「マミゾウさぁ」
「ん?」
「最近、丸くなったよね」
「何じゃ、ぬえ。失礼じゃのぅ。『れでぇ』に向かって、丸くなった、とは」
「何が『レディ』だよ。ぎっくり腰大丈夫?
あと、『レディ』ね。『レディ』。横文字に弱いなぁ」
けらけら笑うのは封獣ぬえといういたずらものである。
座布団の上に肘をついて、床の上に腹ばいになっている彼女を一瞥して、『ほほう』と目を細くするのは、この部屋の主である二ッ岩マミゾウ。
「そうか。なるほど。
ならば、ぬえには、わしの知り合いの魔女から魔法をかけてもらおうか。
昔から、ぎっくり腰とは『魔女の一撃』と言われておるからの」
「やめてよね。そういうの。
それに、わたしはまだまだ若くてぴちぴちだから」
「今月のお小遣いはなしじゃな」
「えー!? それ卑怯!」
すぐにがばっとその場に起き上がり、マミゾウに食って掛かるぬえ。
日頃、もらったお小遣いでおやつを買うのが楽しみな彼女にとって、『お小遣いなし』は英雄の矢の一撃に匹敵する痛手である。
「それで、何で『丸くなった』のじゃ」
「いや。
ほら、昔はこう、なんていうか。清濁併せ呑むどころか濁ったものの方を好んでいたくせに。
今じゃ、酒は濁酒じゃなくて清酒だし。あちこちでいい顔して、『おばあちゃん』って呼ばれて喜んでるよね」
「ほっほっほ。
まあ、それも亀の甲より年の功。お前達のような、年齢だけ重ねて、頭の中身は子供のままの連中との違いというやつじゃ」
「一応、わたしも大妖怪なんだけどなー」
「何が『大妖怪』じゃ。一輪殿に尻を叩かれて泣きじゃくってるのは、はて、誰じゃったかな?」
「むぐ……」
余計なことを言えば簡単にやり込められる。
この辺りの口のうまさ、というか、減らず口のレパートリーに関しては、なるほど、マミゾウの方がぬえよりも上であるようだ。
そんなやり取りをしていると、外に人の足音がした。
すぐに、すっと……ではなく、がたがた音を立てながら障子が開く。
「すみません。マミゾウさん。
今、少し、お時間よろしいでしょうか?」
「何じゃ、白蓮殿か。わしに何用じゃ」
「少し」
「ふむ。
――わかった。手短に頼む。
あと、ぬえは、お小遣いをなしにされたくなければ、その建付けの悪い障子を直しておいてくれ」
「めんどいなー」
「なしでもいいんじゃな?」
「わーかーりーまーしーたー!」
頭の上に『?』を浮かべて首をかしげる、この建物の主である聖白蓮。そんな彼女に、『何、戯事よ』とマミゾウは笑った。
「わしに何の用がある?」
家――命蓮寺という妖怪寺――を出て、二人は道を歩いていく。
その道中、白蓮は、「いえ、実は……」と話をしてくれた。
――話によると、ある人里に住む人間の家で、妖怪による人食いが起きたらしい。
正確には、そこに住む人間の家族が里を出て山道を歩いていると、妖怪に襲われた――というのが正しいところなのだが。
その結果、家族を食われた一家の男――要は夫が、その妖怪に対して激怒し、血眼になって里人と一緒に妖怪を探し、ついにその妖怪をひっとらえたとのことなのだが、
「よくあることじゃろう」
「ええ。それはそうなのですが」
「この幻想郷では、人間と妖怪が互いに住んでいる。お互いにはお互いの領域がある。その領域を超えているものに対して、何の遠慮をする必要があるのか。
大昔のように、夜、家で寝ている時ですら油断が出来ぬというわけでもあるまいに」
「……ただ、人の感情は、そう合理的には出来ていません。
私としても、それは理解できますし、マミゾウさんにもご理解いただきたいと思っております」
「ふむ。まぁ、よい。続けろ」
さて、その人間、捕まえた妖怪を前に激昂し、『此の世の、知る限りのありとあらゆる苦しみを与えて殺してやる』と息巻いているのだとか。
最初こそ、里の仲間がやられたということでそれを煽っていた周りの者たちも、次第に眉をひそめるようになり、今では『ちょっと待て。それはいくらなんでもやりすぎだ』という状態になっているらしい。
しかし、怒りと悲しみで我を失っているものに正論が通じるはずもなく、『このままでは何かがまずい』と焦りが生まれ、ちょうどその時、布教のためにそこに立ち寄った白蓮に『徳の高いお坊様。何とかしてくれないでしょうか』とすがりついてきたのだとか。
「身勝手よの」
「……ええ」
「まあ、人間とはいつの時代もそのようなものよ。
そういう点から見れば、ただ、自分のやりたいように生きて、生きた後にくたばる妖怪の方が、よっぽど善人じゃ」
「善も悪も、誰かの主観でしか推し量れないものですし」
「全く。
面倒な話じゃな。何じゃ、わしがその男を殺してしまえばいいのか? 死ねばあの世で、愛する妻と子供に会えるぞ、と」
「ま、まさか、そんな」
違います違います、と白蓮は慌てて顔の前で手を左右に振った。
正直、めんどくさい、とマミゾウは思っていた。
何でそんなことに自分を駆り出すのか、と。
彼女の不満の視線を受けて、白蓮は「そうではなくて、私がどうにかしようと思っているのは妖怪の方なのです」と言い訳する。
それで、マミゾウが『ほう?』という顔になった。
「やはり、事が事ですし、彼らとしてもその妖怪をどうにかしてやらないと気がすまないことでしょう。
しかし、この世界においては、人間が妖怪に襲われるのは当たり前であり、妖怪のテリトリーに踏み込んだのであれば、妖怪に何をされても文句が言えないというのも常です。
そうした点から考えれば、一方のみを断罪するというのはおかしいといわざるを得ません。
特に、……理解が出来ないわけではありませんが、いっときの感情に身を任せ、残虐な行為を行うなど、御仏の慈悲をもってしても許される行為ではないはずです。
ここは、それを互いの罪として相殺し、一度、私がこの妖怪を預かり、しかるべき更正を施すということを」
「それで相手が納得すれば、じゃがの」
「納得させてみせます」
「わはは。そうかそうか。
それは面白い。
ならば、お主の手際を、一つ、見物させてもらうこととしよう」
何やら、マミゾウは、白蓮の行うことに興味を惹かれたようだ。
マミゾウのその反応に、内心、白蓮はほっとする。
この彼女、見た目はこのような『人のよさそうな』妖怪であるが、その中身は、恐らく、白蓮の知る妖怪たちの中で、最も『妖怪らしい』という相手でもある。
彼女を敵に回したとなれば、面倒なことになる。物理的にも精神的にもだ。
だから、なるべく、相手の気をよくする方向へと会話を進めなければならない。
「しかし、ならば、なぜわしを連れてきた? わしがいる方が面倒じゃろう。横から口を出して邪魔するかもしれぬぞ?」
「マミゾウさんには、その妖怪の身元引受人になってほしいんです」
「やれやれ。そうやって、すぐに年寄りを酷使する。最近の若い者はこれだから困ったもんじゃのぅ」
そして都合のいい時に、『年寄り』を口にするものだから、厄介である。
ただのノリや茶目っ気ではなく、マミゾウの場合、そこに計算ずくの行動が混じっているから、さらに厄介なのだ。
しかし、こういう場合、最も頼りになるのもマミゾウである以上、白蓮としては、どうすることも出来ないのも、また事実だった。
さて、やってきたのは、とある小さな集落である。
普段、彼女たちが足を運ぶ大きな里とは雰囲気の違う場所だ。
そこにやってきた二人を出迎えたのは、腰の曲がった、見た目だけでは年齢すらわからない白髪の老人である。
彼は白蓮と一言二言会話した後、二人を連れて歩いていく。
ちなみに、マミゾウは、ここに入る前にすでに人間の姿に化けている。
白蓮曰く、『里の人たちの、妖怪に対する不信感が強いので』というのがその理由だ。
里の中を進み、やがて一軒の家の前にやってくる。
その扉の前には屈強な体躯の男性が二人、手に武器を持って立っており、老人を見て、その場を開けた。
「……ひどいですね」
「……わしも、あいつの話を最初に聞いた時は、『なるほど。その通りだ』と思ったものですが、さすがにこれは、と」
部屋の中に満ちているのは鉄の臭いだった。
部屋の中、一番太い大黒柱に、ごつい鎖でつながれた子供がいる。
全身に傷がつけられ、憔悴した感じの女の子だ。
ただし、その尻には長い尾が生え、手足の爪は鋭くとがり、口元からは犬歯が覗いている。
犬か、それに順ずる何かの妖怪なのだろう。
「もう大丈夫ですからね」
白蓮は彼女の元に歩み寄り、まずはそっと、彼女をかき抱いた。
それから、男性から鍵を受け取り、彼女を拘束していた鉄の首輪を外してやる。
彼女は目の前の人間を不思議そうな眼差しで見た後、自由になった喜びからか、目に涙を浮かべて泣きじゃくる。
その泣き声は、人間の子供と、なんら変わりない。
「こんな子供にこのような仕打ち。
妖怪というのは、人間よりもはるかに治癒能力が高い。
どうせ、手足を切ったり、指を切り落としたりなどして痛めつけたのだろう?」
左手側には炊事場がある。
そこに、血のついたまな板と、大きな包丁があるのを見て、マミゾウは老人に問いかけた。
返事はない。
否定も肯定もしないということは、そういうことなのだろう。
「人間ってのは残酷なものだ。
内側にこもってるから、こういうところでは、余計に残虐性を発揮する。
何が妖怪だ。何が人間だ。
人間も妖怪も一緒だよ」
はき捨てるようにつぶやいた彼女の言葉は、白蓮にも聞こえただろうか。
やがて白蓮は子供の妖怪を連れて、その家を後にした。
マミゾウもそれに続き、建物の外に出る。
暗い空間と、臭う血の香りが薄れていく。
「では、マミゾウさん。彼女を」
「任せておけ」
マミゾウは少女の手を取ると、「先に帰っているぞ」と歩き出した。
白蓮は彼女に対して、深々と頭を下げた後、白髪の老人と一緒に別の方向へ歩いていく。
「お前は人を食ったのか」
歩きながら、マミゾウは尋ねた。
少女からの返事はない。
「人に恨まれるとわかっていながら、人にちょっかいをかけたのか」
やはり答えはない。
二人は里を抜ける。
寺への帰り道、ひとけのない通りを歩きながら、
「よくやったわ」
にんまりと、マミゾウは彼女を見て、『妖怪』の笑顔を浮かべた。
さて、それから、命蓮寺で彼女の生活は始まった。
今回のこの一件を『罪』として、白蓮により、その『罪』への償いと教育がなされる傍ら、命蓮寺の『人間』としてそこの者たちと日常生活を送る。
一見すれば、普通の『生活』そのものである。
「この前、聖とマミゾウさんが連れてきたあのちびっこ、なかなかよく働くわよね」
「確かに。
村紗よりもずっと役に立つわ」
「何よ、それ。ひどいなー、一輪。傷つくなー」
「だったら、私の手間が少しは減るようにしてちょうだい」
両手に大きなかごを持ち、その中に洗濯物を大量に入れて歩いている雲居一輪。
その隣で、村紗水蜜が、「だったら、今日の晩御飯は私が担当してやろう」と言っている。
「あ、晩御飯の話? だったら、私、今日、お肉がいい!」
「響子もお肉食べたいですぅ!」
「はーいはいはい。
だけど、うちは寺だから……まぁ、聖が見てないところでならいいか」
「姐さんに怒られないようにね」
「あ、止めないんだ?」
「私は破戒僧だもの」
おなかをすかしてぴーちくぱーちく鳴くぬえと幽谷響子を適当にあしらって、一輪は歩いていく。
村紗は、「聖に心酔しているように見えて、意外と適当なのね」と彼女を評した。
――さて。
「うーん……」
「あなたはまだ頭を悩ませているのか。珍しい」
部屋の座椅子に座して、腕組みして虚空を眺めているものがいる。
このお寺の御神体(として白蓮に扱われている)、寅丸星である。
その彼女の前には、彼女の従者として在るナズーリンが座っていた。
「確かに、罪を犯したものを必ず罰する、いわゆる信賞必罰というのは必要なものです。世の中において。
しかし、誰も彼もに常に適用されるものでもない」
「ふむ」
「――と、他者に憐れみを持つものは言うでしょう。
やむにやまれぬ事情があって人を殺した、盗みを犯した、そうせざるを得なかった。そうした事情はわかります。
しかし、です。
しかしながら、それは、それを判断するものには関係のない理由です。
罪は罪、罰は罰なのです。
よいことをすれば他者からほめられ、悪いことをすれば叱られる――これこそ当然の倫理です。
だからこそ、悩みます」
「珍しい」
「こう見えて、私は仏の化身の一つ。そうしたことを考えぬ仏はいないでしょう」
「だから、珍しい、と言っているのです」
うぐ、と星はナズーリンの言葉に詰まる。
何せ、この星の命蓮寺における扱いといったら、『仏』というよりは『ただのトラブルメーカーその1』に程近いのだ。
本人はそうと考えていなくても、無意識に、やっちゃならんことやらかす類のものなのである。
ちなみに、それは白蓮にも当てはまるため、総じて、この妖怪寺が『トラブル発生装置』の一つとして認識されてしまう原因となっている。「ま、まあ、それはそれとして」
こほん、と咳払いを一つ。
「聖白蓮は、恐らく、此度のあの妖怪を憐憫の情から救おうとしているのでしょう」
「まあ、中身はどうあれ、見た目は子供。話をしてみれば、精神も成熟していない、まさしく駆け出しの妖怪でした」
「ならばこそ、罪は罪であり、罰は罰であることを教えることが仏の御心にかなうことのはずです」
「確かに。
幼いうちから、罪に対する認識は育てなくてはなりません」
「にも拘わらず、彼女はあの妖怪に対して、さながら母親のような母性を持って接している。
あまりほめられるものではありません」
「果たしてそうでしょうか」
「人間の視線から見れば、当然なのでしょうけどね」
そこで、ふぅ、と星は息をつく。
「本来、教えられるべき時期に教えられなかった――これは不幸であるのかもしれません。
しかし、人と獣の倫理観は違うのと同様に、人間と妖もまた、違うのです。
妖にとっての悪事が人間にとっての悪事ではなく、また逆も然り。
そもそも妖の行ったことを、人間が咎めることは出来ないのです。それに対して出来るのは、人の言葉に直すならば『因果応報』のみなのです」
「ならば、今のこれもまた、因果応報なのでは?」
「そこなんですよね」
だから困ってるんだ、と星は言った。
う~ん、と悩みながら、
「正直に言えば、彼女には、『そのような無駄なことはおやめなさい』と言いたいのですが……」
「言えばいいじゃないですか」
「いや、彼女にとっては無駄ではないでしょう?
