世界は夢だ、という話をこれまでゆゆこは何度も耳にしていた。この世界は、取るに足りない、吹けば消えてしまう蝋燭の火の影だ。今はもう末法の世だから、夢のように儚い現実の悩みごとは忘れて、御仏の救済を待とう。そう言われているのに、いつまでたっても末法は訪れない。そのことに、誰しも気づき始めていたが、あえて口にしようとはしなかった。考えにすら浮かべようとしなかった。
思考は現実化する、とは世のあらゆる啓発家が、口を酸っぱくして唱えることだ。
だから、考えてはいけない。自分が生きている間に、末法なんて、世界の終わりなんて、やってこないのではないか、などと。救いそのものが、存在しないのではないか、などと。
ゆゆこのまわりにも、熱心に念仏を唱え、もうじきやってくる世界の破滅と救済を心待ちにしている善男善女が多かった。そうして、心の奥底でちらつく不安を見ないように、不安があること自体を認識しないよう、振舞っていた。
この世界に意味なんて、終わりなんて、ない、ということを。
「みんな、どうしてそんなに死にたいの」
ゆゆこの問いに真摯に答えてくれる人間はいなかった。いたとすれば、歌聖と呼ばれ、同業者からの嫉妬を、読者からの畏怖と敬意を、世間さまからの嘲りと憐れみを、一身に集め、桜の木の下で死んでいった父親だけだったろう。だが、それもゆゆこの、そうであってほしいという願望に過ぎない。ゆゆこの生活の面倒を見てくれたのは、外に出てばかりだった父親ではなく、その弟子や、彼の作品の愛好家たちだったのだから。母親の顔は知らない。何度か、偉いひとたちが連れだってゆゆこの家に牛車を乗りつけて、その中の美しく着飾った女と対面したことはある。数分程度で、たいした会話もしなかった。内容を覚えていないのだから、よほどたいしたことがなかったのだろう。ひょっとするとあれが母親である気がしないでもないが、貴種流離譚の噂話はいつだって巷間にあるもので、それを自分にあてはめるなら、母親はおそらくあの貴婦人だろうと、そう思うぐらいで、確証はなにもなかった。
ゆゆこのまわりで人間が死に始めるよりもずっと前から、その女と取り巻きは家には来なくなった。結局、真相はわからずじまいだ。
死は、その当人を動かなくさせてしまうだけでなく、そのまわりの人間をも、恐怖でからめとる。次は自分の番ではないか、という恐れだ。
だから誰にとっても……もちろん、ゆゆこにとっても、死は恐ろしい。
ゆゆこの場合、死んだ人間の亡霊と顔を合わせる羽目になるので、ことのほか嫌だった。特にそれが知った顔、たとえば生活の面倒を見てくれていた、父の崇拝者だったり、毎朝魚を届けに来てくれていた、商人だったりすると、彼らは死んだあともねちねちねちねちとゆゆこに無念のつぶやきを繰り返すのだった。
きっと最期は満足して黄泉に旅立ったんだ。
いろいろあったけど、綺麗に死んでいったね。
かわいそうだけど、あまり苦しまなかったようだ、せめてもの救いだよ。
そうやって生者たちが自分自身に言い聞かせて葬式を出した後でも、当の死人が、ゆゆこの前にやってきて、かき口説くのだ。死にたくなかったと。
あれとそれとこれをやっていない。どれも中途半端だ。
世界はいつだって中途半端だから、それは当たり前のことだ。死者たちがもし百年、二百年、命を永らえていたとしても、状況はどうせ、常に中途半端だろう。ちょっとした気がかり程度では、怨霊や、妖怪として化けて出ることはない。しかし、それなりに想いが強ければ、ぼんやりとした亡霊にはなれる。そのくらいでは、普通、人間には見えないのだが、ゆゆこには見えてしまうし、会話もできる。
はじめは愉しかった。人けの絶えた野原で、亡霊たちと会話をするのは。
だが、次第に余計なものまで混じりこんでくる。誰もが、会話だけで満足するだけではない。ゆゆこにせがんでくる。そんなに平等に接するな、と。私だけを優遇しろと。他の亡霊は放っておけと。
誰も、ほんとうはゆゆこと話をしようなどと思っていない、そのことがゆゆこには痛いほどわかる。亡霊たちはただ自分の話を聞いてもらえる生者が現れたから群がっているだけだ。人間だって似たようなもので、ゆゆこの生活の面倒を見てくれているパトロンたちは、ゆゆこの背後に歌聖の輝きを見、その後光に与ろうとしているに過ぎない。
誰もゆゆこの言葉に耳を貸さないまま、彼女の肩にのしかかる亡霊の重さは増していく。ゆゆこの食事の質が落ちたことを釈明しているパトロンの隣で、同じように人間の形をして亡霊がなにかしゃべっている。声は重なり、区別はつかなくなる。
やはり、どなたか、あなたの一生を丸ごと受け止めてくださるような殿方のもとへ、お仕えに行かれるのが一番かと思います。
そう、結論はそれしかない。あわよくば自分が、という気が、パトロンにないではなさそうだったが、彼は現在、自分の荘園の経営がうまくいっていないことをアピールするのに余念なかった。あまりいい暮らしはさせてやれそうにない、と。
しかしながら歌聖から直接教えを受けたこの不承の身、当世俗流の者どもとは一線を画した、ゆるぎない確固たる教養を備えております、教養は人生を豊かにします。お金で人間は幸せになれません。富貴なだけのこの世など……
頭がうまく働かず、パトロンの言葉があまり呑み込めない。なんとなくものほしそうな顔つきだけが、ゆゆこの視界の中で、さっきからぐにゃぐにゃと動いている。瞼が落ちそうになる。ゆゆこは、昼間でもうとうとするようになった。
姫、いかがお考えになりますか?
ああ、ごめんなさい。ちょっと、眠っていたわ。おなかがいっぱいだし、それに、退屈だったから。
ゆゆこは日に日に、起きている時間より眠っている時間が長くなった。
夢の中ではよく空を飛んだ。庭の梅の梢に止まった鶯(うぐいす)が、ひと声鳴いて、ぱっと飛び立つ。ゆゆこの現実の目ではそこまでしか追えない。しかし、夢の中では鳥の目となり、この世界を空から見下ろすのだ。自分の屋敷や、まわりにぽつぽつと散らばる民家、畑、こじんまりした市場、近所の小川、そして人間の手の及ばぬ、森、山、すべてが小さく、今までに見たことのない形をしている。
なぜこの光景を知っているのだろう。ゆゆこはぼんやりとした頭のまま、ふと疑問に思う。完全な想像だろうか。だとすれば、この光景は嘘だ。ほんとうは、上から見たって、山や川はこんな形をしていないのかもしれない。うつぶせの格好で飛んでいたゆゆこは、首を曲げて、眼下の景色から、自分の胸元に視線を移した。着物が少し透けて、うっすらと内側の肌が見えていた。その肌も透け、油でぬめった肉が見え、さらに骨が、臓器が、あらわになっている。どれも半端に透けているので、全体を見ようとすると非常に気色悪い。また、どの層に焦点を合わせるかで、ゆゆこは、全裸にもなり、骨と臓器の塊にもなる。こんな格好で空にいることを考えて、少し、恥ずかしかった。
「ああ、そうか」
ようやくゆゆこは納得した。
その時点で目が覚めた……ような気がした。
布団に横たわっていたゆゆこは、起き上がることができなかった。布団に、亡霊たちがうずたかく積み重なっていた。
「そうか、あなたたちから聞いたんだった。でも、あなたたちって、天界に行けるのかしら。そのまま、地面に沈み込んでしまいそうだけれど。誰でもが父さんみたいに、神格化されて天界に住めるようなるわけじゃないものね。それとも、空の上の上の、そのまた上に行こうとしたけれど、結局行けず、無念に満ちて見下ろした光景が、さっき私が見た夢だってことかしら」
ゆゆこは、掛布団をゆっくりとのけて、宙に浮いた。ゆゆこのいなくなった布団は、亡霊たちの重みに耐えきれず、板を突き破って床下に沈み込んだ。亡霊たちがゆゆこにまといつこうとするが、ゆゆこは意に介さず、そのまま室内を浮遊する。
「あら、これじゃ夢と一緒だわ。こっちでも飛べるなんて」
障子がひとりでにひらき、月光に照らされた庭が、ゆゆこを迎える。ゆゆこの体はところどころ透き通っている。夢と同じように。服も、皮膚も、肉も、各層が重なって、ひとつの像として結びつかない。
