長いと言うにはあまりにも続いて、永いと言うにはあまりにも短かった冬がようやく終わり、少しだけ遅い春がその足音を響かせた時。
幻想郷においてはそれほど珍しくもない異変が、博麗の巫女による主犯格の退治という定型文じみた終わりを迎えた時。
妖しい蝶がふわりと消え、一本を残して白玉楼の桜のつぼみが一斉に膨らみ、淡い桃色の光をその雫に湛えた時。
西行寺幽々子が困り顔で、けれどもどこか清々しい様な掴み辛い表情でその様子を見つめていた時。
それはつまり、魂魄妖夢と言う少女が明確に。
これ以上ない程はっきりと、敗北という文字を突きつけられた時だった。
端的に魂魄妖夢とたる少女の事を肩書きのみで表すとなれば庭師である、庭師であって剣術指南役でもあり、それと同時に大概の雑務を熟す使用人でもある。朝は主人よりも早く起きて庭掃除と食事を作り、昼は時折主人の我儘に堪えつつ家事を執り行い、夜は主人が寝計らってから床に就く生活を送っている。
即ち西行寺幽々子にとって魂魄妖夢は従者であり、魂魄妖夢にとって西行寺幽々子は主人以外の何者でもない。もっともそれは文字通り主従の関係であるが、実際には字面以上の意味を持ってくる。つまり幽々子にとって妖夢とは従者以外の何者でもないのだが、妖夢にとって幽々子とは文字通り『己の全て』なのだった。
それに関して魂魄妖夢はと括るのは語弊を産むだろう、正しく言えば魂魄の家はと括るのが適切である。彼女と同じ血を引く者は総じて武士の気質を持っていた、それは良い意味で古き良き日本とも取れるが悪い意味で頑固であり、保守的であり、融通が利き辛いと言う意味でもある。
一言に武士と言えどそれには使う者と使われる者が居て、魂魄の家は紛れもなく『使われる』方の血筋が通っていた。妖夢が先祖を知ることはないし、そもそも半人半霊なぞという出自からして彼女の立場上の師であり、唯一認める肉親である魂魄妖忌以前の先祖がどうしていたかは今となっては知る由もないが、その末端たる少女を見ればその家系に流れる血なぞ容易に見て取れる。
それが主従関係であっても師弟関係であっても縦の繋がりを絶対視する思考、逆に横の繋がりを疎かにしがちな傾向。上の者から何かをせよと命令されれば、それが例え達成できぬと最初から決まっている事であっても、それが例え易々と己が命を捨てる様な事であっても、頭を垂れて喜悦を滲ませて承る――マゾヒズム、その体現たる存在が魂魄妖夢だった。
主命は絶対である、それは犯す事罷り通らぬ聖域であり、武士とはそれを成し遂げる事を至上の悦びとする種族なのだ。
少なくともその段階では、西行寺幽々子が異変を紅白の蝶に完膚なきまでに解決された時点では間違いなく魂魄妖夢とは武士以外の何者でもなく、何者にもなれず、何者である必要もなく、何者であるかなぞ考えもしなかった。
その時の彼女はつまり、そういった少女なのだった。
明星の光が空を裂き、下界の桜の蕾が綻んだ時、白玉楼の中途にある路に幾万と佇む桜の木の内の一本……その下でただ傷つき、ひゅうひゅうと息を荒く吐いて精根尽き果てながらもその様子をただ茫然とその様子を見ていた妖夢の胸中に最初訪れたのは途方もない虚無感だった。
ああ無念、なんたる無様か! 自分は安全な場所でのうのうと体力の回復を待つ間に、命を賭してでも護らねばならぬ主人の元に賊を通すまでかあまつさえ主人に剣を抜かせ、更には膝に土をつかせたではないか! これ以上の屈辱があるものか! 知らず知らずのうちに彼女は爪が掌に食い込む程拳を握りしめ、血が滴り落ちる程唇を噛んでいた。
彼女が受けた屈辱はそれだけではないのだ、賊――紅白の蝶、黒い魔法使い、白銀の犬……それらに一度敗北を喫したばかりか一矢報いんと再び相対しただけでも矜持に反すると言うのに、あろうことか呆気なく二度目の敗北を刻み込まれたのだ。這う這うの体で地面に落下した衝撃で気絶し、それが醒めた時の絶望感ときたら生涯決して忘れる事がないだろう程の衝撃だった。
体を動かそうにもギチギチと強烈な、鍛え上げたつもりであった肉体を無理矢理に暴れさせても千切れぬ縄のような痛覚が何条をも体を縛り上げていた。それを言い訳に動けぬとは決して考えたくもなかったが、あまりにも燦燦たる有様に頬を濡らしかけた己を叱咤する事しか出来なかった事がどれほど汚泥に塗れる程の屈辱だったことか!