人に害をなす妖を、己の手でもって、益となす。人間側にとってみればとてもありがたく、妖側にとってはありがた迷惑ですが、この世界での、ある意味、生き方を教えてくれる――悪いことではないんですよ」
「だけど、無駄なのでしょう?」
「そう。無駄です。人の倫理を妖怪に落とし込めるはずがない。
……だけど、言いくるめられる気がしないんですよねぇ」
困ったもんだ、と星。
白蓮が時たま見せる、ああいった『博愛精神』というものが困りものだ、とも彼女は言う。
慈悲や救いというものは万物に等しく平等に降り注ぐもの。
その判断というか、考えは間違いではない。間違いではないのだが、行き過ぎると、『過保護』であったり『不平等』へとつながるのだ。
「人間から見れば、あの妖は、何が何でも殺しておきたい存在でしょう。
妖の側から見れば、妖の本分を果たしただけなのに、何で殺されないといけないんだ、と不満を持つでしょう。
彼女は人間の目から見て、あれを『人間』の存在に落とし込もうとしているのです」
「なるほど」
「それが厄介だ」
何とかしてやめさせたいのだが、さりとて、白蓮のやっていることはある側面から見れば正しい『正義』であり、それを突き崩すのは容易ではない。
何せ、白蓮は頑固なのだ。あの見た目のくせに、一度決めたことは、頑として譲らない側面も持ち合わせている。
だから、癖のある、この妖怪寺の一味を引っ張っていけるのだろうが、反面、それはどうにもならない欠点ともなる。
「私は、聖のことが好きですからねぇ。
あんまり辛い言葉は投げかけるのは……」
「結局のところ、そこなのだな」
妖怪寺に住まう面々は、結局のところ、『聖白蓮』という人間が好きなのだ。
彼女のことが好きだから、こうして、彼女と一緒に生活している。
彼女のいいところも悪いところも、全部受け入れて、一緒にいる。
だから、言いづらい。
「しかし、誰かがどこかで言わないといけないことでしょうし。
村紗や一輪には期待できませんし。
もちろん、ぬえや響子なんて以ての外ですから。
私が言うしかないでしょう」
「私は戦力外なのですか」
「ナズーリンは皮肉屋であって、正論を唱えるのが好きではないでしょう。
それにあなたは気が弱い。聖がちょっと強い口調で言えば、たちまち、尻尾を巻いて逃げ出してしまう」
ナズーリンはその言葉に、肩はすくめても反論はしなかった。
確かにその通りだ、と納得してしまったのだ。
「マミゾウは?」
「彼女は何を考えているかわからない」
「まぁ、確かに」
「正直に言うなら、私は、彼女はあまりいけ好かないのですよね。
内心で何を考えているのかわからないというのもありますが、あまり、聖のことが好きではないようですし」
「まぁ、堂々と寺の中で酒を飲んで、聖に怒られても飄々としているからな」
「彼女にこういう話をしたら、多分、笑われるだけで終わると思います。
『そんなもの、わしはとうの昔に奴に言っておるわ』って」
「……確かに」
仕方ないけど、自分がやろう、と星は言った。
膝を叩いて、彼女は立ち上がる。
そうして、後ろから「今からですか?」と問いかけるナズーリンには「もちろん」と答えた。
障子を開く。
そして、彼女は固まった。
「無駄なことだとわかっているのなら、余計なことはするでないぞ」
そこにマミゾウが立っていた。
彼女は、星とナズーリンの会話を聞いていたのか、顔ににんまりとした笑みを浮かべている。
しかし、その瞳はいつもと違う、真っ赤な色に爛々と輝いていた。
星は一瞬であるが、息を呑む。
「なぜ、邪魔をする」
彼女は、だが、引かなかった。
いつものほんわかほえ~っとした声のトーンをぐっと落とし、鋭く、重たい口調で問いかける。
それにはマミゾウも想定外だったのか、『おっと』と少しだけ身を引いた。
「今、彼女に警告をしておかなくて、いつするというのだ」
「ふふふ……なるほど。
いや、さすがは毘沙門天の化身を名乗るだけはある。大した神気。わしのような妖怪でなければ、尻尾を巻いて逃げ出していたところよ」
ちらりと、星の後ろのナズーリンを見る。
彼女は、完全に、固まっていた。
「なぁに、こいつはちょっとした余興と考えているだけよ」
「お前の余興に彼女を巻き込むな」
「逆だ。奴の余興にわしがつき合わされている。
しかし、わしはそこに興を感じた。だから、邪魔するなと言っている」
「あまり彼女を馬鹿にしないようにしてほしい」
「バカにはしていない。
奴は阿呆だ。だが、親しみのある阿呆だ。でなければ、こんな居心地の悪いところに長居するものかよ」
「ならば、私の邪魔をするな」
「それはこちらの台詞だ」
両者のにらみ合いが続き、はたと我に返ったナズーリンが立ち上がろうとする。
その時、「ちょっと、星ー。そろそろご飯なんだけどー。いらないのー?」という村紗の声がした。
両者は肩から力を抜くと、少しだけ距離をとる。
「うまくいくならそれでいい。うまくいかなければ、わしが責任を取ろう」
「なぜ、あなたが取るのですか?」
「ふふふ。簡単なこと。
わしは、この寺の中では外様の存在じゃ。お主のように、寺の中において大事な位置にある、かけがえのない存在ではない。
お主が嫌われ役を演ずる必要はないよ。
お主が考えているようなことを、わしも同時に考えている。
奴の余興に飽き飽きしているのじゃろう? しかし、わしは逆じゃ。どう、この一件が転ぶか、それを見てみたいと考えている。
だから、止めぬ。
故に、此度の一件、わしが責任を持って終わらせる――それだけよ」
「己の遊びで身を滅ぼすものは、歴史の中に数多存在しています。
あなたがそのような愚か者ではないことはわかっているつもりです。
ゆめゆめご承知おきを」
「うむ。心得た。
しかし、あれじゃな。さすがは寅丸殿といったところか。このわしと眼力勝負をして、足を後ろに引かなかったのは見事、見事。
わっはっは」
彼女はいつも通りの『彼女』に戻って去っていった。
星はしばし、その場に立ち尽くした後、「ナズーリン、ご飯だそうです」とナズーリンを伴って歩き出す。
「……いいのですか?」
「いいのでしょう。多分。
彼女は自分が責任を取ると言っているんです。口約束だけではないでしょう」
「もしも違ったら?」
「その時は……もしも、その時、聖にも危害が及ぶようであれば、私が奴を調伏するまでです」
自分にそれが出来るかはわからないけれど、と星は苦笑した。
一応、彼女も、いつもの『自分』に戻ったようだ。
ナズーリンはほっとすると同時に、『大丈夫なのだろうか』と不安になる。
「……やはり、私は、何かバッファを用意しておかないといけなさそうだ」
緊張した状況が続くのはよくないし、後ろに一歩も下がれない状態というのも、またよくない。
何か、身を寄せて安心できるものが必要だ。ナズーリンはそう考える。臆病者の思考というのは、時として、何よりも周囲の身を案じる安全策へと変わるのだ。
「星、おそーい! おなかすいたぞー!」
「おなかがすいたですー!」
「すみません」
「ん? 雲山がいないようだが……」
「雲山なら、あの妖怪の監視を買ってくれているわ」
「……そうか」
「はーい、ご飯だよー。ちびっこども、喜べー」
「わーい! ご飯ですぅー!」
「誰がちびっこだよ、村紗!」
わいわい騒がしい空間に、マミゾウの姿がある。
彼女はその様子を楽しんで眺めながら酒を飲んでいた。
村紗が、テーブルの上に料理を並べていく。その傍ら、彼女は「マミゾウさん、お酒は控えてください」とぴしゃり。
マミゾウは笑いながら「よいではないか」とそれをあしらった。
星とナズーリンが席に着く。
「聖は?」
「後で食べるってさ」
「……そうですか」
一番、この場にいて、話を聞きたい人間の姿は、そこにはなかった。
「なあ、響子」
「はい」
「響子は、この前、聖が連れてきた妖怪についてどう思う?」
「ん~……。
ちゃんとお掃除とか手伝ってくれますし、村紗さんとか一輪さんのお手伝いもしてますし……。
いい人だと思います!」
「……そうか」
えへへ~、と笑いながら、耳と尻尾をぱたぱたさせている響子の回答に、ナズーリンは肩をすくめた。
この彼女なら、こういう回答をしてくるだろうと想像していたのだ。
もっとも、それならば声をかけたりはしない。
「君からなら、少し違う回答が聞けるかと思っていた」
「え? どうしてですか?」
「君は素直ないい子だからだ」
「……?」
首をかしげる響子。
子供というのは、悪意を持たず、悪をなす。そして、その純真な瞳で、いともたやすく他者の真理を当ててみせる。
――そういう、生まれながらのスキルを持つのが『子供』という生き物だ。
それに属する響子なら、もしかしたら、他の誰もが気づいていない『あいつ』の何かに気づいているかと思って声をかけたのだが、残念な結果に終わってしまったようだ。
ナズーリンは『手間を取らせて申し訳ない』と頭を下げて、その場を後にする。
「……寅丸星の言うことは、恐らく、間違っていないだろう。
だが、マミゾウの言うことも間違ってはいない。
寺の者たちは、概ね、聖白蓮の行ったことを好意的に見ている。視点にバイアスがかかっていたとしても、そこに間違いは存在しないのだろう」
「何をかぎまわっているんだい? ねずみさん」
「……ぬえか」
頭の上から声がする。
視線を上に向けると、寺の境内に生えている木の上で、さかさまにぶら下がっているぬえの姿が見えた。
彼女はそこでぶらぶらと揺れながら、「星の手伝い? 大変だね」とにやにや笑っている。
「お前はマミゾウのことをよく知っていると思う。
その上で聞くが、あいつは一体、何を腹の中で考えている?」
「さあねぇ。わたしにゃわからないね。
マミゾウはね、すごく丸くなったよ。考えもずいぶん優しくなった。悪いことなんて考えてないんじゃない?」
「天下の大妖が、ずいぶん、お気楽な考えをするものだな」
「そういうものだから、そういう考えをするんだよ。
なぜかわかるかい?