夜だというのに、物の輪郭が不自然なほどくっきりと浮かび上がっていた。月光は徐々に赤みを増し、ゆゆこの、からっぽになりつつある体を貫く。赤い光がゆゆこの体を侵し、手首や、肩や、くびれた腰から太ももにかけて、脛から足の中指から小指にかけて、などと、ぎりぎりもとの形がわかるようにして、切り分ける。分けたものを、赤熱した月光で焼き、柔らかくぶよぶよにし、こねくりまわす。すると、さまざまな大きさの団子になった。団子は空に吸い上げられた。月の表面に裂け目が生じる。まるで笑っているかのように。団子を呑み込んだ裂け目は太さを増していく。やがて裂け目は月を切り裂き、そのまま空を横一文字に切り裂いた。
「どれどれ、おいしく仕上がったかしら」
庭を囲う、塀の片隅に、黒煙状の妖気が凝集し、ひとの形をとる。赤いナイトキャップをかぶった、青い髪の女だ。髪の毛の多くをキャップの中にまとめており、髪をわけてあらわになった額が、利発な印象を表わしている。黒と白に色が分けられた服は、それぞれの布地に、逆の色である白と黒の、拳大の球体があしらわれている。それは、水中に漂う泡を思わせる。黒から白が生まれ、白から黒が生まれる。まっさらな紙に墨を散らしたような、あるいは、闇夜にいくつもの月を上らせたような、奇妙な着物だった。
女は手のひらに載せている、ピンク色のぶよぶよとしたモノに目をやる。空が、庭が、切断され、ほころびていくにつれ、手元のモノの艶が増していく。女の手のひらに、じっとりと湿り気が伝わってくる。女は、高く伸びた鼻先を近づけ、二、三回嗅ぐ。それから、唇の先端を触れさせた。睫毛の長い、しとやかな瞳が、官能に耐えかねたように、潤んでいく。
「これ、たまんないわ……すごい上物。さっさとここを畳んでしまいましょう。待ちに待ったスイーツの時間よ」
「あぁもう、ひどい夢だったわ」
女は、悦に入っていた表情を引き締め、屋敷に顔を向ける。布団が沈んで破れた床の縁に、手がかかっていた。そこから、西行寺幽々子がのそりと上半身を現わす。
「体がばらばらに切り裂かれて、お団子になって月に吸い込まれる夢だったわ」
「だったわ、じゃなくって。まだ醒めていませんよ」
ぶよぶよに向けていたうっとりした視線とは打って変わって、冷たく突き放すような口調になる。幽々子は、女の身にまとっている服に目をやる。
「素敵なお召し物ね」
女は口元を緩めた。
「わかるひとにはわかるものね。牛の皮みたいで、素敵でしょう」
幽々子は首を横に振った。
「牛はそんな変な柄じゃないわ」
「異国の牛です。ホルスタイン。それはもうたくさんお乳を出すのです」
「牛乳はたまに飲むわ。それはどうでもいいの、私は、確か夢から醒めたはずだけど」
「だから、醒めてないんです。なにを勘違いしたのか知りませんけど、早く醒めてくださいよ。あなたが醒めてくれないと、私は落ち着いておいしく頂けない」
「なにを?」
「なにをって、あなたの悪夢ですよ」
「そう、悪夢だったのね。いえ、まだ見続けているのかしら」
「だからさっきからそう言っていますってば。亡霊さんというのは、飲み込みが少し遅いですよね」
女は、まなじりを下げ、唇の片端を吊り上げる。女には、意地の悪い表情になって相手に悪く思われはしないかという懸念もあるが、仕方ない。夢の中ではいつだって自分が統治者なのだから、物覚えの悪い夢見る者たちへ、懇切丁寧に教えてあげることの代償としてこのくらいの顔つきは是認してもらわなければ。
夢符「藍色の愁夢」
女は、空いている左手を、幽々子に向ける。幽々子を囲むように、きらめく小さな鉱石が無数に現われた。愁いを帯びた藍色の欠片たちは、光を放ちながら、幽々子を徐々に圧迫していく。
「さようなら、おはよう、お姫さま」
女が手のひらを閉じると、無数の欠片が押し包む。そのまま、夢見る者の体を解体し、もとの世界での覚醒を促す。
そのはずだった。
「あれ……」
女は眉をひそめる。一度は凝集させたはずの藍色の小石たちが、ぽろ、ぽろ、と幽々子の体から剥がれ落ちる。
「生身、なの。あ、いや、幽霊だから生身ってことはないか。でも、なんで、あなた」
「私の生身だったら、大きな桜の木の下で、虫たちの栄養になっているわ。千年も昔にね。まあ、それはそれとして」
力を失った欠片たちが、まわりの地面に散らばった。幽々子は女に、ふわりと近づく。
「最近、夢見が悪かったの。ひょっとして、あなたが悪さをしていたのかしら」
「違うわ、私は悪夢があるからそれを食べにきただけで、私が来たせいであなたが悪夢を見たんじゃない。因果関係が逆よ。もういいから、とっとと醒めてよ」
再び左手を差し出す。
夢符「藍色の愁三重夢」
先ほどより、欠片たちの包囲が厚い。
瞑斬「楼観から弾をも断つ心の眼」
上空から、霊気をまとった鋭い斬撃が降りかかった。突き出した女の左腕の、肘から先が斬り飛ばされる。幽々子に覆いかぶさる間もなく、欠片たちは四散した。
「くっ」
女は後ずさり、左腕を数回、上下に振った。切り口からは、赤い血ではなく、粘ついた雲のようなものが垂れ流れていたが、やがて手の形を取っていく。
「あーびっくりした。夢を……斬るなんて」
「あの子も少しは成長したわね」
幽々子は、月と空に生じた大きな断層を見上げた。妖夢は今頃、枕元で心配して幽々子に声をかけているに違いない。幽々子は目の前の女に目を向ける。
「あなた、獏ね」
女は、内心で舌を巻いた。この亡霊の姫は鋭すぎる。
「ご名答。ドレミー・スイートよ。幻想郷にはちょくちょく顔を出させてもらっているわ。冥界にもね。ここの幽霊たち、欲望が薄くなっているせいか、顕界の連中ほどには夢を見なくて私の稼ぎは良くないんだけど、たまにこういう上物を収穫できるのがミソね」
「私は、醒めてもよかったのよ。たまにこういう悪夢は見るから。仕方ないものね、誰のせいでもないから。でも、あなたが私の夢に余計なちょっかいを出していたとするのなら、話は別になるわねぇ。夢の中での追跡劇は、きっとあの子にもいい経験になるわ」
「待って、待ってよ。なんで私が悪者になっているの。さっきも言ったけど、あなたの悪夢は私のせいじゃない。私がいようといまいと、あなたが嫌な思いをするのは一緒。じゃあせっかくだから、ただ食べるんじゃ勿体ない、とっておきの料理が出てきたら、さらに良くするために調味料を振りかけるくらい、誰だってするでしょう。あなただってするでしょう」
「私は、すでに用意されたものしか食べたことがないからよくわからないけれど、でもまああなたの言いたいことは一応理解したわ」
「わかってもらえたならなにより。それじゃ、この辺でお別れしましょう。あなたとは共通の話題もないことだし、お互い接点がないから、夢と現、お互いにいるべき場所に戻りましょうよ。私はこれからお愉しみ」
そう言って、ドレミーは手に載せたぶよぶよに、啄むようなキスをした。途端、目を見開き、顔をゆがめ、唾を吐きだした。なにかこみあげてくるらしく、吐き気をこらえ、涙目になる。ぶよぶよの色は、すでに黄土色に変色し、異臭を放っていた。
「うッ、げぇ」
「癪なのよ。私はこんなに気分の悪い夢を見たというのに、あなたがそれで愉しい思いをするというのは、納得がいかないの」
ぶよぶよには、蝶が数匹とまっている。どの翅も鮮やかな模様だった。断たれた月から垂れ流される赤い光を反射して、様々な角度に、異なる色の光を放っていた。その美しい蝶は、ドレミーが吐きそうになるほどの、泣くほどの壮絶な臭気を、ぶよぶよにもたらしていた。
「ぉぐ……私の、せっかくの、ご馳走が」
ぼこ、ぼこ、ころ。
彼女の服についている球体が、地面に転がり落ちた。水面に沸き立つ泡のように、新しい球体が服から盛り上がってくる。
ぼこん、ぼこん、ぼころん。
地面に転がるものもあれば、大気中に浮かぶものもある。白と黒の泡が混在し、溢れ出す。
「納得いかないのはこっちよ……よくも、よくも、私が精魂込めて仕立てた悪夢を、台無しにしてくれたわね」
ちりちり、と焦げつくような音がして、ドレミーの青い髪がゆらりと上がっていく。
「しかも、なんの意味もないじゃない。私がおいしくいただこうがいただけなかろうが、なにも変わらないでしょう」
黒と白の泡は、次第に色を失い、透き通っていく。中には、様々な映像が映し出されている。幽々子の知っている、白玉楼が、魂魄妖夢が、妖忌が、博麗神社が、幻想郷の山野が、そこにはある。知らない光景もあった。他者の夢だろう。だが、たとえばあの若い男などは、妖忌に見えなくもない。