やがてどうにかこうにか動けるまでに復帰した――人であれば全治数か月だった傷も半霊の身では驚嘆に値する程の速度で回復するのである。動けるとは言えどそれは百貫の岩を持って万の階段を上る程に肉体を酷使する様な負担がかかるが、そこまでの事をこの少女にさせるのは強烈なまでの目的意識だった。
己の腹を掻っ捌いて、その毀れ出た臓物を主人に晒すのだと。
死ぬべきだ、今ここで! たった今ここで自分はこれ以上の生き恥を晒さぬように死ぬべきだ! 少女の頭の中はそれのみが支配していた。例え主人がまるで塵を見るかのような視線でそれを見て、踏み潰そうと――いや、それすらも自分にとっては悦びとなってしまうのだが。
ともかく今できる事は死ぬ事なのだ、そうしてはじめて自分には弁明する事を嘆願する権利が与えられるのだ。主人の命を果たせぬばかりか二度も敗北し土を舐めるなぞ、それを他ならぬ自分自身が赦せなかった。これは頭で考える事ではない、一々考える事ではない、馬鹿らしいだのそんな事をしてどうなるだの言われる筋合いではない。魂魄妖夢のずたぼろにされて糞尿に塗れて、それでも最後にほんの少しだけ残った唯一の矜持がそう命ずるのだ。
心が思い立った時には既に体は行動していた、一切の隙も迷いもない所作で慣れ親しんだ正座となり。短刀――人の迷いを断ち切る刀である白楼剣をすいと鞘から引き抜いて自らの腹へと押し当てた。これを一文字に走らせれば間違いなく自分は死ぬだろう、それもただ死ぬのではなくのた打ち回って死ぬ、この世に産まれ落ちた事を後悔する程度には苦しんで死ねるのだ。
さあ死ね魂魄妖夢、この場で腸を一切合財ぶちまけて、これ以上屈辱を主に晒さぬように、残された矜持を穢されぬうちに、墨染めの桜が咲く前に、今ここで! 脳内物質と共に発せられる強迫じみた狂気の合唱――その中でふと、それを押し留める声が聞こえたのは果たして彼女の心に一抹、生への渇望があったのかは不明であるが。
そんな地獄の蓋をひっくり返した様な騒ぎの中だ。
待て、その声は厳命するかの如く朗々と響く声で言った。
主人の許可を得ずして死ぬなぞ何事か、敗北を喫し主人に泥を付けさせたこの失態、死んで詫びるなぞ勝手極まる事。それはあろうことか主人の怒りを恐れるのと同じ事ぞ、臆病者ぞ。真に詫びる気であればまずは主人に赦しを請うべし――死ぬ事の。名誉ある自害のその赦しをまず主人に請うべし、と。
その声が朗々と響き渡った時、今までは頭痛がする程にわんわんと鳴り響いていた合奏が一斉に止み、静寂の音すら聞こえてきそうな程脳内が澄み切ったように感じた。
彼女は立ち上がる、未だ癒えぬ体を引き摺りながら階段へと足を掛けた。屈辱を受けたから死ぬなぞなんたる身勝手、なんたる傲岸不遜! まずは幽々子様に許しを請おう、頭蓋骨が割れるまで地面に頭を叩きつけて――それから死ぬべきだ、自分の生も死も彼女が握るのだ。その表情はかつてない程晴れ晴れとしていて、その内に宿る狂気が尋常ならざらぬものである事を嫌でも理解させていた。
果たして、その相手は居た
立ちあがった妖夢の目の前に、背からまるで後光のように光輪を宿して、そこ佇んでいた。
西行寺幽々子は、敗北を喫したがそれでも悠然とした佇まいで妖夢の目の前に立っていた。
ゆゆこさま、妖夢の口が小さく掠れた声と共に動く。
ぼろぼろと知らず知らずのうちにそのまんまるい瞳からは大粒の涙が毀れている。
動かれど声は出ない、まるで喉が焼き付いた様に――声が、息が出来ない。
今すぐにでも頭を地に付けて平伏せねばならぬのに、ただ茫然とそれを見ていた。
幽々子は、妖夢の主人はただそこに居て。どこか面白そうに自分の従者を見ている、それはまるで彼女を試している様でその癖まったく何も考えていないようにも見える。彼女の年季の入った唯一と言える友人ならばその仕草に込められた意味が判別できるのかもしれないが妖夢にとってそれは年季も精神もなにもかもが足らない行為であった。