わたしは強いからさ」
ぐるんと回転した後、彼女は地面に着地する。
その一瞬で、彼女の右手には、三叉の槍が握られていた。
「そう。わたしは強い。
強い妖だから、聖の連れてきた雑魚妖怪が何考えて何しようかなんて関係ない。
それよりは、マミゾウが面白いことを企んでいる方が気になる。胸がわくわくするね。どんなことが起きて、何がどうなるのか、今から楽しみだ」
「君もそうだが、どうしてこう、年を食った妖というのは老獪になるのか」
「そうじゃないと狩られるからでしょ。昔の人間は強かったからねー」
ひゅんと振った槍をどこかへと消して、ぬえは頭の後ろで腕を組む。
背中の歪な翼をくねくね動かしながら、「頭がよくて臆病で、ついでにとんでもなく強くないと、長生きなんて出来ないよ」と笑う。
「そういうことか」
「そういうことさ」
「お前は、聖に、何か進言したりはしないのか?」
「するわけないじゃーん。
わたしが何を言っても、聖なんて聞きやしないよ。
あれはね、誰にでも優しくて、特に子供にはすっごい優しいけれど、他人の意見を聞かない頑固者だよ。
わたしみたいな子供が何言ったって『はいはい』って流されて終わりさ」
「確かにそうだ」
「あ、今、わたしのことバカにしたでしょ」
「してない。こいつはなんて阿呆だと思っただけだ」
「言うねー。
ほんと、弱い奴は口がよく回る」
「お前の言葉を借りるなら、他人の威を借るしたたかさがなければ、弱い妖は生き残れないのさ」
「なるほど」
ぽんと彼女は手を打つと、「ナズーリンは頭がいいね」とにへらにへらと笑う。
ぬえがよく見せる、こういう、他人を馬鹿にしたような笑みは、ナズーリンは嫌いである。単純に、癇に障るのだ。
しかし、それを言ったところで、こいつはそれを聞いたりしないだろう。
『それがわたしの個性だ!』と宣言して、あっさり、無視してくるに決まってる。
腹の立つ、いやな奴だ。
「まぁ、ぬえ。君がそういう態度で聖を見ているということは、そうだな、村紗あたりに進言しておこう。
恐らく、明日といわず今日から、しばらく君のおやつは抜きになる」
「えー!? ナズーリン、それは卑怯! ずるい! 告げ口とか最悪ー!」
しかし、中身はまるで子供なので、口先一つで簡単に操ることが出来る。
ほっぺたぷっぷくぷぅに膨らませてこちらをにらんでくるぬえに、「それがいやなら、もう少し、態度をまともにしたまえ」と言って、ナズーリンはその場を後にした。
「困った奴らばかりが、この寺には集まっている。
まぁ、住職が困った人間だからそうなのかもしれないが……」
彼女の足は、寺の裏手に向かう。
お寺らしく墓場がそこには広がっており、しかし、昼間なので雰囲気は大したことがない。
そこに村紗の姿がある。彼女は墓石を磨く仕事をしているのか、あちこち所かまわず水をまいては「あー、思い出す! 昔のあの頃! 私が輝いていた頃! また船沈めたーい!」と物騒なことを言っていた。
ナズーリンはそこを抜け、寺の敷地を後にする。ちなみに、後ろから騒音がしたことから察するに、村紗は一輪か誰かに殴られたのだろう。
寺を離れて10分かそこらの距離を歩くと、滝の音が聞こえてくる。
幻想郷で一番有名な、妖怪の山の大瀑布に比べればちゃちなものだが、そこには小さな滝がある。
この寺の者たちが、修行で使っている滝である。
「そろそろやめないと風邪を引くのではないか?」
そこに佇む白蓮の姿があった。
彼女にナズーリンは声をかけ、近くの掘っ立て小屋の中に置かれているタオルを振り回す。
すると白蓮はナズーリンに気がついたのか、滝の下から出てきて彼女の元へやってくる。
「ありがとう」
「あなたも若くないのではないか?」
「冗談ね」
「そう。冗談だ」
白蓮はナズーリンから受けとったタオルで体を拭いて、濡れた衣装を脱いで、普段の服装へと着替えた。
ふぅ、と息をついた彼女はナズーリンを振り返ると、「何か用事ですか?」と尋ねてくる。
「用事がなければ、こんな辛気臭いところに誰が来るものか」
「そうですね」
「あなたが連れてきた、あの妖怪だが、寺のものには好意的に受け入れられているようだな」
「そうですね。あの子は、私の教えも真摯な態度で聞いてくれますし、皆の手伝いもしっかりとしてくれます。
今度、里へと頭を下げに連れて行くつもりです。あの子はそれを受け入れてくれました」
「そうか」
「更正には、そう時間はかからないかもしれません」
にこっと微笑む白蓮に、ナズーリンは言う。
「愚か者め」
白蓮は何も答えなかった。
彼女は寺への道を歩き出す。
その後を、ナズーリンはついていく。
「罪は贖うことは出来ても消えることはない。お前はそれを勘違いしていないか?」
「重々、承知しています」
「そうか」
「この前、閻魔様にお会いしました。たっぷり半日、お説教を受けました」
「あの閻魔は説教好きと聞いている」
「あなたの言う通り、私は『己の信念故に目を曇らせた愚か者。その凝り固まった己から解脱し、もう一度、外側から自分を見つめろ』と言われました」
「そうだろうね」
「……できるでしょうか」
「知らん」
「冷たいですね」
「他人のことなど知ったことではない」
特にお前のようなもののことなど、とナズーリンは続けた。
沈黙が落ちる。
二人は寺へと帰ってくる。
墓場の一角で、村紗が、墓石に顔面からぶつかる形で倒れている。ぴくりともしないことから、気絶しているのだろう。
ちなみに、墓石は全てぴかぴかに磨かれて綺麗なものになっていた。
それをしたと思われる雲親父が二人を見て、「ケンカはよくないぞ」と忠告してきた。
「ケンカなどしてないさ。雲山」
『うむ。ならばよい』
彼は寡黙である。
必要最低限の言葉しか使おうとしないし、こちらと話そうとしない。
しかし、彼の言葉はとても深く、真理を見据えている。
恐らく、聖白蓮などよりも、ずっと彼は賢いのだろう。
だからこそ、何も言わないのだ。
「ご主人がお呼びだ」
「ええ」
「何を言われるかは想像していると思うが、あまり言い返したりしないほうがいい。
あの人は、あなたのことが、本当に好きなんだ。好きだから、言葉もきつくなる」
「わかっています」
「ならばいい」
白蓮は寺の中へと入っていく。
それを見送ったナズーリンは、寺の表へと回った。
相変わらず、境内では、響子が楽しそうに掃き掃除をしている。隣を見ればぬえもいた。
なぜ、めんどくさがりの彼女が響子の手伝いをしているのか。視線を巡らせれば、寺の本堂に上がる段にマミゾウが座っていた。
なるほど、彼女は恐らく『お小遣い』につられたのだろう。
「また、白蓮殿に余計なことを言ってきたのか?」
彼女に近づいたナズーリンへと、マミゾウは小さな声で問いかけてくる。
ナズーリンは『そうさ』と臆することなく答えた。
「わはは。そうか。
ならば、それでよい」
マミゾウはそれしか言わなかった。
「私は帰る」
ナズーリンは踵を返して歩いていく。
後ろから、響子の『ナズーリンさーん! ご飯、食べていかないんですかー!?』という大きな声が聞こえる。
それに片手を振って返して、彼女は参道を歩いていく。
「だが、お前達の思い通りに行くと思うなよ」
小さな声で、相手への宣戦布告を口にして。
それから一ヶ月ほどの間は平穏そのものであった。
あの妖怪は、毎日、白蓮の教えを受け、終盤では星からも教えを受けているようになった。
村紗や一輪の手伝いもよく行い、つい先日は自分が迷惑をかけた里へと出向き、そこのもの達全てに土下座をして回り、『申し訳ないことをした。許して欲しい』と許しを願ったとか。
人々が、彼女に対してどのような感情を持ったかは定かではない。
あるものは『何をいけしゃあしゃあと』と新たな憎悪を燃やしただろうし、またあるものは『ここまで反省しているのなら』と、自分たちの非と相殺しただろう。
もうそろそろ、彼女の『更正』は終わり、彼女はまた野へと放たれる――そんなある日のことである。
「おなかすいた」
そのたった一言で、また血の臭いが漂うこととなる。
命蓮寺を出た『彼女』がやってきたのは、自分が許しを希った人里である。
彼女はすぐさま、己を傷つけた男の家へと向かった。
夜。
妖の時間。
彼女は天井から室内に侵入すると、寝ていた男の喉笛を食いちぎる。
真っ赤な血が噴き上がり、男はすぐさま目を覚まして絶叫した。
だが、その口からは空気と、血の泡しか出てこない。
目を見開き、彼は彼女がそこにいることを知った。
なぜだ。なぜこんなことをする。お前は人を襲う妖から人を襲わない妖になったのではなかったのか。
彼の瞳が訴えるそれが面倒くさくて、彼女は右手の指で、まず彼の目を潰した。
突き刺し、抉り出した目玉を床の上に捨てると、暴れる彼を布団の上に押さえつける。
彼が逃げられないように、その胸元を腕で貫き、床へと釘付けにする。
牙をむき出しにして彼の腹部に食らいつき、肉をむさぼり、内臓を引きずり出してすする。
暴れる彼の動きが、段々、静かになってくる。
彼女は突き刺していた腕を引き抜くと、両手で、彼の胸元へ手をかけた。
軽く力をこめるだけで、人間の体などたやすく壊れていく。
真っ赤な肉の向こう、痙攣するように動く心臓を取り出すと、それを彼の顔の前にかざす。
彼は、見えてないだろう、その空洞となった瞳で己の心臓を見据え、凍りつく。
彼女は満足しながら嗤うと、脈動する心臓へ牙を立て、そこに流れる血を顔に浴び、肉を飲み込んだ。
男は静かになる。
もはや物言わぬ肉の塊になった彼の体を、ゆっくりと、食い尽くしていく。
腕や足を引きちぎり、ばらばらに壊しながら、その肉を食らっていく。
腹が空いた。肉が食いたい。人間の肉だ。うまい、うまい肉だ。
あの寺ではまともな食い物などこれっぽっちも出てこなかった。
足りない。あんなものでは足りない。
人間を食うのだ。自分は妖怪なのだから。人間を食って何が悪い。
それをとがめた奴ら。お前らも食っているんだろう? 人間を。その牙で食らっているのだろう?
爪で引き裂き、牙を突き立て、食い殺しているんだろう?
何がおかしい。
何が悪い。
どうして、人を殺して食うことが、妖怪として、悪とされなければならないんだ?
理解が出来ない。
憎しみだ。恨みだ。
許せない。
こいつは自分を傷つけた。たかが人間のくせに、この妖怪を傷つけた。
一度、つけられた傷の痛みは深く濁っている。どこまでも、夜の奥底から見据えている。
逃がしてなるものか。
捨て置いてなるものか。
この恨み、痛み、辛み、その全てを返してやる。
この恨み、晴らさで置くべきか――!
「満足したかい?」
後ろから声がした。
弾かれたように、彼女は振り返る。
「人間の肉ってのはうまいもんだ。だが、年を取ってくると、どうしてもそれが胃にもたれるようになる。
食らうのは柔らかい内臓くらいなものさ」
口元にくわえたキセルから紫煙を吐き出し、彼女は振り向く。
――マミゾウだ。
「やれやれ。やっぱりこうなった。
ふん。何が『更正』だ。全く迷惑で厄介なことを。己の思想を他者へと押し付ける。洗脳などが、我ら、妖に通じるものかよ。
そんなものが通じるのは頭の悪い人間だけで充分だ。我ら妖怪は、人間などよりも、ずっと高貴で賢いんだからな」
彼女は後ろ手に扉を閉めると、音もなく、近づいてくる。
「お前が更正などすると、本気で信じているのは、あの寺の愚か者たちくらいなものさ。
我らがそんなものを信じると思ったか。
人間は人間。妖は妖。両者には決して相容れない倫理がある。人間の理論が妖に通じるものか。
全く、無駄なことをしおってからに」
マミゾウは、彼女へと歩み寄ると、その小さな体を見下ろす。
血で真っ赤に染まった彼女は、その場に腰を落としたまま、マミゾウを見上げている。
立ち上がれないのだ。
マミゾウの、血よりも赤い『獣の瞳』に見据えられ、腰が抜けて動けないのだ。
「なあ、人間の味はどうだった? よかったら教えてくれ。
我らは久しく人を食っていない。博麗の巫女など怖くはないが、しかし、あれは厄介だ。あれを取り巻くものたち全てを敵に回して、せっかくやってきた、この居心地のいい世界を出て行きたくなどないからな。
面倒くさいが、決まりごとは守るしかない。
羨ましいなぁ。おい。どんな味がした?」
彼女は首を左右に振った。
瞳から涙があふれてくる。
がちがちと、歯の根がかみ合わない。
「どうした。何をそんなに恐れている。
我らはお前に何かをするつもりはないぞ。
なぜ、妖怪が妖怪の本能に従って、人間を食い殺したことを責められねばならない?