幽々子は思う。
この忌々しい悪夢。
この夢は、誰の夢だろう。
あの少女は、誰なのだろう。
ゆゆこ? 名前は似ている。
けれど、あの私は、私じゃないだろう。
「そういう問題でも、ないのよねぇ。とりあえず、痛い目にあってもらうわ」
「寝てなよォォ! もう一回その悪夢を引きずり出してやるからさア」
ひとが変わったように、ドレミーは大口をあけ、笑うように口の端を両側へ大きくつり上げ、怒号した。大量の泡が幽々子に襲いかかる。泡が近づくと、それだけ映像が鮮明に見える。気を取られ、動きが鈍る。不意に、体の均衡が崩れた。
右足が、泡に飲まれていた。泡の中には木立(こだち)が見えており、おそらく白玉楼庭園内のどこかだ。その茂みに、右足が踏み入っている。泡が通過すると、幽々子の右足がごっそりと取られていた。
「ほらほらぁその調子その調子! 余計な体はどんどん醒めてしまいなさいよ、その頭だけ残していりゃあ、何度でも悪夢は見られるんだからねエ!」
妖夢や妖忌と違って、幽々子は腰に力を入れるとか、踏み込むとか、そういう戦い方をしないので、直接の影響はない。だが、幽々子は焦りを覚えた。
弾幕は分厚く、大量で、しかも一個一個が手ごわい。それに、幽々子自身の動きが鈍い。自分のからだではない気がする。かわし切るのはほぼ不可能だ。
正面突破しかない。
無数の蝶を放ち、泡を腐らせていく。それでも、泡の進行は止まらず、内側の映像もなかなか消えず、幽々子の気を乱す。その間にも、ドレミーの服から、皮膚病のできものみたいにあとからあとから泡が湧き出ている。攻撃の手を緩める気は一切ないようだ。泡の洪水が、幽々子を押し潰すべくやってくる。
蝶符「鳳蝶紋の死槍」
霊気を凝縮させた槍を放つ。泡の群れを真っ向から貫いた。泡は弾け、中の夢の景色が、見知った冥界の建物や森が壊れていく。その様子は、幽々子にとって非常に気分が悪い。しかも、弾幕の向こうに手ごたえはなかった。こんな集中力では、当たるはずがないのだ。
「なん……って威力よ。夢の中ですらこんだけの威力とか、冗談じゃないわ」
泡の弾幕に、大きな通路が穿たれた。その向こうで、ドレミーがよろめいている。表情には明らかな動揺が走っていた。はずしはしたが、たじろがせるには充分な威力のようだった。幽々子は泡で埋められるより先に、弾幕の層を飛び抜けた。ドレミーの側面に回り込む。服からは白黒の泡が生成されつつあるが、幽々子が速い。再度、槍を放つべく、指先をドレミーへ突きつける。
幽々子の動きはそこで止まった。腕は体にしばりつけられ、宙に吊り上げられる。
「弾幕を抜ければ勝ちと思った? 残念。こう見えて私、けっこう接近戦も得意なの」
ドレミーの腰から伸びた、鞭に似た尻尾が、幽々子を足から頭まで螺旋状に、七、八周も巻き付いていた。足は曲げられず、腕も腰にびったりと合わさってきつく縛られ、首の絞めつけもきつい。上の歯と下の歯のちょうど間にも尻尾が食い込んでおり、口が大きくひらいた不細工な顔つきにならざるを得ない。まともに話すこともできない。幽々子の目元で、そんな彼女を嘲笑うように、尻尾の先端の房がちらつく。
「夢っていうのはね、一番深いところではつながっているの。海みたいに。それぞれのひとが別々に見ているわけじゃない。夢の壁が厚すぎるから、普通は気づけないんだけれど。なにかの拍子に壁にヒビが入り、向こう側の夢と通じ合うことがある。夢で、死者からのメッセージや、もうすぐ死にそうなひとから伝言を受けることがあるのはそのせい。私はそれを、ほんのちょっぴりだけど、喰ったり、創ったり、入れ替えたりできる。とても大変なことなのですよ。そうそう簡単に誰にでもできることじゃない。それでも、夢の仕組みに気づいてしまえば、一応は自由にどこにでも行けるし、何者にだってなれる。一応は、ね。けどね、そうなれたとき、たいていは自我が崩壊して、拡散してしまう。その時点で、自由に欲望を叶えることの意味がなくなるの。そういう欲望自体が、どうでもよくなっちゃうもの。あなたはどうかしら、西行寺のお姫さま。あなたが見たあの夢も、あなたの潜在的な恐れを示してもいるけれど、あなたひとりが思いついたものでもないのよね。世界の深いところでつながっている、別の誰かの恐れでもある。その誰かは、あなたが入って来られないよう念入りにコーティングしておいたのに、あなたは構わず、夢見てしまった」
尻尾の締めつけが、一段と強まる。幽々子は体を鰻のようにくねらせた。しかし、拘束はびくともしない。
「無理無理、そんな不自然な姿勢じゃ、弾幕にも気合が入らないでしょう。さあ、今度こそ、ほんとうにお目覚めなさい」
肉と肉が、裂ける、みち、みち、と音がする。
音がした刹那の後に、鼻を突き刺すような悪臭が漂う。ドレミーは手で口元を覆う。幽々子の着物の、ちょうど右足の付け根あたりから、下半身全体にかけて、赤黒い染みが広がっていた。裾から、大量の血が滴る。今頃、なくなった右足から血が噴き出したかのように。
「また、妙なことを……幽霊のくせにっ」
幽々子の左手のひらが、地面についた。幽々子自身は地面から浮かんでいる。腕が伸びたのだ。肘のあたりの皮が裂け、黒ずんだ肉がのび、ちぎれ、骨がはずれ、地面に垂れ下がっていた。
みち、みち、みぢ、肉と骨が裂け、血管が破れる。
尻尾は、なお強く幽々子の肉に食い込む。彼女の着物はたちまち内側からにじみ出た血によって赤く染まり、腐臭はドレミーの鼻を殴りつけるように強烈さを増す。幽々子の首がよじれ、背骨が体から引き抜かれ、顎が裂け、上唇から上は後ろに傾き、覆いのなくなったピンク色の舌がぬめぬめと自由奔放に踊る。
ドレミーはようやくわれに返って、尻尾の力を弱めた。だがもう遅い。幽々子の肉体の崩落はとどまるところを知らない。やがて、尻尾はただ、暗赤色の汁に充分に浸された布きれと、それに包まれた小さな肉塊に巻きついているだけとなった。崩落した肉体の欠片たちは、いったん尻尾の束縛から逃れた後、それぞれが独立した意志を持った生き物のように、ドレミーの目の前で再び連結しつつあった。一糸まとわぬ幽々子のなめらかな立ち姿から、ドレミーは目を離すことができなかった。露出した肉からは凄まじい異臭を漂わせる一方で、片側だけ形を取り戻した乳房や、優美な肩や腰のライン、流れる髪の毛の美しさは、ドレミーから言葉を奪った。
「あっ」
手のひらが、ドレミーの視界を塞いだ。指と指の隙間から、幽々子の目が見える。顔面の上半分がそこにある。徐々に、下顎がやってくる。接合寸前は、まるで口裂け女みたいにはしたなく笑っているように見えた。接合した後も、やっぱり幽々子は笑っていた。
ひょうぅ
風が、小気味よく鳴いた。それは、ドレミーの体が持ち上げられ、宙を旋回するときに発した音だった。あまりに速く、勢いがあったので、ドレミーには風の鳴き声として聞こえたのだ。
幽々子は、まだ伸びきってだらけている、骨と血管と神経の剥き出しになった左腕と、同じくピンク色の剥き出しの肉のまま鮮血を散らしている右足を地面に据え、対照的にすべてが完全なまでに均衡のとれた女の腕である右腕でドレミーを宙に浮かせていた。その右手のひらは、あくまで常識的なサイズであり、ドレミーの顔を完全に覆ってはいない。しかし、まるで吸い込まれるように、ドレミーはその手のひらの拘束から逃れられなかった。幽々子に持ち上げられているのか、自分から飛んでいるのか、もはやその境界も不分明だった。幽々子は、全身をひねり、幽雅に、一瞬で終わる舞を披露する。観客は、ドレミーだけだ。
ああ、気持ちがいいな、と心から思ってしまった。
ばちゅっ
ドレミーの体は大きく弧をえがき、後頭部から地面に叩きつけられた。頭蓋がつぶれ、脳や骨の破片が飛び散る。幽々子の人差し指と親指の谷間から、ドレミーの右眼球がにゅるりと出てきた。妖夢の斬撃には、何事もなく腕を再生させてみせたが、今度は駄目だった。真っ赤な血を流し、玉砂利を赤く染めていく。