「ダメよ、妖夢」
主人の言葉は、ただの一言で他の何よりも優先される。
だからこそ妖夢はその一言で、唯一の路が断たれたのを理解した。
「――畏まりました」
もはや贖罪の路は無く、自らを断罪する事は叶わず。
静かに、真綿のような絶望が自らの心を締め付けるのをただ感じる他ないのだった。
異変の後は必ず宴会が供される、これは幻想郷においてルールである。
西行寺幽々子が画策し、博麗霊夢らによって見事解決されたこの異変も例に漏れず大宴会が開かれた。
人も妖も――とは言えど異変が異変なので生きている人の影は少なく、死んでいる人の影は多いのだが。
ところで宴会の必要性とは一体何なのだろうか、外界よりも遥かにその数と濃さの多い宴会を熟す幻想郷においてその意味合いを本当に理解している者は数少ないのは間違いがない。
楽しんで何ぼとばかりの刹那的な思考を持つ者が多いこの地において重要なのは行為の儀式性では無く、行為によって発生する歓楽性なのだから。
だがその意味合いを理解する者は存在する――否、幻想郷の有力者と呼ばれる者達は皆その意味合いを知っていた。
この結界の内部は外の世界よりも多様性には劣れどもその濃さは圧倒的に上、生まれて間もない毛玉のような妖精の傍らでは軽く百年や千年、果ては有史以来その歴史の影を見続けて来た者も存在するのがこの地なのだ。
出自や正体不明なれどふらりと突如として裏の歴史上に現れ、月面戦争を差し向けただの色々噂されるほどにきな臭い事をやっていたかと思えばいつの間にやら『忘れられし者が集まる地』なぞ荒唐無稽な絵空事を実際にやってのけた今も尚胡散臭さ際立つ賢者。
同じく出自は不明なれどその賢者の傍に常に潜み、しかしながら影として見るには余りにも眩く無視し難い存在を放つ金毛の九尾……即ち妖獣としては最高格の尾を持ち、式にして指揮を操る得体のしれないその従者。
幻想郷に現れてからメキメキとその頭角を現し、尋常ならざらぬカリスマ性から人にして禁忌を操る従者、八極拳の使い手、六曜の魔女等の戦力を用いて八雲の主従と大立ち回りを演じたと言われている紅い館の悪魔ども。
そして現段階では姿を見せていないが――恐らくは最も得体の知れない、所属も身元もはっきりとはしているものの、それ故にその強大過ぎる戦力と頭脳を有する竹林の蓬莱人、即ち月の姫とその従者である油断ならぬ薬師。
軽く見積もるだけでもこれ程濃い有力者が水面下で何をやっているかが分からない魔境が幻想郷なのだ、当然『彼女達』の宴会は時にして凄まじい、恐らくは特例である博麗の巫女以外であれば失禁待ったなしの剣呑な空気が流れる事もある。
しかしながらその他大半、九割九分にとって宴会なんてものは『歌って騒いで酒の飲める楽しい事』――つまりは祭りの行事性と儀式性を廃したイベントなのだった。ここで問題になってくるのはこの宴会において人間なんてものはほんの数人しか居ないと言う事実、その他大勢は多少どころでは無い無茶が効く妖怪達……それが宴会の空気に流されて欲望に流されればどうなるか。
結果は説明するよりも見た方が遥かに理解が早いのは火を見るより明らかだろう、酒が入って暫く醸された宴会の場ではそこらで色彩豊かな弾幕が破裂し、時折汚らしい言葉や謎の打撲音、囃したてる声や断末魔の叫びが木霊する即席阿鼻叫喚の巷が形成されていた。
「――すみません、博麗の巫女は―――」
しかしながら、無礼講の精神が根底にある宴会においても一定のルールと言うものは存在する。それはルールと言うよりも暗黙の了解に近いものだ、『その区画に居る者は無理矢理巻き込んだりしない』と言うのもその暗黙の内に出来た規律の一つであった。
酒気が湯気となって漂わんばかりの活気のある一角とは少し離れた場所、つまりは空気についていけなくなったか潰されたか、それか宴会に来てはいるけれど一人で飲むのが好きと言う物好きの居る区画に妖夢は居た。