そんなものは妖怪にとって当然だ。人間が命をつなぐために他の命を食らうことと、何が違う。
偽善者め。鬱陶しい」
マミゾウの手が彼女の肩に触れる。
肩のラインから首をなぞり、その頬を、目を、指先がなぞっていく。
「いいかい、小娘。よーく聞け。
別にお前は悪いことはしていない。我らはお前をどうこうすることは考えていない。
だが、それを考えている奴がいる。しかもたくさんだ。
お前はこのままでは殺されるだろう。間違いなく。逃げることなど出来ないだろう。お前はその本能に従って、自らの逃げ道を断ったのだからな。
お前は遅かれ早かれ殺される。痛みすらも感じない死だ。死ぬのは怖いか?」
彼女は必死に、首を縦に振る。
許しを請うように、彼女はマミゾウにすがりつく。
その指に絡みついた血が、マミゾウの服を赤く染める。
マミゾウは、彼女を振り払うと、倒れた彼女の上にまたがり、腰を落とす。
「ふふふ……。ならば、そうか。
お前は助かりたいか。いいだろう。助けてやろう。
我らは妖。我らは仲間だ。仲間の命は救ってやろう。
だが、お前は一つ、我らにとって許せないことをした」
マミゾウは手にしたキセルから灰を床の上に落とした。
まだ火のついているそれが、木の上にぽっと点る。
「聖白蓮を裏切った。
あいつは愚かな人間だが、我らにとっては、ずいぶん、近い相手だ。仲間に近い。
そして何より、我らが好きな人間だ。お前もわかるだろう? 己が親しむ相手を傷つけられる憎しみを」
落ちた灰から上がった火が、段々、建物の中へと広がっていく。
マミゾウは彼女を膝で床に押し付けながら、言う。
「お前はこの罪を償わなくてはいけない。出来るか? 出来るなら、お前のその命は助けてやる」
彼女は必死に首を縦に振る。
マミゾウは満足したように笑い、立ち上がる。
彼女の手を引いて立ち上がらせた後、マミゾウは口を開く。
「少し痛いが、我慢しろよ」
夜半を過ぎて上がった火の手に気づくものはおらず、その消火は遅れてしまった。
火はあっという間に木造の家を飲み込み、暗い夜空を紅く照らす。
ぱちぱちと爆ぜる火の粉が周囲に飛び散り、延焼が始まったところで、人々は騒がしくなる。
慌てて彼らは近くの川から水を汲み、火を消し止めた。
残ったものは、真っ黒に焦げた木材だけ。
その中から発見された、元は人間だったものを見て、誰かが言う。
『火葬の手間が省けた』
――と。
火の手が上がった理由を調べることが出来るものは存在せず、『寝床の不審火』という形で、その火事は幕を閉じた。
人々の認識の中では、だが。
「マミゾウさん、何か臭うです」
「ん? そうかの。
ちゃんと風呂には入っておるのじゃが」
「タバコはよくないです。体に悪いです。やめましょう!」
「うーむ、そうじゃのぅ。
響子がそこまで言うのなら、どれ、少し考えるとしよう」
翌朝、マミゾウは、相変わらず楽しそうに自分の仕事をこなす響子の頭をなでてから、本堂の扉を開いた。
中には白蓮が座している。
そのそばには一通の手紙らしきものが置かれており、文字の書かれている面が開かれている。
どっかとマミゾウはその場に腰を下ろし、後ろの扉を閉めた。
「それは、あれか。あの小ねずみのやったことか」
「はい」
「全く、目と耳のいい奴だ。
いや、むしろ、わしにすら気取られずに後をつけてきた、その手腕をほめるべきか。
告げ口みたいなことは、あまり感心はせぬがの」
マミゾウは右手に風呂敷を持っていた。
彼女はそれを本堂の床に無造作に放り投げる。
「わしは、のぅ、白蓮殿。
此度の一件、別に反省の言葉を口にするつもりはないし、許しを請うつもりもない。
それはわかっているな?」
「はい」
「どこまで知っている? わしは、最近、目が悪くなってな。細かい字が読めぬのじゃ。
そこに書いてあることを教えてくれるか」
マミゾウの言葉に、淡々と、白蓮は答える。
あの日、あの夜、起きたことを。
それをマミゾウは嗤いながら聞いていた。口元に小さな笑みを浮かべて、じっと、黙って聞いていた。
「どう思う?」
話が全て終わった後、彼女は問いかける。
白蓮は口を真一文字に引き締めて、何も答えなかった。
「少し、お主にとっても衝撃的なことだったか。
自分のなしたことが、全くの無意味であり、泡のように弾けて消えてしまったことが」
「……どうでしょう」
「まあ、それはさておこう。
奴はわしが始末しておいた。悪事をなしたものは罰せられる。一度は救いの手を差し伸べられたというのに、結局、それを受けなかったのだ。
ならば、そこに下されるのは、お主の言う『仏の慈悲』ではなく鉄槌じゃろう?」
白蓮は小さく首を縦に振る。
マミゾウの口元に浮かぶ笑みが深くなった。
「その責任を、お前が取るつもりだったな?」
「……結局、私がなすと言った事を出来なかったのが原因です。
ならば、それを果たすのが私の役目」
「そうか。それは辛いな。己がかわいがっていたものを、自らの手にかけなければいけぬとは。
何と悲劇的なことか」
だから、自分がやってやった、と彼女は言った。
「別に感謝しろとは言わぬよ。
お主はわしに言ったな? 奴の身元を引き受けろ、と。
いうなれば、奴はわしの孫のようなものじゃ。身内の不祥事を殺ぐのも、また、身内の務めじゃろう?」
「かもしれません」
「わはは。素直な回答、実に結構。
いやはや、しかし、なかなか世の中はうまくいかぬものよ。
この寺の者たちは間抜けどもが多い。底抜けに人がいいというか、妖怪らしくないというか。
だから、お主も、ある意味では気が抜けてしまっていたのかもしれぬな」
片手にキセルを取り出し、火をつけようとしたところで、さすがにそれは白蓮に止められる。
このような場で、という一言で、マミゾウは肩をすくめてキセルをしまう。
「おお、そういえば、響子と禁煙する約束をしたんじゃったか」
わざとおどけてみせてから、彼女はキセルを床の上に置く。
「お主は忘れているかもしれぬが、人間と妖怪は相容れぬものよ。どう頑張っても、近づくことは出来ぬ。遠ざかることは可能じゃがな。
人間の正義と妖怪の正義は違う。人間の意識と妖怪の意識も違う。
獣を食って咎められる理由はない。人を食って咎められる理由はない。
にも拘わらず、そこに入ってくるのは、ただのおせっかいに過ぎぬわ」
真正面から、白蓮はマミゾウを見据えてくる。
その眼力の強さは、人間のそれとは思えないほどに強い。
しかし、マミゾウも大したもの。それを軽く受け流している。
「お前がお前の正義で動くのは大いに結構。だが、それを我らに押し付けるなよ。
そんなものは余計なことだ。うっとうしい。邪魔だ。迷惑だ。
我らは我ら、お前達はお前達。勝手に生きて勝手に死ぬ。妖怪というのは誰かから縛られるのを嫌う。己の興が乗り、ふざけで付き合うことがあっても、真面目な面で人間の理屈に迎合してなるものかよ。
そんなものが妖怪だとは、我らは思わぬわ」
そんなものは『人間だ』と彼女は言う。
「自分の理論と正義を他者へ押し付けようと思うなら、そいつの心までもがんじがらめに縛り付けろ。
それが出来ぬままに他者を己の下から放つなど、無責任以外の何物でもない。自己満足の塊の愚か者めが。
出来ぬことまでやろうとするから、このようなことになるものさ」
「そうかもしれません。
しかし、私がなすべきことであり、私しか出来ないことをしているのだと、そう信じています」
白蓮は、一度、居住まいを正す。
「人も妖も、私の中では同じです。同じく救いの手を差し伸べるべき存在であり、それをなすことが出来るのが、まさに己であると自覚しています。
それを傲慢と言いたくば言い、愚かと嘲笑いたければ嘲笑えばいいでしょう。
私はそのような仕打ちに対し、なんら、引くところも臆することもなく構えて受け止めるつもりでいます。
そうした覚悟もせずに、私がこのようなことをしているなど、まさか思ってはいないでしょう?」
鋭い眼差しを返される。
マミゾウは小さく肩をすくめて、手つきだけで『続けろ』と促した。
「救いは必要です。助けの手を渡すのは、とても重要なことです」
「それをお前がなすというか」
「そうです。それは、私にしか出来ません。
自惚れでもなく、私は己の信念と魂に誓って、それを信じています。私にしか出来ないことです。
それが故に、私は、たとえあなた達からどのようなことを言われ、蔑まれようとも、己の道を行くつもりでおります。
それの結果が、いずれ、罰となってわが身に降りかかるのであれば、それを甘んじて受けましょう。
元より、百も承知の上ですから。
そんな人間ですから、あなたの目から見れば、愚かで滑稽にも映る。
――此度のことは残念でした。我が身の不徳のなすところであり、私も、まだまだ至らぬ小娘であったということです」
「ふん……」
そこで、マミゾウの口の笑みが深くなり、
「わっはっはっは!」
彼女は大声を上げて笑った。
ばん、と手で床を叩き、「やはり、お前ならそう言うだろうと思っていた」と、目じりに浮かんだ涙をぬぐう。
「その傲慢な気質と、他者への強制。なるほど、お前は人間のエゴの体現かもしれぬ。
お前はやはり、人間よりは、我ら妖怪に近い。
だから、面白いのさ」
彼女は床の上に放り投げた風呂敷を広げた。
途端、強烈な悪臭が辺りに漂う。
腐った色に輝くそれを見て、「何だと思う?」とマミゾウは尋ねた。
「……わかりません」
「奴の心臓だ。始末した証拠として持ってきた」
彼女は事も無げに言うと、再び、風呂敷を閉じる。『後でゴミ箱に捨てておこう』と言いながら。
「それが、人と妖への救いであると、真に信じているならやり続けるのがいい。わしは邪魔しようとは思わぬし、何も言わぬさ。
なぁに、またおかしなことになりそうであれば、またいつでも声をかけるがいい。
わしに出来る最大限の手伝いは惜しまぬよ」
「ありがとうございます」
「よい、よい。感謝などされるいわれはない。
しかしな、白蓮殿」
よっこらせ、と彼女は立ち上がる。
外に続く戸を開けながら、一言。
「人は、時として、妖よりも汚いぞ」
そう告げて、彼女はその場を後にした。
「マミゾウ。聖に怒られてきたみたいだね」
「後からいつも言われるが、あの頑固者は、人の言葉を『参考になる』と受け止めておいて、全く参考にしようとせん。
若者ほど頭は柔らかいものなのじゃが、奴はそうでもないらしい」
自室へと戻ってきた彼女が、まず最初に取り出したのは、部屋の一角にある机の上の手帳である。
そこに何かを書いていると、ぬえがやってくる。
ぬえはにやにや笑いながら、「だけど、正直者でしょ」と言う。
「マミゾウのこと、信頼してる」
「違うな、ぬえよ。あれは信頼しているのではない。信頼している相手の前で、あのような目はせん。
あれは、わしを押さえつけ、利用しようとするものの目よ」
そこが実に素晴らしい、とマミゾウ。
「人間のくせに妖と対等にあろうとする。面白いではないか。
いつ、こちらを出し抜いてくるか、楽しみでしょうがない」
「マミゾウは酔狂だねぇ」
「長く生きるということは、たくさんの趣味を持つことじゃ。自分にとって楽しい毎日が続かないのであれば、何百年何千年生きることが出来ようとも関係ない、とっとと此の世からおさらばしたくなるじゃろ」
身を滅ぼさない程度に道楽に身を費やし、興に遊ぶ。それが、ぼけないままに長生きする秘訣だ、とマミゾウは語ってみせる。
ぬえはそれを「おばあちゃんは大変だねぇ」とけらけら笑って流し、『自分には関係ない』と言ってのけた。
「だけどさ、マミゾウ。
『いずれ自分を出し抜く』とか言っているけれど、今は、マミゾウの方が聖を出し抜いているから楽しいのであって、逆になったらいらいらしてそれどころじゃないかもよ?」
「ふん。その時はその時よ」
彼女は腰に提げていた巾着袋の口を開くと、その中身を机の上に広げた。
その中から金が落ちてくる。
出てきた金を数えた後、部屋の隅にある金庫の中へ、彼女はそれを放り込んだ。
「ほれ、ぬえ」
「わーい、やった」
代わりに、中から取り出した、比較的大きな通貨をぬえに渡す。
「えげつないねぇ。
奴を逃がす代わりに、定期的に金を持って来い、だなんて」
「なぁに、そうでもしなければ、ここの寺の連中ばかりでは食っていけぬじゃろう」
にんまりと、マミゾウは笑う。
こんこん、と金庫を叩きながら、「わしが金庫番などやっておるからやっていけるのじゃよ」と。
「あの小ねずみも詰めが甘い。最後の最後まで見ていれば、わしのやったことにも気づいたじゃろうに。
妖が心臓を抉られたくらいで死ぬものか。妖を殺す時は、存在そのものを永久にすりつぶさなくては死なぬさ」
「ナズーリンは、そういうところが抜けてるよね。
あれ、絶対、星の影響」
「わはは。寅丸殿のか。
そうなると、ナズーリン殿も、いずれは愉快で楽しい人格になるかもしれんな」
「何それ、気持ち悪い」
二人はそろってけらけらと笑う。
腹を抱えて笑いながら、ぬえは続ける。
「奴が、金を持ってこなくなったらどうするの?」
「もちろん、約束を破ったとして殺してしまうさ。
あんな雑魚、どこに逃げ、隠れていようとも、すぐに見つけ出せる。見つけてしまえばたやすい。首をこう、手で持ってな。ぐっと力を入れてしまうだけじゃ」
「うわ、怖いね。怖い怖い」
「奴は逃げぬさ。
奴はわしの眼を見てしまったからな。妖怪というのは臆病者じゃからのぅ。自分よりも強いものには、絶対に、逆らわない」
彼女はキセルを取り出そうとして、『う~む』と眉根を寄せる。
しばらくこいつは手元から離しておこうと思ったのか、立ち上がると、衣装箪笥の奥へとそれを押し込んだ。
別段、彼女、ヘビースモーカーというわけではないのだが、さりとて、それまで手元にあったものがなくなるのは惜しいという性質なのだ。
「タバコなんて、わたしは絶対にやだなー。くさいもん」
「まあ、そうじゃろうな。子供はタバコなど、間違っても口にしたらいかん」
「酒はいいよね?」
「何を言うか、このばか者め」
けらけらと、二人そろって声を上げて笑う。
「この寺の者たちは、本当に阿呆ばかりよ。しかし、馬鹿はおらぬ。だから、色々、楽しいのさ」
「そうだねぇ」
「我ら、魔魅の化生の楽しみは、他者を欺き、それを酒の肴にしてバカ騒ぎすることよ。
この寺にいる限り、その楽しみが失われることもあるまいて」
彼女は右手をぬえに向かって伸ばした。
ぬえは服のポケットを探ると、そこから取り出した金をマミゾウに手渡す。
マミゾウはその中からいくらかを抜き、残りを「ほれ、お小遣いじゃ」とぬえに渡した。
「いつも思うんだけどさー」
「うん?」
ぬえから渡された金も金庫に放り込んでから、彼女は立ち上がる。
障子を開けようと手を伸ばす彼女に、ぬえは言った。
「これって、お小遣い、って言わないで、口止め料、って言うよね?」
その一言に、マミゾウは答えず、ただ笑って、すっと音もなく障子を開けてその場を後にした。
「ん?」
「最近、丸くなったよね」
「何じゃ、ぬえ。失礼じゃのぅ。『れでぇ』に向かって、丸くなった、とは」
「何が『レディ』だよ。ぎっくり腰大丈夫?