ドレミーの左目は手のひらで遮られているため、右目から見える光景だけがすべてだった。幽々子の手の甲に転がった眼球に、幽々子の唇が近づいてくる。その唇の微細な形、隙間から漏れる呼気までが感じられる。
その目が、幽々子の舌に乗せられ、口の中に入ったところで、ドレミーの視界は激しく回転し、意識が途切れた。
ドレミーが目覚めたとき、気持ちも体も重苦しかった。見慣れない木目(もくめ)の天井だ。腕を動かして、掛布団をのけて、天井向けて手を伸ばす。どうも遠近感がつかみづらい。手を右目のあたりにやると、ざらざらした包帯の布地が指に当たる。
「あら、お目覚めかしら」
声を耳にした途端、反射的に、背骨のあたりに震えが走る。美麗な舞に合わせて宙に浮き、そこから叩きつけられた感覚が、まだありありとドレミーの細胞に刻み込まれていた。首を横に回すと、そこには正座した幽々子が、くつろいだ様子でいた。水色の着物は、元通りになっている。その着物の下にひそんでいる、ほっそりとした、豊かな体を、ドレミーは想う。一度見てしまったので、もう頭から離れることはないだろう。
だが、その美しさに耽溺するのとは別に、猛烈な危機感がドレミーの体を突き動かした。すばやく飛びのいて、防備一辺倒の弾幕を張る……つもりだが、体がついていかない。ただのろのろと上体を起こして、自分でもじれったいほど、ゆっくりと唇を動かせただけだった。
「ま、まさか、ここ……」
「そう、現の世界よ」
ひぅ、とドレミーの喉が鳴る。襖がひらき、湯呑みと急須を載せたお盆を持った魂魄妖夢が現われた。ドレミーが上体を起こしているのを見るや否や、お盆を両手から離し、腰と背中の二刀を瞬時に抜き放つ。
「幽々子さま、ようやくお目覚めになられたと思ったら……なんでひとり増えているんですか」
「連れてきちゃった」
「きちゃった、じゃないですよ、こんな危ない妖怪。たちどころに斬って捨てるべきなんです」
「ちょっと話を聞いてみたかったのよ。妖夢、刀を収めて」
不承不承、武器を鞘にしまう妖夢を、幽々子は微笑ましく見る。抜刀の速度もなかなかのものだったが、なにより、お盆を腰の高さから畳に落としたにも関わらず、まったく湯呑みの中身がこぼれていないというところが、すばらしい。常人にできることではない。彼女が研鑽を積んでいる証拠だ。
「ご苦労さま、妖夢。あなたの、夢を斬ったときの一撃、良かったわよ」
「いえ、結局あれだけで終わってしまいました。まだまだ斬れないものだらけです。未熟の証です」
「未熟はわかっているわよぉ。良くなったってこと。さあ、獏さん、ちょっと縁側に出ましょうか。見晴らしのいいところで、妖夢の持ってきたお茶でも飲みましょう」
ドレミーは、せわしなく何度も首を横に振った。
「駄目よ、寝なきゃ、私、すぐに寝ないと。それか、誰でもいいから眠ってよ。夢の中じゃないと、私、息苦しくて、もう」
「情けないわねぇ、ちょっと夢から覚めたくらいで」
幽々子は手にした赤いナイトキャップをドレミーの前にかざす。ドレミーは頭に手をやり、直接自分の髪の毛に触れる。
「あっ、それ……」
「さあ、外はいい天気よ」
幽々子が自分でお盆を持ち、縁側に出る。縁側にはすでに座布団が用意されていた。ドレミーは諦めてあとに続き、スカートが皺にならないよう伸ばしながら、幽々子に並んで座布団に座った。
砂利が敷き詰められた庭に、形の異なる小ぶりな岩が配置されている。砂には、川の流れを思わせる模様があしらわれていた。
数秒間、しぃんとした静寂が流れる。やがて、幽々子の、茶を啜る音が響く。
「いい気持ちでしょう。今は日も少し傾いて、涼しくなったけど、さっきはほんとうに、午睡にもってこいだった。おなかもちょうどいい塩梅に膨れて、昼間からうとうととしたくなるような、静かで、少し暖かい空気。こう、柱に寄りかかって、華胥の国に遊ぶつもりでいたのよ。そうしたら、いつのまにか槐安の国に迷い込んでいたというわけ。夢の中にも、たくさんの国があるものなのねぇ」
「夢の世界はひとつですよ。現の世界がひとつきりであるのと同じように。それを、昔から、いろんな人間が、いろんな呼び方をしてきたというだけで。私も、獏と呼ばれたり、最近は、ハイカラっぽくドレミーと呼ばれたり。なんでもいいんですけどね」
「あら、名前は大事よ。ドレミーさん。いい名前じゃないの」
「それはどうも」
ドレミーも湯呑みを手に取り、中身を啜る。
「ほんとうかしら」
「え、いい名前って言ったのあなたですよね」
「そうじゃなくて、世界の話。夢も、現も、ほんとうにひとつしかないのかしら」
「他にあれば教えてほしいものですが。あなたは、他の夢や、他の現を見たことがあるんですか? 西行寺さん」
「ないわ。ないけど、あるかもしれないじゃないの」
「あるとしたら、それは、そもそも同じ世界だっていう話ですよ」
「同じ、なのかしら。まるで違うルールで動いていたとしても?」
「同じですね。違うルール、と認識ができるのだったら、同じだということです。何万年離れていたって、何万光年離れていたって、同じ世界です。認識できない世界があるとすれば、それは、そもそも存在しないでしょう。だから、世界はひとつ」
「そういう見方も、あるかしらねぇ」
「ただの言葉遊びかもしれないけれど。とにかく私は、今、猛烈に居心地が悪いんです。このお茶と、この枯山水の庭は悪くないですが」
「あら、私も悪くはないわ。居心地もね」
「そりゃそうでしょう、あなたのうちなんですから。居心地悪いはずがない。私は夢の世界の住人なんです。それをこんな、無理やり起こして……」
「どうしてあの夢には、紫が出てこなかったのかしら」
幽々子のつぶやきに、ドレミーは口を閉じた。
「したかった話というのは、結局それなんですね」
「あれは、私なの? 紫がもしいなかったら、ああなっていたはずの、私なの」
「それは、私に聞かれても困ります。第一、私の知ったことじゃない。あなたの見た悪夢なのだから」
「私は、死んだときから始まっているわ。誰かが生きて嘆いた後の、二度目の嘆きを、始めているの。だからもう、私はずっとこのままで、始まらないし、進まない。もう完成されて、付け加えるところのない、絵や物語のようなものかしらね」
「そうだとしたら、退屈でしょうね。けれど西行寺さん、あなた、意外と真面目くさったこと考えるんですね。私は、夢の中で、ひとの悪夢をおいしくいただければそれでいいんですよ。てっきり、あなたもそんな能天気な考えで生きて……死んでいるんだと思っていました」
「紫が、ね。時々つらそうにしているから」
今度の沈黙は、前より長かった。時間にすれば十秒か、二十秒か。話の接ぎ穂を失ったふたりは、ただ、庭を見て、茶を飲んだ。
「あら」
幽々子は、ドレミーに訪れた変化に気づいた。体が薄くなり、向こうの景色が透けて見え始めた。
「ようやく効いてきたわね。遅すぎるくらい。あなたの従者、いい根性しているわよ」
ドレミーの顔に、余裕が少し戻っていた。
「今頃あの従者は、剪定鋏をかかえたまま、庭木の根元で舟を漕いでいるのかもしれないわね。それにしても、ずいぶん粘ったものよ。私と目が合った瞬間から、睡魔に襲われたはずなのに」
ドレミーの体は急速に現実感をなくしていく。幽霊である幽々子より、さらに、希薄になっていく。
「もう行くの? 私はまだ、あなたと話していたかったわ。なにか、思いつきそうだったから」
ドレミーは首を横に振った。そこまでは付き合いきれない。片方の眉をひそめ、唇の端をつりあげる。これは、かなり美しく知的な笑顔だと自認している。相手よりも上に立ったときの方が、自分は美しい。ドレミーの確信だ。
「それじゃあ、おやすみなさい。いい現を、これからも」
ドレミーが座っていた座布団の上には、ほどかれた包帯だけが残った。幽々子の膝上のナイトキャップも消えていた。おなかの辺りを撫でる。さっき、念入りに咀嚼して呑み込んだドレミーの眼球まで、胃の中から消え去っているのがわかる。量はわずか一個とはいえ、久しく味わったことのない夢のようなおいしさだった。それが消えたせいで、おなかの中が寂しい。自然と、目線が庭の上空に遊ぶ。この欠落を当座、埋めてくれる手ごろな大きさの幽魂があれば、ちょっと口に入れておくつもりだった。
思考は現実化する、とは世のあらゆる啓発家が、口を酸っぱくして唱えることだ。