物好きの内訳はごく一部付き合いで参加はしたけれど馴染めなかった新参と、宴会の騒ぎを肴に飲むのが好きな常連に分けられる。その二者は顔が明らかに暗いか、ゆったりと落ち着いて飲んでいるかで分けられる。妖夢は幽々子の事情で宴会慣れ……と言うよりも人慣れをしているので容易にその違いを判別する事が出来た。
酒に呑まれた酒飲みよりも酒を呑む酒飲みの方が話は通り易いし口も軽い、上手く使えばまるで湯水のように情報を分け与えてくれるだろう。それを教えたのは八雲の名を持つ式であり、なおかつ自分の従者としての師である八雲藍だった。
恐らくはこの宴会の中心的人物である事は間違いない博麗霊夢の所在なんてそこらの誰に聞いても分かるだろうが、そもそも妖夢は酔っぱらいが苦手だった。面倒くさいと言うのもあるし従者の仕事をする上で酒に呑まれた奴の中には話が長く尚且つ単調でつまらない地雷もいるとは知っていたし、わざわざそれを踏む物好きでは無かった。
妖夢が博麗の巫女の所在を確かめている理由はただ一つ、復讐だった。
妖夢は幽々子によって自害の路を封じられた、主人の命を護れず、主人の身を護れず、のうのうと気絶をしていた自分を許すただ一つの方法をあの時封じられてしまったのだ。対外的に見れば主人に赦されたのだから良いのではないかと思われるかもしれないがそうではない、少なくとも彼女にとってはだが。例え汚泥に塗れていたとしても、魂魄妖夢の矜持はそんな生易しい事で救済できる程安くはなかった。
落とし前をつけねばならなかった、それもどちらかの死をもって。
そうしなければ剣にこびりついた血液はこのまま拭き取られる事無く腐り始め、やがては鋼をも蝕むだろう。剣は鈍ってはならぬ、剣は常に手入れされていなければ容易にその切れ味を落す――それは誇りも同じ事だ、泥を掛けられた誇りはそれに相応しい者の血をもって洗い流さねばならなかった。
そして妖夢にとってその相応しい者とはつまり、博麗霊夢に他ならなかった。霧雨魔理沙や十六夜咲夜も侵入者であると言う要素を取ればそうであるがやはり、『博麗の巫女』は別格だった。その名に付いた箔もそうであったし、妖夢自身対峙していて一番手強い……と言うよりも始めて「どうしようもなく強い」と思えたのが彼女であった。
殺さねばならぬ、自らにとって一番の強敵を――もしくは殺されねばならぬ、その自らにとっての怨敵に。そうしなければ自分は此処で死ぬのだ、肉体は無事であっても自らの誇りが、それ故に精神が死ぬのだ。
今妖夢の体を動かしているのは殺意だった、それは一切外に放出しないまま彼女の燃料となり、唸りを上げて猛烈な破壊衝動を産んでいた。理性ある狂気に突き動かされるように妖夢は自ら最期の勝負をしにその集団に向かう、話題の中心に居るのはやはり気だるげな表情で会話を捌く紅白の蝶の姿。ギリッと、妖夢の口から歯が軋む音が聞こえたのは錯覚ではない。
静かなる、それでも圧倒的な殺気を湛えたまま彼女はその集団へと近づいてゆく。未だ誰も酒の勢いに押されてその小さな影が見えていない、好都合だと妖夢は口の端が吊り上るのを感じた。嗚呼好都合だ、自分が名乗りを上げて彼女の首を取るのには非常に非常に好都合だ。
一歩一歩地面を踏みしめるたびに景色が歪んでいく、まるで陽炎のように一切が夢と消え、やがて世界には二人きりとなって――楼観剣を握る手が今にも振り抜かれそうになる。一瞬の油断でその手は吃驚箱の様に跳ね上がるだろう、その手に血染めの刃を付けて。しかしまだだ、確実な死を、自らがその死を体感できる程近くまで接近するのだと。脳内で囁きかける声に従って、ただ動物的な本能に従うように、何の疑いもなく近寄っていく。
死へと向かっている、剣を携えた少女はただただ一人孤独に死地へと向かっている。