あと、『レディ』ね。『レディ』。横文字に弱いなぁ」
けらけら笑うのは封獣ぬえといういたずらものである。
座布団の上に肘をついて、床の上に腹ばいになっている彼女を一瞥して、『ほほう』と目を細くするのは、この部屋の主である二ッ岩マミゾウ。
「そうか。なるほど。
ならば、ぬえには、わしの知り合いの魔女から魔法をかけてもらおうか。
昔から、ぎっくり腰とは『魔女の一撃』と言われておるからの」
「やめてよね。そういうの。
それに、わたしはまだまだ若くてぴちぴちだから」
「今月のお小遣いはなしじゃな」
「えー!? それ卑怯!」
すぐにがばっとその場に起き上がり、マミゾウに食って掛かるぬえ。
日頃、もらったお小遣いでおやつを買うのが楽しみな彼女にとって、『お小遣いなし』は英雄の矢の一撃に匹敵する痛手である。
「それで、何で『丸くなった』のじゃ」
「いや。
ほら、昔はこう、なんていうか。清濁併せ呑むどころか濁ったものの方を好んでいたくせに。
今じゃ、酒は濁酒じゃなくて清酒だし。あちこちでいい顔して、『おばあちゃん』って呼ばれて喜んでるよね」
「ほっほっほ。
まあ、それも亀の甲より年の功。お前達のような、年齢だけ重ねて、頭の中身は子供のままの連中との違いというやつじゃ」
「一応、わたしも大妖怪なんだけどなー」
「何が『大妖怪』じゃ。一輪殿に尻を叩かれて泣きじゃくってるのは、はて、誰じゃったかな?」
「むぐ……」
余計なことを言えば簡単にやり込められる。
この辺りの口のうまさ、というか、減らず口のレパートリーに関しては、なるほど、マミゾウの方がぬえよりも上であるようだ。
そんなやり取りをしていると、外に人の足音がした。
すぐに、すっと……ではなく、がたがた音を立てながら障子が開く。
「すみません。マミゾウさん。
今、少し、お時間よろしいでしょうか?」
「何じゃ、白蓮殿か。わしに何用じゃ」
「少し」
「ふむ。
――わかった。手短に頼む。
あと、ぬえは、お小遣いをなしにされたくなければ、その建付けの悪い障子を直しておいてくれ」
「めんどいなー」
「なしでもいいんじゃな?」
「わーかーりーまーしーたー!」
頭の上に『?』を浮かべて首をかしげる、この建物の主である聖白蓮。そんな彼女に、『何、戯事よ』とマミゾウは笑った。
「わしに何の用がある?」
家――命蓮寺という妖怪寺――を出て、二人は道を歩いていく。
その道中、白蓮は、「いえ、実は……」と話をしてくれた。
――話によると、ある人里に住む人間の家で、妖怪による人食いが起きたらしい。
正確には、そこに住む人間の家族が里を出て山道を歩いていると、妖怪に襲われた――というのが正しいところなのだが。
その結果、家族を食われた一家の男――要は夫が、その妖怪に対して激怒し、血眼になって里人と一緒に妖怪を探し、ついにその妖怪をひっとらえたとのことなのだが、
「よくあることじゃろう」
「ええ。それはそうなのですが」
「この幻想郷では、人間と妖怪が互いに住んでいる。お互いにはお互いの領域がある。その領域を超えているものに対して、何の遠慮をする必要があるのか。
大昔のように、夜、家で寝ている時ですら油断が出来ぬというわけでもあるまいに」
「……ただ、人の感情は、そう合理的には出来ていません。
私としても、それは理解できますし、マミゾウさんにもご理解いただきたいと思っております」
「ふむ。まぁ、よい。続けろ」
さて、その人間、捕まえた妖怪を前に激昂し、『此の世の、知る限りのありとあらゆる苦しみを与えて殺してやる』と息巻いているのだとか。
最初こそ、里の仲間がやられたということでそれを煽っていた周りの者たちも、次第に眉をひそめるようになり、今では『ちょっと待て。それはいくらなんでもやりすぎだ』という状態になっているらしい。
しかし、怒りと悲しみで我を失っているものに正論が通じるはずもなく、『このままでは何かがまずい』と焦りが生まれ、ちょうどその時、布教のためにそこに立ち寄った白蓮に『徳の高いお坊様。何とかしてくれないでしょうか』とすがりついてきたのだとか。
「身勝手よの」
「……ええ」
「まあ、人間とはいつの時代もそのようなものよ。
そういう点から見れば、ただ、自分のやりたいように生きて、生きた後にくたばる妖怪の方が、よっぽど善人じゃ」
「善も悪も、誰かの主観でしか推し量れないものですし」
「全く。
面倒な話じゃな。何じゃ、わしがその男を殺してしまえばいいのか? 死ねばあの世で、愛する妻と子供に会えるぞ、と」
「ま、まさか、そんな」
違います違います、と白蓮は慌てて顔の前で手を左右に振った。
正直、めんどくさい、とマミゾウは思っていた。
何でそんなことに自分を駆り出すのか、と。
彼女の不満の視線を受けて、白蓮は「そうではなくて、私がどうにかしようと思っているのは妖怪の方なのです」と言い訳する。
それで、マミゾウが『ほう?』という顔になった。
「やはり、事が事ですし、彼らとしてもその妖怪をどうにかしてやらないと気がすまないことでしょう。
しかし、この世界においては、人間が妖怪に襲われるのは当たり前であり、妖怪のテリトリーに踏み込んだのであれば、妖怪に何をされても文句が言えないというのも常です。
そうした点から考えれば、一方のみを断罪するというのはおかしいといわざるを得ません。
特に、……理解が出来ないわけではありませんが、いっときの感情に身を任せ、残虐な行為を行うなど、御仏の慈悲をもってしても許される行為ではないはずです。
ここは、それを互いの罪として相殺し、一度、私がこの妖怪を預かり、しかるべき更正を施すということを」
「それで相手が納得すれば、じゃがの」
「納得させてみせます」
「わはは。そうかそうか。
それは面白い。
ならば、お主の手際を、一つ、見物させてもらうこととしよう」
何やら、マミゾウは、白蓮の行うことに興味を惹かれたようだ。
マミゾウのその反応に、内心、白蓮はほっとする。
この彼女、見た目はこのような『人のよさそうな』妖怪であるが、その中身は、恐らく、白蓮の知る妖怪たちの中で、最も『妖怪らしい』という相手でもある。
彼女を敵に回したとなれば、面倒なことになる。物理的にも精神的にもだ。
だから、なるべく、相手の気をよくする方向へと会話を進めなければならない。
「しかし、ならば、なぜわしを連れてきた? わしがいる方が面倒じゃろう。横から口を出して邪魔するかもしれぬぞ?」
「マミゾウさんには、その妖怪の身元引受人になってほしいんです」
「やれやれ。そうやって、すぐに年寄りを酷使する。最近の若い者はこれだから困ったもんじゃのぅ」
そして都合のいい時に、『年寄り』を口にするものだから、厄介である。
ただのノリや茶目っ気ではなく、マミゾウの場合、そこに計算ずくの行動が混じっているから、さらに厄介なのだ。
しかし、こういう場合、最も頼りになるのもマミゾウである以上、白蓮としては、どうすることも出来ないのも、また事実だった。
さて、やってきたのは、とある小さな集落である。
普段、彼女たちが足を運ぶ大きな里とは雰囲気の違う場所だ。
そこにやってきた二人を出迎えたのは、腰の曲がった、見た目だけでは年齢すらわからない白髪の老人である。
彼は白蓮と一言二言会話した後、二人を連れて歩いていく。
ちなみに、マミゾウは、ここに入る前にすでに人間の姿に化けている。
白蓮曰く、『里の人たちの、妖怪に対する不信感が強いので』というのがその理由だ。
里の中を進み、やがて一軒の家の前にやってくる。
その扉の前には屈強な体躯の男性が二人、手に武器を持って立っており、老人を見て、その場を開けた。
「……ひどいですね」
「……わしも、あいつの話を最初に聞いた時は、『なるほど。その通りだ』と思ったものですが、さすがにこれは、と」
部屋の中に満ちているのは鉄の臭いだった。
部屋の中、一番太い大黒柱に、ごつい鎖でつながれた子供がいる。
全身に傷がつけられ、憔悴した感じの女の子だ。
ただし、その尻には長い尾が生え、手足の爪は鋭くとがり、口元からは犬歯が覗いている。
犬か、それに順ずる何かの妖怪なのだろう。
「もう大丈夫ですからね」
白蓮は彼女の元に歩み寄り、まずはそっと、彼女をかき抱いた。
それから、男性から鍵を受け取り、彼女を拘束していた鉄の首輪を外してやる。
彼女は目の前の人間を不思議そうな眼差しで見た後、自由になった喜びからか、目に涙を浮かべて泣きじゃくる。
その泣き声は、人間の子供と、なんら変わりない。
「こんな子供にこのような仕打ち。
妖怪というのは、人間よりもはるかに治癒能力が高い。
どうせ、手足を切ったり、指を切り落としたりなどして痛めつけたのだろう?」
左手側には炊事場がある。
そこに、血のついたまな板と、大きな包丁があるのを見て、マミゾウは老人に問いかけた。
返事はない。
否定も肯定もしないということは、そういうことなのだろう。
「人間ってのは残酷なものだ。
内側にこもってるから、こういうところでは、余計に残虐性を発揮する。
何が妖怪だ。何が人間だ。
人間も妖怪も一緒だよ」
はき捨てるようにつぶやいた彼女の言葉は、白蓮にも聞こえただろうか。
やがて白蓮は子供の妖怪を連れて、その家を後にした。
マミゾウもそれに続き、建物の外に出る。
暗い空間と、臭う血の香りが薄れていく。
「では、マミゾウさん。彼女を」
「任せておけ」
マミゾウは少女の手を取ると、「先に帰っているぞ」と歩き出した。
白蓮は彼女に対して、深々と頭を下げた後、白髪の老人と一緒に別の方向へ歩いていく。
「お前は人を食ったのか」
歩きながら、マミゾウは尋ねた。
少女からの返事はない。
「人に恨まれるとわかっていながら、人にちょっかいをかけたのか」
やはり答えはない。
二人は里を抜ける。
寺への帰り道、ひとけのない通りを歩きながら、
「よくやったわ」
にんまりと、マミゾウは彼女を見て、『妖怪』の笑顔を浮かべた。
さて、それから、命蓮寺で彼女の生活は始まった。
今回のこの一件を『罪』として、白蓮により、その『罪』への償いと教育がなされる傍ら、命蓮寺の『人間』としてそこの者たちと日常生活を送る。
一見すれば、普通の『生活』そのものである。
「この前、聖とマミゾウさんが連れてきたあのちびっこ、なかなかよく働くわよね」
「確かに。
村紗よりもずっと役に立つわ」
「何よ、それ。ひどいなー、一輪。傷つくなー」
「だったら、私の手間が少しは減るようにしてちょうだい」
両手に大きなかごを持ち、その中に洗濯物を大量に入れて歩いている雲居一輪。
その隣で、村紗水蜜が、「だったら、今日の晩御飯は私が担当してやろう」と言っている。
「あ、晩御飯の話? だったら、私、今日、お肉がいい!」
「響子もお肉食べたいですぅ!」
「はーいはいはい。
だけど、うちは寺だから……まぁ、聖が見てないところでならいいか」
「姐さんに怒られないようにね」
「あ、止めないんだ?」
「私は破戒僧だもの」
おなかをすかしてぴーちくぱーちく鳴くぬえと幽谷響子を適当にあしらって、一輪は歩いていく。
村紗は、「聖に心酔しているように見えて、意外と適当なのね」と彼女を評した。
――さて。
「うーん……」
「あなたはまだ頭を悩ませているのか。珍しい」
部屋の座椅子に座して、腕組みして虚空を眺めているものがいる。
このお寺の御神体(として白蓮に扱われている)、寅丸星である。
その彼女の前には、彼女の従者として在るナズーリンが座っていた。
「確かに、罪を犯したものを必ず罰する、いわゆる信賞必罰というのは必要なものです。世の中において。
しかし、誰も彼もに常に適用されるものでもない」
「ふむ」
「――と、他者に憐れみを持つものは言うでしょう。
やむにやまれぬ事情があって人を殺した、盗みを犯した、そうせざるを得なかった。そうした事情はわかります。
しかし、です。
しかしながら、それは、それを判断するものには関係のない理由です。
罪は罪、罰は罰なのです。
よいことをすれば他者からほめられ、悪いことをすれば叱られる――これこそ当然の倫理です。
だからこそ、悩みます」
「珍しい」
「こう見えて、私は仏の化身の一つ。そうしたことを考えぬ仏はいないでしょう」
「だから、珍しい、と言っているのです」
うぐ、と星はナズーリンの言葉に詰まる。
何せ、この星の命蓮寺における扱いといったら、『仏』というよりは『ただのトラブルメーカーその1』に程近いのだ。
本人はそうと考えていなくても、無意識に、やっちゃならんことやらかす類のものなのである。
ちなみに、それは白蓮にも当てはまるため、総じて、この妖怪寺が『トラブル発生装置』の一つとして認識されてしまう原因となっている。「ま、まあ、それはそれとして」
こほん、と咳払いを一つ。
「聖白蓮は、恐らく、此度のあの妖怪を憐憫の情から救おうとしているのでしょう」
「まあ、中身はどうあれ、見た目は子供。話をしてみれば、精神も成熟していない、まさしく駆け出しの妖怪でした」
「ならばこそ、罪は罪であり、罰は罰であることを教えることが仏の御心にかなうことのはずです」
「確かに。
幼いうちから、罪に対する認識は育てなくてはなりません」
「にも拘わらず、彼女はあの妖怪に対して、さながら母親のような母性を持って接している。
あまりほめられるものではありません」
「果たしてそうでしょうか」
「人間の視線から見れば、当然なのでしょうけどね」
そこで、ふぅ、と星は息をつく。
「本来、教えられるべき時期に教えられなかった――これは不幸であるのかもしれません。
しかし、人と獣の倫理観は違うのと同様に、人間と妖もまた、違うのです。
妖にとっての悪事が人間にとっての悪事ではなく、また逆も然り。
そもそも妖の行ったことを、人間が咎めることは出来ないのです。それに対して出来るのは、人の言葉に直すならば『因果応報』のみなのです」
「ならば、今のこれもまた、因果応報なのでは?」
「そこなんですよね」
だから困ってるんだ、と星は言った。
う~ん、と悩みながら、
「正直に言えば、彼女には、『そのような無駄なことはおやめなさい』と言いたいのですが……」
「言えばいいじゃないですか」
「いや、彼女にとっては無駄ではないでしょう?