だから、考えてはいけない。自分が生きている間に、末法なんて、世界の終わりなんて、やってこないのではないか、などと。救いそのものが、存在しないのではないか、などと。
ゆゆこのまわりにも、熱心に念仏を唱え、もうじきやってくる世界の破滅と救済を心待ちにしている善男善女が多かった。そうして、心の奥底でちらつく不安を見ないように、不安があること自体を認識しないよう、振舞っていた。
この世界に意味なんて、終わりなんて、ない、ということを。
「みんな、どうしてそんなに死にたいの」
ゆゆこの問いに真摯に答えてくれる人間はいなかった。いたとすれば、歌聖と呼ばれ、同業者からの嫉妬を、読者からの畏怖と敬意を、世間さまからの嘲りと憐れみを、一身に集め、桜の木の下で死んでいった父親だけだったろう。だが、それもゆゆこの、そうであってほしいという願望に過ぎない。ゆゆこの生活の面倒を見てくれたのは、外に出てばかりだった父親ではなく、その弟子や、彼の作品の愛好家たちだったのだから。母親の顔は知らない。何度か、偉いひとたちが連れだってゆゆこの家に牛車を乗りつけて、その中の美しく着飾った女と対面したことはある。数分程度で、たいした会話もしなかった。内容を覚えていないのだから、よほどたいしたことがなかったのだろう。ひょっとするとあれが母親である気がしないでもないが、貴種流離譚の噂話はいつだって巷間にあるもので、それを自分にあてはめるなら、母親はおそらくあの貴婦人だろうと、そう思うぐらいで、確証はなにもなかった。
ゆゆこのまわりで人間が死に始めるよりもずっと前から、その女と取り巻きは家には来なくなった。結局、真相はわからずじまいだ。
死は、その当人を動かなくさせてしまうだけでなく、そのまわりの人間をも、恐怖でからめとる。次は自分の番ではないか、という恐れだ。
だから誰にとっても……もちろん、ゆゆこにとっても、死は恐ろしい。
ゆゆこの場合、死んだ人間の亡霊と顔を合わせる羽目になるので、ことのほか嫌だった。特にそれが知った顔、たとえば生活の面倒を見てくれていた、父の崇拝者だったり、毎朝魚を届けに来てくれていた、商人だったりすると、彼らは死んだあともねちねちねちねちとゆゆこに無念のつぶやきを繰り返すのだった。
きっと最期は満足して黄泉に旅立ったんだ。
いろいろあったけど、綺麗に死んでいったね。
かわいそうだけど、あまり苦しまなかったようだ、せめてもの救いだよ。
そうやって生者たちが自分自身に言い聞かせて葬式を出した後でも、当の死人が、ゆゆこの前にやってきて、かき口説くのだ。死にたくなかったと。
あれとそれとこれをやっていない。どれも中途半端だ。
世界はいつだって中途半端だから、それは当たり前のことだ。死者たちがもし百年、二百年、命を永らえていたとしても、状況はどうせ、常に中途半端だろう。ちょっとした気がかり程度では、怨霊や、妖怪として化けて出ることはない。しかし、それなりに想いが強ければ、ぼんやりとした亡霊にはなれる。そのくらいでは、普通、人間には見えないのだが、ゆゆこには見えてしまうし、会話もできる。
はじめは愉しかった。人けの絶えた野原で、亡霊たちと会話をするのは。
だが、次第に余計なものまで混じりこんでくる。誰もが、会話だけで満足するだけではない。ゆゆこにせがんでくる。そんなに平等に接するな、と。私だけを優遇しろと。他の亡霊は放っておけと。
誰も、ほんとうはゆゆこと話をしようなどと思っていない、そのことがゆゆこには痛いほどわかる。亡霊たちはただ自分の話を聞いてもらえる生者が現れたから群がっているだけだ。人間だって似たようなもので、ゆゆこの生活の面倒を見てくれているパトロンたちは、ゆゆこの背後に歌聖の輝きを見、その後光に与ろうとしているに過ぎない。
誰もゆゆこの言葉に耳を貸さないまま、彼女の肩にのしかかる亡霊の重さは増していく。ゆゆこの食事の質が落ちたことを釈明しているパトロンの隣で、同じように人間の形をして亡霊がなにかしゃべっている。声は重なり、区別はつかなくなる。
やはり、どなたか、あなたの一生を丸ごと受け止めてくださるような殿方のもとへ、お仕えに行かれるのが一番かと思います。
そう、結論はそれしかない。あわよくば自分が、という気が、パトロンにないではなさそうだったが、彼は現在、自分の荘園の経営がうまくいっていないことをアピールするのに余念なかった。あまりいい暮らしはさせてやれそうにない、と。
しかしながら歌聖から直接教えを受けたこの不承の身、当世俗流の者どもとは一線を画した、ゆるぎない確固たる教養を備えております、教養は人生を豊かにします。お金で人間は幸せになれません。富貴なだけのこの世など……
頭がうまく働かず、パトロンの言葉があまり呑み込めない。なんとなくものほしそうな顔つきだけが、ゆゆこの視界の中で、さっきからぐにゃぐにゃと動いている。瞼が落ちそうになる。ゆゆこは、昼間でもうとうとするようになった。
姫、いかがお考えになりますか?
ああ、ごめんなさい。ちょっと、眠っていたわ。おなかがいっぱいだし、それに、退屈だったから。
ゆゆこは日に日に、起きている時間より眠っている時間が長くなった。
夢の中ではよく空を飛んだ。庭の梅の梢に止まった鶯(うぐいす)が、ひと声鳴いて、ぱっと飛び立つ。ゆゆこの現実の目ではそこまでしか追えない。しかし、夢の中では鳥の目となり、この世界を空から見下ろすのだ。自分の屋敷や、まわりにぽつぽつと散らばる民家、畑、こじんまりした市場、近所の小川、そして人間の手の及ばぬ、森、山、すべてが小さく、今までに見たことのない形をしている。
なぜこの光景を知っているのだろう。ゆゆこはぼんやりとした頭のまま、ふと疑問に思う。完全な想像だろうか。だとすれば、この光景は嘘だ。ほんとうは、上から見たって、山や川はこんな形をしていないのかもしれない。うつぶせの格好で飛んでいたゆゆこは、首を曲げて、眼下の景色から、自分の胸元に視線を移した。着物が少し透けて、うっすらと内側の肌が見えていた。その肌も透け、油でぬめった肉が見え、さらに骨が、臓器が、あらわになっている。どれも半端に透けているので、全体を見ようとすると非常に気色悪い。また、どの層に焦点を合わせるかで、ゆゆこは、全裸にもなり、骨と臓器の塊にもなる。こんな格好で空にいることを考えて、少し、恥ずかしかった。
「ああ、そうか」
ようやくゆゆこは納得した。
その時点で目が覚めた……ような気がした。
布団に横たわっていたゆゆこは、起き上がることができなかった。布団に、亡霊たちがうずたかく積み重なっていた。
「そうか、あなたたちから聞いたんだった。でも、あなたたちって、天界に行けるのかしら。そのまま、地面に沈み込んでしまいそうだけれど。誰でもが父さんみたいに、神格化されて天界に住めるようなるわけじゃないものね。それとも、空の上の上の、そのまた上に行こうとしたけれど、結局行けず、無念に満ちて見下ろした光景が、さっき私が見た夢だってことかしら」
ゆゆこは、掛布団をゆっくりとのけて、宙に浮いた。ゆゆこのいなくなった布団は、亡霊たちの重みに耐えきれず、板を突き破って床下に沈み込んだ。亡霊たちがゆゆこにまといつこうとするが、ゆゆこは意に介さず、そのまま室内を浮遊する。
「あら、これじゃ夢と一緒だわ。こっちでも飛べるなんて」
障子がひとりでにひらき、月光に照らされた庭が、ゆゆこを迎える。ゆゆこの体はところどころ透き通っている。夢と同じように。服も、皮膚も、肉も、各層が重なって、ひとつの像として結びつかない。
夜だというのに、物の輪郭が不自然なほどくっきりと浮かび上がっていた。月光は徐々に赤みを増し、ゆゆこの、からっぽになりつつある体を貫く。赤い光がゆゆこの体を侵し、手首や、肩や、くびれた腰から太ももにかけて、脛から足の中指から小指にかけて、などと、ぎりぎりもとの形がわかるようにして、切り分ける。分けたものを、赤熱した月光で焼き、柔らかくぶよぶよにし、こねくりまわす。すると、さまざまな大きさの団子になった。団子は空に吸い上げられた。月の表面に裂け目が生じる。まるで笑っているかのように。団子を呑み込んだ裂け目は太さを増していく。やがて裂け目は月を切り裂き、そのまま空を横一文字に切り裂いた。