狂った様なけたたましい喇叭の音が聞こえる、そういえば天使の中には終末の喇叭を吹く者が居たなと妖夢は微笑んだ。なんともお似合いではないか、うんと気力が不思議と腹の底から駆け上がってくるのを感じる。喇叭の音と重なるようにして死を求める声が、血を欲する声が、頭蓋の中で反響しミシミシと痛覚に訴えかけて―――――
ぴたりと、それが止んだ
「―――――は―――っ……!?」
妖夢は驚愕した。
一瞬、ほんの一瞬と言えど自分が意識を手放していたのだと理解した。
あの昂揚、あの緊張によって極限まで張りつめられていた糸がいつのまにやら緩まされていた事を理解するよりも先に血走った目で辺りを見回した。
いつのまにやら殺せ殺せと喚き叫んでいた声は止み、その行為とは裏腹に驚くほど冷静さを取り戻している事に気付くより前に、自らに気配無き攻撃を与えたのは誰ぞとその正体を掴むために辺りに視線を走らせる。
一瞬だけその首を刎ねようとした博麗の巫女かと見るも彼女は変わらず、しかしながら少しばかり驚いた様に押し黙り、耳を澄ませていた。
いや違う、彼女だけではない。
周りにいる全員がいつのまにやら談笑を潜め、ある者は目を瞑って何かに集中していた。
そして彼らが何に集中しているかは、目を瞑らずとも容易に知る事は出来た。
それは、ヴァイオリンの調べだった。
妖夢は音楽に疎い、幼少よりただ従者としてあり、趣味と言えば庭弄りか鍛錬しかなかった彼女であるがその素人耳でもそれに対してただ美しいと――そう聞き惚れる程度には素晴らしい音色だった。
か細い旋律だ、ともすれば今にも断ち切れてしまいそうな上質な生糸のようなそれは一切の緩みなくピンと張りつめられている。
自然とその視線は糸を辿り、調べの源泉を辿り当てようとしていた、剣士として鍛え上げた五感にとってそれは容易い事だ。集団の中で不自然に開いたその空間の中に、妖夢のオッドアイは“彼女”の姿を認めた。
息を飲む音が、確かに聞こえた。
空間の中に居る彼女は、黒服を着た奏者は、ただ全神経を音楽に捧げている。
短め金髪をふわりと時折揺らしながら、どこか物憂げな表情で一人物語を紡ぐ。
妖夢はただ彼女を見ていた、なにもかもを忘れてただじっと呆けたように見ていた。
やがてその仲間と思われる白い服の少女が終末の喇叭を奏で、それを制するように赤い服の少女が執成せば先程までの静寂が嘘の様に賑わいを見せ、彼女たちの姿は大柄な妖怪達に囲まれて見えなくなってしまう。
けれども妖夢はその旋律達の中からしっかりとヴァイオリンのか細い糸を辿る事が出来る気がして目を閉じる。
けれどもそれは叶わないまま宴は終わり、ただ祭りの残骸のみが残ったのだ。
何も残らない、妖夢にとって必要なものは何一つとして残らない。
あの湧き上がる殺意も、剣士としての矜持も、美しい弦楽器の音色も、どこか自分に似た奏者の姿も。全てはまるで嵐の後、満ちては引いてゆく潮の様、砂の城も死体もなにもかもを押し流して――ただやり場のない感情のみが、銀髪の少女の中に産まれては轟々と渦巻き始めていた。
やがて異変は過ぎ去り、過去のものとなる。
解決してしまった異変は最早異変では無く、記憶の隅に追いやられて消えてゆく運命にある。誰かにとって都合が良ければ書物に記されでもして残されるだろうし、悪ければそれも許されずに喪われてゆくだろう。
異変の本質は結果にあるのではない、大概誰かが何かをしようとした結果異変が生じ、博麗の巫女が解決する事でその辻褄合わせをする。それを起こす事自体が目的と言う特異な例はある事にはあるが、それは本当に特異極まりない事。
“異変”と言うのは幻想郷において不穏分子でも、ましてや異物でもなんでもない、まるで祭りの様に散発的に発生しては解決されていく事。反発では無く迎合されて然るべき、当たり前のように存在して然るべき事。
だからこそ異変の後には禍根を残してはならない、宴会によって異変の解決を首謀者ともども祝い、水に流す事で次の異変につなぐ準備をする。
全てはシステムであり必要事項なのだ。