人に害をなす妖を、己の手でもって、益となす。人間側にとってみればとてもありがたく、妖側にとってはありがた迷惑ですが、この世界での、ある意味、生き方を教えてくれる――悪いことではないんですよ」
「だけど、無駄なのでしょう?」
「そう。無駄です。人の倫理を妖怪に落とし込めるはずがない。
……だけど、言いくるめられる気がしないんですよねぇ」
困ったもんだ、と星。
白蓮が時たま見せる、ああいった『博愛精神』というものが困りものだ、とも彼女は言う。
慈悲や救いというものは万物に等しく平等に降り注ぐもの。
その判断というか、考えは間違いではない。間違いではないのだが、行き過ぎると、『過保護』であったり『不平等』へとつながるのだ。
「人間から見れば、あの妖は、何が何でも殺しておきたい存在でしょう。
妖の側から見れば、妖の本分を果たしただけなのに、何で殺されないといけないんだ、と不満を持つでしょう。
彼女は人間の目から見て、あれを『人間』の存在に落とし込もうとしているのです」
「なるほど」
「それが厄介だ」
何とかしてやめさせたいのだが、さりとて、白蓮のやっていることはある側面から見れば正しい『正義』であり、それを突き崩すのは容易ではない。
何せ、白蓮は頑固なのだ。あの見た目のくせに、一度決めたことは、頑として譲らない側面も持ち合わせている。
だから、癖のある、この妖怪寺の一味を引っ張っていけるのだろうが、反面、それはどうにもならない欠点ともなる。
「私は、聖のことが好きですからねぇ。
あんまり辛い言葉は投げかけるのは……」
「結局のところ、そこなのだな」
妖怪寺に住まう面々は、結局のところ、『聖白蓮』という人間が好きなのだ。
彼女のことが好きだから、こうして、彼女と一緒に生活している。
彼女のいいところも悪いところも、全部受け入れて、一緒にいる。
だから、言いづらい。
「しかし、誰かがどこかで言わないといけないことでしょうし。
村紗や一輪には期待できませんし。
もちろん、ぬえや響子なんて以ての外ですから。
私が言うしかないでしょう」
「私は戦力外なのですか」
「ナズーリンは皮肉屋であって、正論を唱えるのが好きではないでしょう。
それにあなたは気が弱い。聖がちょっと強い口調で言えば、たちまち、尻尾を巻いて逃げ出してしまう」
ナズーリンはその言葉に、肩はすくめても反論はしなかった。
確かにその通りだ、と納得してしまったのだ。
「マミゾウは?」
「彼女は何を考えているかわからない」
「まぁ、確かに」
「正直に言うなら、私は、彼女はあまりいけ好かないのですよね。
内心で何を考えているのかわからないというのもありますが、あまり、聖のことが好きではないようですし」
「まぁ、堂々と寺の中で酒を飲んで、聖に怒られても飄々としているからな」
「彼女にこういう話をしたら、多分、笑われるだけで終わると思います。
『そんなもの、わしはとうの昔に奴に言っておるわ』って」
「……確かに」
仕方ないけど、自分がやろう、と星は言った。
膝を叩いて、彼女は立ち上がる。
そうして、後ろから「今からですか?」と問いかけるナズーリンには「もちろん」と答えた。
障子を開く。
そして、彼女は固まった。
「無駄なことだとわかっているのなら、余計なことはするでないぞ」
そこにマミゾウが立っていた。
彼女は、星とナズーリンの会話を聞いていたのか、顔ににんまりとした笑みを浮かべている。
しかし、その瞳はいつもと違う、真っ赤な色に爛々と輝いていた。
星は一瞬であるが、息を呑む。
「なぜ、邪魔をする」
彼女は、だが、引かなかった。
いつものほんわかほえ~っとした声のトーンをぐっと落とし、鋭く、重たい口調で問いかける。
それにはマミゾウも想定外だったのか、『おっと』と少しだけ身を引いた。
「今、彼女に警告をしておかなくて、いつするというのだ」
「ふふふ……なるほど。
いや、さすがは毘沙門天の化身を名乗るだけはある。大した神気。わしのような妖怪でなければ、尻尾を巻いて逃げ出していたところよ」
ちらりと、星の後ろのナズーリンを見る。
彼女は、完全に、固まっていた。
「なぁに、こいつはちょっとした余興と考えているだけよ」
「お前の余興に彼女を巻き込むな」
「逆だ。奴の余興にわしがつき合わされている。
しかし、わしはそこに興を感じた。だから、邪魔するなと言っている」
「あまり彼女を馬鹿にしないようにしてほしい」
「バカにはしていない。
奴は阿呆だ。だが、親しみのある阿呆だ。でなければ、こんな居心地の悪いところに長居するものかよ」
「ならば、私の邪魔をするな」
「それはこちらの台詞だ」
両者のにらみ合いが続き、はたと我に返ったナズーリンが立ち上がろうとする。
その時、「ちょっと、星ー。そろそろご飯なんだけどー。いらないのー?」という村紗の声がした。
両者は肩から力を抜くと、少しだけ距離をとる。
「うまくいくならそれでいい。うまくいかなければ、わしが責任を取ろう」
「なぜ、あなたが取るのですか?」
「ふふふ。簡単なこと。
わしは、この寺の中では外様の存在じゃ。お主のように、寺の中において大事な位置にある、かけがえのない存在ではない。
お主が嫌われ役を演ずる必要はないよ。
お主が考えているようなことを、わしも同時に考えている。
奴の余興に飽き飽きしているのじゃろう? しかし、わしは逆じゃ。どう、この一件が転ぶか、それを見てみたいと考えている。
だから、止めぬ。
故に、此度の一件、わしが責任を持って終わらせる――それだけよ」
「己の遊びで身を滅ぼすものは、歴史の中に数多存在しています。
あなたがそのような愚か者ではないことはわかっているつもりです。
ゆめゆめご承知おきを」
「うむ。心得た。
しかし、あれじゃな。さすがは寅丸殿といったところか。このわしと眼力勝負をして、足を後ろに引かなかったのは見事、見事。
わっはっは」
彼女はいつも通りの『彼女』に戻って去っていった。
星はしばし、その場に立ち尽くした後、「ナズーリン、ご飯だそうです」とナズーリンを伴って歩き出す。
「……いいのですか?」
「いいのでしょう。多分。
彼女は自分が責任を取ると言っているんです。口約束だけではないでしょう」
「もしも違ったら?」
「その時は……もしも、その時、聖にも危害が及ぶようであれば、私が奴を調伏するまでです」
自分にそれが出来るかはわからないけれど、と星は苦笑した。
一応、彼女も、いつもの『自分』に戻ったようだ。
ナズーリンはほっとすると同時に、『大丈夫なのだろうか』と不安になる。
「……やはり、私は、何かバッファを用意しておかないといけなさそうだ」
緊張した状況が続くのはよくないし、後ろに一歩も下がれない状態というのも、またよくない。
何か、身を寄せて安心できるものが必要だ。ナズーリンはそう考える。臆病者の思考というのは、時として、何よりも周囲の身を案じる安全策へと変わるのだ。
「星、おそーい! おなかすいたぞー!」
「おなかがすいたですー!」
「すみません」
「ん? 雲山がいないようだが……」
「雲山なら、あの妖怪の監視を買ってくれているわ」
「……そうか」
「はーい、ご飯だよー。ちびっこども、喜べー」
「わーい! ご飯ですぅー!」
「誰がちびっこだよ、村紗!」
わいわい騒がしい空間に、マミゾウの姿がある。
彼女はその様子を楽しんで眺めながら酒を飲んでいた。
村紗が、テーブルの上に料理を並べていく。その傍ら、彼女は「マミゾウさん、お酒は控えてください」とぴしゃり。
マミゾウは笑いながら「よいではないか」とそれをあしらった。
星とナズーリンが席に着く。
「聖は?」
「後で食べるってさ」
「……そうですか」
一番、この場にいて、話を聞きたい人間の姿は、そこにはなかった。
「なあ、響子」
「はい」
「響子は、この前、聖が連れてきた妖怪についてどう思う?」
「ん~……。
ちゃんとお掃除とか手伝ってくれますし、村紗さんとか一輪さんのお手伝いもしてますし……。
いい人だと思います!」
「……そうか」
えへへ~、と笑いながら、耳と尻尾をぱたぱたさせている響子の回答に、ナズーリンは肩をすくめた。
この彼女なら、こういう回答をしてくるだろうと想像していたのだ。
もっとも、それならば声をかけたりはしない。
「君からなら、少し違う回答が聞けるかと思っていた」
「え? どうしてですか?」
「君は素直ないい子だからだ」
「……?」
首をかしげる響子。
子供というのは、悪意を持たず、悪をなす。そして、その純真な瞳で、いともたやすく他者の真理を当ててみせる。
――そういう、生まれながらのスキルを持つのが『子供』という生き物だ。
それに属する響子なら、もしかしたら、他の誰もが気づいていない『あいつ』の何かに気づいているかと思って声をかけたのだが、残念な結果に終わってしまったようだ。
ナズーリンは『手間を取らせて申し訳ない』と頭を下げて、その場を後にする。
「……寅丸星の言うことは、恐らく、間違っていないだろう。
だが、マミゾウの言うことも間違ってはいない。
寺の者たちは、概ね、聖白蓮の行ったことを好意的に見ている。視点にバイアスがかかっていたとしても、そこに間違いは存在しないのだろう」
「何をかぎまわっているんだい? ねずみさん」
「……ぬえか」
頭の上から声がする。
視線を上に向けると、寺の境内に生えている木の上で、さかさまにぶら下がっているぬえの姿が見えた。
彼女はそこでぶらぶらと揺れながら、「星の手伝い? 大変だね」とにやにや笑っている。
「お前はマミゾウのことをよく知っていると思う。
その上で聞くが、あいつは一体、何を腹の中で考えている?」
「さあねぇ。わたしにゃわからないね。
マミゾウはね、すごく丸くなったよ。考えもずいぶん優しくなった。悪いことなんて考えてないんじゃない?」
「天下の大妖が、ずいぶん、お気楽な考えをするものだな」
「そういうものだから、そういう考えをするんだよ。
なぜかわかるかい?