「どれどれ、おいしく仕上がったかしら」
庭を囲う、塀の片隅に、黒煙状の妖気が凝集し、ひとの形をとる。赤いナイトキャップをかぶった、青い髪の女だ。髪の毛の多くをキャップの中にまとめており、髪をわけてあらわになった額が、利発な印象を表わしている。黒と白に色が分けられた服は、それぞれの布地に、逆の色である白と黒の、拳大の球体があしらわれている。それは、水中に漂う泡を思わせる。黒から白が生まれ、白から黒が生まれる。まっさらな紙に墨を散らしたような、あるいは、闇夜にいくつもの月を上らせたような、奇妙な着物だった。
女は手のひらに載せている、ピンク色のぶよぶよとしたモノに目をやる。空が、庭が、切断され、ほころびていくにつれ、手元のモノの艶が増していく。女の手のひらに、じっとりと湿り気が伝わってくる。女は、高く伸びた鼻先を近づけ、二、三回嗅ぐ。それから、唇の先端を触れさせた。睫毛の長い、しとやかな瞳が、官能に耐えかねたように、潤んでいく。
「これ、たまんないわ……すごい上物。さっさとここを畳んでしまいましょう。待ちに待ったスイーツの時間よ」
「あぁもう、ひどい夢だったわ」
女は、悦に入っていた表情を引き締め、屋敷に顔を向ける。布団が沈んで破れた床の縁に、手がかかっていた。そこから、西行寺幽々子がのそりと上半身を現わす。
「体がばらばらに切り裂かれて、お団子になって月に吸い込まれる夢だったわ」
「だったわ、じゃなくって。まだ醒めていませんよ」
ぶよぶよに向けていたうっとりした視線とは打って変わって、冷たく突き放すような口調になる。幽々子は、女の身にまとっている服に目をやる。
「素敵なお召し物ね」
女は口元を緩めた。
「わかるひとにはわかるものね。牛の皮みたいで、素敵でしょう」
幽々子は首を横に振った。
「牛はそんな変な柄じゃないわ」
「異国の牛です。ホルスタイン。それはもうたくさんお乳を出すのです」
「牛乳はたまに飲むわ。それはどうでもいいの、私は、確か夢から醒めたはずだけど」
「だから、醒めてないんです。なにを勘違いしたのか知りませんけど、早く醒めてくださいよ。あなたが醒めてくれないと、私は落ち着いておいしく頂けない」
「なにを?」
「なにをって、あなたの悪夢ですよ」
「そう、悪夢だったのね。いえ、まだ見続けているのかしら」
「だからさっきからそう言っていますってば。亡霊さんというのは、飲み込みが少し遅いですよね」
女は、まなじりを下げ、唇の片端を吊り上げる。女には、意地の悪い表情になって相手に悪く思われはしないかという懸念もあるが、仕方ない。夢の中ではいつだって自分が統治者なのだから、物覚えの悪い夢見る者たちへ、懇切丁寧に教えてあげることの代償としてこのくらいの顔つきは是認してもらわなければ。
夢符「藍色の愁夢」
女は、空いている左手を、幽々子に向ける。幽々子を囲むように、きらめく小さな鉱石が無数に現われた。愁いを帯びた藍色の欠片たちは、光を放ちながら、幽々子を徐々に圧迫していく。
「さようなら、おはよう、お姫さま」
女が手のひらを閉じると、無数の欠片が押し包む。そのまま、夢見る者の体を解体し、もとの世界での覚醒を促す。
そのはずだった。
「あれ……」
女は眉をひそめる。一度は凝集させたはずの藍色の小石たちが、ぽろ、ぽろ、と幽々子の体から剥がれ落ちる。
「生身、なの。あ、いや、幽霊だから生身ってことはないか。でも、なんで、あなた」
「私の生身だったら、大きな桜の木の下で、虫たちの栄養になっているわ。千年も昔にね。まあ、それはそれとして」
力を失った欠片たちが、まわりの地面に散らばった。幽々子は女に、ふわりと近づく。
「最近、夢見が悪かったの。ひょっとして、あなたが悪さをしていたのかしら」
「違うわ、私は悪夢があるからそれを食べにきただけで、私が来たせいであなたが悪夢を見たんじゃない。因果関係が逆よ。もういいから、とっとと醒めてよ」
再び左手を差し出す。
夢符「藍色の愁三重夢」
先ほどより、欠片たちの包囲が厚い。
瞑斬「楼観から弾をも断つ心の眼」
上空から、霊気をまとった鋭い斬撃が降りかかった。突き出した女の左腕の、肘から先が斬り飛ばされる。幽々子に覆いかぶさる間もなく、欠片たちは四散した。
「くっ」
女は後ずさり、左腕を数回、上下に振った。切り口からは、赤い血ではなく、粘ついた雲のようなものが垂れ流れていたが、やがて手の形を取っていく。
「あーびっくりした。夢を……斬るなんて」
「あの子も少しは成長したわね」
幽々子は、月と空に生じた大きな断層を見上げた。妖夢は今頃、枕元で心配して幽々子に声をかけているに違いない。幽々子は目の前の女に目を向ける。
「あなた、獏ね」
女は、内心で舌を巻いた。この亡霊の姫は鋭すぎる。
「ご名答。ドレミー・スイートよ。幻想郷にはちょくちょく顔を出させてもらっているわ。冥界にもね。ここの幽霊たち、欲望が薄くなっているせいか、顕界の連中ほどには夢を見なくて私の稼ぎは良くないんだけど、たまにこういう上物を収穫できるのがミソね」
「私は、醒めてもよかったのよ。たまにこういう悪夢は見るから。仕方ないものね、誰のせいでもないから。でも、あなたが私の夢に余計なちょっかいを出していたとするのなら、話は別になるわねぇ。夢の中での追跡劇は、きっとあの子にもいい経験になるわ」
「待って、待ってよ。なんで私が悪者になっているの。さっきも言ったけど、あなたの悪夢は私のせいじゃない。私がいようといまいと、あなたが嫌な思いをするのは一緒。じゃあせっかくだから、ただ食べるんじゃ勿体ない、とっておきの料理が出てきたら、さらに良くするために調味料を振りかけるくらい、誰だってするでしょう。あなただってするでしょう」
「私は、すでに用意されたものしか食べたことがないからよくわからないけれど、でもまああなたの言いたいことは一応理解したわ」
「わかってもらえたならなにより。それじゃ、この辺でお別れしましょう。あなたとは共通の話題もないことだし、お互い接点がないから、夢と現、お互いにいるべき場所に戻りましょうよ。私はこれからお愉しみ」
そう言って、ドレミーは手に載せたぶよぶよに、啄むようなキスをした。途端、目を見開き、顔をゆがめ、唾を吐きだした。なにかこみあげてくるらしく、吐き気をこらえ、涙目になる。ぶよぶよの色は、すでに黄土色に変色し、異臭を放っていた。
「うッ、げぇ」
「癪なのよ。私はこんなに気分の悪い夢を見たというのに、あなたがそれで愉しい思いをするというのは、納得がいかないの」
ぶよぶよには、蝶が数匹とまっている。どの翅も鮮やかな模様だった。断たれた月から垂れ流される赤い光を反射して、様々な角度に、異なる色の光を放っていた。その美しい蝶は、ドレミーが吐きそうになるほどの、泣くほどの壮絶な臭気を、ぶよぶよにもたらしていた。
「ぉぐ……私の、せっかくの、ご馳走が」
ぼこ、ぼこ、ころ。
彼女の服についている球体が、地面に転がり落ちた。水面に沸き立つ泡のように、新しい球体が服から盛り上がってくる。
ぼこん、ぼこん、ぼころん。
地面に転がるものもあれば、大気中に浮かぶものもある。白と黒の泡が混在し、溢れ出す。
「納得いかないのはこっちよ……よくも、よくも、私が精魂込めて仕立てた悪夢を、台無しにしてくれたわね」
ちりちり、と焦げつくような音がして、ドレミーの青い髪がゆらりと上がっていく。
「しかも、なんの意味もないじゃない。私がおいしくいただこうがいただけなかろうが、なにも変わらないでしょう」
黒と白の泡は、次第に色を失い、透き通っていく。中には、様々な映像が映し出されている。幽々子の知っている、白玉楼が、魂魄妖夢が、妖忌が、博麗神社が、幻想郷の山野が、そこにはある。知らない光景もあった。他者の夢だろう。だが、たとえばあの若い男などは、妖忌に見えなくもない。
幽々子は思う。
この忌々しい悪夢。
この夢は、誰の夢だろう。
あの少女は、誰なのだろう。
ゆゆこ? 名前は似ている。
けれど、あの私は、私じゃないだろう。
「そういう問題でも、ないのよねぇ。とりあえず、痛い目にあってもらうわ」
「寝てなよォォ! もう一回その悪夢を引きずり出してやるからさア」