そうやって八雲紫はこの空間を定めた、そうやってこの世界は回ってきた。時に疵を残して軋みを産みながらも、博麗の巫女という存在を軸として奇跡的に必然的に上手く回してきたのだ。
だがしかし、システムとは大抵の場合うまく回らぬもの。それが例え神の意志であったとしても、例え計算上一切の不備がない完璧な構成であったとしても。この世において唯一にしてぜったいの変数である“心”が関わると途端に破綻するのが世の習わしなのだ。
これまでもこれからも誰一人として同じものを持たぬ、だからこそ破綻する。
それは等しく心の所業、それこそまさに神の御業。
八雲紫は時折神と言う存在が殊更憎らしくなることがあるが、それは大概自分の組み上げた一切の瑕無き数式が心という関数を挟んだ途端、その完璧さが仇になり忽ち崩落を始めるからだった。
知っていて尚、そしてだからこそ拒否したくなる反逆精神旺盛な者が居る。理解したとしても受け入れられぬ者が居る、どうあっても心が受け入れられない――理屈では説明できない、否応なき拒絶。
そして魂魄妖夢は、どうにも後者であったらしい。
「っは――――あぁぁっ!」
気勢を発しながら彼女の放った斬撃は一閃の軌跡となり、空を裂いて音と化す。
一瞬、ほんの一瞬だけ剣閃の延長線上に風の刃が放たれて――しぃんと、後には心地よい程の静寂と、抜身の刀を構えて残心の体勢を保ったままの妖夢が居た。長いとは到底言い辛い髪では激しい動きの後も揺れ動き続ける事は適わず、風に揺蕩うようにふらふらと揺れてはやがて止まる。
ほうっと
通常であればそう年頃の少女が浮かべる筈であろう緩んだ表情をして、されどすぐさま気持ちを切り替え次の構えへと入るだろう。
けれども構えを解き再び間発入れず次の斬撃を準備する彼女の表情は硬く、まるで一瞬たりとも緊張の糸を解いてはいない様に見えた。いや、実際に解いてはいないのだ。その額から滴り落ちる汗は今や前髪をべっとりと貼り付けてしまう程の量になっていたし顔色も十分悪い、まるで幽霊の様に青白いのだ。
今だけではない、最近の妖夢はどこかおかしい、鍛錬中は愚か日常においても常に余裕がなくどこか殺気立っている。流石に主人の前では平然を装っているがそれでも油断をすればチラリとその獣の影が垣間見える程。まるで何かに憑かれているような――否、事実として彼女は取り憑かれていたのだ。
「はっ……はぁっ、はぁっ…!」
彼女は、ここのところ鍛錬に集中できないでいた。
今だってそうだ、衣服がたっぷりと吸いあげて重くなるほどに汗を掻いてはいるがそれは運動の心地よい汗ではない。それらはまるで悪夢を見た時の嫌な汗だった、冷たく重く吐気と共にやってくるようなやつだ。
その原因はこれ以上ない程はっきりとしている、それは幻聴と共にやってくる。
そう、ヴァイオリンのなんとも言えない幻惑的な音色と共に、それはやってくるのだ。
さらさらと揺れる、ぼんやりと朧月のように輝く金のボブカット
抱いてしまえば折れてしまいそうな、小柄で三日月みたいに華奢な輪郭
まるで月を隠す暗雲のような、黒を基調としたその衣装
あの時一瞬だけ視界に捕えたまま群衆に隠れてしまったヴァイオリンの奏者の姿が、その輪郭の細さと錦糸の様に儚い旋律とは裏腹に力強く、一心不乱に六弦を掻き鳴らす彼女の姿がその音と共にまるで呪いの如く脳味噌に焼き付いてしまっていた。
いつの間にやら取り憑かれたその影は、妖夢にとって紛れもない災厄となったのだ。
落ち着かないのだ、彼女を一度意識してしまえば気もそぞろになって物事に忽ち集中できなくなる。そればかりではなくなぜか心臓がバクバクと鳴り始め、呼吸が荒くなり、緊張のあまり手足が動かなくなる。
妖夢にとってこれは死活問題であった、例えば幽々子と話している時にそれが起こってしまえばあろうことか忽ち意識がそちらに持って行かれてしまう。主人の言葉を聞き返すなぞ妖夢にとっては一度その場で切腹し、霊魂になってからもう一度切腹してもし足りない程だ。けれども彼女が現れてからふと気付けば幽々子に心配げな顔をされることが増え、その度に切腹しようとしたが「駄目よ」の一言で泣く泣く死ぬのを諦める事が激増した。
