巫女とも称される霊夢が脅迫半分に手伝わせるのだろうが――妖夢は流石にそれをする事は出来なかった。接待的な宴会をする分にはこんなに散らかる事はない、それどころか極力全員が散らかさないように注力するのは流石に事務的なやりとりと言うべきか。
そんな現実逃避をしながらも目の前に広がる惨状から目を逸らし続ける訳にもいかない、妖夢は頭の中で誰か手伝いを事前に要請していた方がよかっただろうと後悔した。一から十までやって貰わなくても五……否、三まで手伝いが居ればそれだけで随分と楽になるだろうに。しかしながらよりにもよって主人やその御友人に頼る訳にもいかない妖夢は中間管理職の悲哀を感じながらもしずしずと片づける為に屈みこんだ。
そんな彼女に音もせず近寄る気配があった。
これからすべき事の膨大さに思わずため息を吐いている妖夢はその気配のあまりの薄さに気付いてはないが、そんな事はいつもの事さとばかりに足音すらも消え去った様に静寂を纏って近づく彼女は屈みこむとがさがさとゴミを拾い始める。
「手伝わせてもらおう」
「あっ、すみません……」
断る理由もない妖夢は顔を上げずに、ただゴミを袋の中に収めていく。こういった単調な作業では何かを考えてやるよりも、むしろ何も考えずにやった方が効率はいいし疲労もたまらないのだと彼女は知っていた。時折手伝ってくれる誰かが箒の位置やらを聞いてくるので適当に答えながらも、ただ黙々とお互いに何も喋らないまま作業を続けていた。
それを一時間行くか行かないか、その程度続ければ大分終わりのめどがついてくる。どうにも助っ人として参加してくれた彼女は一人であるが随分と手馴れていたらしい、気が付けば随分と想定より作業も時間も少なくなっていた。ふぅと汗を拭いながら一先ず最後となる袋を閉じれば当たりを見回して、助け舟を出してくれた誰かに礼を言うべく振り返る。
「ありがとうございました、あなたがいなかったらどうしようか――!?」
自分一人では本当に何も出来ないのですねとか、礼をしたいからこれからお茶でもどうですかとか。確かに言おうとしたそういった言葉がふっと消えていくのを、妖夢は確かに感じていた。
今まで自分の傍で手伝いをしてくれたその姿を見間違えることはないだろう、それは妖夢が今まで何度も何度も繰り返し繰り返し夢想した姿なのだから。
線の細い輪郭にふわりと揺れる自分と似たショートボブ、黒い衣装に身を包んだその姿は――金色の目で、まるで満月のように輝く瞳でただ妖夢を見ていた。
「ルナサ――プリズム、リバー…っ!?」
「おや、私の事を知っていたのか……少しは有名になったと言う事かな」
リリカの働きは大きいなぁと照れくさそうに頬を掻くその姿は可愛らしいものであったけれど、強い衝撃を受けたようにその場に硬直する妖夢を見て流石に不審に思ったらしい。少しばかり申し訳なさ気にしてからそっと、決して波風を立てないような静かな口調で眉をひそめた。
「もしかして、あいつがまた何かをやったのだろうか」
「い、いえ……居た事に、気付かなくて…なぜ」
「西行寺嬢に呼ばれてね、演奏しないかと連絡があった」
「幽々子様が!」
「いい機会だ、緊張もしたけれど……良い経験になったし、気持ち良かったよ」
まさかプリズムリバー楽団が、自分が求め焦がれた彼女が呼ばれているとは露とも思わなかった妖夢は大層面食らった。そしてそれを仕込んだのがほかならぬ幽々子だと言う事に邪推してしまうのは今までの経験がそうさせるからであって、決して妖夢の中に幽々子に対する不信感がある訳ではないのだ。
しかし、これが千載一遇の機会である事を見逃す妖夢ではない。
今までこれほど待ち焦がれた相手はいないのだ、それが果たして主人の思惑であろうとも自分の前に居る――この意味を深く考える彼女ではない、そんな無駄な事をして幸運の女神を見過ごせる性分ではないのだ。今ここで自分と彼女とが、誰も見ていないような場所で出会った理由よりも、なにをしなければならないかの方が重要なのだから。
見逃すわけには、いかない。
見過ごすときっと後悔する。
けれども、これは一体どうしたことだろう。妖夢は自分の中の衝動が再びすっと収まっていくのを感じていた、一瞬だけそれがルナサの能力である『鬱の音を操る程度の能力』かと思い当たったが最も有力であるそれを否定せざるを得なかった。
根拠は二つ、第一にルナサは現在清掃に集中しているので演奏できない事。
そして、例え演奏できる状態であったとしても――いや、彼女の場合はだからこそ演奏できないのだ。初対面の相手を、しかも幽々子の従者をこの場で鬱状態にさせる理由がない。
妖夢が見るからに殺気立っていたのならばまだ分かる、しかしながらその当人はルナサを見た瞬間からまるで骨も牙も抜かれてしまった様にただじっと、その金色の瞳を覗いているのだから。
不思議な気分だ、妖夢はまるで手足をゆっくりと握っては解くが如くじんわりと自らの体に染み渡るその感覚を確かめていた。