ひとが変わったように、ドレミーは大口をあけ、笑うように口の端を両側へ大きくつり上げ、怒号した。大量の泡が幽々子に襲いかかる。泡が近づくと、それだけ映像が鮮明に見える。気を取られ、動きが鈍る。不意に、体の均衡が崩れた。
右足が、泡に飲まれていた。泡の中には木立(こだち)が見えており、おそらく白玉楼庭園内のどこかだ。その茂みに、右足が踏み入っている。泡が通過すると、幽々子の右足がごっそりと取られていた。
「ほらほらぁその調子その調子! 余計な体はどんどん醒めてしまいなさいよ、その頭だけ残していりゃあ、何度でも悪夢は見られるんだからねエ!」
妖夢や妖忌と違って、幽々子は腰に力を入れるとか、踏み込むとか、そういう戦い方をしないので、直接の影響はない。だが、幽々子は焦りを覚えた。
弾幕は分厚く、大量で、しかも一個一個が手ごわい。それに、幽々子自身の動きが鈍い。自分のからだではない気がする。かわし切るのはほぼ不可能だ。
正面突破しかない。
無数の蝶を放ち、泡を腐らせていく。それでも、泡の進行は止まらず、内側の映像もなかなか消えず、幽々子の気を乱す。その間にも、ドレミーの服から、皮膚病のできものみたいにあとからあとから泡が湧き出ている。攻撃の手を緩める気は一切ないようだ。泡の洪水が、幽々子を押し潰すべくやってくる。
蝶符「鳳蝶紋の死槍」
霊気を凝縮させた槍を放つ。泡の群れを真っ向から貫いた。泡は弾け、中の夢の景色が、見知った冥界の建物や森が壊れていく。その様子は、幽々子にとって非常に気分が悪い。しかも、弾幕の向こうに手ごたえはなかった。こんな集中力では、当たるはずがないのだ。
「なん……って威力よ。夢の中ですらこんだけの威力とか、冗談じゃないわ」
泡の弾幕に、大きな通路が穿たれた。その向こうで、ドレミーがよろめいている。表情には明らかな動揺が走っていた。はずしはしたが、たじろがせるには充分な威力のようだった。幽々子は泡で埋められるより先に、弾幕の層を飛び抜けた。ドレミーの側面に回り込む。服からは白黒の泡が生成されつつあるが、幽々子が速い。再度、槍を放つべく、指先をドレミーへ突きつける。
幽々子の動きはそこで止まった。腕は体にしばりつけられ、宙に吊り上げられる。
「弾幕を抜ければ勝ちと思った? 残念。こう見えて私、けっこう接近戦も得意なの」
ドレミーの腰から伸びた、鞭に似た尻尾が、幽々子を足から頭まで螺旋状に、七、八周も巻き付いていた。足は曲げられず、腕も腰にびったりと合わさってきつく縛られ、首の絞めつけもきつい。上の歯と下の歯のちょうど間にも尻尾が食い込んでおり、口が大きくひらいた不細工な顔つきにならざるを得ない。まともに話すこともできない。幽々子の目元で、そんな彼女を嘲笑うように、尻尾の先端の房がちらつく。
「夢っていうのはね、一番深いところではつながっているの。海みたいに。それぞれのひとが別々に見ているわけじゃない。夢の壁が厚すぎるから、普通は気づけないんだけれど。なにかの拍子に壁にヒビが入り、向こう側の夢と通じ合うことがある。夢で、死者からのメッセージや、もうすぐ死にそうなひとから伝言を受けることがあるのはそのせい。私はそれを、ほんのちょっぴりだけど、喰ったり、創ったり、入れ替えたりできる。とても大変なことなのですよ。そうそう簡単に誰にでもできることじゃない。それでも、夢の仕組みに気づいてしまえば、一応は自由にどこにでも行けるし、何者にだってなれる。一応は、ね。けどね、そうなれたとき、たいていは自我が崩壊して、拡散してしまう。その時点で、自由に欲望を叶えることの意味がなくなるの。そういう欲望自体が、どうでもよくなっちゃうもの。あなたはどうかしら、西行寺のお姫さま。あなたが見たあの夢も、あなたの潜在的な恐れを示してもいるけれど、あなたひとりが思いついたものでもないのよね。世界の深いところでつながっている、別の誰かの恐れでもある。その誰かは、あなたが入って来られないよう念入りにコーティングしておいたのに、あなたは構わず、夢見てしまった」
尻尾の締めつけが、一段と強まる。幽々子は体を鰻のようにくねらせた。しかし、拘束はびくともしない。
「無理無理、そんな不自然な姿勢じゃ、弾幕にも気合が入らないでしょう。さあ、今度こそ、ほんとうにお目覚めなさい」
肉と肉が、裂ける、みち、みち、と音がする。
音がした刹那の後に、鼻を突き刺すような悪臭が漂う。ドレミーは手で口元を覆う。幽々子の着物の、ちょうど右足の付け根あたりから、下半身全体にかけて、赤黒い染みが広がっていた。裾から、大量の血が滴る。今頃、なくなった右足から血が噴き出したかのように。
「また、妙なことを……幽霊のくせにっ」
幽々子の左手のひらが、地面についた。幽々子自身は地面から浮かんでいる。腕が伸びたのだ。肘のあたりの皮が裂け、黒ずんだ肉がのび、ちぎれ、骨がはずれ、地面に垂れ下がっていた。
みち、みち、みぢ、肉と骨が裂け、血管が破れる。
尻尾は、なお強く幽々子の肉に食い込む。彼女の着物はたちまち内側からにじみ出た血によって赤く染まり、腐臭はドレミーの鼻を殴りつけるように強烈さを増す。幽々子の首がよじれ、背骨が体から引き抜かれ、顎が裂け、上唇から上は後ろに傾き、覆いのなくなったピンク色の舌がぬめぬめと自由奔放に踊る。
ドレミーはようやくわれに返って、尻尾の力を弱めた。だがもう遅い。幽々子の肉体の崩落はとどまるところを知らない。やがて、尻尾はただ、暗赤色の汁に充分に浸された布きれと、それに包まれた小さな肉塊に巻きついているだけとなった。崩落した肉体の欠片たちは、いったん尻尾の束縛から逃れた後、それぞれが独立した意志を持った生き物のように、ドレミーの目の前で再び連結しつつあった。一糸まとわぬ幽々子のなめらかな立ち姿から、ドレミーは目を離すことができなかった。露出した肉からは凄まじい異臭を漂わせる一方で、片側だけ形を取り戻した乳房や、優美な肩や腰のライン、流れる髪の毛の美しさは、ドレミーから言葉を奪った。
「あっ」
手のひらが、ドレミーの視界を塞いだ。指と指の隙間から、幽々子の目が見える。顔面の上半分がそこにある。徐々に、下顎がやってくる。接合寸前は、まるで口裂け女みたいにはしたなく笑っているように見えた。接合した後も、やっぱり幽々子は笑っていた。
ひょうぅ
風が、小気味よく鳴いた。それは、ドレミーの体が持ち上げられ、宙を旋回するときに発した音だった。あまりに速く、勢いがあったので、ドレミーには風の鳴き声として聞こえたのだ。
幽々子は、まだ伸びきってだらけている、骨と血管と神経の剥き出しになった左腕と、同じくピンク色の剥き出しの肉のまま鮮血を散らしている右足を地面に据え、対照的にすべてが完全なまでに均衡のとれた女の腕である右腕でドレミーを宙に浮かせていた。その右手のひらは、あくまで常識的なサイズであり、ドレミーの顔を完全に覆ってはいない。しかし、まるで吸い込まれるように、ドレミーはその手のひらの拘束から逃れられなかった。幽々子に持ち上げられているのか、自分から飛んでいるのか、もはやその境界も不分明だった。幽々子は、全身をひねり、幽雅に、一瞬で終わる舞を披露する。観客は、ドレミーだけだ。
ああ、気持ちがいいな、と心から思ってしまった。
ばちゅっ
ドレミーの体は大きく弧をえがき、後頭部から地面に叩きつけられた。頭蓋がつぶれ、脳や骨の破片が飛び散る。幽々子の人差し指と親指の谷間から、ドレミーの右眼球がにゅるりと出てきた。妖夢の斬撃には、何事もなく腕を再生させてみせたが、今度は駄目だった。真っ赤な血を流し、玉砂利を赤く染めていく。
ドレミーの左目は手のひらで遮られているため、右目から見える光景だけがすべてだった。幽々子の手の甲に転がった眼球に、幽々子の唇が近づいてくる。その唇の微細な形、隙間から漏れる呼気までが感じられる。
その目が、幽々子の舌に乗せられ、口の中に入ったところで、ドレミーの視界は激しく回転し、意識が途切れた。
ドレミーが目覚めたとき、気持ちも体も重苦しかった。見慣れない木目(もくめ)の天井だ。腕を動かして、掛布団をのけて、天井向けて手を伸ばす。どうも遠近感がつかみづらい。手を右目のあたりにやると、ざらざらした包帯の布地が指に当たる。