わたしは強いからさ」
ぐるんと回転した後、彼女は地面に着地する。
その一瞬で、彼女の右手には、三叉の槍が握られていた。
「そう。わたしは強い。
強い妖だから、聖の連れてきた雑魚妖怪が何考えて何しようかなんて関係ない。
それよりは、マミゾウが面白いことを企んでいる方が気になる。胸がわくわくするね。どんなことが起きて、何がどうなるのか、今から楽しみだ」
「君もそうだが、どうしてこう、年を食った妖というのは老獪になるのか」
「そうじゃないと狩られるからでしょ。昔の人間は強かったからねー」
ひゅんと振った槍をどこかへと消して、ぬえは頭の後ろで腕を組む。
背中の歪な翼をくねくね動かしながら、「頭がよくて臆病で、ついでにとんでもなく強くないと、長生きなんて出来ないよ」と笑う。
「そういうことか」
「そういうことさ」
「お前は、聖に、何か進言したりはしないのか?」
「するわけないじゃーん。
わたしが何を言っても、聖なんて聞きやしないよ。
あれはね、誰にでも優しくて、特に子供にはすっごい優しいけれど、他人の意見を聞かない頑固者だよ。
わたしみたいな子供が何言ったって『はいはい』って流されて終わりさ」
「確かにそうだ」
「あ、今、わたしのことバカにしたでしょ」
「してない。こいつはなんて阿呆だと思っただけだ」
「言うねー。
ほんと、弱い奴は口がよく回る」
「お前の言葉を借りるなら、他人の威を借るしたたかさがなければ、弱い妖は生き残れないのさ」
「なるほど」
ぽんと彼女は手を打つと、「ナズーリンは頭がいいね」とにへらにへらと笑う。
ぬえがよく見せる、こういう、他人を馬鹿にしたような笑みは、ナズーリンは嫌いである。単純に、癇に障るのだ。
しかし、それを言ったところで、こいつはそれを聞いたりしないだろう。
『それがわたしの個性だ!』と宣言して、あっさり、無視してくるに決まってる。
腹の立つ、いやな奴だ。
「まぁ、ぬえ。君がそういう態度で聖を見ているということは、そうだな、村紗あたりに進言しておこう。
恐らく、明日といわず今日から、しばらく君のおやつは抜きになる」
「えー!? ナズーリン、それは卑怯! ずるい! 告げ口とか最悪ー!」
しかし、中身はまるで子供なので、口先一つで簡単に操ることが出来る。
ほっぺたぷっぷくぷぅに膨らませてこちらをにらんでくるぬえに、「それがいやなら、もう少し、態度をまともにしたまえ」と言って、ナズーリンはその場を後にした。
「困った奴らばかりが、この寺には集まっている。
まぁ、住職が困った人間だからそうなのかもしれないが……」
彼女の足は、寺の裏手に向かう。
お寺らしく墓場がそこには広がっており、しかし、昼間なので雰囲気は大したことがない。
そこに村紗の姿がある。彼女は墓石を磨く仕事をしているのか、あちこち所かまわず水をまいては「あー、思い出す! 昔のあの頃! 私が輝いていた頃! また船沈めたーい!」と物騒なことを言っていた。
ナズーリンはそこを抜け、寺の敷地を後にする。ちなみに、後ろから騒音がしたことから察するに、村紗は一輪か誰かに殴られたのだろう。
寺を離れて10分かそこらの距離を歩くと、滝の音が聞こえてくる。
幻想郷で一番有名な、妖怪の山の大瀑布に比べればちゃちなものだが、そこには小さな滝がある。
この寺の者たちが、修行で使っている滝である。
「そろそろやめないと風邪を引くのではないか?」
そこに佇む白蓮の姿があった。
彼女にナズーリンは声をかけ、近くの掘っ立て小屋の中に置かれているタオルを振り回す。
すると白蓮はナズーリンに気がついたのか、滝の下から出てきて彼女の元へやってくる。
「ありがとう」
「あなたも若くないのではないか?」
「冗談ね」
「そう。冗談だ」
白蓮はナズーリンから受けとったタオルで体を拭いて、濡れた衣装を脱いで、普段の服装へと着替えた。
ふぅ、と息をついた彼女はナズーリンを振り返ると、「何か用事ですか?」と尋ねてくる。
「用事がなければ、こんな辛気臭いところに誰が来るものか」
「そうですね」
「あなたが連れてきた、あの妖怪だが、寺のものには好意的に受け入れられているようだな」
「そうですね。あの子は、私の教えも真摯な態度で聞いてくれますし、皆の手伝いもしっかりとしてくれます。
今度、里へと頭を下げに連れて行くつもりです。あの子はそれを受け入れてくれました」
「そうか」
「更正には、そう時間はかからないかもしれません」
にこっと微笑む白蓮に、ナズーリンは言う。
「愚か者め」
白蓮は何も答えなかった。
彼女は寺への道を歩き出す。
その後を、ナズーリンはついていく。
「罪は贖うことは出来ても消えることはない。お前はそれを勘違いしていないか?」
「重々、承知しています」
「そうか」
「この前、閻魔様にお会いしました。たっぷり半日、お説教を受けました」
「あの閻魔は説教好きと聞いている」
「あなたの言う通り、私は『己の信念故に目を曇らせた愚か者。その凝り固まった己から解脱し、もう一度、外側から自分を見つめろ』と言われました」
「そうだろうね」
「……できるでしょうか」
「知らん」
「冷たいですね」
「他人のことなど知ったことではない」
特にお前のようなもののことなど、とナズーリンは続けた。
沈黙が落ちる。
二人は寺へと帰ってくる。
墓場の一角で、村紗が、墓石に顔面からぶつかる形で倒れている。ぴくりともしないことから、気絶しているのだろう。
ちなみに、墓石は全てぴかぴかに磨かれて綺麗なものになっていた。
それをしたと思われる雲親父が二人を見て、「ケンカはよくないぞ」と忠告してきた。
「ケンカなどしてないさ。雲山」
『うむ。ならばよい』
彼は寡黙である。
必要最低限の言葉しか使おうとしないし、こちらと話そうとしない。
しかし、彼の言葉はとても深く、真理を見据えている。
恐らく、聖白蓮などよりも、ずっと彼は賢いのだろう。
だからこそ、何も言わないのだ。
「ご主人がお呼びだ」
「ええ」
「何を言われるかは想像していると思うが、あまり言い返したりしないほうがいい。
あの人は、あなたのことが、本当に好きなんだ。好きだから、言葉もきつくなる」
「わかっています」
「ならばいい」
白蓮は寺の中へと入っていく。
それを見送ったナズーリンは、寺の表へと回った。
相変わらず、境内では、響子が楽しそうに掃き掃除をしている。隣を見ればぬえもいた。
なぜ、めんどくさがりの彼女が響子の手伝いをしているのか。視線を巡らせれば、寺の本堂に上がる段にマミゾウが座っていた。
なるほど、彼女は恐らく『お小遣い』につられたのだろう。
「また、白蓮殿に余計なことを言ってきたのか?」
彼女に近づいたナズーリンへと、マミゾウは小さな声で問いかけてくる。
ナズーリンは『そうさ』と臆することなく答えた。
「わはは。そうか。
ならば、それでよい」
マミゾウはそれしか言わなかった。
「私は帰る」
ナズーリンは踵を返して歩いていく。
後ろから、響子の『ナズーリンさーん! ご飯、食べていかないんですかー!?』という大きな声が聞こえる。
それに片手を振って返して、彼女は参道を歩いていく。
「だが、お前達の思い通りに行くと思うなよ」
小さな声で、相手への宣戦布告を口にして。
それから一ヶ月ほどの間は平穏そのものであった。
あの妖怪は、毎日、白蓮の教えを受け、終盤では星からも教えを受けているようになった。
村紗や一輪の手伝いもよく行い、つい先日は自分が迷惑をかけた里へと出向き、そこのもの達全てに土下座をして回り、『申し訳ないことをした。許して欲しい』と許しを願ったとか。
人々が、彼女に対してどのような感情を持ったかは定かではない。
あるものは『何をいけしゃあしゃあと』と新たな憎悪を燃やしただろうし、またあるものは『ここまで反省しているのなら』と、自分たちの非と相殺しただろう。
もうそろそろ、彼女の『更正』は終わり、彼女はまた野へと放たれる――そんなある日のことである。
「おなかすいた」
そのたった一言で、また血の臭いが漂うこととなる。
命蓮寺を出た『彼女』がやってきたのは、自分が許しを希った人里である。
彼女はすぐさま、己を傷つけた男の家へと向かった。
夜。
妖の時間。
彼女は天井から室内に侵入すると、寝ていた男の喉笛を食いちぎる。
真っ赤な血が噴き上がり、男はすぐさま目を覚まして絶叫した。
だが、その口からは空気と、血の泡しか出てこない。
目を見開き、彼は彼女がそこにいることを知った。
なぜだ。なぜこんなことをする。お前は人を襲う妖から人を襲わない妖になったのではなかったのか。
彼の瞳が訴えるそれが面倒くさくて、彼女は右手の指で、まず彼の目を潰した。
突き刺し、抉り出した目玉を床の上に捨てると、暴れる彼を布団の上に押さえつける。
彼が逃げられないように、その胸元を腕で貫き、床へと釘付けにする。
牙をむき出しにして彼の腹部に食らいつき、肉をむさぼり、内臓を引きずり出してすする。
暴れる彼の動きが、段々、静かになってくる。
彼女は突き刺していた腕を引き抜くと、両手で、彼の胸元へ手をかけた。
軽く力をこめるだけで、人間の体などたやすく壊れていく。
真っ赤な肉の向こう、痙攣するように動く心臓を取り出すと、それを彼の顔の前にかざす。
彼は、見えてないだろう、その空洞となった瞳で己の心臓を見据え、凍りつく。
彼女は満足しながら嗤うと、脈動する心臓へ牙を立て、そこに流れる血を顔に浴び、肉を飲み込んだ。
男は静かになる。
もはや物言わぬ肉の塊になった彼の体を、ゆっくりと、食い尽くしていく。
腕や足を引きちぎり、ばらばらに壊しながら、その肉を食らっていく。
腹が空いた。肉が食いたい。人間の肉だ。うまい、うまい肉だ。
あの寺ではまともな食い物などこれっぽっちも出てこなかった。
足りない。あんなものでは足りない。
人間を食うのだ。自分は妖怪なのだから。人間を食って何が悪い。
それをとがめた奴ら。お前らも食っているんだろう? 人間を。その牙で食らっているのだろう?
爪で引き裂き、牙を突き立て、食い殺しているんだろう?
何がおかしい。
何が悪い。
どうして、人を殺して食うことが、妖怪として、悪とされなければならないんだ?
理解が出来ない。
憎しみだ。恨みだ。
許せない。
こいつは自分を傷つけた。たかが人間のくせに、この妖怪を傷つけた。
一度、つけられた傷の痛みは深く濁っている。どこまでも、夜の奥底から見据えている。
逃がしてなるものか。
捨て置いてなるものか。
この恨み、痛み、辛み、その全てを返してやる。
この恨み、晴らさで置くべきか――!
「満足したかい?」
後ろから声がした。
弾かれたように、彼女は振り返る。
「人間の肉ってのはうまいもんだ。だが、年を取ってくると、どうしてもそれが胃にもたれるようになる。
食らうのは柔らかい内臓くらいなものさ」
口元にくわえたキセルから紫煙を吐き出し、彼女は振り向く。
――マミゾウだ。
「やれやれ。やっぱりこうなった。
ふん。何が『更正』だ。全く迷惑で厄介なことを。己の思想を他者へと押し付ける。洗脳などが、我ら、妖に通じるものかよ。
そんなものが通じるのは頭の悪い人間だけで充分だ。我ら妖怪は、人間などよりも、ずっと高貴で賢いんだからな」
彼女は後ろ手に扉を閉めると、音もなく、近づいてくる。
「お前が更正などすると、本気で信じているのは、あの寺の愚か者たちくらいなものさ。
我らがそんなものを信じると思ったか。
人間は人間。妖は妖。両者には決して相容れない倫理がある。人間の理論が妖に通じるものか。
全く、無駄なことをしおってからに」
マミゾウは、彼女へと歩み寄ると、その小さな体を見下ろす。
血で真っ赤に染まった彼女は、その場に腰を落としたまま、マミゾウを見上げている。
立ち上がれないのだ。
マミゾウの、血よりも赤い『獣の瞳』に見据えられ、腰が抜けて動けないのだ。
「なあ、人間の味はどうだった? よかったら教えてくれ。
我らは久しく人を食っていない。博麗の巫女など怖くはないが、しかし、あれは厄介だ。あれを取り巻くものたち全てを敵に回して、せっかくやってきた、この居心地のいい世界を出て行きたくなどないからな。
面倒くさいが、決まりごとは守るしかない。
羨ましいなぁ。おい。どんな味がした?」
彼女は首を左右に振った。
瞳から涙があふれてくる。
がちがちと、歯の根がかみ合わない。
「どうした。何をそんなに恐れている。
我らはお前に何かをするつもりはないぞ。
なぜ、妖怪が妖怪の本能に従って、人間を食い殺したことを責められねばならない?