落ち着く、それは決して薄暗い靄の中に居る様な鬱々しい気分に浸るのではなく――逆だ、段々と意識が明瞭になっていく。自らが“本物”だと感じていた彼女に対する認識を改めざるを得なくなる、まるで澄み切った銀の姿見を見るが如く、その金色の奥に妖夢は確かに自分の姿を見ていた。
流石にその様子は尋常では無かった、まるで食い入るように初対面の……少なくともルナサにとっては初対面に間違いない者が自分の事を見てくるのだから。されど彼女は逃げる事もなく、その紳士さに付き合う事無く妖夢の眼差しを射返していた。
「演奏は、あなたに聞こえていたのだろうか」
それに対する返答は妖夢の喉をほんの少し詰まらせた、自分の職務に集中していた妖夢はルナサの演奏を聴く事は出来なかったのだから。一瞬だけその瞳の内にぐるぐると濁りのような感情が渦巻いたのをルナサは見た気がするが、結局それは錯覚にすぎなかった。
「ええ、聞こえていました」
掠れた声だった、ひゅぅひゅぅと枯れた芒がこすれ合う様な声だった。
ずっと聞こえていましたと妖夢は続けてしまいたかった、ずっと頭の中で鳴り響いていましたと叫んでしまえたらそれはどれだけ楽なことなのだろう。
けれどもそれはすっかり乾いてしまった喉に引っ付くように不気味な音となって留まるのみで、妖夢はようやく自分が手にべっとりと汗を掻いている事に気付いた。
そうしたらルナサはきょとんとした顔で妖夢を見て「そうか」と、ただ一言そう呟いた。その後で少し遠慮がちに、まるでそうする事で自分が刑罰に掛けられてしまうと思い込んでいる様にほんの少しだけ「どうだった」と聞くのだ。
彼女にとってそれを聞く事はこの世で最も恥ずべき事らしく、言ってしまってからはっと慌てふためいて「下手ならいいんだ、はっきり言ってくれ」と弁明を繰り返している。
妖夢は目を閉じる、何度も何度も繰り返して聞こえてきた旋律はどう頑張っても下手だと思う事が出来なかった。妖夢は嘘が苦手だった、嫌いな訳ではないがどうやったって妖夢が嘘をついたり誤魔化したりするとすぐに分かってしまうから、いつの間にか妖夢は嘘をつく事を諦めていた。
好きですよ、と
言ったその少し後で、「あなたの音楽、まるで流れ星みたい」と付け加えたのは余計な誤解を招かない為だろう。少なくともそれは事実だった、世界の中で唯一妖夢が胸を張って宣言できることであるのは間違いもない事実だった。
そうすればルナサは少し面食らった表情をしてから少しだけ、些細に、しかし本当に嬉しそうに微笑んだ。
そこに年子の女性のような可憐さはない、豪奢なドレスのような派手さもない、例えて言うならば誰も知られない所でひっそりと花が咲いた一瞬を切り取ったよう。
それをみた妖夢は確かに自分の心臓が止まってしまったと驚いたのだった、ぴったりと一瞬だけ自分の時が停止して、やがて動き出した時彼女は小さく「そうか、そうか」と一人頷いていた。
「ならば、もう一度弾いても良いだろうか」
それは先程よりも少しだけ馴れ馴れしく、まるでようむであれば許可をしてくれると思っているようで。どこか打算めいたその表情とは裏腹に、非常に申し訳なさそうにもじもじと当てもなく揺蕩わせる両手を妖夢は掴んでいた。
呼吸が止まる音が聞こえる、それはどちらのものだったのか――あるいはどちらのものでもあるのか。妖夢は反射的に身を乗り出してルナサの手首を掴み、掠れた声で「是非」と言っていた。その言葉は先程よりも不明瞭だったが、それでもルナサは妖夢の口からその言葉が飛び出すのを不思議とはっきり認識できた。
「是非、ここで弾いていただきたい」
それ以外の言葉は必要なかった、それ以上の言葉は存在しなかった。
ルナサは驚く様子もなく、ごく自然な動作で立ち上がる。
手を振り払う事はない、糸が解けるようにいつの間にかお互いは所定の場所に居た。
奏者は舞台の上に、観客は座席に座って。
やがて眼を閉じたヴァイオリン弾きは、世界に浸るように音の河を流し始めた。
それは穏やかな唄だった、まるで子守歌のように染み入るような――しかしながらほんの少しだけ、微かに甘い主旋律が織り混じって。妖夢は自然に自分の目蓋が重くなってくるのを感じた、それをどうやっても拒否したいのに体は頭の言う事を聞かないのだ。
もっとその音を聞きていたい
もっとその声を感じていたい
もっと彼女の姿を見ていたい
ああ、でも限界なのだ
なんたることだろう、妖夢はただ無念を感じたまま意識を落していった
再び彼女が目覚めた時、そこは布団の中だった。
果たしてだれがそこまで運んだのか分からない、第一あの時の事が夢だとも言い切れないのだ――そこまで考えて、否と妖夢は首を振る。
彼女の頭の中では、新しい旋律が渦巻いていた。
今までは霞掛かっていた彼女の姿を、今ならはっきりと認識できた。
生々しく、鮮明に
「ルナサ・プリズムリバー」
再びその名を呼べば、妖夢はなぜか酷く顔が熱くなるのを感じた。
親近感を覚えるというか覚えないというか
ある種理不尽なものを誇りとするまるで右を殴られたら左を差し出す的な強さなのか弱さなのかよくわからない卑屈さを誇りとして持つ人間として病的なのか本当の意味で健全なのかわからないモノになりながら平和な日常を過すあたりに妙なリアリティを感じます
ある種の