「あら、お目覚めかしら」
声を耳にした途端、反射的に、背骨のあたりに震えが走る。美麗な舞に合わせて宙に浮き、そこから叩きつけられた感覚が、まだありありとドレミーの細胞に刻み込まれていた。首を横に回すと、そこには正座した幽々子が、くつろいだ様子でいた。水色の着物は、元通りになっている。その着物の下にひそんでいる、ほっそりとした、豊かな体を、ドレミーは想う。一度見てしまったので、もう頭から離れることはないだろう。
だが、その美しさに耽溺するのとは別に、猛烈な危機感がドレミーの体を突き動かした。すばやく飛びのいて、防備一辺倒の弾幕を張る……つもりだが、体がついていかない。ただのろのろと上体を起こして、自分でもじれったいほど、ゆっくりと唇を動かせただけだった。
「ま、まさか、ここ……」
「そう、現の世界よ」
ひぅ、とドレミーの喉が鳴る。襖がひらき、湯呑みと急須を載せたお盆を持った魂魄妖夢が現われた。ドレミーが上体を起こしているのを見るや否や、お盆を両手から離し、腰と背中の二刀を瞬時に抜き放つ。
「幽々子さま、ようやくお目覚めになられたと思ったら……なんでひとり増えているんですか」
「連れてきちゃった」
「きちゃった、じゃないですよ、こんな危ない妖怪。たちどころに斬って捨てるべきなんです」
「ちょっと話を聞いてみたかったのよ。妖夢、刀を収めて」
不承不承、武器を鞘にしまう妖夢を、幽々子は微笑ましく見る。抜刀の速度もなかなかのものだったが、なにより、お盆を腰の高さから畳に落としたにも関わらず、まったく湯呑みの中身がこぼれていないというところが、すばらしい。常人にできることではない。彼女が研鑽を積んでいる証拠だ。
「ご苦労さま、妖夢。あなたの、夢を斬ったときの一撃、良かったわよ」
「いえ、結局あれだけで終わってしまいました。まだまだ斬れないものだらけです。未熟の証です」
「未熟はわかっているわよぉ。良くなったってこと。さあ、獏さん、ちょっと縁側に出ましょうか。見晴らしのいいところで、妖夢の持ってきたお茶でも飲みましょう」
ドレミーは、せわしなく何度も首を横に振った。
「駄目よ、寝なきゃ、私、すぐに寝ないと。それか、誰でもいいから眠ってよ。夢の中じゃないと、私、息苦しくて、もう」
「情けないわねぇ、ちょっと夢から覚めたくらいで」
幽々子は手にした赤いナイトキャップをドレミーの前にかざす。ドレミーは頭に手をやり、直接自分の髪の毛に触れる。
「あっ、それ……」
「さあ、外はいい天気よ」
幽々子が自分でお盆を持ち、縁側に出る。縁側にはすでに座布団が用意されていた。ドレミーは諦めてあとに続き、スカートが皺にならないよう伸ばしながら、幽々子に並んで座布団に座った。
砂利が敷き詰められた庭に、形の異なる小ぶりな岩が配置されている。砂には、川の流れを思わせる模様があしらわれていた。
数秒間、しぃんとした静寂が流れる。やがて、幽々子の、茶を啜る音が響く。
「いい気持ちでしょう。今は日も少し傾いて、涼しくなったけど、さっきはほんとうに、午睡にもってこいだった。おなかもちょうどいい塩梅に膨れて、昼間からうとうととしたくなるような、静かで、少し暖かい空気。こう、柱に寄りかかって、華胥の国に遊ぶつもりでいたのよ。そうしたら、いつのまにか槐安の国に迷い込んでいたというわけ。夢の中にも、たくさんの国があるものなのねぇ」
「夢の世界はひとつですよ。現の世界がひとつきりであるのと同じように。それを、昔から、いろんな人間が、いろんな呼び方をしてきたというだけで。私も、獏と呼ばれたり、最近は、ハイカラっぽくドレミーと呼ばれたり。なんでもいいんですけどね」
「あら、名前は大事よ。ドレミーさん。いい名前じゃないの」
「それはどうも」
ドレミーも湯呑みを手に取り、中身を啜る。
「ほんとうかしら」
「え、いい名前って言ったのあなたですよね」
「そうじゃなくて、世界の話。夢も、現も、ほんとうにひとつしかないのかしら」
「他にあれば教えてほしいものですが。あなたは、他の夢や、他の現を見たことがあるんですか? 西行寺さん」
「ないわ。ないけど、あるかもしれないじゃないの」
「あるとしたら、それは、そもそも同じ世界だっていう話ですよ」
「同じ、なのかしら。まるで違うルールで動いていたとしても?」
「同じですね。違うルール、と認識ができるのだったら、同じだということです。何万年離れていたって、何万光年離れていたって、同じ世界です。認識できない世界があるとすれば、それは、そもそも存在しないでしょう。だから、世界はひとつ」
「そういう見方も、あるかしらねぇ」
「ただの言葉遊びかもしれないけれど。とにかく私は、今、猛烈に居心地が悪いんです。このお茶と、この枯山水の庭は悪くないですが」
「あら、私も悪くはないわ。居心地もね」
「そりゃそうでしょう、あなたのうちなんですから。居心地悪いはずがない。私は夢の世界の住人なんです。それをこんな、無理やり起こして……」
「どうしてあの夢には、紫が出てこなかったのかしら」
幽々子のつぶやきに、ドレミーは口を閉じた。
「したかった話というのは、結局それなんですね」
「あれは、私なの? 紫がもしいなかったら、ああなっていたはずの、私なの」
「それは、私に聞かれても困ります。第一、私の知ったことじゃない。あなたの見た悪夢なのだから」
「私は、死んだときから始まっているわ。誰かが生きて嘆いた後の、二度目の嘆きを、始めているの。だからもう、私はずっとこのままで、始まらないし、進まない。もう完成されて、付け加えるところのない、絵や物語のようなものかしらね」
「そうだとしたら、退屈でしょうね。けれど西行寺さん、あなた、意外と真面目くさったこと考えるんですね。私は、夢の中で、ひとの悪夢をおいしくいただければそれでいいんですよ。てっきり、あなたもそんな能天気な考えで生きて……死んでいるんだと思っていました」
「紫が、ね。時々つらそうにしているから」
今度の沈黙は、前より長かった。時間にすれば十秒か、二十秒か。話の接ぎ穂を失ったふたりは、ただ、庭を見て、茶を飲んだ。
「あら」
幽々子は、ドレミーに訪れた変化に気づいた。体が薄くなり、向こうの景色が透けて見え始めた。
「ようやく効いてきたわね。遅すぎるくらい。あなたの従者、いい根性しているわよ」
ドレミーの顔に、余裕が少し戻っていた。
「今頃あの従者は、剪定鋏をかかえたまま、庭木の根元で舟を漕いでいるのかもしれないわね。それにしても、ずいぶん粘ったものよ。私と目が合った瞬間から、睡魔に襲われたはずなのに」
ドレミーの体は急速に現実感をなくしていく。幽霊である幽々子より、さらに、希薄になっていく。
「もう行くの? 私はまだ、あなたと話していたかったわ。なにか、思いつきそうだったから」
ドレミーは首を横に振った。そこまでは付き合いきれない。片方の眉をひそめ、唇の端をつりあげる。これは、かなり美しく知的な笑顔だと自認している。相手よりも上に立ったときの方が、自分は美しい。ドレミーの確信だ。
「それじゃあ、おやすみなさい。いい現を、これからも」
ドレミーが座っていた座布団の上には、ほどかれた包帯だけが残った。幽々子の膝上のナイトキャップも消えていた。おなかの辺りを撫でる。さっき、念入りに咀嚼して呑み込んだドレミーの眼球まで、胃の中から消え去っているのがわかる。量はわずか一個とはいえ、久しく味わったことのない夢のようなおいしさだった。それが消えたせいで、おなかの中が寂しい。自然と、目線が庭の上空に遊ぶ。この欠落を当座、埋めてくれる手ごろな大きさの幽魂があれば、ちょっと口に入れておくつもりだった。
誰かの作品で早く見たかったですが、やはりドレミーさんは良いキャラだと確信できました。
3ボスとは思えない大物振りでも違和感が無く、
こうやって本編で関わりの無いキャラとも絡ませられる幅の広さ。
それを見事に引き出して見せてもらえたと思います。
またどこかでお目にかかれるのを楽しみにしています。
ドレミーの可愛さと大物っぷりは凄い、夢の中に入れる紫との関係とかも妄想が広がります。
幽々子の暢気なようで底の知れない感じとドレミーの怪しさとが良い共演となっていました。