そんなものは妖怪にとって当然だ。人間が命をつなぐために他の命を食らうことと、何が違う。
偽善者め。鬱陶しい」
マミゾウの手が彼女の肩に触れる。
肩のラインから首をなぞり、その頬を、目を、指先がなぞっていく。
「いいかい、小娘。よーく聞け。
別にお前は悪いことはしていない。我らはお前をどうこうすることは考えていない。
だが、それを考えている奴がいる。しかもたくさんだ。
お前はこのままでは殺されるだろう。間違いなく。逃げることなど出来ないだろう。お前はその本能に従って、自らの逃げ道を断ったのだからな。
お前は遅かれ早かれ殺される。痛みすらも感じない死だ。死ぬのは怖いか?」
彼女は必死に、首を縦に振る。
許しを請うように、彼女はマミゾウにすがりつく。
その指に絡みついた血が、マミゾウの服を赤く染める。
マミゾウは、彼女を振り払うと、倒れた彼女の上にまたがり、腰を落とす。
「ふふふ……。ならば、そうか。
お前は助かりたいか。いいだろう。助けてやろう。
我らは妖。我らは仲間だ。仲間の命は救ってやろう。
だが、お前は一つ、我らにとって許せないことをした」
マミゾウは手にしたキセルから灰を床の上に落とした。
まだ火のついているそれが、木の上にぽっと点る。
「聖白蓮を裏切った。
あいつは愚かな人間だが、我らにとっては、ずいぶん、近い相手だ。仲間に近い。
そして何より、我らが好きな人間だ。お前もわかるだろう? 己が親しむ相手を傷つけられる憎しみを」
落ちた灰から上がった火が、段々、建物の中へと広がっていく。
マミゾウは彼女を膝で床に押し付けながら、言う。
「お前はこの罪を償わなくてはいけない。出来るか? 出来るなら、お前のその命は助けてやる」
彼女は必死に首を縦に振る。
マミゾウは満足したように笑い、立ち上がる。
彼女の手を引いて立ち上がらせた後、マミゾウは口を開く。
「少し痛いが、我慢しろよ」
夜半を過ぎて上がった火の手に気づくものはおらず、その消火は遅れてしまった。
火はあっという間に木造の家を飲み込み、暗い夜空を紅く照らす。
ぱちぱちと爆ぜる火の粉が周囲に飛び散り、延焼が始まったところで、人々は騒がしくなる。
慌てて彼らは近くの川から水を汲み、火を消し止めた。
残ったものは、真っ黒に焦げた木材だけ。
その中から発見された、元は人間だったものを見て、誰かが言う。
『火葬の手間が省けた』
――と。
火の手が上がった理由を調べることが出来るものは存在せず、『寝床の不審火』という形で、その火事は幕を閉じた。
人々の認識の中では、だが。
「マミゾウさん、何か臭うです」
「ん? そうかの。
ちゃんと風呂には入っておるのじゃが」
「タバコはよくないです。体に悪いです。やめましょう!」
「うーむ、そうじゃのぅ。
響子がそこまで言うのなら、どれ、少し考えるとしよう」
翌朝、マミゾウは、相変わらず楽しそうに自分の仕事をこなす響子の頭をなでてから、本堂の扉を開いた。
中には白蓮が座している。
そのそばには一通の手紙らしきものが置かれており、文字の書かれている面が開かれている。
どっかとマミゾウはその場に腰を下ろし、後ろの扉を閉めた。
「それは、あれか。あの小ねずみのやったことか」
「はい」
「全く、目と耳のいい奴だ。
いや、むしろ、わしにすら気取られずに後をつけてきた、その手腕をほめるべきか。
告げ口みたいなことは、あまり感心はせぬがの」
マミゾウは右手に風呂敷を持っていた。
彼女はそれを本堂の床に無造作に放り投げる。
「わしは、のぅ、白蓮殿。
此度の一件、別に反省の言葉を口にするつもりはないし、許しを請うつもりもない。
それはわかっているな?」
「はい」
「どこまで知っている? わしは、最近、目が悪くなってな。細かい字が読めぬのじゃ。
そこに書いてあることを教えてくれるか」
マミゾウの言葉に、淡々と、白蓮は答える。
あの日、あの夜、起きたことを。
それをマミゾウは嗤いながら聞いていた。口元に小さな笑みを浮かべて、じっと、黙って聞いていた。
「どう思う?」
話が全て終わった後、彼女は問いかける。
白蓮は口を真一文字に引き締めて、何も答えなかった。
「少し、お主にとっても衝撃的なことだったか。
自分のなしたことが、全くの無意味であり、泡のように弾けて消えてしまったことが」
「……どうでしょう」
「まあ、それはさておこう。
奴はわしが始末しておいた。悪事をなしたものは罰せられる。一度は救いの手を差し伸べられたというのに、結局、それを受けなかったのだ。
ならば、そこに下されるのは、お主の言う『仏の慈悲』ではなく鉄槌じゃろう?」
白蓮は小さく首を縦に振る。
マミゾウの口元に浮かぶ笑みが深くなった。
「その責任を、お前が取るつもりだったな?」
「……結局、私がなすと言った事を出来なかったのが原因です。
ならば、それを果たすのが私の役目」
「そうか。それは辛いな。己がかわいがっていたものを、自らの手にかけなければいけぬとは。
何と悲劇的なことか」
だから、自分がやってやった、と彼女は言った。
「別に感謝しろとは言わぬよ。
お主はわしに言ったな? 奴の身元を引き受けろ、と。
いうなれば、奴はわしの孫のようなものじゃ。身内の不祥事を殺ぐのも、また、身内の務めじゃろう?」
「かもしれません」
「わはは。素直な回答、実に結構。
いやはや、しかし、なかなか世の中はうまくいかぬものよ。
この寺の者たちは間抜けどもが多い。底抜けに人がいいというか、妖怪らしくないというか。
だから、お主も、ある意味では気が抜けてしまっていたのかもしれぬな」
片手にキセルを取り出し、火をつけようとしたところで、さすがにそれは白蓮に止められる。
このような場で、という一言で、マミゾウは肩をすくめてキセルをしまう。
「おお、そういえば、響子と禁煙する約束をしたんじゃったか」
わざとおどけてみせてから、彼女はキセルを床の上に置く。
「お主は忘れているかもしれぬが、人間と妖怪は相容れぬものよ。どう頑張っても、近づくことは出来ぬ。遠ざかることは可能じゃがな。
人間の正義と妖怪の正義は違う。人間の意識と妖怪の意識も違う。
獣を食って咎められる理由はない。人を食って咎められる理由はない。
にも拘わらず、そこに入ってくるのは、ただのおせっかいに過ぎぬわ」
真正面から、白蓮はマミゾウを見据えてくる。
その眼力の強さは、人間のそれとは思えないほどに強い。
しかし、マミゾウも大したもの。それを軽く受け流している。
「お前がお前の正義で動くのは大いに結構。だが、それを我らに押し付けるなよ。
そんなものは余計なことだ。うっとうしい。邪魔だ。迷惑だ。
我らは我ら、お前達はお前達。勝手に生きて勝手に死ぬ。妖怪というのは誰かから縛られるのを嫌う。己の興が乗り、ふざけで付き合うことがあっても、真面目な面で人間の理屈に迎合してなるものかよ。
そんなものが妖怪だとは、我らは思わぬわ」
そんなものは『人間だ』と彼女は言う。
「自分の理論と正義を他者へ押し付けようと思うなら、そいつの心までもがんじがらめに縛り付けろ。
それが出来ぬままに他者を己の下から放つなど、無責任以外の何物でもない。自己満足の塊の愚か者めが。
出来ぬことまでやろうとするから、このようなことになるものさ」
「そうかもしれません。
しかし、私がなすべきことであり、私しか出来ないことをしているのだと、そう信じています」
白蓮は、一度、居住まいを正す。
「人も妖も、私の中では同じです。同じく救いの手を差し伸べるべき存在であり、それをなすことが出来るのが、まさに己であると自覚しています。
それを傲慢と言いたくば言い、愚かと嘲笑いたければ嘲笑えばいいでしょう。
私はそのような仕打ちに対し、なんら、引くところも臆することもなく構えて受け止めるつもりでいます。
そうした覚悟もせずに、私がこのようなことをしているなど、まさか思ってはいないでしょう?」
鋭い眼差しを返される。
マミゾウは小さく肩をすくめて、手つきだけで『続けろ』と促した。
「救いは必要です。助けの手を渡すのは、とても重要なことです」
「それをお前がなすというか」
「そうです。それは、私にしか出来ません。
自惚れでもなく、私は己の信念と魂に誓って、それを信じています。私にしか出来ないことです。
それが故に、私は、たとえあなた達からどのようなことを言われ、蔑まれようとも、己の道を行くつもりでおります。
それの結果が、いずれ、罰となってわが身に降りかかるのであれば、それを甘んじて受けましょう。
元より、百も承知の上ですから。
そんな人間ですから、あなたの目から見れば、愚かで滑稽にも映る。
――此度のことは残念でした。我が身の不徳のなすところであり、私も、まだまだ至らぬ小娘であったということです」
「ふん……」
そこで、マミゾウの口の笑みが深くなり、
「わっはっはっは!」
彼女は大声を上げて笑った。
ばん、と手で床を叩き、「やはり、お前ならそう言うだろうと思っていた」と、目じりに浮かんだ涙をぬぐう。
「その傲慢な気質と、他者への強制。なるほど、お前は人間のエゴの体現かもしれぬ。
お前はやはり、人間よりは、我ら妖怪に近い。
だから、面白いのさ」
彼女は床の上に放り投げた風呂敷を広げた。
途端、強烈な悪臭が辺りに漂う。
腐った色に輝くそれを見て、「何だと思う?」とマミゾウは尋ねた。
「……わかりません」
「奴の心臓だ。始末した証拠として持ってきた」
彼女は事も無げに言うと、再び、風呂敷を閉じる。『後でゴミ箱に捨てておこう』と言いながら。
「それが、人と妖への救いであると、真に信じているならやり続けるのがいい。わしは邪魔しようとは思わぬし、何も言わぬさ。
なぁに、またおかしなことになりそうであれば、またいつでも声をかけるがいい。
わしに出来る最大限の手伝いは惜しまぬよ」
「ありがとうございます」
「よい、よい。感謝などされるいわれはない。
しかしな、白蓮殿」
よっこらせ、と彼女は立ち上がる。
外に続く戸を開けながら、一言。
「人は、時として、妖よりも汚いぞ」
そう告げて、彼女はその場を後にした。
「マミゾウ。聖に怒られてきたみたいだね」
「後からいつも言われるが、あの頑固者は、人の言葉を『参考になる』と受け止めておいて、全く参考にしようとせん。
若者ほど頭は柔らかいものなのじゃが、奴はそうでもないらしい」
自室へと戻ってきた彼女が、まず最初に取り出したのは、部屋の一角にある机の上の手帳である。
そこに何かを書いていると、ぬえがやってくる。
ぬえはにやにや笑いながら、「だけど、正直者でしょ」と言う。
「マミゾウのこと、信頼してる」
「違うな、ぬえよ。あれは信頼しているのではない。信頼している相手の前で、あのような目はせん。
あれは、わしを押さえつけ、利用しようとするものの目よ」
そこが実に素晴らしい、とマミゾウ。
「人間のくせに妖と対等にあろうとする。面白いではないか。
いつ、こちらを出し抜いてくるか、楽しみでしょうがない」
「マミゾウは酔狂だねぇ」
「長く生きるということは、たくさんの趣味を持つことじゃ。自分にとって楽しい毎日が続かないのであれば、何百年何千年生きることが出来ようとも関係ない、とっとと此の世からおさらばしたくなるじゃろ」
身を滅ぼさない程度に道楽に身を費やし、興に遊ぶ。それが、ぼけないままに長生きする秘訣だ、とマミゾウは語ってみせる。
ぬえはそれを「おばあちゃんは大変だねぇ」とけらけら笑って流し、『自分には関係ない』と言ってのけた。
「だけどさ、マミゾウ。
『いずれ自分を出し抜く』とか言っているけれど、今は、マミゾウの方が聖を出し抜いているから楽しいのであって、逆になったらいらいらしてそれどころじゃないかもよ?」
「ふん。その時はその時よ」
彼女は腰に提げていた巾着袋の口を開くと、その中身を机の上に広げた。
その中から金が落ちてくる。
出てきた金を数えた後、部屋の隅にある金庫の中へ、彼女はそれを放り込んだ。
「ほれ、ぬえ」
「わーい、やった」
代わりに、中から取り出した、比較的大きな通貨をぬえに渡す。
「えげつないねぇ。
奴を逃がす代わりに、定期的に金を持って来い、だなんて」
「なぁに、そうでもしなければ、ここの寺の連中ばかりでは食っていけぬじゃろう」
にんまりと、マミゾウは笑う。
こんこん、と金庫を叩きながら、「わしが金庫番などやっておるからやっていけるのじゃよ」と。
「あの小ねずみも詰めが甘い。最後の最後まで見ていれば、わしのやったことにも気づいたじゃろうに。
妖が心臓を抉られたくらいで死ぬものか。妖を殺す時は、存在そのものを永久にすりつぶさなくては死なぬさ」
「ナズーリンは、そういうところが抜けてるよね。
あれ、絶対、星の影響」
「わはは。寅丸殿のか。
そうなると、ナズーリン殿も、いずれは愉快で楽しい人格になるかもしれんな」
「何それ、気持ち悪い」
二人はそろってけらけらと笑う。
腹を抱えて笑いながら、ぬえは続ける。
「奴が、金を持ってこなくなったらどうするの?」
「もちろん、約束を破ったとして殺してしまうさ。
あんな雑魚、どこに逃げ、隠れていようとも、すぐに見つけ出せる。見つけてしまえばたやすい。首をこう、手で持ってな。ぐっと力を入れてしまうだけじゃ」
「うわ、怖いね。怖い怖い」
「奴は逃げぬさ。
奴はわしの眼を見てしまったからな。妖怪というのは臆病者じゃからのぅ。自分よりも強いものには、絶対に、逆らわない」
彼女はキセルを取り出そうとして、『う~む』と眉根を寄せる。
しばらくこいつは手元から離しておこうと思ったのか、立ち上がると、衣装箪笥の奥へとそれを押し込んだ。
別段、彼女、ヘビースモーカーというわけではないのだが、さりとて、それまで手元にあったものがなくなるのは惜しいという性質なのだ。
「タバコなんて、わたしは絶対にやだなー。くさいもん」
「まあ、そうじゃろうな。子供はタバコなど、間違っても口にしたらいかん」
「酒はいいよね?」
「何を言うか、このばか者め」
けらけらと、二人そろって声を上げて笑う。
「この寺の者たちは、本当に阿呆ばかりよ。しかし、馬鹿はおらぬ。だから、色々、楽しいのさ」
「そうだねぇ」
「我ら、魔魅の化生の楽しみは、他者を欺き、それを酒の肴にしてバカ騒ぎすることよ。
この寺にいる限り、その楽しみが失われることもあるまいて」
彼女は右手をぬえに向かって伸ばした。
ぬえは服のポケットを探ると、そこから取り出した金をマミゾウに手渡す。
マミゾウはその中からいくらかを抜き、残りを「ほれ、お小遣いじゃ」とぬえに渡した。
「いつも思うんだけどさー」
「うん?」
ぬえから渡された金も金庫に放り込んでから、彼女は立ち上がる。
障子を開けようと手を伸ばす彼女に、ぬえは言った。
「これって、お小遣い、って言わないで、口止め料、って言うよね?」
その一言に、マミゾウは答えず、ただ笑って、すっと音もなく障子を開けてその場を後にした。
こういうマミゾウも見ていて楽しいもんですね。
リアルな表現とか言われて悦ばれるラノベみたいな気持ち悪さでした。
精神的向上心を捨てるとは馬鹿になるということ
信念を曲げ他人に合わせていく精神的向上心を持ちつづけることが人間ということだろうか
馬鹿と言われたら馬鹿言われないように媚びる一種の弱さこそ人間の強さで馬鹿言われても媚びなきゃそりゃ排除の対象にされ妖怪扱いされるみたいなものはあると思う
必要に迫られ信念を捨てるのが精神的向上心なのか貫くのがそうなのかは難しいところだと思うけど必要に迫られても他人に屈せず信念を貫く人間がいてもいいと思う
この白蓮は少し甘いというか一度信念には別の信念が敵になるという痛い目にあったんだからもう少し強かであれよと思うしこのマミゾウは個人的になんか嫌いだし、何よりこの聖とマミゾウのいる命蓮寺がそこまで楽しそうな気がしないからこの点数で
実際命蓮寺にいる連中は特例っぽいし、白蓮の理想が理想に過ぎないのは地下の妖怪と相容れないことを見ればよくわかる。
妖怪よりではあるけど平等主義の白蓮、妖怪代表のマミゾウ(ぬえも)との掛け合いが非常に興味深かったです。
いずれ、人間よりの神子や巫女をはじめとしさまざまな思惑で妖怪退治や異変解決する自機組とのお話も見てみたいですね。
理想郷の様に想像する幻想郷ですが、直視しがたい部分をも丁寧に描くことで、リアルで重厚感ある幻想郷を体感できたように思います。