そればかりではない、日々の日課である家事中も、庭仕事中も、更には妖夢にとって聖域である鍛錬中も現れて彼女を惑わすのだ。廊下を歩いている最中にふと彼女が角を曲がるのを見かけて慌ててその姿を確かめようとした時には、正気に戻った際に幽々子が傍に居なければその場で六文銭を叩き捨てていたところであった。
妖夢にとってそれは絶望だった、あの最後の冬の日に満身創痍になりながらもどうにか天を見つめていた時以上の絶望――それはこれ以上、いやこれ以下の底は無いだろうと自嘲気味に安堵してしまった彼女を嘲笑うかのような、底すら知れぬすら湧いてこない奈落だった。思わず笑いすら込み上げてくるような、光すら飲み込む漆黒の深淵だった。
怒りに身を任せていられたのがどんなに幸せだったことだろう、妖夢はその時初めて理解した。委ねてしまえばあとは押し流されるままの濁流のような感情、それがどんなに無責任で身勝手なことだったのだろうか。
恐らく彼女の師である人物が悟っても尚、白玉楼から忽然と姿を消す前に一抹の不安としてその白んだ後ろ髪を引かれる要因であったのだろう。彼は剣士としては一流であるが唯一の肉親としては余りにも不器用すぎた、そして彼女はその教えを受けとるのには早過ぎて、それを自分のものとして生かすのには未熟すぎた。
妖夢は狂ってしまいたかった、狂っていない自分なぞ自分でないように感じた。
自分は剣だ、一度鞘から抜けばギラギラと殺意を刀身に並々と湛えて鈍く光る剣なのだと意識していた。狂気に身を委ねてこそ剣士なのだと、その一瞬にのみ生きる刹那の住人が己なのだと思っている節があった。
けれどもどうだ、どこからともなく弦の音が聞こえれば忽ち彼女はすとんと落ち着いてしまうのだ。夜も眠れないとあればまだ良い、けれどもそんな事は許さないとばかりに彼女が姿を現せば目蓋はすとんと落ちて翌朝どうしようもない嫌悪感と共に目覚めるのだ。挙句の果てに夢にまで現れて妖夢に迫って来た時には慌てて起き上がり、寝汗の気持ち悪さと空気の冷涼さではまだ足らず頬を抓る事で夢でないことを確認した時にはどうすればいいのか分からずに半泣きになった。
今だって、そうだ。
妖夢の目の前には彼女が居る。
恐らくその表情がぼんやりと霞んでいて見えないのはあの時、妖夢がただ唯一生身である彼女に会った時良くその表情を見ていなかったからなのだろう。最初は夢現の区別がつかず慌てふためいてはいたがそれも一カ月と続けば流石に慣れる、これは幻覚だと思う事で妖夢は辛うじて平穏を保ってはいられるようになった。
ただじっと、お互いに相対したまま見合っている。
彼女は妖夢の方を向いたまま、そのぼんやりと陰る顔のせいでどのような表情を浮かべているか分からないし、第一幻に表情なんてものがあるのかどうかは誰にもわからないことだった。
妖夢もただじっと彼女の方を見つめている、その表情にはどの感情も備わっていないように空虚で、けれども敵意と害意とを無理矢理に詰めた様な瞳でまんじりともせず自らに取り憑いたそれを見つめて――次の瞬間、風切り音と共に鈍く煌めく剣閃が走った。その一瞬には一切の無駄も躊躇もない、どれだけ無様な負けをしようとも、師に主人に未熟と言われようとも、その腕は紛れもなく達人のそれへと近づいているのだ。
「――――っち……っ」
だが、苦々しげな表情になった彼女からは舌打ちが思わず毀れる。
振り抜いたその一閃は途中で止まっている、彼女の幻影の直前でぴたりと途切れていた。
使命のために躊躇なく殺し死ぬのが精神の完成型のひとつかもだけどそれじゃあ余りにもって感じ
漆黒で全てを塗りつぶす正しさというか他を許さない何かというか
漆黒の正しさに対抗する何か
それが音楽やルナサなのだろうか